初夏。清水迸(ほとばし)る渓流で、翡翠(かわせみ)が青の残像を走らせる。
飛ぶ宝珠と名高い彼の飛跡を追って幽玄なる山を抜ければ、蒼の空間に案内されたかと錯覚するような田園が広がっている。秋の収穫を願い引き入れられた水は眩い陽光にきらきら波打ち、生命の活発な営みをこちらにも伝えて来る。
からりとした暖気を揚力に翼を滑らせれば、木造の家々が立ち並んだ小さな集落が、地平の彼方に顔を出す。その境を示す垣根には、夕月に紛う白い卯の花が、我も我もと己の存在を主張していた。
元来、卯の花は魔を祓うとされる花。あれだけ威勢良く咲きこぼれていれば、きっとあの内にいる者たち――里の人間たちが怪異に攫われることのないよう、目を光らせてくれることだろう。
ふふふ。これは頼もしい。
…それに比べて。
「この子と来たら、本当相変わらずね」
集落を抜け、さらに東へ羽ばたいた先に辿り着いた神社。来訪者が翼を畳み穏やかに着地してみれば、本来垣根の卯の花を担うはずの巫女が、座布団を枕に居眠りしていた。
規則正しい寝息。視線を合わせてみれば、寝息と共におなかが緩やかに上下しているのが見える。
暖かな日差しと涼やかなそよ風を毛布に寝返りを打つ姿は、とても気持ち良さそう。
ふむふむ。これは、次の一面は、これで決まりかしらね?
来訪者は、巫女の影にならぬよう気を付けながら接近すると、カメラの照準を映し甲斐のある顔に合わせて。
ぱしゃり。
シャッター音が聞こえるか聞こえないかその刹那、ぱちり、巫女――博麗霊夢の意識が覚醒する。
さっきまでのふわふわした空気はどこへやら、まるで妖獣の気配でも察知したかのように体を起こすと、鋭い怒気を目に大幣を構える。もしも今、気まぐれな参拝客がたまたま居合わせていたなら、それこそ熊と遭遇した時の反応を見せ一目散に逃げ出していたことだろう。
けれど、この訪問者にとっては、そんな巫女の反応すら愉快で仕方なかった。うんうん、今日も元気そうで何より。
「あら。おはよう、霊夢?」
声が聞こえたようで、巫女が素早くこちら――射命丸文に顔を向ける。
さてさて、今日は貴方はどんな反応を見せてくれるのでしょう?このまま怒りに任せてこちらに飛び掛かって来る?それとも、白い牙を剥けながら吼えて来る?
ふふふ、とても楽しみ――そう胸を弾ませつつ待っていた次の反応は、しばらく経っても来ない。
「…霊夢?」
こちらを見つけた霊夢の顔は一転、ただただ口を半開きにして呆けていた。
すっかり固まってしまった霊夢の顔に、射命丸文は小さく首を傾げる。
まだ眠気が取れていない…なんてことはなさそうね。さっき電光石火の反応を見せてた訳だし。
栗色のどんぐり眼は、文をじーっと見つめている様子。試しに一歩横に跳ねてみると、口は半開きのまま、視線だけがこちらを追いかけて来る。なるほど。この子の反応のきっかけは、どうやら自分にあるらしい。
はて。何かあったかしら――顎に指を当てる。柔らかな体温とは明らかに異なる、革のような硬さが、文の皮膚に伝わる。その違和感に掌を視線の先にまで運んで、やっと文は原因に辿り着いた。
「…なるほど」
二度、三度と頷く。そうだった。この姿はこの子に見せたことがなかったわね。
さて、今の文の格好を説明しよう。ぴしっとしたワイシャツに紅葉色のネクタイ、その上に浅葱鼠のベスト。そして一本真っ直ぐ筋の通ったスーツパンツを履いている。眉目秀麗、中性的な顔立ちを持つ文に合わせて仕立てられた、アリス・マーガトロイド嬢によるオーダーメイド。そして手には、指だけが空いた黒い手袋。肘までまくられた袖も相まって、整った外見に活動的な空気を出していた。
試しに一歩、また一歩、霊夢へと近付いてみる。ただ恍惚とした様子で、こちらに向き続ける栗色の瞳。はー…と吐息に交じりに聞こえる感嘆の声。若々しく艶のある頬は、なるほど年頃であることを差し引いても少し赤らんでいる様子。
嗜虐心がむくむく膨らんでいくのを感じる。全く、これが博麗の巫女が見せる姿なのですかね?ほら、もう手が届くところまで恐ろしい天狗が接近しているのに。
「霊夢…?」
ふわり、空気に溶かすように、耳元で囁いてみる。返事代わりにぴくっと肩を跳ね上げる反応を楽しみながら、射干玉の柔らかな髪を優しく搔き上げてあげて。
「どんな顔してるの…?見せて…?」
刹那、止まっていた時間が、反動となって霊夢の全身に降り注いだ。
ぼぼぼん!と噴火させんばかりに顔を真っ赤に染めると、文が堪能する間もなく、勢い良く肩を突き飛ばす。そしてそのまま、文と少しでも距離を取ろうと、居間の壁際まで素早く後ずさっていく。ご丁寧に、表情を見られないよう、白妙の袖で顔を隠して。
「…ふふ」
気高く花を咲かせる百合を連想させる立ち姿を崩さぬまま、文は妖艶な笑みをこぼす。耳に残る声をかき消そうとするように、巫女服の袖が乱暴に振るわれる。けれど、その反応すら文の機嫌を高揚させる結果にしかならない。
あぁ、貴方という人間は本当に飽きがたい。たったこれだけのことで、こんなにも面白い顔を見せてくれるだなんて。
