***1***
楽園の東端に立つ博麗神社には、一年を通して、たくさんの鳥たちが好んでやって来る。
ふわっふわに羽毛を膨らませたままじっと日向ぼっこをしていたり。可愛らしい囀りを歌いながら皆でお散歩していたり。
時には、近くに居ついている妖精たちと何やら追いかけっこを繰り広げていたり。
人通りの少ない地であることも手伝ってか、憩いの場所であると見定めたように、常に何かしらの鳥が楽しそうに戯れていて。そんな彼らの姿をのんびり観察するのが、いつしか博麗霊夢にとっても楽しみの時間となっていった。
「…あ」
はらはらと落ちていく枯葉を掃き清めていた、秋の昼下がり。今日も空いっぱいに広がる鳴き声に、霊夢は箒を止める。
どの鳥が来るかは季節や天候などによっても移り変わるのだが、中には、もはや常連として一年中神社を訪ねて来る鳥も存在する。
「ガァッ」
今、鳴きかけている鳥――カラスは、特に神社で良く見かける鳥だった。
「ガァー!ガァー!」
大きな翼にお日さまをいっぱい浴びながら、カラスが悠々と上空を飛んでいる。音を立てて力強く羽ばたいたかと思えば、空気を撫でるように旋回しながら神社へと近付いてくる。
「おっと」
我に返った霊夢が、一歩、距離を取る。翼を器用に羽ばたかせ速度を落としながら、カラスはまだ落葉の残る拝殿近くへと鮮やかに降り立ってみせた。
――やっぱり…こうして見ると、鳥の足って意外と長いのよね。
着地に当たり垣間見えたがっしりとした足に霊夢が惚れ直す傍らで、カラスはてくてく境内の散歩を始める。跳ねるように歩くたびに、太陽に照らされた羽が翡翠や濃紫に、色彩豊かに艶めくのが見える。黄金色に散り敷かれた落葉をいっぱいに踏みしめる光景は、やはり映えるものだ。
カラスの羽根は、本当はきらきら輝いていて、とっても美しい。思えば、その事実に気付いたのは、一体いつのことだっただろう。
参道の真ん中あたりで、カラスが足を止める。なんだろう、と霊夢が観察すると、本殿の方をしげしげと見つめていることに気付く。視線をもう少し細かく辿ってみると…どうやら賽銭箱が気になるようだ。
ばささ、と軽く羽ばたいて、一度賽銭箱の上に乗る。中身を覗きこむように二、三度首を傾げてみせると、今度は何かを思いついたかのようにまわりを見回す。
何をするつもりなのかと霊夢も首を傾げていると、カラスはまた柔らかに翼を広げ、賽銭箱から飛び立っていく。すっかり黄葉したクヌギの下まで真っ直ぐに降り立つと、何やら土のあたりを盛んにつつく様子が見えて。
しばらくして、カラスは顔を上げると、また賽銭箱まで戻っていく。ほっそりとした嘴には、よくよく見ると小粒ながらも艶の入ったドングリが、大切そうに咥えられていて。箱の縁へ器用に足をかけると、咥えた木の実を中へ落としていった。
からから…と、軽やかな音を立てて、ドングリが跳ねていく。賽銭箱の底まで転がるまでの様子を、カラスは幾度も確認するようにじーっと見つめる。しばらくして、カラスはくるりと顔を上げると「ガァ!」と逞しい声で鳴きかけた。
もしかしたらこのカラスは、以前に人間が神社へお参りするまでの様子をどこかで見ていたのかもしれない。カラスは極めて頭が良く、記憶力の高い鳥であると聞いたことがある。だとしたら、カラスの行為はその真似事――この子ならではの「遊び」といったところだろうか。
もしも、だけど。この子が、何か想うところがあって、今日此処にお参りに来たのだとしたら。
一体どんな願いごとを、あのドングリに託したのかな。
「ガァ!」
こちらを振り返ったカラスはまた一度、張りのある声で鳴く。青空を映し出すつぶらな瞳は、心なしか爽やかに澄みきっているように見える。
――あのドングリ、何か小箱にでも入れて保管しておきましょう。
どうか、あの子の願いが叶いますように。
軽やかに飛び去っていくカラスの背中へ笑みをこぼしながら、霊夢は再び箒を動かし始めた。
***2***
しばらく経って。掃除を終え、一段落ついた霊夢は、縁側で一人、紅葉を眺めていた。
