●Akaneiro
怪獣を見に行こう、と萃香が言うからわたしは行った。
ふたりで。
少し遠いところまで歩いた。
週末には怪獣がやってくる。
まるで絵本の中から飛び出してきたようなてんけー的な怪獣。
どすん、どすん、と大きな音がここまで聞こえてきた。
わあ揺れた、ねえ揺れたよ、って萃香は子どもみたいにはしゃいでた。
わたしの袖を引いて走った。
わたしはゆっくり歩いた。
怪獣のシルエットを追って川べりをだらだらと進みながら、もうここでいいじゃない、こっからのほうがよく見えるわ、近いとかえって見にくいし、などと花火の場所取りの相談でもしてるような台詞ばかりを喋っては萃香に袖を引かれ、遠いところ遠いところへ、怪獣にいちばん近いところまで歩いた。
だから、昼過ぎに出たのに、つく頃にはもう夕暮れで、空は茜色。
向こう岸に怪獣が見えた。
夕日を背にして、黒い大きな影のようだった。
でも、わたしたちが見学できるのは、ここまで。
広い川の手前のところには黄色と黒のテープが張ってあって、その先は立入禁止。
乗り越えて先に川に入ろうとする萃香の、首根っこを引っ張った。
うぎゃあ。
むっとした顔で萃香がわたしを見るから。
「行かないでよ。萃香がそっち側に行っちゃったら、わたしひとりで寂しいわ」
萃香の表情。
わたしは少し笑ってみる。
わたしの膝の上に収まった萃香の頭を撫でる。
遠いところに怪獣。夕焼け。
「あんた、怪獣好きねえ」
萃香の表情。
嬉しそうな。
「うん、うん。憧れなんだよ」
「知ってる知ってる」
「小さな頃はいっぱいお話を聞いた。鬼たちに伝わる物語じゃ最後にはいつも英雄の鬼たちは巨大な怪獣になって敵をやっつけるんだよ」
「へえ。人間たちの間じゃそんな話聞いたことなかったわね」
「だって、作り話だろう。ほんとにそんな巨大な鬼が現れたらみんな見るでしょ。それが証拠になる。でも、誰も見てない。嘘だからどこにも伝わらなかったんだよ」
「ふうん」
萃香は川の向こうの怪獣を見つめている。
倒れていく建物。
人々の悲鳴。
怪獣がぐるりと首を回してあげる咆哮。
「がおー」
「なに?」
「って、やって?」
「なんで」
「霊夢の好きなんだ。上手じゃん」
「……。ぐぅるぅおおぁお」
「あはは、あははは」
なにがそんなにおかしいのか萃香はげらげらと笑っている。
まあ、いいけど。
萃香が笑っているところを見るのは悪い気分ではないから。
萃香が笑ってくれるなら、ほんとに怪獣になってしまっても別にいい。
でも、萃香だったら、自分がなるほうがいいのかな。
川の向こうの怪獣は少しずつこっちに近づいてくる。
近づくにつれ影にしか見えなかったその姿が少しずつあらわになる。
金色だった。
夕日に照らされてきらきらと茜色に輝いている。
なんだかちょっと魔理沙みたいだ、と思ってそう口にすると、ぜんぜんちがうじゃん、と萃香は口を尖らせる。
「ぜんぜんちがう、ぜんぜん魔理沙じゃない」
「え、え。あ、もしかして嫉妬してるの?」
「……ぜんぜん」
「へーー。あ、でも、それなら魔理沙ってすっごく怪獣になりそうじゃない? あいつ熱中すると止まらなくなっちゃうからさ。強さを追い求めてなんかそういう魔法に手を出して、最終的に……みたいなさ。怪獣をつくろうとする博士が最終的に怪獣そのものになっちゃうみたいな感じ」
「ぜんぜん!」
「え、なに、萃香も怪獣になりそうって言われたいの? それとも単にわたしがいちばんに魔理沙を思い出したから不愉快になっただけ? いつでも萃香がいちばんで怪獣だよ、って、そう言えばよかったかしら? ふふ」
「ばかしね」
川の向こうで、怪獣が崩れ落ちていく。
まるであの大きな丸い丸い夕日に焼かれて溶けていくみたいに黒いゼリーのようになって地面に沈んでいく。
弾幕で溢れる。境界面で爆発する。血しぶきが飛び散る。
怪獣の周りを魔法使いが飛んでいる。
人間をやめたメイドが飛んでいる。
空飛ぶ巫女が飛んでいる。
彼らの不思議な力によって、そこで、怪獣が滅ぼされてしまう。
ぐぅるぅおおぁおお。
怪獣のあげる断末魔の叫びがここまで聞こえてくる。
わたしは萃香の身体をぎゅっと抱いた。
わたしの腕のなかで萃香はなんだかとても小さいような気がした。
そんな萃香は怪獣というより小動物のようだった。
わたしが頭を撫でると、ばかみたい、と萃香は頬をふくらませて。
「なんでいつも怪獣は最後にやられちゃうんだよ」
「しかたないじゃない、そういうふうに決まってるんだから」
夕日が沈んで、東の方から紫色の空がやってきたら、それでおしまい。
暴れる怪獣は無事に滅ぼされて平和な夜がやってくる。
めでたしめでたし。
でも、大丈夫。
来週になればまたやり直せる。
来週にはまた怪獣がやってくる。
町を滅ぼそうと歩いてくる。
今日とまったく同じように。
だから今度は勝てるかもしれないなんてことを信じることはもちろんできる。
たとえ、その結末がいつも同じなのだとしても。
黄色と黒の立入禁止のテープによって区切られた川の向こう側は、架空の世界だ。
”テレビ”と呼ばれる不思議な機械の向こうの世界。
週末には、そこに怪獣がやってくる。
怪獣を見に行こう、と萃香が言うからわたしたちは行く。
そんなふうにして週末を過ごす。
まるでテレビの中の物語のように似たような夕暮れを何度も何度も繰り返す。
毎週似たような怪獣を見てよくもまあ飽きないわねえとわたしは呟くけれど、いいものはいつでもいいんだと萃香は笑って返す。
わたしはため息。
呆れ顔をつくってみせる。
でも、まあ、たしかにね――。
ここから萃香とふたりで見る夕焼けは、いつでも綺麗だったよ。
●buy-buy
魔理沙は星になった。
あの真四角の宇宙の中でひときわ輝く星、テレビ・ショッピング・スターに。
テレビの向こうで、魔理沙は偉大な魔法使いだった。
たくさんの素敵な魔法を見せてくれた。
歩いても全然疲れない靴の魔法。
シンクについたカビ汚れを一瞬にして拭き取ってしまう魔法。
いろんな場面で使える懐中電灯の魔法。
一振りするだけで作った料理がとっても美味しく変わってしまう魔法。
しかも、やさしい魔理沙はそれをわたしたちにも分けてくれた。
テレビの向こうで、とってもやさしい魔理沙はわたしたちのことを思って寂しげな表情を浮かべている。
こんなことを言うのだった。
『ここでちょっと悲しいお知らせだぜ、いま紹介した、実はもう用意した数量が少なくなってるんだぜ。十本プラス二本セット、コンディショナーつきは今回限り! すぐにお便りお便り~!』
だから、わたしたちはすぐにお手紙を書いて、ちょっとのお金でそんな素敵な魔法を買うことができる。
誰でも魔法使いになれる。
実を言えば、わたしもいろんな魔法を買ってみた。
わたしが魔理沙のような魔法使いになれたかどうか。
あんまり。
魔理沙の紹介する魔法の商品は実際使ってみるとテレビの中で見るほどは上手くは働かないのだ。最初はその成果に感動するのだがすぐに効果が消えてしまったり、まあそこそこ使えるけどそのへんで売ってるものと大差なかったりもする。
ま、結局、失敗しちゃうところも魔理沙っぽいものね。
わたしはすっかり魔理沙とそのショッピングチャンネルの大ファンだった。
テレビの向こうでは魔理沙がバケツに入った水を頭にかぶってびしょ濡れになっていた。
『うわ冷たい……いや、温かいお湯用意しとけっていつも言ってるだろうが。え、冷めた? わたしの話が予定よりもずっと長いせい? いやあ、あははは、つまりは、それだけ商品が素晴らしいってことなんだぜ。まあ、とにかくこれだけびしょ濡れになったわたしの長い髪でもこの霧雨印のマジック・ドライヤーを使えば、たちまち元通り!』
変な形をした機械から出る風を浴びると、びしょびしょだったはずの魔理沙の髪は、風が当たったところからみるみるうちに乾いていく。キャンパス上の絵の具の金髪に別の色を置いたみたいに、そこだけはっきりと色が違って見えるのだった。
へえ、すごい魔法ね、とわたしは思う。
画面の端っこにはキャプションが、こう。
『*撮影用の偽物の髪の毛を使用しております』
そのせいなんだろうか、テレビの画面を隔てた向こうの魔理沙は、なんだかちょっとだけ魔理沙じゃないみたいだった。
とにかくまあ、そんなわけで、わたしの生活は今じゃ魔理沙でいっぱいだ。
魔理沙の発明した魔法で。
霧雨印の洗剤で食器を洗い、魔理沙がおすすめしてた洗濯機械を使って服を洗濯し、テレビの中で魔理沙が食べていた料理の下ごしらえをする。
夕暮れがやってくるまでには家事を全部終わらせてテレビの前に戻ってくる。
夕暮れはわたしが毎日見てる推理もののお話の時間だった。
毎日30分ずつ一連の推理もののお話が展開され、一週間でひとつの物語が完結する。
今日はその初日。
テレビの画面には、魔理沙。
テレビの番組の中には誰でも入れるわけじゃなくらしく、いつも決まった人物しか出てこないから、番組が変わっても物語が変わっても出てくる人たちはその役柄も含めてたいていおんなじだ。だから魔理沙は死ぬ。はじまって30分で必ず死ぬ。
わたしはそれを楽しみにする。
これも魔理沙の活躍のひとつだから。
魔理沙は夜道を歩いている。
満天の星が空に浮かぶ明るい夜道だ。
空にはあまりに星が多すぎてまるで偽物みたいに見える。
まるで絵に描いたみたいね。
魔理沙はふと立ち止まって夜空を見上げる。
白い息を吐く。
『そういえば、あいつに言い忘れたことがあったな。』
赤色。
魔理沙が死んだら、わたしは家を出る。
買い物へ、町を目指して歩く。
わたしは最近、魔理沙を持ち歩くことについて試している。
アイデアはやっぱり魔理沙から。
テレビの中で紹介されていたテレビ。
それは小さくて持ち運びができるというのが売りだった。ポータブル・テレビ、と呼ぶらしい。
手に持った小さなテレビを見ながらわたしは歩いている。
番組はもちろん、スター・ショッピング・チャンネル。
この持ち運べるテレビの問題点は、小さいせいで電波が入りにくいのか、すぐに映像や音声が途切れ途切れになってしまうことだった。
今もわたしの手のひらの上で魔理沙は遅延している。
どんな場所でももも電波電波がはい……クリアリーな音、音、おん、ぜぇえぇええ、ごこここにゅうじぃいいざぁあぁ。
今日はとても晴れた日。
綺麗な夕暮れ。
その色で燃えてしまうくらいにこの世界は赤く染まっているのに、テレビの中の魔理沙はいつもの変わらない魔理沙のままだった。
番組が終わりに近づくと魔理沙はお決まりのさよならの挨拶をする。
どんなに遅延があっても、そこだけは別撮りになってるのか、いつもちゃんとクリアリーに聞こえるのだ。
「じゃあな、ばいばーい! スター・ショッピング・チャンネル、またあしただぜ!」
魔理沙のやつ、さよならだけは、うまく言えるんだ。
そんなことを考えてわたしは少し笑った。
●C(AT) or C(uriosity) or C(ontinue) or (hito ha shindara neko ni naru)
万物理論。
それは、すべての問いの答えである。
この世界のあらゆるものに対する答え。
難解な数式から、おいしいケーキの作り方、怪獣の作り方、あの子の心の中のほんとの気持ちまで、たったひとつの理論によってその答えを導き出すことができる。
万物理論。
魔理沙の発明した万物理論。
そんな魔法のような理論は魔法の森の片隅の小さな家の中で発見された。
実際、魔法だったのかもね。
それは、あらゆる願いを叶える理論です。
とにかくその理論が発見されたせいで、この幻想郷は変わってしまった。
この世界にあるすべてのものに答えが出る、ということは、この世界には曖昧なものはもうどこにも存在しないということだ。曖昧なもの――たとえば、妖怪や妖精やそんな人間の想像力が生み出した類もの。
だから、みんな、いなくなってしまった。
そうだ、もはや曖昧なものはこの世界には存在できないから、みんなで別の場所へ引っ越した。そこでなら曖昧な存在や理論的に正しくないものだって生きていくことができる。そんな場所。
たとえば、あのテレビの向こう側――とかね。
妖怪も異変もなくなってしまったこの世界で、博麗の巫女はお払い箱だ。わたしの日々は少しだけ退屈になり、仕事はかなり楽になった。そもそも人の来ない神社だった。今さら来ない者が少し増えたところであんまりちがいはない。
だから、いつもテレビを見ていた。
テレビ――万物理論の発見のあとで幻想郷に現れた小さな箱のこと。気がつけばそれは昔からわたしたちのそばにあったかのようにそこにあり、はじめて会ったときからすでにどこか懐かしさを感じていた。子供の頃から見ていたような気がした。
まるでおもちゃ箱みたいに、テレビの中にはたくさんのものが詰まっている。楽しいお話。悲劇的なニュース。嘘のようなほんとの話。本当のようなニセモノの物語。あんまりにたくさんのものがそこには詰まっているから、それを見ているだけで、わたしは十分だった。懐かしい人々がどこかわたしの知らない遠い場所に行ってしまったあとで、わたしは別に寂しくもなかった。テレビを見てれば一日が簡単に過ぎる。
それにテレビを見れば、みんなに会える。
テレビの中では魔理沙が喋っている。あいも変わらず胡散臭い魔法の道具を紹介している。あいつどこ行っても変わらないのね、と感心さえする。
でも、ときどき、どうして魔理沙は万物理論なんてものを発明したんだろうと思う時がある。あいつがその理論に問いたかったことってなんだったんだろう。
ねえ、魔理沙。
そんなふうにテレビに問いかけたところで、もちろん答えは帰ってこないのだ。
魔理沙は怪獣になろうとしたんだよ、と誰かが言うのをときどき耳にすることがある。強くなろうとして強さを追い求めていつか怪獣のようなものになってしまったんだ。自分でも自分を制御できないくらいに。それが、あの万物理論。まあ、それっぽいけれど、それらしいがゆえに嘘くさい話だなあとは思う。まるであのテレビの中の物語みたいじゃないか。よくできているがためにかえってニセモノめいている。だから、本当はもっとしょうもないことなんじゃないかってわたしは思うのだ。そっちのほうが魔理沙っぽいしね。
まあ、魔理沙が万物理論を発明したその理由だって、万物理論に問いただせば、簡単に答えを出せるんだろうけど。
でも、万物理論は、もうなくなってしまった。
それだって今じゃ、テレビの向こう側でしか通用しない理論だ。
だって、あらゆるものに答えを出すことのできる万物理論、そんな魔法のようなものはもうほとんど架空の理論だろう。だから万物理論も今じゃテレビの向こう側の理論になってしまっている。それは架空の理論だから、誰も本気で信じない。わたしもそうだ。架空の理論によって架空の世界へと転退してしまった魔理沙。ときどき、魔理沙は、はじめから架空の人間だったんじゃないかとさえ思ってしまう。
そんなくだらない冗談だって魔理沙にぶつけてみたいのだけれど、テレビの向こう側がいったいどこにあるのか、魔理沙が今どこにいるのか、わたしにはよくわからない。
まあ、いずれ向こうの方から勝手にやって来るだろう。いつもみたいに。
そんなふうに思って、テレビを見ながら、なんとなく待っている。
あるいは、もしかしたら、魔理沙はもうこの世界にいないのかもしれないな、と思うときもある。
怪獣になろうとして失敗した魔理沙は死んでしまったのかもしれない。
だって、そこにいるはずなのに、遠くて触れられないテレビの中の魔理沙は幽霊みたいだ。
死ぬなら、わかりやすく死ねよなあ、と思うけど、回りくどいのは魔理沙のやり方だし、こんなふうに全部を曖昧にしてはぐらかすのだって、いつもの魔理沙だった。
そういえば、ここに人も妖怪もやって来なくなったせいなんだろうか、最近、夜になると博麗神社にもよく出るのだ。
猫が。
にあにあと夜になるとたくさんの猫たちが集まって鳴いている。わたしが外に出てみるといっせいに散ってしまうのだが、ときどき興味深そうにわたしに近づいてくる猫もいる。ふんふんと鼻を鳴らしてわたしの手をつっついたあと、舐めたりする。
猫にはまだ好奇心ってやつが残っているのかもしれない。万物理論が発見され、すべての問いに答えが出され、この世界から好奇心が失われたあとも。
まあ猫たちには人間の理論なんて関係ないもんね。
だから魔理沙は猫になったのかもしれないね。
魔理沙は好奇心の生き物だった。
自分の手で魔法を解き明かしたいと思ってたし、おもしろそうなことにはなんでも顔をつっこんだし、不思議なことにぶつかるとその理由を知るために夜も寝ないで延々と本と探求に耽った。
魔理沙は、きっと、この好奇心のない世界に退屈してしまったんだ。
自分ですべてを解き明かしてしまったから?
まあ、それはちょっと傲慢がすぎるようにも思うけど、実際万物理論はかつてはたしかにあったのだし、そのせいでこの世界から怪異が消えてしまったのだから、さらなる好奇心を求めて猫になってもおかしくはない。
魔理沙が最後に使ったのは、そんな魔法だったのかもしれない。
猫になって生まれ変わるような魔法。
だから、人は死んだら猫になる。
テレビの向こうで魔理沙が喋っている。
人は死んだら猫になる。
夜に猫が境内でにあにあ鳴いている。
人は死んだら猫になる。
わたしは毎日テレビを見て過ごす。
人は死んだら猫になる。
テレビの向こうでは魔理沙によく似た怪獣が夕日の下を歩いている。
人は死んだら猫になる。
わたしの手のひらの中で猫になった魔理沙がにあと鳴いた。
●Den-pa-to
電波塔のてっぺんには悪魔が住んでいる。
とても真っ黒な。
影が。
巨大な夕日の丸い丸いオレンジを背景にして、傘の下で畳んだ羽をぶら下げている。
夕暮れに揺らいでいる。
悪魔は泣いてるみたいだった。
”幻想郷電波拡散用 第一 本塔”は、幻想郷の外れ、旧湖畔の、昔、小さな島だった場所にぽつんと立っている。干からびた湖の真ん中に立つそれは、まるで隕石が落ちてきたあとにできたクレータ、そこに突然現れた異星の建造物かのように見える。
まるでこの世界のものじゃないみたいだった。
実際、この世界のものではないのかもしれない。このところわたしたちの世界はなんだってありだったから。
それでも制動はあり、秩序に似た形をした単なる感情があり、それを積み重ねたものが生活で、生活が脅かされそうになるときわたしたちは原始的な衝動を思い出して制動をやる。秩序は原始時代に生まれ今は古くなったものだ。それでも今もそいつはわたしたちの身体に入れ墨のように刻まれてる。まあ、つまりは魔理沙の売りつけた洗濯機が調子悪くなったら今更生活に困るし萃香がうるさく言うからわたしは魔理沙にクレームを入れなければならないということだ。
とは言っても、テレビの中の世界が果たして、どこにどのような形で存在するのか、わたしは知らない。
テレビの中の世界が電波というものに乗ってくるのは知ってるし、それがテレビ塔から発信されることも知ってる。
だから、まあとりあえず、わたしは電波塔に向けて歩いたのだった。
幻想郷電波拡散用 第一 本塔。
この鉄骨を組み合わせだけの塔のどこに魔理沙がいるのか、わたしにはちっともわからん。
何度も見上げてもてっぺんにいるのは影になったフランドール・スカーレットだけ。
ねえぇええ、ふらぁぁあん、ふらぁあんどぉーるってばぁ。
わたしが叫ぶとフランドールは、はじめてわたしのほうを見下ろした。
「ねえぇええ、ふらんどぉおるぅ、あんたぁ、魔理沙がぁどこにいるかぁあ、知らないかしらぁあ」
フランドールが叫び返す。
「しーぃいいらなぁーい」
「ここにぃい魔理沙がぁあいるはずなのよう」
「しーらないってばぁあ。そんなあことぉゆわれてもぉお見てないしぃいい」
叫び疲れたのでわたしは普通に喋ることにする。
「そういえば、あんたはどうしてここにいるの?」
「ここにいるの」
「え、なに? それはわかるのよ。な、ん、で、ってことよ」
「ここにいたいもん」
なんとなく話の通じてない感じ。やっぱり距離があるからちゃんと声が届いてないのかしら。フランに近づこうと電波塔のはしごに手を伸ばすとフランドールが上から、だめ!、と叫んでくる。
「なんで?」
戻れなくなるから。
いや、高いところが怖くて降りれないなんて子供じゃあるまいし、あ、でも、フランはまだ子供なのかなって思ってはしごに手をかけたら、痺れた。びりりと電撃が身体に走る。だけど、痛い、と思ったのはほんの一瞬だけ。そのあとはぴりぴりとやさしい刺激が身体を包み込む。まるで熱い温泉に入ったときみたいな感じだ。たしかに痺れるような刺激はあるけれど身体はちゃんと動かせるし、それよりもずっと気持ちがよくて落ち着く。そのままはしごを登っているとフランドールがわたしを見下ろしながらため息をついた。
「あーあ。霊夢はもう帰れなくなっちゃった」
いったいなんの話よとやがて登りきってフランドールの隣に腰掛けると、フランは少し左に動いた。逆光で表情がよく見えない。代わりにここから見下ろした景色は夕日に真っ赤だった。こうして頂上から眼下を眺めていると、なんだかすごく高いところまで登ってきたように感じる。背の高い木よりもっと高いこの塔からは、ここら一帯が見渡せる。むかし湖があった大きな円状の砂地帯、夕風に揺れる森のわしゃわしゃした頭、別のテレビ塔、テレビ塔、やっぱり赤色、遠いところには空際の紫、少しずつ光り始める町角、そしてケーブル。まるで幻想郷に血管のように張り巡らされたTVのケーブル。黒色と黄色のケーブル。
フランドールは言った。
「ねえ、霊夢はどうしてここに来たの?」
「クレームをつけに来たのよ」
「クレーム?」
「魔理沙にさ、いや、魔理沙ってテレビの中のね。でもそれっておんなじか」
フランドールはわたしを見た。
期待に満ちた顔。
きらい?
「嫌いなの? 霊夢もテレビが嫌い?」
「いや、別に。わたしのクレームじゃないの。まあ代理ってやつ。巫女だからそういうのって慣れてるし。代理で祈ったりするのとか、そういうのね」
「なーんだ」
ちぇ、と舌打ちする。
嫌いなんだ?
フランは、テレビが。
「え。なんでわかるの?」
「透明なひげがついてるの、猫みたいなやつね。それでわかるのよ」
「あはは、かっけぇ。うちの人はみんなテレビにお熱よ。朝から夜までずっと見てる。わたしは一人でつまんないの。いや、昔からずっと一人だったけど……。でも、今じゃ、みんながわたしになっちゃったみたいな感じ。みんな自分の部屋でずっとテレビ見てるんだもん」
「フランはテレビ見ないの?」
「うん。だってあんなの全部嘘じゃん。つくりものだし。お姉さまとか咲夜はテレビ・ショッピングが好きなの。何が面白いのかずっと見ててさ、いらないものばっか増やして、嫌になる。しかもね、しかもね、さいてーがさあ、最低がね、わたしが壊しても保証付きなの!」
「お客様都合の返品は承りかねます、ってことだったと思うけど」
「だってわたしは災厄だよ? 天災とかと扱いおんなじ。わたしは最悪。ふふっ。全然笑えないもん」
だからテレビをやっつけに来たんだよ、とフランは言った。
テレビ塔を?
そう、こいつを引き倒してやるつもりだったんだ。でもだめだったと言う。びりびりにやられちゃったんだもんと言う。テレビ塔に触れた瞬間、身体中に不思議な電撃が走ってそれが気持ちよくてここから離れられなくなってしまったのだと。それでここに居着いてしまった。この電波塔にやってきてすでに一週間が経ったらしい。たしかに気持ちはわかるかもしれない。この場所はとっても居心地がいい。不思議な電気が電波塔から身体に流れて筋肉を弛緩させてくれる。いつまでだってこうやって座っていられるような気さえする。なかなかお風呂から出られなくてついつい長居をしてしまうのと似た感じだ。
一週間の間なにも食べてもないとフランが言うので、わたしは博霊神社名物(自称だけど)博霊まんじゅうをあげた。
わたし吸血鬼じゃなかったらきっと死んでたよねえ、ってフランは笑う。
「えへへ。ありがと」
「うん」
「でも、なんでまんじゅうなんて持ってたの?」
「手土産に魔理沙に持っていってあげようと思ってたのよ」
「でもクレームをつけに来たんでしょ?」
「まあね。でも、それはそれ、これはこれじゃない」
「へんなの」
でも、魔理沙はここにいなかった。もう随分と会っていないような気もするのだが、不思議と別に寂しくはない。テレビの中でいつでも会えるから。むしろ毎日顔を見てうんざりするくらいだな。昔と一緒でさ。今となっては魔理沙はテレビの中にしかいない。でも、あいつ、テレビに映ってないときはどこで何をしてるんだろう? でもそれだってやっぱり昔からあんまり知らないことだった。
帰ろうかな、結局魔理沙もいなかったしね。わたしが言うと不思議そうな顔でフランドールはわたしを見た。
「帰れるの?」
「うん、どうして?」
「だってここのびりびりは気持ちいいでしょ。離れられなくなっちゃうよ」
「ふふ。だからって別に帰れないことはないでしょ」
でも、だめだった。立ち上がろうとしてもちっとも身体が動かない。微弱な電流のせいで全身がびりびりと痺れている。痛みはない。むしろずっと気持ちがよいのだった。どろどろの液体になってしまったみたい。全身が弛緩して形を失い生暖かい水の中で沈んでいくような心地だった。
「あ、だめかも……動けない」
「ね?」
フランドールはなぜか嬉しそうにふふふと笑う。きっとこれがこの電波塔の自己防衛システムなのね。古くからあるやつじゃん。御伽話にはいっぱいあるよね、なんだか居心地がよくて長居したらそのまますべて失ってしまうっていう類のさ。わたしたちはここで朽ちるんだよ。
夜が来る。紫色の夜が来る。長くなった電波塔の影がそのまま世界を覆い尽くすように広がって、暗闇が地を覆い尽くしてしまう。遠いところには町の光。なんだか眠くなってくる。あくび。光の輪郭が滲んで見えた。
まあ、それも悪くないのかもしれないね、とわたしは少し思う。このままここで朽ち果ててしまうのだとしたって。それはそれで。ここはとても心地が良くて、ぷかぷかと浮かんでまるで夢の中みたいだ。ゆるやかな夢の中で死ねるなら死に方としては悪くない部類なんだろうね、たぶん。もしかしたら魔理沙も似たようなところにいるのかもしれないよ。テレビの中、電波たちの暮らす場所。あらゆる願いを叶える魔法の道具であふれるあの場所。そこはきっとこんな電撃でいっぱいの場所だろう。
そういや、クレームはどうしよっか。
フランドールは足をぶらぶらと揺らしていた。あたりが暗くなりはじめたからだろうか、傘を畳んで、やっぱり空へ弧を描くように揺らしていた。退屈しているのかな。こんなにも心地よくて安心する電流たちの流れる場所で? それがわからなくてフランの横顔をなんとなくじっと見ていたら不意に振り返り、少し微笑む。
「なぁに?」
「ううん。そろそろフランは帰ったほうがいいんじゃないかしらって思って」
「どこに?」
「おうちに」
「なんで?」
「きっとレミリアとかも心配してるわよ」
「してるの?」
「知らないけど」
「つまんないもん、帰ってもさ」
「ここは楽しい?」
「まし」
「まし?」
「まだましのまし」
「ああ、そういう」
「むかし、言ってたの」
魔理沙がさ、とフランは言う。むかし、魔理沙が、外に出れば楽しいことがあるってたくさん言ってたんだ。でも、ないよね。って笑う。楽しいこととか何もなかったよ。魔理沙だって本当は信じてなかったのね。だって当の魔理沙がテレビの”中”に行って帰ってこないじゃん。
「あいつのことは知んないけど楽しいことだってたくさんあるわよ」
「嘘つき。だって、霊夢はびょーきになったんでしょ?」
「なにそれ? 誰がそんなの言ってたの?」
「みんなさ。霊夢は心を病気に侵されたからもう異変を解決しなくなっちゃったってさ。それってほんと?」
「わたしが病気のように見える?」
「さあ……。わたしが潜水の世界記録持ってるように見える?」
「え、はあ?」
「見た目じゃなんにもわかんないってことね」
じゃあフランはワールドレコード持ってるのね?
