Coolier - 新生・東方創想話

日のもとにあるすべては調和しているが、日は月に覆われている。

2025/03/05 06:38:55
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(ここまでが、竹取物語のあらましとなります。抄訳自体にいくつかの大胆な省略、内容の簡素化はありますが、物語の大筋は確かにこうなっています。不思議な美しい姫が竹の中から生まれて、貴人たちに求婚されるが、姫はそれを難題によってはねつけ、やがてその美しさが帝の目にすら留まるけれども、姫は実は人ならざる世界の者であって、やがて人々の静止もむなしく元の世界へと戻っていく――竹取物語は、よく知られるようにおとぎ話です。しかし単なるおとぎ話ではありません。この物語には失策や失脚があり、登場人物のいくつかには歴史上の人物や氏族と重なるところがあるのです。であれば、竹取物語を現実の歴史として受け入れた時、いったいなにが起こるのか――起きたのか、本稿はそれを考えていきたい。しかし考えはしても、論じる事はやめましょう。論と物語はそもそもが相反するものですし、物語に立脚して歴史を語るなど、論ではなく妄言でしょう。しかし妄言も、こころみにはやってみてもいいのかもしれない。荘子の言葉のように――“我こころみに汝のためにこれを妄言せん。汝もってこれを妄聴せよ。”と)

 むかし、いつの頃でありましたか、竹取の翁という人がありました。
(この“むかし”のはじまりを、とりあえずやまとねことよおほぢのすめらみこと……文武天皇の御代――飛鳥時代末期、天武持統朝を経て奈良時代へと移行する、そうした時代のはざまに設定します。もちろん論拠のある判断なのですが、詳しくは後々語ることにしましょう。……また、竹取物語の成立時期についても、諸説ありますがとりあえず平安時代初期のあたりとします。これも重要な基準です。どんなにすぐれた物語でも、成立時期の影響を受けずにはいられないからです……アーサー王伝説は実際の歴史より数百年も後の騎士像で描かれていますし、三国志の著名な武将像は、三国志演義の成立時期である明代の様式を有している。竹取物語に関しても、強いイメージとしてあるのはおそらく飛鳥~奈良時代ではなく平安貴族的な絵図でしょうが、これも一度振り払わなくてはいけない)

 ほんとうの名は讃岐の造麻呂というのでしたが、毎日のように野山の竹藪にはいって、竹を切り取って、いろいろの物を造り、それを商うことにしていましたので、俗に竹取の翁という名で通っていました。ある日、いつものように竹藪に入り込んで見ますと、一本妙に光る竹の幹がありました。不思議に思って近寄って、そっと切って見ると、その切った筒の中に高さ三寸ばかりの美しい女の子がいました。
(ですが、彼は単なる個人事業主ではなく、竹の伐採や加工を生業とする技術集団の長であった可能性もあります。そうなると、この場面は意外と周囲が騒がしく、若い衆が壮年の組頭にあれこれと指図されていたり、年配の目利きがこれから伐採する竹の、真っすぐである事やおおむねの高さ、節々の長さなどをおしはかって、採集した竹をどう加工するべきか用途を決定している、そうした様子の中で起きた事かもしれません)

 いつも見慣れている藪の竹の中にいる人ですから、きっと、天が我が子として与えてくれたものであろうと考えて、その子を手の上に載せて持ち帰り、妻のお婆さんに渡して、よく育てるようにいいつけました。お婆さんもこの子の大そう美しいのを喜んで、籠の中に入れて大切に育てました。
(自分が職能としている竹から出でたものであれば、とりあえず全て自分のものであるいう法観念が当時はあったのでしょうか。しかし理屈はともかく、のちの事を考えると、この老人はきっと完全な善意から娘を保護したのでしょう)

 このことがあってからも、翁はやはり竹を取って、その日々を送っていましたが、奇妙なことには、多くの竹を切るうちに節と節との間に、黄金がはいっている竹を見つけることが度々ありました。それで翁の家は次第に裕福になりました。
(しかし、翁は黄金を私蔵する事はしなかったでしょう。当時、本邦の古代国家は、この貴金属を海外からの輸入に完全に依存していました。歴史上では同時期に対馬から産出した金が献上されて元号が大宝に改められたと日本書紀にありますが、この産金は捏造でした。また数十年後の天平年間にも、陸奥国涌谷にて採掘された黄金が朝廷に献上され、それを瑞祥として天平感宝への改元が敢行された。金鉱脈の発見は国家としてそれほどの政治的悲願であったし、翁はたいへん実直な人物だったので、もちろん真正直に朝廷にこれを献じたに違いありません)

 ところで、竹の中から出た子は、育て方がよかったと見えて、ずんずん大きくなって、三月ばかりたつうちに一人前の人になりました。そこで少女にふさわしい髮飾りや衣裳をさせましたが、大事の子ですから、家の奧にかこって外へは少しも出さずに、いよいよ心を入れて養いました。大きくなるにしたがって少女の顏かたちはますます麗しくなり、とてもこの世界にないくらいなばかりか、家の中が隅から隅まで光り輝きました。翁にはこの子を見るのが何よりの薬で、また何よりの慰みでした。その間に相変らず竹を取っては、黄金を手に入れましたので、遂には大した身代になって、家屋敷も大きく構え、召し使いなどもたくさん置いて、世間からも敬われるようになりました。
(翁が裕福になったのは、前述の通り金を献上した功績が報いられて官位を得たからでしょう。先に述べた陸奥国涌谷の場合、金を献上した百済王敬福という公卿――貴族でありつつ、渡来人系の技術官僚でもあった――は、その功績により従五位上から従三位へと異例の特進を遂げた。対馬の産金も結果的には詐欺ではありましたが、責任者の三田五瀬には正六位上が授与されています。讃岐造の時も似たような事があったと考えていい)

