酒、ご馳走、どんちゃん騒ぎ。私の眼前で、ごくごく一般的な宴会が催されている。この郷を見下ろす神社のひろいひろい境内を貸し切って、この宴会は開かれている。
外の世界と違うのは、参加者がみな少女であること。しばらく眺めていると、参加者の一人が私に近づいてきた。
「ねぇ、ねぇってば。なーにぼけーっとしてんのよ、ほら呑んで!まさか私の酒が呑めないってんじゃないわよねぇ?」
そんなに酔っぱらって。後片付けは誰がするのよ
「いまはかんけいないでしょ!うたげのせきは、ぶれいこうなのよ~!」
はいはい、私もいただくから。って、あれ
「まだひとくちなのに、ゆかりはどーしてまっかなんですかー?いつもはもっとのめてるのにー」
ごめんね、今日は体調が優れないみたい。すこし横になってもいいかしら
「ひとのしきちでかってによこにならないでくださーい!ほらおきておきて~」
ごめんなさいね、ちょっと、本当にこれは。やばいかも、待って、揺さぶらないで
「おーい、ゆかりさーん?…かりさーん?…り…ん…
マエリベリーさーん、朝ですよ。今日もいい天気ですね。」
気が付くと、少女の代わりに看護師が、私の背中に手を回していた。ベッドが昇降し、窓側に体を向けてくれる。きらめく夏の朝日が眩しい。
また、あの夢を見ていた。というより、意識がないときは常に見ている夢。夢の中で私は『ユカリ』と呼ばれていて、『レイム』と名乗るあの少女といつも話しているのだ。
今日はお酒を飲んでいて、昨日は縁側で雑談していた。意識がないときだから、昨日か今日かもよくわからないんだけどね。
とにかく、ずっと似たような夢を見ているのだ。
どうせこんな体なんだから、いっそのこと、夢の世界に行ってしまいたい。あの夢が現実になればいいのに。
日増しに夢を見る時間が増えている。もしかしたら本当に、あちらの世界へ行ってしまうのかも。
そんな想いがたまに脳裏をよぎる今日この頃。私は今日も、ひとり外を眺めます。
カタカタ、カタカタ、ッターン
静かな病棟に鳴り響く打鍵音。私はいま、勤務先のリハビリテーションにて書きかけの電子カルテを保存している。今から患者さんの検温に向かうのだ。
私の勤めるリハビリテーションは少し変わっている。筋力を取り戻そうとボールを握る患者も、車椅子から立ち上がろうとする患者も、腕に電流を流して神経を修復しようとする患者もいない。
このリハビリテーションは、様々な事情で意識が戻らない患者を専門に受け入れる施設だからだ。
意識が戻るのを待つ場所を、果たしてリハビリテーションと呼んでもいいのだろうか。まぁとにかく、私の勤める病院はそういうところなのだ。
ここに入院している患者さんは、みな意識がない。意識が無いから、人の声なんてめったに聞こえない。
もし聞こえてきた時、それは先生の問診か看護師同士の雑談か。あるいはお見舞いにやってきたご家族の話し声か。いずれにしても、患者さんがその口を聞くことは無い。
「それじゃあわたし、半年以内に自殺してしまうじゃない。そんなの嫌よ、メリーと会えなくなるなんて」
この声はきっと、お見舞いにやってきたご家族か患者さんの友人の声。
聞き捨てならない言葉を耳にした私は、緊張しながら扉を開く。
意識のない友人の下へ毎日通いつめ、延々と独り言をすることで有名な学生の待つ、89号室の扉を。
「こんにちはー」
その声に、ナースステーションで電子カルテを書いていた私は頭をあげる。
「あ、宇佐見さん。こんにちは、今日は早いですね」
時刻は午後15時。いつもは17時にやってくる彼女に、ふと浮かんだ疑問を投げかけてみる。
「今日は3限が休講になったんですよ。ラッキーです。いまって大丈夫ですか?」
「今日はもう診察はありませんね。いつも通り、19時までですよね」
彼女はもうお見舞いの常連さんだ。すでに顔も名前も覚えているくらいに。もちろん、彼女の訪ね先も。
「さすがにもう覚えられていますよね。では」
そういうと、彼女はにこやかに手を振りながら病室へと歩いて行った。いつも通りの、軽やかな足取りで、
行先は、もちろん89号室。彼女はいつも、そこでマエリベリーさんに話しかける。まるで会話をしているみたいに。それを聞くのがここ数か月の私の楽しみでもある。
