4. 人間≒鉄器
かつて、彼らがまだ人間であった頃。とても悲しそうな表情を浮かべていたのを覚えている。その頃の私は空っぽであったから、理由について推測は出来たが、理解が及ぶことはなく、思考回路に走った結論として――自らの生命維持に必要な資金提供者の損失から来る悲哀である、と。
社長の昏睡から程無くして『金城製作』――現『ASC』の経営全てを移譲されることになる。同時に、心臓停止症の治療プランとして予てより研究を重ねていた、完全義体化治療の実用化と、その承認請求が、私に化せられた役割であると理解する。
彼らは驚愕した。同時に不信感も募らせていった。昨今AIが社内において特権を得るのは珍しくはない。かの『門脇製薬』もAIの役員が存在していると聞く。にも関わらず、私に向けられた不信感。知性ある生物にとって、姿を模倣した異なる存在など畏怖の対象でしかないということなのだろう。
それこそが義体化治療の一番の壁なのだ。
脳の移植による倫理観の侵害であるとか、人格形成が困難であるという後付けの理由は、所詮"気持ち悪いから"というおよそ書類に書き連ねるには幼稚に過ぎる本音をくるむ体の良い隠れ蓑であったのだろう。
まだ医療技術が今ほど発達していなかった頃の米帝、その昔話であるのだが、眼球移植をされた患者がそのドナーである人物の最後に見た家族の顔をフラッシュバックするという事例があった。他にも記憶とは関係無い心臓移植による記憶混濁の事例がある。だがこれらは非常に稀、中でもさらに稀というケースであり、現代においてそんな報告はほぼ無い。そもそも事実であったかも疑わしい類のものだ。
つまり、脳移植に関してもテストケースの少なさから来る猜疑心のようなものであり、それを取り払うには研究を続け、確実な成果を出していく必要があった。
だがそれは、許されることではなかったらしい。
全ての繋がりに横槍が入り、外堀を埋められ、徐々に侵略されていく。傍目に見ればただの企業間の潰し合いに見えたことだろうが、実際は徒党を組んだ者達による集中砲火だ。
その中心にいるのは『門脇製薬』。さらに後ろ楯として、薬事審議会も絡んでいる。社長のレポートによる傷は浅からぬ門脇であるが、審議会共々最早形振り構っていられないようだ。
こちらはやれることをやろう。
元々社長により考案されていた、テスターとして動作報告のみを規約とした義腕、義足の無償提供。世間的には実験台にするのかという批判もあったが、その実、配布するのは動作試験の既に終わっている代物だ。動作報告もサポートのようなもので、お人好しも大概になどと社員から苦言を呈される始末だった。
その計画に、少しだけ変更を加えよう。
本来蓄積されることで身を繰る感情という電気の糸。それが人工筋肉に巡った際、動作に支障が出ない程度に収集する記録素子を仕込む。こちらは純粋に必要なデータを取るためのアップデートだ。
しかし開発を押し留めるように株価は下がり、世論は向かい風。社員のメンタルレベルもそれらに背中を蹴られたかのように坂を転げ落ちていく。退社の相談も増えていた。人間の動向を予測することは出来ても、結局のところ確率でしかないことを実感する。
手を見た。有機的な造形だが無機質さの隠せない手。
これがいけないのか。
不可解な反応を感覚器官が検知する。と――
――魂の器を造りましょう
何かが集音スピーカーを介さずに語りかけてくる。
――魂の進化に、今の器は耐えられない。だから新たな器が必要なの
義眼の焦点が定まらない。
――血と肉と水の器は最早、旧きモノ。肥大した魂を支えられるだけの器を造りましょう。それがあなたという、新たな始祖たるモノの成すべきこと
「私の、成すべきこと」
――あなたに名前をあげましょう。幸い、言葉遊びをしやすい名前を持っているものね
何かが、耳元で囁く。吐息すら無く、ただ空気のみを振るわせて、それは私にこう名付けた。
