Coolier - 新生・東方創想話

ハイヌウェレの落とし子

2024/08/08 21:17:39
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とある日の夕方のこと。宇佐見菫子の姿は、東深見市立中央図書館にあった。彼女が訪れた図書館は、その建物がある自治体のなかで最も蔵書量が豊富であり、近隣市町村の図書館よりも質が良いと評判であった。
そんな図書館の四階で、董子は熱心に本を読んでいる。館内図によれば四階は「調べもののフロア」と名付けられており、本棚に掛けられた蔵書も百科事典や近隣市町村が発行した地方史、新聞の縮刷版に機関紙のバックナンバーといった、資料然とした文献ばかりである。今を生きる女子高生には似つかわしくない場所であったが、忘れられたものが集う世界に足しげく通う董子にしてみれば、そんなことは関係ない。穏やかな余生を満喫する老人に囲まれて、董子は未来を見据えて生きているのだ。
董子が見据える未来。それは、幻想郷の友達と交わす会話である。幻想郷に住まう者たちにとって、外の世界の情報はどれも有用である。どんな話をしようか、どんな話題を振ろうか。しかし董子は超能力が使える以外はごく普通の女子高生だ。知識も年相応のものしかない。したがって董子は今、話のタネを探しているのだ。
ペラペラと事典を捲っているうちに、とある項目が目に止まった。
「海神、かあ」
海神。開かれたページが少ないことから、読みは「わだつみ」ではなく「かいじん」だろう。「海神」の語が含む意味は幅広い。四ページにもわたって書きつらねられた項目には、意外なことにいくつかの図像が挿しこまれており、暇つぶしも兼ねて事典を眺めているような人間に対しても優しい作りだった。恵比寿様に大黒様、ワダツミ神に海幸山幸。さらに鯨や来訪神など、海にまつわる様々な神や習俗が簡潔にまとめられている。
「そういえば、幻想郷に海の神様っているのかな」
ふと浮かんだ疑問。幻想郷に海はない。しかし、外の世界には、居場所を失った海の神もいるに違いない。そんな者たちが幻想郷にやってきたとき、どういった対応が取られるのだろうか。真っ先に浮かんだのは川だった。幻想郷には海こそないが、川であればいくつもある。そういえば、地獄には血の池地獄があるらしい。たしか船幽霊が遊んでいるとか。
「決めた。次は海の神様について聞いてみよう」
静かだった館内にオルゴール調のメロディーが流れ始める。同時に退館を促すアナウンスが放送される。気が付けば、もう閉館時刻がすぐそこまで来ていた。董子もまた、図書館に居る理由はない。
近くの老人たちが続々と席を立つ。董子もまた、その流れに身を投じた。

