西の聖職者が死んだ。
穏やかだが奇妙な男だった。いつ頃からか、里の出口から西に数里ほど外れたあばら屋に住み着いていた。里の出身ではなく外来人、それも海の向こうから来たらしかった。見るからに里の者とは人相がかけ離れていたせいで、やれ妖怪だこれ神の一柱だと口さがない連中が気ままに邪推したが、結局はよく判らなかった。
敬虔なことは間違いなかった。たまたま男の住む家の近くに田んぼを持つ農民曰く、男はずっと神に祈っているとのことだった。この世すべての人々が幸福になれる日の到来を祈っているのだと。そいつは殊勝なことだ、と感服した農民が分けてやることにした食料で男は食い繋いでいた。二・三ヶ月に一度、里で細々とした説教を開いて得た金で粗末な日用品を買った。
だが、誰も男の信奉する神が誰なのか知らなかった。日頃から熱心に祈りを捧げる対象を、男は自分の説教を好んで聴く里の者にすら明かさなかった。特に害があるわけでもなく、信仰を押し付けてくるわけでもなく、神なんて珍しくもない幻想郷において、それはわざわざ詰め寄ってまで問いただすほどのことではなかった。そして永遠に聞く機会は失われた。男は正しく孤立無縁であった。家族も縁者も近親の者もなかった。全人類の幸福を願った男は、誰に看取られることもなく一人で死んだ。よって、事切れた彼の遺体が腐り始めるよりも早く発見されたのは僥倖としか言いようがなかった。
身寄りの無かった男の葬儀を、霊夢が担うこととなった。通常、無縁仏の供養などは命蓮寺の連中が張り切ってちゃっちゃと済ませてしまうものだが、霊夢はなんだかんだと理屈をつけて頑なに供養を譲ろうとせず、結局完全に外部の者を締め出してしまった。不思議なこともあるもんだ、と小さな賢将などは大いに首を傾げていた。
そうして無理くりもぎ取った葬儀はと言えば、別にこれといって特別なものでも無かったようだった。北枕に寝かせた男の枕元に守刀を置いて、棺やら死装束やら必要なものをテキパキと手配して、しめしめと忍び込もうとした卑しい火車猫の尻を蹴っ飛ばして、参列者の誰もいない通夜で祭詞を唱えたのち、火葬場で遺体を焼いた。
何の面白みもない簡素な式。
ただ、淡々と式次第をこなす霊夢の表情は、濡れた刀のように酷薄であった。
次の日から、博麗霊夢の様子が少しだけおかしくなった。
◆
幻想暦第139季・葉月の三
高麗野あうんの証言
霊夢さんの様子? あー、確かに最近、ちょっと変ですよね。
でも、聞いても何も教えてくれないんです。何でもないのよ、って。だから本当に何でもないんだ、って思うようにしてるんですけど、それでもやっぱり違和感はあるなぁ。隠し事されてるのかなぁ? でもでも、霊夢さんはそんな人じゃないし。
異変? ではないと思います。異変の時の霊夢さんは、もっとまっすぐですもん。記者さんも知ってると思いますけど。
具体的にですか? はいはい。そうですねぇ。一言で言うと、何だかそわそわしてます。まるで骨を隠した場所を忘れた柴犬みたいに。何をしてても落ち着かないみたいに見えますね。この前も、せっかく鈴奈庵で借りてきた小説を、最初の数ページしか読まずに返しちゃったりして。変ですよね? 変ですよね?
あとは、何だろう、よく引きこもってますね。引きこもるって言っても、いつもみたいにぐうた……じゃないや、のんびりしてる感じじゃなくて。
判らないんですよね。引きこもって何をしてるのか。
いつもだったら縁側とか居間とかにいるじゃないですか。でもそうじゃないんです。蔵にいるんです。蔵の中に引きこもってるんです。こんな暑いのに、灯りだけ持って蔵の中に入って、戸も締め切って、そうして何時間も出てこないんです。私、一回だけ心配になって霊夢さんをお呼びに行ってみました。でも追い返されちゃいました。あっち行ってて、って。絶対に入って来ないで、って。誰かが来たら追い払って、って。そんな風に言われたら私、霊夢さんのためにそうしないわけにはいきません。
今ですか? 今は霊夢さんは居ません。どこかに行っちゃいました。
それも何だか変だなぁ、って気持ちです。最近、多いんです。霊夢さんが何も言わず、急に思い立ったみたいにどこかへ飛び出して行っちゃうんです。そして、夜になっても帰って来ないんです。遅くなってようやく帰ってきたと思ったら、疲れてるみたいですぐ寝ちゃうし。どこに行ってたか聞いても、はぐらかされちゃいます。いつもなら、そんなこと無いのになぁ。
はい。心配です。でも、私は霊夢さんを信じてますから。
霊夢さんがどこで何をしていたとしても、必ず霊夢さんをお守りするのが私、高麗野あうんなのです。
◆
幻想暦第139季・葉月の五
サニーミルクの証言
え? 霊夢さん?
