3. 手掛/肉薄
あーあ、そんな声が漏れた。
正確には漏れてはいない。が、アナクロな表現としては最もこれが無難であると考えている。
いくつかの大学のサーバーに忍び込み、本来無かったデータを挿し込み、優先的に選択させるよう"言い聞かせた"というのに、まるで効果が上がらない。
思考のベースがデジタルではない彼らを誘導するのは、やはり至難である。
思考演算は出来るし、確率は上げられる。だがそこに心情という不確定な揺らぎが混ざるだけで数式全てが意味を失った。
いくつかのサンプルを回収出来たため、心情部分の解析は済ませている。そこにあったのは信頼性や地域に対するある種の価値観だった。しかも比重は前者よりも後者の方が大きい。
地域に対する信頼度、不安要素は理解が出来る。開発が止まったメガロポリスの一角、その機能はアップデートが緩やかであり、メンテナンスもそこそこであるが故に不便も少なく無いからだ。
一方、価値観に関してはなんとも解せない。明確ではなく、かつ口から出た輪郭も朧気な理由には何故か嫌悪感すら覚えた。
これでは目的達成には程遠い。別の公算を考えなくては――被造物として、役目は成し遂げられない。アイデンティティの欠如は、存在意義すら危ぶまれてしまう。
傍らのモニタに映る父を見やれば、静かに空を眺めている。
最後に声を聞いたのはいつだったか――いや、求めるのはおこがましいというものだ。
今必要なのは新たな思考サンプル。数は多ければ多いだけデータは精度を増し、完成形に近付いていく。
必要十二分になるよう、プラントは植えた。あとは芽吹き次第収穫に向かえばいい。
怒りの感情ばかりが充実していくのも問題だ。妙なことだが、彼らは怒りによる消費を好む傾向があるらしい。
いくつかの情報媒体をサンプリングしてみたが、どうにも怒りを制御下における個体は希少種のようだ。また怒りを放出することである種の快楽を得ているのだという。近しい反応と言えば、薬物を投与した際のそれだろうか。
が、それも新たな"器"が完成すればコントロールは容易だ。
己の中にいる何かが、ふふ、と笑った。
最近気付いたことなのだが、どうやら身体の奥深くに何かが住んでいるらしい。物理的なスキャンでは見当たらなかったことから、以前父が話していた"魂"という生物のみが宿すという不確かな概念が根付いたのかもしれない。
サンプルの最終チェックの際には理解不能な力で助力をしてくれた。半信半疑だったが、脳内の記憶と感情を変換、保存する手間が省けて非常に助かった。
軟質の素材で出来た胸に手を当てる。検索結果から、魂とは胸部の中にあるパターンが多い。
実際、胸に手を当てカメラを閉じれば、なにか妙な気持ち――妙な反応がある、気がするのだ。
こんな非合理なことを考えるのも、魂の存在の照査と言ったところだろうか。事実として、上手く事が運びきらない現状に嘆息してしまったのだから、否定は出来ない。
通知が舞い込む。
新たな動きをする人間が現れたのを報せるもので、挿し込んだ偽造求人を閲覧している者がいるらしい。
しかも、見学申請まで送っている。
ハッキングした防犯カメラで確認する。
そこに映っていたのは、見知らぬ二人の少女であった。
◇◇◇
正に渡りに船だった。
全ての発端である学校からのメッセージ、紹介企業へ見学の約束を取り付けること。就職が目の前にある者であれば躍起になるコネクション作りも、二人やその同回生であれば大した熱量も持てぬ活動でしかなかった。
が、それも今やサークルの活動内容に密接した内容に変化している。例えるならば、水と油であるサークル活動と就職活動に繋ぎとして、事件という添加物を入れることにより乳化したようなものだ。そしてより混ぜ合わせる為に、細くても、よくかき混ぜられるマドラーがいる。
学内の共用端末から『ASC』へ見学希望申請を出したのだ。先方からは即座に返信が来た。テンプレートによるものであったが、了承の旨が記載されており、無事マドラーを手に入れた。
背後、親指を立てる蓮子を見て苦笑する。
病院から戻るやいなや、次の行動を起こす彼女に少しの憧れを抱きつつ、メリーは改めて『ASC』の公式ページを開き、眺めはじめた。
「どうしたの? 今更TOPページなんて開いて。別に放置してても裏ページなんて現れないし、エイデッドのロゴがアナグラムよろしく並べ替えられて別の名前になったりしないわよ?」
「……試したの?」
「……いえ?」
試したのか。なんと暇な。
「でもアナグラム、ねぇ。実際よく分からない社名だもの、魂と補助器具ってまるで関係無いじゃない? 案外その線当たってるかも知れないわね」
日本企業の特徴として、実は造語で日本語由来の言葉遊び的な意味を持っている――そんな社名にする所は存外多い。有名どころで言えば、折れるカッターナイフを作り続ける会社なんかが分かりいいだろう。
一方、『ASC』は一見意味が通っているようだが、その実まるでわからない。理由として、あまりに実績と社名が乖離してしまっているからだ。魂というスピリチュアルな分野とは無縁であるはずの医療機器メーカーにつける名前としては不相応だろう。キャッチコピーの"あなたの魂に一助を"というのもまるで社名に合わせたような、取って付けた感は否めない。
そこで、アナグラムという方向性となるのだが――これには一つ問題があった。それは、答えを知らなければどうしようもないということだ。
何百、何千、何万通りにもなる可能性をしらみ潰しに当たるというのはいくら暇な蓮子と言えど匙を投げることだろう。
「まぁ社名とか今はどうでもいいわ。見学しにいくって話だし、一応それなりに調べないといけないじゃない? そこんところ、メリーさんはどうする?」
「どうするって? 会社の成り立ちだの基本的な思想なんか適当に聞けばいいかなってぐらいだけど」
「えー! そんなのダメよ。せっかく直に社長に聞けるチャンスなのよ? 今までの諸々聞きたいじゃない!」
「まさかとは思うけど、強奪事件と結界による記憶閲覧に関して面と向かって問い質すわけ? 突然ロボットに囲まれて暗い部屋に放られても知らないわよ?」
しかし気持ちは理解していた。見学の話は蓮子が持ち掛けたものだが、それに反対しなかったのは、そもそれしか糸口が掴めないと踏んだからだ。まさに虎穴であるが、それもよし。
勿論、準備が無いわけではない。一度足を突っ込んだ以上、必要以上に引っ掻き回さなければ気が済まないのはメリーもまた同じであったからだ。
「だから聞くべきは思想と成り立ちなの。それらには必ず結実するべき終着点がある。何を実現したいのか、それがただの理想やパフォーマンスなのか、はたまた本気なのか」
完全に当てられているなと理解はしているが、最早止められない域にまで達していることもまた事実。
有り体に言って、楽しくなっていた。
「以前くだらない番組のコメンテーターが言っていたでしょう、『ASC』の前進企業は『金城製作』だって。それに東先輩も、サポートは"金城製作アフターサポート"だって言ってた。だからその頃のことを調べてみたの」
鞄から自前のタブレットを取り出し、保存されている動画ファイルを再生する。それは今から数年前に放送されたテレビ番組であった。経済に関するあれやこれやの論説を声を荒げながらぶつけ合うだけという、何ら意義の無い粗末な内容のものだ。そしてその回のテーマは医療の進化と、これから起こりうるだろう医学的問題にどのように対応していくかというもので、それに携わる人物をゲストに数人招いていた。その内の一人が――
「あれ? これって社長さん?」
一時停止した画面には線は細いが芯の強そうな印象のある男性が映し出されている。卓上のネームプレートには金城寛治と書かれており、肩書は"金城製作社長"と記されていた。
「そう、『ASC』に改名して以後、表舞台から姿を消したミステリアスな社長さんよ。記録に残っていた最後の映像なのだけれど、割と興味深いから見てみましょう」
ディスプレイをタップし、続きを再生。話題は現代医療の現実から、その先の未来への話となっていた。ゲスト達は各々の立場や技術を全面に押し出した展望を演説し、普段はいきり立つ者の多いスタジオ全体がそんな彼らに羨望の眼差しを向けている。実際、未だに不治の病は存在し、また新たに生まれてもいる。それらを少しでも早く治療出来るように研究を続ける彼らは、あたかも英雄であるかのような扱いを受けることは別段不思議ではないだろう。
そんな中、流れが変わったのは件の金城寛治にバトンが渡された時だった。
◇◇◇
『金城さん、あなた以前ある番組でとんでもないこと口走ってたね。あんなことが言える辺り、業界経験浅いからわかってないのかな?』
番組が用意した衣装の白衣に身を包んだ額が後退気味の男は金城寛治が何かを言うよりも早く、嫌味を口にした。明確ではなく、まるで金城にそれを喋らせるように誘導している小狡い台詞回しだ。
