(以下は、和田万吉による竹取物語の抄訳を現代仮名遣いになおしたもので、竹取物語というものをよく知っているかたがたは、この項を読み飛ばして構いません。訳文は七千文字ほどあります)
むかし、いつの頃でありましたか、竹取の翁という人がありました。ほんとうの名は讃岐の造麻呂というのでしたが、毎日のように野山の竹藪にはいって、竹を切り取って、いろいろの物を造り、それを商うことにしていましたので、俗に竹取の翁という名で通っていました。ある日、いつものように竹藪に入り込んで見ますと、一本妙に光る竹の幹がありました。不思議に思って近寄って、そっと切って見ると、その切った筒の中に高さ三寸ばかりの美しい女の子がいました。いつも見慣れている藪の竹の中にいる人ですから、きっと、天が我が子として与えてくれたものであろうと考えて、その子を手の上に載せて持ち帰り、妻のお婆さんに渡して、よく育てるようにいいつけました。お婆さんもこの子の大そう美しいのを喜んで、籠の中に入れて大切に育てました。
このことがあってからも、翁はやはり竹を取って、その日々を送っていましたが、奇妙なことには、多くの竹を切るうちに節と節との間に、黄金がはいっている竹を見つけることが度々ありました。それで翁の家は次第に裕福になりました。
ところで、竹の中から出た子は、育て方がよかったと見えて、ずんずん大きくなって、三月ばかりたつうちに一人前の人になりました。そこで少女にふさわしい髮飾りや衣裳をさせましたが、大事の子ですから、家の奧にかこって外へは少しも出さずに、いよいよ心を入れて養いました。大きくなるにしたがって少女の顏かたちはますます麗しくなり、とてもこの世界にないくらいなばかりか、家の中が隅から隅まで光り輝きました。翁にはこの子を見るのが何よりの薬で、また何よりの慰みでした。その間に相変らず竹を取っては、黄金を手に入れましたので、遂には大した身代になって、家屋敷も大きく構え、召し使いなどもたくさん置いて、世間からも敬われるようになりました。さて、これまでつい少女の名をつけることを忘れていましたが、もう大きくなって名のないのも変だと気づいて、いい名づけ親を頼んで名をつけて貰いました。その名は嫋竹の赫映姫というのでした。その頃の習慣にしたがって、三日の間、大宴会を開いて、近所の人たちや、その他、多くの男女をよんで祝いました。
この美しい少女の評判が高くなったので、世間の男たちは妻に貰いたい、又見るだけでも見ておきたいと思って、家の近くに来て、すき間のようなところから覗こうとしましたが、どうしても姿を見ることが出来ません。せめて家の人に逢って、ものをいおうとしても、それさえ取り合ってくれぬ始末で、人々はいよいよ気を揉んで騷ぐのでした。そのうちで、夜も昼もぶっ通しに家の側を離れずに、どうにかして赫映姫に逢って志を見せようと思う熱心家が五人ありました。みな位の高い身分の尊い方で、一人は石造皇子、一人は車持皇子、一人は右大臣阿倍御主人、一人は大納言大伴御行、一人は中納言石上麻呂でありました。この人たちは思い思いに手だてをめぐらして姫を手に入れようとしましたが、誰も成功しませんでした。翁もあまりのことに思って、ある時、姫に向って、
「ただの人でないとはいいながら、今日まで養い育てたわしを親と思って、わしのいうことをきいて貰いたい」
と、前置きして、
「わしは七十の阪を越して、もういつ命が終るかわからぬ。今のうちによい婿をとって、心残りのないようにして置きたい。姫を一しょう懸命に思っている方がこんなにたくさんあるのだから、このうちから心にかなった人を選んではどうだろう」
と、いいますと、姫は案外の顏をして答え渋っていましたが、思い切って、
「私の思いどおりの深い志を見せた方でなくては、夫と定めることは出来ません。それは大してむずかしいことでもありません。五人の方々に私の欲しいと思う物を注文して、それを間違いなく持って来て下さる方にお仕えすることに致しましょう」
