「メリー、ここ最近でいちばん“気になる欠番”を見つけたわ」
蓮子がそう言って見せたのは、旧文芸区にある廃映画館の記録だった。 市の文化財データベースには「1999年閉館」と明記されているその劇場―― しかし近年、深夜の時間帯だけスクリーンが光っているという報告が複数あがっていた。
「人がいないのに上映されてるの?」
メリーが小さく首をかしげる。
「ええ。でも“何が映っていたか”を語れる人は、誰もいないのよ」
「スクリーンが光ってたのに?」
「“上映されていた”とは限らない。誰かに“視られることを待っていただけ”かもね」
蓮子の言葉に、メリーは一瞬だけ黙り込んだ。 その瞳が、どこか遠くの光を追っているように見えた。
「行くの?」
「もちろん。“観測されない記録”なんて、秘封倶楽部が黙っていられるわけないじゃない」
旧区画の一角に、その映画館はあった。
今では区画整理の対象からも外れ、誰の記憶からも抜け落ちたような空間。 外壁はツタに覆われ、入口のチケット窓口には「CLOSED」の札が色褪せて貼られたままだ。
けれど、その中に――わずかな気配があった。
蓮子が扉に手をかける。
鍵は、かかっていなかった。
ギィ、と音を立てて開いた内部は、思いのほか整っていた。
埃が積もっているが、椅子もスクリーンも、朽ちてはいない。
舞台の幕だけが微かに揺れていた。風はないのに。
「....ねえ、蓮子。この劇場、“何かを映す準備だけがずっと続いてる”ような気がする」
「“誰かを待っていたスクリーン”、ってわけね」
蓮子が小さく笑った。
その時、背後で電源の入る音がした。
「……今、誰か操作した?」
「してない。でも、見て」
舞台奥の投影室から、かすかに光が漏れ始めていた。
そして、スクリーンが――何も映していないのに、白く、静かに光り始めた。
ふたりは同時に息を呑んだ。
「上映が、始まる……?」
「でも、映ってるものが“存在しない”なら――これは、“記録されなかった映画”なのかもしれないわね」
映写機の駆動音はしなかった。
にもかかわらず、スクリーンは光を放っていた。
音も字幕もなく、ただ白い幕が闇のなかに浮かんでいた。
「何も……映ってないよね?」
メリーがぽつりと言う。 蓮子は端末のカメラで記録を試みていたが、画面には“信号なし”の文字が浮かんだままだった。
「映ってない、というより“映らない”のかもしれないわね」
「でも、何かが始まってる感じがする」
「ええ、スクリーンの向こうに“誰かの記憶”が、投影されようとしてる気がする」
ふたりは並んで座席に腰掛けた。
劇場は無音で、誰もいないのに、妙な“気配”だけがあった。
まるで、どこか別の世界で進んでいた物語が、ここに届こうとしているかのような――そんな空間。
「蓮子……」
しばらくして、メリーの声が震えていた。
「見えてるの?」
「....うん。でも、あなたの方には映ってないんだよね」
「何が映ってるの?」
メリーはしばらく黙った。
その表情は、驚きとも、哀しみとも、安堵とも取れる複雑なものだった。
「たぶん....これは、“誰かが最後まで完成させられなかった映画”」
「未完成?」
「ううん。“誰にも観られなかったから、完成できなかった”」
その言葉に、蓮子は小さく息を呑んだ。
「メリー、その中に....何が視えるの?」
「ひとつの風景。誰かの手元。何かを書こうとしてる人の姿。でも、すぐに消えてしまうの。カットがつながらない。....その映画には“編集者”がいなかった」
“編集者”――つまり、“観る者”がいなかった。
だから、その物語は終わらなかった。
語られることのないまま、フィルムの奥に眠り続けていた。
「蓮子....この映画の中に、私たちに似たふたりがいる」
「え?」
「座席の最後列に、白と黒の服を着たふたりが並んで座ってる。 光が当たるたびに、その顔が少しずつこっちを向いてくるの」
蓮子は視えないスクリーンを見つめながら、そっと答えた。
「観測者が、“観測される側”に回る。」
