かぎりなき雲居のよそに別るとも人を心におくらさむやは
――古今集・詠み人知らず
降りしきる雪は山も寺も真っ白に覆い尽くす。一輪は袈裟の上に綿入を羽織って、星と一緒に火桶を囲んでいた。いつも傍らにいる雲山は寒さが堪えないのか、火桶にあたらなくても平然としている。一輪は星に習いながら覚えたての真名を目を凝らして追いかけ、経典をゆっくり読み進めていた。
遠くで鐘が鳴った。同じ信貴山の中にあるどこかの寺の鐘であろうか。外は雪のせいで薄暗くわかりづらいが、もうずいぶん日が高くなったのだろう。
「鐘の音が聞こえるわ。あれが遺愛寺の鐘かしら」
一輪が冗談めかして言うと、星はすぐさまぴんときたのか、微笑を湛えて答えた。
「それじゃあこの雪は香炉峰の雪ね。あいにく簾はありませんから、格子を開けて見ましょうか?」
「いやよ、寒いんだから」
一輪は綿入をひきかぶって笑った。火桶の炭がちょろちょろ燃えている。そろそろ炭を足した方がいいかしら、などと考える一輪へ、雲山がぼそりと小言を言ってきた。
「え、修行中に意識を逸らすなって? 仕方ないじゃない、私はまだもののあわれも弁えないお坊さんにはなりきれないのよ」
「……いけない。私までうっかり一輪の話に乗っかっちゃったわ」
星は今更のように咳払いをする。集中力を切らして恥じるのは星らしい真面目さだった。
「一輪、せめてこのお経の最後までは読みましょうよ。白楽天が読めるならお経だって覚えられるはずだわ」
「無茶言わないでよ、お経と漢詩(からうた)じゃ全然別物よ。第一、私は読み書きをきちんと習うのも初めてだっていうのに」
「だけど一輪はすごく飲み込みが早いわ。教えているこちらが気持ちよくなるくらい」
そういう星は生まれつきの妖怪ゆえ、仮名の読み書きもできないところから始まって、今や後輩に教えているのだから相当な頭脳だ。
一輪は思わずため息を漏らす。一輪が出家をしたのは秋の暮れの頃だった。特に発心を起こしたわけでも信心深かったわけでもなく、ある僧侶への――故郷を追われ、逃亡の旅で傷つき倦み疲れた一輪と雲山へ手を差し伸べてくれた聖への敬愛と憧憬から、彼女に帰依すると決めたのだ。同じく聖に感服した雲山も、出家して名実共に“入道”となった。
黒髪を切り――といっても、元からそれほど長く伸ばしてはいなかったが、衣を改めて、身を清め、聖によって授戒が行われた時、一輪は確かに心が洗われるような心地がしたのである。
(こんなにさっぱりするものなのね。都のお姫さまは身の丈より余るほどの黒髪をばっさり切り落として、重たい十二単も脱ぎ捨てて仏門に入るのよね。庶民の私ですらこんなに心が軽くなるんだもの、ましてや俗世の重たいしがらみを捨てて出家をする人は、新しく生まれ変わるような気持ちになるんじゃないかしら)
などと少々浮かれた気分になって、最初のうちこそ張り切って修行に努めていたのだが、いかんせんそれまで簡単な読み書きができる程度だった一輪には、難しい経典を読み込むのは至難の技だった。それに古くから伝わる修験道は険しくて人間の身にはいささか堪える。一応恩義のある聖の手前、そして一輪と共に出家した雲山のためどうにか投げ出さずに奮闘してはいるものの、気がそぞろになって、つい寺にある物語だとか詩歌だとか他の書物に手をつけてしまうのだった。先ほどの白楽天もその時に読みかじって覚えたものだ。
星の賞賛に乗って、ここぞとばかりに雲山も鼓舞してくる。一輪ならできる、立派な僧侶になれるとも。あまりにあからさまで一輪は失笑した。
「そんなに褒めたって何も出ないわよ。確かにお頭の方はちょっと自信あるけど、お母さんだって読み書きはあんまりだったんだから」
何気なく亡き母の思い出を引き合いに出すと、星は神妙な顔つきになる。
「何?」
「いいえ。一輪、亡くなったお母さんのことはよく話してくれるけど、お父さんについてはあまり聞かないなと思っただけです。……あっ、別に無理に話してくれなくてもいいの」
「いやいや、そんな気を遣うようなことじゃないって。単純に、私が三つの時に亡くなったから、お父さんのことはほとんど覚えてないのよねぇ……」
一輪は懸命に、母から聞いた朧げな記憶を手繰り寄せる。一輪の父は丈夫な体と明るく磊落な性格を兼ね備えた、力自慢の男だという。最期は川の氾濫による濁流の中へ子供を助けるために飛び込んで亡くなったと聞いた。
父の最期を思い出したせいか、一輪は不意に今ここにはいない聖の身が気がかりになった。
「聖様は大丈夫かしら」
聖は今、寺の留守を星と一輪、雲山に任せて、少ない供人を連れて隠岐まで出かけている。隠岐の海に強力な妖怪が住み着いて地元の人間達が難儀しており、聖の高名を聞きつけた人間が妖怪退治の依頼を聖に持ちかけたのだ。
「海なんて、私は近江の海を雲山と通りがかったくらいだけど、真冬の海って風も冷たくて厳しいんでしょう。聖様、凍え死んだりしないわよね?」
「大丈夫よ、聖は強いんだから。それに、その妖怪を救うために、聖は長い間準備にあたっていたんだもの。きっと妖怪を助けて無事に帰ってくるわ」
星は当たり前のように力強く言う。一輪は初めて出会った時の聖の優しく慈愛に満ちた姿を思い出して、星の言う通りだと思った。
聖は表向きは優れた法力を操り、悪しき妖怪を退治して回る善良な僧侶だと思われているが、その実、人間のみならず、妖怪にまで慈悲を寄せて密かに救いの手を差し伸べる。ゆえに一輪は聖についてゆくと決めたのだ。一輪の傍らにはいつも半身と言うべき妖怪の雲山がいて、並の人間は雲山を恐れて一輪まで忌み嫌う。一方、並の妖怪は人間を単なる食糧としか見ていないので、一輪を雲山の獲物だと見做して横取りしようとしてくる。人間の一輪と妖怪の雲山、両方を受け入れてくれる稀有な者など、聖をおいて他にいなかった。
冬が来る前に聖に会えたのは幸運だった、と一輪は返す返す思う。何せ一輪は故郷の村を着の身着のままで逃げてきたのだ、金目の物はすぐ使い果たしたし、着る物もボロ切れと化した薄い小袖しかなかった。いくら雲山がそばにいて一輪を守ってくれていても、冬の寒さには耐えられず凍死していたかもしれない。
思い出せばまた寒さが身に染みてきて、一輪は火桶にくべる新しい炭を取り出した。暦の上ではもう春なのに、白梅と紛う雪が止む気配はない。
「星、もう少し炭を足してもいい?」
「いいけど、あまり無駄遣いをしては駄目よ。物は大事に使うの」
「わかってるわよ、だけどもう一月(むつき)よ一月。ケチケチしたって次の冬にはもう湿気って使い物にならなくなっているかもしれないわ。それじゃあ今のうちに使った方が無駄にならなくて済むでしょう」
「はいはい。まあ、一番暖を取るのが必要なのは一輪だし、一輪に任せるね」
「星は妖怪だものねえ。人間より体が丈夫なんだから、羨ましいわ」
「そんなに羨ましがることかしら。ねえ、雲山?」
星が困ったように雲山へ話しかけると、雲山は小さな声で一輪にささやく。一輪は前からそうだった、妖怪を恐れるどころか好意を抱く変わった人間なのだ、と。星の方をちらと見るばかりでまともに目を合わせようともしない雲山に、一輪は呆れて肩をすくめた。
「あのねえ、雲山。星は今、貴方に話しかけたのよ。いい加減、私以外の相手ともちゃんと話をしたらどうなの?」
「恥ずかしがりなんですよね、わかってます。無理にとは言わないわ」
「もう、星は甘いんだから」
一輪は口を尖らせる。こっちとしてはいちいち通訳する羽目になって手間が増えるというのに。一輪がじろりと雲山を見れば、雲山は小さくなるばかりである。厳めしい見た目にそぐわぬ、純真無垢な小娘のような恥じらいぶりだ。
その時、寺の表がにわかに騒がしくなった。はっと星が立ち上がる。
「聖が帰ってきたわ!」
「えっ、もう? って、そうか、聖様には法力があったわね」
「一輪、もっと炭を足して部屋を暖かくしておいて。私は出迎えてくるわ」
と、星はつい今しがた『無駄遣いをしないように』と言ったのも忘れたのか、慌ただしく寺の入り口まで駆けてゆく。さすがに読みかけの経典はきちんと畳んでいったのは彼女の品行方正ぶりがなせる技か。
「あーあ、星も大概聖様にお熱よね。……ん、何? どうしたの、雲山」
雲山は声をひそめて、妖怪の気配がすると言った。神経を研ぎ澄ませば、一輪にも確かに今まで会ったことのない妖怪の気配が感じられた。
「例の隠岐の海の妖怪かしら。連れ帰ってきた、ってことは、聖様の新しい弟子になるのかな?」
一輪は興味を掻き立てられた。何人もの人間を海に沈めてきた悪い奴との話だが、一輪が雲山を退治して従えたように、妖怪だって心を改めるものだ。聖は名だたる高僧だ、妖怪を従えるなんて容易いだろう。
どんな妖怪なのか。いてもたってもいられなくて、一輪も立ち上がる。星の後を追おうとしたところで、ちょうど旅路から帰ってきた聖が顔を覗かせた。聖は雪に濡れた編み笠を手に、首から大粒の数珠を下げてにこやかに微笑んでいた。後ろから迎えに出た星も姿を現す。
「――ただいま戻りました。一輪、雲山、星と一緒に長らくのお留守番、ありがとうございました」
「いえいえ、聖様こそ長旅お疲れ様でした! 外は寒かったでしょう、さあ、早く中へ……」
「ええ、ちょうどいいわ、新しい仲間を紹介します」
聖は自らの後ろにくっついている人影に視線をやり、自分の前に出るように促した。防寒のため編み笠を被り蓑を着た、一輪と同じ年頃の娘である。雪に濡れた蓑と笠を脱ぎ捨てると、黒髪に透き通るような青白い肌をした娘の顔があらわになった。闇色の眼で、じっと聖の後ろから寺の様子を注意深く伺っている。
「村紗水蜜。みんなにはムラサと呼ばれているそうよ。この子は舟幽霊で、長らく隠岐の海に縛られていたのだけど、この度私の元で預かることになったの。仲良くしてあげてね」
聖は笑ってムラサの背を押すが、ムラサは警戒しているのか、聖の後ろから一歩も動こうとしない。一輪はムラサを見つめた。舟幽霊とは何だろう、と疑問に思う。幽霊にしては姿もはっきりしているし足もある。妖怪の一種なのだろうか。
無言を貫くムラサに星は戸惑っているが、一輪は遠慮をしない。さっとムラサのそばに近寄って、親しげに話しかけた。
「はじめまして、私は雲居一輪っていうの。こっちの入道は雲山。顔はちょっと怖いけど根は優しいのよ。これからよろしくね」
一輪がやはり恥ずかしがって一輪の背中に引っ込む雲山を指差して言うと、ムラサは初めて一輪と雲山へ交互に視線をやった。すると、ムラサは一輪の顔を見てぎょっと目を剥いた。
「貴方、人間じゃない!」
「ええ、そうよ。それがどうかした?」
ムラサは大袈裟に後退りして、いよいよ聖にしがみついた。一輪は小首を傾げる。
「聖様、貴方のお寺に人間がいるって本当だったの?」
「本当よ、私が嘘をつくものですか。私のお寺は妖怪も人間も平等に受け入れるのよ」
「だ、だけど……」
聖はたしなめるようにムラサの頭を撫でる。一輪にはムラサの動揺の理由がわからない。聖の理想を理解しているのなら、妖怪と一つ屋根の下で暮らしている一輪にそこまで驚くだろうか。
「あの、とりあえず皆さん、もう少し中に入りませんか? 聖もムラサも長旅で疲れているでしょう。私達の紹介は後にして、今は休んだ方がいいんじゃないでしょうか」
そこへ星が気を利かせて提案する。言われてみれば、全員部屋の入り口で襖も開けたまま話を続けていたのだ。このままではせっかく火桶に炭を足したのに部屋も冷えてしまう。
それから全員そろって食事について、隠岐への旅路の話で沸いたりもしたが、ムラサは聖にくっついたまま、ついぞ一輪とも星とも口を聞くことはなかった。まだ緊張しているのだ、と聖と星は言ったし、雲山にも焦って距離を詰める必要はないと言われたが、一輪はムラサの態度を少し不満に思っていた。
◇
「ねえ、ムラサ。ムラサってば」
後日、一輪は一人所在なさげに廊下で庭を眺めているムラサに声をかけた。聖はまた別の妖怪退治の依頼を請け負って出かけている。寺に来てからいつも聖にべったりなムラサは、聖がいないと一人でぽつんと過ごしているのだ。
振り返ったムラサは、不機嫌な表情を隠しもせずに一輪を睨んだ。
「何なの、貴方。そんなにまとわりつかれたら鬱陶しいんだけど」
「どうしてそう邪険にするのよ。これから一緒に修行するんだもの、仲良くするに越したことはないでしょう?」
「私はあくまで聖様についていくって決めたの。貴方達なんてどうでもいいわ」
「えー、寂しいこと言わないでよ」
一輪が食い下がると、ムラサは眉間のしわを深める。
「だいたい貴方、人間のくせになんで妖怪と平気で一緒にいるの。怖くないの?」
「怖くないわ。雲山だって私が退治したのよ。故郷の村では怖いもの知らずの一輪って評判だったんだから」
「貴方が妖怪退治?」
ムラサは疑わしげに一輪と傍らの雲山を見比べた。雲山は相変わらず、ムラサと目が合うと緊張するのか雰囲気が固くなる。一輪は雲山を小突きつつ引き寄せた。
「これでも私と雲山は大の仲良しなんだから。雲山はいつも私のそばにいて、私を守ってくれるの。みんななかなか信じてくれないけどね。聖様は優しい人よ。村のみんなが怖がって遠ざける雲山を受け入れてくれたの」
「……」
「ムラサも聖様に惹かれたんでしょう? なら私や雲山や星と同じ。気が合うのよ、きっと仲良くなれるわ」
「貴方は妖怪をわかってない」
嬉々として告げる一輪を遮ってムラサは冷たく告げた。ムラサの闇色の目が深海の底のように暗くて、一輪はわずかにたじろいだ。
「怖いもの知らず? それって言い方を変えれば、ただの無知な向こう見ずってことじゃないの?」
「なっ……!」
ムラサは口元をつり上げ嘲笑った。カッとなった一輪を雲山が宥めにかかる。ムラサはそのまま一輪を見下すように眺めていたが、やがてその目に悲しみとも諦めともつかない色を浮かべた。
「その入道が何だか知らないけど、私は人間なんかと一緒にいたくない。貴方は妖怪の恐ろしさをこれっぽっちもわかってないのよ。私のこともわかってない。……そんな相手と、仲良くなんかなれないよ」
一輪はムラサに冷たく突き放されて、呆然と立ち尽くす。ムラサはもう一輪を振り返りもせず、廊下を一人で歩いていった。
しばらく一輪は動けなかったが、次第に苛立ちや不満が込み上げてきて、ムラサの向かった方向とは別の、聖に留守を任された星がいる本堂へと向かった。
「私、なんかムラサに嫌われてるみたいね」
星と顔を合わせるなり唐突に告げた一輪に、星は苦笑を漏らした。
「一輪がしつこくするからじゃない? あんなにぐいぐい来られたら普通は戸惑うでしょう」
「だけど星は私と仲良くしてくれたじゃない」
「だって強引なんだもの。しまいには『敬語なんてやめてよ』とまで言い出して。ムラサは意志が固いけど、私は押し切られちゃったわ」
星はくすくす笑っている。
今でこそ星は一輪に対してほとんど敬語を使わないが、初めのうちは礼儀正しく敬語で話していた。一輪も最初は指導を賜る先輩なのだから、と星に遠慮していたが、次第に同じ釜の飯を食らう相手に他人行儀で接されているように思えて嫌になってしまった。
『ねえ星、私は姉弟子の貴方に敬語を使わない。なのに貴方は妹弟子の私に恭しく敬語で話しかけてる。変じゃない?』
『変、でしょうか? 聖の喋り方を真似していたのですが……』
『なんか嫌なのよ、聖様は私達のお師匠様だから特別にしたって、私はもっと星と仲良くなりたいのに隔たりを感じるわ。もういっそ敬語を取ってくれない?』
『ええ? そんな急に言われましても……』
『“一輪、今日は雪が一段と深いわね”はい、復唱』
『一輪……』
『星』
『……一輪、今日は雪が一段と深いわね。これでいいの?』
『うん、ばっちりよ』
思い返せば確かに無茶を押し通したが、今では星もすっかり慣れたのか親しく口を聞いてくれる。しかしムラサ相手に同じ手段は通じないだろう。
「私ってそんなに無知かしら。ムラサが妖怪のこと何もわかってないって言うのよ」
「うーん……難しいかな。妖怪によって個性もあるし、私の方からまだ貴方に伝えられないこともある」
「星、なんか隠し事してたっけ?」
「私が満月が駄目な理由……ちゃんと話していないでしょう?」
「へ?」
気まずげに口ごもる星に、一輪は目を丸くする。
星が、というより妖怪全般が満月の夜に活発化するのは知識として知っている。雲山は例外のようだが、満月の夜は特に聖への妖怪退治の依頼が多い。星も満月の日は決して外に出ず、光を遮った部屋に閉じこもりじっとしているが、“妖怪だから”以外の理由を考えたことはなかった。
「何か事情があるの? 言いたくないなら無理に話してくれなくたっていいけど」
「ええと……いつか話すわ。私もまだ心の準備ができないっていうか」
「じゃあいつかね。ムラサはもう知ってるの?」
「さあ……。あの子、他人のことよく見てるから、もしかしたら気づいてるのかも」
「何それー? 人間の私は駄目で妖怪の星はいいってこと?」
なんだか腹が立って、星が気の置けない相手なのをいいことにつらつら愚痴をこぼす。
「人間が妖怪がって言うけど、ムラサだって元は人間じゃない。なのに挙げ句の果てには『私は人間なんかと一緒にいたくない!』とまで言われちゃったわ。じゃあどうして聖様とは一緒にいるのよ?」
すると、にわかに星の表情が凍りついた。いつも穏やかな星らしくない、焦りと恐れを浮かべた表情だった。
「一輪、貴方、まさか……」
「え?」
一輪もつられて動揺する。星にまで変なことを言ってしまっただろうか、けれど一輪には心当たりがない。雲山を振り返っても、険しい面持ちで黙っている。
星は即座に落ち着きを取り戻して、一度咳払いをする。星の金色の目が真っ直ぐに一輪を見つめてきた。
「……一つだけ確認させてください。一輪は、聖がこんにちのように人間と妖怪の救済を志すまでの道のりを聞きましたか?」
「聖様の来し方? いいえ、知らないわ」
「そう……」
星はあからさまに声を落とす。その時初めて、一輪は聖の経歴を明確に把握していなかったのに気づいた。自分と雲山の身の上話を聞いてもらうばかりで、聖の話を聞く暇がなかったのだ。
「星は知っているの?」
「ええ。ですが、聖の口から直接聞くべきです。私からは言えません。聖はきっと貴方に、いえ、貴方達二人に自ら話すと思うんです」
星はいつになく真剣さを帯びた声で、敬語に戻って告げた。一輪ももっともだと思ってうなずいた。
折よく、と言うべきか、聖がお寺に帰ってきてから、一輪は雲山と共に久々に聖と水入らずで話す機会が設けられた。
「こうして向かい合うのはいつぶりでしょうね」
一輪はわざと拗ねた口ぶりで言った。一輪だって聖をこの上なく慕っている、少しばかり寂しかったのだ。
「最近はずっとムラサがべったりだし、私はそのムラサには嫌われてますし」
「みだりにやきもちを妬くべきではありませんよ。嫉妬に駆られて心が鬼になってしまう者は古来より後を経ちません」
「そうなったら聖様が私を祓ってくださいな、せめて思い人の手にかかる方が幸せですわ」
「冗談でもそんなことを言わないで」
軽口を叩く一輪を聖は厳しく喝破した。一輪は思わず背筋を伸ばす。
「都人の和歌には『死んでも惜しくない』なんて文句は珍しくありませんけど、貴方は御仏の弟子。軽薄な考えは捨てて真剣に生と死に向き合わなければならないの。貴方がムラサと仲良くなりたいのなら余計にね」
「……そう、ですよね」
かつて雲山にも『軽々しく死ぬなんて言うな』と怒られたのを思い出して、一輪は素直に反省する。
(そりゃ、私がこんなんじゃ、ムラサだって嫌がるよね)
ムラサの事情はあらかた聞いている。ムラサは人間だった頃に水難事故で亡くなり、無念から自分を沈めた舟を探して海を通りかかる舟をすべて転覆させていた。いつしか妖怪になって、聖が来るまで海から一歩も離れられなかったというのだから、その恨みはさぞ深かろう。
俯いて黙りこくる一輪を見て、聖も少しだけ眉根をゆるめた。
「一輪、妖怪が最も求めているものは何だと思いますか?」
「へ? そうですね、やっぱり人間の肉とか恐怖心とかでしょう」
「少し惜しいわ。貴方の隣をご覧なさい」
「ああ……雲山はどっちもなくても生きていますものね」
言われるがままに一輪は雲山を見る。確かに雲山は一輪に従ってから、一度も人間を襲っていない。脅かしてもいない。ずっと一輪のそばにいるが、かといって人間になり妖怪でなくなったのではない。妖怪が人間になれるのかは疑問だが。
雲山はなぜか一輪と目を合わせようとしない。一輪が強いて顔を覗き込むと、すぐに向きを変えてしまう。何なの? と一輪が首をかしげたところで、聖の忍び笑いが聞こえてきた。
「心が満たされること。それが妖怪にとって一番重要なの。どんなに人間の肉を食らっても、心に大きな傷を受けたり、世の中が虚しくなったりすれば、妖怪は生きてゆけないのよ」
「ええと、なら、雲山は……」
「一輪。他でもない貴方が飢えや寒さに苦しまず、病に冒されず、健やかに穏やかに日々を生きていること。それが何よりも雲山を安心させるのよ」
微笑ましげに目を細める聖に、一輪は無性に照れ臭さを覚えた。
一輪が平穏に生きていればそれでいい、なんて、まるで我が子の成長を見守る親のようではないか。一輪はもう実の両親も育ての両親も失ってしまって、親じみた愛情をくれる者なんていない。一輪は雲山を親代わりだとは思っていないけれど、雲山が毎日一輪の平穏無事を祈り温かく見守っているのだと思うと、こそばゆくなった。
そこで再び雲山を見やれば、雲山は聖の率直な言葉が恥ずかしいのか、今にも逃げ出さんばかりである。
「こら、雲山、逃げるな! 私だけ恥ずかしいじゃないのよ!」
一輪は雲山の体をつかんで引き止める。どこに子供を置いて逃げる薄情な親がいるんだか、やっぱり一輪も一輪で雲山を見守ってやらねばならない。
聖は二人のやりとりを目にしてにこやかに笑っていたが、やがて真面目な表情で笑みを消した。
「ムラサはね、人間の貴方を怖がっているのよ」
そして話は再びムラサへと戻ってゆく。
「えっ? 普通は逆じゃありませんか?」
「貴方は妖怪なんて怖くないのでしょう」
「だけど、ムラサが私を怖がる理由なんてどこに……」
「ムラサは、いつか生きた人間である貴方への恨みが募って、殺して舟幽霊にしてしまうんじゃないか……それを恐れているのよ」
思いもよらぬ言葉に一輪は驚いた。
脳裏を過ぎるのは、一輪を突き放すムラサの冷たい視線や邪険な言葉の数々。その裏側に新たな罪を重ねるかもしれない、という恐怖があったなんて、一輪はちっとも気づかなかった。
「で、ですが、ムラサの調伏は聖様が成功させたのでしょう? だから隠岐の海から離れてここまで来たんじゃありませんか? 雲山が私についてきてくれたように」
「一輪……貴方はまだ若すぎて、志半ばで倒れる無念や、愛おしい者を遺して我が身一つで逝く未練や、理不尽で不本意な死への憤りを理解できないのですね」
聖は目を細めてゆったりと語りかけた。弟子を見るというよりは、娘か孫でも見るような眼差しである。
「病、飢え、天災、老衰、殺人……僧侶は死者の弔いも数多請け負うのよ。死者の無念や遺された者の悲しみに思いを馳せなければなりません。時間はかかるでしょうけど、貴方ももう少し死を悼む心を理解しなければならないわ」
「そりゃ、確かに私は若者ですけど」
一輪は不満をあらわに言い募る。一輪だって実の両親には死に別れているし、死を悼む気持ちを何も知らないわけではない。何より、若いのは自分ばかりではないだろう。
「聖様だってまだ充分にお若いじゃありませんか。すごく大人びていらっしゃるのに、私より少し歳上くらいにしか見えませんよ」
「……」
「聖様?」
聖はふたたび眉をひそめて、悲しげに一輪を見つめた。と思ったら、無言で一輪の体を抱きしめたのである。
「一輪、雲山。遅くなってごめんなさいね。貴方達がこのお寺の暮らしに慣れた頃には話さなければ、と思っていたのに、私ったらぐずぐずしてしまって」
「……ひ、聖様?」
「これから私はとても大切なことを話します。ともすれば、貴方達には受け入れ難い、許し難いと思われるようなことも……。私の話を受け入れるかは、貴方達が決めてくれて構わないわ。だけど、せめて私の話を最後まで聞いてもらえませんか?」
聖の声音は珍しく切羽詰まっていた。一輪はとまどいつつ、直感した。おそらくは以前、星が口にした聖の来し方の話だ。
一輪は雲山に目配せする。雲山は無言でうなずいた。相談するまでもない、一輪だって聖の話を聞きたいと思っていたのだ。
「受け入れられるかどうかなんて、聞いてみなければわかりませんけど。聖様の話ならなんだって聞きますよ」
「……うん」
一輪の毅然とした答えに、聖は一輪の体を離して、微笑んだ。
「一輪は、信濃の生まれだと言っていたわね」
「ええ、信濃の田舎の村で生まれ育って、村の近くに現れた雲山と出会ったんです」
「私も生まれは信濃なのよ。ねえ、信濃で生まれ育ったのなら、“命蓮”という僧侶の話を聞いたことがあるんじゃないかしら」
「ありますよ、もちろん!」
一輪は声を高くした。一輪にとって、かの命蓮は憧れの高僧だ。尊敬してやまない聖と同郷なのが嬉しく、また命蓮の話が出たのも懐かしくて、一輪は長々と思い出話をしてしまった。
「私、まだ故郷の村にいた頃、雲山に頼んでこの信貴山まで連れてきてもらったことがあるんです。村の長老格だったおばあさんの病気を、命蓮様に治してもらおうと思って。そしたら、お堂で私は命蓮様の幻を見たんです! 雲山も一緒にいました、覚えているでしょう? 命蓮様が伝説のように鉢を飛ばしたのを」
雲山を見やれば、雲山はうなずく。現の世で命蓮らしき僧侶の幻を見たのは後にも先にもその一度きりだったが、顔も姿も鮮明に焼き付いていつでも思い出せる。
「それからしばらく後になって、私と雲山が故郷を追い出された後も、夢の中で命蓮様? のようなお坊さんに会いました。その人の導きで再び信貴山まで足を運んだら、知っての通り、私達は聖様達に出会えたというわけなんです。だから私、命蓮様のことはすごく尊敬しているし、感謝もしているんですよ」
「……そう。貴方は、そんなにも命蓮のことを……」
聖はしみじみとつぶやく。心の底から深く感じ入っている、遥か彼方の記憶に住まう身内を懐かしむような調子だった。
(聖様も命蓮様を慕っていらっしゃるのかしら、それにしてはずいぶんと親しげな……)
一輪が不思議に思っていると、聖は顔つきを変え、一言一言を刻みつけるようにきっぱり告げた。
「一輪。命蓮には、たった一人の姉がいたのよ」
「お姉さん? ……ああ、聞いたことがあります。故郷を出て行ったきり帰ってこない命蓮様を心配して、はるばる信貴山を訪ねてきたと」
「――その命蓮の姉が、私です」
「……え?」
一輪は唖然とした。あまりの衝撃で空いた口が塞がらない。まさか、と言いたかったが、聖はまったく嘘をついている様子がなく、真剣な目をしていた。仏の教えに嘘をつくべからずとあるように、いや、そんなものがなくたって、聖はこんなたちの悪い嘘をつく人物ではない。
「え? だ、だって、命蓮様はもうとっくの昔に亡くなっていて……そのお姉さんが、生きているわけ……」
「ええ。命蓮と姉が……私がかつて住んでいたお寺には、命蓮の姉は弟の死後、後を追うようにひっそり亡くなったと伝えられているはずよ。他でもない、私がそう吹聴して回ったんですから」
「だ、けど、聖様は若くて……」
「一輪や。悪鬼妖の類は、人間を騙すために、人間のふりをするの。見た目に惑わされてはいけないのよ」
真正面から頭を殴られたような錯覚がした。
一輪は初めて聖に会った時の圧倒的な存在感を思い出した。紫雲に金の砂子を混ぜたような長い髪、若々しく張りのある肌、高貴な紫色の瞳……よくよく考えてみれば、どうして僧侶なのに尼削ぎにすらしていないのか、見たこともない色の髪を惜しげもなく晒すのか、疑問に思うべき点はいくつもあったのに、一輪は雲山に理解を示してくれる喜びに浮かれて聖をきちんと見てはいなかったのだ。その時、聖のそばに控えていた星のことは一目で妖怪だと看破できたというのに。
呆然とする一輪に、聖は遠い目をして、亡き弟の思い出を語り始めた。
「自慢の弟だったわ。優れた法力を持ちながら決して驕らず、いつだって自分の力を人のために使うことを第一としていたの。離れたところにいる人の病すら治せたのに……弟は姉の私より早く死んでしまった」
雲山の気遣わしげな声が聞こえる。一輪は曖昧に返事をした。ちゃんと聞いている、あまりに大きな衝撃だけれど、聖の悲しみに沈んだ声は一輪にもしかと届いている。
雲山は一輪よりも落ち着いていた。雲山はきっと気づいていたのだ、聖が人ならざる者であることに。わかっていながら、一輪のため、聖のために口をつぐんでいた。
「受け入れられなかったわ。日に日に冷たく、硬くなってゆく肉の塊が私の弟だなんて。亡骸を焼かれて、真っ白な灰と骨だけになったものが命蓮だなんて……。そうして私は気づいてしまったのよ。近い将来、年老いた私も弟と同じ道を辿るのだと。あの冷たい肉の塊に、白い灰に、私も……それが恐ろしくてたまらなかった。だから、私は弟の元で学んだ法力とは別の力を求めた」
聖の瞳が妖しげな色を帯びた。その先は、言われなくとも想像はつく。秦の始皇帝然り、本朝の垂仁天皇然り、不老不死を求める人物は歴史上珍しくない。
問題は“どのように”その力を聖が手に入れたのかだ。かぐや姫がかつて帝に渡したと伝わる不老不死の薬は、他ならぬ帝の勅で焼かれてしまった。
「天に定められた寿命を無理に伸ばしたり、年老いた肉体を若返らせる力が清浄なものであるはずがないわ。一輪、雲山。貴方達が想像している通りよ。妖怪の力なの。今の私の浅ましい姿は、表で妖怪を退治するふりをして、裏で密かに命を助けた時にもらった恩恵なのよ」
「……」
「ただの下心だったのですよ、始まりは。私は私のためだけに妖怪を助けた。妖怪の力がなければ、私の妖術も効果を失ってしまうからね。命蓮が人のために力を振るったのとは全く異なる、仏の道にも人の道にも反く外道です。妖術に手を染めた時点で、私は人間ではなくなってしまったのよ。かといって、今の私が妖怪かと聞かれれば、そうでもないと答えざるを得ませんが……」
「聖様。今のお話は、」
一輪はかろうじて口を挟んだ。頭が混乱してうまく言葉がまとまらないし、声も震えるが、確かめたいことがある。
「今のお話は、星は知っているんですか?」
「……ええ。星には会って間もなくに打ち明けています」
「……ムラサは?」
「まだすべては話していないけれど、私がただの人間でないのは気づいていますよ」
「……そうですか。私だけ、だったんですね……雲山だって気づいてたのに、私だけ何も知らなかった」
自ずと乾いた笑みが溢れた。何と滑稽で、浅はかな。一輪は聖への憧れだけが先走って、盲目になっていたのだ。
優れた法力のお坊さんだから、神や仏の使いなのだと思い込んでいた。聖と呼ばれながら、その対極にある彼女の邪な力に気づかなかった。
一輪はまた初めて出会った時の聖を思い出す。
警戒心を剥き出しにする一輪と雲山に、聖は『貴方達の間にあるのは、お互いを守ろうという強い意志。――どこに嘘偽りがあるというのかしら?』と鮮やかに告げた。それは決して嘘じゃないと思った。心の底から信じられる人だと思った。
だから一輪は自分のためにしか妖怪を助けなかったという聖の言葉を空言だと思う、いや、思い込みたいのだ。
「教えください、聖様。私と雲山を受け入れてくれたのは、ご自身のためですか? 人間と妖怪は手を取り合えると言ってくれたのは、嘘だったのですか?」
「……貴方の言う通り、私のためでもある。だけど一輪、雲山、これだけは信じてほしいの」
聖は右の手のひらを上に向けて、一輪の前に差し出す。次の瞬間、聖の手のひらの上に鉢が浮遊して、一輪はあっと叫んだ。
「それは、まさか、命蓮様の!」
「ええ。弟の法力は死んだ後もこんなに鮮明に残るくらい、強力だったのよ。……昨年の夏だったわ、この鉢が他国に行脚中の私の草庵に飛んできたのは」
昨年の夏、それは一輪が雲山と共に信貴山を訪れ、命蓮の幻を見た日と重なる。一輪は肌が粟立つのを感じた。ここにきてようやく、一輪は聖が命蓮の姉だと本気で信じる気になれたのだ。
「すぐに命蓮の法力だと気づいたわ。……私はあれから一度も命蓮に会っていないけれど、この鉢が命蓮の伝言なのはわかりました。貴方を必要としている者がいますよ、って命蓮に教えられた気がしたの。他でもない弟の頼みですもの、私はこの鉢の来た道を辿りました。探し回って、故郷の信濃まで来て、人間の娘が入道に拐かされた話を聞いたの」
少しずつ、一輪は目の前の現実を受け入れていった。夢に現れた正体不明の僧侶は、命蓮ではなく聖だったのだ。聖が夢の中にまで干渉できるかはわからなかったが、きっと命蓮が現と夢をつないで引き合わせてくれた。
聖は鉢をそっと膝の上に下ろし、愛おしいものを見るように微笑んだ。
「まさか信貴山で会えるとは思っていなかったけれど、貴方達を無事に保護できて本当によかった。……一輪、雲山。私が妖怪を保護する過程で、行き場のない妖怪や力の弱い妖怪に手を差し伸べたいと思うようになったのは、本当なんです。今までの私の所業に対する罪悪感もありましたし、罪滅ぼしだという意識もありますが、私は人間も妖怪も、両方を救いたい。それを宿願として修行を続けているのです」
「聖様……」
「肉体が滅びたって消えないものはある――仏の教えは妖怪にだって通じるはずです。それが、命蓮の亡き後にもう一度仏道を学び直した私の答えです」
聖は真っ直ぐに一輪と雲山を見つめていた。その目に一切の迷いはなく、言葉も明朗である。
一輪はすぐに返事を返せなかった。聖の告白が嘘でないのはわかった。けれど、いっぺんに色んな話が一輪の上に降りかかってきて、一輪の思考は未だ散らかっている。
「あの、すみません。少しだけ、雲山と二人で考えさせてもらってもいいでしょうか」
「いいわ。たとえ貴方達が私を見限り寺を出ると言っても、私は引き留めません」
一輪が途切れ途切れに告げると、聖はやはり淀みなく答えた。一輪はふらふらと立ち上がって、雲山に気遣われながら聖を残して部屋を後にした。
外はもう雪が降らなくなってきたが、まだ肌寒いのに変わりはない。一輪は廊下をおぼつかない足取りで歩く。冷えた廊下の温度が足の裏にしみても気にならなかった。
(聖様は、自分が死にたくないばっかりに、妖怪の力を……)
嘘だと思いたかった。菩薩のように慈悲深い聖がそんな所業に手を染めるなど、まるで悪意のある物の怪のようだ。
しかしながら、聖は告白の最中、一切の申し開きをしなかった。自らの罪禍をしっかり見つめて、認めて、逃げずに向き合おうとしているのだ。何よりすべてを包み隠さず打ち明けてくれたのは、一輪と雲山に対し、誠実であろうとしてくれた証ではないのか。
「……あ、」
気がつくと、雲山の手のひらに体を支えられていた。ふらふら歩くな、庭に落ちるぞ、と雲山が注意する。動揺のあまり、一輪はどこに向かって歩いているのかも意識していなかった。
「雲山……」
雲山は心配そうに一輪を見つめる。雲山にだって聖の話は衝撃的だったろうに、一輪の身を真っ先に案じているのだ。
「ねえ、私、おかしいのかな」
一輪は雲の体に顔をうずめた。雲山にだけ聞こえるように、ぽつぽつと話した。
「聖様はひどいことをしているのに。みんなに慕われている裏で、妖怪の力を使って不老不死なんか求めたりして。仏様の教えに背いて、嘘をついて、みんなを騙しているのに……私、聖様のこと、ちっとも嫌いにならないの」
口にした途端、涙がこぼれた。抑えきれずに後から後から溢れて、雲山の雲の体をすり抜けて廊下を濡らしてゆく。
聖に対して思うことは様々あれども、いの一番に、何よりも強く浮かんできた感情は悲しみだった。淡々とした言葉の裏にある聖の悲しみが伝わって、一輪の心を埋め尽くしたのだ。一輪は最愛の弟を亡くした聖の悲しみに思いを馳せて泣いた。
「自慢の弟様が亡くなるってどんな気持ちなんだろう。雲山、この世で生きる一番つらい悲しみは、親しい者に死に別れることだって、故郷のおばあさまが言っていたのを覚えてる?」
覚えている、と雲山は答えた。一輪の涙を雲山は静かに受け止めている。一輪は雲山の前では遠慮も何もかも吹き飛んで、辺りも憚らずに泣きじゃくった。
「ムラサの言う通りだよ、私は何もわかってない。私のお母さんがお父さんの死を嘆くのより、つらかったのかな。お母さんが死んだ時より悲しかったのかな……。私は死出の旅路に連れて行って、お母さんのところに行きたい、とは思ったけど、死ぬのが怖いなんて思わなかったよ」
一輪は何も知らない自分が悔しくてたまらなかった。己の無知と無力が恥ずかしかった。溢れて止まらない涙は悲しみよりも憤りに近かった。
しばらくして、ようやく涙が治まってきた一輪は乱暴に顔を拭う。雲山があんまり強く擦るなと言ってくる。
「雲山、私、聖様の力になれないかな。ううん、聖様だけじゃない、聖様が言ったように、ムラサとか、もっとたくさんの人達の悲しみに寄り添えるような、立派な僧侶になれるかな? ……どうしよう、雲山。私、間違ってる? 私も間違った道に行こうとしているの?」
一輪は拭えぬ不安から雲山に縋りつく。一輪の心は決まっていた。聖やムラサの悲しみを完全に理解できなくとも、せめて寄り添いたい。けれど二人の所業は、簡単に許し受け入れていいはずのものではなくて――。
雲山は真面目な、けれど穏やかな目で一輪を見つめていた。そして一輪にしか聞こえない声で、滔々と告げた。
――今更そんなことを聞くんじゃない。
一輪、お前はいつだって自分が正しいと思う道を迷わず選んで歩いてきたじゃないか。
今更己の助言などいるものか。聖を信じたいのなら信じればいい。一輪の信じた道を行けばいい。案ずるな、決して一人にはさせない。自分はいつだって一輪のそばにいる。片時も離れずに一輪を見守っている。
「……雲山」
目を見張る一輪に、それでも強いて己の意見を言うならば、と雲山は付け加えた。
聖は嘘をついていない。妖怪も人間も救う、と言ったのは本心だろう。一輪と自分を弟子にしてくれたこと、心から感謝している。
「うん。……そうだよね」
雲山の力強い言葉に、一輪は曇りが晴れてゆく心地がした。すとんと足が地に着いて、もう歩みがふらつくこともない。
雲山の言う通りだ。こうと決めたら後ろなんか振り返らず、足元も気にせず真っ直ぐに進むのが一輪であった。
「ありがとう、雲山。そうね、聖様は自分の過ちを認められる人なんだもの。過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。……これは論語ね、大陸の書物って本当に面白いのよ」
体を離して微笑みかけると、雲山は口元を緩めつつ、ちゃんとお経も読めと説教してくる。言われなくとも修行はしっかりやるつもりだ。
雲山がそばにいれば怖いものなんてない。一輪はさっきまで泣いていたのが嘘のように笑って、今しがた歩いてきた廊下を引き返した。
「聖様のところに戻りましょう。あんなこと言ってたけど、きっと心の中は不安に違いないもの、先延ばしになんかできないわ!」
一輪が明るく告げると、雲山は当然のように一輪に寄り添ってついてくる。
「聖様!」
一輪が勢いよく襖を開けると、さすがに聖も驚いたのか体を震わせる。普段なら行儀が悪いと叱られるところだが、一輪はすばやく聖の前まで駆け寄って、聖に頭を下げた。
「お願いです、私、これからは今まで以上に修行に励みますから、どうか私を導いてください!」
「まあ、一輪……」
「たった十余年しか生きていない私に、聖様の経験を教えてください。そうしたらムラサにも向き合えるかもしれないし、それに……聖様がつらくないのなら、命蓮様の、弟様のお話もこれから聞かせてください」
聖は言葉を詰まらせた。顔を上げて見た聖は、眉を下げ、今にも泣きそうなのを堪えるように口元に手を当てていた。あまりに人間くさい仕草に、聖は外法に手を染めても決して人の心は失っていないのだと一輪は確信した。
「私も雲山も、今まで通り聖様の弟子です。まだ未熟な私ですが、いつかは聖様を支えられるような一人前の僧侶になりたいと思っています」
「……ええ、もう充分ですよ」
笑顔で毅然と告げた一輪に、聖はさっと目元を拭って微笑んだ。
「ありがとう。一輪、雲山、ありがとう……」
聖の笑顔もまた華やかだった。いつか雲山がその名の通り、聖は真っ白な蓮のような心の持ち主だと称賛したが、言い当て妙だと一輪も思う。
それからしばらく後、一輪は聖から法力が込められた二つの金輪を渡された。
「一輪、これはね、私の弟が……命蓮が従えていた童子の使う金輪を真似て作ったの。貴方が使いやすいよう、小さく簡素にしたけどね」
聖の口から命蓮の名前を聞くのはあの告白時以来で、一輪は目を丸くした。渡された金輪はきらきら輝いているが、金銀財宝のように品のないものではなく、澄み切った法の光だった。
しかしなぜこんな良い道具を、と尋ねる前に、聖は優しく語りかけた。
「童子は雲を自在に操っていたわ。まるで貴方と雲山のように。貴方達は阿吽の呼吸といっても過言ではないけれど、本来なら人間と妖怪が息を合わせるのは難しいのよ。だから一輪、貴方が法力を身につけて、雲山をより良い方向に導いてあげなさい」
一輪は雲山と顔を見合わせた。法力をもって心を通わせる。かつて聖が命蓮から手解きを受けたように、一輪はこれから書物の仏の教えだけでなく、法力も学んでゆくのだ。他でもない雲山のために、聖の理想である人間と妖怪の調和のために。
「……はい!」
一輪は込み上げる感慨をそのまま声に乗せて、力強く答えた。
自分が慕ってやまない人に信頼され、力を託される。それ以上に嬉しいことはなくて、一輪は改めて聖が好きだと思った。
