***1***
人里にある貸本屋、鈴奈庵にも初夏が訪れる。
「はい!ご注文の小説です」
その言と共に差し出された冊子を見た一人の少女は、さらさらとした和紙を柔らかく撫でながら、大きな目をまん丸にさせた。
「ありがとう!これ、ずっと読みたかったんだぁ」
ぱっと目を潤ませる少女を見ながら、店番である本居小鈴も唇を綻ばせる。小首を傾げれば、鈴の髪飾りがりんと鳴る。花をあしらった萌黄色の着物に、新緑の袴。そばかすと栗色の瞳が特徴的で、背丈は同じくらいの女の子。彼女は小鈴の寺子屋時代の友人だった。
「ふふふ。気持ちもぽかぽか温かくなるこの季節、読書には最適な時期ですから。この機に是非、読みたかった本を沢山読んでくださいね」
「あはは。相変わらず小鈴ちゃんは商売上手だねぇ」
久方ぶりの会話に、空間全体が温かな空気に包まれる。寺子屋に通っていた時も、この子が見せてくれる笑顔にはいつも助けられてきたっけ。懐かしい。
からり、戸が開く音がする。お客さんかな、と小鈴が入口に視線を向けると、枯葉色のキュロットを履くすらりとした足が、暖簾を揺らしていた。
「こんにちは」
雲雀のように通る声。来訪者の像がかちりとつながって目を見開くと同時に、紅い瞳をたたえた端正な顔が見える。
「あ、あやさんこんにちは」
「ええ、お疲れ様です。こちら、今週の新聞になります」
"あや"と呼ばれた女性は、小鈴の挨拶ににっこり微笑むと、左手に持った臙脂色の風呂敷を右手で示す。キュロットと同じ色のスーツ、下には白のワイシャツと紅葉色のネクタイをきっちり締め、キャスケット帽を被った出で立ち。最近彼女は肩まで伸びた髪を後ろで小さく結ぶのが気に入っているらしい。確かに細くスタイルの良い"あや"には良く似合っている。
「いつも置いてくださり有難うございます。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ。確かに受け取りました」
小鈴のいる机まで歩み寄った"あや"は風呂敷を丁寧に机上に置く。彼女は、こうして風呂敷を置いていく時、礼を欠かすことがない。もうそこそこ付き合いが長いのだから今さらとも言われそうだが、こういう律儀なところが、"あや"の一番好きなところだった。
「今日は何か本をお探しになりますか?」
「すみません。そうしたいのはやまやまですが、今日はこれからまた取材に行く予定がありまして」
「分かりました。取材、頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。近く、また記事を持ってこれると思いますので、楽しみにしててください」
肩から提げた鞄を持ち替えながら"あや"はこちらへウィンクを投げかける。これがズルい程似合っているものだから、逆に苦笑してしまう。そんな反応にも気を良くしたように"あや"はキャスケット帽の縁を小さく整えると、「それでは」と小鈴たちに背を向けた。
「ありがとうございましたー」
ぴんと伸びたまま背中が暖簾をくぐっていくのを、小鈴は頭を下げて見送っていく。
さて、と。これからいつものように値札と貼り紙を準備しなきゃ。この新聞はいつも人気が高いから、これからしばらく、売り上げが楽しみ。んー…けど、どうしてもしばらくはこればかり注目されちゃうからなぁ。他の本も手に取ってもらえるように、ちょっと考えないと――
「……」
と、萌黄色の少女が目に入る。暖簾を見ながら、丸い栗色の目をさらにまん丸に見開いて、口は半開き。さっきまで抱えていた本も、今は胸から少し離していて、ただ固まっている。
活発な少女の突然な変化に、小鈴は身体を近付け「おーい」と手を振って反応を促してみる。
「ど、どうしたの?さっきから入口の方見ながら黙っちゃって」
「…小鈴ちゃん、」
返事が聞こえたかと思うと、少女は表情を変えないままゆっくりと向いて。びくっと身体を引っ込めた小鈴の肩を、がっとつかんできて。
「あの綺麗な人、誰!!??」
「…あ、あぁ。そういうこと」
少女の覇気に気圧されながら、小鈴は小さく頷く。引き出しの中から"社会派ルポライターあや"と書かれた名刺を取り出してあげると、彼女は目をまん丸にさせながら厚紙を上に裏にとかざした。
「あの人はね、最近ここで新聞を出してる記者さん。このお店で販売しているの」
先程置かれた臙脂色の風呂敷に目を落とし、結び目に手をかける。上質な布を使っているのだろう、さらさらとした手触りも、ほどいている時の衣擦れの音もとても心地良い。
広げられた風呂敷の中には、"あや"がライフワークとして刊行を続けている新聞。『文々。新聞』と題が書かれたその一面には、見出しと共に、一枚の写真がでかでかと貼られていて。あ、紅白の巫女さんの写真。全く、通常運転だなぁ。
「!これ読んだことある!」
と、衣擦れの音に顔を向けた少女が、目に泉を宿し、弾んだ声を出す。そのまま一部、即お会計。こういう時、手に取りやすい価格設定は本当にありがたい。
「へー、あんな若い女の人がこれ書いてたんだぁ…憧れるなぁ」
「そうだよね。とてもかっこいいよね!」
紙面の上から下へ視線を巡らせていく少女に、小鈴は唇を綻ばせる。
やっぱり、自分で本読むのも良いけど、他人が活き活きと文字を読んでいるのを見るのも、とても好き。感嘆で小さく呼吸をこぼす音も、ぴたりと一点に止まって輝きを増す大きな瞳も、すごく気持ちが良い。
「……けど、ヘンだなぁ」
「?何が?」
と、新聞から視線を外す少女に、小鈴は首を傾げる。
少女は頬に指を当てる仕草を見せると、ぽつり、何ということもなく疑問を口にした。
「ほら、里ってそんなに広くはないじゃん?だから、あんな美人さんが取材に歩いてたら、今まで一回は見たことありそうなんだけど………」
………あっ。
かち、と笑顔が固まる。
小鈴は、"社会派ルポライターあや"という記者が何者なのか知っている。鈴奈庵の取引先としても、私人としても、今や彼女とは短くない付き合いである。
"申し遅れました。実はルポライターとは仮の姿。本当の私は――"
けれど、彼女の正体を、目の前の少女に教える訳にはいかない。
"実は天狗なんですよ。驚きました?"
だって"社会派ルポライターあや"の正体は、本来人間の里に入ることは許されないはずの鴉天狗――"射命丸文"なのだから。
冷汗が頬を伝っていく。文が危険という話ではない。むしろ、今や小鈴にとって、文はそれなりに信頼出来る存在ではある。けれど、彼女が天狗だと知られてしまうのが、文にとっても人間にとっても都合の悪い話になり得ることは、経験として小鈴が学んでいることでもあった。
どうにか誤魔化さなくちゃ、と口を開けて、けれど何も良い考えが浮かばなくて。からからに乾いた口を一旦閉じて、唾でどうにか湿らせる。
「ほ、ほら!帽子を目深に被ってたら、顔がよく分からないこともあるんじゃないかな」
「うーん……にしても、あの記者さんの恰好目立つと思うんだけどなぁ…」
「う、うーん」
大失敗。顎に指を当て、瞼を薄く閉じ考え込んでいる少女に、小鈴も眦(まなじり)に手を添え、どうにか繕おうと唸る。
どうしよ。どうしよどうしよ。寺子屋の頃から知っている仲だけど、この子はとても賢い。その場しのぎの説なんかでは決して満足してくれない。そして――
小鈴が思考を巡らせる横で、少女は顎から指を離して、「よしっ」と小さな拳を握って。
「いつも、どこに住んでますかって聞いてみてくる!」
あぁぁ、ほらー!ほらー!!こうなったー!!!
「あ、文さんに?ちょっとそれは、待った方が良いかなー」
「大丈夫!暗くならないうちに聞き終わるから!」
「そうじゃなくて、その」
あわあわ手を振りながらなんとか止めようとしても、彼女は元気溌剌、ぴんと背筋を伸ばす。まん丸の目には、好奇心と冒険心いっぱいに光が満ちあふれてて。
対して、小鈴の目はぐるぐる回って、姿勢も定まらない。なんとかしなきゃ。けど、一回スイッチ入っちゃったらこの子、易々とは止められない。何か、何か方法は――
「またね、小鈴ちゃん!」
「あ」
…という間に、少女は萌黄色の袖をぶんぶんこちらに振ると、そのまま暖簾の向こうへと駆け出してしまう。
しんとした店内。長く細いため息を吐きながら、どさり、椅子に崩れ落ちる。背もたれの悲鳴を耳に感じながら、すっかりくたびれた目で天井の方を見つめる。
「…ど、どうなるのー」
気の抜けた問いかけが、四方の本棚へと消えていく。様々な叡智を蓄えた書物にも、小鈴の質問に答えてくれる者はいなかった。
***2***
「とは言ったものの…」
かくして、謎の記者"社会派ルポライターあや"への取材試みる少女。が、鈴奈庵の暖簾から飛び出してすぐに、ある問題に気付く。
あの記者さん…"あや"さん、だっけ。店を出てから時間も経っちゃったしなぁ。どこにいるんだろう…
辺りの道をきょろきょろ見回してみる。寺子屋終わりなのか、一方向から元気に並んで走っていく子供たち、三度笠を被り、葛籠に入った荷を運んでいく男性、小袖と湯巻を身に付けて、夕飯の買い物をしている様子の女性、今日も人間の里の人通りは多い。けれど、その中から記者さんの姿はもう視認することが出来なかった。
「むー…」
下唇を結ぶ。これだけの人通り、いくら記者さんが幻想郷でも珍しい恰好をしているとは言っても、彼女一人に注目し行き先まで記憶している人を見つけるのは至難の業だろう。それに、目立って聞きまわってしまったら、自分が記者さんを見つける前に向こうに気付かれてしまう危険が高い。出来ることなら、この計画は記者さんには気付かれたくなかったのだ。
小さく肩を落とす。また鈴奈庵に行けば、いつか会えるかな…
…はぁ。今日は帰ろ。
とぼとぼ、家路を辿り始める。小さく俯いてしまった視界には、誰が歩いているか、どんな表情をしているか、はっきりと見えない。音や声だけが、落ち込んだ耳に場違いな彩りとして聞こえて来る。
ほら。例えば、左から雲雀のような綺麗な声がして……
……
…あれ?
ぴたりと立ち止まる。真後ろを歩いていた行商人がぶつかりそうになって、躱すように少女を追い越していく。その様子にすら気付かぬまま、少女は顔を小さく左に傾け、もう一度声を聞こうと試みる。
「――」
次の刹那、ぱっと目を輝かせて、そのまま声の方に体を向ける。
!!…さっきの人!
スーツにキュロット、キャスケット帽の恰好、そして忘れられない端正な顔立ち――鈴奈庵で見かけた記者さんが、視線の先にいた。
「良かった見つかって…」
ほっと胸を撫でおろすと、改めてまわりを見回してみる。
ここは喫茶店。小さく開けられた入口の向こうで記者さんは何か話している様子。誰と話しているかは入口の柱に挟まれていて見えない……が、記者さんの手元にはかめら?と手帳が置かれ、時折相槌を打ちながらペンでさらさら書き留めていく。
…そっか。鈴奈庵でこれからまた取材だって話していたっけ。今はまさにその最中なのだろう。
さて。だとすると、今そのまま記者さんに話しかけに行くのは、邪魔になってしまう。と言って、いつ出て来るか分からないのに、ここでずっと待っているのも迷惑になっちゃうし…
壁際まで歩き至近距離に人がいないか見回すと、懐から巾着を取り出して、中身を見る。
「お金は…ちゃんとあるね!良し!」
こうなったら、お客さんのふりして話しかける機会を待つ!
ぐっと拳を握り息を吐くと、決意新たに、少女は喫茶店へと足を踏み入れた。
木床特有の重い足音。香ばしい匂い。外とは全く異なる静穏な空気にきょろきょろしながら、少女はカウンターの一席に案内される。背の高い椅子に座ってお品書きを見ると、食べたことのない名前がずらりと並んでいて、大きな目をまん丸にさせる。
まわりの客層を見ても、落ち着いて本を読んだり飲みものを堪能している人ばかりで…その、なんというか"大人"。
「ご注文お決まりですか?」
「は、はい!」
店員さんのにこやかな声に、つい返事してしまう。ど、どうしよう、早く決めなきゃ。うー…けど、これは何かとか聞いちゃうのも、なんだか恥ずかしいし……――あっ。
「これ、お願いします」
「はい。アイスコーヒーですね。少々お待ちください」
"氷珈琲"と書かれた文字を指さしで示すと、店員さんはゆらりと頷いてその場を去っていく。こつ、こつ、木床が響く音を耳にしながら、少女はさっき注文した文字に胸を高鳴らせていた。
"珈琲"。"珈琲"。ふふっ。鈴奈庵で借りたことのある小説で、探偵が飲んでいたと描かれる飲みもの。やっぱ"探偵"には、これがつきものだもんね。ふふふ。
「――」
「――」
さて。本題。
少女の座るカウンター席は、記者さんが座るテーブル席の、ちょうど真後ろに当たる。だから、見えるのは、彼女の背中だけ。具体的に何をしているのか、どんな表情をしているのかは見えない。その代わり、記者さんが話している相手は、正面から見ることが出来た。
童話の姫君がそのまま抜け出してきたかのような、西欧の女性だった。空色の瞳、金色の髪、白色の顔。透き通った声は、青色のドレスも相まって、大瑠璃のよう。
「――」
「――」
記者さんの質問に対し、その女性は、すらすら語るように返事をする。そうだ、この語り口、聞いたことある。たまに里で人形劇を見せてくれる人だ。寺子屋に通っていた時に人だかりを見つけては、いつもその声に誘われて。この人の人形劇がきっかけで、本を読むのが好きになったんだっけ。
あの人、記者さんと知り合いだったんだ。
……
はぁー。ため息しか出ない。二人とも綺麗だなぁ…
「お待たせしました。アイスコーヒーになります」
「あ。ありがとうございます」
と、背後から店員さんの声が聞こえると、コルク製のコースターにグラスが置かれる。青の矢来文が美しく描かれた切子に、焦茶色の液体が注がれている。
グラスを持ち上げ、氷をからり。ふふふ、良いね、渋い。小説のまま。そのまま、冷たい液体を一口。
「……!」
次の刹那、瞳が小さく揺れ、一気に現実へと引き戻される。口を真一文字に結んで、顔の歪みと咳を辛うじて抑え込みながら、珈琲を嚥下する。
……に…苦い~…!
