私が今感じているこの寂寥感はずっと昔からの焼き直しでしかない。結局の所、私は自分の根源とも言えるような劣等感を払拭出来てはいなかった。上手く付き合えてはいる。疲れてたり、気分が優れなかったりする時に思い出しては、ほんの少しだけ苦しくなるだけだから。普段はもう、本当に心から楽しく生きていけている。それでも、捨てられた過去への復讐の様なものが動機としてまず第一にあって、それが今の活力を形作っている訳でもあるから、どこまで行っても切れない感情ではあった。
今日はその例外とも言うべき日で、何となく辛い日だった。原因と呼べる様な明白な要素は無くて、多分ただ疲れていたんだとは思う。最近は仕事が立て込んでて、それ自体は有り難いことだけど、けれども一人で捌くには無理が必須である量ではあった。
漸く区切りをつけて帰る頃にはもう日が暮れかけていた。西日が妙に心地良くて、惹かれるようにしてふらふらと歩いた。里の中心から少し離れた所に出ると、川とも呼べない様な小さな流れがあった。私は如何にも此処に居るべきだという直感があって、それに従う事にした。座り込むと一日の疲れが噴き出してきて、ありきたりな表現だけれど、まさしく自分の身体が鉛の様に重く感じられた。
茜に光る夕焼けを見ていると、途端に全てが寂しく感じられた。自分が全くの空虚であり、無価値な何かである錯覚がそこにあった。いや、それはきっと錯覚ではなくて現実だった。だって私は捨てられて、誰にも拾われなかったのだから。
私は自立したかった。ただの道具ではなく、一つの何かしらの存在として。私はただの道具としての価値がなかった。だから他者に使われる事に依存する様なアイデンティティは捨て去るつもりだった。ベビーシッターも鍛冶屋もたまに近所の甘味屋の手伝いなんかもした。社会に属して、一人の「生きている」存在になりたかった。
自分でも充分やれていると思う。私はなりたかった存在になれていると思う。それでも、それでも私はずっと心の奥底の、本当に自分でも分からない様な所で、ずっと惨めだった時間を抱えている。燃えるみたいに綺麗な夕日とか夜風が気持ちいい日に見えるお月様とか、そういう景観は私の心を優しく包み込んでくれた。けれども反対に、心が苦しい時はその無遠慮な優しさが、余計に苦しみを助長させてくる。
涙が出そうな気がした。でも溢れる程でもなかった。苦しい時は何故だか涙が出なかった。もっと苦しくなったら出るのかもだけど、まあ何となくその程度の辛さではあるのかもしれなかった。
せせらぎに映っていた夕焼けはもうすぐ終わる。悲壮感に嘆く時間もそろそろ終わる。夜が始まれば、夕飯を作ってお風呂に入って寝る準備をする。苦しさを感じる暇なんてない。そうすればまた明日が始まる。明日が始まりさえすれば、今の鬱々とした気持ちなんて何処かに消えて、また楽しく生きられる。私の苦しさなんてこんなものだ。それでも本当の意味で忘れられる事は出来ないから、ずっと同じ虚無感を不定期に繰り返す事にはなるのだけれど。
「ありがとー、そろそろ新しい包丁欲しかったんですよねー」
鍛治の仕事も直近で頼まれていたものは全て片付いた。たった今早苗に渡したのがその最後の仕事で、ようやっと一息つくことが出来る。これからは多少なりとも仕事を断る事も視野に入れるべきかもしれない。とにかく今は休みたかった。
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃってさ。嬉しい事に結構繁盛してるのよ」
「里の中でも評判ですからね。妖怪の店が人気になって大丈夫なのかとも思うんですけど」
「別に良いじゃん。腕は良いんだし」
自慢だけど、本当に腕は良いと思う。上手くいかないのは驚かせるくらい。他の事は大抵器用にやれるのだけれど、こればかりは一向に上達を見せなかった。でも下手くそなままだからこそ、偶に成功した時の快感と美味しさが堪らなくもある。ただまあ、結局は賭け事みたいなものだから、一応本業ではあるのだけれど、最近では専ら副業の方で食っている。
早苗はそんな私の副業のお得意様でもあった。知り合った当初は私が何をしたってくらい痛めつけられてたけど、いつの日か鍛治の営業をかけてみたら、そのままよく仕事を頼んでくれるようになった。霊夢と違って品質確認に私を使う事もないし、仲良くなってみれば案外常識のある子でもあった。近所の甘味屋で手伝いをした時なんかは早苗が紹介してくれたからだったし、お互いの予定が合ったり、暇だったりした時には、一緒ご飯に行くくらいには良い関係を築けていた。
出来上がった包丁を早苗に渡した後、近くに腰掛けた途端に緊張が解けたような感覚があった。暫くの期間、ずっと気が張っていたのだろうなと思う。長いため息が意図せずに溢れていた。
「大丈夫?」
そのため息を聞いてか、早苗が心配そうな顔をして私に声を掛けた。どうにも私に疲れが見えるらしい。自覚はあるけれども、そんな他人に心配される程分かりやすく顔に出てるのが、なんだかむず痒さがあった。自分で言うのもなんだけど、自分の事を疲れ知らずだと思っていたし、周りにもそんな風には思われていなかったと思う。だからこそ、何というか今の状態が自分らしくないというかキャラじゃないというか。
まあ、今回の事で働き詰めになったら流石に疲れる事が分かったし、心配してくれた早苗に礼を言って笑ってみせる。
「大丈夫。ちょっと疲れてるけど仕事はこれで終わったし、明日は休む事にするよ」