 さて、これまでつい少女の名をつけることを忘れていましたが、もう大きくなって名のないのも変だと気づいて、いい名づけ親を頼んで名をつけて貰いました。その名は嫋竹の赫映姫というのでした。
(嫋竹の赫映姫は“なよたけのかぐやひめ”と呼びます。名付け親は御室戸斎部の秋田。斎部という氏は平安時代初頭に改められたもので、奈良時代の当時は忌部とあらわされるのがもっぱらでした。彼らは神別の古氏族であり、古代朝廷の祭祀を担っていて、やがては祭祀の主導権を巡り、とある氏族と対立して衰微する運命にあります)

 その頃の習慣にしたがって、三日の間、大宴会を開いて、近所の人たちや、その他、多くの男女をよんで祝いました。
 この美しい少女の評判が高くなったので、世間の男たちは妻に貰いたい、又見るだけでも見ておきたいと思って、家の近くに来て、すき間のようなところから覗こうとしましたが、どうしても姿を見ることが出来ません。せめて家の人に逢って、ものをいおうとしても、それさえ取り合ってくれぬ始末で、人々はいよいよ気を揉んで騷ぐのでした。そのうちで、夜も昼もぶっ通しに家の側を離れずに、どうにかして赫映姫に逢って志を見せようと思う熱心家が五人ありました。みな位の高い身分の尊い方で、一人は石造皇子、一人は車持皇子、一人は右大臣阿倍御主人、一人は大納言大伴御行、一人は中納言石上麻呂でありました。
(この五人のうち三人、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂には同名の、明確なモデルが存在します。残りの二人、石造皇子と車持皇子にもおそらくこうなのではないかという人物がいます)

 この人たちは思い思いに手だてをめぐらして姫を手に入れようとしましたが、誰も成功しませんでした。
(姫の世にもまれな美しさを否定するつもりはありませんが、公達らがそれ以上に黄金に関心を持っていたという推測はなされてもいい。彼らはたんなる色男である以上に、当時の国政を担う政治家たちでもありました。翁や姫が握っているとみられる、金の流通経路の可能性にもなみなみならぬ関心を示し、それが彼らをいっそう熱心にさせたのでしょう。ただ色恋だけに拠って立つ情熱なら、ここまで偏執的にならなかったに違いない)

 翁もあまりのことに思って、ある時、姫に向って、
「ただの人でないとはいいながら、今日まで養い育てたわしを親と思って、わしのいうことをきいて貰いたい」
 と、前置きして、
「わしは七十の阪を越して、もういつ命が終るかわからぬ。今のうちによい婿をとって、心残りのないようにして置きたい。姫を一しょう懸命に思っている方がこんなにたくさんあるのだから、このうちから心にかなった人を選んではどうだろう」
(翁の年齢に関しては、ここでは七十と言ったところが後の記述では五十という自己申告になり、矛盾が生じます。ただの誤記と言ってしまえばどうとでもなる部分ではありますが、この二十年という奇妙な差は気になるところです。なぜなら、この物語は、二十年という長い歳月をかけて進行するのだから)

 と、いいますと、姫は案外の顏をして答え渋っていましたが、思い切って、
「私の思いどおりの深い志を見せた方でなくては、夫と定めることは出来ません。それは大してむずかしいことでもありません。五人の方々に私の欲しいと思う物を注文して、それを間違いなく持って来て下さる方にお仕えすることに致しましょう」
 と、いいました。翁も少し安心して、例の五人の人たちの集っているところに行って、そのことを告げますと、みな異存のあろうはずがありませんから、すぐに承知しました。ところが姫の注文というのはなかなかむずかしいことでした。それは五人とも別々で、石造皇子には天竺にある佛の御石の鉢、車持皇子には東海の蓬莱山にある銀の根、金の茎、白玉の実をもった木の枝一本、阿倍の右大臣には唐土にある火鼠の皮衣、大伴の大納言には龍の首についている五色の玉、石上の中納言には燕のもっている子安貝一つというのであります。そこで翁はいいました。
「それはなかなかの難題だ。そんなことは申されない」
 しかし、姫は、
「たいしてむずかしいことではありません」と、いい切って平気でおります。翁は仕方なしに姫の注文通りを伝えますと、みなあきれかえって家へ引き取りました。
(難題そのものはあったに違いありませんが、五人の公達が屋敷の周りに集い、その五人に一斉に難題が布告されたという場面は、あくまで物語的な処理だろうと考えます。東洋史学者の宮崎市定は、歴史家の司馬遷が、史記のいくつかの場面の素材――たとえば、刺客荊軻による始皇帝暗殺未遂や、宦官趙高による鹿を指して馬となすの場など――を編纂当時の偶語劇から採用している可能性を指摘しました。竹取物語を確かな歴史として見る場合でも、あくまで多くの説話群を題材として集成して磨き上げた結晶のような物語的歴史であって、編纂作業の中では劇的な処理が行われる事もあるだろう、という前提を持つべきでしょう)

