Coolier - 新生・東方創想話

冬至、湯治、豚汁

2023/07/16 15:05:15
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***1***


 暗い。暗い。何も見えない。ただ、吹雪の真っただ中に自分が居ることだけは分かる。
 岩にぶつかり、枯枝に曲げられ、荒れ狂う風の悲鳴が一帯に轟く。
 あぁ、寒い。寒い。お願いだから止んで欲しい。その祈りも届かず、襲い来る雪はうずくまる身体を凍り付かせていく。

 ――…ハハハ…

 遠く離れた誰かの声が、吹雪に混ざって聞こえてくる。

 ――…ハハハハハハハ…

 雪に翻弄されるどころか、風をも屈服させるように通る笑い声に、本能的に耳を塞ぐ。
 けれどその声は、そんな反抗も気にすることなく、あっさり岩陰へと入り込んでいく。

 ――さぁ。

 甘く囁くような声が、耳から、指から、羽根から、安らぎとなって全身へ沁み通っていく。
 気を付けなければ、すぐにでも身を委ねてしまう…そんな誘惑が、文の口を固く結ばせる。

 ――そこに隠れていては寒かっただろう。こっちへおいで。

 叫びたくなる衝動を喉元でぐっとこらえる。うるさい。うるさい。出ていけ。ここから出ていけ。
 けれど、念じれば念じる程、声はさらに近付いて来る。ただ、ここまで辿り着いたことを褒めるように、けれど穏やかに諭すように、艶やかな羽根で包み込もうと頬を撫でて来る。
 抵抗する。あらん限りの気力を絞り、声の方向を睨みつける。貴方の手なんて、絶対に取ってやるものか。

 ――だったら、どうすると言うんだい?

 いつの間にか、雪がくるぶしの辺りまで積もっていることに気付く。こうしている間にも、今度は脛へ、膝へ、樹氷を織りなすように雪が凍り固まっていく。体温も気力も静かに削られる中で、氷柱の檻が重く垂れ下がっていく。早く出ないと手遅れになるぞ――そう忠告してくるように。

 ――お前はそこから、己の手で這い上がってみせるというのかい?

 当たり前だと言い返したかった。決して貴方の思い通りにならないと吼えたかった。けれど、それを口にすることが、どうしても出来ない。ただ、自分の体力が残されていないことを言い訳に、その場でうずくまり続ける。

 ――お前がどの道を選択するか…楽しみに待っているよ。

 堂々たる声で激励を残し、声の主は前へと進んでいく。己が思うままの道を、決して迷いに止めることなく、凛々しく歩いていく。
 それに比べて、自分は?出口の塞がれてしまった雪獄に身体をうずめながら、思考が朦朧と落ちていく。

 私は、これからどうすれば良いのだろう?
 私は、これから何を目指せば良いのだろう?

 ――私が進むべき道は――一体どこにあるのだろう?


***2***


「あ…」
 がり、何かが擦れる音で、射命丸文は意識を覚醒させる。原稿用紙と写真が居心地悪そうに並ぶ文机。まわりを見れば、古ぼけた本棚に、見覚えのある壁のシミ。紛れもなく、ここは自分の部屋だ。
 雪見障子をちら、と覗けば、空の光を反射した雪が、灯りの代わりとこちらへ差し込んでいるのが見える。さっきまで己を苛めていた吹雪の気配など、欠片も存在しない。

 …つまり、あれは夢だったのか。

 くたびれた息をつく。ここしばらく、ずっと眠れていなかったのだ。気を失ってしまったのだろう。そう判断する文の目には、濃い隈がはっきりと残っていた。
 睡眠だけではない。もう長いこと、全身がだるい。食欲も全くと言って良い程湧いてこない。艶のあった頬は枯草のように乾き、夕陽色に活力を漲らせていた瞳も、昏い赤褐色に落ち込んでしまっている。そして、何より…
 再び、机に視線を戻す。色もない無秩序な文字の羅列と化した原稿。…あぁ、駄目だ。これから何を書こうとしているのか、自分でもさっぱり分からない。くしゃくしゃに丸められた原稿用紙が、空っぽの屑籠へ放り込まれていく。

 ここしばらく、文の記事は、一文字として進んでいなかった。
 それどころか、新聞を書きたいという気力すら、湧いて来ることがなかった。

 もう、半月以上前になるのか――赤い雪が降り積もり、何らかの凶兆ではないかと人々が不安に苛まれる出来事があった。
 一見、赤土が雪にまじったことで起きた自然現象。けれど、長年の見識からその事実に違和感を抱いた文は、赤い雪に関してさらに掘り下げることにした。
 「赤い雪」は何者かが人為的に起こした現象なのではないか――文の勘が、そう囁いていたのだ。
 はたして、文の勘が正しいことは、調査を重ねるにつれ分かって来た。
 雪を着色するのに使われたと考えられる赤土が、山の一画に大量に運び込まれていた事実。
 赤い雪の直後、人々の不安を鎮める名目で「突発的に」博麗神社で開かれた「市場」。
 人々の不安は和らぎ、博麗神社と「市場の神様」の格が上がったという結果。
 …間違いない。この赤い雪を降らせた犯人は、天狗だ。
 しかも、保守的な天狗社会にあって、天候をも操る大それた策を実行に移す度胸を持つ、となれば…
 私欲のために真実をかくすことが許せない。それは、射命丸文が記者として抱いている信念でもあった。たとえその相手が、同胞の天狗であったとしても。
 文は、中心人物の一人と目している市神様――天弓千亦を尾行することにした。自分の想像が正しければ、目論見を果たしたその天狗は、絶対に彼女と接触するだろう、そう考えたからだ。そして思った通り、誰も訪れることのないと思われた吹雪荒む高地で、千亦に接近する者があった。

 大胆不敵な大天狗にして、鴉天狗の大将――飯綱丸龍だった。

 千亦の前に現れた飯綱丸は、自分が赤土を雪に混ぜた犯人であることを、堂々と白状した。
 しかも動機は、大雑把にまとめると「喧嘩別れした元カノと復縁するため、元カノが望んでいるものをプレゼントしたかったから」という、呆れてしまう程くだらない私情によるものだった。
 こんなことのために、この大天狗は、幻想郷の人間を混乱に陥れたのか――文花帖に巧みな語彙が踊る。このスクープをいかに記事にしていくか、発想が湯水のように湧き出て来る。
 …やっとだ。口の端が、興奮で歪んでいく。やっと、尻尾をつかむことが出来た。これで、あのいけすかない大天狗に、一泡噴かせることが出来る――

 『世の秘密を曝く報道機関は、我々天狗だ』

 『天狗に、身内を売るような馬鹿な奴はいない』

 自信と真理に溢れた声が、文の耳に届く。一瞬で凍り固められたように、文花帖に書きつける手が止まる。

 『そもそもだ。赤い雪は珍しい自然現象だったんだ――その事実によって里の人間の不安は半分取り除かれた』

 あぁ。そうだ。その事実は、世論誘導のために、自分で書いた記事だ。文とて、初動としては不安を鎮静化させることを最優先としたのだ。

 『博麗神社は市場を開いて、人間の不安を完全に取り除いた――そして、貴方も得をした』

 そうだ。市場を開いた結果、赤い雪は瑞祥と捉えられ、人々の中で解決していった。この騒動の後に残ったのは、むしろ「得をした者たち」だけだ。

 『それらの現実を全て捨てて、赤い雪は天狗の仕業だとする報道をして何の得がある?』

 みるみるうちに顔が青ざめていく。左手はすっかり力をなくし、文花帖のページが風で虚しくめくれていく。

 『安定した幻想郷を再び混乱に陥れるだけの報道に、何の意味があるんだ?』

 まるで自分に問いかけているかのような声が、頭を繰り返し駆け巡っていく。
 せっかく安堵していた人間たちは、また不安に苛まれることになるのか。
 せっかく霊夢たちが試みてきた営みを、粉々にしてしまうことになるのか。

 文の記事は――この「真実」を伝えることは、幻想郷にむしろ害をなす、というのか?

 『天狗の報道機関は悪戯に事実を曝いて話題を集める機関ではない。幻想郷の為になる公共性の高い機関だ』

 誇らしげな声が、文の表情をさらに固めていく。
 この大天狗はこういう時、決してお世辞など使うことはない。隅々まで目を通した上で、実力を認めてくれる。
 だからこそ、文には重石となってのしかかっていた。新聞を通し競い合う天狗の中でも「幻想郷の為に新聞を出している」天狗は、片手程にしか存在していなかったのだから。

 『私の部下に、それが判らぬ愚か者などいないさ』

 あぁ、負けた。また、負けた。完敗だ。
 後日、文が出した新聞に書かれていたのは「先日の赤い雪はやはり珍しい自然現象だった」という、嘘で塗り固められた茶番だった。それも「書かされた」のではなく、迷いに迷った末、自分で書くことを選んだのだ。
 今度こそ、あのムカつく奴の喉元まで迫ることが出来たと思ったのに。飯綱丸は、ここまで辿り着いた手腕を正面から称えながら、こちらの急所を射抜いてみせた。きっと、文が真実に到達することにまでも、彼女にはお見通しだったのだ。

 ――何の意味があるんだ?

 朗々たる問いかけが、文の思考を縛り続けている。
 ずっとずっと、文は「真実」を追求し、それを人々に知らせ啓蒙することを是として来た。
 そこに自分の使命があると、考えて来た。その信念が、幻想郷のためになると、信じて疑わなかった。
 けれどもし、「真実」を暴くことそのものが、秩序を乱す「悪」なのならば。
 「真実」に立脚した「正義」などというものが、そもそも存在しないとするならば――

 ――私は、何のために新聞を書いているのだ?

「こーん」

 場違いに明るい声が、部屋に響いていく。蜂蜜のように甘ったるく耳当たりの良すぎる声質は、文にも聞きなじみのあるものだった。
「こんこん」
 雪見障子の硝子に映った顔に、文は小さくため息をつく。出来ることなら、今この場で見たくはない顔の一人だった。重い身体をどうにか立ち上げると、障子を開けてあげる。
「ご機嫌麗しう、射命丸殿」
「…御無沙汰しております、典さん」
 袖の雪を縁側で払いながら、飯綱丸龍の側近たる管狐――菅牧典は、営業たっぷりの笑みを向ける。
 仲間意識の高い天狗社会の中でも「はぐれ者」として蔑まれていた文は、先進的な改革派の飯綱丸龍に「庇護」され、現在は他勢力との外交をほぼ一手に担っている。そして、飯綱丸から何か業務が任される時には、まずはこの典が文の家に使いに出されるのが定番となっていた。
「玄関の戸を叩いたのですが、何回叩いても反応なさらなかったので、こちらに」
「あぁ…そう、でしたか」
 ぼんやり澱んだ瞳を逸らしながら、気の抜けた返事をする。…全く、気付いてなかった。
「…たいへん失礼いたしました。お茶をお淹れいたしましょうか」
「結構。使いが終わりましたら、すぐに引き上げます故」
 手短に済ませたい意志を隠そうともせず、典は懐から書状を取り出す。形式的に典に平伏してみせながら、文は密かに呼吸をする。
「射命丸文殿。大天狗、飯綱丸龍からの命令を申し上げる」
 来た。僅かな吐息を聞き逃さぬよう、持てる限りの意識を耳に注ぎ込む。客観的に見れば無茶に見える業務を挑戦的にちらつかせてくる、というのが、飯綱丸の常套手段だ。さて、あの大天狗は今度はどんな無茶ぶりをこちらへ要求してくるのか――

「明日より、しばらく暇を与える。温泉に浸かり、その身を労わると良い」

 想像もしていなかった命令に、思わず眉を顰める。
「…湯治、ですか」
「はい。飯綱丸様は、貴方の体調がすぐれないことをお聞きし、慈悲深くも心配なさっているご様子」
 あまりに胡散臭い台詞に口を歪めながらも、文は典の話に耳を傾けることにする。
「宿などに関しては御安心を。しかるべきお方とこちらから話をつけております。温泉の効能や宿泊設備についても申し分なく、きっと御身の疲れを癒してくれることでしょう」
「…それはありがたいのですが」
「何か?」
 ぴくり、典は眉を動かす。睨みつけるようにこちらを見下ろす三日月色の瞳を負けじと見返しながら、文は疑問をぶつける。
「何故、一介の鴉天狗のために、あの方がそこまでなさるのです?」
 飯綱丸の部下、ということであれば、文の他にもたくさん天狗は存在するはずだ。しかも、文よりも飯綱丸に忠誠を誓い、粉骨砕身している者がほとんどだろう。しかし、湯治などの待遇を飯綱丸が一天狗に対し融通したという事例は聞いたことがない。
 では、何故文に対し、飯綱丸は「特別扱い」しようとする?
 文の考えを見透かしたのか、典は小さく鼻を鳴らす。

