なんだかなー。人間の女の子の悩みって、千年経っても変わらないのかしらね。
「どうか、どうか私を尼にしてください!」
「いやいや、早まっちゃ駄目ですよ」
目の前にいるのは、十六、七かしら、島田に結い上げた黒髪の艶やかな可憐な女の子。着物は上等で、挙措の一つ一つがたおやかで、絵に描いたような大和撫子、ご先祖は士族か華族か、いかにもいいところのお嬢さんって感じ。プライバシー保護の観点からこのまま“お嬢さん”と呼んでおくわ。
このお嬢さんが青ざめた顔でうちの門前をうろうろしていたようで、心配した響子が「どうしたんですか?」と声をかけた。「住職の尼君にお話があるんです」と言ったそうだけど、残念ながら聖様は檀家さんの法要でお留守だし、星はお寺の切り盛りで忙しいし、私とムラサがお嬢さんの話を聞くことになった。
雲山? もちろんいつも通り私の隣にいるわ。相変わらずお客さんが来ても何も喋らないんだけど、それが私達の日常だからね。
で、このお嬢さん、見るからに思い詰めてそうだなとは思ったけど、開口一番「尼にしてください」と来たもんだ。ムラサが止めたのも無理はないだろう。
「どうして尼になろうだなんて思ったんですか。そんな若い身空で出家だなんて勿体ないですよ」
「だけど、貴方達だって充分にお若いわ」
いやー、私達が若いのは見た目だけで、平均年齢は一千オーバーですから。妖怪を見た目で測っちゃいけないわお嬢さん。
ムラサが答えに困ってるみたいだったから、私から助け船を出す。舟幽霊だけに。笑ってよ雲山。
「確かに若くして出家を志すのはたいそう立派な心構えで、仏様も感心なさるでしょう。ですが、貴方のその見事な黒髪、鋏を入れるのが勿体なくて、見る甲斐もない尼姿にしてしまったらかえって罪な心地がしますよ。ご家族だって心配なさるに違いありません」
なんて、ちょっとばかしくさいセリフだけど、これくらいは出家希望者に聞かせる常套句だもんね。おべんちゃらも方便よ。
家族、と言った瞬間、お嬢さんの体が震えた。でしょうね、絶対親御さんとかに何も言わないで来たんでしょう。
「親など、私が出家してしまえば諦めるに違いありません」
「いえ、私達といたしましても、しかるべき親御さんのいるお嬢さんを勝手に尼にしてしまうわけにはいきません。まずは出家を志した理由を話してください。聖様だって同じことを言うでしょう」
「……」
たっぷり呼吸を置いてから、「実は」とお嬢さんが切り出した。
「親に望まぬ結婚を強いられまして……」
あー。昔物語とかでよくある奴だなあ。というか未だに絶滅してないのね、親が決めた結婚。お嬢さんは玉のような涙をはらはら流して、これまた上質な手拭いで拭きながら続けた。
「私には心に決めた殿方がいると、何度申し上げても聞き入れてくれないのです。意に染まぬ結婚をするくらいなら、もう尼になってしまおうと……」
「ええと、失礼ですが、その心に決めた殿方について伺っても?」
「私の屋敷に仕える丁稚奉公の少年です」
ムラサが(あかん)って顔でこっちを見てきた。こっち見んな。私だって思ったわよ、そりゃ反対されるだろって。
しかし、お嬢さんと奉公人の恋か。まるでお染久松の世界ねえ。これで奉公人側に身分相応の許嫁でもいたら完璧、っていかんいかん、人の恋路を勝手に物語化してる場合じゃなかった。
お嬢さんは物憂げにため息をついて(いちいち仕草が絵になるんだなあ)、身分違いの男を思っているのか、眼差しはどこか遠い。
「決して他所には嫁がぬと固く契りを交わしましたのに……あの方意外の嫁になるくらいなら、尼になって、この世ときっぱり縁を絶ってしまいたい」
若いのにずいぶん熱烈なことを言う。若いから言えるのかしら。この様子だと、子供騙しみたいな説得じゃお嬢さんの決意は翻らなそうだ。
でもねー、こういう見るからに若くて、一時の熱気に絆されやすくて、恋に恋をするようなタイプは……別にディスってんじゃないのよ。若さゆえの情熱って素敵じゃない。
もしお嬢さんがもう少し大人で、本当に出家したいってんなら、私達も前向きに考えただろうけど。このまま髪を下ろしちゃったら、きっと後悔するわ。長年の僧侶の勘って奴。
「お悩みの心中、お察しいたします」
ムラサが話に戻ってきた。腹をくくったようね。聖様がいない今、二人がかりでお嬢さんを説得せにゃならんと。
「ですが、そのような固い思いを聞いてしまうと、やはり出家は思いとどまった方がよろしいかと。この世になまじっか未練を残して出家しては功徳にも障りがあり、仏様もいい顔をなさらないでしょう」
「そうです。それに、私達は一介の修行僧に過ぎません。勝手に髪を下ろしたり、授戒することはできないんですよ」
これはちょっと嘘。出家の段取りなら私達でも一人で全部できるぐらいきっちり叩き込まれてるし、僧侶の格が劣るってんなら本堂にいる星を呼んでやってもらえばいい。
だけど人里のいいとこのお嬢さんを勝手に出家させちゃったら、うちの寺の信用問題に関わってくる。要は揉め事起こしたくないのよ。後から親が乗り込んできて『出家なんて認めない、還俗させる』って詰め寄られて、仕方なく出家は取り消します、ってのも考えられるけど、それじゃあ出家の価値を軽くしてしまう。僧侶としてあるまじきことよ。
そこ、秦こころさんの騒動でもう出家の価値は大暴落してるなんて言わない。
「それに貴方はまだお若い。親の許しもなく、大事な娘さんを尼姿にしてしまうのは……」
「親の許し、ですか」
お嬢さんが不機嫌になる。
「なぜ他でもない私の行く末を、私自身で決めることができないんです」
うんまあ、そうね。理不尽よね。 その気持ちは、わからなくもない。私達だって事あるごとに聖様とか星を通さなきゃいけないの「面倒だなー」って思ったりするし。
「だけど親というのは、一般論として、我が子の行く末を何かと案じるものですから……」
「あれが心配というものですか」
ぴしゃりと言い切るお嬢さんの声が冷たかった。
「私の親など、世間の目を気にしているだけです。今回の縁談だって両家の家柄や格式を周囲にひけらかすために決められたようなもの。私は見栄のための道具です」
「……」
ムラサが黙っちゃった。思い悩んで相談に来る人は往々にして主観でしか話せないもんだけど、その主観に寄り添うのが私達の役目だ。賢しらぶって「でも、その人はこういう考えなんじゃありません?」なんてトンチンカンなアドバイスをするものじゃない。
この子も若いし、思い込みとかすれ違いとかもあるだろうってのを勘定に入れても、我が子を所有物だと勘違いしてるんじゃないかって親は少なくなかったりする。
