あれだけ鳴り響いていた鈴の音は、ある日を境に街から鳴りを潜めてしまった。それと打って変わって現れたのは、純和風の音色達。コンビニやスーパー、大型ショッピングモールはもちろんのこと、駅や病院といった、民草の生活を支える基盤にまで琴の音が流れ出る。その音の奔流は、町外れに建つ老人ホームをも飲み込んだ。その一室で、いま世間を賑わす男が横になっている。
「大袈裟にするなってお願いしたのに」
「そういうものでしょうマスコミは。でもよかった」
夫婦だろうか、品のある男女が言葉を交わしていた。今となっては珍しい、着物に身を包んだ老女の目線の先には、薄水色の病院服を着た男がベッドの縁に腰掛けている。肩に羽織るクリーム色のカーディガンが、その好々爺然とした柔和な雰囲気をより一層濃くしている。
「これも全てあの人のおかげだよ」
記憶の綱を手繰り寄せつつじっくりと感傷に浸るその様子からは、ついさっき、何か大きな荷物を下ろしてきたような、そんな印象を与えるだろう。しかし、老女はその姿に声を投げ掛けることはせず、自身の感想を口にした。
「八雲さんだっけ?記事には載ってなかったけど」
「当たり前だろ。あんな与太話を記事にできるはずがない」
そう。臨死体験の最中に、彼方で暮らす人々に此方へ戻してもらったなど、記事にできるはずがない。地方紙とはいえ、相手は地域密着型のメディアだ。そんな空想を本誌に載せた日には、往年の愛顧者たちに不安を抱かせてしまうかもしれない。もちろん死への不安ではなく、発行元への不安である。
「それにしても、クリスマスはあの世にもあるんだな」
「不思議な話だよね、最近の幽霊は年中行事も楽しむなんて。盆踊りも踊るのかしら」
ましてやクリスマスのアドバイスを乞われたなんて、誰が信じるだろうか。
『こんばんわ。私の名前は八雲紫です。さっきの巫女さんの保護監督者です。』
『実はあなたに頼みたいことがあるんです。あなた、あちらの人でしょう?クリスマスって、知っていますよね。実は私達、村おこしでクリスマスツリーを再現しようと思っているんです。ですが見ての通りここは山の中、外界との往来は皆無であり、従って他の場所の様子がわかりません。もしよかったら、クリスマスツリーがどのようなものであるが、私達に教えてくださらない?』
男自身、あれは夢だったのではないかと考えている。そもそも臨死体験自体、現実の出来事ではないだろう。なのだから、それ自体が夢に近いイメージであるはずなのに、男にはなぜか現実の物事だと思えてしまうのだ。彼方で出会った彼女たち。男には、彼女たちが自身の妄想の産物のようには、どうしても見えなかった。自身が生きる世界と地続きの、それであって超え難い壁に阻まれた世界。ともすれば、臨死体験の最中に訪れたあの世界は、見えない境に隔てられた現実だったのではないか。そんな思いが胸に渦巻く。
「勝手がわからなかったらしいし、最近始めたんだろうな。贅沢だよまったく」
「いいじゃないですか。生まれ変わるまでの休暇ですよ」
「そうだな。あの人たちも楽しそうだったし」
そのとき、会話を引き裂くようにドアがノックされた。一拍おいて、ドアが開く。
「こんにちは」
そこには胡散臭い笑みを浮かべたひとりの男が立っていた。歳は70を過ぎたくらいだろうか、ふさふさと生やしたヒゲは狸のように茶色い。しかしその服装は、ステンカラーコートにワイシャツを併せた、片田舎の病室には似合わないフォーマルな服装だ。
「どなたでしょうか?」
「申し遅れました。佐渡で魂呼ばいをしている二ッ岩と申します。青森のイタコみたいなものですね。今回は、臨死体験を経験したと新聞で読んでやってきました。今後のために、彼岸の様子が聞いてみたいなと」
「ああ、いいですよ。どこから話しましょうか?」
「ああ、できれば覚えていることをすべてお聞きしたいですね」
「わかりました。まず、その時も私はここで横になっていたんです。そうしたら持病もないのに急に意識が遠のいてですね」