「射命丸殿。貴方は、飯綱丸様から高く評価されているのです」

 きっと今の文は、この上なく嫌そうに頬を引きつらせているのだろう。
「博麗の巫女初め他勢力から一定以上の信頼を獲得し、外交や報道に多大な業績を積み上げた手腕を、飯綱丸様はしっかり見てくださっております」
「はぁ…それは、ありがたいことですね」
 とてもありがたがっているようには聞こえない声を、典は無視する。
「そして、飯綱丸様は、これからの時代、天狗としても他勢力との連絡や交流を密に築く必要があるとお考えです。その将来を実現するために、射命丸殿には今後ますます最前線で励んでいただきたいのです」
 なるほど。つまるところ、飯綱丸はどうあっても文をまだまだこき使うおつもりらしい。しかも、そのために湯治の機会まで準備して、こちらを気に掛けている素振りを見せている、と。本当、余計なお世話だ――そんな考えなどお見通しであるかのように、典は三日月色の瞳を曇らせる。
「まぁ、私としては?射命丸殿以外にもお任せ出来るようにした方が良いのでは、と再三申し上げているのですが」
「…そうですね」
 敵意でつい牙を剥き出しにさせる典の態度に、ふっと文は微笑む。
 文にとっては、典も面倒くさい存在ではあった。飯綱丸の片腕として「破滅」をもたらす管狐、進んで関わりたい訳ではない。けれど、こうして表に漏れ出てしまう程に強い主への思慕については、むしろ好ましく思っていた。

「そうなってくれないかと、私も常々願っていますよ」

 ただ徒労だけがこもった文の返事に、典は刹那、虚をつかれたように耳を立てる。そして直後、面白くないとばかりに眉を小さく寄せると、折り畳んだ書状を文机へと放り投げて。
「明日、午の刻に迎えを遣わします。そちらの書状を確認の上、定刻に出発出来るように準備してください」
 つっけんどんにそう言い残すと、柔らかな尻尾を翻して、障子から飛び出していく。冬毛を纏ったような影が雪景色に溶け込んでいくのを見届けると、文は典が置いていった書状を手に取る。
 あの大天狗が何考えているか、分からないけれど。どの道、このままではいけない、とは文も考えていたところだったのだ。ならば、ここはアイツの策に乗っかって、英気を養うことに専念するのも、悪くはないのかもしれない。
 そうだ。快復出来たら、久々に博麗神社にでも飛んでいこうか。さてはて、あのぐうたら巫女は何をしているかしら。この寒い季節だもの。きっとお勤めもサボって、炬燵にでも籠っているのかしらね。
 良いぞ。ほんの少しだけ、希望が出て来た。そうして書状を広げた文が視界に飛び込んだのは、今回の湯治で文が宿泊することになる場所だった。

 ――宿泊場所 博麗神社


***3***


 翌日。典が告げた通りの午の刻、二人の天狗が文の家まで辿り着いていた。
「おーい、文ー」
 そのうちの一人――姫海棠はたてが、こんこん、木製の戸を叩く。
 けれど、しばらく待ってみても、反応は返って来ない。
「居るんでしょー。返事しなさいよー」
 再び戸を叩く。けれど、案の定というか、反応はない。大きなため息が、真っ白な呼気として、雪のちらつく山へ溶け込んでいく。
「ちょっとー。とりあえず中には入れてよー。外で立ちっぱなしは寒いのー」
「…はたてさん」
「ん?」
「少々、下がっていただけますか」
 後ろで控えていたもう一人の天狗――犬走椛が、静かにはたてへ問いかける。けれど、笠の陰から覗く鬼灯色の眼は、既にぎらりと輝いていて。あまりの覇気に頬を引きつらせながらも、はたては椛に道を譲る。
 椛ははたてに一礼すると、扉の前に立つ。そして、一回呼吸を挟むと、滑らかな所作で右足を振りかぶって――

 蹴破った。

 あまりの轟音に、枝に寄せ合っていた小鳥たちがばたばた飛び立っていく。悲惨に崩れ去った玄関を、椛は、全く気にもしていない様子で潜っていく。何というか、本当容赦がないなぁ、と頬を引きつらせながら、はたても後を追った。
 障子を開ければ、何もない部屋の真ん中で、布団が雪山のように膨らんでいるのが見えた。つかつか、椛が真っ直ぐに歩みを進めると、全く躊躇う様子もなく掛け布団を剥ぎ取る。
「やっほー、文」
「…」
 陽気に声をかけるはたてに対し、布団にこもっていた家主――射命丸文は、苛立たしげに睨みつける。きっと「他人が眠っているところを邪魔しないで」とでも表現したかったのだろう。
「…何しに来たの」
 枯れ果ててしゃがれた声が、はたての瞳を揺さぶる。その低音は、起き抜けを演じていたからか、それとも、気力を絞った抵抗からか。
「迎えに来たに決まってるじゃん。ほら、出発するよー」
 けれどはたては、何も気付かぬふりをしながら文に起きるよう促す。
「文が抱えている文書は、とりあえず私が引き取ることになったの」
「…」
「まー、ちゃんと進められるか分からないけど、こっちなりに頑張るからさ。文は気にせず湯治を楽しんで来なよ」
 大丈夫。大丈夫だ。きっと、自分たちは間違っていない。文を回復させるためには、これが最善の道なんだ。そう繰り返し決意を固めながら、はたては文に笑いかける。
「何を言っているのですか、貴方は?」
「…は?」
 なんともない、とも言いたげに、文は真っ直ぐ立ち上がって見せる。

「ほら、この通り、私は元気ですよ」

 あまりにも無理のある虚勢に、はたても眉を顰める。
「どう見ても大丈夫に思えないんだけど」
「はぁ…ははは。妄想記者は、これだから困りますね」
 いつもなら自信たっぷりな反論も、枯れ果てた声のせいで中身を伴っていない。
「確かにまだ本調子とまでは言いきれませんが。ついさっきまで、ぐっすり眠ってましたからね。多少はマシになったんですよ」
 そんな訳ないじゃん。あり得ない。普段着のままくしゃくしゃで横になっていて、目の下もすごい隈が出来ていて。それでちゃんと眠れているなんて主張、通せる訳ない。
「だから、貴方たちの手を借りる必要はありません。わざわざご足労いただきすみませんね」
「ちょ、ちょっと待ちなよ」
 歩き出そうとする文の手を、はたては慌ててつかむ。
「あ」
 バランスを崩した文の体は、踏みとどまることすら出来ず、あっさり引き倒されてしまう。自分の知っている文は、この程度の力に負けるなんてこと、絶対ないはずだ。想像よりもずっと文が消耗していた事実に、はたての胸は締め付けられる。
「…は、はは」
 けれど文は、現実を突き付けられてなお、目を背け続けている。
「嫌だなぁ、これは単なる立ち眩みです。さっきまで寝てたのですから、こういうこともあるでしょう」
「…これが立ち眩みって、あんたね」
「あー、そうだ。せっかく元気になったのです、また取材にも出ないといけませんね」
 糸がちぐはぐに絡まった人形のようにふらふら歩き出す文の姿に、戦慄すら覚える。
 駄目だ。こんな文を、一人で外に出したらいけない。絶対に、文を止めないと。
「そんな体で外を飛び回れる訳ないじゃん」
「大丈夫って言ってるじゃないですか。良いからそこをどいてください」
「どかない。お願いだから、今は休んで」
「駄目です。スクープは待ってくれないんですから」
 文の目が、今日初めてはたてと合う。妖しくも優しかった夕陽色の瞳は、すっかり昏く澱んでしまっていて、見る影もない。絶対に動かないと決意を新たにするはたてを前に、文は「あぁ、そうか」と首を傾げる。
「それともあれですか?私が動けないのを好機にちょっとでもネタを攫おうという目論見ですか?」
「な…」
 絶句する。そんなこと、はたては決してしない。しかも、それは文が最も良く分かっているはずのことなのに。
 怖い。憑りつかれたような発言が、執念が、はたての膝をがくがく震えさせる。その怯みを文は濁った瞳で捉えると、こちらを押しのけようと、身を乗り出す。
「は、ははははは。反論も出来ませんか。さすが、考えることが三流記者で」

「口を閉じろ」

 絶対零度の声音が、空気の全てを凍り付かせる。我に返ったはたてが改めて前を見ると、それまで黙っていた椛が、文の胸倉につかみかかっているのが見えた。
 固唾を飲む。犬猿の仲と囁かれる彼女たちの空間は、ほんの少し呼吸をするだけで弾けてしまいそうな程に、ギリギリまで張り詰めている。
「お前がどこでくたばろうが、私には別に関係ない。せいぜい私の見えないところで、無様に朽ち果てるが良い」
 淡々とした発言の後、椛は嘲るように口許を小さく歪める。
「…あぁ、そうだな。むしろ、くたばってくれた方が面倒ごとがなくなってありがたいくらいだ」
「ちょっと椛」
 口を挟もうと身を乗り出して、はたては気付く。冷たい怒りに燃えているように見える鬼灯色の瞳から、悲痛な叫びが滲み出ていることに。
「だが…誠に残念ながら、これは大天狗様の『命令』だ」
 何を言われても動じなかった文の瞳が、急激に震えだす。細い喉笛を一息で噛み切るように、たった一言で、文の急所を貫く。

「どんなに騒いだところで、私にも――お前にも、拒否権はない」

 どさり、文は膝から崩れ落ちる。これから避けられない「絶望」に満たされて、赤褐色の瞳はすっかり重く沈んでいた。
「――はたてさん」
 文を連れ出すこと自体は、これで出来るだろう。けれど、そこまで持っていくために、この白狼天狗が負った傷は、果てしなく大きい。そして彼女も、文がいる前では、決してそれを出そうとしない。ただ歯を食いしばり、表情を消して、この場に立ち続けている。
 …本当、この二人は、あまりにも似た者同士なのだ。
「こいつは私が引きずって行きます。はたてさんは荷物の方を」
「…うん」
 ちらり、はたては文机の引き出しを開ける。しまわれていたのは、いつも文が半身のように共にしていた、赤眼のカメラ。けれど、手に取った時に伝わる冷たさは、長いこと使われていなかった事実を、はたてにぶつけてきた。
 …いやだ。無機質な質量が、間欠泉のように激情を押し上げていく。

 私だって、やだよ。
 このままだなんていやだ。
 こんなところで――対抗新聞同士(ダブルスポイラー)としての夢を、諦めたくなんかない。

 はたては祈りを捧げるように一度手を合わせると、そのカメラを枯葉色の鞄に滑り込ませた。


***4***


 博麗神社。とある事件以後、こんこんと温泉が湧き続けている神社。

 …こんなんで、良いのかしら。うぅん、やっぱりもう少し整えた方が良いのかなぁ…

 細い指で前髪を少し弄りながら、博麗霊夢は鏡の自分と睨めっこしていた。
 もし、今この場を誰かが覗きこんだなら、雪中の紅梅を連想させる出で立ちに見惚れぬ者はいないだろう。
 濡れ羽色と形容するのが相応しい髪は、黄楊の櫛で梳かれてますます柔らかく艶やかに。
 若い瑞々しさをたたえていた肌には、軽く白粉がはたかれてたおやかな空気を出す。
 そして口許には、ほんの少し大人っぽい濃紅を指して。
 息を呑むほどに完成された美貌にあって、けれど霊夢は、そわそわ手を動かさずにはいられなかった。
 一旦落ち着こうと、胸一杯に呼吸する。けれど、ばくばく弾む鼓動は、その程度では抑えられない。

 私、なんでこんな緊張しているんだろ。
 そもそも私、祭りの前だって、こんなにおめかし、してたっけな。

 ふわり、今日来るであろう「奴」の面影が浮かんで来る。
 すぐに我に返って、追い払うように首を横に振る。
 そうだ。あの狐が言っていた通りなら、これから自分は幻想郷の調整役としてますます頑張らないといけないんだ。今日はそのための、大事な一歩。
 決して、誰が来るとかそういうのは、全く関係ない。

