Coolier - 新生・東方創想話

巫女を抱く

2020/12/23 20:52:12
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      一

「なあ――私は本当は、あの親父の娘じゃ、ないんじゃないのか?」
 霧雨魔理沙のその言葉に、博麗霊夢は湯飲みを口元に運ぼうとする手を止めて、友人の顔をまじまじと見た。妙に思い詰めたようなその表情からは、冗談の気配は感じられない。思えば今日の魔理沙は、この神社にやってきたときから態度がおかしかった。何か上の空で、霊夢の話もろくに聞いていない様子だったが――なんだって?
 霊夢は訝しみつつ、改めて茶を一口すすり、煎餅に手を伸ばす。その手を、さっと魔理沙の手が押さえた。こちらに身を乗り出した魔理沙は、霊夢の顔を見上げて、ひどく思い詰めたような顔で、瞳を覗きこんでくる。
「真面目に聞けよ」
「聞いてるわよ。で、なんだって? 自分は橋の下で拾われた子だっていうの? そういうのは十になる前に卒業しておきなさいよ、恥ずかしい」
「真面目な話だって言ってるだろ」
「――じゃあ何。今さらあんたが、自分の出生を真剣に疑うに足るだけの根拠が突然出てきたっていうの? あんた、実家から縁を切って何年になると思ってんのよ」
 嘆息した霊夢に、魔理沙はゆっくりと首を横に振った。
「突然じゃない。……昔からずっと違和感があったんだ」
「違和感?」
「私が親父と喧嘩した理由は知ってるだろ?」
「魔法でしょ? あんたが魔法使いになるのを反対されたから」
 魔理沙の実家は、里の大店である道具店「霧雨店」だ。魔理沙は霧雨店の主である霧雨理一と、その妻であった霧雨沙織の一人娘である。両親の名前から一字ずつ取った「理沙」が魔理沙の出生時の名前であり、「魔理沙」は魔法使いとして名乗っている名前に過ぎないのだが、もう「魔理沙」の方が耳に馴染みすぎて、魔理沙の本名が「理沙」であることなど、付き合いの長い霊夢も滅多に思い出すことはない。
 ともかく――物心つく前に母を亡くした魔理沙は、なぜか幼い頃から魔法に強い興味を示し、父親の目から隠れて魔法を学んでいた。しかしそれがとうとう露見し、魔理沙が魔法を学ぶことに強く反対した父親と大喧嘩の末、実家と絶縁。里を飛び出して魔法の森に「霧雨魔法店」を構え、人間の魔法使いとしての生活を始め、現在に至る。
「考えてみれば、それがそもそも、おかしいんだよ」
「なにがよ」
 眉を寄せる霊夢に、魔理沙はその金色の三つ編みを指で弄りながら視線を逸らした。
「実家には、魔法関連のものは一切置いてなかった。私が魔法を教わったのは魅魔様からだ」
「そうね」
 昔、博麗神社に取り憑いていた悪霊の魅魔が、魔理沙の魔法の師匠である。今はどこで何をしているかも知れないが、幼い頃から魔理沙はこの神社に足を運び、魅魔から魔法を習っていた。霊夢ともその頃からの幼なじみである。まだふたりとも自由に空も飛べなかった頃の話だ。
「そして少なくとも、親父は特に何の力もない、普通の人間だ。死んだ母さんも、魔法使いだったなんて話は聞いた覚えがないし、魅魔様からは魔法を教わりはしたけれど、魔法の力そのものを授かったわけじゃない。――じゃあ、なんで私は魔法が使えるんだ?」
 思わず、霊夢は目をしばたたかせた。――なぜ、魔理沙は魔法が使えるのか?
 幼い頃から、霊夢の知る魔理沙は魔法使いだった。魅魔の下で修行していた頃は、今に比べれば随分と未熟ではあったけれども、霊夢にとって魔理沙が魔法を使うのはあまりに当たり前に目にし続けてきて、それが当然であり、最初からそういうものだと思い込んでいた。
 だが――言われてみれば確かに、妖怪退治の家系でもない里の商家の娘である魔理沙が、天賦の魔法の才能に恵まれていたというのは、確かに不自然かもしれない。もちろん、鈴奈庵の小鈴のように里の人間が特異な力に突然目覚めることはあるが……。
「あの悪霊の仕業じゃないの?」
「そいつはない。魅魔様に弟子入りしたときに、『ふうん、才能はあるようだね』って言われたことは覚えてるからな。だいたい、何の才能もない里の小娘に、魅魔様がわざわざ魔法の力を授けてくれたりすると思うか?」
「……さあねえ。あいつの考えてることは私にはわかんないけど。だったら、あんたの親父さんが隠してるだけで、あんたの母親が本当は魔法使いだったんじゃないの? あんたの実家に魔法関連のものがないのは、奥さんを亡くした哀しみから親父さんが処分したとか」
「そいつはいの一番に疑ったよ。私は母さんの記憶はないから、生前の母さんを知ってそうな面々にも当たった。香霖とか慧音とかな。でも、誰を当たってもなしのつぶてだ。母さんは少し病弱な、金色の髪が綺麗な人だったって、それだけだよ」
「だったら、それでいいじゃない。あんたはたまたま魔法の才能に恵まれてただけの、霧雨のご両親の間に生まれた普通の人間。それで何の不都合があるっていうの」
 霊夢が嘆息してそう言い切ると、魔理沙は畳の上で拳を握りしめ、唇を噛んだ。
 その苦渋に満ちた表情に、霊夢は悟る。――あったのだ。魔理沙が疑うに足る何かが。だが、いったい何が? 何が魔理沙に、自身の出生を疑わせたのか?
 霊夢は魔理沙の最初の言葉を思い出す。
『なあ――私は本当は、あの親父の娘じゃ、ないんじゃないのか?』
 そうだ。魔理沙が疑っているのは、自分の母親ではない。父親だ。
 母親が普通の人間であり、魔理沙の魔法の力が遺伝であるなら――それは父親の血ということになる。そして、霧雨店の旦那は平凡な、何の能力もない人間であることは周知の事実。
 だとすれば、魔理沙が自分の父親ではないかと疑っている者が、他にいることになる。
 たどり着いた結論に、霊夢は思わず顔をしかめた。魔理沙の身近に、そんな候補など、ひとりしかいない。
「魔理沙。――あんた、香霖堂で何を見たの?」
 霊夢のその問いに、魔理沙は虚を突かれたように顔を上げ、そしてその顔を歪めた。
 それは笑っているような、泣いているような、呻いているような、ひどくいびつな顔。
「……昔から、おかしいと思ってたんだよ。香霖は半妖だろ? なんで半妖の香霖が、里の道具屋で働いてたんだ? そしてなんで、慧音みたいに里に定住するわけでもなく、里を出て、わざわざ客も来ないような魔法の森の近くに店を構えたんだ?」
 顔を覆って、魔理沙は絞り出すように吐き出した。
「香霖の部屋に、母さんの写真があった。本の間に隠すみたいにして」
 その疑念を抱かせるに足る、ひとつの証拠を。
「私とそっくりな金色の髪の女性が、香霖の隣で幸せそうに笑ってたんだ」