臙脂、濃紅、朱色と「赤」だけでも多様におめかししている木々は、秋をいっぱいに楽しむように風と踊っている。樹冠からちらちらと光が揺らめいたかと思えば、その欠片がこぼれ落ちたかのように色に満ちた葉が風を舞っていく。
湯気を顔いっぱいに浴びながら、あたたかなお茶を一口。ほのかな甘みがふわっと花のように咲いて、表情を和らげる。やっぱり今の季節には、これが一番だわ。
「ガァー」
落葉が再び散り始めた小道では、また一羽、カラスがのんびりとした調子で鳴いている。身体を傾けながらひょこひょこ歩いている姿に、また霊夢の注目が引き寄せられる。
んー…この子は、さっきまで居た子とはまた別のカラス…だと思う。
確信がある訳ではないけれど。ほら。翼を広げた時に見える風切羽の切れ込みとか、違っていた記憶があるわ。
顔の形もちょっと丸めだし、嘴も少し小さめ。というか、さっきの子と比べて全体的に身体がほっそりとしている、ような――うん。やっぱり。このカラスは、神社(ここ)に初めて来てくれた子だ。
…こういうことを魔理沙とかに話すと、皆釈然としないように、首を傾げたりするんだけど。私にとっては、あまり難しく感じないんだけどなぁ。
嘴を半開きにさせながら紅葉を見上げているカラスが気になっちゃって、霊夢は目を細める。
なんだろう。こうして観察すると、初めて目にした紅葉に見とれちゃっているみたいで、ちょっと可愛いかも――口許を綻ばせた刹那、肌寒い秋風が、神社を通り抜けていった。
「ガァァ!ガァ」
吹きつける風に首をすぼませながら、カラスはいっぱいに羽毛を膨らませる。
しゃがれた鳴き声が寒さで震えているように聞こえてしまって、霊夢は思わず背中を浮かせてしまう。
けれど、立ち止まっていたのはほんの一瞬のことで。再び日の光が差し始めたころには、呑気な声でまた一声鳴きながら、しっかりとした足取りで小道を歩き始めた。
いつも通りのカラスの様子に安堵の息を吐き、霊夢は再び腰を落ち着ける。
野生の鳥につい庇護欲を出してしまいそうになった自分に呆れながら、また一度、お茶を口に含む。
――…アイツ、今ごろどうしているのかな。
落葉を追いかけるように速足で跳ねていく――好奇心旺盛なカラスの仕草に、一人の知り合いの顔が、はっきりと浮かびあがる。
この季節に入ってから、まだ新聞の上でしか姿を見せていない「アイツ」。
どこを飛び回っているのか、何をしているのか、常に背中をつかませてくれない「アイツ」。
「おーい、霊夢ー」
いけない。アイツのことを考えていると、つい眉に皺が寄ってしまう。
そりゃアイツだって色々と忙しいんだろうけどさ。それは分かるけどさ。
いつもしょうもない時に顔出してきたくせに、何で来なくなっちゃったのよ。
「お客様だぞー」
別に、会いたいって訳じゃないの。
だんっじて!!そういう訳ではないんだけど。
さっきの子みたいに身体冷やしたりしなかったか、とか…こうも長く顔を見せてくれないと、こっちも色々、心配になってきちゃう、というか…
「聞こえてるかー。私にもお茶くらい出せー」
また次の紅葉につられて追いかけ始めるカラスに、霊夢は縋るような視線を向ける。
アイツ、きっとカラスの言葉、分かるのよね。あの子には、こっちのこと、アイツに伝えられるのよね。
だから、もし。もしも、出来ることなら。
こっちが寂しがってるってこと、あの子から話してくれないかな――
「『あーあ。アイツ、今ごろどこをほっつき歩いているのかなー』」
自分の心をそのまま読み当てた声が聞こえて、今度こそ霊夢は大きく飛び上がってしまった。
息を吸って、吐いて、吸って、吐いて――たっぷりと時間を使って心を落ち着かせてから、なんとか声の方向へと振り返る。
睨みつけた先に居る相手――霧雨魔理沙は、いたずらっ子の笑みを浮かべながら、霊夢を見つめていた。
「『あのカラスに、私の気持ちを託すことって出来ないかなぁ』」
「ちょ、ちょっと魔理沙、いつの間に」
霊夢の声音を真似てなおも「代弁」される感情に、心臓の鼓動がばくばくと反響していく。
「『そうしたら、私が此処で寂しがっていること、アイツに伝えられるのかなー』」
え、え、うそ。魔理沙の奴、いつからこっちの様子を見ていたの?
