露草を絞り染めしたように鮮やかな青空には、白雲が風に乗ってふわふわと漂っていく。
照りつける陽の光と行き交う人々の賑わいが共鳴する人里の往来では、今日も妖しい「噂」が花を咲かせていた。
「おい、聞いたか。今朝、また例の――そうそう、『肉芝(にくし)』が目撃されたんだってよ」
――ほら。ここでも、また。
大路を歩いていた若者が出した単語に、軒端で身体を休めていた少女がこっそり、耳を聳(そばだ)てる。
「聞いた聞いた。けど、紅花問屋んとこの坊ちゃんだろ?また注目を集めるための作り話じゃないのかい?」
「今回ばかりはきっと本当だって。聞いた話だと『肉芝』ってのは――」
訝しげに聞き流そうとする友人に熱っぽく語る若者の背中を、少女――博麗霊夢はじっと見届ける。
そして、一つため息――「肉芝」。今日だけで何度、その名前を耳にしたことだろう。
「…ったく」
「肉芝」。動物のようにすばしっこく動くと言われ、見つかった記録もほとんど残されていないというキノコ。
ちょっと前までは、誰も名前を聞いたことのなかったような、謎に包まれているキノコ。
それが何日か前、ある新聞で発見例が報告されたのをきっかけに、一躍人々の間で存在が認知されることになった。
「なんでも『肉芝』ってのは、小さい犬ころのようにくるくる動き回って――」
「そうそう。『肉芝』を食べたって奴の記録が、最近、屋根裏から見つかってよ――」
今や、里の人々はすっかり、存在も定かではないキノコに夢中になっている。
尾羽どころか風切羽までいっぱいついた狂言で騒ぎたい者もいれば、中には「肉芝」を捕まえたらどのように調理出来るかなんて、夢物語を描いている者もいるみたいで。
本当、アイツの新聞、読まれるようになったんだなぁ――
これから待ち合わせている奴の顔が、パッと頭に浮かぶ。
気を抜けば、口端が緩んでしまいそうになって、慌てて霊夢は首を横に振る。額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、霊夢はぼんやり、思索に耽る。
里の貸本屋にアイツの新聞が置かれるようになってから、どれくらい経ったのだろう。
まだ、そう長い年月は過ぎていない…はずなのに、人間たちは初めから当たり前にあったかのように、それを受け入れている。
此処で今、何が起こっているのか、その情報を知るのに、なくてはならない存在になっている。
その新聞は、人ならざる者――それも、いけすかない鴉天狗が書いたものであるというのに。
「…」
でも。霊夢はまた、良く分かっている。
アイツの新聞がここまで普及したのは「天狗だから」の一言では決して片付けられない、ということを。
「…あっ」
涼しい風がふわり、霊夢の黒髪を撫でる。照り付けていた太陽はいつの間にか遮られていて、歩く人々から影をかき消していく。空を見上げてみれば、銀灰色に覆われた雲が、滑空した鴻(おおとり)のように迫っていることに気付かされて。あっという間に蒼天を呑み込んだ厚雲に皆が呆気にとられていると、ぽつり、ぽつり、雨粒が地面を濡らし始めた。
冷たい風が再び浮き上がったかと思えば、さぁっ、と水の簾が勢い良く大路へと降り注いでいく。突拍子もなく荒れだした天候に行き交う人々は仰天し、濡れないようにと我先に屋内へと駆け出していく。ばしゃばしゃ、慌ただしく水たまりが撥ねる足音もだんだんと薄れていって――気が付けば、霊夢は一人、大路の端に取り残される。
「…はぁ」
まるで、人払いでもされているみたい――一つ、ため息をつきながら、霊夢は軒下で雨宿りを続ける。柔肌に時折触れる霧の飛沫に心地良さを抱きながら、じっと瞼を閉じる。