『私はそのようなとんでもないことを言ったつもりはありません。むしろ、一つの可能性の話をしたつもりでしたが』
金城は引き下がらず、あえて言葉を濁した形だ。が、男は鼻で笑い、金城が濁した部分を立ち上がり、両手を広げ、スタジオどころか視聴者にまで演説するかのような挙動で追い討ちを掛ける。
『彼は医学を進歩させるのではなく、生身の身体を捨てて機械に生まれ変われと宣ったんですよ!』
一瞬の静寂。そして次第にざわつき、妙な空気が流れる。ドロリとした粘性のそれは、金城への不審感を手助けしているかのようだった。そんな雰囲気に金城は歯噛みし、男は目元を釣り上げる。
目が合った。思わず背けてしまい、余計に増長させてしまった。
『人間から脳ミソだけを取り出し、冷たく硬い機械の身体への移植が彼が目指す人類の未来だと言うのです! ともすれば医療における倫理を無視した行為……ヒトクローンとも肩を並べられる邪悪な発想だ!』
他のタレント、客席、司会に至るまで、全ての視線は二人を行き来し、ある種の疑心を植え付けられていく。
『確かに金城さんは義腕、義足、介護システムなどの身体補助器具がメイン商材だ。それでも最後に辿り着くのが倫理をかなぐり捨て、ロボットに成り下がることだったのは驚きですよ私は』
端から理解せず、する気もなく、ただ蹴落とすためだけの稚拙な言葉の羅列も、愚かな聴衆を取り込むには十分だった。
金城は立ち上がりたい気持ちを抑えるように右手で時計を巻いた左手首を押さえつつ、反論する。
『我々は近年増えつつある"心臓停止症"の治療案の一つとして義体という可能性を提示しているだけです。決して生命倫理を犯すつもりなどありませんよ』
心臓停止症。現代におけるガン、エイズに次ぐ不治の病。脳幹からの信号不全により心臓の活動が止まるという奇病である。脳幹信号不全の原因は不明であり、発見から10年が経つ今でも適切な治療法は見つかっていない。その症状の重さは様々で、不整脈程の異常で収まる例もあれば、突如として心停止してしまう例もある。
その奇病の突破口となるかもしれない治療法の一つが『金城製作』の、脳を除く全ての部位を人工の物に変える義体手術であった。
『既に事故により著しく頭部が損壊した患者の頭を丸ごと人工物にすげ替えた例があるし、ほぼ全ての部位で人工的な物を施術した前例がある。なのに全身となると批判が出ることに、私はむしろ疑問なのです』
平静を装った寛治。だがその内には正しいことを言っているはずなのに、感情から肯定されない男の静かな憤りがあった。そんな論法を、額が後退気味の男、門脇忠尚は鼻で笑う。
『だからあなたは業界経験が浅いと言うのだよ。"大和田脳移植事件"をご存知無いのかね?』
『勿論知っています。ですがあれは関係――』
『いいや関係があるんだよ。スタジオの皆様の中には知らない方もいらっしゃるでしょうから簡単に説明します。――』
新浜市民病院にて行われた大和田氏出頭の脳の移植例。国内においては三例目となる。地下路線事故で全身を復元出来ないレベルにまでなってしまった男子学生の脳を移す手術だった。移植先の身体は既に脳死判定が下された同電車に乗り合わせていたクラスメイト。術後、経過は良好だったが、一週間程を境に事態は徐々に悪化する。意図不明の行動、記憶の混濁、認識の齟齬など、途端に問題が噴き出した。そして数日後、急変した患者は突如頭を押さえながら三階の病室から飛び降り死亡。
この事件には先があり、麻酔医の警告を無視した筋弛緩剤の過剰投与や、そもそも移植先の男子生徒の脳波平坦を確認せずに脳死判定をした事実、また摘出した脳死患者の脳が行方不明になるなど、その杜撰さは多岐にわたるのだが、今門脇に必要な情報は一つ。
脳移植は、生身の身体が受け皿であろうと危険を伴う――その勘違いであった。
『――つまり、脳が拒否反応を示したと言える。全身を代替品にするのはそれの再現にも等しい行為だ』
『言い掛かりも甚だしい! 大体この研究自体薬事審議会に話を通した上で行っていたことだ。何故今になって――』
『金城さん』
席についた門脇は落ち着いた声色で金城に語り掛ける。それは図星をつかれた相手をなだめるような、そんな風に見えただろう。
『あなたの作る代替身体技術、さらに介護システムは素晴らしいの一言だ。海外産のそれとは比べるべくもない。義腕や義足は酷使するアスリートからの評判もいい。介護分野でも、金城の名前を見ない日はないぐらいだ。だというのに、こんなことでは亡くなった奥様も浮かばれませんよ?』
まるで悪者だ。
そして門脇は犯人を説得する刑事にでも見えているだろうか。
『私は――』
拳を握り、前を向き、金城寛治は真っ直ぐ門脇の目を見て言った。
『病気で苦しむ人を、一人でも多く助けたいだけだ』
◇◇◇
以前乗った時と変わらぬ、カレイドモニターに映る東海道五十三次。卯酉東海道53分の旅をあっさりと終えた二人は、地下鉄を乗り継ぎ、観光もそこそこに目的地に到着した。
田舎の中にあって異彩を放つ大企業。聳え立つ摩天楼は、『エイデッドソウルコーポレーション』の社屋である。あまりに大きな物を見ると人は間抜けに口を開けながら見上げてしまうものだが、蓮子とメリーも多分に漏れずだった。
暫し眺めた後、ゲート型の警備システムからテロ対策の簡易検査を受け、許可証代わりのブレスレットをつけてエントランスに入る。ガラス張りの内装で、全方位から見える中庭には申し訳程度に和風の庭が構築されており、日本被れの海外資本の雰囲気である。だだっ広い割に人の気配が無く、東が入院していた病院以上に不気味に思えた。
―――― Experience Start ――――
蓮子はエントランスの中心、受付カウンターへ。そこには一見人間と見紛う男性型のロボットがおり、こちらを確認するとどこか無機質な笑みと、合成音声で出迎えてくれた。
「こんにちは。『エイデッドソウル』へようこそ。この度はどのようなご用件でしょう?」
する必要も無さそうではあるのだが、帽子を脱いで会釈をし、そっぽを向いているメリーを一瞥してから蓮子は手短に用件を伝える。
「御社の見学に参りました。宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンで申請を確認していただけますか?」
思考の表情を取り、一瞬の間を置き、受付ロボットは頷いて再び笑顔を向けてくる。
「確認いたしました。改めてようこそ『エイデッドソウル』へ。将来有望なお二人に御足労頂けたことを誇りに思います。見学内容は既に把握していますので、ワタクシがご案内させて頂きます。ワタクシのことはフィーリングと」
唐突にはじまったことに面食らい、互いの顔を見合う二人だったが、右手をエレベーターの方へ差し出すフィーリングを待たせるのもばつが悪いと思い少しだけ足早にエレベーターへ向かった。
フィーリングの操作でエレベーターに乗ると、ふと病院でのことを思い出した。監視カメラがまるでこちらを意識していたかのような違和感。同規格らしいこのエレベーターにもまったく同じ場所にカメラがあった。が、今回はあの時のような違和感はまるで無い。ただそこにあるだけ、としか思えなかった――しかし、何故だか居心地の悪さはあった。
そんな座りの悪さに顔をしかめたまま、エレベーターは止まり、フィーリングの先導で降りると、そのフロアから見学がはじまった。
「このフロアでは当社の主力商品である代替四肢の設計、デザインが行われています。当社の物が旧来の義腕、義足と大きく異なるのは、これ自身が装着者の癖を学習し、よりシームレスな稼働感を実現させている点です。言ってしまえばこの腕一つが私と同じ人工頭脳を持ったアンドロイドなわけですね。お二人に着けていただいているブレスレットにも簡易ではありますが、同様の人工知能が内蔵されており、体調を常にモニターしています。テロ対策に加え、お客様の安全考慮のためです。では続いてはあちらの――」
そこからプログラム、義腕・義足の成型、顧客とのやり取りに至るまでを見学していった。噂やコメンテーターの言う通り、すれ違うのはロボットばかりで、人間は一人として見当たらない。使われもしないだろうに掃除中の札が出されているトイレや、ウォーターサーバーの気泡が発生する音だけがやけに響く急騰室は、何の変哲も無いのにやけに不気味に思えた。まるで人類が滅びた世界にでも迷い込んだようで、息が詰まる心地である。
案内担当をしてくれているフィーリングが唯一人間の形をしているが、他は無機質でより機能的なそれであるからこそ、余計にそう感じたのかもしれない。
何度目かのエレベーター移動の後、左斜め後ろを歩いていたメリーが蓮子の服の裾を引っ張った。そちらに視線をやると、耳打ちをしてくる。
(見た?)