 それでも、どうにかして赫映姫を自分の妻にしようと覚悟した五人は、それぞれいろいろの工夫をして注文の品を見つけようとしました。
(本来の竹取物語では、五人の公達に割り振られた五つの難題の顛末は、次の順序で語られます。
 石作皇子…車持皇子…右大臣阿倍御主人…大納言大伴御行…中納言石上麻呂
 しかし、今回はあえてその順序を大きく崩します。彼らを、そのモデルとなったとされる歴史上の人物に比定し、彼らの歴史上の活動を反映して配置し直すのです。訂正された順序は以下の通り。
 大納言大伴御行…石作皇子=多治比嶋…右大臣阿倍御主人…中納言石上麻呂…車持皇子=藤原不比等
 彼ら一人一人の運命を、順番に追っていきましょう)

(一番)の大伴の大納言は、家来どもを集めて厳しい命を下し、必ず龍の首の玉を取って来いといって、邸内にある絹、綿、銭のありたけを出して路用にさせました。ところが家来たちは主人の愚かなことをり、玉を取りに行くふりをして、めいめいの勝手な方へ出かけたり、自分の家に引き籠ったりしていました。右大臣は待まちかねて、自分でも遠い海に漕ぎ出して、龍を見つけ次第矢先にかけて射落そうと思っているうちに、九州の方へ吹き流されて、烈しい雷雨に打たれ、その後、明石の浜に吹き返され、波風に揉まれて死人のようになって磯端に倒れていました。ようようのこと、国の役人の世話で手輿に乗せられて家に着きました。そこへ家来どもが駈けつけて、お見舞いを申し上げると、大納言は杏のように赤くなった眼を開いて、
「龍は雷のようなものと見えた。あれを殺しでもしたら、この方の命はあるまい。お前たちはよく龍を捕らずに来た。うい奴どもじゃ」
 とおほめになって、うちに少々残っていた物を褒美に取らせました。もちろん姫の難題には怖じ気を振い、「赫映姫の大がたりめ」と叫んで、またと近寄ろうともしませんでした。
(それどころか、彼はこのまま体を悪くして、やがて亡くなってしまったのではないでしょうか。
 歴史上の大伴御行は大宝元年一月十五日(701年2月27日)に薨去。大伴氏はもともと天皇直属の親衛隊を出自とする部民で、武門の家柄でした。竹取物語でもその側面が強調されているようで、家来に下知して人を動かし、自らもまた陣頭に乗りだすといった勇ましさは、たしかに軍事氏族のカリカチュアライズであるような気もします。
 しかし慣れない海の上、嵐に遭い、それを龍神の怒りだと船頭に諭されて、祈りを捧げてどうにか生還した。抄訳では省略されていますが、彼が海の上で縋った神は楫取の御神です。
 ちなみに、御行は先に述べた対馬からの黄金の献上にも関わっていました。死後に三田五瀬がこの詐欺を主導した事実が発覚するのですが、この人物のために贈右大臣(御行のこと)は誤ってしまった、と続日本紀に記されております)

(第二番)に、石造皇子はずるい方に才のあった方ですから、注文の佛の御石の鉢を取りに天竺へ行ったように見せかけて、三年ばかりたって、大和の国のある山寺の賓頭盧樣の前に置いてある石の鉢の真黒に煤けたのを、もったいらしく錦の袋に入れて姫のもとにさし出しました。ところが、立派な光のあるはずの鉢に螢火ほどの光もないので、すぐに注文ちがいといって跳ねつけられてしまいました。
(石作皇子のモデルについては、曖昧なところが多い。今回は宣化天皇の四世孫にあたる多治比嶋をここに置きましたが、彼は皇子ではないため、別の皇子だった可能性もある。ただ、この人は天武以来の皇親政治の中で持統・文武期に重用された公卿であり、別の皇子であってもそこはほぼ外れないのではないでしょうか。
 歴史上の石作皇子=多治比嶋は 大宝元年七月二十一日(701年8月29日)に薨去。大伴御行が亡くなってから半年後です。こうなると、三年ばかりももったいぶっていた暇があったのかというくらいの込み入りようで、ここは潤色の可能性があります。そして、彼はのんきに天竺に出かける事もできなかったのではないかとも想像できます。それでも、せめても、と思いながら大和国(原文では十市郡とまで細かく説明されている。当時の郡域はやや広くて、多武峰あたりまでが含まれているようです)の山寺に詣でた。賓頭盧には古くから除病の功徳があるとされているので、ここにも彼がすでになにかの病を得ていた事が示唆されているのかもしれません)