「その瞬間に、記録は....幻想になるのかもしれないわね」
メリーがつぶやく。
「....ねえ蓮子、この映画、ほんとうは“私たちのためのもの”だったのかな」
「誰かが残した、最後の観測対象」
「あるいは、私たち自身が“誰かに観測されるべき幻想”だったのかも」
音も言葉もない映像は、やがて薄れていった。
スクリーンは再び白い幕に戻り、投影室の明かりも消えた。
けれど、メリーの目には――最後に、ひとつのタイトルが映っていた。
『Untitled / Not Screened / For Observation Only』
それは、決して上映されることのなかった映画。
誰にも観られず、完成されなかったまま、ただ“誰かに観測されること”だけを願っていた記録。
メリーは静かに目を閉じた。
「....ありがとう、見せてくれて」
スクリーンの灯が消えると、劇場は元の沈黙に戻った。
だが、ふたりの胸には、何かが確かに“残って”いた。
「映写室、行ってみようか」
蓮子の言葉に、メリーは無言で頷いた。
舞台脇の非常階段を上り、ふたりは投影ブースへ向かう。
ドアは錆びついていたが、重くはなかった。
押し開けた先――そこには、ひとつだけ置かれたフィルムの缶があった。
棚も、機材も、すべて片づけられた空間に、それだけが“忘れられたように”残っていた。
メリーがゆっくりと手を伸ばし、缶を持ち上げる。
「....軽い。まるで、中身がないみたい」
蓮子が缶を受け取って重さを測る。
だが、確かに中にはフィルムの手触りがあった。
蓮子が慎重に缶を開けると―― そこには、色あせた未整理のフィルムが、一巻だけ、ラベルも番号もなく収められていた。
「情報が何もない....製造日も、撮影記録も、上映履歴も」
「でも、このフィルムが、さっき私に“映画を見せてきた”んだよ」
蓮子は、フィルムを光にかざしてみた。
だが、そこには何の画像も、カットも存在しなかった。
透明なセルロイドに、断片的な“揺れ”だけが走っていた。
「これは....情報が“消えた”んじゃない。 最初から、“記録という形だけ”をして生まれた存在よ」
メリーはそっと呟いた。
「記録されなかった記録....」
「あるいは、記録されないまま“誰かに見つけられること”だけを望んでいた“映像の亡霊”」
フィルムは回収不能だった。
複製もスキャンもできず、端末に接続した途端に信号がノイズで埋まった。
「観測不能」
蓮子は、はっきりと言った。
「でも、否定はできない。“確かに存在していた”のよ。 あなたが見た。それが、何よりの証明」
メリーは、軽く笑った。
「ねえ、蓮子。このフィルム、たぶん....私たちに渡すためにここに残されてたんじゃない?」
「そのためだけに、“存在していた”のね」
蓮子は、手帳を開いて記録をつけようとした。
だが――ペン先が、いつのまにかインクを流さなくなっていた。
彼女は、静かにペンを置いた。
「....これは、書いてはいけない記録ね。 記されることで“失われてしまう”種類のもの」
ふたりは、ただその場で数分間、黙ってフィルムを見つめていた。
光は、何も映していなかった。
けれど、それでも――彼女たちは確かに“見た”。
観測されないことを、願いながら存在し続けた、 欠番の映画という幻想を。
映写室を出ると、劇場の空気は静まり返っていた。
まるで、上映が終わったことを空間そのものが理解しているかのように。
椅子はすべて整列していた。
ホールの中央には、ただ白いスクリーンがぽつんと浮かんでいた。
「誰も見ていなかったはずの映画だったのに、 どうしてここまで“観る準備”が整ってたんだろうね」
メリーが、ぽつりと言った。
「準備じゃないわ。“待ってた”のよ」
蓮子は断言する。
「最初から、誰かがここへ来て、あれを“観測してくれる”ことだけを望んでたのよ。記録じゃなくて、証明じゃなくて、ただ――存在を認識してくれること」
メリーは、スクリーンを振り返る。
そこには何も映っていない。
