霧雨魔理沙がいつまで経っても神社に現れない理由を説明するには、アリス・マーガドロイドは彼女のことを知らなさ過ぎた。
もちろん姿を見せないその事実がいつも通りではないことはわかっていたし、アリスの知る限り、魔理沙のことを一番理解しているであろう博麗霊夢が言葉を濁したことからも、自分の知らない何かが起きているということくらいは、わからないわけではなかった。
視界に映る宴会の様子が普段と違うことがなんだか嫌で、アリスは数回、足の爪先で地面を叩いた。しかし、お酒を前にして騒がしい神社の中ではそんな幽かな音が響くはずもなく、小さな音はすぐに喧騒に飲み込まれて、消える。一瞬、盃に目を落としていた霊夢がこちらを見たけれど、ゆっくりと、自然に……視線を逸らされた。
今日は花見、というお祭りらしい。昼間から、ということを除けば、皆で集まってお酒を飲んでいるだけで、普段の宴会と何ら変わりはないのだけれど、桜の花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐことが重要なのだとか。少なくとも、こちらの住民にとっては特別なものなのだという。もっとも、周りを見渡す限り、そのような風情を楽しんでいそうな人物は見受けられなかったが。
妖怪たちには、魔理沙は遅刻して来る、と霊夢自身が伝えていた。みんな、紅白と黒白がどれだけ仲がいいか知っているから、その言葉を疑おうとは思わなかったようだ。
魔理沙が宴会の日に遅刻してくるなんてね、と霊夢はぼそぼそと話していた。異変に利用されたことだってあるのよ、と、こちらが知っている情報を繰り返して、そのまま沈黙。盃に目を落としてはいるけれど、先ほどから一度も口を付けていない。
「魔理沙、どうして遅刻して来るって?」
「えっ? あぁ……ええと、」霊夢は目を丸くして、それから髪を弄りながらアリスの質問に答えた。「風邪とか、言ってたわ。あの、もう少し寝てから行くって」
「ふぅん」
嘘だということはわかっていた。嘘をつくときの霊夢の癖を教えてくれたのは、他でもない霧雨魔理沙だ。そしてどうして嘘をつくのかということも、なんとなくアリスには想像できていた。博麗霊夢という人物は、自分のために嘘をついたりはしない。他の誰かのために……そういう人間だと、アリスは思っていた。
だから、あえて詰問することはしない。そうしたところで、霊夢は曲がらないだろうし、それを曲げることは霊夢のためにも魔理沙のためにも、それからアリス自身のためにもならないということくらい、わかっている。
鬼がひと際大きな声を出して、隣に座っている河童に講釈を垂れ始めた。注がれた酒はその場で飲み干さなければならないとか、挑まれた勝負からは逃げてはいけないとか、そんな話。どれもアリスにとっては興味のレベルが低いものだった。
今はそれよりも、魔理沙のことが気になる。
魔理沙は几帳面で、真面目で、失敗したがらない。そんな風に霊夢が彼女を称していたのを思い出す。
胸の中でもやもやとした気分の悪さがこみ上げてきて、アリスはもう一度だけ、爪先で床を叩く。曖昧なリズムを刻んで、心を落ち着かせる。
「霊夢」
「……なぁに、アリス?」顔を上げて、彼女はふっと笑ってみせた。
「魔理沙のこと、心配じゃないの?」アリスは聞こえないように、口の中で舌打ちをする。その笑顔が気に入らなかった。「……あなたらしくないわ」
「心配よ、そりゃね」
「探しに行かないでいいの?」
「……だから、遅刻なんだってば。家で寝てるのよ、たぶん」彼女は髪の毛をくるくると弄ぶ。
魔理沙は家にもいない、という意味で取っていいのだろうか。霊夢の癖を細かく分析できるほど、アリスは彼女のことを知らない。深く知るには、あまりに短すぎる期間だ。この世界に来て、博麗霊夢というこれまでの人生からすれば規格外の人物に出逢って、魔法の森に住むようになって……その程度の時間では、友達一人だって、理解できない。
魔理沙は……どこにいるの。