こう耳を傾けると、水の音にも様々な調べがあるんだって、ちょっと驚かされる。水たまりに大小の滴がこぼれ、ゆらり、融け合う音。雨粒が屋根にぶつかって砕けては、一筋の道へと集まって、地面へと還る音。生の息吹のない、けれど確かに生の摂理を奏でている音曲に聞き入りながら、その時を待って。
ぱちゃり。水たまりの弾ける音が聞こえる。ぱちゃり、ぱちゃり。規則正しい調子で、悠々とこちらへと近付いてくる、ヒトの足音。霊夢がゆっくり瞼を開けると、白銀に霞んだ視界の向こうから、すらり、漆黒の外套に身を包んだ女性が姿を現す。
臙脂色の番傘を差した彼女は、初めからそこに居ると分かっているように、迷わずに霊夢の雨宿りする軒下へと入って来る。鋭い視線で睨みつける霊夢など慣れっこ、というように、ソイツはにっこり、完璧な笑みを浮かべる。
「どうも。お待たせしました」
あぁもう。相変わらずの整った顔が、本当に腹が立つ。ぽぉっと頭に熱が昇ってくるのを誤魔化すように霊夢はソイツ――射命丸文から、ぷぃっと顔を背けた。
「遅いわよ」
「申し訳ありません。情報の整理に手間取ってしまいまして」
眉尻を下げながら嘯く文に、霊夢は小さく口を尖らせる。肩がくっついちゃうくらいの距離に立った彼女からは、梔子(くちなし)の甘い香りが、ほんのりと伝わって来る。
「改めまして、この度はお声がけくださり、誠にありがとうございます」
「…」
「こちらでも、目撃例をまとめていたところ、ちょうど気になる点が見つかったところでして。霊夢さんの協力をいただけるのでしたら、これ程心強いものはありません」
「お世辞は良い。こっちも時間が惜しいんだから、さっさと見せなさいよ」
「はいはい」
大袈裟に持ち上げる文をぴしゃり、咎めながら、霊夢は背中越しに手を差しだす。視線を合わせないようにしたことで、露になった耳が赤らんでいるのが見えて、文はくすくすと笑う。
雨の御簾で大路と隔てられた中で行われるのは、先程、人々が話題にしていた「肉芝」の「取材」。
「肉芝」の正体について見極めたいと、霊夢から文に接触した上で、設けられたものだった。
「それにしても驚きました。まさか、貴方から『肉芝』について協力したいと、申し出されるとは」
雨に濡れることのないよう、丁寧に文花帖を取り出しながら、文は話しかける。
「別に。アンタには関係ないでしょう」
「それはそうですが…貴方はこの手の情報には、これまで関心を抱いてこなかったと記憶してますので」
押し寄せる梔子(くちなし)の香りが、霊夢の心を揺さぶる。お茶らけたように見せて、誠実に満ちた声音が、規則正しい雨音と静かに共鳴する。
「何か、気にされていることがあるのではないか――と」
気が付けば、夕陽色に光る双眸が、霊夢を真っ直ぐに見つめていて。雨に濡れた身体を温めようとするように、霊夢は文の方へ僅かに身体を近付ける。
「魔理沙よ」
「魔理沙さん?」
霊夢の腐れ縁である魔法使いの名前が出て来たことで、文は興味深そうに目を丸くさせる。
「魔理沙が、アンタの新聞をウチに持って来て、息巻いていたのよ」
絶対に文句としてぶつけてやる、という意志で声音を尖らせつつ、霊夢はちらっちらっと、文に視線を向ける。
「その『肉芝』ってやつを、何としても手に入れてやるんだーって」
「ははぁ。確かに魔理沙さんなら、『肉芝』に興味を持たれそうですね」
そう。先日、神社にやって来た魔理沙は、黄金色の瞳を、闊達に輝かせていた。
「記事が出るや否や、躊躇いなく草原に飛び出してさ。もう『肉芝』のことしか目に入っていないみたいで」
大きな網を振り回しながら語る姿は、宝探しに夢を膨らませる子供そのものだった。
新聞の一面を、それが宝の地図であるかのようにじっくり読み込んで、目の前のレアアイテムに情熱を注ぐ友人を見ていると、なんだかとっても微笑ましく感じられて――そして、落ち着かなくなるのだ。