切子のグラスをコースターの上に戻す。青い切子のグラスが、珈琲の色味が、さっきよりもずっと重く見えてしまって、手が伸びない。
また、きょろきょろと辺りを見回してしまう。店全体の落ち着いた空気が、却って居づらくなって、膝をそわそわさせる。たった一口で、自分が背伸びをしすぎたのではないかと、不安が渦巻いて。
…どうしよう。ここ、出た方が良いのかな。
けど、冷たいグラスを見つめ、ちくり。自分の目からは重々しく見えても、この店の人が、丁寧に淹れてくれた味。きっとここに通う人たちが、愛している味。このまま飲めずに帰るのは、嫌だなぁ…
「お待たせしました」
いきなり背後から聞こえた声に、ぴくっと肩を揺らす。振り返れば、さっき運んできた店員さんの姿。どうしよう、気を使わせてしまったのかとあたふたするところに店員さんは一歩ずつ近付くと、ことり、珈琲の横に何かを置いた。
「…あの、これは?」
「はい。初めて来られたお客様への、店からのサービスです」
店員さんはにこやかな表情のまま返事をする。またその置かれたものを見る。小さな瓶の中に満たされている、琥珀色をした何か。
なおもどういうことか分からずに首を傾げると、小さな木の匙が目の前に差し出される。
「珈琲に少し入れてから飲んでみてくださいね」
木の匙と小さな瓶を見比べ、瓶を持ち上げてみる。ごくり、と唾を飲み込む。さっきの苦みが思い出されて、ためらいながら切子に瓶を近付ける。
たらり、琥珀色の液体が珈琲へ吸い込まれていく。垂れていく液体はとろみがあって、小さく匂いを伝えて来て。そこでようやく、その液体が何かを悟る。
…これ、蜂蜜だ。
蜂蜜…蜂蜜かぁ…本当に苦い珈琲に合うのかなぁ。
木の匙でからからと溶け込ませ、またグラスを持ち上げる。胸の鼓動がちょっとだけ弾む。さっきまで重く感じていた切子が、期待と緊張に今はちょっとだけ軽く感じる。からり、氷の音を耳に、冷たいグラスを傾ける。
!
一口飲んで、目に光を戻す……さっきより全然飲める!
唇を綻ばせながら、再び蜂蜜を珈琲にたらす。さっきよりちょっとだけ小さくなった氷が、木の匙に軽やかな音を立てる。結露したグラスを持ち上げ、再び一口。
はぁ…不思議な感じ。
まだ苦さにはあんまり慣れないけど…その苦みが、蜂蜜の濃厚な甘さを包んでくれている、というか。こっちが飲めるようにしてくれつつ、落ち着いた香ばしい味わいは保ってくれてる、というか…
グラスを口に運びながら、ちらり、傍らを向く。テーブル席の方で、蜂蜜を置いてくれた店員さんが、お客さんの注文に微笑みながら対応している。…あの店員さん、きっと私が珈琲を飲みにくそうにしているのに気付いて、こっちが恥ずかしい思いをしないようにあの蜂蜜を準備してくれたのだろう。
…珈琲、またここで飲みたいな。そしたら今度は、お茶菓子とかも注文してみよう。ほら、メニューを見ただけでも、なかなか食べられなさそうなものがいっぱいあるし。鈴奈庵で借りた本を読んでみる、というのも良いかも!今日借りた本とか、まさにこういうお店の空気にぴったり。
ふふふ。良いな。良いお店見つけちゃった。
…と。忘れるところだった。今は記者さんを追ってるんだ。
今もまだ取材中なのかな。そういえば、さっきから声が聞こえない気がするけれど…
……
「!」
栗色の瞳を大きく見開いて、小さく息を呑む。
…いない!?
も、もしかして珈琲に夢中になっている間に取材終わっちゃった!?
焦りを顔に表しながら、入口の方に視線を向け、瞳を小さく揺らす。お会計を済ませた記者さんと人形使いさんが、ちょうど互いに手を振って別れているところだった。
せっかく見つけられたのに、このままだとまた見失ってしまう。
…けど。ギリギリセーフ。今ならまだ間に合う!
グラスを傾け、残った珈琲を飲み干していく。まだ慣れないほろ苦さも、袴に一滴伝っていく結露も、今の彼女には関係ない。栗色の瞳には、本来の目的を思い出した光が、めらめらと輝いていた。
「ご馳走様でした」
手を合わせ、急ぎ席を立つ。小さく目を丸めて固まっていた店員さんを素早く見つけると「あの」と声をかけた。
「お会計、お願いします!」
***3***
アリス・マーガトロイドが喫茶店を出た時に感じたのは、柔肌を刺してくるような暑さだった。
白い腕を頭にかざして西の空を見ると、空が薄く夕の装いを始める中、太陽が独り、元気に輝いている様子。何故だか他人事に思えない景色に苦笑しながら、一息つく。もう、すっかり夏ね。
後ろに浮いていた上海人形を手招きして、茶葉の入った鞄を託す…さっきの喫茶店、なかなか良かったわね。内装も客層も全体的に落ち着いてたし、紅茶も悪くない。開店してからあまり経ってなくて、色々試してみてる、て話だったけど。ふふっ。これからがとても楽しみだわ。
…それはそれとして。
歩を踏み出す前に、顔だけ小さく振り返る。視線の先には、さっきまで取材兼お茶会を共にした記者、射命丸文の背中。そして、
「…」
………何、あれ?
柱の陰にこっそり身を潜めている――つもりで、文の後をつけている、萌黄色の少女。
彼女は、さっきまで喫茶店のカウンター席にいた。その時も、会話していたこちらを、ちらちら見ていたと思う。別にそれ以上のことをすることはなかったから、そこでは特段気にはしてなかったけど…
真っ直ぐ歩く文の背中に、湿った視線を送る。
…貴女、もしかしてあの子を怒らせるような記事、書いたんじゃないでしょうね?
あ、柱から樽にささっと移動した。そして、また歩いていく背中に向けて、じーっと…本当にあれで隠れてるつもりなのかしら?ほら、道行く人が不思議そうな目で見てるじゃない。
どうしよう、はらはらする。
…いっそ、声かけてあげた方が良いのかしら?事情を聞いて、あの子と文を会わせた方がむしろ良いのかしら?けど、隠れてるってことは、誰にも気付かれたくないってことなのかもしれないし…
整った指をやきもき組み替える主人に気付き、上海が不安げにアリスを見つめる。あぁもう、なんで私がこういうことを気にしなくちゃいけないのよ。全く、こうなってしまったのもあの生意気魔法使いのせいで――
「――あ!おーい、アリスー!」
聞き馴染みのありすぎる声に、思わず飛び上がりそうになる。鳴り響く鼓動を呼吸でつとめて抑えながら、いつも通りのすました顔で声のした方に向き直る。
案の定、そこにいたのは、さっき彼女が頭の中で文句を言っていた"生意気魔法使い"本人。
「…魔理沙」
さっきまで走り回っていたのだろうか、霧雨魔理沙は、膝に手をついて、荒い息をついている。
白い腕に小さく汗が光っているのを見たアリスは、上海と目を合わせる。主人の意を受け取った人形は魔理沙の近くまで寄ると、水筒とハンカチを彼女の前で出してあげた。
ぷはぁ、と息をつく魔理沙の笑顔に、複雑な表情を向ける。まだまだ活発な西日に照り映える彼女は、腹立つくらいに可愛らしい。全く、こういうところがあるからほっとけない―――ともやもや胸に抱えていると、水筒を上海に返した魔理沙がこちらを見るのに気が付いた。
「ちょうど良かった……実はお前に聞きたいことがあってさ」
凛とした声音に、綺麗に伸びたアリスの背が少し固まるのが分かる。黄金の瞳には、真っ直ぐとした光が宿っていて。彼女がこういう目をしている時はどういう時かということは、長年の付き合いで良く分かっている。
反応の前に、再びちらり、後ろに目を向ける。時間が経ってしまった視界からはもう、枯葉色のルポライターも萌黄色の少女もいなくなっていた。
「――奇遇ね。私もなの」
***4***
真っ直ぐ歩いていく記者さんの背中が目に入る。すらりとした見た目も相まって、歩き姿を見るだけでも思わず見とれてしまう。ぼーっとしそうになる頬をくり返し叩いて意志を新たにしながら、少女は記者さんの後を追い続けていた。
…本当は、喫茶店を出て、一人で歩いている時に、話しかけるつもりだった。話しかけたら一気に、これで独占取材!記者さんの情報ゲット!!と押していくつもりだった。
…けど。
…どうしよ…緊張しちゃう…話しかけられない…
「…」
柱から柱へ移りながら、眉を小さく顰める。歩いていくうちに、もやもやした気持ちがどんどん膨らんでいく。
…どうしたんだろ、私。いつもの私なら、あれちゃんと話しかけられるところなのに。今は試しに手を伸ばそうとしても、それが出来なくて。引っ込めて袖をまくると、何故だか鳥肌が立っているのが分かる。
…なんだろう。「これ以上近づいたら駄目」て言われているみたいな…
後ろを振り返ると、薄くなった空でお日さまが西へ傾いていくのが見える。うー、もうすぐ夕方じゃん…そろそろ帰らないと駄目な時間…
……
…ん?夕方?
あ―――そっか!
もう夕方ってことは、あの人もそろそろ家に帰るんじゃないかな?
再び瞳に光を宿しながら、歩いていく記者さんを見つめる。
人外が跋扈する幻想郷、"夕方を過ぎ暗くなったらみだりに外出してはならない"とは、寺子屋でしつこいくらいに言われている。そしてそれは、たとえ大人であっても、人里の中であっても例外ではない。そのため、ここに暮らす人間は、日が落ちる前に自宅の玄関を潜る者がほとんどだった。
それは、あの記者さんだって例外ではない。このまま記者さんについて行けば、あの人の家にまで到着する。そもそも、今こうして記者さんについて行ってるのだって"彼女がどこに住んでいるのか聞いてみる"のが本来の目的だったのだ。
話しかけるのが無理そうなら、このまま家までついて行こう。
小さく頷き、また柱から柱へ、歩を進める。
「…」
分かれ道に差し掛かった記者さんが、歩みを止めて、辺りを見回す。ここは人間の里の東端。左に曲がれば、民家が軒を連ねる場所に辿り着く。
きっと、つまり記者さんはその家のどこかに住んでるのだろう。記者さんの様子を見ながら左へ足先を向け、曲がる準備をする。
と、記者さんが再び歩を進め始める―――民家のある左ではなく、右へ。
あ、あれ?あっちは里の外に行く道だったような…なんで。
「ま、待ってー」
乾いた喉からが声が出てしまう。けれどやはり、記者さんには聞こえていないらしく、どんどん歩いて行って。唾を飲み込んで喉を少し濡らすと、速足で記者さんを見失わないよう後を追う。
歩くの、速い…。こっちの道って確か、東門に行く道だよね。
「…はぁ」
「!」
びっくりした…いきなりこっち振り返って来た…
見つかって…ないよね。軒に隠れながら、辺りを見回す記者さんを見て、呼吸を繰り返す。
気が付けば、道にはもう、記者さんと自分しか残されていない。薄暗くなっていく景色の中で、静寂が身体を小さく震えさせる。記者さんが立っている向こうには、人間の里の端を示す東門が、通る者を待ち構えていた。
…あの人、門から出てくつもりなのかな。
「…」
誰もいないと見たのか、息をつくと、そのまま門を真っ直ぐ潜っていく。人里の境をあっさりと抜けてしまう記者さんを見ながら、少女は首を傾げていた。
…あの人、里の外に暮らしてるのかな?
そういう人間もいる、という話は知っている。それぞれの事情があるのだ、幻想郷の人間全員が里に暮らしている訳ではない。それに、記者さんを今まで見たことがなかった、という疑問も、あの人が里の外に住んでいたからだ、とすれば納得は出来る。
けれど。胸の鼓動が少し激しくなる。刺さった違和感は拭われることなく、じわじわ広がっていく。
本当は、納得出来ない。きっと、それだけではあの記者さんのことを説明出来た訳ではない。
考えて。考えて。記者さんが一歩ずつ離れていく景色が、思考と共に、ゆっくりと回っていって。そして、
かちり、何かがはまった。
――もしかして。そもそもあの人、人間じゃないんじゃ…
大きな瞳に光がきらきら輝きだす。パズルのピースが次々とはまり、覆っていた靄を一気に祓っていく。
そうだよ!それだ!きっとそうだ!……だとしたら、
"だいすくーぷ"じゃん!!!!
聞いたことがある。妖力と知性を兼ね備えた一部の妖怪は、人間の姿を取ることがあるという。見た目だけでは全く見分けをつけることが出来ず、しかも一部は里に入って普通の人間と変わらない交流を結んでいるとのこと。
それが、あの人かもしれない…!!