 三日くらい前だっただろうか。大天狗の使いである狐が、今日のことを告げて来たのは。
 その日も、粒の大きな雪が幻想郷の空を舞っていた。細い枯木の枝に白の重みがしんしんと積もっていく様子に霊夢がため息をついていると、音もなくそいつは話しかけて来たのだ。
 垂衣をつけた市女笠に、白を基調とした壺装束。一応普通の参拝客に身をやつしていたけれど、わざとらしく妖気をゆらゆらと匂わせてきていたのを良く覚えている。
 警戒を露にする霊夢に、その狐――菅牧典は改めて自己紹介をすると、開口一番「鴉天狗を一名、湯治のため神社に泊めて欲しい」とお願いしてきた。
 霊夢は即座に首を横に振った。自分は博麗の巫女であり、怪異退治の専門家。立ちはだかる妖怪をぶっ飛ばすことこそあれど、慈悲をかける筋合いなどない。
 けれど典にとって、霊夢が「最初は」そういう反応するだろう、というのは、もちろん想定の範囲内だった。
 『霊夢殿。貴方が巫女になられて以来、人間と妖怪の距離は近付きつつあるのです』
 三日月色の瞳を霊夢に合わせながら、典は、話術の本領を発揮していく。
 『スペルカードルールの制定、昨今の新たな勢力の参入なども経て、妖怪は、人間にとって昔以上に身近な存在として認知され始めております』
 しかしそれは、決して悪いことではございません、と、典は一息入れる。
 『人間と妖怪は、光と影という相容れない関係では、決してなくなった。正面からお互いに手を取り合うことも、夢物語ではないかもしれない。これからは積極的に人間とも対話していきたい、というのが、我が主、飯綱丸様のお考えです』
 腕組みしながら聞いていた霊夢には、この立派なご高説に秘められた裏が何となく読めてきた。…きっと「読まされていた」のだろう。
 『私に仲介を期待したい…ということね』
 ため息をつきながらお望み通りの返事をすると、典は獣の瞳孔を妖しく細める。
 『はい。『博麗の巫女』という重要な立場にあり、人間・神妖問わず良好な関係を築いている霊夢殿に、人間の立場から仲裁をお願い出来れば、と』
 活き活きと語り続ける典を前に、霊夢は大きくため息をつく。本当に、天狗というのはどこまでもずる賢い奴らだ。
 一見、善意で人間に接近したい、と聞こえる典の発言。けれど実際は「人里の支配者」を巡る妖怪たちの競い合いにおける、天狗が立てた策略の一環だろう。自分たちから、人間や他の妖怪も交えた対等な対話の場を設けることを提案することで、時流を読み先んじて行動した立場として、権力争いで一歩前に出よう、という魂胆なのだ。
 しかも霊夢としても、対話の場に同席することで常に間近で妖怪たちを見張ることが出来るし、万一諍いが起こったとしても、その場で(こてんぱんに)仲裁することが出来る。この提案を受けたところで、霊夢が天狗側に主張に傾くことも意味しない。この申し出を霊夢が断る言い訳は、既になくなっていたのである。
 『つまり、その『湯治に来る天狗』ってのが、アンタ達からの担当になるってことかしら?』
 『流石、話が早い。まぁ、改めての顔合わせも兼ねたもの、と考えてくだされば構いません』
 先程までの警戒とは別の意味で、眉間の皺が濃く刻まれる。
 人間たちからも一定の信用を得て、この手の対話を問題なく任せられそうな天狗。
 他の妖怪たちとの関係も築いていて、諍いなども起こさぬよう立ち回れる天狗。
 「アイツ」だ。ぜっっっっったいに「アイツ」だ。「アイツ」に違いない。
 湧き上がる安心感を押し込めるように見せる百面相に、典はにたり、口許を歪める。典にとっては、この話を聞いた霊夢がこう反応するだろう、というのも、全て計画通り。では、これで仕上げだ。
 『勿論、同胞を泊めていただくのです。見返りもなし――とは申しません』
 手品の前説のように、典は巾着を取り出してみせる。僅かに眉を動かした霊夢の変化を目ざとく捉えると、賽銭箱の前まで歩みを進める。
 そのまま巾着をひっくり返すと、滝のように貨幣が賽銭箱に吸い込まれていく。およそ賽銭箱では聞いたこともない、からんからん金属が弾んでいく音。あまりの光景に目をぱちくりさせる霊夢の耳元に、すかさず典は蜂蜜のようにねっとりした声で囁きかけた。

 『お賽銭は、この程度で足りますでしょうか?』

 霊夢が縦に頷くまで、一秒もかからなかった。

 …こほん。そういう訳で、今日は、狐が言っていた天狗が泊まりに来る日なのである。
 そして、あの狐の言っていた通りなら、そろそろ到着する時間。
 一回大きく呼吸する。大丈夫。どうせ「アイツ」が来ると分かっているなら、いつも通り接すれば良いのだ。ヘタに体裁だけ整えようとしたところで、逆に揶揄うネタを与えるだけだ。
 平常心。平常心。馬鹿にしてきたらすぐにぶっとばす――瞑想でもするようにくり返し念じていると、がたがた、一陣の風が障子を揺らしてきた。

 ――来たわね。

 未だ高鳴る鼓動を抑え込もうと、また一呼吸する。背筋をしゃんと伸ばして、襟をきっぱり整えて。これから異変でも解決しに行くかのような真っ直ぐな表情で、障子を開ける。

「やっほー」

 霊夢が出て来るのを待っていたのは、栗色の髪を二つ分けにした陽気な少女だった。
 革製の厚底ブーツに、丈の長い黒のソックス。濃紫のスカートの上には、ベージュ色の外套に、煉瓦色のチェックが入った鹿打ち帽。どちらかといえば推理小説モノの探偵を連想させる格好は、旅行にふさわしくなかなかおしゃれに見えた。
「…え、えーと」
 我に返った霊夢は、急いで己がするべきことを再整理すると、崩れる直前の雪だるまのように、ぎこちなく頭を下げる。
「よ、ようこそいらっしゃいまし…た?」
「あはは。そんな畏まらなくても良いよ~、多分」
 茶化すような軽い声音に、なんとか記憶の中で人物像が一致する。姫海棠はたて――…あぁ、そっか。そういえばコイツも鴉天狗だった。
「えっと…」
「うん?」
 戸惑いが顔に出てしまっていることに気付かないまま、はたての顔を覗きこむ。
「アンタが今日湯治に来るって言ってた客、なの?」
「…あー、ううん。私は荷物持ちでついて来ただけ」
 ほら、これこれ、と、はたては担いでいた鞄を指す。長い肩掛け紐がついた枯葉色のそれは、手帖やカメラなどの一式がちょうど入る程度の持ち運びやすい大きさ。
 ほんの少し、胸に熱が灯る。見せてもらった鞄は、霊夢にとっては馴染みのあるものだった。じゃあ、やっぱり…
「湯治に来た天狗は、あっち」
 鞄から流れるように、はたては参道を指す。期待と不安を再びたたえ、霊夢ははたてが指す方へつられるように視線を向けた。
「…は?」
 最初に目に入ったのは、和装に蓑笠を纏った少女の姿だった。鬼灯色の鋭い瞳に、雪に紛う銀色の髪。何回か見たことがある。確か、「アイツ」に時々連れ回されている白狼天狗だったはずだ。そして、よく目を凝らして見ると、誰かが蓑に隠されるようにその白狼天狗に背負われているのが分かった。

「文…?」

 気が付くと、霊夢ははたてを突き飛ばしながら駆け出していた。さっきまで整えていた服が乱れるだとか、雪に足を滑らせるとか、そんなこと考える余裕などなかった。
 白狼天狗に背負われていたのは、間違いなく自分が今日ここに来るだろうと考えていた「アイツ」――射命丸文。けれどそれは、自分が知っている射命丸文では決してなかった。
「あ…文?なの?」
 朽ちたようにこけた白い頬、濃く黒ずんでいる隈、焦点すら定まってない赤褐色の目。僅かに残っている生気が浅い呼気から抜けていく錯覚に襲われ、悪寒が走る。
「ちょ、ちょっと?大丈夫なの?」
「…」
「ねぇ。何か言ってよ。ねぇ」
 縋るように、声をかける。けれど、今の文にその声が聞こえているかも、霊夢には判断が出来ない。焦燥と悲哀のこもった視線が、今度は文を負ぶっている白狼天狗――椛に向けられる。
「ちょっと。教えなさいよ。コイツに何があったの?」
「…博麗の巫女」
「文は本当に大丈夫なの!?」
「とりあえず落ち着いて欲しい。まずは、」
「これが落ち着いていられる訳ないでしょうがっ!!!」
「たんま」
 声を荒げ、椛につかみかかろうとする霊夢の肩に、はたての手が優しく添えられる。
「気持ちは分かるけど…まずは、文を部屋まで運ばせてくれないかな」
「ぁ…」
 湧き上がっていた怒りが、淡い呼気と共に萎んでいく。再び、負ぶわれている文が目に入る。
 そうだ。こんなことしてる場合じゃない。コイツのこと考えるなら、一刻も早く温かいところに入れてあげないと。
「…後でしっかり説明してもらうわよ」
「もちろん。そのために私も来たんだから」

 その後は、三人で協力して、文を客室まで運び込むことにした。今日のために準備した客室へ連れ込んで、布団を敷いて。けれど、寝るのを拒否するように文が弱々しく首を振るものだから、せめてちょっとでも体を温めたいと、綿をつめこんだどてらを羽織らせて。
 客室の端で小さくなっているのを確認した傍で、はたてから事情が説明されることになった。
 文が、何らかのきっかけで、過去にない程のスランプに陥っているということ。
 はたてから見る限り、おそらく自分の記者活動そのものについて何か悩みを抱えているのではないか、ということ。
 養生のため、しばらく神社で湯治するよう大天狗から命令された、ということ。
 初め厳しく睨みつけていた霊夢の目は、はたての説明を聞くにつれ、不安定に揺らぎ始めていた。今まで支えてくれていた地面が液体となって溶けていくように、足もともおぼつかなくなっていく。
「改めて、私からお願いするよ」
 説明を終えたはたては、すっかり俯いてしまった霊夢を正面から見つめる。
「文のこと、お願い出来ないかな」
 分かった、と返したかった。けど出来ない。声を出そうとしても、どうしても息が出て来ない。
「…無理よ」
 しばらくして、なんとか絞り出せたのは、そんな小さな声だった。
「私、あんな文、見たことないの」
「そうだよね」
「今、文にどう接すれば良いか、全く分からないの」
「だと思う」
「…無理。今の文を勇気づけてあげることなんて、私には出来っこない」
「それは違う」
 寄り添いながらもきっぱり断ち切る声音に、思わず霊夢は顔を上げる。

「むしろ、これは博麗霊夢にしか出来ないことなのよ」

 こちらをじっと見つめるはたての表情には、霊夢に対する自信と信頼が、はっきりとこもっていた。
「おーし椛、私たちは行くわよ」
 呆けている霊夢を他所に、はたては己を奮い立たせようとするように、大きく伸びをする。
「文の奴、思っていた以上に色んな仕事任されてたみたいだからさー。一つでも片付けて、アイツが楽出来るようにさせてやらないと」
「はたてさん」
 端正な声が部屋に響く。ここまで口を出してこなかった、椛の声だった。
「申し訳ない…少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
 はたては椛の顔をちらと見つめると「うん」と柔らかく返す。椛は丁寧に一礼すると、未だ立ち尽くしたままの霊夢に向かい合う。
「…博麗の巫女」
 僅かに涙を潤ませた瞳には、一体どれだけの想いが抱かれているのだろう。同族としての仲間意識?義理?…違う。あれは決して、それだけではない。

「あの馬鹿を、よろしく頼む」

 椛は、真っ直ぐな眼光を保ったまま、膝につく程の勢いで頭を下げた。


***5***


 真冬の昼は、暮れるのが早い――今日という日は、なおさら。
 雲まで純白に包まれていた景色は、瞬く間に明度を落とし、重々しい寒さだけを残していく。
「…文」
 しんしん落ち続ける牡丹雪の底へ、博麗霊夢の呟きも沈んでいく。
 まるで冷たい雪が切り傷に沁みていくかのように、さっきの文を見てしまった衝撃が、今になって霊夢を蝕んでいく。
 どうしようもなく褪せて澱んだ目が、繰り返し頭の中で再生される。
 あまりにも弱々しかった呼吸が、がんがんに身体の隅々まで響いていく。

 あれが――あんなに小さくなった存在が「射命丸文」なの?

 どうにか呼吸を整えたくて、一旦その場にうずくまった。
 そんな訳がない。あれが文なはずなんてない。
 ただ現実が受け止められなくて、弱々しく首を横に振る。
 傲岸不遜。性格最低。ことあるごとに記事で弄って来て、こっちを上から見て来る腹立たしい鴉天狗。
 そのくせ、顔が良くて、格相応の見識と実力も兼ね備えていて、無駄に頼り甲斐があって。なんというか、そういうところがまたムカつく。

 博麗霊夢にとって「射命丸文」とは、そんな存在だったのだ。

 それが今は――まるで、卵に還ってしまったかのように、引き籠っている。

 駄目だ。まるで凍り付いたかのように、足が動いてくれない。一刻も早く文の様子を見に行かないといけないのに。
 あの文をまた見て、ちゃんと接することが出来る自信がない。なんて文に話しかけたら良いか、全く考えられない。
 俄に荒れ狂う風が、障子をがたがたと叩く。迫る猛獣から身を守るように、身をさらに縮こませる。
 知らなかった。あんな奴、ちょっとくらい元気なくなった方が、こっちとしても気が楽になると思っていたのに。
 このまま放っておいて良いの?
 このまま一人にしておいて良いの?
 良いはずがない。
 けれど、私に任せられたところで、何が出来るって言うの?

