俺は地方大学三年生。親の仕送りでなんとか一人暮らししている二十三歳独身だ。大学生活始めたばかりの頃は、張り切って講義にもガンガン出ていたが、だんだん家出るのが億劫になり、食事以外では家を出なくなってしまっていた。今やすっかり昼夜逆転生活だ。本当なら今年で卒業のはずだったが、みごとに留年もしてしまった。さて、親にはなんて言おうか…。そんなわけで、グータラ大学生活絶賛エンジョイ中だった俺は今、ある状況に追われていた。
▲
ハア、ハア…。
いったい俺はどれほど走ったか。走りすぎて全身の力が抜けかけてきている。限界は近い。それでもまだ黒い何かが自分を追いかけ続けている。
それにしてもここはどこだ。見たこともない森。こんな所は記憶にない。しかし、ここがどこかなんてそんなのは些細なこと。
今は自分を追いかけているヤツに集中しなければ。恐らくヤツは俺を襲おうとしている。俺なんかを襲ってどうするのか知らないが、いずれにしてもロクな結果が思い浮かばない。
なんとしても、このハンターから逃げなければ。
棒のような足を奮い立たせ、最後の気力を振り絞って森を駆け抜けると、視界が一気に開ける。
目の前には草原と、どこまで持つ続く真っ黒な夜空が広がっていた。星は見えない。漆黒の闇だ。
夢も希望もありません。
急にそんな言葉が頭をよぎった瞬間、ふと後ろを振り返ると、そこには例の黒い塊が、ふわふわと宙に浮いていた。
「うわぁあ!?」
思わず尻もちをついてしまう。
あ、おわったわ。俺の人生。
走馬灯のように今までの出来事が頭の中を駆け巡る。しがない出来損ないの見本のような人生だったが、それでも死ぬ間際というのは後悔の念が先に出るもんなんだな。
ああ、こんなことになるなら、ダメ元であの娘に告っとけばよかった。親ともっと仲良くしてやれば良かった。おふくろ、親父、そして妹よ。先立つ親不孝な俺をどうか許してくれ…!
「おまえだれだー」
うるさい。だまれよ!
「答えないと食べちゃうぞー」
食べたきゃ食べろ……って、え?
「食べちゃうぞー」
ふと、現実に戻った俺の目の前にいたのは、金髪で赤い髪飾りをして黒いドレスをまとった小さな女の子だった。さっきまでの黒い塊はどこいった?
「おまえはだれだ」
「アンタは誰?」
「おまえはだれだ」
「フーイズユー?」
「おまえはだれだ」
いかにも西洋な服装をしているのに、どうやら英語は通じないらしい。あるいは発音が悪かったのか。もっといい発音をすれば通じるのか。しかしあいにく俺は英語の授業を真面目に受けてなかったので「フーイズユー?」のネイティブな発音を知らなかった。
「…なんだよ。お前は食べちゃいけない人間か」
そう言うと、その金髪の子は、いかにも残念そうな顔を浮かべて急に地べたに座り込む。
「…どういうことだ?」
俺の問いにその子はこちらを見ながら答える。
「お前は迷い込んできたんだ。この幻想郷に。せっかく良い遊び相手になると思ったのに」
「…幻想郷?」
およそ聞いたことない地名だ。地理の勉強をきちんとしていなかった俺でもそれはわかる。そんな場所は日本にない!
「迷い込んできたヤツを勝手に食べると、霊夢に怒られるのだ」
「レイム? 誰だそいつは」
「この世界の守り神だ」
どうやらこの世界には、レイムという名の絶対的な守り神が存在するらしい。そんな神がいるなんて、ここはもしかしてファンタジー的な世界ってヤツなのか。
そういえばこんな話、最近漫画で読んだ気がする。主人公の冴えない男があっけなく死んで、気がついたら別の世界へ来て無双するって話。俗に言う異世界転生モノってヤツだ。
うだつの上がらない人間が別な世界で大活躍する姿に、共感した人達からの支持もあって、その漫画はかなりの人気をはくしている。なんでも今度アニメ化するとか何とか。
…って、待て。考えてみたら今の俺、その漫画そっくりの展開じゃね?
おいおい待てよ。もしかして、俺…
この世界で無双できるのかっ!?
