第九節:ココアの弔い
夕食を終え、
宿の廊下には湯氣の名残と、
遠くから聞こえる住民たちの笑い声が
ほのかに漂っていた。
その静けさの中で――
ココアがそっと優葉の袖を引いた。
小さな指先は、
ほんの少し震えている。
「……優葉さん」
呼ばれた優葉が振り返ると、
ココアは胸の前で手をぎゅっと握りしめ、
決意と不安が入り混じった瞳で見上げていた。
「その……
般若心経の唱え方、もっと詳しく教えてほしいです」
言葉は小さいのに、
その奥にある想いはまっすぐだった。
優葉は静かに頷く。
けれどすぐに部屋へ向かうのではなく、
ココアの心をそっと受け止めるように
柔らかく問いかける。
「ええ。もちろんお教えします。
でも……ココアちゃん」
優葉は廊下の窓から夜空を見上げ、
ゆっくりと言葉を続けた。
「まずは“お供え物の準備”からお話ししてもいいですか?
そのあとで、般若心経の唱え方もゆっくりお教えしますね」
ココアはぱちりと瞬きをし、
首を小さく傾ける。
「お供え物……?」
その声には、
“知らないけれど、知りたい”という
まっすぐな氣持ちが宿っていた。
優葉は微笑み、
そっとココアの肩に手を置く。
「ええ。とても大切なことなんですよ」
廊下に流れる夜風が、
二人の間を静かに撫でていった。
――――――――――――――――――――
◆ お供え物とは
廊下の窓から見える夜空は、
夕焼けの名残をわずかに抱えながら、
ゆっくりと深い藍へと沈んでいくところだった。
優葉はその空をしばらく見つめ、
言葉を選ぶように、そっと息を整える。
「お供え物というのはね……」
その声は、夜風のように静かで柔らかい。
「感謝の氣持ちを“形”にしたものです。
神様や仏様、そして……大切な人へ届けるためのもの」
“形にする”という言葉が、
ココアの胸にすっと染み込んでいく。
ココアは胸に手を当て、
そっと目を伏せた。
思い浮かぶのは――
紅魔館の図書館で、
静かに本をめくっていたパチュリーの姿。
「……パチュリーさんにも、届けられるんですか?」
その声は震えていたけれど、
そこには確かな願いがあった。
優葉はココアの横顔を見つめ、
ゆっくりと頷く。
「はい。
ココアちゃんが心を込めて作れば……必ず届きます」
その言葉は、
夜の静けさの中でそっと灯る小さな光のようだった。
ココアの瞳に、
迷いを押しのけるような決意の光が宿る。
「……作りたいです。
パチュリーさんに、ちゃんと……届けたい」
優葉はその言葉を聞き、
静かに微笑んだ。
「ええ。では、一緒に準備をしましょうね」
廊下に流れる夜風が、
二人の間に温かい氣配を運んでいった。
優葉は女将さんに声をかけ、
事情を静かに説明すると、
女将さんはすぐに柔らかく頷いた。
「もちろんいいですよ。
こんな時間でも、台所はいつでも使ってくださいな」
その言葉に、ココアは胸を撫で下ろす。
夜の台所は、
夕食の余韻がまだほんのり残っていて、
温かい匂いと静けさが同居していた。
優葉は掌をそっと合わせ、
淡い緑の氣を指先に集める。
ふわりと光が揺れ、
台の上に小麦粉、甘い花の蜜、少量の植物由来バター、
そして香草の粉末が静かに現れた。
「材料は私が用意します。
でも……作るのはココアちゃん自身です。
“自分の手で作る”ことが大切なんですよ」
優葉の言葉に、
ココアは緊張で喉を鳴らしながらも、
しっかりと頷いた。
「……はい。やってみます」
優葉は、できるだけ簡単で、
けれど心がこもる工程を選んでいた。
・混ぜる
・こねる
・小さく丸める
・焼く
それだけの、素朴で優しいお菓子。
ココアは小麦粉を両手にまとわせながら、
ぎこちない手つきで生地を混ぜていく。
「う、うまく混ざってるでしょうか……」
「大丈夫ですよ。
その“丁寧にしよう”という氣持ちが、
いちばん大切なんです」
優葉がそっと手元を見守ると、
ココアはさらに慎重に生地をこね始めた。
粉が舞い、
指先が白く染まり、
額に小さな汗がにじむ。
それでもココアは、
