第七学術区――かつて京都と呼ばれた街は、今や鉄とガラスの研究都市へと変貌していた。
衛星軌道からデータ通信を受け、地下には量子計算機が唸り、地上は生体認証と自動走行が当たり前になった。
その都市の最南端、かつての“山科”にあたるエリアに、蓮子とメリーはいた。
「また、データの欠損が出てるの」 研究棟の一室。投影装置に浮かぶ地下鉄X線の立体地図を見つめながら、蓮子が呟いた。 地図は正確だ。すべての経路が記録され、再現され、監視されている。
ただ一つ――“そこ”だけを除いて。
「ここ、本来なら駅があるはずなのに、公式記録には何も残っていないのよ」 彼女が指差したのは、A線の北東ルートに存在する微細な“沈み”だった。 測量データは揃っている。
だがその区間の途中、線路が不可解に間引かれ、ホームが存在するような“空間”だけが浮いている。
「気づいてる? 周辺の時刻表データだけ、異常に曖昧なの」 蓮子がページをめくる。デジタル端末の画面には過去十年分の運行ログが並ぶ。
が、ある日付、ある時間だけが、ぽっかりと欠けていた。
「....何かが、記録されることを拒んでいるような....」
メリーが小さく呟いた。
彼女は蓮子とは違い、理論ではなく“感覚”で空間を視ていた。
「空間が歪んでる。数値じゃなくて、存在の密度が変わってる気がする」
「面白いわよね。あるはずなのに“ない”とされてる。まるで....」
蓮子は言葉を区切ると、ゆっくりと笑った。
「まるで、“忘れられるために存在してる駅”みたいじゃない?」
その噂を蓮子が見つけたのは、地下の古書収蔵サーバだった。
廃止されたウェブサイトのアーカイブ。
個人ブログの断片。
半分壊れたテキスト。
どれも明確な情報ではない。
けれど、同じことが書かれていた。
――電車を乗り過ごした先に、見たことのない駅に降りた。
――案内板がない。
外に出ても、風景が存在しない。
――気がつくと、誰もいなくなっていた。
――きさらぎ駅、という声が聞こえた。
「“きさらぎ駅”――聞いたことある?」
蓮子が問うと、メリーは少しだけ考えて首を振った。
「でも、響きが不思議。暦の隙間みたい」
「“如月”。旧暦二月。冬と春の境界。....意味深でしょ?」
蓮子は端末を閉じ、メモを手帳に書き込んだ。
「存在しない記録。存在する空間。
ねえ、メリー。今夜、行ってみない?」
「....また、境界の上を歩くのね」 メリーの声はあきれたようで、どこか楽しそうだった。 蓮子は微笑む。
「私たちは秘封倶楽部。“封じられた秘密”があるなら、見に行かないとね」
*
第七学術区の深夜。 列車は、まだ“そこを通っている”。 だが、誰もその駅を利用することはない。
存在しているはずなのに、存在しないとされている空間。 そこに、ふたりの観測者が、今宵、足を踏み入れようとしていた。
――記録には残らない。
けれど確かに“在る”何かを探して。
夜の第七学術区は、人工光の粒子で満ちている。
昼間の喧騒を忘れた街は、むしろ日が沈んでからのほうが機能的だった。 光が落ちない通りはなく、監視カメラの目は瞬き続けていた。
蓮子とメリーは、無人運行の最終便に乗り込んだ。
A線。
かつての地下鉄東西線の名残。
今日では地図上から区画番号に置き換えられ、人々の記憶からも路線名は消えつつあった。
「データ上、この区間の移動ログは全便、時刻遅延が出ているのよ。しかも、毎年ほぼ同じ夜に」
蓮子は端末の画面を示しながら言った。
「日付は?」
「2月4日。旧暦で“如月”の入り」
メリーがわずかに眉を上げる。
「....立春。境界の日ね」
列車は静かに滑るように走っていた。
車内には彼女たちの他に誰もいない。 広告はすべてデジタル化され、景色を映すウィンドウのようにすら見える。
けれど、今夜の窓には“何も映っていなかった”。
「外が、白い....霧?」
メリーが呟く。
ガラスの向こう、黒いトンネルのはずが、まるで霧の海に沈んだような白さだった。