「…何さっきからブツブツ言ってんだ。おまえは」
ふと、気がつくと例の少女が怪訝そうな表情でこっちを見ている。そうだ! この子に、そのレイムって神様に案内してもらおう。さっそく俺は話を持ちかける。
「なあ、お嬢ちゃん。そのレイムのとこに案内してくれないか?」
彼女は嫌そうな顔をして答えた。
「…いいけど。見返りが欲しいな」
「見返り? いったい何が欲し」
その瞬間、彼女のお腹が鳴った。
「…あ」
彼女は顔を赤らめる。思わずその場に気まずい空気が流れた。よし、こんな時はあえてクールに立ち振る舞えばいいのだ。
「なんだよ。お前腹減ってんのか。なら…」
確かポケットの中に…。あ、あった。
「よかったら、これ食うか?」
颯爽と取り出したるはチョコチップクッキー。いつも非常食として持ち歩いているシロモノだ。さっき尻もちついたせいで粉々になっているが。
「なんだそれ?」
「クッキーだよ」
「クッキー?」
「なんだ。クッキー知らないのか? ほら、食ってみ」
女の子は恐る恐るクッキーの破片をつまむと、においを嗅ぎながら口に入れる。もぐもぐもぐもぐと、ゆっくりと味わっている。
「甘い…」
「そりゃクッキーだもんな」
「クッキーっておいしい!」
そのまま勢いよく全部食べてしまった。どうやら気に入ってくれたようだ。
この様子だと、この世界にはクッキーは存在しないようだ。それならクッキーを作って売れば、俺、もしかしてこの世界で無双できるんじゃ?
「よし、それじゃ霊夢のところに案内するぞ! ついてこい!」
どうやら、なんとか死なずに済んだらしい。俺は彼女の案内で霊夢が住むという神社へ案内させられた。
ついでに名前も聞いた。ルーミアというらしい。
▲
夜の神社は、明かりがなく真っ暗で不気味なくらいに静まりかえっていた。どこからともなくホーホーと、フクロウの鳴く声が聞こえてくる。
「…夜の境内は不気味だな」
「そうか? 私は好きだぞ」
そう言って金髪の少女、ルーミアは、機嫌よさそうにくるりと回る。漆黒のドレスが優雅にひるがえる。彼女は綺麗でかわいらしいが、どこか得体の知れないモノを感じる。そういや俺を追いかけていた黒い塊はどこへ消えたんだろうか?
「さあ、ついたぞ。この中に霊夢がいる」
「これは、神社の社か?」
「ここから先はおまえが自力で何とかしろ」
そう言うなり、ルーミアはふわりと宙に浮くと黒い塊になって去って行ってしまった。
…! なんてこった。やっぱり彼女が、あの黒い塊だったのか…。どうして俺を追いかけたりなんかしたのだろうか。やはり、食べるつもりだったのか? それとも俺が面白かったからか? そんなことを考えていたそのときだ。
「誰よ? こんな時間に…」
建物の奥から女性の人の声が聞こえてくる。
「あ、夜分遅くすいません。実は…道に迷ってしまいまして…」
ガラガラと引き戸が開いて中から人が姿を現す。赤い巫女服のような格好の少女だ。眠っていたようで、目をこすっている。どうやら彼女はこの神社の住人らしい。
「…ふーん。外から来たみたいね」
「そうらしいです」
「…変な奴。でも、入って」
案内されて入った部屋の中は暗く。電気はないらしい。彼女はロウソクに火をともす。ぼんやりと照らされた建物の中は、驚くほど何も無く質素だった。
文明が遅れているのか。あるいは単に彼女が貧乏なだけなのか。
「…さてと。事情を話してちょうだい」
俺は彼女にこれまでの経緯を話した。と、言っても、気がついたら黒い塊(ルーミア)に追われて、彼女の案内でこの神社に来ただけだが。
「へえ。あんたルーミアに遭遇したの。良く無事だったわね」
「え? あいつヤバい奴なんですか?」
「普通に人を襲う妖怪よ」
「…妖怪?」
驚いたことに彼女は妖怪らしい。あんな西洋風の身なりをしていたのに。それにしてもクッキーを持っていて良かった。アレがなかったら今ごろ俺は彼女の腹の中だっただろう。
「そう。ここは人や妖怪や神が共生している世界。その名も幻想郷よ」
「幻想郷…」
「そ。ここは外界とは遮断された世界。だけどアンタみたいに迷い込んでくる奴がたまにいるわ」
なるほど。ここはそういう所らしい。どうやら迷い込んだ人が、自分以外もいるとのことだ。その人達はどこにいるのだろうか? 気になったので尋ねてみると、返ってきた答えは「そうね。馴染んで里で暮らしているヤツもいれば、元の世界に戻っているヤツもいるわ」とのこと。