霊夢がそれを知らないというのはきっと嘘で……、しかし、どこにいるのか知っているのかといったら、きっとそれも違うのだろう。そこまで知っているのなら、彼女はきっと、こんな……諦めたような顔で、笑わない。突き放すような台詞を、使わないはずだ。少なくとも、アリスの知っている博麗霊夢は、こんな風に、友人のことを、諦観した表情で話したりはしない。
……だから、きっと、これは霊夢にとっても、辛いことのはずで。
やっぱり、アリスは、嘘をついた紅白の巫女を責めて、問い詰めることが、どうしてもできなかった。
霊夢自身が、触れたくなくて、遠ざける話題。
親友のことを遠ざける。
それがきっと、自分は酷く悲しいのだ。
「一年に一回くらいね、」ぼそっと、囁くようなボリュームで、彼女は呟いた。「魔理沙は無断で遅刻するのよ」
喧騒が鳴り響く。
霊夢が席を立ったのを確認してから、アリスは手元の魔導書に目を落とした。ページをめくり、それから新しい項目へと視線を移動させる。
文章を読んで、理解し、実践する。機械的な作業かと思っていたけれど、思っていたよりも、ずっとわからなくて悩むことが多かった。向こうにいたときは、こういうことはしなかった。だから、新鮮だし、……面白いとも思う。こんなことで、どんどん時間が過ぎていくということが、何よりも新鮮だった。
わかったり、わからなかったり。それは、友人のことを知るのと同じだ。違う点というのは、ただ……勉強すればわかるのか、そもそも勉強なんていう表現を使えないのか、とか、そういった点。
霊夢だって、魔理沙だって、互いのことを知っていくやり方を勉強したわけではないはずだ。
「無断で、魔理沙が?」
宴会が終わると、アリスは霊夢の方へ顔を向けて訊いた。
二時間越しの質問。
「そうよ」
彼女は自然な動作で頷いて、それから口を閉じた。
それきり、また黙ってしまう。
アリスも続ける言葉を見失って、ただゆっくりと、霊夢から視線を逸らすことしか、できなかった。
*
結局その日中現れなかった魔理沙はしかし、夕暮れになってから神社に姿を見せた。残っていたのはアリス一人だけだった。まったくあいつらときたら、と常套句のような愚痴を零しながら二人でまとめたゴミを捨てに行った霊夢を、縁側で頬杖を突きながら待っていたところに、ふいに入ってきたその姿を見て、アリスは思わず目を丸くした。
見るに耐えない、とまでは言わないけれど、魔理沙の姿は悲惨だった。髪はほどけて、はねていて、汗だくで、エプロンドレスにもあちこちよくわからない汚れが付着している。何をしていたのか、まるで想像できない。
「魔理沙……」
名前を呼んでいいのだろうか、と一瞬考えたのに、その名を反射的に口にしてしまう。
「あ、」こちらに気づいて、彼女は緩慢な動きで微笑んだ。「……アリス、あのさ、霊夢が、先に帰っていいって」
「わ、わかったわ……」
頷いて、のろのろと立ち上がる。一緒に帰るか、といって箒に跨りゆっくりと浮き上がった魔理沙のあとについていきながら、アリスは強く唇を噛んだ。溢れそうになる言葉を、どうにか抑え込む。ここで溢れさせてはいけない、ということだけが、今のアリスにわかる唯一のことだった。
「あの、魔理沙……」
「なに?」
「ええと、お花見、その……また近いうちに開いてもらえるように、頼んだら、どうかしら」
途切れ途切れになる言葉。
別に、そんなことが言いたいわけではないのだけれど。
「大丈夫だ。もう言ってある」
夕日の差し込むを空を二人きりで飛ぶ。ほんの少しだけ前を進む魔理沙は軽やかで、しかしどこか不安定にも思えた。
自分がどんな飛び方をしていたのか、忘れてしまったのだろうか。
思い出そうと、探り探り飛んでいるような、そんな印象を覚えて、アリスは眉根を寄せる。
箒が二度ほど不自然な軌道を描いて、魔理沙は振り返った。
「アリスは、どうだった?」
「なにが」
「初めてだろう? 神社での花見は」
「あぁ、そう、そうね」頷いて、視線を空中に放り投げる。「楽しかったわ。新鮮で」