けれど、彼女の目にはまだ“残光”が焼きついていた。
劇場を出る前、ふたりは最後にもう一度振り返った。
出口の扉の向こうには、変わらない夜の学術区が広がっている。
冷たい空気。
ネオンの光。
薄く濁った星空。
だが、劇場の内部は――もはや“現実”とは少し異なる空間になっていた。
重力の向きが微かに狂い、空気が音を吸収し、 そして、誰もいないはずのスクリーンの前には、人の気配が残っていた。
「蓮子....この場所、もうすぐ“閉じる”かもしれない」
「ええ。“役目”を終えたから」
「ううん、そうじゃない。私たちがあれを観測したことで、――“ここに存在する理由”そのものが、もう終わったんだと思う」
蓮子は、息を呑んだ。
「....それって、まるで“幻想”みたいね」
「そう。だからたぶん、次に来ても、もうこの劇場には入れない。――蓮子、もし私がこのまま、次の境界へ向かってしまっても....」
「やめてよ、そんな言い方」
蓮子が遮るように言った。
だが、メリーの表情は穏やかだった。
まるで、“もう理解している”人の顔だった。
「ごめん。でも、こういうのって、たいてい“思い出してもらえた時点で”終わるから」
ふたりは、劇場を後にした。
振り返ることはなかった。
夜の街を歩きながら、メリーがそっと言った。
「ねえ蓮子。幻想って、たぶん“映されなかったフィルム”みたいなものだよね」
「ええ。誰かに観られることを願って、ずっと投影されるのを待っていた」
「私たちは....それを観た。だからもう、あの映画は“終わった”んだよ」
蓮子は、それに何も答えなかった。
けれど、彼女の胸には――スクリーンに映らなかった“記録の光”が、 今もなお、微かに灯っていた。
翌朝、蓮子は研究棟のデスクに座っていた。
端末には、昨晩の観測ログが自動整理されている――はずだった。
だが、そこには空白だけが並んでいた。
映像記録:未取得。
音声記録:なし。
時刻ログ:誤差あり。
センサー応答:中断。
“記録不能”。
蓮子は、指先で静かに画面をなぞった。
「....ほんとうに、何ひとつ残っていない」
彼女は、メリーのスケッチブックをそっとめくった。 そこには、昨夜――スクリーンの前でメリーが描いていたひとつの絵が残されていた。
誰もいない劇場の、最後列。
そこに座るふたりの影。
光に包まれ、こちらをじっと見つめている。
「....これは、私たち?」
蓮子はそう呟きながらも、確信を持てなかった。
その影には顔も名前も描かれていない。
でも、どこか懐かしい空気があった。
まるで、“あのフィルムの中から”こちらを見返しているような――夕暮れ。
屋上に立つメリーが、風に髪を揺らしていた。
蓮子は、隣に並ぶ。
「記録には、何も残らなかったわ」
「うん、知ってる。でも、それでよかったんだと思う」
「どうして?」
「だって、“映されなかった映画”だったんだから。もし、記録されてしまったら――きっと、それはもう幻想じゃなくなる」
蓮子は、手帳を開いた。
最後のページに、たった一行だけ書き加える。
『欠番フィルム:上映なし/記録不可/観測完了』
ページを閉じると、彼女は小さく笑った。
「ねえ、メリー。私たち、ずいぶんたくさんの“映らなかったもの”を観てきたね」 「うん。そして、どれも――“誰かに観られること”を願ってた」
空が暗くなり始める。
ビルの隙間に、最初の星が瞬いた。
メリーは、スクリーンを思い出すように空を見つめて言った。
「ねえ蓮子。いつか私たち自身が、“記録されない存在”になる日が来たとしても――誰かひとりだけでも、“覚えていてくれる”なら、それだけで十分だと思うの」
蓮子は静かに頷いた。
「....秘封倶楽部としては、それで完璧な観測ね」
夜風が、白いページをめくる。
音もなく、光もなく。
けれどそこには、確かに“映されたはずのない記録”*が宿っていた。
そしてふたりは、また歩き出す。
まだ見ぬ“欠番”を探して。
まだ観測されていない幻想を追って――