この世界に馴染むか…。流しのクッキー売りにでもなれば繁盛するかもしれない。それは確かに悪い話ではない。悪い話ではないが、もし、元の世界に戻れるなら戻りたいところだ。なんだかんだ言って、まだ学生生活送りたい。それに仲の良い知り合い達にだって会いたい。
そうだ。もし、またここに戻るようなことがあれば、そのときは今度こそ無双してやろう。俺は意を決して無愛想な表情の彼女に頼んだ。
「あの…。元の世界に戻してもらえますか?」
すると彼女は「いいわよ」と、二つ返事で承諾してくれた。
その後、境内に出ると、なにやら儀式が始まった。彼女は呪文のようなモノを唱え、お札を取り出す。呪術か何かだろうか。彼女がお札を俺の額に貼り付けると、だんだん体が浮くような感覚を覚える。
「二度と来ないでね。これもあなたのためだし、この世界のためなのよ」
彼女が、ぶっきらぼうに言いはなったそのとき突然、何かが覆い被さるように視界が真っ黒になる。
「あ、こら!?」
意識が遠のく中、彼女の驚く声が聞こえたような気がした。そういえば彼女の名前聞くの忘れてしまったな。
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:
:
:
そんなことを考えているうちに気がつくと俺は自分の部屋にいた。ドっちらかったゴミ屋敷のような見慣れた部屋だ。
辺りを見回すと、部屋の窓から夕日が差し込んでいる。どうやらもう日没らしい。
窓はうっすらと開いていて、そよ風が部屋の中に入り込んでいる。その風を身に受けていると、その窓の外に何かが一瞬よぎったように見えた。
俺は慌てて窓へ近づくが、特に何も変わった様子はなかった。どうやら気のせいだったようだ。きっと疲れているのだろう。無理もない。あんなことがあったのだから。
そう、俺は間違いなく、異世界転生したのだ。一瞬だけだったが。言うなれば異世界デビューってヤツか。しかしそれももう帰ってきてしまった。また明日から平凡な一日が始まってしまうのだ。それが良かったのかどうか。それは俺にはわからない。わからないが、少なくとも昨日とは違う人生を送れそうな気がする。
ああ、そうだ。明日は久々に学校へ顔を出そうか。久々にクラスメイトに会ってこの話をしてやろう。きっとみんな驚くだろうな。
そんなことを思いながら俺は、窓を閉めて、布団にくるまった。
▲
夜の高層ビルが建ち並ぶ都会の屋上から下を見下ろす人影があった。その見下ろす先にはアリのようにうごめく人でごった返した繁華街が見える。
その人影は金髪をなびかせ、漆黒のドレスをひるがえし、赤い目を輝かせて、つぶやいた。
「…ここなら食べ放題?」
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ハア、ハア…。
いったい俺はどれほど走ったか。走りすぎて全身の力が抜けかけてきている。限界は近い。それでもまだ黒い何かが自分を追いかけ続けている。
それにしてもここはどこだ。見たこともない森。こんな所は記憶にない。しかし、ここがどこかなんてそんなのは些細なこと。
今は自分を追いかけているヤツに集中しなければ。恐らくヤツは俺を襲おうとしている。俺なんかを襲ってどうするのか知らないが、いずれにしてもロクな結果が思い浮かばない。
なんとしても、このハンターから逃げなければ。
棒のような足を奮い立たせ、最後の気力を振り絞って森を駆け抜けると、視界が一気に開ける。
目の前には草原と、どこまで持つ続く真っ黒な夜空が広がっていた。星は見えない。漆黒の闇だ。
夢も希望もありません。
急にそんな言葉が頭をよぎった瞬間、ふと後ろを振り返ると、そこには例の黒い塊が、ふわふわと宙に浮いていた。
「うわぁあ!?」
思わず尻もちをついてしまう。
あ、おわったわ。俺の人生。
走馬灯のように今までの出来事が頭の中を駆け巡る。しがない出来損ないの見本のような人生だったが、それでも死ぬ間際というのは後悔の念が先に出るもんなんだな。
ああ、こんなことになるなら、ダメ元であの娘に告っとけばよかった。親ともっと仲良くしてやれば良かった。おふくろ、親父、そして妹よ。先立つ親不孝な俺をどうか許してくれ…!
「おまえだれだー」
うるさい。だまれよ!
「答えないと食べちゃうぞー」
食べたきゃ食べろ……って、え?
「食べちゃうぞー」
ふと、現実に戻った俺の目の前にいたのは、金髪で赤い髪飾りをして黒いドレスをまとった小さな女の子だった。さっきまでの黒い塊はどこいった?