激しかった胸の鼓動が、興奮でさらに高鳴る。ぐっと握りしめた拳に汗がたまっていく。
こんな暗い時間に、里から出ようとするのも。あの人から発せられる、重く近寄りがたい空気も。あの人が妖怪なら説明がつく!
鷹と化した鋭い視線を、前へと向ける。視界の先では、ちょうど記者さんが門の向こう側に消えていくところだった。
…そうと分かったら、あの人の正体を確かめなきゃ。まだ日は落ち切ってないし、追いかけられるはず!速足で門まで駆け寄ると、すぐ傍にある壁へぴたりと背中をつける。
「門の影に隠れつつこっそりと…」
そうして、柱から門の外を覗きこんで、背中を追おうとして…
……あれ?
目を大きく見開くと、門の正面から飛び出していく。一面に広がっている田園をぶんぶんと見回す。
――いない!?
「う、うそ…」
さっきまでそこにいたのに。
焦りが一気に胸を渦巻いていく。このだだっ広い光景、見晴らしが良いという次元ではない。だから、あの門をくぐったのなら、どこか視界に入っているはずだ。
…なのに、何回見回しても。やっぱり、記者さんの姿は見えない。
胸騒ぎに突き動かされ、駆け出していく。畦道をひたすらに走って、走って。時折止まり、辺りを見回して、また走って。
何回くり返したのだろう。荒い息と共に再び立ち止まり、再び水田を見回す。さっきくぐって来た東門は、既に米粒ほどの大きさに縮んで見える。いつの間に、これだけの距離を走ったんだ。茜色を帯びていく静寂の中で、蛙の歌だけが耳に入る。
記者さんの姿は、やはり見えない。涼しいそよ風が、夜の空気を知らせてくれる。
さすがに、もうまずい時間。そろそろ戻らなきゃ…我に返って来た道を戻ろうとした――その時。
がさり。後ろの草叢から、音がした。
「……ぁ」
――後ろに、誰かいる。
立ち止まって耳を傾けると、がさ、がさがさと、草叢が揺れる音が、こっちに近付いて来るのが分かる。
何か、動物が潜んでいる?…………猪?
全身に汗が噴き出してくるのが分かる。がたがた歯が震え、まるで高いところから突き落とされたような浮遊感が、少女を襲う。
――むしろ、猪の方が良い。猪であって。
赤色を不気味なまでに濃くした夕空。先程までのそよ風から一転、澱んだ風が、巻き付くように肌を撫で始める。
ざわ、ざわ、と草を鳴らす音が騒がしく耳に響き、合わせるかのように、がぁ、がぁ、と不吉な鳴き声が聞こえる。それが鴉の鳴き声だということに気付けない程に、この時少女の頭は恐怖でいっぱいになっていた。
「ぁ…ぁ…」
膝ががくがくに震える。逃げ出したい。けど、逃げられない。地面から根っこが巻き付いているかのように、どんなに命令を出しても足が動いてくれない。そのことが、少女の焦りをますます加速させる。
どうしよう……怖い…!
後ろを振り返りたくなるのをどうにか抑え、目をつむり、耳をふさぐ。音も、風も、何もかも、拒否するようにその場にうずくまって。どうにか、この時間が過ぎて欲しいと祈ることしか、今は出来なかった。
……
………
…………?
いつの間にか、冷たい風がなくなっている。うずくまったまま、おそるおそる薄目で、眼前の景色を見る。さっき見ていたのと変わらない穏やかな茜色に、実はほぼ時間が経っていなかったことを悟る。
…?気配が、消えた…?
手を頭から離して、ゆっくりと立ち上がる。蛙の歌声が再び響き、苗がそよ風に緩く靡いているのが分かる。
「…体、動く」
とん、とん、と靴の爪先で地面を叩き、軽やかに跳ねる。そこで少女は初めてほぅ、と息をつく。
何だったんだろう、今の。本当に妖怪が近くにいたの、かな……あんな気配、初めて感じた。
…けど。着物の衿を、きゅっとつかむ。
――なんで私は今、無事なんだろう……
ふわり、記者さんの顔が頭に浮かんで、はっと頭を上げる。
そ、そうだ、あの記者さん、危ない目に遭ってるかも!
背後の草叢へ体を向ける。空気が戻った今でも気味が悪い空間に、小さく体が震える。
…けど。迷っている場合じゃない。軸足に力を込め、駆け出す体勢を取る。
あの記者さんが"妖怪"というのは、あくまで私の考えでしかない。それが間違ってて、あの人は本当に人里離れて暮らしているだけの"人間"なのかもしれない。
だったら。早く見つけ出さないと――
「――こんばんは、お嬢さん♪」
地面を蹴って、草叢へと走り出そうとした、まさにその時。田園の方から、こちらへ話しかけて来る声がした。
***5***
「こ、こんばんは」
鈴奈庵で聞いたままの、雲雀の声。反射的に挨拶だけを返し、声の主へ振り返る。枯葉色を基調とした装い。紅葉色のネクタイに深紅の瞳。小鈴ちゃんに向けていたのと同じような、にこやかな笑顔。そこにいたのは確かに、ずっと自分が探し求めていた、あの記者さんだった。
記者さん…!無事だったんだ…!
良かったと、胸に手を当てようとして――ぴたり、宙で止める。
…待って。おかしい。
ついさっきまで、田園には誰もいなかった。あの田園には、身を潜めることが出来る場所も隙間も、どこにもないはず。たとえ夕方、黄昏に視界が遮られる空間だとしても、人影を見つけられないだなんて考えにくい。
じゃあ記者さんは、さっきまでどこにいたんだ?
「挨拶は返せる…まだ良識はあると。歳は十三、でしょうか」
「!」
値踏みするような記者さんの声に、つぶらな瞳が小さく揺れる。未だ穏やかに茜色を保つ夕空が、ひどく場違いなものに感じられていく。
「ふふっ、当たりました?これでも"見る目"はあるんですよ」
嬉しそうに指を立てながら、記者さんは笑顔を見せる。じり、と地面につけていた足を半歩後ろに下げる。
"あの人に近付いてはいけない"――追いかけている時も聞こえた声が、ありったけの鋭い視線を記者さんに向けさせる。
…この人。やっぱり――
「ところでね、ルポライターとしてお嬢さんに一つお聞きしたいのですが、」
けれど、そんな少女の表情に気付いていないかのように、記者さんは手帳を鞄から取り出して、ぱらぱら、取材の体勢に入る。
「こんな逢魔ヶ時に、里から出てどちらへ?さては"面白いもの"でも見つけましたか」
「ぅ…」
小さく首を傾げながら、一歩、記者さんは近付く。紅い目がほんの少し上に歪むのが目に入って、少女は思わず顔を逸らしてしまう。
さっきまでなら"記者さんのことが気になって、追いかけて来たんです!!"てはっきり言えた。
けど、今はそれが言えない。どうしてかは言語化出来ないが、そう返したら駄目な気がする。けど、だとしたらどう返事をしたら良いか、全く頭に浮かばない。どう誤魔化そうか、地面に視線を向けぐるぐる思考を重ねる。
「しかしいけませんね、こんな時間に人間が外に出ては」
さっきより近く聞こえる声。見上げれば、記者さんの整った顔が、視界いっぱいに映る。いつの間に"捕まってしまった"ことを自覚し、少女は体を硬直させる。
逆光で影となる顔に、妖眼(あやめ)がぎらりと輝く。見つめることしか出来ない少女の顎に、白く長い指が、冷たく添えられる。
「――妖怪に見つかっては、命の保証がありませんよ?」
ぞくり。全身の毛が逆立つのが分かる。温かな吐息が唇に触れ、恋にも似た熱い感情が、胸に芽生えていく。
そうか。何で記者さんに"近付いてはいけない"のか、やっと分かった。
山百合の強い香りが、くらくら、意識を溶かしていく。ぺろりと舌なめずりする仕草に、背中を何かが走っていく。足だけではない。今は身体中が言うことを聞かない。恐怖を通り越した快楽に、いつの間にか、期待するように口もとを歪めてしまう。
嗚呼。このまま、ふらりと足を浮かして、記者さんの胸に飛び込んでしまいたい。
美しい指に撫でられるまま、記者さんに身を捧げてしまいたい。
いっそこのまま、自分の存在ごと、この人に貪られてしまいたい――
「…き、きしゃ、さん、こそ」
「うん?」
やっとのことで、声が出る。ねっとりと揺蕩う赤色に、なおも魅了されそうになる。ちゃんと声を出せているのか、そもそも言語になっているのか、自分でも分かっていない。
けれど、欠片程に残っている意志が、少女にその疑問を続けさせた。
「"こんなじかん"に、どこいく、つもりだったんれすか?」
「…」
妖眼に宿る光が、ふっと消えていく。氷柱の指が顎から剥がれ、身体が自由を取り戻す。
そのまま半歩、記者さんが下がる。離れていく匂いに名残惜しさを抱きながら、少女は再び記者さんに視線を向ける。
眉を小さくしかめ、けれど柔らかくも見える視線。妖しく微笑んでいた唇は、今は真一文字に結ばれている。茜色の夕空も、生きている音たちも、さっきと何も変わりはない。けれど、今はその背景が、記者さんとしっかり調和している。
…どうしてだろう。直前まであれ程の誘惑を受けたのに。絶対そうだ、あの人は"妖怪"だって確信していたはずなのに。
今この場に立っている記者さんはどう見ても、普通の"人間"だった。
「…職業柄強く責められませんが、好奇心は時に自分の首を絞めますよ」
さっきよりもずっと低い声。あまりにも良く通る声音に、思わず背筋が伸びる。
「分かってます」
「いいえ、分かっていない」
ぴしゃりと返されて、幼く口を尖らせてしまう。恐らく睨みつけてしまっているのだろう、少女の目を見つめた記者さんは、小さく息をつく。
「――例えば、醜悪な妖怪が貴女の後ろに潜んでいると、気づいてますか?」
「!?」
睨んでいた目を見開き、草叢へと振り向く。鬱蒼としている草々は、黄昏を映し出なおも気味の悪い暗さを保ち続けている。
さっきまでの恐怖に再び襲われる。涼風が葉を靡かせる音にすら、肩を跳ねさせそうになる。じり、じり、半歩ずつ後ずさって、けど視線は離すことが出来なくて――
ぽん、と肩に手が置かれた。「ひっ」と、引きつった声が出た。
「嘘ですよ」
「…っ」
手の主は、記者さんだった。半目で呆れかえっている顔を、せめてもの抵抗とばかりに睨みつける。
けれど少女は、そこでやっと自分が呼吸すらまともに出来ていなかったことに気が付いた。
「不用心すぎて見てられないのです。さっさと来た道を戻りなさい」
冷たい、はっきりとした拒絶。それに対し、睨み続ける少女の眼光は、あまりにも弱い。
"分かっていない"――さっき記者さんが否定したそれが、紛れもない事実であると、認めざるを得なかったから。
「…けど…」
「駄目です。申し訳ありませんが、これは譲れません」
「…」
小さく拳を握りながら、顔を俯かせてしまう。悔しくて、歯がゆくて、目頭がだんだんと熱くなっていく。記者さんはそんな少女の正面に回ると、背を屈め、今度は柔らかく頭に手を乗せて来る。
「私に興味を持ってくださったこと、心配してくださったこと、素直に礼を言いましょう。ありがとうございます」
潤んでいた目が、記者さんの顔を捉える。どこまでも真っ直ぐな視線。触れる掌が、栗色の髪に残った恐怖を温かく梳かしていく。
「ですが、そんな貴女だからこそ、これ以上"こちら側"に来てはならない」
「…」
時に厳しく接し、けれど本質的にはどこまでもこちらを想う声。そう、まるで、寺子屋での先生みたい。
ついこの前まで、当たり前のようにに聞いてきたもの。けれど、成長して、自分一人で生きるために巣立っていって、聞けなくなってしまったもの。
――駄目だなぁ。私、まだまだ"子供"だったみたい。
こくり、ほんの小さく頷く。その様子を認めた記者さんが、ようやく破顔する。ぐしゃぐしゃ、乱れそうになるくらいに髪を撫でて来る仕草は、やっぱりどこまでも"人間"だ。やっとのことで、少女も笑みをこぼした。
「それに、もう時間切れみたいですからね」
「?それ、どういう…」
頭から手を離して、記者さんはゆっくりと立ち上がる。首を傾げるこちらに意味ありげな視線を送ると、星がきらめき始めた紫紺の空に向けて、声を張り上げた。
「――お願いします、魔理沙さん?」
「――なんだ、気付いてたか」
聞こえた返事。一体どこから、と疑問を抱く間もなく、星が一つ、こちらへゆっくりと降りて来る。
綺麗な金髪をたたえた白黒の少女が、宙に浮いていた。
***6***
「えっ、えっ?箒に乗って…?」
童話でしか見たことのない光景を前に固まる中、「よっ、と」と、金髪の少女は乗っていた箒から軽やかに降りる。
「天才魔法使いの霧雨魔理沙さんだ。よろしくな」
柄の先についたランタンが、"まりさ"と名乗った少女を映し出す。
くせっ毛のついた長い金髪、それと同じくらい黄色い勝気そうな目。口調も相まってどこか少年ぽい雰囲気を受けるだけに、片側で結ばれた三つ編みが可愛らしさを際立たせていた。