「よかった」にっこりと微笑んで、彼女はまた前を向いた。
……魔理沙がいた方が、もっと楽しかったかもね。
そんな風に続けようと思って、すぐにやめる。代わりになる言葉を自分の中で探してみて、見つからないことに気づく。
この、あとほんの少しが埋まらない。
「どうして、来なかったの?」
もっと、他の訊き方があるのだろう。
でも、自分はこれしか知らない。こんな訊き方しかできない。
魔理沙は何も答えないまま飛んで、そのまま家の前まで辿り着いた。誰もいない魔法の森。ふわりと着地し、箒を手にとって、肩に立てかける。それからゆっくりとこちらを振り向く。夕日を背に受けている彼女が、どんな顔をしているのかアリスにはわからない。ただ、こちらを向いて、立っている。それだけが、視界に映るすべてだ。オレンジに染まった視界の中で、動くものはない。
何も動かない。
彼女が口を開いたとしても、この逆光の中ではそれすらもわからない。
そんな光景が、どこか……故郷の風景と、重なって。
「霊夢は、何も言わなかったんだ」
「ええ」
「そっか……」その声のトーンは、嬉しさからくるものだろうか。それとも、逆のそれだろうか。「……なぁ、アリス。おまえは、自分が無力だって思ったこと、ある?」
「私はずっと無力だったわ」
……今もね。
そう付け加えるべきか、迷う。迷ったまま時間が過ぎて、結局それは、付け加えなかったという事実だけを残す。
「霊夢と一緒に里に行ったら」三歩ほど離れた位置のまま、魔理沙は話し始めた。「婆さんが、荷物を重たそうに運んでいるのを発見したんだ」
「魔理沙が?」
「そう……霊夢じゃなくて、わたしが」ほんの少しだけ、誇らしげな声だった。「いつも周りを見てる霊夢じゃなくて、わたしが先に見つけるなんて、年に一回とか、それくらいしかないんだ。わたしは、そういうときは必ず、自分でその人を助けるようにしてるんだ。……一人で」
だから、霊夢には先に行ってもらったんだ。そう言って、彼女は僅かの間だけ黙った。
霊夢がそんなことを言われて聞くはずがない、とは思ったけれど、それこそが……つまり、魔理沙を置いて一人で来たことが、霊夢の口から零れる言葉を濁していた原因なのか、と気づいた。普段の彼女からは考えられないような、僅かな苛立ち。きっと魔理沙に対してのそれではなくて、自分に対して、苛立っていたのだろう。
魔理沙がそんなことをしようとする理由を、知っているから。
アリスに理解できる感情ではない。
細く息を吸う音が聞こえて、言葉が紡がれる。
「あとはもう、ほら、霊夢みたいに、いろんなものが見えるようになってくるんだ。迷子の男の子とか、溝に鍵を落としちゃった人とか、転んで泣いてる女の子とか……な。わかるだろう?」
それらを助けていたら、遅れた、と。そういうことなのだろう。アリスが頷いたのを見てから、魔理沙は小さな声で、でも、と続けた。
「結局、宴会が始まるまでに戻れなかっただろ? それどころか、一日中、里を走り回ってた。……バカみたいだろ、わたし。結局、霊夢みたいには、できなかった」
「……毎回?」
「そう」一瞬だけ虚を突かれたように息を飲んでから、彼女は肯定した。「こういうことすると、毎回こうなんだ。わたしらしくもない。しかも今日なんて、よりによって宴会当日だ」
あーあやっちゃったなぁ、と言葉だけは快活に、盛大なため息を吐く。
とん、と軽い音がふいに耳に届く。そこでアリスは、自分が知らないうちに爪先で床を叩いていたことにようやく気がついた。
「……どうして、」
「どうしてそこまでするのか、って思っただろう?」アリスの言葉は遮られた。「霊夢だったら、きっと手早く全部済ませて、宴会にも来れたはずだ。無理だって思えるようなことを、あいつはできる。ずっと一緒にいたから知ってる。……同業者だなんていって張り合ってるけど、わたしなんて本当は必要ないし、いなくたってこの世界は、何事もないかのように回っていく。当たり前の話。わたしにできるようなことは、みんな霊夢ができるし、つまり、わたしにしかできないようなことなんて、何もない。普通はきっとみんな、そうなんだ。みんな、本当は無力で、何もできないのが普通で、でも……、」
