2.文字情報上の福音
阿求が目覚めたとき、彼女は布団に寝かされていて、周りには大勢の使用人が正座して、家具が並んでいる布団の左側以外を埋める半包囲の陣形を組んでいた。
「紙と筆を持ってきて」
阿求は開口一番そう告げた。夢が正夢なら――多分そうだろう――忘れるまでのタイムリミットがある。今までの自分では最早ないのだから。
阿求は異形の怪物の絵と、それが文字の中でしか存在できず、文字を読んだ人間を取り込み、願いと引き換えに才能を奪うという説明を描いた。そして描き終わると、乾かすために別室に持って行くように告げた。
使用人達は何よりも阿求の画力に驚いた。幻想郷縁起に使用される図画は、人里でも名だたる写真家か、写真が使えない場面ではこれまた人里でもっとも著名な絵師数人の手で作られている。阿求の描いた絵は、幻想郷妖怪が当然持ち合わせているべき気品も可憐さもないが、写実性と迫力という観点においてはそれらの絵に混じっていても遜色のないものだった。
「この怪物を夢でお見かけしたのですか……」
「そう。じっくり観察しようと思ったら結構時間かかっちゃったみたいね。私が寝てからどのくらいになったのかしら」
「はっ。本日で丁度一週間になります」
「そんなに……。あれ、私って最初から布団で寝てたっけ?」
その一言で、稗田家の空気が凍りついた。
***
「貴様、阿求様ではないな? 何者だ!」
使用人の一人は怒号を上げる。
「誰か! お医者様を……」
別の一人はうろたえた様子で誰に対してでもなくそうわめく。
「阿求様……? 古事記の上巻の内容を諳んじてはくださいませんか……?」
一番理知的に状況を理解しようとした使用人がそう頼むが、あの怪物に記憶力を奪われた阿求はまったく暗唱することができない。原因は今しがた描いたものに記述してあるのだが、使用人の誰も彼も、ちらと画力を見ただけで横の文章は読んですらいないのでそんなことは知らない。今になって阿求がそのことを叫んで説明しても、今の阿求が正気だと思っている人が誰もいないので聞き入れられない。
一番過激な発想、この阿求が偽物だと言う声が大きく、最悪の事態に備えるべく阿求は離れに移送され軟禁された。
阿求がぶつくさと文句を言っていると、使用人二人目の叫びを聞いて動いたのがいたのか永遠亭から医者が来た。医者は遺伝子検査というのを行い、肉体的には彼女は阿求本人だと証明したが、今度は悪霊に憑かれているということになり神社から巫女が呼ばれた。しかし悪霊なんて憑いていないので博麗神社の赤色の巫女はそもそもどうして呼ばれたのかと困惑した。その様子を見た使用人によって連れてこられた緑色の方の巫女も同様だった。
「御阿礼の子としての記憶力は失われていますが、魂は紛れもなく阿求本人のものです。阿夢のときも問題なく転生できていますし、御阿礼の子の周期の長さを考えれば数年執筆に支障が出ようが誤差なのでお気になさらず」
たまたま非番だった映姫の方の閻魔が騒ぎを聞きつけ稗田家に足を踏み入れてそう白黒をつけ、ようやく騒ぎは収まった。
***
「と、いうことがあったのよ」
「いくらなんでもそんなに狼狽えるものかなあ。阿求は阿求じゃん」
阿求が小鈴に事の顛末を話したら、怪異よりも使用人の反応のがよっぽど不思議という感想が返ってきた。
阿求は小鈴の様子を見に鈴奈庵を訪れた。
騒ぎが落ち着いた後、阿求は使用人から数日前に小鈴が家に見えたという報告を受けた。なんでまたと阿求が聞いたら、本の返却期限が来ていたそうなのですと言われた。それで例の本含め三日で返すという約束を交わしていたことを阿求は思い出した。生まれてこの方約束をすっぽかすということのしようがない人生を送ってきたので、始めてその加害者になりかけたことで阿求は肝をつぶした。
阿求本人は当然まだ眠っていた日の話であり、小鈴は見舞いをして(そのときえらく酷く揺さぶられたのだということをその後小鈴自身の口から阿求は聞くことになった)、本を使用人から受け取って帰っていった。約束はどうにか反故にせずに済んでいた……。