ひとつひとつの動作を大切にしながら
小さな丸い生地を並べていく。
「……これで、パチュリーさん喜んでくれるかな……」
その呟きは、
祈りそのもののように静かで優しかった。
優葉はそっと微笑む。
「きっと、微笑んでくださいますよ」
その言葉に、
ココアの肩の力が少しだけ抜けた。
やがて小さな焼き菓子が
香ばしい匂いとともに焼き上がり、
台所の空氣がふわりと甘く満たされていく。
焼き菓子が冷めていく間、
台所には甘い花蜜の香りがふんわりと漂っていた。
その柔らかな甘さが、夜の静けさと溶け合い、
どこか優しい余韻を残している。
優葉は静かに掌を合わせ、
淡い緑の氣をそっと集めた。
指先からこぼれる光は、
薄暗い台所の中でほのかに揺れ、
まるで夜の中に咲く小さな花のように淡く輝く。
やがて――
その光は、香りの良いハーブティーの茶葉へと形を変えた。
淡い紫と緑が混ざり合うような、
静かで落ち着いた香り。
けれどその奥には、どこか懐かしさが潜んでいる。
ココアはその匂いを吸い込んだ瞬間、
はっと目を見開いた。
「……この香り……
パチュリーさん、よく飲んでました……!」
その声は震えていたが、
胸の奥から自然にこぼれたものだった。
かつて「パチュリー様」と呼んでいたその名を、
今はそっと「パチュリーさん」と呼ぶ。
その変化は、ココアの心が選んだ距離だった。
紅魔館の図書館で、
静かに本を読みながら湯氣をくゆらせていたパチュリー。
その姿が、香りとともにココアの胸に温かく蘇る。
優葉はその表情を見て、
そっと微笑んだ。
「では……ココアちゃんが淹れてあげてください。
その方が、きっと喜ばれます」
ココアは小さく頷き、
慎重に湯を注ぐ。
湯氣が立ち上り、
茶葉の香りがふわりと広がる。
ココアはその湯氣を見つめながら、
まるでパチュリーに語りかけるように
静かに息を整えた。
ハーブティーの香りが落ち着いた頃、
優葉は再び掌を合わせた。
淡い緑の氣が静かに広がり、
床に落ちる影がふわりと揺れる。
次の瞬間――
御神木と同じ木質を持つ、
小さくて温かみのある木のお盆が
優葉の前にそっと姿を現した。
木目は柔らかく、
触れればほんのりと温かい。
まるで“祈りを受け止めるために生まれた器”のようだった。
ココアは焼き菓子とハーブティーを
そのお盆にそっと乗せた。
両手で抱えるその姿は、
まるで宝物を扱うように慎重で、
そして優しかった。
「……できました。
パチュリーさんに、届けたいです」
その声は小さいけれど、
迷いのない、まっすぐな祈りだった。
優葉は静かに頷き、
その決意を受け止めるように微笑んだ。
焼き菓子とハーブティーを乗せたお盆を抱え、
ココアは胸の前でそっと息を整えた。
優葉が横で静かに頷くと、
二人はゆっくりと廊下を歩き、
ココアの部屋へ向かった。
部屋の扉を開けると、
夜の静けさがふわりと流れ込んでくる。
北側の箪笥の上には、
優葉から授かった木札が
まるでそこだけ空氣が澄んでいるかのように
静かに祀られていた。
ココアは両手でお盆を抱えたまま、
そっと木札の前へ歩み寄る。
その動作はぎこちなく、
足取りも少し震えていたけれど――
心だけは、まっすぐだった。
「……ここに、置きますね……」
ココアはお盆を両手で支え、
木札の前にそっと置いた。
焼き菓子の甘い香りと、
ハーブティーの落ち着いた香りが
静かな部屋にふわりと広がる。
優葉の言葉を思い出しながら、
ココアはゆっくりと手を合わせた。
「……神様、仏様……そしてパチュリーさん。
これ、私が心を込めて作りました。
どうか……受け取ってください」
その声は震えていた。
けれど、震えの奥には
“届けたい”という強い願いが宿っていた。
祈りの形としては、
十分すぎるほど真剣だった。
優葉はその姿を見つめ、
そっと微笑む。
(……大丈夫。
この祈りは、きっと届きますよ)
部屋の静けさが、
ココアの祈りを優しく包み込んでいた。
――――――――――――――――――――
◆ 優葉の教える弔いの音