と、いいました。翁も少し安心して、例の五人の人たちの集っているところに行って、そのことを告げますと、みな異存のあろうはずがありませんから、すぐに承知しました。ところが姫の註文というのはなかなかむずかしいことでした。それは五人とも別々で、石造皇子には天竺にある佛の御石の鉢、車持皇子には東海の蓬莱山にある銀の根、金の茎、白玉の実をもった木の枝一本、阿倍の右大臣には唐土にある火鼠の皮衣、大伴の大納言には龍の首についている五色の玉、石上の中納言には燕のもっている子安貝一つというのであります。そこで翁はいいました。
「それはなかなかの難題だ。そんなことは申されない」
しかし、姫は、
「たいしてむずかしいことではありません」と、いい切って平気でおります。翁は仕方なしに姫の註文通りを伝えますと、みなあきれかえって家へ引き取りました。
それでも、どうにかして赫映姫を自分の妻にしようと覚悟した五人は、それぞれいろいろの工夫をして註文の品を見つけようとしました。
第一番に、石造皇子はずるい方に才のあった方ですから、注文の佛の御石の鉢を取りに天竺へ行ったように見せかけて、三年ばかりたって、大和の国のある山寺の賓頭廬樣の前に置いてある石の鉢の真黒に煤けたのを、もったいらしく錦の袋に入れて姫のもとにさし出しました。ところが、立派な光のあるはずの鉢に螢火ほどの光もないので、すぐに注文ちがいといって跳ねつけられてしまいました。
第二番に、車持皇子は、蓬莱の玉の枝を取りに行くといいふらして船出をするにはしましたが、実は三日目にこっそりと帰って、かねがねたくんで置いた通り、上手の玉職人を多く召し寄せて、ひそかに注文に似た玉の枝を作らせて、姫のところに持って行きました。翁も姫もその細工の立派なのに驚いていますと、そこへ運わるく玉職人の親方がやって来て、千日あまりも骨折って作ったのに、まだ細工賃を下さるという御沙汰がないと、苦情を持ち込みましたので、まやかしものということがわかって、これも忽ち突っ返され、皇子は大恥をかいて引きさがりました。
第三番の阿倍の右大臣は財産家でしたから、あまり悪ごすくは巧まず、ちょうど、その年に日本に来た唐船に誂えて火鼠の皮衣という物を買って来るように頼みました。やがて、その商人は、ようようのことで元は天竺にあったのを求めたという手紙を添えて、皮衣らしいものを送り、前に預った代金の不足を請求して来ました。大臣は喜んで品物を見ると、皮衣は紺青色で毛のさきは黄金色をしています。これならば姫の気に入るに違いない、きっと自分は姫のお婿さんになれるだろうなどと考へて、大めかしにめかし込んで出かけました。姫も一時は本物かと思って内々心配しましたが、火に焼けないはずだから、試して見ようというので、火をつけさせて見ると、一たまりもなくめらめらと焼けました。そこで右大臣もすっかり当てが外れました。
四番の大伴の大納言は、家来どもを集めて厳しい命を下し、必ず龍の首の玉を取って来いといって、邸内にある絹、綿、銭のありたけを出して路用にさせました。ところが家来たちは主人の愚かなことをり、玉を取りに行くふりをして、めいめいの勝手な方へ出かけたり、自分の家に引き籠ったりしていました。右大臣は待まちかねて、自分でも遠い海に漕ぎ出して、龍を見つけ次第矢先にかけて射落そうと思っているうちに、九州の方へ吹き流されて、烈しい雷雨に打たれ、その後、明石の浜に吹き返され、波風に揉まれて死人のようになって磯端に倒れていました。ようようのこと、国の役人の世話で手輿に乗せられて家に着きました。そこへ家来どもが駈けつけて、お見舞いを申し上げると、大納言は杏のように赤くなった眼を開いて、
「龍は雷のようなものと見えた。あれを殺しでもしたら、この方の命はあるまい。お前たちはよく龍を捕らずに来た。うい奴どもじゃ」
とおほめになって、うちに少々残っていた物を褒美に取らせました。もちろん姫の難題には怖じ気を振い、「赫映姫の大がたりめ」と叫んで、またと近寄ろうともしませんでした。
五番の石上の中納言は燕の子安貝を獲るのに苦心して、いろいろと人に相談して見た後、ある下役の男の勧めにつくことにしました。そこで、自分で籠に乗って、綱で高い屋の棟にひきあげさせて、燕が卵を産むところをさぐるうちに、ふと平たい物をつかみあてたので、嬉しがって籠を降す合図をしたところが、下にいた人が綱をひきそこなつて、綱がぷっつりと切れて、運わるくも下にあった鼎の上に落ちて眼を廻しました。水を飮ませられて漸く正気になった時、