いや、持ってないけどね。
でも、わたしが心の病気か病気じゃないかそんなことわたし自身知らないけれど、楽しいことはちゃんと知っているつもりだ。
「それってなに?」
「あの、テレビとか……」
「霊夢もテレビかよう!」
「いや、いや、ほ、ほかにもあるから……。聞かせてあげるわ」
「えーまじ? テレビ好きな人の話って絶対つまんなーい」
ぱぁん。
フランがわたしの背中を思い切り叩いた。
振り返る暇もなく、叩いた手でそのまま背中が押された。
わたしは落ちた。
電波塔の上から逆さまに。
落下死の二秒前に、ぎりぎりで空を飛んで減速、着地。
地面に横たわる。
そのままの目線の先で、フランドールが手を振ってた。
笑った。
「うそ、うそ。また、来てね」
電波塔の足元には、腐乱した小鳥や虫の死骸が散らかっている。
彼らはこの電波塔の心地よい電流から離れなくなってそのまま命を失ってしまったのだろう。鳥や虫は夢を見るんだろうか? 彼らが死ぬ間際に見た夢がいい夢だったらいいなあと思う。
立ち上がり、わたしは手を振り返す。
電波塔のてっぺんには悪魔が住んでいた。
星空を背景にして、いつまでも飽きずに手を振っている。
死んでもいいと思えるほどの安心感と心地よさをわたしたちにくれるあの電流の中にあって、未だに退屈している彼女のことをわたしは思う。
あの子を笑わせられるだけの物語がわたしの中にあったらよかったのにね。
でも、ないよね。
楽しいこととか何もなかったのかもしれないね。
星のとても綺麗な夜だった。
●Evolution
テレビの中の討論番組では、進化論がテーマだった。
先日、天使になった妖精たちについて、聖白蓮と豊聡耳神子が喋っている。
白蓮「つまり、あれは進化なんです。仏様の言葉を借りれば解脱ですね。貴方も感じているでしょう、この幻想郷はいま過渡期にあるんです。適応、とでも言えばいいんでしょうか。彼女たちのあの姿は来たるべき新しい世界に備えた正しい変化なんですよ」
神子「最近流行りの終末論ですね。民を惑わす邪教だ」
白蓮「あら、終末論ではありませんわ。ただ、軛を離れて新しい世界へと旅立つだけのことです」
神子「では、来たるべき新しい世界とは?」
白蓮「そうですね。まだそこに達していないわたしたちがそれを正確な言葉で言い表すのは難しいですが……」
神子「ふふん。お決まりの前口上というやつですね。テレビの前のみなさんの想像におまかせします、というわけ」
白蓮「それが具体的にどのような土地というのはわかりませんが、どのような場所かについては知っているつもりです」
神子「ほう。というと?」
白蓮「それはわたしたちの形により適した場所だということです。つまり、幻想生まれのわたしたちがより幻想でいられるような土地」
神子「それはあの幻想郷のような場所、ということです?」
白蓮「あるいは。実際、幻想郷における幻想の力は弱まってきています。人々が幻想を信じなくなりつつあるのです。いま命蓮寺ではそんな居場所や力を失いつつある妖怪たちを保護する活動をしています」
神子「宣伝はやめてもらおうじゃないですか」
白蓮「まあ、そんなつもりはなかったんですけど。貴方からするとそう見えてしまうみたいですね。そちらは信者もだいぶ少なくなってきているみたいですし」
神子「だが、貴方の話が本当だとしたって、それは単に逃げているだけではないでしょうか。忘れられたものたちが集まる幻想郷、そこから忘れられたものたちが集まる場所。単に同じことを繰り返しているだけだよ。それは逃避だ、退廃でしょう」
白蓮「いえ、これは進歩です。わたしたちは少しずつよくなっているんです……」
ねえ、れいむう、と声がした。
声の方を振り向くとふすまの間から寝ぼけ眼の萃香がわたしを見ていた。
ねえ、霊夢、朝飯、ないの?
朝飯って時間でもないでしょうが。テレビに視線を戻してわたしは答える。萃香は不満顔だった。
「朝食は一日の力の源だよ? それがなきゃどうやって今日を生きればいいのさ」
「酒飲んでごろごろしてるだけなんだから活力なんかいらないでしょ」
「一日三食食べないとわたし成長できないよ?」
「進化も?」
「進化?」
わたしはテレビを指差す。
進化。やってたの。妖精たちは進化したんだって。
「またテレビぃ? テレビでやってることなんか全部うそだよ。テレビなんか見てるとばかになるんだよ?」
「たしかにね。テレビで言ってたわ」
「まったくさあ」
「妖精たちが天使に進化したのは新しい場所に適応するためなんだって。ここよりももっと幻想の地。それってどんな場所だと萃香は思う?」
「さあね。イカがいっぱいいるんじゃない?」
「イカ?」
「イカが地上を支配してるのさ。あいつらは頭がいいからね。イカ語を喋ってイカ飯を食べてイカセックスをしてイカTVを見る」
「イカTVってなに?」
「イカのテレビ」
「でも、それもテレビでやってたわ。未来の世界って」
「ああ、そう。とにかくわたしお腹空いたよ。このままじゃ進化もできない」
「進化しなくていいわよ」
「なんで?」
「だって萃香が進化して新しい世界に行っちゃったらわたし寂しいもの」
「べつにイカない」
「あはは」
「笑うなよ、恥ずかしいから」
「いや、テレビに笑ったの」
「あ、そ」
ご飯を探しに行くと萃香が言うのでわたしはいってらっしゃいと手を振った。
夕ご飯までには帰ってきてね。
テレビの中では、魔理沙のやってるショッピング番組が終わり、正午の連続ドラマ小説をやってた。
今回はなんと稗田阿求の過去九代に渡る秘密が阿求自身に明かされるという大展開。でも小鈴はすでにそれを知っていて、というのもアガサクリスQの小説にはすでにそのことが描かれていたからだ。これまで視聴者と小鈴は、アガサクリスQはきっと阿求なんだろうと見当をつけていたが、この展開から見るにどうやら阿求ではないらしく、ではアガサクリスQとは誰なのか、すでにアガサクリスQの小説内では阿求の悲劇的な結末が明らかになっており、阿求はどうなってしまうのか、小鈴はどのように動くのか、ふたりの恋の結末はどう転ぶのか、とても気になるところで、続きはまた次回。とりあえずは永遠亭プロデュースの家庭向け医学番組を見て過ごす。
そして、『地底崩壊』が始まる頃には、萃香が居間に戻って来る。
『地底崩壊』のセカンド・シーズンは、放射能でいっぱいの太陽を抱えてお空が沈んでいったその海の中からお空の特徴を宿した異径の生き物が現れるところからはじまる。
ムカデのような長い尻尾を引きずったお空のような生物の反り返った胴体には小さな太陽。放射能でいっぱいの。ゾンビ・フェアリーたちが振り切れたラジウム測定器の針を見て、らじむうあうとけいほーです、らじうむあうとらじむうあうとらじうむあうとけいほーって喚くくだりも前作そのままにお空のような見た目をした怪獣は地底をめちゃめちゃめちゃにしながら、どうやら地霊殿に向かって進んでるということが明らかになり、お空はやはり主人や友達にもう一度会いに来たんだとかいやこれは憎しみ故だよ海底の孤独がお空を怪物に変えてしまったんだよなどと登場人物の間で不毛な議論が繰り返されているうちにお空はもう地霊殿のすぐそば、これはわたしの責任です、それがなんの責任なのかは明らかにされないまま、いや発言した本人もわかってないのかもしれないが、古明地さとりは地霊殿と自分自身ごと、外の世界から有事のために新兵器として運び込まれていた第二次世界大戦の疑似記憶を用いて地底に転写された曖昧な東京ともにお空を空襲によって滅ぼそうとする。上がる煙と悲鳴と流れた涙と血のあとに、崩壊した地霊殿の上にまるで何もなかったようにお空の化け物が立っているカットで、第一話は終了。
その後の話も基本的は地底で暴れるお空に対する地底の人々の虚しい抵抗が続くという感じで、そもそも第一シーズンでは制御の難しい神の力を身体に授かったお空が、力に振り回されたり力を狙う連中に追われたり力を制御できずに大事な人を傷つけてしまう一方で力のおかげでヒーローになったり誰かを助けたり恋に発展しそうになったりし、家族や周囲の人間と時にすれ違いまた絆を再確認していくというコメディ要素も多めのどちらかと言うとハートフルな物語だったのだが、徐々に明らかになる大きな陰謀とお空が太陽を抱えてひとり海に沈んでいくやりきれないようなラストシーンが話題になったことに制作側が気を良くしたのか、セカンド・シーズンではいきなり暗いトーンで物語はじまってそのままパニック・ホラーの様相を呈しながらお話は続いている。これは賛否両論だった。意外にもファースト・シーズンのファンだった萃香は、地底崩壊は終わったね残念だけどこれはわたしの知ってる地底崩壊じゃないみたいなことを言う。わたしとしてはこれはこれでちがった面白みがあるし、この前の第四話の終わりでは海に打ち上げられたお空?のような少女のカットもあったからここからまた新しい展開がどんどん広がっていくんだろうという期待もしている。まさに今ここで流れている最新話ではもうひとりのお空も不思議な力を持っているというようなことも明らかになっており、同じ放射能でいっぱいの海から生まれたふたりの少女、どちらが本物のお空なのか、あるいはどちらとも新しく生まれたお空のような何かなのか、疑問を視聴者に投げかけながら場面は地底の対お空対策本部内の人間関係の軋轢に移る。テレビを見ながら萃香は文句を言っている。
「いや、どういうことだよう。せっかくでっかい怪獣がすぐそこにいんのにさ、やれ誰が誰を好きとか誰が無能とかどんな計画があるとか、人間の話とかどうでもいいだろうがぁ」
「人間、嫌いなの?」
「そうだよ。うるさいもん」
「それを言うなら怪獣のほうがうるさいでしょ。ぐぅうぅるぁああ、みたいなの言うじゃない」
「あはは、うまいうまい」
やっぱ続きもんはだめだね。欲張っちゃっていけないよ。
そう呟いておせんべいをかじる。
ばりばり。
まるで怪獣みたいに大きな音を立てる。
「でも、セカンドには大きな怪獣出てるからあんた好みでしょうが」
「いや、一体じゃだめなんだよ。一体が暴れて人間と戦ってるだけじゃさ。弱いものいじめしてるみたいだよ」
「そう?」
「そうさ。やっぱり怪獣同士が取っ組み合って戦ってこそだよ。強いものと強いものが本気でぶつかり合う、それがかっけえじゃん」
「それならこの先に期待できるじゃない。わたしの予想だと、あのお空は人類側の味方について放射能の力で巨大なヒーローになると思うのね。それで、もうひとりのお空と戦うの。だからあのお空が本物のお空だと思うんだけど、実は怪獣のほうが本物のお空っていうところまで予想できてるわ。たぶんだけど伏線とかもあってさ……」
「いや、いや、いや、そもそもさあ、わたしは地底崩壊には別に怪獣は求めてないんだよ。一期ではそんなものなかっただろ。テレビは嫌いだけど、唯一はまったんだよ。どの話もおもしろかったんだ。実際わたしだって三話の途中から見たけど好きになった。隠された計画とか世界の謎とか文学性のあるラストシーンが一期で受けたから二期はそういうのばっかやって、話ごとのおもしろさがないもんな」
「そういうものかしら」
「それになによりお空が可愛かったんだ。等身大の女の子が苦悩したり恋をしたり戦ったりする姿が愛おしかったのに、あんなわけわからん怪獣になっちゃって」
「それって、かわいくておっぱいの大きい女の子が出てたからよかったみたいな話?」
萃香は大きいものが好きだもんね。
ばりばり。
「ちがうよ、ばか。これはリアリティの問題さ。ファースト・シーズンにはたしかなリアリティがあったんだよ。厄災を抱えてしまった女の子と苦悩や喜びやその取り巻く人々の愛や悩みがね。まあそのラスト以外はね。あれはだめだね。あの自己犠牲はほんとに唐突なんだ。思うに、あれはテレビの中だけの物語じゃなくてまるきりリアルで、キャストがいなくなっちゃったからお話を変更しなきゃいけないってことになったんだよ」
たしかに萃香の言う通り、前作に出ていた人物もセカンド・シーズンには登場しないし、一話の古明地さとりだって現れるときには記憶転写のために変な機械を頭につけていたからその顔は見えなかった。もちろんお空は、異形の怪獣としてしか現れないのだ。
萃香は言う。
ほんとは、もう一期の時点で地底は滅びてしまったんだよ。
だから、偽物でまだ生きているみたいなふりをして、その続きをやっているのさ。
いや、さすがそれはどうだろうかとわたしは思う。
何か制作において大きな方向転換があったのはたしかだろうが、そこまで言ってしまうのは単に穿ちすぎというかファースト至上主義が行き過ぎてる感じがする。
テレビの中では、びしょ濡れのお空に似た生き物が浜辺に立っていた。
誰かが彼女に尋ねる。
貴方はほんとにお空なの?
彼女が何かを言おうとして。
海で。
暗転。
『つづく』
でもまあそれはそうとして、少なくとも、テレビの中の海は偽物だった。
だってこうして聞こえてきた波の音が。
どう聞いたっておせんべいを齧る音なんだもんね。
ばりばり。
●Fairy Letters 1
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巫女さんへ
このまえは、パウンドケーキのつくりかたを教えてくれてありがとうございます。
この前つくって食べてみたら、あの日神社で教えてもらったときと同じように、やっぱりおいしくつくれてうれしかったです。甘いものが好きです。チルノちゃんにも食べてもらったんですけど、おいしいおいしいと、とってもよろこんでくれました。すごくうれしかったです。チルノちゃんがうれしそうにものを食べるすがたを見るのはもっと好きです。
巫女さんが紙に書いてくれたレシピは、ビニールのふくろにいれておうちのキッチンのかべにはっていつでも見れるように大切にとってあります。あんなにおいしいケーキのつくりかたを巫女さんはどうやって知ったんですか? それとも巫女さんが自分で発明したのでしょうか。巫女さんだから神様に聞いたのかな。ともかく、あれはわたしにとって神様のつくったみたいなレシピです。みんなをしあわせにしてくれると思います。巫女さんがわたしにそんなレシピをわけてくれたことすごくうれしいです。ありがとう。
本当のことを言うと、はじめは巫女さんがわたしに料理のしかたを教えてくれるとは思いませんでした。(怒らないでね。)巫女さんはとってもこわく見えるし、わたしのような名前もない妖精たちのことなんか気にもかけてくれないと思っていました。でも、勇気をだしておねがいしてみてよかったです。おいしいケーキのレシピを知れたし、巫女さんがほんとうはとてもやさしい人だということ知って好きになりました。かんしゃの気持ちを伝えたくて手紙を書きました。字は先生に聞いて憶えました。ちゃんと読めたらいいな。
少しだけわたしのお話をさせてください。
わたしはなまえのない妖精です。とくにこれといって人に話すこともありません。いつもみんなのいちばんうしろにたって歩きます。わたしはチルノちゃんのことが好きです。いつもみんなの前にたっていちばんさいしょになんだってするチルノちゃんはわたしのあこがれです。おかしをつくったのは寺子屋のじゅぎょうでした。家てい科のじゅぎょうです。わたしはほかの妖怪や妖精たちよりもおかしをつくるのが少しだけ上手でした。先生はほめてくれました。チルノちゃんはわたしのがいちばんおいしいと言ってくれました。きっとわたしは待つのがみんなより少しだけ得意だったんだと思います。たとえば、みんなは生地を焼くとき、決められた時間よりもすぐにやくのをやめてしまいます。わたしはぴったりまで待ちます。おさとうのりょうも生地をまぜるときもぴったりになるまで待てます。ただ、それだけのことなんです。でも、それだけのことで、とてもおいしいお菓子ができるのがうれしくて、チルノちゃんがおいしいと食べてくれるのがうれしくて、わたしはお菓子づくりが好きになりました。あとで先生に教えてもらっていろんなお菓子をつくりました。先生はお菓子づくりの本をくれました。文字の読み方も教えてくれました。でもぜんぶの文字が読めるわけではないし、材料もなんでも手に入るというわけではないので、本のなかのお菓子をぜんぶつくれるわけではありません。だれかにお菓子づくりを教えてほしいと思うようになりました。でも、先生のほかに妖精のわたしにお菓子づくりを教えてくれる人はいません。だから勇気をだして巫女さんのところに行ったんです。巫女さんのところには妖精や妖怪たちがいつも集まっていたから。
巫女さんのところでお菓子のつくりかたを教えてもらった毎日はわたしの毎日のなかでいちばんのきらきらの毎日です。あんなにたのしくてうれしかった日はなかったです。巫女さんはあんまりお話をしないからさいしょはこわかったです。でも巫女さんのうしろで巫女さんがお菓子をつくるところを見ているだけでも楽しかったです。それに大切なことはちゃんと話して教えてくれたから。生地をまぜすぎないこと、卵をうまくわるコツ、とくべつなかくし味。巫女さんがあんなにたくさんのお菓子を知っていることにわたしはびっくりしました。しかたないじゃない食べたくてもお金がないからじぶんでつくってみるしかなかったのよ、とぶっきらぼうに言う、巫女さんがなんだかかっこよくて、わたしもお菓子をつくるときには巫女さんみたいにかみをうしろでぎゅっと結びます。巫女さんのことを思いだすとき、いつも巫女さんはまっかになっています。ゆうやけのあかいろです。夕日がキッチンにやってきて赤くなって、巫女さんはうでまくりをしていて、水道から水が出ていて、甘いにおいがするんです。わたしは巫女さんみたいになりたいです。そうやっていうとチルノちゃんとかみんなは笑うんです。あたいたちをぼうでぶつんだなって。きっとみんなは巫女さんがすごいお菓子しょくにんだってことを知らないんですね。
いま、わたしには夢があります。いつか立派なお菓子しょくにんになりたいんです。お菓子の店をつくれるくらい。妖精のお菓子の店です。たくさんの妖精や妖かいや人げんがやってくるようなお菓子の店。いまはチルノちゃんだけがおきゃくさんだけど。
そういえば、さいごにひとつふしぎなことがあるんです。あのパウンドケーキのレシピをわたしはおぼえることができないのです。あれからなんどもつくってみたし、まいにち夜ねむる前にはレシピを声にだして読んだりもしてみましたが、やっぱりきおくにのこらないのです。もちろんあのレシピを見ればいつでも似たようにつくれます。でも、せっかくだからあのケーキを自分のものにしてみたいし、なによりあのレシピをなくしたらもうにどとあのケーキをつくれないのだと思うとこわくてたまりません。それは、わたしがおぼえのわるい妖精だからなんでしょうか。でも、わたしだってほかのことならおぼえがだめなりにも少しずつおぼえることができます。おかしのレシピだっていくつかは知っています。こうして文字だっておぼえました。でも、あのパウンドケーキのつくりかただけはどうしてもおぼえることができないのです。
やっぱり、それは、あのレシピが神様のレシピだからなんでしょうか。
神様のレシピはとくべつでひみつだから、たぶんわたしの思い出にのこらないのかもしれないですね。
だからこそあんなにもおいしいんです。
神様のとくべつなレシピを、巫女さんがわたしにこっそり教えてくれたこと、やっぱりとてもうれしいです。ありがとう。
みんなにはひみつにしておきますね。
なまえのない妖精 より 神様たちにあいされる巫女さん に
――――――――――――――――――――――――――――――
●GAMEBOY
博麗神社にゲームボーイがやってきた!
ゲームボーイは最近幻想郷で流行っている手のひらに少し余る小さな箱型の機械のことだ。冒険、夢、ゲームボーイ。いつかのショッピング・チャンネルで魔理沙が言ってた。この箱の中にはテレビと同じように別の小さな世界が入っていて、四角い画面の向こうにわたしたちはそれを見ることができる。テレビと違うのは、それをわたしたちも実際に体験できるというところ。その中でならわたしたちは危険と喜びに満ちた夢のような冒険の主人公になれる。
最近わたしもはまってるんだぜとテレビの中で魔理沙が言うからわたしも買ってみたのだ。
買ったはいいけれど楽しみ方がよくわからずにすぐに飽きてやめてしまった。霊夢はまたそんな買い物してさ毎日味のないおにぎりを食べさせられるわたしの身にもなってよとぶつくさ文句を言ってた萃香のほうがむしろいつの間にかすっかりはまっていた。
ポケットモンスターの青を萃香はずっとやってた。
見て見てずつうがレベル43になったんだよバッチも6個も集まったしさ。萃香が熱中してるところを横から見ているとなんだか面白そうなのである。わたしにもやらしてよと言うと、萃香は快く遊ばせてくれた。あ、でも、マスターボールは使わないでよ取っといてるんだからねと言う萃香の言葉はよくわからないけれどあとでやろうと思って借りて、せっかくだからはじめからやろうと思って、”はじめから”を選んで、やった。萃香の持ってるピカチュウってやつがかわいくてわたしも欲しくて探していたのだけれどちっとも見つからない。それに敵の持ってるモンスターはかわいかったり格好良かったりするのに、わたしが捕まえて使うと、そのモンスターがなんだか路面に打ち捨てられた羽虫の死体のような潰れたぐちゃぐちゃの粗いドット姿の”モンスター”に変わってしまうのが気に食わなかった。まるで掴んだ途端泡のように消えてしまう夢のようだった。
ピカチュウってどこにいるのとゲームボーイを萃香に渡すと、萃香はなぜかとても怒っていた。今ならその意味がわかるが、わたしは萃香のセーブデータを消してしまったのだ。どうやら”はじめから”を選んでゲームをはじめると今までやってきたデータの方は消えてしまうという、そういうシステムになっているらしい。
何度か謝ったけれど、それ以来、萃香は拗ねたようになってゲームは二度とやらない。わたしばかりがやっている。またはじめからやればいいじゃんわたしのデータ消していいしさとわたしが言うと、もう二度と戻ることはないんだぞと萃香は泣く。わたしのめまいを霊夢が殺したんだ。
めまいとは萃香のピカチュウのことだった。
萃香はお気に入りのモンスターに病気の症状の名前をつけていた。
その頃ゲームをやると病気になるとよくテレビでやっていたのだ。
ゲームに熱中しすぎると脳に穴が空いて現実とゲームの中の世界の区別がつかなくなってしまうらしい。
いまや萃香はとっても健康だった。
一方で、わたしやや幻想郷の多くの人々の頭の中には同じ形の穴が空いている。
きっと、その穴はここではないどこか別の場所、たとえばあのテレビの中の世界に続く穴なのだ。
わたしたちはGAMEBOYを通じてここではない別の世界へと迷い込む。
ときどき、帰れなくなる。
●Hutari de Oni Taiji ni Ikou
テレビ・ショッピングで買ってきたみたいな鬼の子だった。
異変解決をやめて日がなテレビを見て過ごすだけのわたしのそばにいつまでもいてくれた。
まるで想像でつくりあげた友だちのように。
似たような日々を重ねたせいで少しだけ曖昧になってしまったあの頃の記憶の中で、他のみんなと同じように萃香もこの神社を出ていったように思う。でも、それからしばらくしてまた戻ってきた。萃香はなんだか少しだけ昔と変わってしまった。お酒もあんまり飲まなくなったし、わがままを言うことも減ったし、好き勝手やって周囲に迷惑をかけるなんてことも減った。まるでテレビ・ショッピングで売ってそうな貴方のためのお利口な萃香だった。
だからもう一度萃香がここを出て行って今度は帰ってこなかったとき、わたしは少し安心した。だって、そっちのほうがずっと萃香っぽいものね。
でも、今度はひどく寂しいような気持ちになった。
そんなことを思うのは珍しいことだ。わたしは人やものにそれほど頓着しないのに。だけど、どうしてだろう、あの萃香はいつまでもわたしのそばにいてくれるような気がしていたのだ。まるでテレビ・ショッピングで買った萃香みたいだ。病気になってしまったわたしにお誂え向きの萃香。それがわたしのものだと思ったから、きっといなくなってしまうことが寂しいのだと考えて、ひどく嫌な気持ちになった。自分自身の勝手さに嫌気が差した。だから萃香のことは忘れようと思った。他の色んな思い出と同じように。
でも、やっぱりここに萃香がいないことが無性に寂しくて、テレビを見てもそれを話す相手がいないことが虚しくて、手紙を書いた。
萃香がどこにいるのか、それはわからなかったから、魔理沙に手紙を書いた。
こういうときにわたしが相談できる相手といえば魔理沙しかない。いまはテレビの向こうの魔理沙に、まるでクレームをつけるような気持ちで、手紙を書いた。
魔理沙が売ってわたしが買った様々な商品の、テレビ通りに行かなかったことを箇条書きにして、そのひとつに萃香のことをこっそり忍ばした。
『そういえば萃香がこの場所を出て行ってしまいました。』
返事なんてちっとも期待していなかったけれど、しばらくあとで魔理沙から返信が来た。商品に関するいくつかの謝罪とアフターサービスを受ける方法についての情報、そして、萃香のことも書いてあった。
『萃香がいなくなってしまったことはとても残念です。その件についてわたくしどもしてもお詫びを申し上げたいと考えております。心苦しい事に萃香がどこに行ってしまったのかわたくしどもからご案内できることは何もありませんが、つきましてはお詫びの夢をおつけします。夢の中でなら何度でも彼女に会うことができるでしょう』
お詫びの品、という申し書きで一枚のディスクが封されていた。ディスクには『非売品』とある。その中には夢が入っていた。それは魔理沙のちょっとした冗談だったのかもしれない。でも、わたしはそのディスクを頭の中に挿し込んで、何度も同じ夢を見た。淡い色の20分のほどの短い夢を。
じぃいいい、じじ、じぃ、というノイズとともに、ひどく画質の悪い灰色の背景にゴシック体の文字のタイトルがちかちかと点滅しながら現れて、その夢ははじまる。
それはこんなタイトルだった。
『二人で鬼退治に行こう』
萃香のことを待っている、というところからいつもはじまる。
わたしは縦穴のそばにテントにいる。
ミツバチみたいに明るい黄色と黒のテント。
注意!みたいな三角のやつ。
わたしはそこで本を読んだりレンガみたいな色のブロック状の簡易食料を食べたり何をするともなく寝転んだりしたりしながら待っている。
あの縦穴の奥へと進んでいった萃香のことを。
もう何日も。
でも、萃香はいっこうに帰っては来ないのだ。
ひょっとするともう鬼に食べられちゃったのかもね、とか、でも萃香もそもそも鬼なのだ。それが萃香がひとりであの縦穴の先に進んでいった理由でもある。縦穴のなかにはたくさんの鬼が住んでいる。人間の霊夢がいきなり穴に入るのは危険だから、と萃香はひとりで行った。大丈夫さ、わたしも鬼だからね、仲間だから、やられたりはしないよ。
でも、結局、こうして帰って来なかったじゃん。
暗い夜だというのにじりじりと熱い。テントからぶら下げた風鈴がちりんちりんと鳴っている。ランプの光の下で読んでる本には西瓜が出てきた。西瓜畑で死体が見つかった。たくさんの西瓜のなかにまるでひとつだけぱっくりと割れた西瓜の中身にみたいに赤い赤い死体。本のページを閉じて灯りを消す。こんなところまでやって来ないで神社で萃香と一緒に西瓜でも食べながら時間に過ごせばよかったかな。萃香と西瓜。いつでもあったのに今ではどっちもここにはなくて、みたいなくだらないこと考えて、寝袋に身体を挿し込んで眠る。
暑くてあんまり眠れなかった。
そんなふうに日々を過ごしたあとで、いつまでもこうして待っているわけにもいかないので、萃香を探してわたしも縦穴の中に入っていくことにする。萃香が垂らした長いロープをわたしも握り、離し、また握り、少しずつ暗いところへ、暗いところへと降りていく。やがて光の届かないところまでやって来ると腰にぶら下げたランプに火を灯して、さらに深いところへと降りる。そうしてついに足の触れるところまで降りきって上を見上げると丸く切り取られた空が、もう見えない。
ここにあるのは、ランプの光の淡い輪郭と人間のわたしだけ。
どこからか風が流れてくる。洞窟を切って叫び声のようになる。わたしは少し身震いする。なんだか泣いてしまいそうだなあって思う。
どうやらこの先は横向きに続く穴になっているらしいから他にどうすることもできなくてわたしは進む。萃香のことを思う。ふたりで鬼退治に行こう、そう言ってたのに結局わたしはひとりでこんなにも怖がっている。
そのまま進むと何かを踏んづける。光をかざして見るとそれは人間の死体のように見える。いや、そうじゃない。鬼だ。鬼が倒れている。と思ったら、それはむずむずと動き出す。きゃあ、とわたしは叫び声を上げる。すると、闇の中から無数の瞳が現れて、わたしを見る。
鬼だ、たくさんの鬼だ。
たくさんの大小様々の鬼たちがこちらを見つめている。
そして、それらの鬼が、すべて。
「萃香?」
少し先に開けた場所。
無数の鬼たちのざわめき。
そしてその鬼たちの真ん中には大きな物体が鎮座している。
それは、巨大な萃香だ。
ここからでは見上げきることもできないほど巨大な萃香が、そこにいる。
小さな萃香が大きな萃香に近寄っていき、くっついて、やがてちょっとした腫瘍のようになり、そして大きな萃香の一部になる。
わたしは声にならない声を上げる。
たくさんの萃香に囲まれて、萃香に会いたいと思う。
わたしのそばに萃香がいればと思う。
でも、わたしはひとりで、萃香のような萃香たちだけがそこにはいて、萃香がいない。
もういちど、萃香に会いたい。
そう思って目をつぶると、次の瞬間に、わたしは神社の縁側にいて、隣には萃香がいる。
昼下がりの暑い日差し。
突然現れた光に、くらついて、少し目を閉じてやがて馴染む。
萃香はお酒を飲んでいる。
グラスの中の氷が、からん、からん、と鳴っている。
いつもお酒ばっか飲んでさ、少しは役に立ちなさいよ。
萃香はむっとした顔をして。
まるでわたしがなんの役にもたってないみたいじゃないか。
あれ、そうじゃなかったっけ?