ココアがお供えを終えたあと、
部屋には静かな緊張と、
どこか温かい余韻が漂っていた。
優葉は北側の箪笥の上に置かれた経典へ歩み寄り、
その表紙をそっと撫でるようにして手に取る。
「ココアちゃん、これを」
優葉は丁寧に両手で経典を差し出した。
ココアは胸の前で受け取り、
まるで大切な宝物を抱くようにぎゅっと抱えた。
優葉は木札の前に視線を向け、
ココアの肩にそっと手を添える。
「ココアちゃん、座る位置ですが……
木札の真正面ではなく、少し左側に座りましょう」
ココアは瞬きをして首を傾げる。
「左側……ですか?」
優葉は柔らかく微笑み、
静かに説明を続けた。
「ええ。
神様や仏様に向かって手を合わせるとき、
左側は“下座”とされます。
敬意を示すためには、
少し左に下がって座るのが良いのですよ」
ココアは目を丸くし、
そっと自分の座る位置をずらす。
優葉はさらに優しく補足した。
「参拝するときも同じです。
お賽銭箱の真正面ではなく、
少し左側で手を合わせると、
より丁寧な祈りの形になります」
「……そうなんですね……!」
ココアは新しい作法を胸に刻むように頷いた。
二人は木札の前に並んで正座する。
優葉が静かに息を整えると、
ココアもそれに倣って背筋を伸ばした。
部屋の空氣が、
祈りを迎えるためにそっと澄んでいく。
優葉は木札に向かって軽く頭を下げ、
柔らかい声で説明を始める。
「まずは木札に向かって、
二礼、二拍手、一礼。
そして顔の前で手を合わせて……
般若心経を三巻。
感謝の音を届けるのです」
ココアは真剣な表情で頷き、
優葉の動きをひとつひとつ追う。
優葉はココアの手元にそっと手を添え、
指先の角度、手の高さ、
合わせた掌の距離まで丁寧に整えていく。
「……はい、このくらい。
とても綺麗ですよ」
その声に、ココアの肩の力が少し抜けた。
優葉は手を胸の前に戻し、
静かに合掌して一礼する。
「その後、合掌して一礼。
胸の位置で手を合わせて……
仏説を付けた般若心経を三巻。
これで仏様にも音が届きます」
ココアは何度も手の動きを確認し、
ぎこちないながらも丁寧に形を整えていく。
「こ、こうですか……?」
「ええ、とても上手ですよ」
優葉の声は、
夜の静けさに溶けるように優しかった。
ココアが経典を見つめたまま、
ほんの少し不安そうに眉を寄せる。
その様子に氣づいた優葉は、
そっと微笑みかけた。
「ココアちゃん。
まだ暗唱できなくて大丈夫ですよ」
ココアははっと顔を上げる。
「手を合わせている“つもり”で、
経典を見ながらゆっくり唱えてください。
心がこもっていれば……それで十分です」
その言葉は、
ココアの胸の奥にそっと灯りをともすようだった。
ココアはほっと息をつき、
経典を胸に抱きしめるようにして頷く。
「……はい。
ゆっくり、丁寧に……唱えます」
優葉はその姿を見つめ、
静かに、温かく微笑んだ。
(……大丈夫。
その心があれば、きっと届きますよ)
部屋の空氣が、
二人の祈りを迎えるように静かに澄んでいった。
ココアが一通りの作法を復習し終えた頃、
優葉はそっと息を整え、
少しだけ表情を柔らかくしながらも、
真剣な声音で口を開いた。
「ココアちゃん……
般若心経はね、
神様や仏様に感謝を届けるだけでなく……
亡くなった方を弔う音としても届くのですよ」
その言葉に、
ココアは小さく息を呑んだ。
「……亡くなった人……?」
優葉は静かに頷く。
「ええ。
本来は、家族や親戚……
そしてご先祖様のように、
血の繋がりや深い縁がある方へ
特に届きやすいものです」
ココアは胸の前で経典を握りしめ、
不安そうに優葉を見上げた。
優葉はその視線を受け止め、
さらに優しく続ける。
「でもね、ココアちゃん……
あなたには“特別な縁”があります」
ココアの肩がわずかに震えた。
優葉は、
現実から目を背けない強さを宿した瞳で、
静かに言葉を紡ぐ。
「紅魔館で……
聖魔に取り込まれず、
明確に命を失った方がいましたね」
ココアは唇を噛み、