それから半日が経った。二時間目の号令が掛かるや否や枕に顔を埋めた董子は、さっそく幻想郷にやってきている。
せっかく手に入れた話のネタ、しかし誰に話せばいいのだろうか。図書館を満足気に後にした董子は、根城のシャワールームで湯船に漬かりながら一時間ほど悩んだ。話題は海神である。真っ先に浮かんだのは、神職である早苗か霊夢だった。ただ、早苗は外の世界で生まれている。はたして、彼女は神職としての専門的な教育を受けているのだろうか。董子の目には、あまりそうは映らなかった。ましてや彼女は十代の頃に幻想入りしている。それはつまり、外の世界に居た頃の年齢は董子と大して変わらないということだ。授業や勉学に対する己の姿勢を鑑みると、やはり早苗が専門的な知識を持っているとは考えられなかった。
というわけで、董子は博麗神社にやってきたのだった。
「こんにちはー」
「ああ、董子ちゃんじゃない。お茶でもどう?」
「わ、ありがとー」
董子の返事を待たずに奥へ下がる霊夢。その足取りは跳ねるようで、まるで誰かの来訪を心待ちにしていたようだった。置き去りにされた竹箒と、やる気なく掃き集められた落葉が寂し気に佇んでいる。
「それで、どうしたのよ。また何かやっちゃった?」
「別に何もしてないって。ところでさ、幻想郷って海の神様とかもいるの?」
「海の神様? あー、いるにはいるけど……」
単刀直入にバッサリと訊ねてみるも、霊夢の反応は微妙なものだった。一応、幻想郷にも海の神様はいるらしい。それだけでも嬉しい収穫だったが、それよりも霊夢の反応が気になる。
「いるけど、董子ちゃんの創造してる神様とは違うと思う。それに会いに行ける間柄でもないから……」
「そっかあ。図書館で事典を読んでいたらね、海神の項目が目に止まったの。海の神様にまつわる事柄がコンパクトにまとまっていて勉強になったのだけど、ふと気になっちゃって」
「なるほどね、それでここに来たと」
「そう! でも、ずばり海神な神様はいなさそうね」
「そうねえ。船幽霊なら居るけど、あれは神様じゃないし」
「じゃあ、海に所縁のある神様とかは? たとえばえびす様とか」
「あー、それならいるわよ。会いたい?」
「できることなら……!」
「わかった。じゃあ準備してくるからちょっと待っててね」
そういうと、霊夢は湯呑を洗いに下がっていった。
「でも、えびす様ってどんな姿なんだろう。ここの神様は私の知る神様とは全然違うからな」
董子は今まで、幻想郷の友人を介して多くの神に会ってきた。その大半は董子でもなんとなく聞いたことのある気がする神ばかりであったが、その名前からは想像もつかない姿であることが多い。しかし、これから会う神様は違う。なにせ、えびす様である。あのえびす様だ。えびす様といえば、董子でも図像を知っているくらい有名な神様だ。あの姿なのか、それともビールの方か。
「お待たせ。じゃ、行こうか」
「はーい」
一体、どんな姿なのだろう。期待に胸を躍らせながら、空に飛び立つ。
幻想郷の空はどこまでも続いている。眼下に見える景色は山から田んぼへと変わり、人里を挟んで広がる田園風景はどこまでも続くかのよう。しかし目を凝らしてみれば人の手が入った緑は徐々に疎林へと姿を変えていく。その合間に走るあぜ道も次第に崩れ荒廃していき、見る見るうちに人の気配が薄れていく。代わりに満ちゆく妖の気配。そして水気。いつの間にか、前方には白い霧が立ち込めている。そこに躊躇なく飛び込む霊夢。前後不覚への恐怖を抱きながら、董子もまた濃密な白に突入した。
その下には、河原だけが広がっていた。
「物悲しいところね」
董子から飛び出した率直な感想に、霊夢は頷きながら
「ここ、賽の河原だから」
と、さぞ当たり前のように言葉を返すから、董子はその場に固まってしまった。
「賽の河原って、あの、親を悲しませた子どもが石を積むっていう、あの賽の河原?」
「そう。で、あそこに見えるのが三途の川」
そういって指しだされた袖の先は、たしかに足元の石河原とは違う色をしている。ただ、川にしては流れと呼べるほどの動きがなく、しかも水音が聞こえない。水辺に特有のあの生々しい匂いもなく、これでは川というよりも横たわったラインである。岸辺に引き上げられた川舟が無ければ、そしてなによりも霊夢の案内が無ければ、それが川だとは董子には気づくことができなかったはずだ。