(第三番)の阿倍の右大臣は財産家でしたから、あまり悪ごすくは巧まず、ちょうど、その年に日本に来た唐船に誂えて火鼠の皮衣という物を買って来るように頼みました。やがて、その商人は、ようようのことで元は天竺にあったのを求めたという手紙を添えて、皮衣らしいものを送り、前に預った代金の不足を請求して来ました。大臣は喜んで品物を見ると、皮衣は紺青色で毛のさきは黄金色をしています。これならば姫の気に入るに違いない、きっと自分は姫のお婿さんになれるだろうなどと考へて、大めかしにめかし込んで出かけました。姫も一時は本物かと思って内々心配しましたが、火に焼けないはずだから、試して見ようというので、火をつけさせて見ると、一たまりもなくめらめらと焼けました。そこで右大臣もすっかり当てが外れました。
(歴史上の阿倍御主人は 大宝三年閏四月一日(703年5月20日)に薨去。ここまで老人の人死にが続いてしまうと、もっと年代の設定を遡って若い貴公子たちの恋の鞘当てにしてもよかったのではないかという指摘を受けそうなものですが、困ったことに、姫の難題が遠因で死没したと明確に描写される人物がこの後に控えているのです――しかしそれについては、彼自身の話をする時に行いましょう。
 ところでこの事件、原文には二人の重要人物が登場します。一人は小野房守という御主人の家人、もう一人は王けい(慶?)という中国の商人。
 小野房守は信頼のおける部下として御主人に選出された人です。小野といえば遣隋使で有名な小野妹子が想起されますが、この小野氏は実際に水運や海事に明るい家でもあったようで、九州や東北などの地方官僚を務めた者も多い。小野房守がその一族に連なる者だったとすれば、人選の理由の一つだったと想像する事はできる。
 小野が、火鼠の皮衣を入手するにあたって王けいとの折衝にあたりました――というより、筑紫において中国の商人と接触したのは、彼だけです。こうなると、この家人が御主人の目利き通り、真に信頼に足る人物だったのかどうか。もっと突っ込んだ推理が許されるなら、本当に王けいという中国商人は実在したのか、といった事も考えられます。
 またひとつ、奇妙な記述があります。原文では、小野房守は筑紫にて王けいから貰い受けた品物を携えて、わずか七日で京まで上っています。延喜式に定められている筑紫~京間の正式な行途は十四日ですので、半分の時間で山陽道を駆け上っていった事になります。そして、火鼠の皮衣を入手するにあたってあらかじめ小野の手を介して渡していた前払金は超過してしまい、王けいが立て替えた差額五十両があるので、それをいただきたい、と申請しました。欲している物を手に入れて心が浮ついている御主人は、小野に金五十両を渡します。
 そのまま小野房守は竹取物語の記述から姿を消しました。永遠に。
 ところで阿倍氏といえば飛鳥・奈良時代における豪族の大重鎮でしたが、当時は阿倍という一つの家から分立した二系統――布施系と引田系――の氏族という意識が強かったようで、阿倍朝臣に改姓されたのが御主人の死の十年ほど前。改姓によって二系統は再合流しましたが、微妙なわだかまりなどは当時もまだあったようです。本来は布施御主人と呼ぶべき人なのかもしれません。
 別系統の阿倍引田氏といえば、代表的人物は阿倍比羅夫でしょう。蝦夷の服属や粛慎征伐、また白村江の戦いの指揮などを歴任した前世代の人物ですが、この人は唐や新羅の侵攻に備えて筑紫に大宰帥として赴任した経験があります。本編より何十年も昔の話ですが、筑紫現地における地縁と影響力は、中央に根ざす阿倍布施よりも、地方官僚的な性格も併せ持っていた阿倍引田の方が強かったのではないか。そしてなんらかの妨害があったのではないか。
 ちなみに、この時点で筑紫に着任している大宰帥こそ、次の花婿候補たる石上麻呂なのですが、彼が姫の難題に挑戦するまで、これより十数年の月日が流れます)

(四番)の石上の中納言は燕の子安貝を獲るのに苦心して、いろいろと人に相談して見た後、ある下役の男の勧めにつくことにしました。そこで、自分で籠に乗って、綱で高い屋の棟にひきあげさせて、燕が卵を産むところをさぐるうちに、ふと平たい物をつかみあてたので、嬉しがって籠を降す合図をしたところが、下にいた人が綱をひきそこなつて、綱がぷっつりと切れて、運わるくも下にあった鼎の上に落ちて眼を廻しました。水を飮ませられて漸く正気になった時、
「腰は痛むが子安貝は取ったぞ。それ見てくれ」
 といいました。皆がそれを見ると、子安貝ではなくて燕の古糞でありました。中納言はそれきり腰も立たず、気病みも加わって死んでしまいました。五人のうちであまりものいりもしなかった代りに、智慧のないざまをして、一番惨い目を見たのがこの人です。
(石上麻呂は霊亀三年三月三日(717年4月22日)に薨去。物語の中で明確に死没していて、しかも姫の難題が死の遠因である事が明らかにされている人物です。ちなみに彼は中納言と呼びならわされていますが、実際に中納言に任じられたのはごく短い期間でした。
 それにしても、阿倍御主人の失敗から石上麻呂の挑戦まで、なぜここまで年月が経ってしまったのか。
 きっと、それどころではなかったのでしょう。大宝・慶雲・和銅・霊亀と元号を跨いだ間には、目まぐるしい体制の変化がありました。大宝律令の制定にともなう大人事異動、新都平城京の整備と遷都、そして和同開珎の発行――公達たちの姫への執着の一端が黄金にあったとするなら、この国家初の流通貨幣とされている銅銭は、讃岐造がかつて献上し、今後も無秩序に流通する恐れがある、無尽蔵の黄金に対する防衛措置だった可能性すらあります。
 また、平城京の遷都にあたって、石上麻呂は左大臣でありながら旧都藤原京の留守官となりました。これは藤原氏による新都からの排斥との見方が通説となっております。
 そもそもこの石上麻呂という人物――天武期に改姓するまでは物部氏でしたが――は、壬申の乱では敗者側である近江朝に最後までつき従い、戦後に赦されたのち位人臣を極めた人物です。古豪である物部の氏上として無碍にも扱えないという政治的事情はあったでしょうが、その忠誠心を買われたと見る向きもある。
 竹取物語における石上麻呂も、どこか人の良さを思わせる雰囲気があります。遷都にともない大臣や官僚がすっかり少なくなって、蜘蛛の巣が張っていそうな藤原京の大炊寮の飯炊ぐ屋の棟の下で、くらつ麻呂という、寮の官人をしていた取るに足らないおじいさんとすら額を突き合わせ、知恵を絞って燕の子安貝を獲ろうとした石上麻呂の姿は、色男というより、孫娘くらいの女の子のわがままに振り回されながら奮闘する、年甲斐もないお祖父さんといったおもむきがあって、これはこれで興味深いものがあります。年甲斐もないついでに貝も無かったのですが……)

