お姉様は4人のわたしにお金の入った布づくりの袋と、剥いだ牙と爪と耳朶と小指をわたしたちのそれぞれに握らせて、順番に肩を叩いたあとでこう言った。
「なんて言ったらいいだろうか、今日はいい日だ。嬉しい日だよ。貴方が、フランが、お前たちが、この館を出ていろんなものを見に行きたいと願うことが。わたしたちがお母様とお父様のもと、ユーラシアの森の中で鹿を追って遊んで暮らしていた頃、貴方はまだ小さなかわいいフランドールだった。まるきり子供のようで、実際にとても幼くて、目に映るものすべてを追いかけては取り逃がして笑ったんだよ。貴方の目にはすべてがきらきらと光って見えていた。そうよ、信じられる? 実際、わたしは貴方の目で世界を見ていた。貴方はいつでもわたしの後ろにくっついてきて、わたしの背中に隠れるようにして世界を見て、それからくすくすと笑った。ねえねえ、お姉様、これは、なぁに?あれは、なぁに?と何度も聞いた。わたしがそれぞれに与えられた名前を答えると、フランは笑った。何がおかしかったんだろうな、フランが笑うとわたしもなんだか楽しくなって笑ったんだ。……ああ、いつも気を使ってきたんだ。貴方がこの館のあの部屋で数百年を無為に過ごすところを眺めながらわたしが何を考えていたと思う? ねえ、フランドール、実を言えば、貴方が外に出たいと言い出したとき、わたしはとても困ってしまったんだよ。地下室で数百年を過ごした貴方には世界はあまりに未知であふれているし、それに貴方はきっと上手ではないものね。その、生きていくことが……。だから、わたしは貴方の言ったことを、その意味を、何度も何度も繰り返し考えて、朝を幾十と迎えた。咲夜とは何時間も話したし、パチュリーにも相談したよ。それでも答えを出せなかった。そうだ、この前のある午後に――、わたしは久しぶりに外に出た。ここのところお前のことばかり考えていたからなんとなく気晴らしに咲夜と二人であてもなく森を歩いたの。いつも咲夜は日傘をさしてわたしの半歩後ろを歩くんだ……。フランになんて言ったらいいんだろう――わたしと咲夜の間には微妙な歩みのバランスがあって、わたしが日光を嫌うことを知っているから咲夜はわたしの向かって歩く方向について日傘を被せてほんの少しだけ遅れてついてくるのだけど、咲夜のさす日傘はいつでもわたしの向かう先にあって、つまり、わたしの一歩踏み出すところに咲夜はあらかじめ傘の影をおいておき、わたしはそこを歩くんだよ。そのとき、わたしは咲夜のさす日傘の影を追っている……。咲夜はわたしの行きたい方向を、会話やあるいは経験によって熟知していてそうするのだけど、それはあるいは咲夜の傘のさす方向へわたしが歩いているということでもある。こうして説明するとひどく奇妙な感じだな。ふたりの意志が溶け合うというのだろうか、それは統一されたふたつの意志ではなく常に入れ替わる光と影のようなもの……とにかくわたしたちの間には奇妙なバランスがあってさ、でも、その午後の森を抜けた先の小さな湖畔のそばで突然にそれが崩れた。実はわたしはお前のことを考えていたんだ。今日は妹様のことは忘れて、と咲夜は言っていた。でも、わたしは不意にお前のことを思ってしまった。日差しの強い日だった。そよ風が湖畔の周囲の木々をさらさらと揺らし、カササギのような鳥が足で湖の表面にさざなみを浮かべて、それが降りそぞく日の光をきらきらと削り取った。それは、傷痕のようだった。そのとき、わたしはお前のことを思った。これをお前にも見せてやりたいと思った。気がつけば立ち止まっていたんだ。咲夜は二歩先に歩いた。日の光がわたしの肌を焼いた。じりじりと肌が溶け出して煙に変わって消えていった。すぐに咲夜が戻ってきてわたしの上に傘をさした。痛みがあった。日の光に痛むのはずいぶん久しぶりのことだった。この土地でわたしは人々と調和し、咲夜と意志によって通じ合っていたから、外を出るのにクリームも塗っていなかったし、日の光を浴びるのはとても懐かしいことだった。どうしてわたしが立ち止まってしまったのか、その理由が貴方に理解るかしら? あのとき、わたしは貴方を、フランを見つけたんだ。貴方は、あの湖畔の上を飛んでいた。まるでわたしたちがもっとずっと幼かったときのように、貴方は羽を広げて森の影を縫いながら弱った鹿を追うときのように……それは真昼間のことだ、光の下のことだ、錯乱する眩しい光の下のこと。夜じゃない。どうしてなんだろうか、それが貴方に似合うのかしら? そうだとはべつに思わないけれど……でも、わたしの白昼夢に見た貴方の姿は昼間の輝きの中にいた。そんなことをわたしは想像もできなかったんだ。フランのことを遠い場所に出してやろう、大丈夫ですかとわたしを覗く咲夜の下でわたしはそんなことを決めた。なあ、フラン、たぶん…わたしが言ってるのは、可能性世界についてなんだ。わたしがあのとき垣間見て、その結果、貴方を外に出してやろうと誓った外の世界のフランの姿は、日の光の下を飛んでいる貴方の姿だった。でも、貴方はここから出たあとで、きっと、わたしたち一族がするように夜を飛ぶことだってあるんだろう……。あるいは午後の夕暮れに川べりを歩き、朝に堆く降り積もった雪の中に足を踏み入れる。なあ、そうだ、そうだ、フラン、貴方は、わたしにとって、貴方はフランは、遍在して……わたしは今あらゆるフランを見てるんだよ。そうだ、可能性…。それが、わたしがすべてを決心した理由で、それがここじゃないどこかで、より幸福な暮らしをする貴方をわたしに見せてくれる。わたしはまるでお前の親にでもなったかのような気持ちだよ。実際、親子の間には、可能性世界が現実の世界を覆い隠してしまうような時期がある。親は見るものすべての中に我が子の姿を見て、別の子供を見れば我が子と比べ、大人を見ればいつか大きくなった娘の姿をそれに重ねる……そして、いろんな期待、いろんな不安によって、いてもたってもいられなくなるんだ。なあ、なあ、わたしはフランたちが心配なんだ。わかるでしょう、その意味は。貴方たちは世界を知らないし、生き方もわからない。いわば貴方は海の中に放たれた稚魚のようなもので、卵から生まれた数千の稚魚はたった一匹も残らない。ほんとは4人じゃぜんぜん足りないんだ。お前がこの世界のすべての可能性を覆うには。これから貴方がここを出ていったあと、わたしは無数のフランのことを思うんだろう。悲劇的な出来事に見舞われてしまうフラン、どこかでつまずいて消えてしまうフラン、あるいは幸福に生きるお前が……ああ、無数の貴方がここにいて、すべての貴方が現実のものだったら……。そしたら、わたしの不安や期待、それらすべてが現実のもので、たくさんの悲劇的な貴方の中はにたったひとりでも幸福な貴方がいて、なあ、わたしのやり方はきっと非道いやり方なんだろう……でも、わかってくれ、ねえ、フランドール、わたしはお前を失いたくはないんだよ」
わたしたちのうちのひとりがあくびをして誰か別のわたしが、わたしはグッピーかよう…と言った。お姉様は不安げな声で何かごにょごにょと呟きながらパチュリーに耳打ちした。パチュリーが呪文を唱えてわたしたち4人のうちの1人の頭を叩くとわたしたちは100つに増えたのです。
お姉様は言いました。
「そうだよ、グッピー。お前たちのひとりでも生き延びてくれれば、わたしはそれで……」
100人ものわたしに分けるだけのお金も別れ形見もお姉様は用意していなかった。だからそれをわたしたちひとりひとりに渡すことは叶わなかったけれど、代わりに長い時間をかけてわたしたちを順番に抱きしめた。わたしたちはお姉様を抱き返してみたり、人目も気にせずその場でわんわん泣いてみたり、やはり泣いてる美鈴の涙を拭ってみたり、これからもたくさん本を読むねとパチュリーに言ったり、小悪魔に軽口を叩いてみたり、咲夜のほっぺたに口づけてみたり、妖精メイドの足をひっかけて転んだ頭を撫でてやったり、シャンデリアを落としてみたり指を切り落として残してみたり手を振ってみたり、それぞれにそれぞれのやり方でお別れを告げた。好き勝手なタイミングで100人のわたしたちが紅魔館を出ていってしまうと最後にはわたしだけが残った。
じゃあね、とわたしはみんなに言った。他にすべきことが思いつかなかったのです。そもそもわたしは出ていきたいわけじゃありませんでした。行ってみたいところもしてみたいこともわたしには何もなかった。しかしわたしもあんなにふうに盛大にお別れを告げたわたしのひとりだった。今さら戻るわけにもいかず、とりあえずは外に出てみてそのまま森の方へと歩いた。しばらく歩いたら疲れてしまった。それはずいぶん冷える夜のことでした。しかたないのでちょうどいい木の洞を見つけて、そこに身体を押し込んで空を眺めることにした。夜の空には数十人のわたしが群れをなして飛んでいたのです。夜空は深く闇の中に落ちて星星は砂粒のようだった。やがてわたしたちの群れは空で花火の光の先端のように散り散りになり別々の方向へと消えていった。グッピー、とわたしは思いました。水槽の中でしか生きられない魚です。
それからしばらくしたあとでいろんなものがわたしの中に流れてきました。それは無数の感情と情景でした。100人に分割されたわたしたちは意識の深いところで繋がっていたので他のわたしたちの感情や見る風景やその感動がわたしにも伝わってきたのです。夜空を自由に飛ぶ心地よさ、新しい世界への期待、あんなふうに出ていったもののどうしていいかわからない不安感……。
たとえばひとりのわたしはこの幻想郷を出て電車に乗っていた。わたしたちは揺られながら不安感と高揚感が混じり合った奇妙な気持ちを感じていた。景色が流れていく。わたしは目を閉じた。
新しい世界でわたしたちはそれぞれに新しいことを行おうとしていました。それらの行為すべてに伴う感情と情景がわたしに流入しぐるぐると渦を巻いていました。そしてそれが通り過ぎてしまったあとでわたしは空っぽだったのです。わたしのしてみたいと少しでも思ったことは別のわたしがしようとしていた。わたしの不安や寂しさはまた別のわたしが抱えてくれていた。いちばん最後に外に出たわたしには何もするべきことがなかったし何ひとつ思う必要もなかった。だからわたしはそこで眠ることにしました。
わたしは眠った。
ずいぶんと長い間、ずっと眠り続けていた。
【手紙魔フラン】
このまま眠ってしまえばやがて海に出る。
もうじき駅にたどりつく。時間とともに町の影の形がとろとろと移ろいゆくので、それをわたしは怪獣だと思いました。大きな大きな不定形の怪獣。実際そんな夢を見ていた気がする。どんな夢かはもう忘れてしまった。急行列車は駅をひとつ飛ばして田園とあぜ道と遠い鉄塔群を暗闇の中に溶かしながら結ぶための速度になる。地方都市帯と都心を繋ぐこの箱は揺れている。かたん、と大きく弾むので、.わたしは目を覚ます。重い瞼を手の甲でぐしぐしと擦って電光掲示板に目をやった。もうじき駅にたどりつく。ゆりかごのようにかたかたと揺れていて、なんだかとても心地よくて、眠ってしまいそうだね。手紙を書こう、とわたしは思いました。眠ってしまわないために。保ち続けるために。家までの最寄り駅まではあと少し。いま眠ってしまったらきっと寝過ごしてしまうのです。
『魔理沙へ』
そんなふうに手紙は始まります。手紙を書いてみようと思うのはずいぶん久しぶりのことでした。だからどうやって書き出せばいいのか、それがうまく思い出せなくて、白紙の手紙をじっと睨んでいると、再び眠気が静かにわたしの頭の中に染みだしてくる。魔理沙に向けて書きたいことが何もないわけじゃなかった。魔理沙に言ってみたいことはたくさんある。些細なニュースやちょっとしたよかったことや悲しかったこと。わたし、この前ね……。とてもとても微小だけれどそれだって手紙にするのに十分なんだと思う。でも、いま魔理沙のいるところはきっと手紙の届かないところだ。それに魔理沙に手紙を出すのはとっても馬鹿らしい気がする。手紙なんか読まないし読んでも返事なんか書かない魔理沙なのです。わたしは書き出した手紙をすぐにしまって、シートから立ち上がりつり革を掴む。列車はかたかたと揺れている。少なくともこうして立っている限り――眠って降り過ごしてしまうことはないはずだもんね。
夜を抜けて電車は光線の中に溶けてく。もうじき駅にたどりつく。このまま電車に乗り続ければやがて海にでるんだろう。終点は海のある街でした。シートに並んだ人の列の中でさっきまでわたしの座っていたところだけがぽっかりと空いてる。それからを、わたしは考えました。あのまま座り続けて眠ってしまい海のある町に降り立つわたしのそれからを。向こうに着く頃には戻りの終電はすでに出てしまっているんだろう。しかたなくわたしは海に向かって歩きはじめる。砂浜に足跡がてんてんと落ちる。潮風がそっとわたしの輪郭に触れる。錆の匂いがする。魔理沙への手紙は書けたかな。書けていたならわたしはきっとそれをボトルにつめて海に流すだろう。もうじき駅にたどりつく。わたしはとても眠い。このままもういちど眠ってしまえれば淡い眠りの中で心地よい夢を見ることができるんだろう。でも、もうじき駅につく。電車が揺れている。わたしはもうじき駅につく。
★
そのままずっと眠っていた。眠り続けていた。次に目を醒ますと雨が降っていた。霧のような細い雨。八月だった。寝ぼけ眼が開いて閉じて雨音に混じって声がするからもう一度だけ開くと魔理沙が傘を持って立っていた。わたしの眠る木の洞を覗いた。
「なにしてるの?」
「眠ってるんだ」
「どうしてこんなところで」
「何もすることが思いつかないの。だから、眠る」
すると魔理沙は言った。籐で編んだ大きな籠を背負っていた。籠の中は様々な茸で溢れそうだった。傘の先から滴り続ける水滴が茸の傘の表面を撫でながら次の傘へと零れ落ち最後の傘から下方にぽたんぽたんと垂り続けていた。魔理沙は傘を持たない方の手で大きな本を抱えていた。濡れてまわないように胸の前で抱きしめるようにしていた。
「じゃあさ、これ持ってくれよ。借りてるやつだから濡れたら困るんだ」
「いいよ」
わたしはその木製の穴ぐらから這い出て魔理沙の本を受け取った。シャツの下に隠して両手で抱きかかえるようにした。魔理沙がわたしを見て少し笑いました。いいアイデアだなと魔理沙が言うから、寝ている間に考えたのってわたしは答えた。魔理沙がわたしの上に傘をかけた。魔理沙のあとをついてわたしは森の中を歩いた。雨雲によって空が隠されて時間がわからない。でもじゃくじゃくと踏みしめる草木の葉がとても若くてそれで季節の方は八月だろうと見当をつけたのです。熊が出るよと魔理沙は言った。そうなんだねとわたしは言いました。久しぶりに歩いたから歩くのが下手になってしまったんだろうか、それとも魔理沙が傘をかけるのが上手じゃなかったせいかもしれないけれど、魔理沙は大事な本を持ったわたしばかりを雨から避けるように比重して傘をかけていたはずなのに家につく頃にはわたしはすっかりびしょ濡れでした。魔理沙がタオルを渡してくれた。濡れた床にぺたんと座ってわたしは髪を拭いた。助かったんだぜと魔理沙が言った。くしゅんとわたしは言った。魔理沙の濡れた長い髪が揺れていた。吸血鬼も風邪をひくんだなあと魔理沙はひとりで笑った。シャツの中から本を取り出してわたしは魔理沙に渡した。少しだけ濡れていた。魔理沙が勧めるのでサイズの違いの大きな服を借りてベッドの上でわたしは横になった。やがて眠った。結局、熊は見なかった。
そのあと一週間ほど熱を出しました。