今日はどんな話をするのだろう、専門的だとつまらないなぁ。
そんなことを考えながら、いつも通り彼女の後姿を見送るのだった。
「メリーただいま。今日は3限が休講になったから早めに来たわよ。病室から窓を眺めるだけの、つまらない日々を過ごすあなたに蓮子さんが会いに来てあげたわよ!」
「はいはいお疲れさま。ここは病院よ?もう少し声のボリュームを抑えなさいよ」
「安心しなさい。両隣の部屋は空き室だということはリサーチ済みよ。だから、多少うるさくしても大丈夫ってこと」
「そういうことじゃなくてね、私が言いたいことは。それよりも、3限が休講になったって本当なの?」
「マジのマジよ。2限の途中に畑邑が体調崩しちゃってね。3限も畑邑が担当だったんだけど、真っ青な顔色で退室してそれっきりよ」
「あら、心配ね。去年から忙しそうだったもんね」
「でね、その畑邑が面白いことを話してたのよ。たまたま2限のオムニバス1が文学で、それで畑邑が担当で。芥川龍之介の『河童』についてだったんだけどさ」
どうやら今日は芥川龍之介の「河童」について話すらしい。
今はこうして看護師をしている私だが、実は中学生までは文学の道に進もうとしていた。つまり今日の話題は、私と相性バッチリだということ。
気分転換に反対側のお手洗いまで歩いてよかったな。足が自然と浮足立つのを感じながら、なんとなく89号室を覗き込む。
青々とした新緑が覗く窓と、そこに体を向けるマエリベリーさん。今日の天気はかんかん照りの快晴だ。
陽の光に照らされて、生命力に満ちた窓の外。それに比べて89号室は、逆光のせいか薄暗い。というか、明らかにマエリベリーさんの周囲だけ陰鬱気な雰囲気が漂っている。
宇佐見さんは今も話しているし、その周囲は朗らかな午後の陽気に包まれている。にも関わらず、マエリベリーさんの周りだけ妙に仄暗い。
マエリベリーさんの居るベッドと、宇佐見さんの座る椅子。その間に横たわる床は、部屋の陰陽を分ける境界のようだ。
陽光差し込む89号室は、なぜかマエリベリーさんの近くだけ陰が差していて、それが余計に部屋の明暗をはっきりさせていて。
私の眼にはマエリベリーさんが、まるで異世界にいるように見えた。
「あらすじだけは聞いたことあるわ。河童の世界を通して人の世界を見つめ直すのよね。あと狂人が出てくる」
「久しぶりに読んだら視点人物が狂人でびっくりよ。しかも名前が第23号、無機質すぎ。あと、昔おばあちゃんちで読んだなろう系と似てて笑っちゃったわ」
「は?何言ってんのよ、あの作品群と河童を似てるなんて言う人は初めてよ。確かに異世界には行ってるけども」
「案外あってるみたいよ。講義によるとね、河童となろう系が生まれた時代背景が似ているみたいなの。フィクションは現実とリンクしているから、そういう意味でも両者は似てるって畑邑が」
「フィクションは現実とリンクしている、ねぇ。ゴジラみたいな?」
「良い例を出すじゃない!ゴジラは核の脅威から生まれた怪物ね。時代時代で世間を騒がせたものが基になりやすいんだって」
「その場合、河童は何かしら。見つめ直すから、日本そのものとか?」
「正解。『河童』は軍国主義に突き進む日本やそれによって起こる大量死への不安から生まれたみたい。明治に日本を騒がせたものは戦争ってことね」
「なるほどね。じゃあなろう系はどうなの?なんとなくわかる気はするけど一応聞いてみるわ」
「わざわざ聞くんですかメリーさんよ。2010年代の出来事を思い出してみて」
「なろう系は平成よね?2010年代だから……地震に不況に貿易戦争もあったわね。役満じゃない」
「あとは単純に、両方とも色々と行き詰まってたし。閉塞した窮屈な世界とか私は嫌よ」
「行き詰まって退屈な世界、ね。そういった意味では、結界を破ろうとする私たちも似たような存在なのかもね」
「『河童』は現実を批判できたけど、なろう系は異世界に逃避する事しかできなかった。それくらいひどかったのよ、あの時代は。私たちは見つめ直してみる?それとも異界に転生する?メリーが選んでいいよ」
「私たちは異界に転生するほうが手っ取り早そうね。普通の人に比べれば、そういう経験も無駄に豊富だし」