だって、こういう時の魔理沙は、本当に危なっかしいんだから。
「動物の様に素早く動くとか、肉を食べたら仙人になれるという伝説があるって、大はしゃぎで話してて…」
魔理沙は今ごろ、何をしているのだろう。また「肉芝」を探しに、草原へと出ているのだろうか。
アイツの言っていたことが正しいのなら、「肉芝」は見つけたとしても、容易に捕えることの出来ない代物だ。
たとえ「肉芝」自体に害はないのだとしても。暑熱に満たされつつある季節、追いかけるあまり、身体を疎かにしないだろうか。
それに、仮に「肉芝」を手に入れたとして、魔理沙は一体どうするつもりなのだろう。まさかとは思うが、そのままうっかり、食べてしまったりしないだろうか…
「…ふふっ」
萎んでいく声と共に俯いた霊夢を見て、文はこらえきれなくなったように笑みをこぼす。
「ふふふ…なるほど、そういうことですか」
薄紅で手入れされた口を、それはもう綺麗な三日月の形に曲げて、ころころと。
「つまり、魔理沙さんが心配なのですね?」
揶揄うように指摘され、霊夢はムッとする。愛らしく頬を膨らませる姿はやはり愉快なようで、文はますます赤眼を輝かせる。
「何よ。悪いの」
「まさか。決してそのようなことないですよ」
「嘘っ!じゃあ、そのわっっるい顔はどう説明するのよっ!!」
「あややぁ。それは貴方の見方に問題があるのではないですかねぇ」
ムキになる霊夢を宥めながら、文は文花帖の一ページを切り取って、濡れないように手巾(ハンカチ)に包む。面白がっている様子の文になおも霊夢が身を乗り出そうとすると、色とりどりの紅葉が突如、視界をいっぱいに覆い尽くしてきて。
「――大切になさい」
慈しみに満ちあふれた穏やかな声に、霊夢は刹那、息を呑む。
期待に弾き飛ばされるまま、手巾を押しのけて、その先の景色を見ようと、身を乗り出す。
「…えっ」
けれど直後、霊夢が認識したのは、ぴたり、ぴたり、僅かにこぼれる、滴の音だけ。名残を惜しむ響きは「時間切れ」である事実を、無情にも彼女に突き付けるもので。
驟雨(しゅうう)が通り過ぎた、人間の里。まるで雨に連れ去られたかのように、射命丸文も忽然と姿を消してしまっていた。
「そん、な」
…さっきまで、私は夢を見ていたのだろうか。
白く薄まった雲を破るように、一筋、また一筋と陽光が差し込んで、人間たちが再び大路を行き交い始める。あっという間に日常を取り戻してしまった喧騒を目の当たりにして、霊夢はその場に立ち尽くす。
けれど、彼女の手には今、さっきまで持っていなかった手巾が確かに握られている。唐紅(からくれない)、山吹、萌黄。色とりどりの紅葉が水面に流れていく姿を刺繍したそれをほどいてみると――やっぱり、一枚の紙が四つ折りに畳まれていて。
繙(ひもと)いてみれば、丸っこくて愛らしい形をした、けれど読みやすくなるよう几帳面に整えられた文字の数々。安堵と共にようやく、先程までの出来事が、霊夢の胸に現実として染みこんでいく。
「…」
再び手巾にメモを包みなおして、懐に仕舞う。甘い梔子の残り香が、ゆっくりと胸に染みこんでいくのを噛みしめながら、霊夢はじっと目を閉じる。
『――大切になさい』
瞼の内側に閉じこもった意識で、先程の文の言葉を、繰り返し再生させる。
何度も聞き返していくうちに、綿羽で柔らかく包みこまれるような気持ちになって、霊夢は一つ、感嘆の息を吐く。
そして、だんだんと、心臓の底から、ぐつぐつとした熱が喉元へ沸いてくるのを感じ取って。
嬉しさとも怒りとも分からないぐちゃぐちゃに翻弄されながら、せめて表に出さないように、霊夢はきゅっと口を結ぶ。
…あの言葉を、かけてくれた時。