というか私、さっきまでどんな顔をしていたの?
「ち、ち、ち、」
そうだ、そんなことを気にしている場合じゃない。兎にも角にも、まずは反論しなきゃ。
「違うもんっ!!!そんなんじゃないもんっ!!!」
真っ赤っかに燃え上がらせた顔で目をつむりながら、手をとにかく我武者羅に振り回す。
あまりにも子供じみた霊夢の否定に、魔理沙は思わず噴き出してしまった。
「ぷ、くくっ…そんな顔に真っ赤にさせながら言われても、説得力ねぇなぁ」
「これはっ…そう!さっき肌寒い風がこっちまで吹いて来たからでっ」
「ほほう、そりゃ大変だ。風邪引いたりする前に、早くアイツの翼で温めてもらわないとな」
「にゃ、にゃにいってるのよっ」
あの大きくしっかりした翼で、身体をすっぽりと包まれて。
意外に爽やかで気持ちの良かった匂いを、また間近で感じることになって。
なんとか睨みつけようと見上げたら、あの妖しくも凛々しい顔が視界いっぱいに映し出されて…
「そんなにアイツに会いたいなら、お前から直接伝えれば良いじゃねぇか」
「そ、そんな、うぇ、けど、その」
もはや舌も回っていない可愛らしい親友の姿に、魔理沙は口端をさらに意地悪く曲げる。
ここまで狼狽する霊夢は、「アイツ」の話題になった時にしか見ることが出来ない――魔理沙にとっても、お宝級の顔だ。
「ほれほれ、手紙でも良いから出しときな。友人のよしみで魔理沙さんが山まで届けに行ってやるぜー」
なおも魔理沙が活き活きと霊夢を揶揄い続ける横で、落葉を追いかけていたカラスが、ふと大鳥居へと視線を向ける。
鳥居の陰では、博麗霊夢が今まさに会いたかった「アイツ」――射命丸文が、霊夢たちから隠れたまま呆然と固まっていた。
***3***
…
……
…待って。
待って待って。
一回、整理しましょう。
確かにこの秋に入ってから、自分は博麗神社には立ち寄れていない。
天狗での祭の準備やら、連載小説の手回しやらで、文自身がなかなか息をつく時間が無くて。
もちろん、霊夢にそのような事情を伝えられる余裕もなくて。
それで、やっとのことで時間が確保出来たからと、気晴らしに博麗神社に寄ってみれば。
霊夢もずっと、私に会いたがっていた?
そのことで、ずっとずっと霊夢を寂しがらせていた?