風邪の期間を魔理沙のベッドの上でわたしは過ごした。茸やら薬草やらを大きな釜で混ぜて魔理沙が飲み薬をつくってくれた。それを飲むと苦い味がした。わたしの見たすべての魔理沙の魔法がそうだったように効き目があったのかどうかはよくわかんなかった。わたしはまた眠った。眠って覚醒めてまた眠り起きて、それを数十回繰り返したあとでわたしは平熱になっていた。これからどうするつもりなんだと魔理沙はわたしに聞いた。相変わらずやりたいことは何一つ見つからなかったのです。だからわたしはぴったりだったんだよ。それからの数日をわたしは魔理沙の家で魔法の釜を洗ったり、本の山の中から指定の本を探したり、森の中に茸を取りに行ったりして過ごした。助手がいたらいいなと思ってたんだと魔理沙は笑った。魔法使いの助手。わたしはあくびをした。
そんなふうにしてわたしは魔理沙の家で暮らしはじめた。
★
わたしたちのうちのひとりのわたしは軍を持たない従軍医だった。医療技術はインスタンプールで太った女の姿をしたカリカンジャロスの末裔から学んだ。深夜の公立病院の非常灯の明かりのもとで不死者たちを相手にすることで外科手術を覚えたのです。数年の間そのような実地授業を繰り返し、ときには逆に別の不死者たちのための医療被験体になったりしながら医術を習得し、やがて彼らたちの医療団に所属して紛争地帯で兵士たちや市民たちの延命に努めた。彼らは不死者・半不死者たちから成る医療団だった。わたしたちはその不死性によって安全に戦線に立つことができました。赤い花が咲いてた。たくさん。でもすぐに散ってしまうよね。銃弾が兵士の胸を撃ち抜くと血が吹き出した。わたしは医療キットを片手に彼らの元に駆け寄りその場で手術を行った。メスによって胸部を切り開きピンを刺して銃弾を抜き取ろうとしたその時、近くでナパーム弾が炸裂した。赤い花が咲いてた。わたしの頭の中で。物理的な衝撃によってピン先がずれて血管に触れるので胸から血が吹き出します。わたしは速やかに止血を行って銃弾をピンで挟みだし傷口を縫合した。しばらくすると兵士は息を吹き返す。おお、神よ神よと譫言のように呟くのです。だけど、わたしたちの多くはわたしたちのうちのひとりのわたしの活動を快いものとは考えていないようでした。わたしたちの多くが懸念するようにわたしたちのうちひとりのわたしが戦場にもたらすものは奇跡ではなく不毛だったのです。蘇った兵士は神よ神よと譫言のように呟きながら自動小銃を抱えて歩き出しやがて兵士を撃つ。赤い花が咲く。花の咲いたところにわたしは現れておんなじ手術をする。兵士は蘇る。神の名前を口にする。赤い花が咲く。赤い花が咲いている。不死者たちの医療団は国境をもたない。戦況を傾かせる権利もない。わたしたちは存在しないものでありこの世界で永遠に透明であり銃弾は字義通りわたしたちの頭の中を単に通り過ぎていくのです。だからわたしたちの多くはそれを戦場に苦痛を増やすだけの行いと考えています。彼らは不死の優位性を自己肯定するためだけにかりそめの不死性を戦場にもたらすんだって。わたしたちのうちのひとりのわたしがどうして戦場でそのような不毛な医療行為に従事するのか、わたしは知らない。あの日、100つに分割されたわたしたちには意識の深いところでの連結がありそれによって彼らの行いや感覚や思考を垣間見ることができた。しかしわたしたちは秘匿しようと思えば一般に感情を秘匿するようなやり方でそれを覆い隠すことができたし、わたしが覚醒めたときにはすでに多くのわたしたちは現状に至る最初の衝動を時間的に通り過ぎ、もはや平静の状態でそれぞれの日々に留まっていたんです。
わたしはどれくらい眠っていたのかな――今や99人のわたしは分化した固有のわたしたちでありそこに至る発生と過程を支えたその力をわたしは正確に知ることができない。それはなにかを思うこと……。いつかわたしたちはそれぞれの思いによって――あるいは最も初期の段階ではそれらは互いに影響しあい、また反発しながらそれを獲得にしたのかもしれないね――それぞれのわたしたちの形になった。遅れて覚醒めたわたしは本の中のお話を見るみたいにそれを見るんだった。
わたしは日々の中には常に他のわたしたちの生活が入り込んでいた。たとえば、わたしはよく魔法の森の中に茸を取りに行きました。大きな籐編みの籠を背負ってじゃくじゃくと落ち葉を踏みしめながらもわたしは戦場にいてあちらこちらで赤い花が咲くのを眺めていたんです。
あるいは、またわたしは森の中を歩きながら木の根元の雑草をかき分け茸を探し、赤いお気に入りのギターを手にして澄んだ音を鳴らして、茸を見つけて、ロンドンの地下街で人を殺め、厚い本を開いて見つけた茸を分類した。役に立ちそうな茸を背中の籠へと投げ入れて、ビーチで男の手のを握り愛の言葉に身を震わせ、本を見ても種別がわからないものがあったら魔理沙にそれを尋ねてみて、一方でまったく別の場所でまったく別のことを言ったりもしました。「ねえねえこれって毒キノコ?」「わたしも愛してるわ」「苦いの?」「命が惜しければ貴方のすべてをわたしに捧げなさい」「ふうん魔理沙は食べたの?」「今年は蚊を何匹殺したの?」「そんなに茸集めてどうすんの?」「せんせーわたし言ってることぜんぜんわかりません!」「歩くの疲れた休もうよぅ」「にーはお、にーはお」「なんか雨降りそうだね」「そんなのいいから映画見よ恋愛映画よ悲しいのはなしでさ」「まってまって歩くの速いって」「虹彩?」「ねえ魔理沙まりさってば待って待ってよう」「JFK approach, All Nippon 909 leaving KENDY VOR……」「ひぃぁああ…眠いや」それからわたしは大学に通い量子力学について83の論文を読み、忘れた9個のコードを全部覚え直して、ジャッキーという名前の小さな室内犬を飼い始め、珍しい綺麗な色の茸を見つけてなんとなくかじってみたりもした。
「にがーい」
「あはは。死ぬやつだぜそれ。人間なら」
「そうなんだ。勉強になりました」
「フランはさあ、ぼーっとしてるときあるよな。なにか考えてるわけ?」
「わたしを見てるの」
「自分を?」
「自分っていうか……わたしの頭の中にはたくさんのわたしがいるの。そのわたしがわたしのしたいと思うこととかそうじゃなくてもなんでももうしてるからわたしはなにもやることがないのよ」
「たくさんのフランか。楽しそうだ」
「どーかな。ときどきは……話しかけてきたりもする。わたしについて言ったりもする。うるさいなあって思うときもあるよ。これって魔理沙はどう思う?」
「それは可能性世界のフランだな」
「可能性世界?」
「そうだぜ。あのときこうしていればこうなっていたとかこれをはじめればこうなれるとかさ、そういう後悔や期待が想像になって頭の中でお前の中に現れるんだな」
「そうかな?」
「それか物語の功罪だな。本を読んだり、想像する物語の中で、どこかに行ったような気になれるし、何かを感じた気分になれる。体験ができた気がする。だからそれ以上なにも必要がないように思うんだ」
「それはいいこと?」
「功罪。いいことだし、悪いことだぜ」
「ふーん」
その日は帰ってから魔理沙の作ってくれたそんなには美味しくないサンドイッチを持って魔法の森を抜けて丘に行った。そこでサンドイッチを食べながら草原に寝転んでAAAの試合をわたしは見た。試合は2−0、二回の裏。ちゃんと間に合った。まだ試合は始まったばかりでした。大きな球場の真ん中にわたしは立っていた。ぐるりと周囲を見回してみる。スタンドは観衆で埋まっている。観客席にはわたしの名前の書かれたボードがいくつもある。バッターが立っている。グローブの中でボールを握り直す。サインはストレート。ボールを投げる。歓声が聞こえてくる。わたしはきっと完全試合をするのです。このリーグに限ればわたしは圧倒的だよ。女性が男性に混じって野球をやることについていろんな人がいろんなことを言う。わたしたちだって吸血鬼が人間に混じって同じルールでスポーツをやることについていろんな意見を持っている。それが功罪? サインは高速スライダー。サンドイッチをわたしは齧った。なぜか魔理沙のサンドイッチはやけに甘ったるい味がするんだった。なにいれてんのかなぁ。わたしはまたボールを投げる。バットが空を切る。穏やかな風がわたしを撫でる。歓声が聞こえてくる。パンの耳くらいちゃんと切り落としといてくれればいいのにな。キャッチャーからボールが返ってくる。グローブで受け取ってマウンドを足でならした。それから空を見ました。緩やかに雲が動いてる。きっとひとつの雲のように見えても空域がちがうんだろう。雲のひと部分だけがちぎれて速い速度で流れて別の大きな雲に混じり合いちがいがわからなくなってしまう。風が流れている。ここはいい場所だとわたしたちのうちのひとりのわたしが思う。
このマウンドの上でなら、わたしはひとりで、そしてわたしの投げるボールの軌跡は誰にも触れられたりはしない。
★
朝はいつも7時15分に起きてた。眠い目こすりながら大きなコップにひたひた水を汲んでそれを半分だけ飲んだ。しばらくそのまま微睡んでキッチンのカーテンから差し込む淡い光の中でちいさなごみのようなものがきらきら漂うのを眺めながら、やがて戸棚の中のしけたクッキーを取ってきてもしゃもしゃと口に押し込むようにして残りの水で流し込んだ。とってもおいしくないのです。それから大きなあくびをした。冷たい水で顔を洗った。歯を磨いた。時間をかけながらとても丁寧に磨くんです。白い水を吐くと8時を過ぎてる。部屋の床には魔理沙が昨夜に置き残したらしい服やら本やらよくわからない魔法の器具やらが散らばっているので、それぞれをそれぞれあるべき形でしまい込みあくびをしながら日光の元に出て、秋には落ち葉を箒で刷きとり、春や夏の季節には家から少し離れた場所にある外の水道からホースを引っ張ってきて不思議な形をした観葉植物たちに水をやった。魔法の釜を洗うことも多かった。魔理沙が魔法の実験に使う大きな魔法の釜はたいてい次の日には何か半固形の蒸留物によって汚れたままになっているから、ホースから吹き出す水と小さなブラシを使って庭先でそれを洗ったのです。季節に一回、家のペンキを塗り替えた。ペンキ塗りが好きだった。なんでも塗ってた。家の壁や屋根やポストやそのへんの木とか。色が新しくなるのが好きで、汚れた壁がまるで今現れたみたいに綺麗になるのが好きで、大きなものを塗りつぶすという行為が好きだった。木に矢印とかも書きました。だいたいその頃になると魔理沙が起きてくる。たとえば、ある日には、まばゆい光に晒されながら刷毛とペンキでいっぱいのバケツを持って屋根の上に腰掛けるわたしを魔理沙が見つけて、赤色に染まったわたしの手や腕や足やぶかぶかの服を見て、また派手に血を吸ったなあって笑った。わたしはくしゅんと言った。光に慣れた今でも生理的反応のいくつかは残ってるのです。太陽を見ると全身がむずむずする。魔理沙が起きてくると作業を中断して魔理沙のつくったあまりおいしくはない料理を食べました。お話もしました。その話は大概があまり内容のない短絡する話題で、つまりはその場限りの短い命の話題なのだけれど、ときどきは昨日の話に繋がっていたりもっと昔の話をより戻してきたり思わぬところで話題が繋がったりもした。お話は複雑な編み物みたいだったよ。繰り返されるパターンとそれ構成する糸の連なり、意外な繋がり、ほつれた部分をずっと引っ張ってみたら最終的には変なところが抜けたりする。わたしはあくびをして、それから中断した作業に戻りました。自分の顔が映るくらいにぴかぴかに釜を磨いてしまうとそれを魔理沙の部屋に戻して、きのこ狩りにでかけた。魔理沙が暇そうにしてれば魔理沙と一緒に行ったけれど多くの場合に魔理沙はなにかに没頭しているかどこかにでかけてしまっているのでわたしはひとりで行きました。毎日繰り返しているから取るべき茸や薬草はすでにないように思えるけれど、魔法の森は意外に広くそれにいつもちがう道を歩くようにしていたのでそれほど収穫には困らなかった。魔理沙がいるなら帰るときに迷わないように魔力に反応して光る石を落としてた。わたしたちはヘンゼルとグレーテルみたいだねってわたしが言うと、誰が石を食べるんだぜ?と魔理沙は言いました。少し思案したあと、そういう動物がいるんだよとわたしは言った。それに考えてみると魔理沙は兄弟の片割れというよりはあの悪い魔女に近かった。いつかわたしは魔理沙から逃げ出して幸せに暮らすんだふたりでさ、とわたしは言ってみた。魔理沙は笑った。「誰と?」「どこで?」「なにをして?」でも、ほんとは、わたしは捕らえられたわけではなかったし魔理沙の料理は食べすぎて太ってしまうほどおいしくはなかったんです。ひとりのときは空を飛んだ。日光の中飛び続けるのはとても苦だったので木のてっぺんより高くまで飛んで帰り道の見当をつけたらあとは歩いた。そういうわけだから家につく頃には疲れていることも多くて、そのあとはたいてい家の中で本を読んだりうたた寝したりシャボン玉を吹いたりヨーヨーを覚えてみたり、ちょっとした魔理沙の手伝いをしたりして過ごした。晩ごはんの前までには洗濯とお風呂の準備を必ず終わらせるようにしてた。あとでやるのはとっても面倒だったから。晩ごはんのあとにはゆっくり流れる時間があった。それは魔理沙にとって本や魔法の実験に没頭する最も激しい時間だったから、ときどきは手伝いもしたけれど、基本的には邪魔しないようにひとりの夜を過ごしていた。屋根の上に座って空を眺めた。部屋で本の続きを読みました。歌とかつくって唄ってみました。温かい湯につかりながら考え事をしました。眼下には目に見えない細い糸が真っ直ぐ伸びていた。色とりどりの洗濯物が緩やかな夜の風にはためていた。木々は高く森は遠くどこまでも暗闇に包まれていた。星星は光っていたり雲に覆われていたりした。ときどきは白い月が丸くはっきりと見えることがあった。あくびはでなかった。11時には眠った。
そんなふうにして日々はあくまで過ぎ去る日々として過ぎていったのだけれど、それは概算された日々であり、すりつぶして焼いたパンの上に塗られる果実のペースト風の日々で、実際には再現性のない非対称な出来事によって日々はあふれた。あふれたものは零れ落ちて落下点でぐちゃりと潰れてこうして何気なく並べられた過去の記述の上に染み付いてそういったものを”思い出”とわたしたちは一般に言うらしいのです。そのような日々の特異点はわたしの場合はたいてい森の中に茸狩りに出かけているときに現れた。日々のほとんどを家の周辺で過ごすわたしにとって珍しいものと出くわす機会といえばそのときか魔理沙のするお話の中くらいなものだったから、わたしたちのうちのひとりのわたしに出会ったのもそんな茸狩りに出た午後のことだった。
いつもと変わらないようにわたしは茸を取っては籠の中にほうっていた。ある木の下で珍しい色の茸を見つけたので手に持った厚い本を開いてそれを識別しようとした。でもどうやら当該する茸は本の中には存在しないようだった。手にとって光に透かしてみた。目を細めてじっと睨んでみた。そんなことをしても茸の種別はわからないのです。諦めてかじってみた。味はしなかった。どうしようかなと思案しているとふと木の先にひとりのわたしが立っているのを見つけた。午後の光が葉と葉の隙間を抜けていくつかの細い線に分かれて足元に落ちていた。彼女は恥ずかしそうに笑ったんだよ。久しぶり、と言いました。それからわたしの背負った籠を指差した。
「それ茸?」
「うん」
「たくさん……。いっぱいあるのね。鍋でもするの?」
「ううん。魔法の素材に使うの」
「魔法……魔法か、いいよね。あー、その……懐かしい、かんじが、するから」