紅葉の渦に遮られた向こうで、アイツはどんな顔をしていたんだろう。
『私が出て行かなければ 怨霊は倒せない!』
自分が何かに迷い、考え抜き、決断した局面。いつも、背後から一つ、温かい視線が向けられていた。そしてその時、霊夢の一歩後ろには、常に射命丸文が居た。
背中を強く押してくれるような優しさは、先の見えない闇へ飛び込む霊夢を、いつも支えてくれていた。自分の決意が間違っていないと、決して一人ではないことを、教えてくれるようだった。
…けれど、せめて感謝だけでも、と振り返った瞬間。アイツは既に、笑顔の「仮面」を貼り付けていた。
その場にいた他の奴らは皆、アイツの「素顔」を、一瞬だけでも見れたはずなのに。
私だけ、いつも見ることが出来ずにいた。
「ズルい」
こらえきれず、微かな言霊が、霊夢の口端からこぼれる。蓋をしたはずの熱があっという間にこみあげて、耳の先を赤く染める。
だから、今回こそは、と。妨げる紅葉の波を掻き分けて、その顔を拝みたかったのに。
――アイツの「真実」を、この手で曝(あば)きたかったのに。
「おぉ…おい、見ろよアレ」
「綺麗…」
刹那、大路から沸き立つ声が聞こえて、霊夢はハッと我に返る。僅かな希望を胸に軒下から飛び出してみると、東側、夕空高くに文――ではなく、大きな虹が、くっきりと映し出されているのが見える。
七色に彩られたその足は、紛れもなく神社の方角と重なっていて――その主たる少女を、祝福するかのように。
「…ばー、か」
ささやかな希望を手巾と共に仕舞いながら、霊夢は口を尖らせる。梔子の香りに揺蕩っていた心が、切なさで強く締め付けられる。
ばか。意気地なし。あんぽんたん。
そんな大げさな励まし要らないんだから、この格好つけ。
…私は。私は、ただ。
あの雨が、もうちょっと降ってくれるだけで、良かったのだ。
照りつける陽の光と行き交う人々の賑わいが共鳴する人里の往来では、今日も妖しい「噂」が花を咲かせていた。
「おい、聞いたか。今朝、また例の――そうそう、『肉芝(にくし)』が目撃されたんだってよ」
――ほら。ここでも、また。
大路を歩いていた若者が出した単語に、軒端で身体を休めていた少女がこっそり、耳を聳(そばだ)てる。
「聞いた聞いた。けど、紅花問屋んとこの坊ちゃんだろ?また注目を集めるための作り話じゃないのかい?」
「今回ばかりはきっと本当だって。聞いた話だと『肉芝』ってのは――」
訝しげに聞き流そうとする友人に熱っぽく語る若者の背中を、少女――博麗霊夢はじっと見届ける。
そして、一つため息――「肉芝」。今日だけで何度、その名前を耳にしたことだろう。
「…ったく」
「肉芝」。動物のようにすばしっこく動くと言われ、見つかった記録もほとんど残されていないというキノコ。
ちょっと前までは、誰も名前を聞いたことのなかったような、謎に包まれているキノコ。
それが何日か前、ある新聞で発見例が報告されたのをきっかけに、一躍人々の間で存在が認知されることになった。
「なんでも『肉芝』ってのは、小さい犬ころのようにくるくる動き回って――」
「そうそう。『肉芝』を食べたって奴の記録が、最近、屋根裏から見つかってよ――」
今や、里の人々はすっかり、存在も定かではないキノコに夢中になっている。
尾羽どころか風切羽までいっぱいついた狂言で騒ぎたい者もいれば、中には「肉芝」を捕まえたらどのように調理出来るかなんて、夢物語を描いている者もいるみたいで。
本当、アイツの新聞、読まれるようになったんだなぁ――
これから待ち合わせている奴の顔が、パッと頭に浮かぶ。
気を抜けば、口端が緩んでしまいそうになって、慌てて霊夢は首を横に振る。額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、霊夢はぼんやり、思索に耽る。