「腰は痛むが子安貝は取ったぞ。それ見てくれ」
といいました。皆がそれを見ると、子安貝ではなくて燕の古糞でありました。中納言はそれきり腰も立たず、気病みも加わって死んでしまいました。五人のうちであまりものいりもしなかった代りに、智慧のないざまをして、一番惨い目を見たのがこの人です。
そのうちに、赫映姫が並ぶもののないほど美しいという噂を、時の帝がお聞きになって、一人の女官に、
「姫の姿がどのようであるか見て参れ」
と仰せられました。その女官がさっそく竹取の翁の家に出向いて勅旨を述べ、ぜひ姫に逢ひたいというと、翁はかしこまってそれを姫にとりつぎました。ところが姫は、
「別によい器量でもありませぬから、お使いに逢うことは御免を蒙ります」
と拗ねて、どうすかしても、叱っても逢おうとしませんので、女官は面目なさそうに宮中に立ち帰ってそのことを申し上げました。帝は更に翁に御命令を下して、もし姫を宮仕えにさし出すならば、翁に位をやろう。どうにかして姫を説いて納得させてくれ。親の身で、そのくらいのことの出来ぬはずはなかろうと仰せられました。翁はその通りを姫に伝えて、ぜひとも帝のお言葉に従い、自分の頼みをかなえさせてくれといいますと、
「むりに宮仕えをしろと仰せられるならば、私の身は消えてしまいましょう。あなたのお位をお貰いになるのを見て、私は死ぬだけでございます」
と姫が答えましたので、翁はびっくりして、
「位を頂いても、そなたに死なれてなんとしよう。しかし、宮仕えをしても死なねばならぬ道理はあるまい」
といって歎きましたが、姫はいよいよ渋るばかりで、少しも聞きいれる様子がありませんので、翁も手のつけようがなくなって、どうしても宮中には上がらぬということをお答えして、
「自分の家に生れた子供でもなく、むかし山で見つけたのを養っただけのことでありますから、気持ちも世間普通の人とはちがっておりますので、残念ではございますが……」
と恐れ入って申し添えました。帝はこれを聞し召されて、それならば翁の家にほど近い山辺に御狩りの行幸をする風にして姫を見に行くからと、そのことを翁に承知させて、きめた日に姫の家におなりになりました。すると、まばゆいように照り輝ぐ女がいます。これこそ赫映姫に違いないと思し召してお近寄りになると、その女は奧へ逃げて行きます。その袖をおとりになると、顏を隠しましたが、初めにちらと御覽になって、聞いたよりも美人と思し召されて、
「逃げても許さぬ。宮中に連れ行くぞ」
と仰せられました。
「私がこの国で生れたものでありますならば、お宮仕えも致しましょうけれど、そうではございませんから、お連れになることはかないますまい」
と姫は申し上げました。
「いや、そんなはずはない。どうあっても連れて行く」
かねて支度してあったお輿に載せようとなさると、姫の形は影のように消えてしまいました。帝も驚かれて、
「それではもう連れては行くまい。せめて元の形になって見せておくれ。それを見て帰ることにするから」
と、仰せられると、姫はやがて元の姿になりました。帝も致し方がございませんから、その日はお帰りになりましたが、それからというもの、今まで、ずいぶん美しいと思った人なども姫とは比べものにならないと思し召すようになりました。それで、時々お手紙やお歌をお送りになると、それにはいちいちお返事をさし上げますので、ようようお心を慰めておいでになりました。
そうこうするうちに三年ばかりたちました。その年の春先から、赫映姫は、どうしたわけだか、月のよい晩になると、その月を眺めて悲しむようになりました。それがだんだんつのって、七月の十五夜などには泣いてばかりいました。翁たちが心配して、月を見ることを止めるようにと諭しましたけれども、
「月を見ずにはいられませぬ」
といって、やはり月の出る時分になると、わざわざ縁先などへ出て歎きます。翁にはそれが不思議でもあり、心がかりでもありますので、ある時、そのわけを聞きますと、