「うん、そうだよね。いや、わたしは懐かしくはないんだけど。感じはわかるわ。つまり、貴方はそう感じるんだなあっていう想像で。想像? まあ、想像でね」
「うん」
「あのさ、うちに来る?」
「うち?」
「あ、わたしの家じゃないんだけどね。でもずっと一緒に住んでるから実質そうみたいなもので、たぶん、ほら、こうしてここでお話するのもあれだから……どうかな」
「そうね。行こうかしら」
それでわたしは家に帰ることにした。わたしたちのうちのひとりのわたしはわたしの後ろを着いて歩いてきた。道中にはほとんど話をしなかった。さくさくと落ち葉の裂ける音がしていた。沈黙を避けてわたしは言った。あのさ……。なぁに、とわたしたちのうちのひとりのわたしが聞きました。あのさ熊が出るんだって、とわたしは言った。熊が、どこに?とわたしたちのうちのわたしは言った。ここに。ここに熊が出るんだって、とわたしは言った。そっか、とわたしたちのうちのわたしは言った。わたしには言うべきことが何もなくなってしまいました。それで黙った。魔理沙の家についた。魔理沙はどこかに出かけているようで家は空っぽになっていました。ちょっと待っててねとわたしは言って、適当な椅子の上に彼女を座らせて戸棚からを持ち出したクッキーをお皿の上に広げて持っていきテーブルを挟んで向かいのところに座った。どうぞ、とそれを手で勧めた。彼女は口をつけなかった。わたしはクッキーを食べました。彼女はわたしがそうするのをただ眺めていたのです。先に口を開いたのは彼女の方だった。
「ここに住んでるんだ」
「うん、そうなのよ。住む代わりに魔理沙の手伝いとかしてて、助手ってさ魔理沙は言うの」
「助手?」
「魔法使いのさ」
「ふふっ。楽しそうね」
「そうかしら。貴方はどうしてあそこにいたの?」
「いろいろあったの」
「まあ……そう。あるよね。いろいろ。生きてれば」
「本当にいろいろあったのよ。ほんとうに……」
「うん」
彼女はわたしがここに住む理由やあるいはその暮らしぶりをよく知っているはずだった。彼女はわたしたちのひとりのうちでありわたしたちは意識の深いところでの連結があったのでいつでもお互いの行っていることを覗きあっていた。だからわたしもほんとは知っていたんです。外の世界に旅立ったわたしたちのうちのひとりのわたしがこんなところまで戻ってきてしまったその来歴を。彼女が体験した挫折や苦難や悲劇もわたしにはわかっていたし、その時感じていた気持ちさえまるで自分がそうしてきたように知っていました。でもわたしは最後までそれを口に出すことはできなかった。それは彼女にしたって同じことでした。そのときのわたしたちの間にはある作法があったんです。それは他人の作法でした。わたしたちはお互いの胸のうちを知りながらそんなものはまったくないものように振る舞っていました。こうしてわたしたちのうちのひとりのわたしと対面するのは(その最初を除けば)わたしたちにとってはじめてのことでした。わたしたちはお互いにどうしたらいいのかわからなかった。わたしたちがどんな等しい姿をして、あるいは神経の奥で繋がっていたとしても、こうしてお互いをお互いの目によって視認する限りわたしたちは他人だったのです。
食べていいのよ、とわたしはクッキーを言った。彼女は肯いた。でも彼女はそれに手を付けなかった。わたしはクッキーを口の中にたくさん押し込んでもぐもぐと食べた。それからわたしばっか食べてるねって言ってみた。彼女は笑った。でもクッキーは食べなかった。貴方がわたしの代わりに食べてくれるからわたしはいらないわ、そんなことをわたしが言ったらどうしよと思ったけれど、彼女は別のことを言いました。
「これから行くところがないの」
「そう? じゃあここにいればいいわ。しばらくは。次のあてが見つかるまで。魔理沙だってきっと受け入れてくれるよ。助手がふたりになったらむしろ喜ぶわ」
「でも、そんなのって……」
「いいのよ。なんか貴方が心配だもん。他人って気がしないわ」
「他人じゃないもんね」
「あはは……。ほんとに、そう」
いつも眠っているリビングのベッドを彼女のために空けて床に毛布を広げて自分の寝床をつくった。わたしたちのうちのひとりのわたしはシャワーを浴びていた。三人分の生活に必要なものはすべて揃っていた。その日に魔理沙は帰ってこなかった。そして朝に覚醒めるとわたしはいなくなっていた。まるではじめから存在しなかったかのようにここから彼女は消えていたのです。なんだか夢でも見ていたような心持ちで部屋の中を探していた。だけど彼女がここにいたというその痕跡をわたしはどうしても見つけることができなかった。夜にわたしが眠るベッドの上の凹みや食べかけのクッキー、風呂場の排水溝の金色の毛、わたしが着る魔理沙のパジャマの抜け殻。それらはあらゆる意味においてわたしの日々の痕跡と相違がなかった。ねえねえ、わたしは昨日ここでもうひとりのわたしと暮らしてたんだよ。そんなことを誰かに言ってみたところでわたしの痕跡は字義通り単にわたしの痕跡だったから、わたしがここで生きているという事実が彼女が存在していたということを嘘にしてしまう。置き手紙がありました。テーブルの上に。白い紙に万年筆で記された文字。わたしがここにいたというただひとつの痕跡。白い小さな紙の上に簡単な走り書きが記されていました。わたしはそれを手にとって見つめた。それが、わたしの筆跡だったよ。わたしたちのうちのひとりのわたしはきっとわたしが眠っている間にそれでこう書いたのです。
『ごめんね。』
やがて魔理沙が帰ってきた。魔理沙はひどく疲れていたみたいで簡単な会話をいくつか交わすと自分の部屋に行って眠ってしまった。彼女のことは魔理沙には話さなかった。次に魔理沙が起きるときにわたしは庭先で花に水をあげていた。もう夕暮れだった。昨日今日の足跡は一昨日と少しだけずれてしまっていたけれど、時間はそれを押し戻しやがて通常の日々が帰ってくる。わたしは彼女に向けて手紙を書くようになりました。あの日にわたしの家にやってきたわたしたちのうちのひとりのわたしに向けて。それもやっぱり他人の作法でした。彼女が住むようになった幻想郷の片隅にある小さな家の場所をわたしはわたしたちの間に通ずるあのやり方で知ることができたので、魔理沙に頼んで手紙をしかるべき場所に持っていってもらった。一通を送りまた一通を送り、三通目にお返事が来た。勝手に家を出ていったことの謝罪と今の生活についていくつかの事実がそこには記されていた。わたしはお返事を書いた。しばらく経ったあと彼女から返信が届いたので、また手紙を書いた。冬がやって来た。わたしたちのうちに通じるあの不思議な共感によってわたしはわたしたちのうちのひとりのわたしがこの幻想郷で新しい人々の中で新しい暮らしを見つけたことを知っていた。その頃には返事はめっきり届かなくなっていたのでそれを彼女がどう表現したのかをわたしが知ることはなかったのです。わたしは目をつむって彼女の暮らしに思いを馳せた。わたしの中で彼女は笑っていた。心いっぱいの楽しみと充足を感じていた。いつのまにかわたしたちの間にあった他人の作法は失われていた。その年はたくさん雪の降った冬だった。わたしは屋根に登って雪かきをし手袋と長靴をはめて雪国の暮らしを学び、新雪に足跡をつけて茸を取りに出かけ暖炉の前で毛布にくるまりながら何時間も過ごした。
それでもときどき手紙は出したのです。
わたしは手紙を書いては茸を取りに出かけ、路地裏で警官を殺し、手紙を書いてサンドイッチを食べて年の終わりには契約更改をして手紙を書いて、魔法の釜を庭先で洗い愛する彼女の手を握り玄関に散る桜の並びらを箒で掃いてオンラインゲームの中でクリーチャーを殺し、家の屋根のペンキを塗り替えベランダでギターを弾いて歌を唄い手紙を書いて、高枝鋏で大きくなった木の葉を切りそろえ花火の下でわたしを罵倒する男の言葉を聞き、本棚の整理をして戦場で傷を縫って、秋には落ち葉を集め、ジャングルで鰐たちの操り方を覚えしゃぼんを吹き、時間が経って、雪を下ろし本を読み森を歩き魔法を見て、手紙を書いて、花に水やりをした。
そんなふうに月日が過ぎていった。
★
魔理沙のお葬式は盛大に執り行われたと聞いている。わたしは行かなかった。わたしにはお別れを告げるだけの時間が十分にあったし、この土地に土着のお別れの儀式は吸血鬼のわたしのためのものじゃないのです。それでも魔理沙が死んでからのしばらくは忙しい日々が続いた。魔理沙は自らの炎が消えてしまうその日になるまでずっとその予感と兆候を周囲に隠していたみたいだったから魔理沙の死はある種の驚きをもってこの小さな世界に受け入れられたようだった。いろんな人がこの家にもやって来た。問いに答えるままにわたしは魔理沙の最後の姿を彼らに語り、他人の視点によって浮かび上がる魔理沙の人生について総括し彼らの慰めの言葉を受け入れた。わたしがここにいることを意外に思う者もいました。どうやら魔理沙はわたしに関することを周囲にそれほどまでに話して回っているわけではないようだった。まさか貴方が魔理沙の助手だったなんてねえと彼らが言うので、そうねとわたしは微笑んだ。稀にわたしとその来歴を知っている人もここにはやって来て、そんなときは思い出話に花を咲かせた。たとえばパチュリーがやって来た。わたしたちは魔理沙についてひとしきり喋り、それが終わってしまうと今の暮らしと過去の思い出の話をした。そういう場合はわたしから尋ねることが多かった。お姉様のこと、紅魔館のこと、咲夜のこと、美鈴のこと、小悪魔や妖精のメイドたちやたくさんのペットのこと。実のところ多くのことはすでに知ってはいたけれど、それをこうしてパチュリーの口から聞くのには何か新鮮な楽しみがあった。そういえば、と別れ際にパチュリーは口を切り出した。そういえばフランは魔法を覚えたかしら?と言った。
ぜんぜん、とわたしは笑った。
そういえば似たようなことを魔理沙も言ったことがあった。
それは魔理沙が死ぬほんの数週間前のことだった。年を取り人間がみんなそうなるように魔理沙の身体は老いさらばえ動くこともままらなく日がなベッドの上に寝込んで時間を過ごしていた。わたしは少し離れたところで魔法の釜に向き合って魔理沙の指示した通りに魔法の薬の材料を煮詰めているところだった。赤い茸と薬草と原色の液体とねずみの尻尾と吸血鬼の血液。釜の中から煙がもくもくと上がっている。それが開いた窓から抜けていく。魔理沙の薄くなった肌を光が透かしていた。わたしは棒で鍋の底の液の固まった部分をつついていた。深い底を削るようにすり潰してた。魔理沙が何かを言った。うん、とわたしは言った。またか細い声で魔理沙が何かを言った。うん、とわたしは言った。しゅうううと薬液の沸き立つ音に何一つ聞こえなくなってしまうのです。うん、とわたしは言った。鍋の中の液体がなめらかに行き渡りひと色に溶け込んでしまうと、わたしはそれをお玉で掬って底の深い器に移した。それから魔理沙の横たわるベッドのそばまで歩いた。魔理沙は横なりの格好でわたしのことをぼんやりと見ていたけれど、わたしが手を肩に触れて煽ると仰向けになり上体を起こした。魔理沙の隣に膝を着いてその背中を手によって支え、器の端を口に添えて魔法の薬をゆっくりと流し込んだ。半分くらい飲んだところでげほげほと魔理沙は咳き込んだ。大丈夫なのこれ、とわたしが言うと魔理沙は苦しそうに肯く。間違えないんだこれは生命に効くんだよと言った。魔法が効くならはじめからそんなに死にそうにならないでよう、って残りの魔法薬をわたしは魔理沙に飲ませた。それから器を脇におきました。魔理沙の手を握ってみた。骨ばって乾いていた。触れたら壊れちゃいそうだった。魔理沙がなにかを言った。今度はその意味がわたしにも通じた。
「なあ……結局、フランは最期まで魔法を覚えようとしなかったなあ。よく続けたものだよ」
「何の話?」
「魔法使いの助手さ。お前は魔法の効果なんか信じてないのに助手なんか……」
「わかんないよ? わたしはこれから長い時間を生きるんだよ。魔理沙とちがってさ」
そうだなと魔理沙は笑った。笑ったら咳き込む。もう喋んないでよとわたしは魔理沙の背中をそっと擦った。
だけど、魔理沙がフランも魔法を勉強しないかとわたしを誘ったのはたった一度だけ、それもずいぶん昔のことだった。そのときは魔理沙の方が魔法の釜の前に立っていた。わたしは後ろで座って本を読んでいたのです。それは一族三代の興亡を順列して語りながら三つのお話が別種の質感の語り口と情念を扱いながら実のところ細部と全体において常に同様の循環する構造が見え隠れするという繊細でとても長い小説だったから魔法が完成するのを待つのには困らなかった。ページを捲る隙間にぱちぱちと液体の跳ねる音がする。顔を上げて見ると釜の中の液体が煮立っている。魔理沙はお玉で掬ってそれをじっと見つめて首を傾げた。フラスコを傾けて釜の中に液体を継ぎ足した。ハーブのような葉を裂いて浮かべた。本の中では男が日の下を歩いていた。太陽の光とその効用と実践的応用方法についての長い記述がある。『太陽はわたしたちの身体と固く結びつき……』魔理沙は箸を器用に使うことによって釜の深いところから鉱物を取り出した。それを水を張ったボウルの中に浸して冷ましたあとで八卦炉の上に移して火にかけた。しばらくすると鉱物のひび割れた部分が光りだした。赤色。ルビーのような透き通る赤色。まるでそれは石の血管みたいだったな。わたしはあくびをした。それから本を開いたまま裏返しゆっくりと伸びをする。
「ふぁあああ…魔法さ、なんでやってんの、魔理沙は、魔法……」
「そりゃあいろんな理由があるさ。そのとき必要だったりやりたいなって思うことをやるんだよ。風邪を直したいと思ったら治癒の魔法、星を見たいと思ったら星の魔法。あらゆることが実現できるんだ」
「魔法なら?」
「そうさ。でもフランの聞きたいことはそういうことじゃないんだろうな」
「んー。どうかな」
「なあ、フラン、魔法を使うことは世界に向かって手紙を書くことなんだぜ」
「おてがみ?」
「ああ。魔法っていうのは何が起こるか、本当の意味では最後までわかんないんだ。その意味じゃ河童たちの科学技術は少し違ってる。もちろん魔法の理論のようなものはあるさ、だけど必要な材料を揃えてたしかな魔力を加えても……思ってみない形になるときもある。逆に言えば理論では説明できない素晴らしい結果が現れることだってある。手紙だってそうだな。こっちが必死にたくさん書いても返事さえ来ないときもあればなんとなく送った一通に心がけず忘られない手紙が届くときもあるだろ? わたしはさ、はじめから世界から返事が来たとき、そのときの喜びが忘れられなくてさあ、今もこうしてやってるの」
「魔理沙は手紙魔になったんだ?」
「そうだぜ」
魔理沙は照れくさそうに笑って、フランも手紙を出してみたらどうだと言った。魔法とは世界に向けて出すお手紙です。魔理沙がそれをわたしに教えてくれたときわたしには不思議な感動があった。いいなって思った。だからわたしは手紙を書くことにしました。だって魔法を学ぶより手紙を書くほうがずっと簡単だもん。ここには論理学上の誤謬があり、魔法が世界に向けて出される手紙だとしたって手紙を出すことは魔法じゃない。でもそんなはどうでもよかったな。魔法を信じることも嘘を信じることもわたしにはたいした違いはなかったんです。そしてわたしは手紙を書くようになりました。知ってる人なら誰でも手紙を書いたよ。お姉様に手紙を書いて、咲夜に、パチュリーに、美鈴に、小悪魔に、紅魔館の妖精メイドたちひとりひとりに、魔法の森で会ったわたしたちのうちのひとりに手紙を書いた。それから知らない人、会ったことのない人、存在しない人に手紙を書きました。いつも手紙を持っていってくれる郵便屋さんに手紙を書いた。お母様とお父様に手紙を書いた。名前だけを知っている親戚たちにも手紙を書いた。魔理沙の友達にも勝手に手紙を書いた。あの地下室に残してきしまったぬいぐるみたちに手紙を書いた。空に、雲に、太陽に、星に手紙を書いた。それに心の繋がりでしか知ることができなかったわたしたちにも手紙を書いたのです。戦場で兵士たちに刺さった銃弾を抜き続けるわたしに、どこか薄暗いところに鎖で繋がれたわたしに、遠い大陸でベースボールをするわたしに、ベランダでひとりで歌を唄い続けるわたしに。99人のわたしたちみんなに、わたしは手紙を書いた。