「おまえはだれだ」
「アンタは誰?」
「おまえはだれだ」
「フーイズユー?」
「おまえはだれだ」
いかにも西洋な服装をしているのに、どうやら英語は通じないらしい。あるいは発音が悪かったのか。もっといい発音をすれば通じるのか。しかしあいにく俺は英語の授業を真面目に受けてなかったので「フーイズユー?」のネイティブな発音を知らなかった。
「…なんだよ。お前は食べちゃいけない人間か」
そう言うと、その金髪の子は、いかにも残念そうな顔を浮かべて急に地べたに座り込む。
「…どういうことだ?」
俺の問いにその子はこちらを見ながら答える。
「お前は迷い込んできたんだ。この幻想郷に。せっかく良い遊び相手になると思ったのに」
「…幻想郷?」
およそ聞いたことない地名だ。地理の勉強をきちんとしていなかった俺でもそれはわかる。そんな場所は日本にない!
「迷い込んできたヤツを勝手に食べると、霊夢に怒られるのだ」
「レイム? 誰だそいつは」
「この世界の守り神だ」
どうやらこの世界には、レイムという名の絶対的な守り神が存在するらしい。そんな神がいるなんて、ここはもしかしてファンタジー的な世界ってヤツなのか。
そういえばこんな話、最近漫画で読んだ気がする。主人公の冴えない男があっけなく死んで、気がついたら別の世界へ来て無双するって話。俗に言う異世界転生モノってヤツだ。
うだつの上がらない人間が別な世界で大活躍する姿に、共感した人達からの支持もあって、その漫画はかなりの人気をはくしている。なんでも今度アニメ化するとか何とか。
…って、待て。考えてみたら今の俺、その漫画そっくりの展開じゃね?
おいおい待てよ。もしかして、俺…
この世界で無双できるのかっ!?
「…何さっきからブツブツ言ってんだ。おまえは」
ふと、気がつくと例の少女が怪訝そうな表情でこっちを見ている。そうだ! この子に、そのレイムって神様に案内してもらおう。さっそく俺は話を持ちかける。
「なあ、お嬢ちゃん。そのレイムのとこに案内してくれないか?」
彼女は嫌そうな顔をして答えた。
「…いいけど。見返りが欲しいな」
「見返り? いったい何が欲し」
その瞬間、彼女のお腹が鳴った。
「…あ」
彼女は顔を赤らめる。思わずその場に気まずい空気が流れた。よし、こんな時はあえてクールに立ち振る舞えばいいのだ。
「なんだよ。お前腹減ってんのか。なら…」
確かポケットの中に…。あ、あった。
「よかったら、これ食うか?」
颯爽と取り出したるはチョコチップクッキー。いつも非常食として持ち歩いているシロモノだ。さっき尻もちついたせいで粉々になっているが。
「なんだそれ?」
「クッキーだよ」
「クッキー?」
「なんだ。クッキー知らないのか? ほら、食ってみ」
女の子は恐る恐るクッキーの破片をつまむと、においを嗅ぎながら口に入れる。もぐもぐもぐもぐと、ゆっくりと味わっている。
「甘い…」
「そりゃクッキーだもんな」
「クッキーっておいしい!」
そのまま勢いよく全部食べてしまった。どうやら気に入ってくれたようだ。
この様子だと、この世界にはクッキーは存在しないようだ。それならクッキーを作って売れば、俺、もしかしてこの世界で無双できるんじゃ?
「よし、それじゃ霊夢のところに案内するぞ! ついてこい!」
どうやら、なんとか死なずに済んだらしい。俺は彼女の案内で霊夢が住むという神社へ案内させられた。
ついでに名前も聞いた。ルーミアというらしい。
▲
夜の神社は、明かりがなく真っ暗で不気味なくらいに静まりかえっていた。どこからともなくホーホーと、フクロウの鳴く声が聞こえてくる。
「…夜の境内は不気味だな」
「そうか? 私は好きだぞ」
そう言って金髪の少女、ルーミアは、機嫌よさそうにくるりと回る。漆黒のドレスが優雅にひるがえる。彼女は綺麗でかわいらしいが、どこか得体の知れないモノを感じる。そういや俺を追いかけていた黒い塊はどこへ消えたんだろうか?