      二

「霊夢が改まって、話がある、なんて珍しいな。話ってなんだい?」
 香霖堂の店舗部分の裏は、そのまま店主である森近霖之助の住居になっている。かび臭い本に埋もれたその部屋に、霊夢は足を踏み入れた。鼻に馴染んだ匂いだ。昔から霊夢と魔理沙は、この店を遊び場にしてきた。魔理沙が霖之助の膝の上で本を読んでもらっている姿は、子供の頃の懐かしい記憶として霊夢の中にはっきりと存在している。
 しかし――改めて考えてみると、森近霖之助というこの半妖の青年について、自分は驚くほど何も知らないのだ、と霊夢は思う。かつて魔理沙の実家の霧雨店で修行をし、そしてここ、魔法の森のそばにこの古道具屋《香霖堂》を開いた、という経緯を聞いたことがあるだけだ。霊夢が幼い頃から全く容姿が変わらない白髪のこの青年は、存在自体がこの店で埃を被っている古道具のようだと思う。最初から既にそこにあり、変わらずそこにあり続けるもの。
 ――魔理沙から反応に困る話を聞かされた翌日である。霊夢は前日、魔理沙の疑念を『考えすぎでしょ』と一言で一蹴した。
『つまりあんたは、霖之助さんが普通の人間と偽って霧雨店に潜り込んでた間男で、生まれたあんたが親父さんじゃなく霖之助さんの子供だと判明したせいで、霧雨店を追い出されたって言いたいわけ?』
『…………』
『まあ、話だけ聞けばもっともらしいって言えなくもないけど――いくらなんでもあり得ないでしょ。あの霖之助さんが、人妻に手を出して孕ませたって? あの精神まで古道具みたいな霖之助さんが? あり得ない、あり得ない』
『……香霖だって男だぜ?』
『なによ、あんた思い当たる節でもあるの?』
『……いや、でもな』
『あり得ないってば。だいたい、もしそんな経緯があったんだったら、あんたの親父さんは霖之助さんとあんたを絶対会わせないように画策したはずじゃないの? でも私たちは普通に香霖堂に遊びに行ってた。あんたが親と絶縁して家を飛び出す前から』
『…………』
『鈴奈庵でなんか変な本でも読んで感化されたんでしょ。落ち着きなさいよ、まったく』
 ――昨日は結局、そう言って魔理沙をさっさと追い返したのだけれど。
 ただ、喉に刺さった小骨のようなものを、霊夢自身も感じていた。
 ……到底子供好きとも、面倒見がいいとも思えない霖之助さんは、どうして私たちの相手をしてくれたのだろう?
 生まれた頃の魔理沙を知っているから――というだけと考えるには、魔理沙と霖之助の間の距離感は近すぎるようにも思うのだ。何しろ精神が植物めいた節のある霖之助だ、魔理沙の方がどう思っているかはさておき、霖之助から魔理沙へは色恋の匂いは全くしない。しないにもかかわらず、霖之助が魔理沙を膝に載せている姿は、あまりにもしっくりとしすぎている。
 名乗れない父親と、それを知らない娘の光景と言われれば、確かに納得できなくもない。霊夢に構ってくれたのも、それが娘の友達だから――。
 霊夢は嘆息した。全く、鈴奈庵の変な小説に感化されているのは自分の方だ。
「霖之助さん。回りくどい話は嫌いだから率直に訊くけど」
「うん、なんだい?」
「霖之助さん、実は魔理沙の本当の父親だったりする?」
 正面からそう言った霊夢に、霖之助は――目を大きく見開いて、そのまま数秒硬直し、そして額を押さえて笑い出した。
「なんだいそれは、いきなり。とんでもない話だな」
「文句は魔理沙に言って頂戴。あいつが馬鹿なこと言い出したから確かめに来たのよ」
「魔理沙が? いったい誰に何を吹きこまれたんだ?」
「霖之助さんの部屋で、母親と霖之助さんのただならぬ関係の証拠を見たそうだけど」
「そいつはますますとんでもない話だ。妖怪の賢者に証拠でも捏造されたかな。どんな証拠だって?」
「本の間に、霖之助さんと母親が一緒に映ってる写真があったそうだけど――」
「写真? ああ、あれか……。本になんて挟んでおいたかな」
 魔理沙の言っていた写真自体には心当たりがあるらしい。首を捻って立ち上がり、書棚に向かう霖之助の背中を見ながら、霊夢は手元に置かれていた本を手に取る。
 そのページを間から、はらりと一葉の写真が落ちた。拾ってみると――まさにそれが、問題の写真だった。霊夢は目を眇める。確かにそこには、困ったような表情の霖之助の隣に、穏やかに微笑む金色の髪の女性が映っている。ちょうど、魔理沙があと十歳から十五歳ぐらい歳をとれば、こんな女性になるだろう、と思えるような――その面影が重なる顔。