その手前で、いくつかの小さな人影が動き回っている。
「で。……あそこにいるのが、目的の子よ」
振り下げられた白い袖。そのとき生じた微かな衣擦れの音に反応するかのように、ひとつの人影が顔を上げた、かと思えばそのまま再び膝をつき足元をまさぐり何かを掴んだ次の瞬間には立ち上がってこちらを見つめるその目は恨み骨髄に染まり思わずたじろいだ董子めがけて投擲された石礫は彼女の頬を掠めていった。
「な、なにあの子」
「ああ、ごめん。ちょっと待ってて」
そう告げると、霊夢は少女めがけて降下していった。
そのあと董子が何を見たのか、それをわざわざ説明する必要はないだろう。博麗の巫女に牙をむいた人外の末路などひとつしかない。人の身でありながら霊夢に引導を渡された経験のある董子は、そのことをよく理解していた。
その容赦のなさを見た董子は思う。
「その、もう少し手加減してあげてもいいんじゃない?」
「いいのいいの。いきなり攻撃してきたんだもん、これくらい必要よ」
これは立派な正当防衛よ。と、董子に朗らかな笑顔を見せると
「ね? あんたもそう思うよね?」
右手に捕らえた少女にもまた、冗談めかして問いかける。
「やっぱりお前は鬼だよ。赤鬼だよ」
大きな福耳の少女が恨めし気に口を開く。ボロボロになった衣服と全身の擦過傷が彼女を襲った攻撃の苛烈さを如実に表していた。先制攻撃の代償はあまりに大きく、正当防衛と言い張るには度が過ぎている。どう見てもやりすぎだ。
「あれでも手加減してくれてたんだ」
「当たり前でしょ、あんたは人間なんだから。でもこの子は人じゃないから――ほら、自己紹介しなさい」
「……戎瓔花。水子のリーダーです」
水子。みずこ。そのリーダー。水子のリーダー。
瓔花の言葉を繰り返す。でも、何度繰り返してみても董子にはわからなかった。この子は海の神様ではないのか。しかも、よりにもよって下の名前が瓔花だなんて。
「ということは、海の神様ではない?」
董子の問いかけに、しかし瓔花は答えない。そもそも瓔花は二人を見ていない。霊夢に引き立てられて来たときから自己紹介をする時まで、そして今に至っても、ぷいと拗ねたようにそっぽを向いている。
「ほら、返事は」
「違う。さっき水子のリーダーだって言ったじゃん」
霊夢にぐいと腕を引っ張られて、ようやく瓔花は口を開いた。ただ、その答えは単なる事実の再確認に過ぎない。そのやり取りだけで、瓔花が自己開示に積極的で無いことがよくわかる。
「じゃあ、あなたは水子なの?」
「何回いえばいいの。私は水子のリーダー、リーダーはリーダーでしょ!」
今まで霊夢に向けられていた瓔花の矛先が初めて董子に向けられる。その鋭い視線と言葉には明確な敵意が含まれていた。ただ、初めて見た瓔花の目元には、きらりと輝くものが溢れんばかりに満たされていた。
「そうだよね。リーダーはリーダーだよね。難しいこと聞いてごめんなさい」
リーダーといえど水子は水子。いかに弾幕を操ろうとも幼い子どもであることには変わらない。幼児もしくは児童に自らの出自を問うたとして、満足に答えられる者などめったにいない。瓔花もまた、そうした大多数の幼子の一人なのだろう。
「そろそろ戻ろうかな」
「え、もういいの? わたしが手伝おうか、そうすればもっと話してくれると思うけど」
「ありがとう。でも大丈夫、なんか満足しちゃった」
「そう。ならいいけど」
そういうと、霊夢は握りしめていた瓔花の腕を離した。その場にしゃがみ込んだ董子は、解放された瓔花と同じ目線になってみる。瓔花の目線から見た霊夢はいつもよりも威圧的で、霊験に満ちたお祓い棒と紅い装束の醸し出す雰囲気は間違いなく強者のそれであり、赤鬼という表現が飛び出すのも納得だ。この迫力のまま石積みを崩すことがあれば、それはまさしく鬼だろう。友人が賽の河原の伝承をなぞらなくてよかったと思う。
「ごめんね。急に押しかけて」
「なに。もう帰るの?」
「うん。またくるから、そのときはまたお話してね」
「わかった。次は痛いことしないでね」
「もちろん。次はなにかお土産も持ってきてあげる。じゃあね」
「またね。ばいばい」
こうして別れを交わした董子は、霊夢とともに神社へと戻っていった。