それから、いつか魔理沙にも手紙を書くよ、とわたしは言った。それは魔理沙の死に際のことです。わたしは骨の手を握ってた。
「ねえ、魔理沙。魔理沙が向こうに行ったら手紙を書くね」
「それは楽しみだな。いつもフランは手紙を書いてただろ。一度くらいお前から手紙をもらいたいと思ったものなんだぜ」
「え。そうなの。いつも近くにいたからわざわざ出す必要ないかと思って。ごめんね?」
「別にいいさ」
魔理沙は目を細めて遠いところを見ていた。
魔理沙の見ているところをわたしも見てみた。
でも、そこには繰り返された魔法の実験によって煤けた壁しか見えなかったのです。
魔理沙は言った、か細い消えゆく魔法の呪文の最後のひとひらのような声で。
「でも、楽しみだな。ほんとに」
わたしもいつか魔理沙に手紙を書くのが楽しみよ、って口の先まで出かかって、やっぱそれはひどいかなぁって言わなかった。
★
二週間たったあとで魔理沙は死んだ。思ったよりは長く生きたのだろうかあっけない終わりだったのだろうかそれはわたしにはわからないけれど、そのあとには年の終わりのような忙しさがありそれが過ぎてしまうと大騒ぎのあとに妙に静かな日々だけが残った。しばらくは魔理沙の遺品を整理して過ごした。もう使われるこのない魔法の道具たちを綺麗に並べな看病に必要だったあれこれの用品を捨てた。戸棚を整理しているときに厚紙づくりの大きな箱が出てきた。開けてみると中には手紙がいっぱいに詰まっていた。それはわたしが誰彼構わずお手紙を出し続けていた頃に無数に送った手紙に返ってきたいくつかの返事たちでした。ためしに一番上の手紙を開いてみて少しのあいだ思い出に浸りそれからもとに戻して蓋を閉じた。少し考えてそれらも一緒に捨ててしまうことにした。きっと読み返すことはないだろうから。わたしの手紙はあんまりに膨大すぎた。思うに手紙を回顧する形式は人間のためのものであり、すべての手紙を保存しておくにはわたしの生命は少し長すぎるのです。本棚の整理をしているときにまたひとつ手紙を見つけた。埃をかぶった厚い魔術の本のページの間にそれは挟まっていた。叩いて埃を払った拍子に紙切れがひらりと落ちた。かがんでそれを手に取り見てみるとそこにはわたしの筆跡があった。『魔理沙へ』そんなことが書いてあった。それは魔理沙宛のわたしの手紙だった。そこにはこれから手紙をしたためようとするわたしの気持ちと、手紙を出す楽しみを教えてくれた魔理沙への感謝と、だけど何を書いたらいいかわからないという困惑がそのまま記されていました。わたしの初めて出した手紙は魔理沙にだった。なんとなく裏返してみるとそこに不思議な言語と記号でなにやら走り書きのようなものがあった。たぶん魔理沙が魔法の理論の思いつきか何かをとりあえず手近にあった紙に記しておいたものなんだろう。せっかく出したはじめての手紙に返事はなかった。魔理沙はそれをあろうことかメモ用紙代わりに使ってしまったのです。それがなんだかおかしくってわたしは笑った。笑ったあとで少しだけ涙が出た。そして、もういちどだけ手紙を書こうと思った。もう会えない人に、まだどこかで生きている人に、むかし手紙を出したみんなに手紙を出そうと思った。それにわたしたちにも。
むかしわたしの中にはたくさんのわたしたちがいた。わたしたちは不思議な力によって通じ合い常にお互いの生活を覗うことができた。そういえば、彼女たちの姿はわたしが最初に手紙を出し始めて少し経った頃から見えなくなってしまっていた。いまみんながどうしているのかわたしは無性に知りたくなった。だからわたしは手紙を書きました。魔理沙の家で毎日ひたすら手紙を書き続け、返ってきた手紙には返事を書いて、手紙を書き、返信が来て、手紙を書いて、また手紙を書いた。
たぶん数年はそんなふうに過ごした。
212通を書きクッキーを1502枚食べて9回ペンキを塗り替えてそれから300と8通を書き、思い出せる限りすべての人たちに手紙を書き終えたあとでわたしはそこを出た。手紙でいっぱいの魔法の家。たくさんの魔法の道具と一緒に返事の手紙は置いてきた。はじめて出した手紙と四つ折りになった『ごめんね。』だけを厚い魔法の本に挟んで小さな鞄に入れて幻想郷の外の町で暮らした。生き方は知っていた。ずっと昔にわたしたちが教えてくれたのです。小さな会計事務所のアシスタントに職につきそこから少し離れた町にアパートを借りて観葉植物を買ってきて窓際に置き毎日水をやった。朝に起きて夜に眠った。そんなふうにしてまた暮らした。数十年を同じやり方で、代わり映えのしない、手紙に書くほどでもないような暮らしをした。
★
電車は揺れている。このまま眠ってしまえば海に出る。つり革が揺れてる。掴んだわたしはあくびをする。光線が振れて集まりながら短い光の束になってやがてあふれる。電車はゆるやかに駅のホームに近づいていく。甲高い音を立てて停車する。空気の抜ける音のあとに列車のドアが開く。人々が立ち上がり列車から外に出る。最後にわたしは電車を降りる。振り返ると電車の中にはほとんど人が残っていない。さっきまで座ってたシートを眺めてみる。立ち上がってから時間が経っていたせいでそこにわたしの痕跡を認めることはもうできない。終点には海がある。このまま電車に乗り続ければきっと海に出る。扉が閉まりゆっくりと電車が始動する。ホイールが線路にきしんで金属音が響きやがて電車は消えてしまいあとには歯科専門学校の広告と窓ガラスの向こうに暗い町影だけが残る。わたしはあくびをする。それからホームの階段を上がり改札を抜け西口行きの短い階段を降りて駅前に出る。外は冷えている。わたしはコートのポッケに手を突っ込む。駅前の景色は時間とともに様変わりしていく。去年はあったはずの駅ビル3Fのネットカフェはガールズバーに変わり20年前は真新しかった市の合併記念のモニュメントは少しずつ色あせていく。わたしはどのくらいこの場所に降り立ちあるいは通り過ぎたのかな。こうして駅前を流れる人間たちよりもずっと長い時間の感覚がわたしにはあるのです。ときどき同じ会計事務所に後から入ったアシスタントの子がいつまでも変わらないわたしのことを不思議がって、どうして先輩は見た目がずっと変わらないんですかねと尋ねられることがある。そんなときはいつも同じ答えを用意している。わたしはむかしむかし魔法使いの助手だったんだよ、って。納得や理解をしたわけじゃないんだろうけれど、わたしがそう言うと、ああたしかにそんな感じですよねとみんなは言う。
そして、駅から少し歩いたところにはドーナツ屋があるのです。クリームのいっぱいのドーナツとオールドなチョコのやつとホットコーヒー。同じ店の二階でそれらを時間をかけながら食べた。お腹がくちくなると眠気がやってきます。ハンドバックの中から小さなタブレットを取り出してメールの返信を書いた。家に帰ってからやろうと考えていたけれどきっとすぐに眠ってしまうだろうから外で済ませておきたかったのです。難しい文面じゃなかったけれど眠りはすぐそばまで迫っていて思ったよりもずっと時間がかかってしまうな。コーヒーが冷めてしまうとメールが書き終わります。タブレットをしまうときにハンドバックの中に書きかけの魔理沙への手紙が見つかった。あのまま電車で眠ってしまったのならきっと今頃には終点にたどり着いているのかもしれないね。折り返しの電車はもう残っていない。しかたなくわたしは海の方へと歩きはじめる。浜辺に向かう堤防のコンクリートの上に座りながらタブレットの明かりを頼りに魔理沙への手紙の続きを書く。それはきっと完成する。わたしは手紙を縦に1回、横に4回、折って空のペットボトルの中に入れて蓋をする。それからこんなことを考えるんだと思う。もしも、あそこで眠らずに駅で降りていたらわたしはどうしていたんだろう。わたしはドーナツを食べる、メールを書く、コーヒを3杯飲む、そしてアパートまでの帰り道を歩きはじめる。堤防から砂浜に飛び降りました。わたしは夜の町を歩いている。それから砂浜を海に向かって進んだのです。駅から離れるとすぐに暗闇が町を覆いはじめ家々の明かりだけがわずかにてんてんと灯る。やわらかい潮風が吹いてる。電信柱を数えるようにアスファルトの上をゆっくりと歩く。砂浜にひとつ足跡が落ちた。コンビニエンスストアの光。遠い埠頭は赤。自転車に乗った塾帰りの中学生がすぐにわたしを追い越してしまう。魔理沙への手紙はよく書けたよ、あんまりによく書けたからきっともうここにいない魔理沙にだって届いてしまうような気がした。わたしはあくびをする。ペットボトルの中の手紙をそっと海に乗せると、波がそれを呑み込んだ。波が引いてしまうとそこにはもう海しか残らないのです。海はどこまでも無限に広がり夜の空に溶け込んでちがいがわからなくなってしまう。だからわたしが見たのは、海。すべてが海。空を眺める。星たちの光る夜の空。すぐに下には家々の明かりがある。通り過ぎるヘッドライトの光が短い線になって流れる。遠くで海の音がするね。ざあざあと打ち付ける波の音、さらさらとこぼれる砂粒の音……。それに埠頭の赤。わたしは目をつぶってあの子のことを考えました。駅で別れてしまったもうひとりのわたしのこと。あの子はいまどうしているんだろう。これから続く暮らしが少なくともあの子にとっていいものだったらいいなあって思った。あの子に手紙を書きたいな。今はもうここに記すための紙もペンもないから祈ることくらいしかできないけど。祈り方なら西暦一九九八年のロシア正教会で覚えた。そこでわたしたちのひとりのわたしは洗礼を受けたのです。その日は雪が降ってた。わたしは水とオリーブオイルでいっぱいの盥の中に立っていた。神父がわたしに向けて十字を6度切った。それからわたしの髪の一部を盥の中に落とした。首には十字架がかけられた。そしてわたしは新しい名前を授かった。教会の外に出ると雪が降っていた。外套の襟を寄せて歩いた。下宿先に戻るとヤーナおばさんがわたしを待っていた。おめでとう、これからはあんたにも主の祝福があるだろうとわたしの額にキスをした。愛してるよフランドールと言った。雪が降っていた。それからわたしに手紙が届いてると教えてくれた。ねえ、わたしも愛してる!って、わたしは手紙を受け取って自分の部屋に戻り手紙を開いた。それはわたしたちのうちのひとりのわたしからの手紙だった。わたしはそれをとてもよいしるしだと思った。祝福を受けた日に手紙が来るなんて、しかもそれが自分自身からなんて。一通り手紙を読んでから返事を書くことにした。少し考えてこんなふうに書き出した。『お手紙ありがとう。あの日に別々の道を行ったわたしたちのうちのひとりが今も元気だと言うことを知れてわたしはとても嬉しかったです。それにこれはわたしにとっていいしるしなんです。実はわたしは今日、洗礼を受けました。悪魔のわたしがキリストの祝福を受けるなんてと貴方は思うでしょうか。実際わたしたちのうちにはわたしが洗礼を受けることを好ましく思わないわたしもいるみたいです。でも主様の慈悲は深く悪魔のわたしにも奇跡を授けてくれました。それまでのお話をここに書くには少し長くなりすぎるし、きっと貴方はわたしたちに通ずるあの力によってそれを知っているかと思います。だからそのことはここには書きません。代わりにわたしたちのうちのわたしたちに注意深く知られないようにしていたわたしの秘密を貴方には聞いてもらいたいんです。わたしたちは多くの罪を犯しています。それはわたしたちが悪魔であるというところからはじまり、安易な半不死性に甘んずることに続き、そこから多くの具体的な罪を引き出しています。わたしたちが実際に何を行ったかを貴方はよくご存知でしょう。たとえばわたしたちのうちの誰かがそれを行うことを(きっとわたしたちはみんなそうなんでしょうが)わたしはまるで自分が行ったように感じていたんです。それはわたしにとってなによりの苦しみでした。しかしわたしたちがまったく別の生命へと分化したあとにもわたしたちのうちに通じるあの力がわたしをこうして同一ものにしてしまうなら、わたしに与えられる祝福やわたしの贖罪のための行いもやっぱりわたしたちすべてのものなんです。それを貴方は傲慢だと考えるでしょうか、わたしがわたしたち99人の罪を肩代わりしようとすることが。わたしはそうだとは思いません。なぜならわたしたちはみな等しく神の子なんですから……』そこまで書いてわたしはふと窓の外を見てみた。雪が降ってた。海の音がする。それからわたしたちのうちのひとりのことを考えました。彼女の手紙、彼女のわたしたちすべてに対する贖罪について。だけど、もうわたしたちはわたしたちじゃないよね。だってああして手紙をやり取りできるならわたしたちはすでに他人だってことじゃないだろうか。わたしたち――あの子とわたしは、手紙を出すことによっていつかわたしたちの間に通じるあの魔法の力から逃げ出してしまったんです。ふたりで、遠いところに、手紙を書いて。まるでヘンゼルとグレーテルみたいにね。わたしたちは今あらゆる祝福や呪いからも遠いところにいる。クラクションが鳴る。海の音がする。窓の外では雪が降っている。それからわたしは手紙の最後にこんなことを書き加えた。
「貴方にも主様の祝福がありますように!」
祈りから祝福が消えたあとにはただ言葉の響きだけが残る。届かない祈りの響きは潮風に乗って遠い海の向こうに消えてしまう。でも、こうして波音に消えてしまったそれは、なんだか悪くない響きだったよ。人生や物語や思い出から祝福や呪いや意味が消えてしまったあとでそこに響きだけが残ればいいのになあってわたしは思う。海の向こうには埠頭の赤い光があった。停車する車のエンジン音がする。家々からこぼれる人の声がする。塾帰りの子どもたちの笑い声がする。星たちの光、コンビニエンスストアの光。信号機の点滅。どこかで海の音がする。信号機が青に変わる。わたしは再び歩きはじめる。はやく帰ってあったかいお風呂に入ってすぐに寝よう。明日は休みだからきっとたくさん眠れるかなぁ。
それからわたしは目をつむりあの子の暮らしの続きを考えた。
そのまま眠ってしまうまで、続いていく日々のことを、ずっと、考えていた。
おしまい
。