まさか。
ははは、そんなまさか…
…
……
…はー。やれやれ。
ほんのちょっと顔を出さなかっただけでこの体たらくとは、霊夢はまだまだですねぇ。
それなら仕方がありません。霊夢の前に顔を出してあげることにしましょう。
とはいえ。
今の話を聞いた後に出てしまったら、まるで私も霊夢に会いたがっていたように見られてしまうでしょう。それは良くありません。
ですから、ここは一旦引き揚げて…そうですね、三日くらい期間が経ってから出直すのが得策でしょう。
絶対にいつも通りに――今の話は聞いていなかったことにして振る舞うのですよ、射命丸文。良いですね。
「…よし」
大きく深呼吸をしてから、射命丸文は一度頷く。動揺で硬直しきっていた身体が、やっとほぐれてきたのが分かる。
そうと決まれば、善は急げだ。もたもたしていては、自分の存在が霊夢たちに悟られてしまうかもしれない。足が動いているうちに、一旦ここから離れないと――
「ガァ?」
ふと、足下から元気な鳴き声が聞こえてくる。思わず視線を向ければ、一羽の小さなカラスがきょとんとした表情でこちらを見上げているのが分かる。この子は確か、さっきまで参道で紅葉を追いかけていたカラスだ。
「ガァ?ガー…」
あどけなさの残る瞳でじーっと見つめられ、文の足が再び固まってしまう。直前までの決意がぐらぐら揺れる文を他所に、カラスは一歩、また一歩、全く警戒する様子もなく彼女のもとに近付いて、首を伸ばしながら彼女を観察して。
「ガァー!」
直後、つぶらな瞳をきらっきらに輝かせながら、カラスは文の方へと羽ばたいてくる。反射的に差し出された文の腕へ器用に足をかけると、カラスはゆっくりと羽を休ませ始める。
「ガァ…」
とにかく嬉しそうな態度を隠せていない鳴き声に、文はくすぐったさを覚える。時折ぱかぱかと開く嘴を見ると、今すぐにでも木の実をあげたくなってしまう。
多分この子は、つい最近に親元を離れたばかりの若鳥だ。晴れて独り立ち、大人として飛び出したとはいっても、本心ではまだ寂しがりで甘えたがりのお年頃だったのだろう。
「ガァ…ガァ~…」
形を変えていても射命丸文が「同胞」だと分かっているかのように、カラスは安心しきったように鳴き続ける。
喉の辺りのふわふわした羽毛を撫でてあげれば、嘴を大きく開けながら、気持ち良さそうに身を委ねてきて。若い鳥特有の愛らしい仕草に、つい文も口許を綻ばせていた。
「ガァァ~」
こんな姿を見てしまったら、背を向けて離れるなんて、文に出来る訳がない。
そもそも、自分が居ることでこの子が癒されるとしたら、射命丸文には手を差し伸べる以外の選択肢がない。
けれど。今この場に立ち止まってしまうのが何を意味してしまうのか、射命丸文は既に分かっていて。
「ちょっと!そこに誰かいる――」
頻りに鳴き続けるカラスの声に、気配を察知したのだろう。
大幣を取り出した巫女が、鬼気迫る表情で文の眼前に勢い良く飛び出してきた。
「の…」
この場に居るはずがないと思っていた文の存在を前にして、霊夢は唖然と固まってしまう。霊夢の背後では、先程まで彼女を焚きつけていた魔理沙が「あちゃー」と言いたげに頭を抱えている。
「ガァ!」
眼前の気まずい空気をものともせず、カラスの鳴き声が元気良く響く。「同胞」との時間にすっかり満足したらしいカラスは、一度お礼をするように文へお辞儀をすると、色艶の整った羽根を広げ、空へ飛び立っていく。
大きく翼を羽ばたかせながら活き活きと浮き上がっていく姿に、文は満足げに頷く。うんうん、あの子はなかなか飛行の筋が良い。これからその翼でたくさんの景色を知って、健やかに生きていけることでしょう。
…
…さて。
みるみるうちに顔を真っ赤にさせていく霊夢に、視線を合わせる。こちらを睨む瞳に滲んだ涙には、羞恥に怒りその他諸々、溜まった感情が全てこめられているのが、流石の文にも伝わって。
「その…しばらくぶり、ね?霊夢」
へにゃり、情けない微笑みを浮かべながら、文は話しかける。
博麗霊夢の大噴火が神社に轟くまで、残り、一秒。
楽園の東端に立つ博麗神社には、一年を通して、たくさんの鳥たちが好んでやって来る。