「この区間、本来なら直通....駅には止まらない」
蓮子がそう言った瞬間、列車はわずかに減速を始めた。
「....停車信号?」
「出てない。でも、列車が止まる」
ふたりは顔を見合わせる。 車内放送は沈黙したままだ。車掌もいない。
そして―― 列車は、誰も知らないホームに滑り込んだ。
プラットフォームには駅名票がなかった。
照明はほとんど機能しておらず、ただ壁の上部に一つだけ、青白い非常灯が点っていた。
“存在してはいけない場所”を、最小限だけ照らすように。
「降りる?」
蓮子が立ち上がる。 メリーは小さく頷いた。
「....何か、感じる」
ドアが開く。音はしない。
ふたりはホームに足を踏み出した。
空気が、違っていた。
静けさが、重い。
耳鳴りのような感覚がある。
「空間が、折れてる」
メリーの声は、どこか遠くから響いているようだった。
蓮子はホームの端に立ち、壁の向こうを眺めた。
壁ではない。 それは、“奥行きのない闇”だった。
「ここが、“0番線”――欠番ホーム」 彼女はそう記した。
ふと、メリーが身を寄せる。
「蓮子....そこに、誰かいる」
振り向くと、霧の向こう、線路の先。
闇の中に、傘をさした人影が立っていた。 深い紫の布、風のない空気の中で揺れる衣。
彼女は何も言わない。
ただそこに“在る”ことだけが、確かな気配を残していた。
その時、列車がドアを閉め、警告音もなく、音もなく走り去った。 ふたりは取り残される。
そして、霧の奥から、“誰かの声”が囁いた。
「....ようこそ、“きさらぎ駅”へ」
霧は、静かに深さを増していた。
ホームの端まで歩いても、その先は白く沈んで見えない。
周囲は地下にあるはずなのに、風が吹き抜ける音がした。
どこからともなく、鈴のような音が聞こえた気がした。
「蓮子....ここ、本当に“現実”?」
「観測のフレームには、確かに収まらないわね。でも――」
蓮子は足元のレールを見た。
「でも、これは“駅”よ。構造として、歴史として、誰かが使っていた痕跡がある」
プラットフォームの端に、壊れた掲示板があった。
近づくと、ガラスの破片が踏まれて音を立てた。
埃に覆われた案内板には、かろうじて時刻表の痕跡が残っている。
「この数字....平成末期の運行データ?」
「でも、こんな駅、当時の記録には一切載ってないよね」
メリーの声に、蓮子が小さく頷いた。
「つまり、“誰かにとって確かに存在した”けど、“忘れられた”ってこと」
その瞬間――
霧が、動いた。
白い壁のようだった視界が、静かに揺れる。 空間が紙のように“めくられ”、新たな層が現れる。 メリーの目が見開かれた。
「....境界が、開いてる」
現れたのは、”駅の過去”だった。
朝の光。 制服姿の学生たちが階段を駆け上がる。
スーツの男が新聞を読みながら列車を待っている。
ベンチには老夫婦が並んで座り、穏やかな会話を交わしている。
蓮子も息を呑んだ。
目の前にあるのは幻影ではない――それは、“誰かが確かに過ごした記憶”だった。
構造は同じ。レイアウトも一致している。
けれど、いまのこの駅には、その賑わいも、名前すらも残されていない。
「これ....」
メリーが、そっと言った。
「誰かの記憶じゃない。“駅自身”の記憶....」
蓮子は、それに続けた。
「駅という構造体が、誰にも見られなくなっても、自分の“存在”を忘れていなかった....ってこと?」
場面がまた、ひとつめくられる。
夕暮れの光が、ベンチの老人の顔を照らす。
老犬が足元で眠っている。
そして――老人は、ふと何かに気づいたように振り向いた。
視線の先に、蓮子とメリーがいる。
一瞬、三者の目が合った――ような気がした。
次の瞬間、風が反転する。
境界のめくれた層が、また閉じるように白に戻っていく。
音が止み、光が褪せ、空間が再び霧に沈む。
「....見られた、かも」
メリーがぽつりと言った。
「“彼”は、私たちを見た気がした」
「“駅”の記憶に、私たちが入り込んだ? それとも、“駅”が私たちを記録した?」