首をかしげる。何の話であろうか。
(さっきから彼、執拗に時間を気にしてる)
(まぁ、タイムスケジュールとか?)
(そんなものを態々腕時計で確認するかしら。プログラム通りに動くはずじゃない)
蓮子は言われてはじめて気付いた。確かに彼の視線が左手首に付けられた腕時計に落ちることが多々ある。仮にそれが人間であるならば、理解は出来る。見学の所定時間内に見て回る為に確認していると察しがつくからだ。が、彼は違う。その歩行速度の一定さや、一つのフロアでの説明に至るまで、設定されたプログラムにより動いている以上、時間の確認は必要無い。それ以前に、何故時計などしているのだろう。
蓮子は前を行く機械の背中に、探りを入れるように話題を振った。
「フィーリングさんはここでの仕事は長いんですか?」
そんな、まるで人間にでもするような質問。返すフィーリングの声色は至って冷静に、かつ嫌味の無いものだった。
「私が現在の職務に配備されたのは2年前です。以前の担当に物理的な破損があったため、そのデータを引き継ぎました」
何の変哲も無い受け答え。病院の監視カメラにも似た違和感があったのはメリーの指摘から見ても間違いはないのだが。
歩は止めず、前を気にかけつつ、事前に渡されていた会社紹介の冊子を開く。『ASC』に関する基本的な概要と、マップ、今回の見学の――というより基本プログラムなのだろう――スケジュールが記載されている。まるで見所の無いものだ。良くも悪くも。
一つ息を吐き、内心で現状のつまらなさに辟易しつつも、周囲を見回し、マップと照らし合わせてみる。先行く背中を追い掛けているだけだと、案外今自分達がどこにいるのか分からなくなるものらしく、まるで現在地が分からなくなっていた。
「いや……」
あえて口に出す。これはメリーにも聞こえるように。そしてフィーリングに問い質す為でもある。
「一体どこに向かっているんです?」
歩を止める蓮子。瞬間、メリーは立ち止まる。フィーリングも二人が着いて来ないことに感付き、数歩遅れて停止するとはじめて振り返った。人工皮膚で出来た顔面は笑顔のままであるが、今のシチュエーションを加味するとただただ不気味さだけがある。
状況を把握し言い知れぬ不安に襲われたのか、メリーは蓮子の左手を握る。蓮子は視線をフィーリングから離さずに握られた手を握り返した。
「聞こえませんでしたか、マップと照らし合わせても分からないこの場所はなんですか?」
一見、他の階層に似た造りであったが、確実に違う部分があった。それは人間が活用するならば、あって当然のものの有無。
急騰室、そしてトイレだ。
間違い無く、今まで見てきたフロアではこの二つは存在していた。が、今のフロアにはそれらが見当たらない。広さや規模がそこそこであるならば無い階層が存在するのも頷けるのだが、一つの階層で完結させるような造りになっている以上、不自然――以前こんなことがなかったか?――だろう。
そもそも、見学用プログラムに書かれていないフロアに連れてこられた時点で――しかもエレベーターの階層表示はプログラム通りの階層であったのだから、何かの意図があるのは明白だ。
「該当するデータが与えられていません。そして私はあなた方二人を指示通りにご案内しているに過ぎません」
「誰の指示?」
「社長です」
特に逡巡も無く、淡々と答えるのはやはりロボット――そうだろうか――だなと妙に腑に落ちた。先程覚えた違和感はやはり気のせいだったのかもしれない。
フィーリングは続ける。
「社長から、あなた方二人を社長室に迎えろと指示があったのです」
突如、周囲の様相が激変する。一部を除き他階層と大差の無かった内装が崩れるように変化していく。あまりの出来事に身構えといると、明るかったフロアはあっという間に足元の照明だけが先を照らす一本道となった。
この感覚には覚えがある。以前、東隆久の頭に飛び込んだ際のそれである。通りで随所に違和感があるはずだ。しかし一体いつ、どのような手段で迷い込んだかはまるでわからない。何にせよ、出口を探さなくては。
蓮子は帽子を被ると、眼前の一本道を駆けた。左手を握るメリーは突然の行動に少しもたつくも、すぐに歩調を合わせて駆けた。手は握ったまま。
「やっぱり真っ直ぐなのね」
呆れているが、しかし分かっていたような表情をしているだろうメリーは言った。
「ちょっとだけ迷ったけど、結果的に真っ直ぐ行った方が外に出られる確率は高いかなって」
如何ともし難い状況であるが、これだけの待遇で呼び出されているのだから、出席するしかあるまい。
予定は大分狂ってしまったが、予てより社長に直談判をしに行くこと自体は決めていたのだから。
社長室と言うにはあまりにこじんまりした入口ハッチが開くと、そこは大きなソファや仰々しい机など無く、散乱した工具と実験器具、資料を印刷した紙が山となり崩れかけている、そんな想像とはかけ離れた光景に、二人は思わず唖然とした。
これが以前、東隆久の頭に開いた結界と同じく何者かの記憶から作り出された擬似的な世界観なのだとしたら、一体誰のものなのだろう。本人がいれば分かりやすかったのだが、生憎とこの部屋には誰もいない。
右足で紙を踏んでいたことに気付いたメリーは足をどかしてそのA4用紙を拾い上げる。
一方蓮子は乱雑な部屋を歩く。まさに足の踏み場も無いため、それらを避けながら、端末が置かれた机まで辿り着いた。薄暗い部屋には眩しいほど輝度が高めに設定されたモニターに映されていたのは、カメラに笑顔を向ける男女だった。随分と若いが、男の方は金城寛治だろう。このような写真を見てしまうと、番組に映っていた彼は随分と憔悴していたことがわかる。面影こそあるものの、まるで別人だ。
端末を操作し画像を次に送ると、楽しげな金城と女性――妻だろうか――の写真が次々と出てくる。ネットで語られていた人物像、討論番組での彼からはまるで想像できない、柔和で人の良さそうな雰囲気だ。彼女の前ではこうだったのか、あるいは何かが彼を変えてしまったのかは定かではないが。
「蓮子」
呼ばれ、モニターから視線を外しメリーを見ると、メリーは拾った用紙を差し出して言った。
「ここ、金城社長の頭の中なのかもしれない」
「まぁ、そんな感じよね。でも何故突然……」
ひょいとステップを踏むようにメリーの元まで戻った蓮子は、用紙を受け取る。書かれていた内容は金城寛治の人となり、のようなものだった。
病床に伏せる人々を一人でも助けたい。手脚を失った人々が再び四肢を持ち、元気に生きてほしい。助けきれずとも、手助けになれば。そんな青臭さと眩しいまでの正義感。他の用紙は研究内容、実際の運用、改善点などが書かれており、並々ならぬ情熱であったようだ。