「今までに、度々お話しようと思いましたが、御心配をかけるのもどうかと思って、打ち明けることが出来ませんでした。実を申しますと、私はこの国の人間ではありません。月の都の者でございます。ある因縁があって、この世界に来ているのですが、今は帰らねばならぬ時になりました。この八月の十五夜に迎えの人たちが来れば、お別れして私は天上に帰ります。その時はさぞお歎きになることであらうと、前々から悲しんでいたのでございます」
姫はそういって、ひとしお泣き入りました。それを聞くと、翁も気違いのように泣き出しました。
「竹の中から拾ってこの年月、大事に育てたわが子を、誰が迎えに来ようとも渡すものではない。もし取って行かれようものなら、わしこそ死んでしまいましょう」
「月の都の父母は少しの間といって、私をこの国によこされたのですが、もう長い年月がたちました。生みの親のことも忘れて、ここのお二人に馴れ親しみましたので、私はお側を離れて行くのが、ほんとうに悲しゅうございます」
二人は大泣きに泣きました。家の者どもも、顏かたちが美しいばかりでなく、上品で心だての優しい姫に、今更、永のお別れをするのが悲しくて、湯水も喉を通りませんでした。
このことが帝のお耳に達しましたので、お使いを下されてお見舞いがありました。翁は委細をお話して、
「この八月の十五日には天から迎えの者が来ると申しておりますが、その時には人数をお遣わしになって、月の都の人々を捉えて下さいませ」
と、泣く泣くお願いしました。お使いが立ち帰ってその通りを申し上げると、帝は翁に同情されて、いよいよ十五日が来ると高野の少将という人を勅使として、武士二千人を遣って竹取の翁の家をまもらせられました。さて、屋根の上に千人、家のまわりの土手の上に千人といふ風に手分けして、天から降りて来る人々を撃ち退ける手はずであります。この他に家に召し仕われているもの大勢手ぐすね引いて待っています。家の内は女どもが番をし、お婆さんは、姫を抱えて土蔵の中にはいり、翁は土蔵の戸を締めて戸口に控えています。その時姫はいいました。
「それほどになさっても、なんの役にも立ちません。あの国の人が来れば、どこの戸もみなひとりでに開いて、戦おうとする人たちも萎えしびれたようになって力が出ません」
「いやなあに、迎えの人がやって来たら、ひどい目に遇わせて追っ返してやる」
と翁はりきみました。姫も、年寄った方々の老先も見届けずに別れるのかと思えば、老とか悲しみとかのないあの国へ帰るのも、一向に嬉しくないといってまた歎きます。
そのうちに夜もなかばになったと思うと、家のあたりが俄にあかるくなって、満月の十そう倍ぐらいの光で、人々の毛孔さえ見えるほどであります。その時、空から雲に乗った人々が降りて来て、地面から五尺ばかりの空中に、ずらりと立ち列びました。「それ来たっ」と、武士たちが得物をとって立ち向おうとすると、誰もかれも物に魅われたように戦う気もなくなり、力も出ず、ただ、ぼんやりとして目をぱちぱちさせているばかりであります。そこへ月の人々は空を飛ぶ車を一つ持って来ました。その中から頭らしい一人が翁を呼び出して、
「汝翁よ、そちは少しばかりの善いことをしたので、それを助けるために片時の間、姫を下して、たくさんの黄金を儲けさせるようにしてやつたが、今は姫の罪も消えたので迎えに来た。早く返すがよい」
と叫びます。翁が少し渋っていると、それには構わずに、
「さあさあ姫、こんなきたないところにいるものではありません」
といって、例の車をさし寄せると、不思議にも堅く閉した格子も土蔵も自然と開いて、姫の体はするすると出ました。翁が留めようとあがくのを姫は静かにおさえて、形見の文を書いて翁に渡し、また帝にさし上げる別の手紙を書いて、それに月の人々の持って来た不死の薬一壺を添へて勅使に渡し、天の羽衣を着て、あの車に乗って、百人ばかりの天人に取りまかれて、空高く昇って行きました。これを見送って翁夫婦はまた一しきり声をあげて泣きましたが、なんのかいもありませんでした。
一方勅使は宮中に参上して、その夜の一部始終を申し上げて、かの手紙と薬をさし上あげました。帝は、天に一番近い山は駿河の国にあると聞し召して、使いの役人をその山に登らせて、不死の薬を焚かしめられました。それからはこの山を不死の山と呼ぶようになって、その薬の煙は今でも雲の中へ立ち昇るということであります。