うんうん、見た見た。見たわ。人間の里の西の方に、汚い家の残骸みたいなのがあるじゃない。あそこに居た。結構入り浸ってるみたいで、あの家の中に入るのを何回か見たわ。
でも、あそこ変だよ。気持ち悪いの。だから、行かない方がいいよ。
何かあった、ってもんじゃないわ。あそこ、お化けの家よ。いや、お化けは居なかったけど。えっとね、うん、えっと、どれくらい前だったっけな。忘れちゃった。でも、霊夢さんがあの家に入っていくのを見たの。それで私、おかしいなって思って。だってあんなところ、ばっちぃじゃない。柱も腐ってるし、天井に穴も空いてるし、埃も塗れてるし。だから何してるのかな、って、姿を消しながらこっそり覗いてみたの。そしたら霊夢さん、何もしてなかった。
本当に何もしてないの。ただ家の真ん中に座って目を閉じて、ジッとしてるんだ。石にでもなっちゃったみたいに。だから、石でも投げて邪魔してやろうかなってちょっぴり思ったけど、やめた。何だか邪魔したら殺されそうな雰囲気だったから。私、そういうの判っちゃうんだよね。でも寝てるわけでもないのに、ずっと動かないから、見てる私の方が眠くなっちゃって。
起きたら夜だったわ。霊夢さんはもう居なかった。だから私、その家に入ってみたの。そしたら、びっくりしたんだけど、その家の中、とっても涼しかったの。変だよね。あの家、壁にも天井にも穴空いてるのに、外よりもずっと中の方が涼しいの。でもそれで、私はピンと来たってわけ。つまり霊夢さんは、その家の中が涼しいって知ってたから、中で過ごしてたのよ。いわゆる避暑地ってやつね。こんなに暑けりゃ冷房代も馬鹿にならないから、ナイスアイディアよね。
だから私、そこを私の別荘にしようと思ったの。
家はボロボロでばっちぃけど、それは直したり掃除したりすればいいし。霊夢さんが来て追い出されるかもしれないけど、ずっとは居ないだろうから、霊夢さんが居ない時だけ私が使えばいいじゃない? 寝苦しい夜も快適に過ごせるわ。そうと決まれば善は急げ。私、家から掃除道具を取ってきて、さっそく掃除を始めたの。
でも、すぐにダメだと思い知ったわ。
だって、家の中にいればいるほど、変な気持ちになってくるのよ。
何というか、すっごく、謝らなくちゃいけない、って思えてくる、みたいな。
気が付いて、自分でも驚いたんだけど、掃除しながら私、泣いてたのよね。泣きながら謝ってたの。ごめんなさい、ごめんなさい、って。それは、ルナやスターに対しても言ってたし、今までイタズラしてきた人間とか妖怪とかにも謝ってたし、霊夢さんとかにも、あの時あんなことしてごめんなさい、って繰り返してたの。そのうち、この世界には不幸な人がたくさんいるのに、私だけ元気に過ごしててごめんなさい、って、私、イタズラばっかりする妖精でごめんなさい、ってなって、そこで変だって思って家の外に飛び出した。そしたら、ピタッと変な気持ちは無くなったわ。もう、ぞーってしちゃって、慌てて家に帰ったわ。
だからあの家は変よ。お化け屋敷よ。涼しかったのもきっと、幽霊か何かのせいだったのよ。陰気な感じはしなかったけど、きっとそうだわ。
……でも、霊夢さん。あんな変な家に入り浸ってて、大丈夫なのかしら?
◆
幻想暦第139季・葉月の八
赤蛮奇の証言
昨日の事件のことなら、確かに見てたよ。
いやぁ、びっくりしたわよ。うん。あんな光景、二度とお目に掛かれないでしょうね。
まぁ、二度目は勘弁願いたいけど。
どこから話したもんかな。私が茶屋のバイトを終わらせて長屋に戻る途中にいつも通り掛かる空き地があって、普段はその辺の子供たちが遊んでいるんだけどね。昨日は様子が違ったのよね。いつも以上に騒がしくって、どうも子供同士で言い争いをしていたみたい。別に私も人間の子供が喧嘩してようが興味ないんだけど、聞こえてきた言葉があんまりにも変だったもんだから、ついつい足を止めちゃった。そこには三人の子供がいて、浅葱色の着物の男の子と、鳶色の着物の男の子が言い合いしてて、それよりもちょっと小さい桃色の着物の女の子が、言い合う二人の間でオロオロしてる、みたいな感じだった。
で、変なことを言ってたのは、その浅葱色の子だったみたいね。必死になって、鳶色の子に言ってた。
お前は明日、足の骨を折るからな、って。
何それ。変な脅し文句。夜道に気を付けな、みたいな? って思った。でも、それにしちゃ奇妙って言うか、骨を折ってやる、みたいに脅迫するなら、別にそれを明日に回す必要ないじゃない? ズレてるなーって思って、何となく聞いてたのよ。ほら、火事と喧嘩は何とやら、っていうじゃない。ま、ここは江戸じゃないけどさ。
でも、聞いてたら、あれ? ちょっと違うな、ってことに気付いたのよね。
やめろよ、気味悪いだろ、って鳶色の子が言うのよ。そしたら浅葱色の子が、
「俺には判るんだ、俺は未来が判るようになったんだから」
なんて言い出して、雲行きが怪しくなってきたな、って思った。
どうも足の骨を折る、ってのは脅迫じゃなくて忠告だったみたいなのよね。でも、明日のことなんて誰にも判らないでしょ。普通。いきなりそんなこと言われたら、確かに不気味だしさ。だから鳶色の子は変な冗談だと思ったけど、あまりに浅葱色の子が真剣に言ってくるもんだから、言い合いになっちゃった、っていう感じだったみたい。