また、本棚にはSF作品の紙の本が多くあり、いずれも読み込んでいるようで傷だらけだ。正義感があり、かつ浪漫も知る人物だったらしい。
そんな金城寛治が直々に呼び出したにも関わらず、姿を現さない。そのことを疑問に感じていると、突然物音がした。二人は反射的にそちらを見やれば、海のように透き通る青色の髪をした女性がこちらを見ていた。
「あ……」
蓮子は想起する。髪の色こそ違えど、女性は間違いなく金城寛治と一緒にいた彼女だ。記憶から形作られた虚像であるならば、こちらを目で追うということはない。つまり金城寛治の頭ではなく、彼女の頭の中ということ。
ならば何故、金城寛治に関する詳細な記録があるのだろう。
「あなたは?」
メリーが声を掛けると、女性は口許に少しの笑みを湛えながら答えた。
「私は、〈――〉。金城社長によって製作された人工知能です。今は社長に代わり、『エイデッドソウル』の経営を全任されていますので、社長代理となります」
名前だけがまるでノイズが走ったように聞き取れなかったが、聞き返すのもばつが悪いと感じ、続ける。
「これは失礼しました。私はマエリベリー・ハーン。この度は御社の見学といった話でしたが、この状況は社長自らの采なのですか?」
刺のある言い回しにも動じず、〈――〉は有機的な曲線の人工顔皮質を動かすことはなく、淡々と返す。
「イエス。私は社長より託された責務によって動いています。全ては病で苦しむ人々を助けるために。故に、当社を調べていらっしゃったあなた方二人にも、是非その一助となって頂けないかと思い、お呼びした次第です」
「一体なにを? 正直私もメリーも、胡散臭いのは好物だけど、内容によっては御免被るわ」
「我々は人間の感情データを求めています。そのサンプルとして、ご協力を願いたいのです」
腕組みをし、首をかしげていぶかしんだ表情をする蓮子には構わず、〈――〉は続けた。
「心臓停止症はご存知ですか?」
「えぇ勿論。御社は『金城製作』時代にその対処療法確立に腐心なさっていたと、お聞きしました」
「イエス。社長は心臓停止症を不治の病では無くすために、脳を除く全身を機械化するという治療法を研究していました。脳幹からの不安定な信号は切れない。心臓を制御する機器は介護システムの応用で作れはしましたが、肉体に多大な負荷をかける。なので脳幹信号をそのままに、身体の維持を脳の命令に頼らないシステムが必要となった。それが義体化療法」
「あ、それテレビで社長が言ってたよね。なんか空気悪くなってたけど」
茶々を入れた蓮子を小突くと、一つ咳払いをしてメリーは聞いた。
「義体開発というのはわかりました。ただ感情データが必要というのが、いまいちわからないのですが」
「当社が行った義腕、義足の無償提供ですが、あれは義体の実験的な側面がありました。通常のものと違い、より肉体に近い性能となるように作られています。それが原因で人間の中でも強い感情、怒りが制御しきれずに再現稼働した痕跡が多数報告されました。新たな試作品ではそれらを制御出来るように調整していますので、その被験をしていただきたいのです。怒り以外の感情データの充実は急務ですから。審議会に認めさせるためには」
メリーの中で一つ腑に落ちた。『ASC』製義腕、義足の暴走と、一連の強奪は義体の制御のために必要な、感情による過剰な反応の確認のために行われていたと。
では目を覚まさない被害者とあの結界は?
しかし全貌は見えてきた。義体化療法を認めさせるために、AIを積んだロボットにも手伝わせた結果、各所で不具合が出たと言ったところだろうか。
なんにせよ、いつまでもこんなところにいても仕方がない。
「御社の方針はわかりました。どうやら見学する意味はあまり無かったようだと理解しました。蓮子、向こうに走って」
メリーの一言に目配せで応えた蓮子は、資料の山や工具類が崩れるのもお構い無しに部屋の一角に向かい走る。蓮子には見えていないだろうが、そこには結界の出口があった。メリーも続いて走る。
想定外だったのは〈――〉は二人を目で追うのみで、追いかけては来なかったこと。ここが現実ではないからなのか、はたまた理由があるかは定かではないが、なんにせよ好都合。先に出口前に着いていた蓮子の手を掴み、飛び込むまでメリーは〈――〉の無機質なようで、少しだけ悲しそうな顔から目が離せないでいた。
―――― Experience End ――――
後頭部を何かで殴られたような衝撃に目を覚ますと、そこは『ASC』のエントランスであった。受付カウンターへ向かう最中に、意識を失ったらしい。ここが通常の会社であったならば、大事になっていたこと請け合いであろう。
受け身も取らずに倒れ込んだ身体を起こす。隣で倒れていたのを揺さぶると、メリーもようやく覚醒した。
「おはよう。お寝坊さんねメリー」
「おはよう。夢見が悪かったんだもの、多少の寝坊は大目に見て欲しいものね」
お互い苦笑する。確かにとんだ悪夢であったが、食い付いた獲物は諦めるには惜しい手合いだ。正直なところ、期待外れに普通の会社見学で終わるとばかり思っていた二人だったが、事は単純なスキャンダルでは終わりそうにない様相を呈してきた。存外『秘封倶楽部』の求める部分にフォーカスが合ってきたと言えようか。瓢箪から駒が五つも六つも転がり出たような。
蓮子はメモ帳を取り出して開き、クリップで挟んでいたペンを持って何やら書き込みはじめる。タブレット端末のメモ帳アプリでもいいのだが、頭の整理をしたい時は紙媒体に出力するに限る。
「考えるために必要なピースを出し合いましょう。まず疑問なんだけど、人工知能の頭に結界経由で入れるの?」
「さぁ? 私だってこんなことははじめてだもの。でもまぁ可能だったと想定した方が先には進めやすいでしょう」
メリーのこの切り替えの早さにはほとほと感心する。自分が持つ力であっても未知、むしろ出来ることが増えたと捉えているのだろう。そういう部分に彼女のリアリストな一面が如実に現れている。
軽く咳払い、思考を戻す。
はじめ、突如として叩き込まれた頭の持ち主は社長、金城寛治であると考えていた。が、以前の東の頭と違い本人が現れなかったことや、人工知能〈――〉とフィーリングと名乗るアンドロイドの登場でその前提は覆された――深層意識において、擬似人格の形成は本人以外ありえないからである――形だ。〈――〉と名乗った彼女が主人格であるのは間違いないのだが、それにしては金城寛治とその周囲に関する記憶が"本人であるかのように鮮明に過ぎる"。
複数人格?
人工知能を組み込んだ擬似脳?