蓮子がそう言って見せたのは、旧文芸区にある廃映画館の記録だった。 市の文化財データベースには「1999年閉館」と明記されているその劇場―― しかし近年、深夜の時間帯だけスクリーンが光っているという報告が複数あがっていた。
「人がいないのに上映されてるの?」
メリーが小さく首をかしげる。
「ええ。でも“何が映っていたか”を語れる人は、誰もいないのよ」
「スクリーンが光ってたのに?」
「“上映されていた”とは限らない。誰かに“視られることを待っていただけ”かもね」
蓮子の言葉に、メリーは一瞬だけ黙り込んだ。 その瞳が、どこか遠くの光を追っているように見えた。
「行くの?」
「もちろん。“観測されない記録”なんて、秘封倶楽部が黙っていられるわけないじゃない」
旧区画の一角に、その映画館はあった。
今では区画整理の対象からも外れ、誰の記憶からも抜け落ちたような空間。 外壁はツタに覆われ、入口のチケット窓口には「CLOSED」の札が色褪せて貼られたままだ。
けれど、その中に――わずかな気配があった。
蓮子が扉に手をかける。
鍵は、かかっていなかった。
ギィ、と音を立てて開いた内部は、思いのほか整っていた。
埃が積もっているが、椅子もスクリーンも、朽ちてはいない。
舞台の幕だけが微かに揺れていた。風はないのに。
「....ねえ、蓮子。この劇場、“何かを映す準備だけがずっと続いてる”ような気がする」
「“誰かを待っていたスクリーン”、ってわけね」
蓮子が小さく笑った。
その時、背後で電源の入る音がした。
「……今、誰か操作した?」
「してない。でも、見て」
舞台奥の投影室から、かすかに光が漏れ始めていた。
そして、スクリーンが――何も映していないのに、白く、静かに光り始めた。
ふたりは同時に息を呑んだ。
「上映が、始まる……?」
「でも、映ってるものが“存在しない”なら――これは、“記録されなかった映画”なのかもしれないわね」
映写機の駆動音はしなかった。
にもかかわらず、スクリーンは光を放っていた。
音も字幕もなく、ただ白い幕が闇のなかに浮かんでいた。
「何も……映ってないよね?」
メリーがぽつりと言う。 蓮子は端末のカメラで記録を試みていたが、画面には“信号なし”の文字が浮かんだままだった。
「映ってない、というより“映らない”のかもしれないわね」
「でも、何かが始まってる感じがする」
「ええ、スクリーンの向こうに“誰かの記憶”が、投影されようとしてる気がする」
ふたりは並んで座席に腰掛けた。
劇場は無音で、誰もいないのに、妙な“気配”だけがあった。
まるで、どこか別の世界で進んでいた物語が、ここに届こうとしているかのような――そんな空間。
「蓮子……」
しばらくして、メリーの声が震えていた。
「見えてるの?」
「....うん。でも、あなたの方には映ってないんだよね」
「何が映ってるの?」
メリーはしばらく黙った。
その表情は、驚きとも、哀しみとも、安堵とも取れる複雑なものだった。
「たぶん....これは、“誰かが最後まで完成させられなかった映画”」
「未完成?」
「ううん。“誰にも観られなかったから、完成できなかった”」
その言葉に、蓮子は小さく息を呑んだ。
「メリー、その中に....何が視えるの?」
「ひとつの風景。誰かの手元。何かを書こうとしてる人の姿。でも、すぐに消えてしまうの。カットがつながらない。....その映画には“編集者”がいなかった」
“編集者”――つまり、“観る者”がいなかった。
だから、その物語は終わらなかった。
語られることのないまま、フィルムの奥に眠り続けていた。
「蓮子....この映画の中に、私たちに似たふたりがいる」
「え?」
「座席の最後列に、白と黒の服を着たふたりが並んで座ってる。 光が当たるたびに、その顔が少しずつこっちを向いてくるの」
蓮子は視えないスクリーンを見つめながら、そっと答えた。
「観測者が、“観測される側”に回る。」
「その瞬間に、記録は....幻想になるのかもしれないわね」
メリーがつぶやく。