むかし、いつの頃でありましたか、竹取の翁という人がありました。ほんとうの名は讃岐の造麻呂というのでしたが、毎日のように野山の竹藪にはいって、竹を切り取って、いろいろの物を造り、それを商うことにしていましたので、俗に竹取の翁という名で通っていました。ある日、いつものように竹藪に入り込んで見ますと、一本妙に光る竹の幹がありました。不思議に思って近寄って、そっと切って見ると、その切った筒の中に高さ三寸ばかりの美しい女の子がいました。いつも見慣れている藪の竹の中にいる人ですから、きっと、天が我が子として与えてくれたものであろうと考えて、その子を手の上に載せて持ち帰り、妻のお婆さんに渡して、よく育てるようにいいつけました。お婆さんもこの子の大そう美しいのを喜んで、籠の中に入れて大切に育てました。
このことがあってからも、翁はやはり竹を取って、その日々を送っていましたが、奇妙なことには、多くの竹を切るうちに節と節との間に、黄金がはいっている竹を見つけることが度々ありました。それで翁の家は次第に裕福になりました。
ところで、竹の中から出た子は、育て方がよかったと見えて、ずんずん大きくなって、三月ばかりたつうちに一人前の人になりました。そこで少女にふさわしい髮飾りや衣裳をさせましたが、大事の子ですから、家の奧にかこって外へは少しも出さずに、いよいよ心を入れて養いました。大きくなるにしたがって少女の顏かたちはますます麗しくなり、とてもこの世界にないくらいなばかりか、家の中が隅から隅まで光り輝きました。翁にはこの子を見るのが何よりの薬で、また何よりの慰みでした。その間に相変らず竹を取っては、黄金を手に入れましたので、遂には大した身代になって、家屋敷も大きく構え、召し使いなどもたくさん置いて、世間からも敬われるようになりました。さて、これまでつい少女の名をつけることを忘れていましたが、もう大きくなって名のないのも変だと気づいて、いい名づけ親を頼んで名をつけて貰いました。その名は嫋竹の赫映姫というのでした。その頃の習慣にしたがって、三日の間、大宴会を開いて、近所の人たちや、その他、多くの男女をよんで祝いました。
この美しい少女の評判が高くなったので、世間の男たちは妻に貰いたい、又見るだけでも見ておきたいと思って、家の近くに来て、すき間のようなところから覗こうとしましたが、どうしても姿を見ることが出来ません。せめて家の人に逢って、ものをいおうとしても、それさえ取り合ってくれぬ始末で、人々はいよいよ気を揉んで騷ぐのでした。そのうちで、夜も昼もぶっ通しに家の側を離れずに、どうにかして赫映姫に逢って志を見せようと思う熱心家が五人ありました。みな位の高い身分の尊い方で、一人は石造皇子、一人は車持皇子、一人は右大臣阿倍御主人、一人は大納言大伴御行、一人は中納言石上麻呂でありました。この人たちは思い思いに手だてをめぐらして姫を手に入れようとしましたが、誰も成功しませんでした。翁もあまりのことに思って、ある時、姫に向って、
「ただの人でないとはいいながら、今日まで養い育てたわしを親と思って、わしのいうことをきいて貰いたい」
と、前置きして、
「わしは七十の阪を越して、もういつ命が終るかわからぬ。今のうちによい婿をとって、心残りのないようにして置きたい。姫を一しょう懸命に思っている方がこんなにたくさんあるのだから、このうちから心にかなった人を選んではどうだろう」
と、いいますと、姫は案外の顏をして答え渋っていましたが、思い切って、
「私の思いどおりの深い志を見せた方でなくては、夫と定めることは出来ません。それは大してむずかしいことでもありません。五人の方々に私の欲しいと思う物を注文して、それを間違いなく持って来て下さる方にお仕えすることに致しましょう」
と、いいました。翁も少し安心して、例の五人の人たちの集っているところに行って、そのことを告げますと、みな異存のあろうはずがありませんから、すぐに承知しました。ところが姫の註文というのはなかなかむずかしいことでした。それは五人とも別々で、石造皇子には天竺にある佛の御石の鉢、車持皇子には東海の蓬莱山にある銀の根、金の茎、白玉の実をもった木の枝一本、阿倍の右大臣には唐土にある火鼠の皮衣、大伴の大納言には龍の首についている五色の玉、石上の中納言には燕のもっている子安貝一つというのであります。そこで翁はいいました。