ばか、わたしだって時が来たらちゃんと役に立つさ。そのためにわたしはいるんだよ。
時が来たらねえ。それっていつかしら。
わたしが言うと、萃香はぐいとお酒を飲み干して。
じゃあさ、霊夢。
そして、わたしに笑ってみせる。
「二人で鬼退治に行こう」
●In cider
憶えている子供の頃の記憶でいちばん古いやつはサイダーのような液体の中で漂っているところだ。しゅわしゅわと揺れていた。身体中に泡が張り付いて、ぱちん、ぱちん、と弾けた。なんだか甘い味がした。それがいったい、いつ、どこの記憶だったのか、ちっともわからない。羊水のなかで漂っていたときのものなのかしら。あるいは、なにかの本で読んだイメージを夢とかでも見てそれが自分のものだってあとから記憶に挿入してしまったのかもね。
それはともかくとして、次に憶えているのは、そいつを飲んでいるときのことだった。わたしは小さな子どもで、紫が隣にいて、縁側のような場所で、昼過ぎの暖かい光に包まれながらその甘い液体を傾けた。からん、と氷が鳴っていた。しゅわしゅわと口のなかで弾けるから、わたしはびっくりして目を丸くした。紫は隣で笑っていたような気がする。外の世界の飲み物なのよ、と紫は言った。甘くて、不思議な刺激があって、楽しくておいしくて何杯もせがんで飲んだ。紫のところに来る前の記憶はちっとも思い出せない。孤児だったのよ、と紫は言うけれど、それが本当なのかどうかもわからない。巫女になるように育てられてやがて巫女になった。そして、それが今ゆるやかに終わろうとしている。今日、紫はサイダーを持ってきてくれた。飲むと記憶の中のそれよりもずっと甘ったるいし、すぐにお腹に溜まって、何杯でも飲めるという感じではない。グラスの中の氷は少し溶けている。全会一致だったわ、と紫は言った。
「そうなの?」
「ええ。つまり、貴方は博霊の巫女を解任、ということになるわね」
「そうなんだ」
「感想は?」
「泣きたいな。すごく」
「あら、そうかしら?」
わたしは目頭を指で押さえて泣いたふりをする。
ふふ、と紫は笑う。
わたしは言う。
「引っ越しの準備をしなきゃね。とはいっても持っていくものはたいしてないけどさ」
「ちゃんとあれらは片付けておきなさいよ」
あれらと紫が言うのは、ショッピング・チャンネルでわたしは買い集めた雑多な道具たちのことだ。わたしは肯く。べつに焦ることはないのよと紫は言う。解任が決まったからといって後任がすぐ見つかるわけじゃないし、しばらくの間はここにいてもいいのだから、と。
「怒ってる?」
「どうして?」
「わたしのしたことで」
「あら、霊夢は何もしなかったじゃない」
つまり、それが解任の理由ということだろう。べつに依存はない。まあ、それは、異変解決に対する考え方の違いだからね。万物理論が発見され、すべての曖昧さが排除されたこの幻想郷にもう異変はない。どんなことが起こってもそれは正しい変化で、わたしの口を挟むようなことではない。
「霊夢さえ良ければうちに来てもいいのよ?」
「マヨイガに?」
「ええ」
「それ、冗談? わたし、最近、そういうのわかんなくなっててさ……」
「ふふ。どうかしらね」
昔から紫が何を考えてるのかわたしにはよくわからん。よくわからないので紫の言うことはあんまり気にしないことにしている。グラスの中のサイダーを飲むと、氷が溶けたせいで薄くなっていた。手持ち無沙汰にからからと揺らしていた。
「後悔はないのかしら?」
「後悔? 反省したら今さら戻してくれるの?」
「ちがうわ。やり残したことはないのかしら、ってこと。解任は決まったけれど、貴方はまだ博霊の巫女のままだわ。つまり、空座にするわけにはいかないからね。博霊の巫女としてやり直したことがあるなら今のうちに。助言よ、これは」
やり残したことなんかないと思う。だって、あったら、やっているだろう。紫は曖昧な微笑みを浮かべながらわたしをじっと見ている。でも、紫がそう言うなら、きっとやり残したことがあるということだろう。紫は人に助言なんかしない。あるかも、と言ったら、あるということだし、したほうがいいんじゃない、と言ったら、しなさい、ということだ。そういうめんどくさい物言いをするから、みんなに嫌われてるのだ、たぶんね。だから、わたしは思い当たるうちで一番それに近そうなことを言ってみた。
「萃香はそうかも」
「あの鬼がどうしたのかしら?」
「いなくなっちゃったのよ。別にいいんだけど、なんとなくもう一度会いたくて。博霊の巫女でいるうちならいろんなツテもあるだろうし、あんたにもありがたい助言もらえるかなって」
「そうかもね」
「萃香がどこにいるか知ってる?」
「ええ」
「どこにいるの?」
「準備なさい。案内してあげるから」
え、紫も来るんだ、と思って言って、わざと時間をかけて準備をして戻ると、境内で紫は待っていた。白い日傘をさして夏の下にいた。そして、わたしに微笑みかけるのだ。
「じゃあ、行きましょうか。鬼退治に」
いや、べつに退治しに行くわけじゃないんだけどさ、と思ったけれどめんどうくさいので黙っておいて、やっぱり言ったら、紫が笑った。
紫のあとをついてわたしは神社を出る。
そっか、夏だ。
ひどく暑い。
アイスクリームにでもなってサイダーの中に飛び込んで溶けてしまいたいくらいに。
萃香に会いたいなあとわたしは思う。
●Junk
テレビの向こうではドキュメンタリー番組がやってる。
近年妖怪の山に捨てられている”ゴミ”問題についてのドキュメンタリーだ。
わたしはテレビでそれを見ていた。部屋にひとりで。台所からはカレーの匂い。今は煮込んでいて、こつこつこつとかすかな音が聞こえてくる。作る前はあんなに食べたい気がしたのに、作ってるうちにどうでもよくなってしまう。
画面に映っているのは、ゴミ。たくさんのゴミ。
「ご覧ください!ご覧ください!このたくさんの恐ろしいゴミたちを!これが今の妖怪の山の現状なのです!このゴミたちはやがて我々に大きな災いをもたらすことになるでしょう!」
大げさな口調でまくしたてる天狗のリポーターの後ろでゴミたちが風に震えているように見える。いや、ちがう。ほんとうに動いているのだ。ゴミたちは蠢きあい集まり、人の形をとって、歩き出す。いや、そもそも、あのゴミははじめからひとつひとつが小さな人のようなのだ。それが集まってさらに大きな人の形になる。そして歩いてくる。こちら側に、カメラの方に何人ものゴミがにじり寄って来て、そして――うわあぁぁあ助けてぇえええじぃいいいざぁああ……悲鳴、ノイズ、暗闇、やがて画面が移り変わる。
新しい画面には、椅子に座りこんだ河童。
『ゴミ問題の専門家』というキャプションがついている。
マイクを向けられた彼女はとつとつと喋りはじめる。
あれはまちがいなく鬼だね。”萃香”と我々は呼んでいる増殖力の高い鬼だ。彼女は密と疎を操る程度の能力を持っており小さな自分の分身をつくることや逆に寄り集まり巨大になることができるんだ。これが非常に厄介な鬼でね、酒が入るとすぐに暴れだしパワハラセクハラなどおかまいなし、あいつのせいで我々の友人はひどい目にあっている。君たちはなぜいつからあの鬼がゴミと呼ばれるようになってしまったのかという質問をわたしにするが、それは問いの立て方が間違っている。つまりあの鬼は古来からずっとゴミで、階級社会の生み出したゴミで、単により歳を重ねた人間は偉いというゴミみたいな社会常識が生み出したゴミなんだ! ずいぶん前に妖怪の山から姿を消したと思ったけど、ああ、ちくしょう……どうして戻ってきたんだよ。わたしが言いたいのはこれだけだよ、ゴミはゴミ箱に!
先程の解説に不適切な表現がありましたと一応のエクスキューズが入ったあと、場面が移り変わり、今度は鉄製のかごに入った、ネズミくらいの大きさの小さな萃香がインタビューされている。インタビュアーの天狗が恐る恐る萃香にマイクを向ける。
――単刀直入にお聞きします、あれはいったい何なのですか?
あれって? お前らがゴミとか呼んでるわたしのこと?
――い、いえ、ゴミだなんて! めっそうもない! きっと聞き間違えたんじゃないですかね、ほら、神?とかそういうのと。いつもあの頃はよかったってみんな言ってるんですよ。萃香さんが妖怪の山にいた頃は毎日がはらはらどきどきで刺激があったって。いや、楽しかったってことですよ? もちろん、もちろん。
ふうん。
――でも、どうして萃香さんが今戻ってきたのか、しかもたくさん。それが気になっているんです。もちろんポジティブな意味ですよ。
戻ってきたんじゃない。ずっとあそこにいたんだよ。いや、お前らの言うことも間違ってないわたしたちはゴミなんだ。
――そりゃそうですよねえ。あ、いや、ずっとあそこにいたっていう点に関してですよ、もちろん。
わたしたちは捨てられたんだ。
――誰にでしょう?
わたし自身にだよ。
――はあ? それはつまり?
つまり、お前らにもあるだろう。忘れてしまいたい恥ずかしいことや嫌なことや不意に思い出していてもたってもいられなくなっしまうような思い出が。わたし、つまり、わたしの中心のわたしということだけど、そのわたしはそういうことがあるたび、わたしたちのその部分を妖怪の山の近くの深い縦穴に捨てていったんだ。
――ふむふむ。萃香さんにもそういう後ろめたい記憶があるんですか。たくさんあるでしょうね。いや、もちろん誰にでもあるという意味で。しかしなぜ今さらになって彼女たちが外に現れたんでしょうか。
復讐のためさ。
――復讐? わ、わたしたちは別になにもしてませんよ。いや、そりゃあまあ……で、でも、ちょっとくらいの陰口は許してくださいよう。部下というのはそういうものです。上司のありもしない悪口を言って日頃の鬱憤をはらすという愚かな生き物なんです。
別にお前らに対してじゃないよ。これはわたしを捨てたわたし自身に対する復讐さ。つまり、あいつは捨てすぎたんだ。捨てたわたしを集めたらそれくらいの自我を持つくらいわたしを捨ててしまった。ほら、見ろ、わたしは捨てられたわたしを集めてあんなに大きくなっているだろう。
――そうです。はっきり言っていい迷惑ですよ。はやくとめてください。
止めることはできないさ。わたしはわたしを集めてわたしに復讐する。その過程でこの世界がぐちゃぐちゃになっちゃっても気にはしないさ。どうせ捨てられたわたしなんだ。ああ、わたしも呼ばれてる。はやくみんなのところに行かなきゃ……。
――ちょ、ちょっとまってください。どこに……
小さな萃香は鉄製のかごを破壊して外に出る。インタビュアーの天狗の股をすり抜けて、萃香のところに向かう。もっと巨大な萃香のところへ……。
そして、ここまでが、録画映像。
また画面が移り変わり、画面の右上にはLIVEの文字。
上空からの映像だ。
空を旋回する天狗が地上を写している。カメラの真ん中には大きな縦穴。そこから巨大な萃香が這い出してくる……。
「ご覧ください!ご覧ください!この恐ろしい鬼の姿を!木々をなぎ倒しながら町へと向かって歩いてます!まるで怪獣ではありませんか!あ、いま、河童製の爆弾が投下されました、このときのために開発された強力な爆弾です!辺り一帯は草木も生えない焦土と化します……あ、いや、だめです!まったく効いた風もありません!歩き続けています!わたしたちにはもう希望がないのでしょうか。いや、あります!たったひとつの希望が……。いまこれをご覧になっている不安でたまらない皆さんのためにただいまよりその作戦を紹介しましょう!わたしたちの最後の希望、それは、毒を持って毒を制す、ゴミを持ってゴミを制す、つまり、それは鬼に他ならないのです!作戦名は……」
そして暗転。
画面にゴシック体の文字が現れる。
『ふたりで鬼退治に行こう』
巨大な怪獣の萃香に向けてふたりの少女が歩いている。
博麗の巫女と鬼の子のふたり。
怪獣の起こす地響きの中でもばらばらにならないように硬く手を繋いで一歩一歩ゆっくりあるき続けている。
つまり、再利用なのです。リサイクルです。
ナレーションが聞こえてくる。
ゴミとして捨てられた鬼たち、それをまた再利用できるよう改造を施して我々の仲間に変える、それがこのふたりで鬼退治に行こう計画です。この計画が成功したあかつきには鬼たちはわたしたちの快い仲間としてその凄まじい力を発揮して様々な面でわたしたちを支えてくれることでしょう。この勝利は単なる怪獣に対する我々の勝利ではありません。巨大な力に対するわたしたちの征服なのです。
博麗の巫女は新しい小さいけれど正義を秘めたやさしい萃香とともに、必ずや、悪しき巨大な萃香を打倒してくれることでしょう。
それではいったん、ここで、CMです。
「ここで、スター・ショッピング・チャンネルからのお知らせ! じゃじゃーん、今日紹介する商品はこちら! 商品番号0200番、貴方のためのお利口な鬼の子、伊吹萃香だぜ!
あー買い物の荷物が重くて家に運ぶのが大変なのぜー……そんなときは伊吹萃香! 鬼のあの子は力持ち、貴方の代わりに荷物を運ぶなんて朝飯前! でも、鬼の子っていえば酒癖が悪くて大変なのぜー? ご心配なく! この萃香は平均成人女性程度に飲酒量に調整されてるんだ! 一家に一人鬼の子を! スター・ショッピングでした! ばいばーい、またあしただぜ!」
CM明けたら、わたしはひとり。
萃香を待っている。
人間が鬼に立ち向かうには危険だからと様子を見に行ったきり萃香は帰ってこない。必ず戻ってくるって言ってたくせに、いつまでたっても戻ってこないじゃない。なんだかこんなこと前にもあった気がする。
どこか遠いところからナレーションが聞こえてくる。
な、なんということでしょう! まさかの裏切りです! わたしたちのための伊吹萃香は巨大な怪獣の萃香に寝返り、その一部になってしまいました。わたしたちの情報も作戦もすべて筒抜けです。わたしたちの敗北です。もう我々になすすべはありません。しかし、みなさん、わたしたちは負けましたが、精神においては負けてはいないはずです。最後まで戦うのです。今すぐお風呂に水を張りそこに飛び込み息を止めましょう。敵に負けるくらいなら、自ら死を選ぶのです!
なんだかとてもやかましいな。いったいこれはどこから聞こえてくるのだろう。
しかし、まあ、こうなることはわかっていたのにね。
まるでレコードを何度も再生するように同じことをもう何度も繰り返しているような気がする。萃香を待っている。萃香はやってこない。わたしはひとりで、そして、きっと萃香を探しに行くんだろう。どうして? なんのために? わからない。でも、萃香に会いたいと思う。
少し遠いところに怪獣の萃香がいる。
酒を煽り、火を吹いた。
あたり一面が炎に包まれ、森が燃えはじめる。
茜色。
まるで夕焼けみたいに。
わたしはニセモノの夕焼けの真ん中で萃香を待っている。
向こう側では怪獣が歩いている。
やがてわたしは萃香を探して歩きはじめるだろう。
でも、だとすると、それをこうしてテレビ越しに見ているこのわたしはいったい誰なのだろう。わたしは、博霊霊夢は、たしかにあの場所にいるはずなのに、そんな気がしているのに、わたしはそれをここから見ていて、まるで思い出の景色を覗くみたいにテレビの中の世界はくすんだ茜色だった。
まあ、どうでもいいことかもね。
どうせテレビの中の出来事だ。ほんとのことじゃない。
そろそろカレーも出来上がる頃だから、テレビを見るのはやめて、様子を見に行かなきゃな。大きな鍋に、どうしてだろう、まるでふたりぶんをつくるみたいに、たくさん、つくってしまった。こんなには食べ切れないのに。
カレーの匂いは夕暮れの匂いだ。
そういえば、思い出の景色はいつも夕日みたいな色をしてる気がする。
それは、なんだかとても懐かしい色だった。
●Kyoukaimen
雨が降ったから、今日は帰れない。
雨が降っているといつもそう思う。
帰る場所さえもうよくわからないのにそう思う。
境界面に近いところ、この最前線ではよく雨が降る。
ここでは”向こう側”と”こちら側”の区別がとても曖昧になっているから、それが雨模様として描写されるのだと昔誰かが言っていた気がする。
あの境界面の向こう側――テレビの向こう側。
そんな場所に近いところに、この博麗神社第三支部、つまり作戦本部は位置している。
わたしのいる黄色と黒の縞縞のテントからは雨が降っているのが見える。
雨は地に跳ねて煙だち、向こう側の姿を曖昧にしてしまう。
境界面の向こう側では、魔理沙が歩いている。
怪獣になってしまった魔理沙だ。
怪獣の魔理沙は雨に打たれてびしょ濡れだった。
雨の中でひとりで、少し寂しそうに見える。
でも、それは、単にそういうふうに魔理沙のことをわたしが思うようなシナリオになっているだけだ。
むかし、魔理沙とわたしは親友だったということになっている。
万物理論を発見した魔理沙はそれを利用して巨大な怪獣になった。最初から魔理沙が怪獣になるつもりだったかどうか、怪獣になって魔理沙がなにをしたかったのか、わたしは、知らない。魔理沙にだってわからないんじゃないかな。
物事が通り過ぎたあとには、全てははじめからそういうシナリオになっていた、と思うことしかできない。
だって実際にそうなってしまったんだから。
今さら何を言ったってしかたがない。
特にこの場所じゃ余計そうね。
テレビの向こう側とこちら側が曖昧になってしまったこの場所では。
その意味じゃ、わたしもすでに境界面を踏み越えて、テレビの登場人物のようになってしまっている。博麗霊夢という役を演じるひとりの人間に。だから、本当のことを言えば、魔理沙のことなんか、わたしは知らない。怪獣になったその理由だってわかるわけない。
でも、大丈夫。魔理沙についての記憶――つまり、設定ならちゃんと頭の中に入ってる。
普通の人間で、普通の魔法使いで、よく一緒に遊んだり、妖怪退治をしたり、異変を解決した。
でもそれは博麗霊夢にとっての魔理沙で、わたしにとっての魔理沙じゃない。
だって、境界面のこちら側にはそもそもはじめから魔法や妖怪や怪異なんてものは存在しないのだから。境界面のこちら側にいたわたしにそんな魔法使いの友だちがいることなんてありえない。
でも、雨の中をひとりで歩く怪獣の魔理沙は、とても寂しそうだ。境界面の向こう側の侵略からこちら側を守るために、こうして魔理沙と戦わなくてはいけないことがひどくもの悲しい。いつまでも魔理沙とふたりでいたかった。
それが、このお話のためだけに用意された偽物の思い出だったとしても。
あの境界面を踏み越える昔のことはほとんど思い出せない。
雨が降っているから、今日は帰れない。
そんな気分だけを唯一憶えている。
それは昔のわたしがよく感じていた気分だったろうか。わたしには帰る場所や待っている人がいたんだろうか。それが魔理沙のような何かだったのだろうか。
ぱたぱたぱたぱた、と雨がテントに打ち付けて鳴っている。
そろそろ作戦の時間だ。
作戦の時間がやってきたらわたしは巨大な鬼になって魔理沙と戦う。
作戦コードは”おにたいじ”。
対魔理沙汎用決戦兵器、Ibuki Suika。
鬼の子。
あらゆる事象に解を与える万物理論にはもちろん万物理論を滅ぼすための理論も内包されている。万物理論によって導き出されたアンチ万物理論理論によってつくられた鬼の妖怪。わたしはそいつに乗って魔理沙と戦う。
巨大な鬼の子になって親鬼を倒すのだ。
萃香の中はぬるいサイダーみたいな液体でいっぱいだった。
口から液体が胃の中に入り込む。甘い味がする。
舌がぴりぴりと痺れる。
身体にしゅわしゅわと泡がまとわりつく。
ぱちん、と弾ける。
そしたら、わたし、鬼になる。
開いた目にミニチュアみたいに小さな里や森の姿が飛び込んでくる。
動かす身体にたしかな重さの感憶がある。
一歩踏み出してみる。
ずしんと世界が揺れる。
歩いて怪獣のところに行った。
Suikaとふたり。
わたしはひとり。
とうの昔に境界面は後ろ側に消え去っている。
こちら側に入ってしまえばすべてがクリアリーに見える。
よく晴れている。
青い空。
少し眩しいな。
でも、これなら、もしかしたら帰れるかもしれない。
さっさと魔理沙を倒しておうちに帰ろう。
存在するかもわからないその場所に。
ぐぅるぅおおぁおお。
魔理沙はわたしを見て咆哮をあげる。
わたしは駆け出して怪獣の魔理沙と取っ組み合う。
時間をかけすぎてはいけない。でも、はやく倒しすぎてもいけない。
ちゃんと番組の時間内に余りなく収めなくては。
魔理沙がわたしを押し倒す。上にのしかかる。首筋に噛み付いた。
血が吹き出す。
透明な、サイダーの血だ。
痛みがある。
痛い、痛い、痛い。
身体を押し返そうとしても魔理沙は体重を使ってわたしを組み敷いて、がっちりと大きな牙を肉の奥までさしこんでわたしを離してくれない。
ねえ、魔理沙、痛いわ。わたしが魔理沙に何かしたなら謝るから離してよ。怒らないでよ……っていうか怒ってんの? わたし、あんたのこと何もわからないわ。もしかしてそのことで怒ってんの、わたしがあんたのことを知ろうとしなかったから。でもしかたないじゃない、わたし、わたしのことさえなんもわかんないのよ。
魔理沙がわたしを噛みちぎろうともっと深いところまで刺した。
こ、つん。
牙が骨に触れた。
その瞬間、それが、わたしの中をいっぱいにする。
熱いものが全身に広がって身体の全ての端で、弾ける。
自分で思うよりはやく、わたしは倒されたその格好のまま、片手で魔理沙の首を裏から掴んで引き剥がす。
そして、少し遅れてそれを知る。
それは怒りだった。
たぶん、わたしのじゃない。Suikaの。
そうだ、このわたしの身体、対万物理論汎用決戦兵器Ibuki Suikaは生きているという話を聞いたことがある。だからこれは痛みを憶えたこの身体の怒りだったのかもしれない。
戸惑い、いつもの疎外感、想像しては忘れてしまう帰るべき家のイメージ、そのあとはただ、原始的な純粋反応、自分のものじゃない感情一途に身を任せて、咆哮――残された腕で魔理沙の胸を貫く。
なんだかとても暖かいな。
わたしの手のなかで脈打っている。
知らない誰かの心臓なのに、ひどく愛おしくて、寂しい。
そして、わたしは、それを、握りつぶした。
赤い血が空から降ってくる。
ぱたぱたぱたぱたとわたしの顔にぶつかって音がしていた。
まるで雨が降っているみたいだ。
だから――ああ、やっぱり今日も帰れないなあ。
そんなことをふと思う。
まあ、もちろん、帰るべき場所なんてはじめからちっとも思い出せないんだけどね。
●Losed guide (Fairy Letters 2)
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巫女さんへ
こんにちは。
昨日はたくさん雨がふりました。あんまりずっとたくさん雨がふるもんだから、森がみずうみみたいになって、わたしたちは泥んこでした。チョコレートの妖精になりました。
巫女さんは大丈夫だった?