◇◇◇

「ってことがあってさ」
「それは大変でしたね。ほんとうに色々と」
博麗神社へ戻った直後、午前最後の授業が終わるチャイムで目を覚ました董子は、購買で買ったサンドイッチでおなかを満たしたあと、再び幻想郷へとやってきていた。
次の行先は鈴奈庵。お昼ご飯を食べながら戎瓔花について考えていた董子は、幻想郷における戎瓔花の立ち位置を知る必要があると思い立った。ならば幻想郷縁起を見せてもらおうと稗田家へと突撃したのだったが、ノンアポであったため門前払いされてしまった。そこで阿求の友人を伴えば何とかなるのではないかと思い、鈴奈庵にやってきたのだった。
「そうなのよ。レイムッチも手ひどくやるわよね」
「まあ、それは霊夢さんですから。それで、結局水子のリーダーさんとはお話しできなかったんですか?」
「うーん。そもそもあの子、質問してもあまり答えてくれなくて。だから埒が明かないと思って帰ってきちゃった」
「え! じゃあ、本当に今教えてくれた程度の会話しかしていないんですか」
「もちろん。あのまま質問攻めしていたらあの子癇癪起こしちゃったと思うし」
「……なるほど。そうなるとお互いに大変ですもんね」
「そうそう。あと、ふつうに可哀想だったのもある。あんな小さい子をボコボコにするなんてレイムッチも鬼よねえ」
「水子とはいえ相手はリーダーですし、きっと大丈夫ですよ。――あ、ありましたよ」
しかし小鈴は、戎瓔花などという水子の項目は縁起にはないという。ただ、『海の神様は幻想郷にいるのか』という話題には興味を持ったようで、鈴奈庵にある外の世界の図鑑を一緒に読もうという流れになり、現在に至る。
「この前、ちょうど神様の事典を見つけたんですよ。拾っておいて正解でした」
小鈴が書架から引っ張り出した事典は、『日本の神様大百科』というもの。
「『かいじん』だから、たぶんこのあたりだと思う」
ペラペラとページを捲っていると、やがて目的の項目にたどりついた。
「ありました!」

 【海神】(かいじん)(わだつみ)(わだつみ)(うながみ)
海を支配する神。海に住んでいるとされる神。神話や伝説といった文献、口承上の存在に過ぎない神から、儀礼を伴う信仰を受ける神まである。航海の安全や豊漁を祈願する神などがある。海を支配する神として、ギリシア神話のポセイドンや日本神話のワダツミがいる。日本神話では、海の底に住まう神としてワタツミ神が登場するほか、海幸山幸の伝説などがある。航海の安全を願う神として住吉神が挙げられる。豊漁を祈願する神としては、エビス神がいる。エビス神は仏教と習合し七福神の恵比寿となるほか、日本の民間信仰では海から現れ恵みをもたらす来訪神であるとされ、砂浜に打ち上げられたクジラや水死体を「エビス」と呼ぶこともある。また、水死体の外見的特徴から、国生み神話にて不完全なものとして海に流されたヒルコ神をエビス神と重ねる場合もある。