否。良くない。非常に不味い。あの本は、読まれるべきではないのだ。小鈴のことだから手遅れなのだろうが、万に一つ間に合うかもしれない。手遅れなら手遅れとして、何か助けを必要とする状況に置かれているやも知れぬ。阿求は各方面から言われていたしばらく安静にという命令を無視して飛び出した。あの阿求の全力疾走など万人の意識の外だったので、一番屈強な守衛ですら彼女の出奔を止めそこねた。
鈴奈庵には「臨時休業中」の張り紙がなされていた。阿求は心臓が早鐘を打つのを感じながら扉を無理やりこじ開けた。
鍵のかけ方が甘かったのは小鈴の過失だ。しかしだからといって張り紙を読まず閉まっている扉を強引に開ける文盲脳筋がいるなんて予想しているわけがなく、それがよりにもよって阿求だったことに驚いた。それで、阿求から小鈴に状況を聞くはずが逆に小鈴が阿求に何があったのかと問いただす空気になり、先の会話に繋がる。
「正直昏睡してたときはこのままお別れなのかなってちょっと目頭が熱くなったんだけれどね。まあそこまで元気に走り回れるなら万事上手く行ったってことね。後ででもいいけれど玄関の戸おかしくなってないかどうか確認しといて」
「ありがたいことね。私も、あんたが普通に元気そうでとりあえず安心したわ。本の影響で私が来たらまだ昏睡しているというのも覚悟していたから」
「そりゃ阿求とは違うもん」
「どのくらい寝てたの」
「さあ? 時計の針も殆ど動いていなかったから、端から見たら少しうたた寝したくらいにしか見えなかったんじゃない? お母さんにもなんにも言われなかったし。倒れる時間は要は願いを決めるまでの時間なんでしょ? 阿求のが悩みすぎなんだって」
自分が一週間待ったのは願いを決めるためではない。それを差し引いても自分が願いを決めるのに要した時間は小鈴よりは長かったが、それは小鈴が悩まなすぎというのが正しいのだと阿求は思っている。たった一度の、それも才能を犠牲にして決める願いだ。もっと慎重になれや。
とはいえ小鈴の変わらなさにただひたすら安堵したというのもまた阿求にとっては紛れもない事実である。店内には交響曲第五番『運命』が流れていた。来たときは阿求の心情を一番よく体現した曲だったが、双方落ち着いた今となってはこの曲の楽器を叩きつけているかのような音色は平和な店内に対して酷く不釣り合いに感じる。
「しかしまあ、やっぱりあの本は読んだのね。あんたなら即決で読むだろうと思っていたけれど案の定だったわ」
「読んだよ。そーそー、それであれに文字を読む力を奪われちゃったのよ。うちって妖怪向けの妖魔本貸出しもしてたじゃん? それとか、あと普通の仕事だと外来本の洋書の翻訳代行とか、そういうのができなくなったからどうしたもんかと一時休業にしてたの」
しかし、読んでなお小鈴はこの余裕だし、思えば別に死ぬわけじゃないのに何をそんな大事だと思っていたのだろうと阿求も正常性バイアスに陥っている。
「読んじゃったのね。読んではいけないものだったんだけれど遅かったかあ。まあでも読んだのがあんたで良かったよ」
「でしょー。私が善人で」
「あんたならどうせ悪用できる頭なんて持ってないし」
「言うじゃん」
小鈴は頬を膨らませて抗議した。
「とりあえずその本は貸出し禁止ね。同じ人の前に二度現れることはできないらしいからあんたが持って読む分には問題ないでしょうけれど」
「どうしても貸してっていう妖怪が現れたら? マミゾウさんとかに言われたら渡しちゃうかもなあ」
「そうね……。白紙の大きめの紙ってない?」
「紙なら印刷の木版のとこに山で置いてるわよ。取ってくる」
「あと墨と筆も」
「インクでも良い?」
阿求は小鈴から貰ったもので例の妖怪の姿と説明を描き、それを折ってブックカバーにした。
「阿求、絵上手いじゃん」
「あれから貰ったのよ」
「なるほど。しかしこれは酷いネタバレだねえ。人によっては大罪と捉えるかもよ。推理小説の犯人に丸をつけるレベルの」
「それは死罪かもね。でもこれは存在が死罪みたいなものだから仕方ない」
クリスQは小さく笑いながらカバーの折り目を整えて小鈴に本を返した。
「それはそうと、阿求はこれからどうするの。私はまだ普通の本屋くらいならできるけれどあんたは記憶奪われたら商売上がったりじゃん」
「商売もなにも幻想郷縁起の執筆は終わったんだからもう引退よ引退。次が困るだろうから何か起こったときのために日記をつけるくらいはするつもりだけれど」