「それはなかなかの難題だ。そんなことは申されない」
しかし、姫は、
「たいしてむずかしいことではありません」と、いい切って平気でおります。翁は仕方なしに姫の註文通りを伝えますと、みなあきれかえって家へ引き取りました。
それでも、どうにかして赫映姫を自分の妻にしようと覚悟した五人は、それぞれいろいろの工夫をして註文の品を見つけようとしました。
第一番に、石造皇子はずるい方に才のあった方ですから、注文の佛の御石の鉢を取りに天竺へ行ったように見せかけて、三年ばかりたって、大和の国のある山寺の賓頭廬樣の前に置いてある石の鉢の真黒に煤けたのを、もったいらしく錦の袋に入れて姫のもとにさし出しました。ところが、立派な光のあるはずの鉢に螢火ほどの光もないので、すぐに注文ちがいといって跳ねつけられてしまいました。
第二番に、車持皇子は、蓬莱の玉の枝を取りに行くといいふらして船出をするにはしましたが、実は三日目にこっそりと帰って、かねがねたくんで置いた通り、上手の玉職人を多く召し寄せて、ひそかに注文に似た玉の枝を作らせて、姫のところに持って行きました。翁も姫もその細工の立派なのに驚いていますと、そこへ運わるく玉職人の親方がやって来て、千日あまりも骨折って作ったのに、まだ細工賃を下さるという御沙汰がないと、苦情を持ち込みましたので、まやかしものということがわかって、これも忽ち突っ返され、皇子は大恥をかいて引きさがりました。
第三番の阿倍の右大臣は財産家でしたから、あまり悪ごすくは巧まず、ちょうど、その年に日本に来た唐船に誂えて火鼠の皮衣という物を買って来るように頼みました。やがて、その商人は、ようようのことで元は天竺にあったのを求めたという手紙を添えて、皮衣らしいものを送り、前に預った代金の不足を請求して来ました。大臣は喜んで品物を見ると、皮衣は紺青色で毛のさきは黄金色をしています。これならば姫の気に入るに違いない、きっと自分は姫のお婿さんになれるだろうなどと考へて、大めかしにめかし込んで出かけました。姫も一時は本物かと思って内々心配しましたが、火に焼けないはずだから、試して見ようというので、火をつけさせて見ると、一たまりもなくめらめらと焼けました。そこで右大臣もすっかり当てが外れました。
四番の大伴の大納言は、家来どもを集めて厳しい命を下し、必ず龍の首の玉を取って来いといって、邸内にある絹、綿、銭のありたけを出して路用にさせました。ところが家来たちは主人の愚かなことをり、玉を取りに行くふりをして、めいめいの勝手な方へ出かけたり、自分の家に引き籠ったりしていました。右大臣は待まちかねて、自分でも遠い海に漕ぎ出して、龍を見つけ次第矢先にかけて射落そうと思っているうちに、九州の方へ吹き流されて、烈しい雷雨に打たれ、その後、明石の浜に吹き返され、波風に揉まれて死人のようになって磯端に倒れていました。ようようのこと、国の役人の世話で手輿に乗せられて家に着きました。そこへ家来どもが駈けつけて、お見舞いを申し上げると、大納言は杏のように赤くなった眼を開いて、
「龍は雷のようなものと見えた。あれを殺しでもしたら、この方の命はあるまい。お前たちはよく龍を捕らずに来た。うい奴どもじゃ」
とおほめになって、うちに少々残っていた物を褒美に取らせました。もちろん姫の難題には怖じ気を振い、「赫映姫の大がたりめ」と叫んで、またと近寄ろうともしませんでした。
五番の石上の中納言は燕の子安貝を獲るのに苦心して、いろいろと人に相談して見た後、ある下役の男の勧めにつくことにしました。そこで、自分で籠に乗って、綱で高い屋の棟にひきあげさせて、燕が卵を産むところをさぐるうちに、ふと平たい物をつかみあてたので、嬉しがって籠を降す合図をしたところが、下にいた人が綱をひきそこなつて、綱がぷっつりと切れて、運わるくも下にあった鼎の上に落ちて眼を廻しました。水を飮ませられて漸く正気になった時、