「転生するとしても、トラックに轢かれるのは勘弁ね。そういえば、令和の初めにはコロナがあったじゃない。あの頃の大学生は登校できなかったらしいわ、ある意味異世界転生じゃない?」
「今までの日常が一変するということ?そういう意味では異世界転生とも言えそうね。今まであった大学生の常識が通用しなくなるんだし。なら私の今の状況は、異世界転生そのものじゃない。言葉も通じないし」
「メリーさんはきっかけだけなら自業自得でしょうに。どうせ家から出ないし友人も私以外にいないだろうし、そんなに問題ないのでは?」
「あら、渋る私を連れだしたのはどこの女学生さんだったっけ?それに、そんな私に毎日会いに来るあたなはどうなのよ」
「ちょっと、そこは触れないお約束でしょうに。痛いところを突かないでよ」
「だいたいね、この生活も結構しんどいのよ。例えばほら、この病室って大通りに面しているじゃない。だから毎朝通勤通学に勤しむ人が見えるのよ。そんな景色を看護師さんたちは、わざわざ毎日ベッドの向きを変えてまでみせてくるの。急に日常が壊れて困惑する、私の気持ちも知らずにね」
「異世界へ転生したのに前の世界が見られるってことか。確かにしんどいわねそれ、もどかしさで発狂してしまいそう。心療内科にかけあってみようか?」
「発狂だなんてそんな、それじゃあ私は第23号みたいじゃない。まさか蓮子は、私の悲鳴を本にでもするつもりなの?」
「どうしてもっていうならいいわよ。冒頭で『どうか彼女の悲鳴を聞いてください』ってお願いしておくね。あ、でもそうすると私、半年以内にメリーとお別れすることになるじゃない。それは嫌ねぇ」
ドアを開けると、そこには宇佐見さんとマエリベリーさんがいた。爽やかな日差しの下、二人は穏やかに笑い合っているように見える。もちろん、実際に笑っているのは宇佐見さんだけだけど。
それに、その表情はどう見ても追い詰められた人のするそれではない。
「お邪魔しまーす。検温の時間です」
「あれ、もうそんな時間だったか」
どう聞いても、追い詰められた人のする返事ではない。あまりに自然すぎる。とっさに切り替えたようには見えないし。
私の心の中で、蠢いていた焦りがしぼんでいく。
「検温させていただきますね」
部屋の空気が気まずすぎる。ごまかしも兼ねて、昔ながらの体温計をマエリベリーさんの脇に差し込んだ。いつも思うが、マエリベリーさんはいい匂いだなぁ。
「そういえば、さっき河童の話してませんでした」
「えっ!聞こえてたんですか?うわ~恥ずかしい……」
そういうと、宇佐見さんは両手で顔を覆ってしまった。普段とのギャップが激しいなぁ。
「気にしないでください。それに、私好きなんですよね。芥川龍之介の『河童』が」
「そうなんですか?珍しい、もしよかったらどの辺がお好きなのか聞きたいです」
あ、花が咲いた。宇佐見さんの瞳がキラリと光る。
「ほら、『河童』って異世界に行くじゃないですか。小さなころから、今ここじゃない場所に行ってみたいと思うことがよくあって。親が厳しくて厳しくて、それが窮屈で息苦しくて。でもいまも昔も旅行に行くのは難しくてね。せめてフィクションの中ではって」
宇佐見さんがマエリベリーさんの方を見る。その瞳はなぜか、輝きと驚きで満ちていた。コロコロと変わる表情が羨ましい、私は仏頂面だからな。
「わかります。やっぱり変化は大切ですよね。変わらない日々ほどしんどいことは……。ところで変化が欲しいで思ったんですけど、今度メリーと外に行っても大丈夫ですか?」
「ちょっと私ではわかりませんね。先生に相談してみないと。でも、どうして急に?」
たぶん、平気。マエリベリーさんはただ意識がないだけだから。車椅子と点滴が、少し邪魔に感じるくらいだと思う。
「私がいうのもなんですけど、2か月も通っていると景色に飽きてしまいまして」
宇佐見さんは、目をそらして苦笑いをしながらそう言った。
「それに、メリーにもいいかなって思ったんです」
「意識がないのでなんとも言えませんが……でも、それが刺激になるかもしれないですしね。先生に伝えておきます、きっと許可が出ますよ」
環境を変えてみることは、心療内科ではよく行われる治療のひとつだ。もしかしたら思いがけない効果が発揮されるかもしれない。
「やった!いやー毎日部活帰りの学生を見るとなんだか虚しくなってきてしまって」
