Coolier - 新生・東方創想話

文字情報上の悪魔(あるいは福音)

2024/02/18 18:12:53
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1.文字情報上の悪魔


 阿求は布団から上体を起こすと首を回したり腕を背後にやったりして関節の具合を確かめていた。
 ここ数年、それが目が覚めてからの日課になっている。今のところ健康体ではあるのだが、既に稗田阿求も齢二十九。いつ「そのとき」が来るかも分からない。ただ一方で、御阿礼の子が急死したという記録はない。特別な役回りであるからにして、いきなりあの世行きになると現世側の人達が困るだろうという地獄の配慮なのだろう。
 だから阿求は毎朝体調を確認するようになった。異常がなければおそらくその日は死なない。この日も大丈夫だった。
 朝の諸々を終えると阿求は風呂敷の上に置いた本の山を確認し布を包んだ。鈴奈庵に行く。これは二週間に一度の習慣になっていた。
 阿求の代での幻想郷縁起の記述は殆ど終えている。仕事の峠は超えたということなのだが、むしろ山の時期よりも鈴奈庵で借りる本の量は増えている。健康とか関係なく女性が持ち運ぶのに適切な重さを超えてしまっているのではないか。皮肉なものだ。


***


 ランプの光で淡く照らされた店内に、蓄音機のラッパから流れる音楽が響く。ベートーヴェン交響曲第三番『英雄』。
 ベートーヴェンはこの店の若き店主の最近の趣味らしい。レコードは外の世界から幻想郷入りしてくるのを見つけるしかなく、ただでさえ入手機会の限られるものを特定の作曲家のものに絞って蒐集するとなると相当な難易度なはずだが、店主、本居小鈴は結構集めているらしい。森の白黒の魔法使いもだが、コレクターの執念というのはときに凄まじいものがある。
「はい。借りてた本返しに来たわよ」
「あっ、阿求。了解。確認するから適当に座ってて」
 小鈴に促されて店の中央よりやや奥側に置かれた椅子に座る際、阿求は店の裏側の暖簾を軽く覗き込んだ。
「親父さんはいる? たまには挨拶しておこうかと思ったんだけれど」
「いないわよ。多分霧の湖にでも釣りに行ってるんでしょ。全く、まだ五十になったばかりだってんのに娘に店放り投げてやりたいことだけやって生きてるんだから、趣味人ってのは困ったものよね」
「遺伝ね」
 阿求はクスクスと笑った。
「似てないわよ。私は仕事と趣味をちゃんと両立できる。と、全部確認できたわ。今回はどうだった?」
「全部外れ。これまで見聞きしたもの以上のものはなかったわ」
「でしょうねえ」
 先述したように、幻想郷縁起の執筆は殆ど完了している。つまり幻想郷の人妖、場所に関して現段階までの情報は全て網羅できたのだ。仮に今後新たに特筆すべき何かが幻想入りしたら加筆が求められるが、それを書く前に死んでしまったとしても阿求の過失にはならない。これから発生する仕事の多くは次の御阿礼の子――阿斗とでも名付けられるのだろうか――の宿題である。阿求の仕事も先代の後始末から始まった。
 じゃあ阿求が今何をしているのかというと、実在は確認されていないが文字情報としての記述だけがある妖怪や怪奇現象記録の収集である。存在しているかも分からない、しない可能性の方が高いものについてだから優先度は数段下がり、これまた未完に終わってもよい仕事である。それに、これまでの調査の結果、幻想郷で語られる逸話のほぼ全ては阿求の脳内にあるのだから、新たな情報なんてものは基本的になく、九割九分空振りに終わる。
「今週の入荷はどんなもん?」
「代わり映えしないわよ。多分全部阿求は読んだことあるんじゃないかしら。見たことない外来本なら数冊あるけれど外来の話は対象外でしょ」
「まあ一応読んどくわよ。もしかしたら役に立つかもしれないし」
「じゃあそれだけかな。……。あっ」
「ん? 何か隠してるわね」
「隠してませーん」
「嘘おっしゃい」
 阿求は小鈴の服の襟首を掴んで軽く揺さぶる。小鈴は嘘をつくのが物凄く下手というのも昔から相変わらずだし、こうすると大体隠している話を吐いてくれるというのも相変わらずだ。
 小鈴はバツの悪そうな顔で片手で額を押さえながら、もう片方の手で薄い灰色の本を引き出しから出した。
「自費出版の類だと思うんだけれど、見た所妖魔本ではないのに妖気を感じるの」
「題名すら書いていないわね。何の本なの?」
「妖怪図鑑……かなあ。パラパラとめくって流し読みした雰囲気からすると。仕事が一段落したらじっくり読もうと思ってたのにい」
「『死ぬまで借りるだけ』が口癖の盗人じゃないんだから期限が来たら返すわよ。というかその薄さなら他の本と合わせても一週間もいらないわね。三日後には返しに来るわよ」
「約束だからね」
 小鈴は阿求に本を渡したが、そこから粉が舞った。本が灰色なのは紙の塗装だけが原因ではないらしい。それを吸った阿求は激しく咳き込んだ。
「阿求!? 大丈夫!?」
「大丈夫よ……。しかし酷い状態の本ね。多分引き出しの中汚れちゃってるから後で掃除した方が良いわよ」
 実際今のところ少し埃や黴を吸ったところで命の危機が、とはなりそうにないくらいには健康である。しかし、自分自身は気にしていなくとも、周りは、阿求の知る限りでは一番気の置けない感じに接してくれる小鈴ですら、自分の死期が近いことを悟ってか健康について過剰に心配するようになった。多分五年くらい前までの小鈴なら、もっと危ないことをしてもケラケラと笑って済ませてくれていただろう。阿求にはそれが悲しかった。