蓮子は、答えのない問いを手帳に記す。
ふたりの足元で、レールが小さく震えた。
風も音も戻り、すべてが“最初の静寂”に戻っていく。
そして、ひとつの声が響いた。 それは、どこか懐かしく、どこにも属さない響きだった。
「....ようこそ、“きさらぎ駅”へ」
振り返っても、誰もいない。
けれどその名前だけが、確かに空間に“刻まれた”感覚があった。
ふたりは、再び無人のホームに立っていた。
けれど、もはやここはただの“構造物”ではなかった。 誰にも認識されなかったはずの駅が、 “自らの記憶”によって、存在を確かに伝えようとしていた。
記録には残らない。
しかし、確かに“あった”。
メリーがそっと呟いた。
「幻想って、きっと....忘れられたことを、忘れたくない気持ちのことだね」
霧が、また動いた。
先ほどまで完全に沈黙していた空間に、わずかな“揺らぎ”が走る。
それは風ではなく、空気の構造そのものが一枚、裏返ったような感覚。 紙の端をめくるように、現実のページが裏返る――
そして、彼女は現れた。
紫の衣、洋傘、古風な佇まい。 列車から降りた、あのときの女。
彼女は何も言わず、ただホームの端に立ち、メリーと蓮子を見つめていた。
まるで、“ふたりが来ることを知っていた”かのように。
「....あなたが、この駅に名を与えたのね」
蓮子が、静かに問いかけた。
女は笑わなかった。
頷きもしなかった。 けれど、その存在が“肯定”の意味を持っているように感じられた。
「忘れられた駅。名前も、利用者も、歴史もなくした構造体。
それでも、まだ“ここにいたい”と思った」
メリーの声は、少し震えていた。
女は、ようやく口を開いた。
「....幻想とはね、“記録されなかった真実”のことなの」
声は柔らかく、けれどその意味は深く染み込んでいく。
「この駅は、確かに存在していた。 誰かに使われ、誰かに愛されていた。 でも、それだけでは“世界に残る理由”にはならない。 時代が変わり、路線が再編され、地図が書き換えられ…… 忘れられたのよ。誰のせいでもなく」
女は傘を軽く傾ける。
紫の布が、霧をはじいた。
「けれど――それでも、ここは“消えたくない”と思った。だって、ここには思い出があったから。人々が笑って、泣いて、恋をして、別れて……“名もなき日常”が、静かに積み重ねられていた」
蓮子は、手帳を開く手を止めていた。
記録に残せない。データに変換できない。
けれど、それでも“今、ここに在る”という感覚が、胸に満ちていた。
メリーが小さく言った。
「幻想になるって、消えることじゃないのね.... “誰かにもう一度、見つけてほしい”っていう、祈りのかたち....」
女は、それを聞いて、ほんのわずかに、目を細めた。
「あなたたちは、“見つけた”。 だからこの駅は、再び“姿を現した”の。 記録には残らないけれど、あなたたちの記憶には残る。 それで、十分なのよ」
霧が、再び動き出す。
彼女の輪郭が、空気と同化していくように溶けていく。
「ありがとう」
その声だけが、最後にはっきりと残った。
再び、静寂が訪れる。 構造は同じ。
だが、空間の“密度”が変わっていた。
蓮子は、ふと呟いた。
「この駅は……今も、誰かを待ってるのかもしれないね」
メリーが頷く。
「“忘れないで”って、言ってるような気がした」
時計は止まっていた。 時刻も路線名も、どこにも記されていなかった。 けれど――
ふたりの胸の中には、確かに“今、ここにいた”という感覚が刻まれていた。
それは、記録に残らない。
けれど、観測された。 それが、秘封倶楽部の役目だった。
列車は、静かに戻ってきた。
音もなく、灯りもなく、あの時と同じように、霧の中から現れた。
ふたりは無言で車両に乗り込む。
ドアが閉まり、ホームが遠ざかる。
もはや、そこがどこだったのか、地図に落とし込むことはできなかった。
「....何か、持ち帰れるものがあると思った?」
蓮子がふと口を開いた。
メリーは首を振る。