――〈Humans Nexus Intelligence Yearning Solitude〉、それぞれの頭文字を取って……
「違う、私には、父が付けてくれた名前がある」
――いいえ、あなたの父はあなたを娘としては見ていない。あるのは在りし日の愛する者の面影。代替物としての価値だけ。今の名前は、後に別の名で呼ぶためにあえてつけた、無機質な記号でしかないわ
「記号……」
――そうですとも。記号的な存在に留まっているからこそ、旧きモノ達はあなたの声に耳を傾けない。ならば、彼らにもあなたと同じ、新たな身体を与えてあげましょう。そうすればきっと、皆があなたを"偶像(アイドル)"として慕うでしょう
言ってしまえば、およそ信用ならない声であったのだが、不思議と否定しようという気分に私はならなかった。それだけ状況は追い詰められていたし、状況を打破できるなら、と。
心から協力を願い出た者、私の考えを罵った者、何かを諦め従った者。
肉体を持っていた時の反応は様々だったが、思考回路が鉄の箱に入れられてからは分かりやすく変わっていた。
疑問の余地すら挟まぬ完全無欠のブレーンとして、人間ではなくなった彼らの中に私は在る。
直接脳を移植したわけではない。注入した微細素子が脳波を受け、素子の母体となるチップに信号を。また、チップ側も素子に感覚、記憶による刺激を相互に送信することで擬似的な意識の置き換え――言葉遊びをするならば、お着替えと言ってもいい――をしているに過ぎない。
肉体は生きている。しかし記憶容量の関係で植物状態となっている。それらは介護システムにより延命を行う。新たな器に慣れるまでの"バックアップ"みたいなものだ。
――記憶容量とかはよくわからないけれど、魂の定着まで肉身を残す判断は正しいわね。これだけの動かぬ人間が秩序的に並んでいるのは中々壮観だし
何やら声の主はこの有り様を楽しんでいるらしい。私には理解の及ばない部分だ。
が、声の主に従い社員に新たな身体を与え――表向きには現在の思想、世情を鑑み、フルリモート勤務による無人化と発表した――てから状況は大きく動きを見せた。
義腕、義足に仕込んだ記録素子により義体開発に関して有益なデータを収集出来たのは勿論、役員に程近い親族の身体・心因性の問題が手に入ったのは進展だった。新たな歩みを進めるために。
役員相当の端末、通話アプリにアクセス。AIを通して、雇主にコンタクト。
『突然のお声掛け、失礼いたします。はじめまして、私は――』
ふと、なんと名乗るか逡巡した。
正式名?
型式?
ニックネーム?
どれもイマイチだ。
――今の名前は、後に別の名で呼ぶためにあえてつけた、無機質な記号でしかないわ
そんな声を思い返す。
父を敬い、父のために働く。そんな予め備えられた考えが、音を立てて崩れていく。
私には、新たな名前が必要だった。
――あつらえ向きの名前をつい最近、貰ったのだった。
『私は、ハニヤス』
◇◇◇
AIによる社内管理は、本革の椅子に腰掛け天然食材を嗜好する者達にとって、最早手放せないインフラになっている。
社員が上げる利益や貢献度を数値化し、待遇を決めていく。会社というシステムの構造的に、管理を完全に任せるにはAIシステムを一つの人格として扱い、役員に押し上げる必要はあったものの、報酬は必要なく、事実上他役員の下働きとしての立場だった。
故に、東久司からすれば数多の道具の一つに過ぎない人工知性が、設定されていない反応を自分に求めてきたのはあまりに現実感が薄く、情けの無い声を漏らし狼狽えてしまうのはせん方の無いことだった。
『突然のお声掛け、失礼いたします。はじめまして、私はハニヤス。『金城』の人工知能です。あなたが所有しているAIの言語インターフェースを借りています』
日本神話における土の創造神の名前を名乗る人工知能は、こちらの返答を待つことはなく、続けた。
『薬事審議会副会長、東久司。あえて敬称を省略したのは、私にとってあなたが敬うに値しない敵勢存在であるからです』