ふわっふわに羽毛を膨らませたままじっと日向ぼっこをしていたり。可愛らしい囀りを歌いながら皆でお散歩していたり。
時には、近くに居ついている妖精たちと何やら追いかけっこを繰り広げていたり。
人通りの少ない地であることも手伝ってか、憩いの場所であると見定めたように、常に何かしらの鳥が楽しそうに戯れていて。そんな彼らの姿をのんびり観察するのが、いつしか博麗霊夢にとっても楽しみの時間となっていった。
「…あ」
はらはらと落ちていく枯葉を掃き清めていた、秋の昼下がり。今日も空いっぱいに広がる鳴き声に、霊夢は箒を止める。
どの鳥が来るかは季節や天候などによっても移り変わるのだが、中には、もはや常連として一年中神社を訪ねて来る鳥も存在する。
「ガァッ」
今、鳴きかけている鳥――カラスは、特に神社で良く見かける鳥だった。
「ガァー!ガァー!」
大きな翼にお日さまをいっぱい浴びながら、カラスが悠々と上空を飛んでいる。音を立てて力強く羽ばたいたかと思えば、空気を撫でるように旋回しながら神社へと近付いてくる。
「おっと」
我に返った霊夢が、一歩、距離を取る。翼を器用に羽ばたかせ速度を落としながら、カラスはまだ落葉の残る拝殿近くへと鮮やかに降り立ってみせた。
――やっぱり…こうして見ると、鳥の足って意外と長いのよね。
着地に当たり垣間見えたがっしりとした足に霊夢が惚れ直す傍らで、カラスはてくてく境内の散歩を始める。跳ねるように歩くたびに、太陽に照らされた羽が翡翠や濃紫に、色彩豊かに艶めくのが見える。黄金色に散り敷かれた落葉をいっぱいに踏みしめる光景は、やはり映えるものだ。
カラスの羽根は、本当はきらきら輝いていて、とっても美しい。思えば、その事実に気付いたのは、一体いつのことだっただろう。
参道の真ん中あたりで、カラスが足を止める。なんだろう、と霊夢が観察すると、本殿の方をしげしげと見つめていることに気付く。視線をもう少し細かく辿ってみると…どうやら賽銭箱が気になるようだ。
ばささ、と軽く羽ばたいて、一度賽銭箱の上に乗る。中身を覗きこむように二、三度首を傾げてみせると、今度は何かを思いついたかのようにまわりを見回す。
何をするつもりなのかと霊夢も首を傾げていると、カラスはまた柔らかに翼を広げ、賽銭箱から飛び立っていく。すっかり黄葉したクヌギの下まで真っ直ぐに降り立つと、何やら土のあたりを盛んにつつく様子が見えて。
しばらくして、カラスは顔を上げると、また賽銭箱まで戻っていく。ほっそりとした嘴には、よくよく見ると小粒ながらも艶の入ったドングリが、大切そうに咥えられていて。箱の縁へ器用に足をかけると、咥えた木の実を中へ落としていった。
からから…と、軽やかな音を立てて、ドングリが跳ねていく。賽銭箱の底まで転がるまでの様子を、カラスは幾度も確認するようにじーっと見つめる。しばらくして、カラスはくるりと顔を上げると「ガァ!」と逞しい声で鳴きかけた。
もしかしたらこのカラスは、以前に人間が神社へお参りするまでの様子をどこかで見ていたのかもしれない。カラスは極めて頭が良く、記憶力の高い鳥であると聞いたことがある。だとしたら、カラスの行為はその真似事――この子ならではの「遊び」といったところだろうか。
もしも、だけど。この子が、何か想うところがあって、今日此処にお参りに来たのだとしたら。
一体どんな願いごとを、あのドングリに託したのかな。
「ガァ!」
こちらを振り返ったカラスはまた一度、張りのある声で鳴く。青空を映し出すつぶらな瞳は、心なしか爽やかに澄みきっているように見える。
――あのドングリ、何か小箱にでも入れて保管しておきましょう。
どうか、あの子の願いが叶いますように。
軽やかに飛び去っていくカラスの背中へ笑みをこぼしながら、霊夢は再び箒を動かし始めた。
***2***
しばらく経って。掃除を終え、一段落ついた霊夢は、縁側で一人、紅葉を眺めていた。
臙脂、濃紅、朱色と「赤」だけでも多様におめかししている木々は、秋をいっぱいに楽しむように風と踊っている。樹冠からちらちらと光が揺らめいたかと思えば、その欠片がこぼれ落ちたかのように色に満ちた葉が風を舞っていく。