◇
春のうららかな日差しは心地よく眠気を誘う。春眠暁を覚えずとはまさにこのことだ。梅に鶯の鳴くのももう少し昔のことになって、じきに桜も花開こうという暖かい季節である。ましてや難しい文字の並ぶ経典を読んでいるのだから尚更眠いのだった。
(いけない、いけない。ちゃんと修行に励むって決めたんだから)
舟を漕ぎそうになった一輪は、星や雲山の小言が飛んでくる前にかぶりを振った。何気なく部屋を見渡せば、少し離れた位置でムラサが同じように経典を読んでいて、二人に向かい合う形で座った星が二人、もとい雲山を含めた三人に教える形になっている。聖はやはり忙しい身で、今日もまた星に留守を預けて寺を空けているのだった。
ムラサは相変わらず一輪にそっけないものの、妖怪である星が一緒にいると少しは大人しく、こうして同じ部屋で修行に励むのも嫌がらない。ムラサは受戒だけ行って正式な出家はまだしていないようだが、修行には時に一輪を凌ぐ精を出すのだ。
「ねえ、星」
と、ムラサが声を上げる。呼ばれた星はムラサに近寄った。
「ここ、よくわからないんだけど、なんて読むの?」
「どれどれ……ああ、変成男子ですね。女人成仏の証として、竜女が一度男子の体になって成仏を遂げる話ですよ」
「へえー、女から男にね」
ムラサと星の会話を聞いて、一輪は内心舌を巻く。
(ムラサったら、お寺に来て一月くらいしか経ってないのにもうお経を読めるのね。何なら私よりずっと覚えるのが早いんじゃないかしら)
こりゃあうかうかしていられない、と一輪も次いでムラサと星が話題にしている項目をめくる。妙法蓮華経の第五巻、特にこの巻は女人の成仏について語られるため、女人が熱心に供養を行うものだと聖から聞いていた。女人は生まれつき五つの障りを持っているため、成仏が叶わないとされているのだ。
それにしても、と一輪は眉をひそめる。尼僧はなぜ成仏できないなんて言われるのだろう、女にだけ五障を押し付けるのは不公平ではないか、そもそもこの竜女の話だって――。
「どうして一度、男の体になる必要があるのかしら」
一輪が不満を口にすると、話し込んでいたムラサと星も顔を上げた。一輪はそのまま疑問を二人に向かって投げかける。
「女人成仏っていうなら、普通女のまま成仏するのを指すんじゃないの? 男に変わらなきゃ仏陀になれないなんて、女人成仏と言えるのかしら」
「……貴方はやっぱりわかってない」
一輪の言葉を聞いて、ムラサはこれ見よがしにため息をつく。その軽蔑したような視線に一輪はむっとした。
「姿形なんて重要じゃないわ。仏の世界は男も女も関係ないの、姿がいっとき変わっても、元が女なんだから女人成仏って言えるのよ」
「見た目が重要じゃないなら、それこそ男に変成する必要がないじゃない。女の五障は何も解決していないし、むしろ女の体が邪魔だとでも言いたげに読めるわ」
「貴方が人間だからそう思うのよ。見てくれを気にするのは歳を食っていく人間だけ、妖怪は見た目なんか好きにいじれるんだから。見た目がどうでも、本質は何も変わらないの。貴方、仏の教えを学ぶのに向いてないんじゃない?」
ムラサのぞんざいな口ぶりに一輪はだんだん熱くなってくる。
「ムラサだって元は人間のくせによくそんなことが言えるね」
「だから私はもう人間をやめた妖怪だって言ってるじゃない、貴方と私は違うの。ちょっと入道と仲良くなれたからって、妖怪に馴れ馴れしい態度を取る貴方がおかしいのよ、変わり者の向こう見ず」
「ムラサの理屈だと姿形が変わっても本質は変わらないんだっけ? それじゃあムラサは意地悪で偏屈なのよ、人間の時から妖怪になった今までずっとね」
「何ですって?」
「二人共、そこまで!」
ムラサも怒りに眉をつり上げたその時、星がぴしゃりと言い放つ。普段の穏やかな顔はどこへやら、厳しい面持ちで二人を睨んでいる。
「経典の解釈についてあれこれ議論を交わすのは悪いことではありません。古くから法会が開かれ、活発に意見を交換し、より仏の教えを理解するべく研鑽していたのです。ですが、そんなに声を荒げて相手を悪し様に言う必要がありますか? 貴方達二人のやりとりは、だんだん経典とは違う話にずれていっていましたよ」
星の厳しくも冷静な言葉に、一輪もやっと我に返る。お経の解釈のはずが、感情に任せてムラサへの非難に向かってしまった。仏の弟子として恥ずべき行為だ。一輪は気まずさからうつむき、ムラサも決まり悪いのかそっぽを向いた。
二人が反省したと判断したのか、星は表情を緩めた。
「そうですね……私も妖怪として、二人の話は興味深いです。確かに妖怪にとって見た目は仮初のもの。しかし、可変の存在であればこそ、“なぜその姿で在ることを選んだのか?”という問いが生まれます。そう考えれば妖怪の見た目にも意味があるのです。たとえば雲山などは、ある程度なら自由に姿を変えられるのに、いつもその姿を保っているのはなぜでしょう」
「雲山が?」
急に話を振られて、一輪への小言を言っていた雲山は動揺する。言われてみれば、と一輪も雲山をまじまじ見つめた。雲山はいつも髭をたくわえた厳めしい顔つきの中年男である。いかにも頑固で偏屈な益荒男ぶりだが、その性格は意外と無口で控えめだ。案外、見た目から強く装いたいと思うたちなのかしら、と一輪が考え出したところで、星は耳ざとくお寺の入り口に人気が現れたことに気づいた。
「おや、お客様みたいですね。私が対応しますから、二人は喧嘩をしないように仲良く修行を続けてくださいね」
「わかってるわよ、もう」
星はしっかり釘を刺して部屋を後にする。星は一輪達が寺に来る前から留守番役を聖に任されていたため、聖がいなくとも寺の運営を滞りなくこなすのである。いつも雲山を連れている一輪や人間を遠ざけたがるムラサにはできない芸当だ。
「星、うまく逃げたわね」
不意にムラサがぽつりと言った。一輪が首をかしげると、ムラサはため息まじりに続けた。
「もっともらしいこと言って締めてたけど、結局『変成男子は女人成仏に当たるのか?』って疑問には何も答えてないじゃない」
「……あ、確かに」
初めて気がついた一輪は、春の陽気のせいかいつもよりぼうっとしているなと反省する。
星は世渡りが上手いというか、自分の置かれた状況を読んで自分がどうすべきかの判断が早い。それは妖怪の処世術というより人間の処世術に近かった。星は目立つ金と黒の髪だけを頭巾で隠し、人ならざる者が持つ妖気も巧みに繕って、妖怪でありながら人間の来客にも自然に対応し、今まで一度も『もしや』と怪しまれたことがない。
なぜ妖怪でありながら襲う目的もなく人間に溶け込むような真似をするのかは不明だが、それはそれとして、と一輪は星の先ほどの言動をいぶかしむ。
「らしくないなあ。星はお経の解釈とかで自分の意見を遠慮するような性格じゃないのに。むしろ一言言わないと気が済まない方だわ」
「私達が熱くなってたからじゃないの」
「まあ、そうね」
異論はないが、それは半分ほどムラサのせいではないか。
一輪はムラサの姿を改めて見る。ムラサはいつも尼削ぎより短い黒髪を垂らして、白い小袖をまとっている。何も知らない者が見ればそれこそ人間と勘違いするだろう。星は『妖怪の見た目にも意味がある』と言ったが、ムラサもこの姿を選ぶ理由があるのだろうか。
「何?」
「ムラサはどうしてその姿でいるの?」
率直に問えば、ムラサはまたしかめっ面になる。
「私がこの姿でいたいから。それ以外に理由がいる?」
突き放すように言い放って、ムラサは修行を続けろとの星の言伝も無視して部屋を出て行った。
「……ムラサだって、答えになってないじゃないのよ」
残された一輪は肩をすくめる。雪が溶けてもムラサの心は打ち解けず、一輪はまだムラサと仲良くなれそうになかった。
その後、一輪は寺に帰ってきた聖に相談を持ちかけた。
「ムラサは相変わらず私が話しかけてもそっけないんです。星と話してる時はあんなに冷たくないのに」
「でしょうね。ムラサも貴方とはあんまり一緒にいたくないと言っています。できれば遠ざけてくれと」
「そ、そこまで?」
さすがの一輪もへこんだ。ムラサは人間の一輪を殺してしまわないか警戒しているとのことだが、一輪からすれば単純に邪険にあしらわれているようにしか感じない。
『貴方と私は違うの』
ムラサは妖怪だから、人間の一輪を突き放す。一輪が近寄っても、故意に壁を作って線を引く。この前は軽い口論にまでなってしまった。しかし一輪はいつも雲山と一緒にいるため、妖怪なんて怖くないし、星とだって打ち解けた。どうすればいいんだ、と一輪は頭を抱えた。
「私が舟幽霊になったら、ムラサは満足するんですか?」
「それはいけないわ」
同じになればいいのか、とこぼした言葉は即座に聖に諌められる。聖は眉をひそめて告げる。
「あの子はもう呪われた海から解放された。だけど、まだ心は妖怪の本能に囚われているの。……ねえ一輪、あの子は私と二人でいる時、いつも泣いて自分の抱える不安をぶちまけるのよ」
一輪は口をつぐむ。舟幽霊は人間を溺死させて仲間を増やす妖怪だと聞いていた。ムラサは本能に蝕まれて苦しんでおり、その悲しみに寄り添おうと決めたはずなのに、また一輪は間違えてしまった。
「幼い子供のように縋りつくのよ。このままじゃ私は一輪を殺すかもしれない、生きた人間を見ると憎くなるの、もういやだ、せっかく聖があの舟をくれたのに、やっと別の生き方ができると思ったのに、また同じことの繰り返しなんていやだ、って」
「……別の生き方とは?」
「ムラサはより格の高い妖怪になって、海を離れてより多くの人間を沈めたかったみたい。だけど私があの舟をあげたからか、人間を溺死させるのはもういいとも言っていたわ」
一輪は一度だけ見たムラサの舟を思い出す。ムラサは周りに誰もいない時、あの舟に乗ってどこかへ飛び立ち、ひっそり帰ってくる。どこで何をしているのか、一輪は知らない。一輪が時折、気晴らしに雲山に乗って空を飛ぶのと似た理由かもしれないが、違うかもしれない。
一輪は黙って考える。ムラサが海に縛られていた頃は、幾人もの人間を沈めて幽霊から妖怪にまでなったというのだから、ムラサは殺生を望むのかと思っていた。しかし、聖の話を聞く限りではむしろ殺生を拒んでいるようだ。それは仏の教えなど関係なく、ムラサの深い懊悩なのだ。
聖ですら解放できない妖怪の本能は、一輪ごときにどうにかできるものではない。一輪が雲山を従えたのとはわけが違う。
(……私が歩み寄ろうとしても、ムラサを苦しめるかもしれない)
だけど、と一輪は聖にもらった金輪を握りしめた。このままムラサが苦しむのを黙って見ているだけなんていやだ。どうにかムラサの心に翳る雲を吹き飛ばしたい。
ムラサは賢く、経典の理解も早い。仲良くなれたら、きっと苦しみや呪咀の言葉ばかりでなく、もっと多くの話ができるはずなのだ。それこそムラサの望む別の生き方ではないのか。
「私、諦めません。ムラサともっと話します。一人の僧侶として、そして、年の近い女子(おなご)同士として」
一輪が決意を秘めて聖を見上げると、聖も穏やかに微笑んだ。
「亡くなった時のまま成長が止まっているから、ムラサは貴方と同じ年頃のはずよ。いい友達になってくれるのなら、私も嬉しいわ。私と話してばかりではあまりにもったいないもの。どうか、ムラサの心に寄り添ってあげてね」
「はい!」
一輪はさっそくムラサの姿を探した。ムラサは寺の庭に水を引いて作った小さな池のそばにいることが多い。陸に上がったが舟幽霊、水場を好むのだ。
果たしてムラサは一人でぽつねんと池を見つめていた。あの池に魚(うお)はいない、殺生を禁じるゆえ生き物を飼うのもよしとしないのだ。
「ムラサ」
一輪が声をかけると、ムラサはやはりしかめっ面で振り返る。めげずに一輪は親しげに声をかけた。
「そんな顔しないで。この前は意地悪とか偏屈とか言ってごめんね。お経の話は簡単に譲れないけど、ムラサと研鑽するのは楽しいと思うの。仲良りしない?」
ムラサの顔がますます歪む。一輪は傍らの雲山を指さした。
「私を死なせないか不安なの? 大丈夫、雲山がいる限り私は死なないのよ」
「……貴方、本気で私と仲良くしたいって思うの?」
「そうよ。こうして縁あって出会えたんだもの、ムラサは私を嫌いかもしれないけど、私はムラサを嫌いじゃないし」
「それじゃあ私と同じになって」
ムラサはじっと一輪の目を覗き込んできた。ムラサの目はいつも暗い。真っ黒に澱んで、まるで暗くて冷たい海の底を想起させる。一輪は海の底など知らないのだけど。あまりの気迫に一輪も圧倒された。
「貴方は人間、私は妖怪。同じじゃなきゃ理解できないでしょ。仲良くなれないでしょ」
「そんなこと……」
「私とその入道は同じじゃない。入道も変わり者よね。貴方、妖怪と一緒にいるってことは、妖怪に親しみを抱いているのよね? 自分も妖怪になりたいって思ったりしないの?」
「……するけど」
一輪は素直に答えた。雲山がぎょっとしたが構っていられない。
まだ聖と出会う前、故郷の村を追い出された一輪は雲山と二人であてもなく彷徨い続けた。寒さに震え、飢えに苦しみ、負担をかけるのはいつだって人間の一輪だった。吹き荒れる風雨や野盗や妖怪の脅威から、雲山は身を呈して一輪を守っていた。疲れ果てた一輪は(いっそ自分も妖怪だったらいいのに)と考えた。雲山のように強い力があれば、姿形を変えられれば、自由に空を飛べたのなら……。
「私がしてあげようか?」
いつのまにか、ムラサは柄杓を片手に一輪の目の前に迫っていた。
「私は水さえあればどこででも水難事故を起こせるの。あの浅いちっぽけな池でもね」
ムラサは水の入った柄杓とは反対の手で池を指さした。雲山がいよいよ警戒を強めて威嚇する――瞬間、一輪は息ができなくなった。
(あっ……)
池に突き落とされたのではない。一輪は確かに陸の上にいる。なのに口の中に大量の水が溢れて、一輪の肺を埋め尽くそうとしている。これがムラサの能力なのだろうか。
あまりの苦しさに一輪はもがき足掻く。雲山の声も聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、激しく水が流れる音だ。
ムラサが海で溺れた時の記憶を追体験しているのであろうか……視界に映るのは見慣れた寺の庭ではなく、濁った水だ。一輪の体は濁流に飲まれている。
(海の水って、こんなに濁っているの?)
水音は荒れ狂う波の音というより、氾濫し大量の土砂を飲み込んで押し寄せる川の流れのようだ。
その時、一輪の体が力強い腕(かいな)にしっかりと抱き留められた。
(雲山?)
違う。雲山の腕はもっと大きくて固められた綿のようにできている。これは人間の腕だ。そして一輪の体はいつのまにか人間の両腕に収まるくらいの大きさまで小さくなっているのである。
やがて腕の持ち主が、大人の男が岸へ上がり、一人の女がすぐさま駆け寄ってくる。
(お母さん!)
見間違えるはずもない、幼い一輪を抱きしめて頬ずりする女は、一輪が慕ってやまない、記憶の中より少しだけ若い母だった。
『あなた、待って』
男が再び濁流に飛び込んだ。まだ他に子供が溺れているから、と男は聞かない。母が『あなた』と呼びかけ、一輪を助けた男の正体は、もしや。
(……お父さん?)
お父さんは子供を助けるため、川に飛び込んで亡くなったのよ――母の話と一致する。一輪は母の腕の中で、母と共に父の帰りを待った。
子供は助かったが、父はついぞ帰らなかった。
「っ、ごほっ……」
一輪が咳き込むと、口から大量の水が吐き出された。気がつくと一輪は寺の庭に両手をついてうずくまっている。まだ息が詰まっている心地がして、一輪は何度も咳をして水を吐いた。陸の上で溺れるなんて、と他人事のように考えた。
一輪の背を雲山の大きな手がさする。その感触は、やはり今しがたあまりにも現実的な感覚を伴った父の腕のものとは別だった。次の瞬間、雲山から凄まじい殺気が発せられるのを感じて、一輪は咄嗟に懐から金輪を出す。
「雲山、ムラサに手を出したら許さないわ」
激しく咳き込んで痛む胸を押さえ、一輪は強い口調で告げた。しかし、と雲山は食い下がる。一輪を殺めかけたムラサが雲山には許しがたいのだ。
「それでも、駄目。私達は仏様の弟子なのよ。それに、ムラサは……」
ようやく呼吸が落ち着いた一輪は、空の柄杓を手に呆然と立ち尽くすムラサを見上げた。
ムラサの暗い瞳に、珍しく動揺と恐怖の色が浮かんでいる。
「う、嘘でしょ、私……さっき見えたのは……」
焦燥しきったムラサの手から柄杓が落ちた。一輪は溺れかけたせいか、それとも目の前に鮮明に描き出された過去の記憶のせいかふらふらする頭を押さえて、ムラサも今の光景を見たのだろうかと思った。
「ムラサ」
「……っ!」
怯えきったムラサが、一輪と雲山に背を向けて逃げ出した。一輪は追いかけることもできずに、混乱した頭でどうにか雲山を宥めた。
◇
さて、いったい何から片付ければいいのだろう、と一輪は悩んだ。頭の中がムラサと父の記憶でいっぱいで、とても修行に励めそうにない。出家して俗世のしがらみは捨てたはずなのに、一輪の物思いの種は増えるばかりだ。
ムラサに殺されかけたことは気にしていない。ムラサにそういう衝動があるとわかった上で不用意に近づいたのは一輪だし、危うく死にかけたものの、陸の上で溺れながら浮かんできた記憶のせいで恐怖は微塵もない。何より雲山がいたから一輪は助かった。さすがにおかしくないか、溺れたせいで調子を崩したかと雲山に心配されたが、それが一輪の本心なのだから仕方ない。頑固な雲山にもどうにか矛を収めるよう納得してもらった。
しかしムラサの方はそうもいかないだろう。ムラサは以前にもまして一輪と雲山を遠ざけて、少しでも姿を見れば逃げ出してしまう。
『聖様、私はどうすればいいの? もうわからないんです。どうして一輪はあんなに私にこだわるの、なんで私に近づくの』
『……ムラサ。貴方が一輪を理解できないのも無理のない話ですよ』
ムラサが聖の部屋へ駆け込むのを見て、一輪は雲山が止めるのも無視して密かに耳をそばだてたことがあった。
『当然じゃないですか。貴方は、まだ自分自身すら見つめられないのだから』
『……え?』
『自分のことに向き合えないうちは、他人のことになんか向き合えません。……一輪には私から言っておきましょう。ムラサ、貴方は今の自分がどうしたいのか、何をしたくないのか、考えたことはある? はっきり言葉にできる?』
『……』
『私にもう昔みたく戻るのはいやだって言ったのは嘘?』
『嘘じゃない! 嘘なんかじゃありません、なのに……』
『大丈夫、ゆっくり考えましょう。貴方が自分の答えを出すのを、私はいつまでも待っていますから』
(ああ、やっぱり聖様には敵わないわ)
一輪はそっとその場を離れた。聖に向かってあんな自信満々に宣言しておきながら、結局尻拭いをさせるとは何とも情けない。
自分のことに向き合えないうちは――ムラサに向けられた諭しは、一輪にも響いた。聖は愛情深く優しいけれど、弟子に対しては甘やかすだけじゃない厳しさも持ち合わせている。声音は優しいのに、言葉には痛いところを的確に突くような鋭い響きがあった。
悪いことをしてしまった、と罪悪感が募るにつれても、ムラサに対してどうにかせねばと思うが、一輪の頭を占めるもう半分がムラサだけにかまけるのをよしとしない。
「ねえ、雲山。私ね、小さい頃にも溺れかけたことがあったみたいなの」
奇しくもムラサのお陰で蘇った記憶を、一輪は雲山にも語り聞かせた。
「前にも話したと思うけど、私のお父さんは三つの時に亡くなったから、私はお父さんのことを全然覚えてないの。お母さんから、お父さんは川で溺れた子供を助けて亡くなったのよって聞いてたけど……お父さんが助けたのはあの子供だけじゃなくて、私もだったのね」
川で溺れた記憶なんて一輪にはなかった。数え三つでは覚えているはずもない、母から聞いただけの話だ。
一輪はうっすら笑った。
「私、お母さんに比べたら、お父さんのことなんてちっとも思い出さなかった。お母さんはよく話してくれたけど、顔も覚えていない人の話ってどこか他人事みたいでさ。それに、お父さんの話をする時のお母さんはとても悲しい顔をするから、それが嫌だったの。だからお父さんのことを忘れかけていたんだわ。……薄情な娘ね」
雲山は複雑な表情で一輪の話を聞いていた。寡黙な雲山は、こういう時に余計な口を挟まないからありがたい。
一輪の体には、濁流に流された時の生々しい記憶がまだまとわりついている。そこから掬い上げてくれた逞しい腕の感触も。
どうして一輪が見たのはムラサの記憶ではなかったのだろうか。ムラサの能力が、溺れた者同士と、意図せず一輪の頭の底に眠る記憶を呼び覚ましたのか。
一輪は自分の体を自分で抱きしめる。普段はろくに偲びもしない父が急に懐かしくなった。あるいは父がムラサの嫌がる殺しを食い止めてくれたのかもしれない、あの世から娘を助けに来てくれたのかもしれない、と都合のいいことを考える。ムラサに向き合う前に、まずは父と向き合うべきだろう。
「雲山。私、お父さんのためにお経を書こうと思うの」
決心した一輪は真っ直ぐに雲山を見つめた。亡き父のために経典を書き写し、供養する。今まで振り返りもしなかった父へのせめてもの弔いとして、一輪の手で自ら写経をしたかった。
雲山は、いつものように一輪のやりたいようにやればいいと言った。一輪はうなずいて、すぐにでも聖へ許可をもらおうと思った。
聖は『いい心がけですよ』と快諾してくれたものの、案の定、ムラサの件でお説教もいただいてしまった。
「どんなに妖怪と仲良くなっても、憧れるのはよした方がいいわ。妖怪の力は貴方が思う以上に恐ろしいのよ。人の道を踏み外すのは、とても危険なことなの。……私のように」
「ええ。軽率だったと反省しています」
一輪は素直にそう思っているのだが、一方で(じゃあ、邪気を失くしても妖怪のままでいる雲山はいったいなんなのかしら?)と疑問を抱く。今の雲山はもう恐るべき見越入道ではないのだ。この世の妖怪がすべて危険でないと考えているからこそ、聖は手を差し伸べるのではないか。
聖は妖怪と人間の平等を訴えるがゆえに妖怪のことをよく理解している。妖怪は精神に比重を置き、肉体が消滅してもいずれ復活できるが、精神に致命的な衝撃を与えるとたちまち力を失ってしまうという。ムラサの舟や雲山に向けた退散の呪いがそれだ。
しかし一輪にはまだ妖怪と人間の決定的な違いがよくわからない。それこそムラサに指摘されたように。人間だって心を持っているし、心が壊れて生きてゆけなくなることもある。
それはそれとして、と一輪はムラサへの処罰が気になった。
「あの、聖様はムラサに……」
「心配しなくても、すでに反省し後悔している者を打擲したりしないわ」
どうやら厳しい罰は与えられていないようで、一輪はほっとする。
(写経が終わったら今度こそ……って私が思っても、もうムラサは私と話してくれないかしら)
一輪はムラサを気にかけつつ、父のための写経の準備に入った。
まずは潔斎、身を清める。写経を終えるまで寺の部屋を一つ借りて籠るのだが、聖は快く一輪のために貸してくれた。雲山は常にそばにいるものの、写経の間はなるべく参詣の客などにも会わないようにする。そして写経を終えた暁には、法要を開き一輪が自ら読経も行う運びとなった。話を聞いた星からは、
「それじゃあ、私も一輪の父君にお経をあげるわ。一輪が書き終える前に私も終わらせるから」
と、何ともありがたい、こそばゆい申し出をもらった。
一輪は部屋に籠って一心不乱に経を書き写す。紙は貴重だし、手習もようやく慣れたかといった頃合いなので、緊張してなかなか筆が進まない。墨が跳ねないように、そしてなるべく美しい字で書くように。雲山は一輪の集中力を乱さないために、何も言わない。けれどいつもそばにいて気配は感じるので、一輪は籠りもちっとも苦ではなかった。
「……できた」
数日かかって、一輪は十巻の写経を終えた。聖や星の流麗な字に比べれば未熟で汚いが、きっと父は許してくれるだろう。
どっと疲れが襲って寝転ぶ一輪を、雲山も労った。よく最後まで続けられたものだと。
「雲山、私が飽きっぽいとでも思ってるの? むしろこうと決めたら諦めないたちなのよ」
一輪は雲山に向かって笑い、起き上がる。写経が終わったからと呑気に寝てはいられない。供養の日取りももう決まっている、一輪も支度をしなければ。部屋を出た時、一輪は目の前に現れた影にあっと目を見開いた。
「ねえ、一輪」
一輪は驚いてせっかく書き上げたお経を落としてしまうところだった。一輪に声をかけたのはムラサだ。それも今まで“貴方”なんて他人行儀な呼び方しかしなかったムラサが初めて一輪の名前を呼ぶものだから、一輪は間抜けに口を開けたまま棒立ちした。
「これ」
と、ムラサは無造作に紙の束を押し付ける。一輪より綺麗な文字で書かれた経典である。
「私からも、一輪のお父さんに……なんて、受け取ってもらえないかな」
ムラサは自嘲するように笑って、そっぽを向く。ムラサの目に暗闇は見えなかった。
一輪はもう驚いて何度もムラサの顔とムラサの書き写した経典を交互に見やるばかりである。そして込み上げる喜びのままに口を開いた。
「ありがとう! お父さんもきっと喜ぶわ、私の友達が書いてくれたのよって伝えるから」
「え、それはちょっと……」
困惑しているムラサを置いて、一輪は飛ぶような足取りで廊下を駆けてゆく。
そして迎えた当日、一輪は普段よりも殊更綺麗にしつらえた袈裟に身を包み、本堂を借りて父の供養を行った。
あくまで身内の供養のため、客人はいない。同席するのは聖達だけだ。一輪、ムラサ、星がそれぞれ書いた経典を捧げて一輪は読経をする。傍らにはもちろん雲山が控えている。
まさか僧侶としての初仕事が身内の、それも父の供養になるとは、一輪も想像していなかった。
(お父さん、ごめんね)
読経の傍らで、一輪は心の中で父に詫びた。
(お父さんが命をかけて助けてくれたのに、私、ちっともいい娘じゃなかったね。あれから四年でお母さんにも死に別れちゃったし、村も出て行く羽目になったけど、私は私なりに元気でやっているのよ。雲山っていう素敵な妖怪にも会えたのよ。だから、心配しないで)
一輪は溢れそうになる涙を堪えて、最後まで淀みなく経典を読み終えた。不慣れで拙いが、一輪なりに丹精込めて読み上げたつもりだった。
供養を終えて、一輪は廊下に腰掛け空を眺めた。良い行いをして死んだのだ、父はきっと浄土に渡っただろう。遥か西の彼方にあるという極楽浄土へ。
「遥か遠いところを“雲居”と呼ぶのよね」
一輪は雲山に語りかけた。雲山はいつものように、静かに一輪の言葉に耳を傾けている。
「私はもうお父さんのことを忘れないわ。もちろんお母さんも。それから、おばあさまを始めとした、故郷の村の人達も……雲を見上げるたびに、私は色んな人のことを思い出すのよ」
その時、一輪の隣に誰かが腰掛けた。振り向くと、ムラサが一輪と同じように空を見上げていた。
「ムラサ。ありがとうね、お父さんのためにお経を書いてくれて」
「私はね、一輪が理解できないって聖様に訴えたら、それは当たり前よと返されたの」
一輪のお礼に対し、ムラサはそっけなく返す。ムラサの目はずっと空を見上げている。ムラサと聖のやりとりはかつて一輪が密かに盗み聞きしたことだが、ムラサには黙っておいた。
「聖様は私が現実から目を逸らしたがっているって見抜いていたのね」
「……それは、舟幽霊になってしまったこと?」
「死んだことよ。私は舟から落ちて死んだのが悔しくてたまらなかったの」
ムラサはそこで初めて一輪を見た。ムラサの目が心なしか青みがかって見えた。
「納得できなくて、悔しくて、私を沈めた憎い舟を探して回ったの。あれでもない、これでもない、ええ憎い、私と同じように舟に乗りながら落ちもせず楽しそうに笑っている生きた人間が憎い……私、自分が沈めた人間の顔はすべて覚えているのよ。お前も私と同じ思いをして死ねって、恨みつらみをたっぷり込めて殺したから」
「……そう」
「一輪は殺し損ねたけどね。とんだ邪魔が入ってきた」
「雲山がいるからね。それとも、私のお父さんを見て気が引けたの?」
「そんなんじゃない」
ムラサはしかめっ面をする。例の『わかってない』と言う時の顔だ。
「貴方を殺しても無駄だと思ったの。貴方のお父さん、私と同じように溺れて死んだのに、幽霊にも妖怪にもならなかったわね」
「ええ。妻と幼い娘を残して逝くのに平気だったのかしら」
「その娘と、他に溺れた子供を助けられたから、満足して死んでいったんでしょ。そりゃあ未練なんて残るわけないわ。……私とは大違い」
「だからって、お父さんが偉いわけでもムラサが悪いわけでもないわ」
思わず一輪は口を挟んだ。ムラサの悲しげな目が丸く見開かれる。父は一輪の誇りだが、それはさておき死に後悔や恐怖を抱くのは自然なことだ。聖の過去について聞いたせいか、一輪はもう死に臨む人の心は人それぞれだと思えるようになっている。
ムラサは青みがかった目で一輪を見つめる。ものの例えではなく、本当にムラサの目から闇が薄れ、海のような青色に変わってゆくように見えた。
「……そういう人間を親に持った子は、同じように死んでも未練なんか残さないって思ったの」
「そうかしら。私はムラサに溺れさせられるまで、お父さんのことなんかほとんど忘れていたけど」
「本当にわかってないんだから。そういう理屈を超えたところにあるのが“絆(ほだし)”ってやつじゃないの」
ムラサは口を尖らせる。一輪は、ムラサの方が娘の自分より父を理解しているのが何だかおかしかった。
「そうね、私も舟幽霊になったって、ムラサと同じにはならないと思ってる」
何度となく繰り返された『貴方とは違う』という拒絶。思うにムラサは一輪のためではなく自分に言い聞かせるために唱えていて、認めがたい事実を――もはや生者でなくなってしまった自分を受け入れる時間がほしかったのだ。一輪はただ、ムラサが気持ちの整理をつけるまで待ってやればよかったのだと、ようやく気づいた。
少しだけムラサに近づけたような気がして、一輪の声は自然と弾む。
「ムラサの言う通り、たぶん、私にはムラサのすべてが理解できない。たとえ私が妖怪になっても、歩いてきた道が違うんだもの。私が聖様に会うまでの道と、ムラサが聖様に会うまでの道は違うでしょう?」
「……うん。私にもお父さんがいたけど、線が細くて一輪のお父さんみたいな逞しい人じゃなかったわ」
「だけど、私はムラサと仲良くなりたい。同じになれなくたって、すべてを理解できなくたって、歩み寄るぐらいはできると思うの」
一輪は改めて自分の思いを告げた。ムラサの罪は消えないし、一輪が簡単に口出ししていいことでもないだろう。けれど、今のムラサはもう暗く澱んだ目をしていない。快晴の空の下の、穏やかな海の水面ような深い青色を湛えている。自分に向き合えているのなら、あとは聖の言うように、他人にも向き合えるはずなのだ。
ムラサは目を丸くしたが、やがて呆れたようにため息をついた。
「一輪って、やっぱりすごく変わってるよね」
「そう?」
「なんで自分を殺そうとした相手が怖くないのよ」
「私は死んでないもの。それに、ムラサの抱えるものを何も知らずに安易に近づいた私もいけなかったのよ」
「……あーあ、どうして私、あの時手が滑っちゃったのかしら。雲山に睨まれ損じゃない」
「雲山はもう怒ってないよ、顔が怖いのはいつものことだから。……え、一言余計だって? それなら自分の口でムラサと喋ってみたらどう?」
小言を言ってきた雲山をけしかけると、途端に雲山はすごすごと引き下がる。一輪が吹き出すと、ムラサもつられて笑った。
「一輪、私、これからもっとお経を書こうと思うの。私が今まで沈めてしまった人達のために」
不意にムラサは神妙な顔つきで言った。
「全員の顔を覚えているから、その人達の分にそれぞれお経を書くの。それで罪滅ぼしになるなんて思ってないけど、せめて何か行動したくて。私だってね、いつまでも聖様に甘えて泣きついてるんじゃ駄目だって思ってたんだから」
「もしかして、あの写経も聖様の提案?」
「写経をやろうって決めたのは私だよ。一輪がお父さんの供養をやるって教えてくれたのは聖様だけどね」
一輪はムラサとの衝突に関して、必要以上に口を挟まなかった聖を思い出す。一輪が潔斎で籠っている間も、色々とムラサに助け舟を出していたのだろう。ムラサが今に至るまでの支えになったのはやはり聖だ。聖には敵わない、と畏敬の念を強めると共に、一輪は少しだけ自分の力不足が悔しく思えるのだった。僧侶としては、一輪はまだまだ聖の足元にも及ばない。
ムラサは不意に一輪を見つめてきた。ムラサにまじまじ見つめられるのは初めてで、一輪は首を傾げる。
「一輪はお父さん似だよね」
「え、そう? ムラサまでそんなこと言うの?」
「あ、やっぱり言われたことあるんだ」
「お母さんによく言われたわ。そりゃあお父さんも好きだけど、私は優しくてお淑やかで美人だったお母さんに似てるって言われたいのに」
「は? ……ふ、ふふっ、似合わないよ。一輪って全然お淑やかじゃないもの」
「失礼な、花も盛りの乙女を捕まえてそんなこと言う?」
「花盛り? “一輪”しかないのに?」
「あっ、ひどい!」
二人は顔を見合わせ、笑い出した。こんな風にムラサと戯れて、冗談を言い合えるのが嬉しかった。
「大丈夫、一輪は一輪でも大輪だよ。梅にも桜にも見劣りしないわ。ねえ、雲山?」
「そんな気休め言っちゃって。……え、何?」
肩をすくめる一輪に、雲山は珍しく声を張って言う(それでもムラサには聞こえないらしいが)。
いかにも、一輪は雲の海に花開いた美しい大輪だ。誰にも負けない、誰にも劣らない。いや、比べる必要もない、常春の花だ。
雲山は穏やかに微笑んでいる。あまりにも雲山らしくない美辞麗句の数々に一輪は頬を染めた。
「な、何? 照れるよ、そんなの」
「あははっ、一輪でも照れたりするんだ。珍しい」
ムラサは動揺する一輪を見てけらけら笑う。春の麗らかな日差しが三人を温かく見守っているようだった。
◇
寅丸星はよくできた妖怪である。
僧侶として一通りの修行をすべてそつなくこなし、妖怪の身ゆえか厳しい荒行すら平気であり、読経は淀みなく写経は達筆である。掃除や炊事といった日々の雑用も嫌な顔をしないし、寺を訪ねる客には妖怪にも人間にも穏やかに接する。親身になって相手の話を聞き、仏の教えをわかりやすく聞かせる。
そして何より、彼女は聖が妖怪と人間、両方の救済を志してから一番に迎えた弟子なのだ。必然的に聖からの信頼も厚く、聖が寺を開ける際はいつも『星、留守番をお願いね』と頼むし、任された星も聖のいない寺の運営を万事つつがなくこなすのである。
「星が羨ましいわ」
一輪は星と共に読経をしている最中、ぽつんと言った。一輪があからさまに星へ羨望を伝えるのは今に始まったことではない。星は『またなの?』という顔をして、ほんの少し眉を下げた。
「一輪、貴方は立派よ。貴方が父君のために行った読経は素晴らしかったわ。貴方がお寺に来てからまだ一年と経っていないのに、人の子の成長は早いのね……なんてしみじみ思ってしまうぐらい」
「そうやって褒め言葉がさっと出てくるところも憎らしいわ」
「……ねえ、雲山、どうしたらいいかしら?」
苦笑いを浮かべて星は傍らの雲山に話しかける。助けを求められた雲山はすかさずそう困らせてやるなと小言を言ってくる。いつまで経っても一輪以外と直接口を聞けない雲山だが、星は雲山に対して何かと気を遣い、声をかけてくれるのである。
(真面目同士、気が合うのかしら)
一輪はおかしくなって笑いをこぼす。羨ましいといったって、一輪は決して星を嫌っていないし、むしろ好ましく思っている。
「無駄だよ星、一輪はしつこいんだから」
すると、別の部屋で写経をしていたはずのムラサまで顔を出し、呆れた眼差しを一輪に向けてくる。
「そういうムラサは写経はどうしたの?」
「もう日が落ちてきたわ。そろそろ夕餉の支度をしようって声かけにきたのよ。一輪、星を困らせてる暇があったらいの一番に支度にかかったらどう?」
「えっ、もうそんな時間? ……本当だ、月が出ているわ」
一輪が開け放たれた格子の外を見やると、橙色の空に細い月が浮かんでいる。夏に入って日暮れが遅くなってきたためか、少し油断していた。
「それじゃみんなで始めましょうか」
「あ、ごめんなさい、私は聖に呼ばれているから手伝えない」
「って、また? 最近多いよね」
「ちょっとね……。一輪、雲山、ムラサ、お願いね」
星は申し訳なさそうに手を合わせ、一人先に立ち上がり部屋を後にした。
「ムラサのお守りが終わったと思ったら、今度は星に付きっきりなのね。聖様、お休みする時間はあるのかしら」
「悪かったわね聖様にべったりで。何、最近一輪がやけに星に絡むのはやきもちなの?」
「そうかもね」
一輪は素直に答える。
春が過ぎ、初夏の薫風が心地よいこの頃、聖は何か星と二人きりで大事な話があるらしく、今日のように日が暮れると星を私室に呼び出すのである。
『星は聖様と何を話しているの?』
『まだはっきり決まったわけではないけれど、留守番以外で私に頼みたいことがあるそうなの。その相談というか、打ち合わせというか……正式に決まったら一輪達にも話すわ』
以前率直に尋ねたら、星は曖昧に答えた。ただでさえ聖が頼み事をするときはいの一番に星へ行くことが多いというのに、いっそう信頼の厚さを見せつけられた気がして、一輪は少しばかり衝撃を受けた。
(いったい聖様は何を星に任せようっていうの)
ムラサはやきもちと称したがおそらく間違いではない。一輪だって星に負けず劣らず聖を慕っているのに、己の実力不足とはいえ向けられる信頼の差が歯痒いのだ。
「星が一番、聖様との付き合いが長いのよ。私と雲山が弟子入りした頃にはもう星は聖様に仕えていたもの。だから私には悔しくって」
「そんなこと言ったって月日は逆さまに流れないよ」
「わかってる」
信頼は一朝一夕では積み重ならない。法力もそうだ、聖や星に手ほどきを受けているが、一輪はまだ法力をうまく使いこなせない。聖からもらった金輪は一輪の法力と雲山の法力をつなぐ。足並みを揃えるには、一輪も雲山も更なる修行を必要としているのだ。
結局はないものねだりだとわかってはいても、一輪は思っていることを心の中に留めておく性格ではないので、つい本人に言ってしまう。星もいつものことと慣れているので、過剰に引きずったりしない。
一輪は開け放たれた格子の外に見える月を眺めた。次第に空は紫色に染まり、月の光が金色に輝く。夏の月は春の月とはまた違った趣があるように思える。
「春の朧月、秋の名月。冬の冴えた月だって見る甲斐があるのに、夏の月が言葉の端にもほとんど登らないのはなぜかしら。古今集の夏歌なんて郭公(ほととぎす)ばかりだものねえ」
一輪が何気なくつぶやくと、表情を硬くしたムラサが格子を閉めた。
「ちょっと、暑いんだから開けっ放しでいいじゃない」
「月見なんて気軽にやるもんじゃないわ」
「どうして?」
「私も妖怪になって初めて気づいたんだけどね」
締め切った格子を背に、ムラサが怒ったような顔をして言い切った。
「月の光は妖怪を狂わせるのよ」
「……知ってるけど」
「妖怪に力を与えるけれど、あまりに大きすぎるから、制御できなくて妖怪は我を失ってしまうの。呑気に綺麗だなんて愛でていられるのは人間だからよ」
「雲山が暴れたことなんてないけど」
「だーかーら、雲山はいろいろ特例なのよ。雲山をぜんぶ基準にしてると一輪の妖怪観はゆがむよ」
「何それ、失礼しちゃう」
月の出ている夜も雲山はいつも通り一輪のそばにいる。平気だよねー、と声をかけると、雲山はひかえめにつぶやく。一度退治されたせいか、満月の光の影響はさして強くない。けれど少し気分が高揚するものだ。もっとも、自分は一輪の元で制されている限り、我を失い暴れることはないだろうが。
「そっか。要は、私がしっかりしていればいいのね?」
懐から金輪を取り出して掲げると、雲山はうなずいた。雲山を凶暴な化け物にするか頼もしい仲間にするかは一輪次第だ。
「さ、わかったなら早く支度を始めようよ」
ムラサに促され、一輪と雲山も夕餉の準備へ向かった。支度が終わる頃になっても星と聖が戻ってこないので、一輪は雲山を伴い聖の部屋を尋ねた。
「ずいぶん長く話しているのね。……え、気になるかって? そりゃあ気になるけど、大丈夫、無理に聞き出しはしないわ」
まあ例によってこっそり聞き耳を立てるくらいはしようかな、とも思っていたが、雲山の手前口にしない。
格子の外から部屋の中を伺うと、紙燭によって二人の影が映し出される。一輪が声をかけようとしたところで、星の声が聞こえてきた。
「やっぱり私、不安です」
いつになく切羽詰まった、不安げな声音に一輪は思わず雲山と顔を見合わせた。
「今はまだ平気ですけど、これから月がどんどん肥え太って、満月の夜に光が強くなると思うと……」
「星、落ち着いて。ゆっくり息をするの」
焦りの滲む星につられてか、聖の口調もどことなく穏やかでない。二人は何を話しているのだろう。声をかける機会を失って、一輪は口をつぐむ。
「貴方に負担をかけてしまうのはわかってる。けれど、どの道、貴方は過去からいつまでも目を背けてはいられないのよ。自分の本質を忘れてはいけないわ」
「ええ、わかっています。だけど、私、自分でもどうなってしまうかわからなくて……」
「星」
聖の声は、子守唄を聞かせる母親のように優しかった。
「貴方は今まで立派に私の弟子として勤めてきた。私の期待に応えてくれた。大丈夫、貴方はもう昔の貴方じゃない。自分を信じるのよ」
「……はい」
星は最大級の賞賛を聖からもらっている。しかし一輪は、此度ばかりは羨望より心配が勝った。
(満月の夜に何が起こるの? 聖様は、星に何をさせるつもりなの?)