何だろうね。お嬢さん、綺麗で可愛らしいんだけど、じっと見てると『お人形さんみたい』って感想が出てくるのよ。あまり良くない意味で。星が毘沙門天の代理をやってるのを見てる時に『あれっ、この子って私と同じ、生きた妖怪よね?』ってごくたまーに不安になるのと似たような感覚。
お行儀良くて、大人しくて、聞き分けが良くて、でもいまいち本人の自我や意志が薄い感じ。
だけどこの子は本物のお人形じゃない。ちゃんと自分の意志があって『親の決めた結婚なんて嫌だ、自分の好きな人と一緒になりたい』って思って、切ないほど思い悩んで、ここまで来てくれたんだ。出家は無理でも、一介の僧侶として力になってあげたいじゃない。
「親御さん、厳しい人なんですか」
私が尋ねると、みるみる眉間に皺がよってゆく。
「他人の親というものをよく知りませんけど、父も母も、幼い頃から礼儀作法に厳しい人でした。お稽古事が毎日山のようにありました。お裁縫、お料理、お琴、お花、お茶、すべて言われた通りにこなしてきました。けど私が本を読んだり勉強に励んだりすると、父は難しい顔をします」
古典的だ。平安生まれから見ても古典的な花嫁修行でクラクラしてくる。お裁縫だのお料理だのは徹底するくせに、お勉強はそこまで頑張らなくても、って感じが何か腹立たしい。
「やりたくない、と訴えるのは難しいですか」
「とにかくやりなさい、の一点張りです。私が何を言っても同じことしか言ってくれなくて、本当に同じ人間なのか、言葉が通じているのか疑わしくなります」
うーん。これ、まずいんじゃないの。外の世界でいう毒親に該当するんじゃないの。さすがにお嬢さんに向かってそんなこと言えないけど。
もし私がまだ人間の女の子で、お嬢さんと仲が良かったら、雲山とムラサを引き連れてお嬢さんちに殴り込んで、
『いつまでカビの生えた価値観で娘を縛りつけてんだ、お嬢さんはあんた達の自己満足のための道具じゃないんだよ、このスットコドッコイ』
くらいは言ってやった、かもしれない。
だけど私はとっくに人間をやめた妖怪だからね。今まで決闘とかで派手にドンパチやってきたとはいえ、妖怪僧侶が人里に殴り込みなんてしたら大問題よ。聖様の顔に泥を塗るどころじゃない。
せめてお嬢さんの身柄を命蓮寺で預かって、ヤバそうな実家から引き離してあげたいけど、そしたらお嬢さんは思い人からも引き離されてしまうし。下手したら『妖怪寺が人里の娘を拉致した』なんて騒がれるかもしれないし。
歯がゆいわね。もし聖様がいてくれたら、私達より人望あるし、慕われてるし、人里にもしょっちゅう顔を出してるし、お嬢さんの親を説得させるくらい、訳ないのかもしれないけど。私達は結局、ただ話を聞いてあげるだけなんだもの。
「お願いです」
お嬢さんは綺麗に三つ指をついて、深々と頭を下げる。幼い頃から叩き込まれたであろう作法が美しければ美しいほど、悲しくなってくるわ。
「私を尼にしてくださいませ」
そのお願いを叶えてあげたいのは山々なんだけど。
これまでの話を聞いた限りの印象では、お嬢さん、箱入りで世間知らずっぽいところはあるし、浮世離れした感じもするんだけど、一方で頭は悪くなくて、世間のしがらみを一度疑ってみるだけの知恵は回るし、行動力もある。
お嬢さんからしたら全部自分の意志で決めてるって思うだろうし、それも一面では正しい。藁にも縋る気持ちで尼になろうと思ったのを、ただの気まぐれで突き放すつもりも更々ない。
けど、こっちからしたらよそのお嬢さんの人生の選択をぶん投げられているわけでして。私達、酒は呑むわ悪さはするわ、立派な破戒僧だけど、これでも仕事にはプライド持ってるからさ。千年生きた妖怪にだって、簡単に他人の人生は背負えないわよ。
もし、仮にここで出家したとしてもだ。お嬢さんのご両親が「まさかそこまで思い詰めていたとは思わなかった、悪かった」って心を入れ替えてお嬢さんを大事にしてくれるならいいけど、「こんな恩知らずはもう娘と思わん」って勘当されちゃったら、お嬢さんはどこへ行くの。
もちろん命蓮寺で修行僧として預かるのは構わない。構わないけど、うちって妖怪寺の評判通り妖怪僧侶だらけで、そこにただの人間のお嬢さんを置いておくのは、やっぱり心配よ。そのまま人間として天寿をまっとうしてくれるならいいけど、もし妖怪に憧れるようなことになっちゃったら……なまじただの人間から妖怪になった“私”っていう前例があるだけに、そんな心配はないなんて言い切れないのよね。
私はいいのよ。千年も昔の話だし、後悔してないし。だけど、十代そこそこで自分の人生の一代決心なんて、焦る必要はないんじゃないの。
それにもし後から「やっぱり出家なんかするんじゃなかった」って悔やんでもね、切った髪はすぐに元に戻らないし、お相手の男の子に「どうしてくれるんだ」って怒鳴り込まれても、私達は平謝りしかできないのよ。
だから今は聖様の帰りを待つ方がいいかなって私は思うし、ムラサも軽率に頼みを聞くのはどうかと思ってるみたい。雲山なんて言わずもがな。
「やはり出家はお考え直しを。しばし時を待ちまして、改めてご決意が変わらなければ、またお越しいただければと思います」
「そんな……。お願いです、じきに家の者が私を探しに来ます、その前にどうか、どうか!」
「せめて住職が戻るまでお待ちを。私どもだけでは判断しかねます」
「いいえ、そんな悠長な暇は私にはありません!」
「焦っても良くないですよ、下手な未練を残すとほら、隣の女のように妖怪になって三途の河も渡れずじまい……あいたっ」
ムラサが背中を小突いてきた。ちょっとは我慢してよ、このお嬢さん説得するのが最優先なんだから。
すると、気を昂らせていたはずのお嬢さんが急に静かになって、かすかな声で何かをつぶやいた。
「え、何ですって?」
「川……そうですね……貴方達が私を尼にしてくださらないのなら、もう結構」
と、立ち上がったお嬢さんは凄みのある目をしていた。何というかこう、死の淵に立たされた人間みたいな……。
「いっそ川に身を投げてしまいます!」
「いやいや駄目ー!!」
言うが早いか、ものすごい勢いで部屋を飛び出そうとしたお嬢さんを私とムラサの二人がかりで押さえつける。
こ、このお嬢さん、なんちゅうことを言い出すの! 見た目で測っちゃいけないのは人間も同じだった。ぱっと見は可憐だけど中身はとんでもないわ、いや、出家なんて思い立って寺に来る時点で相当な行動力の化身だけどね。結婚に悩んだ末に入水するなんて、菟原処女や真間手児奈じゃあるまいし! 相談に来た人間をみすみす自殺させちゃったら、それこそ命蓮寺は村八分よー! 社会的に終わるー!!