「俺は朝起きた瞬間に、今日の朝飯に茄子と明日葉の味噌汁が出てくると判った。そして、その通り茄子と明日葉の味噌汁が出てきた。遊びに出かける前、向かいの長屋の婆ちゃんが俺に飴玉をくれることが判った。その通り、俺は飴を貰ったんだ。それだけじゃない。今日の夕刻ごろに大雨が降り出すことも判るし、俺の今夜の晩飯にニジマスの塩焼きが出ることも判る。判るんだよ」
なんて、浅葱色の子が必死に言うのよ。
とても嘘や出鱈目を言っているようには見えなかった。でもだからこそ、異様よね。だって妖怪や神様でも、そう簡単には未来なんか判りゃしないでしょ。なのに人間の、それもあんな子供が未来を確信してるのは完全に異様としか言いようがなかった。鳶色の子が、
「そんなら証明してみろよ!」
って食ってかかったら浅葱色の子が、
「もうすぐ博麗の巫女さまが来る! 巫女さまが証明してくれるさ!」
「お前のために巫女さまなんて来るわけないだろ! いい加減にしろ!」
「いいや、来るんだ! 俺には判るんだ!」
「うるせえ! この判らず屋が!」
なんて鳶色の子がいよいよ激昂して拳を振りかぶったあたりで、あ、そろそろまずいかな、って流石に思ってさ。いや、どうでもいいのよ? 私妖怪だから、どうでもいいんだけど、見てた手前というか、大人としてというか、このまま殴り合いに発展しても夢見が悪いしな、って思って止めようとしたら、いつの間にか鳶色の子が振りかぶった手を誰かが掴んでて、その誰かが本当に霊夢だったもんで、私びっくりしちゃって。
「あ、巫女さま……」
なんて、鳶色の子も完全に戦意喪失しちゃってさ。
で、それって完全に浅葱色の子が言った通りになったわけじゃん。私も困惑したけど、鳶色の子と、それとずっとアワアワしてるだけだった桃色の女の子の顔ったら、それこそ妖怪でも見たみたいだったわ。ま、実はずっといたんだけどね、私が。まぁ、それはいいとして。
私の位置からだと霊夢の顔は見えなかった。でも、どうも浅葱色の子の顔を見てたみたいなのよね。
場がシンとしてから、どれくらいかな。たぶん、五秒とかそれくらい。
霊夢がいきなりガバッと浅葱色の子を抱きしめたのよ。
そしてそのまま、わぁわぁ泣き出したの。
もう私も、鳶色の子も桃色の子も、そして浅葱色の子まで、あまりに想定外過ぎてギョッと固まっちゃって。
「……ごめんなさい……っ、わ、私のせいで……! 私が、間に合わなくて、っ……!」
泣きながら、霊夢はそんな風に言ってたと思う。でも、もちろん、それが何のことなのかは判らない。あんなに強い霊夢が、あんなに平等な霊夢が、ひとりの人間の子供のために声をあげて泣いてた。それがその日見聞きしたことの中で何よりも異様で。
それで私、見ちゃいけないものを見た気持ちで、そそくさと退散したわ。
びっくりしたわ。もう本当にびっくりした。近くに小傘がいたら、その日の私のびっくりだけで向こう半年は満腹になってたでしょうね。だって、今こうして話してても実感ないもん。変な夢でも見てたような気分。
しかし、本当に何だったんだろう。なんで霊夢が泣きながら謝ってたのか、ぜんぜん判らない。でもそれって、よっぽどのことなんだとは思うけどね。それこそあの子の人生を滅茶苦茶にしたくらいの勢いだったけど、あの巫女が人間にそんなことするわけないし。でも、間に合わなかった、ってのは何か示唆的よね。
霊夢は何に間に合わなかったのかしら?
まぁ、深入りするつもりはないけどね。きっと私みたいな三流妖怪には、過ぎた真似よ。
……え? 結局その鳶色の子、今日足の骨を折ったって?
ふぅん、それは何というか……やっぱり、気味が悪いね。
◆
幻想暦第139季・葉月の十一
レミリア・スカーレットの証言
よくぞ私に辿り着いたわね、ブン屋。アンタのこと、ちょっと見直したわ。
咲夜、コイツに私と同じ紅茶を出してやって。そう、ロンネフェルトの。えぇ、構わないわ。それくらいの褒美はあっていいでしょう。随分と霊夢のために走り回ってくれたようだしね。
まぁ、座りなさい。そんな眼をしても無駄だよ。別に私が黒幕ってわけでもない。私はただ視えてただけだ。運命や神について、多少は心得があるものでね。一時は本気でやり合ったこともある。懐かしいことだ。輝かしい十字軍遠征の血に塗れた行軍の音。あぁ、咲夜、ありがとう。素晴らしい香りよ。さて、どこから語ったものかな。
西の聖職者が死んだ。
言ってしまえば、それが始まりだった。
随分と敬虔な神の子羊だったらしい。男はその生涯を信仰に捧げ、起きてる時間のほとんどを祈りに費やした。熱心に。狂信的に。男は全ての人間が幸福な世界の到来を祈り続けた。その敬虔極まる壮絶な、命までBETした祈りが、この幻想郷の地で遂に神に届いたんだ。
気付いたか? やってることは根本的には、霊夢と一緒さ。神に祈り、神を下ろし、その神の御力を行使したもうこと。無論、博麗の巫女たる霊夢と、いくら敬虔とはいえ単なる人間では力の差なんか歴然だろうがね。それでも、男の祈りは神を動かした。
困ったことに、男が希った神は強大無比な力を持っていたが、気まぐれでそのくせ義理堅く公平で、何よりも大雑把だった。神は男が願った祈りを果たすために、とんでもない加護をばら撒くことにしたらしい。
ときにブン屋。人類全てが幸福な世界というのは、どういうものだと思うね。
食うに困らない金があればいいか?
注ぎ尽くせない愛があればいいか?
終わることない命があればいいか?