「それが良いですよ。あ、でもね。明日の夕方に霊夢さんのとこで宴会あるんですって。良かったら一緒に遊びに行こーって思ってたんだけど、疲れてるなら無理しないでいいからね」
宴会かあ。博麗神社でやるとなると、みんな結構乗り気なせいで人数がかなり多くなる。絶対盛り上がるし、多分それを超えてもはや煩いまである。私はみんなでお喋りするのは結構好きだし、全然大丈夫ではあるのだけれど、それでも最近、宴会に行くのはご無沙汰だった。何だかんだ忙しくしてるのもあって、最近はお酒もあまり飲んでないし、久しぶりに良い気分転換になるかもしれなかった。夕方からという事もあるし、昼間はたっぷり寝て久しぶりの休みを楽しむのも良いんじゃないかなと思った。
「夕方からでしょ? それなら大丈夫だよ」
「ほんと? 嬉しいなー。小傘さんとは宴会の時にあんまり話した事なかったし、来るの楽しみですよ」
「早苗とご飯行く仲になってからはあんまし宴会とか行かなかったからね。久しぶりにいっぱい飲み食いしよーっと」
早苗は私が来るのを決めて嬉しそうな顔を見せて、じゃあまた明日と帰っていった。私が来るのを楽しみにしてくれるってのは、何だか照れ臭かった。私と居れる事に価値を感じてくれてると思うと嬉しかったし、そう思ってもらえるくらい仲良くなれて良かったと思う。
私も今日は早めに店仕舞いにして、帰路につく準備をした。早苗と話して少し元気は出たけれど、それでも疲れ自体は残っていた。ここまで疲れるなんて殆ど経験した事はない。それだけ自分が必要とされてるという点では良い事だけど、それでもこの疲労感が頭の中を蝕んでいる感覚がずっと続いている。
疲れていると、どういう訳か悪い方に物事を考えるようになる。今だって早苗は本当に包丁の出来具合に喜んでくれてるのか、早苗の事だから無いとは思うけれど、それでも一抹の不安を抱いている。でも、それを思うとあの子を疑っているようで申し訳ななくなるし、そんな風に考えてしまう自分の事が嫌になって、余計に嫌な方向に思考を巡らせてしまう感覚に陥っていた。
家路についている間、気分は昨日の様に鬱々としたものになっていた。折角早苗と話して嬉しかった筈なのに、何故だか明るい気持ちになれずにいる。
私は人に必要とされている今の時間が好きだった。でもよくよく考えてみれば、それは結局必要とされているから、道具としての価値を見出して貰ってるからじゃないのかなと思う。
自立した存在になりたかった。なれていると思った。社会に属してみればそうなれていると思っていた。でも結局、他人に使われる事に依存しているままなんじゃないかなと思う。だってみんな、やりたい事があってそれに向かって生きている。その為に働いたりしてるし、誰かに必要とされる事は喜びではあっても、生きる目的そのもの、自分自身そのものじゃない。でも私はそうじゃない。自分の為に生きていない。他人に必要とされる事をずっと求めていて、それの為に働いている。
私がやりたい事ってなんだろう。私が一人の「生きている」存在になる為には何をするべきなんだろう。
もうずっと、ただそれだけを考えながら家に帰った。今のままの自分で良いとは本当に思えなかった。この想いは、疲れとか気分が優れないとか、そういうのだけで出来るものじゃないのかもしれない。今まで見て見ぬふりをしていただけで、心の奥底ではずっと疑問に思って生きていたのかもしれない。そうやって隠し続けていたツケが、疲労というストレスを引き金に這い上がってきたのだと思う。
「どうしたら良いんだろうなあ」
一言、ぽつりと呟いてみた。変わらなくちゃいけない焦燥感とか昔から変われてない悲しさとかそういうのがごちゃ混ぜになって溢れた言葉だった。
言葉に出しても気持ちは晴れなくて、余計に辛さが増した。けれども、やっぱり涙は流れなかった。なんというか、涙が枯れてる訳ではなくて、流れ出るその直前で堰き止められている感覚をずっと覚えている。自分の目にダムでも建っているようなそんな感じ。いつかそのダムが決壊してくれないかなと思う。思いっきり泣けたら少しは気分が晴れる気もするから。
起きたら昼間だった。完全に寝過ぎていた。疲労はだいぶ取れているような気がした。けれども逆に寝過ぎたせいか頭が重くて、決して目覚めがいいとも言えなかった。有り合わせのものでお昼ご飯を作った。あんまり食べると夕方の宴会で思いっきり食べられなくなるから軽めにした。そもそも一食目はそんなに食欲がある訳でもないから丁度良いくらいではあった。
一昨日に続き昨日の最悪な気分も、今日になれば幾ばくかマシだった。たっぷりと睡眠を取れたからなのか、思考回路は割と正常に戻ったらしい。けれども、昨日気付いてしまった、自分は変わるべきだという想いは未だに消えていなかった。
お昼を食べた後は歯を磨いて外に出る準備を整えた。寝癖を直すのに苦労したけれど、そろそろ家を出なきゃいけない時間には何とか直しきる事が出来た。日が傾いてきた頃に家を出て、博麗神社に向かった。道中には私と同じ目的なんだろうなという妖怪が空を飛んでるのをちらほら見かけて、案の定結構な人数が集まりそうだなと思った。
博麗神社に着くと、もう既に結構賑わっていて、所々で料理が運ばれているのが見える。見知った顔も結構来ていて、なんか挨拶回りみたいな感じでみんなと喋ったりした。どうでもいいような世間話とかみんなの近況とかの話が殆どだったけれど、何人か私の副業が繁盛してる事を話題に上げてくれる人がいて、嬉しくはありつつも複雑な気持ちにもなった。