「なんて言ったらいいだろうか、今日はいい日だ。嬉しい日だよ。貴方が、フランが、お前たちが、この館を出ていろんなものを見に行きたいと願うことが。わたしたちがお母様とお父様のもと、ユーラシアの森の中で鹿を追って遊んで暮らしていた頃、貴方はまだ小さなかわいいフランドールだった。まるきり子供のようで、実際にとても幼くて、目に映るものすべてを追いかけては取り逃がして笑ったんだよ。貴方の目にはすべてがきらきらと光って見えていた。そうよ、信じられる? 実際、わたしは貴方の目で世界を見ていた。貴方はいつでもわたしの後ろにくっついてきて、わたしの背中に隠れるようにして世界を見て、それからくすくすと笑った。ねえねえ、お姉様、これは、なぁに?あれは、なぁに?と何度も聞いた。わたしがそれぞれに与えられた名前を答えると、フランは笑った。何がおかしかったんだろうな、フランが笑うとわたしもなんだか楽しくなって笑ったんだ。……ああ、いつも気を使ってきたんだ。貴方がこの館のあの部屋で数百年を無為に過ごすところを眺めながらわたしが何を考えていたと思う? ねえ、フランドール、実を言えば、貴方が外に出たいと言い出したとき、わたしはとても困ってしまったんだよ。地下室で数百年を過ごした貴方には世界はあまりに未知であふれているし、それに貴方はきっと上手ではないものね。その、生きていくことが……。だから、わたしは貴方の言ったことを、その意味を、何度も何度も繰り返し考えて、朝を幾十と迎えた。咲夜とは何時間も話したし、パチュリーにも相談したよ。それでも答えを出せなかった。そうだ、この前のある午後に――、わたしは久しぶりに外に出た。ここのところお前のことばかり考えていたからなんとなく気晴らしに咲夜と二人であてもなく森を歩いたの。いつも咲夜は日傘をさしてわたしの半歩後ろを歩くんだ……。フランになんて言ったらいいんだろう――わたしと咲夜の間には微妙な歩みのバランスがあって、わたしが日光を嫌うことを知っているから咲夜はわたしの向かって歩く方向について日傘を被せてほんの少しだけ遅れてついてくるのだけど、咲夜のさす日傘はいつでもわたしの向かう先にあって、つまり、わたしの一歩踏み出すところに咲夜はあらかじめ傘の影をおいておき、わたしはそこを歩くんだよ。そのとき、わたしは咲夜のさす日傘の影を追っている……。咲夜はわたしの行きたい方向を、会話やあるいは経験によって熟知していてそうするのだけど、それはあるいは咲夜の傘のさす方向へわたしが歩いているということでもある。こうして説明するとひどく奇妙な感じだな。ふたりの意志が溶け合うというのだろうか、それは統一されたふたつの意志ではなく常に入れ替わる光と影のようなもの……とにかくわたしたちの間には奇妙なバランスがあってさ、でも、その午後の森を抜けた先の小さな湖畔のそばで突然にそれが崩れた。実はわたしはお前のことを考えていたんだ。今日は妹様のことは忘れて、と咲夜は言っていた。でも、わたしは不意にお前のことを思ってしまった。日差しの強い日だった。そよ風が湖畔の周囲の木々をさらさらと揺らし、カササギのような鳥が足で湖の表面にさざなみを浮かべて、それが降りそぞく日の光をきらきらと削り取った。それは、傷痕のようだった。そのとき、わたしはお前のことを思った。これをお前にも見せてやりたいと思った。気がつけば立ち止まっていたんだ。咲夜は二歩先に歩いた。日の光がわたしの肌を焼いた。じりじりと肌が溶け出して煙に変わって消えていった。すぐに咲夜が戻ってきてわたしの上に傘をさした。痛みがあった。日の光に痛むのはずいぶん久しぶりのことだった。この土地でわたしは人々と調和し、咲夜と意志によって通じ合っていたから、外を出るのにクリームも塗っていなかったし、日の光を浴びるのはとても懐かしいことだった。どうしてわたしが立ち止まってしまったのか、その理由が貴方に理解るかしら? あのとき、わたしは貴方を、フランを見つけたんだ。貴方は、あの湖畔の上を飛んでいた。まるでわたしたちがもっとずっと幼かったときのように、貴方は羽を広げて森の影を縫いながら弱った鹿を追うときのように……それは真昼間のことだ、光の下のことだ、錯乱する眩しい光の下のこと。夜じゃない。どうしてなんだろうか、それが貴方に似合うのかしら? そうだとはべつに思わないけれど……でも、わたしの白昼夢に見た貴方の姿は昼間の輝きの中にいた。そんなことをわたしは想像もできなかったんだ。フランのことを遠い場所に出してやろう、大丈夫ですかとわたしを覗く咲夜の下でわたしはそんなことを決めた。なあ、フラン、たぶん…わたしが言ってるのは、可能性世界についてなんだ。わたしがあのとき垣間見て、その結果、貴方を外に出してやろうと誓った外の世界のフランの姿は、日の光の下を飛んでいる貴方の姿だった。でも、貴方はここから出たあとで、きっと、わたしたち一族がするように夜を飛ぶことだってあるんだろう……。あるいは午後の夕暮れに川べりを歩き、朝に堆く降り積もった雪の中に足を踏み入れる。なあ、そうだ、そうだ、フラン、貴方は、わたしにとって、貴方はフランは、遍在して……わたしは今あらゆるフランを見てるんだよ。そうだ、可能性…。それが、わたしがすべてを決心した理由で、それがここじゃないどこかで、より幸福な暮らしをする貴方をわたしに見せてくれる。わたしはまるでお前の親にでもなったかのような気持ちだよ。実際、親子の間には、可能性世界が現実の世界を覆い隠してしまうような時期がある。親は見るものすべての中に我が子の姿を見て、別の子供を見れば我が子と比べ、大人を見ればいつか大きくなった娘の姿をそれに重ねる……そして、いろんな期待、いろんな不安によって、いてもたってもいられなくなるんだ。なあ、なあ、わたしはフランたちが心配なんだ。わかるでしょう、その意味は。貴方たちは世界を知らないし、生き方もわからない。いわば貴方は海の中に放たれた稚魚のようなもので、卵から生まれた数千の稚魚はたった一匹も残らない。ほんとは4人じゃぜんぜん足りないんだ。お前がこの世界のすべての可能性を覆うには。これから貴方がここを出ていったあと、わたしは無数のフランのことを思うんだろう。悲劇的な出来事に見舞われてしまうフラン、どこかでつまずいて消えてしまうフラン、あるいは幸福に生きるお前が……ああ、無数の貴方がここにいて、すべての貴方が現実のものだったら……。そしたら、わたしの不安や期待、それらすべてが現実のもので、たくさんの悲劇的な貴方の中はにたったひとりでも幸福な貴方がいて、なあ、わたしのやり方はきっと非道いやり方なんだろう……でも、わかってくれ、ねえ、フランドール、わたしはお前を失いたくはないんだよ」
わたしたちのうちのひとりがあくびをして誰か別のわたしが、わたしはグッピーかよう…と言った。お姉様は不安げな声で何かごにょごにょと呟きながらパチュリーに耳打ちした。パチュリーが呪文を唱えてわたしたち4人のうちの1人の頭を叩くとわたしたちは100つに増えたのです。
お姉様は言いました。
「そうだよ、グッピー。お前たちのひとりでも生き延びてくれれば、わたしはそれで……」
100人ものわたしに分けるだけのお金も別れ形見もお姉様は用意していなかった。だからそれをわたしたちひとりひとりに渡すことは叶わなかったけれど、代わりに長い時間をかけてわたしたちを順番に抱きしめた。わたしたちはお姉様を抱き返してみたり、人目も気にせずその場でわんわん泣いてみたり、やはり泣いてる美鈴の涙を拭ってみたり、これからもたくさん本を読むねとパチュリーに言ったり、小悪魔に軽口を叩いてみたり、咲夜のほっぺたに口づけてみたり、妖精メイドの足をひっかけて転んだ頭を撫でてやったり、シャンデリアを落としてみたり指を切り落として残してみたり手を振ってみたり、それぞれにそれぞれのやり方でお別れを告げた。好き勝手なタイミングで100人のわたしたちが紅魔館を出ていってしまうと最後にはわたしだけが残った。
じゃあね、とわたしはみんなに言った。他にすべきことが思いつかなかったのです。そもそもわたしは出ていきたいわけじゃありませんでした。行ってみたいところもしてみたいこともわたしには何もなかった。しかしわたしもあんなにふうに盛大にお別れを告げたわたしのひとりだった。今さら戻るわけにもいかず、とりあえずは外に出てみてそのまま森の方へと歩いた。しばらく歩いたら疲れてしまった。それはずいぶん冷える夜のことでした。しかたないのでちょうどいい木の洞を見つけて、そこに身体を押し込んで空を眺めることにした。夜の空には数十人のわたしが群れをなして飛んでいたのです。夜空は深く闇の中に落ちて星星は砂粒のようだった。やがてわたしたちの群れは空で花火の光の先端のように散り散りになり別々の方向へと消えていった。グッピー、とわたしは思いました。水槽の中でしか生きられない魚です。
それからしばらくしたあとでいろんなものがわたしの中に流れてきました。それは無数の感情と情景でした。100人に分割されたわたしたちは意識の深いところで繋がっていたので他のわたしたちの感情や見る風景やその感動がわたしにも伝わってきたのです。夜空を自由に飛ぶ心地よさ、新しい世界への期待、あんなふうに出ていったもののどうしていいかわからない不安感……。
たとえばひとりのわたしはこの幻想郷を出て電車に乗っていた。わたしたちは揺られながら不安感と高揚感が混じり合った奇妙な気持ちを感じていた。景色が流れていく。わたしは目を閉じた。
新しい世界でわたしたちはそれぞれに新しいことを行おうとしていました。それらの行為すべてに伴う感情と情景がわたしに流入しぐるぐると渦を巻いていました。そしてそれが通り過ぎてしまったあとでわたしは空っぽだったのです。わたしのしてみたいと少しでも思ったことは別のわたしがしようとしていた。わたしの不安や寂しさはまた別のわたしが抱えてくれていた。いちばん最後に外に出たわたしには何もするべきことがなかったし何ひとつ思う必要もなかった。だからわたしはそこで眠ることにしました。
わたしは眠った。
ずいぶんと長い間、ずっと眠り続けていた。
【手紙魔フラン】
このまま眠ってしまえばやがて海に出る。
もうじき駅にたどりつく。時間とともに町の影の形がとろとろと移ろいゆくので、それをわたしは怪獣だと思いました。大きな大きな不定形の怪獣。実際そんな夢を見ていた気がする。どんな夢かはもう忘れてしまった。急行列車は駅をひとつ飛ばして田園とあぜ道と遠い鉄塔群を暗闇の中に溶かしながら結ぶための速度になる。地方都市帯と都心を繋ぐこの箱は揺れている。かたん、と大きく弾むので、.わたしは目を覚ます。重い瞼を手の甲でぐしぐしと擦って電光掲示板に目をやった。もうじき駅にたどりつく。ゆりかごのようにかたかたと揺れていて、なんだかとても心地よくて、眠ってしまいそうだね。手紙を書こう、とわたしは思いました。眠ってしまわないために。保ち続けるために。家までの最寄り駅まではあと少し。いま眠ってしまったらきっと寝過ごしてしまうのです。
『魔理沙へ』
そんなふうに手紙は始まります。手紙を書いてみようと思うのはずいぶん久しぶりのことでした。だからどうやって書き出せばいいのか、それがうまく思い出せなくて、白紙の手紙をじっと睨んでいると、再び眠気が静かにわたしの頭の中に染みだしてくる。魔理沙に向けて書きたいことが何もないわけじゃなかった。魔理沙に言ってみたいことはたくさんある。些細なニュースやちょっとしたよかったことや悲しかったこと。わたし、この前ね……。とてもとても微小だけれどそれだって手紙にするのに十分なんだと思う。でも、いま魔理沙のいるところはきっと手紙の届かないところだ。それに魔理沙に手紙を出すのはとっても馬鹿らしい気がする。手紙なんか読まないし読んでも返事なんか書かない魔理沙なのです。わたしは書き出した手紙をすぐにしまって、シートから立ち上がりつり革を掴む。列車はかたかたと揺れている。少なくともこうして立っている限り――眠って降り過ごしてしまうことはないはずだもんね。
夜を抜けて電車は光線の中に溶けてく。もうじき駅にたどりつく。このまま電車に乗り続ければやがて海にでるんだろう。終点は海のある街でした。シートに並んだ人の列の中でさっきまでわたしの座っていたところだけがぽっかりと空いてる。それからを、わたしは考えました。あのまま座り続けて眠ってしまい海のある町に降り立つわたしのそれからを。向こうに着く頃には戻りの終電はすでに出てしまっているんだろう。しかたなくわたしは海に向かって歩きはじめる。砂浜に足跡がてんてんと落ちる。潮風がそっとわたしの輪郭に触れる。錆の匂いがする。魔理沙への手紙は書けたかな。書けていたならわたしはきっとそれをボトルにつめて海に流すだろう。もうじき駅にたどりつく。わたしはとても眠い。このままもういちど眠ってしまえれば淡い眠りの中で心地よい夢を見ることができるんだろう。でも、もうじき駅につく。電車が揺れている。わたしはもうじき駅につく。
★
そのままずっと眠っていた。眠り続けていた。次に目を醒ますと雨が降っていた。霧のような細い雨。八月だった。寝ぼけ眼が開いて閉じて雨音に混じって声がするからもう一度だけ開くと魔理沙が傘を持って立っていた。わたしの眠る木の洞を覗いた。
「なにしてるの?」
「眠ってるんだ」
「どうしてこんなところで」
「何もすることが思いつかないの。だから、眠る」
すると魔理沙は言った。籐で編んだ大きな籠を背負っていた。籠の中は様々な茸で溢れそうだった。傘の先から滴り続ける水滴が茸の傘の表面を撫でながら次の傘へと零れ落ち最後の傘から下方にぽたんぽたんと垂り続けていた。魔理沙は傘を持たない方の手で大きな本を抱えていた。濡れてまわないように胸の前で抱きしめるようにしていた。
「じゃあさ、これ持ってくれよ。借りてるやつだから濡れたら困るんだ」
「いいよ」
わたしはその木製の穴ぐらから這い出て魔理沙の本を受け取った。シャツの下に隠して両手で抱きかかえるようにした。魔理沙がわたしを見て少し笑いました。いいアイデアだなと魔理沙が言うから、寝ている間に考えたのってわたしは答えた。魔理沙がわたしの上に傘をかけた。魔理沙のあとをついてわたしは森の中を歩いた。雨雲によって空が隠されて時間がわからない。でもじゃくじゃくと踏みしめる草木の葉がとても若くてそれで季節の方は八月だろうと見当をつけたのです。熊が出るよと魔理沙は言った。そうなんだねとわたしは言いました。久しぶりに歩いたから歩くのが下手になってしまったんだろうか、それとも魔理沙が傘をかけるのが上手じゃなかったせいかもしれないけれど、魔理沙は大事な本を持ったわたしばかりを雨から避けるように比重して傘をかけていたはずなのに家につく頃にはわたしはすっかりびしょ濡れでした。魔理沙がタオルを渡してくれた。濡れた床にぺたんと座ってわたしは髪を拭いた。助かったんだぜと魔理沙が言った。くしゅんとわたしは言った。魔理沙の濡れた長い髪が揺れていた。吸血鬼も風邪をひくんだなあと魔理沙はひとりで笑った。シャツの中から本を取り出してわたしは魔理沙に渡した。少しだけ濡れていた。魔理沙が勧めるのでサイズの違いの大きな服を借りてベッドの上でわたしは横になった。やがて眠った。結局、熊は見なかった。
そのあと一週間ほど熱を出しました。
風邪の期間を魔理沙のベッドの上でわたしは過ごした。茸やら薬草やらを大きな釜で混ぜて魔理沙が飲み薬をつくってくれた。それを飲むと苦い味がした。わたしの見たすべての魔理沙の魔法がそうだったように効き目があったのかどうかはよくわかんなかった。わたしはまた眠った。眠って覚醒めてまた眠り起きて、それを数十回繰り返したあとでわたしは平熱になっていた。これからどうするつもりなんだと魔理沙はわたしに聞いた。相変わらずやりたいことは何一つ見つからなかったのです。だからわたしはぴったりだったんだよ。それからの数日をわたしは魔理沙の家で魔法の釜を洗ったり、本の山の中から指定の本を探したり、森の中に茸を取りに行ったりして過ごした。助手がいたらいいなと思ってたんだと魔理沙は笑った。魔法使いの助手。わたしはあくびをした。
そんなふうにしてわたしは魔理沙の家で暮らしはじめた。
★