どれもダメさ。幸せってのは、どこまでも相対的な概念でしかないからね。飽和すれば価値をなくす。金があっても不幸な奴はいるし、愛が理解できない奴もいる。永遠の命がありさえすれば幸福かどうかは、蓬莱人どもに聞いてみな。
そもそも本質的な幸福ってやつに、人間どもの浅薄な欲望も願望も関係ないんだ。答えは神のみぞ知る、と言いたいところだが、実はひとつだけ解決する手段がある。そいつは実に公平かつ単純なテーゼだ。何だと思う?
不安が無くなればいいんだよ。
生物である以上避けて通ることのできない死の不安。明日食うものが見つからないかもしれない不安。自分の生命よりも尊い愛が失われるかもしれない不安。積み上げてきた財産を失うかもしれない不安。判るか? およそ人間どもが追求する幸福というのは翻って、自身に襲いかかる無数の不安を遠ざける行為に他ならないんだ。安寧。安心。安全。人間は誰しも安心を求めて生きている。その精神状態に、幸福という名前が後付けでつけられたに過ぎないのさ。少なくとも今回の事象における幸福の定義は、それで合っている。
では問おう。ブン屋。どうすれば全ての不安を断ち切ることができるのか?
これも単純だ。疑問、判らないもの、理解できないことが不安の種だ。
ならば全てが自明であれば、この世に不安に感じるものなどひとつも無くなるだろう。
この世に存在する全ての人類が全知全能の神であれば、この世界から全ての不幸が消滅することになる。
人類全てが幸福な世界の到来だ。
西の聖職者の祈りが届いたのだ。神が子羊の願いを聞き遂げたもうたのだ。
不完全な人間の軛から解き放たれ、完全なる存在へと生物としてのステージを上がるのだ。
だから、霊夢が、必死になって止めようとしているんだ。
判るか? ブン屋。全ての人間が幸福な世界。ありとあらゆる人間が全知全能の神に昇格した世界。不安のない、永遠の安寧を得た世界。
それはどうあっても、今ある人間社会ひいては今を懸命に生きている人々を根こそぎ全否定することに他ならない。それは一滴の血も流れない殺戮だ。それはひとつの命も失われない虐殺だ。それは誰ひとりとして取り零す事も切り捨てることもない、人間がただ人間であるだけで無条件に無分別に救済される究極の民族浄化だ。
人間の自由は消失するだろう。人間の尊厳は消失するだろう。当然だ。全てが自明であるならば、試行錯誤や創意工夫のような無駄なことをする理由がない。生まれてから死ぬまでありとあらゆることがお膳立てされた運命の奴隷と化す。いや、もはや奴隷ですらない。斯くあるべしと定められた道筋をなぞるだけの肉で出来たオモチャだ。私は運命に対して一家言ある方だが、それでも何もかもが運命で定まっていることが自明な生など、ゾッとしないね。暗闇の荒野に進むべき道を切り拓くことが人間の生だとすれば、全てが自明な生というのは、どこを探しても自ら切り拓く闇がないようなものだ。自分が辿る未来が全て判ってしまうなど、想像するだけで身震いするほど悍ましい。
里の子供が、そうなってしまったらしいな。
お悔やみ申し上げるよ。その子は神の救済の犠牲者だ。もう人間として真っ当な生き方は出来まいよ。
霊夢が失敗すれば、そんな人間がどんどん増えていく。
しかし、どうかね。霊夢が説得しようとしているのは数十億の信徒を抱え、外の世界からこの幻想郷の中にまでその威光を轟かす強大な存在だ。並みの人間じゃ相対しただけで命の保証もない。それは西の聖職者が死んだことから明白だ。果たして勝ち筋があるかどうか。
私には何とも言えんよ。私は神に仇なす側だから、全知全能じゃないものでね。
◆
幻想暦第139季・葉月の十一
博麗霊夢の証言
……なによ。邪魔しないで。集中してるんだから。
平気? 誰が? 私が?
アンタ、またこそこそ人のこと嗅ぎ回って……。ほんと、仕方ないわね。
私は平気よ。こんなの、ぜんぜん大したことじゃない。神様と話すなんて、私にとってはいつも通りだもの。痛いとか苦しいとか、別にアンタが気にするようなことじゃないでしょ……は? 痩せ我慢じゃないし。確かにこの家、あまりに悔い改めることを強いる空間に仕上がってるから、ちょっとだけ気が滅入ることもなくはないけど……。
本当に大したことじゃないのよ。自己犠牲とか、そんな大層なもんじゃないわ。
私が好きでやってるだけだもん。
ま、私的には悪いとは思ってないんだけどね。全ての人間が幸福な世界って。実現したら素敵じゃない? 難しいことは判んないけど、でも簡単には実現しないのね。何だか拍子抜けだわ。みんなが幸せなのって、悪いことじゃないし、それを叶えてほしいって願うのも、判るんだけどな。
だから別に誰かが悪いわけじゃないのよ。
神様に祈った彼も、祈られた神様も、そこに悪意があったわけじゃない。と思う。勘だけど。ただ、良かれと思ってやったことが、少し空回っちゃっただけ。その尻拭いをしなきゃいけないのは、ま、確かにちょっと面倒くさいけどね。熱心な信徒の気持ちに応えたいのも、一度与えると決めた加護を無かったことにするのが難しいのも判るんだけど、神様、ぜんぜん私の話聞いてくんないし。たくさん信徒がいる神様って、大変ね。