「霖之助さん、これ」
「ん? なんだ、それに挟まってたのか。……確かにこれは沙織さん、魔理沙の母親だよ。彼女が亡くなる一年ほど前、僕が独立してこの店を構えたときに、取材に来た鴉天狗に撮ってもらったものだ」
 懐かしそうに、霖之助は眼鏡の位置を直しながらその写真を霊夢の手から受け取る。
「机に仕舞ってあったはずなんだが……。あの子が勝手に栞代わりにしたんだろうな」
「あの子?」
「ほら、うちの店でよく本を読んでる」
「……ああ、あの生意気な朱鷺色の妖怪」
 名前も知らない鳥の妖怪だ。そういえば、香霖堂に来るとときどき店内で本を抱えている。見かけるたびに霊夢は睨まれているが、一度退治した妖怪なので無視していた。というか、何か睨まれるようなことをしただろうか。霊夢の記憶には特にない。
「この本も、あの子に貸していたものだよ。別に隠していたわけじゃない。記念の写真だけど、ことさらに見えるところに飾っておくものでもなかったというだけさ」
「ふうん。……魔理沙の母親ってどんな人だったの?」
「ひょっとして、実は魔法使いだった、って答えでも、魔理沙は期待しているのかい?」
「だったら安心するんでしょうね、あいつは」
 魔理沙が何を疑問に思っているのかは、霖之助も察したらしい。「なるほど」と嘆息した。
「じゃあ、魔理沙が安心するだろう事実を、ひとつ教えてあげよう」
「なに?」
「沙織さんは妖怪退治の家の関係者だ。彼女自身には戦う才能は無かったようだけれど、魔理沙にもその血は確実に流れている。それだけの話だよ」
「……ふうん。じゃあ、魔理沙の親父さんが、魔理沙が魔法使いになるのに猛反対したのは」
「それは単純に、大切な幼い娘が魔法使いなんて危険な生き方を選ぶのに反対しただけさ。親父さんは今も魔理沙のことを心配しているよ」
「なるほど。真実なんて別に、推理小説みたいに面白いものじゃないわね」
 全く、魔理沙の妙な妄想より、格段につまらない結論だが、それ故にこそ説得力しかない。頷く霊夢に、「大抵の真実はね」と霖之助も相づちを打った。
「じゃ、霖之助さんはどうして魔理沙の実家で修行してたの? で、どうして独立したの?」
「それまた随分と今さらの質問だ」
 呆れたように肩を竦め、霖之助は埃っぽい部屋を眺め回す。
「修行をしたのは道具を扱う仕事をしたかったから。独立したのは、道具に対するスタンスが僕と親父さんの間で決定的に違ったから。――という答えでは、不満足かい?」
「魔理沙の親父さんは商売人で、霖之助さんは趣味人だって話でしょ? それは理解できるわよ。魔理沙が問題にしてるのは、霖之助さんが半妖だってこと」
「里には他にも半妖がいるじゃないか。寺子屋の先生だってそうだろう」
「慧音だって寺子屋が軌道に乗るまではかなり苦労したって聞いてるわよ」
「彼女は自分の素性を隠さなさすぎる。霧雨店で修行していたとき、僕が半妖だってことを知っていたのは霧雨夫妻だけだったよ。道具屋の修行が出来る場所なんて、幻想郷じゃ霧雨店ぐらいのものだったからね。普通の人間のふりをしていただけさ」
「河童は? あいつらも道具で商売してるじゃない」
「あれは道具を作る側だ。僕は蒐める側。親父さん以上にスタンスが違いすぎる」
 いちいち、霖之助の言うことには反論の余地がない。面白みのない真実を並べられて、霊夢は鼻白む。少しぐらいは狼狽えたり、言いよどんだりしてくれてもいいものを――まるで、台本通りの台詞を言っているかのように、霖之助は霊夢の疑問を着実に潰してくる。
 そう――まるで最初から、霊夢がこの話をしに来ることを知っていたみたいに。
 巫女の勘が告げていた。……霖之助は何かを隠している。だが、何を?
「なるほどねえ。……ねえ、霖之助さんにとって魔理沙は何?」
「何、と訊かれてもね。まあ、歳の離れた妹というのが一番近いか。少し離れすぎだけどね」
 どこまでも飄々と、霖之助はそれらしい返答を並べてみせる。
 眼鏡の奥の目を細め、そしていたずらっぽく笑ってさえ見せるのだ。
「僕からも訊こうか。霊夢にとって、あの妖怪の賢者はどんな存在だい?」
「――――」
「まあ、僕にとっての魔理沙は、それと同じようなものだよ」
 その言葉に、霊夢は押し黙り――そして、ふっと自分が何に引っかかっていたのかに気付く。
 ――妖怪の賢者に証拠でも捏造されたかな。
 霖之助のその何気ない一言が、喉の小骨だった。
 ……どうしてそこで、霖之助は唐突に八雲紫に言及したのだろう?