里の貸本屋にアイツの新聞が置かれるようになってから、どれくらい経ったのだろう。
まだ、そう長い年月は過ぎていない…はずなのに、人間たちは初めから当たり前にあったかのように、それを受け入れている。
此処で今、何が起こっているのか、その情報を知るのに、なくてはならない存在になっている。
その新聞は、人ならざる者――それも、いけすかない鴉天狗が書いたものであるというのに。
「…」
でも。霊夢はまた、良く分かっている。
アイツの新聞がここまで普及したのは「天狗だから」の一言では決して片付けられない、ということを。
「…あっ」
涼しい風がふわり、霊夢の黒髪を撫でる。照り付けていた太陽はいつの間にか遮られていて、歩く人々から影をかき消していく。空を見上げてみれば、銀灰色に覆われた雲が、滑空した鴻(おおとり)のように迫っていることに気付かされて。あっという間に蒼天を呑み込んだ厚雲に皆が呆気にとられていると、ぽつり、ぽつり、雨粒が地面を濡らし始めた。
冷たい風が再び浮き上がったかと思えば、さぁっ、と水の簾が勢い良く大路へと降り注いでいく。突拍子もなく荒れだした天候に行き交う人々は仰天し、濡れないようにと我先に屋内へと駆け出していく。ばしゃばしゃ、慌ただしく水たまりが撥ねる足音もだんだんと薄れていって――気が付けば、霊夢は一人、大路の端に取り残される。
「…はぁ」
まるで、人払いでもされているみたい――一つ、ため息をつきながら、霊夢は軒下で雨宿りを続ける。柔肌に時折触れる霧の飛沫に心地良さを抱きながら、じっと瞼を閉じる。
こう耳を傾けると、水の音にも様々な調べがあるんだって、ちょっと驚かされる。水たまりに大小の滴がこぼれ、ゆらり、融け合う音。雨粒が屋根にぶつかって砕けては、一筋の道へと集まって、地面へと還る音。生の息吹のない、けれど確かに生の摂理を奏でている音曲に聞き入りながら、その時を待って。
ぱちゃり。水たまりの弾ける音が聞こえる。ぱちゃり、ぱちゃり。規則正しい調子で、悠々とこちらへと近付いてくる、ヒトの足音。霊夢がゆっくり瞼を開けると、白銀に霞んだ視界の向こうから、すらり、漆黒の外套に身を包んだ女性が姿を現す。
臙脂色の番傘を差した彼女は、初めからそこに居ると分かっているように、迷わずに霊夢の雨宿りする軒下へと入って来る。鋭い視線で睨みつける霊夢など慣れっこ、というように、ソイツはにっこり、完璧な笑みを浮かべる。
「どうも。お待たせしました」
あぁもう。相変わらずの整った顔が、本当に腹が立つ。ぽぉっと頭に熱が昇ってくるのを誤魔化すように霊夢はソイツ――射命丸文から、ぷぃっと顔を背けた。
「遅いわよ」
「申し訳ありません。情報の整理に手間取ってしまいまして」
眉尻を下げながら嘯く文に、霊夢は小さく口を尖らせる。肩がくっついちゃうくらいの距離に立った彼女からは、梔子(くちなし)の甘い香りが、ほんのりと伝わって来る。
「改めまして、この度はお声がけくださり、誠にありがとうございます」
「…」
「こちらでも、目撃例をまとめていたところ、ちょうど気になる点が見つかったところでして。霊夢さんの協力をいただけるのでしたら、これ程心強いものはありません」
「お世辞は良い。こっちも時間が惜しいんだから、さっさと見せなさいよ」
「はいはい」
大袈裟に持ち上げる文をぴしゃり、咎めながら、霊夢は背中越しに手を差しだす。視線を合わせないようにしたことで、露になった耳が赤らんでいるのが見えて、文はくすくすと笑う。
雨の御簾で大路と隔てられた中で行われるのは、先程、人々が話題にしていた「肉芝」の「取材」。