「この泥棒さんは強い人間だから、里まで送ってもらいなさい」
「泥棒じゃないし、会って早々馬扱いかよ……ま、私もそのつもりだけどさ」
軽口を叩き合う二人の横で、さらに目を丸くさせる。この魔法使いさんは、見た目では自分から見てそう離れているようには見えない。そんな女性が、箒で空を飛ぶなんて人間離れした術を使いこなしているなんて…一体、どんな人生を送っているんだろう。
そんなことに思いを馳せていると「ほら、乗りな」と魔法使いさんが手招きするのが見える。ちら、と記者さんに視線を向けると、彼女のところへ行くよう、念を押すように目配せしてきて。小さく頷きながら、魔法使いさんの箒へ足を進めていった。
「…あの、記者さん」
「なんです?」
箒に跨ったところで、再度、記者さんに問いかける。ちら、と魔法使いさんを見てから、記者さんに視線を向けて。だって、さっきの会話を聞いていたら、どうしても気になってしまったから。
「魔法使いさん"は"人間ってことは、やっぱり…」
記者さんは刹那顎に手を当てた後、「あぁ」と納得したように目を開いて。
「ふふ、ご想像にお任せします」
全くなんとも思っていないかのように、さらりと返した。
「…なんかずるいです。そうして思わせぶりなことばかり」
口を尖らせながら、思わずこぼしてしまう。もちろん、こっちを想って話してくれない、というのは分かったつもりだけど。なんだかこうもはぐらかされると、ちょっと遊ばれている気分になる、というか…
「そーだそーだ、言ってやれ」
「うるさいですよ」
ヤジを飛ばす魔法使いさんを半目で睨みながら、記者さんは鞄に手を入れる。何を出そうとしているんだろう、と視線を巡らせる間もなく、ぱしゃり、眩い閃光が体を包み込んだ。
「これは、記者として生きるために、必要なこと。記者は、易々と"被写体"になる訳にはいかないのです」
写真を撮られ呆気にとられたままの少女に、記者さんはにっこり、首を傾げてきた。枯葉色のスーツ、紅葉色のネクタイ、そして得意げな笑顔がランタンの光でほのかに照らされていて。
「………やっぱり、」
「ん?」
「かっこいい~~~~~~!!!!!!!」
「「……」」
ちょっと、改めて見てみたら最高じゃないですか?こんなにも整っていて綺麗な顔!その上頭が良くて何の仕草を取るにしても無駄がなくて、はぁ~~。うわぁよく見たらまつ毛めっちゃ長い!良いなぁ~。で、そんな誰もが羨む顔しておいて、自分は"被写体"にならないと?今すぐにでもそのカメラ奪い取って一枚撮ってあげましょうか??ああけどそういうところも素敵――
「…なぁ、この子本当に大丈夫か?」
「失礼ですね」
魔法使いさんの呆れたような囁きに、記者さんは唇を尖らせる。とはいえ、さすがの記者さんも、きらきら直接的に注がれる羨望の視線に、ちょっとだけ頬を引きつらせている様子だった。
「はぁ、この際構いません。後は…」
「任せとけって。ほら帰るぞー」
魔法使いさんにぽん、と肩を叩かれ、意識を現実に引き戻す。魔法使いさんはひらりと慣れた身のこなしで箒に跨って、身体を前に傾けて。
ああ、記者さんと、もうお別れなんだな、と、寂しい気持ちが胸に溢れた。
「あやさん!さようなら」
記者さん――あやさんを向き、勇気を出して挨拶する。あやさんは刹那、驚いたように赤色の目を丸くさせると、すぐににこやかな笑顔をこちらに向けた。
「ええ、また」
「! また、ね!」
「おし。私の箒は流れ星だからな。しっかり捕まっとけよ!」
大きく張り上げられた声を聞き、反射的に魔法使いさんの体に腕をしっかりと巻き付ける。と同時に、少女の乗っていた箒が、勢い良く田園を飛び始めた。
あまりの速度に、ぎゅっと目を閉じてしまう。激しい風が肌を駆け抜け、栗色の髪を勢いよくはためかせる。なんとか半目を開けた時には、もう記者さんの姿は、点としても見えなくなってしまっていた。
――…消えちゃった。速いなぁ。
魔法使いさんに抱きつく力を強める。この人の体温、すごく温かい。記者さんは、どうなんだろう。あの時飛び込んだら、実はものすごく温かかったりするのかな。そんなことをぼんやり考えている間もなく、少女を乗せた箒は、目的地へと辿り着いた。
「ふぅ、門まで来れたな。後は自力で帰れるか?」
「はい」
魔法使いさんに手を添えられながら、箒から降りる。門の中を覗いてみれば、炊事の準備を示す煙が、窓からの明かりで微かに見えて。ここを潜れば、またもとの日常に戻る。
「はは、やっぱちょっと残念そうだな」
「…分かります?」
「分かりやすすぎるくらいだぜ」
魔法使いさんはそう返しながら、肩をすくめて見せる。箒のランタンに照らされて、私はどんな顔をしていたのだろう。
…結局、あやさんについて、何も分からなかった。
そうして小さく俯いてしまった自分を見かねたのか、魔法使いさんは一歩近づいて、こちらと視線を合わせる。
「大丈夫さ。"また"って言ってくれただろ?」
「…」
小さく頷く。うん。そうだ。言ってた。
「な?あいつは記者としてこれからもここに来る。話す機会はいくらでも出来るさ」
宵闇をほのかに照らしてくるランタンのように、暗かった感情が、魔法使いさんの言葉で明るくなっていくのを感じる。
「そう、ですね」
「ま、ずるーいアイツのことだ。こっちが知りたいことはいつまで経っても教えてくれないだろうけどな!」
「…ふふっ」
ぞんざいな言い方に、笑みがこぼれてしまう。そういえばこの人、さっきも、あやさんと軽口を叩き合っていたっけ。その時のあやさんの表情を思い出し、安心感に胸が満たされていく。
「また、会えばいいんですもんね」
「そうだ。取材のしつこいアイツに倣ってお前も付きまとえば良いんだ」
ずぃ、と魔法使いさんはこちらに顔を近付ける。金色の瞳を細め、白い歯を覗かせながら、人差し指をこちらに立てる。
あ、この顔。イタズラ仕掛ける時の顔だ。
「言っとくが、今日みたいなことはもうするなよ?里の中で、昼間の時間帯だけ、良いな?決して焦るんじゃねぇぞ」
「はいっ」
「良い返事だ。アイツの得意げな鼻、明かしてやれ!」
「――…みたいなこと言って、あの子に要らないこと吹き込んでなきゃいいのですが」
初夏の夜。涼風に乗って、月光がとある家の縁側を照らす。そこに一人座りながら、射命丸文はため息をついていた。さっきまでのルポライターとしての服は、丁寧に畳まれ、今は白い寝巻を纏い、憩いの場に落ち着いている。
南中する望月をぼんやり見つめると、ギシ、と木の床が鳴る。文にとって誰よりも大切な巫女が、月に照らされていた。
「早く私に会いたいからってアイツに後を任せた、アンタのミスよー」
「あやややや…」
否定出来ない指摘に、文はまた一つ、ため息をつく。これから起こるかもしれないことに悶々とする文に呆れた視線を向けながら、巫女は、彼女からは見えないように唇を緩めていた。
***7***
一ヶ月後。雨が降る日も多くなり、だんだんと夏が本気を出していく時期。じめじめ湿った空気と高まる気温に眉をしかめ、「出来れば外に出たくないな」と皆がぼやいてしまう季節。
そんな時には読書です!!!
という訳で、貸本屋鈴奈庵、本日も店を開けてお待ちしてます!!
…と、言いたいところだったのだが…
「おーい、ここ私の店なんだけどー?そこで待ち伏せされると、お客さん入れないよー」
本を胸に抱えながら、本居小鈴は入口に向けて呆れたように呟く。視線の先には、暖簾の隙間から外を見張る、萌黄色の着物をつけた少女がいた。
「もうちょっと…今日こそ成功させるんだから」
いつになく低い声。小鳥をじっと窺う猛禽のような目をしている。
…寺子屋にいた時、この子が勉強とかにこんな真剣になったことあったっけなぁ。
「そんな貼り付かなくても大丈夫だってば」
「甘いね小鈴ちゃん!」
くわっと大きな目を見開きながら、こちらを振り返る。びくり、と思わず後ずさる小鈴に、そのままの勢いで顔を近付けて来た。
「あやさんを捕まえるには、ちょっとでも気を抜いちゃいけないの!」
"あや"さん。鈴奈庵にいつも新聞を置いてくれる"社会派ルポライター"。その正体は鴉天狗、"射命丸文"。
一ヶ月前、ここに来た文にこの子が関心を持って、そのまま「文さんのこと聞いて来る!」と飛び出していって。あの時は、たまたま直後に魔理沙が来てくれたから、彼女にお願いして迎えに行ってもらったんだけど。
どうもその後も、文を見つけてなんとか彼女を知ろうと機会をうかがっているらしい。この前、鈴奈庵に文が新聞を届けに来た時に、この子がいないかきょろきょろ警戒しながら、眉尻を下げて微笑んでたっけ。
まぁ、魔理沙も文も大丈夫だって言ってたから、自分も今は見守るだけにしているけど……
――本当、何がこの子をここまで動かしているんだろうなぁ。
「…すっかり探偵気分なんだから」
「だってずっっっと逃げられてばかりなのよ、今度こそあやさんを……あ!」
再び暖簾の隙間から見張り始めた少女が、ぱっと表情を明るくさせる。
「あの帽子!…あれ?」
「んん…?」
つられて小鈴も暖簾の隙間から外を覗く。ちょうど鈴奈庵の入口を、"帽子を被った少女"が歩いているのが視界に入った。
臙脂色を基調とした和装に、枯葉色の帽子。長く艶のある黒髪。ちょうど背中を向けていて顔は見えないけれど、歩いている女性の正体に、小鈴には心当たりがあった。
「ああ、あれは霊夢さんよ。神社の巫女さん。変装してるみたい」
「なあんだ…似た帽子だし黒髪だし、見間違えちゃうなぁ」
ため息をつきながら、少女は眉尻を下げる。そう上手くはいかないかぁ。
……でも。改めて巫女さんの歩いている方向に視線を向け、首を傾げる。
巫女さんの傍にもう一人いる……?
書生を思わせる、地味な色で身を固めた女性。肩まで伸びた黒い髪はくせっ毛になっていて、けれどそれが却って魅力を出している。こちらも背中を向けていて、顔は見えない。
…まとってる空気…どことなくあの人に似ているような…
背丈もあれくらいだった気がするし……髪の毛、あの時は紐で結んでいたけど、ほどいたらきっとあんな感じになるんじゃないかなぁ…
うーん……けど、はっきりしないまま突撃して別人だったら、迷惑かけちゃうし…
「小鈴ちゃん」
「んー?」
「さっき、なんで変装してるのが巫女さんって分かったの?」
「あぁ、私は何回か見たことあるの。ちょっと秘密で人里にお出かけしてる時とかにするんだって」
小鈴はそう返答すると、「まぁでも、」と、二人の背中を見つめる。
「確かに見たことないと、あれが巫女さんだって気付けないかもね」
「ふぅん…」
目を細めながら、二人の様子を観察する。書生風の女の人が何か話していて、それに対して巫女さんが肘で小突いて来て。うわ、痛そう。けど、それでも隣立って歩いている二人の姿からは、仲が良いんだな、ということがはっきりと伝わって来る。
"秘密のお出かけ"かぁ…
そういえば巫女さん、このところ人里でも人気が高かったっけ。
一時は容赦のない巫女だとかそんな話ばかり聞いて、同じ人間からも畏れられていたらしいけど。最近では、少女らしく可愛いところがあったり、人間らしいところがたくさん知られるようになって、むしろ親しみを持つ人が増えているらしい。
そして、そのきっかけとなったのは、あやさんの新聞。あれから、あの人のこと調べようと、過去のもの含めて『文々。新聞』を読んだけど、どの号にもどこかには巫女さんについての記事が書いてある。「今日は巫女さんがこんなワルをしてました!」なんて。
本人は「幻想郷の模範たるべき巫女が模範たる自覚を持っているか、見届けるのが役目です」なんて、どこかに書いていたけど。私だって気付いちゃう。
あの人、本当、巫女さんのこと、気に入ってるんだろうなぁ。
ふふ、と笑ってしまう。そんな巫女さんが"秘密のお出かけ"なんてしていたら、あやさん、喜んで記事にしそう……
……
…あれ?待って?
小鈴ちゃんが知ってるってことは――巫女さん、ああいう変装でのお出かけは、前からしていたってことだよね?
ということは、巫女さんの変装、いつ記事として広がってても、おかしくなかった。
けど実際には、そんな記事が出回ったなんて話聞いてないし、小鈴ちゃん以外、道行く人が巫女さんに気付いている様子もない。
あやさんが気付いていない……あのあやさんが?
それはない。根拠はないけど。あんなに賢いあやさんが、小鈴ちゃんが気付いた巫女さんの変装に気付かないなんて、絶対ない。
じゃあ、どうして…?
……………
………!