 『むしろ、これは博麗霊夢にしか出来ないことなのよ』

 待って。待ちなさいってば。どうして私なの?
 私、コイツのこと、何も知らなかったのよ?
 アイツのことなんて、アンタ達がもっともっと知っているはずじゃない。
 アンタ達の方がずっとずっと、アイツを助けることが出来る筈じゃない。
 けれど、誰よりも「好敵手(とも)」であった彼女は、私を選んだ。
 アイツのことを誰よりも考えて、私に託してきた。

 『あの馬鹿を、よろしく頼む』

 やめてよ。そんな顔で私を見ないでよ。
 アンタがどれだけアイツについて抱えてきたのか、私は分からない。
 けれど、きっと本当は、自分の手でアイツを励ましてあげたかったはずなんだ。
 それが出来ない自分のことが、悔しかったはずなんだ。
 けれど、その複雑な感情を全部飲み込んで、彼女は頭を下げて来た。
 あんなことされたら、私だって頷かざるを得ないじゃない。

 ……

 …なんなのよ。
 アイツ、ちゃんと慕ってくれている同胞がいるんじゃない。
 ちゃんと気が付いて、手を差し伸べてくるような奴が、身近にいるんじゃない。
 それなのに、差し出された手を全部突っぱねては「自分は孤高です」なんて無理を通して。
 挙句、一人で押し潰されているんだもの。本当、世話ないわ。
 …なんだか。そう考えるとものすごく腹が立って来た。
 いつの間にか震えが止まった身体を、ゆっくりと起こす。大きく一呼吸を置いて、決意を新たにする。
 分かった。やってやろうじゃないの。
 みっともなくいじけるアイツを、私が引っ張り出してみせる。
 蹴っ飛ばしてでも、湯船にぶちこんでやるんだから。
 ぶん殴ってでも、ちゃんと寝かしつけてやるんだから。

 私のところまで転がり込んでおいて、引き籠ったままで居られるなんて考えるな。

 …けど、そうね。まずは食事、かしら。
 あの様子だもの。多分、まともに食べていないのでしょうね。
 厨へと足を運んだ霊夢は、今ある食材を、氷室から取り出してみる。
 大根、人参、牛蒡、蒟蒻……冬に食べるのが美味しい「この日のために」準備した食材たち。
 アイツの体調を考えると、一先ず、食べやすいものを一品だけ準備した方が良いだろう。
 それでいて、栄養もちゃんと確保出来て、味も楽しむことが出来て。
 割烹着を身に纏い戦闘態勢に入りながらも、紅を引いた唇を柔らかく綻ばせる。

 何より、あったかいものを作りたいな。
 疲れきって凍えている身体を労われる、そんな料理を。


***6***


 宵闇にどっぷりと沈んでいった客室。毛羽だった羽根が、畳の上にばらばらと散らばっている。
 別に、自棄になって搔き毟ったという訳ではない。ちょっと翼を広げてみたら、こうなっただけだ。
 そうして継ぎ接ぎの隙間だらけになってしまった玄翼に、射命丸文はうずくまっていた。
 寒い。翼を通り抜けた冷気が柔肌に触れ、体を凍えさせていく。けれど、今の文には、この寒さに抗おうなんて気持ちは全くない。かろうじて、顔は隠れているから。それだけで十分だった。
 …今さら顔を隠したところで、何の意味もないのだけど。

 『文…?』

 …見られた。

 『あ…文?なの?』

 あの子に――博麗霊夢に、この姿を見られてしまった。
 その事実は、文をつなぎ止めていた壁を粉々にするには十分過ぎるものだった。

 あの子だけには、こんなところ見られたくなかった。

 射命丸文にとって、博麗霊夢とは、稀有な存在だった。
 誰か特定個人と距離感を縮めるに当たり、おそらく世間では、自分というものを一定程度は素直に出すことが求められるだろう。
 それはその通りだと思う。文にとっても例外ではない。けれど「射命丸文」にとっては、そこに進むための壁があまりに高過ぎるものだった。
 だって、こんな自分、ただただ格好悪いだけじゃないか。
 何回も挫折して、その度に死に物狂いで突破口を開いて、けれどまた挫折して…結局何もなせていない「射命丸文」のどこが格好良いというのだ。
 こんなの、目指している姿ではない。こんな自分、見せる訳にはいかない。
 だから文は、天狗として、記者として、あるべき姿を演じ続けていた。誰かにとっての特別な存在になろうだなんて、考えもしていなかった。
 けれど、霊夢は違った。
 壁を作っていた自分に足を踏み入れようとする者がいなかった中で、彼女はあまりにも純真無垢だった。
 人間基準ではそれなりに長くなるだろう付き合いの中で、霊夢は、文の素顔を求める素振りを見せたことはなかった。勘が強い巫女のこと、もしかしたらどこかでは気付いているのかもしれない。けれど、それも見ぬふりをして、ただ猪突猛進に反抗心を剥き出しにしてくれるこの子は「素直にならなくても良い」と文を包み込んでくれる存在だった。
 もうちょっと、このままでいたい。短い間しか、そういられないと分かっていても。
 ただ、自分も誰かを導ける「天狗」になれる幻想を――
 ……

 夢が壊れていくの、あっという間だったな…

 膝を抱える手を、ほんのちょっと下へずらす。
 もう、良いや。何もかも、どうでも良い。
 これからどうするだとか、もう考えたくもない。

 『お前がどこでくたばろうが、私には別に関係ない。せいぜい私の見えないところで、無様に朽ち果てるが良い』

 『…あぁ、そうだな。むしろ、くたばってくれた方が面倒ごとがなくなってありがたいくらいだ』

 からからに乾いた笑いが漏れる。全くもって椛の言う通りだ。自分が一羽消えたところで、幻想郷の何が変わるというのだろう。誰が気にしてくれるというのだろう。
 むしろ、こんな迷惑ばかりかけるような奴いなくなった方が、皆肩の荷が下りる、というものではないか。きっと、椛はもちろん、はたてだってもう、私に愛想がつきただろう。

 『それともあれですか?私が動けないのを好機にちょっとでもネタを攫おうという目論見ですか?』
 『な…』

 あの時彼女が見せた、ひどく青ざめた顔が、目に焼き付いて離れない。
 ひどいこと、言ってしまった。言葉と身近に接する者として、あんなこと決して言うべきではなかった。
 あの子は、才能あふれる記者だ。こんな記者失格の奴の背中なんて、追わない方が良い。
 貴方なら幻想郷一の新聞が作れる。もう、自分はどこかからひっそり応援しているから…

「文」

 雨戸に雪が打ち付ける雑音の中でも、はっきりと通る声。霊夢の声だ。
 羽根の隙間から、朱色の光が差し込んで来る。ひた、ひた、近付く足音。
「…まだ、そんなところにいた」
 視線を合わせるように、傍にしゃがみこむ。
 あぁ。霊夢は、本当に良い子だ。きっと、この子こそ、文のことを最も嫌っているだろうに。
 けれど、それでもなお、手を差し伸べようとしてくれている。本当に慈悲深く立派な巫女として、彼女は成長している。
 ごめんなさい。
 弄るような記事ばかり書いて、きっと傷付けたものね。
 馬鹿にするようなことばかり、本当は聞くのも嫌だったものね。
 挙句の果てに、こんなことまで押し付けられて…
「…別に何があったかは聞かないけどさ」
 大きくため息をつきながら、淡々霊夢は話しかけてくる。
「今日、文をお世話するようにお願いされているの」
 とげとげしさの混ざった声に、文の肩が揺れる。
「そのために、こっちだってたくさん準備してきたの」
 あぁ、きっと、今の霊夢は、不機嫌そうな目でこちらを睨みつけているのだろう。

「だからさ、文に元気になってもらわないと、困るのはこっちな訳」

 聞く者が聞けば、霊夢の言い方には、きっと眉を顰めていただろう。およそ体調を崩している相手にかける言葉では決してない。まるで他人事、面倒事だ。
 けれど――文に対しては、こういう言い方が最も効くだろう、ということを、きっと霊夢は分かっていたのだ。
 左側の翼をほんのちょっとだけ開けてみる。朱色のランプに照らされて、ちょっと大きめのお椀から、ゆらりゆらゆら、湯気が立ち上っている。
「せめて、これでも飲んで温まりなさい」
 そんな霊夢の言葉につられるように、お椀に手を伸ばす。湯気を顔で感じてみれば、馴染み深い味噌の匂いがいっぱいに広がっていく。目を凝らしてみれば、刻み葱の下に根菜や豚肉といった具材がひしめき合っているのが分かる。
 …豚汁、か。翼に隠したままの口が、へにゃりと緩む。きっと、ちょっとでも食べやすく栄養のつくものを、と、頑張って考えてくれたのだろう。
「…いただきます」
 小さく掠れた声で挨拶を済ませると、ゆっくりお椀を傾ける。口許を通る湯気がだんだんと濃くなっていき、やがて出汁に触れる。
「はぁ…」
 柔らかな呼気が、宵闇へふわふわ溶けていく。あったかい。褐色に澱んでいた目に、ちょっとずつ、鮮やかな赤みが差し始めていく。
 もう一口。味噌に溶け込んだ豚の甘味が、凝り固まった身体をしみじみ包み込んでいく。そのまま右手に取った箸をくぐらせ、ただ黙々と具材を口に運び続ける。白葱、豚肉、人参、蒟蒻。ひたすらに旨味を堪能し、凍っていた表情が和らぎ出したころ、輪切りに大きく切り分けた大根が、ずっしりとした重みを右手に伝えて来た。
 ふふ…そんな笑みが、鼻から漏れる。そういえば、この子はそうだった。宴会で料理を出す時も、いつも見映えは二の次。具材を大小ばらばらに切ったものを豪快に煮込んだ、まるで炊き出しのような料理ばかり準備していたものね。
 けれど文は、そんな彼女の料理を食べるのが、宴会での何よりの楽しみだった。
 大根を齧る。柔らかな歯ごたえから、じわり、出汁が滲み出ていく。濃厚な味噌がすっかり沁み通っているかと思えば、咀嚼すると、まだ白さを保った大根の滋味がじわりと主張してきて。
 おいしい…やっぱり、とっても好き。熱を一筋、頬に伝わせながら、文はくっきり笑顔を見せる。この何層も残っている味が、霊夢の――

「…あれ」

 頬に手を触れる。夕陽色を取り戻した瞳が、己の異変に再び動揺する。
「あ…あれ。なに、これ」
 ぽた、ぽた、畳に何かが落ちる。刹那、視界は熱に覆われ、声は不安定に波打ちだして。
 何かを搾り出そうとしているかのように、胸が強く締め付けられる。
 …嘘。私、泣いてる、の?
「ちょ、まっ、て。とま、って」
 どうにか堰き止めねばと、己を奮起させる。けれど、一度決壊した涙腺は、決して止まることを知らない。一筋、また一筋と、涙はこぼれ落ちていき、床に跡を残す。
 駄目だ。さすがに、もうこんな顔見せたらいけない。駄目だ。荒くなる嗚咽を飲み込みながら、なおも文は抗い続ける。なんとか、なんとか落ち着かないと――

「良いの」

 柔らかな手が背中に触れる。陽だまりのような温もりが、震える身体に広がっていく。
 包み込むような手つきは、親鳥に抱かれた雛の記憶を思い出させてくれるようだ。

「文の全部、私に聞かせて」

 刹那の後、ずっとずっと押し込められてきた慟哭が、奔流のように溢れ始めた。
 苦しい。しんどい。悲しい。悔しい――ただ自分を責めるために溜めこんでいた全ての想いが、吹雪となって夜半を荒らしていく。

 ――助けて。

 けれど、激情の渦に巻き込まれていたたった一つの「声」を、霊夢はしかと聞きとめていた。


***7***


 どれだけの時間、自分は泣き続けていたのだろう。
 分かるのは、あんなに温かかった豚汁が、冬の空気に晒されすっかり冷えてしまっていたくらい。
 涙も涸れ果て憔悴しきった文は、霊夢に薦められるまま、一度温泉に浸かることにする。
 もうこの時の文には、差し伸べられた小さな手を撥ねのける気力なんて、残っていなかった。

「はぁー…」

 水が溢れ出る音と共に、長い吐息が、檜造りの湯屋に溶けていく。
 白い湯気が花開き、透き通った単純泉が、細身の体を快く出迎えて来る。
 骨身の奥にまで薬効がひりひり沁み通っていくような感覚に、文は自分が消耗しきっていたことを改めて思い知らされた。
 浴槽の壁にもたれかかる。木目の波打った天井だけが視界に入り、薬湯が湧く音だけが湯屋を響く。静寂と温熱が、時間を忘れさせるように文を誘う。
 こつん、肩に小さくぶつかる感触。丸い何かが、湯の上をぷかぷか転がっているのが見える。橙黄色の電球が湯気にぼやけた仄暗い空間にあって、この明黄色は目を引く存在だった。
 ちょっとでこぼこしてて、堅くくすぐったい肌触り。そして、ほんのり、酸味のこもった優しい香り。あぁ、やっぱり。これは柚子だ。
「…そういえば、今日は冬至だったわね」
「今さら気付いたの?」
 木扉が引かれる音と共に、快活な声が返った来る。霊夢の声だ。
 …そういえばさっき、後で自分も入るわ、みたいなことを言っていたっけ。
 未だ気まずさに小さく目を俯かせながら、文は手に持った柚子を再び薬湯に転がす。ころころ呑気に浮かんでいった明黄色の果実は、別の果実にぶつかって、また別の果実にぶつかって。それこそ夕刻の温泉街のように、無数の柚子が自由に賑っている。
「ずいぶん、たくさん集めたのね」
「ふふん、凄いでしょ?これでも、良いものをって、頑張って走り回ったんだからね」
 得意げな返事と共に、水が木床で勢い良く散っていく音が聞こえだす。掛り湯で体を清めているのだろう。
 ざぱ、ざぱ、規則正しい音を伴奏に、ちょっと高めの鼻歌が弾んでいく。この子、お風呂入る時はいつもこうなのかしら、なんて疑問が、ぼんやり頭に浮かぶ。
「一度やってみたかったのよね~。湯舟を埋め尽くすくらいに柚子を浮かべるっての」
「あー…」
 間延びした話し方に、文もつられて相槌を打つ。
「それは、分かるかも」
「でしょ?けど、一人だけで浸かるにはなんか物足りないし気恥ずかしかったしさ」
 ちゃぷ、音と共に小さく柚子が転がる。ああ、もうここに入って来るのかしら、と、何気なく横を向く。