魔理沙はそこまで一気に捲し立てて、大きく震える息を吸った。
逆光になって見えないその顔から、地面に一滴、何かが落ちた。
それが涙なのだと気づくのに、普段の何倍もの時間をかけて、アリスは気づいて。
「……わたしは、それが、嫌だった」
声は上げなかった。
ただその場に膝から崩れ落ちて、ようやく見えるようになった顔は、涙でくしゃくしゃに歪んでいて、あぁ、いったいいつから彼女は泣いていたんだろう、と痺れる脳でアリスは考えた。何年も前から……アリスがこの世界に来るよりもずっと前から、この霧雨魔理沙という少女は、泣いていたのかもしれない。親友の隣で、ずっと、劣等感とかいう重荷を澄ました顔で抱えながら。
一人で。
誰にも気づかれたくないという、彼女の思い通りに。
それは、勝手だ。
勝手に傷ついて、泣いたって、何も変わらない。
聡明な彼女にはそんなこと、当然のようにわかっていて。
それでもやめられないなんてことが、ときにあるのだ。
「魔理沙は……」
かける言葉なんて、あるはずがなかった。
ないものを探すのは、とても苦労する。不可能な場合の方がずっと多い。
無力な自分に何ができるのかを探すことのように、手探りで、絶望的で、あまりに空虚だ。
「……魔理沙は、霊夢になりたかったの?」
「憧れるっていうのは……そういうことなんだよ」嗚咽を漏らしながら、魔理沙はどうにか答えた。
「無理よ」アリスはゆるゆると首を横に振る。「魔理沙じゃ、無理だわ。あなたでは、霊夢にはなれない。どうしたって、どう足掻いたって、……同じことをしようとしたって、あなたにはできない」
突き放すような台詞を使っても、彼女は微動だにしなかった。
それくらいのこと、わかってる。
彼女には、わかっていることだらけなのだ。
全部わかった上で、諦めることができない、自分が嫌い。
その感情は、アリスにも理解できるものだった。
きっとアリスの言ったことは間違いではない。あらゆる場面に適応できる話ではないけれど、誰だって、本来は無力で、何者にもなれない。誰も、誰かの代わりになんてなれやしない。ましてその人自身になんて……なれるはずがない。
それでも憧れてやまないのは、どうしてだろう?
憧憬で身を焦がすのは、なぜ?
魔理沙。
あなたがその場で泣き喚いて、決してこちらに手を伸ばそうとしないのは、同じ理由?
酷く怖れているのは……。
「……あぁ、」
思わず、奇妙な吐息を漏らして、アリスは一歩、魔理沙に近づいた。
びくっと痙攣するように、その表情が恐怖に変わる。
怖がらないで、と微笑みかけて、もう一歩、距離を縮める。
ゆっくりと手を伸ばす。
か細い肢体を両腕で抱き締めて、ぐっと近くに引き寄せる。
「あなたは、わたしに……よく似てるのかも、しれないわ」
耳元でそう囁くと、腕の中の強張った身体から、少しずつ力が抜けていくのを感じた。
驕りかもしれないけれど、似ていると、確かにそう感じた。
自分は無力だと、何者にもなれないのだと知って、どうしてもそれを認めたくなくて、足掻く姿。鏡の向こうの自分に、似ているなんて、そんなことを、思ってしまった。
……そんな、無力なあなたが、ほんの少しだけ可哀想で、それからとても……愛しい。
すこしずつ、知っていくその無力さが。
愛しいのよ、魔理沙。
アリスは彼女の顔にそっと唇を近づけて、その濡れた眦に、そっとキスを落とした。
呼吸を止めたように、泣き声が止む。
そのまま、気づかないような幽かな動きで、アリスの身体に腕が回される。
いつの間にか日が更に傾いて、夕日の熱を顔に受けていることに気づく。
……熱い。
それから。
あぁ、冷たい。
唇に付いた涙をそっと舐め取りながら、アリスはそんな風に感じていた。
……まるで、そう。