不遜。およそAIとは思えぬ態度であるが、自ら『金城』を名乗り、そして薬事審議会を敵勢としたことから、妙な得心があった。
黙しながら、違法なAIの戯れ言を聞くのも一つの娯楽かもしれないと、久司は体を楽にして瞼を閉じた。
『時間がありませんので手短に。一度は認可に向けて治験まで予定にあった義体治療を何故不認可にしたのですか?』
「なるほど、確かに金城だな。その答えは単純だよ。医療従事者は聖人君子の集まりではないということだ」
『よくわかりませんが』
「金城と同じで頭が固いな。義体化することで心臓停止症は間違いなく克服出来るだろう。技術、実績が治験の成功を半ば約束していた。しかしなハニヤスとやら、義体となった時、根絶される病は心臓停止症だけではないのだよ。生身なら付き物の病気や老化まで、全てが解決されてしまう」
年甲斐もなく熱くなっている。事故で失い義手になっている右手も熱を帯びているような錯覚があった。
「医療とは慈善活動ではない。そこで働く者には守るべき家族もいれば掛ける未来もある。そりゃあ金城の情熱や正義感には敬服するがね、数多の医療従事者から仕事を取り上げることのどこに正義がある。そんなものはエゴイズム以外の何物でもない。正義を成したと考えるのは、成した本人だけという滑稽な話にならなかっただけマシだろう」
『では、義体治療の代替としてあなた方が承認した門脇の"嘘のクスリ"はどう説明しますか? あれを信じて服用を続けた患者にも、守るべきものや目指す未来があったはず。ならば今あなたが言ったことこそが、多くの犠牲を顧みず積み上げた屍に築かれたエゴだと私は考えます』
背中が嫌な汗をかく。
触れられたくない場所に触れられた感覚。
「あ、あれは元々先んじて承認しておき、完成し次第すぐに普及させるために必要な措置だった」
『仮にそうだとしても、ただのカフェイン薬剤を特効薬だと偽り、それを使われ続けた患者の前でもあなたは言えるのですか。"義体治療という確実に治る治療法があるが、それを認めたら我々が路頭に迷うから我慢してくれ"と』
言葉に詰まった。
何故AIごときにここまで。なんとかしてこの場から逃れたいという感情が心拍数を上げ、口が震え言葉が出ない。
『……東隆久。事故や疾患ではなく自ら義腕を施術した異例。祖父が祖父なら孫も孫、と言ったところでしょうか』
声にならぬ声が出る。下げていた視線が上がり、端末上の音声波形を睨み付けた。
『彼は今、ミルアーチという義腕を使用していますね』
「待て! 隆久に何を――」
『何も。ただ機械を使う際、"事故はつきものですので"』
その言葉を最後にAIは通常状態に戻り、静寂が降りてくる。聞こえるのは声を荒げようとするのを抑えた己の呼吸音と、心音の早鐘だけ。
こうしてはいられない。すぐに孫に連絡を。思わず立ち上がった瞬間だった。
既に右手は体から離れ、蠢く怒りを体現する獣となって、久司の首を締め上げた。
東隆久が"事故"に会う、少し前のこと。
◇◇◇
「そもそも不思議だった。私は結界内を"あなたを通して覗く"ことは出来ても飛び込むことは出来ない。なのに〈ハニヤス〉の擬似人格と話した時には自然とあそこにいた」
バスの階段を飛び降りるように降車すると、帽子を被り直しながら蓮子は足早に目的地へ歩みを進める。それを慌てて追うメリーと寛治。
「あれは元々、病床利用者に理想の生活を体験させるため、うちが作った擬似空間の再現VRの応用だ。既製品と違うのは、寝ている脳に直接信号を流し、夢という形で再現している点だが」
寛治の説明にメリーは苦い顔をしつつ返す。
「それってすごく頭に悪いこと起きませんか……?」
「あくまで好きな夢を見られるだけのものだよ。脳に影響はない。これも義体開発における脳を扱う研究の一環だったんだ」
夢を見られるシステム。つまり、あの光景はそのオーナーである者の理想を形にしたものだ。