「肉芝」の正体について見極めたいと、霊夢から文に接触した上で、設けられたものだった。
「それにしても驚きました。まさか、貴方から『肉芝』について協力したいと、申し出されるとは」
雨に濡れることのないよう、丁寧に文花帖を取り出しながら、文は話しかける。
「別に。アンタには関係ないでしょう」
「それはそうですが…貴方はこの手の情報には、これまで関心を抱いてこなかったと記憶してますので」
押し寄せる梔子(くちなし)の香りが、霊夢の心を揺さぶる。お茶らけたように見せて、誠実に満ちた声音が、規則正しい雨音と静かに共鳴する。
「何か、気にされていることがあるのではないか――と」
気が付けば、夕陽色に光る双眸が、霊夢を真っ直ぐに見つめていて。雨に濡れた身体を温めようとするように、霊夢は文の方へ僅かに身体を近付ける。
「魔理沙よ」
「魔理沙さん?」
霊夢の腐れ縁である魔法使いの名前が出て来たことで、文は興味深そうに目を丸くさせる。
「魔理沙が、アンタの新聞をウチに持って来て、息巻いていたのよ」
絶対に文句としてぶつけてやる、という意志で声音を尖らせつつ、霊夢はちらっちらっと、文に視線を向ける。
「その『肉芝』ってやつを、何としても手に入れてやるんだーって」
「ははぁ。確かに魔理沙さんなら、『肉芝』に興味を持たれそうですね」
そう。先日、神社にやって来た魔理沙は、黄金色の瞳を、闊達に輝かせていた。
「記事が出るや否や、躊躇いなく草原に飛び出してさ。もう『肉芝』のことしか目に入っていないみたいで」
大きな網を振り回しながら語る姿は、宝探しに夢を膨らませる子供そのものだった。
新聞の一面を、それが宝の地図であるかのようにじっくり読み込んで、目の前のレアアイテムに情熱を注ぐ友人を見ていると、なんだかとっても微笑ましく感じられて――そして、落ち着かなくなるのだ。
だって、こういう時の魔理沙は、本当に危なっかしいんだから。
「動物の様に素早く動くとか、肉を食べたら仙人になれるという伝説があるって、大はしゃぎで話してて…」
魔理沙は今ごろ、何をしているのだろう。また「肉芝」を探しに、草原へと出ているのだろうか。
アイツの言っていたことが正しいのなら、「肉芝」は見つけたとしても、容易に捕えることの出来ない代物だ。
たとえ「肉芝」自体に害はないのだとしても。暑熱に満たされつつある季節、追いかけるあまり、身体を疎かにしないだろうか。
それに、仮に「肉芝」を手に入れたとして、魔理沙は一体どうするつもりなのだろう。まさかとは思うが、そのままうっかり、食べてしまったりしないだろうか…
「…ふふっ」
萎んでいく声と共に俯いた霊夢を見て、文はこらえきれなくなったように笑みをこぼす。
「ふふふ…なるほど、そういうことですか」
薄紅で手入れされた口を、それはもう綺麗な三日月の形に曲げて、ころころと。
「つまり、魔理沙さんが心配なのですね?」
揶揄うように指摘され、霊夢はムッとする。愛らしく頬を膨らませる姿はやはり愉快なようで、文はますます赤眼を輝かせる。
「何よ。悪いの」
「まさか。決してそのようなことないですよ」
「嘘っ!じゃあ、そのわっっるい顔はどう説明するのよっ!!」
「あややぁ。それは貴方の見方に問題があるのではないですかねぇ」
ムキになる霊夢を宥めながら、文は文花帖の一ページを切り取って、濡れないように手巾(ハンカチ)に包む。面白がっている様子の文になおも霊夢が身を乗り出そうとすると、色とりどりの紅葉が突如、視界をいっぱいに覆い尽くしてきて。
「――大切になさい」
慈しみに満ちあふれた穏やかな声に、霊夢は刹那、息を呑む。
期待に弾き飛ばされるまま、手巾を押しのけて、その先の景色を見ようと、身を乗り出す。
「…えっ」