      三

 その些細な違和感を敢えて問い詰めることはせず、香霖堂を後にした霊夢は、里を歩きながらもぐるぐると考えを巡らせ続けていた。
 考えれば考えるほど、幼い頃に当たり前だと思っていた光景に違和感が増えていくのだ。たとえば幼い頃から魔理沙が博麗神社に頻繁に遊びに来ていたこと。里から神社まで行くには、里を出なければならない。神社の周辺に野良妖怪は滅多に出ないとはいえ、博麗神社は昔から妖怪神社と呼ばれていた。幼い子供を遊びに行かせる場所ではない。
 香霖堂にしたってそうだ。子供の頃から、玄爺に乗って魔理沙とよく香霖堂に遊びに行ったが、あそこも魔法の森のすぐ近く。子供を遊ばせるには危険な場所には違いない。
 そんな魔理沙の行動を、魔理沙の父親は黙認していた。なのに、魔理沙が魔法使いになるのは危険だからと大反対した――それは大きな矛盾ではないだろうか? 魔理沙を大事に思っていたのなら、子供が里の外に出ることは厳しく戒めなければいけない。放任していたのであれば、魔理沙が魔法使いになることに大反対したのが不自然になる。
 魔理沙が父親と絶縁するほど大喧嘩したのも、あるいはその不自然が原因だったのだろうか。それまで放任されていたのに、突然自分の人生に親が干渉してきたから……。
「……わっかんないわねえ」
 霊夢はがりがりと頭を掻いた。そもそも親のいない自分が、親子関係について考えを巡らせたところで休むに似たりというやつよね――と考え直し、溜息をついて顔を上げたところで、視界に飛び出してくる人影がある。咄嗟に身をかわすと、その影は霊夢の目の前でつんのめった。転びそうになったその影を咄嗟に支え、それからそれが見知った顔だと気付く。
「すみませ――あら、霊夢さん」
「なんだ、阿求じゃない。気を付けなさいよ」
「これはどうも失礼いたしました」
 体勢を立て直した阿求は、裾を叩いて霊夢に向き直る。小脇に本を抱えているので、鈴奈庵にでも寄ってきた帰りなのだろう。
「霊夢さんはどちらへ?」
「いや、神社に帰るところだけど。……そうだ阿求、あんた、魔理沙の母親について何か知ってる?」
 霊夢がそう問うと――阿求の顔から、不意に表情が消えた。
「どうしたんですか? いきなりそのような」
 いや、それは一瞬のことで、次の瞬間にはもう、阿求の顔には不思議そうな表情が浮かんでいる。霊夢は眉を寄せ、それから嘆息混じりに腕を組んだ。
「ちょっとね、香霖堂で写真を見たもんだから。よく似てるわよね」
「生憎、私が御阿礼の子として生まれる前に亡くなられた方ですから、私は直接は存じ上げません。記録としてしか知りませんよ」
「それでもいいわよ。妖怪退治の家の関係者って聞いたけど」
「ええ。魔理沙さんの母親――霧雨沙織さんは、妖怪退治を生業としていた魔法使いの朝倉家の分家の出です。彼女自身には魔法の才能はほとんど無かったと記録されていますが」
「朝倉? なんかどっかで聞いたような」
「今はもう没落しています。末裔がひとり、慧音さんのところで自警団の手伝いをしていたはずですが」
「……ああ、あいつか。ふうん、じゃああいつと魔理沙は遠い親戚ってわけ?」
「そうなりますね。まあ、ほとんど赤の他人と言っていいほどの遠戚でしょうが」
 慧音と一緒に自警団の腕章をつけて見回りをしている、白衣に眼鏡の少女の姿を思い出す。名前は何だったか。何にせよ、この里で魔法使いの血を継いでいる者同士なら遠い親戚でもおかしくはあるまい。
「里では珍しい金色の髪が美しい女性だったという評判が記録に残っていますね」
「それは写真で見たわ。魔理沙とそっくり」
「父親には似なかったということなんでしょうね」
 くすくすと阿求は笑う。霊夢はなんと応えたらいいか解らず、ただ肩を竦めた。