老人ホームのベッドで意識を失った私は、気付くと砂利道に立っていた。道を覆うように迫り出す木々に圧倒されつつ辺りを見渡すと、山並の稜線がコバルトブルーに際立っている。おそらく日没直後、いわゆる黄昏時であろう田舎の砂利道に、なぜか私は立ち尽くしていた。後ろを振り返ると、砂利と空の境目に黒々とした闇が見える。先程からザアザアと私の耳に入るこの音。なぜ風の寒さを感じないのか不思議に思っていたが、音の正体は川だったらしい。一方、正面には町の明かりが見える。ここがどこなのか、私はなぜここにいるのか。積もる疑問を解消するべく、私は明かりを目指して歩きだした。
一心不乱に林の間を進んでいた私は、気付けば田んぼの間を歩いていた。そして、もうひとつ気付いたことがある。私が目指していた町の明かりは、辻を照らす松明の明かりだった。
「こんばんわ。こんなところで何してんの?危ないでしょうに」
突然、背後から声をかけられた。振り返ると、中学生くらいの少女が立っていた。脇が丸出しの巫女服を着た少女。寒そうだ。
「あー、わかった。ちょうどいいし着いてきて。色々アドバイスお願いね」
そう言って彼女は、口をモゴモゴさせてばかりの私を尻目に、勝手にスタスタと歩き出してしまった。この田舎にやってきて、もう一時間は経つのだろうか。話の流れが掴めないが、彼女はようやく会えた人である。装いを見るに現地の人だろうと思われるので、とりあえず後を着いていくことにした。
彼女の後を追う形で石段を登りきると、整えられた広場が現れた。目の前には、大きな鳥居が聳え立つ。
「こっち」
玉砂利を歩くこと数十歩。やはりというかなんというか、社務所と思われる建物に到着した。扉を上けると、中には1人の女性がいた。少女よりは年長と思われる、道士服を着た女性。扇で隠した口元に妖艶な笑みを浮かべる彼女は、しかしその視線はとても鋭い。しばしの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「こんばんわ。私の名前は八雲紫です。さっきの巫女さんの保護監督者です。」
巫女さんに保護監督者が付くなど聞いたこともないが、あの幼さを見るに親御さんなのだろう。そう自分を納得させつつ、私も自己紹介を済ませた。
「実はあなたに頼みたいことがあるんです。あなた、あちらの人でしょう?クリスマスって、知っていますよね。実は私達、村おこしでクリスマスツリーを再現しようと思っているんです。ですが見ての通りここは山の中、外界との往来は皆無であり、従って他の場所の様子がわかりません。もしよかったら、クリスマスツリーがどのようなものであるが、私達に教えてくださらない?」
妖艶な笑みの下に隠された、有無を言わさぬ猛烈な圧。ホラー映画なら、間違いなく私はタブーを侵しているだろう。
「頂点の星は別の形でもいいのかしら?」
しかし、幸いにもその予感は外れたらしい。
「この村には電気がないの。輝かせるならやっぱり火?」
雨あられの如く打ち込まれる質問たち。
「そもそもこのツリーにはどんな意味があるのでしょうね。世界樹なら別に柱でいいじゃない」
主にツリーを飾る意義と詳細な装飾について尋ねられた後、次で最後です、との前置きがあって、その質問は紡がれた。
「あなたは元いた場所に戻りたいですか?」
脈絡のない、唐突な問い。今まで即答していた私だったが、その真意が汲めず、返事を口にすることができない。
「本当は一方通行なんです。でも、あなたには良くしてもらったし、それにまだ来るべきではないんです。ごめんなさいね、クリスマスだなんて柄にないイベントを開催してしまったせいで」
今どきクリスマスが似合わない場所などある筈がないとは思う。しかし、『本当は一方通行』という言葉が妙に気にかかった。
「すみません、よく事態が飲み込めていないんですが。とりあえず、元いた場所に戻りたいです」
ここはどこなのか。なぜクリスマスを誰も知らないのか。一方通行とはどういうことなのか。無限に湧き出る困惑を心のなかに押し留めつつ、帰りたい旨を告げる。
「よかった。では最後にひとつ、質問を受け付けます。一方的すぎましたからね。」