春の雨のように。
もちろん姿を見せないその事実がいつも通りではないことはわかっていたし、アリスの知る限り、魔理沙のことを一番理解しているであろう博麗霊夢が言葉を濁したことからも、自分の知らない何かが起きているということくらいは、わからないわけではなかった。
視界に映る宴会の様子が普段と違うことがなんだか嫌で、アリスは数回、足の爪先で地面を叩いた。しかし、お酒を前にして騒がしい神社の中ではそんな幽かな音が響くはずもなく、小さな音はすぐに喧騒に飲み込まれて、消える。一瞬、盃に目を落としていた霊夢がこちらを見たけれど、ゆっくりと、自然に……視線を逸らされた。
今日は花見、というお祭りらしい。昼間から、ということを除けば、皆で集まってお酒を飲んでいるだけで、普段の宴会と何ら変わりはないのだけれど、桜の花を鑑賞し、春の訪れを寿ぐことが重要なのだとか。少なくとも、こちらの住民にとっては特別なものなのだという。もっとも、周りを見渡す限り、そのような風情を楽しんでいそうな人物は見受けられなかったが。
妖怪たちには、魔理沙は遅刻して来る、と霊夢自身が伝えていた。みんな、紅白と黒白がどれだけ仲がいいか知っているから、その言葉を疑おうとは思わなかったようだ。
魔理沙が宴会の日に遅刻してくるなんてね、と霊夢はぼそぼそと話していた。異変に利用されたことだってあるのよ、と、こちらが知っている情報を繰り返して、そのまま沈黙。盃に目を落としてはいるけれど、先ほどから一度も口を付けていない。
「魔理沙、どうして遅刻して来るって?」
「えっ? あぁ……ええと、」霊夢は目を丸くして、それから髪を弄りながらアリスの質問に答えた。「風邪とか、言ってたわ。あの、もう少し寝てから行くって」
「ふぅん」
嘘だということはわかっていた。嘘をつくときの霊夢の癖を教えてくれたのは、他でもない霧雨魔理沙だ。そしてどうして嘘をつくのかということも、なんとなくアリスには想像できていた。博麗霊夢という人物は、自分のために嘘をついたりはしない。他の誰かのために……そういう人間だと、アリスは思っていた。
だから、あえて詰問することはしない。そうしたところで、霊夢は曲がらないだろうし、それを曲げることは霊夢のためにも魔理沙のためにも、それからアリス自身のためにもならないということくらい、わかっている。
鬼がひと際大きな声を出して、隣に座っている河童に講釈を垂れ始めた。注がれた酒はその場で飲み干さなければならないとか、挑まれた勝負からは逃げてはいけないとか、そんな話。どれもアリスにとっては興味のレベルが低いものだった。
今はそれよりも、魔理沙のことが気になる。
魔理沙は几帳面で、真面目で、失敗したがらない。そんな風に霊夢が彼女を称していたのを思い出す。
胸の中でもやもやとした気分の悪さがこみ上げてきて、アリスはもう一度だけ、爪先で床を叩く。曖昧なリズムを刻んで、心を落ち着かせる。
「霊夢」
「……なぁに、アリス?」顔を上げて、彼女はふっと笑ってみせた。
「魔理沙のこと、心配じゃないの?」アリスは聞こえないように、口の中で舌打ちをする。その笑顔が気に入らなかった。「……あなたらしくないわ」
「心配よ、そりゃね」
「探しに行かないでいいの?」
「……だから、遅刻なんだってば。家で寝てるのよ、たぶん」彼女は髪の毛をくるくると弄ぶ。
魔理沙は家にもいない、という意味で取っていいのだろうか。霊夢の癖を細かく分析できるほど、アリスは彼女のことを知らない。深く知るには、あまりに短すぎる期間だ。この世界に来て、博麗霊夢というこれまでの人生からすれば規格外の人物に出逢って、魔法の森に住むようになって……その程度の時間では、友達一人だって、理解できない。
魔理沙は……どこにいるの。
霊夢がそれを知らないというのはきっと嘘で……、しかし、どこにいるのか知っているのかといったら、きっとそれも違うのだろう。そこまで知っているのなら、彼女はきっと、こんな……諦めたような顔で、笑わない。突き放すような台詞を、使わないはずだ。少なくとも、アリスの知っている博麗霊夢は、こんな風に、友人のことを、諦観した表情で話したりはしない。