震える声で答えた。
「……パチュリーさん……」
その名を口にした瞬間、
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
優葉はそっとココアの手を包み込んだ。
「ええ。
パチュリーさんは……
ココアちゃんに“名前”を与える時、
自分の命や魂の一部を代償として渡していたのです」
ココアの瞳に涙が滲む。
「……そんな……
じゃあ……私……」
優葉はその手を離さず、
まっすぐに見つめて言った。
「だからココアちゃんは、
パチュリーさんと――
“魂の繋がり”があるのです」
その言葉は、
悲しみを包み込むように静かで温かかった。
「本来、亡くなった方への読経は、
家族やご先祖様のように
深い縁がある相手に届きやすいものです。
でも……」
優葉はココアの胸にそっと手を添える。
「あなたとパチュリーさんは、
血の繋がり以上に深い“魂の縁”で結ばれています。
だから――
ココアちゃんが唱える般若心経は、
弔いとして、ちゃんと届くのですよ」
ココアは涙を拭いながら、
震える声で問いかけた。
「……弔えるんですか……?
私でも……?」
優葉は優しく微笑む。
「もちろんです。
ココアちゃんの“ありがとう”は、
必ずパチュリーさんに届きます」
その言葉は、
ココアの胸の奥に灯りをともすように
静かに、確かに響いた。
優葉は、涙を浮かべるココアの手を
そっと包み込むように握った。
その掌は温かく、
夜の静けさの中で、
ココアの震えをやさしく受け止めてくれる。
「ココアちゃん……」
優葉は静かに語り始めた。
「毎日、朝と晩に……
まずは 神様へ、そして仏様へ
感謝の音を届けてください。
二礼二拍手一礼、そして仏様への合掌――
その“正しい順番”がとても大切なのです」
ココアは涙を拭いながら、
真剣に頷く。
優葉は続けた。
「そして……
神様と仏様へのお唱えが終わった“後”に、
パチュリーさんへの“ありがとう”を
そっと届けてあげてください」
ココアは目を瞬かせる。
「……後、なんですね……?」
優葉は微笑み、
その理由を丁寧に伝える。
「ええ。
弔いのお唱えは、
本来は家族やご先祖様のように
深い縁のある方へ向けて行うものです。
だからこそ、まずは神様と仏様に
“道を開いていただく”必要があるのです」
ココアは胸に手を当て、
静かに息を吸い込んだ。
優葉はさらに優しく続ける。
「でもね、ココアちゃん……
あなたとパチュリーさんには、
血の繋がり以上に深い――
魂の繋がりがあります」
その言葉に、
ココアの瞳が大きく揺れた。
「だから、あなたの“ありがとう”は
とても届きやすいのですよ。
神様と仏様にご挨拶をしてから唱えれば……
その音はまっすぐに届きます」
ココアの胸に、
じんわりと温かいものが広がっていく。
優葉はココアの手を包んだまま、
静かに言葉を結んだ。
「仏説を付けた般若心経を三巻。
パチュリーさんへの“感謝”を込めて唱えてください。
少しずつ、少しずつ……
その音があなたの心を整え、
ココアちゃんの魂を強く、優しく育ててくれます」
ココアは涙をこぼしながらも、
しっかりと頷いた。
「……はい。
私……毎日唱えます。
パチュリーさんに……」
優葉はそっとココアの頭を撫で、
さらに大切なことを優しく補足する。
「ココアちゃん……ひとつだけ覚えておいてください。
これは“供養”ではありません。
供養は、白蓮さんのように修行を積んだ僧侶だけが
正しく行えるものです」
ココアは涙を拭きながら、
優葉の言葉をしっかりと受け止める。
「ココアちゃんが唱える般若心経は、
ただただ“ありがとう”を伝えるための音。
その氣持ちが……いちばん大切なのですよ」
ココアは胸に手を当て、
深く、強く頷いた。
「……はい。
私の“ありがとう”を……毎日届けます」
優葉はその姿を見て、
慈しむように微笑んだ。
(……大丈夫。
その祈りは、必ず届きますよ)
――――――――――――――――――――