さいきん神社に行ってもすがたが見えないからわたしは心配です。このところ、みんな大変なので、きっと巫女さんもいそがしいのかもしれません。この前は里に大きなクマが出ました。お家よりもずっと大きいクマ。もう少し前は空がふたつにわれました。巫女さんは見ました? オーロラ。風のとても強い日にとんでくるせんたくもののタオルケットみたいにひらひら飛んでいて、とてもきれいでした。
ほんとうはよくないうわさを聞きました。
みんなは巫女さんが病気になったと言うのです。巫女さんは心を病気におかされてしまったから、もういへんをかい決できないのだと。巫女さんがいへんをかい決しなくなったから、雨はやまないし、オーロラもきょだいなクマも出てくるし、人がふたりになったり、さんにんになったり、いなくなったり、わるい妖かいたちがあばれたりするって言うんです。それがほんとうなら巫女さんの病気はどんな病気ですか。竹林のお医者さんには見てもらいましたか。あのお医者さんは冷たいときもあるけれど妖精も見てくれるよいお医者さんです。ごめんなさい。こんなのはうわさ好きのわるい女の子ですね。先生はうわさを信じてはいけないとよく言います。自分の目で見て考えることが大切だって。でも、わたしはこのところ巫女さんを見ることができないから、やっぱりうわさを信じてしまいそうになります。これも病気かもしれません。心配症、と言うんです。
よい話をします。
お菓子づくりは少しずつ上手になっています。いろんなレシピもおぼえました。特に”マフィン”という外の世界のお菓子が自まんです。りんごのやつがとてもおいしいんです。そうだ、巫女さんが前に教えてくれたパウンドケーキ、おぼえてます? 神様のレシピです。わたしはあのレシピをやっとおぼえることができました。やっぱりずっとおぼえることができなくて、紙を見ながらつくれても、いつもあとでレシピを思いだすことができなくて、でも、少し前にやり方を考えました。半分ずつ覚えるんです。夜にそのレシピの紙をじっと見てたら半分ならおぼえられることに気がついたんです。いつも途中でわからなくなっちゃうんですけど、逆に言うと半分くらいなら憶えているんです。それに気がついたから、今度はレシピを見てからかくして下から暗唱したらやっぱり半分くらいなら言えるんです。それで半分ずつ別のレシピだと思って憶えてあとで頭のなかでひとつにあわせるんです。そしたら神様のレシピの完成です。わたしも巫女さんみたいに神様の言葉がわかるようになったんです。
でも、ほんとうのこと、またお手紙を書いたほんとうのこと、巫女さんに聞いてもらいたかったんです。きっとこのお手紙を呼んでる巫女さんにはもうそれがわかるのかな。巫女さんは、それを、見たのかな? 巫女さん、わたし、天使になれなかったんです。
この前、妖精たちはみんな、天使になりました。そのとき、わたしはチルノちゃんといっしょにいたんです。とつぜん、羽が大きくなって、体もおおきくなって、きらきらと光って、頭にわっかが生えてきて、空に飛んでいってしまいました。なんども呼びかけたけど、わたしの声は聞こえてないみたいでした。追いかけたのに待ってくれませんでした。ころんだのにふり返ってくれませんでした。空から羽がふってきました。白くて、さらさらしたきれいな羽。さわったら氷みたいにとけてなくなってしまいました。ころんだときにできた手のひらのかすりきずもいっしょになくなってしまいました。きせきだね、ってみんなは言います。天使の羽にさわるときずが治ってしまうことです。進化したんだよ、と先生は言います。妖精たちが天使になったことです。
先生は天使たちについて教えてくれます。天使についてはまだ多くのことがわかっていないみたいですが、わかってきたこともあります。たとえば、天使の羽にはきせきの力があります。それにさわると治ることのない病気が治ったりします。足のわるい人が天使の羽にさわったら歩けるようになったんです。この大変なことになってしまった幻そうきょうにおいて、天使はきゅうさいそちのようなものだって先生は説明します。わたしたちには、世界のバランスがくずれたときに天使に進化するための地図のようなものがあらかじめ頭のなかに入っているんです。その地図のせいで、妖精はおぼえがわるく、思い出の容器がほかの生き物より少なかったと言うんです。わたしが天使になれなかったのはその地図のあったところにむりやりべつのものを入れてしまったからじゃないかと先生はうたがっています。わたしはすぐに神様のレシピのことが思いうかびました。もしかしたらあれをなんとか憶えようとしたから、わたしの天使の地図はばらばらになっちゃったのかもしれませんね。
わたし、天使にはなれなかったことについては気にしないようにしています。いつもみんなのいちばんうしろを歩いていたからこうしておいていかれてしまうことにはなれていると思います。それでも、天使になったみんなが空の高いところをくるくる飛んでいるのを見ると、とてもさびしくなってしまうんです。どうしてわたしは天使になれなかったんだろう、わたしになにかだめなところがあったんだろうか、天使になったらきっととてもしあわせだったんじゃないかと思って、泣いてしまうそうになります。そんなときは巫女さんのことを考えます。赤いキッチンに立っていた巫女さんのことや、巫女さんの教えてくれたお菓子のレシピのこと。わたしはお菓子をつくります。こんなときでも甘いお菓子を食べるとなんだか少しだけよくなる気がするんです。心配症。もしも、巫女さんもわたしと同じ病気なら、きっと、大丈夫です。お菓子づくりなら巫女さんのほうがずっと上手なんですから。
もし、よかったら、お返事ください。
なんでも。
天使になれなかった妖精 より 心配症の巫女さんへ
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●Marisa Kirisame
雨が降ったから、今日は帰れない。
雨が降っているといつもそう思う。
だから雨は降っている。
か細い霧のような雨だ。ほとんど視認することもままらないから、朧げに見える世界のその朧げ具合によって雨が降っているとわかるような雨。
さあぁぁああああと小さいノイズのような音がなっている。
でもここは白い眩しい光が照らす室内で、だからその雨はどこかここではない場所で降っていたのかもしれないね。
たとえば、わたしの頭の中、とかで。
窓がないから外のことがわからない。
扉を開けて部屋から出ると、廊下だ。
長い長いどこまでも続くような廊下。
とても真っ白な。
わたしはその廊下を歩きはじめる。2つの方向のどっちに歩いたらいいのかわからないからとりあえず音のするほうへと向かってた。雨の音のするほうへ。廊下の左右には等間隔で無数の扉が並んでいる。そこには名前が刻まれていた。『西行寺幽々子様』、『八雲一家 様』、『レミリア・スカーレット様』というふうに。なんだかひどく懐かしいような気がする名前たち。まるで墓標みたいだった。そんなふに思ったのは幽霊にでもなってしまった気分だったからだ。ここがどこなのか、どうしてここにいるのか、そんなことさえよくわからずにただ歩いているわたしが。幽霊が彷徨う場所なら、墓場がぴったりだった。
廊下を先に進むにつれて、ノイズはどんどんひどくなっている。
わたしの頭の中で降る雨の音は。
さぁあああああ、さあああ、さああああ。
ざああああ、ざああああああざぁああああああ。
この場所に誰かがいてくれればいいのに、とわたしは思った。こんなわけのわからないところにひとりじゃとても心細い。それに誰かとふたりでここまでやってきたような気もするのだ。その誰かはどうしてわたしを残して先に行ってしまったのだろうか。でも、そんなこと考えてもわかるはずがない。そもそもそんなやつがほんとにいたのかどうかもわからないのだ。
そんなことを思いながらひたすらに歩いていると、やがてたどり着いた。
行き止まり。
そこには扉。
上のところにこんなことが書いてある。
『第2スタジオ』
扉を開けると、そこは別の世界だった。たくさんの人々がいた。小さな生活があった。数人の人間がキッチンに立ってお菓子をつくっているところだろうか。不思議な回転する器具を使ってボウルのなかで何かを混ぜている。でも、それはわたしの知っている料理の光景とは少しちがっている。キッチンは部屋の真ん中に、突然そこに現れたかのようにぽつんと存在し、食器棚や調味料といった通常そこに認められるものはちっとも見つからない。たくさんの人が少し遠いところからキッチンを囲んで、それを眺めていた。それに光だ。部屋中は白い光に満ちていて、小さな首の長い恐竜のような機械がさらにキッチン向けて口から光を放っている。そのせいであの場所には影すらも見つからない。天国という場所がほんとうにあるならこんなふうじゃないか、とわたしは思った。
そして、その世界は、こちら側とは隔てられていた。巨大なガラスで。わたしはガラス越しにその景色を眺めていた。だから少し朧げに見えるのか。
そうやって考えたとき、わたしはわかった気がした。
これは、テレビの中の世界だ。
しかもあのわたしがいつも見ていたスター・ショッピング・チャンネルの。
だって、その証拠に、キッチンに立って料理をしているのは、魔理沙だったんだから。
テレビの中で魔理沙はひとりだったからそのことにすぐ気がつなかった。あの番組の中には実はあんなにたくさんの人が入ってたのか。なんだか感心する気持ちだった。
いつもそうしていたように、魔理沙は魔法の道具(今回はボウルの中の生クリームを簡単に混ぜることのできる機械だった)を持ち上げて、笑った。でも、テレビで見るときとちがって、その笑顔はわたしに向けられてはいない。どこか別の、わたしのいないところを見ている。
わたしはガラスを叩いて、呼んだ。
「魔理沙、魔理沙!」
すると、ガラスの向こうにいる人々がいっせいにわたしの方を見る。たくさんの目。わたしは少し後ずさってしまう。それでもぐっと心に力を入れて、もういちどガラスを叩いた。
「魔理沙、魔理沙、わたしよ! ねえ、魔理沙ったら!」
魔理沙は周囲の人間たちになにやら声をかけてから、わたしのほうへと歩いてきた。わたしの前に立って笑った。
「よう、霊夢。久しぶり」
ガラス越しに見た魔理沙はなんだか少し魔理沙じゃないみたいだった。
「うん。久しぶりね。でも、なんかあんまりそんな気はしないわ。いつもテレビで見てたもの」
「ああ……。そうだな」
なぜか魔理沙は気まずそうにはにかんだのだ。
そうして。
「な、今日はどうしたんだ霊夢。何かわたしに用があったんだろ? 実を言うとさ、あんまり時間がないんだ」
「そう、そうよ。わたしあんたに用があって……。でも、今はちょっと思い出せなくて。いろいろあったのよ。すごく変なことがいっぱい。道理にあわないこととか矛盾してることもたくさんあって、朝起きたときに夢と現実がまだ混じってるみたいな感じで、どれが本当のことなのか、とかもよくわかんなくて」
「うん」
「あんたがあの万物理論とかいう魔法を発明してからよ。こんなんなっちゃったのって。責任とりなさいよ」
「ごめんな」
って、魔理沙は言った。
べつにわたしは魔理沙を責め立てたかったわけじゃなくていつものちょっとした冗談のつもりで言ったのに、この場所はなにかがいつもと少しだけずれていて、そのせいでうまく伝わらない。魔理沙に対する文句ばかりが頭の中にあふれてしまう。
「ねえ、ここはどこなの?」
「スタジオってやつだな。テレビ番組をつくるところだぜ。ま、霊夢の側からしたらってことだけど」
「あんたの側からしたら?」
「単にわたしの暮らしている世界だな」
魔理沙の言うことがわたしにはちっともわからない。
いつもそういうはぐらかす物言いばかりするけど、こんなときくらいちゃんと説明してもらわないと困る。
「どういうことよ。もっときちんと説明しなさいよ」
「それはとても難しいんだぜ。つまり、わたしからしたら本当のことでも霊夢にとっては嘘だってこともあるからな。でも、そうだな……霊夢のためにがんばってみるよ。ためしに質問をくれないか。そうしたほうがやりやすいからさ。問には解を。万物理論、あれはそういう理論なんだぜ」
「それなら、さっきから言ってるじゃない。ここはどこなのよ」
「ここは――つまり、わたしのいるところはって意味だけど、やっぱり霊夢にとってはテレビの中の世界だ。つまり、架空の世界と言い換えてもしれない。わたしにとってはこれが本物の世界なんだけど」
「さっきと言ってること変わんないわよ」
「まあ、待つんだぜ。万物理論。あれが明らかにされたことで、世界のすべてが解き明かされた。そのせいで曖昧な想像力によって成り立つ幻想や魔法の類は――幻想郷にいる妖怪や怪異の類と言い換えてもいいかな――世界に存在する余地がなくなった。でも、その万物理論自体も似たような幻想として存在し得なくなった、っていうのは霊夢も知ってるだろ?」
「まあ、なんとなくは」
「それがはじまりだったんだ」
すべてが同時に即時的に起こったわけじゃない、というのが重要な点だぜと魔理沙は言う。それは氷がしだいに溶けて水になるようにゆるやかに、でも着実に起こった。その結果、万物理論の発見によりたしかに幻想は架空のもの、つまり本やテレビの中にしか存在しないものになった。しかし、そもそもの万物理論も現象の向こう側に後退してしまったことによってその境がひどく曖昧になってしまった。つまり、こちら側にもまだ幻想が存在する余地が残ってしまったということだ。もちろん一度失われたものがまるきりもとに戻るのは難しい。そのようなわけで、その余地は、現実に存在するものとしてではなくて、現実と幻想を繋ぐ穴、という形でのみ残った。幻想に対する記憶や知識も完全に失われたわけでもなかった。だから、やがて、その穴を通じて幻想をこちら側に取り戻そうという試みが起こったのだ。たとえば、幻想郷をもういちど再興させようといったような。万物理論はすべての問に対する答えである。だから、もちろん万物理論をなかったことにするための理論もそこには含まれている。万物理論によって導き出されたアンチ万物理論理論。それを利用して万物理論を滅ぼす。巨大な鬼の一部である小さな鬼を仲間に引き入れてもともとの鬼を倒そうというような無謀な作戦だった。
そんなシナリオのなかで、アンチ万物理論理論とともに現象の向こう側に向かい万物理論と戦う、そういう役割をわたしは演じていたのだろうか。
幻想郷を取り戻すために?
「でも、結局、うまくいかなかったんだな」
「どうして?」
「裏切りだよ。だってアンチ万物理論理論も万物理論から生まれたんだ。親殺し、同族殺しみたいのものなんだぜ。情が生まれたんじゃないか。理論が情にあるがわたしは知らないが。あるいはこう言ってもいいかもな。架空の万物理論から生まれたアンチ万物理論理論、それだって結局は架空の理論だった。それに怪獣は負けるものって相場が決まってるだろ?」
「でもあんたが怪獣だったじゃない」
すると、魔理沙は寂しそうに笑った。
ガラスの向こうで誰かが魔理沙のそばに寄ってきた。魔理沙は振り向きなにやら会話をしている。魔理沙の言うことだけかろうじてこちら側まで聞こえている。
うん、うん、へーきだぜ。別にたいしたことないってほんとに。そう、よくあるクレーマーさ。主張はよくわかんないけど、お決まりのやつだよ。勝手に想像して自分の思い通りにならないから喚いているんだな。あーそう、そうね、怪獣。いつもの怪獣だよ。うん、時間が押してるのは知ってる。まあ、とっとと退治しちゃうからもうちょっとだけ待っててくれよ。
そう言って魔理沙は誰かわたしの知らないやつを押しのけてまたわたしのほうを向く。肩をすくめてみせた。
「あー……冗談だぜ?」
「べつにあんたがわたしのことをどう思ってようが気にしないわ」
「ほんとだよ。信じてくれよ、な。大事にしたくないんだ。つまり、アンチ万物理論理論を使ってここに侵入しようとした霊夢はこっち側からしたら、敵、みたいなものだからさ。もちろんそれも物事の一面だ。べつに多くのみんなは気にもしないんだろうが、でも敏感なやつもいる。クレーム対策、クレーム対策。仕事柄さ、癖になっちゃってるんだぜ」
「べつに誰かが怪獣とか敵とかどうでもいいんだけど、わたし、今回もあんたに勝ったじゃない」
そうだ、そんな記憶だってちゃんとある。
怪獣になった魔理沙。
たしかわたしはそれをこの手で滅ぼして――。
「きっとそんなシナリオもあったんだろうな。でもなあ、霊夢、それはテレビの中のことだぜ。架空のお話。ほんとのことじゃない」
「でも」
「でも、なんだぜ?」
「わたし、憶えてるのよ……」
魔理沙の心臓を握ったときの暖かさ。
それを潰してしまったときの感触までこんなによく憶えているのに――。
「そうだな。その意味じゃ霊夢もこっち側にいたんだ。テレビのこっち側の世界に。霊夢はここへの侵入を何度も繰り返してた……だから」
憶えている。
でも、それは本当は起こらなかったこと。
起こらなかったことになってしまったこと。
だからこれまでのことは、予め失われた思い出。
「そうだ、しかたのないことなんだぜ。こうして万物理論に対する戦いが敗北に終わって、分断が確定してしまったあとじゃ、これまでの霊夢の戦いはなかったことになる。現象とその向こう側の戦い、霊夢の世界の論理じゃそんな非現実な戦い起こり得るわけないもんな。だからテレビの中の戦いだったとしか言えなくなる。それなら少なくとも矛盾はないだろうからさ」
魔理沙の言っていることにちっとも納得できないのに、わたしはそれを理解りそうになっている。
まるで夢を見ていたみたいだ。
今までに起こったことはたしかにちゃんと憶えている。そのときの気分や感触まで。でも、それを順序だって並べることはできないし、記憶と記憶の間はページの失われた本みたいに飛び飛びで、ぐちゃぐちゃになっている。なにより、そんなことが”現実に”起こり得るはずがないだろう、そんなふうにこのわたし自身が感じてしまっている。
「だから、そんなこと本当はなかったのね。魔理沙も生きてるし、ぜんぜん怪獣じゃない」
こんな何が何だか分からないような気分の中でも、それは安心できることだ。
「ああ。そうだぜ。霊夢は自分の記憶の中にあるものを使って、”これまでのあらすじ”をつくりだした。なんとか自分自身でそれを理解できるように。それにこっち側にあるものも少しは混じっているんだろうな。つまりテレビ番組だな。わたしが怪獣になったっていうのも、ここで霊夢が対峙した何かを霊夢の記憶の中にある”わたし”と怪獣ドラマかなにかのシナリオを借りて、再構築したものなんだろう。まあ、たぶんな」
まるで、夜に夢を見るときに、記憶を分解して並べ替えて、まったく別の夢の物語を作り出すように。
今までそんなふうにしてたくさんの夢を見ていた。
それが夢なら――。
「そのことも忘れてしまうんでしょ?」
「たぶん、いずれはな」
何を言えばいいんだろう。
これまでのあらすじを知っても、言うべきことがわからない。
まだ大切なことを忘れている気がする。
まだ、何か、なにか、魔理沙に言いたかったこと――。
魔理沙は何度か振り返り、ちらちらと時計を見ている。
丸いアナログ時計の中の時刻は、十一時と五十四分。
もうじき午前が終わる……。
「なあ、霊夢、もう時間がないんだぜ。霊夢だってここには長くいられない。わたしも霊夢ともっと話していたかったんだけど」
「ねえ、魔理沙」
「なんだぜ?」
「いや……なんだろう。言いたかったことあって」
「それはなんなんだぜ?」
「わかんない。わかんないのよ」
魔理沙がもういちど時計を見る。
十一時と五十八分。
「そうだ、霊夢。せっかくここまで来てくれんだ。お土産をあげるぜ」
「おみやげ?」
「たいしたものじゃないけどさ。つまり、おまけってやつだな。クレーマーには必ず持って帰らすことになってて」
「魔理沙、ねえ」
「冗談だぜ? ……ああ、だめだな。せっかく霊夢が来てくれたのに今日はうまく話せない。わたし焦ちゃってるんだな。もっと時間があればなあ。そうだ、お土産、おみやげ。わたしたちの側から見た”これまでのあらすじ”と、それに――鬼の子だ。小さいやつだけどね。そっちの世界に行きたがってるんだ。きっと霊夢の役に立つ」
「あ、そうだ、魔理沙……」
「なんだぜ?」
「どうして魔理沙は万物理論なんてものを発明したのかしら?」
「ああ、そのことか。ねえ、霊夢。ここはすべての願いが叶う場所なんだぜ。このテレビ・ショッピングの世界は。単純な魔法でどんな頑固な汚れも落とすことができるし治らない傷はない。すべてがあって、なにひとつ不足するものはない。だからさ――」
「だから?」
そのとき、魔理沙が泣きそうな表情を見せた。
そんな気がした。
「わたしにもわからないんだよ。わたしが何を望んでいたのか。すべての願いが叶うこの場所にたどり着いた今じゃ――」
十二時。
時計の針が動くと同時に、雪が降ってきた。
いや、ちがう、天井が降っているのだ。
白い天井から何かがはがれ落ちてきて、それが雪のように見える。
白色。
音がした。
ざああああ、ざああああああざぁああああああ。
どこかで聞いたことあるような音だった。
あれはなんだっけ――そうだ、そう、テレビの砂嵐の音によく似てる音。
そんなことを考えているうちに天井から落ちてくる白色の量が増えていることに気がつく。
今ではこぶし大の白い塊が天井から降ってきている。
ぼとぼとっぼとぼとっ。
これじゃあまるで雪というより餅が降っているみたいじゃないかとわたしが思うと、耐えきれられなくなったように白色が、ぶるるっ、と震動し、天井ごとわたしのほうに落ちてきた。
ざああああ、ざああああああざぁああああああ。
騒音。
耳を塞ぐ。
その瞬間、白い色が見えた。
天井が割れて落ちてきた、その隙間から。
眩しいほどの太陽の光がいくつもの筋になって降り注ぐ。
こういうのを「天国の階段」と言うんだっけ。
光の下で魔理沙が見えた。
あまりにも強い光でその表情さえ見えない。
まるで天使ねとわたしはぼんやり思う。
天使になった魔理沙、別の世界に羽ばたいて消えてしまう魔理沙。
光の中から声が聞こえてくる。
すべてが曖昧なこの場所で、ざあざあと鳴り響くノイズのなかでそれだけがはっきりと聞こえたのだ。
それは、何度もテレビで聞いたわたしのよく知っているお別れの言葉。
「じゃあな、ばいばーい! スター・ショッピング・チャンネル、またあしただぜ!」
そのとき――やっと思い出せた。
わたし、魔理沙を取り戻したかったんだ。
魔理沙にもういちどわたしの世界に来てほしかった。
また魔理沙と同じ場所で生きてみたかった。
それがわたしがわざわざこんなところまでやってきた理由だったのだ。
でも、今はもう、真っ白の光にあふれて、魔理沙の姿が見えない。
ざああああ、ざああああああざぁああああああ。
頭の中で鳴っているホワイトノイズみたいな音がわたしの記憶を洗い流してしまうような気がした。思い出がノイズによってかき消され、失くなってしまうと思った。
ざあああ、ざあぁああ、ざああああああざぁああああああ。
ざあああ、ざあぁああ、ざああああああざぁああああああ。
雨が降っている。
雨が降っているから、帰れない。
それならわたしはこれからどこに行くのだろうか。
そんなの、もちろん、決まっているのだ。
帰る場所がないのなら、行くべきところはひとつしかない。
それは、新しい世界。
それは、知らない世界。
そこは、幻想も魔法も魔理沙も存在しない世界なんだろう。たぶん。
●Nothing
制作上の遅れより、今週は総集編をお送り致します。
あの子とふたりで怪獣を見に行った夕暮れ、魔理沙の発明した万物理論、テレビの中の防衛作戦、テレビ・ショッピング・スターになった魔理沙が番組のお別れを告げるときの笑顔、『ふたりで鬼退治に行こう』と名付けられた短いビデオ、巨大な鬼の子に乗って怪獣と戦った日のこと……まるで死ぬ直前に見る走馬灯のように流れて。
切れ切れで。
本当のことは、あとからやってきたわたしにはちっともわからない。いつもそんなことばかりだったような気がする。異変が起こって世界が少し変になるから、飛んでいって解決するんだけれど、どうしてそうなったのか、その結果なにがどうなってしまったのかは、いつもほんとはわからないままだった。別にはじめから気にもしていなかったのかもしれないね。どうせ本当のことは知ることができないからと最初から諦めてしまうこととそもそも興味がないことを区別する手段はもう失われてしまっている。すでに博霊の巫女ではなくなってしまったわたしには。異変が起こったら解決する。それだけでよかった。今にしてみれば、それがすべてだった。
でも、大丈夫。
これはテレビの番組だ。
だから、”異変”そのものが失われ、その解決も同時に失われてしまったあとで、どうすればいいのかわからなくなってしまったわたしのためにもちゃんと『これまでのあらすじ』を用意してくれている。
ずいぶん親切ね。
まあ、魔理沙のやつはけっこうおせっかいなところがあるのだ。
だから、それは、とりあえずありがたく受け取っておこう。なんの役に立つのか、今となってはそんなのはちっともわからないけれど――。
『これまでのあらすじ』
あるとき、魔法の森の小さな家で暮らす霧雨魔理沙という女の子が万物理論を発見しました。それはこの世界における全ての問いに対して答えを出すことのできる理論です。怪獣の作り方を問えば、そのまま怪獣の作り方を教えてくれるようなそんな理論。もちろん解法を知ることとそれを実現できるかどうかはまた別の話です。でも、それはひとまず置いておいて――。