「あの、ここはどこなんでしょうか。景色を見るに山奥だということはわかったんですが、それにしても麓と隔絶されすぎじゃないかと思って」
即答だった。あまりの勢いに驚いたのか、それでも困り眉で応えてくれた。
「そうですね。少なくとも、ここはあなたの生きる世界と繋がっています。ですが、あなた方はこちらへ自由に訪れる事はできません。そんな場所です」
いまいち要領の得ない答えだった。もう一掘りしようと口を開きかけた私を遮るように、彼女は立ち上がる。
「では、これをどうぞ。目を閉じて、今から教える呪文を言えば、元いた世界に戻ることができます。」
そう告げられて握り渡されたものは、北斗七星を象った模様が描かれた二枚の御札。この地域に伝わる信仰と関係があるのだろうか、まるで昔話かのような展開に、思わず声が出てしまった。
「ちょ、ちょっと待ってください。なんですかこれは」
ずい、と顔が近付く。呆気にとられた私の瞼を彼女の指が下ろしていく。私が最後に見た景色は、視界いっぱいに映し出された、人差し指を口元に当ててお茶目に微笑む八雲紫の顔だった。そして、私の耳元で呪文が囁かれる。
ガウガウ、ガイガイ
鳥の鳴き声を彷彿とさせるその呪文を聞いた瞬間、私の意識は再び暗転した。
次に目を開いたとき、そこは見慣れた老人ホームの一室だったのだ。
「貴重なお話ありがとうございました。では、私はここらで。お互い健康でいましょうね」
「そうですね。あなたもお大事に」
時間にして2時間弱。最後にこれほど長時間話し込んだのはいつぶりだろうか、体にまとわりつく疲労感に懐かしい。先程の会話を振り返りつつ、ベッドから差し込む西日に目を細める。
二ッ岩さんの反応はとても新鮮で、話を興味深く聞いてくれるから喋っていて楽しかった。妻を除いて、今まで体験談を伝えた者たちの瞳には嘲笑の色が見えたことを男は覚えている。しかし、二ッ岩さんの瞳には純粋な好奇心と僅かな胡散臭さがあっただけ。少なくとも彼は信じてくれているのだろう。
「然るべき場所に報告してみるか。喜ぶ人もいるだろ」
きっと他にも同好の士がいるに違いない。そうだ、いっそのこと本にしてしまおうか。
それから一年後、満を持して出版されたエッセイは世間にオカルトブームを巻き起こしたという。
「大袈裟にするなってお願いしたのに」
「そういうものでしょうマスコミは。でもよかった」
夫婦だろうか、品のある男女が言葉を交わしていた。今となっては珍しい、着物に身を包んだ老女の目線の先には、薄水色の病院服を着た男がベッドの縁に腰掛けている。肩に羽織るクリーム色のカーディガンが、その好々爺然とした柔和な雰囲気をより一層濃くしている。
「これも全てあの人のおかげだよ」
記憶の綱を手繰り寄せつつじっくりと感傷に浸るその様子からは、ついさっき、何か大きな荷物を下ろしてきたような、そんな印象を与えるだろう。しかし、老女はその姿に声を投げ掛けることはせず、自身の感想を口にした。
「八雲さんだっけ?記事には載ってなかったけど」
「当たり前だろ。あんな与太話を記事にできるはずがない」
そう。臨死体験の最中に、彼方で暮らす人々に此方へ戻してもらったなど、記事にできるはずがない。地方紙とはいえ、相手は地域密着型のメディアだ。そんな空想を本誌に載せた日には、往年の愛顧者たちに不安を抱かせてしまうかもしれない。もちろん死への不安ではなく、発行元への不安である。
「それにしても、クリスマスはあの世にもあるんだな」
「不思議な話だよね、最近の幽霊は年中行事も楽しむなんて。盆踊りも踊るのかしら」
ましてやクリスマスのアドバイスを乞われたなんて、誰が信じるだろうか。
『こんばんわ。私の名前は八雲紫です。さっきの巫女さんの保護監督者です。』
『実はあなたに頼みたいことがあるんです。あなた、あちらの人でしょう?クリスマスって、知っていますよね。実は私達、村おこしでクリスマスツリーを再現しようと思っているんです。ですが見ての通りここは山の中、外界との往来は皆無であり、従って他の場所の様子がわかりません。もしよかったら、クリスマスツリーがどのようなものであるが、私達に教えてくださらない?』