雑談もそこそこに境内を歩き回っていたら、色々と手伝いをしている早苗を見つけた。出来上がった料理を運んだり、作る手伝いをしたりと忙しそうにしている。やたら動いているから話しかけづらくて、声を掛ける隙を窺っていたら、向こうの方から私に気付いたみたいで話しかけてくれた。
「小傘さん、来てくれたんですね」
「うん、早苗が誘ってくれたからね。それにしても宴会の準備の手伝いしてるみたいだけど大丈夫? 私も手伝おうか?」
「大丈夫と言いたいんですけど、ちょっと忙しいかも。悪いんだけど手伝ってくれると嬉しいな」
「合点承知!」
早苗に頼まれて、準備の手伝いに参戦する事にした。霊夢にあれこれ指示を仰いだり、早苗と一緒に料理して、出来たものを運んだり、大量の洗い物(出来るものからやらないと宴会後が怖いらしい)をしたりと結構働いた。昨日まで散々働いたのにまた動く羽目になるとは、しかも無給だし。それでも、早苗に頼られたのは嬉しかった。私自身も結局人の役に立ってる事が実感出来る事に満足を得ていた。しかし、それは昨日まで苦悩し、どうにかしなければならないと踠き続けていた想いを否定する事でもあった。私って結局どっちつかずで中途半端だなあと思いながら働いていたけれど、身体を動かしている間は集中しているおかげもあってか嫌な方向に考えてしまっても、然程悪化をする事はなかったし、それどころか早苗と話しながら準備に勤しむのは、存外に楽しく感じられた。
宴会が始まると、みんなそれを待っていた様にこぞって大騒ぎし始めた。お酒が入るとみんな声が大きくなる。用意された料理も美味しいものばかりだし、幸福感が体を支配していく。そうしてまたアルコールを口にする工程を繰り返すと一層頭が痺れて気持ち良くなる。
今まで何を考えていたんだろうかと忘れてる程度に私の意識はあやふやになっていった。悩みも苦しみも全部ぶっ飛んでしまうくらいに今は楽しかった。こうやって何も考えずに思いっきり遊べると、行くまでは準備めんどくさいなとか思ったり、やっぱ休もうかなとか思ったりしていても、結局来て正解だったなっていう典型的な結論に至る。だから、誘ってくれた早苗には感謝しないといけないなって思った。
もう随分と場が温まってきたなと思う。お酒が弱い人達はちらほらと潰れているし、そうじゃない並以上の人達は興が乗ってきたみたいで、どうでもいいどころかそんな聞きたくない様な話をしては下品に笑ってたり、罵詈雑言を空に向かって叫んでたり、荒れに荒れる混沌を極め始めていた。そういう人が一部だけで、別に全員が酒に飲まれている訳じゃないのは分かるけど、こうも人数が多いとその一部の数も多くなるし、釣られる人も増える訳だから、結果としてこの場が酷いものだと呼ぶには充分だなと思った。
気付いたら早苗が居なくなっていた。さっきまで近くに居たはずなのに、でもなんか、あんまりお酒とか飲んでない感じだった。酒飲みに支配されて壊れ始めてきたこの会場に嫌気が刺したのだろうか。私は早苗と一緒に飲みたかったし、どうしてるかちょっと心配になったから、周りの人に断りを入れて早苗を探しに行く事にした。
そうやって早苗を探し始めたら、割とすぐ見つかった。神社の中の、宴会場に面していない縁側で一人しっぽり飲んでいた。
「早苗」
その姿が少しだけ寂しそうに見えたから、思わず声を掛けた。普段ならそっとしてあげようかなとかいう理性が働いていた筈だったけれど、そんな理性はお酒のせいで働きたくても働けなかったらしい。言葉になってから、そんな自分の無遠慮さに気付いて少し後悔した。
「あ、小傘さんも酔い覚ましですか?」
私に気付いた早苗が振り返って話しかけきた。さっきまでの寂しさはなくなっていて、純粋に嬉しそうな顔だった。
「ううん、早苗の事を探してたの」
「わざわざごめんね。私下戸だから、すぐ気持ち悪くなっちゃうの」
「え、そうなんだ」
結構飲めそうとか勝手に思ってたばかりに意外に感じた。通りであんまり飲んでいない筈だ。私は早苗の事をまだまだ知らなくて、けれど、今日また一つこの子の事を知れたから、それについては良かったなとも思った。
「本当はみんなと飲みたいんだけどね。ああやって楽しそうな場にちゃんと混ざれていない気がして、少し寂しいんです。だから小傘さんみたいに普通にお酒飲める人が羨ましいなって」
「そうなの?」
「だって、みんなお酒飲むとすごい楽しそうじゃないですか。ずるいですよ、私だってああいう風になりたかった。みんなと同じ楽しさを共有したかったんですよ」
早苗は自分が下戸である事を、何処か遠くを見ながら語りだした。早苗は早苗なりに自分の事でままならない何かがあるらしかった。私が来た時にただ嬉しそうにしてたのも、そういう仲間に入りきれていない寂しさを、私が少しでも埋める事が出来たからなのかもしれなかった。
早苗なりの苦悩を聞いて、私はそれに自分を投影してしまった。自分はこうでありたかったという想いは、今の私の苦しみと、そっくりそのままという訳ではないのだろうけれど、共感出来る程度に似たものであった。それが私にとってこれ以上ないくらいの刺激として働いていた。早苗の持つ苦しみが、まるで自分の事のように感じたし、それが余計に本来抱いている自分の苦しみを増長させていた。
感情のブレーキが徐々に壊れていく実感があった。痺れた頭が、溜まりに溜まった涙のダムを決壊させようとしていた。こういう、根本に関わる悩みなんて、他人にとっては重過ぎるって分かっている。早苗にとって下戸な事は悩みではあっても、私ほど自身に付き纏ってくる様な重さじゃないかもしれない。それでも、もう何も考えられなくなった頭と、心地よい夜風が、無責任な優しさで私を包んでくるから、私は溢れてきた言葉に身を委ねるしか出来なかった。