「そういう意味では、アンタが今日来てくれて良かったわ」

 多分、今日初めて、文は霊夢の顔をちゃんと見た。湯気のこもった仄暗い空間に、白い歯をくっきりと見せた笑顔が輝いている。
 …この子、今日こんなに綺麗だったんだ。
 ぽかんと見とれる文に構わず、霊夢は足先からゆっくり湯舟に浸かる。甘酸っぱい柚子の香りが、立ちのぼる湯けむりに乗って大きく発散していく。
「はぁ~~~~…沁みるぅ~…」
 長い長い吐息が何周も湯屋を巡り木霊する。さっきまで伸ばしていた背中はくたっと緩んで、流れるように浴槽へもたれかかって。すっぽり肩まで湯に浸からせた少女は、念願の柚子風呂を存分に堪能していた。
 顔を赤らめ、口を半開きにもにょもにょさせる霊夢に、文も口角を綻ばせる。
 そうよね。今日、霊夢はすごく頑張ったのだもの。今あったかい温泉に浸かったら、そういう顔にもなるわよね。
 自棄になってた私のために、あの豚汁を作ってくれて。外気に触れて寒かっただろうに、私が泣き止むまで、ずっと傍にいてくれて…
「…ごめんなさい」
 滴が水面に零れるように、文は呟いていた。
「何よいきなり」
 のんびりした声音に委ねたくなるのをぐっとこらえる。ふざけるな。甘えるな。けじめくらいはきちんとつけろ、射命丸文。
 拳を握りしめ、一度呼吸して。それでも、身体の底から押し出すように、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「迷惑、いっぱいかけた、から」
 ああ、駄目だ。もっともっと、言わないといけないことはあるはずなのに。何年も文字に向き合って来た語彙が、こういう時にまるで働いてくれない。じわり、傷に沁みるように、熱が胸の奥まで入り込んでいく。
「別に良いわよ」
 けれど霊夢は、そんな文をあっさり許してくれた。
「あんなに目の下を真っ赤にさせた文、なかなか見れるものじゃないもの。私からすれば、むしろ眼福だったわ」
「…忘れてもらう、というのは」
「却下。散々私のあることないこと記事にしておいて、そんな都合の良い話は通らないわよー」
 悪戯っぽく笑う霊夢は、けれど馬鹿にしたりだというか、そういう素振りは全く見せない。ただ、「自分が知らなかった」文に接することを、ただ前向きに楽しんでいる。こんな自分を、受け入れようとしてくれている。
 ほんの少しだけ、霊夢との距離が縮まる。間に漂っていた一個の柚子が、僅かに揺らめき、場を譲ってくれる。
「大体、あのアンタが湯治に出されるくらい、体調悪かったんでしょう?だったらあれくらい吐き出してもらった方が、こっちとしてはむしろありがたいの」
「それは…そう、だけど」
「それとも何?アンタ、温泉に来るたび、いつも無駄に気を張り詰めてた訳?」
「…」
「…はぁー…」
 ため息と共に、また一個、柚子が揺れる。背後に回った霊夢の掌が、文の両肩をゆっくりと支えて来る。
「道理で、こんなに体が凝り固まってる訳だ」
 一回、また一回、細やかな指が肩を揉み始める。鈍い痛みが、自分がどれ程無理をしていたかが改めて教えてくれる。あぁ、けどとてもあったかい。
「せっかくの機会だもの。こっちも一つ話してあげる」
 首筋を丁寧に指で押しながら、霊夢が話しかけて来る。

「私、いつかアンタを滅ぼしてやるって決めてるの」

 およそこの空気の中で発せられるべきではない告白に、つい噴き出してしまう。
「穏やかじゃないわね」
「あんな有害な紙屑ばら撒いてるんだもん。当たり前でしょ」
「へぇ。私としては、ちゃんと『真実』を伝えているはずなのだけど」
「ほざけ。ちょっとでも良からぬ企みを記事に書いてみなさい。いつでも飛んでけるようにこっちは準備してるんだから」
 傍から見ればあまりにも物騒な会話を、まるで近いうちにどこか出かけよう、なんて会話しているかのような明るさで続けている。これが私たち。こんな弾の投げ合いしている時が、やはり一番楽しい。
「けど、さ」
 ぽつり、霊夢の声が細くなる。文が目の前にいるのを確かめるかのようにように、肩にくっつけた掌を、骨ばった背中へ移動させていく。
「こんなしょぼくれたアンタぶっ飛ばしてもさ、きっと私はすっきり出来ないのよ」
 今日を通してずっと頼もしい存在だった霊夢は、ここに来て初めて幼さを見せた。文が再び目を臥せそうになる間も与えず「だから、」と徐に霊夢は手を離す。

「誇り高き鴉天狗『射命丸文』とやらを、また私に見せてみなさい」

 小気味良い音が、湯屋に弾けていく。ほんの少し遅れて、自分の背中が強く叩かれたことに文は気付く。痛いわよ、もう。痕が出来ちゃうじゃない。
 けど…今の文は、背筋がしっかりと伸びてる。すごく、気分が軽くなっているのが分かる。
「良いのかしら?そんなこと言って」
「あー?」
 冬至。一年で昼の時間が最も短く、夜の時間が最も長くなる時期。けれど、ここを境に日が長くなることから、運気や生命力が上昇を始める時期であるともされる。
 ならば、自分も今は、この暦に乗っかってみよう。ただ「射命丸文」を回復させることに専念しよう。

「今ぶっ飛ばせば良かったって後悔しても、知らないわよ?」

 この子の全力に、また余裕を持って立てるようにするために。
「だーかーら」
 ばしゃり、一瞬だけ視界が遮られる。何が起こったか慌てて瞬きを繰り返すと、ぽた、ぽた、滴が垂れる音と共に、霊夢が揶揄うように笑っているのが見えて。

「そういう格好つけは本調子になってからにしろっての、ばーか」

 「やったわね」という買い言葉を契機に、ばしゃばしゃお湯のかけ合いが始まる。二人だけしかいない湯屋が、笑い声で一気に騒がしくなっていく。
 熱気も一層こもっていく空間の中で、柚子たちは波の端っこで見守るように身を寄せ合っていた。


***8***


 そこから先は、多分文が生きて来た中で、最も満たされていた時間だった。
 改めて、豚汁と、後はおにぎりだけが添えられた食卓を囲むことになって。ずっとおなかが空いていたのだろう、何杯も豚汁をお替わりに行く霊夢を見て、口許を綻ばせたり。
 「温泉にといえばこれ、て聞いたんだけど」という霊夢の好奇心から、狭い炬燵で小さな球を打ち合う遊びをやってみて。けれど、全く球がつながらない地味な時間が延々続いたものだから「やっぱり眉唾な情報なんて信用したら駄目ね」て二人して笑ったり。
 今日だけで、いっぱいいっぱい、想い出が紡がれていく。眠りにつく時まで、ずっと。
「どうせアンタ、今独りだと眠れないんでしょう?しょうがないから、傍にいてあげるわよ」
「へぇ。そういう霊夢こそ、本当は寂しかったりするんじゃないの?良いのよ、正直に言いなさい」
 ばちばち火花を散らしながら、けれどお互い当たり前のように、隣同士に布団を敷いて。あったかい毛布と、それ以上の安堵に包み込まれるのを感じながら「おやすみ」と瞼を閉じる。
「…うーん」
 喉から鳴らしているような小さな声が、微睡みつつあった文の瞼を、うっすらと開かせる。
「…んー…」
 また、聞こえる霊夢の声。膨大に蓄積された情報から瞬時に仮説を組み立てた文は、口を歪めながらそれとなく寝返りを打つ。夜闇に覆われた空間に、ぼんやり、あかりが灯っているのが見えて来る。
「だから、こう考えれば…んん、けどこれだとあっちが説明出来ないし…あれー…」
 畳の上には、一冊の本が広げられている。薄目で開いていても分かる上質な装丁。きっと、最近刊行されたというアガサクリスQの推理小説だろう。
 読んでいる霊夢は、とにかく難しそうな顔。鋭い視線が、一文字一文字まで見逃さないように、何回も行ったり来たり。頁をめくる手も、進んだかと思えばまたぱら。ぱら、返って来て、その繰り返し。ほら、分からなくなったからって、頭を搔かないの。せっかくの綺麗な髪が傷んじゃうわよ。
 駄目ねぇ。こんな時まで夜更かしをしちゃって。
 そもそも、横で客が眠っているってこと、ちゃんと分かっているのかしら?
「…何よ。ジロジロ見て来て」
「んー?別に」
 吐息が聞こえたのか、厳しい目のまま、霊夢がこちらを向く。
「相変わらず苦戦しているみたいねー、なんて」
「ふん。舐めないでちょうだい」
 そう揶揄ってあげれば、神経質に立っていた目くじらが、ますます濃く刻まれて。
「これでも、クリスQの小説は全て読んできたの。少しは推理力も身についているわ」
「ふーん?」
 ムキになって噛みついて来るのを軽くいなしながら、文は夕陽色の瞳を妖艶に揺らめかせる。
 良いぞ。ほんのちょっとだけ、調子が戻って来た。さてさて、次はどんな反応を見せてくれるかしら。
 悪戯心を働かせるのに夢中な文に、「そうだ」と霊夢は口端を曲げる。

「この前ウチで市場開いた時に浮浪者の身なりしていた人が紛れてたんだけど。あれ、アンタね?」

 ぴしり。余裕をつかみかけていた文の笑顔に、あっさりとひびが入った。
「な、何の話かしら?私は市場になんて行ってないわよ」
「誤魔化しても無駄。ちゃーんと気付いてるんだから」
 ぱたり、本を閉じて、霊夢がにじり寄る。
 柚子の強い香りが文の喉をからからに乾かす。それまで不機嫌だった栗色の瞳が、玩具を見つけたかのように無邪気に輝いていく。
「どーせ、また私のことでロクでもない記事出せないか見張ってたんでしょ」
「しょ、証拠はあるのかしら?証拠は」
 動揺のあまり、推理小説お決まりの台詞が出てしまう。大丈夫。自分の変装は完璧だったはず。霊夢はお得意の勘で言っているだけ。そういうのは証拠にならないから推理小説はご法度だ――そう言い聞かせる文へ勝ち誇った笑みを見せながら、霊夢はぴんと人差し指を立てる。

「その日着るものにも困る浮浪者ってのはね、あんな立派な帽子なんて被ってないのよ」

「…あ」
 ぽかん、と口を開く。あまりにも初歩的なミスに、呆けた表情が顔いっぱいに出てしまう。
 社会派ルポライターあやお気に入り、枯葉色のキャスケット帽が、頭に浮かぶ。清く正しい記者でいるためにいつも欠かさず手入れしている、誇りの帽子。それこそが、あの時の文には「ボロ」となってしまったのだ。
 反論を模索する。けれど、真っ白になった頭をどれだけ働かせたところで、言い訳に使える語彙はもう転がっていない。結局、文に出来るのは、霊夢の視線から撤退するように毛布へうずくまることしかなかった。
 …ちなみに、実は帽子について指摘しただけでは「浮浪者の正体が射命丸文である」ということの完全な証明は出来ていなかったりするのだが、それは別の話である。
「ね、ね、文」
「…」
「あーやってば」
「…何よ」
「わぁ。声低い」
 猫じゃらしを猫に向ける目で、霊夢は笑う。ころころ、鈴を転がしたような笑い声。気のせいか、白く若々しい頬はさらに艶が出ているように見える。
 眦(まなじり)を吊り上げ、文は再び毛布に引っ込む。楽しそうで何よりね。ふん。生意気だ、生意気。
「悪かったってば。あーや、出て来なさいよ」
「…」
「せっかくの機会なんだもの。もっと文とお話ししたいわ」
「…」
 そのお願いだけでのろのろ顔を出してしまうあたり、結局自分はこの子に弱いのだろう。
 まぁ、霊夢が喜んでくれるのなら、これくらい、なんということもない。うん。
「文は、小説とか読んだりするの?」
「それはまぁ、記者として作品を扱うこともあるから。それこそ、人里とかで話題になっているものは一通り通読したかしらね」
「あー。そういえば文、たまに新聞に書評載せてるものね。珍しく真面目で整った構成で作品を評価してて、びっくりした記憶があるわ」
「ちょっと。珍しくって何よ。私はいつも真面目に書いてます」
 ぼんやり、柑子色の灯りに照らされた顔で、睨めっこ。直後、互いに吐息を弾かせるように笑い合う。誰もが震えながら丸まっていく真冬の夜半にあって、なおも二人は寝物語に花を咲かせる。
「じゃあさ」
「うん?」
「文は、どういう作品が好きなの?」
「んー…そうね」
 それこそアガサクリスQ初め、名作と謳われる作品はきちんと読んできている。小説に対する見識も蓄積されているし、この小説はこの文章が良い、こういう場面が印象的だ、はっきり言語化出来る。けれどそれは、あくまで記者として読んだ、客観的な視点だ。
 …そういえば。ここしばらく、文は自分のために本を読んできただろうか。
 吐息だけが迷い込んでいく夜闇の中、霊夢は話題を変えたりすることなく、じっと文の返事を待ってくれている。そんな彼女の気遣いが、今はとてもありがたい。
 あの時。独り、ぼんやりと景色を見ているだけだった時間。本棚から取り出したのは、どんな作品だったかな…
「普段の日常を丁寧に描いている作品、かな」
「日常?」
 さらり、布が擦れる音。微かに強くなった柚子の香り。柔らかな霊夢の瞳に、文の顔がくっきり映し出される。
「例えば…そうね。ただご飯食べるだけのお話とか、いつでも会えるような友達とおしゃべりをするお話、とか」
「ふぅん…ちょっと意外かも」
「そう?」
「勝手なイメージだけど、文は大仰な事件が起こるような、派手な作品が好きなのかなって思ってた」
 くすくす、笑みをこぼす。そうね、記事を求めて飛び回っている様子を見られていたら、そういうイメージになるのも無理はないかも。けど、