「お離しになって! もうあの池でもかまいませんから!」
「かまいます、こっちは大いにかまうんです、お鎮まりをー!」
お嬢さーん! 思い余ってフライアウェーイしたくなる気持ちはわかるけどうちの池はやめて、うら若い乙女のスケキヨなんか見たくないわよ!
ちょっと雲山、あんたも力貸しなさい、か弱い乙女でもいざ覚悟を決めたらとんでもない力を出すもんなんだから! いや折れそうで怖いとか言ってる場合か、この際腕一本ぐらいの治療費は安いものよ、私のお布施で出してやる!
お嬢さん完全に興奮しちゃってて始末に追えない、ああもう、誰かこの猛獣みたいなお嬢さんを止めて、いつかの木枯らしごっこみたいな通り魔的やり口でもいいからさ!
待てよ、木枯らしごっこ?
それだ!
「ムラサ、耳貸して!」
お嬢さんの裏拳を喰らってるムラサと完全にビビってる雲山に手っ取り早く話して(お嬢さん興奮してるから聞こえてないっぽいわ)、私はすかさずお嬢さんの目の前に立って声を張り上げた。
「わかりました! 貴方の固い決意の翻らないことは、よくわかりましたから!」
お嬢さんが怯んだ隙に、懐から剃刀を取り出した。今朝、前髪を削ぐのに使った奴を持っていたんだった。
刃を剥き出しのままお嬢さんに詰め寄る。良い子は真似しちゃ駄目よ。
「あ、あの、尼にしてくれるんですか」
「はい、私達も僧侶です、覚悟を決めます。形ばかりですが、まずは髪を削いで授戒をいたしましょう」
「本当ですか?」
お嬢さんたら無邪気に喜んでいる。いいとこ育ちなだけあって、根は素直なのね。できればもっと早く素直になってほしかったわ。でも妖怪に刃物を突きつけられて狼狽えないのってどうかと思うの。
お嬢さんを部屋の中央に案内したら、すかさずムラサが格子を閉じてしまう。そのまま次々に部屋中の戸を閉ざすのを見て、お嬢さんは、
「なぜ扉を閉めてしまうの?」
「授戒は神聖な儀式ですから、横入りを防止するのです。やめたいのでしたら今のうちにどうぞ」
「い、いえ、やめません」
ムラサが厳重に戸締りを確認してる間に、私はお嬢さんを座らせて授戒の何たるかってのをざっくらばんに説明する。
(オッケー?)
(オッケー)
切りのいいところで目線で合図を交わして、ムラサは切り落とした髪を入れるための箱を持ってきて、ついでに経典を広げて、柄杓を片手に……柄杓? 何をするつもりなのムラサ。まあとにかく、形だけならそれっぽくなってきた。
さて、私も腕をまくったら、何だか緊張してきた。浮舟の髪を削いだ阿闍梨ってこんな気持ちだったのかな。大丈夫よ雲山、いいから私が言った通り、後ろで私のやることをちゃんと見ててね。
「それじゃあ、失礼します。目を閉じて、合掌して、四恩……そうですね、ご両親と、賢者と、衆生と、それから三宝に礼拝を」
「はい……」
お嬢さんが言われた通りにする。ムラサが「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」と唱えて、お嬢さんにも復唱してもらう。要は欲界、色界、無色界の三界を漂ってる間は愛とか恩とかいった執着を断ち切れないけど、出家してそれらを捨てることこそが真の報恩なのです、というアクロバティック屁理屈なのだけど、望んで恩愛を断ち切ろうっていうお嬢さんに響くんだろうか。
私はお嬢さんの島田をほどいて、本当に豊かな髪ね、片手ですべての髪をまとめて持ち上げて――。
顕になったうなじに、雲山がストンッと手刀を落とした。お嬢さんは前のめりに倒れて、受け止めた雲山と一緒に様子を確認したけど、ばっちり気絶していた。
「ナイスよ、雲山」
髪のすり抜けた手を握りしめて、我が相棒と拳を合わせた。
騙した挙句、手荒い真似になってごめんなさいね。一旦落ち着いてもらわないと、貴方も怪我しちゃいそうだったからさ。だけど雲山がちゃんと加減をしてくれたから、嫁入り前の身体は傷ひとつつかないで、しばらく経てば目が覚めるはずよ。え、腕の一本くらいならいいって、誰が言ったの?