「....ねえ蓮子、この映画、ほんとうは“私たちのためのもの”だったのかな」
「誰かが残した、最後の観測対象」
「あるいは、私たち自身が“誰かに観測されるべき幻想”だったのかも」
音も言葉もない映像は、やがて薄れていった。
スクリーンは再び白い幕に戻り、投影室の明かりも消えた。
けれど、メリーの目には――最後に、ひとつのタイトルが映っていた。
『Untitled / Not Screened / For Observation Only』
それは、決して上映されることのなかった映画。
誰にも観られず、完成されなかったまま、ただ“誰かに観測されること”だけを願っていた記録。
メリーは静かに目を閉じた。
「....ありがとう、見せてくれて」
スクリーンの灯が消えると、劇場は元の沈黙に戻った。
だが、ふたりの胸には、何かが確かに“残って”いた。
「映写室、行ってみようか」
蓮子の言葉に、メリーは無言で頷いた。
舞台脇の非常階段を上り、ふたりは投影ブースへ向かう。
ドアは錆びついていたが、重くはなかった。
押し開けた先――そこには、ひとつだけ置かれたフィルムの缶があった。
棚も、機材も、すべて片づけられた空間に、それだけが“忘れられたように”残っていた。
メリーがゆっくりと手を伸ばし、缶を持ち上げる。
「....軽い。まるで、中身がないみたい」
蓮子が缶を受け取って重さを測る。
だが、確かに中にはフィルムの手触りがあった。
蓮子が慎重に缶を開けると―― そこには、色あせた未整理のフィルムが、一巻だけ、ラベルも番号もなく収められていた。
「情報が何もない....製造日も、撮影記録も、上映履歴も」
「でも、このフィルムが、さっき私に“映画を見せてきた”んだよ」
蓮子は、フィルムを光にかざしてみた。
だが、そこには何の画像も、カットも存在しなかった。
透明なセルロイドに、断片的な“揺れ”だけが走っていた。
「これは....情報が“消えた”んじゃない。 最初から、“記録という形だけ”をして生まれた存在よ」
メリーはそっと呟いた。
「記録されなかった記録....」
「あるいは、記録されないまま“誰かに見つけられること”だけを望んでいた“映像の亡霊”」
フィルムは回収不能だった。
複製もスキャンもできず、端末に接続した途端に信号がノイズで埋まった。
「観測不能」
蓮子は、はっきりと言った。
「でも、否定はできない。“確かに存在していた”のよ。 あなたが見た。それが、何よりの証明」
メリーは、軽く笑った。
「ねえ、蓮子。このフィルム、たぶん....私たちに渡すためにここに残されてたんじゃない?」
「そのためだけに、“存在していた”のね」
蓮子は、手帳を開いて記録をつけようとした。
だが――ペン先が、いつのまにかインクを流さなくなっていた。
彼女は、静かにペンを置いた。
「....これは、書いてはいけない記録ね。 記されることで“失われてしまう”種類のもの」
ふたりは、ただその場で数分間、黙ってフィルムを見つめていた。
光は、何も映していなかった。
けれど、それでも――彼女たちは確かに“見た”。
観測されないことを、願いながら存在し続けた、 欠番の映画という幻想を。
映写室を出ると、劇場の空気は静まり返っていた。
まるで、上映が終わったことを空間そのものが理解しているかのように。
椅子はすべて整列していた。
ホールの中央には、ただ白いスクリーンがぽつんと浮かんでいた。
「誰も見ていなかったはずの映画だったのに、 どうしてここまで“観る準備”が整ってたんだろうね」
メリーが、ぽつりと言った。
「準備じゃないわ。“待ってた”のよ」
蓮子は断言する。
「最初から、誰かがここへ来て、あれを“観測してくれる”ことだけを望んでたのよ。記録じゃなくて、証明じゃなくて、ただ――存在を認識してくれること」
メリーは、スクリーンを振り返る。
そこには何も映っていない。
けれど、彼女の目にはまだ“残光”が焼きついていた。
劇場を出る前、ふたりは最後にもう一度振り返った。