わたしたちのうちのひとりのわたしは軍を持たない従軍医だった。医療技術はインスタンプールで太った女の姿をしたカリカンジャロスの末裔から学んだ。深夜の公立病院の非常灯の明かりのもとで不死者たちを相手にすることで外科手術を覚えたのです。数年の間そのような実地授業を繰り返し、ときには逆に別の不死者たちのための医療被験体になったりしながら医術を習得し、やがて彼らたちの医療団に所属して紛争地帯で兵士たちや市民たちの延命に努めた。彼らは不死者・半不死者たちから成る医療団だった。わたしたちはその不死性によって安全に戦線に立つことができました。赤い花が咲いてた。たくさん。でもすぐに散ってしまうよね。銃弾が兵士の胸を撃ち抜くと血が吹き出した。わたしは医療キットを片手に彼らの元に駆け寄りその場で手術を行った。メスによって胸部を切り開きピンを刺して銃弾を抜き取ろうとしたその時、近くでナパーム弾が炸裂した。赤い花が咲いてた。わたしの頭の中で。物理的な衝撃によってピン先がずれて血管に触れるので胸から血が吹き出します。わたしは速やかに止血を行って銃弾をピンで挟みだし傷口を縫合した。しばらくすると兵士は息を吹き返す。おお、神よ神よと譫言のように呟くのです。だけど、わたしたちの多くはわたしたちのうちのひとりのわたしの活動を快いものとは考えていないようでした。わたしたちの多くが懸念するようにわたしたちのうちひとりのわたしが戦場にもたらすものは奇跡ではなく不毛だったのです。蘇った兵士は神よ神よと譫言のように呟きながら自動小銃を抱えて歩き出しやがて兵士を撃つ。赤い花が咲く。花の咲いたところにわたしは現れておんなじ手術をする。兵士は蘇る。神の名前を口にする。赤い花が咲く。赤い花が咲いている。不死者たちの医療団は国境をもたない。戦況を傾かせる権利もない。わたしたちは存在しないものでありこの世界で永遠に透明であり銃弾は字義通りわたしたちの頭の中を単に通り過ぎていくのです。だからわたしたちの多くはそれを戦場に苦痛を増やすだけの行いと考えています。彼らは不死の優位性を自己肯定するためだけにかりそめの不死性を戦場にもたらすんだって。わたしたちのうちのひとりのわたしがどうして戦場でそのような不毛な医療行為に従事するのか、わたしは知らない。あの日、100つに分割されたわたしたちには意識の深いところでの連結がありそれによって彼らの行いや感覚や思考を垣間見ることができた。しかしわたしたちは秘匿しようと思えば一般に感情を秘匿するようなやり方でそれを覆い隠すことができたし、わたしが覚醒めたときにはすでに多くのわたしたちは現状に至る最初の衝動を時間的に通り過ぎ、もはや平静の状態でそれぞれの日々に留まっていたんです。
わたしはどれくらい眠っていたのかな――今や99人のわたしは分化した固有のわたしたちでありそこに至る発生と過程を支えたその力をわたしは正確に知ることができない。それはなにかを思うこと……。いつかわたしたちはそれぞれの思いによって――あるいは最も初期の段階ではそれらは互いに影響しあい、また反発しながらそれを獲得にしたのかもしれないね――それぞれのわたしたちの形になった。遅れて覚醒めたわたしは本の中のお話を見るみたいにそれを見るんだった。
わたしは日々の中には常に他のわたしたちの生活が入り込んでいた。たとえば、わたしはよく魔法の森の中に茸を取りに行きました。大きな籐編みの籠を背負ってじゃくじゃくと落ち葉を踏みしめながらもわたしは戦場にいてあちらこちらで赤い花が咲くのを眺めていたんです。
あるいは、またわたしは森の中を歩きながら木の根元の雑草をかき分け茸を探し、赤いお気に入りのギターを手にして澄んだ音を鳴らして、茸を見つけて、ロンドンの地下街で人を殺め、厚い本を開いて見つけた茸を分類した。役に立ちそうな茸を背中の籠へと投げ入れて、ビーチで男の手のを握り愛の言葉に身を震わせ、本を見ても種別がわからないものがあったら魔理沙にそれを尋ねてみて、一方でまったく別の場所でまったく別のことを言ったりもしました。「ねえねえこれって毒キノコ?」「わたしも愛してるわ」「苦いの?」「命が惜しければ貴方のすべてをわたしに捧げなさい」「ふうん魔理沙は食べたの?」「今年は蚊を何匹殺したの?」「そんなに茸集めてどうすんの?」「せんせーわたし言ってることぜんぜんわかりません!」「歩くの疲れた休もうよぅ」「にーはお、にーはお」「なんか雨降りそうだね」「そんなのいいから映画見よ恋愛映画よ悲しいのはなしでさ」「まってまって歩くの速いって」「虹彩?」「ねえ魔理沙まりさってば待って待ってよう」「JFK approach, All Nippon 909 leaving KENDY VOR……」「ひぃぁああ…眠いや」それからわたしは大学に通い量子力学について83の論文を読み、忘れた9個のコードを全部覚え直して、ジャッキーという名前の小さな室内犬を飼い始め、珍しい綺麗な色の茸を見つけてなんとなくかじってみたりもした。
「にがーい」
「あはは。死ぬやつだぜそれ。人間なら」
「そうなんだ。勉強になりました」
「フランはさあ、ぼーっとしてるときあるよな。なにか考えてるわけ?」
「わたしを見てるの」
「自分を?」
「自分っていうか……わたしの頭の中にはたくさんのわたしがいるの。そのわたしがわたしのしたいと思うこととかそうじゃなくてもなんでももうしてるからわたしはなにもやることがないのよ」
「たくさんのフランか。楽しそうだ」
「どーかな。ときどきは……話しかけてきたりもする。わたしについて言ったりもする。うるさいなあって思うときもあるよ。これって魔理沙はどう思う?」
「それは可能性世界のフランだな」
「可能性世界?」
「そうだぜ。あのときこうしていればこうなっていたとかこれをはじめればこうなれるとかさ、そういう後悔や期待が想像になって頭の中でお前の中に現れるんだな」
「そうかな?」
「それか物語の功罪だな。本を読んだり、想像する物語の中で、どこかに行ったような気になれるし、何かを感じた気分になれる。体験ができた気がする。だからそれ以上なにも必要がないように思うんだ」
「それはいいこと?」
「功罪。いいことだし、悪いことだぜ」
「ふーん」
その日は帰ってから魔理沙の作ってくれたそんなには美味しくないサンドイッチを持って魔法の森を抜けて丘に行った。そこでサンドイッチを食べながら草原に寝転んでAAAの試合をわたしは見た。試合は2−0、二回の裏。ちゃんと間に合った。まだ試合は始まったばかりでした。大きな球場の真ん中にわたしは立っていた。ぐるりと周囲を見回してみる。スタンドは観衆で埋まっている。観客席にはわたしの名前の書かれたボードがいくつもある。バッターが立っている。グローブの中でボールを握り直す。サインはストレート。ボールを投げる。歓声が聞こえてくる。わたしはきっと完全試合をするのです。このリーグに限ればわたしは圧倒的だよ。女性が男性に混じって野球をやることについていろんな人がいろんなことを言う。わたしたちだって吸血鬼が人間に混じって同じルールでスポーツをやることについていろんな意見を持っている。それが功罪? サインは高速スライダー。サンドイッチをわたしは齧った。なぜか魔理沙のサンドイッチはやけに甘ったるい味がするんだった。なにいれてんのかなぁ。わたしはまたボールを投げる。バットが空を切る。穏やかな風がわたしを撫でる。歓声が聞こえてくる。パンの耳くらいちゃんと切り落としといてくれればいいのにな。キャッチャーからボールが返ってくる。グローブで受け取ってマウンドを足でならした。それから空を見ました。緩やかに雲が動いてる。きっとひとつの雲のように見えても空域がちがうんだろう。雲のひと部分だけがちぎれて速い速度で流れて別の大きな雲に混じり合いちがいがわからなくなってしまう。風が流れている。ここはいい場所だとわたしたちのうちのひとりのわたしが思う。
このマウンドの上でなら、わたしはひとりで、そしてわたしの投げるボールの軌跡は誰にも触れられたりはしない。
★
朝はいつも7時15分に起きてた。眠い目こすりながら大きなコップにひたひた水を汲んでそれを半分だけ飲んだ。しばらくそのまま微睡んでキッチンのカーテンから差し込む淡い光の中でちいさなごみのようなものがきらきら漂うのを眺めながら、やがて戸棚の中のしけたクッキーを取ってきてもしゃもしゃと口に押し込むようにして残りの水で流し込んだ。とってもおいしくないのです。それから大きなあくびをした。冷たい水で顔を洗った。歯を磨いた。時間をかけながらとても丁寧に磨くんです。白い水を吐くと8時を過ぎてる。部屋の床には魔理沙が昨夜に置き残したらしい服やら本やらよくわからない魔法の器具やらが散らばっているので、それぞれをそれぞれあるべき形でしまい込みあくびをしながら日光の元に出て、秋には落ち葉を箒で刷きとり、春や夏の季節には家から少し離れた場所にある外の水道からホースを引っ張ってきて不思議な形をした観葉植物たちに水をやった。魔法の釜を洗うことも多かった。魔理沙が魔法の実験に使う大きな魔法の釜はたいてい次の日には何か半固形の蒸留物によって汚れたままになっているから、ホースから吹き出す水と小さなブラシを使って庭先でそれを洗ったのです。季節に一回、家のペンキを塗り替えた。ペンキ塗りが好きだった。なんでも塗ってた。家の壁や屋根やポストやそのへんの木とか。色が新しくなるのが好きで、汚れた壁がまるで今現れたみたいに綺麗になるのが好きで、大きなものを塗りつぶすという行為が好きだった。木に矢印とかも書きました。だいたいその頃になると魔理沙が起きてくる。たとえば、ある日には、まばゆい光に晒されながら刷毛とペンキでいっぱいのバケツを持って屋根の上に腰掛けるわたしを魔理沙が見つけて、赤色に染まったわたしの手や腕や足やぶかぶかの服を見て、また派手に血を吸ったなあって笑った。わたしはくしゅんと言った。光に慣れた今でも生理的反応のいくつかは残ってるのです。太陽を見ると全身がむずむずする。魔理沙が起きてくると作業を中断して魔理沙のつくったあまりおいしくはない料理を食べました。お話もしました。その話は大概があまり内容のない短絡する話題で、つまりはその場限りの短い命の話題なのだけれど、ときどきは昨日の話に繋がっていたりもっと昔の話をより戻してきたり思わぬところで話題が繋がったりもした。お話は複雑な編み物みたいだったよ。繰り返されるパターンとそれ構成する糸の連なり、意外な繋がり、ほつれた部分をずっと引っ張ってみたら最終的には変なところが抜けたりする。わたしはあくびをして、それから中断した作業に戻りました。自分の顔が映るくらいにぴかぴかに釜を磨いてしまうとそれを魔理沙の部屋に戻して、きのこ狩りにでかけた。魔理沙が暇そうにしてれば魔理沙と一緒に行ったけれど多くの場合に魔理沙はなにかに没頭しているかどこかにでかけてしまっているのでわたしはひとりで行きました。毎日繰り返しているから取るべき茸や薬草はすでにないように思えるけれど、魔法の森は意外に広くそれにいつもちがう道を歩くようにしていたのでそれほど収穫には困らなかった。魔理沙がいるなら帰るときに迷わないように魔力に反応して光る石を落としてた。わたしたちはヘンゼルとグレーテルみたいだねってわたしが言うと、誰が石を食べるんだぜ?と魔理沙は言いました。少し思案したあと、そういう動物がいるんだよとわたしは言った。それに考えてみると魔理沙は兄弟の片割れというよりはあの悪い魔女に近かった。いつかわたしは魔理沙から逃げ出して幸せに暮らすんだふたりでさ、とわたしは言ってみた。魔理沙は笑った。「誰と?」「どこで?」「なにをして?」でも、ほんとは、わたしは捕らえられたわけではなかったし魔理沙の料理は食べすぎて太ってしまうほどおいしくはなかったんです。ひとりのときは空を飛んだ。日光の中飛び続けるのはとても苦だったので木のてっぺんより高くまで飛んで帰り道の見当をつけたらあとは歩いた。そういうわけだから家につく頃には疲れていることも多くて、そのあとはたいてい家の中で本を読んだりうたた寝したりシャボン玉を吹いたりヨーヨーを覚えてみたり、ちょっとした魔理沙の手伝いをしたりして過ごした。晩ごはんの前までには洗濯とお風呂の準備を必ず終わらせるようにしてた。あとでやるのはとっても面倒だったから。晩ごはんのあとにはゆっくり流れる時間があった。それは魔理沙にとって本や魔法の実験に没頭する最も激しい時間だったから、ときどきは手伝いもしたけれど、基本的には邪魔しないようにひとりの夜を過ごしていた。屋根の上に座って空を眺めた。部屋で本の続きを読みました。歌とかつくって唄ってみました。温かい湯につかりながら考え事をしました。眼下には目に見えない細い糸が真っ直ぐ伸びていた。色とりどりの洗濯物が緩やかな夜の風にはためていた。木々は高く森は遠くどこまでも暗闇に包まれていた。星星は光っていたり雲に覆われていたりした。ときどきは白い月が丸くはっきりと見えることがあった。あくびはでなかった。11時には眠った。
そんなふうにして日々はあくまで過ぎ去る日々として過ぎていったのだけれど、それは概算された日々であり、すりつぶして焼いたパンの上に塗られる果実のペースト風の日々で、実際には再現性のない非対称な出来事によって日々はあふれた。あふれたものは零れ落ちて落下点でぐちゃりと潰れてこうして何気なく並べられた過去の記述の上に染み付いてそういったものを”思い出”とわたしたちは一般に言うらしいのです。そのような日々の特異点はわたしの場合はたいてい森の中に茸狩りに出かけているときに現れた。日々のほとんどを家の周辺で過ごすわたしにとって珍しいものと出くわす機会といえばそのときか魔理沙のするお話の中くらいなものだったから、わたしたちのうちのひとりのわたしに出会ったのもそんな茸狩りに出た午後のことだった。
いつもと変わらないようにわたしは茸を取っては籠の中にほうっていた。ある木の下で珍しい色の茸を見つけたので手に持った厚い本を開いてそれを識別しようとした。でもどうやら当該する茸は本の中には存在しないようだった。手にとって光に透かしてみた。目を細めてじっと睨んでみた。そんなことをしても茸の種別はわからないのです。諦めてかじってみた。味はしなかった。どうしようかなと思案しているとふと木の先にひとりのわたしが立っているのを見つけた。午後の光が葉と葉の隙間を抜けていくつかの細い線に分かれて足元に落ちていた。彼女は恥ずかしそうに笑ったんだよ。久しぶり、と言いました。それからわたしの背負った籠を指差した。
「それ茸?」
「うん」
「たくさん……。いっぱいあるのね。鍋でもするの?」
「ううん。魔法の素材に使うの」
「魔法……魔法か、いいよね。あー、その……懐かしい、かんじが、するから」
「うん、そうだよね。いや、わたしは懐かしくはないんだけど。感じはわかるわ。つまり、貴方はそう感じるんだなあっていう想像で。想像? まあ、想像でね」
「うん」
「あのさ、うちに来る?」
「うち?」
「あ、わたしの家じゃないんだけどね。でもずっと一緒に住んでるから実質そうみたいなもので、たぶん、ほら、こうしてここでお話するのもあれだから……どうかな」
「そうね。行こうかしら」
それでわたしは家に帰ることにした。わたしたちのうちのひとりのわたしはわたしの後ろを着いて歩いてきた。道中にはほとんど話をしなかった。さくさくと落ち葉の裂ける音がしていた。沈黙を避けてわたしは言った。あのさ……。なぁに、とわたしたちのうちのひとりのわたしが聞きました。あのさ熊が出るんだって、とわたしは言った。熊が、どこに?とわたしたちのうちのわたしは言った。ここに。ここに熊が出るんだって、とわたしは言った。そっか、とわたしたちのうちのわたしは言った。わたしには言うべきことが何もなくなってしまいました。それで黙った。魔理沙の家についた。魔理沙はどこかに出かけているようで家は空っぽになっていました。ちょっと待っててねとわたしは言って、適当な椅子の上に彼女を座らせて戸棚からを持ち出したクッキーをお皿の上に広げて持っていきテーブルを挟んで向かいのところに座った。どうぞ、とそれを手で勧めた。彼女は口をつけなかった。わたしはクッキーを食べました。彼女はわたしがそうするのをただ眺めていたのです。先に口を開いたのは彼女の方だった。