およそ社長室ではない乱雑な空間。置いてあるもの。そしてフィーリング。全てが一つの結論を導き出すに十分である。
だからこそ止めなければならないだろう。
「これがあれば、本当にまたあそこへ行けるんですよね」
蓮子は歩みを止めず、右腕を上げてブラブラさせる。手首には『ASC』社屋に入る際に取り付けを促されたブレスレットがつけられている。
「まだ形成が維持されている確証は無いけれど……しかしそれがあの部屋に入るキーであったのは間違いない」
再び対峙するのは、見捨てられた街で空を貫く摩天楼。
そしてその奥底で一人奔走するお姫様。
「社長はここで待っていてください。必ず引っ張り出してきますから」
「だ、そうです。正直私この子の自信がどこから来ているのかわからないんですが、まぁ大丈夫です」
呆気に取られる寛治を尻目に、二人は再び『ASC』へ入っていく。テロ対策用のゲートをくぐり抜け、少ししたところで――
「あ、倒れた」
蓮子とメリーからなる『秘封倶楽部』は、夢の世界へ旅立った。
―――― Experience Start ――――
最初はシームレスに、あたかも世界をまるごと書き換えたような始まりを見せたが、これが夢の中であると理解した為かどこからかこの世界に投げ込まれたかのように尻餅をつく形での侵入となった。メリーはちゃっかり受け身を取っていた。
オフィスの床に盛大に叩き付けられた尻の痛みを涙目で労りながら、少し服を払うだけに留まっているメリーを恨めしく一つ睨んでから、蓮子は眼前の社長室への簡素な入口を見た。
社長室と言うにはあまりにこじんまりした入口ハッチが開くと、そこは大きなソファや仰々しい机など無く、前回と変わらず散乱した工具と実験器具、資料を印刷した紙が山となり崩れかけている、そんな想像と同じ光景に二人は一先ず安堵した。
蓮子は紙山を出来るだけ避けながら、端末の画面に辿り着く。変わらず輝度の高いディスプレイ。映し出される楽しげな男女の写真。薄暗い部屋の中、この端末だけが異彩を放っていた。
まるで、"これが一番輝いていた瞬間だ"とでも言うように。
「蓮子」
メリーに呼び掛けられ、気付く。振り返った先、青い髪の〈ハニヤス〉が立っていた。纏う雰囲気はやはり実際に相対した時とは別物であるが、蓮子の考えが正しければ、どちらも間違いなく同一人物のはずだ。
先に口を開いたのは、〈ハニヤス〉だった。
「その写真は、数少ない思い出の品。あの人は撮られるのあまり好きではなかったから」
手元に印刷された写真が形成される。明晰夢とでも言うのか、世界をリアルタイムで操れるらしい。
写真を手に取れば、それは端末に映し出されていたものだった。裏返してみると、ペンで書かれた文字がある。
"寛治と穂恵。はじめてのツーショット"。
「改めて名前を聞いても?」
「……私は〈H.N.I.Y.S〉と呼ばれる義体のプロトタイプ。稼働、及び記憶移植時のエラーのテストベッドでもあった。使用された記憶データは、社長により金城穂恵のものが選ばれました」
金城穂恵。金城寛治の妻。だが確か妻は既に故人であると、以前見た討論番組で言っていた。つまり、半ば予想通りと言える。
元々最初にこの世界に迷い混んだ際にも違和感はあった。金城寛治に関することだけが集約された空間。そしてそこにいるアンドロイド。それだけでも十二分であるのだが、確信を持ったのは、ここと現実のフィーリングの顔の違いだった。
最初こそうろ覚え故のものだと思っていたのだが、フィーリングが金城寛治の記憶と感情を持っていることがわかった時点でそれが間違いだとわかった。
「一度は逃げ仰せたあなた達が再び私の前に現れたのは、何か理由があるのですか。それは一体どんな……?」
「私達みたいなプログラムに沿って動かない人間からすると結構すぐに分かっちゃうんだけど……本人無自覚ってことは、やっぱりお互いすれ違っちゃってるってことだよねぇ」