「……私だって早苗の事を羨ましいと思うことあるよ。だって早苗のとこの神様は何があっても早苗の事を捨てないって分かるもん」
言ってしまったと思うと同時に、完全に歯止めが効かなくなったなと確信した。早苗が私の言葉に少し意外そうな顔をして、その後すぐ真剣に聞いてくれる様な顔になって私をじっと見つめた。
「私、捨てられて、それからずっと誰にも必要とされなかったこと、未だに忘れられない。普段は気に留めないでいられるけど、でも最近はずっと考えちゃってて」
「小傘さん……」
ダムはもう決壊していた。涙が少しずつ出始めて、それから大粒になって服を濡らし始めた。心地良かった、溜め込んでいた何かしらを吐き出している今の時間が。どうしようもなく楽になれているという実感が確かにあった。
早苗には悪いと思う。急にこういう事言われて、仲良くなれているつもりではあるけど、普通に引くんじゃないかなと思う。独りよがりの愚痴に付き合わされて、うんざりするかもしれない。それでも私は止まらなかった。静かに、けれど、とめどなく流れる涙が私の理性を全部持っていってしまっていた。
「誰かに必要とされたかった! けれど道具の時はそれが無理だったの。だから自立したかった。けど、結局今やってる事は人に必要とされる事だけで、私が私の為だけに何がしたいかとか何も無い。結局道具のままでしかない自分がもう嫌だったんだ」
要領を得ない自己開示だったけれど、私が現時点で言葉に出来るのはこのくらいだった。思い切り泣いて、心が軽くなった気がした。けれど次に考えるのは早苗の顔色を伺う事で、私はこの子に嫌われたくなかった。決して私の主人になった訳じゃないけれど、擬似的に捨てられた気持ちを思い出してしまいそうで、勢いに任せて喚いた事を激しく後悔したくなった。
けれど、早苗はそんな私の話をちゃんと聞いていてくれていた。少しも嫌だと感じている様子は無かった。
「ごめん、変な話して。忘れてね、ちょっと飲み過ぎただけだから」
「確かに飲み過ぎだとは思いますけど、でも忘れないですよ。友達の悩みなんだから」
「え?」
「だって悩みを話してくれるくらいは信頼してくれてるって事でしょ? 嬉しいですよ、そうやって話してくれて」
早苗は手元に残っていたお酒を勢い良く口に含んだ。飲めないなりに私の状態に合わせようとしているのか、それとも、こうも真剣な話を素面で話すのが恥ずかしく感じたのかもしれなかった。
「私は色々なものを外の世界に置いてきた人間だから。捨てた側の人間なんかとは小傘さんは話したくないかもしれないけど、私は小傘さんと友達になれて楽しかった」
話したくないなんて事ないよ。私だって早苗と話してる間は楽しかったさ。人の役に立つ事しか考えてなかったけれど、一緒に普通の人間がやっているような遊びが出来て楽しかったんだ。
「だからさっきの話を聞いて、貴方の人生に関わらせてくれるのが嬉しかったんです。こんな私が小傘さんに言うべきじゃないのは分かってるけど、私はうちの神様の為に色んなものを捨てなきゃいけなかった。自分で決めた事だから後悔はしてないよ。でもね、友達と離れるのは辛かった。だから、小傘さんと遊びに行く時は、またあの時の、友達と一緒にいる時間が戻ってきたみたいで楽しかった」
友達、私にはその存在を本当の意味で理解する事は出来ていなかった。私は道具だったから、こうやってお化けになっても人に使われる事ばかりを考えている。私は道具として、人間は道具の所有者として、その関係しか知らなかった。対等ではなかったのかもしれない。それ自体が嫌じゃなかった。けれど、今の私は一人の「生きている」何かになりたかった。それはさ、誰かと対等な関係を築ける事で初めてなれるんじゃないのかな。何となくだけどそう思った。
誰かと、みんなと対等となって初めて自立出来る、そんな気がする。だって私のなりたかった存在は、早苗みたいな、普通の人間だったし、この子が私を友達と呼ぶのだから、それはきっと正しいのかもしれない。
「……私、早苗の事友達って言っていい? 仲良くなれたとは思ってたけど、本当にそんな対等でいて良いのかな」
「いいんだよ。というか、呼んでよ。私、友達としか甘味屋さんに行かないんだからね」
宴会が終わる頃、私は散々泣いてたし、早苗も貰い泣きし始めたし、縁側で煩くしすぎて霊夢に怒られた。私は早苗に言われた通りに飲み過ぎていたし、早苗も確実に潰れていた。朝、縁側で雑魚寝していた私達は、頭痛と吐き気に見舞われながら、飲み過ぎた事をひたすらに後悔していた。記憶はもう後半部分からは殆ど飛んでいた。早苗を友達と呼ぶって決まった所から、もう殆ど覚えていない。
けれども、また一緒に甘味屋でお菓子を食べようって約束だけは、絶対に覚えていた。多分それは早苗も一緒で、お互いの家路につく時、私達はまた一緒に遊ぼうねと、ただそれだけの言葉を交わして別れる事にした。
体調は最悪だったが、気分は晴れ晴れとしていた。何か自分を縛っていたものが解けていく感覚だった。これで今すぐなりたかった存在に完璧になれたとは思っていない。けれど、少なくともその一歩は、早苗のおかげで踏み出せたかなと思っている。早苗と、みんなと友達になる事。それが今の私のやりたい事として、なりたい自分になる為に頑張っていこうって思った。