「ごめん小鈴ちゃん!また来るね!」
がたり、木の椅子が鳴る。あまりに弾んだ声に肩を跳ねさせながら、小鈴は目をぱちぱちさせる。
「い、いきなりどうしたの」
「いたんだよ、あやさん!」
「えっ?」
「それだけじゃないよ!」
立ち上がった勢いのまま、少女は暖簾を飛び出していく。熱された道に上気した彼女の瞳は、夏の陽光に照らされて、見たことのないくらいに輝いていた。
「あの人の"だいすくーぷ"見つけちゃったんだよ!!!」
人里にある貸本屋、鈴奈庵にも初夏が訪れる。
「はい!ご注文の小説です」
その言と共に差し出された冊子を見た一人の少女は、さらさらとした和紙を柔らかく撫でながら、大きな目をまん丸にさせた。
「ありがとう!これ、ずっと読みたかったんだぁ」
ぱっと目を潤ませる少女を見ながら、店番である本居小鈴も唇を綻ばせる。小首を傾げれば、鈴の髪飾りがりんと鳴る。花をあしらった萌黄色の着物に、新緑の袴。そばかすと栗色の瞳が特徴的で、背丈は同じくらいの女の子。彼女は小鈴の寺子屋時代の友人だった。
「ふふふ。気持ちもぽかぽか温かくなるこの季節、読書には最適な時期ですから。この機に是非、読みたかった本を沢山読んでくださいね」
「あはは。相変わらず小鈴ちゃんは商売上手だねぇ」
久方ぶりの会話に、空間全体が温かな空気に包まれる。寺子屋に通っていた時も、この子が見せてくれる笑顔にはいつも助けられてきたっけ。懐かしい。
からり、戸が開く音がする。お客さんかな、と小鈴が入口に視線を向けると、枯葉色のキュロットを履くすらりとした足が、暖簾を揺らしていた。
「こんにちは」
雲雀のように通る声。来訪者の像がかちりとつながって目を見開くと同時に、紅い瞳をたたえた端正な顔が見える。
「あ、あやさんこんにちは」
「ええ、お疲れ様です。こちら、今週の新聞になります」
"あや"と呼ばれた女性は、小鈴の挨拶ににっこり微笑むと、左手に持った臙脂色の風呂敷を右手で示す。キュロットと同じ色のスーツ、下には白のワイシャツと紅葉色のネクタイをきっちり締め、キャスケット帽を被った出で立ち。最近彼女は肩まで伸びた髪を後ろで小さく結ぶのが気に入っているらしい。確かに細くスタイルの良い"あや"には良く似合っている。
「いつも置いてくださり有難うございます。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ。確かに受け取りました」
小鈴のいる机まで歩み寄った"あや"は風呂敷を丁寧に机上に置く。彼女は、こうして風呂敷を置いていく時、礼を欠かすことがない。もうそこそこ付き合いが長いのだから今さらとも言われそうだが、こういう律儀なところが、"あや"の一番好きなところだった。
「今日は何か本をお探しになりますか?」
「すみません。そうしたいのはやまやまですが、今日はこれからまた取材に行く予定がありまして」
「分かりました。取材、頑張ってくださいね」
「ありがとうございます。近く、また記事を持ってこれると思いますので、楽しみにしててください」
肩から提げた鞄を持ち替えながら"あや"はこちらへウィンクを投げかける。これがズルい程似合っているものだから、逆に苦笑してしまう。そんな反応にも気を良くしたように"あや"はキャスケット帽の縁を小さく整えると、「それでは」と小鈴たちに背を向けた。
「ありがとうございましたー」
ぴんと伸びたまま背中が暖簾をくぐっていくのを、小鈴は頭を下げて見送っていく。
さて、と。これからいつものように値札と貼り紙を準備しなきゃ。この新聞はいつも人気が高いから、これからしばらく、売り上げが楽しみ。んー…けど、どうしてもしばらくはこればかり注目されちゃうからなぁ。他の本も手に取ってもらえるように、ちょっと考えないと――
「……」
と、萌黄色の少女が目に入る。暖簾を見ながら、丸い栗色の目をさらにまん丸に見開いて、口は半開き。さっきまで抱えていた本も、今は胸から少し離していて、ただ固まっている。
活発な少女の突然な変化に、小鈴は身体を近付け「おーい」と手を振って反応を促してみる。
「ど、どうしたの?さっきから入口の方見ながら黙っちゃって」
「…小鈴ちゃん、」
返事が聞こえたかと思うと、少女は表情を変えないままゆっくりと向いて。びくっと身体を引っ込めた小鈴の肩を、がっとつかんできて。
「あの綺麗な人、誰!!??」
「…あ、あぁ。そういうこと」
少女の覇気に気圧されながら、小鈴は小さく頷く。引き出しの中から"社会派ルポライターあや"と書かれた名刺を取り出してあげると、彼女は目をまん丸にさせながら厚紙を上に裏にとかざした。
「あの人はね、最近ここで新聞を出してる記者さん。このお店で販売しているの」
先程置かれた臙脂色の風呂敷に目を落とし、結び目に手をかける。上質な布を使っているのだろう、さらさらとした手触りも、ほどいている時の衣擦れの音もとても心地良い。
広げられた風呂敷の中には、"あや"がライフワークとして刊行を続けている新聞。『文々。新聞』と題が書かれたその一面には、見出しと共に、一枚の写真がでかでかと貼られていて。あ、紅白の巫女さんの写真。全く、通常運転だなぁ。
「!これ読んだことある!」
と、衣擦れの音に顔を向けた少女が、目に泉を宿し、弾んだ声を出す。そのまま一部、即お会計。こういう時、手に取りやすい価格設定は本当にありがたい。
「へー、あんな若い女の人がこれ書いてたんだぁ…憧れるなぁ」
「そうだよね。とてもかっこいいよね!」
紙面の上から下へ視線を巡らせていく少女に、小鈴は唇を綻ばせる。
やっぱり、自分で本読むのも良いけど、他人が活き活きと文字を読んでいるのを見るのも、とても好き。感嘆で小さく呼吸をこぼす音も、ぴたりと一点に止まって輝きを増す大きな瞳も、すごく気持ちが良い。
「……けど、ヘンだなぁ」
「?何が?」
と、新聞から視線を外す少女に、小鈴は首を傾げる。
少女は頬に指を当てる仕草を見せると、ぽつり、何ということもなく疑問を口にした。
「ほら、里ってそんなに広くはないじゃん?だから、あんな美人さんが取材に歩いてたら、今まで一回は見たことありそうなんだけど………」
………あっ。
かち、と笑顔が固まる。
小鈴は、"社会派ルポライターあや"という記者が何者なのか知っている。鈴奈庵の取引先としても、私人としても、今や彼女とは短くない付き合いである。
"申し遅れました。実はルポライターとは仮の姿。本当の私は――"
けれど、彼女の正体を、目の前の少女に教える訳にはいかない。
"実は天狗なんですよ。驚きました?"
だって"社会派ルポライターあや"の正体は、本来人間の里に入ることは許されないはずの鴉天狗――"射命丸文"なのだから。
冷汗が頬を伝っていく。文が危険という話ではない。むしろ、今や小鈴にとって、文はそれなりに信頼出来る存在ではある。けれど、彼女が天狗だと知られてしまうのが、文にとっても人間にとっても都合の悪い話になり得ることは、経験として小鈴が学んでいることでもあった。
どうにか誤魔化さなくちゃ、と口を開けて、けれど何も良い考えが浮かばなくて。からからに乾いた口を一旦閉じて、唾でどうにか湿らせる。
「ほ、ほら!帽子を目深に被ってたら、顔がよく分からないこともあるんじゃないかな」
「うーん……にしても、あの記者さんの恰好目立つと思うんだけどなぁ…」
「う、うーん」
大失敗。顎に指を当て、瞼を薄く閉じ考え込んでいる少女に、小鈴も眦(まなじり)に手を添え、どうにか繕おうと唸る。
どうしよ。どうしよどうしよ。寺子屋の頃から知っている仲だけど、この子はとても賢い。その場しのぎの説なんかでは決して満足してくれない。そして――
小鈴が思考を巡らせる横で、少女は顎から指を離して、「よしっ」と小さな拳を握って。
「いつも、どこに住んでますかって聞いてみてくる!」
あぁぁ、ほらー!ほらー!!こうなったー!!!
「あ、文さんに?ちょっとそれは、待った方が良いかなー」
「大丈夫!暗くならないうちに聞き終わるから!」
「そうじゃなくて、その」
あわあわ手を振りながらなんとか止めようとしても、彼女は元気溌剌、ぴんと背筋を伸ばす。まん丸の目には、好奇心と冒険心いっぱいに光が満ちあふれてて。
対して、小鈴の目はぐるぐる回って、姿勢も定まらない。なんとかしなきゃ。けど、一回スイッチ入っちゃったらこの子、易々とは止められない。何か、何か方法は――
「またね、小鈴ちゃん!」
「あ」
…という間に、少女は萌黄色の袖をぶんぶんこちらに振ると、そのまま暖簾の向こうへと駆け出してしまう。
しんとした店内。長く細いため息を吐きながら、どさり、椅子に崩れ落ちる。背もたれの悲鳴を耳に感じながら、すっかりくたびれた目で天井の方を見つめる。
「…ど、どうなるのー」
気の抜けた問いかけが、四方の本棚へと消えていく。様々な叡智を蓄えた書物にも、小鈴の質問に答えてくれる者はいなかった。
***2***
「とは言ったものの…」
かくして、謎の記者"社会派ルポライターあや"への取材試みる少女。が、鈴奈庵の暖簾から飛び出してすぐに、ある問題に気付く。
あの記者さん…"あや"さん、だっけ。店を出てから時間も経っちゃったしなぁ。どこにいるんだろう…
辺りの道をきょろきょろ見回してみる。寺子屋終わりなのか、一方向から元気に並んで走っていく子供たち、三度笠を被り、葛籠に入った荷を運んでいく男性、小袖と湯巻を身に付けて、夕飯の買い物をしている様子の女性、今日も人間の里の人通りは多い。けれど、その中から記者さんの姿はもう視認することが出来なかった。
「むー…」
下唇を結ぶ。これだけの人通り、いくら記者さんが幻想郷でも珍しい恰好をしているとは言っても、彼女一人に注目し行き先まで記憶している人を見つけるのは至難の業だろう。それに、目立って聞きまわってしまったら、自分が記者さんを見つける前に向こうに気付かれてしまう危険が高い。出来ることなら、この計画は記者さんには気付かれたくなかったのだ。
小さく肩を落とす。また鈴奈庵に行けば、いつか会えるかな…
…はぁ。今日は帰ろ。
とぼとぼ、家路を辿り始める。小さく俯いてしまった視界には、誰が歩いているか、どんな表情をしているか、はっきりと見えない。音や声だけが、落ち込んだ耳に場違いな彩りとして聞こえて来る。
ほら。例えば、左から雲雀のような綺麗な声がして……
……
…あれ?
ぴたりと立ち止まる。真後ろを歩いていた行商人がぶつかりそうになって、躱すように少女を追い越していく。その様子にすら気付かぬまま、少女は顔を小さく左に傾け、もう一度声を聞こうと試みる。
「――」
次の刹那、ぱっと目を輝かせて、そのまま声の方に体を向ける。
!!…さっきの人!
スーツにキュロット、キャスケット帽の恰好、そして忘れられない端正な顔立ち――鈴奈庵で見かけた記者さんが、視線の先にいた。
「良かった見つかって…」
ほっと胸を撫でおろすと、改めてまわりを見回してみる。
ここは喫茶店。小さく開けられた入口の向こうで記者さんは何か話している様子。誰と話しているかは入口の柱に挟まれていて見えない……が、記者さんの手元にはかめら?と手帳が置かれ、時折相槌を打ちながらペンでさらさら書き留めていく。
…そっか。鈴奈庵でこれからまた取材だって話していたっけ。今はまさにその最中なのだろう。
さて。だとすると、今そのまま記者さんに話しかけに行くのは、邪魔になってしまう。と言って、いつ出て来るか分からないのに、ここでずっと待っているのも迷惑になっちゃうし…
壁際まで歩き至近距離に人がいないか見回すと、懐から巾着を取り出して、中身を見る。
「お金は…ちゃんとあるね!良し!」
こうなったら、お客さんのふりして話しかける機会を待つ!
ぐっと拳を握り息を吐くと、決意新たに、少女は喫茶店へと足を踏み入れた。
木床特有の重い足音。香ばしい匂い。外とは全く異なる静穏な空気にきょろきょろしながら、少女はカウンターの一席に案内される。背の高い椅子に座ってお品書きを見ると、食べたことのない名前がずらりと並んでいて、大きな目をまん丸にさせる。
まわりの客層を見ても、落ち着いて本を読んだり飲みものを堪能している人ばかりで…その、なんというか"大人"。
「ご注文お決まりですか?」
「は、はい!」
店員さんのにこやかな声に、つい返事してしまう。ど、どうしよう、早く決めなきゃ。うー…けど、これは何かとか聞いちゃうのも、なんだか恥ずかしいし……――あっ。
「これ、お願いします」
「はい。アイスコーヒーですね。少々お待ちください」
"氷珈琲"と書かれた文字を指さしで示すと、店員さんはゆらりと頷いてその場を去っていく。こつ、こつ、木床が響く音を耳にしながら、少女はさっき注文した文字に胸を高鳴らせていた。
"珈琲"。"珈琲"。ふふっ。鈴奈庵で借りたことのある小説で、探偵が飲んでいたと描かれる飲みもの。やっぱ"探偵"には、これがつきものだもんね。ふふふ。
「――」
「――」
さて。本題。
少女の座るカウンター席は、記者さんが座るテーブル席の、ちょうど真後ろに当たる。だから、見えるのは、彼女の背中だけ。具体的に何をしているのか、どんな表情をしているのかは見えない。その代わり、記者さんが話している相手は、正面から見ることが出来た。
童話の姫君がそのまま抜け出してきたかのような、西欧の女性だった。空色の瞳、金色の髪、白色の顔。透き通った声は、青色のドレスも相まって、大瑠璃のよう。
「――」
「――」
記者さんの質問に対し、その女性は、すらすら語るように返事をする。そうだ、この語り口、聞いたことある。たまに里で人形劇を見せてくれる人だ。寺子屋に通っていた時に人だかりを見つけては、いつもその声に誘われて。この人の人形劇がきっかけで、本を読むのが好きになったんだっけ。
あの人、記者さんと知り合いだったんだ。
……
はぁー。ため息しか出ない。二人とも綺麗だなぁ…
「お待たせしました。アイスコーヒーになります」
「あ。ありがとうございます」
と、背後から店員さんの声が聞こえると、コルク製のコースターにグラスが置かれる。青の矢来文が美しく描かれた切子に、焦茶色の液体が注がれている。
グラスを持ち上げ、氷をからり。ふふふ、良いね、渋い。小説のまま。そのまま、冷たい液体を一口。
「……!」
次の刹那、瞳が小さく揺れ、一気に現実へと引き戻される。口を真一文字に結んで、顔の歪みと咳を辛うじて抑え込みながら、珈琲を嚥下する。
……に…苦い~…!