***


 小鈴の言うようにこの灰色の本は妖怪図鑑だった。劣化の具合と和綴じの装丁に反して書かれたのはせいぜい五十年前くらいでそう古くはない。
 ほぼ現代といっても差し支えのない時期の本であるからなのか筆者の趣味なのか、妖怪の恐ろしさを伝えるというより妖怪の利用法を紹介するという論調だった。人間と妖怪との関係性の歴史を考える上では興味深い本ではあるが、それでも阿求にとっては退屈だった。例によって、この本に書かれた妖怪も、どれもこれも彼女の既に知るところだったからだ。
 それで欠伸をこらえながら読んでいると、最後に近い見開きのところで手が止まった。
 左の頁には妖怪の絵が極めて雑な絵柄で載っていたが、阿求も知らぬ妖怪の姿だった。その奇妙さは単に絵が下手というだけでは説明がつかぬ程だった。阿求はまだ自分にとっての未知が自分の専門にすらあるということに驚いた。
 右には文章で妖怪の解説が書かれていると思われたが、これまた変だった。他の頁ではそんなことがなかったのに、この頁だけは所々に墨塗りがほどこされていたのだ。

……この妖怪は姿は◯◯◯◯(墨塗り)に似るも色は黒く、胴から直接◯状の腕が◯◯対生え、指の腹に目がついている。別に一つの首とそれに繋がる三の顔があり、それぞれ◯◯◯、◯◯◯、◯◯に似て……

 墨塗りされているところは当然そのままでは読めないのだが、普通の墨塗りと違ってかなり薄い上に文字色に比べかなり赤が入った色味で、工夫すればどうにか読めそうだった。これを書いた、あるいはその上に墨を塗った者はむしろその気がある人に読ませることを意図してわざとそうしたのではないかと阿求は推理した。
 阿求は縁側に本を持って行って、太陽に頁を透かしてみた。予想通り文字の部分だけ透けが弱く読めるようになった。
 説明の半分、妖怪の姿に関する記述を読破したところで、視界が突然真っ暗になった。