 結局、知人に聞いてもなしのつぶて――という魔理沙の証言を裏付けるだけの調査になった。いや、単に魔理沙が想像するような意外な真相など存在しないというだけの話なのだろう。霖之助が言っていた妖怪退治の家の関係者というのも、阿求への質問で裏付けが取れたわけだし、あとはそのつまらない事実を魔理沙が納得するかどうかでしかない。
 夜。神社の畳にゴロゴロしながらそう考えようとしても、やはり何か、喉に小骨が引っかかっているような違和感を、霊夢は拭い去れずにいた。
 魔理沙の母が魔法使いの家系だったのなら、魔理沙の実家にはなぜ魔法関連のものが一切無かったのだろう? 魔理沙が魔法を習うなら、母親の実家の方が適格だったはずだ。それなのに魔理沙は、わざわざ博麗神社で魅魔に弟子入りした……。父親が魔理沙を魔法から遠ざけようとしたのであれば、魔理沙が里の外にある神社に通って悪霊から魔法を習っていたという、霊夢自身がよく知っている事実と決定的に矛盾する。子供がそんな秘密を、大人の目からいつまでも隠し通せるはずがないし、いざとなれば霖之助から話が伝わったはずだ。魔理沙は魔法使いを目指していることを、霖之助には隠していなかったのだから。
 つまり、魔理沙が真実、違和感を覚えているのはそこなのだろう。
 自分に対する、父親の態度の決定的な矛盾――。魔法使いになることに大反対しておきながら、魔理沙が博麗神社で魔法を習っていたことを見逃し続けていたという厳然たる事実。放任していたのに過保護、過保護なのに放任だったという矛盾。
 だからこそ、魔理沙は自分の本当の父親が霖之助なのではないか、と疑ったのだ。父親にとっては自分が他人の子だから放任していた。そして、魔理沙がいざ本当に魔法使いになると言い出したとき、ずっと抱えていた他人の子への憎しみが自分に向かって吹き出した――。そう、魔理沙が実家と絶縁した原因の喧嘩が、過保護ではなく父から血の繋がらない子への憎しみだったとすれば、事実の辻褄が合う。合ってしまう。
 しかしそれは、筋が通るというだけの話でしかない。人間の心は推理小説のように合理的に割り切れるものではないということぐらい、霊夢だって理解している。霊夢自身が不合理の塊のような人間なのだから。人はまったく気まぐれに他人への態度を変えるものだ。放任していた子供に対して、急に過保護になる親だっているだろう――。
「……でも、そんな答えじゃ魔理沙は納得しないわよねえ」
 つまり――必要なのはつまらない事実ではない。魔理沙の疑念を吹き払い、納得させる真実だ。しかし、そんなものは博麗の巫女の手には余る。霊夢の仕事は妖怪退治であって、人生相談ではないのだ。そういう話は宗教家のところにでも持っていけばいい……。
「あらあら霊夢、貴女も宗教家ではなくて?」
 突然、頭上から降ってきた声に、霊夢は嘆息して身を起こした。
「神社は願を掛けたりお祓いするところであって悩みを聞くところじゃないわよ。――まあいいけど。あんたが来てほしいときに来てくれるなんて珍しいじゃない」
「あら、霊夢が私に来て欲しいなんて、それこそ珍しくないかしら?」
 世界の隙間から顔を出して、妖怪の賢者、八雲紫は得体の知れない笑みを浮かべた。
 見慣れたその、底の知れない笑みに、霊夢はただ嘆息する。本当のことなど決して言わないこのスキマ妖怪が、ある意味で自分の育ての親であるという事実に。
 と言っても、紫が霊夢の前に本格的に姿を現したのは、霊夢が博麗の巫女として一人前になってからのことだ。それ以前は影ながら霊夢を見守っていたという話だが、果たしてどこまで真実なのやら。まあ確かに、幼い頃から霊夢は少なくとも神社での生活に不自由した記憶はないので、紫が(おそらくは式神の藍を使って)何くれと影ながら面倒を見てくれていたのは事実であるのだろうけれど――。
 こんなのが親代わりなのだから、霊夢には人間の親子関係などわかるはずがないのだ。
「こんなのとは失礼ねえ」
「心を読むな。地霊殿のあいつじゃあるまいし」
「口に出てたわよ。博麗の巫女は幻想郷の要。幻想郷の秩序を護る存在。それを見守るのは賢者としての私の大切な仕事ですもの。巫女に万一のことがないように、私たちはずっと護ってあげているのよ? もっと感謝してほしいものだわ」
 耳にタコができるほど聞かされてきた言葉に、霊夢は嘆息する。その役目はもちろんわかっている。だからこそ霊夢は今まで、博麗の巫女として異変解決を続けてきたのだ。そのようにして霊夢は育てられてきたのだから。この妖怪の賢者に――。
「あんたに護られる筋合いもないし、だいたいあんたに護られた記憶がないんだけど。私は基本いつだって一人で戦ってきたんだから」
「あら、いつも一緒にくっついてくる魔法使いがいるじゃない」
「……なに、あんたが魔理沙を私の護衛として差し向けてるとでも言い出す気?」
「まさか。巫女の手柄を横取りしようとする輩にはいつも困っているのよ」
 飄々と笑う紫に、霊夢はやはり嘆息するしかない。全く、いつだってこいつは何を考えているのか、口にしていることがどこまで本当なのか、まるでわからない。
「それで霊夢、私に来て欲しかった理由は何かしら?」
「……どうせ、今日私が何をしてたかぐらいは把握してるんでしょ」
「友人の悩みを解決してあげようなんて、麗しい友情ね」
「うるさい。――どうせあんたは真相を知ってるんでしょうけど、あんたから聞いたって本当のことかどうかなんてわかんないんだから、訊くだけ無駄よね」
「あら賢明ですこと。でも、その言い方は不適当ね。――真実は幾通りもある。人間はその中から自分にとって最適の真実を選び取らないといけないのよ」
「要するに、本人が納得できるかどうかが重要ってことでしょ? そんなことは言われなくたってわかってるのよ。だからあんたに聞きたいのは、魔理沙を納得させる方法よ」
 ――違う。そんなことじゃない。
 自分が本当に、この八雲紫に確かめたいことは――。
 内心に、理由もなくふっとそんな思いがよぎった。だがそれは一瞬のことで、霊夢は嘆息でそれを打ち消す。どうして自分がそんなことを考えたのかもわからなかったから。
「筋の通る誤解よりも、納得できない真実の方が正しいと信じさせたいのね?」
「……まあ、そういうこと」
「そんなのは簡単なことよ。第三者による疑いようのない客観的な事実を突きつければいいの」
「客観的な事実?」
「外の世界には、実の親子かどうかをかなりの精度で鑑定する技術が存在するそうよ」
「なに、結界を破って外の世界に魔理沙を連れて行けって言うわけ?」
「まさか。外の世界とこっちを普段から行き来している妖怪にでも相談してみなさいな」
 ――あいつか。霊夢の脳裏に、一匹の化け狸の顔が浮かぶ。あの狸はそういえば、幻想郷に居着いた今も、よく外の世界に出ていると聞いた覚えがある。
「……それで鑑定できたとしても、魔理沙がそれを信用しなければ一緒じゃない?」
「そうねえ。そこまで心配するなら、セカンドオピニオンを推奨いたしますわ」
「セカンド……何?」
「もうひとつ、別の第三者に鑑定してもらうのよ。そのぐらい出来そうな輩が幻想郷にはいるでしょう? 竹林の奧深くあたりに」
 霊夢は目をしばたたかせた。



