Coolier - 新生・東方創想話

風の中の面影

2025/04/13 19:41:58
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その朝、空は驚くほどに澄み切っていた。
滑走路に立った十九歳の彼は、油と鉄の匂いが染みついた白い鉢巻を締めなおし、深く息を吸い込んだ。
その息が、肺の奥にじんわりと染み込む。
今日が、自分の命の終わる日だというのに、妙に穏やかな気持ちだった。
両親のこと、妹のこと、隣に住んでいたあの子の笑顔
浮かんでは消えていく顔たち。どれもが、遠い夢のようだった。
「....行ってきます」
囁くように呟き、彼は零戦に乗り込む。
滑走路の先には青い空と、敵艦隊が待っている。
彼は“死”を恐れていなかった。
むしろ、それが役目であり、誇りでもあった。
命を捧げることで、国を、家族を、未来を守るそう教えられてきた。
機体が加速する。
エンジンの轟音が空気を震わせ、風が風防を叩く。
すでに照準は定まっていた。
彼の目の前には、海と艦隊、そして……
白い霧が、突如として現れた。
まるで天から降り注ぐカーテンのように、機体の前方を覆っていく。
異常だった。
この高度で、これほど密度の高い霧が発生することはない。
無線は雑音にかき消され、コンパスは針をぐるぐると回し始める。
「....何だ、これは....?」
霧は音もなく、じわじわと機体の中にまで染み込んでくるかのようだった。
視界が狭まり、手元の計器が次々と反応を失っていく。
そして、彼の意識が、音もなく沈んだ。

目を覚ましたとき、そこは森の中だった。
鳥のさえずり。
柔らかな陽光。
遠くに見える赤い鳥居。
空には雲ひとつなく、戦場の匂いも、焼けた金属の匂いもなかった。
彼は自分の身体を見下ろした。
血は出ていない。傷もない。
だが、零戦は消えていた。
代わりに、落ち葉と苔に覆われた地面があった。
「....生きてる?」
言葉にした瞬間、彼の声が空気に溶けていく。
その時だった。
「....ようこそ、幻想の境へ」
どこからともなく、涼やかな声が降ってきた。
声の主は、紅紫の和傘を傾けた一人の女性だった。
金色の長髪。眠たげな瞳。
そして、どこか“人ではない”空気を纏っていた。
彼女は微笑む。
「ここは幻想郷。あなたの世界ではありません」
「あなたは……生きているのかもしれないし、死んでいるのかもしれない」
その言葉に、彼は何も言い返せなかった。

目覚めた彼は、しばらくその場から動けなかった。
木漏れ日が揺れる森の中。風の匂いが、どこか懐かしい。
けれど、どこを見渡しても、自分の知る日本の風景とは違っていた。
森の音はやけに静かで、鳥の鳴き声さえ、時間の流れを歪ませるように聴こえる。
そんな中、再び現れたのは、あの紫色の和傘を差す女だった。
「調子はどうかしら?」
彼は黙って女を見つめた。
彼女の容貌は、まるで絵巻から抜け出してきたようだった。
艶やかな長髪に、異国の貴婦人のような装い。そして、瞳の奥には底知れぬ深さがある。
「....どこ、なんですか、ここは」
ようやく絞り出した声に、彼女は少し首を傾げて答えた。
「ここは幻想郷。あなたたちの世界ではないわ。けれど、かつて存在した想いや、語られなかった物語が、残り続ける場所よ」
彼には、彼女の言葉が理解できなかった。
ただ、そこにある優しさと静けさだけが、まるで体温のように感じられた。
「....俺は、死んだんですか」
彼女は一瞬、言葉を止める。
そして、静かに微笑んだ。
「わたしにも、それは分からない。でもあなたは、ここにいる。確かに、今を生きている」
そう言うと、彼女は和傘をたたみ、彼に手を差し出した。
「行きましょう。少し風に当たったほうがいいわ。お腹も空いているでしょう?」
....不思議だった。
どこか恐ろしくもあるはずの女の誘いに、彼はなぜか逆らうことができなかった。
むしろ、心の奥で“この人に導かれたい”という奇妙な安堵が芽生えていた。
彼女は“八雲紫”と名乗った。
その名に聞き覚えはない。
しかし、名前を聞いただけで、どこか胸がざわつく。
「私は、幻想郷の“境界”を見守る者。あなたのように、こちらとあちらを行き交う人々を導く立場にあるわ」
紫に連れられて歩くうち、彼は小さな集落のような場所に辿り着いた。
人もいれば、明らかに人とは思えない者たちもいた。
彼に対して驚いた顔をする者、無関心を装う者、好奇の視線を向ける者
しかし誰もが、紫の存在には一目置いているようだった。
「ここでは、あなたの過去は問われない。あなた自身が“どう生きたいか”だけが、価値になるのよ」
紫の言葉は、どこか現実離れしていた。
けれど、それがこの地の“普通”なのだということを、彼の体はすでに理解し始めていた。
「しばらく、ここで暮らしてみなさい」
「そして、あなたが“どこへ帰るべきか”、自分で見つけなさい」
それは命令ではなく、提案だった。
だが、彼にとってそれは、ほかに選べる道のない提案だった。
こうして彼は、“一時の滞在者”として幻想郷での暮らしを始めることになった。
紫の庇護のもと、誰に敵視されることもなく、静かな日々が過ぎていった。
そして、彼は気づき始めていた。
紫という女の存在が、自分の中で次第に“大きく”なっていることに