でも、別に苦じゃないから、心配しないで。
私、人間のこと、好きだもん。
穏やかだが奇妙な男だった。いつ頃からか、里の出口から西に数里ほど外れたあばら屋に住み着いていた。里の出身ではなく外来人、それも海の向こうから来たらしかった。見るからに里の者とは人相がかけ離れていたせいで、やれ妖怪だこれ神の一柱だと口さがない連中が気ままに邪推したが、結局はよく判らなかった。
敬虔なことは間違いなかった。たまたま男の住む家の近くに田んぼを持つ農民曰く、男はずっと神に祈っているとのことだった。この世すべての人々が幸福になれる日の到来を祈っているのだと。そいつは殊勝なことだ、と感服した農民が分けてやることにした食料で男は食い繋いでいた。二・三ヶ月に一度、里で細々とした説教を開いて得た金で粗末な日用品を買った。
だが、誰も男の信奉する神が誰なのか知らなかった。日頃から熱心に祈りを捧げる対象を、男は自分の説教を好んで聴く里の者にすら明かさなかった。特に害があるわけでもなく、信仰を押し付けてくるわけでもなく、神なんて珍しくもない幻想郷において、それはわざわざ詰め寄ってまで問いただすほどのことではなかった。そして永遠に聞く機会は失われた。男は正しく孤立無縁であった。家族も縁者も近親の者もなかった。全人類の幸福を願った男は、誰に看取られることもなく一人で死んだ。よって、事切れた彼の遺体が腐り始めるよりも早く発見されたのは僥倖としか言いようがなかった。
身寄りの無かった男の葬儀を、霊夢が担うこととなった。通常、無縁仏の供養などは命蓮寺の連中が張り切ってちゃっちゃと済ませてしまうものだが、霊夢はなんだかんだと理屈をつけて頑なに供養を譲ろうとせず、結局完全に外部の者を締め出してしまった。不思議なこともあるもんだ、と小さな賢将などは大いに首を傾げていた。
そうして無理くりもぎ取った葬儀はと言えば、別にこれといって特別なものでも無かったようだった。北枕に寝かせた男の枕元に守刀を置いて、棺やら死装束やら必要なものをテキパキと手配して、しめしめと忍び込もうとした卑しい火車猫の尻を蹴っ飛ばして、参列者の誰もいない通夜で祭詞を唱えたのち、火葬場で遺体を焼いた。
何の面白みもない簡素な式。
ただ、淡々と式次第をこなす霊夢の表情は、濡れた刀のように酷薄であった。
次の日から、博麗霊夢の様子が少しだけおかしくなった。
◆
幻想暦第139季・葉月の三
高麗野あうんの証言
霊夢さんの様子? あー、確かに最近、ちょっと変ですよね。
でも、聞いても何も教えてくれないんです。何でもないのよ、って。だから本当に何でもないんだ、って思うようにしてるんですけど、それでもやっぱり違和感はあるなぁ。隠し事されてるのかなぁ? でもでも、霊夢さんはそんな人じゃないし。
異変? ではないと思います。異変の時の霊夢さんは、もっとまっすぐですもん。記者さんも知ってると思いますけど。
具体的にですか? はいはい。そうですねぇ。一言で言うと、何だかそわそわしてます。まるで骨を隠した場所を忘れた柴犬みたいに。何をしてても落ち着かないみたいに見えますね。この前も、せっかく鈴奈庵で借りてきた小説を、最初の数ページしか読まずに返しちゃったりして。変ですよね? 変ですよね?
あとは、何だろう、よく引きこもってますね。引きこもるって言っても、いつもみたいにぐうた……じゃないや、のんびりしてる感じじゃなくて。
判らないんですよね。引きこもって何をしてるのか。
いつもだったら縁側とか居間とかにいるじゃないですか。でもそうじゃないんです。蔵にいるんです。蔵の中に引きこもってるんです。こんな暑いのに、灯りだけ持って蔵の中に入って、戸も締め切って、そうして何時間も出てこないんです。私、一回だけ心配になって霊夢さんをお呼びに行ってみました。でも追い返されちゃいました。あっち行ってて、って。絶対に入って来ないで、って。誰かが来たら追い払って、って。そんな風に言われたら私、霊夢さんのためにそうしないわけにはいきません。
今ですか? 今は霊夢さんは居ません。どこかに行っちゃいました。
それも何だか変だなぁ、って気持ちです。最近、多いんです。霊夢さんが何も言わず、急に思い立ったみたいにどこかへ飛び出して行っちゃうんです。そして、夜になっても帰って来ないんです。遅くなってようやく帰ってきたと思ったら、疲れてるみたいですぐ寝ちゃうし。どこに行ってたか聞いても、はぐらかされちゃいます。いつもなら、そんなこと無いのになぁ。
はい。心配です。でも、私は霊夢さんを信じてますから。
霊夢さんがどこで何をしていたとしても、必ず霊夢さんをお守りするのが私、高麗野あうんなのです。
◆
幻想暦第139季・葉月の五
サニーミルクの証言
え? 霊夢さん?