「あー、焦った。こんなとこ見られたら本当にヤバいんだからね」
「大丈夫よ、窓も格子もぜんぶ閉めたんだから、誰にも見られてないわ」
だって妖怪が刃物持って人間の背後に回って、見る人が見れば授戒だってわかるけど、鴉天狗なんかが変に捻じ曲げて、殺人未遂とか吹聴されたら困るからね。
「ていうか柄杓なんていつのまに出したの?」
「うちの池で飛び込み自殺されるくらいならその前に池の水全部抜いてやろうと思って」
「そう、私はてっきり面倒になって舟幽霊にしてあげるつもりかと」
「んなわけあるか。ていうか、一輪こそ言葉選びに気をつけてよね。あんたが余計なこと言うから、お嬢さん変なスイッチ入っちゃったじゃない」
「それは……ごめんなさい」
ムラサにじとりと睨まれて、思わず縮こまる。本来、こういう相談役って意外にも私よりムラサの方が向いてるのよね。私は引き止めるつもりが火に油を注ぐ真似をしちゃって、そこは素直に反省します。雲山まで何だか視線が厳しい。口は災いの元って本当だわ。
ともかくお嬢さんが無事で何よりだ。気絶してるのに無事ってのも変だけど。
「だけど焦ったわよ。まさか身投げするとか言い出すなんて。恋する乙女はおっかないわね、妖怪より恐ろしいわ」
「おいおい、妖怪僧侶がそんなこと言っちゃっていいの?」
笑ってるムラサだけど、頬にお嬢さんの裏拳を食らった跡がきっちり残ってる。こいつに傷負わせるって大したパワーよ。
「聖様が帰ってきたらお願いしようね、この子の親御さんを説得してくれって」
「うん」
派手にドンパチ暴れてる妖怪僧侶っても、下っ端よりは住職が出てくる方がまだ聞く耳持ってくれるでしょ。足元見られるのは嫌だけど、お嬢さんの命には代えられない。また思い詰めて出家する身投げすると騒がれても困るしね。
「お嬢さんの恋、許してもらえるかな」
「さあ……だけどこのお嬢さん、たとえ親に認めてもらえなくても丁稚奉公の手を引っ張って駆け落ちくらいしそうじゃない?」
「あっはっは、やるやる!」
ムラサとひとしきり笑ってから、私達は揃って難しい顔をした。
だって親に反対された恋なんてさ、ロミオとジュリエットを引き合いに出すまでもなく、安積山だとか、鬼一口だとか、昔から悲恋に終わることが多いじゃない。どう考えても茨道よ。ハッピーエンドなんて竹芝寺くらいじゃないの?
お嬢さんは結婚相手のことも意中の奉公人のこともあんまり喋ってくれなかったからよくわからないし、無理な結婚が不幸せなのは違いないけど、じゃあ愛する人と結ばれれば幸せかといえば、残念ながら、現実は厳しい。
考えてみればお嬢さんも気の毒なものね。いい家に生まれて、衣食住に何不自由なく育って、教養もあって、なのに恋愛も許されず結婚で家に縛り付けられちゃうんだから。
その点、私達はもうとっくに人間やめてる妖怪だから人間のルールになんか縛られなくていいんだ。年齢なんかあってないようなもんだし、家だの一族だの苗字だののうるさいしがらみはないし、結婚がどうの子供がどうのとせがまれなくて済むし。世間の求める『女の子はおしとやかに』なんて模範とか気にせず、ずっと好きなことに没頭しててもいい。妖怪は自由だ。
代わりにお寺のルールだとか戒律だとか、他にも幻想郷の決まりごとには従わなきゃならないけど、人間も妖怪も、集団で暮らすには何かしらのルールがないと無理があるのよ。
私はうつ伏せのままのお嬢さんを仰向けにして、意識がないとますますお人形さんみたいだなあと思う。
可憐でおしとやかで、だけどとんでもなく強情っぱりでタフネスなお嬢さん。貴方が本当にこの世で生きていくのが嫌になって、本心から仏様のお慈悲に縋りたいって思ったなら、改めて命蓮寺にいらっしゃい。その時は本当に私達が出家の手伝いをしてあげるよ。
さて、聖様が帰ってくる前に、とりあえずお嬢さんをどっかに休ませてあげようか、と思ったら。
「何です、さっきから妙に騒がしいと思ったら、急に静かに……」
本堂にいたはずの星が急にがらっと格子を開けた。
そして星は手元の宝塔を落とした。
ええと、今の部屋の状況を整理しようか。
中央、仰向けで気絶してるお嬢さん。
その後ろ、無言で青ざめてく雲山。
左、まだ柄杓を持ったままのムラサ(だから早くしまいなさいっての)。
そして右、やっぱりまだ剃刀を持ったままだった私。
(やっば)
星が見事に「ぎゃー人殺しー!!」と叫んでくれたおかげで駆けつけてきた響子とぬえさんとマミゾウさんと、ついでに寺に来てた小傘とナズーリン、全員の誤解を解くのに時間がかかったのは星の早とちりのせいであって、決して私達の日頃の行いのせいなんかじゃないわ、決して。誰よ星がお人形さんみたいだとか言った奴。
なお、渦中のお嬢さんはこの大騒ぎの中でぴくりとも目覚めなかった。いい根性してるわ、まったく。
◇
それから何とか星達の誤解を解いて、帰ってきた聖様にはみんなで揃ってお嬢さんの現状を誇張込みで訴えた。このまま出家するって言うんですよ、今どき親同士の決めた結婚で恋人が引き裂かれるなんてあんまりじゃないですか、お嬢さんは思い詰めてムラサに「私を舟幽霊にしてください」とまで言ったんですよ(さすがにこれは盛り過ぎでしょ)、などなど。のっぴきならない状態だと判断してくれた聖様がお嬢さんを送りにお屋敷まで一緒に連れ添って、どうか結婚だけでも断念してくれとご家族を説得してくれたおかげか、お嬢さんの縁談はめでたく白紙になったそうだ。
その後のお嬢さんと恋人がどうなったかって? さあね。あの逞しいお嬢さんなら結ばれようが引き裂かれようが、強く生きていくんじゃないかしら。だからこの話はおしまい、どっとはらい。
「どうか、どうか私を尼にしてください!」
「いやいや、早まっちゃ駄目ですよ」
目の前にいるのは、十六、七かしら、島田に結い上げた黒髪の艶やかな可憐な女の子。着物は上等で、挙措の一つ一つがたおやかで、絵に描いたような大和撫子、ご先祖は士族か華族か、いかにもいいところのお嬢さんって感じ。プライバシー保護の観点からこのまま“お嬢さん”と呼んでおくわ。
このお嬢さんが青ざめた顔でうちの門前をうろうろしていたようで、心配した響子が「どうしたんですか?」と声をかけた。「住職の尼君にお話があるんです」と言ったそうだけど、残念ながら聖様は檀家さんの法要でお留守だし、星はお寺の切り盛りで忙しいし、私とムラサがお嬢さんの話を聞くことになった。