「そういうのは、現実だけでお腹いっぱい」

 きっと、本当に文が望んでいるのは、そうではないのだ。
「変わり映えのしないように見える日常。けれど、そこに生きている一人一人にとっては、昨日とは全く異なる物語が進んでいる」
 例えば、昨日まで出会わなかったものを見つけたり、昨日まで知らなかったお話を聞いたり。何でもないように聞こえるきっかけが、実は彼らにとって重要な一歩目となることだってある。
「今その場所でしか見れない表情が、景色がある。何気ない出来事の中に、この人にとって宝物みたいな時間なんだなって――この頁の中に自分がいたなら、シャッターを押しているんだろうなって、思いを馳せる瞬間がある」
 誰かが変わるのに、大きな事件なんて、必ずしも必要ない。

「登場人物みんなの生き様が丁寧に捉えられた作品が、私は好きなの」

 …あ、と小さく声がこぼれる。忘れてしまっていた写真を手に取ったようなきらめきが、胸に広がっていく。
「…へぇ」
 聞こえてくるのは、ちょっと高揚した霊夢の声。柚子の香りも相まって、湯に浸かっているような心地良さが文を包み込む。文を見つめる霊夢の瞳には、仄かな光が、ゆらり、ゆらり、楽しそうに揺らめいている。

「かっこいいじゃん」

 じわ、と目頭が熱くなる。にやけてしまうのが抑えられない。慌てて口許を手で隠せば、ばくばく高鳴る鼓動が、余計に強く伝わって来る。卓上灯に照らされた耳は、きっと先っぽまで真っ赤にのぼせていることだろう。
 …そっか。こういうので良かったんだ。
「ね、おすすめの作品、今度貸してちょうだい。私も読んでみたいわ」
「それは良いけど…天狗文字で書かれている作品もあるのよ?霊夢には読めないでしょう」
「大丈夫よ。『博麗の巫女』として小鈴ちゃんに判読をお願いするもん」
「わぁ、ひどい職権乱用だわ。記事に書いてやろうかしら」
 まだまだ寝物語は続いていく。文が気に入っている作品の好きなところを語れば、霊夢は嬉しそうに頷いてくる。時折身を小さく乗り出して来る姿を見ると、ついカメラを取り出したくなってしまう。あぁ。こんな良い顔を、もっともっと写真に収めたい。
 …そうだ。私が写真を好きになったきっかけも、そうだった。
 あの時、自分には何もなかった。文字通り空っぽで、報道部隊として与えられたカメラも、ただ重い箱を持つように、だらりと抱えていて。そんな自分が初めて撮った写真は、何気なく空を見上げた時に飛んでいた雁だった。
 現像して出来上がったのは、ピントも合っていない、あまりに稚拙な写真。けれど、それを手に取った時の文は、ぼけた画像の向こうに、あの鳥が「生きている」姿を、はっきりと想起することが出来た。
 風との出会いを存分に楽しみ、青々と塗られた空を、高く、高く、雲を突き破らんばかりに羽ばたいている。この雁は、旅に命を賭けている。己を鼓舞するように、力強く鳴いている。それが伝わったからこそ、あの時文はシャッターを切ったのだ。
 もしかしたら、幻想郷(ここ)って本当は広大な場所なのかもしれない。もっと、自分の目でここを見てみたい。もっと、名も知らぬ生命とたくさん出会ってみたい――

 そんな胸いっぱいの願いを抱えて羽ばたきだしたのが、文の旅路の出発点だったのだ。

「それからね――…あら」
 いつの間に、話に熱が入ってしまっていたのか。視線の先には、文へ身を乗り出したまま、すぅすぅ寝息を立てている霊夢の姿。
 真っ直ぐな黒髪に、細指を通してみる。一撫でするだけで、ふわっと良い香りが空気に溶けていく。ほんの少しだけ高い体温が、文を何よりも安心させてくれる。くすぐったかったのか、僅かに眉を顰める寝顔は、柑子色の卓上灯に照らされて、愛らしい幼さを強調させていた。
「おやすみなさい、霊夢」
 もう一度だけ頭を撫でてあげると、そっと寝巻を整えてあげる。今日、誰よりも頑張ってくれていたこの子が温かく眠れるように、布団をかけてあげる。

「ありがとう」

 卓上灯が消え、穏やかな闇に満たされた部屋の中で、霊夢は嬉しそうに口許を綻ばせていた。


***9***


 冴え冴えとした銀灰色の空気に包まれた、真冬の朝。
 未だ降り頻る雪の中、博麗霊夢は一人、白に敷かれた参道を、真っ直ぐ歩いていた。
 一片、二片と牡丹雪が睫毛をくすぐる。けれど、幾度もの神事を経験し、既に立派な巫女として成長した霊夢は、その程度の戯れに決して怯まない。
 手にした三宝を神前にお供えする。神酒と柚子に囲まれるように置かれた三宝に乗っているのは、思い立って作ってみた、木彫りの鳥形。

 これから始まるのは、今もぐっすり眠っている鴉天狗、射命丸文のお祓いだ。

 机に立てかけていた大幣を取り出す。さらりとこすれる音と共に、古紙の匂いを仄かに感じる。きっと、この大幣を包んでいた『文々。新聞』のものだろう。今ではすっかり馴染みになってしまった匂いに、霊夢はほんの少しだけ、口許を綻ばせる。
 昨日通して、射命丸文のことを、ほんのちょっとだけ「見る」ことが出来た。
 傲岸不遜。性格最低。ことあるごとに記事で弄って来て、こっちを上から見て来る腹立たしい鴉天狗。
 けれどそれは、多分「射命丸文」の一面でしかなかった。
 そして私も、そのことにきっと気付いていたのだと思う。

 『何気ない出来事の中に、この人にとって宝物みたいな時間なんだなって――この頁の中に自分がいたなら、シャッターを押しているんだろうなって、思いを馳せる瞬間がある』

 『登場人物みんなの生き様が丁寧に捉えられた作品が、私は好きなの』

 私は、文の撮った写真は嫌いではなかった。
 どんなに記事の内容に腹を立てることがあっても、写真が目に入ると、つい惹かれてしまう。自分の写真がどこかにないか、つい目で追ってしまう。
 なんて表現すれば良いのだろう。文の写真は「生きている」のだ。
 この時、映っている人達は何をしていて、何を想っているのか。彼らにとってのありのままの姿が、そこには刻まれている。
 時間の一点を捉えた画のはずなのに、まるで話し声や風の音、その場の温度までもが、こっちにも広がって来るみたいで。
 きっと文は、幻想郷に住む皆が「生きている」そんな単純な真実を伝えることに、命を注いでいるのだ。
 けれど、「生きている」のは、文のカメラに収まる皆だけではない。

 射命丸文だって、ちゃんと「生きている」。

 迷い、途方に暮れ、それでもまた、諦めることなく自分の信じる前に向いて旅を続けている。
 それが出来る文は、むしろこの幻想郷で、誰よりも「生きている」のかもしれない。
 けど文は、それをなかなか見せたがらないから。深く積もった雪の底に閉じ込めるように、それを一人で抱えようとするから。
 だから、私は今、ここに立っている。
 大きく息を吸う。紙幣の一枚一枚が、鳥形を労わるように撫でるのが見える。

 本当は、文にもこの場に居てもらった方が良いのよ?
 なんなら、大々的に告知して、見世物にだって出来るものなのよ?
 けれど、アンタはそういうのきっと嫌がるだろうから、今回は特別。感謝しなさい。

 ほんのちょっとだけ微笑んだ直後、透き通った祓詞が、拝殿に響き始めた。
 溢れ出した言霊は、泡雪を掻い潜って、白い空いっぱいに広がっていく。けれどその声は、決して、穏やかに眠っている者たちの夢を邪魔することはない。ただ、思うがままに羽ばたいていく。もっと、もっと、一枚一枚の風切羽根が、伸ばすことが出来る限界の高みまで。
 大幣を振りながら、霊夢は真っ直ぐに詞を唱え続ける。体温のこもった呼気が、遮る雪を解かしていく。
 天狗へのお祓いなんて、きっと前例のなかったことだろう。けれど、上手く祓えるだろうかなんて、そんな不安は全くない。
 今、彼女が想うのは、たった一つだけ。

 どうか、この言霊が、射命丸文の旅路を、少しでも晴らしてくれますように。


***10***


 昼。雪かきを進めるために再び外へ出た霊夢は、目に入った景色に感嘆の息をついていた。

 幻想郷を閉じ込めていた雪雲は、まるで糸をほどいていくように和らぎ始めている。ぽつぽつと現れた晴れ間を眺めていれば、爽やかな薄青色の空が、だんだんと広がっていって。思えば、こうして晴れた空を見るのは、いつぶりのことだっただろう。もう、ずっとずっと見ていなかったかもしれない。
 凍り付いた雪に転ばぬよう気を付けながら、幻想郷(ここ)を一望しようと参道を駆ける。里を、山を、森を、日向が揺蕩い、照らし、きらきらと包み込んでいくのが見える。暖かな日差しをたっぷりと胸に吸いこんでいると、青空の彼方から、何やら大きな鳥が真っ直ぐ飛んでくるのが見えた。

「おーい、霊夢ー!」

 透き通った空気に乗った活発な声に、霊夢は緩やかに手を挙げる。
「おはよ、魔理沙」
 挨拶を返すと、ちょうどその悪友――霧雨魔理沙が、箒からにかっと笑い返してくるのが見えた。きっと黒い帽子を取ったら、金色に波打つ髪が、男まさりな笑顔をますます輝かせてくれるのだろう。そんなことを考えていると、魔理沙は「よっ、と」と、慣れた足つきで箒を止めた。
「スコップもう一つあるけど、雪かき手伝ってくれない?」
「悪いな。今の私は、空の雪と戯れるのに手一杯だぜ」
 羊白色のマフラーを整えながら、魔理沙は差し出されたスコップを突き返す。
 なーにが「雪と戯れるのに手一杯」よ。もう、雪もほとんど止んでいるじゃない。ちぇ、とわざとらしく舌打ちして見せると、何かを企むような笑顔で、魔理沙が身を乗り出して来る。
「聞いたぜ。文が今ここに来てるんだろ?」
「どこでそれ聞いたのよ」
「いやー、雪見のために山登ろうとしたら、たまたま狐と遭遇してな」
 山の狐…てことは、アイツか。
「だいぶ落ち込んでいるらしいと聞いて、見舞いに来たんだ」
「ふぅん。えらく殊勝ね」
「ま、これでも文には世話にはなってるからな」
 ほれ、と箒の柄にぶら下げていた経木を突き出す。タレの香ばしい匂いが、ほのかに食欲をくすぐる。…あぁ、これ、里の甘味処で売られている団子だ。お茶にとても合うからって、文も好んで食べていた記憶がある。
 …そういえばコイツ、山に侵入した時は、いつも文の世話になっていたんだっけ。団子と魔理沙をじろじろ交互に見返す霊夢の様子に、魔理沙はこっそり苦笑する。
「文は中にいるのか?」
「まぁね。けど、今はそこから出てこれないと思うわ」
「ふぅん…」
 障子が閉じられた居室の方へ、魔理沙はぼんやり視線を向ける。黄金色の瞳にこもっているのは、心配が三割、好奇心が七割、といったところだろうか。
「…見てみる?」
 突然の提案に、魔理沙はびっくりしたように目を丸くさせる。しばらく怪訝そうに霊夢を見つめ「…まぁ、見舞いのために来たんだからな」と曖昧に頷くと、そのまま霊夢の手が、魔理沙の腕を引っ張り出す。いきなりのことに滑らないか肝を冷やす魔理沙に対し、霊夢は弾んだ足取りのまま、障子の前まであっという間に辿り着いた。
 雪一片あるかないかくらいの距離、ほんの僅かに障子が開かれる。何故だかごくり、緊張で唾を飲み込みながら、魔理沙は隙間から部屋の中を覗きこむ。