***


 阿求の眼の前には例の妖怪がいた。しかし、妖怪と自分自身以外の一切が阿求の視界にはない。視覚だけではない。阿求はついさっきまで縁側に座っていたはずだが、戸惑って色々動いてみても、縁側と庭との間にあるはずの段差にぶつからない。
「異界に飛ばされたか、あるいは夢か……」
「後者が近いが、夢も異界の一つであるからにして、前者の解釈でも間違いはないな。ここは貴様にとっては精神世界で儂にとっては(
ねぐら
)
ということになる」
 分厚い青銅の鐘を割ったような声が阿求の頭蓋を揺らした。
「喋れるのね」
「貴様の世界でも妖怪は普通喋れるものだろう」
「それはそう」
 声色だけでも大概不快なのだが、勇気を出して姿を見てみると三つの頭がバラバラに口を動かして一つの声を出していて、脳の混乱から酷く気分が悪くなってしまった。なので目を背けて妖怪はなるべく見ずに会話することにした。
「貴方は何者なのかしら」
「知らずにここに来たのか」
「貴方に関する本を読んでいたら理解する前にここに飛ばされたの。全く理不尽なものだわ」
「理不尽なものか。それが儂の本質だ。儂は文字情報の中でしか存在できない妖怪でな。文字を読んで姿を想像できた人間の精神に入り込む」
「私から見たら『引き摺り込まれた』なんだけれど。とんだ即死トラップだわ。せめてさよならの挨拶くらい言いたかったわね」
「叶えてやろうか?」
 妖怪は体をかがめた。それが全くの好意からの行動だというのは分かりつつ、阿求は半ば反射的に顔を背けた。
「できるのかしら」
「そりゃな。儂はどんな願いでも叶えることができる。もう一度言う。どんな願いでもだ。願いはそれでいいのだな?」
 阿求はここで自分が勘違いをしていることを察し始めた。
「いやどんな願いでもってんなら流石に別なのにするわよ」
「なんだ。珍しく素晴らしく無欲な奴が来たのかと思ったが」
「願う前に一つ確認。無償じゃなくて何かしらの対価はあるんでしょ。魂を貰うとか」
 願いの対価に死後の魂を貰うというのは古典的な悪魔の描写としてありがちである。ありがちながら今のところ幻想郷の悪魔では見られない対価の要求だが、もしこの妖怪がそうなのだとすればそれも一つの発見となる。
「流石にそこまではせんよ。儂が得、貴様が失うのは極一部だ。願いを叶える度に、願った者の一番の才能を対価にすることにしている」
「いや相当重い対価じゃないの」
 阿求は、むしろ魂だったら安かったのにと考えていた。悪魔の意思に関係なくすぐ死ぬし、死んだら死んだで二百年もしたら転生してどっかに行く魂である。悪魔から見てこんな不良品の魂も早々ないだろう。それっぽっちの対価でうんと重い願いを叩きつけて狼狽える様でも見られたらさぞ爽快だったのに。
「待って……。私は御阿礼の子よ。そこから奪う才能といえば御阿礼の子としての記憶力になるんでしょうけれど、そんなことしたら是非曲直庁が黙っていないでしょ」
「御阿礼の子か。懐かしい響きだ」
「なんですって」
「前に貴様と同じくらいか数歳若いくらいの女が来た。そいつは稗田阿夢と名乗っていた。貴様と同じことを言い、そんなことは関係ない、と返したら観念して適当な願いを言って帰っていったな」
 阿求には転生前の記憶は殆どないが、急死という最期を迎えた御阿礼の子はいなかったはずで、阿夢も例外ではない。しかし、阿夢に関しては「晩年気狂いになって筆を折った」との歴史記述もある。稗田家屈指の黒歴史とされ表沙汰になることはないが、阿求は歴史に携わる内部の人間なので知っている。
 どうも、阿夢は気が狂ったのではなく、この化け物に何かを願い能力を剥奪されたらしい。
「何も願わないから元の世界に返して」
「それが願いか」
「……。酷いとんちもあったもんね。何がなんでも願いを叶えさせて、能力を食べようとする」
「儂は神ではなく妖怪だ。貴様がやろうとしていることは人喰い妖怪を前に自分は食うなと命乞いしているようなもの。誠に滑稽だ」
 阿求は泣きたくなる気持ちをどうにかこらえた。好奇心で変な妖怪に捕まったせいで御阿礼の子としての力を奪われようとしていて、阿夢の前例を踏まえると戻ってきたら狂人呼ばわりだろう。
 しかし、わめいたところで事態は変わらない。阿夢は失敗した。いや、本人は願いで幸せな余生を送ったのかもしれないが、幻想郷縁起にこの妖怪を記録できていないのだから稗田としては失敗なのである。そのせいでこんな畜生トラップに稗田姓としての被害者二人目である。
「奪われる能力は明らかなのよ。私の場合、記憶力を失って認知症みたいになるってこと?」
「儂が奪うのは才能だけだ。人並みには残る。貴様が記憶力に秀でていても痴呆にはならんし、脚力で鳴らしていても不具にはならん。安心せい」
「あら、そんなにスポーツウーマンに見えるのかしら」
 異形の化け物のくせに冗談が言えるという事実に阿求はだいぶ気が楽になった。
 楽になった阿求は何日も待った。良い願いを思いつくのに半刻、しかし思いついてからもただ、化け物の姿を眺めて過ごした。精神の部屋では食欲も排泄欲も、睡眠欲も、肉体的な欲求はなにも湧いてこない。だから自分以外唯一の存在であるこの妖怪を眺めるくらいしかすることがなかったともいう。
「そろそろ見飽きてはこんのか」
 この奇行には妖怪側が先に音を上げた。一炊の夢という故事がある。飯が炊けるだけの僅かな時間の夢で栄華を極めた一生を夢に見るという話だが、彼女がやっている夢で引き伸ばされるのは殆ど全ての人生よりも構成要素が少ない虚無だ。御阿礼の子なら自分の寿命が短いと思ってそんなことを思いつくのかもしれないが、なんの意味もない。
「ええ、流石に見飽きてきたわね。でも、見飽きる必要があったのよ。これで記憶力を奪われても貴方の姿は寸分違わず覚えていられるでしょうね」
「儂の情報を広めるのに協力してくれるということか。有り難いことだな」
「そ。ということで、比類なき画力をくださいな」
 妖怪の三つの頭が、構造上舌を持たない一つまでもまとめて舌打ちした。
「そういうことか。今まで長い事、結構な人の才を食いつぶす代わりに色々与えてきたが、ここまでしてやられたという感覚は初めてだ」
「その悔しそうな顔を見れただけでも来た甲斐があったってのね。安心しなさい。記録には普段の不遜な顔の方で描いてあげるから」
 そして阿求は目覚めた。

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