「証拠とか、写真とか、サンプルとか? 全然」
「でも、感じたでしょう」
「うん。忘れてしまったはずの、やさしさみたいなもの」
列車は無音で走り続ける。
気づけば、車内には乗客がぽつぽつと乗っていた。
皆、眠っている。夢の中のように、無防備に。
窓の外に、霧はもうない。
都市の灯りが戻り、整然とした構造体が並ぶ世界が広がっていた。
日常に帰ってきた、という実感。
けれど、その境界線は、どこか曖昧だった。
研究棟に戻ったのは、午前3時を過ぎていた。
静まり返った白い廊下を歩きながら、メリーはぽつりと呟いた。
「....あの駅、また現れるかな」
蓮子は答えなかった。 代わりに、端末を開き、今日の観測ログをチェックする。
地図上に、例の地点は表示されていない。
GPSもロガーも、まるで存在しなかったかのように、空白だった。
「ねえ、蓮子」
メリーが机にスケッチブックを置く。
開かれたページには、鉛筆で描かれた“駅”があった。
崩れかけた階段、ベンチ、時計の針。
細部まで記憶通りに描かれている。
「私たち、確かにあそこにいたよね」
「いたわ。でも、誰にも証明できない」
蓮子は手帳を開き、そこに一行だけ、静かに書き加えた。
――観測されたが、記録されなかったもの。
――その境界に、私たちは立ち会った。
翌日、ニュースにも記録にも、何ひとつ“異常”は報告されなかった。
鉄道会社の公式サイトには「運行に乱れはありません」とだけ書かれていた。
誰にも気づかれず、誰にも覚えられず、 きさらぎ駅は、また霧の中に沈んだ。
けれど――
ふたりは、確かに“見た”。
名前のない駅が、きさらぎと呼ばれる瞬間を。
誰にも呼ばれなかった場所が、“思い出”になる瞬間を。
だから今日も、秘封倶楽部は歩き出す。
記録には残らない“真実”を探すために。
なぜなら――幻想とは、忘れられたものが、 もう一度誰かに見つけてもらいたいと願うことなのだから。
衛星軌道からデータ通信を受け、地下には量子計算機が唸り、地上は生体認証と自動走行が当たり前になった。
その都市の最南端、かつての“山科”にあたるエリアに、蓮子とメリーはいた。
「また、データの欠損が出てるの」 研究棟の一室。投影装置に浮かぶ地下鉄X線の立体地図を見つめながら、蓮子が呟いた。 地図は正確だ。すべての経路が記録され、再現され、監視されている。
ただ一つ――“そこ”だけを除いて。
「ここ、本来なら駅があるはずなのに、公式記録には何も残っていないのよ」 彼女が指差したのは、A線の北東ルートに存在する微細な“沈み”だった。 測量データは揃っている。
だがその区間の途中、線路が不可解に間引かれ、ホームが存在するような“空間”だけが浮いている。
「気づいてる? 周辺の時刻表データだけ、異常に曖昧なの」 蓮子がページをめくる。デジタル端末の画面には過去十年分の運行ログが並ぶ。
が、ある日付、ある時間だけが、ぽっかりと欠けていた。
「....何かが、記録されることを拒んでいるような....」
メリーが小さく呟いた。
彼女は蓮子とは違い、理論ではなく“感覚”で空間を視ていた。
「空間が歪んでる。数値じゃなくて、存在の密度が変わってる気がする」
「面白いわよね。あるはずなのに“ない”とされてる。まるで....」
蓮子は言葉を区切ると、ゆっくりと笑った。
「まるで、“忘れられるために存在してる駅”みたいじゃない?」
その噂を蓮子が見つけたのは、地下の古書収蔵サーバだった。
廃止されたウェブサイトのアーカイブ。
個人ブログの断片。
半分壊れたテキスト。
どれも明確な情報ではない。
けれど、同じことが書かれていた。
――電車を乗り過ごした先に、見たことのない駅に降りた。
――案内板がない。
外に出ても、風景が存在しない。
――気がつくと、誰もいなくなっていた。
――きさらぎ駅、という声が聞こえた。
「“きさらぎ駅”――聞いたことある?」
蓮子が問うと、メリーは少しだけ考えて首を振った。
「でも、響きが不思議。暦の隙間みたい」