男自身、あれは夢だったのではないかと考えている。そもそも臨死体験自体、現実の出来事ではないだろう。なのだから、それ自体が夢に近いイメージであるはずなのに、男にはなぜか現実の物事だと思えてしまうのだ。彼方で出会った彼女たち。男には、彼女たちが自身の妄想の産物のようには、どうしても見えなかった。自身が生きる世界と地続きの、それであって超え難い壁に阻まれた世界。ともすれば、臨死体験の最中に訪れたあの世界は、見えない境に隔てられた現実だったのではないか。そんな思いが胸に渦巻く。
「勝手がわからなかったらしいし、最近始めたんだろうな。贅沢だよまったく」
「いいじゃないですか。生まれ変わるまでの休暇ですよ」
「そうだな。あの人たちも楽しそうだったし」
そのとき、会話を引き裂くようにドアがノックされた。一拍おいて、ドアが開く。
「こんにちは」
そこには胡散臭い笑みを浮かべたひとりの男が立っていた。歳は70を過ぎたくらいだろうか、ふさふさと生やしたヒゲは狸のように茶色い。しかしその服装は、ステンカラーコートにワイシャツを併せた、片田舎の病室には似合わないフォーマルな服装だ。
「どなたでしょうか?」
「申し遅れました。佐渡で魂呼ばいをしている二ッ岩と申します。青森のイタコみたいなものですね。今回は、臨死体験を経験したと新聞で読んでやってきました。今後のために、彼岸の様子が聞いてみたいなと」
「ああ、いいですよ。どこから話しましょうか?」
「ああ、できれば覚えていることをすべてお聞きしたいですね」
「わかりました。まず、その時も私はここで横になっていたんです。そうしたら持病もないのに急に意識が遠のいてですね」
老人ホームのベッドで意識を失った私は、気付くと砂利道に立っていた。道を覆うように迫り出す木々に圧倒されつつ辺りを見渡すと、山並の稜線がコバルトブルーに際立っている。おそらく日没直後、いわゆる黄昏時であろう田舎の砂利道に、なぜか私は立ち尽くしていた。後ろを振り返ると、砂利と空の境目に黒々とした闇が見える。先程からザアザアと私の耳に入るこの音。なぜ風の寒さを感じないのか不思議に思っていたが、音の正体は川だったらしい。一方、正面には町の明かりが見える。ここがどこなのか、私はなぜここにいるのか。積もる疑問を解消するべく、私は明かりを目指して歩きだした。
一心不乱に林の間を進んでいた私は、気付けば田んぼの間を歩いていた。そして、もうひとつ気付いたことがある。私が目指していた町の明かりは、辻を照らす松明の明かりだった。
「こんばんわ。こんなところで何してんの?危ないでしょうに」
突然、背後から声をかけられた。振り返ると、中学生くらいの少女が立っていた。脇が丸出しの巫女服を着た少女。寒そうだ。
「あー、わかった。ちょうどいいし着いてきて。色々アドバイスお願いね」
そう言って彼女は、口をモゴモゴさせてばかりの私を尻目に、勝手にスタスタと歩き出してしまった。この田舎にやってきて、もう一時間は経つのだろうか。話の流れが掴めないが、彼女はようやく会えた人である。装いを見るに現地の人だろうと思われるので、とりあえず後を着いていくことにした。
彼女の後を追う形で石段を登りきると、整えられた広場が現れた。目の前には、大きな鳥居が聳え立つ。
「こっち」
玉砂利を歩くこと数十歩。やはりというかなんというか、社務所と思われる建物に到着した。扉を上けると、中には1人の女性がいた。少女よりは年長と思われる、道士服を着た女性。扇で隠した口元に妖艶な笑みを浮かべる彼女は、しかしその視線はとても鋭い。しばしの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「こんばんわ。私の名前は八雲紫です。さっきの巫女さんの保護監督者です。」
巫女さんに保護監督者が付くなど聞いたこともないが、あの幼さを見るに親御さんなのだろう。そう自分を納得させつつ、私も自己紹介を済ませた。