「ここに住んでるんだ」
「うん、そうなのよ。住む代わりに魔理沙の手伝いとかしてて、助手ってさ魔理沙は言うの」
「助手?」
「魔法使いのさ」
「ふふっ。楽しそうね」
「そうかしら。貴方はどうしてあそこにいたの?」
「いろいろあったの」
「まあ……そう。あるよね。いろいろ。生きてれば」
「本当にいろいろあったのよ。ほんとうに……」
「うん」
彼女はわたしがここに住む理由やあるいはその暮らしぶりをよく知っているはずだった。彼女はわたしたちのひとりのうちでありわたしたちは意識の深いところでの連結があったのでいつでもお互いの行っていることを覗きあっていた。だからわたしもほんとは知っていたんです。外の世界に旅立ったわたしたちのうちのひとりのわたしがこんなところまで戻ってきてしまったその来歴を。彼女が体験した挫折や苦難や悲劇もわたしにはわかっていたし、その時感じていた気持ちさえまるで自分がそうしてきたように知っていました。でもわたしは最後までそれを口に出すことはできなかった。それは彼女にしたって同じことでした。そのときのわたしたちの間にはある作法があったんです。それは他人の作法でした。わたしたちはお互いの胸のうちを知りながらそんなものはまったくないものように振る舞っていました。こうしてわたしたちのうちのひとりのわたしと対面するのは(その最初を除けば)わたしたちにとってはじめてのことでした。わたしたちはお互いにどうしたらいいのかわからなかった。わたしたちがどんな等しい姿をして、あるいは神経の奥で繋がっていたとしても、こうしてお互いをお互いの目によって視認する限りわたしたちは他人だったのです。
食べていいのよ、とわたしはクッキーを言った。彼女は肯いた。でも彼女はそれに手を付けなかった。わたしはクッキーを口の中にたくさん押し込んでもぐもぐと食べた。それからわたしばっか食べてるねって言ってみた。彼女は笑った。でもクッキーは食べなかった。貴方がわたしの代わりに食べてくれるからわたしはいらないわ、そんなことをわたしが言ったらどうしよと思ったけれど、彼女は別のことを言いました。
「これから行くところがないの」
「そう? じゃあここにいればいいわ。しばらくは。次のあてが見つかるまで。魔理沙だってきっと受け入れてくれるよ。助手がふたりになったらむしろ喜ぶわ」
「でも、そんなのって……」
「いいのよ。なんか貴方が心配だもん。他人って気がしないわ」
「他人じゃないもんね」
「あはは……。ほんとに、そう」
いつも眠っているリビングのベッドを彼女のために空けて床に毛布を広げて自分の寝床をつくった。わたしたちのうちのひとりのわたしはシャワーを浴びていた。三人分の生活に必要なものはすべて揃っていた。その日に魔理沙は帰ってこなかった。そして朝に覚醒めるとわたしはいなくなっていた。まるではじめから存在しなかったかのようにここから彼女は消えていたのです。なんだか夢でも見ていたような心持ちで部屋の中を探していた。だけど彼女がここにいたというその痕跡をわたしはどうしても見つけることができなかった。夜にわたしが眠るベッドの上の凹みや食べかけのクッキー、風呂場の排水溝の金色の毛、わたしが着る魔理沙のパジャマの抜け殻。それらはあらゆる意味においてわたしの日々の痕跡と相違がなかった。ねえねえ、わたしは昨日ここでもうひとりのわたしと暮らしてたんだよ。そんなことを誰かに言ってみたところでわたしの痕跡は字義通り単にわたしの痕跡だったから、わたしがここで生きているという事実が彼女が存在していたということを嘘にしてしまう。置き手紙がありました。テーブルの上に。白い紙に万年筆で記された文字。わたしがここにいたというただひとつの痕跡。白い小さな紙の上に簡単な走り書きが記されていました。わたしはそれを手にとって見つめた。それが、わたしの筆跡だったよ。わたしたちのうちのひとりのわたしはきっとわたしが眠っている間にそれでこう書いたのです。
『ごめんね。』
やがて魔理沙が帰ってきた。魔理沙はひどく疲れていたみたいで簡単な会話をいくつか交わすと自分の部屋に行って眠ってしまった。彼女のことは魔理沙には話さなかった。次に魔理沙が起きるときにわたしは庭先で花に水をあげていた。もう夕暮れだった。昨日今日の足跡は一昨日と少しだけずれてしまっていたけれど、時間はそれを押し戻しやがて通常の日々が帰ってくる。わたしは彼女に向けて手紙を書くようになりました。あの日にわたしの家にやってきたわたしたちのうちのひとりのわたしに向けて。それもやっぱり他人の作法でした。彼女が住むようになった幻想郷の片隅にある小さな家の場所をわたしはわたしたちの間に通ずるあのやり方で知ることができたので、魔理沙に頼んで手紙をしかるべき場所に持っていってもらった。一通を送りまた一通を送り、三通目にお返事が来た。勝手に家を出ていったことの謝罪と今の生活についていくつかの事実がそこには記されていた。わたしはお返事を書いた。しばらく経ったあと彼女から返信が届いたので、また手紙を書いた。冬がやって来た。わたしたちのうちに通じるあの不思議な共感によってわたしはわたしたちのうちのひとりのわたしがこの幻想郷で新しい人々の中で新しい暮らしを見つけたことを知っていた。その頃には返事はめっきり届かなくなっていたのでそれを彼女がどう表現したのかをわたしが知ることはなかったのです。わたしは目をつむって彼女の暮らしに思いを馳せた。わたしの中で彼女は笑っていた。心いっぱいの楽しみと充足を感じていた。いつのまにかわたしたちの間にあった他人の作法は失われていた。その年はたくさん雪の降った冬だった。わたしは屋根に登って雪かきをし手袋と長靴をはめて雪国の暮らしを学び、新雪に足跡をつけて茸を取りに出かけ暖炉の前で毛布にくるまりながら何時間も過ごした。
それでもときどき手紙は出したのです。
わたしは手紙を書いては茸を取りに出かけ、路地裏で警官を殺し、手紙を書いてサンドイッチを食べて年の終わりには契約更改をして手紙を書いて、魔法の釜を庭先で洗い愛する彼女の手を握り玄関に散る桜の並びらを箒で掃いてオンラインゲームの中でクリーチャーを殺し、家の屋根のペンキを塗り替えベランダでギターを弾いて歌を唄い手紙を書いて、高枝鋏で大きくなった木の葉を切りそろえ花火の下でわたしを罵倒する男の言葉を聞き、本棚の整理をして戦場で傷を縫って、秋には落ち葉を集め、ジャングルで鰐たちの操り方を覚えしゃぼんを吹き、時間が経って、雪を下ろし本を読み森を歩き魔法を見て、手紙を書いて、花に水やりをした。
そんなふうに月日が過ぎていった。
★
魔理沙のお葬式は盛大に執り行われたと聞いている。わたしは行かなかった。わたしにはお別れを告げるだけの時間が十分にあったし、この土地に土着のお別れの儀式は吸血鬼のわたしのためのものじゃないのです。それでも魔理沙が死んでからのしばらくは忙しい日々が続いた。魔理沙は自らの炎が消えてしまうその日になるまでずっとその予感と兆候を周囲に隠していたみたいだったから魔理沙の死はある種の驚きをもってこの小さな世界に受け入れられたようだった。いろんな人がこの家にもやって来た。問いに答えるままにわたしは魔理沙の最後の姿を彼らに語り、他人の視点によって浮かび上がる魔理沙の人生について総括し彼らの慰めの言葉を受け入れた。わたしがここにいることを意外に思う者もいました。どうやら魔理沙はわたしに関することを周囲にそれほどまでに話して回っているわけではないようだった。まさか貴方が魔理沙の助手だったなんてねえと彼らが言うので、そうねとわたしは微笑んだ。稀にわたしとその来歴を知っている人もここにはやって来て、そんなときは思い出話に花を咲かせた。たとえばパチュリーがやって来た。わたしたちは魔理沙についてひとしきり喋り、それが終わってしまうと今の暮らしと過去の思い出の話をした。そういう場合はわたしから尋ねることが多かった。お姉様のこと、紅魔館のこと、咲夜のこと、美鈴のこと、小悪魔や妖精のメイドたちやたくさんのペットのこと。実のところ多くのことはすでに知ってはいたけれど、それをこうしてパチュリーの口から聞くのには何か新鮮な楽しみがあった。そういえば、と別れ際にパチュリーは口を切り出した。そういえばフランは魔法を覚えたかしら?と言った。
ぜんぜん、とわたしは笑った。
そういえば似たようなことを魔理沙も言ったことがあった。
それは魔理沙が死ぬほんの数週間前のことだった。年を取り人間がみんなそうなるように魔理沙の身体は老いさらばえ動くこともままらなく日がなベッドの上に寝込んで時間を過ごしていた。わたしは少し離れたところで魔法の釜に向き合って魔理沙の指示した通りに魔法の薬の材料を煮詰めているところだった。赤い茸と薬草と原色の液体とねずみの尻尾と吸血鬼の血液。釜の中から煙がもくもくと上がっている。それが開いた窓から抜けていく。魔理沙の薄くなった肌を光が透かしていた。わたしは棒で鍋の底の液の固まった部分をつついていた。深い底を削るようにすり潰してた。魔理沙が何かを言った。うん、とわたしは言った。またか細い声で魔理沙が何かを言った。うん、とわたしは言った。しゅうううと薬液の沸き立つ音に何一つ聞こえなくなってしまうのです。うん、とわたしは言った。鍋の中の液体がなめらかに行き渡りひと色に溶け込んでしまうと、わたしはそれをお玉で掬って底の深い器に移した。それから魔理沙の横たわるベッドのそばまで歩いた。魔理沙は横なりの格好でわたしのことをぼんやりと見ていたけれど、わたしが手を肩に触れて煽ると仰向けになり上体を起こした。魔理沙の隣に膝を着いてその背中を手によって支え、器の端を口に添えて魔法の薬をゆっくりと流し込んだ。半分くらい飲んだところでげほげほと魔理沙は咳き込んだ。大丈夫なのこれ、とわたしが言うと魔理沙は苦しそうに肯く。間違えないんだこれは生命に効くんだよと言った。魔法が効くならはじめからそんなに死にそうにならないでよう、って残りの魔法薬をわたしは魔理沙に飲ませた。それから器を脇におきました。魔理沙の手を握ってみた。骨ばって乾いていた。触れたら壊れちゃいそうだった。魔理沙がなにかを言った。今度はその意味がわたしにも通じた。
「なあ……結局、フランは最期まで魔法を覚えようとしなかったなあ。よく続けたものだよ」
「何の話?」
「魔法使いの助手さ。お前は魔法の効果なんか信じてないのに助手なんか……」
「わかんないよ? わたしはこれから長い時間を生きるんだよ。魔理沙とちがってさ」
そうだなと魔理沙は笑った。笑ったら咳き込む。もう喋んないでよとわたしは魔理沙の背中をそっと擦った。
だけど、魔理沙がフランも魔法を勉強しないかとわたしを誘ったのはたった一度だけ、それもずいぶん昔のことだった。そのときは魔理沙の方が魔法の釜の前に立っていた。わたしは後ろで座って本を読んでいたのです。それは一族三代の興亡を順列して語りながら三つのお話が別種の質感の語り口と情念を扱いながら実のところ細部と全体において常に同様の循環する構造が見え隠れするという繊細でとても長い小説だったから魔法が完成するのを待つのには困らなかった。ページを捲る隙間にぱちぱちと液体の跳ねる音がする。顔を上げて見ると釜の中の液体が煮立っている。魔理沙はお玉で掬ってそれをじっと見つめて首を傾げた。フラスコを傾けて釜の中に液体を継ぎ足した。ハーブのような葉を裂いて浮かべた。本の中では男が日の下を歩いていた。太陽の光とその効用と実践的応用方法についての長い記述がある。『太陽はわたしたちの身体と固く結びつき……』魔理沙は箸を器用に使うことによって釜の深いところから鉱物を取り出した。それを水を張ったボウルの中に浸して冷ましたあとで八卦炉の上に移して火にかけた。しばらくすると鉱物のひび割れた部分が光りだした。赤色。ルビーのような透き通る赤色。まるでそれは石の血管みたいだったな。わたしはあくびをした。それから本を開いたまま裏返しゆっくりと伸びをする。
「ふぁあああ…魔法さ、なんでやってんの、魔理沙は、魔法……」
「そりゃあいろんな理由があるさ。そのとき必要だったりやりたいなって思うことをやるんだよ。風邪を直したいと思ったら治癒の魔法、星を見たいと思ったら星の魔法。あらゆることが実現できるんだ」
「魔法なら?」
「そうさ。でもフランの聞きたいことはそういうことじゃないんだろうな」
「んー。どうかな」
「なあ、フラン、魔法を使うことは世界に向かって手紙を書くことなんだぜ」
「おてがみ?」
「ああ。魔法っていうのは何が起こるか、本当の意味では最後までわかんないんだ。その意味じゃ河童たちの科学技術は少し違ってる。もちろん魔法の理論のようなものはあるさ、だけど必要な材料を揃えてたしかな魔力を加えても……思ってみない形になるときもある。逆に言えば理論では説明できない素晴らしい結果が現れることだってある。手紙だってそうだな。こっちが必死にたくさん書いても返事さえ来ないときもあればなんとなく送った一通に心がけず忘られない手紙が届くときもあるだろ? わたしはさ、はじめから世界から返事が来たとき、そのときの喜びが忘れられなくてさあ、今もこうしてやってるの」
「魔理沙は手紙魔になったんだ?」
「そうだぜ」
魔理沙は照れくさそうに笑って、フランも手紙を出してみたらどうだと言った。魔法とは世界に向けて出すお手紙です。魔理沙がそれをわたしに教えてくれたときわたしには不思議な感動があった。いいなって思った。だからわたしは手紙を書くことにしました。だって魔法を学ぶより手紙を書くほうがずっと簡単だもん。ここには論理学上の誤謬があり、魔法が世界に向けて出される手紙だとしたって手紙を出すことは魔法じゃない。でもそんなはどうでもよかったな。魔法を信じることも嘘を信じることもわたしにはたいした違いはなかったんです。そしてわたしは手紙を書くようになりました。知ってる人なら誰でも手紙を書いたよ。お姉様に手紙を書いて、咲夜に、パチュリーに、美鈴に、小悪魔に、紅魔館の妖精メイドたちひとりひとりに、魔法の森で会ったわたしたちのうちのひとりに手紙を書いた。それから知らない人、会ったことのない人、存在しない人に手紙を書きました。いつも手紙を持っていってくれる郵便屋さんに手紙を書いた。お母様とお父様に手紙を書いた。名前だけを知っている親戚たちにも手紙を書いた。魔理沙の友達にも勝手に手紙を書いた。あの地下室に残してきしまったぬいぐるみたちに手紙を書いた。空に、雲に、太陽に、星に手紙を書いた。それに心の繋がりでしか知ることができなかったわたしたちにも手紙を書いたのです。戦場で兵士たちに刺さった銃弾を抜き続けるわたしに、どこか薄暗いところに鎖で繋がれたわたしに、遠い大陸でベースボールをするわたしに、ベランダでひとりで歌を唄い続けるわたしに。99人のわたしたちみんなに、わたしは手紙を書いた。
それから、いつか魔理沙にも手紙を書くよ、とわたしは言った。それは魔理沙の死に際のことです。わたしは骨の手を握ってた。
「ねえ、魔理沙。魔理沙が向こうに行ったら手紙を書くね」