「“如月”。旧暦二月。冬と春の境界。....意味深でしょ?」
蓮子は端末を閉じ、メモを手帳に書き込んだ。
「存在しない記録。存在する空間。
ねえ、メリー。今夜、行ってみない?」
「....また、境界の上を歩くのね」 メリーの声はあきれたようで、どこか楽しそうだった。 蓮子は微笑む。
「私たちは秘封倶楽部。“封じられた秘密”があるなら、見に行かないとね」
*
第七学術区の深夜。 列車は、まだ“そこを通っている”。 だが、誰もその駅を利用することはない。
存在しているはずなのに、存在しないとされている空間。 そこに、ふたりの観測者が、今宵、足を踏み入れようとしていた。
――記録には残らない。
けれど確かに“在る”何かを探して。
夜の第七学術区は、人工光の粒子で満ちている。
昼間の喧騒を忘れた街は、むしろ日が沈んでからのほうが機能的だった。 光が落ちない通りはなく、監視カメラの目は瞬き続けていた。
蓮子とメリーは、無人運行の最終便に乗り込んだ。
A線。
かつての地下鉄東西線の名残。
今日では地図上から区画番号に置き換えられ、人々の記憶からも路線名は消えつつあった。
「データ上、この区間の移動ログは全便、時刻遅延が出ているのよ。しかも、毎年ほぼ同じ夜に」
蓮子は端末の画面を示しながら言った。
「日付は?」
「2月4日。旧暦で“如月”の入り」
メリーがわずかに眉を上げる。
「....立春。境界の日ね」
列車は静かに滑るように走っていた。
車内には彼女たちの他に誰もいない。 広告はすべてデジタル化され、景色を映すウィンドウのようにすら見える。
けれど、今夜の窓には“何も映っていなかった”。
「外が、白い....霧?」
メリーが呟く。
ガラスの向こう、黒いトンネルのはずが、まるで霧の海に沈んだような白さだった。
「この区間、本来なら直通....駅には止まらない」
蓮子がそう言った瞬間、列車はわずかに減速を始めた。
「....停車信号?」
「出てない。でも、列車が止まる」
ふたりは顔を見合わせる。 車内放送は沈黙したままだ。車掌もいない。
そして―― 列車は、誰も知らないホームに滑り込んだ。
プラットフォームには駅名票がなかった。
照明はほとんど機能しておらず、ただ壁の上部に一つだけ、青白い非常灯が点っていた。
“存在してはいけない場所”を、最小限だけ照らすように。
「降りる?」
蓮子が立ち上がる。 メリーは小さく頷いた。
「....何か、感じる」
ドアが開く。音はしない。
ふたりはホームに足を踏み出した。
空気が、違っていた。
静けさが、重い。
耳鳴りのような感覚がある。
「空間が、折れてる」
メリーの声は、どこか遠くから響いているようだった。
蓮子はホームの端に立ち、壁の向こうを眺めた。
壁ではない。 それは、“奥行きのない闇”だった。
「ここが、“0番線”――欠番ホーム」 彼女はそう記した。
ふと、メリーが身を寄せる。
「蓮子....そこに、誰かいる」
振り向くと、霧の向こう、線路の先。
闇の中に、傘をさした人影が立っていた。 深い紫の布、風のない空気の中で揺れる衣。
彼女は何も言わない。
ただそこに“在る”ことだけが、確かな気配を残していた。
その時、列車がドアを閉め、警告音もなく、音もなく走り去った。 ふたりは取り残される。
そして、霧の奥から、“誰かの声”が囁いた。
「....ようこそ、“きさらぎ駅”へ」
霧は、静かに深さを増していた。
ホームの端まで歩いても、その先は白く沈んで見えない。
周囲は地下にあるはずなのに、風が吹き抜ける音がした。
どこからともなく、鈴のような音が聞こえた気がした。
「蓮子....ここ、本当に“現実”?」
「観測のフレームには、確かに収まらないわね。でも――」
蓮子は足元のレールを見た。
「でも、これは“駅”よ。構造として、歴史として、誰かが使っていた痕跡がある」
プラットフォームの端に、壊れた掲示板があった。
近づくと、ガラスの破片が踏まれて音を立てた。
埃に覆われた案内板には、かろうじて時刻表の痕跡が残っている。