(第五番)に、車持皇子は、蓬莱の玉の枝を取りに行くといいふらして船出をするにはしましたが、実は三日目にこっそりと帰って、かねがねたくんで置いた通り、上手の玉職人を多く召し寄せて、ひそかに注文に似た玉の枝を作らせて、姫のところに持って行きました。翁も姫もその細工の立派なのに驚いていますと、そこへ運わるく玉職人の親方がやって来て、千日あまりも骨折って作ったのに、まだ細工賃を下さるという御沙汰がないと、苦情を持ち込みましたので、まやかしものということがわかって、これも忽ち突っ返され、皇子は大恥をかいて引きさがりました。
(左大臣石上麻呂の死は、国政を執り行うべき太政官に空席を生じさせました。同時期に巨勢麻呂という中納言が薨去したのもあって、太政官はわずかに二人という運営体制になってしまったのです。
 このただ二人の太政官というのが、阿倍宿奈麻呂(阿倍比羅夫の息子なので、布施系統ではなく引田系)と車持皇子=藤原不比等でした。
 石作皇子と同じく、車持皇子もモデルのはっきりしない人物の一人ですが、藤原不比等は母方の出自に車持氏という氏族があり、また天智天皇の落胤説があるという点で、車持皇子=藤原不比等という説は比較的よく知られています。まず歴史上の大人物という事もあるでしょう。
 よく知られるように車持皇子=藤原不比等は藤原氏千年の礎を築いた大政治家ですが、その業績を見ると政争によって他者を蹴落としたという雰囲気はあまりなく、どちらかといえば各方面の折衝や調整に気をつかって事が起こらぬ事を第一にする、協調型の官僚としての性格が強い人物です。もちろん一族の繁栄を追い求めてはいますが、無理な政争によってこの刷新したての律令国家に混乱を起こす事までは望んでいなかった事も確かです。
 太政官の欠員を補充できなかった背景にも、そうした良く言えば協調主義、悪く言えば事なかれ主義な面が見て取れます。そもそも太政官の枠は慣例的に一氏から一人のみ選出されるという体制が原則であって、そのために有力豪族間の牽制や一族内部の暗闘が常態化していた。太政官の席が争いの火種となるのならば、もはや欠員を補充しない形で国政を執り行っていくほかない。
 竹取物語をひとつの歴史として組み込んだ時に起こる、最大の問題がここにあります。そんな有り様の国政で、はたして車持皇子=藤原不比等は、千日あまりの船旅に出たふりなどして金銀細工の指導に精魂傾けるような、そんな暇があったのかどうか。あるわけないでしょうとちゃぶ台返しをしたい気分ですが、真面目に考えましょう。
 車持皇子=藤原不比等は、国政が機能不全を起こす事を回避するために、あらゆる手立てを用いました。まず太政官の欠員補充を行うため、次男房前を非正官ではあるものの参議朝政に昇進させました。また長男武智麻呂は侍従職の経験があって、長屋王を始めとした政治能力のある皇親らとの連携を密にする事ができました。そして車持皇子=藤原不比等が政務を退いた後は嫡男として太政官への任官が既定路線でもあった。こうした合わせ技で、まず藤原氏は一人一氏の太政官の慣例を破りました。また按察使という地方行政にかかわる例外官を新たに設置し、その一人に三男の宇合をつけます。養老への改元にかこつけた太政官再編の機運のきっかけを作ったのは四男麻呂でした。
 この四兄弟は家を分家させてもいます。これもまた一人一氏の不文律を突き崩す手段の一つで、藤原四家の始まりでもあり、同根の一族が何世紀にもわたって国政を独占するという異様な歴史の、始まりの一手でした。
 そして本題。政治家としての晩年、これだけの仕事をしている間に、車持皇子=藤原不比等には姫を落とす暇があったのか?――難しいところですが、意外に単純な答えがあるような気がします。つまり、ただの色事だったらやる暇すら無いかもしれないが、仕事だとすれば暇が無かろうがやる必要がある。
 車持皇子=藤原不比等の懸念としてあったのは、例によって姫がもたらす富の力でしたが、それ以上のものもありました。ここまでさんざんと太政官の人事について述べてきましたが、こうした国家運営を担った官僚とは、実質や規模で比べものにならないものの、形式上これと同格になる官制が存在していたのです。
 それは神祇官と呼ばれ、朝廷祭祀を執り行う官僚たちを統括する組織でした。
 この神事的な職については、代表的な二つの氏族の名前がよく挙がります。
 ひとつは中臣氏。藤原氏の家祖中臣鎌足の本系にあたる一族。
 もうひとつは忌部氏。嫋竹の赫映姫の名付け親である、御室戸斎部の秋田が属する一族。
 二つの氏族はこの時以来何世代にもわたり、朝廷の神官職を争う事になります――そして、常にと言っていいくらい、中臣=藤原氏が勝利した。
 藤原氏が国政の中枢を一手に握り始めたこの時期、忌部氏が中臣氏を圧倒して神官職を藤氏の蔓の届かない領域にできる可能性があったのは、この、竹の中からやってきた奇妙なお姫様を擁して財をちらつかせた十数年間だけだったでしょう。
 また、いささか牽強付会な説ですが、そもそも讃岐造という人も忌部氏の一族だった可能性はある。讃岐忌部氏は手置帆負命を祖神としていて、この神様は木や竹を加工し、一族は祭具の矛竿や盾を作ることを生業としていました。忌部氏の一族はこうした職能が得手だったのです。讃岐忌部と同じく木を加工し、宮殿の建材を奉納する紀伊忌部、麻や木綿などを奉納する阿波忌部、玉を造る玉造の一族である出雲忌部……
 玉造といえば、姫が車持皇子=藤原不比等に与えた蓬莱の玉の枝の難題です。本文の通り、彼はこの宝物を偽造して失敗するのですが、ここで彼が偽造を依頼したのは、あやべの内麻呂という人を工匠とする集団。あやべは漢部と考えられます。漢部氏は工芸・工作に長けた渡来系の技術部民を中核としていて、彼らの技術をもってすれば蓬莱の玉の枝を偽造できること自体に疑問はありません。
 しかし車持皇子=藤原不比等は失敗した。なぜでしょうか。物語にあるような報酬の滞りが実際にあったとしても、本当にこのような形の失敗だったのか、どうか。
 古語拾遺という書物があります。平安時代初期に斎部広成という忌部氏の後裔が編纂したもので、中臣=藤原氏が神官職を独占していくにあたって、忌部=斎部氏が訴訟を行い、その存在感を主張する資料です。そこに以下のようにある。
“神祇官神部、可有中臣・斎部・猿女(メモ:猿女君は稗田氏の遠祖とされている)・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻続等氏。而、今唯有中臣・斎部等二三氏、(神祇官を担う神部は、本来中臣・斎部・猿女・鏡作・玉作・ 盾作・神服・倭文・麻続らの諸氏があった。しかし今ではただ中臣・斎部ら二、三氏しかおらず……)”
 政争に勝利したものの、中臣=藤原氏の周囲にはもはや助力を願える祭祀の家の諸氏すら姿を消しつつあったのではないでしょうか。
 どんでん返しのような結末をもたらしたのは、こうした古氏族の抵抗もあったかもしれません。彼らの中には、同じ玉造の部民もいて、新興の同業者の動向には敏感だったでしょう。そうして蓬莱の玉の枝を偽造するという情報を得た後は、あやべの内麻呂によからぬ考えを吹きこんだり、どうとでもできる事なのですから。
 いずれにせよ、車持皇子=藤原不比等は姫の難題を叶えられず、求婚に失敗した。しかし国政のかじ取りは息子たちに託されつつあったし、失敗したら失敗したで、晩年の老人が恥をかくだけでしかないとも考えていたかもしれません。
 竹取物語の原文では、このまま恥をかいた車持皇子=藤原不比等は、人前から姿を消して、行方知れずになってしまったそうです。ですが、歴史上の藤原不比等の死没ははっきりしている。ここは潤色と捉えるべきなのでしょうか。
 歴史上の藤原不比等、養老四年八月三日(720年9月9日)に薨去)