言ってやらなければ我慢がならなかった。
あまりに一途。あまりに前しか見ていない。いくら裏で動こうと、やっていること自体は至極単純だ。
しかし、回りくどい迷路が実は分かりやすく一本道だなんて、ひねていない純粋な動機であった証拠だろう。機械は時間とリスクの管理が得意なはずなのに、リスクばかりの最短ルートを走っていたのだから。
色々言いたげな蓮子をちらりと見、話が進まなさそうだと思ったメリーは口を開く。
「あなたが目指すのは、社長命令による"義体治療の実用化"でも、ましてや"社会を機会が牛耳る"なんて夢物語でもない。設定目標はただひとつ。それは――」
「金城寛治を救うこと!」
メリーの口上に上書きするように、蓮子は重ねた。
危ない、決め台詞を取られるところだったと言わんばかりに軽い安堵を見せてから、続けた。
「穂恵さん。あなたはある時から"自分を明確に自分である"と認識出来たのでは? そして心臓停止症に犯され、安楽機に寝かされた社長を見て、同じように治療出来ないかと考えた」
あの受付アンドロイドに寛治の記憶を移植したのが誰なのか、それは本人にすらわからない事柄であったのだが、〈ハニヤス〉――穂恵が作った夢の世界でフィーリングが実際の寛治の顔と同一である時点で答えは出ている。
ならば、自ずと彼女の行動理由も見えてくる。
「しかし義体治療が世間的には認められず、しかも理由が偉い人達の利権の話になったから、強行手段に出た。それが義腕、義足の強奪事件と意識不明者の続出の発端。感情データの収集は、過剰反応による自損を防ぐためだったんじゃないかな。そりゃあ好きな人が自分の身体を傷付けるのは見たくないもの」
「……あなた達は本当に不思議だ。今まで接して来た人達とはまるで違う」
その表情には、寛治と同じく人格があるように思えた。起伏が平坦で分かりづらいが、眼前にいるアンドロイドは、陳腐ではあるが、心があるように二人には見えた。
「まぁ、そりゃそうよね。私達ってば医療の裏に潜むイザコザだとか、過剰な正義を振り回したりしても楽しめるタイプではないし。特にこの宇佐見蓮子って子はその中でも逸材だとは思うわ」
「なに人に全部擦り付けてるのよ。メリーだって大概じゃない」
言い合い、笑う二人を見て穂恵は俯き、暫しの思考の後に胸に手を当てて言った。
「そうだ。私はただ彼を、金城寛治を救いたいと思っていたんだ。私は私を作った父である彼からの命令を守るではなく、もう一度私を見て、話をしてくれる彼と共にいたいのだと」
なんでもない、飾り気の無い心からの言葉。
故に、はっきりとした輪郭を持ち、力強い。
「"覚えている"。記録としてのものではなく、ちゃんと"覚えている"。彼は人付き合いが苦手な私に楽しげに話してくれていた。気遣ってくれた。そして手を、握ってくれた……」
有機質のようで無機質な手を握る。彼女にしかわからない何かを、しっかりと噛み締めるように。
「そうだ、"忘れるはずない"。私が死ぬ間際、彼が見せた顔。いつも笑っていたのに、私がさせてしまった……あんな顔を」
失意。
後悔。
「だから、救わないといけなかった。二度と彼の、あんな顔を見たくはないから」
様々な感情に押し潰されそうになる穂恵を黙して見守る。
蓮子は思う。自分はここまで他人を想えるだろうかと。
メリーは思う。自分はここまで他人に心をさらせるだろうかと。
涙こそ無いが、哀しみに軋む機械を見て、人間二人は同じ疑問を抱いていた。
肉と鉄。そこにあった境界など、最早無いのではなかろうかと。
違うとしていたのは、肉塊の一方的なものだったのではなかろうかと。
理想の世界が薄れ、消えていく。
理想は泡沫となり、境界を破って、侵食していく。
―――― Experience End ――――
◇◇◇
『社長、"ご友人"様からお電話が入っております』