幻想郷での暮らしは、あまりに静かだった。
朝は早く、鳥の声で目覚める。
紫が用意した仮住まいの縁側で、茶を飲みながらぼんやりと空を眺める。
人里の市場を見物し、畑を手伝い、時には子どもたちに昔話を語ることもあった。
まるで、生き直しているようだった。
戦地では、明日の命さえ分からなかった。
けれどこの地では、時間がやわらかく、命がゆるやかに流れていた。
紫との時間もまた、日常に溶け込んでいた。
彼女は決して多くを語らなかったが、彼が問いかければ静かに答えた。
境界とは何か。
幻想郷とは何か。
人とは何か。
そして、死とは何か。
「あなたは“死に損なった”存在なのかもしれないわね」
紫は時折、そんなことを平然と言った。
「けれど、“死に損なう”ということは、生を得たということでもあるのよ」
言葉の端々に、不可思議な哲学が混じる。
それでも、彼はその言葉たちを噛み締めていた。
語り口は静かでも、紫の瞳には、確かに彼を見つめる熱があった。
ある日、彼は紫に尋ねた。
「あなたは....何者なんですか?」
紫は少し黙り込み、微笑を浮かべた。
「私はただの、“観る者”よ。境界を見守り、時折それを揺るがせる者」
「では、僕は?」
紫は彼をじっと見つめる。
そして、囁いた。
「あなたは、“こちら側”に残る選択もできたのよ」
その意味は、すぐには理解できなかった。
けれど彼は、それが“誘い”であったことを、後になって知ることになる。
夕暮れ時、紫と二人きりで歩いた竹林。
月明かりの下、傘の影に浮かんだ彼女の横顔。
どれもが彼の胸に焼き付いて離れなかった。
彼は、恋をしていた。
それが現実か幻想かはどうでもよかった。
この地で、この時に、彼女といることが、彼の“今”だった。
けれど、紫は一線を越えなかった。
手を伸ばせば届く距離にいながら、その心の奥へは踏み込ませてくれない。
「あなたが“帰る者”である限り、わたしは“境界のこちら側”のまま」
それは約束のようでもあり、別れの布石のようでもあった。
彼は思った。
いっそこのまま、戦争も過去も忘れて、ここで生きてしまいたいと。
けれど、紫のまなざしは、どこか遠くを見つめていた。
まるで彼の“帰るべき場所”を、誰よりも知っているように。

季節が巡った。
幻想郷で過ごす時間に、彼は少しずつ馴染んでいった。
だが、彼の内側には、いつも“現実”が静かに残っていた。
かつての戦場、特攻機の振動、仲間たちの無言の眼差し。
それらを完全に捨て去ることは、彼にはできなかった。
「....紫さん。俺は、帰らなきゃいけないんですか」
ある夜、静かな湖の畔で彼は問うた。
紫は月を見上げたまま、答えなかった。
「幻想郷に、ずっといてもいいのなら....」
声が震えていた。
思いを、今こそ伝えるべきか....
けれど、紫は静かに言った。
「あなたの“願い”が、境界を揺らしたの」
彼は、言葉を飲み込んだ。
「あなたが、死ぬことを拒んだ。その強い思いが、この世界との“縁”を生んだのよ」
彼の胸が、ずしりと重くなる。
ここは逃げ場だったのかもしれない。
死から、生から、すべてからの。
「でも....もう“縁”は薄れつつあるわ。時間は、元に戻りつつある」
その意味は明確だった。
彼は、元の世界へと“還る”時を迎えようとしていた。
「俺は、ここにいたい」
それが嘘ではないと、自分でも分かっていた。
紫といることが、彼にとっての救いだった。
戦争も、死も、過去も、彼女の隣では色を失った。
「....でも、それは“逃げ”なんですね」
紫は頷かなかった。ただ、その目をそっと閉じた。
「紫さん....俺は....」
言いかけた言葉は、霧に呑まれた。
風が吹き、湖面が揺れる。
彼女の髪がなびき、和傘の縁が月明かりを遮った。
「言わなくていいの。あなたの想いは、もう分かっているから」
その言葉は、優しくもあり、残酷でもあった。
彼は、何も言えなかった。
ただ、月に照らされた彼女の姿を、いつまでも焼き付けようと目を逸らさなかった。
そして、彼の足元から、再び“霧”が立ち上がる。
見覚えのある白い靄。
あの日、特攻の瞬間に包まれた霧と、まったく同じだった。
「もう....戻るのですね」
「ええ。あなたの“時間”が、あなたを迎えに来ているわ」
彼は、一歩だけ紫に近づいた。
「ありがとうございました。....本当に、俺は....」
その先は、声にならなかった。
紫は静かに微笑む。
「大丈夫。あなたはきっと、誰かの幸せを見つける」
そして霧が彼を飲み込む。
最後に見たのは、月明かりの中で微笑む彼女の姿....
そして、彼女の唇が、声にならない言葉を紡いだ気がした。
けれど、その言葉が何だったのか、彼は決して知ることはなかった。