 文は、炬燵に足を潜らせていた。臙脂色のどてらを身に纏い、身体を温めている姿だけを見れば、ただの湯治客といったところ。
 けれど、夕陽色に照り付けている瞳には、猛禽の眼光が宿っていた。
 辺りを見渡してみると、文字の詰まっている原稿用紙が、畳の上に何枚も散らばっている。きっと、十枚や二十枚では足りない。文がここに来たのは昨日、と聞いているから…まさか、あれだけの発想を、たった一日のうちに巡らせたというのだろうか。そして、それでもまだ満足しないとばかりに、愛用の万年筆を紙面に踊らせていく。
 ぴたり、手が止まる。少しくたびれたように、大きく息をつく。いつもよりも顔色が少し青白く見えるのを考えると、まだまだ本調子とまではいかない、ということだろうか。
 だが、葛藤と戦いながらも、その口許は確かに笑っている。魔法を求め続ける人間である魔理沙にとって、その顔には覚えがある。己の手で表現することに、心の底から喜びを見出している者の顔だ。
 今、魔理沙が見ているのは、紛れもなく一人の新聞記者、射命丸文。
 挫折から再び立ち上がり、己の道を歩もうと手を伸ばす、誇り高き鴉天狗だった。
「ふふん、残念だったわね」
 思ってもいなかった光景に唖然としている魔理沙に、霊夢は声をかける。

「アイツが本当に弱った姿を見れたのは、私だけよ」

 何故だろう。今向けられてる霊夢の笑顔が、ものすごく眩しく見える。後ろに積もっている雪が、日差しを反射しているからだろうか。
「…お前なぁ」
 片手で帽子を直しつつ、魔理沙は小さくため息をつく。
「ほんっと、そういうこと何も考えずに言うんだもんなぁ」
「?」
 きょとんとした反応を見せる霊夢に、魔理沙は困ったように微笑んでみせる。
 やれやれ。どうやら、とんだ取りこし苦労だったみたいだ。
「じゃあな。今日のところは引き上げることにするぜ」
「あら、もう良いの?」
「あぁ」
 流れるように箒にまたがると、にかっと白い歯を見せる。

「『恋色の魔法使い』として、これ以上『お邪魔』する訳にはいかないからな」

 それだけを言い残すと、魔理沙は思いっきり地面を蹴った。旋風と共に風花をちらちら後ろにまき上げながら、空の向こうへあっという間に姿を消していく。本当、忙しない奴――服を直しながらそう首を傾げていると、かたかた、後ろで障子が開く音がした。
「霊夢?何かあったの?」
 中から文が霊夢に問いかける。警戒するように眦(まなじり)が吊りあがっているのが見えて、霊夢はおかしそうに笑う。
「魔理沙がお見舞いに来てたの。これ、アンタにって」
 ぽん、と魔理沙からの品を投げ与える。僅かな匂いから中身を悟ったのだろう、手に取った刹那、目を微かに輝かせる。あ、また一つ、珍しい反応が見れた。この団子、私も神社に常備しておこうかしら。
「あれ。その魔理沙は?」
「さぁ。急用が出来たって、さっさと帰っちゃったわよ」
「はぁ?…本当あの子と来たら、落ち着きというものがないわね」
 口を尖らせながらぶつぶつ呟く様子は、そそっかしい子供の世話を任されたお姉さんのよう。へぇ。コイツ、魔理沙の前だとそういう顔も見せるのね。知らなかった文の姿を知るたびに、ちょっとした優越感が好奇心と共に膨らんでいく。
「ねぇ。ちょっと休憩にしない?」
 目を丸くさせる文に、霊夢はにこりと問いかける。空を覆っていた雪雲はすっかり解け、青々とした色が彼方まで広がっていた。

「お茶、淹れ直して来るから。そのお団子、一緒に食べましょ」


***11***


 週を跨ぎ、年の瀬。冷える空を温めるように、もち米を炊く煙が人間の里のあちこちから立ち上っている。
 冬至が訪れて以来、山間に位置する幻想郷の冬では珍しく、快晴の日々が続いていた。

「いつも置いてくれてありがとうございます」

 その一角に立つ貸本屋「鈴奈庵」で、緋色の風呂敷を持参した射命丸文が、にこやかに頭を下げる。
 湯治を経てすっかり気力を回復させた射命丸文にとって、今日は人里での取材活動を再開させる日でもあった。湯治での宿泊期間をフルに活用した博麗神社への密着記事を引っ提げ、すっかりはきはきとした笑顔で、店番の少女、本居小鈴と対している。
「こちら、本号の新聞になります」
「はい。こちらこそ、いつも助かってます…その…」
 ちらり、と視線を外す小鈴の表情を、夕陽色の瞳が捉える。幼さの残る葡萄(えび)色の目は小さく揺れ、口許はきゅっと結ばれている。ともすれば、何かに怯えてすらいるような。
 緊張に目を険しくさせる。この子は、ほんのちょっとした能力と好奇心だけで「我々の世界」に入り込んでしまった少女だ。それ故に、その小さな身体を脅かす魔の手が常に背後から伸びていることを、文は知っている。
「どうかなさいましたか?」
 低い地声を含ませながら問いかけると、ぴくり、小鈴は肩を震わせる。まさか、またとんでもないことに巻き込まれているのではないだろうか。そう身構えていると、意を決したように小鈴は顔を上げた。

「お身体はもう大丈夫なんですか…?」

 あまりに予想外だった質問に、文は刹那、口をぽかんと開けていた。けれど、すぐに何故小鈴がこんなことを聞いて来たのか、その意図に気付いた。
 文が小鈴と最後に会っていたのは、赤い雪の件で、己を曲げた記事を発行した時だった。あの時、文は出来るだけ誰にも自分を見られないように気を付けながら人間の里まで辿り着いた。けれど、鈴奈庵に置かせてもらう都合、この子とだけは顔を合わせるのを避けられなかったのだ。
 文は、どんな顔で鈴奈庵の暖簾をくぐったのだろう。それを見た小鈴は、一体なんと声をかけてくれただろう。それに対し、自分は何と返したのだろう。ちゃんと記憶がない。けれど、小鈴の性格と今見せている反応を考えれば、結論を導き出すのはあまりに容易だった。
 本当、駄目だな。自分のことで、たくさんの者を傷つけてしまった。小鈴や霊夢だけではない。はたても、おそらくは椛も。湯治から帰って来た後、二人に謝った時に椛から殴られた痛みが記憶に蘇る。

 『…こんな思いをするのは、二度とごめんだからな』

 …そうね。あんな姿は、もう見せる訳にはいかない。
「心配をかけてしまって、ごめんなさい」
 柔らかく声を掛けながら、小鈴の頭に手を置く。

「もう、大丈夫だから」

 ぐずる子供をあやしてあげるように、優しく撫でてあげる。いきなりの出来事に小鈴は目をぱちぱちさせながらも、髪飾りの鈴が鳴る音につい身を委ねてしまう。あぁ、物書きの人の手。古紙の匂い。どれだけ時間が経ったのだろう、文がやっと解放してくれた時には、気のせいか顔がちょっと熱くなっているように感じた。
「これからまた『幻想郷のために』記事をお届けします。来年もどうか、よろしくお願いしますね」
「は…はぃ…」
 すっかり元の笑みに戻った文は、そのまま手を振りながら、鈴奈庵を後にする。残された小鈴は、どこか夢見心地のまま、しばらくその場にぽーっと突っ立っていた。

 ぱしゃり。

 新たな年を見据えてにぎわう広小路で、一枚、また一枚とシャッターを切っていく。良い写真が撮れた手応えを久々に抱き、文は頬を綻ばせる。私にとっては、やっぱりこういう写真が一番だ。
 歩き続けていると、河原の辺りで、櫓が高く組み上げられていくのが見える。往来する人々の話を聞けば、年明けにあの櫓で神楽が披露されるらしい。気になって足を向けてみれば、重そうな建材を抱え足場を駆け上がっていく大工たちの傍らで、和楽器の付喪神姉妹「女子二楽坊」が、棟梁と議論を交わし合っていた。

 ぱしゃり。

 図面に目を輝かせる少女たちを、写真に収めていく。ここにいるのは、種族の別など関係なく、一つの祭のために、今を全力で生きている者たちだ。
 次の記事、これを特集しようかしら。主役たる彼女たちや大工だけでなく、たくさんの者たちが「祭」に集っているのだろう。彼らが抱いている信念とか背景なんかを取材して。一人一人の人となりを、「祭」を軸に立体的に紐解いていって。
 おそらく、決して派手な内容にはならないだろうけど。今の自分には、それで良い。むしろ、だからこそ面白いものが書けそうな気がして来るのだ。

「――これはこれは、奇遇ですなぁ。『社会派ルポライター』殿?」

 蜂蜜のように甘ったるい妖気が耳元をくすぐる。文だけに見せつけるため、慎重に、大胆に。瞬時にその持ち主を確信すると、緊張に身体を強張らせながら、声の方向へ振り返る。
「…貴方ですか」
 他の人間に聞かれぬよう注意を払いながら、文は低い地声で唸る。白を基調とした壺装束。市女笠を被ったその姿は、一見、高貴な旅人を連想させる。けれど、笠から覗かせている三日月色の瞳が、その旅人の正体が管狐、菅牧典であることを、文にはっきりと伝えて来た。
「すっかりお元気になられた様子。主も安心なさってましたよ」
「…おかげさまで」
 誘うような眼光に取り込まれぬように、文は視線をほんの少し厳しくさせる。
「早々、こうして取材に出られているとは。まこと、精が出ておりますねぇ」
「何故、典さんがこちらに?」
 空々しく持ち上げる言葉を聞き流しながら、文は真っ直ぐ本題へと切り込む。相変わらずつまらない返しをするお方だ、とでも言うように、典は大仰に肩をすくめる。
「主の命を受け、視察に参りました」
 乾燥した冬の空気に、ぴり、と電気が走る。漏れ出した警戒が、傍をすれ違う人間たちの肩を、僅かに震わせる。
「そんなに睨まれなくても。本当に、ただの情報収集でございますよ?」
 けれど、そんな威嚇などへっちゃらとばかりに、典は口角を歪めてみせる。冷静に思考した末、文も、ここでこれ以上追及するべきではない、と矛を収める。
 典の言う通り、今回は本当に「情報収集」に来ただけなのだろう。ただし、何の「情報」を集めているのかは分からないが…それをこの場で聞いたところで、業務上の極秘などとはぐらかされるのは容易に想像出来る。
 何より、決して易々と尻尾を見せるような方ではない。その点では、飯綱丸龍という大天狗を文は誰よりも信頼していた。
「それにしても」
 再び典が声を発したことで、文の意識が引き戻される。典の視線は、建設の進んでいる櫓へと移っていた。
「人間の里は、活気に溢れた良いところですね」
「…そうですね」
 しみじみとした詠嘆が、冬の空気に溶けていく。いつも聞くねっとりした囁きではない、少し低めの、けれど芯の通った声。おそらくこれが、典の本来の地声なのだろう。
「この活気が末永く続く社会が作れれば、これ程素晴らしいことはない――そうは思いませんか」
 三日月色の瞳には、夢に沸き立つような、うっとりした光が宿っている。典は、ただ飯綱丸の腰巾着としてへりくだっているだけの狐ではない。その「真実」を示す一端を、文は見ている気がした。

「絶対的に公正たる存在によって、全ての衆生に恵みの手が差し伸べられる。誰もが等しく庇護されて、満ち足りた表情を見せることが出来る。それこそが『祝福』されるべき幻想郷であるとは思いませんか?」

 その視線は、人々でにぎわう河原の、そのまた向こうを見つめているのではないか――そう文は考えている。おそらく、典が本当に見ている先は、空――それも、青空の彼方で夜の刻を待っている、星空だ。
 夜空に集う星々は、一見思い思いに散らばって輝いているように見える。けれど実は、北天に輝く一つの星を中心に、在るべき場所で弧を紡ぎ続けている。明るい星も、暗い星も、一つとして重なることもなく、不変の秩序の下、円を踊っていく。そして、中心の星――北極星は、迷える存在を照らす道標として、絶えず光を差し続けている。
 きっとそれこそが、典が夢想し、目指している幻想郷なのだろう。北極星となる存在――飯綱丸の手から、身分の出自などに拘らず適材適所の道を「恵まれて」進むことが出来る社会。
「…」
 それが実現するのなら、典の言う通り、とても素晴らしいことだろう。そもそも文自身「恵みの手が差し伸べられた」存在の一人なのだ。あの方ならきっと出来る――そんな期待もないのかと言えば、それは嘘だ。
 …けれど。
「その表情が、本当は空虚な仮面に過ぎないとしても、ですか?」
「…はい?」
 ぽつり、こぼすような疑問に、典は小さく睫毛を動かす。