雲山? もちろんいつも通り私の隣にいるわ。相変わらずお客さんが来ても何も喋らないんだけど、それが私達の日常だからね。
で、このお嬢さん、見るからに思い詰めてそうだなとは思ったけど、開口一番「尼にしてください」と来たもんだ。ムラサが止めたのも無理はないだろう。
「どうして尼になろうだなんて思ったんですか。そんな若い身空で出家だなんて勿体ないですよ」
「だけど、貴方達だって充分にお若いわ」
いやー、私達が若いのは見た目だけで、平均年齢は一千オーバーですから。妖怪を見た目で測っちゃいけないわお嬢さん。
ムラサが答えに困ってるみたいだったから、私から助け船を出す。舟幽霊だけに。笑ってよ雲山。
「確かに若くして出家を志すのはたいそう立派な心構えで、仏様も感心なさるでしょう。ですが、貴方のその見事な黒髪、鋏を入れるのが勿体なくて、見る甲斐もない尼姿にしてしまったらかえって罪な心地がしますよ。ご家族だって心配なさるに違いありません」
なんて、ちょっとばかしくさいセリフだけど、これくらいは出家希望者に聞かせる常套句だもんね。おべんちゃらも方便よ。
家族、と言った瞬間、お嬢さんの体が震えた。でしょうね、絶対親御さんとかに何も言わないで来たんでしょう。
「親など、私が出家してしまえば諦めるに違いありません」
「いえ、私達といたしましても、しかるべき親御さんのいるお嬢さんを勝手に尼にしてしまうわけにはいきません。まずは出家を志した理由を話してください。聖様だって同じことを言うでしょう」
「……」
たっぷり呼吸を置いてから、「実は」とお嬢さんが切り出した。
「親に望まぬ結婚を強いられまして……」
あー。昔物語とかでよくある奴だなあ。というか未だに絶滅してないのね、親が決めた結婚。お嬢さんは玉のような涙をはらはら流して、これまた上質な手拭いで拭きながら続けた。
「私には心に決めた殿方がいると、何度申し上げても聞き入れてくれないのです。意に染まぬ結婚をするくらいなら、もう尼になってしまおうと……」
「ええと、失礼ですが、その心に決めた殿方について伺っても?」
「私の屋敷に仕える丁稚奉公の少年です」
ムラサが(あかん)って顔でこっちを見てきた。こっち見んな。私だって思ったわよ、そりゃ反対されるだろって。
しかし、お嬢さんと奉公人の恋か。まるでお染久松の世界ねえ。これで奉公人側に身分相応の許嫁でもいたら完璧、っていかんいかん、人の恋路を勝手に物語化してる場合じゃなかった。
お嬢さんは物憂げにため息をついて(いちいち仕草が絵になるんだなあ)、身分違いの男を思っているのか、眼差しはどこか遠い。
「決して他所には嫁がぬと固く契りを交わしましたのに……あの方意外の嫁になるくらいなら、尼になって、この世ときっぱり縁を絶ってしまいたい」
若いのにずいぶん熱烈なことを言う。若いから言えるのかしら。この様子だと、子供騙しみたいな説得じゃお嬢さんの決意は翻らなそうだ。
でもねー、こういう見るからに若くて、一時の熱気に絆されやすくて、恋に恋をするようなタイプは……別にディスってんじゃないのよ。若さゆえの情熱って素敵じゃない。
もしお嬢さんがもう少し大人で、本当に出家したいってんなら、私達も前向きに考えただろうけど。このまま髪を下ろしちゃったら、きっと後悔するわ。長年の僧侶の勘って奴。
「お悩みの心中、お察しいたします」
ムラサが話に戻ってきた。腹をくくったようね。聖様がいない今、二人がかりでお嬢さんを説得せにゃならんと。
「ですが、そのような固い思いを聞いてしまうと、やはり出家は思いとどまった方がよろしいかと。この世になまじっか未練を残して出家しては功徳にも障りがあり、仏様もいい顔をなさらないでしょう」
「そうです。それに、私達は一介の修行僧に過ぎません。勝手に髪を下ろしたり、授戒することはできないんですよ」
これはちょっと嘘。出家の段取りなら私達でも一人で全部できるぐらいきっちり叩き込まれてるし、僧侶の格が劣るってんなら本堂にいる星を呼んでやってもらえばいい。
だけど人里のいいとこのお嬢さんを勝手に出家させちゃったら、うちの寺の信用問題に関わってくる。要は揉め事起こしたくないのよ。後から親が乗り込んできて『出家なんて認めない、還俗させる』って詰め寄られて、仕方なく出家は取り消します、ってのも考えられるけど、それじゃあ出家の価値を軽くしてしまう。僧侶としてあるまじきことよ。
そこ、秦こころさんの騒動でもう出家の価値は大暴落してるなんて言わない。
「それに貴方はまだお若い。親の許しもなく、大事な娘さんを尼姿にしてしまうのは……」
「親の許し、ですか」
お嬢さんが不機嫌になる。
「なぜ他でもない私の行く末を、私自身で決めることができないんです」
うんまあ、そうね。理不尽よね。 その気持ちは、わからなくもない。私達だって事あるごとに聖様とか星を通さなきゃいけないの「面倒だなー」って思ったりするし。
「だけど親というのは、一般論として、我が子の行く末を何かと案じるものですから……」
「あれが心配というものですか」
ぴしゃりと言い切るお嬢さんの声が冷たかった。
「私の親など、世間の目を気にしているだけです。今回の縁談だって両家の家柄や格式を周囲にひけらかすために決められたようなもの。私は見栄のための道具です」
「……」
ムラサが黙っちゃった。思い悩んで相談に来る人は往々にして主観でしか話せないもんだけど、その主観に寄り添うのが私達の役目だ。賢しらぶって「でも、その人はこういう考えなんじゃありません?」なんてトンチンカンなアドバイスをするものじゃない。
この子も若いし、思い込みとかすれ違いとかもあるだろうってのを勘定に入れても、我が子を所有物だと勘違いしてるんじゃないかって親は少なくなかったりする。
何だろうね。お嬢さん、綺麗で可愛らしいんだけど、じっと見てると『お人形さんみたい』って感想が出てくるのよ。あまり良くない意味で。星が毘沙門天の代理をやってるのを見てる時に『あれっ、この子って私と同じ、生きた妖怪よね?』ってごくたまーに不安になるのと似たような感覚。