うんうん、見た見た。見たわ。人間の里の西の方に、汚い家の残骸みたいなのがあるじゃない。あそこに居た。結構入り浸ってるみたいで、あの家の中に入るのを何回か見たわ。
でも、あそこ変だよ。気持ち悪いの。だから、行かない方がいいよ。
何かあった、ってもんじゃないわ。あそこ、お化けの家よ。いや、お化けは居なかったけど。えっとね、うん、えっと、どれくらい前だったっけな。忘れちゃった。でも、霊夢さんがあの家に入っていくのを見たの。それで私、おかしいなって思って。だってあんなところ、ばっちぃじゃない。柱も腐ってるし、天井に穴も空いてるし、埃も塗れてるし。だから何してるのかな、って、姿を消しながらこっそり覗いてみたの。そしたら霊夢さん、何もしてなかった。
本当に何もしてないの。ただ家の真ん中に座って目を閉じて、ジッとしてるんだ。石にでもなっちゃったみたいに。だから、石でも投げて邪魔してやろうかなってちょっぴり思ったけど、やめた。何だか邪魔したら殺されそうな雰囲気だったから。私、そういうの判っちゃうんだよね。でも寝てるわけでもないのに、ずっと動かないから、見てる私の方が眠くなっちゃって。
起きたら夜だったわ。霊夢さんはもう居なかった。だから私、その家に入ってみたの。そしたら、びっくりしたんだけど、その家の中、とっても涼しかったの。変だよね。あの家、壁にも天井にも穴空いてるのに、外よりもずっと中の方が涼しいの。でもそれで、私はピンと来たってわけ。つまり霊夢さんは、その家の中が涼しいって知ってたから、中で過ごしてたのよ。いわゆる避暑地ってやつね。こんなに暑けりゃ冷房代も馬鹿にならないから、ナイスアイディアよね。
だから私、そこを私の別荘にしようと思ったの。
家はボロボロでばっちぃけど、それは直したり掃除したりすればいいし。霊夢さんが来て追い出されるかもしれないけど、ずっとは居ないだろうから、霊夢さんが居ない時だけ私が使えばいいじゃない? 寝苦しい夜も快適に過ごせるわ。そうと決まれば善は急げ。私、家から掃除道具を取ってきて、さっそく掃除を始めたの。
でも、すぐにダメだと思い知ったわ。
だって、家の中にいればいるほど、変な気持ちになってくるのよ。
何というか、すっごく、謝らなくちゃいけない、って思えてくる、みたいな。
気が付いて、自分でも驚いたんだけど、掃除しながら私、泣いてたのよね。泣きながら謝ってたの。ごめんなさい、ごめんなさい、って。それは、ルナやスターに対しても言ってたし、今までイタズラしてきた人間とか妖怪とかにも謝ってたし、霊夢さんとかにも、あの時あんなことしてごめんなさい、って繰り返してたの。そのうち、この世界には不幸な人がたくさんいるのに、私だけ元気に過ごしててごめんなさい、って、私、イタズラばっかりする妖精でごめんなさい、ってなって、そこで変だって思って家の外に飛び出した。そしたら、ピタッと変な気持ちは無くなったわ。もう、ぞーってしちゃって、慌てて家に帰ったわ。
だからあの家は変よ。お化け屋敷よ。涼しかったのもきっと、幽霊か何かのせいだったのよ。陰気な感じはしなかったけど、きっとそうだわ。
……でも、霊夢さん。あんな変な家に入り浸ってて、大丈夫なのかしら?
◆
幻想暦第139季・葉月の八
赤蛮奇の証言
昨日の事件のことなら、確かに見てたよ。
いやぁ、びっくりしたわよ。うん。あんな光景、二度とお目に掛かれないでしょうね。
まぁ、二度目は勘弁願いたいけど。
どこから話したもんかな。私が茶屋のバイトを終わらせて長屋に戻る途中にいつも通り掛かる空き地があって、普段はその辺の子供たちが遊んでいるんだけどね。昨日は様子が違ったのよね。いつも以上に騒がしくって、どうも子供同士で言い争いをしていたみたい。別に私も人間の子供が喧嘩してようが興味ないんだけど、聞こえてきた言葉があんまりにも変だったもんだから、ついつい足を止めちゃった。そこには三人の子供がいて、浅葱色の着物の男の子と、鳶色の着物の男の子が言い合いしてて、それよりもちょっと小さい桃色の着物の女の子が、言い合う二人の間でオロオロしてる、みたいな感じだった。
で、変なことを言ってたのは、その浅葱色の子だったみたいね。必死になって、鳶色の子に言ってた。
お前は明日、足の骨を折るからな、って。
何それ。変な脅し文句。夜道に気を付けな、みたいな? って思った。でも、それにしちゃ奇妙って言うか、骨を折ってやる、みたいに脅迫するなら、別にそれを明日に回す必要ないじゃない? ズレてるなーって思って、何となく聞いてたのよ。ほら、火事と喧嘩は何とやら、っていうじゃない。ま、ここは江戸じゃないけどさ。
でも、聞いてたら、あれ? ちょっと違うな、ってことに気付いたのよね。
やめろよ、気味悪いだろ、って鳶色の子が言うのよ。そしたら浅葱色の子が、
「俺には判るんだ、俺は未来が判るようになったんだから」
なんて言い出して、雲行きが怪しくなってきたな、って思った。
どうも足の骨を折る、ってのは脅迫じゃなくて忠告だったみたいなのよね。でも、明日のことなんて誰にも判らないでしょ。普通。いきなりそんなこと言われたら、確かに不気味だしさ。だから鳶色の子は変な冗談だと思ったけど、あまりに浅葱色の子が真剣に言ってくるもんだから、言い合いになっちゃった、っていう感じだったみたい。