「わ、わざとやってるでしょ!」
「ええそうですとも。これを素でできるほど鈍くないわ」
滲んだ目尻を指で拭いながら、文は居間へと上がり込む。角っこに縮こまりながら頑張って威嚇する霊夢の姿は、まるで子猫のよう。
「だから貴方が今どんな顔してるのかも予想がつくのだけど……」
霊夢の前で膝を立てれば、ちらり、白い袖から栗色の瞳が覗く。けれど、こちらの姿を認めるや否やすぐ目を大きく見開いて、また袖に引っ込めて。そんな霊夢を逃がさないとばかりに、文は再び耳元まで顔を近付ける。
…あら、すごい。ばくばくとした鼓動がこっちまで聞こえてくるわ。
「私が言い当てたところで無粋と思わない?ねぇ、霊夢?」
刹那、白い袖が文の視界いっぱいに広がる。それもお見通しとばかりに、ひらりと回避。憎たらしい敵に当たらなかったことに憤慨した霊夢の手足が、そのまま無我夢中に振るわれる。
「うっさいうっさい!アンタが思ってるような顔なんてしてない!」
「あやあや、本当に分かりやすいことで」
そもそも、せっかく見られたくない、と袖で隠していたというのに、真っ赤なままの顔はもうすっかり露になっている訳だけど。この子はそのことに気付いているのかしらね?怒りのままに躍動する赤色のリボンに視線を向けながら、くすくす笑い続ける。
「ほら、そんなじたばたしたらお似合いの服がしわくちゃになっちゃうわ」
「いらないわよそんなお世辞!」
ぴたり。宥めようと差し伸べていた文の手が、空で止まる。
「ふーん?」
「…!?な、何よ」
平坦な文の反応が、暴れていた手足の動きを躊躇わせる。すかさず文は小さな体に潜り、正面から霊夢の顔を見据える。真顔のこちらが映っている目には、潤んだ涙のせいか、光がきらきら揺らめいていた。
「私がお世辞でそういうことを言うと、本気でお思いで?」
ほら、立って、と文が促す。ふわり、そよ風に浮かされたかのように、ゆっくりと霊夢が立ち上がる。その様子を見た文は初めて柔らかく微笑んでみせると、慣れた手つきで、乱れた巫女服を直し始めた。
まずはスカート。裾に親指と人差し指をかけて、崩れてしまった折り目を綺麗に真っ直ぐに。
「…じゃあ何だってんのよ」
「それ言わせるんです?手間のかかる巫女だこと」
文は呆れたようにため息をつくだけ。初夏特有の穏やかな陽気が、二人のまわりでふわふわ漂っている。
次は上の服。暴れて出来たのだろう皺を一つ一つぽんぽんと伸ばしてあげて。胸元の黄色いリボンが緩んでいると見るや、その結び目も器用に結い直して。
「呆れたんならもうこんなことやめれば良いでしょ」
「残念。そういう駄目駄目な巫女ほど愛着が湧くというか構いたくなるというか、導いて差し上げねばというか…」
糸を紡いでいくようにゆるりと呟きながら、文はこちらへ視線を合わせる。互いの呼吸が届く距離。真っ直ぐな眼光。反射的に固まる霊夢に文は構うことなく、右側へとくたびれたリボンに手をかける。
どうしてだろう。こんな真正面にいるはずなのに、文がどんな顔をしながらリボンを直しているのか判然としない。代わりとばかりに、ふわり、切ない香りが頭を満たしていく。ちょうどこれからの季節に咲く、橘花の清楚な香り。
形の良い指先が黒髪に触れるのも分かる。ちょっと、くすぐったい。というかコイツ、なんでわざわざ結び目が見えにくい正面から直してるのよ。そこは後ろから結いなさいよ。
けど…なんだかこういうのも良いかも。だんだん胸が満たされていくのに従って、もっと掌を感じたくて、重心を後ろに――
「ほら、直りましたよ」
溌溂とした声に、はっと我に返る。今度は、満足そうに目線を緩めるソイツの顔が、はっきりと映る。
戸惑うこちらを前に、文は鞄から手鏡を取り出してみせる。深紅色の蝶々が、射干玉の髪にひらひら、優雅に座っていて。ずっと着慣れていた巫女服も、まるで仕立てられたばかりのように、しゃなりと艶を揺らめかせていて。
黒革の手袋に包まれた手が、ぽんぽんと霊夢の頭に置かれる。
「うん。やっぱり貴方には、この巫女服が一番似合ってるわ」
柔らかな毛先が傷付けないよう気を付けながら、掌の体温を木洩れ日のように包み込ませる。リボンを直してもらった時とはまた違った心地良さを、また頭を前へと傾けてしまう。僅かな動きも見逃さなかった文の赤目が、ちらり、慈しむように揺れるのが分かった。
「むぐぐ」
頬を膨らませる。けれど、そんな態度を出しているのは顔だけ。結局、体は文の方へすっかり身を委ねている。
コイツは、こっちの気を引いては翻弄して、その反応をけらけら楽しんで見ているような悪い天狗だ。いつか滅ぼしてやる――何回も何回もそう決意させた、それ程ムカつく奴なのに。
ただ、気に入っているお茶で喉をぽかぽか潤した時のような。歩いていてふと、陽だまりに咲いている草花を見つけた時のような。
そんな、他の人間ならずっと前に通って来たのだろう温かな幸福に、霊夢は揺蕩っている。
どうして?どうしていつも、私はコイツに甘えてしまっているの?