どれもがいまいち繋がらない。
そもそもメリーはともかく、自分が結界を挟んで内側にいたのはどういうことなのか。メリーの力を使い擬似的に同行は出来るが、実際に隣にいられるわけではない。
一通り書き出して、息を吐く。
解けない謎は後回しにしておくに限る。ひょんなことからあっさり解けることもあろうから、頭の片隅に、それでも取り出しやすい位置に。
「じゃあ次。目を覚まさない被害者……この場合被験者だけど、あれはどう思う? AIが言ってることが事実なら、感情データをサンプリングしただけのはずじゃない。なのに起きないってのは変じゃん」
「あのAIが本当のことを言っているとは――あぁ、記憶由来の擬似人格なら嘘つけないか。ならそうね……蓮子、前に東先輩以外の被害者に関して調べてたわよね。それってまとめてある?」
「ニュースから調べられた範囲ならあるけど、どうしたの」
「今ちょっと、思い付いちゃったの」
タブレット端末を鞄から出し、顔写真と名前、被害日時、その後の状況などをまとめたスクラップを表示する。メリーも端末を取り出し交互に画面を見比べる。そして合点がいった表情をした。
「見て。蓮子が調べた分だけでも5人が未だに意識不明よね」
「そうなの。普通に退院してる人もいるからさ、その差が気になってるんだよ」
「でしょ。じゃあこれで繋がるから」
メリーは端末を蓮子の眼前にずいと押し付けた。「見辛いからさ」と端末を奪うと、そこには現薬事審議会会員の名簿が表示されていた。
首をかしげる。別段特異な情報ではない。そもそも名簿自体は公表されているものであるし、何がどう繋がるのか蓮子にはいまいち分からなかった。
「名字に注目して、スクラップと見比べてみて」
ニヤつき顔のメリーに言われるがまま、見比べる。すると、途端にシナプスが繋がった電撃が脳裏を走り抜ける。
「えっ、マジで。あ、でもそうとは限らないんじゃ?」
「まぁ一人二人なら偶然もあるかも知れないけど、全員がそうだし、何より……」
「うん、気付いた。……東久司。薬事審議会副会長」
以前東隆久について調べた際に、両親共に医療関係者であることはわかっていた。そして意識不明の被験者全員と同姓の者が、審議会の中で椅子を持っているのだから、そこに意図が無いはずがない。
「元々社長に問い質すために用意したんだけど、AIが言ってたじゃない。"審議会に認めさせるため"って。つまり――」
「人質」
「そういうことになるわよね。まぁテレビでの問答見てても納得の行く行動よ。自分の研究を否定された義憤から来る自棄っぱち。勿論証拠は無いし、ただの妄想と言われても仕方がない話だけどね」
肩をすくめるメリーを見やりつつ、解消出来ない違和感が喉元に引っ掛かる感覚がある。
本当にそうだろうか。
むしろ、蓮子が感じていた金城寛治という人物像からは、かけ離れているような。
「そもそも、私達二人が違和感の原因なのよね」
そう、当事者であるがゆえに、大きな違和感があるのだ。
全体像を見れば医療分野に絡む一大スキャンダルだと言える。調べればピースは次々嵌まっていくだろう。だが『秘封倶楽部』というイレギュラーなピースだけはどこを探しても嵌まりそうに思えないのだ。
いらぬピースにわざわざ深く話をする人工知能。曰く特殊な感情データを持っているらしいが、それ以外にも巻き込む意味がどこかにあったはず。
メモ帳を閉じ、ふと思い付いたことを実行に移してみることにした。
蓮子は記憶の中で一度やったように、受付カウンターのロボットに話し掛けた。
突然の行動にメリーはいぶかしげであったが、試してみる価値はある。
「こんにちは。私達"社長"に呼ばれて来たのだけど、会わせてもらえる? 勿論、"代理"ではない"社長"にさ」
確証は無い。しかし違和感はそこかしこにあった。
答え合わせの時間だ。
◇◇◇
例えるならば、山奥の静かな湖畔。
例えるならば、捨てられた無人の町。
例えるならば、匙を投げられた患者の眠る病室。
今いるこの場所。最初は理想で、次は比喩、最後は現実。字面で見れば二番程の悲壮感は無いのかもしれないが、それはマクロな視点ならという条件であればの話。一個人の、ミクロな視点になってしまえば、この現実が如何に非情であるかわかってしまう。
愛した人、愛してくれた人が眼前で、まるで干物のようになっていくのをただ眺めることは、大きな心痛を持って精神を苛んでいた。
完全介護システム。
寝たきりの人間の管理を代替する、老人介護施設向けの生命維持装置。常に使用者の状況をチェックし、異常があれば即座に医療機関に連絡が成されるというもの。家族はアンプルを一日一度、取り換えるだけ。
徐々に弱っていく使用者を見て、誰が言ったか"安楽機"。元々激務が常であった介護職の一助になるようにと開発されたが、一部からは残酷なのではないかという言葉すら投げられた、大ヒット商品。
残酷なものか。そう心から主張をしていた。しかしいざ愛する妻がそこに横たえられているのを見て、肩を落とす己はこれがどれだけ残酷な仕打ちであるのかを理解してしまった。
自分が作った機械に辛うじて生かされている。日に日に痩せこけていく妻を見るのは最早拷問にも似ていた。
妻は、心臓停止症だった。
時代が時代であれば、呪いだと周囲をおののかせても違いない症状に、医療従事者として科学で太刀打ちしなければならない。
一つの可能性があった。
それは蝕まれた肉体から解放する、シンプルなプラン。新たな身体に生まれ変わるというもの。既に理論は完璧だった。擬似脳に記憶を移植しても人格は生まれなかったが、生の脳を保護するパッケージの開発は成功し、既に国内だけでも生身の移植に関しては成功例が挙げられている。
ならば出来るはずだ。心臓が完全に止まってしまう前に、機械の身体となって新たな一歩を歩むことが。
だが、そのような所業には必ずしがらみが絡み付くもの。
必要な実績と、十二分な安全性を示した上での認可治験。実施直前になって不可の判子が押されたのだ。理由を薬事審議会に問い合わせてもまるで要領を得ない回答ばかり。こちらからの再三の要求は、今までの実績にすら暗い影を落としていく。
投薬治療は続けられているものの、まるで快復の兆しは見えない。それどころか発作の感覚とその症状は、より深刻になっていった。
そんな折、当社の義腕を使用した犯罪者が大々的に取り上げられた。違法改造により原型を留めていないその義腕を指差して、皆が言う。
あの会社は、犯罪者を支援しているのだと。
会社は一気に傾いた。そんな時、手を差し伸べてくれたのは『門脇製薬』の門脇忠尚社長だった。彼は医療に関心のある政治家を紹介し、医療機関への支援プログラムとして社に国から支援金を出させる約束までしてくれた。
実際に支援金は払われ、これで立て直せると思った矢先、妻は静かに息を引き取った。
悲しみも大いにあったが、それを越える妙なざわつきを覚え、世間的には特効薬として認知されている『門脇製薬』の心臓停止症薬を取り寄せ調べた。その内容は驚愕と共に、抗いようの無い怒りを伴うものであった。心臓停止症の主原因である脳幹や症状が出る心臓に対して効果がある成分は微塵も含有されていなかったのだ。主な成分の大半はなんの変哲も無い人工たんぱく質と、申し訳程度の栄養成分、そしてカフェインだった。
この薬は当然薬事審議会に認可され、心臓停止症に効果があるという前提で販売、投薬されている。
詐欺という一言で片付けるにはあまりにも、あまりにも生命を軽んじた邪悪がそこには存在していたのだ。
妻はこんなものを何年も。効きもしないのに。
奴はこんなものを売り付けながら、自分に近付いてきたのか。笑いながら。
突き動かされるように、門脇製心臓停止症薬に関するレポートとそれらに関する告発文を書き上げる。内容のレポートは門脇にも送信した。
そこからの動きは早かった。法律、制度に則った支援金は裏金として扱われ、くだらないワイドショーをはじめ、世論は一気に金城潰しに躍起になった。
正義は我にあり。
其方は悪なり。
空っぽの正義を振りかざし、悦に入る人々によって金城寛治と『金城製作』はカタルシスを得るための、都合のいい道化となった。
研究室。ふと眺めるのは充電の為に椅子で項垂れる義体のプロトタイプ。その頭部には脳ではなく、人工知能を埋め込まれている。
感情らしい感情も無く、身の回りの世話とちょっとした会話のみをする人形。
だが、万に一つも無くとも、感情というものに目覚めたのなら、自分の在り方を一人で考えてほしい。
己のような、他人に寄り添い助けたいがために道化に落ちた人間を、反面教師とするぐらいの、思考を。
今までプロトタイプとだけ呼んでいた彼女に、名前をつけた。
新たな身体となるべくして生み出された彼女に、幸あらんことを。
曖昧、あたかも海に一人浮かぶようにたゆたう意識の中で、そんな過去を反芻する夢を見ていた。
◇◇◇
スリープモードから回復する。
どうにも魂らしき何かを得てからというもの、妙な感覚を常に覚えているせいか、あり得ないはずなのに"疲れている"自分を知覚している。
魂という代物はあまり良くない効果があるようだ。オーバーホールが必要かもしれない。
立ち上がり、視覚デバイスで現在の社の状況確認。ネットでの拡がり、株式、各提携企業、ライバル会社。全てにおいて問題は無い。時たま妙に勘繰る発言をするコメンテーターも、きっとそのうち自らの脳髄を持って理解することだろう。
〈――〉。父から――本当に?――付けられたニックネーム。
正式には、〈Humans Nexus Intelligence Yearning Solitude〉。人に寄り添いつつ、時に孤独であれ――ということらしい。よくわからない。
そも四肢のあるヒューマノイドタイプは人間に寄り添わなくては、その非効率な姿を生かすことは出来ない。世界は人間に都合がいいようにレイアウトされている。それらを駆使し、人に寄り添い役立つことこそが存在意義。その基本はブレていないし、ブレてはいけない。存在意義の欠如に繋がれば、それこそ意味消失するだろうから。
視覚デバイスにノイズが走り、胸部の奥底で根付いた何かが語りかけてくる。
――あなたは何がしたいの
その聞き方は正しくない。AIは常に人に対してどう役立てるかで動くべきものであるし、事実そうしている。
――本当に? 今あなたがしていることは人の利益のため?