「俺は朝起きた瞬間に、今日の朝飯に茄子と明日葉の味噌汁が出てくると判った。そして、その通り茄子と明日葉の味噌汁が出てきた。遊びに出かける前、向かいの長屋の婆ちゃんが俺に飴玉をくれることが判った。その通り、俺は飴を貰ったんだ。それだけじゃない。今日の夕刻ごろに大雨が降り出すことも判るし、俺の今夜の晩飯にニジマスの塩焼きが出ることも判る。判るんだよ」
なんて、浅葱色の子が必死に言うのよ。
とても嘘や出鱈目を言っているようには見えなかった。でもだからこそ、異様よね。だって妖怪や神様でも、そう簡単には未来なんか判りゃしないでしょ。なのに人間の、それもあんな子供が未来を確信してるのは完全に異様としか言いようがなかった。鳶色の子が、
「そんなら証明してみろよ!」
って食ってかかったら浅葱色の子が、
「もうすぐ博麗の巫女さまが来る! 巫女さまが証明してくれるさ!」
「お前のために巫女さまなんて来るわけないだろ! いい加減にしろ!」
「いいや、来るんだ! 俺には判るんだ!」
「うるせえ! この判らず屋が!」
なんて鳶色の子がいよいよ激昂して拳を振りかぶったあたりで、あ、そろそろまずいかな、って流石に思ってさ。いや、どうでもいいのよ? 私妖怪だから、どうでもいいんだけど、見てた手前というか、大人としてというか、このまま殴り合いに発展しても夢見が悪いしな、って思って止めようとしたら、いつの間にか鳶色の子が振りかぶった手を誰かが掴んでて、その誰かが本当に霊夢だったもんで、私びっくりしちゃって。
「あ、巫女さま……」
なんて、鳶色の子も完全に戦意喪失しちゃってさ。
で、それって完全に浅葱色の子が言った通りになったわけじゃん。私も困惑したけど、鳶色の子と、それとずっとアワアワしてるだけだった桃色の女の子の顔ったら、それこそ妖怪でも見たみたいだったわ。ま、実はずっといたんだけどね、私が。まぁ、それはいいとして。
私の位置からだと霊夢の顔は見えなかった。でも、どうも浅葱色の子の顔を見てたみたいなのよね。
場がシンとしてから、どれくらいかな。たぶん、五秒とかそれくらい。
霊夢がいきなりガバッと浅葱色の子を抱きしめたのよ。
そしてそのまま、わぁわぁ泣き出したの。
もう私も、鳶色の子も桃色の子も、そして浅葱色の子まで、あまりに想定外過ぎてギョッと固まっちゃって。
「……ごめんなさい……っ、わ、私のせいで……! 私が、間に合わなくて、っ……!」
泣きながら、霊夢はそんな風に言ってたと思う。でも、もちろん、それが何のことなのかは判らない。あんなに強い霊夢が、あんなに平等な霊夢が、ひとりの人間の子供のために声をあげて泣いてた。それがその日見聞きしたことの中で何よりも異様で。
それで私、見ちゃいけないものを見た気持ちで、そそくさと退散したわ。
びっくりしたわ。もう本当にびっくりした。近くに小傘がいたら、その日の私のびっくりだけで向こう半年は満腹になってたでしょうね。だって、今こうして話してても実感ないもん。変な夢でも見てたような気分。
しかし、本当に何だったんだろう。なんで霊夢が泣きながら謝ってたのか、ぜんぜん判らない。でもそれって、よっぽどのことなんだとは思うけどね。それこそあの子の人生を滅茶苦茶にしたくらいの勢いだったけど、あの巫女が人間にそんなことするわけないし。でも、間に合わなかった、ってのは何か示唆的よね。
霊夢は何に間に合わなかったのかしら?
まぁ、深入りするつもりはないけどね。きっと私みたいな三流妖怪には、過ぎた真似よ。
……え? 結局その鳶色の子、今日足の骨を折ったって?
ふぅん、それは何というか……やっぱり、気味が悪いね。
◆
幻想暦第139季・葉月の十一
レミリア・スカーレットの証言
よくぞ私に辿り着いたわね、ブン屋。アンタのこと、ちょっと見直したわ。
咲夜、コイツに私と同じ紅茶を出してやって。そう、ロンネフェルトの。えぇ、構わないわ。それくらいの褒美はあっていいでしょう。随分と霊夢のために走り回ってくれたようだしね。
まぁ、座りなさい。そんな眼をしても無駄だよ。別に私が黒幕ってわけでもない。私はただ視えてただけだ。運命や神について、多少は心得があるものでね。一時は本気でやり合ったこともある。懐かしいことだ。輝かしい十字軍遠征の血に塗れた行軍の音。あぁ、咲夜、ありがとう。素晴らしい香りよ。さて、どこから語ったものかな。
西の聖職者が死んだ。
言ってしまえば、それが始まりだった。
随分と敬虔な神の子羊だったらしい。男はその生涯を信仰に捧げ、起きてる時間のほとんどを祈りに費やした。熱心に。狂信的に。男は全ての人間が幸福な世界の到来を祈り続けた。その敬虔極まる壮絶な、命までBETした祈りが、この幻想郷の地で遂に神に届いたんだ。
気付いたか? やってることは根本的には、霊夢と一緒さ。神に祈り、神を下ろし、その神の御力を行使したもうこと。無論、博麗の巫女たる霊夢と、いくら敬虔とはいえ単なる人間では力の差なんか歴然だろうがね。それでも、男の祈りは神を動かした。
困ったことに、男が希った神は強大無比な力を持っていたが、気まぐれでそのくせ義理堅く公平で、何よりも大雑把だった。神は男が願った祈りを果たすために、とんでもない加護をばら撒くことにしたらしい。
ときにブン屋。人類全てが幸福な世界というのは、どういうものだと思うね。
食うに困らない金があればいいか?
注ぎ尽くせない愛があればいいか?
終わることない命があればいいか?