      四

「まさか幻想郷で、DNA型親子鑑定をすることになるとはね。知識も技術もあったけれど、月では無用のものだったから、実際に行ったのは初めてだわ」
 迷いの竹林、永遠亭。八意永琳は苦笑するように椅子を回して、霊夢と魔理沙に向き直った。魔理沙は疑いの眼差しで、月の賢者を見据える。
「その鑑定ってのは、本当に信用できるのか?」
「まあ、今回持ってきてもらえたサンプルからなら、九十九パーセントカンマの後に九が永遠に続く程度の精度で確実な結果よ。サンプルが正しい限りにおいて疑いの余地はないわ。あとは私が、このサンプルの親子関係の真偽について利害関係が一切無い第三者であるということを信用して貰うしかないわね」
「……そりゃそうだな」
 魔理沙は息を吐いて、永琳の差し出した封筒を受け取った。封筒は二種類ある。
「白の封筒はサンプル甲とサンプル乙のDNA型親子鑑定結果。茶色の封筒は、サンプル甲とサンプル丙の親子鑑定結果よ。中にも書いてあるけれど、取り違えないようにね」
 魔理沙はじっと、その二種類の封筒を見下ろした。横目にそれを見て、霊夢は息を吐く。
 全く、ここまでも楽な作業ではなかった。二ッ岩マミゾウから、確かに外の世界ではDNA型親子鑑定なるものが可能であるという情報を得て、霖之助から魔理沙自身が毛髪のサンプルを採取した。さらに魔理沙の父親については、魔理沙自身が深夜に実家に忍び込み、眠っている父親から毛髪を頂戴するという手続きを踏まなければならなかった。そこまで完璧を期し、魔理沙の毛髪も含め入手した三つのサンプルが混同されないようにはっきりと区別された状態で厳重に封をして、それぞれを永琳とマミゾウに託して鑑定を依頼したのである。
 サンプル甲は魔理沙の、乙は魔理沙の父親の、丙は霖之助のサンプルだ。つまり、白の封筒で親子関係が実証され、茶色の封筒で否定されれば、魔理沙の疑念はただの杞憂と証明される。
「……妙なこと頼んじまって悪かったな」
「別に構わないわよ。いい退屈しのぎになったわ。あとはどんな結果が出てもこちらを恨まないで頂戴。私からはそれだけよ」
 背中を向けた永琳に、魔理沙はただ、再びじっと二種類の封筒を見下ろしていた。

 永遠亭を後にして数日後、マミゾウからも鑑定結果が戻って来た。
「やれやれ、外の世界に顔が利くからって、こんなことをそうそう気軽に依頼されても困るんじゃがのう。正式な鑑定に必要な書類が無いんじゃから、外の世界での証拠能力はないぞい。ま、報酬はしっかり戴いたことじゃし、事情の詮索はしないでおいてやるわい」
 マミゾウからは霊夢がひとりで結果を受け取った。全く、どうして自分が魔理沙のことでここまで動いてやらねばならないのか。霊夢はそう思いつつも、結局のところは自分も下世話な詮索趣味で動いているだけなのかもしれない、と思う。
 ……もし、魔理沙の父親が本当に霖之助だったら。
 そうだったとしたら、ずっと喉に引っかかっているこの小骨も取れるのだろうか?

 かくして、博麗神社に二種類の鑑定結果が揃った。
「片方は永琳の、もう片方は外の世界の。これが両方一致したら、その結果は疑いようなく実証されたと考える。疑問の余地はなし、どんな結果でも受け入れる。いいわね?」
「……おう」
 そう、これはどんな結果であれ、魔理沙に納得させなければならないのだ。魔理沙がこの結果を信じなければ意味がない。その結果を魔理沙がどう解釈するにせよ、事実を真実として選び取るのは魔理沙のすることだ。そこまでは霊夢に責任の持てることではない。
 霊夢と魔理沙は、同時に全ての封筒を破った。そして、中から鑑定結果の記された紙を取り出す。サンプル甲――魔理沙と、サンプル乙――魔理沙の父の親子鑑定結果。そして、サンプル甲とサンプル丙――霖之助の親子鑑定結果。別々に出されたその結果の紙を並べる。
 どちらも細々と説明が記されていたが、結果を示す一文は間違えようがないほど明瞭だった。
 ――乙は甲の父親と認む。甲と丙には一切の親子関係は認められず。
 細かい文章は異なれど、どちらも示された結果はそれと相違なかった。
 霊夢は思わず大きく息を吐く。――そう、事実なんてこんなものだ。推理小説のような逆転劇などない。当たり前の結論が当たり前にそこにある。
「はっきりしたわね。……魔理沙?」
 霊夢が顔を上げると――魔理沙は、泣き笑いのような顔で、ただその文字を見下ろしていた。
「……そっか、そうか、そう、なんだな」
 確かめるようにその文字をなぞり、魔理沙は何度も頷く。
「良かった」
 溜息のように吐き出されたその言葉が、結局のところ、この騒ぎの全てだった。
 憑き物が落ちたような顔をしている魔理沙に、霊夢はただ小さく肩を竦めた。