切子のグラスをコースターの上に戻す。青い切子のグラスが、珈琲の色味が、さっきよりもずっと重く見えてしまって、手が伸びない。
また、きょろきょろと辺りを見回してしまう。店全体の落ち着いた空気が、却って居づらくなって、膝をそわそわさせる。たった一口で、自分が背伸びをしすぎたのではないかと、不安が渦巻いて。
…どうしよう。ここ、出た方が良いのかな。
けど、冷たいグラスを見つめ、ちくり。自分の目からは重々しく見えても、この店の人が、丁寧に淹れてくれた味。きっとここに通う人たちが、愛している味。このまま飲めずに帰るのは、嫌だなぁ…
「お待たせしました」
いきなり背後から聞こえた声に、ぴくっと肩を揺らす。振り返れば、さっき運んできた店員さんの姿。どうしよう、気を使わせてしまったのかとあたふたするところに店員さんは一歩ずつ近付くと、ことり、珈琲の横に何かを置いた。
「…あの、これは?」
「はい。初めて来られたお客様への、店からのサービスです」
店員さんはにこやかな表情のまま返事をする。またその置かれたものを見る。小さな瓶の中に満たされている、琥珀色をした何か。
なおもどういうことか分からずに首を傾げると、小さな木の匙が目の前に差し出される。
「珈琲に少し入れてから飲んでみてくださいね」
木の匙と小さな瓶を見比べ、瓶を持ち上げてみる。ごくり、と唾を飲み込む。さっきの苦みが思い出されて、ためらいながら切子に瓶を近付ける。
たらり、琥珀色の液体が珈琲へ吸い込まれていく。垂れていく液体はとろみがあって、小さく匂いを伝えて来て。そこでようやく、その液体が何かを悟る。
…これ、蜂蜜だ。
蜂蜜…蜂蜜かぁ…本当に苦い珈琲に合うのかなぁ。
木の匙でからからと溶け込ませ、またグラスを持ち上げる。胸の鼓動がちょっとだけ弾む。さっきまで重く感じていた切子が、期待と緊張に今はちょっとだけ軽く感じる。からり、氷の音を耳に、冷たいグラスを傾ける。
!
一口飲んで、目に光を戻す……さっきより全然飲める!
唇を綻ばせながら、再び蜂蜜を珈琲にたらす。さっきよりちょっとだけ小さくなった氷が、木の匙に軽やかな音を立てる。結露したグラスを持ち上げ、再び一口。
はぁ…不思議な感じ。
まだ苦さにはあんまり慣れないけど…その苦みが、蜂蜜の濃厚な甘さを包んでくれている、というか。こっちが飲めるようにしてくれつつ、落ち着いた香ばしい味わいは保ってくれてる、というか…
グラスを口に運びながら、ちらり、傍らを向く。テーブル席の方で、蜂蜜を置いてくれた店員さんが、お客さんの注文に微笑みながら対応している。…あの店員さん、きっと私が珈琲を飲みにくそうにしているのに気付いて、こっちが恥ずかしい思いをしないようにあの蜂蜜を準備してくれたのだろう。
…珈琲、またここで飲みたいな。そしたら今度は、お茶菓子とかも注文してみよう。ほら、メニューを見ただけでも、なかなか食べられなさそうなものがいっぱいあるし。鈴奈庵で借りた本を読んでみる、というのも良いかも!今日借りた本とか、まさにこういうお店の空気にぴったり。
ふふふ。良いな。良いお店見つけちゃった。
…と。忘れるところだった。今は記者さんを追ってるんだ。
今もまだ取材中なのかな。そういえば、さっきから声が聞こえない気がするけれど…
……
「!」
栗色の瞳を大きく見開いて、小さく息を呑む。
…いない!?
も、もしかして珈琲に夢中になっている間に取材終わっちゃった!?
焦りを顔に表しながら、入口の方に視線を向け、瞳を小さく揺らす。お会計を済ませた記者さんと人形使いさんが、ちょうど互いに手を振って別れているところだった。
せっかく見つけられたのに、このままだとまた見失ってしまう。
…けど。ギリギリセーフ。今ならまだ間に合う!
グラスを傾け、残った珈琲を飲み干していく。まだ慣れないほろ苦さも、袴に一滴伝っていく結露も、今の彼女には関係ない。栗色の瞳には、本来の目的を思い出した光が、めらめらと輝いていた。
「ご馳走様でした」
手を合わせ、急ぎ席を立つ。小さく目を丸めて固まっていた店員さんを素早く見つけると「あの」と声をかけた。
「お会計、お願いします!」
***3***
アリス・マーガトロイドが喫茶店を出た時に感じたのは、柔肌を刺してくるような暑さだった。
白い腕を頭にかざして西の空を見ると、空が薄く夕の装いを始める中、太陽が独り、元気に輝いている様子。何故だか他人事に思えない景色に苦笑しながら、一息つく。もう、すっかり夏ね。
後ろに浮いていた上海人形を手招きして、茶葉の入った鞄を託す…さっきの喫茶店、なかなか良かったわね。内装も客層も全体的に落ち着いてたし、紅茶も悪くない。開店してからあまり経ってなくて、色々試してみてる、て話だったけど。ふふっ。これからがとても楽しみだわ。
…それはそれとして。
歩を踏み出す前に、顔だけ小さく振り返る。視線の先には、さっきまで取材兼お茶会を共にした記者、射命丸文の背中。そして、
「…」
………何、あれ?
柱の陰にこっそり身を潜めている――つもりで、文の後をつけている、萌黄色の少女。
彼女は、さっきまで喫茶店のカウンター席にいた。その時も、会話していたこちらを、ちらちら見ていたと思う。別にそれ以上のことをすることはなかったから、そこでは特段気にはしてなかったけど…
真っ直ぐ歩く文の背中に、湿った視線を送る。
…貴女、もしかしてあの子を怒らせるような記事、書いたんじゃないでしょうね?
あ、柱から樽にささっと移動した。そして、また歩いていく背中に向けて、じーっと…本当にあれで隠れてるつもりなのかしら?ほら、道行く人が不思議そうな目で見てるじゃない。
どうしよう、はらはらする。
…いっそ、声かけてあげた方が良いのかしら?事情を聞いて、あの子と文を会わせた方がむしろ良いのかしら?けど、隠れてるってことは、誰にも気付かれたくないってことなのかもしれないし…
整った指をやきもき組み替える主人に気付き、上海が不安げにアリスを見つめる。あぁもう、なんで私がこういうことを気にしなくちゃいけないのよ。全く、こうなってしまったのもあの生意気魔法使いのせいで――
「――あ!おーい、アリスー!」
聞き馴染みのありすぎる声に、思わず飛び上がりそうになる。鳴り響く鼓動を呼吸でつとめて抑えながら、いつも通りのすました顔で声のした方に向き直る。
案の定、そこにいたのは、さっき彼女が頭の中で文句を言っていた"生意気魔法使い"本人。
「…魔理沙」
さっきまで走り回っていたのだろうか、霧雨魔理沙は、膝に手をついて、荒い息をついている。
白い腕に小さく汗が光っているのを見たアリスは、上海と目を合わせる。主人の意を受け取った人形は魔理沙の近くまで寄ると、水筒とハンカチを彼女の前で出してあげた。
ぷはぁ、と息をつく魔理沙の笑顔に、複雑な表情を向ける。まだまだ活発な西日に照り映える彼女は、腹立つくらいに可愛らしい。全く、こういうところがあるからほっとけない―――ともやもや胸に抱えていると、水筒を上海に返した魔理沙がこちらを見るのに気が付いた。
「ちょうど良かった……実はお前に聞きたいことがあってさ」
凛とした声音に、綺麗に伸びたアリスの背が少し固まるのが分かる。黄金の瞳には、真っ直ぐとした光が宿っていて。彼女がこういう目をしている時はどういう時かということは、長年の付き合いで良く分かっている。
反応の前に、再びちらり、後ろに目を向ける。時間が経ってしまった視界からはもう、枯葉色のルポライターも萌黄色の少女もいなくなっていた。
「――奇遇ね。私もなの」
***4***
真っ直ぐ歩いていく記者さんの背中が目に入る。すらりとした見た目も相まって、歩き姿を見るだけでも思わず見とれてしまう。ぼーっとしそうになる頬をくり返し叩いて意志を新たにしながら、少女は記者さんの後を追い続けていた。
…本当は、喫茶店を出て、一人で歩いている時に、話しかけるつもりだった。話しかけたら一気に、これで独占取材!記者さんの情報ゲット!!と押していくつもりだった。
…けど。
…どうしよ…緊張しちゃう…話しかけられない…
「…」
柱から柱へ移りながら、眉を小さく顰める。歩いていくうちに、もやもやした気持ちがどんどん膨らんでいく。
…どうしたんだろ、私。いつもの私なら、あれちゃんと話しかけられるところなのに。今は試しに手を伸ばそうとしても、それが出来なくて。引っ込めて袖をまくると、何故だか鳥肌が立っているのが分かる。
…なんだろう。「これ以上近づいたら駄目」て言われているみたいな…
後ろを振り返ると、薄くなった空でお日さまが西へ傾いていくのが見える。うー、もうすぐ夕方じゃん…そろそろ帰らないと駄目な時間…
……
…ん?夕方?
あ―――そっか!
もう夕方ってことは、あの人もそろそろ家に帰るんじゃないかな?
再び瞳に光を宿しながら、歩いていく記者さんを見つめる。
人外が跋扈する幻想郷、"夕方を過ぎ暗くなったらみだりに外出してはならない"とは、寺子屋でしつこいくらいに言われている。そしてそれは、たとえ大人であっても、人里の中であっても例外ではない。そのため、ここに暮らす人間は、日が落ちる前に自宅の玄関を潜る者がほとんどだった。
それは、あの記者さんだって例外ではない。このまま記者さんについて行けば、あの人の家にまで到着する。そもそも、今こうして記者さんについて行ってるのだって"彼女がどこに住んでいるのか聞いてみる"のが本来の目的だったのだ。
話しかけるのが無理そうなら、このまま家までついて行こう。
小さく頷き、また柱から柱へ、歩を進める。
「…」
分かれ道に差し掛かった記者さんが、歩みを止めて、辺りを見回す。ここは人間の里の東端。左に曲がれば、民家が軒を連ねる場所に辿り着く。
きっと、つまり記者さんはその家のどこかに住んでるのだろう。記者さんの様子を見ながら左へ足先を向け、曲がる準備をする。
と、記者さんが再び歩を進め始める―――民家のある左ではなく、右へ。
あ、あれ?あっちは里の外に行く道だったような…なんで。
「ま、待ってー」
乾いた喉からが声が出てしまう。けれどやはり、記者さんには聞こえていないらしく、どんどん歩いて行って。唾を飲み込んで喉を少し濡らすと、速足で記者さんを見失わないよう後を追う。
歩くの、速い…。こっちの道って確か、東門に行く道だよね。
「…はぁ」
「!」
びっくりした…いきなりこっち振り返って来た…
見つかって…ないよね。軒に隠れながら、辺りを見回す記者さんを見て、呼吸を繰り返す。
気が付けば、道にはもう、記者さんと自分しか残されていない。薄暗くなっていく景色の中で、静寂が身体を小さく震えさせる。記者さんが立っている向こうには、人間の里の端を示す東門が、通る者を待ち構えていた。
…あの人、門から出てくつもりなのかな。
「…」
誰もいないと見たのか、息をつくと、そのまま門を真っ直ぐ潜っていく。人里の境をあっさりと抜けてしまう記者さんを見ながら、少女は首を傾げていた。
…あの人、里の外に暮らしてるのかな?
そういう人間もいる、という話は知っている。それぞれの事情があるのだ、幻想郷の人間全員が里に暮らしている訳ではない。それに、記者さんを今まで見たことがなかった、という疑問も、あの人が里の外に住んでいたからだ、とすれば納得は出来る。
けれど。胸の鼓動が少し激しくなる。刺さった違和感は拭われることなく、じわじわ広がっていく。
本当は、納得出来ない。きっと、それだけではあの記者さんのことを説明出来た訳ではない。
考えて。考えて。記者さんが一歩ずつ離れていく景色が、思考と共に、ゆっくりと回っていって。そして、
かちり、何かがはまった。
――もしかして。そもそもあの人、人間じゃないんじゃ…
大きな瞳に光がきらきら輝きだす。パズルのピースが次々とはまり、覆っていた靄を一気に祓っていく。
そうだよ!それだ!きっとそうだ!……だとしたら、
"だいすくーぷ"じゃん!!!!
聞いたことがある。妖力と知性を兼ね備えた一部の妖怪は、人間の姿を取ることがあるという。見た目だけでは全く見分けをつけることが出来ず、しかも一部は里に入って普通の人間と変わらない交流を結んでいるとのこと。
それが、あの人かもしれない…!!
激しかった胸の鼓動が、興奮でさらに高鳴る。ぐっと握りしめた拳に汗がたまっていく。
こんな暗い時間に、里から出ようとするのも。あの人から発せられる、重く近寄りがたい空気も。あの人が妖怪なら説明がつく!