どれもダメさ。幸せってのは、どこまでも相対的な概念でしかないからね。飽和すれば価値をなくす。金があっても不幸な奴はいるし、愛が理解できない奴もいる。永遠の命がありさえすれば幸福かどうかは、蓬莱人どもに聞いてみな。
そもそも本質的な幸福ってやつに、人間どもの浅薄な欲望も願望も関係ないんだ。答えは神のみぞ知る、と言いたいところだが、実はひとつだけ解決する手段がある。そいつは実に公平かつ単純なテーゼだ。何だと思う?
不安が無くなればいいんだよ。
生物である以上避けて通ることのできない死の不安。明日食うものが見つからないかもしれない不安。自分の生命よりも尊い愛が失われるかもしれない不安。積み上げてきた財産を失うかもしれない不安。判るか? およそ人間どもが追求する幸福というのは翻って、自身に襲いかかる無数の不安を遠ざける行為に他ならないんだ。安寧。安心。安全。人間は誰しも安心を求めて生きている。その精神状態に、幸福という名前が後付けでつけられたに過ぎないのさ。少なくとも今回の事象における幸福の定義は、それで合っている。
では問おう。ブン屋。どうすれば全ての不安を断ち切ることができるのか?
これも単純だ。疑問、判らないもの、理解できないことが不安の種だ。
ならば全てが自明であれば、この世に不安に感じるものなどひとつも無くなるだろう。
この世に存在する全ての人類が全知全能の神であれば、この世界から全ての不幸が消滅することになる。
人類全てが幸福な世界の到来だ。
西の聖職者の祈りが届いたのだ。神が子羊の願いを聞き遂げたもうたのだ。
不完全な人間の軛から解き放たれ、完全なる存在へと生物としてのステージを上がるのだ。
だから、霊夢が、必死になって止めようとしているんだ。
判るか? ブン屋。全ての人間が幸福な世界。ありとあらゆる人間が全知全能の神に昇格した世界。不安のない、永遠の安寧を得た世界。
それはどうあっても、今ある人間社会ひいては今を懸命に生きている人々を根こそぎ全否定することに他ならない。それは一滴の血も流れない殺戮だ。それはひとつの命も失われない虐殺だ。それは誰ひとりとして取り零す事も切り捨てることもない、人間がただ人間であるだけで無条件に無分別に救済される究極の民族浄化だ。
人間の自由は消失するだろう。人間の尊厳は消失するだろう。当然だ。全てが自明であるならば、試行錯誤や創意工夫のような無駄なことをする理由がない。生まれてから死ぬまでありとあらゆることがお膳立てされた運命の奴隷と化す。いや、もはや奴隷ですらない。斯くあるべしと定められた道筋をなぞるだけの肉で出来たオモチャだ。私は運命に対して一家言ある方だが、それでも何もかもが運命で定まっていることが自明な生など、ゾッとしないね。暗闇の荒野に進むべき道を切り拓くことが人間の生だとすれば、全てが自明な生というのは、どこを探しても自ら切り拓く闇がないようなものだ。自分が辿る未来が全て判ってしまうなど、想像するだけで身震いするほど悍ましい。
里の子供が、そうなってしまったらしいな。
お悔やみ申し上げるよ。その子は神の救済の犠牲者だ。もう人間として真っ当な生き方は出来まいよ。
霊夢が失敗すれば、そんな人間がどんどん増えていく。
しかし、どうかね。霊夢が説得しようとしているのは数十億の信徒を抱え、外の世界からこの幻想郷の中にまでその威光を轟かす強大な存在だ。並みの人間じゃ相対しただけで命の保証もない。それは西の聖職者が死んだことから明白だ。果たして勝ち筋があるかどうか。
私には何とも言えんよ。私は神に仇なす側だから、全知全能じゃないものでね。
◆
幻想暦第139季・葉月の十一
博麗霊夢の証言
……なによ。邪魔しないで。集中してるんだから。
平気? 誰が? 私が?
アンタ、またこそこそ人のこと嗅ぎ回って……。ほんと、仕方ないわね。
私は平気よ。こんなの、ぜんぜん大したことじゃない。神様と話すなんて、私にとってはいつも通りだもの。痛いとか苦しいとか、別にアンタが気にするようなことじゃないでしょ……は? 痩せ我慢じゃないし。確かにこの家、あまりに悔い改めることを強いる空間に仕上がってるから、ちょっとだけ気が滅入ることもなくはないけど……。
本当に大したことじゃないのよ。自己犠牲とか、そんな大層なもんじゃないわ。
私が好きでやってるだけだもん。
ま、私的には悪いとは思ってないんだけどね。全ての人間が幸福な世界って。実現したら素敵じゃない? 難しいことは判んないけど、でも簡単には実現しないのね。何だか拍子抜けだわ。みんなが幸せなのって、悪いことじゃないし、それを叶えてほしいって願うのも、判るんだけどな。
だから別に誰かが悪いわけじゃないのよ。
神様に祈った彼も、祈られた神様も、そこに悪意があったわけじゃない。と思う。勘だけど。ただ、良かれと思ってやったことが、少し空回っちゃっただけ。その尻拭いをしなきゃいけないのは、ま、確かにちょっと面倒くさいけどね。熱心な信徒の気持ちに応えたいのも、一度与えると決めた加護を無かったことにするのが難しいのも判るんだけど、神様、ぜんぜん私の話聞いてくんないし。たくさん信徒がいる神様って、大変ね。
でも、別に苦じゃないから、心配しないで。
私、人間のこと、好きだもん。
幸福の定義が人それぞれなの、現代でもよく議論されていることですが
それを吸血鬼の視点から語る構図なのもよきでした。
まさに調停者然とした霊夢が頼もしかったです
泣いて悲しむほどなのに誰も悪くないと言ってのけるところに器の大きさを感じました