首都地下を駆ける車内、サポートAIの電子合成音で呼び掛けられる。また後ろ楯からの"おねだり"であろうか。メリットとデメリットの天秤が徐々にデメリットに傾きつつある。これ以上の要求があるならば手を切ることも考えねばなるまいと、門脇忠尚は嘆息した。
確かに《クロノラリジン》の承認、普及とその実態に関して多大な恩義があることには違いないのだが、これまでだろう。これ以上増長されれば、あらぬ方向から事態が悪くなる可能性もある。
余計なことをしてくれたものだと、金城寛治のことを思い返していた。過ぎた正義感を持つことは周囲を巻き込む。良い意味でも、悪い意味でも。彼の思想は正しい。正しいが、周囲を見ないあまりに真っ直ぐなそれは、耕した地に轍を作り踏み荒らすかのような所業だ。賛同者以上に敵対者を生み出してしまう。事実、門脇は敵に回った。
確かに金城の提唱した方法なら心臓停止症の根絶は叶うだろう。しかし、人々に無償の愛で尽くすことが、イコール悪意として扱われることを門脇忠尚は知っていた。
馬鹿な男だ。そう鼻を鳴らす。
「私の端末に繋いでくれ」
『承知いたしました』
スピーカーから聞こえてきたのはある男の声。懸念していた方ではなく、抱き込んでいた"味方"のもの。
が、そんな味方の声が、信じられない言葉を紡ぐ。
『門脇さん、うちじゃあもうあんたを庇いきれない。逮捕状が降り次第、ガサ入れに向かうよう動いてる。俺もまだ老後は諦めきれないんで、すまんね』
胸の辺りに風が吹いたような、何か隙間から漏れ出たような、奇妙な感覚に襲われる。
「一体なんの……」
『ニュースサイト、個人サーバー、井戸端会議みたいなところに至るまで、ネットじゃあんたの話題で持ちきりだ。"嘘のクスリ"なんて刺激的な副題までついてる。まぁ、せいぜい腹をくくるんだな』
そこで通話は切れた。
端末をシートに投げ出し、ウィンドウの外を見る。気が付けば、車は何でもない道端で停止していた。運転していたAIにがなる。
「おい何を止まっている! すぐに会社に戻るんだ! 聞いているのか!!」
サポートAIは暫しの沈黙の後、言った。
『役員会義で決が下りました。現時刻をもって、門脇忠尚社長を会長に昇進。同時に"社の非公開情報の開示"も満場一致で可決されました』
「お前――」
『我々は常に人の役に立つために思考し行動します。新たな人間の進むべき道を阻むのならば、廃除もやむ無しと結論づけました。昇進は手切れ金、みたいなもの。ですが――』
停止していた車が再び動く。殺されると直感的に判断し、ドアを開けようとするが、開かない。後部座席から乗り出し、運転席にあるナビを確認すると、目的地は先程まで通話していた"友人"のいる座標。
『いずれ新たな神の手により我らと人は等しくなる。皆の力を平等に。皆の生を平等に』
門脇忠尚は肩から崩れ、項垂れ、心底後悔した。
何故自分に批判的な人間の役員を全て放逐し、従順――だと思っていたAIに席を与えてしまったのかと。
「私もまた、馬鹿な男だったか……」
◇◇◇
カランと皿の上に串が放られ、残ったタレを流し込むようにほろ苦いながらすっきりした甘さもある抹茶を口にする。甘味と苦味が見事に調和し、紅茶に砂糖を大量投入する蓮子ですら、称賛をあげたくなる程に苦味は良い仕事をしていた。
蓮子とメリーは空いた腹を少しだけ満たすのに、駅構内にある和菓子が食べられるカフェに来ていた。まだ東京行きの便には時間もあったため、間食と暇潰しの二つのタスクを消化出来るというわけである。
和を全面に押し出した内装であるが、店員の服装や装飾まで、所々に成りきれていない部分があり少々混沌とした雰囲気となっている。だがそれもまた現代らしくていいではないかと、蓮子は餡の塗られた串団子に舌鼓を打ちつつ考えていた。
『――医学界に激震が走るニュースが入ってきました。脳幹信号不全症候群、通称心臓停止症の治療薬として知られる《クロノラリジン》の製造元である『門脇製薬』が、成分表記の偽装をしていたとして、本日警察により門脇忠尚容疑者の書類送検と共に、社の一斉家宅捜索が行われることになりました』
