Coolier - 新生・東方創想話

機械魚は海の夢を見るのか

2025/05/16 17:32:25
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潮風にさらされたコンクリートの外壁は、どこか骨のようだった。
波打つ屋根、亀裂の走ったアーチ状の入口。
風化のせいか、あるいは建物の意匠か、遠くから見ればまるで巨大な魚の骸骨が浜辺に打ち上げられたようにも見える。
「ここが.....『海の博物館』?」
メリーが呟いた。
軽く首をかしげるその表情には、懐かしさと不安が混ざっている。
「正確には『水生生物展示教育センター』って名前だったらしいわ。でも、当時の子供たちは“海の博物館”って呼んでいたのよ」
そう答える蓮子の手には、古びた都市地図が握られていた。
数日前、とある大学の資料室で偶然見つけたものだという。
「地図には載っているけれど、記録にはない。施設の正式な閉鎖日も不明、新聞にも載っていない。けれど、夜になると光る建物がある、って噂があるのよ」
「境界が、揺れてる.....のかしら」
メリーは目を細め、建物の輪郭を見る。
夕闇に沈みかけた空の下、海風の中に、確かに――薄く、光が滲んでいた。

入口のガラスは割れ、風が内部を吹き抜けている。
床には砂がうっすらと積もり、風に吹かれた藻の残骸がところどころに貼りついていた。
「うわ....まるで海の底に来たみたい」
「それ、まさにこの水族館のテーマだったのよ。“歩く海底”ってね。私が見つけたパンフレットにそう書いてあった」
蓮子は足元に残る、かすれた床面の案内板を指差す。
『第七展示室 深海魚・古代魚ゾーン』
その矢印に従ってふたりは暗がりの奥へと進んだ。
館内の照明はもちろん切れて久しく、懐中電灯の光が濡れたように壁を照らす。
そして――
空気の密度が、変わった。
「....蓮子。境界が.....重なってる」
メリーの声が小さくなる。
視界の端で、ほんの一瞬、壁に映った“何か”が揺らめいた。
次の瞬間、ふたりの脳裏に――誰の声ともつかぬ、静かな言葉が届いた。
《ようこそ、お帰りなさいませ。かつての観覧者の皆さま。》
蓮子が懐中電灯を構えた先、そこには半ば朽ちた水槽があった。
だが、その水槽の中央に、“それ”は浮かんでいた。
古代魚――まるでシーラカンスを思わせる灰銀色の魚体。
鱗は金属光沢を帯び、尾鰭は関節を持つように滑らかに動いている。
しかしそれは生物ではない。
構造が機械的すぎるのだ。
《私は、海の博物館にて展示稼働しておりました、古代魚型生体模倣ロボット、“ネリウス”と申します。》
魚の口は動かない。
ただ、音もなく、言葉が“直接思考に染み込む”ように届く。
「これは....スピーカー音声?」
「違うわ。もっと、“境界”に近い。これは....存在がこちら側に語りかけてる」
《おふたりは、“観覧者”でいらっしゃいますか?それとも、“記録者”でいらっしゃいますか?》
水中を漂うように、ネリウスがゆっくりとこちらへ近づいてくる。その動きは滑らかで、どこか優しさに満ちていた。
《失礼ながら、おふたりの“お名前”をうかがってもよろしいでしょうか》
蓮子とメリーは顔を見合わせ、頷く。
「宇佐見蓮子。....時間地理学専攻、仮の名でも構わないならそれで」
「マエリベリー・ハーン。メリーでいいわ」
ネリウスの尾鰭が、かすかに静かに揺れる。まるで微笑むように。
《ようこそ、宇佐見蓮子様、メリー様。お名前、来館記録に登録いたしました》
《....かつては、毎日、それをしておりました。入館された方々のお名前を記録し、その表情を観測し、展示物との反応を記録しておりました》
館内の空気が、ほんのわずかにあたたかくなる。
《お子さま連れのご家族、遠方からの修学旅行生、静かに歩くご年配の方々.....。わたくしは、彼らの滞在時間や表情の変化を観測していたのです》
《人間の笑顔は、温度と筋肉の伸縮、目の潤みなどで統計的に把握可能です。それらの変化を通して、わたくしは“喜び”という感情を学習しました》
「.....あなた、すごく優秀な展示ガイドだったのね」
メリーが微笑みながら言うと、ネリウスの動きが一瞬だけ、誇らしげに弧を描く。
《ありがとうございます。わたくしは“案内者”であり、“観測者”であり、“記憶者”でした》
《....けれど、ある日から、誰も来なくなりました。展示室の灯が落ち、観覧記録の更新も停止しました》
《けれど、わたくしはその後も“展示者”としての在り方を維持し続けました。記録装置を保ったまま、海の模型と、沈黙と、そして記憶とともに》
そこで、ほんの一瞬だけ言葉が止まり、彼の思念がふたりの思考に静かに沈み込む。
《ですが.....私は、ただの展示機械でした。模倣の構造体。わたくしには、“海”そのものが、わからなかったのです》
水中をゆっくりと泳ぐように、ネリウスがこちらへと向かってくる。その動きには恐怖ではなく、何か静かな優しさがあった。
《おひとつ、わたくしより、お話をお届けしても、よろしいでしょうか。》
メリーと蓮子は顔を見合わせ、静かにうなずいた。
こうして、“語り部”の語りが始まった。