『私が満月が駄目な理由……ちゃんと話していないでしょう?』
以前、星が後ろめたそうに一輪に言ったのを思い出した。立ち尽くす一輪に、雲山が小声で話しかける。
いずれ話すと星は言っただろう。今はまだ無理に聞き出す必要はない。聖がついているなら、悪いようにしないはずだ。
「……そうよね、うん。星が自分から話してくれるまではね」
待つのも大事だとムラサの時に知ったはずだ。一輪はすぐさま切り替え、何事もなかったかのように「聖様、星、夕餉の支度が整ってますよ」と声をかけた。
◇
「ですから、雲山に指示を出したら一輪は自分の身の回りに気を配って……」
「こんな感じ?」
「うん、そうそう」
後日、一輪と雲山は星から法力の指導を受けていた。法力といっても命蓮のような病の治癒や物の運搬などではなく、雲山の怪力を活かして身を守るための護身術に近い。星自身、聖に比べたら体術は得意ではないそうなので、とにかく一輪の保身を第一にと教えられていた。
言われた通りに金輪をかざすと、金輪は光を帯び、雲山は一輪の指示通りに動く。そして一輪は隙が生じないように注意を払う。
「私は雲山を見なくていいの?」
「雲山は一輪をよく見ているし、雲山の速さなら充分間に合うわ。それに何度も言うけど、雲山を操る一輪がただの人間だと知られたら、一輪が真っ先に狙われるのよ。二人で力を合わせるなら、一輪が無事でいなくちゃならないのだから」
「まあ、私だって雲山の負担になりたくないしね」
星に向かって答えながら、一輪は今一度金輪を見つめる。一輪が法力を込めると、雲山の呼吸を身近に感じる。聖が二人の法力を合わせるように調節して作ってくれたからだろう。
雲山が一輪の元に舞い戻ってくる。自分も少しずつ慣れてきた、大丈夫、妖怪は頑丈なんだからいちいち安否を気にするな。自分は一輪の指示を信じる、と言うのだ。
「ありがとう。私ももっと雲山の良さを活かせるようにがんばるわ」
「へえ、珍しく外に出て修行をつけてるんだ」
そこへ、いつものように写経をひと段落終えたムラサがやってきた。
「やっと十人なの」
一輪達が修行を中断して廊下に腰掛けると、ムラサは静かに言い放つ。
「やっとこの人数。だけどまだ足りないわ。一人一人顔を思い浮かべているとね、どうしても書き写すのに時間がかかるの」
ムラサは苦笑いを浮かべた。
自分の沈めてしまった人達の分だけ写経をする――いったい全部で何人になるのか、なんて星はもちろん一輪だって聞かない。ムラサなりに自分の罪と向き合おうとしているのだから、余計な詮索は無用だ。
「……え、どうしたの?」
その時、珍しく雲山が沈んだ声で話しかけてきた。
自分はムラサのように、屠ってきた人間の顔を覚えていない。思えば自分も名実共に入道となったのだから、過去の罪に向き合うべきだった。しかしこの有り様では償いはどうするべきか。
「それならせめて自らの行いを忘れなければいいのよ」
一輪は浮かない顔をする雲山に明るく言った。何事かとムラサと星の視線が集まる。
「考えてみれば、私も最近は雲山がかつて人間を襲う見越入道だったのを忘れかけている気がするわ。退治した私こそが覚えておかないとね」
雲山は首を振る。自分の罪を一輪が背負う必要はない、と。
一輪は肩をすくめる。人間、やられたことはしつこく覚えていても、自分がやってしまったことは都合よく忘れがちである。まして妖怪なら、長い時を生き抜くために記憶の取捨選択を人間以上に巧みに行うだろう。
だから人間より忘却の上手い妖怪に“忘れない”行為は意味があるんだ、と一輪は考えた。
「そんな寂しいこと言わないでよ。一緒に生きるんだから、一緒に考えましょう。雲山だけ落ち込んでいたら私も悲しいのよ」
「なるほどねえ」
ムラサが感心したように声を上げる。さっきからほとんど二人でしか会話していなかったのに、ムラサは雲山が何を言ったのかおおよそ把握したらしい。
「雲山はよく一輪に付き合えるなあと思ってたけど、お互い様なのね」
「何それ。私が無理矢理従えているわけじゃないのよ、しもべじゃないんだから」
「自らの行いを忘れない――それはとても大切なことよ」
沈黙を保っていた星が、まるで自分に言い聞かせるように言った。一輪達の注目が集まると、星はそっと目を細めた。
「私も昔は人間を襲っていたのよ」
「ええ? 星が?」
「まあ、そうでしょうね。虎の妖怪だもの。私と同じ気配がしたわ」
一輪が目を瞬くのに対し、ムラサの反応は平静だった。
一輪は俄かには信じられなかった。一輪の目に映る星はいつだって温厚で優秀で、人間の一輪に対しても初対面の時から礼儀正しかった。聖は身寄りのない妖怪の保護もしていたから、てっきり星は力の弱い妖怪だと思い込んでいたのだが――見た目に惑わされてはいけない、という聖の言葉と、昨夜聖の部屋で聞いた星の不安げな声を思い出した。
星は一輪の眼差しを受け止めて、うっすら微笑んだ。
「一輪。私が妖怪の見た目にも意味があると言ったのを覚えてる?」
「ええ。そういえば、星はあんまり虎に見えないわ。大陸の虎の絵巻とか見たけど、星の見た目とは違うもの」
「私は獣の虎じゃないから。この国に虎はいないでしょう? 人間の想像から生まれたの。私は聖が好きだから、聖のように人の形を真似ているのよ」
「へえー」
一輪は改めて星を見つめた。袈裟は夏に入っても着崩すことなくきっちり着込み、癖のある金の髪は、ところどころ黒色が混じっている。肌は青白いムラサよりは健康的で、瞳は金色に輝く。ムラサの目を大海原の深い青とするなら、星の目を何に喩えよう。
食い入るように見つめてくる一輪に星は困惑した。
「一輪? そんなに見られると、ちょっと……」
「星の目は琥珀のように綺麗ね」
「な、何? いきなり」
「昔の人の装飾品。とても透き通った金色に輝く石で、綺麗なのよ」
「どうしたの、一輪」
「まさかこないだのお詫びのつもり?」
「……それもあるかも」
ムラサはからかうように笑うが、言葉にされると何となく罰が悪い。星には星の葛藤や反省や努力があって今の星に至るのに、ただ羨むばかりの自分が少し恥ずかしかった。
「ごめんね、羨ましいとか憎らしいとか、私が精進しなさいって話よね」
「一輪……」
一輪にはムラサや星や雲山のように、人間を殺めた経験がない。だから彼女達の葛藤や自らの罪を見つめる姿勢を完全には理解できないだろう。もっとも、一輪は誓って今後も誰かを殺めるつもりなどないが。
星はそっと一輪の手を取った。
「貴方にだってできることはあるわ。人間と妖怪の共存……聖の理想のためには、妖怪だけじゃ成り立たないの」
「聖様は人間にも慕われているでしょう」
「その人間達は聖様が妖怪に心を寄せていることを知らないのよ」
ムラサが口を挟む。聖の表の顔と裏の顔、双方を知っている人間は一輪だけだと言いたいのだ。
「だから焦ったり気を落としたりする必要はないわ。一輪がいてくれるとね、私も心強いの」
星の微笑みは優しいし、穏やかだ。あの夜の焦燥し怯える姿が嘘のようだった。
そう言われると、ただの人間でしかない自分にも貴重な役目があるように思えてきて、少しばかり心が浮上する。劣等感なんて抱くほど一輪は卑屈ではなかったが、妖怪に囲まれて、ムラサの言う『貴方と私は違う』が今になって響いてきたのかもしれない。そのムラサとだって、今ではすっかり打ち解けているけれど。
「あら、修行もそこそこにみんなで仲良く談笑?」
そこへ聖が顔を出した。聖はいつもの微笑を浮かべていたが、一輪達は自らの師匠たる存在の登場に焦った。
「な、怠けてたわけじゃありませんよ!」
「たまにはお喋りに花を咲かせるのも楽しいでしょうね。ましてやここは若い女の子ばかりですし」
「雲山もいますよ?」
「雲山は一輪以外と喋らないじゃない」
「いいのよ輪には加わってるんだから」
言い合うムラサと一輪を聖は微笑ましく見守っていたが、やがて視線を星へと移した。
「星。少し、いいかしら」
「――はい」
まだ日は暮れていないが、いつものように相談が始まるのだろう、と一輪は二人を見送った。
「あれ、また羨ましいとか言わないんだ」
「ムラサ、私だってただ指を咥えてるだけじゃないの」
一輪は再び修行に戻る。聖はかつて弟の命蓮から法力の手解きを受けたそうで、この寺にもいくつか命蓮の法力が宿る遺品が運び込まれている。一輪と雲山もまた星や聖の指導だけでなく、命蓮の恩恵にあやかりつつ己の力を高めるのだ。
星も心配ではあるが、聖がついているなら大丈夫だ。金輪をかざす一輪に、ムラサはぽつりと言う。
「一輪はさ、私達が人間を殺してきたって聞いても平気でいられるよね。どうして?」
「へ?」
一輪が振り返ると、ムラサは青みがかった目で一輪をじっと見つめてくる。一輪はしばらく考えて、
「別にまったく気にしてないわけじゃないよ。人間からしたらやっぱり悪さをする妖怪は見過ごせない。だけど、ムラサも星も雲山も、みんな自分のやったことに自分で向き合っているじゃない。それなら私がとやかく言うことなんて何もないわ」
晴れやかな笑みで告げた。過ちを犯した過去は消えずとも、この先どうすべきかはまだ考えられる。殺生ではないが、聖だってそうだ。だから一輪はムラサ達を信頼して一緒に暮らしてゆける。
ムラサは呆気に取られて口を開けていたが、やがてため息まじりに言った。
「やっぱり一輪は変わっているわ」
「後ろ向きより前向きの方がいいと思ってるんだけど」
「貴方みたいに極端に妖怪を恐れない人間も珍しいんだから。あんまり親しんでるといつか本当に妖怪になってしまうよ」
「私が? ……あっはっは! それも悪くないかも」
「笑い事じゃないでしょうよ、もう」
ムラサは肩をすくめ、雲山も安易に妖怪に近づきたがるなと忠告してくるが、誰よりも一輪の近くにいる妖怪である雲山が言うのでは説得力がない。
(そうねえ、私も妖怪は根っこのところはそんなに悪いもんじゃないって思ってるけど、やっぱり人間が妖怪になるのってあんまりよくないのかしら)
一輪は聖の憂いを帯びた眼差しを思い出す。妖術に手を染めて、人ならざる者に転落し――私のようになってくれるなと言わんばかりの眼差しが、『自らの行いを忘れないのはとても大切なこと』と言った星の眼差しと重なった。
その夜は弓張月だった。聖がいるなら、という一輪の安心とはよそに、星はその日から一人で部屋に閉じ篭ることが多くなった。来客への対応はおろか、修行にすら顔を見せず、聖もこの頃は寺に留まって来客も制限しているらしかった。
星もまた潔斎に入ったのかと聞けば、そうではない。顔を見に行くのすら制されて、これ以上は待てないと耐えかねた一輪は聖に問いかけた。
「聖様、教えてください。星に何をさせているんですか」
一輪が強い口調で詰め寄ると、聖も「そうね。あの子は嫌がっていたけれど、これ以上隠すのは無理があるでしょう」と、真剣な面持ちで一輪と向き合った。
「あの子は人間の中に溶け込もうと必死に努力してきたわ。だけど、星もれっきとした妖怪。ムラサのように、抑えきれない本能を抱えているの」
「星はムラサよりずっと大人しく見えますよ」
「あの子も戦っているのです。内なる虎と。……今度の満月の夜に、あの子は恐ろしい虎になってしまうかもしれない」
「虎……」
一輪は目を瞬く。満月の光は妖怪を狂わせる。ムラサのように、星もまた妖怪として牙を剥くのだろうか。ムラサがもう人を沈めるのはいやだと言ったように、星もかつての獰猛な獣に戻るのを恐れているのかもしれない。星の怯えた声が脳裏に反響する。
「私にできることは」
聖は首を振る。
「もしもの時は、私が出ます。星のいる部屋に近づいては駄目よ。一輪は雲山と修行を続けなさい、ね?」
聖の声は優しくも言葉には厳しさがあり、またも自分は力不足なのだと一輪は実感した。
今夜の月は十三夜。あと二日で満月になる。心配になって、一輪は聖に止められたのも無視して星の籠る部屋の前を通りかかった。
中から、微かな星の呻き声が聞こえてくる。
「どうしたの、星、大丈夫? 具合でも悪いの?」
「一輪……?」
一輪の声に気づいて、星が中から弱々しく答える。かと思えば、閉じた格子の奥で星は声を張り上げて叫んだ。
「駄目よ、どうして来たの。近づかないでって聖に言われなかった?」
「ごめん、どうしても心配になって。格子は開けなくていいわ。だけど、せめて声を聞かせて」
「一輪、わからないの? 月の顔を見てはいけないのよ。竹取の翁の物語を忘れたの?」
「星? 何を言っているの?」
星らしくもない、噛み合わない会話に一輪は困惑する。竹取の、かぐや姫の物語なら一輪だって知っている。月を見ては激しく泣くようになったかぐや姫に対し、月の顔を見るなと翁は言うのだ。
「昔の人間はまだ月見を忌むことだと覚えていたわ……だけどもう忘れてしまっている!」
一輪は気迫の籠った声に思わずたじろいだ。星の姿は見えない。けれど絶え間なく聞こえる呻き声から、深い懊悩が感じられた。
「怖い、私が私でなくなってしまいそうで怖いの。いやよ、今更人を喰らったって……」
星がこんなにも怯え震えた声を上げるのは初めて聞いた。何とかしてあげたい、と思うも、自分にどうにかできることではないと思い出して、一輪はまた歯噛みした。
「雲山、いるのよね? 貴方はいつだって一輪のそばにいるものね」
突然雲山の名前が出てきて一輪は驚く。雲山がうなずいたのを見て、「ええ、私の隣にいるわ」と答えた。星は格子越しに雲山へ語りかけてきた。
「お願い雲山。満月の夜、どんなことがあっても一輪から離れないで。一輪を守れるのは貴方しかいないの、お願い」
「星……」
一輪は星の悲痛な願いに言葉も出ない。不安と恐怖に苛まれながら、星はなお一輪の身を案じている。
雲山が口を開く。約束する、必ず一輪のそばにいる。絶対に離れない。声は微かなれど、力強い響きだった。
一輪がそのまま伝えると、星は「よかった……」と安堵の声を漏らした。
「星、満月の夜も今みたく閉じこもるのは駄目なの?」
「駄目。私は昔の私と向き合わなければならない。そのために必要なのよ。……一輪」
星は最後に一輪に何かを言いかけたが、逡巡の末、
「ううん、何でもないわ。さあ、早く戻って」
と、それきり口を閉ざしてしまった。
◇
そして迎えた満月の夜、一輪は雲山とムラサと共にまんじりともせず部屋にいた。聖は例の星の籠る部屋にいて、決して近づかないようにと言い含められている。
「ねえ、ムラサは平気なの?」
「気分が落ち着かないけど、光をじかに見なければ大丈夫。雲山も落ち着いて……というか、何か覚悟を決めたみたいね」
ムラサはそわそわして、しきりに星と聖のいる部屋の方角を気にしている。頭には普段は被らない頭巾を被って、屋内でも月光の照射に注意を払っているようだ。
雲山はといえば、ムラサよりはずっと落ち着いて一輪の傍らに控えている。星との約束のせいか、朝からいつも以上にぴたりと寄り添って、一輪から離れようとしない。
「雲山、そんなにくっつかなくても私は離れないわ……」
その時、神鳴りが大木を割くような轟音が寺中に響いた。続いて地震と紛うほどの地鳴りで体が縦に揺れる。
「わっ!?」
「な、何っ!」
一輪とムラサは慌てて外へ出た。ムラサはいよいよ頭巾を深くかぶって月明かりを避ける。
今の轟音は間違いなく星のいる部屋からだ。裸足のまま庭へ降りて音の方向へ向かえば、大粒の数珠を手にした聖の背中が砂煙の中に見えた。
「聖様!」
「やはり、こうなってしまった……」
聖の声は低く険しい。一輪は砂埃にむせながら、その奥に潜む強大かつ身の毛のよだつ妖気に凍りついた。
金色に黒の縞模様を持った、見たこともない巨大な猛獣が、唸り声を上げている。
「まさか、あれが、星……?」
「ええ。私と一緒に部屋に閉じこもって、私がほんの少し格子を開いたの。満月の光が差し込んで、星が月の顔を見た瞬間――」
「星が虎になったのね」
ムラサは震え声でつぶやく。なぜ格子を、と今は尋ねる暇もなかった。
あんな化け物が星なのか? 一輪には信じられなかった。獣の姿は絵巻で見た大陸の虎に似ているようで、やはり少し異なる。四肢から伸びる爪は鋭く、一本で人間の胸を貫いてしまいそうだった。人の顔ほどの大きさの牙をのぞかせ、滴り落ちる唾液は井戸水をひっくり返したよう。金の瞳は血走り、獰猛な光を湛えて聖達を睨みつけている。
聖が片腕を広げて前に出た。
「貴方達、手出しは無用です。下がりなさい」
「だけど!」
「安心なさい」
聖はすかさず巻物を取り出して読み上げる。妖しげな光が聖の全身を包んだ。
聖が若返りの術を得た際に妖術を取得したとは聞いていたが、実際に使うところを見るのは初めてだった。聖の妖術は、肉体を鎧のように頑丈にする。
「星! 私の声が聞こえる? 私よ、聖白蓮よ。怯えないで、私はここにいるわ。貴方の目の前にいるわ!」
聖が声を張り上げて猛獣に、星に呼びかけると、星は猛然と突進する。聖が人間離れした俊敏な動きで避けると、狙いを見失った星は庭に植えられた松の木に突っ込み、松の巨木は無惨にへし折られた。
地を蹴れば大穴が開き、咆哮は聞く者の耳を痺れさせる。あの鋭い牙に噛まれたら、ひとたまりもないだろう。我を忘れた星は、もう聖が誰かもわかっていないのだ――変わり果てた星を見上げて一輪は愕然とした。
(星。貴方はあの時、『私の姿を見ないで』と言いたかったの?)
一輪は最後に星と言葉を交わした夜を思い出す。一輪の目の前にいるのは、見たことのない猛獣だった。理性のかけらもなく、普段の穏やかで優秀で、聖の自慢の一番弟子たる星はどこかへ消えてしまった。
一輪が琥珀のようだと言った目には、野卑な欲望が宿る。正気を失い、月の光を浴びるごとに卑しい輝きを増す。熊や猪や山犬より凶悪な、血に飢えて獲物を求める野獣だ。
「星、こっちよ、こっち! 覚えている? 私は貴方を導くと約束したのよ! 私の声を聞いて。戻ってきて!」
聖はなおも星への呼びかけをやめない。どんな姿に変わり果てても、聖にとってはかわいい弟子のままなのだ。
並の人間は恐れをなして、逃げ出すだろう。あるいは恐怖のあまり立ち尽くすだろう。
一輪は違う。驚きこそあれ、今、目の前にいる星が怖いとは思わなかった。
(確かに今の貴方はいつもの貴方じゃない。だけど星、私には、貴方がひどく怯えて傷ついているように見えるのよ……)
聖には手出し無用と言われた。ムラサは自分まで月の光で我を失うのを恐れて、影に潜んでいる。聖すら手こずる相手を一輪がどうにかできるとは思っていないが、あるいは雲山の怪力なら星を抑え込むくらいはできるかもしれない。
一輪が金輪を構えたその時、雲山の大きな両腕が一輪の体を羽交い締めにした。
「雲山!?」
雲山は真剣な声でつぶやく。星と約束した、一輪から離れないと。一輪を守ると。
「雲山、お願い、離して! 星を止めなきゃ!」
一輪は力の限りもがくが、雲山はてこでも離すまいと力を込めて、びくともしない。
今の星は一輪の手には負えない、聖に任せるべきだ、と雲山は続けて言った。
「だけど、このままじゃ、星は誰よりも大好きな聖様を……!」
星は再び聖に狙いを定め、聖は攻撃する様子もなく星の出方を伺っている。星は聖が敬愛してやまない恩人だと忘れている。単なる餌となる人間か、あるいは自分を邪魔する敵ぐらいにしか思っていない。もし聖に攻撃したと知ったら、我に返った星は傷つくはずだ。
早く止めなければ、と焦りが募る。何のための修行なんだ、何のための法力なんだ、普段非力な人間の一輪がこの中で持つ取り柄なんて、月の光で狂わないことなのに――。
「離せえええええ!!」
星が雄叫びと共に地を蹴った瞬間、一輪は強く金輪を握りしめて、法力を込めた。法力を通じて、雲山に命令を下す。雲山は微動だにせず、一輪を抱き抱えていた。
星は一直線に聖へ向かって走る。聖は避けるそぶりすら見せず、じっと星を見つめている。聖は不意に目を細めて――星の体を片手で受け止め、首元に自らの体を寄せた。
「星。懐かしいわね。貴方と初めて会った時も、私は貴方の首元に額を寄せたっけ」
唖然として一輪は動けなかった。聖に止められてなお、星は牙を剥き出しに聖へ唸るのに、聖は星の体を優しく撫でる。
「またお腹が空いた? ……違うわよね。満たされないのは、貴方の心。不安で仕方ないのに、無理に強がって隠そうとして……。いいの。私が貴方をそうしてしまったんだから」
聖の声には罪悪感が滲んでいた。やがて「おいで」と囁いた。
「受け止めてあげる。貴方の抱える迷いも不安も恐怖も、ぜんぶ私が一緒に背負いましょう」
その言葉を皮切りに、星が再び咆哮を上げた。次の瞬間、星の突撃を正面から食らった聖は、勢いよく弾き飛ばされた。聖が高く高く宙へ舞う姿が恐ろしく緩慢に見え、一輪は一瞬、釈迦が前世で飢えた虎のために身を投げた話を思い出す。聖の体は地面に叩きつけられた。
「聖様!」
たまらず駆け寄ろうとしたムラサも雲山は片腕で引き寄せて止める。一輪は変わらず雲山の手の中にいた。
地にうつ伏せになっていた聖はゆっくりと起き上がった。星の当身をじかに受け、地面にぶつかったのに、土にまみれただけで体に傷がない。一輪はようやく聖が肉体強化の術を使っていたのを思い出した。
「う、うう……」
その時、星の呻きが声色を変えた。猛獣の唸り声から、次第に普段の星の穏やかで凛とした声に近づいてゆく。
聖を突き飛ばして、いくらか星の中に燻る本能が満足したのだろうか。巨大な獣の体が小さくなり、鋭い爪も牙もなくなって、いつもの人型に戻る。星は頭を押さえて、虚ろに視線を彷徨わせていたが、やがて欲望を失くした金の目が、同じように地面に膝をついたまま星を見つめる聖の姿を捉えた。
「ひ、じり……?」
「星。戻ってきたのね」
聖はまるで何事もなかったかのように、優しく微笑みかけた。しかし星の顔はさっと青ざめる。虎になって我を失い暴走した時の記憶は、星の中に刻みつけられていたのだ。辺りにはそこら中に獣の足跡が残り、野分の後のように庭は荒れ果てている。
両腕で頭を抱え、星は地面に顔を擦り付けんばかりの勢いで蹲った。
「私、聖になんてことを……!」
かぶりを振る星の声は悲哀に満ちていた。髪を振り乱し、涙まじりの声で狼狽える姿に一輪は拳を握りしめた。いつも穏やかで、真面目で、まるで姉のように一輪の指導にあたる星が、幼い童みたく取り乱している。
「星、落ち着いて」
「いや、いやっ!」
差し伸べた聖の手を振り切って、星は地面に突っ伏した。やがて小さく縮こまった星のすすり泣きが聞こえてきた。
「私は、消えてしまいたい……」
一輪は目を見張った。本当に消えいらんばかりの弱々しい声に、一輪の胸は締め付けられる。
同じく言葉を詰まらせた聖であったが、すぐさま眉をつり上げ、星の両肩に手を置いた。
「星! 私の体をよく見なさい」
指導にあたる時のように、聖は厳しく言い放った。聖の怒声に星も思わず顔を上げる。聖は両腕を大きく広げて星の前で仁王立ちした。
「私の体に、貴方のつけた傷など、どこにもありませんよ」
聖は背中から袖の下まで、全身を隈なく星に見せつける。聖の言う通り、聖の体に傷跡はかすり傷すら一つもない。聖に圧倒され、それでもなお不安を残したままの星に、聖は今度は目を細めて星の体を抱きしめた。
「怖かったのね。自分を見失って、つらかったのね。……私があんなことを頼まなければ貴方は苦しまずに済んだのに、貴方は決して逃げなかった」
「聖……そんな、私は……」
「だけど、貴方は自分で正気に戻った。まだ月の光はあんなにも明々と私達を照らしているのに。星、私の声が聞こえたのでしょう?」
聖の言葉に、星は息を呑む。聖は何度も星の背中をさすってささやいた。
「貴方が消えてしまったら寂しいわ。ねえ、お願い、これからも私達と一緒にいてくれる? もう少し、私は貴方に教えたいことがあるの」
「ひじ、り」
聖が浮かべた菩薩のごとき笑顔で、とどめとなったのか、星の涙腺が決壊した。星の目から溢れた涙が月明かりで鮮明に光る。妖怪を狂わせる憎らしい月の光が、重なり合う二つの影を煌々と照らし出していた。
聖の胸の中で星は泣いた。獣の慟哭のような、悲しい泣き声だった。
雲山の腕の中で、一輪はムラサ同様に、ただ成り行きを見守るしかできなかった。握りしめた金輪には、今日はもう法力を込められそうにない。
(……私は、何もできなかった)
一輪は改めて己の無力を痛感した。雲山が何事かを一輪に語りかけたが、ろくに頭に入ってこなかった。
◇
その夜は誰もが疲れ果ててしまったため、寺の修復は翌朝以降に持ち越すことにして、皆で眠りにつく運びとなった。あのような出来事の後で一輪は眠れるはずもなく、ほとんど褥の上で横になっていただけで夏の短いようで長い夜が明けてしまった。
「……雲山」
忌まわしい満月が沈み、待ちかねた朝日が昇ったところで、一輪はずっと傍らに控えていた雲山へ真っ先に声をかけた。
「私、雲山にひどいことをしたわ」
一輪は二つの金輪を床に置き、雲山の体に手を伸ばした。雲山は何も言わない。一輪の縋り付くような抱擁を黙って受け入れる。
「雲山、ごめんね。無理やり言うことを聞かせようとして……私、自分で雲山はもうしもべじゃないって言ったのを忘れていたのかしら。……ごめんね」
目頭が熱くなるのを堪えて、一輪は頬を寄せる。あの時、雲山は一輪の命令を明確に拒んだ。一輪の法力が伝わったはずなのに、一輪から離れないという星との約束を、ひいては一輪を守るために一輪を決して離さなかったのだ。
……一輪は星の思いも雲山の思いも身勝手に踏み躙ろうとしていた。それが情けなくてたまらない。
雲山はもういい、と優しい声で言った。一輪に怪我はなかったし、星は気に病むだろうが、聖だって無傷だ。壊れた建物なら修復できる、屋根に空いてしまった穴は自分が直そう。だから、もう顔を上げてくれ。星が心配だったのなら、直接伝えればいい。夜が明けて星も落ち着いたはずだ。
「……会ってくれるかな。また『来ないで』って言われちゃったらどうしよう」
珍しく弱気だな、と雲山は苦笑する。確かに心の傷には簡単に触れていいものではない。けれど星はあの後ずっと聖と一緒にいた、星はもう虎に戻らなかった、だからきっと大丈夫だ。他ならぬ聖がそばにいたのだから。
何だかいつもと役割が真逆だ、とおかしくなった一輪は少しだけ笑った。
「そうね。思えばあれからちゃんと話してないし、私はこの通り無事よって伝えてあげた方が星も安心するかも」
一輪は立ち上がると、寝巻きからいつもの袈裟姿に変わり、雲山を伴って星の休んでいる部屋を訪ねた。途中で聖とすれ違ったが、「星はもう大丈夫。なるべくいつも通りに接してあげてね」と微笑まれた。
「星、私よ。雲山もいるわ。入ってもいい?」
「……一輪。ええ、入って」
中から聞こえてきた星の声は、いつもより幾分かやつれていたが、もう昨夜のような焦燥はなかった。
格子を開けると、星の周りには数多の経典が散らばっていた。一心不乱に念仏を唱えていたのだろうか。星は気まずそうに経典をよけて、一輪と雲山の座る場所を空けた。
「一輪。私の姿を見たでしょう」
星は単刀直入に言った。一輪は獰猛な獣の姿が頭をよぎってどきりとしたものの、顔には出さず居住まいを正した。
「恐ろしいと思わなかった?」
星は眉を下げ、真剣な声音で聞いてくる。一輪は「ぜんぜん」と正直に答えた。
「私は虎の星を知らないから、ちょっと驚いた。だけどもう怖くないわ。私は怖いもの知らずなのよ、怯えて二度と口も聞かないとでも思った?」
「……一輪らしいわ」
星はわずかに口元を緩めたが、表情は硬いままだ。
「一輪。私はもう二度と虎に戻らない。聖のおかげかしら、あの後も何度か月の顔を見たけれど、胸の奥が疼くだけでもう私が私でない何かに……虎に呑まれてしまう気配はなかった。だけど、お願いがあるの」
「うん……星が望むなら、私は」
「昨夜の私を、恐ろしい虎の姿をした私を、覚えておいて」
一輪は虚を突かれた。てっきり『忘れて』と言われるものだと思っていたのに、星はその真逆を望んだ。
星は金色の目で一輪を真っ直ぐに見つめてくる。その目にはもう昨夜の怯えも怒りもなかったけれど、張り詰めた剣呑な空気は虎の名残を彷彿とさせた。
「決して忘れないで。私も聖を傷つけたこと、一輪達にまで危害を加えそうになったこと、絶対に忘れないから。……私は妖怪なのよ。聖に会って、心が満たされて、私の生まれ持った本能は少し大人しくなったけど。仏の教えや法力で抑えようとしても、私の中の虎は、人間を貪った罪は完全には消せないの。たとえそれが妖怪として当然の理だったとしてもね。一輪と雲山のように、私はこの罪を誰かと分かち合えない。誰にも渡したくない自分だけのものだから、虎を二度と目覚めないように私の中で眠らせて、ずっと見張りを続けて、一生付き合ってゆくの」
星のただならぬ気迫に、一輪も圧倒されて二の句が告げなかった。
自らの行いを泣いて悔やみ、『消えてしまいたい』とまで口走ったのに、星はもう己の所業に向き合う覚悟を決めている。一輪が簡単に同意も否定も示せない、罪を重ねた妖怪にしかわからない領分だ。
「……わかった。星が虎だってこと、私は忘れない」
それでも一輪は星の願いに応えるべく、力強く宣言した。月明かりの下の悲哀に満ちた猛獣を、無力な自分を一輪は決して忘れはしない。
思い返すと猛然と怒りが込み上げてきて、一輪は星を睨んだ。
「だけど、星こそ覚えておいて! 私が星の目は琥珀みたいに綺麗だって言ったの、今でも変わらないから! どんな姿でも星は星よ。たとえ虎になったって、私は、星が好きなんだから……」
「一輪……」
「何よ、消えたいなんて言っちゃって! 星は妖怪でしょう、人間より長く生きられるのに、私より先に死んだら許さないわ!」
「……ええ、そうね」
「覚えておいて……私の言葉を忘れないで、形見みたく持っていて」
「形見なんて、そんな不吉な言い方」
「忘れないで」
いつのまにか一輪は八つ当たりじみた激昂をして、星が宥める側に回っている。星の苦悩を知ってなお、『消えたい』という言葉が許せなかった。加えて形見と口にしてから、一輪は自分がいつか死ぬ人間だと改めて思い知った。
百年足らずの寿命も人間には充分に長い。しかし長命の妖怪からすれば、ほんの一瞬なのではないか……。死ぬのなんか怖くないはずなのに、頭では理解していたはずなのに、なぜかその寿命の差が、どうしようもなく悲しいと思ってしまった。
「忘れたりしないわ。私が一輪を忘れるわけがないじゃない」
今にも泣きそうな一輪の両手を強く握りしめて、星は励ますように言った。星の目は優しい光を帯びた金色で、普段通りの綺麗な色をしていた。そして一輪と星をはらはら見守っている雲山に優しく語りかけた。
「雲山、ありがとうね。一輪が無事なのは、貴方のおかげでしょう?」
「ええ、そうよ、雲山ったら私の言うことより星の言うことを優先したのよ。おかげで私は無傷」
「一輪、貴方が私を心配してくれているのは充分に伝わったわ。私は妖怪だから、貴方のやきもきする気持ちはきっとわからない……だけど、決して焦らないで」
星はいつもの、妹をあやすような調子で一輪を諭す。
「一輪、私のようにならないでね。ムラサに言われたでしょう? 一輪はまるで妖怪みたいな考え方をするって。この先どんなに法力を極めたとしても、人の道を踏み外すのは、大切な人を傷つけるのは駄目よ」
「わかってる、わかってるのよ!」
自分の考えを見透かされたような気がして、一輪は決まり悪くなり立ち上がる。昨夜の星を目の当たりにしただけあって、星の言葉にはまして重みがあると感じる。星が顔を上げて前を向いて生きてゆけるのならいいけれど、一輪の心は姉弟子の諭しを素直に聞けるほど穏やかでない。
逃げるように星の部屋を後にすると、ムラサに会った。ムラサもまたよく眠れなかったのか、顔色が少し悪い。
「変わってしまうのは怖いことなんだよ」
一輪と目が合うなり、ムラサはぽつりと言った。一輪達の話を聞いていたのか。いや、ムラサなりに昨夜の出来事を経て、考えて出した答えだ。
「自分が自分でなくなってしまう。星はそれが怖かったの。前に星は話してくれたわ、心が満たされた今では昔の自分が別物に感じるって」
「……」
「私もそう。死んだ途端に、私が今までの私とは別物になってしまった気がしたの。聖様には死んだって終わりじゃない、それまでの自分が消えてなくなるのではないって言い聞かされたよ。認めるのに時間がかかったけどね」
ムラサは乾いた笑みを浮かべる。死は終焉ではない――聖が説く仏の教えの根幹だ。だからこそ聖は人間とは存在意義が異なる妖怪にも仏の教えを説いて回っているのだ。
ムラサは同情するような、心配するような目を一輪に向けた。一輪は即座にムラサが何を言おうとしているのかわかった。『同じになって』と柄杓を手に迫ってきたのはつい最近のことなのに、ムラサは正反対のことを一輪に訴えようとしている。
「ねえ一輪、いくら妖怪の力に憧れても、貴方は人間なんだから――」
「ほっといてよ!」
普段ならありがたく受け取れる心配も今は鬱陶しくて、一輪は飛び出した。気分が落ち着かないのは、よく眠れなかったせいだろうか、それとも……。
出家して法の道に入ったのに、星とムラサの言葉で一輪の心は千々に乱れる。雲山と共に様を変えた時、心が清水のように澄み切ったと思ったのは、気のせいだったのか。煩悩も執着も断てず、物思いの種は増すばかりだ。
「雲山、私を雲の果てまで連れて行って!」
走って庭に降りた一輪は雲山に懇願した。雲山は心得た、とすぐさま雲の体を台座にして一輪を乗せる。目に痛い夜明けの燦々とした日差しを真正面から受けて、一輪は雲山と共に空へ飛び上がった。
◇
雲山に連れられて空の上へ昇ってゆく一輪の姿を、ムラサは地上から眺めていた。
「雲山が地上から空へ飛んでゆく。これじゃ雲というより、海人の焼く塩の煙が昇るみたいね」
「煙なんて言い方はよしてよ」
「何、星、まだ弱気になってるの?」
星が不安げに遠ざかる一輪と雲山を見上げるのを見て、ムラサは苦笑する。きっと葬儀の煙を連想するから、と星は言いたいのだろう。
星は首を横に振った。
「私はもう大丈夫。一晩中、聖と話したし……私ね、聖に怒っちゃったの」
「あら、珍しい。星が聖様に声を荒げるなんて想像つかないわ」
「だって、いくら私を止めるためとはいえ、自分の身を投げ出すなんて。あんなことはもうしないでってお願いしたら、約束はできないけどなるべく努力はする、ですって。いくら嘘をつけないからってあんまりだわ。私は胸が潰れそうよ」
「そうねえ。聖様、妖術が使えるからって無茶するのよね。一輪と雲山が戻ってきたらみんなで念を押しておきましょ」
「一輪は帰ってくるの?」
「当たり前でしょ。ちょっと、しっかりしてよ、星。私はそんないっぺんに何人もお守りできないわ」
ムラサがつい強い口調で言うと、もっともだと星は口元をひきつらせた。
「ねえ、ムラサ。一輪はいくつだったかしら」
「へ? さあ、十四か十五か、そこらじゃないの」
「そう。一輪はそんな歳で、もう自分が死んだ後のことを考えなければならないのね」
「仏様の弟子なら当然じゃないの」
眉を寄せる星にムラサがそっけなく返すのは、ムラサが達観しているからではなく、あの夜の朝なのに他人の心配ばかりしている星が気がかりだからだ。
しかし一方でムラサも、自分が舟幽霊にならず人間として生きていたら、果たして今のように死後のことなんて考えていただろうか、と思う。二十にも満たぬ若い娘なら、他に楽しみをいくらでも見つけられるだろうに、一輪はわざわざ妖怪達の険しい道に踏み行ってゆく。自ら進んで普通の人間が恐れ忌み嫌う妖怪との交わりを保つ。
もし一輪が雲山に出会っていなければ――脳裏によぎった考えをムラサは即座に打ち消す。一輪はそんな“もしも”を考えていないし、身の処し方は一輪が自分で決めるべきことだ。
「大丈夫よ、確かに一輪は危なっかしいけど、そんなやわな子じゃないでしょ」
「……うん。あの子の魂は、力強くて逞しい。雲山がいるからかしら?」
「むしろ一輪が雲山を引き寄せてるのかも」
もはや一輪も雲山も見えなくなった空を見上げて、星とムラサはそろって笑った。
心配は尽きないが、誰よりも一輪の身を案じてそばにいる者がいる。「さ、まずはお寺の修理をしなくちゃね」と早くも気持ちを切り替えた星の後を、ムラサは「えー、私まだ眠いんだけど……」と文句を言いつつ追った。
◇
雲山が速く飛べば向かい風で一輪の頭巾が脱げて、尼削ぎにした黒髪がたなびく。初夏の空は青く澄んで、青の中に溶け込む一輪の乱れた心も少しずつ凪いでいった。
「こうやって二人きりで空を飛ぶのも久しぶりね」
一輪は自分の目線と同じ高さの雲を眺めながら、雲山に話しかける。
久方ぶりの雲の上だ。故郷の村にいた頃はしょっちゅう雲山と空の散歩へ出かけていたが、聖の弟子になってからはお寺でみんなと過ごすのが楽しくて、空の散歩も頻度が減っていた。それでも一輪が心を落ち着けたい時、何物にも縛られずに自由になりたい時、空を飛びたいと強く思う。入道の雲山といつも一緒にいるせいか、山の田舎で育ったせいか、一輪は空を愛し、我が身が雲と一つになったような感覚を求めるのだ。
「本当ならお寺の修理をしなきゃならないのにね。それに朝のお勤めもまだだったわ。このままじゃ私達、両方すっぽかすことになっちゃうのに、雲山、よく私を連れてきてくれたわね」
真面目でお堅い雲山をからかって言うと、身の入らない修行ならかえってしない方がましだと雲山は答えた。
「雲山は優しいのか厳しいのかわからないわ」
一輪は思わず吹き出した。いつだって雲山は一輪のそばに寄り添い、一輪を守るために動き、それでいて時に一輪の意志と反する行動も取るし一輪を叱ったりもする。一輪にとってはもはや隣に雲山がいるのが当たり前で、不思議と強いて雲山から離れたいとも思わないのだった。
雲の切れ間から日が差して、一輪はその眩しさに目を細める。
「やっぱり少し暑いわね。今でさえ汗が滲むんだから、真夏の盛りになったらきっと鬱陶しくなるくらい暑くなるわ」
一輪は雲の群れの中に、一際大きく山のように固まった雲を見つけて、不意に雲山と初めて出会った夏の日を思い出した。
「ねえ、雲山、私達が出会ってもうすぐ一年になるのよ。あっという間ね」
本当に、と雲山はうなずく。思い返せばあまりに慌ただしく騒がしい一年だった。雲山を従えて故郷の村まで帰って、次第に村の人間達に疎まれて、ついには追い出されて、逃亡の末に聖と出会って。一年前は人間に囲まれた妖怪の雲山が異端だったのに、今では妖怪に囲まれた人間の一輪が一人だけ、と逆転してしまっている。
いつも寡黙な雲山が、一輪と二人きりだからか珍しく喋る。自分以外の妖怪と仲良くなって、一輪は人間より妖怪の方がいいと考えるようになってしまったか。人間であるのが厭わしいか? 自分は人間たる一輪の強さを知っているのに。
一輪は心配性な雲山にふっと笑いをこぼした。
「そんな軽率に考えてるわけじゃないよ。聖様や、ムラサや、星の苦悩を見てきたんだもの。妖怪はただ強くて便利な力を持ってるだけじゃないって、今の私はちゃんとわかっているわ」
だけどね、と一輪は声をひそめた。誰に聞かれるわけじゃないとわかっていても、雲山にだけ届けばいいと思った。
「みんなと一緒に過ごすのがあんまり楽しいから……私、今なら聖様が不老不死の力に手を伸ばしたわけがわかる気がするの」
一輪は雲山の体を抱きしめた。時は無慈悲に流れ続けるものとわかっていても、どうかこの楽しい時がいつまでも続けばいいと願ってしまう。疾く過ぎ行くな、我が世の春よ。聖はきっと命蓮と過ごした幸せな思い出が、自らの死ですべて霧散してしまうと恐れたのではないだろうか。
雲山はすかさず咎めにかかる。どれほど聖の苦悩に心を寄せても、決して不死など求めるべきではない。それこそ一輪は今の一輪ではなくなってしまう。
一輪は口を尖らせ反論する。
「私は不老不死なんかいらないよ。人間としてあと五十年、六十年、ううん、百歳までだって長生きしてやるわ。だけどね、気になることがあるの」
死ぬのが怖くないのは今でも変わらない。どんなに今が楽しくても、別れが惜しくても、無闇に天命を歪めるべきでないと理解していた。定められた寿命か、不慮の病や事故か、とにかくいずれ訪れる死を一輪は甘んじて受け入れるだろう。けれど、一輪亡き後、一輪の半身とも呼ぶべきこの妖怪は――。
「雲山。正直に答えて。今、私を守ることを生き甲斐にしている雲山は、私が死んだ後はどうなるの?」
一輪は硬い声で問いかけた。現在の雲山は一輪のために生きているようなものだ。それなら一輪が天寿を全うした時、雲山は今度こそ雲が散るように消えてしまうのだろうか。
緊張で手に汗が滲む。雲山はいつも通りの、低くも穏やかな声で答えた。
――お前の考えている通り、自分は跡形もなく消えるだろう。
予想はついたが雲山の口から聞くと一輪の心は揺さぶられて、一輪は懸命にまくし立てる。
「雲山はそれでいいの? 妖怪なんだから本当ならもっと長く生きられるのよ、私に縛られる必要なんかないわ。私に義理を立てないで、雲山の好きに生きていいのよ」
雲山は首を振る。自分にはもう一輪以上の存在など見つけられないだろう。寺の仲間達も大切だが、一輪の命には代えられない。元より自分は一年前の夏の日、退治された時点で消える存在だったのだ。それが思いもよらず、こんなにも優しく怖いもの知らずで、感情豊かで片時も目が離せない人間に巡り会えた。一輪、お前が己を半身だと言ったように、己もまたお前を半身だと思っているのだ。お前の喜びも悲しみも怒りもまた己のものに等しい。お前が死ぬ時にこの命が尽きても、自分は決して悔いを残さないだろう。これこそが己の望んだ生き方なのだ。