……だから、きっと、これは霊夢にとっても、辛いことのはずで。
やっぱり、アリスは、嘘をついた紅白の巫女を責めて、問い詰めることが、どうしてもできなかった。
霊夢自身が、触れたくなくて、遠ざける話題。
親友のことを遠ざける。
それがきっと、自分は酷く悲しいのだ。
「一年に一回くらいね、」ぼそっと、囁くようなボリュームで、彼女は呟いた。「魔理沙は無断で遅刻するのよ」
喧騒が鳴り響く。
霊夢が席を立ったのを確認してから、アリスは手元の魔導書に目を落とした。ページをめくり、それから新しい項目へと視線を移動させる。
文章を読んで、理解し、実践する。機械的な作業かと思っていたけれど、思っていたよりも、ずっとわからなくて悩むことが多かった。向こうにいたときは、こういうことはしなかった。だから、新鮮だし、……面白いとも思う。こんなことで、どんどん時間が過ぎていくということが、何よりも新鮮だった。
わかったり、わからなかったり。それは、友人のことを知るのと同じだ。違う点というのは、ただ……勉強すればわかるのか、そもそも勉強なんていう表現を使えないのか、とか、そういった点。
霊夢だって、魔理沙だって、互いのことを知っていくやり方を勉強したわけではないはずだ。
「無断で、魔理沙が?」
宴会が終わると、アリスは霊夢の方へ顔を向けて訊いた。
二時間越しの質問。
「そうよ」
彼女は自然な動作で頷いて、それから口を閉じた。
それきり、また黙ってしまう。
アリスも続ける言葉を見失って、ただゆっくりと、霊夢から視線を逸らすことしか、できなかった。
*
結局その日中現れなかった魔理沙はしかし、夕暮れになってから神社に姿を見せた。残っていたのはアリス一人だけだった。まったくあいつらときたら、と常套句のような愚痴を零しながら二人でまとめたゴミを捨てに行った霊夢を、縁側で頬杖を突きながら待っていたところに、ふいに入ってきたその姿を見て、アリスは思わず目を丸くした。
見るに耐えない、とまでは言わないけれど、魔理沙の姿は悲惨だった。髪はほどけて、はねていて、汗だくで、エプロンドレスにもあちこちよくわからない汚れが付着している。何をしていたのか、まるで想像できない。
「魔理沙……」
名前を呼んでいいのだろうか、と一瞬考えたのに、その名を反射的に口にしてしまう。
「あ、」こちらに気づいて、彼女は緩慢な動きで微笑んだ。「……アリス、あのさ、霊夢が、先に帰っていいって」
「わ、わかったわ……」
頷いて、のろのろと立ち上がる。一緒に帰るか、といって箒に跨りゆっくりと浮き上がった魔理沙のあとについていきながら、アリスは強く唇を噛んだ。溢れそうになる言葉を、どうにか抑え込む。ここで溢れさせてはいけない、ということだけが、今のアリスにわかる唯一のことだった。
「あの、魔理沙……」
「なに?」
「ええと、お花見、その……また近いうちに開いてもらえるように、頼んだら、どうかしら」
途切れ途切れになる言葉。
別に、そんなことが言いたいわけではないのだけれど。
「大丈夫だ。もう言ってある」
夕日の差し込むを空を二人きりで飛ぶ。ほんの少しだけ前を進む魔理沙は軽やかで、しかしどこか不安定にも思えた。
自分がどんな飛び方をしていたのか、忘れてしまったのだろうか。
思い出そうと、探り探り飛んでいるような、そんな印象を覚えて、アリスは眉根を寄せる。
箒が二度ほど不自然な軌道を描いて、魔理沙は振り返った。
「アリスは、どうだった?」
「なにが」
「初めてだろう? 神社での花見は」
「あぁ、そう、そうね」頷いて、視線を空中に放り投げる。「楽しかったわ。新鮮で」
「よかった」にっこりと微笑んで、彼女はまた前を向いた。
……魔理沙がいた方が、もっと楽しかったかもね。