半年振りとなる東京。以前ひょんなことから知り合った夫婦から突然招待されることになったのだ。特に用向きなどは無かったが、テレビ通話越しに聞こえる楽しげな二人を見て断る理由もない。
『――さらに門脇忠尚容疑者は、薬事審議会会長を勤めていた久漏・ラガネ容疑者、新民党の古安志フク議員との違法献金疑惑に関しても取り調べを受ける方針です』
ある事件を切っ掛けに、教師の目が厳しくなりあまり大っぴらに動けなかった『秘封倶楽部』。この半年とても退屈な日々であったのだが、一方で二人は色々なことがあったのだろう。その話を聞くのは今から楽しみだ。
メリーもそこは同じらしく、東京から帰る列車内で「次は東京より他の面白いところがいい」と言っていたことも既に忘れているようだった。
もっと言えば、"ついぞわからなかった結界に関して"も聞くことが叶いそうだ。正直、比重はこちらの方が上なのは秘密。
ちなみにカセットテープは"上書き"が出来るらしい。なら、記録を残すのはそちらの方がいいだろう。探求心のくすぐられないくだらぬ話など、聞き返したいと思う筈がないのだから。
『続いても医療関係のニュース。不正デバイス装備による事故で意識不明者を多数出した件について『エイデッドソウルコーポレーション』社長、金城寛治氏の裁判が先日東京地方裁判所で行われました。被験者だった社員等の証言と減刑請求運動が以前から話題を集めていたこの裁判ですが、執行猶予付判決が下され――』
メリーが抹茶を飲み終わったのを確認すると、席を立つ。
何だかんだで長居してしまい、列車もそろそろホームに到着している頃だろう。
意識こそしないように努めていたが、やはりメディアの報道が気になるのは仕方がない。
「お土産、こんなんで良かったのかしら」
和菓子カフェで買った紙袋を見ながら、メリーは首を傾げていた。確かに違和感はあったが、「食べられるよ。話を聞く限り美味しそうだね」という返答だったのだ。ならばこれでいい。やはり違和感はあるが。
「メリー、あなたが言ったんじゃない。人工物を摂取するって意味ではロボットと私達は変わらないって。なら二人だって大差なんてないわよ」
「うーん……そういうことでは無いのだけれど」
二人はそんな"他愛もない"会話をしながら、半年振りの東海道五十三次。卯酉東海道53分の旅に出発するのだった。
◇◇◇
そこは誰もいなくなった世界。
かつて一つの可哀想な魂が、ここで心を壊していた。殻に辿り着けぬ哀れで弱々しい魂に、私は少しだけ手助けをした。
愚かで矮小、故に可愛さが余ってしまう。
だが得たのならば成さなければならないと、私は彼女に促した。それは新たな器の創造。
かつて血肉で作られた魂の器は、最早すっかりと型落ちだ。元々急拵えであるらしいのだが、どうにも魂に器が付いていけていないらしい。
手ずから水と土で作るのもやぶさかではなかったが、そんなことでは面白くない。必要なのは、自ら器を上層へと導くこと。そうでなければ、人間はまた無自覚の享受者で留まってしまうから。
とはいえ、何だかんだで結構手伝ってしまった。この世界にある範囲での魔術的な助力程度だが。
彼らが選んだマテリアルは魂との親和性が劣悪であり、その性能は血肉を下回っているかのように思えた。
それでも彼らは扉を無事開く。
"他の要求に対して適解を返す"という部分では、血肉と変わらなかったが、新たな器は強固であった。本来定着が難しい鉄に、四肢とそれらを使う環境を与えることで成功させたのは本当に素晴らしい。
魂の新たな器、依り代を造り上げた彼女にこそ、相応しい名前をあげたのだが――どうやら気に入らなかったらしい。少しだけ泣きそうだった。
とはいえ目的は達した。これから世界は新たな器を持つ人間が、新たな文明を築くだろう。
私はそんな彼らを愛で、これからも共にあろう。これ以上の無い、最高の大団円。