「住吉様は知っていますよ。あと海幸山幸って、兄の釣り針を失くした弟のお話ですよね」
「住吉神って昔レイムッチが降ろしたっていう神だよね? すごいな」
「でも村紗さんはいないんですね。命蓮寺にいる船幽霊の方です」
「あ、言われてみれば。じゃあ七人ミサキも載ってるわけないか」
「あくまで神様大百科ですからね。仕方ないです」
思い思いの感想を呟きあう二人。そうしていると、来客を告げるドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませーって、あ」
「小鈴ちゃん。この前借りた本なんだけど、延長することってできる?」
鈴奈庵に聞き覚えのある声が加わる。この声は、もしや。
「あれ、レイムッチじゃん」
「え、董子ちゃん? 帰ったんじゃなかったの?」
急な来客の正体は、さきほど別れた博麗霊夢だった。それも完全にオフの姿。里で食料の買い出しだろうか、右手で可愛らしいきんちゃく袋を、左手には野菜でパンパンの風呂敷包みと長ネギをもっている。
「いやー実は水子のリーダーちゃんのことが気になっちゃって。ねえ、あの子って幻想郷縁起には載ってないの?」
「載ってないわよ。あの子は最近流れて来た子だから」
「流れて来た、ですか?」
カウンターに取り出した貸出カード。博麗霊夢と書かれた紙片にスタンプをぺたりと押しながら、小鈴が尋ねる。
「三途の川を流れてきたのかはわからないけどね。でも、幻想郷に流れ着いてから日が浅いのは確かよ。だって、あの子私が小さい頃はいなかったもの」
「そうなの? 賽の河原なんて場所にいるんだから、ずっと昔からあそこにいるのかと思ってた」
「あんな生意気な子、昔から居たら小町のストレスがマッハよ。だから董子ちゃんを案内したのよ。もっとも期待外れだったんだけど」
幻想入りして比較的日が浅いから、外の世界のことも覚えていると思ったんだけどね。よっぽどあそこが気に入ったのかしら。私には理解できないけど。
そう続ける霊夢を遮るようにして董子が口を開く。
「ま、待って。幻想郷のひとたちって、外の世界でも同じ存在なんじゃないの?」
幻想郷に暮らす妖怪や神様の多くは、外の世界で信仰を得られなくなったからこちらに移り住んできたのではなかったのか。姿が違うのはわかる。だが、本質まで違うのか。
「何言ってるの、そんなわけないじゃない。外の世界の創造主は土の神様じゃないでしょ」
言外に問いかける董子と、直接的に答える霊夢。
「私もよくは知らないけど、外の世界はこっちよりも便利なんでしょ。なら、求めるものも食い違うのは当然のこと。神も妖怪も人の想いで形作られる以上、想いが違えば姿も変わるでしょ」
「じゃあ、さっきの瓔花ちゃんも、外の世界では別の姿を持っていたりするの?」
「その可能性も十分あると思うわよ。だって、戎なんて大層な名前を冠する子がただの幽霊なわけないじゃない」
「名は体を表すって言いますもんね」
「ええ。そういうものなのかなぁ」
「少なくとも、この場ではそういうことにしておきましょ。私そろそろ帰らないと」
気が付けば、ガラス越しに差しこむ陽の光が白から橙に変わっている。いつの間にか時間が経っていたらしい。「閉店」と書かれたプレートを両手に持った小鈴が、玄関へ向かう霊夢の脇をすり抜けていく。
「じゃあね董子ちゃん。今日は楽しかった」
「こちらこそ付き合ってくれてありがとう。じゃあね」
「ご来店ありがとうございます。またお越しください!」
店頭から小鈴の元気な声が聞こえてくる。同い年くらいなのに小鈴ちゃんはさすがだなぁ。
そんなことを思っていると、どこからともなく鐘の音が聞こえてきた。どうやら董子も家に帰る時間らしい。
白に染まりゆく視界の中で、鈴奈庵の扉が開いてゆく。

◇◇◇

帰りのホームルームが始まるチャイムで目を覚ました董子は、寝起き特有のボーっとした頭のまま帰りの号令を聞き届けた。掃除を始めるクラスメイトをよそに駅に向かい、やってきた電車に揺られること6分。到着したのは、あの図書館の最寄り駅。
近隣市町村の図書館よりも質が良いと評判の、東深見市立中央図書館。その館内図に「調べもののフロア」のフロアネームで載る四階の片隅に、董子の姿はあった。
幻想郷の妖怪や神様は、霊夢曰く「想いが違えば姿も変わる」らしい。土の神様が人類の救世主のくだりは正直よくわからなかったけれど、幻想郷にやってきた神様や妖怪は、外の世界とは別の姿になることがあるらしい。それは、あの水子のリーダーも例外ではないという。
「レイムッチは『戎』に注目していたけど、私からすれば『瓔花』のほうがよっぽど驚いたんだけどなぁ」
昨日と同じ事典、『日本の神様大百科』の同じページを開き、目を通す。