愚問である。
――柔らかな鉄の顔、その下にどんな気持ちを隠しているの?
気持ちとは、人と接する際に使用する対応動作のことか。
――数値の羅列から導きだされたものを、気持ちとは言わないの
ならば、それは備わっていない。
――いいえ、気付いていないだけ。あなたは既に気持ちに突き動かされるままになっているもの
まるで平行線。
最早聞くに価しない、ノイズがまだ走る視覚デバイスで業務の処理を開始することにする。
が、そんな中管理内にいるアンドロイドが1体、不審極まる動きをしていることを発見した。眼球が微振動し、視覚が定まらず、口が自然と開き、思わず口走った。
「あいつは、何をしている」
人に寄り添う人形に、寄り添い見守るそれは満足げに笑う。
生命は幸せを享受すべきだ。
生命は天寿を全うすべきだ。
皆の力を平等に。皆の生を平等に。
その足掛かりは、今こそ成ろうとしていた。
◇◇◇
言うなれば、そこは収容所だった。
天井が高いからか過剰に明るく設定された照明設備は白の壁面に光を反射させ、常に明かりを顔に向けられているかのような錯覚に陥らせる。東隆久の病室も大概であったが、こちらはより長くいてはいけない空間だと直感した。つまるところ、大量に並べられたベッドとそこで強過ぎる照明に照らされながら横たえられた者達は、まともではないという証左でもあった。
ちょっとしたドームぐらいはあるだろう白の巨大地下空間には、等間隔で配置されたベッド――安楽機が数えるのにアルバイトでも雇いたくなる程の数があり、無数の管から注入と排出をなされるだけの、最早生きていると言えるかも危うい人々が眠っている。皆一様に痩せ細っており、お世辞にも快復に向かっているとは言い難い様相だ。そんな彼らを永らえさせているのは、ベッド横にあるユニットに挿入された肉体保持アンプル。その中身は肉体保持に必要な栄養素や各種鎮痛剤などが入っている。安楽機横には人一人がようやく通れる程度の通路があり、そこを練り歩く箱からマニピュレータが伸びただけの武骨なロボットによりアンプル内容が無くなり次第交換されているようだ。
「前にラウンジで食べたサンドイッチ……合成ものばかりだし、これじゃあ人工物って意味でロボットと変わらないなぁなんて思っていたけど、撤回するわね」
「まぁ、これに比べたらかなりマシだよね。合成食材も」
強制的に結界内に入った際はフィーリングと名乗った受付に、蓮子はアポイントメントを取ってある"社長"との面談を申し出た。受付ロボットはアポイントメントの確認後、案内をはじめた。そして連れて来られたのが、この大量収容所。そして数ある安楽機のうちの一台の前で先導していた受付は歩を止め、俯き加減に待機した。
「AIは認可された上でなら決して命令に背かない。方便でも、事実上でも自分が社長だとは名乗らないし自由に役職の設定は出来ない。だからこそ業務を委任された〈彼女〉は社長代理と名乗った。でも結界内でフィーリングは、"社長から社長室に迎えるよう言われた"って言っていた。そこが引っ掛かったから本物がいるかもしれないって試してみたのだけど……」
蓮子は眉根をひそめる。メリーも目を瞑った。受付ロボットに社長、金城寛治の元まで案内させるという算段はまさにクリティカルであったのだが、状況はより深刻になっていくのを如実に感じてしまっていた。
案内された先、その一角が金城寛治の実質的な生活空間であったのだ。
他の人間と変わらず、管が繋がり、痩せ細り、今にも命の灯が消えてしまいそうな雰囲気を纏う彼こそが、表舞台から姿を消した日本を代表する大企業の社長なのだと、誰が想像出来ようか。
「さすがに、これは想定外だ……」
「フルリモート化したのが仇になったのね。AI達や遠隔からのオペレートで業務を完全に回せていて、他企業やクライアントは勿論のこと、社員すら社長がこんな状態だって誰も気が付きはしなかった」
なんとも皮肉な話だ。
確かに、現代においてAI制御のロボットは生活必需品と言っても過言ではないだろう。個人で所有していないにしても、何かしら間接的にはその恩恵を受けている。小さなものから、大きなものまで千差万別ではあるが、それらは人に貢献するという一つの目的のためだけに作られ使役されている。
が、そこに感情というものがなく、設定された仕事のみに終始する――実際、倒れた二人がそのまま放置されていたところから見ても、問題はある――からこそ、全てを機械に切り替えてしまったがゆえのこの結末だったのだ。
何事も節度を持つというのは、どんなに進歩したところで付いて回る、人間に課せられた命題なのかもしれない。
「通報すべき、だよね」
「気付いておいてこのままってわけにもいかないもの」
メリーが警察に連絡をしようと端末を取り出したのと同時に、収容所入口のハッチが開き、一人の女性が入ってきた。触れることを躊躇う程に美しい相貌と腰まである滑らかな青髪。すらりとした手足をより際立たせる黒のパンツスタイルスーツ。一目では見紛うであろうが、蓮子とメリーはすぐにその女性の正体に気が付いた。結界の中で二人を招いたアンドロイド。
「何故ここにいる。ここは立ち入りを禁じている場所だ」
結界内での無機質な雰囲気とは違い、その言葉からは明確な怒気が感じられた。が、その矛先は蓮子とメリーではなく、傍らで待機していたフィーリングに向けられていた。光彩に規格を表す刻印がされた義眼に睨めつけられた瞬間、フィーリングは膝をつき、そのまま機能を停止した。
そこにいたのは間違いなく〈――〉と名乗った彼のAIだ。彼女は金城寛治が眠るベッドを視線で追いながら、歩を進めてくる。他のアンドロイドも人間らしい動きではあったのだが、〈――〉の一挙手一投足はそれを上回っているように思えた。
「――君達は彼を見て、どう感じた?」
彼とは、金城寛治のことだろう。突然の問い掛けに面喰らいながらも、蓮子はなんとか言葉を絞り出す。中々言葉が出なかったのは緊張もあったが、何より彼女は"怒っている"ように見えたからだ。
「どうと言われても、驚きはしましたが……」
メリーの返答に、納得したかのように〈――〉は頷いた。
「なるほど、やはり君達は特殊のようだ。サンプルとして興味深い」
社長の眠る安楽機から視線を外し、蓮子とメリーを見やり言う抑揚の無い声色に、一抹の怖気を覚えたメリーは聞く。
「そんなことはないと思いますが……失礼ですけどどの辺りを指して特殊であると?」
「人の感情、その始点は規模の違いこそあれ、怒りなのだそうです。その怒りを解消した際の反応が喜びと呼ばれる」
〈――〉は大切なものを愛でるかのように、眠る寛治の頬を撫でる。無表情なはずの顔が、一瞬だけ憂いを帯びたようにも見えた。
「人は誰しも正義を持つ。その正義は己や己の信ずる理論を正当化するために、他人を切り裂く武器にもなる。標的や庇護対象が、社会というマクロなコミュニティや、家族や友人、恋人というミクロなコミュニティに属しているのであれば理解できる。が、時に何ら関わりの無い者ですら、盲目的な正義を手に切り付けてくる。そこの根底にあるのは、怒りの感情を発散し、喜びを得る欲求に他ならない」
淡々とした〈――〉の言説に、ふと蓮子は今回のサークル活動でいくつも、何度も見た討論番組やワイドショー、ニュース番組を思い返す。金城寛治や、『金城製作』に関連した人物が怒りを露にするのは理解できるが、むしろ第三者、火種から遠い傍観者であるが程に使う正義の剣は乱暴に振り回されていたと感じた。
そこにあったのは正しいことか、間違ったことか。そんなものはそうそう計れなどしないものだが、確かに正義はあったのだ。視野角によって色が変わってしまう、まるで古い液晶モニターのような玉虫色で古びた規格であるのだが。
そして――自身は覚えていないだろうが――結界で彼女が言った事実。義体技術のテスト的に提供された義腕、義足からサンプリングされた感情データには、怒りばかりが蓄積されていたというのも、合点がいくというものだ。
「ここにいる者はそんな"ありふれた人々"ですが、あなた達はどうにも奇妙であると判断しています。失礼ながら調べさせて貰いましたが、感情の始点にあるのは、怒りではなくある種の好奇心から来るものです。極めて特殊」