◆ 共に奏でる弔いの音
木札の前に置かれた焼き菓子とハーブティー。
その香りが静かに満ちる部屋で、
ココアは優葉の隣に正座した。
胸の前で経典をそっと抱え、
深く、ゆっくりと息を吸い込む。
優葉はその呼吸に合わせ、
小さく頷いて合図を送った。
ココアは震える手で、
優葉に教わった通りに動作を行う。
二礼。
二拍手。
一礼。
ぎこちない。
けれど、その心はまっすぐだった。
経典を開き、
唱えようとしたその瞬間――
優葉が、
ココアの声に寄り添うように
小さく、ゆっくりと般若心経を唱え始めた。
その声は、
夜の静けさに溶けるように柔らかく、
しかし確かな導きの力を持っていた。
ココアはその声に導かれるように、
優葉の後を追って唱え始める。
優葉の声が“先導する音”。
ココアの声が“寄り添う音”。
二つの声が重なり、
木札の前に静かに広がっていく。
ココアは合掌して一礼する。
その手の角度を、優葉がそっと整えてあげる。
「……はい、そのまま」
優葉の囁きに、
ココアは小さく頷いた。
再び優葉が、
ココアが唱えやすい速度で
ゆっくりと声を重ねる。
ココアは涙をこらえながらも、
優葉の声に支えられ、
最後まで丁寧に唱え続けた。
ココアは胸に手を当て、
震える声で言葉を紡ぐ。
「……パチュリーさん。
ありがとう……どうか、聞いていてください……」
その声は小さく、
けれど祈りとしては十分すぎるほど真剣だった。
そして――
最後の般若心経。
優葉は静かに寄り添い、
ココアが迷わないように
ゆっくりと、優しく導くように唱える。
ココアは涙をこらえながら、
震える声で、
しかし一言一言を大切にしながら唱え続けた。
声が震えても、
涙がこぼれても、
その祈りはまっすぐだった。
やがて――
最後の一節が静かに終わる。
部屋の空氣が、
祈りの余韻で満たされる。
唱え終わった瞬間、
優葉はそっとココアの背中に手を添えた。
「……よくできました」
その微笑みは、
ココアの心をそっと包み込むように温かかった。
般若心経の余韻が静かに部屋に満ちていた。
ココアは、木札の前に置いたお盆を見つめたまま、
しばらく動けずにいた。
焼き菓子の甘い香りと、
ハーブティーの落ち着いた香りが混ざり合い、
まるでパチュリーの氣配がそっと寄り添っているようだった。
その様子を見て、
優葉は柔らかく微笑む。
「ココアちゃん……
お供え物は、このまま置いておくものではありません」
ココアは驚いたように顔を上げた。
「えっ……そうなんですか……?」
優葉は頷き、
お盆の上の焼き菓子をそっと指し示す。
「お唱えが終わったら……
“お下がり”として、ココアちゃんがいただくのです。
そうすることで……
神様とも、仏様とも……
そしてパチュリーさんとも、
“同じ食事をした”という形になるのですよ」
ココアは目を丸くし、
その意味をゆっくりと噛みしめた。
「……いっしょに……食べる……
パチュリーさんと……?」
優葉は優しく頷く。
「ええ。
お供え物は“分かち合う”ためのもの。
ココアちゃんが心を込めて作ったものを、
皆で一緒にいただく……
それが、とても大切なのです」
ココアは震える指先で焼き菓子をそっと持ち上げた。
両手で包み込むようにして、
まるでパチュリーの手を握るように大切に扱う。
涙がひと粒、ぽたりと落ちた。
「……じゃあ……
パチュリーさんと……いっしょに食べます……
ありがとうって……言いながら……」
優葉はそっと微笑み、
ココアの肩に手を置いた。
「はい。
それが……いちばん美しい弔いですよ」
ココアは目を閉じ、
ゆっくりと焼き菓子を一口食べた。
甘さが舌に広がり、
胸の奥がじんわりと温かくなる。
優葉はただ優しく、
その姿を静かに見守っていた。
ココアが焼き菓子を一口食べ、
その甘さを胸に染み込ませていると――
優葉はそっと立ち上がり、
掌を静かに合わせた。
淡い緑の氣がふわりと広がり、
部屋の空氣が一瞬だけ柔らかく揺れる。
次の瞬間、
優葉の手の中に、