けれど直後、霊夢が認識したのは、ぴたり、ぴたり、僅かにこぼれる、滴の音だけ。名残を惜しむ響きは「時間切れ」である事実を、無情にも彼女に突き付けるもので。
驟雨(しゅうう)が通り過ぎた、人間の里。まるで雨に連れ去られたかのように、射命丸文も忽然と姿を消してしまっていた。
「そん、な」
…さっきまで、私は夢を見ていたのだろうか。
白く薄まった雲を破るように、一筋、また一筋と陽光が差し込んで、人間たちが再び大路を行き交い始める。あっという間に日常を取り戻してしまった喧騒を目の当たりにして、霊夢はその場に立ち尽くす。
けれど、彼女の手には今、さっきまで持っていなかった手巾が確かに握られている。唐紅(からくれない)、山吹、萌黄。色とりどりの紅葉が水面に流れていく姿を刺繍したそれをほどいてみると――やっぱり、一枚の紙が四つ折りに畳まれていて。
繙(ひもと)いてみれば、丸っこくて愛らしい形をした、けれど読みやすくなるよう几帳面に整えられた文字の数々。安堵と共にようやく、先程までの出来事が、霊夢の胸に現実として染みこんでいく。
「…」
再び手巾にメモを包みなおして、懐に仕舞う。甘い梔子の残り香が、ゆっくりと胸に染みこんでいくのを噛みしめながら、霊夢はじっと目を閉じる。
『――大切になさい』
瞼の内側に閉じこもった意識で、先程の文の言葉を、繰り返し再生させる。
何度も聞き返していくうちに、綿羽で柔らかく包みこまれるような気持ちになって、霊夢は一つ、感嘆の息を吐く。
そして、だんだんと、心臓の底から、ぐつぐつとした熱が喉元へ沸いてくるのを感じ取って。
嬉しさとも怒りとも分からないぐちゃぐちゃに翻弄されながら、せめて表に出さないように、霊夢はきゅっと口を結ぶ。
…あの言葉を、かけてくれた時。
紅葉の渦に遮られた向こうで、アイツはどんな顔をしていたんだろう。
『私が出て行かなければ 怨霊は倒せない!』
自分が何かに迷い、考え抜き、決断した局面。いつも、背後から一つ、温かい視線が向けられていた。そしてその時、霊夢の一歩後ろには、常に射命丸文が居た。
背中を強く押してくれるような優しさは、先の見えない闇へ飛び込む霊夢を、いつも支えてくれていた。自分の決意が間違っていないと、決して一人ではないことを、教えてくれるようだった。
…けれど、せめて感謝だけでも、と振り返った瞬間。アイツは既に、笑顔の「仮面」を貼り付けていた。
その場にいた他の奴らは皆、アイツの「素顔」を、一瞬だけでも見れたはずなのに。
私だけ、いつも見ることが出来ずにいた。
「ズルい」
こらえきれず、微かな言霊が、霊夢の口端からこぼれる。蓋をしたはずの熱があっという間にこみあげて、耳の先を赤く染める。
だから、今回こそは、と。妨げる紅葉の波を掻き分けて、その顔を拝みたかったのに。
――アイツの「真実」を、この手で曝(あば)きたかったのに。
「おぉ…おい、見ろよアレ」
「綺麗…」
刹那、大路から沸き立つ声が聞こえて、霊夢はハッと我に返る。僅かな希望を胸に軒下から飛び出してみると、東側、夕空高くに文――ではなく、大きな虹が、くっきりと映し出されているのが見える。
七色に彩られたその足は、紛れもなく神社の方角と重なっていて――その主たる少女を、祝福するかのように。
「…ばー、か」
ささやかな希望を手巾と共に仕舞いながら、霊夢は口を尖らせる。梔子の香りに揺蕩っていた心が、切なさで強く締め付けられる。
ばか。意気地なし。あんぽんたん。
そんな大げさな励まし要らないんだから、この格好つけ。
…私は。私は、ただ。
あの雨が、もうちょっと降ってくれるだけで、良かったのだ。
射命丸に会う前と後で如実に変わっている霊夢の心境がよかったです
思わずにやけてしまいました
これぞ大妖怪なセリフですね!