「そうだね。日記はつけといた方が良いよ。あんたももう昔のことなんて覚えてられない体質になってるんだから」
***
二人は甘味処で菓子を食べていた。小鈴はマドレーヌと紅茶。阿求は珈琲と大きなイチゴパフェ。今は露地物のイチゴの旬なのだ。
「Once upon a time, a woodcutter and his wife lived in their cottage……」
「英語?」
「そ、軽く目を通すだけで魔導書すら読破できた私が今や子供向けの童話で青息吐息よ」
今やあの事件から半年くらい経っている。別の言い方をするならば一年も経っていない。
「ゼロからって割に上達早くない?」
「読めた頃の記憶が少しはあるからね。それを差し引いても語学の才があるのよ。なんせこれまで読んできたものの量が違う」
小鈴は得意げにそう言って、阿求をしげしげと観察した。
「どうしたの。なんかついてる?」
「いや、逆に何もついてないなって。体中にメモを貼り付かせているみたいなのになっているかとも思ったから」
「最近の流行りはそんな前衛的なものなの?」
「じゃなくて、外来本の小説でそういうのがあるのよ。凄く頭が良いんだけれど記憶が一時間しか続かない博士がいて、彼はやらないといけないこととかを付箋に書いて服に貼っているの」
小鈴は「阿求も読む?」と聞いた。自身の現状を踏まえたときに、読むに耐え難いほど生々しすぎる話な気がしたので阿求は大ぶりなジェスチャーで断った。
「あんたが普通に文字を読むことはできるのと同じで、私だって日常生活を送るのに問題ないくらいの記憶力はまだ持ってるわよ」
「確かに。正直まっっったく信用してなかったけれどあんたが待ち合わせをすっぽかしたことは今のところないもんね」
阿求は失礼なと思ったが、逆の立場なら小鈴に対してそう思ったことだろう。記憶力ではなく性格の問題で。
「そこがね。普通に生活を送る分には例えば切らしていた食材があったらすぐ買いに行くとか、汚れてた場所があったらすぐに掃除するとか、タスクを迅速に処理しさえすれば意外と記憶力っていらないのよ。ところが少し非日常になる瞬間途端にボロが出る。慣れるまで持ち帰り忘れで傘が三本犠牲になったわ」
阿求は右手の人差し指から薬指までを立てた。
「リハビリが必要だったのね。それで二ヶ月くらい人付き合いが悪かったんだ」
阿求は例の本を処理して以来しばらくの間疲れているとか体調が悪いとかで小鈴の遊びの誘いを断っていた。まああんなことがあった直後だしと諦めてはいたが、全く不満がなかったといえば嘘になる。
「悪いことしたわね」
「過ぎた話よ。今普通に過ごせてるならそれでいいじゃない」
「普通なのかな。意識的に何かを覚えておこうとするのは結構疲れるもんだね」
「えー。そんなことないと思うけれどなあ」
「あんたがその本を読むのに四苦八苦しているのと似たようなものよ。私は覚えるという努力をせずに三十年過ごしてきたんだから。普段運動しない人に、いきなり博麗神社の石段を登れって言ってもできないでしょ」
「流石経験者は言う事が違う」
「はいそこうるさい」
小鈴は本で口元を隠していたが、どうせケラケラと笑っているんだろうと阿求には分かっていた。
「絵はまだ描いてるの」
「スケッチブックの一冊目がもうそろそろ埋まるくらいには」
小鈴は自分が読んでいた本を脇に置き、代わりに阿求が鞄から出したスケッチブックを開いた。
「風景と食べ物の絵が多いのね。あと猫」
「覚えておきたいものを記録するために描いているところが大きいからね。外来人の……誰だっけ、あの夢でこっちに来てる眼鏡をかけた」
「菫子さん?」
「そうそう菫子。その人に絵を見せたら『インスタ映えを狙っている』とか言っていて。意味はよく分からないけれど、外の世界でも記録する習慣はあるんだなって。向こうは写真らしいけれど」
「文化って環境によるところが大きいようで、意外と根っこはどこも同じなのかもね。外来本も何かを知る目的では大体訳解んないけれど娯楽として読む分には普通に面白いし。ま、なんにしても仕事に代わる長続きしそうな趣味を見つけたようで良かったわ」