「それは楽しみだな。いつもフランは手紙を書いてただろ。一度くらいお前から手紙をもらいたいと思ったものなんだぜ」
「え。そうなの。いつも近くにいたからわざわざ出す必要ないかと思って。ごめんね?」
「別にいいさ」
魔理沙は目を細めて遠いところを見ていた。
魔理沙の見ているところをわたしも見てみた。
でも、そこには繰り返された魔法の実験によって煤けた壁しか見えなかったのです。
魔理沙は言った、か細い消えゆく魔法の呪文の最後のひとひらのような声で。
「でも、楽しみだな。ほんとに」
わたしもいつか魔理沙に手紙を書くのが楽しみよ、って口の先まで出かかって、やっぱそれはひどいかなぁって言わなかった。
★
二週間たったあとで魔理沙は死んだ。思ったよりは長く生きたのだろうかあっけない終わりだったのだろうかそれはわたしにはわからないけれど、そのあとには年の終わりのような忙しさがありそれが過ぎてしまうと大騒ぎのあとに妙に静かな日々だけが残った。しばらくは魔理沙の遺品を整理して過ごした。もう使われるこのない魔法の道具たちを綺麗に並べな看病に必要だったあれこれの用品を捨てた。戸棚を整理しているときに厚紙づくりの大きな箱が出てきた。開けてみると中には手紙がいっぱいに詰まっていた。それはわたしが誰彼構わずお手紙を出し続けていた頃に無数に送った手紙に返ってきたいくつかの返事たちでした。ためしに一番上の手紙を開いてみて少しのあいだ思い出に浸りそれからもとに戻して蓋を閉じた。少し考えてそれらも一緒に捨ててしまうことにした。きっと読み返すことはないだろうから。わたしの手紙はあんまりに膨大すぎた。思うに手紙を回顧する形式は人間のためのものであり、すべての手紙を保存しておくにはわたしの生命は少し長すぎるのです。本棚の整理をしているときにまたひとつ手紙を見つけた。埃をかぶった厚い魔術の本のページの間にそれは挟まっていた。叩いて埃を払った拍子に紙切れがひらりと落ちた。かがんでそれを手に取り見てみるとそこにはわたしの筆跡があった。『魔理沙へ』そんなことが書いてあった。それは魔理沙宛のわたしの手紙だった。そこにはこれから手紙をしたためようとするわたしの気持ちと、手紙を出す楽しみを教えてくれた魔理沙への感謝と、だけど何を書いたらいいかわからないという困惑がそのまま記されていました。わたしの初めて出した手紙は魔理沙にだった。なんとなく裏返してみるとそこに不思議な言語と記号でなにやら走り書きのようなものがあった。たぶん魔理沙が魔法の理論の思いつきか何かをとりあえず手近にあった紙に記しておいたものなんだろう。せっかく出したはじめての手紙に返事はなかった。魔理沙はそれをあろうことかメモ用紙代わりに使ってしまったのです。それがなんだかおかしくってわたしは笑った。笑ったあとで少しだけ涙が出た。そして、もういちどだけ手紙を書こうと思った。もう会えない人に、まだどこかで生きている人に、むかし手紙を出したみんなに手紙を出そうと思った。それにわたしたちにも。
むかしわたしの中にはたくさんのわたしたちがいた。わたしたちは不思議な力によって通じ合い常にお互いの生活を覗うことができた。そういえば、彼女たちの姿はわたしが最初に手紙を出し始めて少し経った頃から見えなくなってしまっていた。いまみんながどうしているのかわたしは無性に知りたくなった。だからわたしは手紙を書きました。魔理沙の家で毎日ひたすら手紙を書き続け、返ってきた手紙には返事を書いて、手紙を書き、返信が来て、手紙を書いて、また手紙を書いた。
たぶん数年はそんなふうに過ごした。
212通を書きクッキーを1502枚食べて9回ペンキを塗り替えてそれから300と8通を書き、思い出せる限りすべての人たちに手紙を書き終えたあとでわたしはそこを出た。手紙でいっぱいの魔法の家。たくさんの魔法の道具と一緒に返事の手紙は置いてきた。はじめて出した手紙と四つ折りになった『ごめんね。』だけを厚い魔法の本に挟んで小さな鞄に入れて幻想郷の外の町で暮らした。生き方は知っていた。ずっと昔にわたしたちが教えてくれたのです。小さな会計事務所のアシスタントに職につきそこから少し離れた町にアパートを借りて観葉植物を買ってきて窓際に置き毎日水をやった。朝に起きて夜に眠った。そんなふうにしてまた暮らした。数十年を同じやり方で、代わり映えのしない、手紙に書くほどでもないような暮らしをした。
★
電車は揺れている。このまま眠ってしまえば海に出る。つり革が揺れてる。掴んだわたしはあくびをする。光線が振れて集まりながら短い光の束になってやがてあふれる。電車はゆるやかに駅のホームに近づいていく。甲高い音を立てて停車する。空気の抜ける音のあとに列車のドアが開く。人々が立ち上がり列車から外に出る。最後にわたしは電車を降りる。振り返ると電車の中にはほとんど人が残っていない。さっきまで座ってたシートを眺めてみる。立ち上がってから時間が経っていたせいでそこにわたしの痕跡を認めることはもうできない。終点には海がある。このまま電車に乗り続ければきっと海に出る。扉が閉まりゆっくりと電車が始動する。ホイールが線路にきしんで金属音が響きやがて電車は消えてしまいあとには歯科専門学校の広告と窓ガラスの向こうに暗い町影だけが残る。わたしはあくびをする。それからホームの階段を上がり改札を抜け西口行きの短い階段を降りて駅前に出る。外は冷えている。わたしはコートのポッケに手を突っ込む。駅前の景色は時間とともに様変わりしていく。去年はあったはずの駅ビル3Fのネットカフェはガールズバーに変わり20年前は真新しかった市の合併記念のモニュメントは少しずつ色あせていく。わたしはどのくらいこの場所に降り立ちあるいは通り過ぎたのかな。こうして駅前を流れる人間たちよりもずっと長い時間の感覚がわたしにはあるのです。ときどき同じ会計事務所に後から入ったアシスタントの子がいつまでも変わらないわたしのことを不思議がって、どうして先輩は見た目がずっと変わらないんですかねと尋ねられることがある。そんなときはいつも同じ答えを用意している。わたしはむかしむかし魔法使いの助手だったんだよ、って。納得や理解をしたわけじゃないんだろうけれど、わたしがそう言うと、ああたしかにそんな感じですよねとみんなは言う。
そして、駅から少し歩いたところにはドーナツ屋があるのです。クリームのいっぱいのドーナツとオールドなチョコのやつとホットコーヒー。同じ店の二階でそれらを時間をかけながら食べた。お腹がくちくなると眠気がやってきます。ハンドバックの中から小さなタブレットを取り出してメールの返信を書いた。家に帰ってからやろうと考えていたけれどきっとすぐに眠ってしまうだろうから外で済ませておきたかったのです。難しい文面じゃなかったけれど眠りはすぐそばまで迫っていて思ったよりもずっと時間がかかってしまうな。コーヒーが冷めてしまうとメールが書き終わります。タブレットをしまうときにハンドバックの中に書きかけの魔理沙への手紙が見つかった。あのまま電車で眠ってしまったのならきっと今頃には終点にたどり着いているのかもしれないね。折り返しの電車はもう残っていない。しかたなくわたしは海の方へと歩きはじめる。浜辺に向かう堤防のコンクリートの上に座りながらタブレットの明かりを頼りに魔理沙への手紙の続きを書く。それはきっと完成する。わたしは手紙を縦に1回、横に4回、折って空のペットボトルの中に入れて蓋をする。それからこんなことを考えるんだと思う。もしも、あそこで眠らずに駅で降りていたらわたしはどうしていたんだろう。わたしはドーナツを食べる、メールを書く、コーヒを3杯飲む、そしてアパートまでの帰り道を歩きはじめる。堤防から砂浜に飛び降りました。わたしは夜の町を歩いている。それから砂浜を海に向かって進んだのです。駅から離れるとすぐに暗闇が町を覆いはじめ家々の明かりだけがわずかにてんてんと灯る。やわらかい潮風が吹いてる。電信柱を数えるようにアスファルトの上をゆっくりと歩く。砂浜にひとつ足跡が落ちた。コンビニエンスストアの光。遠い埠頭は赤。自転車に乗った塾帰りの中学生がすぐにわたしを追い越してしまう。魔理沙への手紙はよく書けたよ、あんまりによく書けたからきっともうここにいない魔理沙にだって届いてしまうような気がした。わたしはあくびをする。ペットボトルの中の手紙をそっと海に乗せると、波がそれを呑み込んだ。波が引いてしまうとそこにはもう海しか残らないのです。海はどこまでも無限に広がり夜の空に溶け込んでちがいがわからなくなってしまう。だからわたしが見たのは、海。すべてが海。空を眺める。星たちの光る夜の空。すぐに下には家々の明かりがある。通り過ぎるヘッドライトの光が短い線になって流れる。遠くで海の音がするね。ざあざあと打ち付ける波の音、さらさらとこぼれる砂粒の音……。それに埠頭の赤。わたしは目をつぶってあの子のことを考えました。駅で別れてしまったもうひとりのわたしのこと。あの子はいまどうしているんだろう。これから続く暮らしが少なくともあの子にとっていいものだったらいいなあって思った。あの子に手紙を書きたいな。今はもうここに記すための紙もペンもないから祈ることくらいしかできないけど。祈り方なら西暦一九九八年のロシア正教会で覚えた。そこでわたしたちのひとりのわたしは洗礼を受けたのです。その日は雪が降ってた。わたしは水とオリーブオイルでいっぱいの盥の中に立っていた。神父がわたしに向けて十字を6度切った。それからわたしの髪の一部を盥の中に落とした。首には十字架がかけられた。そしてわたしは新しい名前を授かった。教会の外に出ると雪が降っていた。外套の襟を寄せて歩いた。下宿先に戻るとヤーナおばさんがわたしを待っていた。おめでとう、これからはあんたにも主の祝福があるだろうとわたしの額にキスをした。愛してるよフランドールと言った。雪が降っていた。それからわたしに手紙が届いてると教えてくれた。ねえ、わたしも愛してる!って、わたしは手紙を受け取って自分の部屋に戻り手紙を開いた。それはわたしたちのうちのひとりのわたしからの手紙だった。わたしはそれをとてもよいしるしだと思った。祝福を受けた日に手紙が来るなんて、しかもそれが自分自身からなんて。一通り手紙を読んでから返事を書くことにした。少し考えてこんなふうに書き出した。『お手紙ありがとう。あの日に別々の道を行ったわたしたちのうちのひとりが今も元気だと言うことを知れてわたしはとても嬉しかったです。それにこれはわたしにとっていいしるしなんです。実はわたしは今日、洗礼を受けました。悪魔のわたしがキリストの祝福を受けるなんてと貴方は思うでしょうか。実際わたしたちのうちにはわたしが洗礼を受けることを好ましく思わないわたしもいるみたいです。でも主様の慈悲は深く悪魔のわたしにも奇跡を授けてくれました。それまでのお話をここに書くには少し長くなりすぎるし、きっと貴方はわたしたちに通ずるあの力によってそれを知っているかと思います。だからそのことはここには書きません。代わりにわたしたちのうちのわたしたちに注意深く知られないようにしていたわたしの秘密を貴方には聞いてもらいたいんです。わたしたちは多くの罪を犯しています。それはわたしたちが悪魔であるというところからはじまり、安易な半不死性に甘んずることに続き、そこから多くの具体的な罪を引き出しています。わたしたちが実際に何を行ったかを貴方はよくご存知でしょう。たとえばわたしたちのうちの誰かがそれを行うことを(きっとわたしたちはみんなそうなんでしょうが)わたしはまるで自分が行ったように感じていたんです。それはわたしにとってなによりの苦しみでした。しかしわたしたちがまったく別の生命へと分化したあとにもわたしたちのうちに通じるあの力がわたしをこうして同一ものにしてしまうなら、わたしに与えられる祝福やわたしの贖罪のための行いもやっぱりわたしたちすべてのものなんです。それを貴方は傲慢だと考えるでしょうか、わたしがわたしたち99人の罪を肩代わりしようとすることが。わたしはそうだとは思いません。なぜならわたしたちはみな等しく神の子なんですから……』そこまで書いてわたしはふと窓の外を見てみた。雪が降ってた。海の音がする。それからわたしたちのうちのひとりのことを考えました。彼女の手紙、彼女のわたしたちすべてに対する贖罪について。だけど、もうわたしたちはわたしたちじゃないよね。だってああして手紙をやり取りできるならわたしたちはすでに他人だってことじゃないだろうか。わたしたち――あの子とわたしは、手紙を出すことによっていつかわたしたちの間に通じるあの魔法の力から逃げ出してしまったんです。ふたりで、遠いところに、手紙を書いて。まるでヘンゼルとグレーテルみたいにね。わたしたちは今あらゆる祝福や呪いからも遠いところにいる。クラクションが鳴る。海の音がする。窓の外では雪が降っている。それからわたしは手紙の最後にこんなことを書き加えた。
「貴方にも主様の祝福がありますように!」
祈りから祝福が消えたあとにはただ言葉の響きだけが残る。届かない祈りの響きは潮風に乗って遠い海の向こうに消えてしまう。でも、こうして波音に消えてしまったそれは、なんだか悪くない響きだったよ。人生や物語や思い出から祝福や呪いや意味が消えてしまったあとでそこに響きだけが残ればいいのになあってわたしは思う。海の向こうには埠頭の赤い光があった。停車する車のエンジン音がする。家々からこぼれる人の声がする。塾帰りの子どもたちの笑い声がする。星たちの光、コンビニエンスストアの光。信号機の点滅。どこかで海の音がする。信号機が青に変わる。わたしは再び歩きはじめる。はやく帰ってあったかいお風呂に入ってすぐに寝よう。明日は休みだからきっとたくさん眠れるかなぁ。
それからわたしは目をつむりあの子の暮らしの続きを考えた。
そのまま眠ってしまうまで、続いていく日々のことを、ずっと、考えていた。
おしまい
。
そう考えると、かなり危険な小説な気がします。
大勢の中のひとりであることをやめ、自己を確立して手紙を書きだすフランが素敵でした。
それと、魔理沙が死んでから押し入れに入れた手紙が堰を切って大量に出てくる所も、魔理沙宛の手紙を流す所も、"洗礼を受けた"フランとの手紙も、それまでの全ての経緯を経て感情が怒涛の勢いで流れ込んでくるかの如き情報量の洪水で、『フランドールの分裂』というイベントからその先に至った物語の過程を全て踏まえた上で、魔理沙の死という一大イベントによってスタートラインが切られたように劇場が加速する様が巨大な感銘と没入感を生み出していて、ただただ感服のみが読後感としてあったようでした。
爽快感も伴って読み込める面白さでした、こちらこそありがとうございます。
この作品を読んで、ふと氏の一作目のことを思い出しました。何も分からなくなるぐらいに不思議で曖昧で茫洋としたあの世界に、この作品を通して触れられることができたように感じたのです。勘違いかもしれません。勘違いなのだろうなあと思います。けれど、懐かしさと新しさが同時に襲い掛かってくるような、不思議な気分になったことには、間違いはないと思います。
良かったです。
それ自体は決して間違っておらずむしろ正しいと思ったうえでも
ちょっと読みづらく感じました。
散りばめられたストーリーや表現は素敵なのですが
それを単体として読み解くのはもちろん繋がりを理解するのがちょっと大変でした。
あと世界に向かって手紙を書くことという表現はセンスを感じずにはいられなかったのですが、
どうしてもそれが自分のなかでいまいち魔法と結びつかなかったところがあります。
ですがやはり作者さんのセンスはすさまじいものを感じました。