細長い木製の筒が静かに形を成した。
御神木と同じ木質で作られたその筒は、
手に馴染むように温かく、
蓋には小さな花の彫りが施されている。
ココアは驚いたように目を瞬かせた。
「……優葉さん、それ……?」
優葉は微笑み、
その木の筒をココアの前にそっと差し出した。
「これは、ハーブティーの茶葉を入れるための筒です。
パチュリーさんが好きだった香り……
いつでもお供えできるように」
ココアは両手で受け取り、
胸の前で大切そうに抱きしめた。
優葉は続ける。
「毎日のお唱えの時、
私がそばにいられないこともあるでしょう。
それに……お供え物を作る余裕がない日もあります」
ココアは少し不安そうに俯いたが、
優葉は優しく首を振った。
「大丈夫ですよ。
お供え物は、必ず毎日しなければいけないものではありません。
ココアちゃんの心が疲れてしまっては意味がありませんから」
ココアは顔を上げ、
優葉の言葉を真剣に聞き入る。
「この筒に入れた茶葉を、
お湯を注ぐだけでいいのです。
お茶だけでも、立派なお供えになります。
大切なのは……形ではなく、
“ありがとう”の氣持ちなのです」
ココアの瞳に、
また新しい涙が浮かんだ。
「……優葉さん……
ありがとうございます……
これなら……私、続けられます……」
優葉はそっとココアの肩に手を置き、
慈しむように微笑んだ。
「ええ。
自分のペースで、無理なく……
朝と晩に、ゆっくりとお唱えしてください。
その積み重ねが、ココアちゃんの魂を育ててくれます」
ココアは木の筒を胸に抱きしめ、
深く、深く頷いた。
「……はい。
私……続けます。
パチュリーさんに……毎日、ありがとうを届けます」
優葉はその姿を見つめ、
静かに、温かく微笑んだ。
――――――――――――――――――――
◆ ココアの弔い
その日を境に、
ココアの生活は静かに、しかし確かに変わり始めた。
朝の光が障子越しに差し込む頃。
そして、夜の帳がゆっくりと降りる頃。
ココアは必ず、
木札と経典の前に正座した。
木札の前に置かれるのは、
優葉からもらった木の筒に入ったハーブティー。
お供え物を作れない日は、
その香りだけをそっと捧げる。
それでも――
ココアは欠かさなかった。
最初の数日は、
経典を両手で抱え、
文字を追いながらたどたどしく唱えていた。
声は震え、
ときどき詰まり、
何度もページを戻しては深呼吸を繰り返す。
それでも、
ココアは毎朝、毎晩、
木の筒の蓋を開けてハーブの香りをそっと漂わせ、
「今日もお願いします」と小さく呟いてから
祈りを始めた。
けれど――
毎日、朝と晩に続けるうちに、
その声は少しずつ変わっていった。
ページをめくる回数が減り、
言葉の流れが滑らかになり、
息の整え方も自然と身についていく。
木の筒から立ち上るハーブの香りが、
ココアの心を落ち着かせ、
祈りのリズムを整えてくれる。
やがて数週間が過ぎた頃には、
ココアは経典を開かずとも
すらすらと唱えられるようになっていた。
声は軽やかで、
けれど深く、
まるで胸の奥から自然に湧き上がるようだった。
「……パチュリーさん。
今日も、ありがとう……」
その祈りは、
ココアの魂に静かに積み重なり、
彼女の内側を少しずつ強く、優しく育てていく。
ハーブティーの香りは、
まるでパチュリーの氣配がそばにいるようで、
ココアの祈りをそっと支えていた。
毎朝、毎晩。
祈りを重ねるたびに、
ココアの声は澄み、
心は整い、
魔導核との同調はゆっくりと進んでいった。
焦らず、無理せず、
ただ静かに積み重ねる祈り。
それが、
ココアの内側を確かに変えていく。
優葉は、
ココアが経典を開かずに唱えられるようになった日、
そっと目を細めて微笑んだ。
声をかけることはしない。
けれど、その瞳には
“よくできました”
という温かい光が宿っていた。
(……大丈夫。
この子は、自分の力で歩いていける)
優葉はそう確信しながら、
ココアの背中を静かに見つめ続けた。
――――――――――――――――――――