 そのうちに、赫映姫が並ぶもののないほど美しいという噂を、時の帝がお聞きになって、一人の女官に、
「姫の姿がどのようであるか見て参れ」
 と仰せられました。その女官がさっそく竹取の翁の家に出向いて勅旨を述べ、ぜひ姫に逢ひたいというと、翁はかしこまってそれを姫にとりつぎました。
(この女官ですが、原文では内侍中臣のふさ子となっています。当然中臣氏の女性であり、こうした人が帝のおそばにいるところを見ると、別に車持皇子=藤原不比等が赤っ恥をかいたところで、歴史としてはなにも影響がなかった、という事なのでしょうね)

 ところが姫は、
「別によい器量でもありませぬから、お使いに逢うことは御免を蒙ります」
 と拗ねて、どうすかしても、叱っても逢おうとしませんので、女官は面目なさそうに宮中に立ち帰ってそのことを申し上げました。帝は更に翁に御命令を下して、もし姫を宮仕えにさし出すならば、翁に位をやろう。どうにかして姫を説いて納得させてくれ。親の身で、そのくらいのことの出来ぬはずはなかろうと仰せられました。翁はその通りを姫に伝えて、ぜひとも帝のお言葉に従い、自分の頼みをかなえさせてくれといいますと、
「むりに宮仕えをしろと仰せられるならば、私の身は消えてしまいましょう。あなたのお位をお貰いになるのを見て、私は死ぬだけでございます」
 と姫が答えましたので、翁はびっくりして、
「位を頂いても、そなたに死なれてなんとしよう。しかし、宮仕えをしても死なねばならぬ道理はあるまい」
 といって歎きましたが、姫はいよいよ渋るばかりで、少しも聞きいれる様子がありませんので、翁も手のつけようがなくなって、どうしても宮中には上がらぬということをお答えして、
「自分の家に生れた子供でもなく、むかし山で見つけたのを養っただけのことでありますから、気持ちも世間普通の人とはちがっておりますので、残念ではございますが……」
 と恐れ入って申し添えました。帝はこれを聞し召されて、それならば翁の家にほど近い山辺に御狩りの行幸をする風にして姫を見に行くからと、そのことを翁に承知させて、きめた日に姫の家におなりになりました。
(帝は狩りを装って、姫の家の近くまで行幸をなさりました。もちろん男装で、身軽な軽装です)