どうして「手間のかかる」不出来な私を、文は抱きしめてくれるの?
私は、文に対して一体何を想っているの?
「…じゃあ、さ」
「ん?」
指の薫風に梳かされながら、ぽつり、声を出す。
気持ち良い。このままコイツの腕の中にいても良いかもしれない。むしろ、このままでいたい。
「私が誰にも文句言わせないくらい立派な巫女になって…"導かれる"必要もなくなったら」
けど。差し伸べられた腕を握り、ゆっくり頭から引き剥がしていく。
すぐに、胸を満たしていた幸福がちらちらと注ぎ落ちる。もっともっと、もう少しだけ、そう求める声が、霊夢の頭に響き出す。
けれど、それだときっと駄目なんだ。ぶんぶん邪念を振り払うと、目を丸くさせている文をしっかり見据える。
「アンタからしつこく付きまとわれることもない訳ね?」
「…」
ぽかん。射命丸文の反応を表現するのに、それ程ふさわしい言葉はなかった。
沈黙の居間には、小鳥の静かな寝息だけが聞こえる。睨めっこし合う視線の間を、気まぐれにそよ風が通っていく。
待てど待てど、文は口を半開きにさせたまま、文は指一本動かす様子がない。
「何よぼっとして。何か言いなさいよ」
これじゃあ、まるで私が間抜けなこと言い出したみたいじゃない。
整った眉を僅かに顰めながら、文を睨む視線を強める。じれったくなってそわそわ体が動いてしまう。
それでも、文は固まったまま動かなくて。もしかしたら怒らせることを言ってしまったかと苛立が焦燥へと変わり始めた、その時。
「…ぷっ」
それはまるで、音もなく膨らみ続けていた風船が破裂したかのようだった。
「あはははは!!!おっもしろいこと言うわね!!!」
高らかな笑い声は、狭い居間からあっという間に溢れ出すと、真昼の境内に響いていく。参道を照らす日向は白を増し、先程まで休んでいた鳥たちが堂々とした飛び姿を影に走らせる。
あぁ、最高。その言葉しかない。えぇ、そうね、間違いないわ。
貴方程の人間には、これから先にも、きっと巡り合うことはないでしょう。
「なぁにが面白いのよ」
「全部よ全部!」
眉尻をぴくぴく動かしながら詰め寄って来る霊夢に、文は喜びに満ちた視線を送る。
「私はいつも博麗の巫女を、ずっと離れたところから覗いて来た。幻想郷(ここ)を独りで護り続ける巫女を、ただ観察者として見守るだけだった」
艶々の黒髪からこちらをくすぐる若葉の香り。純粋たる清らかな人間のみに許され伝えられる僅かな香気は、今や文の肌に沁みつき、彼女に生気を与えてくれる。
けれど、文がその香りを胸に刻んだのは、実はそう昔のことではない。
「分かる?本来、我々天狗と巫女の距離ってそういうものなのよ?」
ほんの少し褪せた鳥居の朱色。幻想郷全てを包み込むような境内からの景色。規則正しく箒を掃いている音。
何百年も、何代にもわたって、射命丸文は博麗神社を訪れてきた。博麗の巫女と会話してきた。だから、今まで当たり前のように文は接してきたはずのもの。
けれど、それらが射命丸文の記憶に残るようになったのは――本当の意味で「身近」になったのは、つい最近のこと。
「それを――ははは!私離れが最後の最後とは、本当面白いですねぇ貴方という人間は」
団栗眼で顔いっぱいに驚きを出している、この巫女が生まれてからのことだった。
「な、何よ」
ふつふつ、霊夢の胸から熱いものが湧き上がる。ぶつけようのない怒りをこらえるように、拳がぐっと握られる。
何故だか安らぎを与えてくれる夕陽色の瞳。しなやかでとても力強い細腕。楽しそうに弄る時に口遊まれるヘタクソな鼻歌。
いつの間にか、どこかで求めるようになっていた「射命丸文」の姿。それが何を意味していたのか、霊夢は悟ったのだった。
「じゃあアンタがここにいること自体が、私が駄目な巫女であることを示してるってことになるじゃない!」
はー、やれやれ、そうわざとらしく首を横に振る文の態度が、ますます霊夢の感情を逆なでる。
「今さらお気付きになるとは、これは前途多難ですねぇ」
「何よ何よ!私だって頑張ればそれくらい」
「では、」
噛みつく前に詰め寄られ、霊夢は反射的に背中を仰け反らせてしまう。唇を三日月形に歪めた文は、僅かな冷や汗も見逃さない。
「目先の信仰のために軽率な言動を取らないと誓えます?」
「むぐ」
一回つついただけなのに、栗色の目が虚空へと泳ぎ迷い出している。まだまだ。
「決して文句も言わずお勤めに集中出来ます?」
「ぐう」
ふむ。既にぐうの音くらいしか出せる余裕がないらしい。まったくしょうがないですね、あと一回だけで勘弁してあげますよ。
「博麗の巫女として、時に孤独になるお覚悟は」
「うぅ…」
けれど、情けをかけたにも関わらず、怒りに震えていた肩はすっかり落ちてしまう。あまりにも呆気ない陥落。
「…ふふっ。やれやれ」
すっかり俯いてしまった後頭部を抱き寄せると、再び、艶をたたえた髪を撫で始めた。
柔らかな毛並みと少し高めの体温が、文の庇護欲を誘う。いつの間にか現出した黒い翼が、肩を温めるように包み始めて。
ちょっと目を離せばすぐにぐーたら、ロクに考えもせずひたすら感情のままに動き、うじうじ煮えきらないこともしばしば。間違いなく、文から見れば、まだまだ雛鳥のような巫女。
だけどそれは――がつり、撫でていた手首が再び握られる。
「するわ」
意地を張るように、しぼり出された声。けれど、手首越しに伝わる強い握力が、瞳の夕陽を妖しく輝かせる。
「…ほう」
「絶対よ」
「ほほう」
わざとらしく挑発してくる声音に眉を顰めながらも、霊夢は毅然と背筋を伸ばして文に向き直る。
「にやけてるのも今のうちよ。言質でも何でも取りなさい。私は本気よ」