今日はその例外とも言うべき日で、何となく辛い日だった。原因と呼べる様な明白な要素は無くて、多分ただ疲れていたんだとは思う。最近は仕事が立て込んでて、それ自体は有り難いことだけど、けれども一人で捌くには無理が必須である量ではあった。
漸く区切りをつけて帰る頃にはもう日が暮れかけていた。西日が妙に心地良くて、惹かれるようにしてふらふらと歩いた。里の中心から少し離れた所に出ると、川とも呼べない様な小さな流れがあった。私は如何にも此処に居るべきだという直感があって、それに従う事にした。座り込むと一日の疲れが噴き出してきて、ありきたりな表現だけれど、まさしく自分の身体が鉛の様に重く感じられた。
茜に光る夕焼けを見ていると、途端に全てが寂しく感じられた。自分が全くの空虚であり、無価値な何かである錯覚がそこにあった。いや、それはきっと錯覚ではなくて現実だった。だって私は捨てられて、誰にも拾われなかったのだから。
私は自立したかった。ただの道具ではなく、一つの何かしらの存在として。私はただの道具としての価値がなかった。だから他者に使われる事に依存する様なアイデンティティは捨て去るつもりだった。ベビーシッターも鍛冶屋もたまに近所の甘味屋の手伝いなんかもした。社会に属して、一人の「生きている」存在になりたかった。
自分でも充分やれていると思う。私はなりたかった存在になれていると思う。それでも、それでも私はずっと心の奥底の、本当に自分でも分からない様な所で、ずっと惨めだった時間を抱えている。燃えるみたいに綺麗な夕日とか夜風が気持ちいい日に見えるお月様とか、そういう景観は私の心を優しく包み込んでくれた。けれども反対に、心が苦しい時はその無遠慮な優しさが、余計に苦しみを助長させてくる。
涙が出そうな気がした。でも溢れる程でもなかった。苦しい時は何故だか涙が出なかった。もっと苦しくなったら出るのかもだけど、まあ何となくその程度の辛さではあるのかもしれなかった。
せせらぎに映っていた夕焼けはもうすぐ終わる。悲壮感に嘆く時間もそろそろ終わる。夜が始まれば、夕飯を作ってお風呂に入って寝る準備をする。苦しさを感じる暇なんてない。そうすればまた明日が始まる。明日が始まりさえすれば、今の鬱々とした気持ちなんて何処かに消えて、また楽しく生きられる。私の苦しさなんてこんなものだ。それでも本当の意味で忘れられる事は出来ないから、ずっと同じ虚無感を不定期に繰り返す事にはなるのだけれど。
「ありがとー、そろそろ新しい包丁欲しかったんですよねー」
鍛治の仕事も直近で頼まれていたものは全て片付いた。たった今早苗に渡したのがその最後の仕事で、ようやっと一息つくことが出来る。これからは多少なりとも仕事を断る事も視野に入れるべきかもしれない。とにかく今は休みたかった。
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃってさ。嬉しい事に結構繁盛してるのよ」
「里の中でも評判ですからね。妖怪の店が人気になって大丈夫なのかとも思うんですけど」
「別に良いじゃん。腕は良いんだし」
自慢だけど、本当に腕は良いと思う。上手くいかないのは驚かせるくらい。他の事は大抵器用にやれるのだけれど、こればかりは一向に上達を見せなかった。でも下手くそなままだからこそ、偶に成功した時の快感と美味しさが堪らなくもある。ただまあ、結局は賭け事みたいなものだから、一応本業ではあるのだけれど、最近では専ら副業の方で食っている。
早苗はそんな私の副業のお得意様でもあった。知り合った当初は私が何をしたってくらい痛めつけられてたけど、いつの日か鍛治の営業をかけてみたら、そのままよく仕事を頼んでくれるようになった。霊夢と違って品質確認に私を使う事もないし、仲良くなってみれば案外常識のある子でもあった。近所の甘味屋で手伝いをした時なんかは早苗が紹介してくれたからだったし、お互いの予定が合ったり、暇だったりした時には、一緒ご飯に行くくらいには良い関係を築けていた。
出来上がった包丁を早苗に渡した後、近くに腰掛けた途端に緊張が解けたような感覚があった。暫くの期間、ずっと気が張っていたのだろうなと思う。長いため息が意図せずに溢れていた。
「大丈夫?」
そのため息を聞いてか、早苗が心配そうな顔をして私に声を掛けた。どうにも私に疲れが見えるらしい。自覚はあるけれども、そんな他人に心配される程分かりやすく顔に出てるのが、なんだかむず痒さがあった。自分で言うのもなんだけど、自分の事を疲れ知らずだと思っていたし、周りにもそんな風には思われていなかったと思う。だからこそ、何というか今の状態が自分らしくないというかキャラじゃないというか。
まあ、今回の事で働き詰めになったら流石に疲れる事が分かったし、心配してくれた早苗に礼を言って笑ってみせる。
「大丈夫。ちょっと疲れてるけど仕事はこれで終わったし、明日は休む事にするよ」
「それが良いですよ。あ、でもね。明日の夕方に霊夢さんのとこで宴会あるんですって。良かったら一緒に遊びに行こーって思ってたんだけど、疲れてるなら無理しないでいいからね」
宴会かあ。博麗神社でやるとなると、みんな結構乗り気なせいで人数がかなり多くなる。絶対盛り上がるし、多分それを超えてもはや煩いまである。私はみんなでお喋りするのは結構好きだし、全然大丈夫ではあるのだけれど、それでも最近、宴会に行くのはご無沙汰だった。何だかんだ忙しくしてるのもあって、最近はお酒もあまり飲んでないし、久しぶりに良い気分転換になるかもしれなかった。夕方からという事もあるし、昼間はたっぷり寝て久しぶりの休みを楽しむのも良いんじゃないかなと思った。