湯気を顔いっぱいに浴びながら、あたたかなお茶を一口。ほのかな甘みがふわっと花のように咲いて、表情を和らげる。やっぱり今の季節には、これが一番だわ。
「ガァー」
落葉が再び散り始めた小道では、また一羽、カラスがのんびりとした調子で鳴いている。身体を傾けながらひょこひょこ歩いている姿に、また霊夢の注目が引き寄せられる。
んー…この子は、さっきまで居た子とはまた別のカラス…だと思う。
確信がある訳ではないけれど。ほら。翼を広げた時に見える風切羽の切れ込みとか、違っていた記憶があるわ。
顔の形もちょっと丸めだし、嘴も少し小さめ。というか、さっきの子と比べて全体的に身体がほっそりとしている、ような――うん。やっぱり。このカラスは、神社(ここ)に初めて来てくれた子だ。
…こういうことを魔理沙とかに話すと、皆釈然としないように、首を傾げたりするんだけど。私にとっては、あまり難しく感じないんだけどなぁ。
嘴を半開きにさせながら紅葉を見上げているカラスが気になっちゃって、霊夢は目を細める。
なんだろう。こうして観察すると、初めて目にした紅葉に見とれちゃっているみたいで、ちょっと可愛いかも――口許を綻ばせた刹那、肌寒い秋風が、神社を通り抜けていった。
「ガァァ!ガァ」
吹きつける風に首をすぼませながら、カラスはいっぱいに羽毛を膨らませる。
しゃがれた鳴き声が寒さで震えているように聞こえてしまって、霊夢は思わず背中を浮かせてしまう。
けれど、立ち止まっていたのはほんの一瞬のことで。再び日の光が差し始めたころには、呑気な声でまた一声鳴きながら、しっかりとした足取りで小道を歩き始めた。
いつも通りのカラスの様子に安堵の息を吐き、霊夢は再び腰を落ち着ける。
野生の鳥につい庇護欲を出してしまいそうになった自分に呆れながら、また一度、お茶を口に含む。
――…アイツ、今ごろどうしているのかな。
落葉を追いかけるように速足で跳ねていく――好奇心旺盛なカラスの仕草に、一人の知り合いの顔が、はっきりと浮かびあがる。
この季節に入ってから、まだ新聞の上でしか姿を見せていない「アイツ」。
どこを飛び回っているのか、何をしているのか、常に背中をつかませてくれない「アイツ」。
「おーい、霊夢ー」
いけない。アイツのことを考えていると、つい眉に皺が寄ってしまう。
そりゃアイツだって色々と忙しいんだろうけどさ。それは分かるけどさ。
いつもしょうもない時に顔出してきたくせに、何で来なくなっちゃったのよ。
「お客様だぞー」
別に、会いたいって訳じゃないの。
だんっじて!!そういう訳ではないんだけど。
さっきの子みたいに身体冷やしたりしなかったか、とか…こうも長く顔を見せてくれないと、こっちも色々、心配になってきちゃう、というか…
「聞こえてるかー。私にもお茶くらい出せー」
また次の紅葉につられて追いかけ始めるカラスに、霊夢は縋るような視線を向ける。
アイツ、きっとカラスの言葉、分かるのよね。あの子には、こっちのこと、アイツに伝えられるのよね。
だから、もし。もしも、出来ることなら。
こっちが寂しがってるってこと、あの子から話してくれないかな――
「『あーあ。アイツ、今ごろどこをほっつき歩いているのかなー』」
自分の心をそのまま読み当てた声が聞こえて、今度こそ霊夢は大きく飛び上がってしまった。
息を吸って、吐いて、吸って、吐いて――たっぷりと時間を使って心を落ち着かせてから、なんとか声の方向へと振り返る。
睨みつけた先に居る相手――霧雨魔理沙は、いたずらっ子の笑みを浮かべながら、霊夢を見つめていた。
「『あのカラスに、私の気持ちを託すことって出来ないかなぁ』」
「ちょ、ちょっと魔理沙、いつの間に」
霊夢の声音を真似てなおも「代弁」される感情に、心臓の鼓動がばくばくと反響していく。
「『そうしたら、私が此処で寂しがっていること、アイツに伝えられるのかなー』」
え、え、うそ。魔理沙の奴、いつからこっちの様子を見ていたの?