すると、まばゆいように照り輝ぐ女がいます。これこそ赫映姫に違いないと思し召してお近寄りになると、その女は奧へ逃げて行きます。その袖をおとりになると、顏を隠しましたが、初めにちらと御覽になって、聞いたよりも美人と思し召されて、
「逃げても許さぬ。宮中に連れ行くぞ」
 と仰せられました。
(時のすめらみことは、やまとねこたかみずきよたらしひめ――元正天皇。彼女は、おそらく、日本史上もっとも美しかった女帝であります)

「私がこの国で生れたものでありますならば、お宮仕えも致しましょうけれど、そうではございませんから、お連れになることはかないますまい」
 と姫は申し上げました。
「いや、そんなはずはない。どうあっても連れて行く」
 かねて支度してあったお輿に載せようとなさると、姫の形は影のように消えてしまいました。帝も驚かれて、
「それではもう連れては行くまい。せめて元の形になって見せておくれ。それを見て帰ることにするから」
 と、仰せられると、姫はやがて元の姿になりました。帝も致し方がございませんから、その日はお帰りになりましたが、それからというもの、今まで、ずいぶん美しいと思った人なども姫とは比べものにならないと思し召すようになりました。それで、時々お手紙やお歌をお送りになると、それにはいちいちお返事をさし上げますので、ようようお心を慰めておいでになりました。
(彼女――元正天皇も、不思議な立場でした。短命な弟帝が亡くなって、緊急措置として実母が高御座につきました。そして幼い甥っ子が正統な次期後継者になりながら、その間にある空白を埋める存在が必要となった時、彼女自身は自分の存在価値はそんなものだろう、と思い定めていたかもしれない。
 ありていに言えば、元正天皇は文武、聖武と続いていくべき天武・持統皇統を繋ぐための、中継ぎの、その場しのぎの天皇でした。ただそこにいて、弟の系統である次代に繋ぐ事ができればそれでよくて、自分自身の系統が生えるのはよくない事だと周囲から思われている。
 美しい彼女は未婚でした。生涯未婚でした。
 もっとも、元正天皇はけっして無能なお飾り女帝ではなく、有能な者に国政を委ねる、その判断を下す事ができる為政者でもあった。その手腕があってこそ、後に長屋王は藤原不比等亡き後の皇親政治を敢行する事ができたし、それに反発した藤原四兄弟が長屋王を失脚させる事も許したのです。
 日の本にあるすべては調和しているが、日は月に覆われている。)

 そうこうするうちに三年ばかりたちました。その年の春先から、赫映姫は、どうしたわけだか、月のよい晩になると、その月を眺めて悲しむようになりました。それがだんだんつのって、七月の十五夜などには泣いてばかりいました。翁たちが心配して、月を見ることを止めるようにと諭しましたけれども、
「月を見ずにはいられませぬ」
 といって、やはり月の出る時分になると、わざわざ縁先などへ出て歎きます。翁にはそれが不思議でもあり、心がかりでもありますので、ある時、そのわけを聞きますと、
「今までに、度々お話しようと思いましたが、御心配をかけるのもどうかと思って、打ち明けることが出来ませんでした。実を申しますと、私はこの国の人間ではありません。月の都の者でございます。ある因縁があって、この世界に来ているのですが、今は帰らねばならぬ時になりました。この八月の十五夜に迎えの人たちが来れば、お別れして私は天上に帰ります。その時はさぞお歎きになることであらうと、前々から悲しんでいたのでございます」
 姫はそういって、ひとしお泣き入りました。それを聞くと、翁も気違いのように泣き出しました。
(ここから先の描写については、歴史的に多くは語れません。天からやってきた者たちや月の都の人の歴史を知っていたなら、語れる部分もあるのでしょうが……)

「竹の中から拾ってこの年月、大事に育てたわが子を、誰が迎えに来ようとも渡すものではない。もし取って行かれようものなら、わしこそ死んでしまいましょう」
「月の都の父母は少しの間といって、私をこの国によこされたのですが、もう長い年月がたちました。生みの親のことも忘れて、ここのお二人に馴れ親しみましたので、私はお側を離れて行くのが、ほんとうに悲しゅうございます」
 二人は大泣きに泣きました。家の者どもも、顏かたちが美しいばかりでなく、上品で心だての優しい姫に、今更、永のお別れをするのが悲しくて、湯水も喉を通りませんでした。
 このことが帝のお耳に達しましたので、お使いを下されてお見舞いがありました。翁は委細をお話して、
「この八月の十五日には天から迎えの者が来ると申しておりますが、その時には人数をお遣わしになって、月の都の人々を捉えて下さいませ」
と、泣く泣くお願いしました。お使いが立ち帰ってその通りを申し上げると、帝は翁に同情されて、いよいよ十五日が来ると高野の少将という人を勅使として、武士二千人を遣って竹取の翁の家をまもらせられました。
(この高野という人は、由緒がよくわかりません。ただ即座に想起できるのは、これより何十年ものちに高野天皇と称された孝謙・称徳天皇と、桓武天皇の実母であったために特例で高野の姓を賜った高野新笠。新笠の父方の一族である和連氏は、孝謙・称徳天皇が葬られたとされる高野山陵のある添下郡あたりを治めていたようなので、こうしたところにつらなる一族でしょうか?)