万物理論が発見されたことによって様々な変化がありました。たとえば、万物理論の発見によって曖昧な存在――つまり幽霊や妖怪や妖精の類は、全て否定されることになったのです。それはまあ当然のことですね。全てのものに対して唯一解が与えられる世界です。幽霊や妖怪なんていう想像力によって成り立つ生命が存在する余地はどこにもないのです。だから彼らはテレビの向こうの存在ということになりました。フィクション。「この小説に登場する人物や団体はすべて架空のものであり、実在の人物とは関係ありません」というところ。もちろん、そんな存在が集まる土地である幻想郷だってテレビの向こうへと後退することになりました。まるで外の世界で忘れ去られたものが幻想郷という土地に受け入れられるのと似たように。そのせいで”異変”と呼ばれる怪奇現象もなくなり異変解決を生業とする博霊の巫女はお払い箱となったのです。
まあ、このへんが導入部分。
そう来れば、次はもちろん博霊の巫女が再び立ち上がる、ということになりますね。役目を失いアイデンティティを喪失した彼女がどのようにして復活したのか、涙なしでは見れない感動的なシーンもあるので、それはまあ番組の再放送でも見てもらうことにして、最終的に博霊の巫女と一部の妖怪たちはテレビの向こう側へと後退してしまった”幻想郷”という土地を取り返すために万物理論と戦うことになるのです。
万物理論には穴が空いていました。というより、時間が経つにつれて穴が空いてしまったと言うべきかもしれません。つまり、すべての問いに答えを出すことのできる理論なんてものはそもそも架空の理論である、ということで、万物理論そのものがテレビの向こう側へと後退してしまったのです。万物理論が架空の理論になったならその理論によって失われたものも取り戻すことができるかもしれない。秘密裏に作戦が計画されました。万物理論の綻びを使って、万物理論に似たようなものを作り出し、架空の世界へと接続し万物理論そのものをなかったことにする、それは、そんな作戦でした。そういうわけで、対万物理論として生み出されたアンチ万物理論理論を用いて現実と架空の境界面を超えて、万物理論を滅ぼす役目を受け持ったのが我らが幻想郷の守護者たる博霊の巫女。
博麗の巫女は幻想郷を復活させるため、あるいは万物理論とともに架空の世界へと消えてしまった魔理沙を取り戻すために、ひとり万物理論の戦い臨むことになるのです。
しかし、結果的に博霊の巫女は戦いに破れてしまいます。いや、そもそも戦うことすらできなかったとも言えるでしょう。架空の万物理論から生み出されたアンチ万物理論理論も結局のところ架空の理論ですし、現実の境界面を超えて架空の世界に踏み込んだ博霊の巫女の戦いというのも架空の戦いだったのです。もちろん、それは万物理論との戦いに破れてしまったから、そうなったというだけなのですが。ここには万物理論との戦いに破れたという結果だけがあり、すでに破れてしまった今ではその戦いのすべてを架空のものとしてしか語ることができないのです。だからこれは「これまでのあらすじ」です。テレビ番組の総集編でしかないのです。
かくして、すべての幻想は事象の向こう側、つまりテレビの向こう側へと後退し、そして博霊の巫女は幻想のない、幻想郷もない、もう魔理沙のいない世界で暮らすことになりました。
めでたしめでたし。
●O(ni no ko),O(make),O(ut cider)
「ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、霊夢」
「なによもう」
「ねえ、霊夢、霊夢、ねえ、霊夢さあ」
「だから何よ?」
「わたし全然出てこないじゃん!」
「はあ、なにが?」
「霊夢のこれまでのあらすじにわたしぜんぜん出て来てないじゃん!」
ここのところとても忙しい日々が続き、せっかくの久しぶりにゆっくりできる休日なのに、萃香のやつは怪獣みたいぎゃあぎゃあと喚いている。なにがそんなに不満なのかわたしにはちっともわからん。ああ、一日中テレビでも見ながらのんびり過ごしたかったのに――。
「なにがよ?」
「ほら、あれさっきテレビでやってたの、あれ霊夢の”これまでのあらすじ”だろ。一回もわたしの名前出てこなかった……」
「え? 出てきた気するけど」
「出てないよ!」
「あれ? じゃあ、わたし萃香のことばっか考えてたから、そんな気がしたのね。めでたしめでたし」
「そ……そう? いや、そんなんじゃごまかされないから!」
「ちょっとごまかされてるじゃん」
アパートでテレビを見ていた。
わたしは床の上にごろんと仰向けになった。そろそろ炬燵をしまわなきゃなあ。さっきの番組はもう終わって、今は怪獣の番組がやってる。毎週、怪獣が出てきてどうこうという子供向けのやつだ。ほら、あんたの好きな番組はじまったわ、って指差しても萃香は三角の目でわたしを上から見下ろしてまださっきの番組について喋っている。
「ずっと思ってた。霊夢はわたしのことなんかどうでもいいんだ」
「そんなことないって」
「さっきのが良い証拠だよ。わたしのことなんかちょっとも出てこない。魔理沙の名前はあんなに出てくるのに……」
「テレビの話じゃない。フィクションよ」
「でも、霊夢の”これまでのあらすじ”だよ」
「テレビ向けに再編集されたやつね。あ、きっと萃香はテレビ向きじゃないのね。こんな小さなことに拘泥してたら一話でお話ぜんぜん進まないもの」
「魔理沙はテレビ向きなのかよう」
「そうなんじゃない。知らないけど」
ま、目立ちたがり屋で、いろんなびっくり箱をもってるあいつはテレビ向きでしょうね。
「それに、あんた、物語の本筋に関わってないもの」
「でも、でも、霊夢言ってくれたじゃん。萃香とふたりで鬼退治に行ったって。わたしのこと待ってたって」
「あのテレビの説明によると、それはわたしに起きたことをわたしの記憶の中にあるもので再編集したものなんだってさ。単にそういう役よ。ちょうど萃香がぴったりだったんでしょう。役者が登場人物を演じるのとおんなじ。ほんとにその人ってことじゃない」
「じゃあやっぱりわたしじゃないんじゃん!」
「そうよ。でも逆にいいじゃない。もし出てきたってテレビの中ってことだもの。ほんとのことじゃない」
「嘘の世界でもいいから霊夢と一緒にいたかった」
「わたしはそんなのいやよ」
「ほら、わたしと一緒にいるのが嫌なんだ」
「ばかなの?」
「出てく」
「いってらしゃい。夕飯までには帰ってね」
「ちがうよ。出ていって、もう帰らないんだ」
「はあ。出ていきなさいよ」
「とめないんだ? 魔理沙のときは、魔理沙を取り戻すためにあんなに何度も戦ってたっていうのに」
「はあ、戦ってほしいわけ?」
「そうだよ」
「でも、テレビの中じゃ、わたし負けちゃったわ。それで魔理沙とは別の世界で暮らすことになるのよ。そうなるとしても萃香はわたしに戦ってほしいの?」
「うん、そう」
わたしは身体を起こして、炬燵の上のグラスを掴む。出ていこうとする萃香を呼び止める。
ねえ、萃香。
萃香が振り向いた。わたしはその中の液体を萃香にかける。
「ばか」
温くなったサイダー。
それが、萃香を浸して。
「う、うわっ。な、なにするんだよう。霊夢のあほ。びしょ濡れだ、べたべたするぅ……」
「ほら、はやく出ていけば?」
「な、なにいってんの。むりだよ。こんなにべたべたじゃ、きもちわるくって」
「じゃあ、ずっとここにいなさい」
わたしはテレビを見る。テレビでは怪獣が歩いている。午後の陽。海の上だ。光線を吐く。水面をまっすぐ切り裂いて町を分かつ。海面がぱちぱちと泡立っている。わたしは立ち上がり、れいむいったいなんだようどうしてくれるんだようと喚く萃香のところまで歩いて。
その首筋を舌で撫でた。
「ひゃ……れ、れいむぅ」
「ほら、じっとしなさいよ。綺麗にしてあげるから」
「ば、ばかぁ。やめろよう」
首筋から上へ、舌を這わせて、やがて口の端に触れた。少し寄せて……。混ざる。
「ん……甘い」
「はぁ……んぅ」
「きれいにしてあげるから。わたしたちの思い出を、出会いを、生活を、この舌ですべて溶かしてなかったことにしてあげるから。そしたらでていきなさいよ」
「ねえ、れいむ……」
「……なに?」
「ゆうごはんまでにはかえる」
「うん……」
萃香はサイダーの味がした。
しゅわしゅわと泡立って、ぱちん、と弾けた。
萃香に舌で触れるたび、少しずつ忘れていく。
記憶が溶けていく。
真昼の光。
テレビの向こうで、戦闘機が飛んでいる。
ぶぅうううんぶぅうううんと鳴っている。
その音が遠くなっていく。
やがてサイダーの味も消えてしまう。
わたしは新しい世界に馴染んでいく。
新しい世界は、萃香の少し甘い味がした。
●PM 5:50
もう誰かの願いが叶う場所はテレビのショッピング・チャンネルにしか存在しない。
そこではあらゆる願いが叶う。
落とせない汚れは存在しないし、運動も節制もしないで痩せることができる。
ちょっとお金を払えば、種族も立場も関係なく、きっと妖怪にだって、その魔法のような商品を手に入れることができる。
限定数量、電話が混み合っています、なくなってしまうまであと少しです。でも、大丈夫。ぜんぜんなくらない。電話だっていつもちゃんと繋がる。
いや、いや、すごいですねえ。でも肝心のお値段のほうは……はあはあ。お安いですねえ。でも、でもですよ、いや今回に関してはかなり身を切っていらっしゃる今回だけのスペシャルプラスだってことはわかってるんですが、やっぱりテレビの前のお客様のためには聞かざるを得ない、まあ儀式みたいなものなんですからあんまり気を悪くしないでくださいね、まさかまさかですか、ここからお安くなったりはしないですよねえ?
そんな願いもちゃんと叶う。
十本セット、プラス二本のおまけつきで。
あらゆる願いの叶う場所。
この世界に、そこにだけは唯一魔法が現存する。
魔法があるなら、魔法使いだっているだろう。
そういうわけで魔理沙は魔法使いだった。この世界においても未だ滅びず秘匿された一族から一族へと脈々と受け継がれてきた魔法。そんな魔法を盗んできた泥棒の魔法使い。
まあ、もちろん、そういう設定だ。
だから、いつも魔理沙がいちばん最後にやって来る。きらびやかなパーティーが終わったあとではじめて泥棒がそこに現れるように。黒い三角帽子にスカートに箒。魔理沙は典型的な魔法使いの格好をしていた。あんまり典型的すぎて逆にニセモノみたいだ。まるで本当は魔法使いじゃないから、せめて格好だけでもそう主張しているかのように。そして魔理沙は魔法を見せてくれる。盗んだ魔法。ま、本人曰く借りてるだけだから、道義的にもスポンサー的にも問題はないのだろう。
霧雨魔理沙の今日の魔法。
それはスター・テレビ・ショッピングの、わたしたちみんなの大好きなコーナーだった。スター・ショッピング・チャンネルというテレビショッピングの中のひとコーナー。このコーナーの中ではスター・ショッピングの名物ショッパーである魔理沙が魔法使いに扮して登場し、借りてきた魔法という体で毎日ひとつの商品を紹介していく。こんな馬鹿らしいコーナーがどんな経緯でつくられて放送され続けているのかはひとつの謎である。番組のメインターゲットである主婦層はこんな茶番には興味はないだろうし、案外魔理沙自身の趣味だったりするかしら。あるいは妥当なところでかわいい魔理沙を目当てにこの番組を見ている男性視聴者向けのコーナーだとか。どこか子供っぽくて陽気な魔理沙はけっこうおばあちゃんおじいちゃん方に人気があるというような話もあって――。ま、そんなことどうでもいいか。地域限定のケーブルテレビ局の番組だからわりとなんでもありだ。
わたしがこのコーナーが好きなのはただ単に馬鹿らしいからだった。ひたすらに馬鹿らしくて意味がなくて何も考えずに見ることができる。そもそも、わたしは魔理沙のファンだけれど、別に単に魔理沙がかわいいから魔理沙が好きなのではない。それよりもっと魔理沙の深い部分を見ている。軽薄そうに見えてとても努力家なところとか、それをちっとも態度には見せないところとか、あまりにこうありたいという自分に対して真っ直ぐでちょっと危うい部分まで。はじめて出演してた頃は台詞を言うのに精一杯だったことも知ってる。生放送の途中の大きなミスをして半泣きで商品紹介していた魔理沙を見ている。いま魔法使いのコスプレをしてすらすらと商品する魔理沙を見ると立派になったなあとちょっと寂しくなってしまうくらいだった。わたしは、ずっとこの番組ばかりをよく見ていたから、なんだか今は魔理沙が昔なじみの友達のようにさえ感じる。わたしだけじゃないこの町の多くの人々はそんなふうに思っている。そういう話をすると、遠い場所で生まれた萃香は、きもちわる、って顔をしかめるのだ。
「いや、怖いから。ガチじゃん。顔がかわいいから見てるとかの方がずっといいよ。性格がどうこうってああいうのってキャラクターでしょ。テレビ向けの。裏じゃちがうって。今じゃこどもだって知ってる。いや、むしろそういう嘘にはこどものほうが敏感だね」
「萃香もこどもみたいだからよくわかるのかしら?」
「はー?」
「言いたいことはわかるわよ。でも魔理沙はちがうの。だってずっと見てるからちゃんとわかるんだ。全自動食器洗機つき洗濯機の回を見たことないの? あのときの魔理沙の涙は演技じゃないほんとのだったし。どんな小さなコーナーで魔理沙ってなんでも一生懸命だからさ、きっとうまくできない自分が許せなかったのね。でも成長したわ。今じゃいちばんのショッパーだもの」
「うわぁ……」
「感動した?」
「ひいてんの、ばか! ねえさあ……霊夢とーきょー行ったことある?」
「東京? ないけど」
「一生行かないほうがいいよ」
「なんでよ」
「知ってる? 絵とか売りつけられんの。かわいいおねーさんが話しかけてきて、なんかいかにも気があるって感じでね、で、で、話を聞いてるといつの間にか高い絵をかわされちゃうわけよ。霊夢ぜったい買っちゃうね。あほだもん」
「そんなの買うわけないじゃない。」
「でも魔理沙がすすめてきたら?」
「……買うかも」
「うわあ」
でも、最近ではスター・ショッピングでものを買うことも減った。
昔はそれを見て気に入った商品を買うくらいが人生の数少ない楽しみだったけれど、いつか怒った萃香が家の電話線を全部はさみでちょん切って、携帯電話をめちゃめちゃに壊してしまったからだ。仕事で支給された携帯まで壊してきたからとても大変だった。それ以来わたしは余計な買い物を控えるようにしている。休日のワイドショーでやってたこんな相手とは結婚しないほうがいいランキングの二番目は、趣味を理解してくれないこと。一番は忘れてしまった。でも、萃香のことはどうしても嫌いになれない。どうせ結婚はできないしなあ。
膝の上に萃香を乗せると少しだけおとなしくなる。
「霊夢が魔理沙贔屓なのは別にいいよ。魔理沙が勧めた商品を買ったりするのも……。でもさあ、わたしのおすすめする映画とかって絶対見てくれないじゃん霊夢」
「萃香のすすめる映画とかっていつも怪獣とか宇宙人が出てきてどうこうってやつでしょ。つまんないもの。ああいうのって子どもで卒業しなきゃ。あ、でも萃香はいつまでも子どもだもんね。働かないし」
「働く働くよう……。でもやっぱ霊夢は働いてるから魔理沙のこと好きなの? うん、って言うならわたし働く……」
「そうじゃないわよ」
「じゃあ働かない」
「あんたねえ……ばか」
後ろから首に手を回して締める真似をすると、うそうそうそはたらくはたらくおとといめんせついったしおちたけど、とか萃香は喚いている。そろそろ六時だ。番組が終わる。テレビの向こうで魔理沙はお決まりのお別れを言っていた。
『ばいばーい! スター・ショッピング・チャンネル、またあした!』
萃香がぽつりと呟いた。
「うるさい。もう、一生出てくんなよ」
いや、テレビの中の女の子に嫉妬できちゃう萃香のほうがずっとガチじゃん。
それじゃあ今日くらいあんたの好きな映画見ましょうよ。明日は休みだもん。ほら、そんなふうに拗ねるのもうやめて撮りためたスター・ウォーズのビデオ見ながら(もちろん新三部作もだよ、ねえ、ねえ?)ふたりで楽しいことをするのよ。
萃香はすっかり上機嫌だ。不思議な女の子で、底知れずどこか達観したところがあるのに妙に子供っぽいところがかわいいから嫌いになれないのかもしれない。ご飯を作ると萃香が言うので、コンビニでお酒でも買ってきてあげようかなと思ってわたしは家を出た。
時刻は六時過ぎ。
外は遅い夕暮れ。
真っ赤なキャンパスの端っこにインクを落としたみたいに紫色が滲んでいる。夕日は沈みかけていた。コンビニは少し遠い場所にある。不思議な町だと思う。田舎町というには都会に近すぎるけれど、そこから波のように伝って広がるはずの現代性からは零れ落ちている。たとえばコンビニエンスストア。セブンとかファミマとか、向こうやテレビで見かけるようなやつはここには見当たらなくて、独自のやつがぽつんぽつんと数軒だけ存在する。この町の人々はみんな魔理沙の出てくるあのローカルなショッピング・チャンネルが好きだから、そこでたいていのものを買う。生活用品や簡単な食糧だってそうだ。その意味じゃこの町にはまだ魔法が息づいている。あのテレビの中にしか存在しない古い魔法が。
だからコンビニエンスストアにも魔法が並んでいる。魔法使いと提携しているのだ。スター・ショッピング・チャンネルと。魔理沙がよく紹介してる霧雨印のミネラルウォーターやお菓子。なんとお酒まである。でも、また萃香が拗ねるかなあとか思って、普通の安いビールを三本と甘いチューハイをひとつ、それと萃香の好きなスナック菓子を二種類買った。
コンビニを出たところで誰かがチラシを配っていた。らくえん、らくえん、らくえんはもうすぐそばまでせまっています、あなたがたはあたらしいせかいにむかうけんりがあります、などと喋っている。新しい世界ね。そんな知らない場所で暮らすのはきっと大変だろうとぼんやり思った。そんなことを考えていたせいだろう、もらうつもりもなかったのに、気がついたらチラシを手の中に押し込まれていた。
ザナドゥ。
それが楽園の名前だった。チラシにはそう書いてある。そこはあらゆる願いの叶う場所なのです、とお決まりのような文句つき。でも、なにかの勧誘とかではないようで、特に何々に入れとかここにやって来いとかの案内はなく、「やがてそこに案内する方法を我々は貴方に伝えることになるでしょう。そのための準備をしておいてください」とだけ記載してある。目的のわからないぶんかえって気味が悪い。でも、一笑に付すこともできなかった。なんたって、あの魔理沙も同じようなことを言っていたのだ。テレビの中で。魔法使いの格好をしてた。
「ここで、スター・ショッピング・チャンネルからのお知らせ! いずれみんなにすごいものを紹介できると思うぜ。それは特別な場所に関することなんだ。そう、そう、実をいえばわたしもそこで育ったんだぜ。楽しくてきっと飽きることのない場所だ。本物の魔法だってある。いまはこれだけしか言えないんだけど、いつかみんなに会えるのを楽しみしてるぜ。またな!」
魔理沙は笑った。こういうとき、ずいぶんうまく笑えるようになったと思う。昔は笑顔もぎこちなかったのに。まるでテレビの向こうの大女優みたいだね。まあ、最初からテレビの向こうの人間なんだけどさ。なんだか魔理沙は少し遠いところに行ってしまったようだ。そんなふうに思うのは最近わたしがスター・ショッピングを利用しなくなりつつあるだろうか。
楽園――。もしも、これ以上、魔理沙が遠いところに行ってしまったら、見えなくなってしまうような気がした。
帰り道の途中に電波塔がある。
テレビの電波塔ではないと思う。
このへんは磁場の影響かなんだか知らないが電波の調子が悪く、だからケーブルテレビなんてものをわざわざひいているのだけれど、だからこれは携帯電話の基地局かなんかだろうか。不明な電波塔だからか、自殺の名所になってるとか鬼やら妖怪やら幽霊やら出るみたいなローカルな怪談もあって――。だからといって普段は別に気にもとめない電波塔。
でも、今日は、少しちがった。
そのてっぺんに、誰かいる。
夕焼けの下で黒い影になっている。
子供のような小さなシルエット。
幽霊? まさかね。
どうせそのへんの子どもが遊びで上ったりしているのだろう。降りられなくなっちゃったってことはないだろうが、自殺者志願者とかだったりやだし、まあ説教でもしてやろうと思って登ると、電波塔のてっぺんには少女がいた。
幽霊みたいに白い肌。
夕日の下できらきらと輝く金色の髪。
振り返った、その目が、夕焼けを映してとても真っ赤な赤色で――。
少女は笑って言った。
「ねえ、霊夢、楽しいことは見つかった?」
困惑を浮かべてただ見つめるしかないわたしを見て、くすくすと笑いながら少女は続ける。
「久しぶりね。いつぶり? なんだかすごく時間が経ったみたい。待ちくたびれちゃったわ。霊夢ぜんぜん来てくれないだもん。ずっと待ってたのに」
「あんたわたしを知ってるの?」
「もちろん。二回も会ったよ。この前はここで会ったでしょ。もう一回は……たぶん前。わたしが引きこもってた頃かなあ……霊夢がぜんぜん来てくれないからもう忘れちゃったわ」
「わたし……知らないわ」
「え、忘れちゃったの…………。ひど。」「まーでもしょうがないか。わたしもちょっと忘れちゃったもの」
まあ座ってよと少女が言うから、わたしは座る。電波塔の上。そこから町のすべてが見下ろせる。小さな町だ。夕日で赤色に染まったせいだろうか、まるで巨大な手術痕が残っているように思う。古くなった町に無理やり押し込むような形で計画分譲された新しい家並みを足して、移民たちによって二次発展した町。その子どもたちの半分がやがて都市に出ていまは少し寂しくなり、新しい町並みも古い町並みがそうしてきたように年をとっていく。
たしかにこの前もこんなふうにして電波塔の上に座って町を見下ろしていた気がする。そんなふうに思うのは少女が前にもここで出会ったなんて言うからかもしれない。そのときわたしは何をしていたんだろう。そんなこと考えてもわかるはずはないのだ。それなのにひどく懐かしいような気分がする。存在しない記憶に対するノスタルジー。それがない、ということだけが、いつもただ物悲しい。
名前を聞いたら、フランドール、と言う。
少女の名前だ。やっぱり知らない名前、記憶の中にもどこにも繋がらない短い音。
「やっぱりわたしあんなのことなんか知らないわ」
「もういいって。そんなに何度も知らないとか言われると寂しいもの」
生ぬるい風が吹いていた。
そうだ、病気、とフランドールは言う。
「どお? 霊夢、病気はどう? 少しはよくなった?」
「病気?」
「うんうん。この前会ったときは霊夢、病気だったじゃん」
「そうだったの? やっぱりそれも忘れちゃったわ」
「まあ……でも、それはいい解決法よね。冴えてる……。病気ならそれを忘れちゃえばいいのよ。そしたら元気になる!」
やっぱりこの子が言う”霊夢”というのは、わたしじゃない別の誰かのことなのだ。それがわたしにあんまりよく似ているからきっと間違えてしまっているんだろう。フランドールがここでずっと待っていた霊夢のこと。こんなに待ってても来ないなら彼女はもうやって来ないかもしれない。幼いこの子にそのことを言うのは酷だろうか、知る権利ならあるだろうが……言ってもわからないかもしれない。それを同じだと証明することくらい、それが別種のものだということを明らかにするのは難しい。状況がわたしを霊夢に変えてしまう。わたしも知らない霊夢に。
「フランはずっとここにいたの?」
「うん」
「ご飯とかはどうしてるの?」
「食べないよ。食べなくてもへーきだもん」
「別のところに行ってみればよかったのに」
「でも、ここになら楽しいことがあるって魔理沙が言ってた」
「楽しいことはあった?」
「どーかな」
それに、それはわたしの聞きたいことだよとフランドールは言う。どうやら、少女の話では、わたしは彼女に楽しいことを見つけてあげると約束していたらしい。
「最近、霊夢は何してる?」
「なんもしてないわ。休みの日は、一日中テレビを見たり、そんな感じ」
「やっぱテレビかよう……」
でも、それは仕方ないことだ。この娯楽の乏しい寂れた町の人たちは皆、それをいちばん楽しみにしてるんだから。
「あ、でも、今夜は映画を見るつもり」
「映画?」
「映画を知らないの?」
「うん。映画、なに?」
「まあ、テレビのドラマみたいなものね。その大きい版って感じ。画面もこんなに大きくて、音もすごいし、一回のお話も長い」
「へえ。大きいのはいいな。好きだよ」
「まあ、今日は映画館に行くわけじゃないからテレビで映画を見るんだけど」
「なにそれ。やっぱテレビなんじゃん」
「見に来る?」
ふいに口をついて出た言葉に自分で驚く。不思議な子だったからついつい忘れていたが、よく考えるとこんな小さな女の子を家まで連れて行くというのはよくないような気がする。というか、まずいだろう。
「行く行く」
「やっぱ、だめ」
「えーなんで」
「お家に帰りなさいよ」
「家とかないよ。置いてきたの。もう帰れないもん」
「家出中?」
「そういうんじゃないよ。さよならしたの。寂しかったけどね。でも……もうあんまり思い出せないな」
「家に電話してあげる」
「電話なんかない」
「警察に電話してもいい?」
「そしたら霊夢に襲われそうになったって言う」
「ばか言わないの。おうちの人も心配してるわ」
「だから、もういないんだって。最初からいないことになるんだって。魔理沙が言ってたもん」
「魔理沙のやつ余計なことばかり言うのね」
「それにわたし霊夢が思うほど……子どもじゃない」
子どもはみんなそう言うのよ、わたしが諭しても、霊夢はわかってないわかってないから……わかってないのはフランドールのほうじゃん。
携帯電話を取り出して警察に電話をかけようとするとフランドールはそれを奪って電波塔の上から落っことした。
自分で落としたくせにフランドールは呟くのだった。
「あーあ」
わたしの周りの人はみんなわたしの携帯電話を壊してしまう。
こうなるとどうしようもないので、時間も遅いし、しょうがないからとりあえず家まで連れて行くことにした。
まったく萃香になんて説明すればいいのだろう。
空はすっかり紫色。夜に染まり始めている。