「あらそうですか」
左手を口許まで運んだ気取った素振りで頷く文に、霊夢はさらにムッとする。
さて、いつ記事に出来るような面白いヘマをしてくれるのかしら――そうほくそ笑んでいそうな反応。
人を子供だと小馬鹿にしながら容易く聞き流す、いつも見せてくるような態度。
だからこそ、お約束通りに噛みつこうとしていた霊夢には、気付くことが出来ない。
平静を象っていた左手の裏で、文の口端がこっそり歪み出していたことに。
「では、これから貴方がいかに成長していくか密着取材でもしましょうか!」
あぁ、昂る。昂る。こんな幸せなことがあるだろうか。
「これなら、だらけ巫女を見張るにもピッタリですし?」
「!?ま、待ちなさいよ」
突然高らかに告げられた文の取材宣言に対し、動揺した霊夢は文の右手を離してしまう。そこからはあっという間、愛用の文花帖が鞄から取り出され、鳥の子紙一枚一枚が飇(つむじかぜ)の通り道となってめくられていく。
「それだとずっとアンタが付きまとうでしょ!意味ないわ!」
「当たり前でしょう?」
何を今更。私に「言質を取らせた」のは貴方自身。それが何を表しているか、気付いてないとは言わせませんよ?
「"これから"立派な巫女になる、貴方はそう誓った…ならば、それまでの様子をレンズで見届けるのが、観察者たる私の責務です」
貴方は――「博麗霊夢」は、己の導き手に「射命丸文」を指名した。
私を遠ざけるつもりが、逆に私が何よりも望んでいたものを、貴方は自ら与えてくれたのです。
「…ぐぬぬ」
ようやく自分の言ってしまったことに気付き、霊夢は刺すような視線で文を睨みつける。
そんな表情にすらにやにや笑みを返しつつ、文は一枚、写真をぱしゃり。
全く、ちょっと攻めに転じればすぐ隙を晒してしまうなんて、まだまだ。巣立ちまでの道のりは遥か彼方ね。
「さーてさて、善は急げ。早速記事にして、皆様に喧伝しなければ」
鼻歌を優雅に口ずさみながら、文花帖にさらさら万年筆を走らせていく。
ああ、この文花帖も、残りページが薄くなってしまった。この子と出会ってから、一体何冊の手帖が積み上がっていったことだろうか。
きっとこれからも、貴方は幻想郷からたくさんの愛を浴びて、真っ白だった紙面を色彩豊かに満たしてくれることだろう。
「それでは霊夢?」
「なによ」
拗ねていた霊夢の口許に、文はマイクを当てるかのように拳を差し出す。
「改めて、決意表明をどうぞ?」
腹立つ。その「なんでも分かってますからね」とでも言いたげな顔がとにかく腹立つ。そして、その通りにすっかり踊らされてしまった自分自身にも。
…ふん。良いじゃない。いくらでも書きなさい。どの道、この馬鹿に軽弾みなことを言ってしまったのは自分自身だ。その責任くらいきちんと取ってやろうじゃないの。
その代わり、アンタも覚悟なさい――紙幣の白が、横殴りに真っ二つ、空気を切り裂く。霊夢の大幣が文の喉元、羽根一枚に迫る間合まで突きつけられる。
「アンタも新聞も黙らせる」
もう一度、改めて言いましょう――私は「本気」だ。
ぞくり。偽りない眼光に射抜かれた文の背中に武者震いが走る。
「……ふ、ふふ」
滾る。秩序を保って流れていた妖気が、身体中で急激に沸騰する。溢れ出た神威の陽炎が、乱雲となって白昼の晴天を狂わせ始める。
それで良い。それでこそ「博麗霊夢」だ。
胸を張りなさい、霊夢。貴方は、この射命丸文が見初めた、初めての巫女なのだ。
絶対に、最高の「人間」へと貴方を導いてみせる。
「あっはははははっ!!!」
自らを呑み込み始めた影の冷たさに、霊夢は大きく肩を震わせる。背丈の何倍もあるかと思われる玄翼が、一人の人間を前に神々しく燃え広がっていくのが見える。稲妻走る逆光で表情すらまともに判別出来ない中で、黄昏色の瞳が、禍々しい赫き(かがやき)を持ってこちらを誘惑していた。
膝をついてしまう程の重い気を持ちこたえながら、霊夢は悟る。これから自分が立ち向かうのは、ふざけた紙を刷り続ける、ムカつく記者などでは決してない。
逢魔が時を司り、漆黒の風を自在に操る鴉天狗だった。
それでも、だからこそなおさら、自分がここで怯む訳にはいかない。雷雨の激しい轟きを大幣越しに受け止めながら、決意を新たに、文と視線を合わせる。
私は「博麗霊夢」――悪事を働く怪異の調伏こそ「博麗の巫女」として自分がなすべき使命なのだから。
「――楽しみにしてるわ。博麗霊夢」
飛ぶ宝珠と名高い彼の飛跡を追って幽玄なる山を抜ければ、蒼の空間に案内されたかと錯覚するような田園が広がっている。秋の収穫を願い引き入れられた水は眩い陽光にきらきら波打ち、生命の活発な営みをこちらにも伝えて来る。
からりとした暖気を揚力に翼を滑らせれば、木造の家々が立ち並んだ小さな集落が、地平の彼方に顔を出す。その境を示す垣根には、夕月に紛う白い卯の花が、我も我もと己の存在を主張していた。
元来、卯の花は魔を祓うとされる花。あれだけ威勢良く咲きこぼれていれば、きっとあの内にいる者たち――里の人間たちが怪異に攫われることのないよう、目を光らせてくれることだろう。
ふふふ。これは頼もしい。
…それに比べて。
「この子と来たら、本当相変わらずね」
集落を抜け、さらに東へ羽ばたいた先に辿り着いた神社。来訪者が翼を畳み穏やかに着地してみれば、本来垣根の卯の花を担うはずの巫女が、座布団を枕に居眠りしていた。
規則正しい寝息。視線を合わせてみれば、寝息と共におなかが緩やかに上下しているのが見える。
暖かな日差しと涼やかなそよ風を毛布に寝返りを打つ姿は、とても気持ち良さそう。
ふむふむ。これは、次の一面は、これで決まりかしらね?