小鈴はスケッチブックを見終えて阿求に返した。阿求はそれをまた鞄にしまう。
「パフェの絵は描かないの?」
小鈴はその様子を見て阿求に聞いた。
「描いているうちに中のアイスが溶けちゃうじゃん」
阿求はまた長いスプーンを刺すのを再開した。既にグラスの中身は三分の一程なくなっている。
「食欲があるのは結構なことだけれど、パフェ全部っていうのはやっぱり良くないよ」
「ほっといてよ。別にパフェを我慢したところで寿命が伸びるわけでもなし」
阿求は少し自暴自棄気味な口調になった。
「じゃなくてさ、太るよ」
「む」
阿求の手が止まった。死ぬにしても、死ぬときの姿はこだわっておきたい。荼毘に付されるに際し、猪のように膨らんだ遺体に「これならよく燃えそうねえ」と声をかけられるなどという醜態を曝すわけにはいかない。
阿求は小鈴の顔を見る。
「ほら、食べたいならはっきりとそう言いなさいよ」
「わあい」
小鈴は阿求の側から押し出されたグラスに、かなり大胆にスプーンを刺した。
「そんなに食べたら太るわよ」
これには阿求も皮肉を飛ばさざるを得ない。
***
阿求は三十になり三十一になった。御阿礼の子の寿命限界にも達しており、阿求もついにじたばたせずにその日を受け入れるという悟りの境地に入っていたが、にも関わらずというべきかそれ故にというべきか、死ぬ日も、死に向かう肉体の衰微の始まりすらも訪れなかった。
三十の誕生日を境に、阿求は時間のかかる趣味や活動に次々と区切りをつけていっていた。何かを成そうとした途中で死んでしまっては閻魔の小間使いに戻ってからも数年は後悔を引き摺ることになるだろうし、現世に遺した使用人にも迷惑をかけることになる。なので三十を超えてからは一日以内に描き終える大きさの絵を描くとか、外食をするとか、そういう短期的に完結する趣味だけをしていたのだが、一年でそれだけでは二十四時間の一日を埋めるには足りないのだと学んだ。
三十一歳の秋、阿求はおよそ一年ぶりに鈴奈庵で長編を借りた。どうやらすぐには死なないらしいと感じ始めていたのである。また、絵以外にも筆を動かしたくなっていた。しかしアガサクリスQは引退させていて、再び現役に復帰させるのは美しくないように思えた。なので阿求は歴史を再び綴ることで執筆欲を紛らわせることにした。丁度夏に、何時もの如く異変が起きていた。
一日を越えるのに苦慮していた阿求の人生は再度加速を始めた。秋は一瞬にして終わり、その年も残り一日となった。
***
目が覚めた阿求は関節の具合を確かめていた。もう不要な習慣なのだが、習慣とは理屈だけでは止められないからこその習慣なのである。それに、別に不快なことではなく軽い運動自体が心地よいものなのだ。今日も健康だ。
問題があるのだとすれば、起きた時点ですでに昼過ぎになってしまっていたということだ。寿命の終端が近づいていって起きていられなくなり昼の数時間だけ体を起こす。阿求が昔考えていた自分の三十過ぎの目覚めの一つの可能性だ。しかし現実には、自分の寿命がのこり幾ばくもないと考えていた時の方が一分一秒たりとも時間を無駄にするものかと目覚めが早く、死がはるか未来に遠のいたのではないかと感づいた後の方が怠惰を理由に起きるのが遅くなった。
阿求自身はこれを退化ではなく成長なのだと考えている。齢三十にしてようやく物事を未来の自分に先送りするという大人の余裕を身に着けたのだ。あるいは小鈴のように、大人になってもなお走り続ける人生の歩み方もあるのかもしれないが、自分にはその適性はなかった。御阿礼の子という存在全般がそうなのかもしれない。三十年を全力疾走する短距離走者なのであって、八十年の長距離を走る方法など知らない。
阿求は鈴奈庵を訪れた。仮に自分が必要以上に怠惰な性格だったら夕方に鈴奈庵に着くという約束すら守れなかったのだろうか。そうなっていたら自分の心境の変化を進歩ではなく退化だと評価を改めていただろう。
店内には交響曲第九番『歓喜の歌』が流れていた。里の大半の店がそうであるように鈴奈庵も年末年始は休業しているのだが、雰囲気だけはむしろ年末の大売り出しをしているかのようである。
小鈴は古い本を読んでいた。