「腰は痛むが子安貝は取ったぞ。それ見てくれ」
といいました。皆がそれを見ると、子安貝ではなくて燕の古糞でありました。中納言はそれきり腰も立たず、気病みも加わって死んでしまいました。五人のうちであまりものいりもしなかった代りに、智慧のないざまをして、一番惨い目を見たのがこの人です。
そのうちに、赫映姫が並ぶもののないほど美しいという噂を、時の帝がお聞きになって、一人の女官に、
「姫の姿がどのようであるか見て参れ」
と仰せられました。その女官がさっそく竹取の翁の家に出向いて勅旨を述べ、ぜひ姫に逢ひたいというと、翁はかしこまってそれを姫にとりつぎました。ところが姫は、
「別によい器量でもありませぬから、お使いに逢うことは御免を蒙ります」
と拗ねて、どうすかしても、叱っても逢おうとしませんので、女官は面目なさそうに宮中に立ち帰ってそのことを申し上げました。帝は更に翁に御命令を下して、もし姫を宮仕えにさし出すならば、翁に位をやろう。どうにかして姫を説いて納得させてくれ。親の身で、そのくらいのことの出来ぬはずはなかろうと仰せられました。翁はその通りを姫に伝えて、ぜひとも帝のお言葉に従い、自分の頼みをかなえさせてくれといいますと、
「むりに宮仕えをしろと仰せられるならば、私の身は消えてしまいましょう。あなたのお位をお貰いになるのを見て、私は死ぬだけでございます」
と姫が答えましたので、翁はびっくりして、
「位を頂いても、そなたに死なれてなんとしよう。しかし、宮仕えをしても死なねばならぬ道理はあるまい」
といって歎きましたが、姫はいよいよ渋るばかりで、少しも聞きいれる様子がありませんので、翁も手のつけようがなくなって、どうしても宮中には上がらぬということをお答えして、
「自分の家に生れた子供でもなく、むかし山で見つけたのを養っただけのことでありますから、気持ちも世間普通の人とはちがっておりますので、残念ではございますが……」
と恐れ入って申し添えました。帝はこれを聞し召されて、それならば翁の家にほど近い山辺に御狩りの行幸をする風にして姫を見に行くからと、そのことを翁に承知させて、きめた日に姫の家におなりになりました。すると、まばゆいように照り輝ぐ女がいます。これこそ赫映姫に違いないと思し召してお近寄りになると、その女は奧へ逃げて行きます。その袖をおとりになると、顏を隠しましたが、初めにちらと御覽になって、聞いたよりも美人と思し召されて、
「逃げても許さぬ。宮中に連れ行くぞ」
と仰せられました。
「私がこの国で生れたものでありますならば、お宮仕えも致しましょうけれど、そうではございませんから、お連れになることはかないますまい」
と姫は申し上げました。
「いや、そんなはずはない。どうあっても連れて行く」
かねて支度してあったお輿に載せようとなさると、姫の形は影のように消えてしまいました。帝も驚かれて、
「それではもう連れては行くまい。せめて元の形になって見せておくれ。それを見て帰ることにするから」
と、仰せられると、姫はやがて元の姿になりました。帝も致し方がございませんから、その日はお帰りになりましたが、それからというもの、今まで、ずいぶん美しいと思った人なども姫とは比べものにならないと思し召すようになりました。それで、時々お手紙やお歌をお送りになると、それにはいちいちお返事をさし上げますので、ようようお心を慰めておいでになりました。
そうこうするうちに三年ばかりたちました。その年の春先から、赫映姫は、どうしたわけだか、月のよい晩になると、その月を眺めて悲しむようになりました。それがだんだんつのって、七月の十五夜などには泣いてばかりいました。翁たちが心配して、月を見ることを止めるようにと諭しましたけれども、
「月を見ずにはいられませぬ」
といって、やはり月の出る時分になると、わざわざ縁先などへ出て歎きます。翁にはそれが不思議でもあり、心がかりでもありますので、ある時、そのわけを聞きますと、