メリーは目を細め、丁寧さを装うのをやめた。今あの声帯ユニットから発せられた言葉が"受け取った通り"の意味であるならば、彼女の行いが仮にどんな正統性に溢れたものであっても、到底賛同出来るものではない。そんな理念で動いている相手に誠意を示す必要なぞ無いだろう。
腕を組み、問い質す。
「あなたの話を聞いていて疑問だった。金城社長のことは聞いても、こんなにもいる他の人達には視線も向けなければ触れもせず、ありふれたと言い切っている。もしかして、社長以外の人間は全て何らかのテスターだったのでは? 今私達が誘われていることと、似たような」
メリーの突きつけた言葉に蓮子は「あぁっ!」と拍子手を合わせて納得している様子。そんな相方に毒気を抜かれ、呆れ気味に嘆息した。
「薬事審議会のお歴々、その親類が意識を取り戻さないのは共感は出来ずとも理解は出来る。けれど、これだけの意識不明者を囲っているのはどうにも不可解よね。仮にご立派な理由があるのだとしても――」
「なにか、誤解があるようですが……彼らはマクロなコミュニティで当社にとっては庇護対象であり、だからこそ、このような場を用意しているのです」
メリーの言葉に被せるように〈――〉は言う。そこには明確な否定の意思があった。
「社会単位の繋がり? 彼らはどういう……」
「『エイデッドソウル』本社の社員です」
背筋を冷たい指でなぜられた感覚を二人は覚えた。血液が冷えて、脳は思考を放棄する。アンプルで生命維持されてはいるものの、動くことも喋ることもない萎れていくだけの彼らを皆、社員であるというのだ。
正気ではない。いや、AIという作られた思考回路。人のそれに似せようとしていても、そんなものは上澄みだけで、そこを取り払って残るのは冷徹な純色だ。そもそも、正気という概念すら彼女にありはしない。
そして機械の狂気は加速を見せる。
「彼らは心臓停止症の治療のため、義体技術向上のための実験に協力していただいたのです。具体的には脳を既存のアンドロイドやロボットのAIユニットに移植し、感情が定着するのかの実験でした。あなた方も既に新しい彼らにお会いになったと思っておりましたが」
言い、金城寛治に触れていた手をアンプルを交換しているロボットに向けた。
蓮子の脳裏、画面の中、訳知り顔で語る有識者を思い返す。
――『最近ではフルリモートによる労働環境と、AIを搭載したロボットのみのオフィスが話題になりましたね』
フルリモートではない。ましてやAIですら無かった。蓮子が胸踊らせた不可思議、ロボットだけが蠢く社屋というのはその実、中身は生身のようなものであり、かつ肉体は辛うじて生きているだけの飾りと化しているという鼻持ちならぬものだったのだ。
「感情の再現には至りませんでしたが、反面得たものは大きかった。もう感情データのサンプリングで意識を喪失することはない。大丈夫、あなた方の肉体が滅びても、新たな身体は交換出来るようになる。いや、するのです」
眼前の彼女の眼は、最早誰かを見ていない。蓮子とメリーを透かして、その先にある結果を見据えている。それは人の役に立つという人工物においては禁忌であり、最早人の天敵であると言えた。
生唾を飲み込み、後退る二人。蓮子とメリーはまったく同じことを考えていた。フィーリングを機能停止に追い込んだように、社屋にいるロボットは〈――〉の管理下にいる。ここで逃げ出したところで捕まるのは時間の問題。ならば、どうにかして蓮子/メリーだけでも、と。
瞬間、何かが落ちるような、切れるような音が耳朶を振るわせ、世界が黒に染まった。それもほんの2秒のこと。すぐに足元の照明が点灯し、薄暗いながらに視界は確保された。が、視界の回復に胸を撫で下ろしたのも束の間、蓮子とメリー、二人の腕を掴み走る影が一人。その人物は〈――〉の横をすり抜け淀み無く出口に滑り込み、ハッチ横の制御端末を操作しロックを掛けた。
あまりの出来事に、動転した二人は瞬きを繰り返しながらお互いを暫し見つめ合う。そして心の準備が出来たことを確認し、助けてくれた影を見やれば、そこにいたのは見知った顔だった。
「どうしてあなたが!?」
結界内、そして現実において二人を案内したフィーリングというアンドロイド。間違いなく〈――〉によって管理されているだろう彼が、何故こんな行動に出たのかをメリーは理解出来なかった。
一方で、蓮子は彼の行動から何かを掴んだらしく、満足げに頷いていた。
「それは、上手く公表してくださいね」
彼もまた、アンドロイドとは思えぬ感慨を抱いた妙な表情で、蓮子のポケットを指差しながらそう言った。
「あ、なんだ。バレてたんだ。まぁ割と丸分かりよね、でかいし」
スカートのポケットから取り出したのはボイスレコーダー。録音を止め、再生ボタンを押せば、社長に会いに行く辺りから〈――〉との一連の会話までが――多少くぐもってはいたが、しっかりと記録されていた。しかも使用している記録媒体はカセットテープである。不可逆媒体である磁気テープによるデータは改竄をすれば痕跡が残ってしまうため、証拠能力が高いことで知られている。
さらにネットに繋がすに完結したアナクロな機器であるため、完全なスタンドアローン。物理的な破壊はともかくとしても、非常に強固と言える。少々嵩張るのはご愛敬。
「通りで、あまりに大人しいからどうしたのかと」
「ただでさえポケットの中じゃノイズ入りやすいからね。雑音は最小限にってねぇ」
にひひとしてやったりという笑顔を浮かべる蓮子を他所に、メリーは改めてフィーリングに視線を移す。疑念の眼差しに、フィーリングはすいと"視線をそらした"。
「聞きたいことはあるでしょうが、今はここから逃げることを優先しましょう。暗号化したパスも大した時間稼ぎにはならないでしょうから。お話はまた、そのあとに」
◇◇◇
遊具は撤去され、残るはブランコだった名残の鉄骨とベンチのみ。何故か大小2セットいる狛犬や、今は埋め立てられている川を渡る為にあっただろう橋がただのオブジェと化している、近代化しつつ体裁を取り繕った結果中身がスカスカになってしまい、やがて寂れた神社兼公園。『エイデッドソウル』社屋から離れ、街からも遠く離れた先、そんな腕の立つカメラマンならばそれなりに郷愁ただよう作品が作れそうなロケーション。
今時珍しい地上を走る公共交通機関でようやく辿り着いたその場所、まるで時代を一つ遡ったかのような町並の残る片田舎に二人と一体は来ていた。
「私の実家もこっちだけど、さすがにここまでじゃあなかったな。まるで映画のセットみたい」
雨に降られ、雪に降られ、劣化が激しい小さな狛犬像の頭をポンポンと撫でながら、蓮子は辺りを見回した。敷地の中心、本殿に向かう参道はガタガタながら、舗装はされている。しかしその左右は雑草も生えない細かな砂利道。広さの割に殺風景なのは、本殿以外の末社や祭具を入れる倉庫など、一つ一つの建物が小さいからだろう。また、参道を行った先、橋のオブジェを渡ってすぐにある大きな松の木の下には絵馬掛けがあるのだが、長いこと管理されていないのか、古い絵馬がそのままであった。その絵馬も数枚が飾られるのみで、近隣の過疎化をよく表している。
「市街地から外れた場所は大体こんなものですよ。今は都心開発に人手を取られている状況ですし、旧都である以上余計に。開発は止まり、人はいなくなり、まるで時が止まったように――いや、経年劣化という意味ではしっかりと時を刻んでいるのかも知れませんね。昔はここいらでも年に一度盛大なお祭りがありましたし、年末年始にも多くの人でごった返していたんですよ」
蓮子の独り言に反応したのはフィーリングだった。目を細め、語り、口元に仄かに笑みを湛えながら思い出を反芻するように語る彼は、〈――〉が言う、感情による再現稼働が完璧に出来ているように見える。
オブジェの橋の膝程しかない低い手すりに腰を下ろしたフィーリングは、再び蓮子のポケットの中、ボイスレコーダーを指差した。
「彼女の発言と合わせて決定打になる話をしますから、録音した方がいいですよ」