そんな風に続けようと思って、すぐにやめる。代わりになる言葉を自分の中で探してみて、見つからないことに気づく。
この、あとほんの少しが埋まらない。
「どうして、来なかったの?」
もっと、他の訊き方があるのだろう。
でも、自分はこれしか知らない。こんな訊き方しかできない。
魔理沙は何も答えないまま飛んで、そのまま家の前まで辿り着いた。誰もいない魔法の森。ふわりと着地し、箒を手にとって、肩に立てかける。それからゆっくりとこちらを振り向く。夕日を背に受けている彼女が、どんな顔をしているのかアリスにはわからない。ただ、こちらを向いて、立っている。それだけが、視界に映るすべてだ。オレンジに染まった視界の中で、動くものはない。
何も動かない。
彼女が口を開いたとしても、この逆光の中ではそれすらもわからない。
そんな光景が、どこか……故郷の風景と、重なって。
「霊夢は、何も言わなかったんだ」
「ええ」
「そっか……」その声のトーンは、嬉しさからくるものだろうか。それとも、逆のそれだろうか。「……なぁ、アリス。おまえは、自分が無力だって思ったこと、ある?」
「私はずっと無力だったわ」
……今もね。
そう付け加えるべきか、迷う。迷ったまま時間が過ぎて、結局それは、付け加えなかったという事実だけを残す。
「霊夢と一緒に里に行ったら」三歩ほど離れた位置のまま、魔理沙は話し始めた。「婆さんが、荷物を重たそうに運んでいるのを発見したんだ」
「魔理沙が?」
「そう……霊夢じゃなくて、わたしが」ほんの少しだけ、誇らしげな声だった。「いつも周りを見てる霊夢じゃなくて、わたしが先に見つけるなんて、年に一回とか、それくらいしかないんだ。わたしは、そういうときは必ず、自分でその人を助けるようにしてるんだ。……一人で」
だから、霊夢には先に行ってもらったんだ。そう言って、彼女は僅かの間だけ黙った。
霊夢がそんなことを言われて聞くはずがない、とは思ったけれど、それこそが……つまり、魔理沙を置いて一人で来たことが、霊夢の口から零れる言葉を濁していた原因なのか、と気づいた。普段の彼女からは考えられないような、僅かな苛立ち。きっと魔理沙に対してのそれではなくて、自分に対して、苛立っていたのだろう。
魔理沙がそんなことをしようとする理由を、知っているから。
アリスに理解できる感情ではない。
細く息を吸う音が聞こえて、言葉が紡がれる。
「あとはもう、ほら、霊夢みたいに、いろんなものが見えるようになってくるんだ。迷子の男の子とか、溝に鍵を落としちゃった人とか、転んで泣いてる女の子とか……な。わかるだろう?」
それらを助けていたら、遅れた、と。そういうことなのだろう。アリスが頷いたのを見てから、魔理沙は小さな声で、でも、と続けた。
「結局、宴会が始まるまでに戻れなかっただろ? それどころか、一日中、里を走り回ってた。……バカみたいだろ、わたし。結局、霊夢みたいには、できなかった」
「……毎回?」
「そう」一瞬だけ虚を突かれたように息を飲んでから、彼女は肯定した。「こういうことすると、毎回こうなんだ。わたしらしくもない。しかも今日なんて、よりによって宴会当日だ」
あーあやっちゃったなぁ、と言葉だけは快活に、盛大なため息を吐く。
とん、と軽い音がふいに耳に届く。そこでアリスは、自分が知らないうちに爪先で床を叩いていたことにようやく気がついた。
「……どうして、」
「どうしてそこまでするのか、って思っただろう?」アリスの言葉は遮られた。「霊夢だったら、きっと手早く全部済ませて、宴会にも来れたはずだ。無理だって思えるようなことを、あいつはできる。ずっと一緒にいたから知ってる。……同業者だなんていって張り合ってるけど、わたしなんて本当は必要ないし、いなくたってこの世界は、何事もないかのように回っていく。当たり前の話。わたしにできるようなことは、みんな霊夢ができるし、つまり、わたしにしかできないようなことなんて、何もない。普通はきっとみんな、そうなんだ。みんな、本当は無力で、何もできないのが普通で、でも……、」