雲山の淡々とした語りから、雲山の頑として動かない覚悟をひしひしと感じて、一輪はいっそう雲山に縋りつく。
「雲山、私は雲山にもっと長生きしてほしいのよ。お願い。私の悪いところは直すから、雲山に負担はかけないから、私が死んでも、新しく生き甲斐を見つけて、お寺のみんなと生きるって言ってよ……」
一輪の悲痛な叫びにも、雲山は決してうなずくことなく、無理だ、と笑った。
「……馬鹿ね。貴方がそういう性格だって知ってるけど、たまには上手に嘘をついてよ。女に都合のいい夢を見させるような、とびきりの嘘をついてよ」
無茶を言うんじゃないと苦笑する雲山は本物の父親のようだ。自分は嘘をつけないし、自分達は男女の仲らいではないのだ、そんな戯言は必要ない。まして一輪には嘘をつけない。
「馬鹿。雲山の馬鹿。どうしてそんなに頑固なのよ」
一輪の目から涙がこぼれた。雲山は己の行く末に心から納得しているのだとわかっていても、一輪は簡単に納得できない。明日をも知れない逃亡の旅の中、一輪は雲山を置いて死にはしない、雲山が死ぬなら自分だって死ぬと本気で思っていた。
けれど月日が流れ、一輪の中で雲山の存在が大きくなるごとに、たとえ自分が死んでも雲山には死なないでほしいと願う気持ちの方が強くなった。一輪にとって雲山が誰よりも大切な存在だからこそ、雲山にはせめて生きていてほしいのに。
一輪の涙を、雲山の大きな指が優しく拭う。夏の空はどこまでも晴れ渡っているのに、一輪の心は身を知る雨に降られていた。
◇
「ああ、暑い……焼けるようだわ……」
「ムラサ、暑い暑い言わないでよ。余計に暑くなるわ」
「暑いんだから仕方ないじゃない。あーあ、あんなに離れたかった故郷の海が恋しい……この池じゃ水溜り同然だもの」
夏の盛り、一輪が汗をぬぐいつつせっせと廊下を磨く傍らで、ムラサは暑さにやられて寝転がっている。いっそ雑巾を投げてやろうかと思ったが、雲山に睨まれたのでやめておく。
「一輪はずいぶん精が出るのね。この頃は前にもまして修行に熱心じゃない」
「そりゃあすぐそばで見ていらっしゃる方がおわすのだもの、ねえ? ムラサ、どうせならこの暑さを何とかしてくださいってお願いしてみたら?」
「ああ、そうだった。私もたまには本気で神や仏に縋ってみようかしら」
二人はくすくす笑いながら、部屋の奥を振り返る。本堂には、呆れた眼差しで二人を見やる立派な佇まいの妖怪が一人。
「あのね、一輪、ムラサ。毘沙門天様は豊穣を司る神様じゃないのよ。私に雨乞いなんかできないわ」
袈裟を脱ぎ捨て、身なりも新たに装い、領巾や宝塔や鉾を携えて厳めしく立っているのは、星である。
あの満月からしばらく経って、一輪はようやく聖から星への頼み事の正体を知った。
聖は古くから毘沙門天を信仰していた。この寺にも毘沙門天を招きたいが、妖怪は毘沙門天の威光を恐れる――ならば、聖が最も信頼する妖怪を毘沙門天の代理として推薦し、毘沙門天の代わりに人間と妖怪、両方から信仰を集める存在になってもらおう。星を人間の間に立ち混じらせ、馴染めるように努力させ、そしてあの満月の夜に星の抱える虎の問題まで解決させたのは、すべてこのためだったのだ。
新たな役目をもらった星は身なりのせいか貫禄が増し、聖が毎日手を合わせて信仰を捧げているのもあって、ともすれば聖よりも格の高い僧侶に見える。最初こそ星の任せられた役目に驚いた一輪だったが、見た目がどうであれ星が星であることに変わりはない、と必要以上に敬うこともなくいつも通りに接していた。
「――やれやれ。君達は毘沙門天様への信仰が足りないのではないかね。修行僧達が斯様な有様では、この寺の行く末も危ぶまれるな」
そこへ、一匹の妖怪が顔を覗かせた。大きな耳と長い尻尾を持ち、しもべの鼠を何匹も従える妖怪鼠は名前をナズーリンという。星が毘沙門天の代理を正式に認められた際、本物の毘沙門天から星の部下にと遣わされたのだ。
初めて会った時、一輪は「なずぅ、りん?」と、聞き慣れない名前に首を捻った。梵語ではなさそうだ、それなら大陸の言葉だろうか。一輪が今まで聞いたことのない響きである。しかし一輪を最も困惑させたのは、ナズーリンの尊大な態度だ。体は小さく人間の童のようなのに、口ぶりは横柄でいつも斜に構えた態度を取り、聖はおろか主人であるはずの星にすら時に慇懃に接する。おまけに寺で一緒に暮らす身となりながら、
「私はあくまで毘沙門天様を信仰しているのであって、仏の教えなんてどうでもいいね。私はご主人様のお手伝いができればそれでいいんだ、修行には構わないでくれたまえ」
などと言い放ち、修行僧達と距離を置くのである。さすがの一輪も閉口し、ムラサの時と同じように親しく声をかけたりできなかった。
さて、ナズーリンの『信仰が足りない』という言葉にむっとした一輪はすかさず食ってかかる。
「あら、尊い仏様の教えに耳も傾けない貴方に言われたくないわ。それに代理とはいえ毘沙門天様がいらっしゃったお寺が傾くわけないでしょう、貴方は信用ならないお寺にわざわざ出向いてきたの?」
「さあね、信用に足るか足らないかは私がこの目で確かめてみなければわからないな。そのために私が遣わされたようなものだと、勘のいい奴なら気づいてもよさそうだけどね」
「まあまあ、一輪もナズーリンも落ち着いて」
二人の険悪な雰囲気を察してすぐさま星が間に入る。
「ナズーリン、一輪達がどんな人となりをしているか、賢い貴方ならすぐにわかるはずよ。一輪、そんなに喧嘩腰にならないで、貴方らしくもない」
「だけど……」
「掃除の途中でしょう? 戻った方がいいわ。ムラサも起きて、暑いのならそれこそ池のお手入れをお願いしたいのだけど」
「はーい」
「ナズーリン、そろそろ聖が帰ってくるはずだから、迎える準備をお願い」
「はいはい、承りましたよ」
星がてきぱき指示を出して、それぞれ散ってゆく。聖は寺に代理とはいえ念願の毘沙門天を迎えられたせいか、この頃は今まで寺を遠ざけていた妖怪達へ熱心に布教に回っているのである。
とりあえず掃除の続きをしようとした一輪へ星は声をかけた。
「一輪はナズーリンと折り合いが悪いのね」
「仕方ないじゃない。あれがただの毘沙門天様のご厚意じゃないって、星もわかってるんでしょう?」
一輪は眉をつり上げるが、星は微笑を浮かべるばかりだ。
いつもは明るく社交的で、比較的誰とでも親しく接することができる一輪でも、ナズーリンにだけはどうしても口がきつくなってしまうのだった。
ナズーリンは表向きは星の手伝い役なのだが、その実、本物の毘沙門天が星や聖が本当に信用に値するかと訝しんで寄越した監視役だ。それを知った一輪は驚き、ナズーリンが星に関してあらぬことを毘沙門天へ讒言するのではないかと心配している。雲山は一輪の態度を諌めはするものの、雲山もやはり新参の妖怪を少し警戒していた。
「私はあの何もかも見透かすような目が気味が悪いの」
「一輪、三尸の虫が天帝に人間の罪を報告するように、ナズーリンは私の不徳を毘沙門天様に告げるのよ。やましいことがなければ平気よ」
「三尸の虫は庚申の夜にしか来ないじゃない、あのネズミは毎日いるのよ、いくら妖怪でも一睡もできないんじゃ体がもたないわ」
「大丈夫よ、他でもない聖が私を信じて大丈夫だって任せてくれたんだもの。私は、聖の信じてくれた私を信じる。立派に役目をこなして、私が信頼に足る妖怪だって証明してみせるわ」
星は輝く笑顔で笑う。ナズーリンの監視も毘沙門天代理の役目も重荷でないと言わんばかりの、自信に満ちた態度である。一輪は思わずため息を漏らした。
「星が羨ましいわ」
「あら、いつものね」
「星が頑張っているのなんて見ればすぐにわかるの。悔しいけど、私には毘沙門天の代理なんて務まりそうにないわ。一箇所にじっとしていられないし、あのネズミとうまくやる自信もないもの」
「それなら私は一輪が頑張っているのを知っているわ。いつも見ているもの。聖だって褒めているのよ、最近は特に雑務を率先してやってくれるし、読経も格段に上達したって」
褒めるつもりがさらっと褒め返されて、一輪はこそばゆく思う。
一輪がこの頃修行熱心なのは事実だ。新たな役目を任された星に触発されて、というのもあるし、あの満月の夜からずっと心に引っかかっている自らの身の処し方を考えるためでもある。
(私は無力だなあ。ムラサはまだ悩んでいるところもあるけど、前より冷静に物事を捉えてる。ナズーリンとはそりが合わないけど、毘沙門天様から信頼されるだけあって実力はあるみたいだし……)
焦らなくていい、一輪には一輪のよさがあると言われても、周りが妖怪ばかりでは嫌でも気になってくるのだ。せめて乱れやすい心だけでもどうにかしようと修行に打ち込んでいる。
やがて聖が寺へ帰ってきた。聖ならムラサ達とはまた別の方法で一輪の悩みの力になってくれるだろう。一輪は聖へ相談を持ちかけた。
「聖様、人間が妖怪になってはいけないのですか?」
雲山が顔をしかめるのがわかったが、今は取り合わない。雲山だって、一輪がこの頃人間と妖怪の境について悩んでいるのを知っているのだ。
聖は一輪の問いにわずかに眉を動かしたが、冷静に答えた。
「私は妖怪も人間も等しくあるべきだと考えています。ですから、私が人間が妖怪に、妖怪が人間に憧れるのを諫めるのは一見するとおかしなことでしょう」
「……では、私の考えも否定はしないと?」
「けれど現実には、妖怪と人間の間には相容れない境があるのです。現実が見えなければ理想も見えません。人間は妖怪に怯え、退治する。妖怪は人間を襲いながら、一方で人間からの畏れを得られなければ力を失ってしまう。その境を無視しては真の平等には辿り着けないわ。時には人間は人間のまま、妖怪は妖怪のまま、違いを認めて共存の道を探るのも必要なの」
聖のおっとりした、しかし強固な意志を孕んだ声を聞きながら、一輪は考える。聖は一輪に人間のままでいてほしいはずだ。人間の一輪と妖怪の雲山が寄り添う姿は、聖の理想そのものなのだから。一輪が生涯を賭けてそれを貫き通せば、少しは聖の役に立てるだろうか。だけど、一輪の願いは……。
そんな一輪の考えを見透かしたように、聖は苦笑する。
「私は貴方の、雲山と共に生きたいという意志を尊重したい。だけど、人の道を踏み外せば外道に落ちることもある。一輪、貴方だって私の大切な弟子なのよ。私と同じ道は歩ませたくないわ」
聖は眉を下げて哀訴する。聖も星と同じことを言う。いや、星が聖の影響を強く受けているから、言葉が似ているのだ。
一輪は聖の懸念をしかと感じながら、黙って考え続ける。安易な憧れだけで不用意に妖怪に手を伸ばせば、あっという間に一輪は妖怪の邪な力に飲み込まれてしまうだろう。ムラサが一輪を溺れさせ、舟幽霊にしようとした時のように。邪な力に飲まれれば、星のように我を失う。それは一輪の本意ではない。
(もし私が今すぐ妖怪になったら、それまでの私とは別人になってしまうのかしら)
一輪は悩み続ける。いやしかし、ムラサは見た目がどうであれ本質は何も変わらないと言わなかったか。今と昔、ムラサも星も聖も、本当に別だと言い切れるのか。そうだ、雲山だって、一輪と出会う前との大きな違いは人間を襲うか否かぐらいではないか。……。
「そうね……貴方にとって人間と妖怪の境をわかりにくくさせている要因は、雲山の存在かもしれません」
「雲山ですか?」
頭を抱える一輪を見かねて、聖は雲山を指す。
「雲山は一輪に退治されて、邪気を祓われました。妖怪の矜持を打ち砕かれたのだから、本来ならそこで力を失い、消えるはずだったのです。けれど雲山は一輪を新たな矜持として、妖怪のままここにいます」
一輪は思わず雲山の顔をまじまじと見た。雲山は気まずそうに視線を泳がせている。言われてみれば一輪は、初めて出会った時から雲山が邪気を失った妖怪のまま一輪のそばにいる理由を疑問に思ってきた。
一輪の食い入るような視線にどぎまぎする雲山を見て、聖は苦笑する。
「一輪。貴方が探している答えは、案外近くにあるのかもしれませんね。いつも近くにあるから、と安心しきっていると、思わぬところで足を掬われるものよ。今一度、雲山とじっくり向き合ってみるといいわ」
それは聖と命蓮の関係を意識しての言葉か。疑問を抱えたまま聖の部屋を後にした一輪は、率直に雲山へ問いかけた。
「雲山。私に退治される前の貴方と、退治された後の貴方は違う?」
雲山は戸惑いながらも答えてくれた。
違う。まず第一に、人間を襲わなくなった。他の妖怪と親しむこともなかった。だが、思うに無口で頑固な性格は生まれつきだ。一輪と出会う前は、妖怪とも人間とも話したことがなかった。
「だけど雲山は相変わらず私以外とは口も聞けないじゃない。こんなの“話した”って言えないわよ」
一輪がちょっとした不満をぶつけると、悪かったな、と雲山は小さくなる。体は大きいのに恥ずかしがりなのがおかしくて、一輪は吹き出す。
「結局、雲山も本質はずっと変わってないってことでいいの?」
そうだろうな、と雲山は同意する。妖怪としての矜持が別のものに置き換わっただけで、“矜持を持つ己”は何も変わっていないのだ。
「別のものに、ねえ。それが私だっていうんだから驚きよ。そりゃあ私は怖いもの知らずだし故郷の村ではちょっとばかし頭もよかったけど、それ以外は普通の人間の娘なんだから」
さて、普通の娘がこうも妖怪に馴れ馴れしく歩み寄ってくるものかな? と雲山はからかうように言う。
「何よ、雲山までムラサみたいなこと言っちゃって」
ふざけて一輪も怒ったふりをした、その時だった。
「おっと」
「あっ」
廊下の突き当たりで、一輪はナズーリンとぶつかりそうになった。一輪が止まるより早く、ナズーリンがさっと身を翻す。
一輪はナズーリンを見て、彼女のしもべである鼠が一匹もいないのに気づく。ナズーリンはただの小間使いだと称しているが、一輪はナズーリンがしもべをあちこちに放って監視に使うのを知っている。自然と警戒が滲み出たのか、ナズーリンはわざとらしく肩をすくめた。
「君はいつも私に警戒心剥き出しだな。何を怖がっているのやら」
「貴方がお寺のみんなに何かしたら許さないわ」
「おや、私が手荒な真似をするものか。私が毘沙門天様から仰せつかったのは、あくまでご主人様がご自身の代理として相応しいか見極めろ、とのことさ」
ナズーリンは長い尻尾を指に巻き付け、口元を緩ませて一輪を見上げてくる。背が低いナズーリンが一輪を見上げているのに、まるでこちらを見下ろすような視線だと一輪は思う。
「君は変わっているな。なぜ人間のくせに、妖怪にそこまで肩入れする。あの聖とやらの影響なのかい?」
「確かに私は聖様を尊敬しているわ。だけど、私が星やムラサや雲山を好きなのは、私がみんなと一緒に過ごしてみんなのいいところを知ったからよ!」
一輪は強く叫んだ。雲山が諌めても耳に入らない。
仏の弟子がこんなに声を荒げて、しかも同じ窯の飯を食う仲間に敵意を剥き出しにするべきではない。わかってはいても、一輪はついむきになってしまう。ナズーリンはまだ皆の懊悩も一輪の葛藤もよく知らないのだ、勝手に知ったような気になって踏み込んでほしくない。
ナズーリンは一輪の啖呵など意にも介していないといった様子で、にやりと笑った。
「君の心はほとんど妖怪と変わらないな。妖怪のために心を砕き、妖怪のために怒り心頭に発する。もしかしたら、君はもうとっくに人間ではなくなっているのかもしれないな。初めて会った時、私は君を妖怪だと勘違いしたぐらいだからね」
ナズーリンの言葉に一輪は目を丸くした。一輪がまだ聖と会う前、心ない人間達から雲山と行動を共にする一輪が妖怪同然と見做されたことはあった。しかし妖怪からはいつだって妖怪たる雲山の獲物扱いであり、ムラサ達にはいつか妖怪になってしまうと心配されはしたが、妖怪から妖怪だと勘違いされるなんて初めてである。これには雲山も言葉を失う。一輪は己の足場が少し揺らいだような気がした。
「ま、君が私達妖怪と肩を並べるには、いまいち何かが足りないけどね」
言いたいだけ言って、ナズーリンは一輪の隣を通り過ぎてゆく。
足りない何かとは何だ? もしもその足りないものを埋めてしまったら、一輪は人間を逸脱し、妖怪となるのだろうか。聖は堕落するのは容易く己を保つのは難いと、以前教え聞かせたことがあった。
固まって立ち尽くす一輪に、雲山が言う。あんまり間に受けるな、あくまであの妖怪の見解だ。大事なのは、一輪が自分自身をどう捉えているかではないのか。
「……雲山」
雲山の眼差しは優しかった。妖怪と人間の境について考えるのもいい。なればこそ、これまで通り修行に励むべきではないのか? せっかくこの頃はよく修行に励んでいるのに、もったいないではないか。もしかしたら修行の果てに、悟りを得て辿り着けなかった答えを得られるやもしれぬ。
「……そうね。考えるのもいいけど、まず行動するのが私だもの」
雲山の激励に、一輪は微笑んだ。雲山の言う通り、ナズーリンの言葉を一旦頭の隅に追いやって、いつも通り修行に励むことにした。
ムラサと並んで写経。星に教わりながら経典の熟読。聖と共に法力の習得。掃除、炊事、洗濯。参拝客への対応、聖が一時保護した妖怪の看護。
仏教の目的は心の平安、執着を捨てて悟りを開くこと。ゆえに心を無に近づけてゆかなければならないのだが、一輪はどんなに修行に打ち込んでも、ふと考え込んでしまう。
(聖様達は、何が原因で『己と違う何か』になってしまったのかしら。どうやって苦しみや葛藤から立ち直ったのかしら)
一輪はゆっくりと聖と出会ってからの日々を振り返る。聖は悲しみと恐怖による死の拒絶――それによって人の道を外れた。ムラサを妖怪に至らしめたのは不条理な死への憤りと憎しみ。生まれつきの妖怪でありながら、星の心を蝕んだのは獰猛な虎の本能。その傷を癒すものがあるとすれば、優しく寄り添い支え合う者の存在。妖怪にすら響く仏の教え。
(そうね、ナズーリン。私はちっともみんなのことを軽蔑してない。恐れてもいない。むしろ同情すらしている)
小さな童の頃から怖いもの知らずだった一輪は、雲山以外の妖怪に囲まれても変わることはない。
一輪はまた考える。一輪は自分をまだ人間だと思っている。しかし、ムラサや星は一輪が妖怪に近づきすぎだと警戒する。聖は自分のように人の道を踏み外してほしくないと思っている。ナズーリンは一輪を妖怪だと勘違いしたとまで言った。
(――今の“私”は、いったい何なの?)
そこで一輪は、聖の言葉を思い出した。仏教とは己の否定であり、否定による自己の確認である。聖は力なき妖怪に、だから消えてなくならないのよと励まして回っている。
一輪は外へ続く方へ廊下を進み、真夏の入道雲が浮かぶ空を見上げた。
(今の“私”を一度否定すれば、私がどこにいるのか、確認できるんじゃないの?)
それは天啓にも似たひらめきだった。
空の上で自由気ままに漂う雲を眺めていると、今まで一輪が出会ってきた様々な人間や妖怪の記憶を思い出す。一輪の亡き母、ムラサによって記憶が蘇った父、故郷の長老格だった千歳の嫗、一輪の養い親になった夫婦に、友人に……そして、この信貴山で出会った命蓮の幻、命蓮が縁を繋いでくれた聖、星、ムラサ、ナズーリン。
最後に一輪は己の運命を変えた、誰よりも大切な雲山を見やる。心ここに在らずだな、修行が身に入っていない、と指摘する雲山に笑いかけた。
「雲山、空へ行こうよ。いつもとはちょっと変わった修行をやるの。――私を確かめるには、やっぱり私と雲山を繋ぐ空がいいわ」
空の上で修行とはいかに、と首をかしげた雲山を説得して、一輪は地上を飛び立った。
◇
雲山は一輪をしっかり抱き抱えて、高く高くへ昇る。雲を突き抜けると、真夏の眩い日差しが目を貫いた。
「ああ、やっぱり眩しいわ」
一輪は思わず目を瞑るも、何よりも美しい光景に心を奪われている。真夏の空は、他の季節に比べて、いっとう鮮やかで濃い青色だ。その青色に、真っ白な雲が対照的でよく映える。
「夏の空はもっと和歌に詠むべきよ、だけど都の夏は暑すぎて、とても空を見上げる気力なんか湧かないのかしらね」
一輪は京の都の夏は酷暑だと言われたのを思い出して、苦笑いする。雲山は詩歌のことはよくわからない、と顔をしかめるばかりだ。
「だけど私は空が好きよ。大きくて、広くて、何もかも包み込んでくれる。特に真夏の空は、貴方に会った季節を思い出すから一番好きなの」
一輪が雲山の目を覗き込むと、雲山は照れ臭いのかそっぽを向いてしまう。
一輪はくすくす笑いながら、雲山の上から眼下に広がる大空を見下ろした。空の広さに比べたら、一輪の抱える悩みなんて、塵芥より小さなものに思えてくる。
「その昔、空海って偉いお坊さんがいたんだよね。いい名前よね、聞いただけでぱっと広大な青い空と海の光景が広がるのよ」
雲を見てまるで絵巻で見た海に浮かぶ白波だと思った一輪は、遠い昔の高僧の名を挙げた。雲の群れを雲海と呼ぶのは、空から海を連想するからかもしれない。
一輪にとって名前は重要だからな、と雲山は静かに笑った。一輪も弾んだ声で答える。
「雲山も素敵よ。雲が山のように高く聳え立つ様子が目に浮かぶわ。そして私は雲の山に咲く一輪の花。一輪でも大輪なのよ、どんなに雲海が広くたって目立つでしょう?」
一輪が胸を張れば、いつもは一輪を諌めに回る雲山もその通りだと大真面目に答える。一輪を大輪だと言ってくれたのはムラサだった。初めは険悪だったムラサも、今や良き友である。
地上からでも、空の上からでも、一輪が雲を見て考えることは変わらない。地上でそれぞれ自分の役目に励んでいるであろう寺の仲間達を思い浮かべ、何より自分を万が一にも落とすまいとしっかり支えていてくれる雲山を見ると、決心が鈍りそうになる。
(……ううん、私はもう決めたじゃない)
一輪は決して心の内を雲山に悟られないように、大きな雲の塊を指差した。
「あの大きな雲は、沢山の雨や神鳴を孕んでいるのよね。入道が出ると雨嵐になるっていうのは雲を呼ぶからよ、雲の仕業なの。……ええ、だから私は見越入道の貴方が怖くなかった。怖いって気持ちは、何も知らないところから生まれてくるもの。正体を知ってしまえば怖いことなんてないのよ」
一輪の意気揚々たる語りに、雲山は少し落ち込んだそぶりを見せる。これでもかつては名を馳せた妖怪であったのになあ。寺に来て様々な知識を身につけた一輪には、もう怖いものなど何もないのだろうな。
「あら、そんなことないわ。『私は世の中のことを何も知らないし何もわかっていない』ってことを知っている、それだけよ」
一輪はさらりと告げる。寺で経典を始めとした様々な書物を読み、学び、様々な妖怪や人間に出会っても、一輪の世界はまだ狭く小さなものだ。いずれ聖のような立派な僧侶になるためには、多くの人間や妖怪の心に寄り添うには、深い知識と広い心が必要だろう。――そして、一輪はこれからまた一つ、今まで知らなかったものを“知る”ことになる。
一輪は両の手にそれぞれ金輪を握りしめる。日の光にかざして、あたかも法力の修行であるかのように。その途中でさりげなく、自然な体を装って、一輪は金輪の片方を落とした。
雲山がおっと、とすかさず拾い上げる。金輪から伝わる法力に込められた『静止』の命令に、雲山はわずかに動揺した。
「ありがとう。……ごめんね」
雲山が金輪に気を取られた一瞬の隙に、一輪の体は雲海へ真っ逆さまに落ちていった。
◇
――ごめんね、雲山。
こうでもしないと、私は貴方が助けてくれるってどこかで期待してしまうから。
このまま落ちて地面にぶつかったら、私の体はばらばらになって、大輪の花も見る影もなくなってしまうのかな。
そう考えたら、怖い、かもしれない。
……死ぬことが?
ううん、そうじゃない。
星が言ってたっけ、虎になると私が私でいられなくなるって。
ムラサが言ってたっけ、見た目が変わっても本質は何も変わらないんだって。
……私もそう。
私が一番怖いのは、死ぬことなんかじゃなくて、私が“私”でなくなってしまうことなんだ。
私が“私”である証……私の願い……。
強くありたい。優しくありたい。私が尊敬する聖様のように、救いを求める誰かの力になりたい。
いつだって前を向いていたい。古臭い考え方に囚われないでいたい。人を踏み躙る悪い輩を許したくない。
――だけどもう間に合わない。
お父さん、お母さん、私も今からそっちに行くかも。
星、ムラサ、ナズーリン、ごめんね。私がいなくなっても、きっと聖様が何とかしてくれるから……。
――雲山は?
私を守るのが自分の存在する理由だと言った雲山はどうなるの?
頑固で、無口で、考え方が古くて、気難しくて、恥ずかしがりで、だけど曲がったことが嫌いな、優しい妖怪。
私がいないとみんなとろくに会話も交わせない。
いま、私がいなくなったら雲山はどうするの?
――ああ、駄目だ!
私がいなくなって雲山がうなだれてるとこなんか見たくない。
雲山はもっと強くて逞しくて格好いいんだから。
約束したじゃない、一緒に生きるって。私のために死なせちゃ駄目。
私をいついかなる時も守ってくれる雲山を、私が守らなくちゃ!
不老不死なんかいらない、人の道にも背かない、だけど私だって、聖様のように、雲山のように、誰かを守れる力があればいいのに――!
「……え?」
その時、一輪が握りしめたもう一つの金輪が強い光を放った。目を開けるには眩い閃光に包まれたと気付いた時には、一輪の体は中空で静止していたのである。
「……落ちて、ない」
一輪は宙に浮く自分の体を見て目を見開いた。金輪の光は次第に大人しくなってゆく。これは、一輪の身につけた法力の効果であろうか。いや、どちからといえば、聖や星の使う妖術に近い気がした。
そこへ、稲妻のような速さで雲山が駆けつけてきた。素早く一輪の背中に大きな手が回り、一輪の眼前に焦りを全面に浮かべた雲山の大きな顔が映る。
「雲山」
雲山は今までに見たことのない、凄まじい怒りをあらわにした。何をしているんだ、と神鳴が落ちる。一輪、お前は自分が何をしたのかわかっているのか。金輪に細工までして、自分が間に合っていなかったら、どうなっていたことか。
「雲山、私、自分の力で空を飛んでいるわ」
ほら、と一輪は雲山の手から離れてみせる。雲山はまた焦るも、すぐさま一輪の異変に気づいて目を丸くした。雲山が抱き止めなくとも、一輪はひとりでに宙を舞う。――人間の一輪は、妖怪になったのだ。
雲山はしばし驚きのあまり呆然としていたが、やがて、全身を震わせた。やはり怒りが凄まじいのか、と思った一輪の顔に大粒の水滴が落ちてきた。雨ではなく、雲山の涙である。滅多に泣かない雲山が、一輪を本気で心配し、安堵のあまり泣き咽いでいるのだ。雲山の涙を見て、一輪も罪悪感に苛まれた。
「ごめんなさい。うん……だって、初めから話していたら、雲山は絶対に私を助けにきてくれるでしょう? それじゃ駄目なの。私は、どうしても“死”を見つめなければならなかったの。……うん。ごめんね。騙して、心配かけて、ごめんね」
一輪は大雨のように涙を流す雲山を慰めた。
一輪は、ナズーリンの指摘した自分に足りないものを“死”の実感だと考えた。今までも逃亡中に熱病で倒れたり、ムラサに溺れさせられたり、死にかけたことは何度かあった。けれど一輪は絶対に死ぬもんかと覚悟していたし、一輪の父が助けに入ってくれたりして、本当の意味で死と隣り合わせになることはなかった。だから雲山を騙した上で空から身を投げたのだ。
答えは得られた。死の実感なんてものはきっかけでしかなく、いつからなんてわからないが、一輪はナズーリンの言う通り、ムラサ達の懸念通り、一輪の心はもう妖怪のものだった。かろうじて一輪を人間たらしめていた、一輪の中に残っていた人間への未練は、たった今空の上から捨ててしまった。
しかし、覚悟の上とはいえ、雲山を傷つけた。
(星、貴方の忠告、さっそく破っちゃった。どうしようもないね……)
雲山の慟哭を見ていると、一輪の胸は締め付けられる。雲山は一輪に嘘をつかないのに、一輪は雲山を騙してしまった。雲山の悲しみは一輪の悲しみだ。一輪が雲山を心から大切に思うなら、もう二度と傷つけてはいけない。そう深く胸に刻んだ。
「雲山、来世で同じ蓮の上に生まれ変わろうって考え方があるじゃない。私達は夫婦でも恋人でもないけど、同じ蓮の上にいる宿世なのよ。私はそう思ってる」
一輪はもう離れたりしない、という思いを込めて、雲山よりも小さな手のひらで、雲山の涙を懸命に拭った。すぐに一輪の袖が腕までびしょ濡れになる。
雲山は咽びながら一輪の言葉に頷いた。次第に雲山の震えも涙も治まってくる。
「雲山。私とどこまでも一緒に生きていこう。私の居場所は雲の、雲山の居るところなんだから。それ以外の場所で私は咲けないわ」
一輪が微笑みかけると、雲山は拾ったもう片方の金輪を一輪に差し出した。一輪が受け取ると、もう妙な細工をするんじゃないぞと釘を刺された。一輪がうなずけば、雲山もまた、言われなくとも自分はどこまでも一輪と一緒にいる、と答えた。
雲山は改めて一輪の全身を隈なく観察して、ぽつりとつぶやいた。
「え、私の髪?」
雲山に指摘された髪を見て、一輪は驚く。ついさっきまで黒かったはずの髪が、明るく鮮やかな青色に変わっているのである。
「ほんとだ……いつのまに」
一輪はしばし目を瞬いていたが、やがて花が綻ぶように笑った。人ならざる者の証としては何ともわかりやすい。
「素敵、晴れた空の色ね。雲の隣にはよく似合うわ」
一輪が笑うと、雲山も微笑んだ。気をよくした一輪は、気取って頭巾を完全に外し、たなびく髪を雲山に見せつけた。
「それで? 生まれ変わった私に何か言うことはないの?」
一輪はにやりと口元をつり上げる。さて、無口で頑固な雲山からどのような文句が飛び出てくるのか――期待する一輪に対し、雲山は真顔になる。
妖怪だろうが人間だろうが、一輪は一輪じゃないか。見た目が変わったって、心配せずとも一輪の本質は何も変わってなどいない。
今度は一輪が呆気に取られる番だった。まったく、雲山から歯の浮くような台詞など出てきやしないとわかってはいたのだが――それもまた一輪を喜ばせるには充分かつ適当なもので、一輪は声を立てて笑った。
「そうよ、よくわかってるじゃない。さすが私の半身ね」
これからも、どうかよろしく。そんな思いを込めて、一輪は金輪を手首に下げて雲山に両手を差し出した。雲山の大きな手のひらが、一輪の小さな手のひらを包み込む。青空の上で、二人の妖怪が手を取り合う様を、真夏の日差しが照らし出していた。
◇
雲山と並んで寺へと降りてきた一輪を最初に出迎えたのはムラサだった。ムラサは一輪を見てわずかに眉を動かしたが「やっぱりね」と平坦に言った。
「そうなると思ってたよ。一輪の考え方はほとんど妖怪と同じだもの。いつ心身共に本物の妖怪になってもおかしくなかったわ」
「よかったわね、ムラサが舟幽霊にする手間が省けたよ」
「言ってくれるじゃない」
いつかの水難事故未遂を蒸し返されて、ムラサは罰が悪そうに口を曲げる。
「だけど本当に妖怪になるなんてね。ずいぶん危なっかしい半身を持っちゃったもんだね、雲山」
まったくだ、と雲山は答えた。もちろん、それは一輪が通訳して伝える羽目になったのだけど。
「まあ、せいぜい長く伸びた人生を後悔しないようにね」
「せっかく私がムラサと同じ妖怪になったっていうのに、あっさりしてるのね」
「今の一輪は私と同じなの?」
「違うかな。やっぱり、今考えても、あの女人成仏の話は譲れないもの」
一輪が今度はいつかの口論を持ち出せば、
「私と一輪は妖怪同士になっても、お互いを理解できない宿世だったのね」
と、ムラサは苦笑いを浮かべたのだった。
次に会ったのは星で、星は一輪の変化に驚いて宝塔を落としかけ、落ち着いてからも少しだけ残念そうな様子だった。
「そう……本当に、一輪は妖怪になってしまったのね」
「星の心配はわかっているつもりよ。星は、妖怪の私は嫌い? 人間じゃなかったら雲居一輪じゃないって思う?」
「そんなことないわ」
星は首を横に振って、困ったように眉を下げた。
「嬉しいのか悲しいのかわからないの。人間だった頃より、ずっと長くいられるのは嬉しいけど、妖怪の人生が一輪にとって幸せなのかどうか……」
「そんなの私にだってわからないわ」
一輪は真面目で心配性な姉弟子に胸を張って笑ってみせた。
「これから自分で探すよ。大丈夫、雲山が一緒なんだから」
隣の雲山も任せておけ、と力強くうなずく。星は口元をわずかに緩めて、一輪の空色の髪に手を伸ばした。
「一輪、綺麗な髪ね。尼さんにしておくなんてもったいないくらい、よく似合っているわ」
「そうでしょう、そうでしょう。さすがね、星は誰かさんと違って話し上手だもの」
悪かったな、と雲山が不満をあらわにした顔で文句を言い、一輪と星は二人して笑った。
そこへナズーリンがひょこっと顔を出した。ナズーリンはふんふん鼻を鳴らして、不敵な笑みを浮かべた。
「やはり君は“こちら”を選んだか。聖の目論見は泡と消えたわけだ」
「ナズーリン、何か誤解してない? 私は聖様が大好きだけど、私の生き方は私が決めるのよ」
一輪はナズーリンにもにっこり笑いかけた。一輪が“こちら”を選んだ最後の一押しはナズーリンのおかげだ。虚をつかれたのか、ナズーリンの目が丸く見開かれる。
「ありがとうね。私、これからはナズーリンとも仲良くできる気がするわ」
「本当? 一輪とナズーリンが仲良くしてくれるなら私も嬉しい」
「……やれやれ。その調子の良さはあまりにも人間くさいな」
盛り上がる二人をよそに、ナズーリンは雲山とそろって肩をすくめた。
最後に一輪は聖の元を尋ねた。聖もムラサ同様、一輪の決断を予想していたのか、さして驚くそぶりも見せず一輪達を自室に迎え入れた。
さすがに、一輪も聖を前にすると緊張が募る。どんなお叱りもお説教も覚悟の上だが、やはり聖には認めてもらいたかった。
「聖様の理想はわかっているつもりだったんです。私が人間のままでいることを選んだら、私は生涯を通して聖様の理想を体現できたのに……」
「構わないで」
聖は神妙な顔つきで首を振る。
「私の理想のために、貴方の生き方を縛るつもりなんて毛頭ありません。……一輪」
聖は、いつかのように一輪の体をぎゅっと抱きしめた。懐かしい母の温もりに似ている気がして、一輪の涙腺が微かに緩む。
「後悔はないのね?」
「はい、ありません」
「やっぱり人間に戻りたいと思ったって遅いんですよ」
「思いませんよ。いや、もしかしたらこの先、ちょっとくらいは思うかもしれませんけど、私は自分で私の生き方を決めました。この道を雲山と一緒に歩いて行きます」
一輪が正直に告げると、聖は一輪と目を合わせて、初めて出会った時の菩薩のような笑みを見せた。
「貴方に教えなければならないことが増えてしまったわ」
聖は一輪から体を離して、居住まいを正す。穏やかな表情が一転、修行時のような厳しい眼差しに一輪は呆気に取られた。
「私に教えることとは?」
「当然でしょう、妖怪の心構えですよ。ただでさえ貴方はムラサのように人から妖に転じた身、気を抜けばすぐに邪の道に堕落します。人間の時とはまた違った厳しい指導をするつもりですから、覚悟なさい」
聖は笑顔さえ見せて毅然と言い放ち、席を立った。菩薩から阿修羅のごとく様変わりした聖の様子に、一輪は顔を引き攣らせる。
「……雲山、やっぱり私、道を間違えたかしら?」
これから降りかかるであろう厳格な指導を想像して辟易する一輪に対し、今更遅い、と雲山の返事はつれなかった。
何はともあれ、ここに一人の妖怪僧侶が誕生した。妖怪の毘沙門天の存在もあって、この寺はますます妖怪からの信仰を集めてゆくだろう。
◇
鬱陶しいほどの暑さをものともせず、一輪は雲山と並んで空を飛ぶ。妖怪になって雲山と同じく空を飛ぶ力を得たものの、翼を持つ雛鳥が親鳥に習って初めて飛び方を覚えるように、一輪もまだ自由自在に飛び回ることはできないのである。
結局、一輪は妖怪になっても、人間と妖怪の境界はどこにあるのか、まだ確固たる答えを見いだせない。便利な力の有無なんて単純なものではないし、人間時代と生活が何もかも一変したかといえばそうでもない。長く伸びた寿命の中でじっくり考え、おいおい見つけてゆけばいいだろう、と一輪は呑気に構えている。今は自分一人でも空を飛べるか、そっちの方が気がかりなのだ。
「わっ、と」
急な突風に煽られて体勢を崩した一輪を、すかさず雲山が抱き止める。雲山は決して一輪から目を離さないものの、一輪が落ちそうになるたびに危なっかしいとぼやく。
「まだ雲山みたく飛べないのよ。急に風の流れや湿った空気の重さが変わったりするから」
ただでさえ夏の空は天候が変わりやすい。これで突然大雨に降られでもしたら、穿つ雨の勢いに負けて落ちてしまうかもしれない。
雲山の手の温もりを感じながら、一輪はいつも雲山がどれほど心を砕いて一輪を乗せて飛んでいたのか思い知るのだった。
「本当に、雲山はいつも私を守ってくれたのね。向かい風から私を覆ってくれたでしょう。雨も霰も雪も、私に降りかからないようにしてくれたでしょう」
一輪が雲山に額を寄せると、気にすることはないと雲山は首を振る。自分がやりたくてやっていたことだ。一輪が負い目に感じる必要はない。
「違うわ、負い目なんかじゃないの。――私は改めて雲山が好きだなって思っただけ」
一輪が笑いかけると、雲山は照れ臭いのか、視線を泳がせ黙ってしまう。
雲山だけではない。これまで一輪はいろんなものに守られて生きてきたのだ。夜の活動を主とする妖怪が一輪の眠りを妨げないようにしたり、妖怪の参拝客と会わせる時は必ず雲山をそばにつけたり、『あの寺は人間を隠している』と悪巧みをする妖怪の噂から故意に一輪を遠ざけていたり。どれもこれも、一輪が妖怪になって初めて知ったことだ。
それを今更、一輪は気に病んだりしないが、改めて自分の無知や無力を思い知ると、これからはもっとみんなと対等であれるように修行を積もうと決意が漲る。そのために妖怪になって得た力を悪用しないように、と一輪は強く心に戒めるのだった。
それにしても、と雲山は口を開く。あの時は本当に肝が潰れた、と雲山は一輪が空から身を投げた時のことを繰り返し注意するのである。
また始まったわ、と一輪はうんざりしつつも耳を傾ける。ところが雲山は、この時ばかりは声を落として低く言った。
――お前は御仏を裏切った。
「えっ、どういうこと?」
一輪は驚いて雲山の顔を見る。雲山のいつになく厳しい面持ちに、心臓が早鐘を打つ。
釈迦やその逸話をなぞる者達が、布施のために御身を投げた話は古来より多い。しかし一輪、お前は己がために身を投げた。己がために命を捨てようとした。どうして御仏が許されよう。
一輪はしばし呆然としていた。そんなこと、考えもしなかった。咎められるなら雲山を騙したことだと思っていたのに、雲山はもう一輪の仕打ちを忘れて一輪に仏罰が降りかかるのを案じているのである。
(そうだ、私は仏様の弟子なのに、相応しい振る舞いを忘れていたんだ)
身が引き締まる思いだった。何も戒律を保つだけが僧侶の勤めではない。始まりこそ聖への憧憬からだったが、今は一輪だって本心から仏道に励もうとしているのだ。
「わかったわ、雲山。私はもう御仏を、仏教を裏切らない。そう心に固く誓わなければならないのね」
一輪が告げると、雲山は安堵したのか、目元を緩めた。
それで話は終わりかと思いきや、雲山の愚痴は続く。あの時、もしや今生の別れかと思い、一輪が死んでしまったらと考えるだけで己が身は消えてしまいそうだった。あの、故郷の村にいた千歳の嫗が言った災いがこれかとそら恐ろしくなったものだ。
雲山の言葉で、一輪もまた久しぶりに故郷にいた嫗の話を思い出した。
「そうか、千歳のおばあさまが言ってたものね。私と雲山が一緒にいると、災いがもたらされるって」
一輪はあの嫗を実の祖母のように慕っていたが、その忠告は忘れかけていた。薄情というより、思い当たる節が多すぎて今となってはどれが災いなのかわからないのだ。
「何かしらね。私は村を追い出されたのが災いかなって思ったけど、もしかしたらまだ災いは私達の身に降りかかる前なのかもしれないし、もうとっくに降りかかった後かもしれないのよね」
つまるところが、捉え方次第だと一輪は考えている。あの嫗もはっきりとは言わなかったし、当人達が災いだと認識していなければいかなる苦難も災いではないのかもしれない。
楽観的な一輪に対して、雲山は未だ嫗の予言じみた言葉を気にしているようだ。憂いから寄せた眉間にいっそうしわを浮かべ、雲山はじっと一輪を見つめてくる。
――たとえこの身が雲が吹き飛ぶように消えても、一輪だけは、決して……。
「大丈夫よ」
心配性な雲山の言葉を遮って、一輪は晴れやかな笑みを向けた。
「この先、どんな災いが降りかかってきても、雲山のことは私が守ってあげるわ」
呆気に取られた雲山の目が大きく見開かれ――やがて、複雑な表情でため息をついた。いかにも一輪らしい考え方だな、と苦笑をこぼして。
わかっている、雲山はそんな言葉を期待していたのではないのだろう。雲山にとって一輪はまだ守るべき対象で、一輪に守られる実感が湧かないらしい。
しかし、一輪はもうどんな困難も災いも恐れない。
一輪は両手の金輪を握りしめた。今はまだ空も一人ではうまく飛べないけれど、いずれ雲山を唸らせるような力の制御を身につけて、雲山を守るといった自分の言葉を真実にしてみせる。
この力は、今度こそ一輪の大切なものを守るため、かけがえのない半身を守るために使うのだ。
一輪は雲山の手を離れて空高くへ飛び上がる。雲山がすぐさま後を追って、手のひらをかざす。雲の切れ間で、支え合う二人の影が一つに重なっていた。
――古今集・詠み人知らず