 霊夢自身の喉の小骨が取れていないことから、目を背けるように。



      五

 所詮それは、気にしなければ飲み込めてしまう程度の引っかかりでしかなかった。
 疑念とも呼べない違和感。巫女の勘と呼ぶにも対象が曖昧すぎて、何が引っかかっているのか霊夢自身にもわからなかったから、霊夢はその違和感を飲み込んでしまうことにした。
 要は、魔理沙の父親の態度が理解できないという、それだけの話なのかもしれない。親を知らない自分には、娘を持つ父親の気持ちなど理解できないのだ。幼い魔理沙が頻繁に博麗神社に遊びに来ていたこと、魔理沙と香霖堂に遊びに行ったこと――今まで一度も、それが不自然だと思わなかった幼少の思い出が、今考えると不思議であるからといって、そこに何か深い意味を邪推するのは、全く魔理沙を笑えない。霖之助が紫の名前を唐突に出したのだって、きっと特に深い意味はない。訊ねても霖之助自身覚えてもいないだろう。
 だから霊夢も忘れることにした。その些細な違和感を封じ込めて、何事もなかったように、博麗の巫女としての日常に戻った。魔理沙も自分の抱いていた疑念など忘れたような顔で、いつも通りの子供っぽい笑顔で博麗神社に毎日のように遊びに来る。それでいいのだと、霊夢は無意識に自分に言い聞かせ続けていた。

 その日、珍しく博麗神社に魔理沙や妖怪以外の来客があった。
「やあ、霊夢」
「こんにちは、霊夢さん」
 上白沢慧音と、稗田阿求だった。境内を掃除していた霊夢は振り向き、ふたりの姿を見やる。慧音の腕には自警団の腕章。ご苦労なことね、と箒を持ち直す。
「いらっしゃい。慧音も大変ね、このおてんば阿礼乙女の護衛なんて。阿求、特にあんたに語る異変解決はこのところ無かったと思うけど?」
 阿求がまた、幻想郷縁起のネタ探しに話を聞きに来たのだろう。慧音は自警団として里の有力者の護衛というわけだ。ここは里の外であるからして――。
 霊夢はこのふたりの組み合わせを見て、瞬時にそう判断した。
「いや、今日は用があるのは私の方だ。阿求殿は出資者としての監督役兼記録係だな」
 だが、慧音は首を振ってそう答えた。
「……え?」
「寺子屋の建物にガタが来ていてな。いっそ建て替えようかという話になっているんだ。その地鎮祭を博麗神社に依頼したいんだが――」
 慧音が言葉を続けるが、霊夢の頭にはその意味は半分以上入ってきてはいなかった。

 それは本当に、偶然の天啓とでも呼ぶしかない閃きだった。
 喉につかえていた小骨が抜け落ちていく、些細な全ての疑念に筋が通る、ひとつの理。
 だがそれは、それはあまりにも――霊夢には、信じがたい結論で。
 あり得ない。そんなことはあり得ない、だってそんなはずは――自分は、間違いなく。

「……霊夢? 聞いているのか?」
「え? あ、う、うん……。まあ、あんたの計画通りでいいわよ」
 慧音の声に、霊夢は我に返って首を振った。慧音は眉を寄せる。
「本当に聞いていたのか? 地鎮祭は冠婚葬祭と並んで博麗神社の主要収入源なんだろう? そんな調子じゃ他の宗教家にますます信仰を奪われるぞ。ただでさえ里では命蓮寺や神霊廟が勢力を伸ばしているんだからな」
「お説教はいいわよ。妖怪寺も胡散臭い仙人もいざとなったら退治してやればいいんだから」
「またそんな乱暴なことを……。白蓮殿も神子殿も、少なくとも里の人間に対して悪さはしていないぞ」
「まあ、あまり仙人を目指す人間が増えられても困りますけどね」
「しかし、布教自体を止めるわけにもいかないしな。霊夢も神子殿ぐらい堂々と自分は偉大な博麗の巫女なりという顔で布教したらどうだ?」
「自分で神の子を名乗るような自意識過剰仙人と同レベルになるのもねえ――」

 そう自身で、何気なく口にした瞬間。
 霊夢は、今度こそ完全に、全てを理解してしまった。
 理解しがたい、けれど筋が通ってしまう、たったひとつの真実に。

 そして霊夢は知る。
 魔理沙が、香霖堂であの写真を見た瞬間に感じたのは、これだったのだと。
 全ての違和感に、筋が通ってしまうという――それは、底知れない恐怖だった。