お行儀良くて、大人しくて、聞き分けが良くて、でもいまいち本人の自我や意志が薄い感じ。
だけどこの子は本物のお人形じゃない。ちゃんと自分の意志があって『親の決めた結婚なんて嫌だ、自分の好きな人と一緒になりたい』って思って、切ないほど思い悩んで、ここまで来てくれたんだ。出家は無理でも、一介の僧侶として力になってあげたいじゃない。
「親御さん、厳しい人なんですか」
私が尋ねると、みるみる眉間に皺がよってゆく。
「他人の親というものをよく知りませんけど、父も母も、幼い頃から礼儀作法に厳しい人でした。お稽古事が毎日山のようにありました。お裁縫、お料理、お琴、お花、お茶、すべて言われた通りにこなしてきました。けど私が本を読んだり勉強に励んだりすると、父は難しい顔をします」
古典的だ。平安生まれから見ても古典的な花嫁修行でクラクラしてくる。お裁縫だのお料理だのは徹底するくせに、お勉強はそこまで頑張らなくても、って感じが何か腹立たしい。
「やりたくない、と訴えるのは難しいですか」
「とにかくやりなさい、の一点張りです。私が何を言っても同じことしか言ってくれなくて、本当に同じ人間なのか、言葉が通じているのか疑わしくなります」
うーん。これ、まずいんじゃないの。外の世界でいう毒親に該当するんじゃないの。さすがにお嬢さんに向かってそんなこと言えないけど。
もし私がまだ人間の女の子で、お嬢さんと仲が良かったら、雲山とムラサを引き連れてお嬢さんちに殴り込んで、
『いつまでカビの生えた価値観で娘を縛りつけてんだ、お嬢さんはあんた達の自己満足のための道具じゃないんだよ、このスットコドッコイ』
くらいは言ってやった、かもしれない。
だけど私はとっくに人間をやめた妖怪だからね。今まで決闘とかで派手にドンパチやってきたとはいえ、妖怪僧侶が人里に殴り込みなんてしたら大問題よ。聖様の顔に泥を塗るどころじゃない。
せめてお嬢さんの身柄を命蓮寺で預かって、ヤバそうな実家から引き離してあげたいけど、そしたらお嬢さんは思い人からも引き離されてしまうし。下手したら『妖怪寺が人里の娘を拉致した』なんて騒がれるかもしれないし。
歯がゆいわね。もし聖様がいてくれたら、私達より人望あるし、慕われてるし、人里にもしょっちゅう顔を出してるし、お嬢さんの親を説得させるくらい、訳ないのかもしれないけど。私達は結局、ただ話を聞いてあげるだけなんだもの。
「お願いです」
お嬢さんは綺麗に三つ指をついて、深々と頭を下げる。幼い頃から叩き込まれたであろう作法が美しければ美しいほど、悲しくなってくるわ。
「私を尼にしてくださいませ」
そのお願いを叶えてあげたいのは山々なんだけど。
これまでの話を聞いた限りの印象では、お嬢さん、箱入りで世間知らずっぽいところはあるし、浮世離れした感じもするんだけど、一方で頭は悪くなくて、世間のしがらみを一度疑ってみるだけの知恵は回るし、行動力もある。
お嬢さんからしたら全部自分の意志で決めてるって思うだろうし、それも一面では正しい。藁にも縋る気持ちで尼になろうと思ったのを、ただの気まぐれで突き放すつもりも更々ない。
けど、こっちからしたらよそのお嬢さんの人生の選択をぶん投げられているわけでして。私達、酒は呑むわ悪さはするわ、立派な破戒僧だけど、これでも仕事にはプライド持ってるからさ。千年生きた妖怪にだって、簡単に他人の人生は背負えないわよ。
もし、仮にここで出家したとしてもだ。お嬢さんのご両親が「まさかそこまで思い詰めていたとは思わなかった、悪かった」って心を入れ替えてお嬢さんを大事にしてくれるならいいけど、「こんな恩知らずはもう娘と思わん」って勘当されちゃったら、お嬢さんはどこへ行くの。
もちろん命蓮寺で修行僧として預かるのは構わない。構わないけど、うちって妖怪寺の評判通り妖怪僧侶だらけで、そこにただの人間のお嬢さんを置いておくのは、やっぱり心配よ。そのまま人間として天寿をまっとうしてくれるならいいけど、もし妖怪に憧れるようなことになっちゃったら……なまじただの人間から妖怪になった“私”っていう前例があるだけに、そんな心配はないなんて言い切れないのよね。
私はいいのよ。千年も昔の話だし、後悔してないし。だけど、十代そこそこで自分の人生の一代決心なんて、焦る必要はないんじゃないの。
それにもし後から「やっぱり出家なんかするんじゃなかった」って悔やんでもね、切った髪はすぐに元に戻らないし、お相手の男の子に「どうしてくれるんだ」って怒鳴り込まれても、私達は平謝りしかできないのよ。
だから今は聖様の帰りを待つ方がいいかなって私は思うし、ムラサも軽率に頼みを聞くのはどうかと思ってるみたい。雲山なんて言わずもがな。
「やはり出家はお考え直しを。しばし時を待ちまして、改めてご決意が変わらなければ、またお越しいただければと思います」
「そんな……。お願いです、じきに家の者が私を探しに来ます、その前にどうか、どうか!」
「せめて住職が戻るまでお待ちを。私どもだけでは判断しかねます」
「いいえ、そんな悠長な暇は私にはありません!」
「焦っても良くないですよ、下手な未練を残すとほら、隣の女のように妖怪になって三途の河も渡れずじまい……あいたっ」
ムラサが背中を小突いてきた。ちょっとは我慢してよ、このお嬢さん説得するのが最優先なんだから。
すると、気を昂らせていたはずのお嬢さんが急に静かになって、かすかな声で何かをつぶやいた。
「え、何ですって?」
「川……そうですね……貴方達が私を尼にしてくださらないのなら、もう結構」
と、立ち上がったお嬢さんは凄みのある目をしていた。何というかこう、死の淵に立たされた人間みたいな……。
「いっそ川に身を投げてしまいます!」
「いやいや駄目ー!!」
言うが早いか、ものすごい勢いで部屋を飛び出そうとしたお嬢さんを私とムラサの二人がかりで押さえつける。
こ、このお嬢さん、なんちゅうことを言い出すの! 見た目で測っちゃいけないのは人間も同じだった。ぱっと見は可憐だけど中身はとんでもないわ、いや、出家なんて思い立って寺に来る時点で相当な行動力の化身だけどね。結婚に悩んだ末に入水するなんて、菟原処女や真間手児奈じゃあるまいし! 相談に来た人間をみすみす自殺させちゃったら、それこそ命蓮寺は村八分よー! 社会的に終わるー!!