家にトマトジュースある?とフランドールが聞くので、理由を聞くと、好きなんだと言った。
「トマトジュースが?」
「赤色が。わたし赤色だけを食べるし飲むよ。甘い味がするもの」
共感覚ってやつだろうか。そういう人はいるという。色に味を感じたりする。トマトジュースは赤いから甘く思うのに、実際の味は苦いというのはどういうふうに感じるものなんだろうと気になって聞いたら、赤いものは甘いじゃんの一点張りだった。わたしはどうでもよくなりつつある。
「じゃあ、夜はどんな味がするの?」
「あはは、なにそれー。夜に味があるわけないじゃーん」
もう夜がやって来る。
ずいぶん帰るのが遅くなってしまったな。携帯も繋がらなくなっちゃったし萃香は心配しているだろうか。急にこんな少女なんて連れ帰ったらきっと怒るにちがいない。さすがに嫉妬はしないでしょう。霊夢は子供っぽいのが好きなんだねって嫌味は言うかもしれないね。そういえば、萃香とはじめて会ったときも、こんなふうだった気がする。萃香はわたしの前に突然現れてそのまま家に転がりこんできた。わたしは萃香の過去や来歴について、今もよく知らない。
この町のわたしのあのアパートの部屋には、そんなぽっと出の幽霊みたいな妖怪みたいな人間ばかりが集まってしまう。
この町は未だに古い魔法が生き延び続けるそんな町だ。
●Q.A
「ねえ、霊夢……?」
「うん」
「もう寝た?」
「ううん」
「怖いんだ?」
「なにが」
「さっきの映画」
「どうしてよ」
「怖いから寝れないんでしょ?」
「しょうもない映画だったじゃない。よくあるやつね。大きな音と急な視点移動で驚かせるタイプのホラーよ。そもそもジャンルが不明なのよ。最初は幽霊なのかと思ったら、途中化け物みたいなの出てきたし、で、最後はほんとに怖いのは人間でした、って、しょうもない……」
「でも、怖かったんでしょ?」
「なんで」
「そうやってホラー映画についていっぱい喋るのっていかにもほんとは怖いです、って感じだもん」
「じゃあ、しょうもないホラー映画についてなんて言えばいいわけ」
「それについて言う言葉は失われちゃったんだよ。古い魔法の呪文みたいにさ」
「はあ」
「ねえ?」
「なに」
「ねえ、霊夢?」
「なによもう」
「眠れないよ」
「もしかして、萃香、怖いわけ?」
「うん。じつはそう」
「ばか」
「そっちに行ってもいい?」
「やだ」
「ぎゅ……れいむあったかい」
「まったくさ、わたしがなんて答えてもどうせそうするんだから、聞かなきゃいいのに」
「心臓の音がする、ゆっくりだ……霊夢は怖くないの?」
「あたりまえじゃない」
「わたし幽霊が怖いんだ。昔は大丈夫だったのに。いつからか怖くてたまらなくなった」
「どんどん子どもになってんのよ。お酒ばっか飲んでるからのうみそが溶けちゃったのね」
「えへへ、そうかも……。あ、外……。雨が降ってる?」
「そうかしら」
「降ってるよ、音がするもん。かすかに聞こえてくる……。ぽつ、ぽつ、ぽつ、って。聞こえない?」
「聞こえないわ」
「ねえ、霊夢、はじめて会った日のこと憶えてる?」
「なんとなくね」
「雨が降ってたよね?」
「そうだっけ?」
「忘れちゃってるじゃん。ひどい……」
「あの頃はいろんなことがあって忙しかったから思い出が曖昧なのよ」
「大切なことは忘れないよ?」
「じゃあ大切じゃなかったんでしょう」
「霊夢はわたしのことなんかどうでもいいから?」
「ばか。ちがうって。はじめて会った日に雨が降ってたかどうかなんてどうだっていいでしょ」
「霊夢ってわたしのことほんとに好きなの?」
「きらい」
「じゃあ、ぎゅって返さないでよう……。わたしわからなくなっちゃうから」
「ふふ。萃香なんてわからなくなっちゃえばいいのよ」
「なあ、なあ、なあ、こういうのってたまるからな。今はいいけど、いつかもっと時間が経ってさ、なんかちょっとしたことですれちがったときとかにさ、そういえば、霊夢わたしのこと好きとか一度も言ってくれなかったとか思って、きっと昔みたいに思えなくなる」
「それっていつの話よ」
「数年後とかさ」
「未来のことなんかわたし考えられないもん」
「どうして?」
「わたし、むかしのこともちゃんと憶えてないのよ。まるで思い出したくないみたいに、思い出はなぜかみんな朧げで、雨が降ってるみたいに、霞んで見える。昨日は雨だった、一昨日は雨だった、明日も雨が降るでしょう。だから未来のことは見えないわ」
「怖いの?」
「べつに怖くはないけど」
「怖い人はみんなそう言う」
「わたしもうあんたの前じゃ何も言えないじゃん」
「わたしは怖いよ。ときどき自分がゆーれいみたいに思えるときがあるんだよ。わたしはほんとのわたしじゃなくて、ほんとのわたしは別のどこかにいて、まるでおまけみたいにわたしは生きていて、でもおまけだからいつか簡単になくなっちゃう。だから幽霊が怖いっていうのはどう?」
「どう……。どうって……知らない」
「なんか言ってよう」
「じゃあ、あんたが幽霊ならすごいの見せて」
「すごいの?」
「飛んだり消えたり首をなくしたり」
「そしたら?」
「わたし安心して眠れるな」
「どうして?」
「だってそんなの、もう夢の中だもん」
●Rainy Day
そうだ、雨の日だった。
まるで捨て猫のようにうずくまっていた。
雨に濡れてくしゃくしゃだった。
傘に入れてあげると、傘の下でわたしのことを見ていた。
部屋に入れてあげて冷凍のスパゲッティをつくって食べさせるとがつがつと一心不乱に食べていた。
この部屋ペット禁止なのになあ、そのとき、わたしが考えていたのはそんなことだった。
そんなふうにして萃香に出会った。
昔から知っている気がしていた。
夢の中で出会ったような気がしてた。
たとえば、ここじゃない世界とかでね。
同情心だったんだろうか、単に寂しかっただけかもね。そのまま萃香とふたりで暮らした。お酒が好きな女の子だった。
働きもせず、人の金でお酒ばかり飲んでいた。
新しく買ったレインコートの三回目の耐水性実験にわたしたちは海に行った。海に行きたいと言ったのは萃香だったのかわたしだったのか、わたしたちはふたりとも海を見たことがなかった。
その日はあにいくの雨だった。
それはちょっと不思議な言い回しだ。わたしたちは新しいレインコートの雨にどれほど通用するのかを確かめるためにわざわざこんなところまで出かけたのにあいにくの雨だなんて。でもせっかく海に行くんだったら、晴れた日がよかったな。
雨はわたしたちを強襲し、レインコートの上でぱちぱちと火花のような音をたてた。
砂浜の上に萃香と並んで座った。
赤いおそろいのレインコートだ。
雨の降る海にはわたしたちの他に人はおらず、貸し切りだね、って萃香は言った。海を貸し切れるなら雨も悪くない。そんなふうにわたしたちは自らを納得させたのだろうか。そもそも冬の終わりか春口の季節だった。人なんかいるわけもなかった。その頃のわたしたちは何をするのにもお互いに理由や納得のような物が必要な時期だった。海に行くのにさえレインコートのお試しという理由づけをしなければならなかった。そんなふうなか細い曖昧な関係だった。
海は海だ。
はじめて海を見たのに、わたしが思ったのはそんなことだった。お話や伝聞で聞いて想像したとおりの海。波は打ち寄せる。砂浜は削られる。海は広い。広くて、悠遠だった。ただ、こうして降る雨だけがわたしの知らない海だった。波打ち際に波紋、遠い海に波紋。すぐに消えてしまう。遠いところは雨に霞がかってぼんやりとしか見えない。埠頭の曖昧な光。船が見えたらよかったのになあ。
ねえ、どう。どう。海はどう。
得られなかった感動を萃香に託してそんなふうに聞いたら、海。
海、と萃香は言う。
「海は海だね。話に聞いたとおりだったよ」
「なにそれ。もっとなんかないわけ。せっかく連れてきてあげたんだから」
「しょうがないじゃん。みんな海のことを言い過ぎるんだよ。本や映画や歌にはいつも海のことが出てくる。みんな海を言う。脚色された海が綺麗すぎて本物の海に感じれなくなってるんだよ。つまり、これは、海不感症と言うべきやつだね。現代病だ、げんだいびょー。わたしは病気なんだよ。海について特に言えなくてもしょうがないもん」
「御託はいいから。海についての感動的な感想を言いなさい。そうじゃなきゃ、そのレインコート引っ剥がして、ここにおいてくわよ」
「え、あ、待ってよ。広い!青い!揺れてる! なんか生命の神秘を感じるよ。海を目の当たりにすると自分がちっぽけに感じるよ。透明になるんだ。あー……自分がまるで水……そうだ人は水でできてるだろ、塩水で、だから海なんだ、わたしが海の一部だって思う、地球の一部だって思う、自然を大切にしようとおもう、ポイ捨てとかやめるし」
「いいわね、いいじゃん。あとは?」
「雨がうざいね」
「そうねえ」
「もっと晴れた日に来たかったな。そしたらもっとよかったかも」
「うん」
波は寄せては返す。
波は寄せては返す、と話に聞いていた通りに。
赤いレインコートは中まで雨を通さない。とてもいいやつなのだ。テレビ・ショッピングで買ったやつ。一着買ったら、今ならもうひとつだったから、萃香とおそろい。
海のない場所で育った、と萃香は言う。
「昔のことはあんまり憶えてないんだ。ほんとだよ。どこに深い穴のなかに捨ててきちゃったのかも。ゴミを捨てるみたいにさ。でも海のない場所だった」
わたしも似たようなものよ、言おうかな、やっぱやめようかな……言わなかった。昔のことはあんまりよく思い出せない。なんだか雨が降ってるみたいだ。それはまるでテレビの古いビデオ録画を見るみたいに近いはずなのに遠くて、映像飛びして、しかもノイズがかかっている。
「信じてくれないかもしれないけど、霊夢のことを前から知ってた気がする。霊夢はかっこうよかったんだ。いろんな恐ろしい力を持った生き物と戦ってた」
「ああ、そう」
「霊夢のこと出会う前から好きだったんだ。霊夢は強くて何を言われてもなびかなくて怪獣みたいだった」
「あんた怪獣好きねえ」
わたしはもちろん呆れてみせるのだ。
なのに萃香はあっけからんと嬉しそうに笑うのだ。
「うん。好きだよ」
「はいはい」
「霊夢のそばにいるといろんなおもしろいことがあって退屈しなかったな。楽しかったんだ」
「今は?」
「楽しいよ」
「うそつき」
ほんとだもんと萃香は拗ねる。その頃のわたしたちにはすべてに理由が必要だった。ある日ふと出会い、なんの積み重ねもなくだらだらと一緒に暮らしていたわたしたちには。だから萃香はわたしを愛する理由をつくりだし、わたしは呆れながらそれを信じた。それが突拍子もないところから出てきた空想なんだとしても。
ねえ、証、明するよ。
とつぜん、そう呟いて萃香はわたしに触れた。かしゃ、とふたりのレインコートが擦れる音がした。無機質な音だ。ざらざらしていた。指。触れて、レインコートの内側がわたしの肌を撫でる。かしゃ、かしゃかしゃかしゃかしゃ。死にかけの羽虫の羽ばたきのような。
「やめなさいよ、ばか」
「霊夢のこと愛してるんだ。どうしたらわかってもらえるんだろう……わたし」
「んん……だからって」
「ふふ。ああ、霊夢怖いんだ。かわいい」
「こわ、こわいとかじゃ……」
「えへへ、れいむかわいいかわいい」
「てかあんたがいちばん怖いし……」
「トラウマとかあるの?」
「ばか言わないでよ」
「あるならわたしが治してあげたい……。霊夢が怖がる全部のことをわたしが楽しい思い出に変えてあげたいな」
「へ、へんなこと言わないでよ」
「怖がらないで。わたしの知ってる霊夢はなにひとつ恐れなかったよ」
「じゃあ……わたし……我慢するけど」
「じ、冗談だよ! ばか!」
我慢するとか言わないでよ、わたし霊夢を傷つけたいわけじゃないもん、萃香は小さく丸くなってレインコートのフードの下から恐る恐るわたしを見た。
波の音が聞こえていた。
「ごめんね」
「ううん」
「怒ってる?」
「怒ってないわ」
「怒ってるよ」
「なんで? 怒ってないって!」
「ほら、怒ってるじゃん」
それは萃香が何度も怒ってるとか聞くからじゃんとか思い、言うと、萃香はよけいにしょぼくれてしまう。しかたないから後ろから手を回して身体を抱いた。それほど大きくないわたしでも簡単に包み込めてしまう小さなやわらかい身体だ。やっぱちっちゃいから怪獣とかに憧れんのかな。考えて少し笑った。
べつにセックスくらいすればよかったな。
でもその頃のわたしたちは何をするのにも理由が必要だった。理由がなければ、萃香は消えてしまう気がしていた。出会ったときと同じように、とつぜんにいなくなってしまうように感じていた。
だから、やっぱり――。
萃香の手を引いて、わたしは歩き出す。
砂浜を離れて、ぼんやりと光る町の明かりの方へ。
振り返って見た、海はやっぱり海だった。
この世界にあるすべてのものに対してその与えられた名前以外に、何か言うべきことがあるんだろうか。もしも、あるなら、それはその与えられた名前のほうが間違っているということじゃないか。それはある。その名前の通りにそこに存在し、佇んでいる。それ以上のものは(少なくともわたしは)何もいらない。
だから、わたしはそれだけを呼ぶ。
すいか、すいか、すいか、とまるで夏の日のように萃香の名前だけをうわごとのように繰り返していた。汗の匂いがする。ほんの少しだけ鉄の匂いが混じっている。じくじくと疼くものがある。やわい肉の感触がある。わたしの腕の中で脈打っている。
幻想郷。
そういう名前だった。間違った類の与えられ方をしたものだとわたしは思う。
海のそばには無数のネオンの光があった。雨の中でぼんやりとピンク色に広がっていた。わたしたちはそのうちのひとつの光を選んで侵入した。幻想郷。そういう名前のホテルだった。どんな町にでもあるような小さなホテルだった。こういう建物はどれもひどく派手できらびやかな装いで楽園の名を冠しているような気がする。誰もを受け入れてくれる楽園だ。海沿いのあの町にはそんな建物がひしめきあっている。まるで数多の生物が異性の気を引くために種ごとに独自の進化を遂げるように、それぞれの楽園がちがった過剰な装いを見せている。でもそれはやっぱり間違った名前の与えられ方だと思う。それは数多の幻想が集う場所なんかではなくて、シンプルな衝動を形にするための場所だったから。そして、そういう場所がわたしたちには必要だった。それは単なる気分だろうか、わたしはむかしここではないどこか別の場所で育ち生きていたような気がするけれど、今はもう町に馴染みつつある。
「霊夢、いま別のこと考えてたでしょ?」
「うん」
「ちがうって言えよう。こういうときくらいさ」
「でも、そうだもん」
「なんのことかんがえてたの?」
「生まれ育った町のこと」
「どんな場所?」
「田舎町よ。あんまり憶えてないのよね。でもいいとこだったわ」
「こんどわたしも行きたい」
「どこに?」
「いや、なんで。霊夢の故郷ことに決まってるじゃん」
「うん、そうよね」
「一緒に行こ」
「今度ね」
「うん。もちろん今すぐじゃなくていいからさ。いつかさ、いつか……」
未来の話をすることはいいことだ。
これからも続くと思えることは。
ひとつひとつ理由を重ねて計画を積み上げてひとつずつ約束を果たして、遠いところまで進んでいくのは。
魔法も幻想もないこの世界では、結局のところ、そうする他にないのだから。
雨の音。
わたしたちは愛しさにあふれて。
それは単なる気分だったかもね。
でも――。
「ねえ、萃香」
「ん?」
「行こうね」
そっと食む。
●Sinpaisyo (Fairy Letter 3)
新しい午前。
それは雨が降っている。
雨は洗い流してくれる。
思い出したくない過去のことやもう思い出せないたくさんの気分。
雨が降ってるから今日はどこにも行けないな。
せっかくの休日なのに。
夜行性のあの子はお昼の少し前に起きてくる。起きてきて、すでに結論づけられてしまった何かついて繰り返す。まるで映画のはじまりに出てくる怪しい老人みたいにとうのむかしに封じられた穴掘り返す。
「なあ、なあ、霊夢、どこか行こうよ」
「どこに?」
「どこでもいいからさ」
「いやよ。雨、降ってるもの」
「せっかくの休日なのにー」
「あんたは毎日休日じゃない」
「でも霊夢の休日はたまにの休日だろ? だからわたしの休日は霊夢の休日なんだよ」
そんな調子の良いことばかり言う。
わたしはテレビを見てた。
テレビでは春についてやってた。誰かが桜吹雪の中を歩いている。ピンク色の桜の花びらはまるでテレビ用のニセモノを足してるみたいに画面の中にあふれている。たくさん。
小旅行に行きたいならテレビの中にすればいいじゃん。
向こうはよく晴れていた。
「わたし、こういう番組嫌い。グルメ番組とかさ、めちゃくちゃおいしそうだと思って結局食えないじゃん。なんか損した気分だよ」
「見て楽しむのよ。おいしそうだったら、なんかこっちもいい気分になるわ」
「いやだね。わたしの食えないものをテレビのやつはおいしそうに食べてたらむかつく。見せつけられてるみたいだよ」
「身体が小さいと心も小さいのね」
「うるさい」
「あ、魔理沙じゃん」
いつのまにかテレビの中は旅の途中でここからはゲストも一緒に同行しますみたいな下りになっていて、そいつがカメラの前に現れたところ。
それが魔理沙だった。
最近、魔理沙を全国ネットのテレビで見ることがときどきある。
地方の一風変わったテレビ・ショッピングで一部で有名がセールスマンがいるということで深夜番組で特集されてから、最近、魔理沙はちょっとした人気がではじめていて、こうして他の番組にも出てくることがある。
魔理沙はカメラの前でちょっとぎこちない感じではにかんでいた。
スター・ショッピングのいつもの背景じゃないところにいる魔理沙はなんだか少し魔理沙じゃないみたいだった。
番組の中でも、なんていうか、テレビ・ショッピングで見る魔理沙よりも自然体でいるように気がするし、あの演技ぶった独特の喋り方もあんまりしていないように見える。そのことについて萃香が言う。
「魔理沙もこう見るとわりと素人っぽいね」
「そうね」
「魔理沙も最近露出増えたねえ」
萃香はなんだか嬉しそうに笑う。あんた魔理沙のこと嫌いだったんじゃないのと茶化すと、でもやっぱいつも見てたのがこうして全国ネットに出てると感慨深いっていうか、応援したくなるみたいなとこあるからなあ、と贔屓のスポーツチームみたいに魔理沙を言う。
わたしはなんだか急にやりきれないような気持ちになってしまう。心の中の知らない場所から思い出したかのように重くて暗い感情が吹き出してくる。いったいそんなものがわたしのどこにあったんだろう。
ああ、こんなことなら、さっさと萃香とふたりで出かけてしまうんだった。桜は雨に散ってしまっているだろうけど、それだって、よかったのに――。
少し風に当たってくると言ってベランダに出た。ベランダからは透明な町が見えた。雨に打たれて寂しげな町だ。見知った町なのに少しちがったふうに見える。下の方に桜の木があった。この雨で散ってしまっていると思ったのに、まだピンク色の花びらがちゃんと残っている。なんだかとても嫌な気持ちだ。こんなふうに桜が咲いていたらあの晴れたテレビの向こうとこの場所のちがいがわからなくなってしまうじゃないか。
そうやって窓の冊子に腰掛けて外を見ていた。
少しあとで萃香がやってきた。わたしの後ろに立って外を見つめる。降ってるねえ、雨。そうね、とわたしは言う。座ったわたしの肩に両手をのっけてやさしい声で萃香は言う。
「つらいの?」
「つらくない」
「気持ちはわかるよ。魔理沙が有名になって寂しいんでしょ? 霊夢は性質の悪いファンだもんなあ」
お気に入りのバンドが有名になるみたいな感じだよね、って、萃香はおもしろそうに笑う。他人のことだからこんなに無邪気な萃香にわたしはなんだか少し安心する。
「ねえ、萃香、笑わないでね」
「えーわかんない」
「じゃあ言わない……」
「もう笑わないって。どうしたの?」
「わたし、昔、魔理沙と友だちだったの」
「あー……。ま、わかるよ。ずっと見てたからそんなふうに感じるんでしょ?」
「ちがうの。そうじゃない。わたしと魔理沙は本当に同じ場所で生きていて同じ時間を過ごして、それでいつか離れ離れになってそのことも忘れちゃったの」
ときどきだけど、そんなふうに思う時がある。誰にも言えないと思っていた。魔理沙のことだから萃香にだって余計に言えなかった。でも、わたしはこんなに不安で、萃香に話してしまう。笑われるかな、怒るだろうか、拗ねるかもしれないな。だけど萃香は肯くだけだった。「うん。」小さいけどたしかな声で呟いて後ろからわたしのことを抱いた。
「わたし、霊夢のこと好きだよ。だから言うことも信じてるんだよ」
「ごめんね。こんなこと」
「どうして?」
「だって、萃香は嫌でしょ。別の人のことこんなに思ってるなんて」
「まあ霊夢の魔理沙贔屓は今にはじまったことじゃないからさ。慣れなきゃ霊夢と一緒に
いられないよ」
「うん」
「わたしだってテレビで魔理沙のこといつも見てるもん。霊夢と一緒に。霊夢ほどじゃなくても好きになるよ」
「……魔理沙、かわいいよね」
かわいいかわいいまりさはかわいい、と言いながら萃香はわたしのことをきつく締めつける。
「ちょっと、いたい、いたいって」
「ちょっと隙を見せたらこれだもん」
「ふふ。ごめんね」
「元気出た?」
「少しね」
「よかった。弱った霊夢を見るとどうしていいか困っちゃうな」
「でも励まし方をよく知ってるじゃない」
「憶えたんだよ。ちょっとずつ」
「まったく霊夢はほんとに魔理沙のことが好きなんだねえ。ちょっと有名になったくらいでこれだもん。結婚とかしたらどうすんのさ」
「べつに魔理沙のことじゃない……」
「じゃあ、なにさ?」
「わたしが悲しくなっちゃうのって、萃香、あんたのせいだもん」
またそんなこといってさ釣り合いとれてないからねさっきの魔理沙大好きがそんなんで許さると思ったらおおまちがいだから、と萃香はまた両腕でわたしを締め上げる。でも、わたしの不安は、本当に萃香のせいだった。
昔、わたしは魔理沙と同じ場所で暮らしていてきっと大切に思っていたような気がする。でもそんな記憶はもうどこにもなくて、まるではじめからなかったみたいに、簡単に忘れてしまえたのだ。だったら、萃香だっていつか消えて失くなってしまうんじゃないだろうか。そしたら、そのことだって簡単に忘れてしまえるかもしれないよ。
ご飯でも食べようと言って立ち上がりベランダから消えてしまう萃香の足首をわたしは掴んだ。
驚いて、萃香は振り返る。
「ねえ、萃香、行かないでよ。わたしのそばからいなくならないで」
萃香は肩をすくめた。それからわたしの方に歩いてきた。そして、ぱちん。わたしのほっぺたを叩いた。
「ばかなこと言うなよ。わたし怒るよ」
もう怒ってるじゃん……とわたしが萃香をじっと見ると、いや、ご、ごめんね、痛かった?と自分で殴ったくせに慌てている。
その姿がなんだかおかしくてわたしは笑ってしまった。
わたしが笑っているのを見て、なんなんだよもうと萃香も笑った。
ふたりで居間に戻った。
いつのまにかテレビのチャンネルが子供向け番組を集めたチャンネルに変わっている。たしかこれから萃香の好きな怪獣の番組の再放送があるから萃香がチャンネルを変えたのか。今は子供向けの料理の番組がやっている。テレビの中では妖精に扮した女の子が喋っている。
『今日しょーかいするお料理は!パウンドケーキです! でも、これはただのパウンドケーキじゃないんですよ。まほーの……といってもいつものテレビのえんしゅつてきなまほーとはちがってほんとの……あ、これは言っちゃだめなんだ、とにかくすごいおいしいパウンドケーキなんです。神様が教えてくれたレシピなんです。でも神様のおともだちに聞いたからほんとです! その人はわたしにたくさんのお菓子づくりを教えてくれた人です。いまはどこにいるのかわからないんですけど、これを見ててくれたらいいな。このパウンドケーキは神様のすごいパウンドケーキで、とてもおいしくて、どんなに悲しいきぶんのときにも人を元気にかえちゃうまほーのパウンドケーキです! さっそくつくっていきましょう! レシピは……』
かわいらしいねとわたしが呟くと、萃香はわたしを睨んだ。
いつか鉄塔の少女を連れてきてから萃香はわたしのことを小さな女の子に対する危ない気があると思い込んでるのだ。
またほっぺたを殴られたらやだからテレビを消した。
でも、せっかくだから、お昼にはお菓子を作ろうか。テレビでやってたあのパウンドケーキ。もちろんレシピはちがうと思うけれど、作り方ならわたしも知っている。最近は作っていないがこういうのは身体に染み付くものだろうからまあ大丈夫だろう。そういえば、昔、わたしはお菓子づくりが好きだったんだ。どうしてそんなことを今の今まで忘れていたんだろう。
ケーキを作る、とわたしが宣言すると、萃香は驚いた。え、霊夢できるの。料理はどちらかと言えば萃香の仕事だった。ケーキに特別な必要な材料は、まるでこの日のために準備されていたかのように戸棚の中に眠っていた。作り方はやっぱり身体が憶えていた。常温に戻す時間がないから炬燵の中で溶かしたバターに砂糖を加えて混ぜる。わたしだけの特別な隠し味をふりかけて卵を少しずつ足しながら混ぜ続ける。まるで魔女が大きな鍋の中で魔法をつくるときのように慎重に大胆にやらなければいけない。後ろから萃香が覗くので追い出した。魔法使いは魔法を作るところを人に見せたりしないのだ。ベーキングパウダーを散らしたらさっと全体に広げて、薄くバターを塗った型に生地を入れてオーブンで暖める。ひととおり片付けて居間に戻ると萃香がテレビの怪獣番組を見てた。できた?と聞くので、焼いてると萃香の隣に座る。萃香のことを抱っこしながら待っていた。今日の霊夢はおかしいと萃香は気まずそうにしている。でもケーキが焼けるのを待つ間は妖怪に恐れられるような誰かだって、きっとやさしくなれるにちがいない。