来訪者は、巫女の影にならぬよう気を付けながら接近すると、カメラの照準を映し甲斐のある顔に合わせて。
ぱしゃり。
シャッター音が聞こえるか聞こえないかその刹那、ぱちり、巫女――博麗霊夢の意識が覚醒する。
さっきまでのふわふわした空気はどこへやら、まるで妖獣の気配でも察知したかのように体を起こすと、鋭い怒気を目に大幣を構える。もしも今、気まぐれな参拝客がたまたま居合わせていたなら、それこそ熊と遭遇した時の反応を見せ一目散に逃げ出していたことだろう。
けれど、この訪問者にとっては、そんな巫女の反応すら愉快で仕方なかった。うんうん、今日も元気そうで何より。
「あら。おはよう、霊夢?」
声が聞こえたようで、巫女が素早くこちら――射命丸文に顔を向ける。
さてさて、今日は貴方はどんな反応を見せてくれるのでしょう?このまま怒りに任せてこちらに飛び掛かって来る?それとも、白い牙を剥けながら吼えて来る?
ふふふ、とても楽しみ――そう胸を弾ませつつ待っていた次の反応は、しばらく経っても来ない。
「…霊夢?」
こちらを見つけた霊夢の顔は一転、ただただ口を半開きにして呆けていた。
すっかり固まってしまった霊夢の顔に、射命丸文は小さく首を傾げる。
まだ眠気が取れていない…なんてことはなさそうね。さっき電光石火の反応を見せてた訳だし。
栗色のどんぐり眼は、文をじーっと見つめている様子。試しに一歩横に跳ねてみると、口は半開きのまま、視線だけがこちらを追いかけて来る。なるほど。この子の反応のきっかけは、どうやら自分にあるらしい。
はて。何かあったかしら――顎に指を当てる。柔らかな体温とは明らかに異なる、革のような硬さが、文の皮膚に伝わる。その違和感に掌を視線の先にまで運んで、やっと文は原因に辿り着いた。
「…なるほど」
二度、三度と頷く。そうだった。この姿はこの子に見せたことがなかったわね。
さて、今の文の格好を説明しよう。ぴしっとしたワイシャツに紅葉色のネクタイ、その上に浅葱鼠のベスト。そして一本真っ直ぐ筋の通ったスーツパンツを履いている。眉目秀麗、中性的な顔立ちを持つ文に合わせて仕立てられた、アリス・マーガトロイド嬢によるオーダーメイド。そして手には、指だけが空いた黒い手袋。肘までまくられた袖も相まって、整った外見に活動的な空気を出していた。
試しに一歩、また一歩、霊夢へと近付いてみる。ただ恍惚とした様子で、こちらに向き続ける栗色の瞳。はー…と吐息に交じりに聞こえる感嘆の声。若々しく艶のある頬は、なるほど年頃であることを差し引いても少し赤らんでいる様子。
嗜虐心がむくむく膨らんでいくのを感じる。全く、これが博麗の巫女が見せる姿なのですかね?ほら、もう手が届くところまで恐ろしい天狗が接近しているのに。
「霊夢…?」
ふわり、空気に溶かすように、耳元で囁いてみる。返事代わりにぴくっと肩を跳ね上げる反応を楽しみながら、射干玉の柔らかな髪を優しく搔き上げてあげて。
「どんな顔してるの…?見せて…?」
刹那、止まっていた時間が、反動となって霊夢の全身に降り注いだ。
ぼぼぼん!と噴火させんばかりに顔を真っ赤に染めると、文が堪能する間もなく、勢い良く肩を突き飛ばす。そしてそのまま、文と少しでも距離を取ろうと、居間の壁際まで素早く後ずさっていく。ご丁寧に、表情を見られないよう、白妙の袖で顔を隠して。
「…ふふ」
気高く花を咲かせる百合を連想させる立ち姿を崩さぬまま、文は妖艶な笑みをこぼす。耳に残る声をかき消そうとするように、巫女服の袖が乱暴に振るわれる。けれど、その反応すら文の機嫌を高揚させる結果にしかならない。
あぁ、貴方という人間は本当に飽きがたい。たったこれだけのことで、こんなにも面白い顔を見せてくれるだなんて。
「わ、わざとやってるでしょ!」
「ええそうですとも。これを素でできるほど鈍くないわ」
滲んだ目尻を指で拭いながら、文は居間へと上がり込む。角っこに縮こまりながら頑張って威嚇する霊夢の姿は、まるで子猫のよう。
「だから貴方が今どんな顔してるのかも予想がつくのだけど……」
霊夢の前で膝を立てれば、ちらり、白い袖から栗色の瞳が覗く。けれど、こちらの姿を認めるや否やすぐ目を大きく見開いて、また袖に引っ込めて。そんな霊夢を逃がさないとばかりに、文は再び耳元まで顔を近付ける。
…あら、すごい。ばくばくとした鼓動がこっちまで聞こえてくるわ。