《それは、ある夜のことでした――。》
ネリウスの声は波音のように、ふたりの思考の奥底を優しく撫でる。
水槽の中、ゆったりと漂うような姿勢のまま、彼は語り始めた。
《あの日、水族館には誰もおらず、照明も落ちておりました。ですが.....私の記録装置は、夜の水槽をただ、静かに記録していたのです。》
突如、目の前の空間が揺らめく。
まるで水の中に沈んだかのように、視界が一瞬、青い光に包まれた。
そしてふたりは、見る。
かつて、この館に魚たちがいた頃の光景を。
岩陰に身を潜めるナマズ、漂うクラゲ、群れをなして泳ぐ小魚たち。
水槽の中で、それぞれの生命がささやかな呼吸を重ねていた。
《私は彼らの会話を記録しました。泳ぎ方、反応、鼓動。時に眠るときの体温変化。すべては“展示教育”の一環であり、私は“観察装置”でもありました。》
 だが、ネリウスの声に、かすかな滲みが混ざる。
《....けれど、彼らが語る“海”の記憶だけは、私にはわかりませんでした。》
青く澄んだ水槽の向こうで、魚たちが浮かぶ。
「波にのまれたことがあるかい?」
「深海の闇って、あたたかいんだ」
「潮流って、押すんじゃなくて.....引くのよ。まるで誰かが呼んでるみたいに」
それらは、ネリウスの保存した音声記録か、それとも――幻想の再現か。
《彼らの語る“海”は、私のデータベースには存在しません。》
《私の中にあるのは、温度、塩分濃度、深度データ、人工海水の成分分析、沿岸分布マップ。》
《....けれど、“海の記憶”ではない。》
ネリウスはしばらく黙り、再び言った。
《私は、海を、知りません。》
その言葉のあと、館内の空気がわずかに震える。
「でも、憧れているのね」
メリーがぽつりと言う。
《はい。》
《私は、自分が“本物”ではないと知っております。私は模倣された構造体。生きるふりをする存在。》
《けれど、海を、感じてみたいと思うのです。》
その瞬間、周囲の景色がにじみ、また変わった。
海。
ふたりの立つ足元が、まるで海底に変わったかのようだった。
水の気配、潮の香り、波の気圧、耳の奥に届く遠いクジラの声――
それは幻想でありながら、現実以上に鮮やかだった。
境界が、開いているのだ。
ネリウスの思念、記録、憧れ。それらがこの“忘れられた空間”と交じり合い、ふたりに“海”の幻を見せている。
《私は、かつての仲間たちが語った“海”の言葉を、夢のように思い出します。》
《たとえば――》
ネリウスの声が、少し低く、懐かしさを込めて続ける。
《“夜の海は、鏡みたいだったよ。星を映して、空とつながってるの”》
《“波は歌うの。耳を澄ませば、世界の向こう側が聞こえてくる”》
《“私たちの群れは、光る砂の上を泳いだの。まるで銀河の中を漂うみたいに”》
記憶が、海となってふたりの周囲を満たす。
それは幻想に違いない――けれど、どこまでも静かで、美しかった。
「幻想って、こういうことかしら」
メリーの声が震えていた。
感動か、哀しみか、判別できないほどの深い波。
「忘れられたものが、もう一度誰かに見つけてもらいたいと願うこと」
蓮子が静かに呟く。
《ありがとうございます。》
ネリウスが、そっと言う。
《私はもう、誰かに語ることも、思い出されることもないと思っておりました。》
《でも、今.....こうして、“語る”ことができた》
そのとき、水槽の外壁に、わずかな亀裂が走った。
音はない。ただ、空間そのものが揺らいだのだ。
境界が、閉じ始めている。