降りしきる雪は山も寺も真っ白に覆い尽くす。一輪は袈裟の上に綿入を羽織って、星と一緒に火桶を囲んでいた。いつも傍らにいる雲山は寒さが堪えないのか、火桶にあたらなくても平然としている。一輪は星に習いながら覚えたての真名を目を凝らして追いかけ、経典をゆっくり読み進めていた。
遠くで鐘が鳴った。同じ信貴山の中にあるどこかの寺の鐘であろうか。外は雪のせいで薄暗くわかりづらいが、もうずいぶん日が高くなったのだろう。
「鐘の音が聞こえるわ。あれが遺愛寺の鐘かしら」
一輪が冗談めかして言うと、星はすぐさまぴんときたのか、微笑を湛えて答えた。
「それじゃあこの雪は香炉峰の雪ね。あいにく簾はありませんから、格子を開けて見ましょうか?」
「いやよ、寒いんだから」
一輪は綿入をひきかぶって笑った。火桶の炭がちょろちょろ燃えている。そろそろ炭を足した方がいいかしら、などと考える一輪へ、雲山がぼそりと小言を言ってきた。
「え、修行中に意識を逸らすなって? 仕方ないじゃない、私はまだもののあわれも弁えないお坊さんにはなりきれないのよ」
「……いけない。私までうっかり一輪の話に乗っかっちゃったわ」
星は今更のように咳払いをする。集中力を切らして恥じるのは星らしい真面目さだった。
「一輪、せめてこのお経の最後までは読みましょうよ。白楽天が読めるならお経だって覚えられるはずだわ」
「無茶言わないでよ、お経と漢詩(からうた)じゃ全然別物よ。第一、私は読み書きをきちんと習うのも初めてだっていうのに」
「だけど一輪はすごく飲み込みが早いわ。教えているこちらが気持ちよくなるくらい」
そういう星は生まれつきの妖怪ゆえ、仮名の読み書きもできないところから始まって、今や後輩に教えているのだから相当な頭脳だ。
一輪は思わずため息を漏らす。一輪が出家をしたのは秋の暮れの頃だった。特に発心を起こしたわけでも信心深かったわけでもなく、ある僧侶への――故郷を追われ、逃亡の旅で傷つき倦み疲れた一輪と雲山へ手を差し伸べてくれた聖への敬愛と憧憬から、彼女に帰依すると決めたのだ。同じく聖に感服した雲山も、出家して名実共に“入道”となった。
黒髪を切り――といっても、元からそれほど長く伸ばしてはいなかったが、衣を改めて、身を清め、聖によって授戒が行われた時、一輪は確かに心が洗われるような心地がしたのである。
(こんなにさっぱりするものなのね。都のお姫さまは身の丈より余るほどの黒髪をばっさり切り落として、重たい十二単も脱ぎ捨てて仏門に入るのよね。庶民の私ですらこんなに心が軽くなるんだもの、ましてや俗世の重たいしがらみを捨てて出家をする人は、新しく生まれ変わるような気持ちになるんじゃないかしら)
などと少々浮かれた気分になって、最初のうちこそ張り切って修行に努めていたのだが、いかんせんそれまで簡単な読み書きができる程度だった一輪には、難しい経典を読み込むのは至難の技だった。それに古くから伝わる修験道は険しくて人間の身にはいささか堪える。一応恩義のある聖の手前、そして一輪と共に出家した雲山のためどうにか投げ出さずに奮闘してはいるものの、気がそぞろになって、つい寺にある物語だとか詩歌だとか他の書物に手をつけてしまうのだった。先ほどの白楽天もその時に読みかじって覚えたものだ。
星の賞賛に乗って、ここぞとばかりに雲山も鼓舞してくる。一輪ならできる、立派な僧侶になれるとも。あまりにあからさまで一輪は失笑した。
「そんなに褒めたって何も出ないわよ。確かにお頭の方はちょっと自信あるけど、お母さんだって読み書きはあんまりだったんだから」
何気なく亡き母の思い出を引き合いに出すと、星は神妙な顔つきになる。
「何?」
「いいえ。一輪、亡くなったお母さんのことはよく話してくれるけど、お父さんについてはあまり聞かないなと思っただけです。……あっ、別に無理に話してくれなくてもいいの」
「いやいや、そんな気を遣うようなことじゃないって。単純に、私が三つの時に亡くなったから、お父さんのことはほとんど覚えてないのよねぇ……」
一輪は懸命に、母から聞いた朧げな記憶を手繰り寄せる。一輪の父は丈夫な体と明るく磊落な性格を兼ね備えた、力自慢の男だという。最期は川の氾濫による濁流の中へ子供を助けるために飛び込んで亡くなったと聞いた。
父の最期を思い出したせいか、一輪は不意に今ここにはいない聖の身が気がかりになった。
「聖様は大丈夫かしら」
聖は今、寺の留守を星と一輪、雲山に任せて、少ない供人を連れて隠岐まで出かけている。隠岐の海に強力な妖怪が住み着いて地元の人間達が難儀しており、聖の高名を聞きつけた人間が妖怪退治の依頼を聖に持ちかけたのだ。
「海なんて、私は近江の海を雲山と通りがかったくらいだけど、真冬の海って風も冷たくて厳しいんでしょう。聖様、凍え死んだりしないわよね?」
「大丈夫よ、聖は強いんだから。それに、その妖怪を救うために、聖は長い間準備にあたっていたんだもの。きっと妖怪を助けて無事に帰ってくるわ」
星は当たり前のように力強く言う。一輪は初めて出会った時の聖の優しく慈愛に満ちた姿を思い出して、星の言う通りだと思った。
聖は表向きは優れた法力を操り、悪しき妖怪を退治して回る善良な僧侶だと思われているが、その実、人間のみならず、妖怪にまで慈悲を寄せて密かに救いの手を差し伸べる。ゆえに一輪は聖についてゆくと決めたのだ。一輪の傍らにはいつも半身と言うべき妖怪の雲山がいて、並の人間は雲山を恐れて一輪まで忌み嫌う。一方、並の妖怪は人間を単なる食糧としか見ていないので、一輪を雲山の獲物だと見做して横取りしようとしてくる。人間の一輪と妖怪の雲山、両方を受け入れてくれる稀有な者など、聖をおいて他にいなかった。
冬が来る前に聖に会えたのは幸運だった、と一輪は返す返す思う。何せ一輪は故郷の村を着の身着のままで逃げてきたのだ、金目の物はすぐ使い果たしたし、着る物もボロ切れと化した薄い小袖しかなかった。いくら雲山がそばにいて一輪を守ってくれていても、冬の寒さには耐えられず凍死していたかもしれない。
思い出せばまた寒さが身に染みてきて、一輪は火桶にくべる新しい炭を取り出した。暦の上ではもう春なのに、白梅と紛う雪が止む気配はない。
「星、もう少し炭を足してもいい?」
「いいけど、あまり無駄遣いをしては駄目よ。物は大事に使うの」
「わかってるわよ、だけどもう一月(むつき)よ一月。ケチケチしたって次の冬にはもう湿気って使い物にならなくなっているかもしれないわ。それじゃあ今のうちに使った方が無駄にならなくて済むでしょう」
「はいはい。まあ、一番暖を取るのが必要なのは一輪だし、一輪に任せるね」
「星は妖怪だものねえ。人間より体が丈夫なんだから、羨ましいわ」
「そんなに羨ましがることかしら。ねえ、雲山?」
星が困ったように雲山へ話しかけると、雲山は小さな声で一輪にささやく。一輪は前からそうだった、妖怪を恐れるどころか好意を抱く変わった人間なのだ、と。星の方をちらと見るばかりでまともに目を合わせようともしない雲山に、一輪は呆れて肩をすくめた。
「あのねえ、雲山。星は今、貴方に話しかけたのよ。いい加減、私以外の相手ともちゃんと話をしたらどうなの?」
「恥ずかしがりなんですよね、わかってます。無理にとは言わないわ」
「もう、星は甘いんだから」
一輪は口を尖らせる。こっちとしてはいちいち通訳する羽目になって手間が増えるというのに。一輪がじろりと雲山を見れば、雲山は小さくなるばかりである。厳めしい見た目にそぐわぬ、純真無垢な小娘のような恥じらいぶりだ。
その時、寺の表がにわかに騒がしくなった。はっと星が立ち上がる。
「聖が帰ってきたわ!」
「えっ、もう? って、そうか、聖様には法力があったわね」
「一輪、もっと炭を足して部屋を暖かくしておいて。私は出迎えてくるわ」
と、星はつい今しがた『無駄遣いをしないように』と言ったのも忘れたのか、慌ただしく寺の入り口まで駆けてゆく。さすがに読みかけの経典はきちんと畳んでいったのは彼女の品行方正ぶりがなせる技か。
「あーあ、星も大概聖様にお熱よね。……ん、何? どうしたの、雲山」
雲山は声をひそめて、妖怪の気配がすると言った。神経を研ぎ澄ませば、一輪にも確かに今まで会ったことのない妖怪の気配が感じられた。
「例の隠岐の海の妖怪かしら。連れ帰ってきた、ってことは、聖様の新しい弟子になるのかな?」
一輪は興味を掻き立てられた。何人もの人間を海に沈めてきた悪い奴との話だが、一輪が雲山を退治して従えたように、妖怪だって心を改めるものだ。聖は名だたる高僧だ、妖怪を従えるなんて容易いだろう。
どんな妖怪なのか。いてもたってもいられなくて、一輪も立ち上がる。星の後を追おうとしたところで、ちょうど旅路から帰ってきた聖が顔を覗かせた。聖は雪に濡れた編み笠を手に、首から大粒の数珠を下げてにこやかに微笑んでいた。後ろから迎えに出た星も姿を現す。
「――ただいま戻りました。一輪、雲山、星と一緒に長らくのお留守番、ありがとうございました」
「いえいえ、聖様こそ長旅お疲れ様でした! 外は寒かったでしょう、さあ、早く中へ……」
「ええ、ちょうどいいわ、新しい仲間を紹介します」
聖は自らの後ろにくっついている人影に視線をやり、自分の前に出るように促した。防寒のため編み笠を被り蓑を着た、一輪と同じ年頃の娘である。雪に濡れた蓑と笠を脱ぎ捨てると、黒髪に透き通るような青白い肌をした娘の顔があらわになった。闇色の眼で、じっと聖の後ろから寺の様子を注意深く伺っている。
「村紗水蜜。みんなにはムラサと呼ばれているそうよ。この子は舟幽霊で、長らく隠岐の海に縛られていたのだけど、この度私の元で預かることになったの。仲良くしてあげてね」
聖は笑ってムラサの背を押すが、ムラサは警戒しているのか、聖の後ろから一歩も動こうとしない。一輪はムラサを見つめた。舟幽霊とは何だろう、と疑問に思う。幽霊にしては姿もはっきりしているし足もある。妖怪の一種なのだろうか。
無言を貫くムラサに星は戸惑っているが、一輪は遠慮をしない。さっとムラサのそばに近寄って、親しげに話しかけた。
「はじめまして、私は雲居一輪っていうの。こっちの入道は雲山。顔はちょっと怖いけど根は優しいのよ。これからよろしくね」
一輪がやはり恥ずかしがって一輪の背中に引っ込む雲山を指差して言うと、ムラサは初めて一輪と雲山へ交互に視線をやった。すると、ムラサは一輪の顔を見てぎょっと目を剥いた。
「貴方、人間じゃない!」
「ええ、そうよ。それがどうかした?」
ムラサは大袈裟に後退りして、いよいよ聖にしがみついた。一輪は小首を傾げる。
「聖様、貴方のお寺に人間がいるって本当だったの?」
「本当よ、私が嘘をつくものですか。私のお寺は妖怪も人間も平等に受け入れるのよ」
「だ、だけど……」
聖はたしなめるようにムラサの頭を撫でる。一輪にはムラサの動揺の理由がわからない。聖の理想を理解しているのなら、妖怪と一つ屋根の下で暮らしている一輪にそこまで驚くだろうか。
「あの、とりあえず皆さん、もう少し中に入りませんか? 聖もムラサも長旅で疲れているでしょう。私達の紹介は後にして、今は休んだ方がいいんじゃないでしょうか」
そこへ星が気を利かせて提案する。言われてみれば、全員部屋の入り口で襖も開けたまま話を続けていたのだ。このままではせっかく火桶に炭を足したのに部屋も冷えてしまう。
それから全員そろって食事について、隠岐への旅路の話で沸いたりもしたが、ムラサは聖にくっついたまま、ついぞ一輪とも星とも口を聞くことはなかった。まだ緊張しているのだ、と聖と星は言ったし、雲山にも焦って距離を詰める必要はないと言われたが、一輪はムラサの態度を少し不満に思っていた。
◇
「ねえ、ムラサ。ムラサってば」
後日、一輪は一人所在なさげに廊下で庭を眺めているムラサに声をかけた。聖はまた別の妖怪退治の依頼を請け負って出かけている。寺に来てからいつも聖にべったりなムラサは、聖がいないと一人でぽつんと過ごしているのだ。
振り返ったムラサは、不機嫌な表情を隠しもせずに一輪を睨んだ。
「何なの、貴方。そんなにまとわりつかれたら鬱陶しいんだけど」
「どうしてそう邪険にするのよ。これから一緒に修行するんだもの、仲良くするに越したことはないでしょう?」
「私はあくまで聖様についていくって決めたの。貴方達なんてどうでもいいわ」
「えー、寂しいこと言わないでよ」
一輪が食い下がると、ムラサは眉間のしわを深める。
「だいたい貴方、人間のくせになんで妖怪と平気で一緒にいるの。怖くないの?」
「怖くないわ。雲山だって私が退治したのよ。故郷の村では怖いもの知らずの一輪って評判だったんだから」
「貴方が妖怪退治?」
ムラサは疑わしげに一輪と傍らの雲山を見比べた。雲山は相変わらず、ムラサと目が合うと緊張するのか雰囲気が固くなる。一輪は雲山を小突きつつ引き寄せた。
「これでも私と雲山は大の仲良しなんだから。雲山はいつも私のそばにいて、私を守ってくれるの。みんななかなか信じてくれないけどね。聖様は優しい人よ。村のみんなが怖がって遠ざける雲山を受け入れてくれたの」
「……」
「ムラサも聖様に惹かれたんでしょう? なら私や雲山や星と同じ。気が合うのよ、きっと仲良くなれるわ」
「貴方は妖怪をわかってない」
嬉々として告げる一輪を遮ってムラサは冷たく告げた。ムラサの闇色の目が深海の底のように暗くて、一輪はわずかにたじろいだ。
「怖いもの知らず? それって言い方を変えれば、ただの無知な向こう見ずってことじゃないの?」
「なっ……!」
ムラサは口元をつり上げ嘲笑った。カッとなった一輪を雲山が宥めにかかる。ムラサはそのまま一輪を見下すように眺めていたが、やがてその目に悲しみとも諦めともつかない色を浮かべた。
「その入道が何だか知らないけど、私は人間なんかと一緒にいたくない。貴方は妖怪の恐ろしさをこれっぽっちもわかってないのよ。私のこともわかってない。……そんな相手と、仲良くなんかなれないよ」
一輪はムラサに冷たく突き放されて、呆然と立ち尽くす。ムラサはもう一輪を振り返りもせず、廊下を一人で歩いていった。
しばらく一輪は動けなかったが、次第に苛立ちや不満が込み上げてきて、ムラサの向かった方向とは別の、聖に留守を任された星がいる本堂へと向かった。
「私、なんかムラサに嫌われてるみたいね」
星と顔を合わせるなり唐突に告げた一輪に、星は苦笑を漏らした。
「一輪がしつこくするからじゃない? あんなにぐいぐい来られたら普通は戸惑うでしょう」
「だけど星は私と仲良くしてくれたじゃない」
「だって強引なんだもの。しまいには『敬語なんてやめてよ』とまで言い出して。ムラサは意志が固いけど、私は押し切られちゃったわ」
星はくすくす笑っている。
今でこそ星は一輪に対してほとんど敬語を使わないが、初めのうちは礼儀正しく敬語で話していた。一輪も最初は指導を賜る先輩なのだから、と星に遠慮していたが、次第に同じ釜の飯を食らう相手に他人行儀で接されているように思えて嫌になってしまった。
『ねえ星、私は姉弟子の貴方に敬語を使わない。なのに貴方は妹弟子の私に恭しく敬語で話しかけてる。変じゃない?』
『変、でしょうか? 聖の喋り方を真似していたのですが……』
『なんか嫌なのよ、聖様は私達のお師匠様だから特別にしたって、私はもっと星と仲良くなりたいのに隔たりを感じるわ。もういっそ敬語を取ってくれない?』
『ええ? そんな急に言われましても……』
『“一輪、今日は雪が一段と深いわね”はい、復唱』
『一輪……』
『星』
『……一輪、今日は雪が一段と深いわね。これでいいの?』
『うん、ばっちりよ』
思い返せば確かに無茶を押し通したが、今では星もすっかり慣れたのか親しく口を聞いてくれる。しかしムラサ相手に同じ手段は通じないだろう。
「私ってそんなに無知かしら。ムラサが妖怪のこと何もわかってないって言うのよ」
「うーん……難しいかな。妖怪によって個性もあるし、私の方からまだ貴方に伝えられないこともある」
「星、なんか隠し事してたっけ?」
「私が満月が駄目な理由……ちゃんと話していないでしょう?」
「へ?」
気まずげに口ごもる星に、一輪は目を丸くする。
星が、というより妖怪全般が満月の夜に活発化するのは知識として知っている。雲山は例外のようだが、満月の夜は特に聖への妖怪退治の依頼が多い。星も満月の日は決して外に出ず、光を遮った部屋に閉じこもりじっとしているが、“妖怪だから”以外の理由を考えたことはなかった。
「何か事情があるの? 言いたくないなら無理に話してくれなくたっていいけど」
「ええと……いつか話すわ。私もまだ心の準備ができないっていうか」
「じゃあいつかね。ムラサはもう知ってるの?」
「さあ……。あの子、他人のことよく見てるから、もしかしたら気づいてるのかも」
「何それー? 人間の私は駄目で妖怪の星はいいってこと?」
なんだか腹が立って、星が気の置けない相手なのをいいことにつらつら愚痴をこぼす。
「人間が妖怪がって言うけど、ムラサだって元は人間じゃない。なのに挙げ句の果てには『私は人間なんかと一緒にいたくない!』とまで言われちゃったわ。じゃあどうして聖様とは一緒にいるのよ?」
すると、にわかに星の表情が凍りついた。いつも穏やかな星らしくない、焦りと恐れを浮かべた表情だった。
「一輪、貴方、まさか……」
「え?」
一輪もつられて動揺する。星にまで変なことを言ってしまっただろうか、けれど一輪には心当たりがない。雲山を振り返っても、険しい面持ちで黙っている。
星は即座に落ち着きを取り戻して、一度咳払いをする。星の金色の目が真っ直ぐに一輪を見つめてきた。
「……一つだけ確認させてください。一輪は、聖がこんにちのように人間と妖怪の救済を志すまでの道のりを聞きましたか?」
「聖様の来し方? いいえ、知らないわ」
「そう……」
星はあからさまに声を落とす。その時初めて、一輪は聖の経歴を明確に把握していなかったのに気づいた。自分と雲山の身の上話を聞いてもらうばかりで、聖の話を聞く暇がなかったのだ。
「星は知っているの?」
「ええ。ですが、聖の口から直接聞くべきです。私からは言えません。聖はきっと貴方に、いえ、貴方達二人に自ら話すと思うんです」
星はいつになく真剣さを帯びた声で、敬語に戻って告げた。一輪ももっともだと思ってうなずいた。
折よく、と言うべきか、聖がお寺に帰ってきてから、一輪は雲山と共に久々に聖と水入らずで話す機会が設けられた。
「こうして向かい合うのはいつぶりでしょうね」
一輪はわざと拗ねた口ぶりで言った。一輪だって聖をこの上なく慕っている、少しばかり寂しかったのだ。
「最近はずっとムラサがべったりだし、私はそのムラサには嫌われてますし」
「みだりにやきもちを妬くべきではありませんよ。嫉妬に駆られて心が鬼になってしまう者は古来より後を経ちません」
「そうなったら聖様が私を祓ってくださいな、せめて思い人の手にかかる方が幸せですわ」
「冗談でもそんなことを言わないで」
軽口を叩く一輪を聖は厳しく喝破した。一輪は思わず背筋を伸ばす。
「都人の和歌には『死んでも惜しくない』なんて文句は珍しくありませんけど、貴方は御仏の弟子。軽薄な考えは捨てて真剣に生と死に向き合わなければならないの。貴方がムラサと仲良くなりたいのなら余計にね」
「……そう、ですよね」
かつて雲山にも『軽々しく死ぬなんて言うな』と怒られたのを思い出して、一輪は素直に反省する。
(そりゃ、私がこんなんじゃ、ムラサだって嫌がるよね)
ムラサの事情はあらかた聞いている。ムラサは人間だった頃に水難事故で亡くなり、無念から自分を沈めた舟を探して海を通りかかる舟をすべて転覆させていた。いつしか妖怪になって、聖が来るまで海から一歩も離れられなかったというのだから、その恨みはさぞ深かろう。
俯いて黙りこくる一輪を見て、聖も少しだけ眉根をゆるめた。
「一輪、妖怪が最も求めているものは何だと思いますか?」
「へ? そうですね、やっぱり人間の肉とか恐怖心とかでしょう」
「少し惜しいわ。貴方の隣をご覧なさい」
「ああ……雲山はどっちもなくても生きていますものね」
言われるがままに一輪は雲山を見る。確かに雲山は一輪に従ってから、一度も人間を襲っていない。脅かしてもいない。ずっと一輪のそばにいるが、かといって人間になり妖怪でなくなったのではない。妖怪が人間になれるのかは疑問だが。
雲山はなぜか一輪と目を合わせようとしない。一輪が強いて顔を覗き込むと、すぐに向きを変えてしまう。何なの? と一輪が首をかしげたところで、聖の忍び笑いが聞こえてきた。
「心が満たされること。それが妖怪にとって一番重要なの。どんなに人間の肉を食らっても、心に大きな傷を受けたり、世の中が虚しくなったりすれば、妖怪は生きてゆけないのよ」
「ええと、なら、雲山は……」
「一輪。他でもない貴方が飢えや寒さに苦しまず、病に冒されず、健やかに穏やかに日々を生きていること。それが何よりも雲山を安心させるのよ」
微笑ましげに目を細める聖に、一輪は無性に照れ臭さを覚えた。
一輪が平穏に生きていればそれでいい、なんて、まるで我が子の成長を見守る親のようではないか。一輪はもう実の両親も育ての両親も失ってしまって、親じみた愛情をくれる者なんていない。一輪は雲山を親代わりだとは思っていないけれど、雲山が毎日一輪の平穏無事を祈り温かく見守っているのだと思うと、こそばゆくなった。
そこで再び雲山を見やれば、雲山は聖の率直な言葉が恥ずかしいのか、今にも逃げ出さんばかりである。
「こら、雲山、逃げるな! 私だけ恥ずかしいじゃないのよ!」
一輪は雲山の体をつかんで引き止める。どこに子供を置いて逃げる薄情な親がいるんだか、やっぱり一輪も一輪で雲山を見守ってやらねばならない。
聖は二人のやりとりを目にしてにこやかに笑っていたが、やがて真面目な表情で笑みを消した。
「ムラサはね、人間の貴方を怖がっているのよ」
そして話は再びムラサへと戻ってゆく。
「えっ? 普通は逆じゃありませんか?」
「貴方は妖怪なんて怖くないのでしょう」
「だけど、ムラサが私を怖がる理由なんてどこに……」
「ムラサは、いつか生きた人間である貴方への恨みが募って、殺して舟幽霊にしてしまうんじゃないか……それを恐れているのよ」
思いもよらぬ言葉に一輪は驚いた。
脳裏を過ぎるのは、一輪を突き放すムラサの冷たい視線や邪険な言葉の数々。その裏側に新たな罪を重ねるかもしれない、という恐怖があったなんて、一輪はちっとも気づかなかった。
「で、ですが、ムラサの調伏は聖様が成功させたのでしょう? だから隠岐の海から離れてここまで来たんじゃありませんか? 雲山が私についてきてくれたように」
「一輪……貴方はまだ若すぎて、志半ばで倒れる無念や、愛おしい者を遺して我が身一つで逝く未練や、理不尽で不本意な死への憤りを理解できないのですね」
聖は目を細めてゆったりと語りかけた。弟子を見るというよりは、娘か孫でも見るような眼差しである。
「病、飢え、天災、老衰、殺人……僧侶は死者の弔いも数多請け負うのよ。死者の無念や遺された者の悲しみに思いを馳せなければなりません。時間はかかるでしょうけど、貴方ももう少し死を悼む心を理解しなければならないわ」
「そりゃ、確かに私は若者ですけど」
一輪は不満をあらわに言い募る。一輪だって実の両親には死に別れているし、死を悼む気持ちを何も知らないわけではない。何より、若いのは自分ばかりではないだろう。
「聖様だってまだ充分にお若いじゃありませんか。すごく大人びていらっしゃるのに、私より少し歳上くらいにしか見えませんよ」
「……」
「聖様?」
聖はふたたび眉をひそめて、悲しげに一輪を見つめた。と思ったら、無言で一輪の体を抱きしめたのである。
「一輪、雲山。遅くなってごめんなさいね。貴方達がこのお寺の暮らしに慣れた頃には話さなければ、と思っていたのに、私ったらぐずぐずしてしまって」
「……ひ、聖様?」
「これから私はとても大切なことを話します。ともすれば、貴方達には受け入れ難い、許し難いと思われるようなことも……。私の話を受け入れるかは、貴方達が決めてくれて構わないわ。だけど、せめて私の話を最後まで聞いてもらえませんか?」
聖の声音は珍しく切羽詰まっていた。一輪はとまどいつつ、直感した。おそらくは以前、星が口にした聖の来し方の話だ。
一輪は雲山に目配せする。雲山は無言でうなずいた。相談するまでもない、一輪だって聖の話を聞きたいと思っていたのだ。
「受け入れられるかどうかなんて、聞いてみなければわかりませんけど。聖様の話ならなんだって聞きますよ」
「……うん」
一輪の毅然とした答えに、聖は一輪の体を離して、微笑んだ。
「一輪は、信濃の生まれだと言っていたわね」
「ええ、信濃の田舎の村で生まれ育って、村の近くに現れた雲山と出会ったんです」
「私も生まれは信濃なのよ。ねえ、信濃で生まれ育ったのなら、“命蓮”という僧侶の話を聞いたことがあるんじゃないかしら」
「ありますよ、もちろん!」
一輪は声を高くした。一輪にとって、かの命蓮は憧れの高僧だ。尊敬してやまない聖と同郷なのが嬉しく、また命蓮の話が出たのも懐かしくて、一輪は長々と思い出話をしてしまった。
「私、まだ故郷の村にいた頃、雲山に頼んでこの信貴山まで連れてきてもらったことがあるんです。村の長老格だったおばあさんの病気を、命蓮様に治してもらおうと思って。そしたら、お堂で私は命蓮様の幻を見たんです! 雲山も一緒にいました、覚えているでしょう? 命蓮様が伝説のように鉢を飛ばしたのを」
雲山を見やれば、雲山はうなずく。現の世で命蓮らしき僧侶の幻を見たのは後にも先にもその一度きりだったが、顔も姿も鮮明に焼き付いていつでも思い出せる。
「それからしばらく後になって、私と雲山が故郷を追い出された後も、夢の中で命蓮様? のようなお坊さんに会いました。その人の導きで再び信貴山まで足を運んだら、知っての通り、私達は聖様達に出会えたというわけなんです。だから私、命蓮様のことはすごく尊敬しているし、感謝もしているんですよ」
「……そう。貴方は、そんなにも命蓮のことを……」
聖はしみじみとつぶやく。心の底から深く感じ入っている、遥か彼方の記憶に住まう身内を懐かしむような調子だった。
(聖様も命蓮様を慕っていらっしゃるのかしら、それにしてはずいぶんと親しげな……)
一輪が不思議に思っていると、聖は顔つきを変え、一言一言を刻みつけるようにきっぱり告げた。
「一輪。命蓮には、たった一人の姉がいたのよ」
「お姉さん? ……ああ、聞いたことがあります。故郷を出て行ったきり帰ってこない命蓮様を心配して、はるばる信貴山を訪ねてきたと」
「――その命蓮の姉が、私です」
「……え?」
一輪は唖然とした。あまりの衝撃で空いた口が塞がらない。まさか、と言いたかったが、聖はまったく嘘をついている様子がなく、真剣な目をしていた。仏の教えに嘘をつくべからずとあるように、いや、そんなものがなくたって、聖はこんなたちの悪い嘘をつく人物ではない。
「え? だ、だって、命蓮様はもうとっくの昔に亡くなっていて……そのお姉さんが、生きているわけ……」
「ええ。命蓮と姉が……私がかつて住んでいたお寺には、命蓮の姉は弟の死後、後を追うようにひっそり亡くなったと伝えられているはずよ。他でもない、私がそう吹聴して回ったんですから」
「だ、けど、聖様は若くて……」
「一輪や。悪鬼妖の類は、人間を騙すために、人間のふりをするの。見た目に惑わされてはいけないのよ」
真正面から頭を殴られたような錯覚がした。
一輪は初めて聖に会った時の圧倒的な存在感を思い出した。紫雲に金の砂子を混ぜたような長い髪、若々しく張りのある肌、高貴な紫色の瞳……よくよく考えてみれば、どうして僧侶なのに尼削ぎにすらしていないのか、見たこともない色の髪を惜しげもなく晒すのか、疑問に思うべき点はいくつもあったのに、一輪は雲山に理解を示してくれる喜びに浮かれて聖をきちんと見てはいなかったのだ。その時、聖のそばに控えていた星のことは一目で妖怪だと看破できたというのに。
呆然とする一輪に、聖は遠い目をして、亡き弟の思い出を語り始めた。
「自慢の弟だったわ。優れた法力を持ちながら決して驕らず、いつだって自分の力を人のために使うことを第一としていたの。離れたところにいる人の病すら治せたのに……弟は姉の私より早く死んでしまった」
雲山の気遣わしげな声が聞こえる。一輪は曖昧に返事をした。ちゃんと聞いている、あまりに大きな衝撃だけれど、聖の悲しみに沈んだ声は一輪にもしかと届いている。
雲山は一輪よりも落ち着いていた。雲山はきっと気づいていたのだ、聖が人ならざる者であることに。わかっていながら、一輪のため、聖のために口をつぐんでいた。
「受け入れられなかったわ。日に日に冷たく、硬くなってゆく肉の塊が私の弟だなんて。亡骸を焼かれて、真っ白な灰と骨だけになったものが命蓮だなんて……。そうして私は気づいてしまったのよ。近い将来、年老いた私も弟と同じ道を辿るのだと。あの冷たい肉の塊に、白い灰に、私も……それが恐ろしくてたまらなかった。だから、私は弟の元で学んだ法力とは別の力を求めた」
聖の瞳が妖しげな色を帯びた。その先は、言われなくとも想像はつく。秦の始皇帝然り、本朝の垂仁天皇然り、不老不死を求める人物は歴史上珍しくない。
問題は“どのように”その力を聖が手に入れたのかだ。かぐや姫がかつて帝に渡したと伝わる不老不死の薬は、他ならぬ帝の勅で焼かれてしまった。
「天に定められた寿命を無理に伸ばしたり、年老いた肉体を若返らせる力が清浄なものであるはずがないわ。一輪、雲山。貴方達が想像している通りよ。妖怪の力なの。今の私の浅ましい姿は、表で妖怪を退治するふりをして、裏で密かに命を助けた時にもらった恩恵なのよ」
「……」
「ただの下心だったのですよ、始まりは。私は私のためだけに妖怪を助けた。妖怪の力がなければ、私の妖術も効果を失ってしまうからね。命蓮が人のために力を振るったのとは全く異なる、仏の道にも人の道にも反く外道です。妖術に手を染めた時点で、私は人間ではなくなってしまったのよ。かといって、今の私が妖怪かと聞かれれば、そうでもないと答えざるを得ませんが……」
「聖様。今のお話は、」
一輪はかろうじて口を挟んだ。頭が混乱してうまく言葉がまとまらないし、声も震えるが、確かめたいことがある。
「今のお話は、星は知っているんですか?」
「……ええ。星には会って間もなくに打ち明けています」
「……ムラサは?」
「まだすべては話していないけれど、私がただの人間でないのは気づいていますよ」
「……そうですか。私だけ、だったんですね……雲山だって気づいてたのに、私だけ何も知らなかった」
自ずと乾いた笑みが溢れた。何と滑稽で、浅はかな。一輪は聖への憧れだけが先走って、盲目になっていたのだ。
優れた法力のお坊さんだから、神や仏の使いなのだと思い込んでいた。聖と呼ばれながら、その対極にある彼女の邪な力に気づかなかった。
一輪はまた初めて出会った時の聖を思い出す。
警戒心を剥き出しにする一輪と雲山に、聖は『貴方達の間にあるのは、お互いを守ろうという強い意志。――どこに嘘偽りがあるというのかしら?』と鮮やかに告げた。それは決して嘘じゃないと思った。心の底から信じられる人だと思った。
だから一輪は自分のためにしか妖怪を助けなかったという聖の言葉を空言だと思う、いや、思い込みたいのだ。
「教えください、聖様。私と雲山を受け入れてくれたのは、ご自身のためですか? 人間と妖怪は手を取り合えると言ってくれたのは、嘘だったのですか?」
「……貴方の言う通り、私のためでもある。だけど一輪、雲山、これだけは信じてほしいの」
聖は右の手のひらを上に向けて、一輪の前に差し出す。次の瞬間、聖の手のひらの上に鉢が浮遊して、一輪はあっと叫んだ。
「それは、まさか、命蓮様の!」
「ええ。弟の法力は死んだ後もこんなに鮮明に残るくらい、強力だったのよ。……昨年の夏だったわ、この鉢が他国に行脚中の私の草庵に飛んできたのは」
昨年の夏、それは一輪が雲山と共に信貴山を訪れ、命蓮の幻を見た日と重なる。一輪は肌が粟立つのを感じた。ここにきてようやく、一輪は聖が命蓮の姉だと本気で信じる気になれたのだ。
「すぐに命蓮の法力だと気づいたわ。……私はあれから一度も命蓮に会っていないけれど、この鉢が命蓮の伝言なのはわかりました。貴方を必要としている者がいますよ、って命蓮に教えられた気がしたの。他でもない弟の頼みですもの、私はこの鉢の来た道を辿りました。探し回って、故郷の信濃まで来て、人間の娘が入道に拐かされた話を聞いたの」
少しずつ、一輪は目の前の現実を受け入れていった。夢に現れた正体不明の僧侶は、命蓮ではなく聖だったのだ。聖が夢の中にまで干渉できるかはわからなかったが、きっと命蓮が現と夢をつないで引き合わせてくれた。
聖は鉢をそっと膝の上に下ろし、愛おしいものを見るように微笑んだ。
「まさか信貴山で会えるとは思っていなかったけれど、貴方達を無事に保護できて本当によかった。……一輪、雲山。私が妖怪を保護する過程で、行き場のない妖怪や力の弱い妖怪に手を差し伸べたいと思うようになったのは、本当なんです。今までの私の所業に対する罪悪感もありましたし、罪滅ぼしだという意識もありますが、私は人間も妖怪も、両方を救いたい。それを宿願として修行を続けているのです」
「聖様……」
「肉体が滅びたって消えないものはある――仏の教えは妖怪にだって通じるはずです。それが、命蓮の亡き後にもう一度仏道を学び直した私の答えです」
聖は真っ直ぐに一輪と雲山を見つめていた。その目に一切の迷いはなく、言葉も明朗である。
一輪はすぐに返事を返せなかった。聖の告白が嘘でないのはわかった。けれど、いっぺんに色んな話が一輪の上に降りかかってきて、一輪の思考は未だ散らかっている。
「あの、すみません。少しだけ、雲山と二人で考えさせてもらってもいいでしょうか」
「いいわ。たとえ貴方達が私を見限り寺を出ると言っても、私は引き留めません」
一輪が途切れ途切れに告げると、聖はやはり淀みなく答えた。一輪はふらふらと立ち上がって、雲山に気遣われながら聖を残して部屋を後にした。
外はもう雪が降らなくなってきたが、まだ肌寒いのに変わりはない。一輪は廊下をおぼつかない足取りで歩く。冷えた廊下の温度が足の裏にしみても気にならなかった。
(聖様は、自分が死にたくないばっかりに、妖怪の力を……)
嘘だと思いたかった。菩薩のように慈悲深い聖がそんな所業に手を染めるなど、まるで悪意のある物の怪のようだ。
しかしながら、聖は告白の最中、一切の申し開きをしなかった。自らの罪禍をしっかり見つめて、認めて、逃げずに向き合おうとしているのだ。何よりすべてを包み隠さず打ち明けてくれたのは、一輪と雲山に対し、誠実であろうとしてくれた証ではないのか。
「……あ、」
気がつくと、雲山の手のひらに体を支えられていた。ふらふら歩くな、庭に落ちるぞ、と雲山が注意する。動揺のあまり、一輪はどこに向かって歩いているのかも意識していなかった。
「雲山……」
雲山は心配そうに一輪を見つめる。雲山にだって聖の話は衝撃的だったろうに、一輪の身を真っ先に案じているのだ。
「ねえ、私、おかしいのかな」
一輪は雲の体に顔をうずめた。雲山にだけ聞こえるように、ぽつぽつと話した。
「聖様はひどいことをしているのに。みんなに慕われている裏で、妖怪の力を使って不老不死なんか求めたりして。仏様の教えに背いて、嘘をついて、みんなを騙しているのに……私、聖様のこと、ちっとも嫌いにならないの」
口にした途端、涙がこぼれた。抑えきれずに後から後から溢れて、雲山の雲の体をすり抜けて廊下を濡らしてゆく。
聖に対して思うことは様々あれども、いの一番に、何よりも強く浮かんできた感情は悲しみだった。淡々とした言葉の裏にある聖の悲しみが伝わって、一輪の心を埋め尽くしたのだ。一輪は最愛の弟を亡くした聖の悲しみに思いを馳せて泣いた。
「自慢の弟様が亡くなるってどんな気持ちなんだろう。雲山、この世で生きる一番つらい悲しみは、親しい者に死に別れることだって、故郷のおばあさまが言っていたのを覚えてる?」
覚えている、と雲山は答えた。一輪の涙を雲山は静かに受け止めている。一輪は雲山の前では遠慮も何もかも吹き飛んで、辺りも憚らずに泣きじゃくった。
「ムラサの言う通りだよ、私は何もわかってない。私のお母さんがお父さんの死を嘆くのより、つらかったのかな。お母さんが死んだ時より悲しかったのかな……。私は死出の旅路に連れて行って、お母さんのところに行きたい、とは思ったけど、死ぬのが怖いなんて思わなかったよ」
一輪は何も知らない自分が悔しくてたまらなかった。己の無知と無力が恥ずかしかった。溢れて止まらない涙は悲しみよりも憤りに近かった。
しばらくして、ようやく涙が治まってきた一輪は乱暴に顔を拭う。雲山があんまり強く擦るなと言ってくる。
「雲山、私、聖様の力になれないかな。ううん、聖様だけじゃない、聖様が言ったように、ムラサとか、もっとたくさんの人達の悲しみに寄り添えるような、立派な僧侶になれるかな? ……どうしよう、雲山。私、間違ってる? 私も間違った道に行こうとしているの?」
一輪は拭えぬ不安から雲山に縋りつく。一輪の心は決まっていた。聖やムラサの悲しみを完全に理解できなくとも、せめて寄り添いたい。けれど二人の所業は、簡単に許し受け入れていいはずのものではなくて――。
雲山は真面目な、けれど穏やかな目で一輪を見つめていた。そして一輪にしか聞こえない声で、滔々と告げた。
――今更そんなことを聞くんじゃない。
一輪、お前はいつだって自分が正しいと思う道を迷わず選んで歩いてきたじゃないか。
今更己の助言などいるものか。聖を信じたいのなら信じればいい。一輪の信じた道を行けばいい。案ずるな、決して一人にはさせない。自分はいつだって一輪のそばにいる。片時も離れずに一輪を見守っている。
「……雲山」
目を見張る一輪に、それでも強いて己の意見を言うならば、と雲山は付け加えた。
聖は嘘をついていない。妖怪も人間も救う、と言ったのは本心だろう。一輪と自分を弟子にしてくれたこと、心から感謝している。
「うん。……そうだよね」
雲山の力強い言葉に、一輪は曇りが晴れてゆく心地がした。すとんと足が地に着いて、もう歩みがふらつくこともない。
雲山の言う通りだ。こうと決めたら後ろなんか振り返らず、足元も気にせず真っ直ぐに進むのが一輪であった。
「ありがとう、雲山。そうね、聖様は自分の過ちを認められる人なんだもの。過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。……これは論語ね、大陸の書物って本当に面白いのよ」
体を離して微笑みかけると、雲山は口元を緩めつつ、ちゃんとお経も読めと説教してくる。言われなくとも修行はしっかりやるつもりだ。
雲山がそばにいれば怖いものなんてない。一輪はさっきまで泣いていたのが嘘のように笑って、今しがた歩いてきた廊下を引き返した。
「聖様のところに戻りましょう。あんなこと言ってたけど、きっと心の中は不安に違いないもの、先延ばしになんかできないわ!」
一輪が明るく告げると、雲山は当然のように一輪に寄り添ってついてくる。
「聖様!」
一輪が勢いよく襖を開けると、さすがに聖も驚いたのか体を震わせる。普段なら行儀が悪いと叱られるところだが、一輪はすばやく聖の前まで駆け寄って、聖に頭を下げた。
「お願いです、私、これからは今まで以上に修行に励みますから、どうか私を導いてください!」
「まあ、一輪……」
「たった十余年しか生きていない私に、聖様の経験を教えてください。そうしたらムラサにも向き合えるかもしれないし、それに……聖様がつらくないのなら、命蓮様の、弟様のお話もこれから聞かせてください」
聖は言葉を詰まらせた。顔を上げて見た聖は、眉を下げ、今にも泣きそうなのを堪えるように口元に手を当てていた。あまりに人間くさい仕草に、聖は外法に手を染めても決して人の心は失っていないのだと一輪は確信した。
「私も雲山も、今まで通り聖様の弟子です。まだ未熟な私ですが、いつかは聖様を支えられるような一人前の僧侶になりたいと思っています」
「……ええ、もう充分ですよ」
笑顔で毅然と告げた一輪に、聖はさっと目元を拭って微笑んだ。
「ありがとう。一輪、雲山、ありがとう……」
聖の笑顔もまた華やかだった。いつか雲山がその名の通り、聖は真っ白な蓮のような心の持ち主だと称賛したが、言い当て妙だと一輪も思う。
それからしばらく後、一輪は聖から法力が込められた二つの金輪を渡された。
「一輪、これはね、私の弟が……命蓮が従えていた童子の使う金輪を真似て作ったの。貴方が使いやすいよう、小さく簡素にしたけどね」
聖の口から命蓮の名前を聞くのはあの告白時以来で、一輪は目を丸くした。渡された金輪はきらきら輝いているが、金銀財宝のように品のないものではなく、澄み切った法の光だった。
しかしなぜこんな良い道具を、と尋ねる前に、聖は優しく語りかけた。
「童子は雲を自在に操っていたわ。まるで貴方と雲山のように。貴方達は阿吽の呼吸といっても過言ではないけれど、本来なら人間と妖怪が息を合わせるのは難しいのよ。だから一輪、貴方が法力を身につけて、雲山をより良い方向に導いてあげなさい」
一輪は雲山と顔を見合わせた。法力をもって心を通わせる。かつて聖が命蓮から手解きを受けたように、一輪はこれから書物の仏の教えだけでなく、法力も学んでゆくのだ。他でもない雲山のために、聖の理想である人間と妖怪の調和のために。
「……はい!」
一輪は込み上げる感慨をそのまま声に乗せて、力強く答えた。
自分が慕ってやまない人に信頼され、力を託される。それ以上に嬉しいことはなくて、一輪は改めて聖が好きだと思った。