というか私、さっきまでどんな顔をしていたの?
「ち、ち、ち、」
そうだ、そんなことを気にしている場合じゃない。兎にも角にも、まずは反論しなきゃ。
「違うもんっ!!!そんなんじゃないもんっ!!!」
真っ赤っかに燃え上がらせた顔で目をつむりながら、手をとにかく我武者羅に振り回す。
あまりにも子供じみた霊夢の否定に、魔理沙は思わず噴き出してしまった。
「ぷ、くくっ…そんな顔に真っ赤にさせながら言われても、説得力ねぇなぁ」
「これはっ…そう!さっき肌寒い風がこっちまで吹いて来たからでっ」
「ほほう、そりゃ大変だ。風邪引いたりする前に、早くアイツの翼で温めてもらわないとな」
「にゃ、にゃにいってるのよっ」
あの大きくしっかりした翼で、身体をすっぽりと包まれて。
意外に爽やかで気持ちの良かった匂いを、また間近で感じることになって。
なんとか睨みつけようと見上げたら、あの妖しくも凛々しい顔が視界いっぱいに映し出されて…
「そんなにアイツに会いたいなら、お前から直接伝えれば良いじゃねぇか」
「そ、そんな、うぇ、けど、その」
もはや舌も回っていない可愛らしい親友の姿に、魔理沙は口端をさらに意地悪く曲げる。
ここまで狼狽する霊夢は、「アイツ」の話題になった時にしか見ることが出来ない――魔理沙にとっても、お宝級の顔だ。
「ほれほれ、手紙でも良いから出しときな。友人のよしみで魔理沙さんが山まで届けに行ってやるぜー」
なおも魔理沙が活き活きと霊夢を揶揄い続ける横で、落葉を追いかけていたカラスが、ふと大鳥居へと視線を向ける。
鳥居の陰では、博麗霊夢が今まさに会いたかった「アイツ」――射命丸文が、霊夢たちから隠れたまま呆然と固まっていた。
***3***
…
……
…待って。
待って待って。
一回、整理しましょう。
確かにこの秋に入ってから、自分は博麗神社には立ち寄れていない。
天狗での祭の準備やら、連載小説の手回しやらで、文自身がなかなか息をつく時間が無くて。
もちろん、霊夢にそのような事情を伝えられる余裕もなくて。
それで、やっとのことで時間が確保出来たからと、気晴らしに博麗神社に寄ってみれば。
霊夢もずっと、私に会いたがっていた?
そのことで、ずっとずっと霊夢を寂しがらせていた?