「何の本だっけ? それ。前に見せてもらったことがあるような気がしなくもないんだけれど」
「何人かには見せた記憶があるわね。薬草の本よ。古代天狗文字で書かれた」
「えっ。もしかして能力戻ったの?」
「戻ってないわよ。当然読めない」
「なんだ」
「今はね。そのうち読めるようになるんじゃないかしら」
「眺めているだけで読めるようになったら苦労はないでしょうに。あんたが読めなくなった今誰も分からない言語になっちゃったんだから」
「だからそのうち、よ。分からないとはいえ言語なんだから、一生をかければ一個くらい解読できるでしょ。ここ数年で英語とドイツ語と河童文字はマスターしたんだからね。私に任せなさいな」
相変わらず子供じみた好奇心だが、その発言の力強さには彼女はきっと生きているうちにそれを成し遂げるのだろうという信頼があった。阿求は初めて、小鈴が大人になったのだと感じた。
「阿求はここんところどうなの」
「どうもこうもないわね。異変のことをまとめ終ったらまた暇になった感じ。昔ならあれもやらなきゃこれもやらなきゃで調べ物が無限に溜まっていったんだけれど、もう数ヶ月前の自分が何を調べたかったのかとか覚えてないからね」
阿求は店内の棚を物色して何か掘り出し物がないか聞く。小鈴は最近はないと答える。冬場は外来本の旬から外れる。雪に埋まった本を探すのは容易なことではなく、仮に見つけたとして買い取れるような保存状態であることはまずない。
「事件よ起これ起これって熱望している鴉天狗って空飛ぶ不謹慎みたいなものだと前は思っていたけれど、今は少し気持ちが分かるわね」
「でもなんかなんだかんだ退屈を楽しんでいるようにも見えるけれど」
「大人の余裕ってやつよ」
「大人を通り越しておやじ臭く感じる」
「失礼な」
「ま、阿求を見ているとそういう生き方も悪くはないんだろうなって最近は思い直し始めたよ。親に似なくてずっと何かし続けないと気が狂いそうになる性分だからさ、今の阿求みたいな生き方はできなくて新鮮」
「親に似て、じゃない?」
「やっぱ他人から見ると多忙に見えるのかねうちの親。娘としてはもうちょっと店のことを手伝ってもいいんじゃない? って」
その小鈴の親が蕎麦の用意ができたと二人を呼んだ。結局小鈴も小鈴でやりたいことしかしない性分でやりたいことに家事はあまり入っていなく、だから店のことを一任してでも親は娘を実家に住まわせ続けたがっているんじゃないかと阿求は思った。無論阿求の立場でそのことに対してどうこう言う資格はない。
阿求と小鈴、そして小鈴の両親の四人で蕎麦を啜りながら、阿求は今日は家に戻らなくていいのかと聞かれた。阿求は使用人にも戻るのは明日の朝と伝えているから大丈夫だと答えた。答えながら、そういえば日付が変わるまで家に帰らないのが久々で使用人が少し驚いていたなと思い出す。どういう人生を送っていようとも、年末年始というのは長い休みなようで大体普通よりは忙しくなる。
団欒の席を一緒に囲わせてもらいながら、阿求は結局小鈴が願ったのは何だったのかと久しぶりに考えた。小鈴はかたくなに答えてくれないから推測するしかない。相当即決で選んだようだから単純な願いなのだろうと予想はついていた。富、名声。しかし、それらを願ったにしては小鈴の生活は余りにも変わっていないように思える。まあ小鈴のことなので、単純にして至極どうでもよいような願い、例えば貴重な妖魔本一冊とかそんなことを願ったのだろう。
「寒いし雪も降っているから気を付けて行ってきなさいね」
蕎麦を食べ終わった後、小鈴の母親から忠告と温石
を貰って阿求は小鈴と一緒に外に出た。そして、三十二度目の新年を祝うべく、東へと歩み始めるのだった。
あとがきにもある通り2つの物語をうまく繋げていて、どちらも面白かったです。
完全記憶のない阿求の転生が先延ばしになるのは今後ひと悶着あるかもしれませんが、2人で乗り越えていけたらと思いました。
アイデンティティともいえるような才能を失ってもなお前向きな二人がとてもよかったです
30代の小鈴とか想像できませんでした
素敵な作品をありがとうございました。
役目をしっかり終えてから二人が楽しく生きられるなら、それが一番ですよね
面白かったです。