◇
春のうららかな日差しは心地よく眠気を誘う。春眠暁を覚えずとはまさにこのことだ。梅に鶯の鳴くのももう少し昔のことになって、じきに桜も花開こうという暖かい季節である。ましてや難しい文字の並ぶ経典を読んでいるのだから尚更眠いのだった。
(いけない、いけない。ちゃんと修行に励むって決めたんだから)
舟を漕ぎそうになった一輪は、星や雲山の小言が飛んでくる前にかぶりを振った。何気なく部屋を見渡せば、少し離れた位置でムラサが同じように経典を読んでいて、二人に向かい合う形で座った星が二人、もとい雲山を含めた三人に教える形になっている。聖はやはり忙しい身で、今日もまた星に留守を預けて寺を空けているのだった。
ムラサは相変わらず一輪にそっけないものの、妖怪である星が一緒にいると少しは大人しく、こうして同じ部屋で修行に励むのも嫌がらない。ムラサは受戒だけ行って正式な出家はまだしていないようだが、修行には時に一輪を凌ぐ精を出すのだ。
「ねえ、星」
と、ムラサが声を上げる。呼ばれた星はムラサに近寄った。
「ここ、よくわからないんだけど、なんて読むの?」
「どれどれ……ああ、変成男子ですね。女人成仏の証として、竜女が一度男子の体になって成仏を遂げる話ですよ」
「へえー、女から男にね」
ムラサと星の会話を聞いて、一輪は内心舌を巻く。
(ムラサったら、お寺に来て一月くらいしか経ってないのにもうお経を読めるのね。何なら私よりずっと覚えるのが早いんじゃないかしら)
こりゃあうかうかしていられない、と一輪も次いでムラサと星が話題にしている項目をめくる。妙法蓮華経の第五巻、特にこの巻は女人の成仏について語られるため、女人が熱心に供養を行うものだと聖から聞いていた。女人は生まれつき五つの障りを持っているため、成仏が叶わないとされているのだ。
それにしても、と一輪は眉をひそめる。尼僧はなぜ成仏できないなんて言われるのだろう、女にだけ五障を押し付けるのは不公平ではないか、そもそもこの竜女の話だって――。
「どうして一度、男の体になる必要があるのかしら」
一輪が不満を口にすると、話し込んでいたムラサと星も顔を上げた。一輪はそのまま疑問を二人に向かって投げかける。
「女人成仏っていうなら、普通女のまま成仏するのを指すんじゃないの? 男に変わらなきゃ仏陀になれないなんて、女人成仏と言えるのかしら」
「……貴方はやっぱりわかってない」
一輪の言葉を聞いて、ムラサはこれ見よがしにため息をつく。その軽蔑したような視線に一輪はむっとした。
「姿形なんて重要じゃないわ。仏の世界は男も女も関係ないの、姿がいっとき変わっても、元が女なんだから女人成仏って言えるのよ」
「見た目が重要じゃないなら、それこそ男に変成する必要がないじゃない。女の五障は何も解決していないし、むしろ女の体が邪魔だとでも言いたげに読めるわ」
「貴方が人間だからそう思うのよ。見てくれを気にするのは歳を食っていく人間だけ、妖怪は見た目なんか好きにいじれるんだから。見た目がどうでも、本質は何も変わらないの。貴方、仏の教えを学ぶのに向いてないんじゃない?」
ムラサのぞんざいな口ぶりに一輪はだんだん熱くなってくる。
「ムラサだって元は人間のくせによくそんなことが言えるね」
「だから私はもう人間をやめた妖怪だって言ってるじゃない、貴方と私は違うの。ちょっと入道と仲良くなれたからって、妖怪に馴れ馴れしい態度を取る貴方がおかしいのよ、変わり者の向こう見ず」
「ムラサの理屈だと姿形が変わっても本質は変わらないんだっけ? それじゃあムラサは意地悪で偏屈なのよ、人間の時から妖怪になった今までずっとね」
「何ですって?」
「二人共、そこまで!」
ムラサも怒りに眉をつり上げたその時、星がぴしゃりと言い放つ。普段の穏やかな顔はどこへやら、厳しい面持ちで二人を睨んでいる。
「経典の解釈についてあれこれ議論を交わすのは悪いことではありません。古くから法会が開かれ、活発に意見を交換し、より仏の教えを理解するべく研鑽していたのです。ですが、そんなに声を荒げて相手を悪し様に言う必要がありますか? 貴方達二人のやりとりは、だんだん経典とは違う話にずれていっていましたよ」
星の厳しくも冷静な言葉に、一輪もやっと我に返る。お経の解釈のはずが、感情に任せてムラサへの非難に向かってしまった。仏の弟子として恥ずべき行為だ。一輪は気まずさからうつむき、ムラサも決まり悪いのかそっぽを向いた。
二人が反省したと判断したのか、星は表情を緩めた。
「そうですね……私も妖怪として、二人の話は興味深いです。確かに妖怪にとって見た目は仮初のもの。しかし、可変の存在であればこそ、“なぜその姿で在ることを選んだのか?”という問いが生まれます。そう考えれば妖怪の見た目にも意味があるのです。たとえば雲山などは、ある程度なら自由に姿を変えられるのに、いつもその姿を保っているのはなぜでしょう」
「雲山が?」
急に話を振られて、一輪への小言を言っていた雲山は動揺する。言われてみれば、と一輪も雲山をまじまじ見つめた。雲山はいつも髭をたくわえた厳めしい顔つきの中年男である。いかにも頑固で偏屈な益荒男ぶりだが、その性格は意外と無口で控えめだ。案外、見た目から強く装いたいと思うたちなのかしら、と一輪が考え出したところで、星は耳ざとくお寺の入り口に人気が現れたことに気づいた。
「おや、お客様みたいですね。私が対応しますから、二人は喧嘩をしないように仲良く修行を続けてくださいね」
「わかってるわよ、もう」
星はしっかり釘を刺して部屋を後にする。星は一輪達が寺に来る前から留守番役を聖に任されていたため、聖がいなくとも寺の運営を滞りなくこなすのである。いつも雲山を連れている一輪や人間を遠ざけたがるムラサにはできない芸当だ。
「星、うまく逃げたわね」
不意にムラサがぽつりと言った。一輪が首をかしげると、ムラサはため息まじりに続けた。
「もっともらしいこと言って締めてたけど、結局『変成男子は女人成仏に当たるのか?』って疑問には何も答えてないじゃない」
「……あ、確かに」
初めて気がついた一輪は、春の陽気のせいかいつもよりぼうっとしているなと反省する。
星は世渡りが上手いというか、自分の置かれた状況を読んで自分がどうすべきかの判断が早い。それは妖怪の処世術というより人間の処世術に近かった。星は目立つ金と黒の髪だけを頭巾で隠し、人ならざる者が持つ妖気も巧みに繕って、妖怪でありながら人間の来客にも自然に対応し、今まで一度も『もしや』と怪しまれたことがない。
なぜ妖怪でありながら襲う目的もなく人間に溶け込むような真似をするのかは不明だが、それはそれとして、と一輪は星の先ほどの言動をいぶかしむ。
「らしくないなあ。星はお経の解釈とかで自分の意見を遠慮するような性格じゃないのに。むしろ一言言わないと気が済まない方だわ」
「私達が熱くなってたからじゃないの」
「まあ、そうね」
異論はないが、それは半分ほどムラサのせいではないか。
一輪はムラサの姿を改めて見る。ムラサはいつも尼削ぎより短い黒髪を垂らして、白い小袖をまとっている。何も知らない者が見ればそれこそ人間と勘違いするだろう。星は『妖怪の見た目にも意味がある』と言ったが、ムラサもこの姿を選ぶ理由があるのだろうか。
「何?」
「ムラサはどうしてその姿でいるの?」
率直に問えば、ムラサはまたしかめっ面になる。
「私がこの姿でいたいから。それ以外に理由がいる?」
突き放すように言い放って、ムラサは修行を続けろとの星の言伝も無視して部屋を出て行った。
「……ムラサだって、答えになってないじゃないのよ」
残された一輪は肩をすくめる。雪が溶けてもムラサの心は打ち解けず、一輪はまだムラサと仲良くなれそうになかった。
その後、一輪は寺に帰ってきた聖に相談を持ちかけた。
「ムラサは相変わらず私が話しかけてもそっけないんです。星と話してる時はあんなに冷たくないのに」
「でしょうね。ムラサも貴方とはあんまり一緒にいたくないと言っています。できれば遠ざけてくれと」
「そ、そこまで?」
さすがの一輪もへこんだ。ムラサは人間の一輪を殺してしまわないか警戒しているとのことだが、一輪からすれば単純に邪険にあしらわれているようにしか感じない。
『貴方と私は違うの』
ムラサは妖怪だから、人間の一輪を突き放す。一輪が近寄っても、故意に壁を作って線を引く。この前は軽い口論にまでなってしまった。しかし一輪はいつも雲山と一緒にいるため、妖怪なんて怖くないし、星とだって打ち解けた。どうすればいいんだ、と一輪は頭を抱えた。
「私が舟幽霊になったら、ムラサは満足するんですか?」
「それはいけないわ」
同じになればいいのか、とこぼした言葉は即座に聖に諌められる。聖は眉をひそめて告げる。
「あの子はもう呪われた海から解放された。だけど、まだ心は妖怪の本能に囚われているの。……ねえ一輪、あの子は私と二人でいる時、いつも泣いて自分の抱える不安をぶちまけるのよ」
一輪は口をつぐむ。舟幽霊は人間を溺死させて仲間を増やす妖怪だと聞いていた。ムラサは本能に蝕まれて苦しんでおり、その悲しみに寄り添おうと決めたはずなのに、また一輪は間違えてしまった。
「幼い子供のように縋りつくのよ。このままじゃ私は一輪を殺すかもしれない、生きた人間を見ると憎くなるの、もういやだ、せっかく聖があの舟をくれたのに、やっと別の生き方ができると思ったのに、また同じことの繰り返しなんていやだ、って」
「……別の生き方とは?」
「ムラサはより格の高い妖怪になって、海を離れてより多くの人間を沈めたかったみたい。だけど私があの舟をあげたからか、人間を溺死させるのはもういいとも言っていたわ」
一輪は一度だけ見たムラサの舟を思い出す。ムラサは周りに誰もいない時、あの舟に乗ってどこかへ飛び立ち、ひっそり帰ってくる。どこで何をしているのか、一輪は知らない。一輪が時折、気晴らしに雲山に乗って空を飛ぶのと似た理由かもしれないが、違うかもしれない。
一輪は黙って考える。ムラサが海に縛られていた頃は、幾人もの人間を沈めて幽霊から妖怪にまでなったというのだから、ムラサは殺生を望むのかと思っていた。しかし、聖の話を聞く限りではむしろ殺生を拒んでいるようだ。それは仏の教えなど関係なく、ムラサの深い懊悩なのだ。
聖ですら解放できない妖怪の本能は、一輪ごときにどうにかできるものではない。一輪が雲山を従えたのとはわけが違う。
(……私が歩み寄ろうとしても、ムラサを苦しめるかもしれない)
だけど、と一輪は聖にもらった金輪を握りしめた。このままムラサが苦しむのを黙って見ているだけなんていやだ。どうにかムラサの心に翳る雲を吹き飛ばしたい。
ムラサは賢く、経典の理解も早い。仲良くなれたら、きっと苦しみや呪咀の言葉ばかりでなく、もっと多くの話ができるはずなのだ。それこそムラサの望む別の生き方ではないのか。
「私、諦めません。ムラサともっと話します。一人の僧侶として、そして、年の近い女子(おなご)同士として」
一輪が決意を秘めて聖を見上げると、聖も穏やかに微笑んだ。
「亡くなった時のまま成長が止まっているから、ムラサは貴方と同じ年頃のはずよ。いい友達になってくれるのなら、私も嬉しいわ。私と話してばかりではあまりにもったいないもの。どうか、ムラサの心に寄り添ってあげてね」
「はい!」
一輪はさっそくムラサの姿を探した。ムラサは寺の庭に水を引いて作った小さな池のそばにいることが多い。陸に上がったが舟幽霊、水場を好むのだ。
果たしてムラサは一人でぽつねんと池を見つめていた。あの池に魚(うお)はいない、殺生を禁じるゆえ生き物を飼うのもよしとしないのだ。
「ムラサ」
一輪が声をかけると、ムラサはやはりしかめっ面で振り返る。めげずに一輪は親しげに声をかけた。
「そんな顔しないで。この前は意地悪とか偏屈とか言ってごめんね。お経の話は簡単に譲れないけど、ムラサと研鑽するのは楽しいと思うの。仲良りしない?」
ムラサの顔がますます歪む。一輪は傍らの雲山を指さした。
「私を死なせないか不安なの? 大丈夫、雲山がいる限り私は死なないのよ」
「……貴方、本気で私と仲良くしたいって思うの?」
「そうよ。こうして縁あって出会えたんだもの、ムラサは私を嫌いかもしれないけど、私はムラサを嫌いじゃないし」
「それじゃあ私と同じになって」
ムラサはじっと一輪の目を覗き込んできた。ムラサの目はいつも暗い。真っ黒に澱んで、まるで暗くて冷たい海の底を想起させる。一輪は海の底など知らないのだけど。あまりの気迫に一輪も圧倒された。
「貴方は人間、私は妖怪。同じじゃなきゃ理解できないでしょ。仲良くなれないでしょ」
「そんなこと……」
「私とその入道は同じじゃない。入道も変わり者よね。貴方、妖怪と一緒にいるってことは、妖怪に親しみを抱いているのよね? 自分も妖怪になりたいって思ったりしないの?」
「……するけど」
一輪は素直に答えた。雲山がぎょっとしたが構っていられない。
まだ聖と出会う前、故郷の村を追い出された一輪は雲山と二人であてもなく彷徨い続けた。寒さに震え、飢えに苦しみ、負担をかけるのはいつだって人間の一輪だった。吹き荒れる風雨や野盗や妖怪の脅威から、雲山は身を呈して一輪を守っていた。疲れ果てた一輪は(いっそ自分も妖怪だったらいいのに)と考えた。雲山のように強い力があれば、姿形を変えられれば、自由に空を飛べたのなら……。
「私がしてあげようか?」
いつのまにか、ムラサは柄杓を片手に一輪の目の前に迫っていた。
「私は水さえあればどこででも水難事故を起こせるの。あの浅いちっぽけな池でもね」
ムラサは水の入った柄杓とは反対の手で池を指さした。雲山がいよいよ警戒を強めて威嚇する――瞬間、一輪は息ができなくなった。
(あっ……)
池に突き落とされたのではない。一輪は確かに陸の上にいる。なのに口の中に大量の水が溢れて、一輪の肺を埋め尽くそうとしている。これがムラサの能力なのだろうか。
あまりの苦しさに一輪はもがき足掻く。雲山の声も聞こえない。代わりに聞こえてくるのは、激しく水が流れる音だ。
ムラサが海で溺れた時の記憶を追体験しているのであろうか……視界に映るのは見慣れた寺の庭ではなく、濁った水だ。一輪の体は濁流に飲まれている。
(海の水って、こんなに濁っているの?)
水音は荒れ狂う波の音というより、氾濫し大量の土砂を飲み込んで押し寄せる川の流れのようだ。
その時、一輪の体が力強い腕(かいな)にしっかりと抱き留められた。
(雲山?)
違う。雲山の腕はもっと大きくて固められた綿のようにできている。これは人間の腕だ。そして一輪の体はいつのまにか人間の両腕に収まるくらいの大きさまで小さくなっているのである。
やがて腕の持ち主が、大人の男が岸へ上がり、一人の女がすぐさま駆け寄ってくる。
(お母さん!)
見間違えるはずもない、幼い一輪を抱きしめて頬ずりする女は、一輪が慕ってやまない、記憶の中より少しだけ若い母だった。
『あなた、待って』
男が再び濁流に飛び込んだ。まだ他に子供が溺れているから、と男は聞かない。母が『あなた』と呼びかけ、一輪を助けた男の正体は、もしや。
(……お父さん?)
お父さんは子供を助けるため、川に飛び込んで亡くなったのよ――母の話と一致する。一輪は母の腕の中で、母と共に父の帰りを待った。
子供は助かったが、父はついぞ帰らなかった。
「っ、ごほっ……」
一輪が咳き込むと、口から大量の水が吐き出された。気がつくと一輪は寺の庭に両手をついてうずくまっている。まだ息が詰まっている心地がして、一輪は何度も咳をして水を吐いた。陸の上で溺れるなんて、と他人事のように考えた。
一輪の背を雲山の大きな手がさする。その感触は、やはり今しがたあまりにも現実的な感覚を伴った父の腕のものとは別だった。次の瞬間、雲山から凄まじい殺気が発せられるのを感じて、一輪は咄嗟に懐から金輪を出す。
「雲山、ムラサに手を出したら許さないわ」
激しく咳き込んで痛む胸を押さえ、一輪は強い口調で告げた。しかし、と雲山は食い下がる。一輪を殺めかけたムラサが雲山には許しがたいのだ。
「それでも、駄目。私達は仏様の弟子なのよ。それに、ムラサは……」
ようやく呼吸が落ち着いた一輪は、空の柄杓を手に呆然と立ち尽くすムラサを見上げた。
ムラサの暗い瞳に、珍しく動揺と恐怖の色が浮かんでいる。
「う、嘘でしょ、私……さっき見えたのは……」
焦燥しきったムラサの手から柄杓が落ちた。一輪は溺れかけたせいか、それとも目の前に鮮明に描き出された過去の記憶のせいかふらふらする頭を押さえて、ムラサも今の光景を見たのだろうかと思った。
「ムラサ」
「……っ!」
怯えきったムラサが、一輪と雲山に背を向けて逃げ出した。一輪は追いかけることもできずに、混乱した頭でどうにか雲山を宥めた。
◇
さて、いったい何から片付ければいいのだろう、と一輪は悩んだ。頭の中がムラサと父の記憶でいっぱいで、とても修行に励めそうにない。出家して俗世のしがらみは捨てたはずなのに、一輪の物思いの種は増えるばかりだ。
ムラサに殺されかけたことは気にしていない。ムラサにそういう衝動があるとわかった上で不用意に近づいたのは一輪だし、危うく死にかけたものの、陸の上で溺れながら浮かんできた記憶のせいで恐怖は微塵もない。何より雲山がいたから一輪は助かった。さすがにおかしくないか、溺れたせいで調子を崩したかと雲山に心配されたが、それが一輪の本心なのだから仕方ない。頑固な雲山にもどうにか矛を収めるよう納得してもらった。
しかしムラサの方はそうもいかないだろう。ムラサは以前にもまして一輪と雲山を遠ざけて、少しでも姿を見れば逃げ出してしまう。
『聖様、私はどうすればいいの? もうわからないんです。どうして一輪はあんなに私にこだわるの、なんで私に近づくの』
『……ムラサ。貴方が一輪を理解できないのも無理のない話ですよ』
ムラサが聖の部屋へ駆け込むのを見て、一輪は雲山が止めるのも無視して密かに耳をそばだてたことがあった。
『当然じゃないですか。貴方は、まだ自分自身すら見つめられないのだから』
『……え?』
『自分のことに向き合えないうちは、他人のことになんか向き合えません。……一輪には私から言っておきましょう。ムラサ、貴方は今の自分がどうしたいのか、何をしたくないのか、考えたことはある? はっきり言葉にできる?』
『……』
『私にもう昔みたく戻るのはいやだって言ったのは嘘?』
『嘘じゃない! 嘘なんかじゃありません、なのに……』
『大丈夫、ゆっくり考えましょう。貴方が自分の答えを出すのを、私はいつまでも待っていますから』
(ああ、やっぱり聖様には敵わないわ)
一輪はそっとその場を離れた。聖に向かってあんな自信満々に宣言しておきながら、結局尻拭いをさせるとは何とも情けない。
自分のことに向き合えないうちは――ムラサに向けられた諭しは、一輪にも響いた。聖は愛情深く優しいけれど、弟子に対しては甘やかすだけじゃない厳しさも持ち合わせている。声音は優しいのに、言葉には痛いところを的確に突くような鋭い響きがあった。
悪いことをしてしまった、と罪悪感が募るにつれても、ムラサに対してどうにかせねばと思うが、一輪の頭を占めるもう半分がムラサだけにかまけるのをよしとしない。
「ねえ、雲山。私ね、小さい頃にも溺れかけたことがあったみたいなの」
奇しくもムラサのお陰で蘇った記憶を、一輪は雲山にも語り聞かせた。
「前にも話したと思うけど、私のお父さんは三つの時に亡くなったから、私はお父さんのことを全然覚えてないの。お母さんから、お父さんは川で溺れた子供を助けて亡くなったのよって聞いてたけど……お父さんが助けたのはあの子供だけじゃなくて、私もだったのね」
川で溺れた記憶なんて一輪にはなかった。数え三つでは覚えているはずもない、母から聞いただけの話だ。
一輪はうっすら笑った。
「私、お母さんに比べたら、お父さんのことなんてちっとも思い出さなかった。お母さんはよく話してくれたけど、顔も覚えていない人の話ってどこか他人事みたいでさ。それに、お父さんの話をする時のお母さんはとても悲しい顔をするから、それが嫌だったの。だからお父さんのことを忘れかけていたんだわ。……薄情な娘ね」
雲山は複雑な表情で一輪の話を聞いていた。寡黙な雲山は、こういう時に余計な口を挟まないからありがたい。
一輪の体には、濁流に流された時の生々しい記憶がまだまとわりついている。そこから掬い上げてくれた逞しい腕の感触も。
どうして一輪が見たのはムラサの記憶ではなかったのだろうか。ムラサの能力が、溺れた者同士と、意図せず一輪の頭の底に眠る記憶を呼び覚ましたのか。
一輪は自分の体を自分で抱きしめる。普段はろくに偲びもしない父が急に懐かしくなった。あるいは父がムラサの嫌がる殺しを食い止めてくれたのかもしれない、あの世から娘を助けに来てくれたのかもしれない、と都合のいいことを考える。ムラサに向き合う前に、まずは父と向き合うべきだろう。
「雲山。私、お父さんのためにお経を書こうと思うの」
決心した一輪は真っ直ぐに雲山を見つめた。亡き父のために経典を書き写し、供養する。今まで振り返りもしなかった父へのせめてもの弔いとして、一輪の手で自ら写経をしたかった。
雲山は、いつものように一輪のやりたいようにやればいいと言った。一輪はうなずいて、すぐにでも聖へ許可をもらおうと思った。
聖は『いい心がけですよ』と快諾してくれたものの、案の定、ムラサの件でお説教もいただいてしまった。
「どんなに妖怪と仲良くなっても、憧れるのはよした方がいいわ。妖怪の力は貴方が思う以上に恐ろしいのよ。人の道を踏み外すのは、とても危険なことなの。……私のように」
「ええ。軽率だったと反省しています」
一輪は素直にそう思っているのだが、一方で(じゃあ、邪気を失くしても妖怪のままでいる雲山はいったいなんなのかしら?)と疑問を抱く。今の雲山はもう恐るべき見越入道ではないのだ。この世の妖怪がすべて危険でないと考えているからこそ、聖は手を差し伸べるのではないか。
聖は妖怪と人間の平等を訴えるがゆえに妖怪のことをよく理解している。妖怪は精神に比重を置き、肉体が消滅してもいずれ復活できるが、精神に致命的な衝撃を与えるとたちまち力を失ってしまうという。ムラサの舟や雲山に向けた退散の呪いがそれだ。
しかし一輪にはまだ妖怪と人間の決定的な違いがよくわからない。それこそムラサに指摘されたように。人間だって心を持っているし、心が壊れて生きてゆけなくなることもある。
それはそれとして、と一輪はムラサへの処罰が気になった。
「あの、聖様はムラサに……」
「心配しなくても、すでに反省し後悔している者を打擲したりしないわ」
どうやら厳しい罰は与えられていないようで、一輪はほっとする。
(写経が終わったら今度こそ……って私が思っても、もうムラサは私と話してくれないかしら)
一輪はムラサを気にかけつつ、父のための写経の準備に入った。
まずは潔斎、身を清める。写経を終えるまで寺の部屋を一つ借りて籠るのだが、聖は快く一輪のために貸してくれた。雲山は常にそばにいるものの、写経の間はなるべく参詣の客などにも会わないようにする。そして写経を終えた暁には、法要を開き一輪が自ら読経も行う運びとなった。話を聞いた星からは、
「それじゃあ、私も一輪の父君にお経をあげるわ。一輪が書き終える前に私も終わらせるから」
と、何ともありがたい、こそばゆい申し出をもらった。
一輪は部屋に籠って一心不乱に経を書き写す。紙は貴重だし、手習もようやく慣れたかといった頃合いなので、緊張してなかなか筆が進まない。墨が跳ねないように、そしてなるべく美しい字で書くように。雲山は一輪の集中力を乱さないために、何も言わない。けれどいつもそばにいて気配は感じるので、一輪は籠りもちっとも苦ではなかった。
「……できた」
数日かかって、一輪は十巻の写経を終えた。聖や星の流麗な字に比べれば未熟で汚いが、きっと父は許してくれるだろう。
どっと疲れが襲って寝転ぶ一輪を、雲山も労った。よく最後まで続けられたものだと。
「雲山、私が飽きっぽいとでも思ってるの? むしろこうと決めたら諦めないたちなのよ」
一輪は雲山に向かって笑い、起き上がる。写経が終わったからと呑気に寝てはいられない。供養の日取りももう決まっている、一輪も支度をしなければ。部屋を出た時、一輪は目の前に現れた影にあっと目を見開いた。
「ねえ、一輪」
一輪は驚いてせっかく書き上げたお経を落としてしまうところだった。一輪に声をかけたのはムラサだ。それも今まで“貴方”なんて他人行儀な呼び方しかしなかったムラサが初めて一輪の名前を呼ぶものだから、一輪は間抜けに口を開けたまま棒立ちした。
「これ」
と、ムラサは無造作に紙の束を押し付ける。一輪より綺麗な文字で書かれた経典である。
「私からも、一輪のお父さんに……なんて、受け取ってもらえないかな」
ムラサは自嘲するように笑って、そっぽを向く。ムラサの目に暗闇は見えなかった。
一輪はもう驚いて何度もムラサの顔とムラサの書き写した経典を交互に見やるばかりである。そして込み上げる喜びのままに口を開いた。
「ありがとう! お父さんもきっと喜ぶわ、私の友達が書いてくれたのよって伝えるから」
「え、それはちょっと……」
困惑しているムラサを置いて、一輪は飛ぶような足取りで廊下を駆けてゆく。
そして迎えた当日、一輪は普段よりも殊更綺麗にしつらえた袈裟に身を包み、本堂を借りて父の供養を行った。
あくまで身内の供養のため、客人はいない。同席するのは聖達だけだ。一輪、ムラサ、星がそれぞれ書いた経典を捧げて一輪は読経をする。傍らにはもちろん雲山が控えている。
まさか僧侶としての初仕事が身内の、それも父の供養になるとは、一輪も想像していなかった。
(お父さん、ごめんね)
読経の傍らで、一輪は心の中で父に詫びた。
(お父さんが命をかけて助けてくれたのに、私、ちっともいい娘じゃなかったね。あれから四年でお母さんにも死に別れちゃったし、村も出て行く羽目になったけど、私は私なりに元気でやっているのよ。雲山っていう素敵な妖怪にも会えたのよ。だから、心配しないで)
一輪は溢れそうになる涙を堪えて、最後まで淀みなく経典を読み終えた。不慣れで拙いが、一輪なりに丹精込めて読み上げたつもりだった。
供養を終えて、一輪は廊下に腰掛け空を眺めた。良い行いをして死んだのだ、父はきっと浄土に渡っただろう。遥か西の彼方にあるという極楽浄土へ。
「遥か遠いところを“雲居”と呼ぶのよね」
一輪は雲山に語りかけた。雲山はいつものように、静かに一輪の言葉に耳を傾けている。
「私はもうお父さんのことを忘れないわ。もちろんお母さんも。それから、おばあさまを始めとした、故郷の村の人達も……雲を見上げるたびに、私は色んな人のことを思い出すのよ」
その時、一輪の隣に誰かが腰掛けた。振り向くと、ムラサが一輪と同じように空を見上げていた。
「ムラサ。ありがとうね、お父さんのためにお経を書いてくれて」
「私はね、一輪が理解できないって聖様に訴えたら、それは当たり前よと返されたの」
一輪のお礼に対し、ムラサはそっけなく返す。ムラサの目はずっと空を見上げている。ムラサと聖のやりとりはかつて一輪が密かに盗み聞きしたことだが、ムラサには黙っておいた。
「聖様は私が現実から目を逸らしたがっているって見抜いていたのね」
「……それは、舟幽霊になってしまったこと?」
「死んだことよ。私は舟から落ちて死んだのが悔しくてたまらなかったの」
ムラサはそこで初めて一輪を見た。ムラサの目が心なしか青みがかって見えた。
「納得できなくて、悔しくて、私を沈めた憎い舟を探して回ったの。あれでもない、これでもない、ええ憎い、私と同じように舟に乗りながら落ちもせず楽しそうに笑っている生きた人間が憎い……私、自分が沈めた人間の顔はすべて覚えているのよ。お前も私と同じ思いをして死ねって、恨みつらみをたっぷり込めて殺したから」
「……そう」
「一輪は殺し損ねたけどね。とんだ邪魔が入ってきた」
「雲山がいるからね。それとも、私のお父さんを見て気が引けたの?」
「そんなんじゃない」
ムラサはしかめっ面をする。例の『わかってない』と言う時の顔だ。
「貴方を殺しても無駄だと思ったの。貴方のお父さん、私と同じように溺れて死んだのに、幽霊にも妖怪にもならなかったわね」
「ええ。妻と幼い娘を残して逝くのに平気だったのかしら」
「その娘と、他に溺れた子供を助けられたから、満足して死んでいったんでしょ。そりゃあ未練なんて残るわけないわ。……私とは大違い」
「だからって、お父さんが偉いわけでもムラサが悪いわけでもないわ」
思わず一輪は口を挟んだ。ムラサの悲しげな目が丸く見開かれる。父は一輪の誇りだが、それはさておき死に後悔や恐怖を抱くのは自然なことだ。聖の過去について聞いたせいか、一輪はもう死に臨む人の心は人それぞれだと思えるようになっている。
ムラサは青みがかった目で一輪を見つめる。ものの例えではなく、本当にムラサの目から闇が薄れ、海のような青色に変わってゆくように見えた。
「……そういう人間を親に持った子は、同じように死んでも未練なんか残さないって思ったの」
「そうかしら。私はムラサに溺れさせられるまで、お父さんのことなんかほとんど忘れていたけど」
「本当にわかってないんだから。そういう理屈を超えたところにあるのが“絆(ほだし)”ってやつじゃないの」
ムラサは口を尖らせる。一輪は、ムラサの方が娘の自分より父を理解しているのが何だかおかしかった。
「そうね、私も舟幽霊になったって、ムラサと同じにはならないと思ってる」
何度となく繰り返された『貴方とは違う』という拒絶。思うにムラサは一輪のためではなく自分に言い聞かせるために唱えていて、認めがたい事実を――もはや生者でなくなってしまった自分を受け入れる時間がほしかったのだ。一輪はただ、ムラサが気持ちの整理をつけるまで待ってやればよかったのだと、ようやく気づいた。
少しだけムラサに近づけたような気がして、一輪の声は自然と弾む。
「ムラサの言う通り、たぶん、私にはムラサのすべてが理解できない。たとえ私が妖怪になっても、歩いてきた道が違うんだもの。私が聖様に会うまでの道と、ムラサが聖様に会うまでの道は違うでしょう?」
「……うん。私にもお父さんがいたけど、線が細くて一輪のお父さんみたいな逞しい人じゃなかったわ」
「だけど、私はムラサと仲良くなりたい。同じになれなくたって、すべてを理解できなくたって、歩み寄るぐらいはできると思うの」
一輪は改めて自分の思いを告げた。ムラサの罪は消えないし、一輪が簡単に口出ししていいことでもないだろう。けれど、今のムラサはもう暗く澱んだ目をしていない。快晴の空の下の、穏やかな海の水面ような深い青色を湛えている。自分に向き合えているのなら、あとは聖の言うように、他人にも向き合えるはずなのだ。
ムラサは目を丸くしたが、やがて呆れたようにため息をついた。
「一輪って、やっぱりすごく変わってるよね」
「そう?」
「なんで自分を殺そうとした相手が怖くないのよ」
「私は死んでないもの。それに、ムラサの抱えるものを何も知らずに安易に近づいた私もいけなかったのよ」
「……あーあ、どうして私、あの時手が滑っちゃったのかしら。雲山に睨まれ損じゃない」
「雲山はもう怒ってないよ、顔が怖いのはいつものことだから。……え、一言余計だって? それなら自分の口でムラサと喋ってみたらどう?」
小言を言ってきた雲山をけしかけると、途端に雲山はすごすごと引き下がる。一輪が吹き出すと、ムラサもつられて笑った。
「一輪、私、これからもっとお経を書こうと思うの。私が今まで沈めてしまった人達のために」
不意にムラサは神妙な顔つきで言った。
「全員の顔を覚えているから、その人達の分にそれぞれお経を書くの。それで罪滅ぼしになるなんて思ってないけど、せめて何か行動したくて。私だってね、いつまでも聖様に甘えて泣きついてるんじゃ駄目だって思ってたんだから」
「もしかして、あの写経も聖様の提案?」
「写経をやろうって決めたのは私だよ。一輪がお父さんの供養をやるって教えてくれたのは聖様だけどね」
一輪はムラサとの衝突に関して、必要以上に口を挟まなかった聖を思い出す。一輪が潔斎で籠っている間も、色々とムラサに助け舟を出していたのだろう。ムラサが今に至るまでの支えになったのはやはり聖だ。聖には敵わない、と畏敬の念を強めると共に、一輪は少しだけ自分の力不足が悔しく思えるのだった。僧侶としては、一輪はまだまだ聖の足元にも及ばない。
ムラサは不意に一輪を見つめてきた。ムラサにまじまじ見つめられるのは初めてで、一輪は首を傾げる。
「一輪はお父さん似だよね」
「え、そう? ムラサまでそんなこと言うの?」
「あ、やっぱり言われたことあるんだ」
「お母さんによく言われたわ。そりゃあお父さんも好きだけど、私は優しくてお淑やかで美人だったお母さんに似てるって言われたいのに」
「は? ……ふ、ふふっ、似合わないよ。一輪って全然お淑やかじゃないもの」
「失礼な、花も盛りの乙女を捕まえてそんなこと言う?」
「花盛り? “一輪”しかないのに?」
「あっ、ひどい!」
二人は顔を見合わせ、笑い出した。こんな風にムラサと戯れて、冗談を言い合えるのが嬉しかった。
「大丈夫、一輪は一輪でも大輪だよ。梅にも桜にも見劣りしないわ。ねえ、雲山?」
「そんな気休め言っちゃって。……え、何?」
肩をすくめる一輪に、雲山は珍しく声を張って言う(それでもムラサには聞こえないらしいが)。
いかにも、一輪は雲の海に花開いた美しい大輪だ。誰にも負けない、誰にも劣らない。いや、比べる必要もない、常春の花だ。
雲山は穏やかに微笑んでいる。あまりにも雲山らしくない美辞麗句の数々に一輪は頬を染めた。
「な、何? 照れるよ、そんなの」
「あははっ、一輪でも照れたりするんだ。珍しい」
ムラサは動揺する一輪を見てけらけら笑う。春の麗らかな日差しが三人を温かく見守っているようだった。
◇
寅丸星はよくできた妖怪である。
僧侶として一通りの修行をすべてそつなくこなし、妖怪の身ゆえか厳しい荒行すら平気であり、読経は淀みなく写経は達筆である。掃除や炊事といった日々の雑用も嫌な顔をしないし、寺を訪ねる客には妖怪にも人間にも穏やかに接する。親身になって相手の話を聞き、仏の教えをわかりやすく聞かせる。
そして何より、彼女は聖が妖怪と人間、両方の救済を志してから一番に迎えた弟子なのだ。必然的に聖からの信頼も厚く、聖が寺を開ける際はいつも『星、留守番をお願いね』と頼むし、任された星も聖のいない寺の運営を万事つつがなくこなすのである。
「星が羨ましいわ」
一輪は星と共に読経をしている最中、ぽつんと言った。一輪があからさまに星へ羨望を伝えるのは今に始まったことではない。星は『またなの?』という顔をして、ほんの少し眉を下げた。
「一輪、貴方は立派よ。貴方が父君のために行った読経は素晴らしかったわ。貴方がお寺に来てからまだ一年と経っていないのに、人の子の成長は早いのね……なんてしみじみ思ってしまうぐらい」
「そうやって褒め言葉がさっと出てくるところも憎らしいわ」
「……ねえ、雲山、どうしたらいいかしら?」
苦笑いを浮かべて星は傍らの雲山に話しかける。助けを求められた雲山はすかさずそう困らせてやるなと小言を言ってくる。いつまで経っても一輪以外と直接口を聞けない雲山だが、星は雲山に対して何かと気を遣い、声をかけてくれるのである。
(真面目同士、気が合うのかしら)
一輪はおかしくなって笑いをこぼす。羨ましいといったって、一輪は決して星を嫌っていないし、むしろ好ましく思っている。
「無駄だよ星、一輪はしつこいんだから」
すると、別の部屋で写経をしていたはずのムラサまで顔を出し、呆れた眼差しを一輪に向けてくる。
「そういうムラサは写経はどうしたの?」
「もう日が落ちてきたわ。そろそろ夕餉の支度をしようって声かけにきたのよ。一輪、星を困らせてる暇があったらいの一番に支度にかかったらどう?」
「えっ、もうそんな時間? ……本当だ、月が出ているわ」
一輪が開け放たれた格子の外を見やると、橙色の空に細い月が浮かんでいる。夏に入って日暮れが遅くなってきたためか、少し油断していた。
「それじゃみんなで始めましょうか」
「あ、ごめんなさい、私は聖に呼ばれているから手伝えない」
「って、また? 最近多いよね」
「ちょっとね……。一輪、雲山、ムラサ、お願いね」
星は申し訳なさそうに手を合わせ、一人先に立ち上がり部屋を後にした。
「ムラサのお守りが終わったと思ったら、今度は星に付きっきりなのね。聖様、お休みする時間はあるのかしら」
「悪かったわね聖様にべったりで。何、最近一輪がやけに星に絡むのはやきもちなの?」
「そうかもね」
一輪は素直に答える。
春が過ぎ、初夏の薫風が心地よいこの頃、聖は何か星と二人きりで大事な話があるらしく、今日のように日が暮れると星を私室に呼び出すのである。
『星は聖様と何を話しているの?』
『まだはっきり決まったわけではないけれど、留守番以外で私に頼みたいことがあるそうなの。その相談というか、打ち合わせというか……正式に決まったら一輪達にも話すわ』
以前率直に尋ねたら、星は曖昧に答えた。ただでさえ聖が頼み事をするときはいの一番に星へ行くことが多いというのに、いっそう信頼の厚さを見せつけられた気がして、一輪は少しばかり衝撃を受けた。
(いったい聖様は何を星に任せようっていうの)
ムラサはやきもちと称したがおそらく間違いではない。一輪だって星に負けず劣らず聖を慕っているのに、己の実力不足とはいえ向けられる信頼の差が歯痒いのだ。
「星が一番、聖様との付き合いが長いのよ。私と雲山が弟子入りした頃にはもう星は聖様に仕えていたもの。だから私には悔しくって」
「そんなこと言ったって月日は逆さまに流れないよ」
「わかってる」
信頼は一朝一夕では積み重ならない。法力もそうだ、聖や星に手ほどきを受けているが、一輪はまだ法力をうまく使いこなせない。聖からもらった金輪は一輪の法力と雲山の法力をつなぐ。足並みを揃えるには、一輪も雲山も更なる修行を必要としているのだ。
結局はないものねだりだとわかってはいても、一輪は思っていることを心の中に留めておく性格ではないので、つい本人に言ってしまう。星もいつものことと慣れているので、過剰に引きずったりしない。
一輪は開け放たれた格子の外に見える月を眺めた。次第に空は紫色に染まり、月の光が金色に輝く。夏の月は春の月とはまた違った趣があるように思える。
「春の朧月、秋の名月。冬の冴えた月だって見る甲斐があるのに、夏の月が言葉の端にもほとんど登らないのはなぜかしら。古今集の夏歌なんて郭公(ほととぎす)ばかりだものねえ」
一輪が何気なくつぶやくと、表情を硬くしたムラサが格子を閉めた。
「ちょっと、暑いんだから開けっ放しでいいじゃない」
「月見なんて気軽にやるもんじゃないわ」
「どうして?」
「私も妖怪になって初めて気づいたんだけどね」
締め切った格子を背に、ムラサが怒ったような顔をして言い切った。
「月の光は妖怪を狂わせるのよ」
「……知ってるけど」
「妖怪に力を与えるけれど、あまりに大きすぎるから、制御できなくて妖怪は我を失ってしまうの。呑気に綺麗だなんて愛でていられるのは人間だからよ」
「雲山が暴れたことなんてないけど」
「だーかーら、雲山はいろいろ特例なのよ。雲山をぜんぶ基準にしてると一輪の妖怪観はゆがむよ」
「何それ、失礼しちゃう」
月の出ている夜も雲山はいつも通り一輪のそばにいる。平気だよねー、と声をかけると、雲山はひかえめにつぶやく。一度退治されたせいか、満月の光の影響はさして強くない。けれど少し気分が高揚するものだ。もっとも、自分は一輪の元で制されている限り、我を失い暴れることはないだろうが。
「そっか。要は、私がしっかりしていればいいのね?」
懐から金輪を取り出して掲げると、雲山はうなずいた。雲山を凶暴な化け物にするか頼もしい仲間にするかは一輪次第だ。
「さ、わかったなら早く支度を始めようよ」
ムラサに促され、一輪と雲山も夕餉の準備へ向かった。支度が終わる頃になっても星と聖が戻ってこないので、一輪は雲山を伴い聖の部屋を尋ねた。
「ずいぶん長く話しているのね。……え、気になるかって? そりゃあ気になるけど、大丈夫、無理に聞き出しはしないわ」
まあ例によってこっそり聞き耳を立てるくらいはしようかな、とも思っていたが、雲山の手前口にしない。
格子の外から部屋の中を伺うと、紙燭によって二人の影が映し出される。一輪が声をかけようとしたところで、星の声が聞こえてきた。
「やっぱり私、不安です」
いつになく切羽詰まった、不安げな声音に一輪は思わず雲山と顔を見合わせた。
「今はまだ平気ですけど、これから月がどんどん肥え太って、満月の夜に光が強くなると思うと……」
「星、落ち着いて。ゆっくり息をするの」
焦りの滲む星につられてか、聖の口調もどことなく穏やかでない。二人は何を話しているのだろう。声をかける機会を失って、一輪は口をつぐむ。
「貴方に負担をかけてしまうのはわかってる。けれど、どの道、貴方は過去からいつまでも目を背けてはいられないのよ。自分の本質を忘れてはいけないわ」
「ええ、わかっています。だけど、私、自分でもどうなってしまうかわからなくて……」
「星」
聖の声は、子守唄を聞かせる母親のように優しかった。
「貴方は今まで立派に私の弟子として勤めてきた。私の期待に応えてくれた。大丈夫、貴方はもう昔の貴方じゃない。自分を信じるのよ」
「……はい」
星は最大級の賞賛を聖からもらっている。しかし一輪は、此度ばかりは羨望より心配が勝った。
(満月の夜に何が起こるの? 聖様は、星に何をさせるつもりなの?)