テレビの中で怪獣が現れて無事退治され町に平和が戻ってくる頃にパウンドケーキが焼き上がる。型から出して、ふたりで食べることにした。だけど、食卓についてもわたしは萃香が一口目を食べるのをずっと緊張した視線で見つめていた。お菓子づくりは好きだったけれど、よく考えると誰かにお菓子を振る舞った経験というのはなかったかもしれない。
「いや、そんなに見つめられると食べづらいっていうか……」
「ね、ね、どう?」
「まだ食べてないから、今から……もぐ」
「どう……?」
「わ! うそ……」
「え、まずい?」
「ううん!めっちゃおいしい! 霊夢、すごい、めちゃくちゃおいしいよ、これ」
「ほんとでしょうね?」
「うん、まじまじ。霊夢も食べればわかるよ」
「いや、まだ信用できないっていうか……もっと感想ほしい」
「えーいやほんとにおいしいよ。すっごく甘いし、でも甘ったるいわけじゃなくて、ちょうどいいのが口の中に広がって……こんなの食べたことないもん」
「もっとさあ、あの、テレビ・ショッピングで魔理沙がやるみたいな感じで、言って」
「それほんとはたいしておいしくないときにもやるやつじゃん!」
「ふふっ。まあ、たしかにそうね」
「でもほんとにすごくおいしいんだ。こんなのあるならもう霊夢のそばからいなくなっちゃえないな、絶対」
「はいはい。ありがとね」
そのあとは、大きなパウンド・ケーキをふたりで全部食べてしまった。
萃香の言う通り、それはすごくおいしいパウンドケーキだった。記憶にある味よりもずっと。萃香とふたりで食べたからだろうか。
とても幸福な時間だった。
さっきまでの心配症が嘘だったみたいに。
そういえば、テレビの中の妖精が言ってたな。
どんな病気でも治ってしまうまほーのパウンドケーキ。
神様のレシピ。
あの子がそれを思い出させてくれたんだ。
神様のレシピを知ってるならあの妖精の女の子は天使だったのかもしれないね。
いや、でもそんなこと思ってるの萃香に知られたらまた殴られるな。
だから単にものすごいお菓子職人だったってことしておこう。
●Tv’s suicide
夜に夢を見るみたいに、テレビ番組がやってた。
魔理沙の出てくるテレビ・ショッピング、の再放送。
魔理沙は魔法使いだった。
魔法みたいに不思議で素敵な商品をたくさん紹介してくれた。
わたしも同じのを持ってるけど、テレビの中の魔理沙みたいにはうまくいかなくて。
魔法はたいてい押入れの中。
これは夢のような商品です。魔法みたいな洗剤です。
ああ――だから、やっぱり、夢を見てるのかもしれないな。
夢の終わりは、無音。
冷たいナレーションが流れている。
ゴシック体の文字が切り替わりながら画面に映し出される。
夢の終わりを告げるのは、そんなCMだった。
――――――――――――
スター・ショッピング・チャンネルからのお詫びとお知らせです。
この世界に一部の生命に重大な欠陥が発見されました。
この世界で生き続けると万が一の場合、重大な事故を引き起こす恐れがございます。
つきましては、生命の自主回収をご案内しています。
現在、この世界が自分の本当の居場所ではないと感じられているお客様は、今晩、風呂場でケーブルを口に咥えて感電死することを通して、別の世界へとご案内致します。
一部のお客様には多大なご迷惑をおかけすることになり、深くお詫び申し上げます。
スター・ショッピング・チャンネルからのお知らせでした。
―――――――――
冷たい声。
薄暗い部屋によく響いてた。
わたしは自分の身体をぎゅっと抱きしめて。
テレビの向こうでは緊急生放送がやってる……。
自殺のやり方を魔理沙が何度も紹介している。これは死ぬことじゃないんだぜ、と魔理沙は繰り返している。重要なのはケーブルを通する点だった。そのケーブルを通ってわたしたちは新しい世界に行くことができる。ザナドゥと魔理沙が呼ぶ世界。魔理沙が生きてる世界。魔法の未だ生きている世界。テレビの向こうの世界へと。
でもそんなのはぜんぜん退屈だから、テレビを消して、お風呂でも入ろっか。
お風呂には先客がいた。
萃香だった。
夕方からずっと萃香はお風呂に入って出てこない。
扉には鍵がかかっていた。
どんどんどん、とわたしは風呂場の扉を叩いた。
「萃香、まだ入ってるの?」
「うん」
「そんなに長い間風呂に入ってたらしわくちゃになっちゃうわ。キャベツみたいにさ。せっかく子どもみたいにきれいなすべすべの肌してるのに」
「へんたい」
萃香の声。
くぐもって、ひどく遠い場所から聞こえてくる声みたいだった。
「ねえ、開けてよ……」
「嫌だよ。霊夢は感電死するつもりだろう。風呂を開けるつもりはないね」
「そんなことするわけないじゃない」
「どうだか」
「それに自殺じゃないの。ただ、新しい世界に行くだけなんだ。感電死っていうやり方を通してさ」
「それって死ぬってことだろ」
「ちがう……と思う」
「集団自殺だよ。テレビを見ると馬鹿になっちゃうんだな。わたし、知ってたもん、霊夢はずっと死にたいんでしょ?」
「どうして?」
「ずっと感じてた。ずっと思ってた。いつでも霊夢はここじゃないどこかのことばかり考えてた。まるでここが自分のほんと居場所じゃないみたいに」
「萃香、ねえ……。ねえ、萃香――」
「なに?」
「わたしさ、行かなきゃ。ちょっと忘れ物しちゃってさあ、取ってこなきゃなのよ」
「どこに忘れたの?」
「それは……その、思い出せないんだけど」
静寂。
萃香が何かを言うのをわたしは待ってた。
それはなんだかずいぶん長い間のようだった気がする。
やがて萃香は――。
「ねえ、霊夢」
「うん」
「『地底崩壊』の最終回がはじまる。そしたらでるよ」
「ああ、今日だっけ?」
「うん。今夜が最終回だ。先週は――」
「怪獣のお空がとうとう町に現れて最終決戦がはじまったのよね」
「うん。怪獣のお空が勝つんだよ、そして地底はもう一度こんどこそ滅びるの」
「滅びたりはしないわ。もうひとりのお空が守るもの」
「一緒に見ようよ」
「わたしちょっと出かけなきゃ」
「待ってる」
「きっと、その時間には帰れないわ」
「待ってる」
どこに行くの。
萃香が言うからわたしは答える。
鬼退治。
去り際に萃香が放った言葉に返事は返さなかった。
それはこんな問いだった。
「ひとりで?」
そうだよ。だって、ふたりで鬼退治に行ったらきっとろくなことにならないものね。
だから、鬼退治に行こう。
たった、ひとりきりで。
ひとりで鬼退治に行こう。
●U-rameki
その夜に、この町の788世帯と560人の子供と1098の老人たちが風呂場で感電死した。
(あるいはその他の数万人が感電死に至れなかったのかも)
でも、これは異変じゃない。
この世界に異変はもう存在しない。
わたしは電波塔を目指して歩く。
電波塔にはフランドールがいた。
わたしを見つけて、笑った。
夜の闇の中で、陰になって笑うフランドールはなんだか少し悪魔みたいだった。
「こんばんは。霊夢。待ってたわ」
「うん」
「ね、テレビ見た?」
「うん」
「なら、話がはやいわ。魔理沙に会いに行くんでしょ?」
「……うん」
あれ、とフランドールが指差す先にはプールがあった。
子ども用のビニール・プール。
準備しておいたの、と言う。
「どうして?」
「なにが?」
「どうしてわたしがここに来るって知ってたの?」
「この前、魔理沙を探してたときも、霊夢、ここに来た。だからそうじゃないかと思ったの。それに――」
フランはいたずらっぽく笑う。
「むかし魔理沙にお願いされたのね。霊夢のこと助けてやってくれって。約束は守るよ、わたし」
わたしにはまだわからない。いろんなことが。
でも、いつもそうだった気がする。
わからないことがいっぱい起こって、わからないままひたすらに進んで、いろんな人と出会って、結局ほんとのことはわからないままに終わる。
「聞かないの」
「なにをー?」
「わたしがどうして魔理沙に会いに行くのかとか、そういういろいろ」
「興味ないもん。どーせつまらない話でしょ。それにこれから起こることはテレビの中のことだよ。わたし、テレビ嫌いだもん」
それからフランドールは恥ずかしそうに微笑んで。
ごてごてしい鋏のようなやつをどこからか取り出す。
「ま、これはテレビのやつ……。魔理沙が売ってたの。ケーブル・カッターって言うのよ。切るためにある……ちょっと待っててよ」
そして、フランドールは、飛んだ。
と、なぜだか思った。
階段を使って電波塔を、そのてっぺんまで上った。
火花が散った。
なんだか花火みたいに。
ぱちん、と、燃え上がって、いちど発光したら、それが落ちてくる。
ケーブル、断線したケーブル。
その切れ先がわたしの前で揺れている。
やがてフランドールが戻ってきた。
そして、また笑うのだ。
「さ、準備はできた。ねえ、霊夢はどう? 感電死する心の準備はできた?」
揺れるケーブルをわたしは見つめている。
その先にあるテレビの世界。
きっと、そこは、死後の世界に似た場所だろう。
天国? それとも地獄のような場所かもね。
どちらにしたってわたしは……。
「ねえ、大丈夫。ちゃんと蘇生はやる……。心配しないでよ。テレビの通信講座で学んだの。人工呼吸の方法……。人形相手にさ、何千回もやった。テレビの真似して、せんせーの言う通りやって……、見て、やって、見て、ちゅーして、見て、せんせーの喋る通り口づけて、見て、真似して、見て、やった」
「うん」
「全部、家族のためだったんだよ。うちの家族はみんな頭がおかしくてそれにみんながみんなことをとっても大切に思ってるから、かえってきっと誰かが誰かのことを殺してしまうでしょ? だからそのときにわたしが助けられるように勉強しておいたの。昔の話」
「フランは優しいのね」
「えへへ、まね」
だから心配しなくたっていいよ、霊夢のことはちゃんと生き返らせてあげるから。
それを霊夢が望まなくたってね、って、フランは笑った。
意を決してわたしはケーブルを口に咥えた。
苦い味がする。
鋼鉄の味。
ぴりぴりと痺れる、ような気がする。
ビニール・プールに足を踏み入れる。
空を映して星が揺蕩う。
冷たい、ゆらめき。
フランドールが呟いた。
「おやすみ、れいむ」
眠るように、ビニール・プールの中に横たわる。
瞬間、電撃が身体中を走り回る。
ぱちぱちぱぱちぱちぱちぱちぱとどこか遠いところで鳴っていて、頭の中でひび割れて、痛みがわたしの身体から何かを引っ張り出すように広がり、わたしは意識が遠くなるのを感じながら、ひどく寒くて、冷たくて……落ちていく、落ちていく、まるで深い縦穴の中に、どこまでも……やがて永遠にも続くような暗闇の向こうに何かを見たような気がした、光?
天使の羽のように、それがわたしを包み込む。
ゆ、らめき。
わたしは最後のやつを引き剥がしてしまう――――――――――――――――。
――――――――――――。
―――――――。
―――。
花火をやってた。
ひとりで。
こんな雨の中。
まるで古い映画みたいだった。
雨は白黒フィルムのノイズのようにこちら側と向こうの間を朧げにしてしまう。
霧のような雨の向こうで、輪郭の曖昧な光が灯っている。
赤色だ。
埠頭の赤。
信号機の、警告灯の、テールランプの、……トラフィックの赤色。
だから夜だったのだと思う。
わたしは手持ち花火の光に向かって少し歩いた。
冷たい雨が降っている。
花火をやってた。
わたしがじゃない、誰か、別の誰かが。
気がつけば身体中がずぶぬれだ。よくもまあこんな雨の中で花火なんかやるよなあ、とまるで夢でも見ているようなぼんやりとした非当事者意識で、幽霊のように彼女の背中に立って見ていた。
花火の赤い光。
そっか、わたし、死んじゃったんだっけ。
振り返って、わたしのことを見て、魔理沙は笑った。
「ああ、霊夢、やっぱり来たんだな」
「前から思ってたけど、あんたってばかね。なにもこんな雨の日に花火なんかやることないじゃない」
「ほんとそうだよなあ。でもなあ、だめなんだよ、わたしさ。思いつくと我慢が効かない。いてもたってもいられなくなっちゃう。さっき花火を見つけたんだ。下駄箱の中にあってさ、いつか香霖堂でもらったやつさ、ほら、宴会のとき使って、そのまま余ってて……やっぱ花火は夏にやりたいだろ。でも、思い直して……たとえば冬に花火をやるのもそれはそれで風情があるっていうか、いいかなって思ったりして、ほらわたし素麺なんかは一年中食うのよ。安いし作るの楽だもんなあ。でも、やっぱ、逆に夏に花火やんなかったら、季節感なくしたら、もう花火なんか二度とやんないかもなあとか思って、決めたんだ、やっぱ花火は夏のものってさ。まあ、もう、夏?じゃないけどな……」
はたして季節はいつのことだったろう。冷たい雨。でも、それはどんな季節にも繋がっていなくて。
魔理沙は自分の隣をぽんぽん叩いた。
「まあ、座れよ。霊夢の分も用意してあるんだぜ。ひとりじゃ寂しいもんな」
「まるでわたしがここに来るのが予めわかってたみたいね」
「ああ……そうだぜ。いや、ちがうな。それは霊夢がこうして来たから言えることだぜ。たしかに霊夢は来るような気がしていたけど、予言は当たったあとではじめて予言足り得るからさ、その意味じゃわたし、霊夢のことを……」
「なに?」
「待ってたんだ」
魔理沙が手渡してくれた花火をわたしは受け取る。
「さあ、お客様、お客様、ご注目! 今日ご紹介するのは、ショッピング・スター・チャンネル製の防水花火! お客様はとつぜんふと花火がしたくなったことがありませんか? でもその日が雨の日だったら……。でも、大丈夫! この防水花火ならたとえ雨が降った日にも水の中でも花火が楽しめる!ってそんなところだな」
「あはは、ばかみたい。そんなのいつ使うのよ」
「決まってるじゃん、今日だよ」
そう言うと魔理沙はポケットからライターを取り出して、火をつけた。
でも、こんな雨の中じゃ、火なんかつくわけもないのだ。
かち、かち、かち、とライターの空回りする音だけがむなしく響いている。
「ちえ、まずったな……」
かち、かち、かち、と魔理沙は少し苛立っているみたいだった。
「ああ……もう」
「ふふ、雨の中でも火がつくライターも発明するべきだったわね」
「ツメが甘いんだな、わたし」
「魔法を使えばいいじゃない」
「ねえ、霊夢、今日だけは魔法に頼りたくないんだ、わかるでしょ?」
「どーかな」
かち、かち、かち、かちかちかちかちかち……。
なあ霊夢悪いんだけど手を貸してくれよ。魔理沙が言うからわたしは魔理沙のライターを両手で覆った。
かちかちかちかち。
ちくしょう、さっきはついたんだ……。お願いだから、はやくついてくれよ。時間がないんだ。せっかく霊夢が来ているっていうのにさあ。お願い、お願い、お願いだよ。あと一回でいいから。
かちかちかちかちかちかち。
かちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかち。
かち……。
「「ついた……!」」
か細い炎はすぐに移り変わり、迸る。
魔理沙のをもらってわたしの花火にも火をつけた。
緑色の光。
しゅぅうううと甘いメロンソーダがペットボトルから吹き出すように、光があふれる。
雨の中で炎はプラズマのようだ。
走査線……走り、ここではないどこか、たとえばブラウン管の向こうの光のように、線状に分かれて降る。
くるくると回してみた。
それが離れない。
目を閉じると、いつまでも、円を描く緑色の光が残っている。
「なあ、霊夢」
「なぁに?」
「どうして霊夢はまたここに来たんだ? またクレームでもつけに来たのか?」
「別に最初からクレームをつけるつもりなんかかったのに」
「あ、じゃあ、こっち側に霊夢も来たくなったわけ?」
「ううん。わたしさ、あんたにお別れを告げに来たのよ」
じゅ、とバケツの中で魔理沙の炎が溶けた。
新しい花火を魔理沙が取り出すからわたしは花火を近づけて火を分けた。
花火が一本消えるたび、花火から花火へと火を移すたび、わたしはいろんなことひとつずつ思い出す。
かつて博霊の巫女だったわたしのこと。
魔理沙の発明した万物理論のこと。
わたしたちがふたりで暮らしていた幻想郷という土地のこと。
「寂しい?」
「いや、わかってことだもんな」
「わたしは寂しいわ」
「そう?」
「少しね」
「うん」
「わたし、この前ここに来たときは魔理沙のことを救い出したかったの」
そうだ、たしかにあのとき、わたしは魔理沙のことをテレビの向こう側の架空の世界からわたしの世界に取り戻したいと思っていた。それだけじゃない、わたしの住む幻想郷を変わらない姿のまま守りたいと思った。何度も向こう側への侵入を繰り返し、わたしも向こう側の世界に取り込まれつつあったせいで、前に魔理沙に会ったときは、そのことを忘れかけてしまっていたけれど。
「じゃあ今は?」
「それを魔理沙が選んだってわかる気がする。ここはあらゆる願いが叶う場所だもの。魔理沙は立派な魔法使いになったのね。いつもテレビで見てたわ」
「えへへ、照れるぜ」
いつもみたいにおどけてるわけじゃなく本気で魔理沙は少し顔を赤らめて恥ずかしそうにしている。偉大な魔法使いになること。それは魔理沙の夢だったんだろう。きっと。魔理沙は自分の発明した魔法でそれを叶えた。だから、たぶんそれは素敵なことだ。
「でもさ、霊夢。今さらだけど霊夢だってこちら側に来ることはできるんだぜ」
それは知っている。
そのやり方だって魔理沙はテレビでちゃんと教えてくれたから。
実際に、わたしたちの多くはいま、感電死を通じてテレビの向こう側に行こうとしている。
「そうね。それも悪くないかもね」
「うん」
「でも、もう遅いな。だって、わたし向こうに帰る場所があるんだもの」
「そっか」
別に万物理論が幻想郷や既存の世界をばらばらにしてしまったわけじゃないというのも、今のわたしにはなんとなくわかる気がする。それはほとんど似たような形をしたまま、別の場所に推移しただけのことなのだ。たとえば、幻想郷やそこで生きる特別な生き物たちのようにこの世界の理論にはそぐわない幻想なら、テレビの向こうに、というように。あの頃はあまりに物事がはやく進みすぎたせいで、わたしたちは幻想郷や世界が壊れてしまうのだと感じていた。だからわざわざアンチ万物理論理論なんてものまでつくりだして万物理論を失わせるために戦っていたのだ。
わたしは博霊の巫女としてあの幻想郷を守りたかったから魔理沙が発明した万物理論と対決した。そのせいで、しばらくの間、架空と現実の境界面にいて、そしてそのどちらにも通じていたから、崩壊の夢ばかり見ていた。ふたつの世界のどちらかの世界からもうひとつの世界を見たら、片方が歪んで見える。そのふたつの狭間にいれば、まるで世界が終わってしまうような気分になってしまっておかしくはない。ふたつの世界は、それぞれが別種の理論の適用される世界だから、それは仕方のないことだった。
たとえば、未分化の曖昧な状態ならどちらを信じることもできる。実際、子どものことはもうひとつの世界が実際にそこにあるように感じることができる。
「ねえ、霊夢、子供の頃はみんな本の中の物語に住む誰かを愛したりするものだぜ。でも、時間が経てば……」
「やがて忘れてしまう?」
「いや……。でも違う世界のものを愛し続けるのには強さがいるな。嘘をひとつ通すためにはそれ以外のすべてが完全である必要があるんだ。それを本当だと信じるなら、それが本当であるかのように、振る舞い続けなきゃならないし、それには途方も無い強さがいるんだぜ。わたしにはさ、霊夢……できないな」
「そうね、わたし、魔理沙のこと愛してたわ」
「うん。わたしもだぜ」
そうして、魔理沙は笑った。
わたしは今でも魔理沙のことが大切だしなにより愛してもいる。
でも、それはあくまで、架空のテレビの向こうの魔理沙。
それ以外の魔理沙、というのは、もうどこにもいない。
魔理沙の側からしてみた、わたし、だってきっと似たようなものなんだろうね。
その意味では、そもそものはじめからわたしと魔理沙はあの四角い画面によって隔てられていたのだ。
花火は残り少なくなっている。
「ねえ、最後にひとつ聞いてもいいかしら?」
「なんだぜ?」
「萃香のことなんだけど、どうしてあの子はこちら側にいたのかしら?」
「あいつのことはわたしにもわからないんだぜ。鬼の子だからわたしたちの側にいなきゃ理論にあわないはずなのにな」
「そうなの? この前魔理沙に会ったときに”おまけ”がどうこうって言ってたでしょ。ほら、鬼の子をつける、って。それが萃香だと思ってたんだけど」
「いや、それは、実はフランドールのことだったんだぜ。吸血”鬼”、つまり、鬼の子だな。あいつは幻想郷の外の世界に興味を持ってたから、いま霊夢の世界のやつらがテレビのケーブルを通ってこちら側に流出したようなやり方で、あいつはそっちに行ったんだよ。だから霊夢のことをよろしくって頼んでおいたんだ」
「あんた大事な場面でややこしいこと言ってくれるわねえ」
「思わせぶりは魔法使いの特権だぜ? 悪かったよ。代わりじゃないけどさ、こっち側に残っている萃香の情報で何か霊夢の役に立つものをつけるよ」
「うん。ありがとう」
「また、おまけだな」
「そうね。クレームをつけに来たんだもん、ただでは帰れないわよ」
「お前、やっぱりクレームつけに来たんじゃないか」
「もちろん」
魔理沙が笑った。
最後の花火に、炎をくれた。
すぐに光がほとばしり、わたしたちの顔を夕暮れみたいにオレンジに照らしていた。
魔理沙の顔は雨に打たれて泣いてるみたいだ。
わたしは泣いてた。
雨のせいで、きっと、魔理沙にはわからないだろう。
「ばいばい、魔理沙」
「ああ。忘れないでね、わたしのこと」
「うん。ずっと忘れない。魔理沙がはじめから存在しなくなっちゃったとしても」
それからはわたしたち黙って花火の光を眺めていた。
濡れた光は、高層ビルの屋上から落ちて潰れた蜜柑みたいだった。
このままずっと消えなければいいのになとわたしはほんの少しだけ思った。
でも、そんなふうに思うのは、花火が消えてしまうことをちゃんと知っているからだ。
最後の花火が消えたら、わたしは帰る。
雨が降っていた。
雨音、足音。
わたしは振り返らなかった。
雨が降っていても帰る場所があるというのは、とても幸せなことだとわたしは思う。
●VTR
テレビの向こうではドキュメンタリー番組がやってる……。
近年妖怪の山で増え続けている”ゴミ”問題についてのドキュメンタリーだ。
巨大な萃香の回りをリポーターの天狗が飛んでいる。
『ご覧ください!ご覧ください! この巨大な伊吹萃香を! これがゴミの正体です。捨てられたゴミたちはひとつに集まり巨大な生き物になって、きっと、わたしたちに復讐しようとしてるのです!』
まるで、それは2000年代初頭のSF映画のはじまりみたいに?
映画は嫌いだった。全部が嘘だから。もう二度と見ないと思う。あの子、でも、小さなあの子は、映画が好きだった。怪獣の出てくるやつで、戦闘機とか飛んで熱線で焼くような派手なやつ、どれもみんなおんなじようなやつ。いつもいっしょに見てた。怪獣びいきのあの子は終わりにはいつも少し怒ってた。怪獣は決まって負けてしまうから。わたしは見るなら、恋愛映画がいいわそれもとびきりハッピーなやつ、あ、やっぱいいや、見たってしょうもないもんねえ。あの子は笑って、なるよ、今夜、わたし怪獣にさ……わたしの首筋をやさしく、噛んだ。見ない、見ない、映画は見ない、でも見て、あの子がレンタルしてきた3本全部、見て、少し退屈して、あの子はいつも映画の結末に怒ってて、夜には毛布の中でわたしを噛んだ。
『少し話を聞いてみましょう……』
巨大な萃香の顔の前で、天狗はマイクを向けて、問いかける。
――単刀直入にお聞きしますが、あれはなんですか。
あれはわたしだよ。わたしに捨てられたわたしだ。わたしは失敗したり負けたりするたびにその記憶をわたしとして捨てていったんだ。そしたらいつかこんなに大きくなった。こうしてたしかな自我と怒りをもてるくらいにさ。
──あなたはこれから何をするんですか?
それはもちろん復讐だよ。捨てられたものたちにできることはそれしかないだろう。わたしを捨てたものたちへの復讐。つまり、わたしにさ。
──あなたの中にはたくさんのあなたがいるんですか?
その質問は意味ないね。わたしは一であり十なんだよ。たったひとつの復讐という目的によって統一されているんだよ。
──しかし、たくさんのあなたがひとつになったということは、いろんな考えをもったあなたもいるんじゃないでしょうか。つまり、わたしたちとしては対話の可能性を模索してるというわけで……
それは無理な話だね。だってそんなのつまんないだろう。言っただろ、わたしは一であり十なんだ。たくさんのわたし、そのすべてがわたしだよ。結局、みんな同じものが好きさ。わたしは怪獣の出てくるお話が好きだよ。なあ、お前、対話で決着がつく怪獣映画なんかつまんないと思わないか?
──どうでしょう……。見せ方によってはそういうのもリベラルでいいかとわたしは……。
それじゃあ見解の相違だな。対話はなし。ああ、でも、この前、ここから出ていったわたしもいるにはいるな。
──出ていった? それはどうしてですか?
恋をしたんだよ。この前、わたし……つまりはほんとのわたしってことだけど、ここで異変を起こしただろう。結局、巫女にやられちゃったけど。あれは見ていて楽しかったな。対決だ。わたしたちはわたしが勝つと思っていたけれど、巫女はわたしを討ちとった。あれからわたしたちはすっかりあいつのファンさ。まるでテレビの向こうのヒーローみたいだね。ひとり熱狂的なやつがいてなあ、この前出ていったんだよ。巫女に会いに行ったんだ。タイミングがよかったんだよ。幻想郷がこんなんになっちゃってあの巫女も異変も解決しなくなって退屈なやつになってあの神社にたむろしてたみんなと一緒に本物のわたしもそこから出ていっただろ? 代わりになれると思ったんじゃないか? だからほんもののわたしのふりをしてさ、まあわたしだからなあ、人目にはちがいはわからないだろうが、小さな弱いわたしさ。きっと相手にもされなかったんだろうよ。
――その萃香さんはどうなったんですか?