彼が再び目を覚ましたとき、そこは軍用機の中だった。
身体の感覚はしっかりとあり、手には操縦桿を握っていた。
....機体は、すでに火を噴いていた。
空が燃えていた。
風が唸りを上げる。
それでも、彼の心は、不思議なほど穏やかだった。
彼は操縦桿を離した。
次の瞬間、機体は爆風に飲まれ、そして、闇。
....彼は、目を覚ました。
病院の白い天井。
奇跡的に生き延びたのだという。
だが彼には、死ぬほど鮮明な“夢”があった。
幻想郷での日々。
紫の微笑み。
風の音、湖の波紋、
そして
言葉にできなかった想い。
戦争は終わっていた。
日本は敗れ、彼は“帰還兵”として静かに社会へ戻った。
年月が過ぎ、彼は結婚し、家庭を持った。
子を育て、働き、眠り、老いた。
そして、幻想郷のことを語ることはなかった。
だが、忘れた日は一日もなかった。
時折、風に揺れる傘の影を見て、胸が締めつけられた。
黄昏に差し込む光の縁に、彼女の面影を探してしまうこともあった。
やがて、老いは彼のすべてを包んだ。
記憶も、手足の力も、次第に失われていく中
彼は一通の手紙を書いた。

拝啓 八雲紫殿
 もし、これが届くのなら、どうか笑ってやってください。

わたしはあなたに、何も伝えられぬまま、ただ生き延びてしまいました。
 あなたに恋をしていたこと。

あなたと過ごした日々が、どれほど心の支えだったか。

そして、それでもあなたの隣に生きることは叶わなかったこと。
 悔いてはいません。
 この世界にも、愛する者ができました。
 けれど、あの湖畔の月と、あなたの横顔は、
 きっと最期まで、わたしの心から消えることはないでしょう。
 あなたは言いました。
 「生きることは、選び直すこと」だと。
 わたしは、あの日、あなたに何も言えなかった。
 だから今、この手紙にすべてを託します。
 ありがとう。
 あなたのような人に出会えたことが、
 わたしの人生にとって、たしかな奇跡でした。
 敬具

手紙を書き終えたその夜、彼は静かに息を引き取った。
誰にも見せなかったその封筒は、やがて風に舞い、いつしか人知れぬ霧の中へと消えていった。

幻想郷の片隅。
森の奥にぽつりと佇む湖のほとりに、一陣の風が吹く。
紫はふと顔を上げる。
和傘の影の中、その指先に、ひとつの封書が触れた。
彼女は何も言わず、それを胸に抱き、微笑んだ。
その瞳に、ほんのひとしずくの光を宿して。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
読者の皆様に楽しんで頂けたら幸いです。
Mr
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コメント



0.簡易評価なし
1.90名前が無い程度の能力削除
とても良かったです。
2.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
3.90ローファル削除
作中の男以外にも多くの人間を見てきたであろう紫が数十年経っても彼のことを忘れず特別に想っていたことが最後の描写から窺えました。
面白かったです。
4.100名前が無い程度の能力削除
良かったです。
5.100名前が無い程度の能力削除
とてもとても長い人生の中で、きっとこの物語の裏側にはもっとたくさんの楽しみや悲しみがあるであろう中で、それでも彼女と一緒にいた時間の大切さを感じることができました。面白かったです。
6.100南条削除
面白かったです。
紫のことをずっと覚えていた青年もですが、青年のことを覚えていた紫も通じ合っているようでよかったです