『私が満月が駄目な理由……ちゃんと話していないでしょう?』
以前、星が後ろめたそうに一輪に言ったのを思い出した。立ち尽くす一輪に、雲山が小声で話しかける。
いずれ話すと星は言っただろう。今はまだ無理に聞き出す必要はない。聖がついているなら、悪いようにしないはずだ。
「……そうよね、うん。星が自分から話してくれるまではね」
待つのも大事だとムラサの時に知ったはずだ。一輪はすぐさま切り替え、何事もなかったかのように「聖様、星、夕餉の支度が整ってますよ」と声をかけた。
◇
「ですから、雲山に指示を出したら一輪は自分の身の回りに気を配って……」
「こんな感じ?」
「うん、そうそう」
後日、一輪と雲山は星から法力の指導を受けていた。法力といっても命蓮のような病の治癒や物の運搬などではなく、雲山の怪力を活かして身を守るための護身術に近い。星自身、聖に比べたら体術は得意ではないそうなので、とにかく一輪の保身を第一にと教えられていた。
言われた通りに金輪をかざすと、金輪は光を帯び、雲山は一輪の指示通りに動く。そして一輪は隙が生じないように注意を払う。
「私は雲山を見なくていいの?」
「雲山は一輪をよく見ているし、雲山の速さなら充分間に合うわ。それに何度も言うけど、雲山を操る一輪がただの人間だと知られたら、一輪が真っ先に狙われるのよ。二人で力を合わせるなら、一輪が無事でいなくちゃならないのだから」
「まあ、私だって雲山の負担になりたくないしね」
星に向かって答えながら、一輪は今一度金輪を見つめる。一輪が法力を込めると、雲山の呼吸を身近に感じる。聖が二人の法力を合わせるように調節して作ってくれたからだろう。
雲山が一輪の元に舞い戻ってくる。自分も少しずつ慣れてきた、大丈夫、妖怪は頑丈なんだからいちいち安否を気にするな。自分は一輪の指示を信じる、と言うのだ。
「ありがとう。私ももっと雲山の良さを活かせるようにがんばるわ」
「へえ、珍しく外に出て修行をつけてるんだ」
そこへ、いつものように写経をひと段落終えたムラサがやってきた。
「やっと十人なの」
一輪達が修行を中断して廊下に腰掛けると、ムラサは静かに言い放つ。
「やっとこの人数。だけどまだ足りないわ。一人一人顔を思い浮かべているとね、どうしても書き写すのに時間がかかるの」
ムラサは苦笑いを浮かべた。
自分の沈めてしまった人達の分だけ写経をする――いったい全部で何人になるのか、なんて星はもちろん一輪だって聞かない。ムラサなりに自分の罪と向き合おうとしているのだから、余計な詮索は無用だ。
「……え、どうしたの?」
その時、珍しく雲山が沈んだ声で話しかけてきた。
自分はムラサのように、屠ってきた人間の顔を覚えていない。思えば自分も名実共に入道となったのだから、過去の罪に向き合うべきだった。しかしこの有り様では償いはどうするべきか。
「それならせめて自らの行いを忘れなければいいのよ」
一輪は浮かない顔をする雲山に明るく言った。何事かとムラサと星の視線が集まる。
「考えてみれば、私も最近は雲山がかつて人間を襲う見越入道だったのを忘れかけている気がするわ。退治した私こそが覚えておかないとね」
雲山は首を振る。自分の罪を一輪が背負う必要はない、と。
一輪は肩をすくめる。人間、やられたことはしつこく覚えていても、自分がやってしまったことは都合よく忘れがちである。まして妖怪なら、長い時を生き抜くために記憶の取捨選択を人間以上に巧みに行うだろう。
だから人間より忘却の上手い妖怪に“忘れない”行為は意味があるんだ、と一輪は考えた。
「そんな寂しいこと言わないでよ。一緒に生きるんだから、一緒に考えましょう。雲山だけ落ち込んでいたら私も悲しいのよ」
「なるほどねえ」
ムラサが感心したように声を上げる。さっきからほとんど二人でしか会話していなかったのに、ムラサは雲山が何を言ったのかおおよそ把握したらしい。
「雲山はよく一輪に付き合えるなあと思ってたけど、お互い様なのね」
「何それ。私が無理矢理従えているわけじゃないのよ、しもべじゃないんだから」
「自らの行いを忘れない――それはとても大切なことよ」
沈黙を保っていた星が、まるで自分に言い聞かせるように言った。一輪達の注目が集まると、星はそっと目を細めた。
「私も昔は人間を襲っていたのよ」
「ええ? 星が?」
「まあ、そうでしょうね。虎の妖怪だもの。私と同じ気配がしたわ」
一輪が目を瞬くのに対し、ムラサの反応は平静だった。
一輪は俄かには信じられなかった。一輪の目に映る星はいつだって温厚で優秀で、人間の一輪に対しても初対面の時から礼儀正しかった。聖は身寄りのない妖怪の保護もしていたから、てっきり星は力の弱い妖怪だと思い込んでいたのだが――見た目に惑わされてはいけない、という聖の言葉と、昨夜聖の部屋で聞いた星の不安げな声を思い出した。
星は一輪の眼差しを受け止めて、うっすら微笑んだ。
「一輪。私が妖怪の見た目にも意味があると言ったのを覚えてる?」
「ええ。そういえば、星はあんまり虎に見えないわ。大陸の虎の絵巻とか見たけど、星の見た目とは違うもの」
「私は獣の虎じゃないから。この国に虎はいないでしょう? 人間の想像から生まれたの。私は聖が好きだから、聖のように人の形を真似ているのよ」
「へえー」
一輪は改めて星を見つめた。袈裟は夏に入っても着崩すことなくきっちり着込み、癖のある金の髪は、ところどころ黒色が混じっている。肌は青白いムラサよりは健康的で、瞳は金色に輝く。ムラサの目を大海原の深い青とするなら、星の目を何に喩えよう。
食い入るように見つめてくる一輪に星は困惑した。
「一輪? そんなに見られると、ちょっと……」
「星の目は琥珀のように綺麗ね」
「な、何? いきなり」
「昔の人の装飾品。とても透き通った金色に輝く石で、綺麗なのよ」
「どうしたの、一輪」
「まさかこないだのお詫びのつもり?」
「……それもあるかも」
ムラサはからかうように笑うが、言葉にされると何となく罰が悪い。星には星の葛藤や反省や努力があって今の星に至るのに、ただ羨むばかりの自分が少し恥ずかしかった。
「ごめんね、羨ましいとか憎らしいとか、私が精進しなさいって話よね」
「一輪……」
一輪にはムラサや星や雲山のように、人間を殺めた経験がない。だから彼女達の葛藤や自らの罪を見つめる姿勢を完全には理解できないだろう。もっとも、一輪は誓って今後も誰かを殺めるつもりなどないが。
星はそっと一輪の手を取った。
「貴方にだってできることはあるわ。人間と妖怪の共存……聖の理想のためには、妖怪だけじゃ成り立たないの」
「聖様は人間にも慕われているでしょう」
「その人間達は聖様が妖怪に心を寄せていることを知らないのよ」
ムラサが口を挟む。聖の表の顔と裏の顔、双方を知っている人間は一輪だけだと言いたいのだ。
「だから焦ったり気を落としたりする必要はないわ。一輪がいてくれるとね、私も心強いの」
星の微笑みは優しいし、穏やかだ。あの夜の焦燥し怯える姿が嘘のようだった。
そう言われると、ただの人間でしかない自分にも貴重な役目があるように思えてきて、少しばかり心が浮上する。劣等感なんて抱くほど一輪は卑屈ではなかったが、妖怪に囲まれて、ムラサの言う『貴方と私は違う』が今になって響いてきたのかもしれない。そのムラサとだって、今ではすっかり打ち解けているけれど。
「あら、修行もそこそこにみんなで仲良く談笑?」
そこへ聖が顔を出した。聖はいつもの微笑を浮かべていたが、一輪達は自らの師匠たる存在の登場に焦った。
「な、怠けてたわけじゃありませんよ!」
「たまにはお喋りに花を咲かせるのも楽しいでしょうね。ましてやここは若い女の子ばかりですし」
「雲山もいますよ?」
「雲山は一輪以外と喋らないじゃない」
「いいのよ輪には加わってるんだから」
言い合うムラサと一輪を聖は微笑ましく見守っていたが、やがて視線を星へと移した。
「星。少し、いいかしら」
「――はい」
まだ日は暮れていないが、いつものように相談が始まるのだろう、と一輪は二人を見送った。
「あれ、また羨ましいとか言わないんだ」
「ムラサ、私だってただ指を咥えてるだけじゃないの」
一輪は再び修行に戻る。聖はかつて弟の命蓮から法力の手解きを受けたそうで、この寺にもいくつか命蓮の法力が宿る遺品が運び込まれている。一輪と雲山もまた星や聖の指導だけでなく、命蓮の恩恵にあやかりつつ己の力を高めるのだ。
星も心配ではあるが、聖がついているなら大丈夫だ。金輪をかざす一輪に、ムラサはぽつりと言う。
「一輪はさ、私達が人間を殺してきたって聞いても平気でいられるよね。どうして?」
「へ?」
一輪が振り返ると、ムラサは青みがかった目で一輪をじっと見つめてくる。一輪はしばらく考えて、
「別にまったく気にしてないわけじゃないよ。人間からしたらやっぱり悪さをする妖怪は見過ごせない。だけど、ムラサも星も雲山も、みんな自分のやったことに自分で向き合っているじゃない。それなら私がとやかく言うことなんて何もないわ」
晴れやかな笑みで告げた。過ちを犯した過去は消えずとも、この先どうすべきかはまだ考えられる。殺生ではないが、聖だってそうだ。だから一輪はムラサ達を信頼して一緒に暮らしてゆける。
ムラサは呆気に取られて口を開けていたが、やがてため息まじりに言った。
「やっぱり一輪は変わっているわ」
「後ろ向きより前向きの方がいいと思ってるんだけど」
「貴方みたいに極端に妖怪を恐れない人間も珍しいんだから。あんまり親しんでるといつか本当に妖怪になってしまうよ」
「私が? ……あっはっは! それも悪くないかも」
「笑い事じゃないでしょうよ、もう」
ムラサは肩をすくめ、雲山も安易に妖怪に近づきたがるなと忠告してくるが、誰よりも一輪の近くにいる妖怪である雲山が言うのでは説得力がない。
(そうねえ、私も妖怪は根っこのところはそんなに悪いもんじゃないって思ってるけど、やっぱり人間が妖怪になるのってあんまりよくないのかしら)
一輪は聖の憂いを帯びた眼差しを思い出す。妖術に手を染めて、人ならざる者に転落し――私のようになってくれるなと言わんばかりの眼差しが、『自らの行いを忘れないのはとても大切なこと』と言った星の眼差しと重なった。
その夜は弓張月だった。聖がいるなら、という一輪の安心とはよそに、星はその日から一人で部屋に閉じ篭ることが多くなった。来客への対応はおろか、修行にすら顔を見せず、聖もこの頃は寺に留まって来客も制限しているらしかった。
星もまた潔斎に入ったのかと聞けば、そうではない。顔を見に行くのすら制されて、これ以上は待てないと耐えかねた一輪は聖に問いかけた。
「聖様、教えてください。星に何をさせているんですか」
一輪が強い口調で詰め寄ると、聖も「そうね。あの子は嫌がっていたけれど、これ以上隠すのは無理があるでしょう」と、真剣な面持ちで一輪と向き合った。
「あの子は人間の中に溶け込もうと必死に努力してきたわ。だけど、星もれっきとした妖怪。ムラサのように、抑えきれない本能を抱えているの」
「星はムラサよりずっと大人しく見えますよ」
「あの子も戦っているのです。内なる虎と。……今度の満月の夜に、あの子は恐ろしい虎になってしまうかもしれない」
「虎……」
一輪は目を瞬く。満月の光は妖怪を狂わせる。ムラサのように、星もまた妖怪として牙を剥くのだろうか。ムラサがもう人を沈めるのはいやだと言ったように、星もかつての獰猛な獣に戻るのを恐れているのかもしれない。星の怯えた声が脳裏に反響する。
「私にできることは」
聖は首を振る。
「もしもの時は、私が出ます。星のいる部屋に近づいては駄目よ。一輪は雲山と修行を続けなさい、ね?」
聖の声は優しくも言葉には厳しさがあり、またも自分は力不足なのだと一輪は実感した。
今夜の月は十三夜。あと二日で満月になる。心配になって、一輪は聖に止められたのも無視して星の籠る部屋の前を通りかかった。
中から、微かな星の呻き声が聞こえてくる。
「どうしたの、星、大丈夫? 具合でも悪いの?」
「一輪……?」
一輪の声に気づいて、星が中から弱々しく答える。かと思えば、閉じた格子の奥で星は声を張り上げて叫んだ。
「駄目よ、どうして来たの。近づかないでって聖に言われなかった?」
「ごめん、どうしても心配になって。格子は開けなくていいわ。だけど、せめて声を聞かせて」
「一輪、わからないの? 月の顔を見てはいけないのよ。竹取の翁の物語を忘れたの?」
「星? 何を言っているの?」
星らしくもない、噛み合わない会話に一輪は困惑する。竹取の、かぐや姫の物語なら一輪だって知っている。月を見ては激しく泣くようになったかぐや姫に対し、月の顔を見るなと翁は言うのだ。
「昔の人間はまだ月見を忌むことだと覚えていたわ……だけどもう忘れてしまっている!」
一輪は気迫の籠った声に思わずたじろいだ。星の姿は見えない。けれど絶え間なく聞こえる呻き声から、深い懊悩が感じられた。
「怖い、私が私でなくなってしまいそうで怖いの。いやよ、今更人を喰らったって……」
星がこんなにも怯え震えた声を上げるのは初めて聞いた。何とかしてあげたい、と思うも、自分にどうにかできることではないと思い出して、一輪はまた歯噛みした。
「雲山、いるのよね? 貴方はいつだって一輪のそばにいるものね」
突然雲山の名前が出てきて一輪は驚く。雲山がうなずいたのを見て、「ええ、私の隣にいるわ」と答えた。星は格子越しに雲山へ語りかけてきた。
「お願い雲山。満月の夜、どんなことがあっても一輪から離れないで。一輪を守れるのは貴方しかいないの、お願い」
「星……」
一輪は星の悲痛な願いに言葉も出ない。不安と恐怖に苛まれながら、星はなお一輪の身を案じている。
雲山が口を開く。約束する、必ず一輪のそばにいる。絶対に離れない。声は微かなれど、力強い響きだった。
一輪がそのまま伝えると、星は「よかった……」と安堵の声を漏らした。
「星、満月の夜も今みたく閉じこもるのは駄目なの?」
「駄目。私は昔の私と向き合わなければならない。そのために必要なのよ。……一輪」
星は最後に一輪に何かを言いかけたが、逡巡の末、
「ううん、何でもないわ。さあ、早く戻って」
と、それきり口を閉ざしてしまった。
◇
そして迎えた満月の夜、一輪は雲山とムラサと共にまんじりともせず部屋にいた。聖は例の星の籠る部屋にいて、決して近づかないようにと言い含められている。
「ねえ、ムラサは平気なの?」
「気分が落ち着かないけど、光をじかに見なければ大丈夫。雲山も落ち着いて……というか、何か覚悟を決めたみたいね」
ムラサはそわそわして、しきりに星と聖のいる部屋の方角を気にしている。頭には普段は被らない頭巾を被って、屋内でも月光の照射に注意を払っているようだ。
雲山はといえば、ムラサよりはずっと落ち着いて一輪の傍らに控えている。星との約束のせいか、朝からいつも以上にぴたりと寄り添って、一輪から離れようとしない。
「雲山、そんなにくっつかなくても私は離れないわ……」
その時、神鳴りが大木を割くような轟音が寺中に響いた。続いて地震と紛うほどの地鳴りで体が縦に揺れる。
「わっ!?」
「な、何っ!」
一輪とムラサは慌てて外へ出た。ムラサはいよいよ頭巾を深くかぶって月明かりを避ける。
今の轟音は間違いなく星のいる部屋からだ。裸足のまま庭へ降りて音の方向へ向かえば、大粒の数珠を手にした聖の背中が砂煙の中に見えた。
「聖様!」
「やはり、こうなってしまった……」
聖の声は低く険しい。一輪は砂埃にむせながら、その奥に潜む強大かつ身の毛のよだつ妖気に凍りついた。
金色に黒の縞模様を持った、見たこともない巨大な猛獣が、唸り声を上げている。
「まさか、あれが、星……?」
「ええ。私と一緒に部屋に閉じこもって、私がほんの少し格子を開いたの。満月の光が差し込んで、星が月の顔を見た瞬間――」
「星が虎になったのね」
ムラサは震え声でつぶやく。なぜ格子を、と今は尋ねる暇もなかった。
あんな化け物が星なのか? 一輪には信じられなかった。獣の姿は絵巻で見た大陸の虎に似ているようで、やはり少し異なる。四肢から伸びる爪は鋭く、一本で人間の胸を貫いてしまいそうだった。人の顔ほどの大きさの牙をのぞかせ、滴り落ちる唾液は井戸水をひっくり返したよう。金の瞳は血走り、獰猛な光を湛えて聖達を睨みつけている。
聖が片腕を広げて前に出た。
「貴方達、手出しは無用です。下がりなさい」
「だけど!」
「安心なさい」
聖はすかさず巻物を取り出して読み上げる。妖しげな光が聖の全身を包んだ。
聖が若返りの術を得た際に妖術を取得したとは聞いていたが、実際に使うところを見るのは初めてだった。聖の妖術は、肉体を鎧のように頑丈にする。
「星! 私の声が聞こえる? 私よ、聖白蓮よ。怯えないで、私はここにいるわ。貴方の目の前にいるわ!」
聖が声を張り上げて猛獣に、星に呼びかけると、星は猛然と突進する。聖が人間離れした俊敏な動きで避けると、狙いを見失った星は庭に植えられた松の木に突っ込み、松の巨木は無惨にへし折られた。
地を蹴れば大穴が開き、咆哮は聞く者の耳を痺れさせる。あの鋭い牙に噛まれたら、ひとたまりもないだろう。我を忘れた星は、もう聖が誰かもわかっていないのだ――変わり果てた星を見上げて一輪は愕然とした。
(星。貴方はあの時、『私の姿を見ないで』と言いたかったの?)
一輪は最後に星と言葉を交わした夜を思い出す。一輪の目の前にいるのは、見たことのない猛獣だった。理性のかけらもなく、普段の穏やかで優秀で、聖の自慢の一番弟子たる星はどこかへ消えてしまった。
一輪が琥珀のようだと言った目には、野卑な欲望が宿る。正気を失い、月の光を浴びるごとに卑しい輝きを増す。熊や猪や山犬より凶悪な、血に飢えて獲物を求める野獣だ。
「星、こっちよ、こっち! 覚えている? 私は貴方を導くと約束したのよ! 私の声を聞いて。戻ってきて!」
聖はなおも星への呼びかけをやめない。どんな姿に変わり果てても、聖にとってはかわいい弟子のままなのだ。
並の人間は恐れをなして、逃げ出すだろう。あるいは恐怖のあまり立ち尽くすだろう。
一輪は違う。驚きこそあれ、今、目の前にいる星が怖いとは思わなかった。
(確かに今の貴方はいつもの貴方じゃない。だけど星、私には、貴方がひどく怯えて傷ついているように見えるのよ……)
聖には手出し無用と言われた。ムラサは自分まで月の光で我を失うのを恐れて、影に潜んでいる。聖すら手こずる相手を一輪がどうにかできるとは思っていないが、あるいは雲山の怪力なら星を抑え込むくらいはできるかもしれない。
一輪が金輪を構えたその時、雲山の大きな両腕が一輪の体を羽交い締めにした。
「雲山!?」
雲山は真剣な声でつぶやく。星と約束した、一輪から離れないと。一輪を守ると。
「雲山、お願い、離して! 星を止めなきゃ!」
一輪は力の限りもがくが、雲山はてこでも離すまいと力を込めて、びくともしない。
今の星は一輪の手には負えない、聖に任せるべきだ、と雲山は続けて言った。
「だけど、このままじゃ、星は誰よりも大好きな聖様を……!」
星は再び聖に狙いを定め、聖は攻撃する様子もなく星の出方を伺っている。星は聖が敬愛してやまない恩人だと忘れている。単なる餌となる人間か、あるいは自分を邪魔する敵ぐらいにしか思っていない。もし聖に攻撃したと知ったら、我に返った星は傷つくはずだ。
早く止めなければ、と焦りが募る。何のための修行なんだ、何のための法力なんだ、普段非力な人間の一輪がこの中で持つ取り柄なんて、月の光で狂わないことなのに――。
「離せえええええ!!」
星が雄叫びと共に地を蹴った瞬間、一輪は強く金輪を握りしめて、法力を込めた。法力を通じて、雲山に命令を下す。雲山は微動だにせず、一輪を抱き抱えていた。
星は一直線に聖へ向かって走る。聖は避けるそぶりすら見せず、じっと星を見つめている。聖は不意に目を細めて――星の体を片手で受け止め、首元に自らの体を寄せた。
「星。懐かしいわね。貴方と初めて会った時も、私は貴方の首元に額を寄せたっけ」
唖然として一輪は動けなかった。聖に止められてなお、星は牙を剥き出しに聖へ唸るのに、聖は星の体を優しく撫でる。
「またお腹が空いた? ……違うわよね。満たされないのは、貴方の心。不安で仕方ないのに、無理に強がって隠そうとして……。いいの。私が貴方をそうしてしまったんだから」
聖の声には罪悪感が滲んでいた。やがて「おいで」と囁いた。
「受け止めてあげる。貴方の抱える迷いも不安も恐怖も、ぜんぶ私が一緒に背負いましょう」
その言葉を皮切りに、星が再び咆哮を上げた。次の瞬間、星の突撃を正面から食らった聖は、勢いよく弾き飛ばされた。聖が高く高く宙へ舞う姿が恐ろしく緩慢に見え、一輪は一瞬、釈迦が前世で飢えた虎のために身を投げた話を思い出す。聖の体は地面に叩きつけられた。
「聖様!」
たまらず駆け寄ろうとしたムラサも雲山は片腕で引き寄せて止める。一輪は変わらず雲山の手の中にいた。
地にうつ伏せになっていた聖はゆっくりと起き上がった。星の当身をじかに受け、地面にぶつかったのに、土にまみれただけで体に傷がない。一輪はようやく聖が肉体強化の術を使っていたのを思い出した。
「う、うう……」
その時、星の呻きが声色を変えた。猛獣の唸り声から、次第に普段の星の穏やかで凛とした声に近づいてゆく。
聖を突き飛ばして、いくらか星の中に燻る本能が満足したのだろうか。巨大な獣の体が小さくなり、鋭い爪も牙もなくなって、いつもの人型に戻る。星は頭を押さえて、虚ろに視線を彷徨わせていたが、やがて欲望を失くした金の目が、同じように地面に膝をついたまま星を見つめる聖の姿を捉えた。
「ひ、じり……?」
「星。戻ってきたのね」
聖はまるで何事もなかったかのように、優しく微笑みかけた。しかし星の顔はさっと青ざめる。虎になって我を失い暴走した時の記憶は、星の中に刻みつけられていたのだ。辺りにはそこら中に獣の足跡が残り、野分の後のように庭は荒れ果てている。
両腕で頭を抱え、星は地面に顔を擦り付けんばかりの勢いで蹲った。
「私、聖になんてことを……!」
かぶりを振る星の声は悲哀に満ちていた。髪を振り乱し、涙まじりの声で狼狽える姿に一輪は拳を握りしめた。いつも穏やかで、真面目で、まるで姉のように一輪の指導にあたる星が、幼い童みたく取り乱している。
「星、落ち着いて」
「いや、いやっ!」
差し伸べた聖の手を振り切って、星は地面に突っ伏した。やがて小さく縮こまった星のすすり泣きが聞こえてきた。
「私は、消えてしまいたい……」
一輪は目を見張った。本当に消えいらんばかりの弱々しい声に、一輪の胸は締め付けられる。
同じく言葉を詰まらせた聖であったが、すぐさま眉をつり上げ、星の両肩に手を置いた。
「星! 私の体をよく見なさい」
指導にあたる時のように、聖は厳しく言い放った。聖の怒声に星も思わず顔を上げる。聖は両腕を大きく広げて星の前で仁王立ちした。
「私の体に、貴方のつけた傷など、どこにもありませんよ」
聖は背中から袖の下まで、全身を隈なく星に見せつける。聖の言う通り、聖の体に傷跡はかすり傷すら一つもない。聖に圧倒され、それでもなお不安を残したままの星に、聖は今度は目を細めて星の体を抱きしめた。
「怖かったのね。自分を見失って、つらかったのね。……私があんなことを頼まなければ貴方は苦しまずに済んだのに、貴方は決して逃げなかった」
「聖……そんな、私は……」
「だけど、貴方は自分で正気に戻った。まだ月の光はあんなにも明々と私達を照らしているのに。星、私の声が聞こえたのでしょう?」
聖の言葉に、星は息を呑む。聖は何度も星の背中をさすってささやいた。
「貴方が消えてしまったら寂しいわ。ねえ、お願い、これからも私達と一緒にいてくれる? もう少し、私は貴方に教えたいことがあるの」
「ひじ、り」
聖が浮かべた菩薩のごとき笑顔で、とどめとなったのか、星の涙腺が決壊した。星の目から溢れた涙が月明かりで鮮明に光る。妖怪を狂わせる憎らしい月の光が、重なり合う二つの影を煌々と照らし出していた。
聖の胸の中で星は泣いた。獣の慟哭のような、悲しい泣き声だった。
雲山の腕の中で、一輪はムラサ同様に、ただ成り行きを見守るしかできなかった。握りしめた金輪には、今日はもう法力を込められそうにない。
(……私は、何もできなかった)
一輪は改めて己の無力を痛感した。雲山が何事かを一輪に語りかけたが、ろくに頭に入ってこなかった。
◇
その夜は誰もが疲れ果ててしまったため、寺の修復は翌朝以降に持ち越すことにして、皆で眠りにつく運びとなった。あのような出来事の後で一輪は眠れるはずもなく、ほとんど褥の上で横になっていただけで夏の短いようで長い夜が明けてしまった。
「……雲山」
忌まわしい満月が沈み、待ちかねた朝日が昇ったところで、一輪はずっと傍らに控えていた雲山へ真っ先に声をかけた。
「私、雲山にひどいことをしたわ」
一輪は二つの金輪を床に置き、雲山の体に手を伸ばした。雲山は何も言わない。一輪の縋り付くような抱擁を黙って受け入れる。
「雲山、ごめんね。無理やり言うことを聞かせようとして……私、自分で雲山はもうしもべじゃないって言ったのを忘れていたのかしら。……ごめんね」
目頭が熱くなるのを堪えて、一輪は頬を寄せる。あの時、雲山は一輪の命令を明確に拒んだ。一輪の法力が伝わったはずなのに、一輪から離れないという星との約束を、ひいては一輪を守るために一輪を決して離さなかったのだ。
……一輪は星の思いも雲山の思いも身勝手に踏み躙ろうとしていた。それが情けなくてたまらない。
雲山はもういい、と優しい声で言った。一輪に怪我はなかったし、星は気に病むだろうが、聖だって無傷だ。壊れた建物なら修復できる、屋根に空いてしまった穴は自分が直そう。だから、もう顔を上げてくれ。星が心配だったのなら、直接伝えればいい。夜が明けて星も落ち着いたはずだ。
「……会ってくれるかな。また『来ないで』って言われちゃったらどうしよう」
珍しく弱気だな、と雲山は苦笑する。確かに心の傷には簡単に触れていいものではない。けれど星はあの後ずっと聖と一緒にいた、星はもう虎に戻らなかった、だからきっと大丈夫だ。他ならぬ聖がそばにいたのだから。
何だかいつもと役割が真逆だ、とおかしくなった一輪は少しだけ笑った。
「そうね。思えばあれからちゃんと話してないし、私はこの通り無事よって伝えてあげた方が星も安心するかも」
一輪は立ち上がると、寝巻きからいつもの袈裟姿に変わり、雲山を伴って星の休んでいる部屋を訪ねた。途中で聖とすれ違ったが、「星はもう大丈夫。なるべくいつも通りに接してあげてね」と微笑まれた。
「星、私よ。雲山もいるわ。入ってもいい?」
「……一輪。ええ、入って」
中から聞こえてきた星の声は、いつもより幾分かやつれていたが、もう昨夜のような焦燥はなかった。
格子を開けると、星の周りには数多の経典が散らばっていた。一心不乱に念仏を唱えていたのだろうか。星は気まずそうに経典をよけて、一輪と雲山の座る場所を空けた。
「一輪。私の姿を見たでしょう」
星は単刀直入に言った。一輪は獰猛な獣の姿が頭をよぎってどきりとしたものの、顔には出さず居住まいを正した。
「恐ろしいと思わなかった?」
星は眉を下げ、真剣な声音で聞いてくる。一輪は「ぜんぜん」と正直に答えた。
「私は虎の星を知らないから、ちょっと驚いた。だけどもう怖くないわ。私は怖いもの知らずなのよ、怯えて二度と口も聞かないとでも思った?」
「……一輪らしいわ」
星はわずかに口元を緩めたが、表情は硬いままだ。
「一輪。私はもう二度と虎に戻らない。聖のおかげかしら、あの後も何度か月の顔を見たけれど、胸の奥が疼くだけでもう私が私でない何かに……虎に呑まれてしまう気配はなかった。だけど、お願いがあるの」
「うん……星が望むなら、私は」
「昨夜の私を、恐ろしい虎の姿をした私を、覚えておいて」
一輪は虚を突かれた。てっきり『忘れて』と言われるものだと思っていたのに、星はその真逆を望んだ。
星は金色の目で一輪を真っ直ぐに見つめてくる。その目にはもう昨夜の怯えも怒りもなかったけれど、張り詰めた剣呑な空気は虎の名残を彷彿とさせた。
「決して忘れないで。私も聖を傷つけたこと、一輪達にまで危害を加えそうになったこと、絶対に忘れないから。……私は妖怪なのよ。聖に会って、心が満たされて、私の生まれ持った本能は少し大人しくなったけど。仏の教えや法力で抑えようとしても、私の中の虎は、人間を貪った罪は完全には消せないの。たとえそれが妖怪として当然の理だったとしてもね。一輪と雲山のように、私はこの罪を誰かと分かち合えない。誰にも渡したくない自分だけのものだから、虎を二度と目覚めないように私の中で眠らせて、ずっと見張りを続けて、一生付き合ってゆくの」
星のただならぬ気迫に、一輪も圧倒されて二の句が告げなかった。
自らの行いを泣いて悔やみ、『消えてしまいたい』とまで口走ったのに、星はもう己の所業に向き合う覚悟を決めている。一輪が簡単に同意も否定も示せない、罪を重ねた妖怪にしかわからない領分だ。
「……わかった。星が虎だってこと、私は忘れない」
それでも一輪は星の願いに応えるべく、力強く宣言した。月明かりの下の悲哀に満ちた猛獣を、無力な自分を一輪は決して忘れはしない。
思い返すと猛然と怒りが込み上げてきて、一輪は星を睨んだ。
「だけど、星こそ覚えておいて! 私が星の目は琥珀みたいに綺麗だって言ったの、今でも変わらないから! どんな姿でも星は星よ。たとえ虎になったって、私は、星が好きなんだから……」
「一輪……」
「何よ、消えたいなんて言っちゃって! 星は妖怪でしょう、人間より長く生きられるのに、私より先に死んだら許さないわ!」
「……ええ、そうね」
「覚えておいて……私の言葉を忘れないで、形見みたく持っていて」
「形見なんて、そんな不吉な言い方」
「忘れないで」
いつのまにか一輪は八つ当たりじみた激昂をして、星が宥める側に回っている。星の苦悩を知ってなお、『消えたい』という言葉が許せなかった。加えて形見と口にしてから、一輪は自分がいつか死ぬ人間だと改めて思い知った。
百年足らずの寿命も人間には充分に長い。しかし長命の妖怪からすれば、ほんの一瞬なのではないか……。死ぬのなんか怖くないはずなのに、頭では理解していたはずなのに、なぜかその寿命の差が、どうしようもなく悲しいと思ってしまった。
「忘れたりしないわ。私が一輪を忘れるわけがないじゃない」
今にも泣きそうな一輪の両手を強く握りしめて、星は励ますように言った。星の目は優しい光を帯びた金色で、普段通りの綺麗な色をしていた。そして一輪と星をはらはら見守っている雲山に優しく語りかけた。
「雲山、ありがとうね。一輪が無事なのは、貴方のおかげでしょう?」
「ええ、そうよ、雲山ったら私の言うことより星の言うことを優先したのよ。おかげで私は無傷」
「一輪、貴方が私を心配してくれているのは充分に伝わったわ。私は妖怪だから、貴方のやきもきする気持ちはきっとわからない……だけど、決して焦らないで」
星はいつもの、妹をあやすような調子で一輪を諭す。
「一輪、私のようにならないでね。ムラサに言われたでしょう? 一輪はまるで妖怪みたいな考え方をするって。この先どんなに法力を極めたとしても、人の道を踏み外すのは、大切な人を傷つけるのは駄目よ」
「わかってる、わかってるのよ!」
自分の考えを見透かされたような気がして、一輪は決まり悪くなり立ち上がる。昨夜の星を目の当たりにしただけあって、星の言葉にはまして重みがあると感じる。星が顔を上げて前を向いて生きてゆけるのならいいけれど、一輪の心は姉弟子の諭しを素直に聞けるほど穏やかでない。
逃げるように星の部屋を後にすると、ムラサに会った。ムラサもまたよく眠れなかったのか、顔色が少し悪い。
「変わってしまうのは怖いことなんだよ」
一輪と目が合うなり、ムラサはぽつりと言った。一輪達の話を聞いていたのか。いや、ムラサなりに昨夜の出来事を経て、考えて出した答えだ。
「自分が自分でなくなってしまう。星はそれが怖かったの。前に星は話してくれたわ、心が満たされた今では昔の自分が別物に感じるって」
「……」
「私もそう。死んだ途端に、私が今までの私とは別物になってしまった気がしたの。聖様には死んだって終わりじゃない、それまでの自分が消えてなくなるのではないって言い聞かされたよ。認めるのに時間がかかったけどね」
ムラサは乾いた笑みを浮かべる。死は終焉ではない――聖が説く仏の教えの根幹だ。だからこそ聖は人間とは存在意義が異なる妖怪にも仏の教えを説いて回っているのだ。
ムラサは同情するような、心配するような目を一輪に向けた。一輪は即座にムラサが何を言おうとしているのかわかった。『同じになって』と柄杓を手に迫ってきたのはつい最近のことなのに、ムラサは正反対のことを一輪に訴えようとしている。
「ねえ一輪、いくら妖怪の力に憧れても、貴方は人間なんだから――」
「ほっといてよ!」
普段ならありがたく受け取れる心配も今は鬱陶しくて、一輪は飛び出した。気分が落ち着かないのは、よく眠れなかったせいだろうか、それとも……。
出家して法の道に入ったのに、星とムラサの言葉で一輪の心は千々に乱れる。雲山と共に様を変えた時、心が清水のように澄み切ったと思ったのは、気のせいだったのか。煩悩も執着も断てず、物思いの種は増すばかりだ。
「雲山、私を雲の果てまで連れて行って!」
走って庭に降りた一輪は雲山に懇願した。雲山は心得た、とすぐさま雲の体を台座にして一輪を乗せる。目に痛い夜明けの燦々とした日差しを真正面から受けて、一輪は雲山と共に空へ飛び上がった。
◇
雲山に連れられて空の上へ昇ってゆく一輪の姿を、ムラサは地上から眺めていた。
「雲山が地上から空へ飛んでゆく。これじゃ雲というより、海人の焼く塩の煙が昇るみたいね」
「煙なんて言い方はよしてよ」
「何、星、まだ弱気になってるの?」
星が不安げに遠ざかる一輪と雲山を見上げるのを見て、ムラサは苦笑する。きっと葬儀の煙を連想するから、と星は言いたいのだろう。
星は首を横に振った。
「私はもう大丈夫。一晩中、聖と話したし……私ね、聖に怒っちゃったの」
「あら、珍しい。星が聖様に声を荒げるなんて想像つかないわ」
「だって、いくら私を止めるためとはいえ、自分の身を投げ出すなんて。あんなことはもうしないでってお願いしたら、約束はできないけどなるべく努力はする、ですって。いくら嘘をつけないからってあんまりだわ。私は胸が潰れそうよ」
「そうねえ。聖様、妖術が使えるからって無茶するのよね。一輪と雲山が戻ってきたらみんなで念を押しておきましょ」
「一輪は帰ってくるの?」
「当たり前でしょ。ちょっと、しっかりしてよ、星。私はそんないっぺんに何人もお守りできないわ」
ムラサがつい強い口調で言うと、もっともだと星は口元をひきつらせた。
「ねえ、ムラサ。一輪はいくつだったかしら」
「へ? さあ、十四か十五か、そこらじゃないの」
「そう。一輪はそんな歳で、もう自分が死んだ後のことを考えなければならないのね」
「仏様の弟子なら当然じゃないの」
眉を寄せる星にムラサがそっけなく返すのは、ムラサが達観しているからではなく、あの夜の朝なのに他人の心配ばかりしている星が気がかりだからだ。
しかし一方でムラサも、自分が舟幽霊にならず人間として生きていたら、果たして今のように死後のことなんて考えていただろうか、と思う。二十にも満たぬ若い娘なら、他に楽しみをいくらでも見つけられるだろうに、一輪はわざわざ妖怪達の険しい道に踏み行ってゆく。自ら進んで普通の人間が恐れ忌み嫌う妖怪との交わりを保つ。
もし一輪が雲山に出会っていなければ――脳裏によぎった考えをムラサは即座に打ち消す。一輪はそんな“もしも”を考えていないし、身の処し方は一輪が自分で決めるべきことだ。
「大丈夫よ、確かに一輪は危なっかしいけど、そんなやわな子じゃないでしょ」
「……うん。あの子の魂は、力強くて逞しい。雲山がいるからかしら?」
「むしろ一輪が雲山を引き寄せてるのかも」
もはや一輪も雲山も見えなくなった空を見上げて、星とムラサはそろって笑った。
心配は尽きないが、誰よりも一輪の身を案じてそばにいる者がいる。「さ、まずはお寺の修理をしなくちゃね」と早くも気持ちを切り替えた星の後を、ムラサは「えー、私まだ眠いんだけど……」と文句を言いつつ追った。
◇
雲山が速く飛べば向かい風で一輪の頭巾が脱げて、尼削ぎにした黒髪がたなびく。初夏の空は青く澄んで、青の中に溶け込む一輪の乱れた心も少しずつ凪いでいった。
「こうやって二人きりで空を飛ぶのも久しぶりね」
一輪は自分の目線と同じ高さの雲を眺めながら、雲山に話しかける。
久方ぶりの雲の上だ。故郷の村にいた頃はしょっちゅう雲山と空の散歩へ出かけていたが、聖の弟子になってからはお寺でみんなと過ごすのが楽しくて、空の散歩も頻度が減っていた。それでも一輪が心を落ち着けたい時、何物にも縛られずに自由になりたい時、空を飛びたいと強く思う。入道の雲山といつも一緒にいるせいか、山の田舎で育ったせいか、一輪は空を愛し、我が身が雲と一つになったような感覚を求めるのだ。
「本当ならお寺の修理をしなきゃならないのにね。それに朝のお勤めもまだだったわ。このままじゃ私達、両方すっぽかすことになっちゃうのに、雲山、よく私を連れてきてくれたわね」
真面目でお堅い雲山をからかって言うと、身の入らない修行ならかえってしない方がましだと雲山は答えた。
「雲山は優しいのか厳しいのかわからないわ」
一輪は思わず吹き出した。いつだって雲山は一輪のそばに寄り添い、一輪を守るために動き、それでいて時に一輪の意志と反する行動も取るし一輪を叱ったりもする。一輪にとってはもはや隣に雲山がいるのが当たり前で、不思議と強いて雲山から離れたいとも思わないのだった。
雲の切れ間から日が差して、一輪はその眩しさに目を細める。
「やっぱり少し暑いわね。今でさえ汗が滲むんだから、真夏の盛りになったらきっと鬱陶しくなるくらい暑くなるわ」
一輪は雲の群れの中に、一際大きく山のように固まった雲を見つけて、不意に雲山と初めて出会った夏の日を思い出した。
「ねえ、雲山、私達が出会ってもうすぐ一年になるのよ。あっという間ね」
本当に、と雲山はうなずく。思い返せばあまりに慌ただしく騒がしい一年だった。雲山を従えて故郷の村まで帰って、次第に村の人間達に疎まれて、ついには追い出されて、逃亡の末に聖と出会って。一年前は人間に囲まれた妖怪の雲山が異端だったのに、今では妖怪に囲まれた人間の一輪が一人だけ、と逆転してしまっている。
いつも寡黙な雲山が、一輪と二人きりだからか珍しく喋る。自分以外の妖怪と仲良くなって、一輪は人間より妖怪の方がいいと考えるようになってしまったか。人間であるのが厭わしいか? 自分は人間たる一輪の強さを知っているのに。
一輪は心配性な雲山にふっと笑いをこぼした。
「そんな軽率に考えてるわけじゃないよ。聖様や、ムラサや、星の苦悩を見てきたんだもの。妖怪はただ強くて便利な力を持ってるだけじゃないって、今の私はちゃんとわかっているわ」
だけどね、と一輪は声をひそめた。誰に聞かれるわけじゃないとわかっていても、雲山にだけ届けばいいと思った。
「みんなと一緒に過ごすのがあんまり楽しいから……私、今なら聖様が不老不死の力に手を伸ばしたわけがわかる気がするの」
一輪は雲山の体を抱きしめた。時は無慈悲に流れ続けるものとわかっていても、どうかこの楽しい時がいつまでも続けばいいと願ってしまう。疾く過ぎ行くな、我が世の春よ。聖はきっと命蓮と過ごした幸せな思い出が、自らの死ですべて霧散してしまうと恐れたのではないだろうか。
雲山はすかさず咎めにかかる。どれほど聖の苦悩に心を寄せても、決して不死など求めるべきではない。それこそ一輪は今の一輪ではなくなってしまう。
一輪は口を尖らせ反論する。
「私は不老不死なんかいらないよ。人間としてあと五十年、六十年、ううん、百歳までだって長生きしてやるわ。だけどね、気になることがあるの」
死ぬのが怖くないのは今でも変わらない。どんなに今が楽しくても、別れが惜しくても、無闇に天命を歪めるべきでないと理解していた。定められた寿命か、不慮の病や事故か、とにかくいずれ訪れる死を一輪は甘んじて受け入れるだろう。けれど、一輪亡き後、一輪の半身とも呼ぶべきこの妖怪は――。
「雲山。正直に答えて。今、私を守ることを生き甲斐にしている雲山は、私が死んだ後はどうなるの?」
一輪は硬い声で問いかけた。現在の雲山は一輪のために生きているようなものだ。それなら一輪が天寿を全うした時、雲山は今度こそ雲が散るように消えてしまうのだろうか。
緊張で手に汗が滲む。雲山はいつも通りの、低くも穏やかな声で答えた。
――お前の考えている通り、自分は跡形もなく消えるだろう。
予想はついたが雲山の口から聞くと一輪の心は揺さぶられて、一輪は懸命にまくし立てる。
「雲山はそれでいいの? 妖怪なんだから本当ならもっと長く生きられるのよ、私に縛られる必要なんかないわ。私に義理を立てないで、雲山の好きに生きていいのよ」
雲山は首を振る。自分にはもう一輪以上の存在など見つけられないだろう。寺の仲間達も大切だが、一輪の命には代えられない。元より自分は一年前の夏の日、退治された時点で消える存在だったのだ。それが思いもよらず、こんなにも優しく怖いもの知らずで、感情豊かで片時も目が離せない人間に巡り会えた。一輪、お前が己を半身だと言ったように、己もまたお前を半身だと思っているのだ。お前の喜びも悲しみも怒りもまた己のものに等しい。お前が死ぬ時にこの命が尽きても、自分は決して悔いを残さないだろう。これこそが己の望んだ生き方なのだ。
雲山の淡々とした語りから、雲山の頑として動かない覚悟をひしひしと感じて、一輪はいっそう雲山に縋りつく。
「雲山、私は雲山にもっと長生きしてほしいのよ。お願い。私の悪いところは直すから、雲山に負担はかけないから、私が死んでも、新しく生き甲斐を見つけて、お寺のみんなと生きるって言ってよ……」
一輪の悲痛な叫びにも、雲山は決してうなずくことなく、無理だ、と笑った。
「……馬鹿ね。貴方がそういう性格だって知ってるけど、たまには上手に嘘をついてよ。女に都合のいい夢を見させるような、とびきりの嘘をついてよ」