「今までに、度々お話しようと思いましたが、御心配をかけるのもどうかと思って、打ち明けることが出来ませんでした。実を申しますと、私はこの国の人間ではありません。月の都の者でございます。ある因縁があって、この世界に来ているのですが、今は帰らねばならぬ時になりました。この八月の十五夜に迎えの人たちが来れば、お別れして私は天上に帰ります。その時はさぞお歎きになることであらうと、前々から悲しんでいたのでございます」
姫はそういって、ひとしお泣き入りました。それを聞くと、翁も気違いのように泣き出しました。
「竹の中から拾ってこの年月、大事に育てたわが子を、誰が迎えに来ようとも渡すものではない。もし取って行かれようものなら、わしこそ死んでしまいましょう」
「月の都の父母は少しの間といって、私をこの国によこされたのですが、もう長い年月がたちました。生みの親のことも忘れて、ここのお二人に馴れ親しみましたので、私はお側を離れて行くのが、ほんとうに悲しゅうございます」
二人は大泣きに泣きました。家の者どもも、顏かたちが美しいばかりでなく、上品で心だての優しい姫に、今更、永のお別れをするのが悲しくて、湯水も喉を通りませんでした。
このことが帝のお耳に達しましたので、お使いを下されてお見舞いがありました。翁は委細をお話して、
「この八月の十五日には天から迎えの者が来ると申しておりますが、その時には人数をお遣わしになって、月の都の人々を捉えて下さいませ」
と、泣く泣くお願いしました。お使いが立ち帰ってその通りを申し上げると、帝は翁に同情されて、いよいよ十五日が来ると高野の少将という人を勅使として、武士二千人を遣って竹取の翁の家をまもらせられました。さて、屋根の上に千人、家のまわりの土手の上に千人といふ風に手分けして、天から降りて来る人々を撃ち退ける手はずであります。この他に家に召し仕われているもの大勢手ぐすね引いて待っています。家の内は女どもが番をし、お婆さんは、姫を抱えて土蔵の中にはいり、翁は土蔵の戸を締めて戸口に控えています。その時姫はいいました。
「それほどになさっても、なんの役にも立ちません。あの国の人が来れば、どこの戸もみなひとりでに開いて、戦おうとする人たちも萎えしびれたようになって力が出ません」
「いやなあに、迎えの人がやって来たら、ひどい目に遇わせて追っ返してやる」
と翁はりきみました。姫も、年寄った方々の老先も見届けずに別れるのかと思えば、老とか悲しみとかのないあの国へ帰るのも、一向に嬉しくないといってまた歎きます。
そのうちに夜もなかばになったと思うと、家のあたりが俄にあかるくなって、満月の十そう倍ぐらいの光で、人々の毛孔さえ見えるほどであります。その時、空から雲に乗った人々が降りて来て、地面から五尺ばかりの空中に、ずらりと立ち列びました。「それ来たっ」と、武士たちが得物をとって立ち向おうとすると、誰もかれも物に魅われたように戦う気もなくなり、力も出ず、ただ、ぼんやりとして目をぱちぱちさせているばかりであります。そこへ月の人々は空を飛ぶ車を一つ持って来ました。その中から頭らしい一人が翁を呼び出して、
「汝翁よ、そちは少しばかりの善いことをしたので、それを助けるために片時の間、姫を下して、たくさんの黄金を儲けさせるようにしてやつたが、今は姫の罪も消えたので迎えに来た。早く返すがよい」
と叫びます。翁が少し渋っていると、それには構わずに、
「さあさあ姫、こんなきたないところにいるものではありません」
といって、例の車をさし寄せると、不思議にも堅く閉した格子も土蔵も自然と開いて、姫の体はするすると出ました。翁が留めようとあがくのを姫は静かにおさえて、形見の文を書いて翁に渡し、また帝にさし上げる別の手紙を書いて、それに月の人々の持って来た不死の薬一壺を添へて勅使に渡し、天の羽衣を着て、あの車に乗って、百人ばかりの天人に取りまかれて、空高く昇って行きました。これを見送って翁夫婦はまた一しきり声をあげて泣きましたが、なんのかいもありませんでした。
一方勅使は宮中に参上して、その夜の一部始終を申し上げて、かの手紙と薬をさし上あげました。帝は、天に一番近い山は駿河の国にあると聞し召して、使いの役人をその山に登らせて、不死の薬を焚かしめられました。それからはこの山を不死の山と呼ぶようになって、その薬の煙は今でも雲の中へ立ち昇るということであります。