「私が言い当てたところで無粋と思わない?ねぇ、霊夢?」
刹那、白い袖が文の視界いっぱいに広がる。それもお見通しとばかりに、ひらりと回避。憎たらしい敵に当たらなかったことに憤慨した霊夢の手足が、そのまま無我夢中に振るわれる。
「うっさいうっさい!アンタが思ってるような顔なんてしてない!」
「あやあや、本当に分かりやすいことで」
そもそも、せっかく見られたくない、と袖で隠していたというのに、真っ赤なままの顔はもうすっかり露になっている訳だけど。この子はそのことに気付いているのかしらね?怒りのままに躍動する赤色のリボンに視線を向けながら、くすくす笑い続ける。
「ほら、そんなじたばたしたらお似合いの服がしわくちゃになっちゃうわ」
「いらないわよそんなお世辞!」
ぴたり。宥めようと差し伸べていた文の手が、空で止まる。
「ふーん?」
「…!?な、何よ」
平坦な文の反応が、暴れていた手足の動きを躊躇わせる。すかさず文は小さな体に潜り、正面から霊夢の顔を見据える。真顔のこちらが映っている目には、潤んだ涙のせいか、光がきらきら揺らめいていた。
「私がお世辞でそういうことを言うと、本気でお思いで?」
ほら、立って、と文が促す。ふわり、そよ風に浮かされたかのように、ゆっくりと霊夢が立ち上がる。その様子を見た文は初めて柔らかく微笑んでみせると、慣れた手つきで、乱れた巫女服を直し始めた。
まずはスカート。裾に親指と人差し指をかけて、崩れてしまった折り目を綺麗に真っ直ぐに。
「…じゃあ何だってんのよ」
「それ言わせるんです?手間のかかる巫女だこと」
文は呆れたようにため息をつくだけ。初夏特有の穏やかな陽気が、二人のまわりでふわふわ漂っている。
次は上の服。暴れて出来たのだろう皺を一つ一つぽんぽんと伸ばしてあげて。胸元の黄色いリボンが緩んでいると見るや、その結び目も器用に結い直して。
「呆れたんならもうこんなことやめれば良いでしょ」
「残念。そういう駄目駄目な巫女ほど愛着が湧くというか構いたくなるというか、導いて差し上げねばというか…」
糸を紡いでいくようにゆるりと呟きながら、文はこちらへ視線を合わせる。互いの呼吸が届く距離。真っ直ぐな眼光。反射的に固まる霊夢に文は構うことなく、右側へとくたびれたリボンに手をかける。
どうしてだろう。こんな真正面にいるはずなのに、文がどんな顔をしながらリボンを直しているのか判然としない。代わりとばかりに、ふわり、切ない香りが頭を満たしていく。ちょうどこれからの季節に咲く、橘花の清楚な香り。
形の良い指先が黒髪に触れるのも分かる。ちょっと、くすぐったい。というかコイツ、なんでわざわざ結び目が見えにくい正面から直してるのよ。そこは後ろから結いなさいよ。
けど…なんだかこういうのも良いかも。だんだん胸が満たされていくのに従って、もっと掌を感じたくて、重心を後ろに――
「ほら、直りましたよ」
溌溂とした声に、はっと我に返る。今度は、満足そうに目線を緩めるソイツの顔が、はっきりと映る。
戸惑うこちらを前に、文は鞄から手鏡を取り出してみせる。深紅色の蝶々が、射干玉の髪にひらひら、優雅に座っていて。ずっと着慣れていた巫女服も、まるで仕立てられたばかりのように、しゃなりと艶を揺らめかせていて。
黒革の手袋に包まれた手が、ぽんぽんと霊夢の頭に置かれる。
「うん。やっぱり貴方には、この巫女服が一番似合ってるわ」
柔らかな毛先が傷付けないよう気を付けながら、掌の体温を木洩れ日のように包み込ませる。リボンを直してもらった時とはまた違った心地良さを、また頭を前へと傾けてしまう。僅かな動きも見逃さなかった文の赤目が、ちらり、慈しむように揺れるのが分かった。
「むぐぐ」
頬を膨らませる。けれど、そんな態度を出しているのは顔だけ。結局、体は文の方へすっかり身を委ねている。
コイツは、こっちの気を引いては翻弄して、その反応をけらけら楽しんで見ているような悪い天狗だ。いつか滅ぼしてやる――何回も何回もそう決意させた、それ程ムカつく奴なのに。
ただ、気に入っているお茶で喉をぽかぽか潤した時のような。歩いていてふと、陽だまりに咲いている草花を見つけた時のような。
そんな、他の人間ならずっと前に通って来たのだろう温かな幸福に、霊夢は揺蕩っている。
どうして?どうしていつも、私はコイツに甘えてしまっているの?