 それから慧音と阿求に、どんな話をしたのか、霊夢は覚えていない。
 慧音はきっちり細部まで計画を詰めていたから、霊夢が自分で決めることなどほとんど無かったのだろう。上の空のままに話を終え、夕暮れにふたりを送り出して、そして霊夢は。
「――紫! 出てきなさいよ!」
 妖怪の賢者の名前を、虚空に向かって叫んだ。
 風が鳴く。神社を取り囲む木々がざわめく。ざあっ、と一陣の風が霊夢の黒髪をなびかせ、
「あらあら、直接呼んでくれるなんて嬉しいわね。今度は何の御用かしら?」
 黄昏の世界の隙間から、八雲紫は得体の知れない笑みを浮かべていた。
 紅に染まる、その変わらない笑みに、霊夢はふっと、底のない闇を見たような気がした。
 今ならまだ引き返せる。その闇に足を踏み入れず、見なかったことにできる――。
 だが、この疑念を抱えて、これから――博麗の巫女として生きるのは、あまりにも。
 あまりにも――。
「博麗の巫女は幻想郷の要。幻想郷の秩序を護る存在。――あんたはいつもそう言ったわよね」
「ええ、その通りですわ」
「そう、その通りなんでしょう? ただ、その単語に当てるべき漢字が私とあんたで違っただけで――」
 ざあっ、と再び風が鳴いた。
 その風に掻き消されそうな、震える声で、霊夢はその疑念を、口にした。してしまった。

「本当の幻想郷の要、幻想郷の秩序を護る存在は――博麗の御子、、。それは私じゃなく、魔理沙なんじゃないの――?」

 博麗神社という神社があり、そこに博麗霊夢という巫女がいる。
 だから霊夢は今まで、一度だって疑いはしなかった。博麗の巫女という存在を。
 だが、博麗の巫女が、本当は博麗の御子だったのだとしたら――。
 それが、それこそが、霧雨魔理沙だったのだとしたら――。

 そうだ。そう考えることで、全ての違和感に綺麗に筋が通るのだ。
 魔理沙が幼少期から自由に博麗神社に通っていたのは、そこが一番安全だったからだ。
 なぜならここには、博麗の御子を護る妖怪の賢者と、博麗の巫女がいるのだから。

 御子と巫女。真の要である御子を護るための、影武者として用意された巫女。
 魔理沙と霊夢の本当の関係がそうであったなら、全ての辻褄が合ってしまう。
 八雲紫が博麗神社で見守っていたのは、博麗の巫女ではなく、通ってくる博麗の御子。
 魔理沙の父が幼い娘を放任していたのは、賢者と巫女が御子たる娘を護っていたから。
 魔理沙が魔法使いになることに反対したのは、娘がその庇護から離れることを懸念したから。
 魔理沙が霊夢の異変解決に必ずついてくるのは、博麗の御子が異変を解決する者だから。
 逆だった。今までは全て、魔理沙の異変解決に、霊夢が護衛としてついていっていたのだ。
 真の幻想郷の要である博麗の御子から目を逸らすための影武者――それが、博麗の巫女。
 里の子供として育てられ、賢者と巫女に護られ、自分が幻想郷の要だと知らずに育つ、幸せなる御子。それが、霧雨魔理沙だったのだとすれば。
 博麗霊夢に両親がいないのは――霧雨魔理沙を護るためだけに用意された影武者だから。
 博麗の巫女とは、自分が影武者であることも知らずに育てられた、愚かなる守護者。

『僕からも訊こうか。霊夢にとって、あの妖怪の賢者はどんな存在だい?』
『――――』
『まあ、僕にとっての魔理沙は、それと同じようなものだよ』

 森近霖之助は、全てを知っている。彼は、真の博麗の御子の守護者。
 決して真実を語ることなく、妖怪の賢者とともに、幻想郷の要を見守る者。
 あるいは――稗田阿求や、上白沢慧音もまた――。

「ねえ紫、答えてよ――。私は、ただの影武者だったの? 霧雨魔理沙という御子を護るためだけに用意された、使い捨ての巫女だったの――?」

 絞り出すような、霊夢のその言葉に。
 逢魔が刻の闇にその表情を覆い隠して、幻想郷の賢者は答える。

「その問いに、貴女はいったい、どんな真実を望んでいるのかしら?」

 霊夢は、崩れ落ちるように境内の石畳にへたりこんだ。
 その足下に開いた世界の隙間から、無数の目が、霊夢をじっと見つめていた。
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コメント



0.860簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白く良かったです
5.100名前が無い程度の能力削除
怖い怖い、残酷な真実がすぐそばにあったとしても、気付かないままなら幸せでいられたのに。
感服しました。発想の勝利と言えばそうなのかも知れませんが、この発想をここまで筋道立てて、読み手に納得させる物語として作り上げたということが素晴らしいと思います。
一つ一つの描写、説明に説得力がありました。読んでよかったと思います。
6.100名前が無い程度の能力削除
猛烈な終盤の畳みかけ、お見事でした。
11.100名前が無い程度の能力削除
底なし沼のような、どことなく感じる恐怖がありました。読み終えた後、あらためて読み返すと香霖堂のシーンが、明るいのに暗い感じがしており味が出ていました。最後の「納得についての物語です。」ですこし救われたような気がします。
12.100Actadust削除
この当たり前の共通認識として存在する設定から、全てひっくり返してしまうような結論に理路整然と説明し説得力を持たせてしまうこの手腕。お見事です。
じわじわと、当たり前が蝕まれてゆく恐怖が伝わってきました。
13.100夏後冬前削除
この長さで骨太のミステリをやる手腕、お見事です。大層引き込まれ、ミステリの醍醐味を味わうことが出来ました。
16.100名前が無い程度の能力削除
ミステリタグに首を傾げましたが最後で納得
18.80名前が無い程度の能力削除
好きな真実じゃなかった
19.100南条削除
面白かったです
前提が崩れ落ちるようなとてつもない恐怖を感じました
読みやすくってどんどん話に引き込まれていきました
20.90めそふらん削除
いや本当に恐ろしい。
我々が共通認識していたものがひっくり返されたような気分でした。
29.100名前が無い程度の能力削除
とても面白い。