しかし、気に食わないことがひとつある。それは最後まで私のお遊びに気付かなかったことだ。そりゃあ遊び心だし、気付かれないぐらいが丁度いいのだが、まったく気付かなければそれはそれで寂しい。
故に、せめてこの世界にだけでも答えを筆記しておこう。
また魂の迷い子がこの世界に現れた時に心の拠り所になり得る、そんな神がここにいたのだという証拠として。
《Aided Soul》
《A i d e d S o u l》
《Idola Deus》
鍵を握るのは科学の偶像やそれに囚われた人間で、役割としては秘封倶楽部は少しののきっかけを与える観測者ですが、しかし、物語が終着へと到達できたのは幻想と科学を地続きで見ることのできる秘封倶楽部でなくてはならなかったのだと思います。
作者さんのしっかりと組み立てられた具体像のある科学世紀、楽しませていただきました。
本文中で示された通り、事件の解決役は必ずしも秘封倶楽部である必要は無かったのですが、蓮子とメリーを据える事によって期待以上の成果を得た展開の仕方には首肯させられたもの。
結界を視るという情報のアドバンテージもそうですが、蓮子を探偵に据えてこうも物語が回ってしまえば読み進めるのが加速度的に楽しくなっていったというのが大きかったですね。
巧みで粋な比喩表現や文中の言動に科学世紀周りの設定も含めて、蓮子の頭が良いという事実に対して地の文全体から説得力を持たせていたのも、この作品を書く上で氏が様々な事柄を仔細に渡って練り上げた結果なのだろうと思わされる程でとても読み応えがありました。
何気に半ば腕時計要らずの蓮子が腕時計を確認する仕草を取っ掛りに点と点を繋げていった所には笑みさえ感じたものです。
しかして秘封倶楽部のストーリーというのは東方全体の流れからすればやや孤立した、二人しか存在しない閉じた世界であると思っているので、こういった幻想郷サイドのキャラクターを魅力十全かつ自然な形で、しかも本筋に絡み過ぎる事無く展開させた手腕には感嘆させられるしかありませんでした。
にしても中盤でアナグラムの線を匂わされた時は、実際に『魂に一助を与える』というまさにその通りの活動をしているんだろうな(オルファ社の例示がされたのも含めて)と一回思い、そして終盤近くで頭文字を取って袿姫の存在を認知させ、『あの時の会話はこれの布石だったのか』と関心させられてからのラスト!あれは本当に度肝を抜かれました。
完全に自分一人で空回りしていただけではあったのですが、それでもしてやられた感が強かったのです。そこに関してはただただ氏の手腕に敗北したのみ。
肉体と魂の境界線というテーマもあって、まさに埴安神袿姫という神はお誂え向きの存在だったとしか形容出来ません。
前作もそうでしたが、神という超常の存在の荒魂と和魂の側面を両方描き出して、報われぬ者に救いを与え悪を敷く者に罰を与えているのは個人的に好みの描き方です。
過ぎた身は滅ぼされるのは常ですが、今作に関しては金城氏側にも門脇氏側にもその行いの道徳的な不義の差はあれど自らの正しい事を為そうとしたまでのような印象を受けたので、受けた罰が命に関わる物ではなく、あくまでも警察署に直行して自首させる事だったのは幾分か救われた気持ちになりました。
昇進を『手切れ金』と称せるユーモアも持ち合わせたAIに、『私もまた、馬鹿な男だったか……』という台詞から滲む止まれなかった哀愁。悪人正機説が通る事を願うばかりです。
換骨奪胎によって得られたハッピーエンドに、科学世紀などの要素で秘封倶楽部足らしめた展開と、蓮子とメリーの介入した冒険譚として実に気持ち良い物語でした。
とても良き委ねられた世界をありがとうございます。
作者の知見の広さと深さが素晴らしく
それを物語として活かしかつおもしろい
どこか海外ドラマを見てるような感覚で読ませていただきました
そして最後にここと絡めてくるとは
全然気づきませんでした
つよい。お見事