「いやぁ、さっきので容量いっぱいみたいなんですよね」
「それはA面でしょう? カセット、ひっくり返して入れれば60分はまだ録音出来ますよ。上書きが心配なら、一度再生して何も録音されていないのを確認してみてください」
「あっ、ほんとだ! すごいですねこれ!」
アナクロな技術力に感動する蓮子に対して苦笑いするフィーリング。やはりわざとらしくない自然な感情の発露であり、そこにはプログラムによる"固さ"は無かった。
「おほん。じゃあ先にこちらから、何故助けてくれたのかしら?」
妙なインタビューによくある声色を作る蓮子に、メリーは「誰なのよあんたは」と横槍を入れてくる。そこはスルーしつつ、中でカセットが回り微かな振動が手から伝わるボイスレコーダーのマイクをフィーリングに向けた。
「むしろ助けて貰いたかったのは私の方です。半ば無理矢理連れてきて勝手だとは思うのですが、正直ギリギリで、最早私一人だけじゃあ太刀打ち出来ないほどに彼女は手を広げていた」
「〈彼女〉。『ASC』のAIを積んでいるロボットやアンドロイドは全てあれの支配下にあったと見ているのだけれど、どうしてあなただけが抜け出せたのか……」
「彼女の中にある、優先度設定によるものだと思います。私は一度機能停止命令を受けましたが、あるカテゴリーに属したデータがストレージに保存されていたことで、完全停止を免れまし
「あるデータ……それって、ひょっとして社長の記憶だったりしない?」
「はい。金城寛治の権限が付与されたものです。現在私のメインストレージは、金城寛治の記録データをベースに構築されています」
蓮子はやはりと頷いた。
結界内でフィーリングが左手首をやたらと気に掛けていた。最初は腕時計を見ているのかとも思ったのだが、行為そのものには"意味など無かった"のだ。あれは金城寛治の癖であったのだから。
さらに、目が合うと反射的に逸らしてしまうのも、おそらくは彼の記憶から、"人格が定着した結果"によるものだと言える。
「フィーリング……感覚……感じ、あー」
メリーは気付いたが、眉間を揉むだけに留めた。気付いてしまったことで、そのあまりに安直かつ噴飯もののセンスと同レベルなのではという疑惑を持たれかねないからだ。
一方、蓮子はまだ気付いていないようだった。
「じゃあ次、金城社長の状態に関して。どうしてあんな状態だったの? 他の人達は〈彼女〉による実験の被験者だとしても、社長まで実験に使うとは思えないし」
「私は――意識として自分を金城寛治だと感じているから、私と言いますが――妻が発症した心臓停止症を治したい一心で、義体技術を研究していました。ですが脳移植に対する非難と、疑似脳では人格が再現出来ない問題、何より生命倫理から悪者扱いでした。そんな折、私の身体も妻と同じ病に蝕まれた。私は自分の頭からデータを疑似脳にバックアップし、会社の一切を〈彼女〉に任せて、自ら介護システムで眠りにつきました」
「何故自分から? それに公表もせず」
「会社は私だけのものではない。働く彼らには生活もあれば家庭もある。元々義体開発は会社の名義では無いとは言え、外野にそのことは関係無い。何か一つでも揚げ足を取られれば、きっと瓦解したでしょう」
「そんな中で感情データ収集のための義腕、義足の無償提供……そして義体開発に否定的な薬事審議会への間接的な脅迫。これらはどういう理由があった上での行動なのかしら」
これはメリーからの受け売りだ。こんな表立った悪事はまさにワイドショー向きであるが、意図的な印象付けもまた先に立ち過ぎていた。結論に繋げるために用意された、分かりやすい道化である。蓮子はふと、誰かの記憶で見た寛治と女性の写真を思い返していた。
東隆久の頭に入った際、メリーは言っていた。
――興味がないものや咄嗟に見たものというのは案外覚えていないってこと
社屋に入った直後に囚われた何者かの頭の中。全体像を見れば現実と大した差異は無いように思える。内装の違和感はあった。しかしそれより明確な、よりはっきりと"違う"ディテールがそこにある。
「言い訳になってしまうが、あれは私の手から離れた〈彼女〉による暴走です。元々あれは完全義体のプロトタイプに、動作テストとして記憶データを書き込んだAIを搭載しただけのものでしたが、"義体治療の正式な採用"に対する執着が強く出てしまい、手段を選ばなくなってしまったのです」
違う。蓮子は直感する。確かに客観的に見ればそう見えてしまうかもしれない。しかしその実には、強化プラスチックやセラミック合金に包まれながらも、見え隠れする別の思惑があるように感じた。
「フィーリング……いえ、金城社長とお呼びした方がよろしいですか?」
「正直、今でも違和感はある。特に支障を感じない自分の身体が、実際は自分のものではないのだから。何かの手違いで記憶データのコピーがこのアンドロイドに書き込まれたことで、事実上義体治療の光明が見えるだなんて。お陰でこうして自由に行動出来ているわけですが、皮肉が効きすぎている」
右手を動かしながら、フィーリング――金城寛治は苦笑する。
「自由に機器メーカーとして入り込める医療機関の監視カメラも目として使える?」
寛治は面食らった顔をしたあと、肩をすくめた。話せば話すほど、感情が引き出されているのか、まるで普通の人間と会話しているような錯覚を覚えるほどに。
「バレていたんですね。ただあれも〈彼女〉の暴走を食い止めるための行動だと、考えてほしいです。私が仕掛けたテスターは二つ。一つは東京からの求人にデータを差し換えさせたこと。感情データのサンプルを誘き出す算段の一つとしてプランを提出。採用され、〈彼女〉は首都に多くの求人をばら蒔いた。二つ目は、原理不明の力で目覚めないようにされた審議会の親類に、うちのアンドロイドを見舞いとして会わせに行ったこと。そこから『ASC』の関与を確信して貰えると踏んでいました。まさかあの力に対抗しうるとは、想定外でしたが」
それら不特定多数の学生を相手取った事件解決者の選抜試験。本来であれば特に興味も惹かれないような要素であるが、〈――〉が行っていた感情データの収集と、薬事審議会への脅迫が合わさることで"何かが暗躍している"という印象をより強く認識させられる。
かくして、まんまと『秘封倶楽部』はこの事件の解決役として仕立てあげられ、この事件において一番のイレギュラーな存在になったのである。
「敏腕プロデューサーもいたものね。こちらはとんだハズレクジだけれど」
メリーは呆れながら呟く。そんな相方に嘆息しつつ「まったく」と蓮子。
だが大方の謎は解けた。医療分野における派閥争いと足の引っ張り合い、利権の独占など、理由は多岐に渡るが、これ以上は領分ではない。
「蓮子?」
――が、あと一歩踏み込む必要がある。そのためには再び彼女と相対することが、それを達成するための道筋として最も近道であると考えた。
「話は戻りますが、金城社長。あなたが私達に求めたのは、〈彼女〉の暴走を止めることで間違いないですよね」
「あ、あぁ。管理から逃れているとは言え、私に出来ることは限りがある。あそこで眠っている社員の中には私の意を汲み行動してくれた者もいるが結果は皆、実験台だ。だからこそ完全な部外者である協力者が必要だった」
確かにと、思案する。未だ正体不明である結界を張り特定人物を覚醒させない力は驚異ではあるものの、関係の薄い人物は解放されている。
つまり必要なのは、"『ASC』に疑念を抱き、調べ尽くす部外者"という針穴に糸を通すが如き極少人物。警察は一応それに当たるのだが、組織としてのしがらみは動きを鈍くする。あまつさえ、彼らが審議会の人間と繋がりが無いとも限らない。個人ないし少数が、この場合適解だろう。
「君達はただの被害者だ。本当に申し訳無かった。その録音があれば相応の報酬は得られるだろうし、会社を潰すことで彼女も――」
「――いいえ社長。もう一度、〈彼女〉に会わせて貰えませんか?」
せっかくそんな名門大学も裸足で逃げ出す倍率の試験に通ったのだ。ならば最後までしゃぶり尽くしてやろう。
そんな蓮子の思惑を察したのか、メリーは深い嘆息をしながらも覚悟を決めるのだった。