出口の扉の向こうには、変わらない夜の学術区が広がっている。
冷たい空気。
ネオンの光。
薄く濁った星空。
だが、劇場の内部は――もはや“現実”とは少し異なる空間になっていた。
重力の向きが微かに狂い、空気が音を吸収し、 そして、誰もいないはずのスクリーンの前には、人の気配が残っていた。
「蓮子....この場所、もうすぐ“閉じる”かもしれない」
「ええ。“役目”を終えたから」
「ううん、そうじゃない。私たちがあれを観測したことで、――“ここに存在する理由”そのものが、もう終わったんだと思う」
蓮子は、息を呑んだ。
「....それって、まるで“幻想”みたいね」
「そう。だからたぶん、次に来ても、もうこの劇場には入れない。――蓮子、もし私がこのまま、次の境界へ向かってしまっても....」
「やめてよ、そんな言い方」
蓮子が遮るように言った。
だが、メリーの表情は穏やかだった。
まるで、“もう理解している”人の顔だった。
「ごめん。でも、こういうのって、たいてい“思い出してもらえた時点で”終わるから」
ふたりは、劇場を後にした。
振り返ることはなかった。
夜の街を歩きながら、メリーがそっと言った。
「ねえ蓮子。幻想って、たぶん“映されなかったフィルム”みたいなものだよね」
「ええ。誰かに観られることを願って、ずっと投影されるのを待っていた」
「私たちは....それを観た。だからもう、あの映画は“終わった”んだよ」
蓮子は、それに何も答えなかった。
けれど、彼女の胸には――スクリーンに映らなかった“記録の光”が、 今もなお、微かに灯っていた。
翌朝、蓮子は研究棟のデスクに座っていた。
端末には、昨晩の観測ログが自動整理されている――はずだった。
だが、そこには空白だけが並んでいた。
映像記録:未取得。
音声記録:なし。
時刻ログ:誤差あり。
センサー応答:中断。
“記録不能”。
蓮子は、指先で静かに画面をなぞった。
「....ほんとうに、何ひとつ残っていない」
彼女は、メリーのスケッチブックをそっとめくった。 そこには、昨夜――スクリーンの前でメリーが描いていたひとつの絵が残されていた。
誰もいない劇場の、最後列。
そこに座るふたりの影。
光に包まれ、こちらをじっと見つめている。
「....これは、私たち?」
蓮子はそう呟きながらも、確信を持てなかった。
その影には顔も名前も描かれていない。
でも、どこか懐かしい空気があった。
まるで、“あのフィルムの中から”こちらを見返しているような――夕暮れ。
屋上に立つメリーが、風に髪を揺らしていた。
蓮子は、隣に並ぶ。
「記録には、何も残らなかったわ」
「うん、知ってる。でも、それでよかったんだと思う」
「どうして?」
「だって、“映されなかった映画”だったんだから。もし、記録されてしまったら――きっと、それはもう幻想じゃなくなる」
蓮子は、手帳を開いた。
最後のページに、たった一行だけ書き加える。
『欠番フィルム:上映なし/記録不可/観測完了』
ページを閉じると、彼女は小さく笑った。
「ねえ、メリー。私たち、ずいぶんたくさんの“映らなかったもの”を観てきたね」 「うん。そして、どれも――“誰かに観られること”を願ってた」
空が暗くなり始める。
ビルの隙間に、最初の星が瞬いた。
メリーは、スクリーンを思い出すように空を見つめて言った。
「ねえ蓮子。いつか私たち自身が、“記録されない存在”になる日が来たとしても――誰かひとりだけでも、“覚えていてくれる”なら、それだけで十分だと思うの」
蓮子は静かに頷いた。
「....秘封倶楽部としては、それで完璧な観測ね」
夜風が、白いページをめくる。
音もなく、光もなく。
けれどそこには、確かに“映されたはずのない記録”*が宿っていた。
そしてふたりは、また歩き出す。
まだ見ぬ“欠番”を探して。
まだ観測されていない幻想を追って――
うわさを聞きつけ現地に乗り込み怪異に出会って帰ってくると言う秘封の王道のようなお話でした
読んでいて楽しかったです