「夕方からでしょ? それなら大丈夫だよ」
「ほんと? 嬉しいなー。小傘さんとは宴会の時にあんまり話した事なかったし、来るの楽しみですよ」
「早苗とご飯行く仲になってからはあんまし宴会とか行かなかったからね。久しぶりにいっぱい飲み食いしよーっと」
早苗は私が来るのを決めて嬉しそうな顔を見せて、じゃあまた明日と帰っていった。私が来るのを楽しみにしてくれるってのは、何だか照れ臭かった。私と居れる事に価値を感じてくれてると思うと嬉しかったし、そう思ってもらえるくらい仲良くなれて良かったと思う。
私も今日は早めに店仕舞いにして、帰路につく準備をした。早苗と話して少し元気は出たけれど、それでも疲れ自体は残っていた。ここまで疲れるなんて殆ど経験した事はない。それだけ自分が必要とされてるという点では良い事だけど、それでもこの疲労感が頭の中を蝕んでいる感覚がずっと続いている。
疲れていると、どういう訳か悪い方に物事を考えるようになる。今だって早苗は本当に包丁の出来具合に喜んでくれてるのか、早苗の事だから無いとは思うけれど、それでも一抹の不安を抱いている。でも、それを思うとあの子を疑っているようで申し訳ななくなるし、そんな風に考えてしまう自分の事が嫌になって、余計に嫌な方向に思考を巡らせてしまう感覚に陥っていた。
家路についている間、気分は昨日の様に鬱々としたものになっていた。折角早苗と話して嬉しかった筈なのに、何故だか明るい気持ちになれずにいる。
私は人に必要とされている今の時間が好きだった。でもよくよく考えてみれば、それは結局必要とされているから、道具としての価値を見出して貰ってるからじゃないのかなと思う。
自立した存在になりたかった。なれていると思った。社会に属してみればそうなれていると思っていた。でも結局、他人に使われる事に依存しているままなんじゃないかなと思う。だってみんな、やりたい事があってそれに向かって生きている。その為に働いたりしてるし、誰かに必要とされる事は喜びではあっても、生きる目的そのもの、自分自身そのものじゃない。でも私はそうじゃない。自分の為に生きていない。他人に必要とされる事をずっと求めていて、それの為に働いている。
私がやりたい事ってなんだろう。私が一人の「生きている」存在になる為には何をするべきなんだろう。
もうずっと、ただそれだけを考えながら家に帰った。今のままの自分で良いとは本当に思えなかった。この想いは、疲れとか気分が優れないとか、そういうのだけで出来るものじゃないのかもしれない。今まで見て見ぬふりをしていただけで、心の奥底ではずっと疑問に思って生きていたのかもしれない。そうやって隠し続けていたツケが、疲労というストレスを引き金に這い上がってきたのだと思う。
「どうしたら良いんだろうなあ」
一言、ぽつりと呟いてみた。変わらなくちゃいけない焦燥感とか昔から変われてない悲しさとかそういうのがごちゃ混ぜになって溢れた言葉だった。
言葉に出しても気持ちは晴れなくて、余計に辛さが増した。けれども、やっぱり涙は流れなかった。なんというか、涙が枯れてる訳ではなくて、流れ出るその直前で堰き止められている感覚をずっと覚えている。自分の目にダムでも建っているようなそんな感じ。いつかそのダムが決壊してくれないかなと思う。思いっきり泣けたら少しは気分が晴れる気もするから。
起きたら昼間だった。完全に寝過ぎていた。疲労はだいぶ取れているような気がした。けれども逆に寝過ぎたせいか頭が重くて、決して目覚めがいいとも言えなかった。有り合わせのものでお昼ご飯を作った。あんまり食べると夕方の宴会で思いっきり食べられなくなるから軽めにした。そもそも一食目はそんなに食欲がある訳でもないから丁度良いくらいではあった。
一昨日に続き昨日の最悪な気分も、今日になれば幾ばくかマシだった。たっぷりと睡眠を取れたからなのか、思考回路は割と正常に戻ったらしい。けれども、昨日気付いてしまった、自分は変わるべきだという想いは未だに消えていなかった。
お昼を食べた後は歯を磨いて外に出る準備を整えた。寝癖を直すのに苦労したけれど、そろそろ家を出なきゃいけない時間には何とか直しきる事が出来た。日が傾いてきた頃に家を出て、博麗神社に向かった。道中には私と同じ目的なんだろうなという妖怪が空を飛んでるのをちらほら見かけて、案の定結構な人数が集まりそうだなと思った。
博麗神社に着くと、もう既に結構賑わっていて、所々で料理が運ばれているのが見える。見知った顔も結構来ていて、なんか挨拶回りみたいな感じでみんなと喋ったりした。どうでもいいような世間話とかみんなの近況とかの話が殆どだったけれど、何人か私の副業が繁盛してる事を話題に上げてくれる人がいて、嬉しくはありつつも複雑な気持ちにもなった。
雑談もそこそこに境内を歩き回っていたら、色々と手伝いをしている早苗を見つけた。出来上がった料理を運んだり、作る手伝いをしたりと忙しそうにしている。やたら動いているから話しかけづらくて、声を掛ける隙を窺っていたら、向こうの方から私に気付いたみたいで話しかけてくれた。
「小傘さん、来てくれたんですね」
「うん、早苗が誘ってくれたからね。それにしても宴会の準備の手伝いしてるみたいだけど大丈夫? 私も手伝おうか?」
「大丈夫と言いたいんですけど、ちょっと忙しいかも。悪いんだけど手伝ってくれると嬉しいな」
「合点承知!」