魔理沙はそこまで一気に捲し立てて、大きく震える息を吸った。
逆光になって見えないその顔から、地面に一滴、何かが落ちた。
それが涙なのだと気づくのに、普段の何倍もの時間をかけて、アリスは気づいて。
「……わたしは、それが、嫌だった」
声は上げなかった。
ただその場に膝から崩れ落ちて、ようやく見えるようになった顔は、涙でくしゃくしゃに歪んでいて、あぁ、いったいいつから彼女は泣いていたんだろう、と痺れる脳でアリスは考えた。何年も前から……アリスがこの世界に来るよりもずっと前から、この霧雨魔理沙という少女は、泣いていたのかもしれない。親友の隣で、ずっと、劣等感とかいう重荷を澄ました顔で抱えながら。
一人で。
誰にも気づかれたくないという、彼女の思い通りに。
それは、勝手だ。
勝手に傷ついて、泣いたって、何も変わらない。
聡明な彼女にはそんなこと、当然のようにわかっていて。
それでもやめられないなんてことが、ときにあるのだ。
「魔理沙は……」
かける言葉なんて、あるはずがなかった。
ないものを探すのは、とても苦労する。不可能な場合の方がずっと多い。
無力な自分に何ができるのかを探すことのように、手探りで、絶望的で、あまりに空虚だ。
「……魔理沙は、霊夢になりたかったの?」
「憧れるっていうのは……そういうことなんだよ」嗚咽を漏らしながら、魔理沙はどうにか答えた。
「無理よ」アリスはゆるゆると首を横に振る。「魔理沙じゃ、無理だわ。あなたでは、霊夢にはなれない。どうしたって、どう足掻いたって、……同じことをしようとしたって、あなたにはできない」
突き放すような台詞を使っても、彼女は微動だにしなかった。
それくらいのこと、わかってる。
彼女には、わかっていることだらけなのだ。
全部わかった上で、諦めることができない、自分が嫌い。
その感情は、アリスにも理解できるものだった。
きっとアリスの言ったことは間違いではない。あらゆる場面に適応できる話ではないけれど、誰だって、本来は無力で、何者にもなれない。誰も、誰かの代わりになんてなれやしない。ましてその人自身になんて……なれるはずがない。
それでも憧れてやまないのは、どうしてだろう?
憧憬で身を焦がすのは、なぜ?
魔理沙。
あなたがその場で泣き喚いて、決してこちらに手を伸ばそうとしないのは、同じ理由?
酷く怖れているのは……。
「……あぁ、」
思わず、奇妙な吐息を漏らして、アリスは一歩、魔理沙に近づいた。
びくっと痙攣するように、その表情が恐怖に変わる。
怖がらないで、と微笑みかけて、もう一歩、距離を縮める。
ゆっくりと手を伸ばす。
か細い肢体を両腕で抱き締めて、ぐっと近くに引き寄せる。
「あなたは、わたしに……よく似てるのかも、しれないわ」
耳元でそう囁くと、腕の中の強張った身体から、少しずつ力が抜けていくのを感じた。
驕りかもしれないけれど、似ていると、確かにそう感じた。
自分は無力だと、何者にもなれないのだと知って、どうしてもそれを認めたくなくて、足掻く姿。鏡の向こうの自分に、似ているなんて、そんなことを、思ってしまった。
……そんな、無力なあなたが、ほんの少しだけ可哀想で、それからとても……愛しい。
すこしずつ、知っていくその無力さが。
愛しいのよ、魔理沙。
アリスは彼女の顔にそっと唇を近づけて、その濡れた眦に、そっとキスを落とした。
呼吸を止めたように、泣き声が止む。
そのまま、気づかないような幽かな動きで、アリスの身体に腕が回される。
いつの間にか日が更に傾いて、夕日の熱を顔に受けていることに気づく。
……熱い。
それから。
あぁ、冷たい。
唇に付いた涙をそっと舐め取りながら、アリスはそんな風に感じていた。
……まるで、そう。
春の雨のように。
魔理沙がだいぶ辛そうでしたが、アリスがいてくれるようで少しだけ安心しました
が、こういう話はpixivとかのが需要あると思いますよ
ありがとうございました。