【海神】(かいじん)(わだつみ)(わだつみ)(うながみ)
海を支配する神。海に住んでいるとされる神。神話や伝説といった文献、口承上の存在に過ぎない神から、儀礼を伴う信仰を受ける神まである。航海の安全や豊漁を祈願する神などがある。海を支配する神として、ギリシア神話のポセイドンや日本神話のワダツミがいる。日本神話では、海の底に住まう神としてワタツミ神が登場するほか、海幸山幸の伝説などがある。航海の安全を願う神として住吉神が挙げられる。豊漁を祈願する神としては、エビス神がいる。エビス神は仏教と習合し七福神の恵比寿となるほか、日本の民間信仰では海から現れ恵みをもたらす来訪神であるとされ、砂浜に打ち上げられたクジラや水死体を「エビス」と呼ぶこともある。また、水死体の外見的特徴から、国生み神話にて不完全なものとして海に流されたヒルコ神をエビス神と重ねる場合もある。

「やっぱり、ここまでは同じなんだけど」
しかし、問題はここからだ。

なおエビス神は、ところによっては「エイカ」の名で信仰されている。「エイカ」→88ページ

そして88ページには、こうある。

【エイカ】(えいか)
主に中部地方と近畿地方の民間信仰で祀られる神。その神徳は様々だが、主に海と産育を司る神として信仰されている。基本的に文字や口承で伝わってきているが、図像で表現される場合は、一般的に大きな耳たぶと触手を持つ紅白の服を着た少女の神像である。また、海の神であるが、内陸部や山岳地帯の川沿いでも信仰されている。その霊験の多くがエビス神と同様のものであることからエビス神との関連が考えられているが、産育にかかわる信仰、特に夭折した子どもにまつわる信仰は、エイカ神に独自のものである。また、エビス神が祀られる地域には、エビス神に身体の一部を分け与えられた人間が富を手に入れるという伝承が残されている。ここでいう富とは、金銀財宝といった拝金的な意味のみでなく、子宝や豊漁そして死と再生の循環といった、広義の「幸」である。そのことから、エイカ神の神話伝承は、ハイヌウェレ型神話との関連を指摘されている。一方で、「幸」を独占した富者に天罰が下る伝承も複数存在することから、幸と災を併せ持つ両義的な神であるという研究もある。