早苗に頼まれて、準備の手伝いに参戦する事にした。霊夢にあれこれ指示を仰いだり、早苗と一緒に料理して、出来たものを運んだり、大量の洗い物(出来るものからやらないと宴会後が怖いらしい)をしたりと結構働いた。昨日まで散々働いたのにまた動く羽目になるとは、しかも無給だし。それでも、早苗に頼られたのは嬉しかった。私自身も結局人の役に立ってる事が実感出来る事に満足を得ていた。しかし、それは昨日まで苦悩し、どうにかしなければならないと踠き続けていた想いを否定する事でもあった。私って結局どっちつかずで中途半端だなあと思いながら働いていたけれど、身体を動かしている間は集中しているおかげもあってか嫌な方向に考えてしまっても、然程悪化をする事はなかったし、それどころか早苗と話しながら準備に勤しむのは、存外に楽しく感じられた。
宴会が始まると、みんなそれを待っていた様にこぞって大騒ぎし始めた。お酒が入るとみんな声が大きくなる。用意された料理も美味しいものばかりだし、幸福感が体を支配していく。そうしてまたアルコールを口にする工程を繰り返すと一層頭が痺れて気持ち良くなる。
今まで何を考えていたんだろうかと忘れてる程度に私の意識はあやふやになっていった。悩みも苦しみも全部ぶっ飛んでしまうくらいに今は楽しかった。こうやって何も考えずに思いっきり遊べると、行くまでは準備めんどくさいなとか思ったり、やっぱ休もうかなとか思ったりしていても、結局来て正解だったなっていう典型的な結論に至る。だから、誘ってくれた早苗には感謝しないといけないなって思った。
もう随分と場が温まってきたなと思う。お酒が弱い人達はちらほらと潰れているし、そうじゃない並以上の人達は興が乗ってきたみたいで、どうでもいいどころかそんな聞きたくない様な話をしては下品に笑ってたり、罵詈雑言を空に向かって叫んでたり、荒れに荒れる混沌を極め始めていた。そういう人が一部だけで、別に全員が酒に飲まれている訳じゃないのは分かるけど、こうも人数が多いとその一部の数も多くなるし、釣られる人も増える訳だから、結果としてこの場が酷いものだと呼ぶには充分だなと思った。
気付いたら早苗が居なくなっていた。さっきまで近くに居たはずなのに、でもなんか、あんまりお酒とか飲んでない感じだった。酒飲みに支配されて壊れ始めてきたこの会場に嫌気が刺したのだろうか。私は早苗と一緒に飲みたかったし、どうしてるかちょっと心配になったから、周りの人に断りを入れて早苗を探しに行く事にした。
そうやって早苗を探し始めたら、割とすぐ見つかった。神社の中の、宴会場に面していない縁側で一人しっぽり飲んでいた。
「早苗」
その姿が少しだけ寂しそうに見えたから、思わず声を掛けた。普段ならそっとしてあげようかなとかいう理性が働いていた筈だったけれど、そんな理性はお酒のせいで働きたくても働けなかったらしい。言葉になってから、そんな自分の無遠慮さに気付いて少し後悔した。
「あ、小傘さんも酔い覚ましですか?」
私に気付いた早苗が振り返って話しかけきた。さっきまでの寂しさはなくなっていて、純粋に嬉しそうな顔だった。
「ううん、早苗の事を探してたの」
「わざわざごめんね。私下戸だから、すぐ気持ち悪くなっちゃうの」
「え、そうなんだ」
結構飲めそうとか勝手に思ってたばかりに意外に感じた。通りであんまり飲んでいない筈だ。私は早苗の事をまだまだ知らなくて、けれど、今日また一つこの子の事を知れたから、それについては良かったなとも思った。
「本当はみんなと飲みたいんだけどね。ああやって楽しそうな場にちゃんと混ざれていない気がして、少し寂しいんです。だから小傘さんみたいに普通にお酒飲める人が羨ましいなって」
「そうなの?」
「だって、みんなお酒飲むとすごい楽しそうじゃないですか。ずるいですよ、私だってああいう風になりたかった。みんなと同じ楽しさを共有したかったんですよ」
早苗は自分が下戸である事を、何処か遠くを見ながら語りだした。早苗は早苗なりに自分の事でままならない何かがあるらしかった。私が来た時にただ嬉しそうにしてたのも、そういう仲間に入りきれていない寂しさを、私が少しでも埋める事が出来たからなのかもしれなかった。
早苗なりの苦悩を聞いて、私はそれに自分を投影してしまった。自分はこうでありたかったという想いは、今の私の苦しみと、そっくりそのままという訳ではないのだろうけれど、共感出来る程度に似たものであった。それが私にとってこれ以上ないくらいの刺激として働いていた。早苗の持つ苦しみが、まるで自分の事のように感じたし、それが余計に本来抱いている自分の苦しみを増長させていた。
感情のブレーキが徐々に壊れていく実感があった。痺れた頭が、溜まりに溜まった涙のダムを決壊させようとしていた。こういう、根本に関わる悩みなんて、他人にとっては重過ぎるって分かっている。早苗にとって下戸な事は悩みではあっても、私ほど自身に付き纏ってくる様な重さじゃないかもしれない。それでも、もう何も考えられなくなった頭と、心地よい夜風が、無責任な優しさで私を包んでくるから、私は溢れてきた言葉に身を委ねるしか出来なかった。
「……私だって早苗の事を羨ましいと思うことあるよ。だって早苗のとこの神様は何があっても早苗の事を捨てないって分かるもん」
言ってしまったと思うと同時に、完全に歯止めが効かなくなったなと確信した。早苗が私の言葉に少し意外そうな顔をして、その後すぐ真剣に聞いてくれる様な顔になって私をじっと見つめた。
「私、捨てられて、それからずっと誰にも必要とされなかったこと、未だに忘れられない。普段は気に留めないでいられるけど、でも最近はずっと考えちゃってて」