まさか。
ははは、そんなまさか…
…
……
…はー。やれやれ。
ほんのちょっと顔を出さなかっただけでこの体たらくとは、霊夢はまだまだですねぇ。
それなら仕方がありません。霊夢の前に顔を出してあげることにしましょう。
とはいえ。
今の話を聞いた後に出てしまったら、まるで私も霊夢に会いたがっていたように見られてしまうでしょう。それは良くありません。
ですから、ここは一旦引き揚げて…そうですね、三日くらい期間が経ってから出直すのが得策でしょう。
絶対にいつも通りに――今の話は聞いていなかったことにして振る舞うのですよ、射命丸文。良いですね。
「…よし」
大きく深呼吸をしてから、射命丸文は一度頷く。動揺で硬直しきっていた身体が、やっとほぐれてきたのが分かる。
そうと決まれば、善は急げだ。もたもたしていては、自分の存在が霊夢たちに悟られてしまうかもしれない。足が動いているうちに、一旦ここから離れないと――
「ガァ?」
ふと、足下から元気な鳴き声が聞こえてくる。思わず視線を向ければ、一羽の小さなカラスがきょとんとした表情でこちらを見上げているのが分かる。この子は確か、さっきまで参道で紅葉を追いかけていたカラスだ。
「ガァ?ガー…」
あどけなさの残る瞳でじーっと見つめられ、文の足が再び固まってしまう。直前までの決意がぐらぐら揺れる文を他所に、カラスは一歩、また一歩、全く警戒する様子もなく彼女のもとに近付いて、首を伸ばしながら彼女を観察して。
「ガァー!」
直後、つぶらな瞳をきらっきらに輝かせながら、カラスは文の方へと羽ばたいてくる。反射的に差し出された文の腕へ器用に足をかけると、カラスはゆっくりと羽を休ませ始める。
「ガァ…」
とにかく嬉しそうな態度を隠せていない鳴き声に、文はくすぐったさを覚える。時折ぱかぱかと開く嘴を見ると、今すぐにでも木の実をあげたくなってしまう。
多分この子は、つい最近に親元を離れたばかりの若鳥だ。晴れて独り立ち、大人として飛び出したとはいっても、本心ではまだ寂しがりで甘えたがりのお年頃だったのだろう。
「ガァ…ガァ~…」
形を変えていても射命丸文が「同胞」だと分かっているかのように、カラスは安心しきったように鳴き続ける。
喉の辺りのふわふわした羽毛を撫でてあげれば、嘴を大きく開けながら、気持ち良さそうに身を委ねてきて。若い鳥特有の愛らしい仕草に、つい文も口許を綻ばせていた。
「ガァァ~」
こんな姿を見てしまったら、背を向けて離れるなんて、文に出来る訳がない。
そもそも、自分が居ることでこの子が癒されるとしたら、射命丸文には手を差し伸べる以外の選択肢がない。
けれど。今この場に立ち止まってしまうのが何を意味してしまうのか、射命丸文は既に分かっていて。
「ちょっと!そこに誰かいる――」
頻りに鳴き続けるカラスの声に、気配を察知したのだろう。
大幣を取り出した巫女が、鬼気迫る表情で文の眼前に勢い良く飛び出してきた。
「の…」
この場に居るはずがないと思っていた文の存在を前にして、霊夢は唖然と固まってしまう。霊夢の背後では、先程まで彼女を焚きつけていた魔理沙が「あちゃー」と言いたげに頭を抱えている。
「ガァ!」
眼前の気まずい空気をものともせず、カラスの鳴き声が元気良く響く。「同胞」との時間にすっかり満足したらしいカラスは、一度お礼をするように文へお辞儀をすると、色艶の整った羽根を広げ、空へ飛び立っていく。
大きく翼を羽ばたかせながら活き活きと浮き上がっていく姿に、文は満足げに頷く。うんうん、あの子はなかなか飛行の筋が良い。これからその翼でたくさんの景色を知って、健やかに生きていけることでしょう。
…
…さて。
みるみるうちに顔を真っ赤にさせていく霊夢に、視線を合わせる。こちらを睨む瞳に滲んだ涙には、羞恥に怒りその他諸々、溜まった感情が全てこめられているのが、流石の文にも伝わって。
「その…しばらくぶり、ね?霊夢」
へにゃり、情けない微笑みを浮かべながら、文は話しかける。
博麗霊夢の大噴火が神社に轟くまで、残り、一秒。