鷹と化した鋭い視線を、前へと向ける。視界の先では、ちょうど記者さんが門の向こう側に消えていくところだった。
…そうと分かったら、あの人の正体を確かめなきゃ。まだ日は落ち切ってないし、追いかけられるはず!速足で門まで駆け寄ると、すぐ傍にある壁へぴたりと背中をつける。
「門の影に隠れつつこっそりと…」
そうして、柱から門の外を覗きこんで、背中を追おうとして…
……あれ?
目を大きく見開くと、門の正面から飛び出していく。一面に広がっている田園をぶんぶんと見回す。
――いない!?
「う、うそ…」
さっきまでそこにいたのに。
焦りが一気に胸を渦巻いていく。このだだっ広い光景、見晴らしが良いという次元ではない。だから、あの門をくぐったのなら、どこか視界に入っているはずだ。
…なのに、何回見回しても。やっぱり、記者さんの姿は見えない。
胸騒ぎに突き動かされ、駆け出していく。畦道をひたすらに走って、走って。時折止まり、辺りを見回して、また走って。
何回くり返したのだろう。荒い息と共に再び立ち止まり、再び水田を見回す。さっきくぐって来た東門は、既に米粒ほどの大きさに縮んで見える。いつの間に、これだけの距離を走ったんだ。茜色を帯びていく静寂の中で、蛙の歌だけが耳に入る。
記者さんの姿は、やはり見えない。涼しいそよ風が、夜の空気を知らせてくれる。
さすがに、もうまずい時間。そろそろ戻らなきゃ…我に返って来た道を戻ろうとした――その時。
がさり。後ろの草叢から、音がした。
「……ぁ」
――後ろに、誰かいる。
立ち止まって耳を傾けると、がさ、がさがさと、草叢が揺れる音が、こっちに近付いて来るのが分かる。
何か、動物が潜んでいる?…………猪?
全身に汗が噴き出してくるのが分かる。がたがた歯が震え、まるで高いところから突き落とされたような浮遊感が、少女を襲う。
――むしろ、猪の方が良い。猪であって。
赤色を不気味なまでに濃くした夕空。先程までのそよ風から一転、澱んだ風が、巻き付くように肌を撫で始める。
ざわ、ざわ、と草を鳴らす音が騒がしく耳に響き、合わせるかのように、がぁ、がぁ、と不吉な鳴き声が聞こえる。それが鴉の鳴き声だということに気付けない程に、この時少女の頭は恐怖でいっぱいになっていた。
「ぁ…ぁ…」
膝ががくがくに震える。逃げ出したい。けど、逃げられない。地面から根っこが巻き付いているかのように、どんなに命令を出しても足が動いてくれない。そのことが、少女の焦りをますます加速させる。
どうしよう……怖い…!
後ろを振り返りたくなるのをどうにか抑え、目をつむり、耳をふさぐ。音も、風も、何もかも、拒否するようにその場にうずくまって。どうにか、この時間が過ぎて欲しいと祈ることしか、今は出来なかった。
……
………
…………?
いつの間にか、冷たい風がなくなっている。うずくまったまま、おそるおそる薄目で、眼前の景色を見る。さっき見ていたのと変わらない穏やかな茜色に、実はほぼ時間が経っていなかったことを悟る。
…?気配が、消えた…?
手を頭から離して、ゆっくりと立ち上がる。蛙の歌声が再び響き、苗がそよ風に緩く靡いているのが分かる。
「…体、動く」
とん、とん、と靴の爪先で地面を叩き、軽やかに跳ねる。そこで少女は初めてほぅ、と息をつく。
何だったんだろう、今の。本当に妖怪が近くにいたの、かな……あんな気配、初めて感じた。
…けど。着物の衿を、きゅっとつかむ。
――なんで私は今、無事なんだろう……
ふわり、記者さんの顔が頭に浮かんで、はっと頭を上げる。
そ、そうだ、あの記者さん、危ない目に遭ってるかも!
背後の草叢へ体を向ける。空気が戻った今でも気味が悪い空間に、小さく体が震える。
…けど。迷っている場合じゃない。軸足に力を込め、駆け出す体勢を取る。
あの記者さんが"妖怪"というのは、あくまで私の考えでしかない。それが間違ってて、あの人は本当に人里離れて暮らしているだけの"人間"なのかもしれない。
だったら。早く見つけ出さないと――
「――こんばんは、お嬢さん♪」
地面を蹴って、草叢へと走り出そうとした、まさにその時。田園の方から、こちらへ話しかけて来る声がした。
***5***
「こ、こんばんは」
鈴奈庵で聞いたままの、雲雀の声。反射的に挨拶だけを返し、声の主へ振り返る。枯葉色を基調とした装い。紅葉色のネクタイに深紅の瞳。小鈴ちゃんに向けていたのと同じような、にこやかな笑顔。そこにいたのは確かに、ずっと自分が探し求めていた、あの記者さんだった。
記者さん…!無事だったんだ…!
良かったと、胸に手を当てようとして――ぴたり、宙で止める。
…待って。おかしい。
ついさっきまで、田園には誰もいなかった。あの田園には、身を潜めることが出来る場所も隙間も、どこにもないはず。たとえ夕方、黄昏に視界が遮られる空間だとしても、人影を見つけられないだなんて考えにくい。
じゃあ記者さんは、さっきまでどこにいたんだ?
「挨拶は返せる…まだ良識はあると。歳は十三、でしょうか」
「!」
値踏みするような記者さんの声に、つぶらな瞳が小さく揺れる。未だ穏やかに茜色を保つ夕空が、ひどく場違いなものに感じられていく。
「ふふっ、当たりました?これでも"見る目"はあるんですよ」
嬉しそうに指を立てながら、記者さんは笑顔を見せる。じり、と地面につけていた足を半歩後ろに下げる。
"あの人に近付いてはいけない"――追いかけている時も聞こえた声が、ありったけの鋭い視線を記者さんに向けさせる。
…この人。やっぱり――
「ところでね、ルポライターとしてお嬢さんに一つお聞きしたいのですが、」
けれど、そんな少女の表情に気付いていないかのように、記者さんは手帳を鞄から取り出して、ぱらぱら、取材の体勢に入る。
「こんな逢魔ヶ時に、里から出てどちらへ?さては"面白いもの"でも見つけましたか」
「ぅ…」
小さく首を傾げながら、一歩、記者さんは近付く。紅い目がほんの少し上に歪むのが目に入って、少女は思わず顔を逸らしてしまう。
さっきまでなら"記者さんのことが気になって、追いかけて来たんです!!"てはっきり言えた。
けど、今はそれが言えない。どうしてかは言語化出来ないが、そう返したら駄目な気がする。けど、だとしたらどう返事をしたら良いか、全く頭に浮かばない。どう誤魔化そうか、地面に視線を向けぐるぐる思考を重ねる。
「しかしいけませんね、こんな時間に人間が外に出ては」
さっきより近く聞こえる声。見上げれば、記者さんの整った顔が、視界いっぱいに映る。いつの間に"捕まってしまった"ことを自覚し、少女は体を硬直させる。
逆光で影となる顔に、妖眼(あやめ)がぎらりと輝く。見つめることしか出来ない少女の顎に、白く長い指が、冷たく添えられる。
「――妖怪に見つかっては、命の保証がありませんよ?」
ぞくり。全身の毛が逆立つのが分かる。温かな吐息が唇に触れ、恋にも似た熱い感情が、胸に芽生えていく。
そうか。何で記者さんに"近付いてはいけない"のか、やっと分かった。
山百合の強い香りが、くらくら、意識を溶かしていく。ぺろりと舌なめずりする仕草に、背中を何かが走っていく。足だけではない。今は身体中が言うことを聞かない。恐怖を通り越した快楽に、いつの間にか、期待するように口もとを歪めてしまう。
嗚呼。このまま、ふらりと足を浮かして、記者さんの胸に飛び込んでしまいたい。
美しい指に撫でられるまま、記者さんに身を捧げてしまいたい。
いっそこのまま、自分の存在ごと、この人に貪られてしまいたい――
「…き、きしゃ、さん、こそ」
「うん?」
やっとのことで、声が出る。ねっとりと揺蕩う赤色に、なおも魅了されそうになる。ちゃんと声を出せているのか、そもそも言語になっているのか、自分でも分かっていない。
けれど、欠片程に残っている意志が、少女にその疑問を続けさせた。
「"こんなじかん"に、どこいく、つもりだったんれすか?」
「…」
妖眼に宿る光が、ふっと消えていく。氷柱の指が顎から剥がれ、身体が自由を取り戻す。
そのまま半歩、記者さんが下がる。離れていく匂いに名残惜しさを抱きながら、少女は再び記者さんに視線を向ける。
眉を小さくしかめ、けれど柔らかくも見える視線。妖しく微笑んでいた唇は、今は真一文字に結ばれている。茜色の夕空も、生きている音たちも、さっきと何も変わりはない。けれど、今はその背景が、記者さんとしっかり調和している。
…どうしてだろう。直前まであれ程の誘惑を受けたのに。絶対そうだ、あの人は"妖怪"だって確信していたはずなのに。
今この場に立っている記者さんはどう見ても、普通の"人間"だった。
「…職業柄強く責められませんが、好奇心は時に自分の首を絞めますよ」
さっきよりもずっと低い声。あまりにも良く通る声音に、思わず背筋が伸びる。
「分かってます」
「いいえ、分かっていない」
ぴしゃりと返されて、幼く口を尖らせてしまう。恐らく睨みつけてしまっているのだろう、少女の目を見つめた記者さんは、小さく息をつく。
「――例えば、醜悪な妖怪が貴女の後ろに潜んでいると、気づいてますか?」
「!?」
睨んでいた目を見開き、草叢へと振り向く。鬱蒼としている草々は、黄昏を映し出なおも気味の悪い暗さを保ち続けている。
さっきまでの恐怖に再び襲われる。涼風が葉を靡かせる音にすら、肩を跳ねさせそうになる。じり、じり、半歩ずつ後ずさって、けど視線は離すことが出来なくて――
ぽん、と肩に手が置かれた。「ひっ」と、引きつった声が出た。
「嘘ですよ」
「…っ」
手の主は、記者さんだった。半目で呆れかえっている顔を、せめてもの抵抗とばかりに睨みつける。
けれど少女は、そこでやっと自分が呼吸すらまともに出来ていなかったことに気が付いた。
「不用心すぎて見てられないのです。さっさと来た道を戻りなさい」
冷たい、はっきりとした拒絶。それに対し、睨み続ける少女の眼光は、あまりにも弱い。
"分かっていない"――さっき記者さんが否定したそれが、紛れもない事実であると、認めざるを得なかったから。
「…けど…」
「駄目です。申し訳ありませんが、これは譲れません」
「…」
小さく拳を握りながら、顔を俯かせてしまう。悔しくて、歯がゆくて、目頭がだんだんと熱くなっていく。記者さんはそんな少女の正面に回ると、背を屈め、今度は柔らかく頭に手を乗せて来る。
「私に興味を持ってくださったこと、心配してくださったこと、素直に礼を言いましょう。ありがとうございます」
潤んでいた目が、記者さんの顔を捉える。どこまでも真っ直ぐな視線。触れる掌が、栗色の髪に残った恐怖を温かく梳かしていく。
「ですが、そんな貴女だからこそ、これ以上"こちら側"に来てはならない」
「…」
時に厳しく接し、けれど本質的にはどこまでもこちらを想う声。そう、まるで、寺子屋での先生みたい。
ついこの前まで、当たり前のようにに聞いてきたもの。けれど、成長して、自分一人で生きるために巣立っていって、聞けなくなってしまったもの。
――駄目だなぁ。私、まだまだ"子供"だったみたい。
こくり、ほんの小さく頷く。その様子を認めた記者さんが、ようやく破顔する。ぐしゃぐしゃ、乱れそうになるくらいに髪を撫でて来る仕草は、やっぱりどこまでも"人間"だ。やっとのことで、少女も笑みをこぼした。
「それに、もう時間切れみたいですからね」
「?それ、どういう…」
頭から手を離して、記者さんはゆっくりと立ち上がる。首を傾げるこちらに意味ありげな視線を送ると、星がきらめき始めた紫紺の空に向けて、声を張り上げた。
「――お願いします、魔理沙さん?」
「――なんだ、気付いてたか」
聞こえた返事。一体どこから、と疑問を抱く間もなく、星が一つ、こちらへゆっくりと降りて来る。
綺麗な金髪をたたえた白黒の少女が、宙に浮いていた。
***6***
「えっ、えっ?箒に乗って…?」
童話でしか見たことのない光景を前に固まる中、「よっ、と」と、金髪の少女は乗っていた箒から軽やかに降りる。
「天才魔法使いの霧雨魔理沙さんだ。よろしくな」
柄の先についたランタンが、"まりさ"と名乗った少女を映し出す。
くせっ毛のついた長い金髪、それと同じくらい黄色い勝気そうな目。口調も相まってどこか少年ぽい雰囲気を受けるだけに、片側で結ばれた三つ編みが可愛らしさを際立たせていた。
「この泥棒さんは強い人間だから、里まで送ってもらいなさい」
「泥棒じゃないし、会って早々馬扱いかよ……ま、私もそのつもりだけどさ」
軽口を叩き合う二人の横で、さらに目を丸くさせる。この魔法使いさんは、見た目では自分から見てそう離れているようには見えない。そんな女性が、箒で空を飛ぶなんて人間離れした術を使いこなしているなんて…一体、どんな人生を送っているんだろう。
そんなことに思いを馳せていると「ほら、乗りな」と魔法使いさんが手招きするのが見える。ちら、と記者さんに視線を向けると、彼女のところへ行くよう、念を押すように目配せしてきて。小さく頷きながら、魔法使いさんの箒へ足を進めていった。
「…あの、記者さん」
「なんです?」