「小傘さん……」
ダムはもう決壊していた。涙が少しずつ出始めて、それから大粒になって服を濡らし始めた。心地良かった、溜め込んでいた何かしらを吐き出している今の時間が。どうしようもなく楽になれているという実感が確かにあった。
早苗には悪いと思う。急にこういう事言われて、仲良くなれているつもりではあるけど、普通に引くんじゃないかなと思う。独りよがりの愚痴に付き合わされて、うんざりするかもしれない。それでも私は止まらなかった。静かに、けれど、とめどなく流れる涙が私の理性を全部持っていってしまっていた。
「誰かに必要とされたかった! けれど道具の時はそれが無理だったの。だから自立したかった。けど、結局今やってる事は人に必要とされる事だけで、私が私の為だけに何がしたいかとか何も無い。結局道具のままでしかない自分がもう嫌だったんだ」
要領を得ない自己開示だったけれど、私が現時点で言葉に出来るのはこのくらいだった。思い切り泣いて、心が軽くなった気がした。けれど次に考えるのは早苗の顔色を伺う事で、私はこの子に嫌われたくなかった。決して私の主人になった訳じゃないけれど、擬似的に捨てられた気持ちを思い出してしまいそうで、勢いに任せて喚いた事を激しく後悔したくなった。
けれど、早苗はそんな私の話をちゃんと聞いていてくれていた。少しも嫌だと感じている様子は無かった。
「ごめん、変な話して。忘れてね、ちょっと飲み過ぎただけだから」
「確かに飲み過ぎだとは思いますけど、でも忘れないですよ。友達の悩みなんだから」
「え?」
「だって悩みを話してくれるくらいは信頼してくれてるって事でしょ? 嬉しいですよ、そうやって話してくれて」
早苗は手元に残っていたお酒を勢い良く口に含んだ。飲めないなりに私の状態に合わせようとしているのか、それとも、こうも真剣な話を素面で話すのが恥ずかしく感じたのかもしれなかった。
「私は色々なものを外の世界に置いてきた人間だから。捨てた側の人間なんかとは小傘さんは話したくないかもしれないけど、私は小傘さんと友達になれて楽しかった」
話したくないなんて事ないよ。私だって早苗と話してる間は楽しかったさ。人の役に立つ事しか考えてなかったけれど、一緒に普通の人間がやっているような遊びが出来て楽しかったんだ。
「だからさっきの話を聞いて、貴方の人生に関わらせてくれるのが嬉しかったんです。こんな私が小傘さんに言うべきじゃないのは分かってるけど、私はうちの神様の為に色んなものを捨てなきゃいけなかった。自分で決めた事だから後悔はしてないよ。でもね、友達と離れるのは辛かった。だから、小傘さんと遊びに行く時は、またあの時の、友達と一緒にいる時間が戻ってきたみたいで楽しかった」
友達、私にはその存在を本当の意味で理解する事は出来ていなかった。私は道具だったから、こうやってお化けになっても人に使われる事ばかりを考えている。私は道具として、人間は道具の所有者として、その関係しか知らなかった。対等ではなかったのかもしれない。それ自体が嫌じゃなかった。けれど、今の私は一人の「生きている」何かになりたかった。それはさ、誰かと対等な関係を築ける事で初めてなれるんじゃないのかな。何となくだけどそう思った。
誰かと、みんなと対等となって初めて自立出来る、そんな気がする。だって私のなりたかった存在は、早苗みたいな、普通の人間だったし、この子が私を友達と呼ぶのだから、それはきっと正しいのかもしれない。
「……私、早苗の事友達って言っていい? 仲良くなれたとは思ってたけど、本当にそんな対等でいて良いのかな」
「いいんだよ。というか、呼んでよ。私、友達としか甘味屋さんに行かないんだからね」
宴会が終わる頃、私は散々泣いてたし、早苗も貰い泣きし始めたし、縁側で煩くしすぎて霊夢に怒られた。私は早苗に言われた通りに飲み過ぎていたし、早苗も確実に潰れていた。朝、縁側で雑魚寝していた私達は、頭痛と吐き気に見舞われながら、飲み過ぎた事をひたすらに後悔していた。記憶はもう後半部分からは殆ど飛んでいた。早苗を友達と呼ぶって決まった所から、もう殆ど覚えていない。
けれども、また一緒に甘味屋でお菓子を食べようって約束だけは、絶対に覚えていた。多分それは早苗も一緒で、お互いの家路につく時、私達はまた一緒に遊ぼうねと、ただそれだけの言葉を交わして別れる事にした。
体調は最悪だったが、気分は晴れ晴れとしていた。何か自分を縛っていたものが解けていく感覚だった。これで今すぐなりたかった存在に完璧になれたとは思っていない。けれど、少なくともその一歩は、早苗のおかげで踏み出せたかなと思っている。早苗と、みんなと友達になる事。それが今の私のやりたい事として、なりたい自分になる為に頑張っていこうって思った。
必要とされたいもそれが叶わないから自立するも決して間違ってるとは思わないけど、少しアイデンティティを他者に委ねすぎていて、その回答として対等の友人関係というのは、そういうもんか?と思った反面、意外となんかすんなり納得がいった不思議な感覚でした。
疲れてると悪い方向に考えちゃう、ってだけではないけどまあそういう側面もあるよねって。どしたん?話きこか?
本心を吐露することで二人の関係が一つ進んだ、素敵なお話でした。
ご馳走様でした、面白かったです。
なんだかんだ仲いい二人がよかったです
小傘も生きている何かになれたようで安心しました
小傘の負のスパイラルな悩みをしっかりと受け止めつつ、あっさりと小傘の気持ちを吸収する早苗さんが良かったです