さあねえ。結局、どこかで野垂れ死んじゃったんじゃないの? 捨てられたわたしだよ。たとえ拾われたとしたって本当に愛されることなんかないよ。わたしたちと同じゴミなんだから。愛されたとしたって、それはどうしたって同情以外にはありえないよ。
見ない、見ない、わたし映画は絶対見ない、でもあの子が借りてきたやつを見て、退屈なやつ……見て、見ない、わたし映画は見ない。全部が嘘だから。でもあの子は映画を楽しそうに見て、見て、あんたってほんとに怪獣が好きよねえわたしは嫌いよ、映画の中の怪獣に嫉妬してるの、って、あの子は笑って……あの子は小さくて弱いから、こんなにちっぽけで、出会ったときは雨の中で捨て猫みたいに震えていて、”普通の鬼の子”にさえなれない女の子だったからこそ、怪獣を好きになって怪獣みたいになりたくて……わたしは映画が嫌い、すべてが嘘だから。わたしは怪獣映画が嫌い、幻想が大嫌い、それは決してわたしの手の届かないところにあるから。でもあの子がなったら、わたしは怪獣を好きになると思う、あの子が夜にわたしの肩噛んで、首に口づけて、でもほんとは霊夢のほうがずっと怪獣みたいだよとても強いもの、って、わたしはあの子の髪を撫でながら……見ない、見ない、できない、今のわたしはいろんなものと立ち向かって戦えるほど強くなんかないけれど──映画の中ではあんなに巨大な怪獣がかんたんに滅ぼされて街の中に崩れ落ちていく、で? ねえ、そのあとは?そのあとは?そのあとはどうなるの? 「なるなら、退治するほうがいいわね。負けちゃうのは嫌だもの」──でも、あの子が、あのちっぽけな萃香が、それをまだ信じてくれるなら、わたしは鬼退治だってきっとできる。
夜じゃなくて、昼間に。
いつも同じ退屈な朝の光であふれるこの新しい午前にだって。
●Water
気がつくと、わたしは夜の下に横たわっている。
身体中が濡れていて、衣服がきつく張り付く。同じようにびしょ濡れになったフランがわたしの隣でわたしの手を握っていた。
約束通りフランはあの電撃でいっぱいのプールに飛び込んでわたしのことを助けてくれたのだとわたしは思う。何かを言いたかったけれど、身体は伸び切ってしまったゴムのように萎んで口を開くこともままならない。
フランは遠いところを見ていた。
かすかな力で手を握り返すと、フランは振り返り、ちょっと微笑んだ。
「取ろうかなぁ。資格さ。ライフセーバーのね」
わたしはかろうじて肯いてみせる。
フランが今度はちゃんと笑った。
「よかった。霊夢が生きてて」
感電死を通じて向こう側の世界で魔理沙に会っていたときのことはもう朧げにしか思い出せない。
まるで夢を見ていたみたいだった。
それを思い出そうとして意識すればするほどかえっていろんな考えが流入し夢のイメージが消えてしまう。開かれた折り紙の鶴のようものだ。そこに残った薄い折り目をたどってもういちどまったく同じ鶴を作ろうとしても一度折り目がずれてしまえば新しい折り目が現れて正しい折り目がわからなくなって二度とは戻らない。
忘れてしまう。
忘れてしまったことを忘れてしまう。
だから、本当に夢を見ていたのかもね。
魔理沙の夢。幻想郷という土地の夢。テレビの中の世界の夢。
「ねえ、大丈夫?」
フランドールが心配そうな顔でわたしを覗いていた。
そっか、フランも向こうから来たのよね。もうじきわたしが忘れてしまうように、フランもそれを忘れてしまっているんだろう。いや、忘れてしまったんじゃない。そもそもそんなことはなかったんだ。その意味でもやっぱりあれは夢だった。いつか夢になった。
それでもフランは魔理沙に頼まれたとおり、わたしを助けてくれた。
魔理沙にさよならを言うためのチャンスをくれて、こうしてわたしの命を助けてくれた。
ありがとう、と言いたかったけれど、まだ口がうまく動かない。
かわりにできる限り強く強く手を握った。
楽しいことだって見つける。
きっとフランに教えてあげる。
そんな威勢のいいことを考えたって今のわたしは傍から見れば単なる自殺未遂者で、ろくに身体を動かすこともできず、心配するフランがわたしの身体を揺らしたり目の前で手をひらひら振ったりするのを、ただされるがままになってぼんやりと見つめていることしかできない。
視線をずらすと、そこにわたしの飛び込んでいたビニールプールがあった。
プールの中の水が揺れている。
夜の空も揺れている。
目を閉じてもう一度開いた。
でも、揺れていた。
夜空の遠くで光る満天の星々がひとつ残らず滲んで、星の色に震えていた。
まるで世界が水没してしまったみたいだとわたしは思う。
プールの底で逆さになって見ているみたいな空だった。
わたしは未だにどこかをたゆたっているような気持ちだった。
なんだかぬるい。
フランがわたしの目元を拭った。
「泣かないで。泣きたいのはわたしだもん」
ごめんね、ってやっと音になって出てきて、かすかな吐息のような言葉はそんな言葉だった。
フランは顔をしかめて。
「あ、いや、じゃなくてさ、痛いのね。手がさ。霊夢、強く握りすぎだから」
あわてて手を離した。
フランは赤くなった手をひらひらと振って。
「すっごく言いにくかったわ。こう見えてもわたしけっこう空気読むのよ」
それがなんだかおかしくってわたしは声には出さず笑ってしまう。
「え、なんで。なんで、笑うの……」
困惑するフランがやっぱりなぜかおかしくてわたしはさらに笑い続けた。
そうしているうちにだんだんと喉が開いて声が音になってやがて笑い声になる頃に、まあ、いいや、って。
フランドールも笑った。
「ぐっもーにん、霊夢!」
●Xanadu、または非売品の夢
だから、一目惚れだったんだと思う。
ずっと知っていた。
ずっと夢で見ていた。
それは非売品の夢だった。
あの子が突然わたしの前に現れたとき、わたしはあの子と暮らしていた。
神社の小さな縁側で、何度もふたりで話をした。
そういえば大好きな星があった。テレビの向こうに。
魔理沙と呼ばれる星。
魔理沙はテレビ・ショッピングのスターで、よくテレビドラマに出てくる女の子で、わたしは好きだった。友だちになりたいと思った。
でも、魔理沙はあるとき、テレビの中から消えてしまった。
楽園に行ってしまったのだという。
ザナドゥ。
週刊誌ではその場所をそんな名前で呼んでいた。よくないニュースだ。魔理沙たちはたくさんの人たちを引き連れて、そんな楽園に行ったのだという。みんなでいっせいに死んでしまったのだという。この世界のどこか小さな人目のつかない場所で暮らしているのだという。ほんとに別の世界へといったのだという。いろんな噂があり、そのどれもがそれぞれにニセモノらしく、かえって本当のようにも思えた。
そんなことがわたしは寂しくてずっとその夢ばかりを見るようになった。
それは、おまけでもらったDVDだった。
いつだったか、魔理沙の出ているショッピング・チャンネルで買った何かの商品に不具合があってクレームを出したら、交換の部品と一緒にそのDVDが返ってきた。短い未完成の映像。一緒についてきた注釈によると、それはザナドゥという場所の素晴らしさを遍く喧伝するためのビデオになるばずだったらしい。ビデオの主人公のもとに、ある日ザナドゥ生まれの少女が現れて、やがてこの世界から楽園への入り口を隠してしまう”鬼”をやっつけてふたりで楽園へと向かうことになるというストーリー。だけど、何かしらの事情によって制作が中止になったせいで、ビデオは冒頭の短い部分で終わってしまう。
あの子のことを待っているというところから、いつもはじまる。そして、あの子を見つけることができないままビデオは終わってしまう。
でも、あの子――萃香はわたしのもとに現れた。
ある日、突然。なんの前触れもなく。
そうして、わたしは萃香と暮らした。
まるであのビデオの最後の場面。
主人公があの子との暮らしを回想する場面のように。
萃香は自分のことをあんまり話さなかった。生まれや育ちを聞いてもわたしは鬼の子だとかなんとかしょうもない嘘を言ってはぐらかした。唯一、教えてくれたことといえば、むかし、縁があってスター・テレビ・ショッピング・チャンネルの販促ビデオに役者として出演したことがあるということくらいだった。
だからわたしは萃香を知っていた。夢で何度も見た。わたしはあんたのことを知っている、そんなふうに言うと、萃香は曖昧な表情を浮かべた。だって萃香はあのビデオのような楽園帰りの女の子ではない。普通のどこにでもいるような少し変わった女の子だった。なんたって萃香は単にそれを演じていただけなんだから。
でもわたしはそれでよかった。
だから、一目惚れだったんだと思う。
わたしの小さなアパートの部屋でわたしたちは同じ時を過ごし、一緒にご飯を食べて、喧嘩をして、ときどきふたりで遊びにでかけた。テレビ・ショッピングを見るだけが趣味のわたしの生活に、架空の思い出をぶら下げただけのわたしの日々に、小さな彩りをくれた。いつかいなくなってしまうとずっと思っていた。テレビの向こうから魔理沙がいなくなり、それに着いていくようにしてこの町の多くの人々が消えてしまったあとも萃香はずっとそばにいてくれた。萃香はひどく自堕落でわたしが仕事に行っている間も部屋でお酒を飲んだりしていた。わたしが呆れて、あんた少しはわたしの役に立ちさないと言うと、まるでわたしがなんの役にもたってないみたいじゃないかと逆に文句を言ってくる。わたしだって時が来たらちゃんと役に立つさ。そのためにわたしはいるんだよ。はあ、そんなときがいつくるのかしらとわたしが言うと、萃香はぐいとお酒を飲み干してから冗談めかして笑う。
じゃあさ、霊夢。
「ふたりで鬼退治に行こう」
それはわたしが何度も夢で見た、よく知っている台詞だった。
だけどもうわたしたちは鬼退治に行く必要なんかないのだ。
だって、そんなものに行かなくても、萃香がここにいてくれるだけでわたしには十分だったんだから。
だからはやく働きなさいよ、ばか、穀潰し。
わたしがほっぺたを強くひっぱると、わかったわかったわかったからやめてくれようと萃香は喚き散らす。
●You are (not) unreal girl
家まではフランが肩を貸してくれた。
感電酔いでふらふらとふらつきながらなんとかアパートメントの部屋までたどり着いた。
月の光が眩しい深夜のことだった。
玄関の扉を開くと、すぐに萃香が現れた。
勢い良く飛び出してわたしの胸に抱きついた。
「ただいま。遅くなっちゃったわ」
「れいむ、ばか、れいむぅ……おそくなっちゃったじゃないよう。ひぐ、うう、わたしはもうれいむがもどってこないとおもって、うぇぇええ、ばか、ばか、ばか」
「おおげさねえ。ちょっとでかけてくるだけって言ったじゃない」
「ばかぁ、うそつきぃ」
「こうして帰って来たじゃない」
「だって、だって、だってぇ」
「泣かないでよもう」
萃香はわたしの胸のなかでずっと泣いていた。
シャツはまだプールの水に濡れているままだった。
だから、まあ、いいや。
そのまま萃香を泣かせておいて、わたしはただその頭を撫でていた。
小さな萃香。
わたしの胸の中に収まってしまうくらいに小さな鬼の子。
フランドールはわたしたちを不思議そうな顔で眺めている。
ずっとあとで萃香はフランに気がついて、つと見て、はろうとフランが小さく手を振るので、わたしを睨んで、あれなに、と言った。
「さっきあったの。まあ、昔の友だちらしい」
「昔の……って、あんな小さな子どもなのに」
「萃香が思ってるより大人なのよ」
「へんたい」
わたし、霊夢とちゅーしたよ、とフランが言うので、萃香がまたわたしを睨む。
「あんた、ややこしくなるから部屋行っててよ。冷蔵庫の中にあるもの、勝手に食べてていいから」
「トマトのジュースある?」
「ないけど」
「えー。じゃあ霊夢としたこと全部言っちゃおうかなあ」
「ねえ、あとで買ってきてあげるから、お願い」
「もうしょうがないなあ。わたし空気読めるから」
フランがリビングに消えてしまうと、わたしたちはふたりだった。
萃香はじっとわたしを見つめている。
涙目?
真っ赤に腫らした目で、わたしを見ていた。
「さあ、どこから話そうかしら。きっと長い話になるわよ。なんだかわたしも忘れはじめてるし」
「霊夢、なにも言わないで」
「萃香、怒らないでよ。あんたが想像してるようなことなんかひとつも起こらなかったわ。その代わりにとてもいろんなことがあったの。これまでのあらすじ。嘘みたいなホントのこととか嘘になっちゃったほんとのこととか、いろいろあって、まるでテレビの中のお話みたいでね──ああ、そうだ、どうだった、最終回? お空はどうなった?」
たぶん、そうじゃないんだろうな。きっと、別のことを言わなきゃいけないんだろう。こういうときどうしたらいいんだろう。魔理沙なら、テレビの中の女の子なら、こんなときどうやって言うのかな。こんなことがこれからたくさんあるんだろう。決して解決されないまま続いていくわだかまりとか理由もないのにときどき降ってくる憂鬱とかそんなんばかりであふれて、子供の頃、世界はもっと単純だった。なにもわからないままでも、シューティングゲームのステージをクリアするみたいに進んでいってひとつひとつボスを倒して最後まで行ったらクリア!とかだったらよかったのにね。何を言っても結局は同じなんだろう。どこで生きても根本は何も変わらないんだろう。でも、わたしはなにかを言わなきゃいけなかった。わたしたちには喋る権利がある。権利があるなら、いつかそれを行使することが義務になってしまう。ときどきそれにうんざりしてしまって、すべてを失くしてしまいたいって思うけれど、まあいっか、ねえ、萃香──。
「萃香、ありがとね」
わたしは萃香のことを抱きしめた。
わたしの腕の中で小さな萃香は収まって。
また泣いている。
「ねえ、萃香、わたし、嘘は嫌いよ、だから、映画やテレビのドラマが嫌い。いつでもほんとのことだけ言いたいし聞きたいな。でも、あんたが好きならそれはそれでいいわ。録画したでしょ? 最終回……。いっしょに見よう。どんな結末でもふたりで文句を言おうね。わたし嘘は嫌いよ、わたしあんたのこと裏切ったりなんか絶対しないわ。あんただって信じてくれたからずっとここで待っててくれたのよね、ありがとう」
「うう、わたし……わたし、ひぐ、霊夢はもう帰ってこないと思ってて、わたしの知らない世界に行っちゃうんだと思って……」
「どうして? わたしがあんたを置いてどこかに行くわけないじゃない」
「でも、だってぇ……」
「わたし、あんたがいなかったら生きていけないわ」
「ほんとに?」
「本当」
「どうして」
「だって萃香は強いもの。この世界でわたしを守ってくれる。わたしも怪獣が好きよ。あんたのせいでいつか好きになった」
「でも、いつも最後には負けちゃうよ? それにわたし普通の女の子なのに」
「ううん、負けないよ。萃香はわたしの知ってる誰よりも強いわ。だって萃香はずっとここにいてくれたんだもん」
…そうだよ、ずっと霊夢を待ってたんだ。
萃香が呟いた。
小さな声で。
わたしは萃香を強く強く抱きしめた。
やわらかい小さな塊。
萃香は昔、鬼の子だった。
どこで深い竪穴に捨てられた巨大な鬼の一部の小さな鬼。
小さな萃香にとって、外の世界の本物の萃香と戦ってた頃のわたしは、まるでテレビの向こうの女の子のように見えていた。萃香はその穴から抜け出してわたしのところまでやってきた。いつかふたりで暮らした。その場所が本当にテレビの向こう側に消えてしまい今までのわたしが嘘になってしまったあともその嘘を信じ続けてくれた。新しい世界でずっとそばにいてくれた。だからわたしは生きていけると思う。わたしにとって嘘みたいなこの新しい世界でも。
そうね、わたしも、ずっと待っていたような気がする。
どこか遠い場所で、まるで怪獣の出てくる映画のはじめの部分みたいな狂騒のなかでわたしは、萃香に会いたくて、でも萃香はやってこなくて、わたしはひとりで萃香を待っていて、同じ萃香がここにいる。
そして、萃香がここにいてよかったな、とわたしはいつも思う。
●Zoo
怪獣を見に行こう、と萃香が言うからわたしは行った。
ふたりで。
少し遠いところまで歩いた。
もちろんこの世界に本当に怪獣が存在するわけじゃないからそれに似たものを見に行ったのだ。
フランドールも誘ってみたけれど、せっかくのデートを邪魔しちゃ悪いからと家でゲームをやっていた。最近フランはずっと家に籠もってプレステばかりやっている。ああやってゲームばかりやっていたらゲーム脳になってきっとゲームの世界から戻ってこれなくなっちゃうよと萃香はよく心配している。でも、大丈夫。ゲーム脳なんていうのはテレビのついた嘘で、いくらゲームをやっていたところで別の世界に行ってしまうことなんかできない。
町外れの動物園はひどく閑散としていた。
わたしたち以外には客はいないようだし、従業員たちの間にもなんだかスローな空気が漂っている。貸し切りじゃん、って、そんなありきたりな冗談さえ空っぽの園内にからからと響いた。だるそうに喋る係員からふたつチケットを切ってもらう。チケットは萃香が買ってくれた。初任給だからさと笑う。正確には初任給じゃなくて二回目のやつだったと思うけれど、言わないくらいのマナーならわたしもポケットの奥の方に入ってる。
「ま、厳密には初任給じゃないけどね」
「それはいいじゃん。べつにぃ」
「日本語、正確な日本語」
「霊夢はうるさいなあもう」
「なにから見る?」
「わたし、お腹空いたわ」
「いきなりかよう、あほ……」
売店で萃香がソフトクリームを買ってくれた。バニラのやつ。黄色い錆びたベンチに座ってふたりで食べた。目の前の檻には小さな熊がいた。大きな木の影の元でぐだっと気持ち良さそうにうつぶせに伏せっている。怪獣みたいね。ちっちゃいなあ。そうね。ソフトクリームは甘い味がする。
一周するのに30分もかからないような小さな動物園だった。それを三時間もかけて回った。木の上で眠るふくろうを見て、珍しい猫を見て、水の上でたゆたうカピパラを見て、うさぎに人参をあげて、二匹の猿が喧嘩するところを見て笑い、アライグマに関する嘘を2つ披露して、ソフトクリームを3つも食べた。この街にまだたくさん人が住んでいた頃はもう少し盛況していたのだろうか、動物もいない空っぽの檻もたくさん見受けられた。ネームプレートもすでに剥がれているような檻も多くあり、その環境の名残から昔そこに生きていた動物をわたしたちは想像し合った。
わたしたちの架空の動物園は失敗した動物園だった。淡水の中にシャチが泳いでいた。シマリスが1008匹も住んでいた。ライオンとシマウマが同じ檻の中で暮らしていた。
最後のソフトクリームをベンチに座って食べた。
わたしたちの座るベンチの前にはひときわ巨大な檻があった。そこには何がいたのだろう。わたしはシロサイだと思うと言った。萃香は怪獣だと言った。
「ふふ。あんたってばかねえ」
「わかんないよ。可能性はあるもん」
「第一、それには小さすぎるわ」
「まだ子供だったんだよ」
「子供とかあんの?」
「あるって、怪獣島の決戦見たでしょ? いるんだよ」
「駄作じゃない」
「はぁーあ。霊夢は何もわかってないんだから」
「やっぱ怪獣入れるのにはちゃっちすぎよ、この檻」
「だから、出ていったんだよ」
「うえぇ。動物が好きな人って動物園から動物脱出させたがるわよね」
「そうだよ。解放するんだよ。夜に忍び込んでさ」
「うちペット買う余裕ないわよ。フランだっているんだし」
空っぽの檻。
そこにいた動物たちは今はどこにいるんだろう。
でも、どんな場所で生きたって、結局は同じだろうな。
ここには動物園特有の不思議な匂いがある。いろんな動物の匂いが混じり合って、まるで、いつかどこかで嗅いだはずの大きな動物園の、あるいはもっと古い記憶に結びついて、なんだかいなかったはずの動物さえここにいるような気がしてしまう。
名残り。
もっとたくさんの動物のいる動物園に行ったことが過去にあったんだろうか。
どうしてだろう、昔のことはあまりよく思い出せない。
あるとき、わたしの思い出たちは、まるでこの動物園にいたはずの獣たちのように別の場所へと旅立って、今では空っぽの檻とかすかな懐かしい匂いの名残だけが頭の中に残っている。
ときどき少し寂しいような気持ちになる。
わたしの頭の中にいた怪獣。
この小さな檻を破って、遠い場所、わたしの知らない心地よい場所に今も暮らしているのなら、それでいっか。
わたしはここで、空っぽの檻の中でも生きていける気がするから。
萃香とふたりなら。
そっと手を取ると、萃香がわたしを見た。
それを握りかえしてくれる。
夕暮れ。
怪獣を見に行こうとわたしが言うから、わたしたちは行った。
園内の”ふれあいコーナー”。
小さな柵の中にたくさんの犬たちがいて。
犬なんかどこでも見れるし触れ合えるじゃんと萃香は言っていたけど、わたしはそのかわいい犬たちにずっと触ってみたいと思っていたのだ。
寄ってくる人懐っこい犬たちとわたしがじゃあっているのを萃香が見ていた。
そのうち一匹の頭を撫でながら、わたしは萃香を振り返って言う。
「ほら、見て、見て、萃香。怪獣よ」
「ただの犬っころだろうが」
「ねーあんたは怪獣だもんねー」
その犬を抱き上げて後ろに隠れてぐぅるぅおおぁおおと怪獣の鳴き声を真似をしたら、萃香が笑った。
おしまい
ふつうなら、霊夢さんが魔理沙をぶん殴って幻想郷をとりもどしました、めでたしめでたし、で終わりそうなところを、そうはならないで、霊夢さんと萃香(とフラン)はこの世界で暮らしていくんだな……というのが味わい深かったです。
万物論や、テレビを隔てた霊夢と魔理沙、ザナドゥという新しい楽園、ゲームボーイにプレステと、登場する設定や装置がすべて興味深く、なんだか馴染みのあるのに新鮮でした。
面白かったです。
面白かったです。
なんだろう、頑張って生きていきます。
テレビの中で夢を叶えた魔理沙とは対照的に、霊夢と、霊夢の傍に居た萃香はどこまでも今を生きているのだと感じます。それが幸福なのかはわからないのですが、最後に動物園で二人で楽しそうにしている様が、とても愛おしく思えるのです。
幻想郷は滅亡という形ではなく、一つの終わりを迎えて、退廃的で寂しく思いましたが、新しい何かが始まったような、それこそ指向性が変わってしまったテレビドラマの二期にちょっとだけ期待するような、そんな感覚に陥りました。
Aで始まってℤで終わる展開は、心がゆっくりと沈んでいく、遅効性の薬物のようで、感情の行き場を無くしてしまいそうになりました。とても辛いのですが、一度終わった世界も決してそんなに悪くないと、そう思えるからこそ余計切なく感じます。
素晴らしい作品をありがとうございました。
霊夢も萃香も幻想郷の中の大きい存在から爪弾きにされた孤独な者同士(フランドールもある意味紅魔館の中に居られなくなった者でしたし)、外の世界で肩を寄せ合って生きていくのでしょうか。魔理沙が夢を実現させ幻想郷へと戻り終結したのとは対照的に、霊夢や萃香にとってはこれからが夢を叶える旅路だと良いなと思います。『ふたりで鬼退治に行』かなくても、世界は続くのでしょう。
あとは大妖精のような彼女、彼女の送る手紙も物語の中でかなり輝いていて好きでした。待つ事が出来た彼女、置いて行かれた彼女、番組を見て貰えた彼女。彼女は果たしてあの晩にどちらの世界を選んだのでしょうか。でも彼女はどちらでも楽しく生きていけるような気がして、その問いは本質じゃないのかもしれません。どちらにせよ自分の選んだ場所で楽しく生きていければ良い、そんな象徴のようですらありました。
途中まで読んだ時、自分は最後のZは”zap”――テレビの電源を落として物語が終わるのだと思っていましたが、"zoo"で二人の生き様を美しく描いて終わってくれて、期待以上の爽快感が得られたものです。ご馳走様でした。面白かったです。
こちら側に残った一欠片の萃香、捨てられた萃香の一つであったそれは、彼女の人懐こく寂しがり屋な側面であったのかな、とも思います。幸せになってほしい。
そしてフランちゃんが……フランちゃんが良すぎる……気まぐれなようでいて根のところが凄く真摯で、軽薄なようでとても優しいフランちゃんが最高に最高で最高でした。ありがとう……ありがとう……
お見事でした。途轍もなく良かったです。
この話を読み終えたら自分は死ぬんじゃないかと思いながら読んでいましたがどうやら生きています。
きっと私の知らない所で皆も生きていくんだろうと思えました。
ありがとうございました。
この作品は、万物理論を開発した魔理沙によって幻想郷が成り立たなくなる、言ってしまえば破滅を迎える訳です。ただそうは言っても皆んなその破滅に恐れを抱いているのかと言われれば、全くそうではなく、皆無関心であり、穏やかに変化に流されるままでありました。全ての元凶である魔理沙さえも誰に恨まれるような雰囲気もありませんでした。読者である自分もその雰囲気に飲まれたのでしょうか、魔理沙に対して何か不快感を覚える事はなく、そのまま受け止める事が出来ていました。
この作品の霊夢は異変を解決しなくなった、病気になったのでないかなど様々な事を言われていました。霊夢自身もそれを自覚していました。しかし結局の所、万物理論と1番戦っていたのは博麗霊夢でした。万物理論に敗れ、戦う意義も以前の生活の記憶も曖昧、または忘れてしまうなど様々な事が起きましたが、それでもやはり最後には魔理沙ともう一度以前のように暮らしたかったという願いを思い出し、それが叶わない事を知って別れを決断する彼女の決意が本当に美しかったです。大切なものとの永遠の決別、その巨大な喪失感を読者に与えながら終盤にそれを回収するような爽快感に満たしてくるのは本当に素晴らしいと感じました。
今作品の萃香は霊夢が生きていく意義の一つであるという言ってしまえばヒロイン枠であったと思うのです。彼女は、まあ沢山居ました。どれもこれも萃香であったんですけど、アンチ万物理論を用いた萃香も結局は捨てられた萃香の仲間になってましたね。霊夢にとっては裏切りみたいなものもありましたけど、小さいながらも最後に霊夢と共に居てくれた萃香が居てくれたのは救われたという感じで本当に良かったです。
フランドールに関しては、かなりカッコいい役回りでした。自分は、主人公を積極的に関わる事はしないながらも、見守ったり何だかんだで手伝ったりアドバイスしてあげたりとそういうキャラクターが好きなので、このフランドールはそれに完璧に当てはまっていたのでめちゃくちゃ好きでしたね。台詞回しも好きだし、資格の話とかも好きだし、何より結局引きこもってゲームばっかしてる所とか彼女らしくてとても良かったと感じました。
この作品を書いてくれた事に感謝を。読むのが辛くて辛くて堪らなくて、少なくとももう一度読みたいとは思えない話でしたけど、読んでよかったと心の底から思えた作品です。ありがとうございました。
といっても、いつもの幻想卿の面々がわやわややってるヨタ話としても楽しくて、一晩で読み進めるうち何度も声を出して笑っていました。
どーなつの穴のように欠け落ちた大事なものの周囲を何度も何度も巡る、空獏とした物語はとても懐かしかったです。
この世界に出てくるすべての世界、幻想郷も、テレビの中の世界も、アパートの一室も、ザナドゥも、一貫して非現実的な場所なのに、しかし確かにその世界における現実が存在していて、じゃあ架空と現実の境界っていったい何なんだろう、と考えさせられました。