どうして「手間のかかる」不出来な私を、文は抱きしめてくれるの?
私は、文に対して一体何を想っているの?
「…じゃあ、さ」
「ん?」
指の薫風に梳かされながら、ぽつり、声を出す。
気持ち良い。このままコイツの腕の中にいても良いかもしれない。むしろ、このままでいたい。
「私が誰にも文句言わせないくらい立派な巫女になって…"導かれる"必要もなくなったら」
けど。差し伸べられた腕を握り、ゆっくり頭から引き剥がしていく。
すぐに、胸を満たしていた幸福がちらちらと注ぎ落ちる。もっともっと、もう少しだけ、そう求める声が、霊夢の頭に響き出す。
けれど、それだときっと駄目なんだ。ぶんぶん邪念を振り払うと、目を丸くさせている文をしっかり見据える。
「アンタからしつこく付きまとわれることもない訳ね?」
「…」
ぽかん。射命丸文の反応を表現するのに、それ程ふさわしい言葉はなかった。
沈黙の居間には、小鳥の静かな寝息だけが聞こえる。睨めっこし合う視線の間を、気まぐれにそよ風が通っていく。
待てど待てど、文は口を半開きにさせたまま、文は指一本動かす様子がない。
「何よぼっとして。何か言いなさいよ」
これじゃあ、まるで私が間抜けなこと言い出したみたいじゃない。
整った眉を僅かに顰めながら、文を睨む視線を強める。じれったくなってそわそわ体が動いてしまう。
それでも、文は固まったまま動かなくて。もしかしたら怒らせることを言ってしまったかと苛立が焦燥へと変わり始めた、その時。
「…ぷっ」
それはまるで、音もなく膨らみ続けていた風船が破裂したかのようだった。
「あはははは!!!おっもしろいこと言うわね!!!」
高らかな笑い声は、狭い居間からあっという間に溢れ出すと、真昼の境内に響いていく。参道を照らす日向は白を増し、先程まで休んでいた鳥たちが堂々とした飛び姿を影に走らせる。
あぁ、最高。その言葉しかない。えぇ、そうね、間違いないわ。
貴方程の人間には、これから先にも、きっと巡り合うことはないでしょう。
「なぁにが面白いのよ」
「全部よ全部!」
眉尻をぴくぴく動かしながら詰め寄って来る霊夢に、文は喜びに満ちた視線を送る。
「私はいつも博麗の巫女を、ずっと離れたところから覗いて来た。幻想郷(ここ)を独りで護り続ける巫女を、ただ観察者として見守るだけだった」
艶々の黒髪からこちらをくすぐる若葉の香り。純粋たる清らかな人間のみに許され伝えられる僅かな香気は、今や文の肌に沁みつき、彼女に生気を与えてくれる。
けれど、文がその香りを胸に刻んだのは、実はそう昔のことではない。
「分かる?本来、我々天狗と巫女の距離ってそういうものなのよ?」
ほんの少し褪せた鳥居の朱色。幻想郷全てを包み込むような境内からの景色。規則正しく箒を掃いている音。
何百年も、何代にもわたって、射命丸文は博麗神社を訪れてきた。博麗の巫女と会話してきた。だから、今まで当たり前のように文は接してきたはずのもの。
けれど、それらが射命丸文の記憶に残るようになったのは――本当の意味で「身近」になったのは、つい最近のこと。
「それを――ははは!私離れが最後の最後とは、本当面白いですねぇ貴方という人間は」
団栗眼で顔いっぱいに驚きを出している、この巫女が生まれてからのことだった。
「な、何よ」
ふつふつ、霊夢の胸から熱いものが湧き上がる。ぶつけようのない怒りをこらえるように、拳がぐっと握られる。
何故だか安らぎを与えてくれる夕陽色の瞳。しなやかでとても力強い細腕。楽しそうに弄る時に口遊まれるヘタクソな鼻歌。
いつの間にか、どこかで求めるようになっていた「射命丸文」の姿。それが何を意味していたのか、霊夢は悟ったのだった。
「じゃあアンタがここにいること自体が、私が駄目な巫女であることを示してるってことになるじゃない!」
はー、やれやれ、そうわざとらしく首を横に振る文の態度が、ますます霊夢の感情を逆なでる。
「今さらお気付きになるとは、これは前途多難ですねぇ」
「何よ何よ!私だって頑張ればそれくらい」
「では、」
噛みつく前に詰め寄られ、霊夢は反射的に背中を仰け反らせてしまう。唇を三日月形に歪めた文は、僅かな冷や汗も見逃さない。
「目先の信仰のために軽率な言動を取らないと誓えます?」
「むぐ」
一回つついただけなのに、栗色の目が虚空へと泳ぎ迷い出している。まだまだ。
「決して文句も言わずお勤めに集中出来ます?」
「ぐう」
ふむ。既にぐうの音くらいしか出せる余裕がないらしい。まったくしょうがないですね、あと一回だけで勘弁してあげますよ。
「博麗の巫女として、時に孤独になるお覚悟は」
「うぅ…」
けれど、情けをかけたにも関わらず、怒りに震えていた肩はすっかり落ちてしまう。あまりにも呆気ない陥落。
「…ふふっ。やれやれ」
すっかり俯いてしまった後頭部を抱き寄せると、再び、艶をたたえた髪を撫で始めた。
柔らかな毛並みと少し高めの体温が、文の庇護欲を誘う。いつの間にか現出した黒い翼が、肩を温めるように包み始めて。