 さて、屋根の上に千人、家のまわりの土手の上に千人といふ風に手分けして、天から降りて来る人々を撃ち退ける手はずであります。この他に家に召し仕われているもの大勢手ぐすね引いて待っています。家の内は女どもが番をし、お婆さんは、姫を抱えて土蔵の中にはいり、翁は土蔵の戸を締めて戸口に控えています。その時姫はいいました。
「それほどになさっても、なんの役にも立ちません。あの国の人が来れば、どこの戸もみなひとりでに開いて、戦おうとする人たちも萎えしびれたようになって力が出ません」
「いやなあに、迎えの人がやって来たら、ひどい目に遇わせて追っ返してやる」
 と翁はりきみました。姫も、年寄った方々の老先も見届けずに別れるのかと思えば、老とか悲しみとかのないあの国へ帰るのも、一向に嬉しくないといってまた歎きます。
 そのうちに夜もなかばになったと思うと、家のあたりが俄にあかるくなって、満月の十そう倍ぐらいの光で、人々の毛孔さえ見えるほどであります。その時、空から雲に乗った人々が降りて来て、地面から五尺ばかりの空中に、ずらりと立ち列びました。「それ来たっ」と、武士たちが得物をとって立ち向おうとすると、誰もかれも物に魅われたように戦う気もなくなり、力も出ず、ただ、ぼんやりとして目をぱちぱちさせているばかりであります。そこへ月の人々は空を飛ぶ車を一つ持って来ました。その中から頭らしい一人が翁を呼び出して、
「汝翁よ、そちは少しばかりの善いことをしたので、それを助けるために片時の間、姫を下して、たくさんの黄金を儲けさせるようにしてやったが、今は姫の罪も消えたので迎えに来た。早く返すがよい」
 と叫びます。翁が少し渋っていると、それには構わずに、
「さあさあ姫、こんなきたないところにいるものではありません」
 といって、例の車をさし寄せると、不思議にも堅く閉した格子も土蔵も自然と開いて、姫の体はするすると出ました。翁が留めようとあがくのを姫は静かにおさえて、形見の文を書いて翁に渡し、また帝にさし上げる別の手紙を書いて、それに月の人々の持って来た不死の薬一壺を添へて勅使に渡し、天の羽衣を着て、あの車に乗って、百人ばかりの天人に取りまかれて、空高く昇って行きました。これを見送って翁夫婦はまた一しきり声をあげて泣きましたが、なんのかいもありませんでした。
 一方勅使は宮中に参上して、その夜の一部始終を申し上げて、かの手紙と薬をさし上あげました。
(これより数年前、養老への改元に際しては、元正天皇が美濃国不破宮に行幸して、その美泉に浸かれば肌がなめらかになり痛むところも消え、白髪も黒髪に戻った、として元号を養老に改めた(ついでに、この時の美濃介が藤原四兄弟の四男麻呂でした)という記述が、続日本紀の養老元年十一月癸丑条にある。元正天皇は美しい方だったと伝わっていますが、当時はもう四十代。甥聖武への譲位は間近になっていて、気苦労も衰えもありました)

 帝は、天に一番近い山は駿河の国にあると聞し召して、使いの役人をその山に登らせて、不死の薬を焚かしめられました。
(原文では、調岩笠という人が不死の薬を焼く役人として選ばれました。調氏といえば東漢系の渡来人氏族で、大宝律令の編纂に貢献した調老人、壬申の乱で天武天皇に従った調淡海などが著名人でしょうか。この人選が“つき”の語呂合わせである事は明らかです)

 それからはこの山を不死の山と呼ぶようになって、その薬の煙は今でも雲の中へ立ち昇るということであります。
(富士山が活火山であった時代の事です)
東方Projectは竹取物語史観を受け容れろ
かはつるみ
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コメント



0.150簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
3.無評価福哭傀のクロ削除
 読み物としては(歴史に弱い私には難しいところがあったと言ったうえで)面白いですが、これって東方以前に作品……なのでしょうか……?
声を大にしてこんなの作品じゃねえ!なんていうつもりはなく、面白い試みだなーと思うし内容は楽しめたし、これは作品だろ!っていう人が多くいてもそーなのかーって異議は特にないです。歴史解説って面白いし、作品の解釈が広がるのは基本的に良きこと。楽しめました。
4.100名前が無い程度の能力削除
歴史には疎いのでこの作品の魅力を理解しきれてはいないのですが、それでも根幹にある竹取物語という馴染みのある物語が解体されていくようで、面白かったです。
5.100南条削除
面白かったです
読んでいるうちにどんどん引き込まれて行きました
理解しきれているとは言い難いですが、とても面白かったです
6.90東ノ目削除
「天からやってきた者たちや月の都の人の歴史を知っていたなら、語れる部分もあるのでしょうが……」で一瞬だけ東方に回帰してきたなと思いました