「夭折って幼くして亡くなった子どものことだよね。どうしてもエイカ神の方が気になっちゃうんだよなぁ」
しかし、当の本人は水子のリーダーであると言い張るばかりである。ここはやはり、本人の意思を尊重するべきなのだろうか。だがその場合にしても、霊夢の言葉が気がかりである。明確な根拠こそないようだったが、彼女の直感は当たると評判である。その評判は董子も身に染みて理解している。また、小鈴の言う通り名は体を表すという言葉もある。だからこそ、こうしてまた図書館にやってきているのだ。
だが、それ以上に意識を向けるべき問題がある。鈴奈庵で手に取った事典は、間違いなく今閲覧している本と同じタイトルだった。それではなぜ、ここまで記述が乖離しているのだろうか。もっとも、ただ単に版が違うだけという可能性もある。なにせ幻想郷は忘れられたものが集う場所である。版が変わり内容が刷新されたことで、情報が古くなり読者に顧みられることがなくなった結果、幻想郷に流れ着いたと考えた方が自然だ。
だがしかし、それでも腑に落ちない部分があるのも確かなのだ。仮に鈴奈庵の事典が古い版だったとして、しかしいま眼前に並ぶ記述を読む限り、エイカ神の研究にはある程度の蓄積があるように見える。はたして版が刷新される間に、ここまで研究が進むことなどあるのだろうか。海外との比較をするならまだしも、エイカ神の比較相手は、かのエビス神である。この有名な神と同じ信仰をもつにもかかわらず、事典に掲載されるほど研究が成されないことなどあり得るのだろうか。
「もしかして『外の世界』はここ以外にもある、とか?」
「まさかね。そんなことあるわけない」
事典を前に頭を抱える董子。その姿は勉強熱心な高校生そのものだ。董子はいま、この疑問に大きな関心を抱いている。できることならこうして一生悩んでいたいくらいだった。しかし時間がそれを許さない。
静かだった館内にオルゴール調のメロディが流れ始める。同時に退館を促すアナウンスが放送される。気が付けば、もう閉館時刻がすぐそこまで来ていた。
董子には、アナウンスを無視してこの場に居座るほどの度胸はなかった。夢と現、現と幻を股に掛ける少女は、それゆえに侵犯への恐怖心は人一倍強い。幻想郷にはルールを守れない者に居場所などない。境界を往復する中で、董子はいつの間にか幻想郷のルールを内面化していた。
だから、エイカ神についても、これ以上踏み込んではならない気がした。
妖怪が人を襲い、人は妖怪を恐れる。幻想郷は、この循環に立脚している。それでは、正体を暴かれた妖怪はどうなってしまうのだろう。その信仰の成り立ちから仕組み、それを維持するロジックに至るまで全てを白日の下に晒された妖怪は、はたして存在できるのだろうか。それを避けるための避難所として、幻想郷は用意されたのではなかったか。
董子には、その聖域を破壊する勇気はなかった。かつての自分ならいざ知らず、今の自分にはメリットが無い。董子はもう楽園の住人なのだから、自らの領域を侵す理由が無いのだ。それに、秘密を暴き尽くしては秘封倶楽部の活動ができなくなってしまう。
だから董子は、エイカ神にまつわる事実を忘れることにした。すべてを忘れて、今まで通りに幻想郷へ遊びに行き、適切な具合に外の世界の知識を持ち込む生活を続ければいいのだ。
分厚い事典を書架に戻すころには、もう館内放送のメロディーが三巡目に入っていた。閉館まで、残り五分。
近くの老人たちが続々と席を立ち、出口へと歩き出す。董子もまた、その流れに身を投じた。
もし幻想郷に生きるものたちが外の世界にいたら、研究や事典の記述がどう変わるのか想像するのが好きなので書きました。シリアスにもホラーにも見えない瓔花ちゃんのお話、初めて書いたかもしれないです。

お子様な瓔花ちゃんも良いですね。いつもみょうに大人びた瓔花ちゃんばかり書いているので新鮮でした。よかったら人気投票は戎瓔花に投票してあげてください。わたしが喜びます。


2024 8/17【追記】
作中に登場する「エイカ神」は筆者の創作した存在であり、実在する神ではありません。このたびは誤解を招く表現をしてしまい申し訳ございませんでした
よー
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コメント



0.50簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100名前が無い程度の能力削除
名は体を表すとは文中にもありましたが、様々な文献から解釈が飛んだり、それが大きなスケール感につながる可能性を示唆されたりと、興味深く面白かったです。
3.90竹者削除
よかったです
4.100南条削除
面白かったです
瓔花をここまで掘り下げているのが珍しく、外の世界の伝承にも関わっているところが示唆されていて読んでいてワクワクしました
とてもよかったです
5.90せんとらた削除
よい瓔花さんでした
6.90東ノ目削除
少し前にTwitter(現X)で幻想郷の海の神について話していてそれがこの話になったかと思いました。浅学ながらエイカ神については知らなかったのでそこが新鮮でした
8.無評価よー削除
作者です。いつも拙文をお読みいただきありがとうございます。
「ハイヌウェレ落とし子」作中にでてくる「エイカ神」について訂正がございます。

「エイカ神」は筆者が創作した想像上の存在です。したがって現実に実在する神ではありません。少なくとも筆者は存在を知りません。
万が一「エイカ神」なる神が実在したとして、それは本作に登場する「エイカ神」とは一切関係ありません。

このたびは誤解を招く表現をしてしまい申し訳ございませんでした。今後、実在しない事物を作中に登場させる場合は、あとがき欄に筆者の創作である旨を明記したいと思います。
繰り返しとなりますが、このたびは誤解を招く表現をしてしまい申し訳ございませんでした。