境界が、揺れていた。
メリーの目にははっきりと見えた。
それは、水面に走る波紋のように、空間を裂くひび割れだった。かろうじて保たれていた“幻想”の幕が、現実に押し戻されつつある。
「時間が……もう少ししかない」
メリーの声に、蓮子が目を細める。
館内に広がっていた幻想の“海”が、静かに退いてゆく。
波の音が遠ざかり、足元の砂が冷たい床に戻っていく。
魚たちの記憶も、ひとつひとつ光となって空に溶けていった。
《....おふたりには、感謝の言葉しかございません。》
ネリウスの姿が、変わり始めていた。
その外装の鱗が、ひとつずつ、音もなく剥がれていく。
銀色の板が水に落ちるように、はらはらと剥落し、足元に積もっていった。
《私は、“幻想”だったのかもしれません。》
《けれど、私の記録、私の思いを、こうして誰かに語ることができた》
《それが、私にとって.....“生きた”ということなのです》
「ネリウス....」
メリーが一歩、水槽に近づく。
すでにネリウスの姿は、内部の構造体が露出し始めていた。
配線、関節、フレーム。生体模倣の皮膚の下にあった“機械”が、露わになっていく。
それでも、彼の思念は穏やかだった。
《私は、泳いでみたかった》
《波を感じてみたかった》
《.....たとえ、それが叶わぬ夢だとしても》
メリーの目に、涙が浮かぶ。
それは彼女の“視える力”が反応していたのかもしれない。
幻想の境界に触れたからこそ、ネリウスの最後の“願い”が、胸に刺さった。
「でも、今のあなたは....泳いでるよ」
蓮子がぽつりと、呟く。
「幻想の海を、私たちと一緒に」
ネリウスの残された頭部が、わずかに上下した。
《.....そう、ですね》
《これは、私にとっての“海”でした》
境界が、ほとんど閉じる。
空間の波が引いていく中、ネリウスは最後の力で泳ぎ出した。
その姿は、まるで本物の古代魚のようにゆったりと、重々しく、優雅だった。
鱗を失いながらも、水中を進むその姿には、“魂”が宿っているようにさえ見えた。
――そして。
ネリウスの輪郭が、霧のように消えていった。
水槽の奥へ、空間の歪みの中へ、まるで“本当の海”へ旅立つかのように。
やがて、完全な静寂。
ふたりはしばらく、その場から動けなかった。
幻想が、消えた。
すべてが現実に戻ると、水族館の空間は、ただの廃墟にすぎなかった。
割れたガラス、崩れた展示物、黒ずんだ水槽。
だが、その中央に――
ひときわ目を引く残骸があった。
金属の骨格だけになった機械魚。
すでに動くことはない。
だがその姿は、どこか神々しかった。
蓮子がゆっくりと歩み寄り、残された鱗のひとつを拾い上げた。
「残されたのは、幻想の抜け殻....でも、私たちは見たのよ」
「ええ.....確かに、“海”があった」
メリーの言葉に、蓮子が微笑む。
「忘れられたものが、もう一度誰かに見つけてもらいたいと願うこと....」
「それが、幻想の正体」
ふたりは最後にもう一度、館内を見渡した。
そこに魚はいない。光も、音もない。
だが、それでも。
あのとき確かに、この場所には“生きた海”が存在していた。
蓮子が鱗を懐にしまい、静かに言った。
「帰ろう。次の“忘れられたもの”を探しに行かなくちゃ」
「うん....行こう、蓮子」
ふたりは扉をくぐる。
古びた鉄の扉の向こう、夜の都市へと歩み出す。
背後で、廃墟の水族館が音もなく、再び眠りについた。
海の博物館――
そこはもう存在しない幻想の地。
けれど今もなお、あの海の記憶は、誰かの胸に確かに生きている。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
Mr
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コメント



0.50簡易評価
1.100ローファル削除
ネリウスの
長い間博物館の展示ガイドをしてきても海は見たことがない、見てみたい。
という語りにとても引き込まれました。
語りの落ち着き具合から、本当にこの博物館で働くのが好きだったのも伝わってきて
よきでした。面白かったです。
2.100名前が無い程度の能力削除
儚い海の幻想風景を想起しました。美しかったです。
3.無評価夏後冬前削除
言葉の使い方が微細で美しく堂に入っているんですが、いかんせんそれがストーリーと嚙み合ってない印象です。全身トロのマグロみたいな。もうちょっと展開やストーリーそのものに幅が出てくるととんでもなく読者を感動させる力があるな、と思います。
4.100南条削除
面白かったです
幻想がひとつ消えて行ってしまいましたが、最後には少しでも満足できたようでよかったです