「この数字....平成末期の運行データ?」
「でも、こんな駅、当時の記録には一切載ってないよね」
メリーの声に、蓮子が小さく頷いた。
「つまり、“誰かにとって確かに存在した”けど、“忘れられた”ってこと」
その瞬間――
霧が、動いた。
白い壁のようだった視界が、静かに揺れる。 空間が紙のように“めくられ”、新たな層が現れる。 メリーの目が見開かれた。
「....境界が、開いてる」
現れたのは、”駅の過去”だった。
朝の光。 制服姿の学生たちが階段を駆け上がる。
スーツの男が新聞を読みながら列車を待っている。
ベンチには老夫婦が並んで座り、穏やかな会話を交わしている。
蓮子も息を呑んだ。
目の前にあるのは幻影ではない――それは、“誰かが確かに過ごした記憶”だった。
構造は同じ。レイアウトも一致している。
けれど、いまのこの駅には、その賑わいも、名前すらも残されていない。
「これ....」
メリーが、そっと言った。
「誰かの記憶じゃない。“駅自身”の記憶....」
蓮子は、それに続けた。
「駅という構造体が、誰にも見られなくなっても、自分の“存在”を忘れていなかった....ってこと?」
場面がまた、ひとつめくられる。
夕暮れの光が、ベンチの老人の顔を照らす。
老犬が足元で眠っている。
そして――老人は、ふと何かに気づいたように振り向いた。
視線の先に、蓮子とメリーがいる。
一瞬、三者の目が合った――ような気がした。
次の瞬間、風が反転する。
境界のめくれた層が、また閉じるように白に戻っていく。
音が止み、光が褪せ、空間が再び霧に沈む。
「....見られた、かも」
メリーがぽつりと言った。
「“彼”は、私たちを見た気がした」
「“駅”の記憶に、私たちが入り込んだ? それとも、“駅”が私たちを記録した?」
蓮子は、答えのない問いを手帳に記す。
ふたりの足元で、レールが小さく震えた。
風も音も戻り、すべてが“最初の静寂”に戻っていく。
そして、ひとつの声が響いた。 それは、どこか懐かしく、どこにも属さない響きだった。
「....ようこそ、“きさらぎ駅”へ」
振り返っても、誰もいない。
けれどその名前だけが、確かに空間に“刻まれた”感覚があった。
ふたりは、再び無人のホームに立っていた。
けれど、もはやここはただの“構造物”ではなかった。 誰にも認識されなかったはずの駅が、 “自らの記憶”によって、存在を確かに伝えようとしていた。
記録には残らない。
しかし、確かに“あった”。
メリーがそっと呟いた。
「幻想って、きっと....忘れられたことを、忘れたくない気持ちのことだね」
霧が、また動いた。
先ほどまで完全に沈黙していた空間に、わずかな“揺らぎ”が走る。
それは風ではなく、空気の構造そのものが一枚、裏返ったような感覚。 紙の端をめくるように、現実のページが裏返る――
そして、彼女は現れた。
紫の衣、洋傘、古風な佇まい。 列車から降りた、あのときの女。
彼女は何も言わず、ただホームの端に立ち、メリーと蓮子を見つめていた。
まるで、“ふたりが来ることを知っていた”かのように。
「....あなたが、この駅に名を与えたのね」
蓮子が、静かに問いかけた。
女は笑わなかった。
頷きもしなかった。 けれど、その存在が“肯定”の意味を持っているように感じられた。
「忘れられた駅。名前も、利用者も、歴史もなくした構造体。
それでも、まだ“ここにいたい”と思った」
メリーの声は、少し震えていた。
女は、ようやく口を開いた。
「....幻想とはね、“記録されなかった真実”のことなの」
声は柔らかく、けれどその意味は深く染み込んでいく。
「この駅は、確かに存在していた。 誰かに使われ、誰かに愛されていた。 でも、それだけでは“世界に残る理由”にはならない。 時代が変わり、路線が再編され、地図が書き換えられ…… 忘れられたのよ。誰のせいでもなく」
女は傘を軽く傾ける。
紫の布が、霧をはじいた。