無茶を言うんじゃないと苦笑する雲山は本物の父親のようだ。自分は嘘をつけないし、自分達は男女の仲らいではないのだ、そんな戯言は必要ない。まして一輪には嘘をつけない。
「馬鹿。雲山の馬鹿。どうしてそんなに頑固なのよ」
一輪の目から涙がこぼれた。雲山は己の行く末に心から納得しているのだとわかっていても、一輪は簡単に納得できない。明日をも知れない逃亡の旅の中、一輪は雲山を置いて死にはしない、雲山が死ぬなら自分だって死ぬと本気で思っていた。
けれど月日が流れ、一輪の中で雲山の存在が大きくなるごとに、たとえ自分が死んでも雲山には死なないでほしいと願う気持ちの方が強くなった。一輪にとって雲山が誰よりも大切な存在だからこそ、雲山にはせめて生きていてほしいのに。
一輪の涙を、雲山の大きな指が優しく拭う。夏の空はどこまでも晴れ渡っているのに、一輪の心は身を知る雨に降られていた。
◇
「ああ、暑い……焼けるようだわ……」
「ムラサ、暑い暑い言わないでよ。余計に暑くなるわ」
「暑いんだから仕方ないじゃない。あーあ、あんなに離れたかった故郷の海が恋しい……この池じゃ水溜り同然だもの」
夏の盛り、一輪が汗をぬぐいつつせっせと廊下を磨く傍らで、ムラサは暑さにやられて寝転がっている。いっそ雑巾を投げてやろうかと思ったが、雲山に睨まれたのでやめておく。
「一輪はずいぶん精が出るのね。この頃は前にもまして修行に熱心じゃない」
「そりゃあすぐそばで見ていらっしゃる方がおわすのだもの、ねえ? ムラサ、どうせならこの暑さを何とかしてくださいってお願いしてみたら?」
「ああ、そうだった。私もたまには本気で神や仏に縋ってみようかしら」
二人はくすくす笑いながら、部屋の奥を振り返る。本堂には、呆れた眼差しで二人を見やる立派な佇まいの妖怪が一人。
「あのね、一輪、ムラサ。毘沙門天様は豊穣を司る神様じゃないのよ。私に雨乞いなんかできないわ」
袈裟を脱ぎ捨て、身なりも新たに装い、領巾や宝塔や鉾を携えて厳めしく立っているのは、星である。
あの満月からしばらく経って、一輪はようやく聖から星への頼み事の正体を知った。
聖は古くから毘沙門天を信仰していた。この寺にも毘沙門天を招きたいが、妖怪は毘沙門天の威光を恐れる――ならば、聖が最も信頼する妖怪を毘沙門天の代理として推薦し、毘沙門天の代わりに人間と妖怪、両方から信仰を集める存在になってもらおう。星を人間の間に立ち混じらせ、馴染めるように努力させ、そしてあの満月の夜に星の抱える虎の問題まで解決させたのは、すべてこのためだったのだ。
新たな役目をもらった星は身なりのせいか貫禄が増し、聖が毎日手を合わせて信仰を捧げているのもあって、ともすれば聖よりも格の高い僧侶に見える。最初こそ星の任せられた役目に驚いた一輪だったが、見た目がどうであれ星が星であることに変わりはない、と必要以上に敬うこともなくいつも通りに接していた。
「――やれやれ。君達は毘沙門天様への信仰が足りないのではないかね。修行僧達が斯様な有様では、この寺の行く末も危ぶまれるな」
そこへ、一匹の妖怪が顔を覗かせた。大きな耳と長い尻尾を持ち、しもべの鼠を何匹も従える妖怪鼠は名前をナズーリンという。星が毘沙門天の代理を正式に認められた際、本物の毘沙門天から星の部下にと遣わされたのだ。
初めて会った時、一輪は「なずぅ、りん?」と、聞き慣れない名前に首を捻った。梵語ではなさそうだ、それなら大陸の言葉だろうか。一輪が今まで聞いたことのない響きである。しかし一輪を最も困惑させたのは、ナズーリンの尊大な態度だ。体は小さく人間の童のようなのに、口ぶりは横柄でいつも斜に構えた態度を取り、聖はおろか主人であるはずの星にすら時に慇懃に接する。おまけに寺で一緒に暮らす身となりながら、
「私はあくまで毘沙門天様を信仰しているのであって、仏の教えなんてどうでもいいね。私はご主人様のお手伝いができればそれでいいんだ、修行には構わないでくれたまえ」
などと言い放ち、修行僧達と距離を置くのである。さすがの一輪も閉口し、ムラサの時と同じように親しく声をかけたりできなかった。
さて、ナズーリンの『信仰が足りない』という言葉にむっとした一輪はすかさず食ってかかる。
「あら、尊い仏様の教えに耳も傾けない貴方に言われたくないわ。それに代理とはいえ毘沙門天様がいらっしゃったお寺が傾くわけないでしょう、貴方は信用ならないお寺にわざわざ出向いてきたの?」
「さあね、信用に足るか足らないかは私がこの目で確かめてみなければわからないな。そのために私が遣わされたようなものだと、勘のいい奴なら気づいてもよさそうだけどね」
「まあまあ、一輪もナズーリンも落ち着いて」
二人の険悪な雰囲気を察してすぐさま星が間に入る。
「ナズーリン、一輪達がどんな人となりをしているか、賢い貴方ならすぐにわかるはずよ。一輪、そんなに喧嘩腰にならないで、貴方らしくもない」
「だけど……」
「掃除の途中でしょう? 戻った方がいいわ。ムラサも起きて、暑いのならそれこそ池のお手入れをお願いしたいのだけど」
「はーい」
「ナズーリン、そろそろ聖が帰ってくるはずだから、迎える準備をお願い」
「はいはい、承りましたよ」
星がてきぱき指示を出して、それぞれ散ってゆく。聖は寺に代理とはいえ念願の毘沙門天を迎えられたせいか、この頃は今まで寺を遠ざけていた妖怪達へ熱心に布教に回っているのである。
とりあえず掃除の続きをしようとした一輪へ星は声をかけた。
「一輪はナズーリンと折り合いが悪いのね」
「仕方ないじゃない。あれがただの毘沙門天様のご厚意じゃないって、星もわかってるんでしょう?」
一輪は眉をつり上げるが、星は微笑を浮かべるばかりだ。
いつもは明るく社交的で、比較的誰とでも親しく接することができる一輪でも、ナズーリンにだけはどうしても口がきつくなってしまうのだった。
ナズーリンは表向きは星の手伝い役なのだが、その実、本物の毘沙門天が星や聖が本当に信用に値するかと訝しんで寄越した監視役だ。それを知った一輪は驚き、ナズーリンが星に関してあらぬことを毘沙門天へ讒言するのではないかと心配している。雲山は一輪の態度を諌めはするものの、雲山もやはり新参の妖怪を少し警戒していた。
「私はあの何もかも見透かすような目が気味が悪いの」
「一輪、三尸の虫が天帝に人間の罪を報告するように、ナズーリンは私の不徳を毘沙門天様に告げるのよ。やましいことがなければ平気よ」
「三尸の虫は庚申の夜にしか来ないじゃない、あのネズミは毎日いるのよ、いくら妖怪でも一睡もできないんじゃ体がもたないわ」
「大丈夫よ、他でもない聖が私を信じて大丈夫だって任せてくれたんだもの。私は、聖の信じてくれた私を信じる。立派に役目をこなして、私が信頼に足る妖怪だって証明してみせるわ」
星は輝く笑顔で笑う。ナズーリンの監視も毘沙門天代理の役目も重荷でないと言わんばかりの、自信に満ちた態度である。一輪は思わずため息を漏らした。
「星が羨ましいわ」
「あら、いつものね」
「星が頑張っているのなんて見ればすぐにわかるの。悔しいけど、私には毘沙門天の代理なんて務まりそうにないわ。一箇所にじっとしていられないし、あのネズミとうまくやる自信もないもの」
「それなら私は一輪が頑張っているのを知っているわ。いつも見ているもの。聖だって褒めているのよ、最近は特に雑務を率先してやってくれるし、読経も格段に上達したって」
褒めるつもりがさらっと褒め返されて、一輪はこそばゆく思う。
一輪がこの頃修行熱心なのは事実だ。新たな役目を任された星に触発されて、というのもあるし、あの満月の夜からずっと心に引っかかっている自らの身の処し方を考えるためでもある。
(私は無力だなあ。ムラサはまだ悩んでいるところもあるけど、前より冷静に物事を捉えてる。ナズーリンとはそりが合わないけど、毘沙門天様から信頼されるだけあって実力はあるみたいだし……)
焦らなくていい、一輪には一輪のよさがあると言われても、周りが妖怪ばかりでは嫌でも気になってくるのだ。せめて乱れやすい心だけでもどうにかしようと修行に打ち込んでいる。
やがて聖が寺へ帰ってきた。聖ならムラサ達とはまた別の方法で一輪の悩みの力になってくれるだろう。一輪は聖へ相談を持ちかけた。
「聖様、人間が妖怪になってはいけないのですか?」
雲山が顔をしかめるのがわかったが、今は取り合わない。雲山だって、一輪がこの頃人間と妖怪の境について悩んでいるのを知っているのだ。
聖は一輪の問いにわずかに眉を動かしたが、冷静に答えた。
「私は妖怪も人間も等しくあるべきだと考えています。ですから、私が人間が妖怪に、妖怪が人間に憧れるのを諫めるのは一見するとおかしなことでしょう」
「……では、私の考えも否定はしないと?」
「けれど現実には、妖怪と人間の間には相容れない境があるのです。現実が見えなければ理想も見えません。人間は妖怪に怯え、退治する。妖怪は人間を襲いながら、一方で人間からの畏れを得られなければ力を失ってしまう。その境を無視しては真の平等には辿り着けないわ。時には人間は人間のまま、妖怪は妖怪のまま、違いを認めて共存の道を探るのも必要なの」
聖のおっとりした、しかし強固な意志を孕んだ声を聞きながら、一輪は考える。聖は一輪に人間のままでいてほしいはずだ。人間の一輪と妖怪の雲山が寄り添う姿は、聖の理想そのものなのだから。一輪が生涯を賭けてそれを貫き通せば、少しは聖の役に立てるだろうか。だけど、一輪の願いは……。
そんな一輪の考えを見透かしたように、聖は苦笑する。
「私は貴方の、雲山と共に生きたいという意志を尊重したい。だけど、人の道を踏み外せば外道に落ちることもある。一輪、貴方だって私の大切な弟子なのよ。私と同じ道は歩ませたくないわ」
聖は眉を下げて哀訴する。聖も星と同じことを言う。いや、星が聖の影響を強く受けているから、言葉が似ているのだ。
一輪は聖の懸念をしかと感じながら、黙って考え続ける。安易な憧れだけで不用意に妖怪に手を伸ばせば、あっという間に一輪は妖怪の邪な力に飲み込まれてしまうだろう。ムラサが一輪を溺れさせ、舟幽霊にしようとした時のように。邪な力に飲まれれば、星のように我を失う。それは一輪の本意ではない。
(もし私が今すぐ妖怪になったら、それまでの私とは別人になってしまうのかしら)
一輪は悩み続ける。いやしかし、ムラサは見た目がどうであれ本質は何も変わらないと言わなかったか。今と昔、ムラサも星も聖も、本当に別だと言い切れるのか。そうだ、雲山だって、一輪と出会う前との大きな違いは人間を襲うか否かぐらいではないか。……。
「そうね……貴方にとって人間と妖怪の境をわかりにくくさせている要因は、雲山の存在かもしれません」
「雲山ですか?」
頭を抱える一輪を見かねて、聖は雲山を指す。
「雲山は一輪に退治されて、邪気を祓われました。妖怪の矜持を打ち砕かれたのだから、本来ならそこで力を失い、消えるはずだったのです。けれど雲山は一輪を新たな矜持として、妖怪のままここにいます」
一輪は思わず雲山の顔をまじまじと見た。雲山は気まずそうに視線を泳がせている。言われてみれば一輪は、初めて出会った時から雲山が邪気を失った妖怪のまま一輪のそばにいる理由を疑問に思ってきた。
一輪の食い入るような視線にどぎまぎする雲山を見て、聖は苦笑する。
「一輪。貴方が探している答えは、案外近くにあるのかもしれませんね。いつも近くにあるから、と安心しきっていると、思わぬところで足を掬われるものよ。今一度、雲山とじっくり向き合ってみるといいわ」
それは聖と命蓮の関係を意識しての言葉か。疑問を抱えたまま聖の部屋を後にした一輪は、率直に雲山へ問いかけた。
「雲山。私に退治される前の貴方と、退治された後の貴方は違う?」
雲山は戸惑いながらも答えてくれた。
違う。まず第一に、人間を襲わなくなった。他の妖怪と親しむこともなかった。だが、思うに無口で頑固な性格は生まれつきだ。一輪と出会う前は、妖怪とも人間とも話したことがなかった。
「だけど雲山は相変わらず私以外とは口も聞けないじゃない。こんなの“話した”って言えないわよ」
一輪がちょっとした不満をぶつけると、悪かったな、と雲山は小さくなる。体は大きいのに恥ずかしがりなのがおかしくて、一輪は吹き出す。
「結局、雲山も本質はずっと変わってないってことでいいの?」
そうだろうな、と雲山は同意する。妖怪としての矜持が別のものに置き換わっただけで、“矜持を持つ己”は何も変わっていないのだ。
「別のものに、ねえ。それが私だっていうんだから驚きよ。そりゃあ私は怖いもの知らずだし故郷の村ではちょっとばかし頭もよかったけど、それ以外は普通の人間の娘なんだから」
さて、普通の娘がこうも妖怪に馴れ馴れしく歩み寄ってくるものかな? と雲山はからかうように言う。
「何よ、雲山までムラサみたいなこと言っちゃって」
ふざけて一輪も怒ったふりをした、その時だった。
「おっと」
「あっ」
廊下の突き当たりで、一輪はナズーリンとぶつかりそうになった。一輪が止まるより早く、ナズーリンがさっと身を翻す。
一輪はナズーリンを見て、彼女のしもべである鼠が一匹もいないのに気づく。ナズーリンはただの小間使いだと称しているが、一輪はナズーリンがしもべをあちこちに放って監視に使うのを知っている。自然と警戒が滲み出たのか、ナズーリンはわざとらしく肩をすくめた。
「君はいつも私に警戒心剥き出しだな。何を怖がっているのやら」
「貴方がお寺のみんなに何かしたら許さないわ」
「おや、私が手荒な真似をするものか。私が毘沙門天様から仰せつかったのは、あくまでご主人様がご自身の代理として相応しいか見極めろ、とのことさ」
ナズーリンは長い尻尾を指に巻き付け、口元を緩ませて一輪を見上げてくる。背が低いナズーリンが一輪を見上げているのに、まるでこちらを見下ろすような視線だと一輪は思う。
「君は変わっているな。なぜ人間のくせに、妖怪にそこまで肩入れする。あの聖とやらの影響なのかい?」
「確かに私は聖様を尊敬しているわ。だけど、私が星やムラサや雲山を好きなのは、私がみんなと一緒に過ごしてみんなのいいところを知ったからよ!」
一輪は強く叫んだ。雲山が諌めても耳に入らない。
仏の弟子がこんなに声を荒げて、しかも同じ窯の飯を食う仲間に敵意を剥き出しにするべきではない。わかってはいても、一輪はついむきになってしまう。ナズーリンはまだ皆の懊悩も一輪の葛藤もよく知らないのだ、勝手に知ったような気になって踏み込んでほしくない。
ナズーリンは一輪の啖呵など意にも介していないといった様子で、にやりと笑った。
「君の心はほとんど妖怪と変わらないな。妖怪のために心を砕き、妖怪のために怒り心頭に発する。もしかしたら、君はもうとっくに人間ではなくなっているのかもしれないな。初めて会った時、私は君を妖怪だと勘違いしたぐらいだからね」
ナズーリンの言葉に一輪は目を丸くした。一輪がまだ聖と会う前、心ない人間達から雲山と行動を共にする一輪が妖怪同然と見做されたことはあった。しかし妖怪からはいつだって妖怪たる雲山の獲物扱いであり、ムラサ達にはいつか妖怪になってしまうと心配されはしたが、妖怪から妖怪だと勘違いされるなんて初めてである。これには雲山も言葉を失う。一輪は己の足場が少し揺らいだような気がした。
「ま、君が私達妖怪と肩を並べるには、いまいち何かが足りないけどね」
言いたいだけ言って、ナズーリンは一輪の隣を通り過ぎてゆく。
足りない何かとは何だ? もしもその足りないものを埋めてしまったら、一輪は人間を逸脱し、妖怪となるのだろうか。聖は堕落するのは容易く己を保つのは難いと、以前教え聞かせたことがあった。
固まって立ち尽くす一輪に、雲山が言う。あんまり間に受けるな、あくまであの妖怪の見解だ。大事なのは、一輪が自分自身をどう捉えているかではないのか。
「……雲山」
雲山の眼差しは優しかった。妖怪と人間の境について考えるのもいい。なればこそ、これまで通り修行に励むべきではないのか? せっかくこの頃はよく修行に励んでいるのに、もったいないではないか。もしかしたら修行の果てに、悟りを得て辿り着けなかった答えを得られるやもしれぬ。
「……そうね。考えるのもいいけど、まず行動するのが私だもの」
雲山の激励に、一輪は微笑んだ。雲山の言う通り、ナズーリンの言葉を一旦頭の隅に追いやって、いつも通り修行に励むことにした。
ムラサと並んで写経。星に教わりながら経典の熟読。聖と共に法力の習得。掃除、炊事、洗濯。参拝客への対応、聖が一時保護した妖怪の看護。
仏教の目的は心の平安、執着を捨てて悟りを開くこと。ゆえに心を無に近づけてゆかなければならないのだが、一輪はどんなに修行に打ち込んでも、ふと考え込んでしまう。
(聖様達は、何が原因で『己と違う何か』になってしまったのかしら。どうやって苦しみや葛藤から立ち直ったのかしら)
一輪はゆっくりと聖と出会ってからの日々を振り返る。聖は悲しみと恐怖による死の拒絶――それによって人の道を外れた。ムラサを妖怪に至らしめたのは不条理な死への憤りと憎しみ。生まれつきの妖怪でありながら、星の心を蝕んだのは獰猛な虎の本能。その傷を癒すものがあるとすれば、優しく寄り添い支え合う者の存在。妖怪にすら響く仏の教え。
(そうね、ナズーリン。私はちっともみんなのことを軽蔑してない。恐れてもいない。むしろ同情すらしている)
小さな童の頃から怖いもの知らずだった一輪は、雲山以外の妖怪に囲まれても変わることはない。
一輪はまた考える。一輪は自分をまだ人間だと思っている。しかし、ムラサや星は一輪が妖怪に近づきすぎだと警戒する。聖は自分のように人の道を踏み外してほしくないと思っている。ナズーリンは一輪を妖怪だと勘違いしたとまで言った。
(――今の“私”は、いったい何なの?)
そこで一輪は、聖の言葉を思い出した。仏教とは己の否定であり、否定による自己の確認である。聖は力なき妖怪に、だから消えてなくならないのよと励まして回っている。
一輪は外へ続く方へ廊下を進み、真夏の入道雲が浮かぶ空を見上げた。
(今の“私”を一度否定すれば、私がどこにいるのか、確認できるんじゃないの?)
それは天啓にも似たひらめきだった。
空の上で自由気ままに漂う雲を眺めていると、今まで一輪が出会ってきた様々な人間や妖怪の記憶を思い出す。一輪の亡き母、ムラサによって記憶が蘇った父、故郷の長老格だった千歳の嫗、一輪の養い親になった夫婦に、友人に……そして、この信貴山で出会った命蓮の幻、命蓮が縁を繋いでくれた聖、星、ムラサ、ナズーリン。
最後に一輪は己の運命を変えた、誰よりも大切な雲山を見やる。心ここに在らずだな、修行が身に入っていない、と指摘する雲山に笑いかけた。
「雲山、空へ行こうよ。いつもとはちょっと変わった修行をやるの。――私を確かめるには、やっぱり私と雲山を繋ぐ空がいいわ」
空の上で修行とはいかに、と首をかしげた雲山を説得して、一輪は地上を飛び立った。
◇
雲山は一輪をしっかり抱き抱えて、高く高くへ昇る。雲を突き抜けると、真夏の眩い日差しが目を貫いた。
「ああ、やっぱり眩しいわ」
一輪は思わず目を瞑るも、何よりも美しい光景に心を奪われている。真夏の空は、他の季節に比べて、いっとう鮮やかで濃い青色だ。その青色に、真っ白な雲が対照的でよく映える。
「夏の空はもっと和歌に詠むべきよ、だけど都の夏は暑すぎて、とても空を見上げる気力なんか湧かないのかしらね」
一輪は京の都の夏は酷暑だと言われたのを思い出して、苦笑いする。雲山は詩歌のことはよくわからない、と顔をしかめるばかりだ。
「だけど私は空が好きよ。大きくて、広くて、何もかも包み込んでくれる。特に真夏の空は、貴方に会った季節を思い出すから一番好きなの」
一輪が雲山の目を覗き込むと、雲山は照れ臭いのかそっぽを向いてしまう。
一輪はくすくす笑いながら、雲山の上から眼下に広がる大空を見下ろした。空の広さに比べたら、一輪の抱える悩みなんて、塵芥より小さなものに思えてくる。
「その昔、空海って偉いお坊さんがいたんだよね。いい名前よね、聞いただけでぱっと広大な青い空と海の光景が広がるのよ」
雲を見てまるで絵巻で見た海に浮かぶ白波だと思った一輪は、遠い昔の高僧の名を挙げた。雲の群れを雲海と呼ぶのは、空から海を連想するからかもしれない。
一輪にとって名前は重要だからな、と雲山は静かに笑った。一輪も弾んだ声で答える。
「雲山も素敵よ。雲が山のように高く聳え立つ様子が目に浮かぶわ。そして私は雲の山に咲く一輪の花。一輪でも大輪なのよ、どんなに雲海が広くたって目立つでしょう?」
一輪が胸を張れば、いつもは一輪を諌めに回る雲山もその通りだと大真面目に答える。一輪を大輪だと言ってくれたのはムラサだった。初めは険悪だったムラサも、今や良き友である。
地上からでも、空の上からでも、一輪が雲を見て考えることは変わらない。地上でそれぞれ自分の役目に励んでいるであろう寺の仲間達を思い浮かべ、何より自分を万が一にも落とすまいとしっかり支えていてくれる雲山を見ると、決心が鈍りそうになる。
(……ううん、私はもう決めたじゃない)
一輪は決して心の内を雲山に悟られないように、大きな雲の塊を指差した。
「あの大きな雲は、沢山の雨や神鳴を孕んでいるのよね。入道が出ると雨嵐になるっていうのは雲を呼ぶからよ、雲の仕業なの。……ええ、だから私は見越入道の貴方が怖くなかった。怖いって気持ちは、何も知らないところから生まれてくるもの。正体を知ってしまえば怖いことなんてないのよ」
一輪の意気揚々たる語りに、雲山は少し落ち込んだそぶりを見せる。これでもかつては名を馳せた妖怪であったのになあ。寺に来て様々な知識を身につけた一輪には、もう怖いものなど何もないのだろうな。
「あら、そんなことないわ。『私は世の中のことを何も知らないし何もわかっていない』ってことを知っている、それだけよ」
一輪はさらりと告げる。寺で経典を始めとした様々な書物を読み、学び、様々な妖怪や人間に出会っても、一輪の世界はまだ狭く小さなものだ。いずれ聖のような立派な僧侶になるためには、多くの人間や妖怪の心に寄り添うには、深い知識と広い心が必要だろう。――そして、一輪はこれからまた一つ、今まで知らなかったものを“知る”ことになる。
一輪は両の手にそれぞれ金輪を握りしめる。日の光にかざして、あたかも法力の修行であるかのように。その途中でさりげなく、自然な体を装って、一輪は金輪の片方を落とした。
雲山がおっと、とすかさず拾い上げる。金輪から伝わる法力に込められた『静止』の命令に、雲山はわずかに動揺した。
「ありがとう。……ごめんね」
雲山が金輪に気を取られた一瞬の隙に、一輪の体は雲海へ真っ逆さまに落ちていった。
◇
――ごめんね、雲山。
こうでもしないと、私は貴方が助けてくれるってどこかで期待してしまうから。
このまま落ちて地面にぶつかったら、私の体はばらばらになって、大輪の花も見る影もなくなってしまうのかな。
そう考えたら、怖い、かもしれない。
……死ぬことが?
ううん、そうじゃない。
星が言ってたっけ、虎になると私が私でいられなくなるって。
ムラサが言ってたっけ、見た目が変わっても本質は何も変わらないんだって。
……私もそう。
私が一番怖いのは、死ぬことなんかじゃなくて、私が“私”でなくなってしまうことなんだ。
私が“私”である証……私の願い……。
強くありたい。優しくありたい。私が尊敬する聖様のように、救いを求める誰かの力になりたい。
いつだって前を向いていたい。古臭い考え方に囚われないでいたい。人を踏み躙る悪い輩を許したくない。
――だけどもう間に合わない。
お父さん、お母さん、私も今からそっちに行くかも。
星、ムラサ、ナズーリン、ごめんね。私がいなくなっても、きっと聖様が何とかしてくれるから……。
――雲山は?
私を守るのが自分の存在する理由だと言った雲山はどうなるの?
頑固で、無口で、考え方が古くて、気難しくて、恥ずかしがりで、だけど曲がったことが嫌いな、優しい妖怪。
私がいないとみんなとろくに会話も交わせない。
いま、私がいなくなったら雲山はどうするの?
――ああ、駄目だ!
私がいなくなって雲山がうなだれてるとこなんか見たくない。
雲山はもっと強くて逞しくて格好いいんだから。
約束したじゃない、一緒に生きるって。私のために死なせちゃ駄目。
私をいついかなる時も守ってくれる雲山を、私が守らなくちゃ!
不老不死なんかいらない、人の道にも背かない、だけど私だって、聖様のように、雲山のように、誰かを守れる力があればいいのに――!
「……え?」
その時、一輪が握りしめたもう一つの金輪が強い光を放った。目を開けるには眩い閃光に包まれたと気付いた時には、一輪の体は中空で静止していたのである。
「……落ちて、ない」
一輪は宙に浮く自分の体を見て目を見開いた。金輪の光は次第に大人しくなってゆく。これは、一輪の身につけた法力の効果であろうか。いや、どちからといえば、聖や星の使う妖術に近い気がした。
そこへ、稲妻のような速さで雲山が駆けつけてきた。素早く一輪の背中に大きな手が回り、一輪の眼前に焦りを全面に浮かべた雲山の大きな顔が映る。
「雲山」
雲山は今までに見たことのない、凄まじい怒りをあらわにした。何をしているんだ、と神鳴が落ちる。一輪、お前は自分が何をしたのかわかっているのか。金輪に細工までして、自分が間に合っていなかったら、どうなっていたことか。
「雲山、私、自分の力で空を飛んでいるわ」
ほら、と一輪は雲山の手から離れてみせる。雲山はまた焦るも、すぐさま一輪の異変に気づいて目を丸くした。雲山が抱き止めなくとも、一輪はひとりでに宙を舞う。――人間の一輪は、妖怪になったのだ。
雲山はしばし驚きのあまり呆然としていたが、やがて、全身を震わせた。やはり怒りが凄まじいのか、と思った一輪の顔に大粒の水滴が落ちてきた。雨ではなく、雲山の涙である。滅多に泣かない雲山が、一輪を本気で心配し、安堵のあまり泣き咽いでいるのだ。雲山の涙を見て、一輪も罪悪感に苛まれた。
「ごめんなさい。うん……だって、初めから話していたら、雲山は絶対に私を助けにきてくれるでしょう? それじゃ駄目なの。私は、どうしても“死”を見つめなければならなかったの。……うん。ごめんね。騙して、心配かけて、ごめんね」
一輪は大雨のように涙を流す雲山を慰めた。
一輪は、ナズーリンの指摘した自分に足りないものを“死”の実感だと考えた。今までも逃亡中に熱病で倒れたり、ムラサに溺れさせられたり、死にかけたことは何度かあった。けれど一輪は絶対に死ぬもんかと覚悟していたし、一輪の父が助けに入ってくれたりして、本当の意味で死と隣り合わせになることはなかった。だから雲山を騙した上で空から身を投げたのだ。
答えは得られた。死の実感なんてものはきっかけでしかなく、いつからなんてわからないが、一輪はナズーリンの言う通り、ムラサ達の懸念通り、一輪の心はもう妖怪のものだった。かろうじて一輪を人間たらしめていた、一輪の中に残っていた人間への未練は、たった今空の上から捨ててしまった。
しかし、覚悟の上とはいえ、雲山を傷つけた。
(星、貴方の忠告、さっそく破っちゃった。どうしようもないね……)
雲山の慟哭を見ていると、一輪の胸は締め付けられる。雲山は一輪に嘘をつかないのに、一輪は雲山を騙してしまった。雲山の悲しみは一輪の悲しみだ。一輪が雲山を心から大切に思うなら、もう二度と傷つけてはいけない。そう深く胸に刻んだ。
「雲山、来世で同じ蓮の上に生まれ変わろうって考え方があるじゃない。私達は夫婦でも恋人でもないけど、同じ蓮の上にいる宿世なのよ。私はそう思ってる」
一輪はもう離れたりしない、という思いを込めて、雲山よりも小さな手のひらで、雲山の涙を懸命に拭った。すぐに一輪の袖が腕までびしょ濡れになる。
雲山は咽びながら一輪の言葉に頷いた。次第に雲山の震えも涙も治まってくる。
「雲山。私とどこまでも一緒に生きていこう。私の居場所は雲の、雲山の居るところなんだから。それ以外の場所で私は咲けないわ」
一輪が微笑みかけると、雲山は拾ったもう片方の金輪を一輪に差し出した。一輪が受け取ると、もう妙な細工をするんじゃないぞと釘を刺された。一輪がうなずけば、雲山もまた、言われなくとも自分はどこまでも一輪と一緒にいる、と答えた。
雲山は改めて一輪の全身を隈なく観察して、ぽつりとつぶやいた。
「え、私の髪?」
雲山に指摘された髪を見て、一輪は驚く。ついさっきまで黒かったはずの髪が、明るく鮮やかな青色に変わっているのである。
「ほんとだ……いつのまに」
一輪はしばし目を瞬いていたが、やがて花が綻ぶように笑った。人ならざる者の証としては何ともわかりやすい。
「素敵、晴れた空の色ね。雲の隣にはよく似合うわ」
一輪が笑うと、雲山も微笑んだ。気をよくした一輪は、気取って頭巾を完全に外し、たなびく髪を雲山に見せつけた。
「それで? 生まれ変わった私に何か言うことはないの?」
一輪はにやりと口元をつり上げる。さて、無口で頑固な雲山からどのような文句が飛び出てくるのか――期待する一輪に対し、雲山は真顔になる。
妖怪だろうが人間だろうが、一輪は一輪じゃないか。見た目が変わったって、心配せずとも一輪の本質は何も変わってなどいない。
今度は一輪が呆気に取られる番だった。まったく、雲山から歯の浮くような台詞など出てきやしないとわかってはいたのだが――それもまた一輪を喜ばせるには充分かつ適当なもので、一輪は声を立てて笑った。
「そうよ、よくわかってるじゃない。さすが私の半身ね」
これからも、どうかよろしく。そんな思いを込めて、一輪は金輪を手首に下げて雲山に両手を差し出した。雲山の大きな手のひらが、一輪の小さな手のひらを包み込む。青空の上で、二人の妖怪が手を取り合う様を、真夏の日差しが照らし出していた。
◇
雲山と並んで寺へと降りてきた一輪を最初に出迎えたのはムラサだった。ムラサは一輪を見てわずかに眉を動かしたが「やっぱりね」と平坦に言った。
「そうなると思ってたよ。一輪の考え方はほとんど妖怪と同じだもの。いつ心身共に本物の妖怪になってもおかしくなかったわ」
「よかったわね、ムラサが舟幽霊にする手間が省けたよ」
「言ってくれるじゃない」
いつかの水難事故未遂を蒸し返されて、ムラサは罰が悪そうに口を曲げる。
「だけど本当に妖怪になるなんてね。ずいぶん危なっかしい半身を持っちゃったもんだね、雲山」
まったくだ、と雲山は答えた。もちろん、それは一輪が通訳して伝える羽目になったのだけど。
「まあ、せいぜい長く伸びた人生を後悔しないようにね」
「せっかく私がムラサと同じ妖怪になったっていうのに、あっさりしてるのね」
「今の一輪は私と同じなの?」
「違うかな。やっぱり、今考えても、あの女人成仏の話は譲れないもの」
一輪が今度はいつかの口論を持ち出せば、
「私と一輪は妖怪同士になっても、お互いを理解できない宿世だったのね」
と、ムラサは苦笑いを浮かべたのだった。
次に会ったのは星で、星は一輪の変化に驚いて宝塔を落としかけ、落ち着いてからも少しだけ残念そうな様子だった。
「そう……本当に、一輪は妖怪になってしまったのね」
「星の心配はわかっているつもりよ。星は、妖怪の私は嫌い? 人間じゃなかったら雲居一輪じゃないって思う?」
「そんなことないわ」
星は首を横に振って、困ったように眉を下げた。
「嬉しいのか悲しいのかわからないの。人間だった頃より、ずっと長くいられるのは嬉しいけど、妖怪の人生が一輪にとって幸せなのかどうか……」
「そんなの私にだってわからないわ」
一輪は真面目で心配性な姉弟子に胸を張って笑ってみせた。
「これから自分で探すよ。大丈夫、雲山が一緒なんだから」
隣の雲山も任せておけ、と力強くうなずく。星は口元をわずかに緩めて、一輪の空色の髪に手を伸ばした。
「一輪、綺麗な髪ね。尼さんにしておくなんてもったいないくらい、よく似合っているわ」
「そうでしょう、そうでしょう。さすがね、星は誰かさんと違って話し上手だもの」
悪かったな、と雲山が不満をあらわにした顔で文句を言い、一輪と星は二人して笑った。
そこへナズーリンがひょこっと顔を出した。ナズーリンはふんふん鼻を鳴らして、不敵な笑みを浮かべた。
「やはり君は“こちら”を選んだか。聖の目論見は泡と消えたわけだ」
「ナズーリン、何か誤解してない? 私は聖様が大好きだけど、私の生き方は私が決めるのよ」
一輪はナズーリンにもにっこり笑いかけた。一輪が“こちら”を選んだ最後の一押しはナズーリンのおかげだ。虚をつかれたのか、ナズーリンの目が丸く見開かれる。
「ありがとうね。私、これからはナズーリンとも仲良くできる気がするわ」
「本当? 一輪とナズーリンが仲良くしてくれるなら私も嬉しい」
「……やれやれ。その調子の良さはあまりにも人間くさいな」
盛り上がる二人をよそに、ナズーリンは雲山とそろって肩をすくめた。
最後に一輪は聖の元を尋ねた。聖もムラサ同様、一輪の決断を予想していたのか、さして驚くそぶりも見せず一輪達を自室に迎え入れた。
さすがに、一輪も聖を前にすると緊張が募る。どんなお叱りもお説教も覚悟の上だが、やはり聖には認めてもらいたかった。
「聖様の理想はわかっているつもりだったんです。私が人間のままでいることを選んだら、私は生涯を通して聖様の理想を体現できたのに……」
「構わないで」
聖は神妙な顔つきで首を振る。
「私の理想のために、貴方の生き方を縛るつもりなんて毛頭ありません。……一輪」
聖は、いつかのように一輪の体をぎゅっと抱きしめた。懐かしい母の温もりに似ている気がして、一輪の涙腺が微かに緩む。
「後悔はないのね?」
「はい、ありません」
「やっぱり人間に戻りたいと思ったって遅いんですよ」
「思いませんよ。いや、もしかしたらこの先、ちょっとくらいは思うかもしれませんけど、私は自分で私の生き方を決めました。この道を雲山と一緒に歩いて行きます」
一輪が正直に告げると、聖は一輪と目を合わせて、初めて出会った時の菩薩のような笑みを見せた。
「貴方に教えなければならないことが増えてしまったわ」
聖は一輪から体を離して、居住まいを正す。穏やかな表情が一転、修行時のような厳しい眼差しに一輪は呆気に取られた。
「私に教えることとは?」
「当然でしょう、妖怪の心構えですよ。ただでさえ貴方はムラサのように人から妖に転じた身、気を抜けばすぐに邪の道に堕落します。人間の時とはまた違った厳しい指導をするつもりですから、覚悟なさい」
聖は笑顔さえ見せて毅然と言い放ち、席を立った。菩薩から阿修羅のごとく様変わりした聖の様子に、一輪は顔を引き攣らせる。
「……雲山、やっぱり私、道を間違えたかしら?」
これから降りかかるであろう厳格な指導を想像して辟易する一輪に対し、今更遅い、と雲山の返事はつれなかった。
何はともあれ、ここに一人の妖怪僧侶が誕生した。妖怪の毘沙門天の存在もあって、この寺はますます妖怪からの信仰を集めてゆくだろう。
◇
鬱陶しいほどの暑さをものともせず、一輪は雲山と並んで空を飛ぶ。妖怪になって雲山と同じく空を飛ぶ力を得たものの、翼を持つ雛鳥が親鳥に習って初めて飛び方を覚えるように、一輪もまだ自由自在に飛び回ることはできないのである。
結局、一輪は妖怪になっても、人間と妖怪の境界はどこにあるのか、まだ確固たる答えを見いだせない。便利な力の有無なんて単純なものではないし、人間時代と生活が何もかも一変したかといえばそうでもない。長く伸びた寿命の中でじっくり考え、おいおい見つけてゆけばいいだろう、と一輪は呑気に構えている。今は自分一人でも空を飛べるか、そっちの方が気がかりなのだ。
「わっ、と」
急な突風に煽られて体勢を崩した一輪を、すかさず雲山が抱き止める。雲山は決して一輪から目を離さないものの、一輪が落ちそうになるたびに危なっかしいとぼやく。
「まだ雲山みたく飛べないのよ。急に風の流れや湿った空気の重さが変わったりするから」
ただでさえ夏の空は天候が変わりやすい。これで突然大雨に降られでもしたら、穿つ雨の勢いに負けて落ちてしまうかもしれない。
雲山の手の温もりを感じながら、一輪はいつも雲山がどれほど心を砕いて一輪を乗せて飛んでいたのか思い知るのだった。
「本当に、雲山はいつも私を守ってくれたのね。向かい風から私を覆ってくれたでしょう。雨も霰も雪も、私に降りかからないようにしてくれたでしょう」
一輪が雲山に額を寄せると、気にすることはないと雲山は首を振る。自分がやりたくてやっていたことだ。一輪が負い目に感じる必要はない。
「違うわ、負い目なんかじゃないの。――私は改めて雲山が好きだなって思っただけ」
一輪が笑いかけると、雲山は照れ臭いのか、視線を泳がせ黙ってしまう。
雲山だけではない。これまで一輪はいろんなものに守られて生きてきたのだ。夜の活動を主とする妖怪が一輪の眠りを妨げないようにしたり、妖怪の参拝客と会わせる時は必ず雲山をそばにつけたり、『あの寺は人間を隠している』と悪巧みをする妖怪の噂から故意に一輪を遠ざけていたり。どれもこれも、一輪が妖怪になって初めて知ったことだ。
それを今更、一輪は気に病んだりしないが、改めて自分の無知や無力を思い知ると、これからはもっとみんなと対等であれるように修行を積もうと決意が漲る。そのために妖怪になって得た力を悪用しないように、と一輪は強く心に戒めるのだった。
それにしても、と雲山は口を開く。あの時は本当に肝が潰れた、と雲山は一輪が空から身を投げた時のことを繰り返し注意するのである。
また始まったわ、と一輪はうんざりしつつも耳を傾ける。ところが雲山は、この時ばかりは声を落として低く言った。
――お前は御仏を裏切った。
「えっ、どういうこと?」
一輪は驚いて雲山の顔を見る。雲山のいつになく厳しい面持ちに、心臓が早鐘を打つ。
釈迦やその逸話をなぞる者達が、布施のために御身を投げた話は古来より多い。しかし一輪、お前は己がために身を投げた。己がために命を捨てようとした。どうして御仏が許されよう。
一輪はしばし呆然としていた。そんなこと、考えもしなかった。咎められるなら雲山を騙したことだと思っていたのに、雲山はもう一輪の仕打ちを忘れて一輪に仏罰が降りかかるのを案じているのである。
(そうだ、私は仏様の弟子なのに、相応しい振る舞いを忘れていたんだ)
身が引き締まる思いだった。何も戒律を保つだけが僧侶の勤めではない。始まりこそ聖への憧憬からだったが、今は一輪だって本心から仏道に励もうとしているのだ。
「わかったわ、雲山。私はもう御仏を、仏教を裏切らない。そう心に固く誓わなければならないのね」
一輪が告げると、雲山は安堵したのか、目元を緩めた。
それで話は終わりかと思いきや、雲山の愚痴は続く。あの時、もしや今生の別れかと思い、一輪が死んでしまったらと考えるだけで己が身は消えてしまいそうだった。あの、故郷の村にいた千歳の嫗が言った災いがこれかとそら恐ろしくなったものだ。
雲山の言葉で、一輪もまた久しぶりに故郷にいた嫗の話を思い出した。
「そうか、千歳のおばあさまが言ってたものね。私と雲山が一緒にいると、災いがもたらされるって」
一輪はあの嫗を実の祖母のように慕っていたが、その忠告は忘れかけていた。薄情というより、思い当たる節が多すぎて今となってはどれが災いなのかわからないのだ。
「何かしらね。私は村を追い出されたのが災いかなって思ったけど、もしかしたらまだ災いは私達の身に降りかかる前なのかもしれないし、もうとっくに降りかかった後かもしれないのよね」
つまるところが、捉え方次第だと一輪は考えている。あの嫗もはっきりとは言わなかったし、当人達が災いだと認識していなければいかなる苦難も災いではないのかもしれない。
楽観的な一輪に対して、雲山は未だ嫗の予言じみた言葉を気にしているようだ。憂いから寄せた眉間にいっそうしわを浮かべ、雲山はじっと一輪を見つめてくる。
――たとえこの身が雲が吹き飛ぶように消えても、一輪だけは、決して……。
「大丈夫よ」
心配性な雲山の言葉を遮って、一輪は晴れやかな笑みを向けた。
「この先、どんな災いが降りかかってきても、雲山のことは私が守ってあげるわ」
呆気に取られた雲山の目が大きく見開かれ――やがて、複雑な表情でため息をついた。いかにも一輪らしい考え方だな、と苦笑をこぼして。
わかっている、雲山はそんな言葉を期待していたのではないのだろう。雲山にとって一輪はまだ守るべき対象で、一輪に守られる実感が湧かないらしい。
しかし、一輪はもうどんな困難も災いも恐れない。
一輪は両手の金輪を握りしめた。今はまだ空も一人ではうまく飛べないけれど、いずれ雲山を唸らせるような力の制御を身につけて、雲山を守るといった自分の言葉を真実にしてみせる。
この力は、今度こそ一輪の大切なものを守るため、かけがえのない半身を守るために使うのだ。
一輪は雲山の手を離れて空高くへ飛び上がる。雲山がすぐさま後を追って、手のひらをかざす。雲の切れ間で、支え合う二人の影が一つに重なっていた。
お見事でした。
みんなが抱えている葛藤が表出する場面も魅力的で、個人的には星の台詞である「昔の人間はまだ月見を忌むことだと覚えていたわ……だけどもう忘れてしまっている!」が刺さりました。素晴らしい作品をありがとうございました。
命蓮寺みんなの心理一つ一つまで事細かく丁寧に描かれているからこそ、一輪の選択に芯を感じられました。素晴らしい作品をありがとうございました。
一輪の純真さがそのまま物語の魅力になっていたと思います
とてもまっすぐで素敵な話でした
大きく話が3本に分かれておりましたが、その一つ一つに読みごたえがあり、登場人物の心情やその移り変わりが説得力のある流れで描かれたいたこともあり充実した物語だったと感じられました。
また文章も非常上手く、文章の総量は多いものの、場面転換のシーンなどは必要最低限の分量で書かれており、書きたい部分とそうでない部分のメリハリがある素晴らしい文章だと思いました。
水蜜がどのように寺に馴染んでいったのか、という部分が個人的に一番好きな箇所でした。死んでしまったことへの未練と折り合い。そして現代に続く、明るく前向きに振る舞えるようになった理由。水蜜に取って難しく暗い部分の話であるにもかかわらず、それを濃厚かつ説得力のある経緯で描き出していたのが、とても素晴らしいと感じました。
有難う御座いました。面白かったです。