「さあ、ついたぞ。この中に霊夢がいる」
「これは、神社の社か?」
「ここから先はおまえが自力で何とかしろ」
そう言うなり、ルーミアはふわりと宙に浮くと黒い塊になって去って行ってしまった。
…! なんてこった。やっぱり彼女が、あの黒い塊だったのか…。どうして俺を追いかけたりなんかしたのだろうか。やはり、食べるつもりだったのか? それとも俺が面白かったからか? そんなことを考えていたそのときだ。
「誰よ? こんな時間に…」
建物の奥から女性の人の声が聞こえてくる。
「あ、夜分遅くすいません。実は…道に迷ってしまいまして…」
ガラガラと引き戸が開いて中から人が姿を現す。赤い巫女服のような格好の少女だ。眠っていたようで、目をこすっている。どうやら彼女はこの神社の住人らしい。
「…ふーん。外から来たみたいね」
「そうらしいです」
「…変な奴。でも、入って」
案内されて入った部屋の中は暗く。電気はないらしい。彼女はロウソクに火をともす。ぼんやりと照らされた建物の中は、驚くほど何も無く質素だった。
文明が遅れているのか。あるいは単に彼女が貧乏なだけなのか。
「…さてと。事情を話してちょうだい」
俺は彼女にこれまでの経緯を話した。と、言っても、気がついたら黒い塊(ルーミア)に追われて、彼女の案内でこの神社に来ただけだが。
「へえ。あんたルーミアに遭遇したの。良く無事だったわね」
「え? あいつヤバい奴なんですか?」
「普通に人を襲う妖怪よ」
「…妖怪?」
驚いたことに彼女は妖怪らしい。あんな西洋風の身なりをしていたのに。それにしてもクッキーを持っていて良かった。アレがなかったら今ごろ俺は彼女の腹の中だっただろう。
「そう。ここは人や妖怪や神が共生している世界。その名も幻想郷よ」
「幻想郷…」
「そ。ここは外界とは遮断された世界。だけどアンタみたいに迷い込んでくる奴がたまにいるわ」
なるほど。ここはそういう所らしい。どうやら迷い込んだ人が、自分以外もいるとのことだ。その人達はどこにいるのだろうか? 気になったので尋ねてみると、返ってきた答えは「そうね。馴染んで里で暮らしているヤツもいれば、元の世界に戻っているヤツもいるわ」とのこと。
この世界に馴染むか…。流しのクッキー売りにでもなれば繁盛するかもしれない。それは確かに悪い話ではない。悪い話ではないが、もし、元の世界に戻れるなら戻りたいところだ。なんだかんだ言って、まだ学生生活送りたい。それに仲の良い知り合い達にだって会いたい。
そうだ。もし、またここに戻るようなことがあれば、そのときは今度こそ無双してやろう。俺は意を決して無愛想な表情の彼女に頼んだ。
「あの…。元の世界に戻してもらえますか?」
すると彼女は「いいわよ」と、二つ返事で承諾してくれた。
その後、境内に出ると、なにやら儀式が始まった。彼女は呪文のようなモノを唱え、お札を取り出す。呪術か何かだろうか。彼女がお札を俺の額に貼り付けると、だんだん体が浮くような感覚を覚える。
「二度と来ないでね。これもあなたのためだし、この世界のためなのよ」
彼女が、ぶっきらぼうに言いはなったそのとき突然、何かが覆い被さるように視界が真っ黒になる。
「あ、こら!?」
意識が遠のく中、彼女の驚く声が聞こえたような気がした。そういえば彼女の名前聞くの忘れてしまったな。
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そんなことを考えているうちに気がつくと俺は自分の部屋にいた。ドっちらかったゴミ屋敷のような見慣れた部屋だ。
辺りを見回すと、部屋の窓から夕日が差し込んでいる。どうやらもう日没らしい。
窓はうっすらと開いていて、そよ風が部屋の中に入り込んでいる。その風を身に受けていると、その窓の外に何かが一瞬よぎったように見えた。
俺は慌てて窓へ近づくが、特に何も変わった様子はなかった。どうやら気のせいだったようだ。きっと疲れているのだろう。無理もない。あんなことがあったのだから。
そう、俺は間違いなく、異世界転生したのだ。一瞬だけだったが。言うなれば異世界デビューってヤツか。しかしそれももう帰ってきてしまった。また明日から平凡な一日が始まってしまうのだ。それが良かったのかどうか。それは俺にはわからない。わからないが、少なくとも昨日とは違う人生を送れそうな気がする。
ああ、そうだ。明日は久々に学校へ顔を出そうか。久々にクラスメイトに会ってこの話をしてやろう。きっとみんな驚くだろうな。
そんなことを思いながら俺は、窓を閉めて、布団にくるまった。
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夜の高層ビルが建ち並ぶ都会の屋上から下を見下ろす人影があった。その見下ろす先にはアリのようにうごめく人でごった返した繁華街が見える。
その人影は金髪をなびかせ、漆黒のドレスをひるがえし、赤い目を輝かせて、つぶやいた。
「…ここなら食べ放題?」
ラストの場面の雰囲気がとてもよかったです
惨劇の始まりだ