「実はあなたに頼みたいことがあるんです。あなた、あちらの人でしょう?クリスマスって、知っていますよね。実は私達、村おこしでクリスマスツリーを再現しようと思っているんです。ですが見ての通りここは山の中、外界との往来は皆無であり、従って他の場所の様子がわかりません。もしよかったら、クリスマスツリーがどのようなものであるが、私達に教えてくださらない?」
妖艶な笑みの下に隠された、有無を言わさぬ猛烈な圧。ホラー映画なら、間違いなく私はタブーを侵しているだろう。
「頂点の星は別の形でもいいのかしら?」
しかし、幸いにもその予感は外れたらしい。
「この村には電気がないの。輝かせるならやっぱり火?」
雨あられの如く打ち込まれる質問たち。
「そもそもこのツリーにはどんな意味があるのでしょうね。世界樹なら別に柱でいいじゃない」
主にツリーを飾る意義と詳細な装飾について尋ねられた後、次で最後です、との前置きがあって、その質問は紡がれた。
「あなたは元いた場所に戻りたいですか?」
脈絡のない、唐突な問い。今まで即答していた私だったが、その真意が汲めず、返事を口にすることができない。
「本当は一方通行なんです。でも、あなたには良くしてもらったし、それにまだ来るべきではないんです。ごめんなさいね、クリスマスだなんて柄にないイベントを開催してしまったせいで」
今どきクリスマスが似合わない場所などある筈がないとは思う。しかし、『本当は一方通行』という言葉が妙に気にかかった。
「すみません、よく事態が飲み込めていないんですが。とりあえず、元いた場所に戻りたいです」
ここはどこなのか。なぜクリスマスを誰も知らないのか。一方通行とはどういうことなのか。無限に湧き出る困惑を心のなかに押し留めつつ、帰りたい旨を告げる。
「よかった。では最後にひとつ、質問を受け付けます。一方的すぎましたからね。」
「あの、ここはどこなんでしょうか。景色を見るに山奥だということはわかったんですが、それにしても麓と隔絶されすぎじゃないかと思って」
即答だった。あまりの勢いに驚いたのか、それでも困り眉で応えてくれた。
「そうですね。少なくとも、ここはあなたの生きる世界と繋がっています。ですが、あなた方はこちらへ自由に訪れる事はできません。そんな場所です」
いまいち要領の得ない答えだった。もう一掘りしようと口を開きかけた私を遮るように、彼女は立ち上がる。
「では、これをどうぞ。目を閉じて、今から教える呪文を言えば、元いた世界に戻ることができます。」
そう告げられて握り渡されたものは、北斗七星を象った模様が描かれた二枚の御札。この地域に伝わる信仰と関係があるのだろうか、まるで昔話かのような展開に、思わず声が出てしまった。
「ちょ、ちょっと待ってください。なんですかこれは」
ずい、と顔が近付く。呆気にとられた私の瞼を彼女の指が下ろしていく。私が最後に見た景色は、視界いっぱいに映し出された、人差し指を口元に当ててお茶目に微笑む八雲紫の顔だった。そして、私の耳元で呪文が囁かれる。
ガウガウ、ガイガイ
鳥の鳴き声を彷彿とさせるその呪文を聞いた瞬間、私の意識は再び暗転した。
次に目を開いたとき、そこは見慣れた老人ホームの一室だったのだ。
「貴重なお話ありがとうございました。では、私はここらで。お互い健康でいましょうね」
「そうですね。あなたもお大事に」
時間にして2時間弱。最後にこれほど長時間話し込んだのはいつぶりだろうか、体にまとわりつく疲労感に懐かしい。先程の会話を振り返りつつ、ベッドから差し込む西日に目を細める。
二ッ岩さんの反応はとても新鮮で、話を興味深く聞いてくれるから喋っていて楽しかった。妻を除いて、今まで体験談を伝えた者たちの瞳には嘲笑の色が見えたことを男は覚えている。しかし、二ッ岩さんの瞳には純粋な好奇心と僅かな胡散臭さがあっただけ。少なくとも彼は信じてくれているのだろう。
「然るべき場所に報告してみるか。喜ぶ人もいるだろ」
きっと他にも同好の士がいるに違いない。そうだ、いっそのこと本にしてしまおうか。
それから一年後、満を持して出版されたエッセイは世間にオカルトブームを巻き起こしたという。
短い文章なのに登場人物が多めで時系列も複雑ですが
読み終えればなるほどと言わせる構成。おみごと!