「己の足で歩くことを止め、ただ願ったものを与えられるだけの生は、本当に満たされていると言って良いのでしょうか?」

 差し伸べられるままに与えられた居場所は、本当に自分の居るべき場所なのだろうか?
 敷かれた道筋のままに叶えられた望みは、本当に自分が願っていたことなのだろうか?
 それが当たり前になった者たちは、そんな疑問を抱くことすら、なくなってしまうのではないだろうか?
「…では」
 抑揚のない声で、典が文に問いかける。
「貴方にとって、あるべき幻想郷とは、どのような姿なのですか?」
 どれだけ時間をかけただろう。文は目を臥せ考え込んだ上で、ゆっくりと首を横に振る。
「――それはまだ、分かりません」
「分からないぃ?」
 乾いた笑いと共に、典は刹那、天を仰ぐ。
「なんと、愚かな…掠れた青写真すら、その身に持ち合わせていないとは」
 湧き上がる怒りが、三日月色の瞳をぎらつかせる。
「貴方はただ、あの方に難癖をつけたいだけだ」
 今にも噛みつかんと威嚇するように、犬歯を覗かせ唸ってみせる。

「あの方にもっともらしく反発し、それを『正義』と誤読して自己満足に浸りたいだけだ――そうだろう」

 飯綱丸様の眷属たる典は、文が飯綱丸様を貶めようと追跡を続けていたこと、その全てを把握していた。その結果、見事に負かされ、記事が書けなくなってしまったことも。
 けれど飯綱丸様は、そんな反逆行為を働いた文を助けようとした。文に再起の機会を与え、文が記者として何を書いていくべきか、「幻想郷のため」とは、「正義」とは何かを考える時間を設けてくれたのだ。それは、飯綱丸様が射命丸文という天狗を「高く評価している」からに他ならなかった。あぁ、本当、飯綱丸様はなんと慈悲深いお方だろう。
 それを、なんだ?まるで変わっていないではないか。結局、ただ気に喰わない存在に手当たり次第に噛みつき、しかもそれを認めたがらない、反抗期の雛鳥(がき)じゃないか。

 あぁ、呆れた。本当に呆れた。だから菅牧典は、射命丸文が嫌いなのだ。

「――きっと、そうだったのでしょうね」

 けれど、指摘された己の誤りに、文は素直に頷いた。思わぬ返しに肩透かしを喰らう典を他所に、文は真っ直ぐ姿勢を伸ばす。

「だからこそ――分からないからこそ、私は記事を書き続けるのです」

 その夕陽色の瞳には、櫓を組み立てている、今を生きる者たちだけが映っている。
「『真実』というのは厄介なものでしてね。どのように磨いたとしても、自分の思い巡らせた通りにはなかなか光ってくれないものなのです」
 まして、万人に対して都合の良い真実など、決してありはしない。完全に繕ったように見えても、誰も見ていないところで密かに泣いている者は、どこかに存在する。
 例えば、ここで楽しそうに櫓を立てている者たちの中にも、本当は今、途方もない悩みを抱えている者がいるのかもしれない。それは、ただ頭で構想を練り上げているだけでは、決して分からない。
 ならば、自分に出来ることは、一体何か?
「今を生きる一人一人へ自ら足を運び、様々な立場から耳を傾ける。その積み重ねで見えて来た『真実』と真正面から向き合い、啓蒙していく」
 結局、自分に出来ることはそれしかないのだ。それがどんなに回りくどいことだとしても、小さなことだとしても、射命丸文は、決して無視することが出来ないのだ。

 だって射命丸文は、幻想郷が――幻想郷に生きている者たちが、何よりも大切なのだから。

「十について取材しても、記事に出来る程の『真実』など一にも満たない。本来、記者活動とはそういうものだと思います。けれどそこに至るまでに見聞きしたものは、決して無駄になどなりません」
 典は問うた。幻想郷のあるべき姿は何だと考えるか、と。難しい問題だ。一介の天狗に過ぎない文が考えたところで、結論を出すことなど出来ないのかもしれない。もしかしたら、典が言っていた通りの姿が、正しいのかもしれない。
 けれどそれは、今ここで歩みを止めて良い言い訳には、決してなりはしない。今を生きる者たちとの出会いを重ねた先に「真実」は必ず待っている。たくさんの試練を経た先に、「正義」とは何か、己の命題を見極めることが出来る。文は、そう信じている。
「だからこそ、あらかじめお伝えいたしましょう」
 夕陽色の真っ直ぐな瞳が、典へと向けられる。

「今後も貴方がたの動向は、高い関心をもって追跡させていただきます」

 典はしばらく何も言わず、ただ文をじっと見つめ返す。
 なるほど。つまりこの反抗期は、まだ「足りない」と駄々をこねているのか。飯綱丸様の目指されている「幻想郷」が本当に正しいのか、納得出来るまでもがきたい、と。
「…その忠言、しかと主にもお伝えしましょう」
「ありがとうございます」
 ただ一言のみを交わし、文は一礼と共にその場を去っていく。どこまでも無礼な背中に小さく鼻を鳴らしつつ、典も反対の方向へ歩き始める。
 良いだろう。そこまで言うのならば、せいぜい気が済むまで取材を重ねれば良い。典はただ、堂々と飯綱丸様の命をこなすだけ。どれだけあの記者が追いかけて来たとしても、正面から躱し続けるだけだ。

 飯綱丸様は正しい。それこそが、典にとって不変の「真実」なのだから。

「あ、るぽらいたぁのお姉ちゃん!」
 幼い声と共に、小さな影が典の横を駆け抜けていく。つられて振り返れば、文のもとに何人もの子供たちが小鳥のように集まっているのが見えた。
「こんにちはぁ」
「こんにちは。今日はもう寺子屋終わったのかな?」
「うん。今日はねー、寺子屋の『すす払い』して来たの!」
「みんなで頑張って、ぴっかぴかにしたんだよ、ぴっかぴか」
「そう!みんな良い子にしてたのね」
 子供たちの視線に合わせるように屈んだ文は、彼らの頭をわしわしと撫でている。…ふん、流石は「人間かぶれの天狗」だろうか。小さな子供を手なずけるなど造作もない、と言ったところなのだろう。一瞥した典が足を踏み出そうとした、その時。

「よーし。じゃあ今日は、お姉さんが一緒に遊んであげよっか!」

 太陽のように弾けた笑顔が、典の目に焼き付けられた。

 それまで毅然と伸びていた膝が、がくりと曲がる。足下の地面が揺らぎ崩れていくような不安に、三日月色の瞳を翳らせていく。
 こんな顔、典だって見慣れているはずだった。天狗社会では、飯綱丸様から恵みをもたらされた天狗たちの満たされた顔が、当たり前のように見れる。認めたがらないが、あいつだってその一人なのだ。お前が今そうして表情豊かでいられるのも、全て飯綱丸様の庇護に包まれているからだ。…そのはずなのだ。
 けれど、あんなに澄みきった顔を、他の天狗たちは見せたことがあっただろうか?
 …駄目だ。「笑っていた」ことは覚えている。けれど、飯綱丸様に庇護された天狗たちが「どのように」笑っていたのか、言語化することが出来ない。誰一人として、典の記憶には残されていない。
 …そもそも。

 私は、どうなのだ?
 私は今まで、どのように笑っていたんだ?

 『その表情が、本当は空虚な仮面に過ぎないとしても、ですか?』

 うるさい。うるさい。黙れ。今すぐに黙れ!そう叫びたくなる衝動をぐっとこらえながら、典はその場を後にする。

 『己の足で歩くことを止め、ただ願ったものを与えられるだけの生は、本当に満たされていると言って良いのでしょうか?』

 一刻も早く離れたいと、踏み出す足をだんだんと速めていく。けれど、その問いかけは、一本の征矢(そや)のように、典の心をえぐり続けて。あの笑顔が映し出される度に、どくどく、昏く塗り固められた感情が漏れ出していって。

 ――飯綱丸様。

 剥き出しになった牙を見られぬように、笠を前に傾ける。幾人もの通行人にぶつかるのも構わず、前へ前へと我武者羅に駆け抜けていく。影となり隠れた獣の眼は、めらめら狂気に燃え上がっていた。

 ――やはり、あの「反逆者」は消さなければなりません。

 覚えておくが良い、射命丸文。獣が真に獰猛となるのは、獲物を狩る時ではない。
 己の縄張りを踏み荒らされた時なのだ。


***12***


「こらぁーーー!」

 雲一つない白昼の青空。なおも櫓の建設ににぎわう河原に、元気いっぱいの声が響く。
 思った通り。そろそろ、来る気がしていたわ。子供たちが皆目を丸くさせる中で、射命丸文は口角を上げる。
「ちょっとアンタ!こんなところで何やってるのよ!」
 文は少し弾んだ調子で立ち上がると、準備した微笑を声の主――博麗霊夢へと向ける。すっかり見慣れた紅白の巫女服に、辛子色のマフラーを巻いた冬仕様。口はすっかりへの字に曲がっていて、細い眉には皺が寄っていて。やれやれ。これでは整った顔が台無しだ。
「何って、ただ子供たちと遊んであげているだけじゃない」
 敏感な場所を敢えてくすぐってあげるように、文は肩をすくめてみせる。ほら、この子と来たら、この返事だけでますます視線を厳しくさせちゃって。本当に分かりやすい。
「これでも私、面倒見に関しては親御さんからも評判良いのよ?」
「騙されないわよ!」
 びし、と大幣が鼻先に真っ直ぐ突き付けられる。あぁ。この子の目は、どこまでも綺麗に透き通っていて、本当に気持ちが良い。
「そんなこと言って、また変なことをこの子たちに吹き込もうとしているんでしょ!」
 ちらり、横目で辺りを見回す。そういえば、往来で霊夢に遭遇したのは、いつぶりだったかしら。子供たちだけでなく、それまで櫓を立てていた者たちまでもが、我々のやり取りに釘付けになっている。
 にやり、意地悪に口許を歪める。視線を指摘して、羞恥に赤らむ霊夢を見るのも良いけど…せっかくだ。今回はとことん見せつけてあげましょう。
「そうね。今日は、鬼ごっこして遊びましょうか!」
 再び子供たちの目線に合わせ、文はしゃがみこむ。そして、霊夢を指し示すように左目をウィンクさせながら、一言。
「こわーい鬼巫女様に捕まらないように、みんな気を付けるのよ?」
 文の意図をすぐに悟った子供たちは、いたずらっぽく笑いながら、元気良く頷いてみせる。みんな、本当に賢い子ね、と代わる代わる頭を撫でてあげる傍らで、霊夢はわなわなと拳を震わせていた。
「だ・れ・が、」
 赤鬼へとモードチェンジしていく少女の様子に、さぁみんな、そろそろ始まるわよ、とばかりに視線を合わせる。

「鬼巫女ですってぇーーー!!!」

 咆哮を合図に、霊夢との鬼ごっこが始まる。久方ぶりに目にした追いかけっこの光景に、二人を見ていたいた人々もほっこり、温かい気持ちに包まれていく。
「ごらぁー!待ちなさぁーい!アンタ達まとめて、その態度叩き直してあげる!」
「そんなこと言われて待つ者はいませーん。ほらみんな、大丈夫?ちゃんとついて来るのよ」
 子供たちを引き連れてなお余裕の表情を見せつつ、ちらり、文は後ろを振り返る。刹那、お互いに視線が合うと、霊夢の口許が、ほんのちょっとだけ優しく綻んだように見えた。

 『私、いつかアンタを滅ぼしてやるって決めてるの』

 『けど、さ。こんなしょぼくれたアンタぶっ飛ばしてもさ、きっと私はすっきり出来ないのよ』

 『だから、誇り高き鴉天狗『射命丸文』とやらを、また私に見せてみなさい』

 あの柚子湯で霊夢に言われたことが、背中を押してくれている。
 自分のことをはっきり見てくれるという安心感が、文の活力を漲らせていく。
 良いわ。これからまた「射命丸文」として、大きく羽ばたいてみせる。
 だから本当に私をぶっ飛ばしたいのなら、貴方もしっかりついて来なさい。楽しみに待っているわ。

 文はしっかりと霊夢に微笑み返すと、陽光に眩く照らされた道を、真っ直ぐに駆け抜けていった。
たくさんの試練と挫折にへこたれることなく、なおも護りたい者のために葛藤と空回りを続ける、およそ千年生きている天狗に見えない射命丸文が大好きです。
射命丸文には幸せになって欲しい。今後も原作供給を楽しみに待っています。
UTABITO
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コメント



0.140簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
3.100名前が無い程度の能力削除
弱っている文と慰めつつ発破をかける霊夢が良かったです。
6.100KoCyan64削除
登場人物一人ひとりの感情の重さが垣間見えて良いですね!!
特に文と霊夢、お互いの本音で会話しているとことがおもわずほっこりする作品でした。