「お離しになって! もうあの池でもかまいませんから!」
「かまいます、こっちは大いにかまうんです、お鎮まりをー!」
お嬢さーん! 思い余ってフライアウェーイしたくなる気持ちはわかるけどうちの池はやめて、うら若い乙女のスケキヨなんか見たくないわよ!
ちょっと雲山、あんたも力貸しなさい、か弱い乙女でもいざ覚悟を決めたらとんでもない力を出すもんなんだから! いや折れそうで怖いとか言ってる場合か、この際腕一本ぐらいの治療費は安いものよ、私のお布施で出してやる!
お嬢さん完全に興奮しちゃってて始末に追えない、ああもう、誰かこの猛獣みたいなお嬢さんを止めて、いつかの木枯らしごっこみたいな通り魔的やり口でもいいからさ!
待てよ、木枯らしごっこ?
それだ!
「ムラサ、耳貸して!」
お嬢さんの裏拳を喰らってるムラサと完全にビビってる雲山に手っ取り早く話して(お嬢さん興奮してるから聞こえてないっぽいわ)、私はすかさずお嬢さんの目の前に立って声を張り上げた。
「わかりました! 貴方の固い決意の翻らないことは、よくわかりましたから!」
お嬢さんが怯んだ隙に、懐から剃刀を取り出した。今朝、前髪を削ぐのに使った奴を持っていたんだった。
刃を剥き出しのままお嬢さんに詰め寄る。良い子は真似しちゃ駄目よ。
「あ、あの、尼にしてくれるんですか」
「はい、私達も僧侶です、覚悟を決めます。形ばかりですが、まずは髪を削いで授戒をいたしましょう」
「本当ですか?」
お嬢さんたら無邪気に喜んでいる。いいとこ育ちなだけあって、根は素直なのね。できればもっと早く素直になってほしかったわ。でも妖怪に刃物を突きつけられて狼狽えないのってどうかと思うの。
お嬢さんを部屋の中央に案内したら、すかさずムラサが格子を閉じてしまう。そのまま次々に部屋中の戸を閉ざすのを見て、お嬢さんは、
「なぜ扉を閉めてしまうの?」
「授戒は神聖な儀式ですから、横入りを防止するのです。やめたいのでしたら今のうちにどうぞ」
「い、いえ、やめません」
ムラサが厳重に戸締りを確認してる間に、私はお嬢さんを座らせて授戒の何たるかってのをざっくらばんに説明する。
(オッケー?)
(オッケー)
切りのいいところで目線で合図を交わして、ムラサは切り落とした髪を入れるための箱を持ってきて、ついでに経典を広げて、柄杓を片手に……柄杓? 何をするつもりなのムラサ。まあとにかく、形だけならそれっぽくなってきた。
さて、私も腕をまくったら、何だか緊張してきた。浮舟の髪を削いだ阿闍梨ってこんな気持ちだったのかな。大丈夫よ雲山、いいから私が言った通り、後ろで私のやることをちゃんと見ててね。
「それじゃあ、失礼します。目を閉じて、合掌して、四恩……そうですね、ご両親と、賢者と、衆生と、それから三宝に礼拝を」
「はい……」
お嬢さんが言われた通りにする。ムラサが「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」と唱えて、お嬢さんにも復唱してもらう。要は欲界、色界、無色界の三界を漂ってる間は愛とか恩とかいった執着を断ち切れないけど、出家してそれらを捨てることこそが真の報恩なのです、というアクロバティック屁理屈なのだけど、望んで恩愛を断ち切ろうっていうお嬢さんに響くんだろうか。
私はお嬢さんの島田をほどいて、本当に豊かな髪ね、片手ですべての髪をまとめて持ち上げて――。
顕になったうなじに、雲山がストンッと手刀を落とした。お嬢さんは前のめりに倒れて、受け止めた雲山と一緒に様子を確認したけど、ばっちり気絶していた。
「ナイスよ、雲山」
髪のすり抜けた手を握りしめて、我が相棒と拳を合わせた。
騙した挙句、手荒い真似になってごめんなさいね。一旦落ち着いてもらわないと、貴方も怪我しちゃいそうだったからさ。だけど雲山がちゃんと加減をしてくれたから、嫁入り前の身体は傷ひとつつかないで、しばらく経てば目が覚めるはずよ。え、腕の一本くらいならいいって、誰が言ったの?