ちょっと目を離せばすぐにぐーたら、ロクに考えもせずひたすら感情のままに動き、うじうじ煮えきらないこともしばしば。間違いなく、文から見れば、まだまだ雛鳥のような巫女。
だけどそれは――がつり、撫でていた手首が再び握られる。
「するわ」
意地を張るように、しぼり出された声。けれど、手首越しに伝わる強い握力が、瞳の夕陽を妖しく輝かせる。
「…ほう」
「絶対よ」
「ほほう」
わざとらしく挑発してくる声音に眉を顰めながらも、霊夢は毅然と背筋を伸ばして文に向き直る。
「にやけてるのも今のうちよ。言質でも何でも取りなさい。私は本気よ」
「あらそうですか」
左手を口許まで運んだ気取った素振りで頷く文に、霊夢はさらにムッとする。
さて、いつ記事に出来るような面白いヘマをしてくれるのかしら――そうほくそ笑んでいそうな反応。
人を子供だと小馬鹿にしながら容易く聞き流す、いつも見せてくるような態度。
だからこそ、お約束通りに噛みつこうとしていた霊夢には、気付くことが出来ない。
平静を象っていた左手の裏で、文の口端がこっそり歪み出していたことに。
「では、これから貴方がいかに成長していくか密着取材でもしましょうか!」
あぁ、昂る。昂る。こんな幸せなことがあるだろうか。
「これなら、だらけ巫女を見張るにもピッタリですし?」
「!?ま、待ちなさいよ」
突然高らかに告げられた文の取材宣言に対し、動揺した霊夢は文の右手を離してしまう。そこからはあっという間、愛用の文花帖が鞄から取り出され、鳥の子紙一枚一枚が飇(つむじかぜ)の通り道となってめくられていく。
「それだとずっとアンタが付きまとうでしょ!意味ないわ!」
「当たり前でしょう?」
何を今更。私に「言質を取らせた」のは貴方自身。それが何を表しているか、気付いてないとは言わせませんよ?
「"これから"立派な巫女になる、貴方はそう誓った…ならば、それまでの様子をレンズで見届けるのが、観察者たる私の責務です」
貴方は――「博麗霊夢」は、己の導き手に「射命丸文」を指名した。
私を遠ざけるつもりが、逆に私が何よりも望んでいたものを、貴方は自ら与えてくれたのです。
「…ぐぬぬ」
ようやく自分の言ってしまったことに気付き、霊夢は刺すような視線で文を睨みつける。
そんな表情にすらにやにや笑みを返しつつ、文は一枚、写真をぱしゃり。
全く、ちょっと攻めに転じればすぐ隙を晒してしまうなんて、まだまだ。巣立ちまでの道のりは遥か彼方ね。
「さーてさて、善は急げ。早速記事にして、皆様に喧伝しなければ」
鼻歌を優雅に口ずさみながら、文花帖にさらさら万年筆を走らせていく。
ああ、この文花帖も、残りページが薄くなってしまった。この子と出会ってから、一体何冊の手帖が積み上がっていったことだろうか。
きっとこれからも、貴方は幻想郷からたくさんの愛を浴びて、真っ白だった紙面を色彩豊かに満たしてくれることだろう。
「それでは霊夢?」
「なによ」
拗ねていた霊夢の口許に、文はマイクを当てるかのように拳を差し出す。
「改めて、決意表明をどうぞ?」
腹立つ。その「なんでも分かってますからね」とでも言いたげな顔がとにかく腹立つ。そして、その通りにすっかり踊らされてしまった自分自身にも。
…ふん。良いじゃない。いくらでも書きなさい。どの道、この馬鹿に軽弾みなことを言ってしまったのは自分自身だ。その責任くらいきちんと取ってやろうじゃないの。
その代わり、アンタも覚悟なさい――紙幣の白が、横殴りに真っ二つ、空気を切り裂く。霊夢の大幣が文の喉元、羽根一枚に迫る間合まで突きつけられる。
「アンタも新聞も黙らせる」
もう一度、改めて言いましょう――私は「本気」だ。
ぞくり。偽りない眼光に射抜かれた文の背中に武者震いが走る。
「……ふ、ふふ」
滾る。秩序を保って流れていた妖気が、身体中で急激に沸騰する。溢れ出た神威の陽炎が、乱雲となって白昼の晴天を狂わせ始める。
それで良い。それでこそ「博麗霊夢」だ。
胸を張りなさい、霊夢。貴方は、この射命丸文が見初めた、初めての巫女なのだ。
絶対に、最高の「人間」へと貴方を導いてみせる。
「あっはははははっ!!!」
自らを呑み込み始めた影の冷たさに、霊夢は大きく肩を震わせる。背丈の何倍もあるかと思われる玄翼が、一人の人間を前に神々しく燃え広がっていくのが見える。稲妻走る逆光で表情すらまともに判別出来ない中で、黄昏色の瞳が、禍々しい赫き(かがやき)を持ってこちらを誘惑していた。
膝をついてしまう程の重い気を持ちこたえながら、霊夢は悟る。これから自分が立ち向かうのは、ふざけた紙を刷り続ける、ムカつく記者などでは決してない。
逢魔が時を司り、漆黒の風を自在に操る鴉天狗だった。
それでも、だからこそなおさら、自分がここで怯む訳にはいかない。雷雨の激しい轟きを大幣越しに受け止めながら、決意を新たに、文と視線を合わせる。
私は「博麗霊夢」――悪事を働く怪異の調伏こそ「博麗の巫女」として自分がなすべき使命なのだから。
「――楽しみにしてるわ。博麗霊夢」
二人が幸せそうで何よりでした