「けれど――それでも、ここは“消えたくない”と思った。だって、ここには思い出があったから。人々が笑って、泣いて、恋をして、別れて……“名もなき日常”が、静かに積み重ねられていた」
蓮子は、手帳を開く手を止めていた。
記録に残せない。データに変換できない。
けれど、それでも“今、ここに在る”という感覚が、胸に満ちていた。
メリーが小さく言った。
「幻想になるって、消えることじゃないのね.... “誰かにもう一度、見つけてほしい”っていう、祈りのかたち....」
女は、それを聞いて、ほんのわずかに、目を細めた。
「あなたたちは、“見つけた”。 だからこの駅は、再び“姿を現した”の。 記録には残らないけれど、あなたたちの記憶には残る。 それで、十分なのよ」
霧が、再び動き出す。
彼女の輪郭が、空気と同化していくように溶けていく。
「ありがとう」
その声だけが、最後にはっきりと残った。
再び、静寂が訪れる。 構造は同じ。
だが、空間の“密度”が変わっていた。
蓮子は、ふと呟いた。
「この駅は……今も、誰かを待ってるのかもしれないね」
メリーが頷く。
「“忘れないで”って、言ってるような気がした」
時計は止まっていた。 時刻も路線名も、どこにも記されていなかった。 けれど――
ふたりの胸の中には、確かに“今、ここにいた”という感覚が刻まれていた。
それは、記録に残らない。
けれど、観測された。 それが、秘封倶楽部の役目だった。
列車は、静かに戻ってきた。
音もなく、灯りもなく、あの時と同じように、霧の中から現れた。
ふたりは無言で車両に乗り込む。
ドアが閉まり、ホームが遠ざかる。
もはや、そこがどこだったのか、地図に落とし込むことはできなかった。
「....何か、持ち帰れるものがあると思った?」
蓮子がふと口を開いた。
メリーは首を振る。
「証拠とか、写真とか、サンプルとか? 全然」
「でも、感じたでしょう」
「うん。忘れてしまったはずの、やさしさみたいなもの」
列車は無音で走り続ける。
気づけば、車内には乗客がぽつぽつと乗っていた。
皆、眠っている。夢の中のように、無防備に。
窓の外に、霧はもうない。
都市の灯りが戻り、整然とした構造体が並ぶ世界が広がっていた。
日常に帰ってきた、という実感。
けれど、その境界線は、どこか曖昧だった。
研究棟に戻ったのは、午前3時を過ぎていた。
静まり返った白い廊下を歩きながら、メリーはぽつりと呟いた。
「....あの駅、また現れるかな」
蓮子は答えなかった。 代わりに、端末を開き、今日の観測ログをチェックする。
地図上に、例の地点は表示されていない。
GPSもロガーも、まるで存在しなかったかのように、空白だった。
「ねえ、蓮子」
メリーが机にスケッチブックを置く。
開かれたページには、鉛筆で描かれた“駅”があった。
崩れかけた階段、ベンチ、時計の針。
細部まで記憶通りに描かれている。
「私たち、確かにあそこにいたよね」
「いたわ。でも、誰にも証明できない」
蓮子は手帳を開き、そこに一行だけ、静かに書き加えた。
――観測されたが、記録されなかったもの。
――その境界に、私たちは立ち会った。
翌日、ニュースにも記録にも、何ひとつ“異常”は報告されなかった。
鉄道会社の公式サイトには「運行に乱れはありません」とだけ書かれていた。
誰にも気づかれず、誰にも覚えられず、 きさらぎ駅は、また霧の中に沈んだ。
けれど――
ふたりは、確かに“見た”。
名前のない駅が、きさらぎと呼ばれる瞬間を。
誰にも呼ばれなかった場所が、“思い出”になる瞬間を。
だから今日も、秘封倶楽部は歩き出す。
記録には残らない“真実”を探すために。
なぜなら――幻想とは、忘れられたものが、 もう一度誰かに見つけてもらいたいと願うことなのだから。
中々面白かったです
あるはずのない場所ってワクワクしますね
駅の方が記録しているというのは斬新でした
無くなったものに思いをはせるのは、その対象が何であれ尊いものなのだと思います。
ご馳走様でした、面白かったです。