「あー、焦った。こんなとこ見られたら本当にヤバいんだからね」
「大丈夫よ、窓も格子もぜんぶ閉めたんだから、誰にも見られてないわ」
だって妖怪が刃物持って人間の背後に回って、見る人が見れば授戒だってわかるけど、鴉天狗なんかが変に捻じ曲げて、殺人未遂とか吹聴されたら困るからね。
「ていうか柄杓なんていつのまに出したの?」
「うちの池で飛び込み自殺されるくらいならその前に池の水全部抜いてやろうと思って」
「そう、私はてっきり面倒になって舟幽霊にしてあげるつもりかと」
「んなわけあるか。ていうか、一輪こそ言葉選びに気をつけてよね。あんたが余計なこと言うから、お嬢さん変なスイッチ入っちゃったじゃない」
「それは……ごめんなさい」
ムラサにじとりと睨まれて、思わず縮こまる。本来、こういう相談役って意外にも私よりムラサの方が向いてるのよね。私は引き止めるつもりが火に油を注ぐ真似をしちゃって、そこは素直に反省します。雲山まで何だか視線が厳しい。口は災いの元って本当だわ。
ともかくお嬢さんが無事で何よりだ。気絶してるのに無事ってのも変だけど。
「だけど焦ったわよ。まさか身投げするとか言い出すなんて。恋する乙女はおっかないわね、妖怪より恐ろしいわ」
「おいおい、妖怪僧侶がそんなこと言っちゃっていいの?」
笑ってるムラサだけど、頬にお嬢さんの裏拳を食らった跡がきっちり残ってる。こいつに傷負わせるって大したパワーよ。
「聖様が帰ってきたらお願いしようね、この子の親御さんを説得してくれって」
「うん」
派手にドンパチ暴れてる妖怪僧侶っても、下っ端よりは住職が出てくる方がまだ聞く耳持ってくれるでしょ。足元見られるのは嫌だけど、お嬢さんの命には代えられない。また思い詰めて出家する身投げすると騒がれても困るしね。
「お嬢さんの恋、許してもらえるかな」
「さあ……だけどこのお嬢さん、たとえ親に認めてもらえなくても丁稚奉公の手を引っ張って駆け落ちくらいしそうじゃない?」
「あっはっは、やるやる!」
ムラサとひとしきり笑ってから、私達は揃って難しい顔をした。
だって親に反対された恋なんてさ、ロミオとジュリエットを引き合いに出すまでもなく、安積山だとか、鬼一口だとか、昔から悲恋に終わることが多いじゃない。どう考えても茨道よ。ハッピーエンドなんて竹芝寺くらいじゃないの?
お嬢さんは結婚相手のことも意中の奉公人のこともあんまり喋ってくれなかったからよくわからないし、無理な結婚が不幸せなのは違いないけど、じゃあ愛する人と結ばれれば幸せかといえば、残念ながら、現実は厳しい。
考えてみればお嬢さんも気の毒なものね。いい家に生まれて、衣食住に何不自由なく育って、教養もあって、なのに恋愛も許されず結婚で家に縛り付けられちゃうんだから。
その点、私達はもうとっくに人間やめてる妖怪だから人間のルールになんか縛られなくていいんだ。年齢なんかあってないようなもんだし、家だの一族だの苗字だののうるさいしがらみはないし、結婚がどうの子供がどうのとせがまれなくて済むし。世間の求める『女の子はおしとやかに』なんて模範とか気にせず、ずっと好きなことに没頭しててもいい。妖怪は自由だ。
代わりにお寺のルールだとか戒律だとか、他にも幻想郷の決まりごとには従わなきゃならないけど、人間も妖怪も、集団で暮らすには何かしらのルールがないと無理があるのよ。
私はうつ伏せのままのお嬢さんを仰向けにして、意識がないとますますお人形さんみたいだなあと思う。
可憐でおしとやかで、だけどとんでもなく強情っぱりでタフネスなお嬢さん。貴方が本当にこの世で生きていくのが嫌になって、本心から仏様のお慈悲に縋りたいって思ったなら、改めて命蓮寺にいらっしゃい。その時は本当に私達が出家の手伝いをしてあげるよ。
さて、聖様が帰ってくる前に、とりあえずお嬢さんをどっかに休ませてあげようか、と思ったら。
「何です、さっきから妙に騒がしいと思ったら、急に静かに……」
本堂にいたはずの星が急にがらっと格子を開けた。
そして星は手元の宝塔を落とした。
ええと、今の部屋の状況を整理しようか。
中央、仰向けで気絶してるお嬢さん。
その後ろ、無言で青ざめてく雲山。
左、まだ柄杓を持ったままのムラサ(だから早くしまいなさいっての)。
そして右、やっぱりまだ剃刀を持ったままだった私。
(やっば)
星が見事に「ぎゃー人殺しー!!」と叫んでくれたおかげで駆けつけてきた響子とぬえさんとマミゾウさんと、ついでに寺に来てた小傘とナズーリン、全員の誤解を解くのに時間がかかったのは星の早とちりのせいであって、決して私達の日頃の行いのせいなんかじゃないわ、決して。誰よ星がお人形さんみたいだとか言った奴。
なお、渦中のお嬢さんはこの大騒ぎの中でぴくりとも目覚めなかった。いい根性してるわ、まったく。
◇
それから何とか星達の誤解を解いて、帰ってきた聖様にはみんなで揃ってお嬢さんの現状を誇張込みで訴えた。このまま出家するって言うんですよ、今どき親同士の決めた結婚で恋人が引き裂かれるなんてあんまりじゃないですか、お嬢さんは思い詰めてムラサに「私を舟幽霊にしてください」とまで言ったんですよ(さすがにこれは盛り過ぎでしょ)、などなど。のっぴきならない状態だと判断してくれた聖様がお嬢さんを送りにお屋敷まで一緒に連れ添って、どうか結婚だけでも断念してくれとご家族を説得してくれたおかげか、お嬢さんの縁談はめでたく白紙になったそうだ。
その後のお嬢さんと恋人がどうなったかって? さあね。あの逞しいお嬢さんなら結ばれようが引き裂かれようが、強く生きていくんじゃないかしら。だからこの話はおしまい、どっとはらい。
一輪達だけでなくお嬢さんも芯が強くてとてもいいなと思いました。
ちゃんと仕事してる一輪が妙に新鮮でした
少女小説風の文体が懐かしさがあってすごく読みやすかったです。