箒に跨ったところで、再度、記者さんに問いかける。ちら、と魔法使いさんを見てから、記者さんに視線を向けて。だって、さっきの会話を聞いていたら、どうしても気になってしまったから。
「魔法使いさん"は"人間ってことは、やっぱり…」
記者さんは刹那顎に手を当てた後、「あぁ」と納得したように目を開いて。
「ふふ、ご想像にお任せします」
全くなんとも思っていないかのように、さらりと返した。
「…なんかずるいです。そうして思わせぶりなことばかり」
口を尖らせながら、思わずこぼしてしまう。もちろん、こっちを想って話してくれない、というのは分かったつもりだけど。なんだかこうもはぐらかされると、ちょっと遊ばれている気分になる、というか…
「そーだそーだ、言ってやれ」
「うるさいですよ」
ヤジを飛ばす魔法使いさんを半目で睨みながら、記者さんは鞄に手を入れる。何を出そうとしているんだろう、と視線を巡らせる間もなく、ぱしゃり、眩い閃光が体を包み込んだ。
「これは、記者として生きるために、必要なこと。記者は、易々と"被写体"になる訳にはいかないのです」
写真を撮られ呆気にとられたままの少女に、記者さんはにっこり、首を傾げてきた。枯葉色のスーツ、紅葉色のネクタイ、そして得意げな笑顔がランタンの光でほのかに照らされていて。
「………やっぱり、」
「ん?」
「かっこいい~~~~~~!!!!!!!」
「「……」」
ちょっと、改めて見てみたら最高じゃないですか?こんなにも整っていて綺麗な顔!その上頭が良くて何の仕草を取るにしても無駄がなくて、はぁ~~。うわぁよく見たらまつ毛めっちゃ長い!良いなぁ~。で、そんな誰もが羨む顔しておいて、自分は"被写体"にならないと?今すぐにでもそのカメラ奪い取って一枚撮ってあげましょうか??ああけどそういうところも素敵――
「…なぁ、この子本当に大丈夫か?」
「失礼ですね」
魔法使いさんの呆れたような囁きに、記者さんは唇を尖らせる。とはいえ、さすがの記者さんも、きらきら直接的に注がれる羨望の視線に、ちょっとだけ頬を引きつらせている様子だった。
「はぁ、この際構いません。後は…」
「任せとけって。ほら帰るぞー」
魔法使いさんにぽん、と肩を叩かれ、意識を現実に引き戻す。魔法使いさんはひらりと慣れた身のこなしで箒に跨って、身体を前に傾けて。
ああ、記者さんと、もうお別れなんだな、と、寂しい気持ちが胸に溢れた。
「あやさん!さようなら」
記者さん――あやさんを向き、勇気を出して挨拶する。あやさんは刹那、驚いたように赤色の目を丸くさせると、すぐににこやかな笑顔をこちらに向けた。
「ええ、また」
「! また、ね!」
「おし。私の箒は流れ星だからな。しっかり捕まっとけよ!」
大きく張り上げられた声を聞き、反射的に魔法使いさんの体に腕をしっかりと巻き付ける。と同時に、少女の乗っていた箒が、勢い良く田園を飛び始めた。
あまりの速度に、ぎゅっと目を閉じてしまう。激しい風が肌を駆け抜け、栗色の髪を勢いよくはためかせる。なんとか半目を開けた時には、もう記者さんの姿は、点としても見えなくなってしまっていた。
――…消えちゃった。速いなぁ。
魔法使いさんに抱きつく力を強める。この人の体温、すごく温かい。記者さんは、どうなんだろう。あの時飛び込んだら、実はものすごく温かかったりするのかな。そんなことをぼんやり考えている間もなく、少女を乗せた箒は、目的地へと辿り着いた。
「ふぅ、門まで来れたな。後は自力で帰れるか?」
「はい」
魔法使いさんに手を添えられながら、箒から降りる。門の中を覗いてみれば、炊事の準備を示す煙が、窓からの明かりで微かに見えて。ここを潜れば、またもとの日常に戻る。
「はは、やっぱちょっと残念そうだな」
「…分かります?」
「分かりやすすぎるくらいだぜ」
魔法使いさんはそう返しながら、肩をすくめて見せる。箒のランタンに照らされて、私はどんな顔をしていたのだろう。
…結局、あやさんについて、何も分からなかった。
そうして小さく俯いてしまった自分を見かねたのか、魔法使いさんは一歩近づいて、こちらと視線を合わせる。
「大丈夫さ。"また"って言ってくれただろ?」
「…」
小さく頷く。うん。そうだ。言ってた。
「な?あいつは記者としてこれからもここに来る。話す機会はいくらでも出来るさ」
宵闇をほのかに照らしてくるランタンのように、暗かった感情が、魔法使いさんの言葉で明るくなっていくのを感じる。
「そう、ですね」
「ま、ずるーいアイツのことだ。こっちが知りたいことはいつまで経っても教えてくれないだろうけどな!」
「…ふふっ」
ぞんざいな言い方に、笑みがこぼれてしまう。そういえばこの人、さっきも、あやさんと軽口を叩き合っていたっけ。その時のあやさんの表情を思い出し、安心感に胸が満たされていく。
「また、会えばいいんですもんね」
「そうだ。取材のしつこいアイツに倣ってお前も付きまとえば良いんだ」
ずぃ、と魔法使いさんはこちらに顔を近付ける。金色の瞳を細め、白い歯を覗かせながら、人差し指をこちらに立てる。
あ、この顔。イタズラ仕掛ける時の顔だ。
「言っとくが、今日みたいなことはもうするなよ?里の中で、昼間の時間帯だけ、良いな?決して焦るんじゃねぇぞ」
「はいっ」
「良い返事だ。アイツの得意げな鼻、明かしてやれ!」
「――…みたいなこと言って、あの子に要らないこと吹き込んでなきゃいいのですが」
初夏の夜。涼風に乗って、月光がとある家の縁側を照らす。そこに一人座りながら、射命丸文はため息をついていた。さっきまでのルポライターとしての服は、丁寧に畳まれ、今は白い寝巻を纏い、憩いの場に落ち着いている。
南中する望月をぼんやり見つめると、ギシ、と木の床が鳴る。文にとって誰よりも大切な巫女が、月に照らされていた。
「早く私に会いたいからってアイツに後を任せた、アンタのミスよー」
「あやややや…」
否定出来ない指摘に、文はまた一つ、ため息をつく。これから起こるかもしれないことに悶々とする文に呆れた視線を向けながら、巫女は、彼女からは見えないように唇を緩めていた。
***7***
一ヶ月後。雨が降る日も多くなり、だんだんと夏が本気を出していく時期。じめじめ湿った空気と高まる気温に眉をしかめ、「出来れば外に出たくないな」と皆がぼやいてしまう季節。
そんな時には読書です!!!
という訳で、貸本屋鈴奈庵、本日も店を開けてお待ちしてます!!
…と、言いたいところだったのだが…
「おーい、ここ私の店なんだけどー?そこで待ち伏せされると、お客さん入れないよー」
本を胸に抱えながら、本居小鈴は入口に向けて呆れたように呟く。視線の先には、暖簾の隙間から外を見張る、萌黄色の着物をつけた少女がいた。
「もうちょっと…今日こそ成功させるんだから」
いつになく低い声。小鳥をじっと窺う猛禽のような目をしている。
…寺子屋にいた時、この子が勉強とかにこんな真剣になったことあったっけなぁ。
「そんな貼り付かなくても大丈夫だってば」
「甘いね小鈴ちゃん!」
くわっと大きな目を見開きながら、こちらを振り返る。びくり、と思わず後ずさる小鈴に、そのままの勢いで顔を近付けて来た。
「あやさんを捕まえるには、ちょっとでも気を抜いちゃいけないの!」
"あや"さん。鈴奈庵にいつも新聞を置いてくれる"社会派ルポライター"。その正体は鴉天狗、"射命丸文"。
一ヶ月前、ここに来た文にこの子が関心を持って、そのまま「文さんのこと聞いて来る!」と飛び出していって。あの時は、たまたま直後に魔理沙が来てくれたから、彼女にお願いして迎えに行ってもらったんだけど。
どうもその後も、文を見つけてなんとか彼女を知ろうと機会をうかがっているらしい。この前、鈴奈庵に文が新聞を届けに来た時に、この子がいないかきょろきょろ警戒しながら、眉尻を下げて微笑んでたっけ。
まぁ、魔理沙も文も大丈夫だって言ってたから、自分も今は見守るだけにしているけど……
――本当、何がこの子をここまで動かしているんだろうなぁ。
「…すっかり探偵気分なんだから」
「だってずっっっと逃げられてばかりなのよ、今度こそあやさんを……あ!」
再び暖簾の隙間から見張り始めた少女が、ぱっと表情を明るくさせる。
「あの帽子!…あれ?」
「んん…?」
つられて小鈴も暖簾の隙間から外を覗く。ちょうど鈴奈庵の入口を、"帽子を被った少女"が歩いているのが視界に入った。
臙脂色を基調とした和装に、枯葉色の帽子。長く艶のある黒髪。ちょうど背中を向けていて顔は見えないけれど、歩いている女性の正体に、小鈴には心当たりがあった。
「ああ、あれは霊夢さんよ。神社の巫女さん。変装してるみたい」
「なあんだ…似た帽子だし黒髪だし、見間違えちゃうなぁ」
ため息をつきながら、少女は眉尻を下げる。そう上手くはいかないかぁ。
……でも。改めて巫女さんの歩いている方向に視線を向け、首を傾げる。
巫女さんの傍にもう一人いる……?
書生を思わせる、地味な色で身を固めた女性。肩まで伸びた黒い髪はくせっ毛になっていて、けれどそれが却って魅力を出している。こちらも背中を向けていて、顔は見えない。
…まとってる空気…どことなくあの人に似ているような…
背丈もあれくらいだった気がするし……髪の毛、あの時は紐で結んでいたけど、ほどいたらきっとあんな感じになるんじゃないかなぁ…
うーん……けど、はっきりしないまま突撃して別人だったら、迷惑かけちゃうし…
「小鈴ちゃん」
「んー?」
「さっき、なんで変装してるのが巫女さんって分かったの?」
「あぁ、私は何回か見たことあるの。ちょっと秘密で人里にお出かけしてる時とかにするんだって」
小鈴はそう返答すると、「まぁでも、」と、二人の背中を見つめる。
「確かに見たことないと、あれが巫女さんだって気付けないかもね」
「ふぅん…」
目を細めながら、二人の様子を観察する。書生風の女の人が何か話していて、それに対して巫女さんが肘で小突いて来て。うわ、痛そう。けど、それでも隣立って歩いている二人の姿からは、仲が良いんだな、ということがはっきりと伝わって来る。
"秘密のお出かけ"かぁ…
そういえば巫女さん、このところ人里でも人気が高かったっけ。
一時は容赦のない巫女だとかそんな話ばかり聞いて、同じ人間からも畏れられていたらしいけど。最近では、少女らしく可愛いところがあったり、人間らしいところがたくさん知られるようになって、むしろ親しみを持つ人が増えているらしい。
そして、そのきっかけとなったのは、あやさんの新聞。あれから、あの人のこと調べようと、過去のもの含めて『文々。新聞』を読んだけど、どの号にもどこかには巫女さんについての記事が書いてある。「今日は巫女さんがこんなワルをしてました!」なんて。
本人は「幻想郷の模範たるべき巫女が模範たる自覚を持っているか、見届けるのが役目です」なんて、どこかに書いていたけど。私だって気付いちゃう。
あの人、本当、巫女さんのこと、気に入ってるんだろうなぁ。
ふふ、と笑ってしまう。そんな巫女さんが"秘密のお出かけ"なんてしていたら、あやさん、喜んで記事にしそう……
……
…あれ?待って?
小鈴ちゃんが知ってるってことは――巫女さん、ああいう変装でのお出かけは、前からしていたってことだよね?
ということは、巫女さんの変装、いつ記事として広がってても、おかしくなかった。
けど実際には、そんな記事が出回ったなんて話聞いてないし、小鈴ちゃん以外、道行く人が巫女さんに気付いている様子もない。
あやさんが気付いていない……あのあやさんが?
それはない。根拠はないけど。あんなに賢いあやさんが、小鈴ちゃんが気付いた巫女さんの変装に気付かないなんて、絶対ない。
じゃあ、どうして…?
……………
………!
「ごめん小鈴ちゃん!また来るね!」
がたり、木の椅子が鳴る。あまりに弾んだ声に肩を跳ねさせながら、小鈴は目をぱちぱちさせる。
「い、いきなりどうしたの」
「いたんだよ、あやさん!」
「えっ?」
「それだけじゃないよ!」
立ち上がった勢いのまま、少女は暖簾を飛び出していく。熱された道に上気した彼女の瞳は、夏の陽光に照らされて、見たことのないくらいに輝いていた。
「あの人の"だいすくーぷ"見つけちゃったんだよ!!!」
いつものウタビトさんらしい素晴らしい作品ありがとうございます。
なんだか今回のお話、全体の構成が個人的にとても好みです。綺麗に纏まっていると言いますか、「少女」の視点から物語が始まり、ちょくちょくアリスさんや魔理沙に場面が映っていく感じとか群像劇っぽくて上手いなぁ。(そんでここのアリスさんも本当好きです。よく周りを見てらっしゃる、気遣いできる女性…)で、いつくるかいつくるかとソワソワしてるとやっぱり最後は文霊夢でしたね。気になるルポライターさんのスクープ見つけて大満足な少女の台詞で締めていて、綺麗に纏まっておりました。
こういう構成の整った一話を自分も作りたいものです。カフェでのコーヒーや紅茶の細やかな表現も参考にさせてもらいます。あと、魔理沙の描写が結構多くて嬉しい!