「よく通りますもんね。では、私はこの辺りで失礼します」
会話を切る。どうやら話し込んでしまっていたらしく、あと10分で5人の検温をしなくてはいけない。急がないと。
「おつかれさまでーす」
そんな宇佐見さんの声を聞きながら、私は病室の扉を押した。
それにしても、宇佐見さんの提案は意外だった。それというのも、今まで意識がないということで、そういった方面からのアクションは為されていなかったからだ。他の患者さんにもできるかどうか、先生に提案しようと思う。
それに私も、今度からは検温をする時に声をかけてみようと思う。ここだけの話、検温は意外と退屈で単調で、作業感が強い時があるからだ。しかも、話しかけてみることは、マエリベリーさんだけでなく私にも恩恵があるかもしれない。
変わらない日常に新しい風を吹き込めば、もしかしたら良いことがあるかもしれないしね。
「よかったね、メリー」
「うん。ありがとう蓮子、助かったわ」
病室から、嬉しそうな宇佐見さんの声が聞こえた。
外の世界と違うのは、参加者がみな少女であること。しばらく眺めていると、参加者の一人が私に近づいてきた。
「ねぇ、ねぇってば。なーにぼけーっとしてんのよ、ほら呑んで!まさか私の酒が呑めないってんじゃないわよねぇ?」
そんなに酔っぱらって。後片付けは誰がするのよ
「いまはかんけいないでしょ!うたげのせきは、ぶれいこうなのよ~!」
はいはい、私もいただくから。って、あれ
「まだひとくちなのに、ゆかりはどーしてまっかなんですかー?いつもはもっとのめてるのにー」
ごめんね、今日は体調が優れないみたい。すこし横になってもいいかしら
「ひとのしきちでかってによこにならないでくださーい!ほらおきておきて~」
ごめんなさいね、ちょっと、本当にこれは。やばいかも、待って、揺さぶらないで
「おーい、ゆかりさーん?…かりさーん?…り…ん…
マエリベリーさーん、朝ですよ。今日もいい天気ですね。」
気が付くと、少女の代わりに看護師が、私の背中に手を回していた。ベッドが昇降し、窓側に体を向けてくれる。きらめく夏の朝日が眩しい。
また、あの夢を見ていた。というより、意識がないときは常に見ている夢。夢の中で私は『ユカリ』と呼ばれていて、『レイム』と名乗るあの少女といつも話しているのだ。
今日はお酒を飲んでいて、昨日は縁側で雑談していた。意識がないときだから、昨日か今日かもよくわからないんだけどね。
とにかく、ずっと似たような夢を見ているのだ。
どうせこんな体なんだから、いっそのこと、夢の世界に行ってしまいたい。あの夢が現実になればいいのに。
日増しに夢を見る時間が増えている。もしかしたら本当に、あちらの世界へ行ってしまうのかも。
そんな想いがたまに脳裏をよぎる今日この頃。私は今日も、ひとり外を眺めます。
カタカタ、カタカタ、ッターン
静かな病棟に鳴り響く打鍵音。私はいま、勤務先のリハビリテーションにて書きかけの電子カルテを保存している。今から患者さんの検温に向かうのだ。
私の勤めるリハビリテーションは少し変わっている。筋力を取り戻そうとボールを握る患者も、車椅子から立ち上がろうとする患者も、腕に電流を流して神経を修復しようとする患者もいない。
このリハビリテーションは、様々な事情で意識が戻らない患者を専門に受け入れる施設だからだ。
意識が戻るのを待つ場所を、果たしてリハビリテーションと呼んでもいいのだろうか。まぁとにかく、私の勤める病院はそういうところなのだ。
ここに入院している患者さんは、みな意識がない。意識が無いから、人の声なんてめったに聞こえない。
もし聞こえてきた時、それは先生の問診か看護師同士の雑談か。あるいはお見舞いにやってきたご家族の話し声か。いずれにしても、患者さんがその口を聞くことは無い。
「それじゃあわたし、半年以内に自殺してしまうじゃない。そんなの嫌よ、メリーと会えなくなるなんて」
この声はきっと、お見舞いにやってきたご家族か患者さんの友人の声。
聞き捨てならない言葉を耳にした私は、緊張しながら扉を開く。
意識のない友人の下へ毎日通いつめ、延々と独り言をすることで有名な学生の待つ、89号室の扉を。
「こんにちはー」
その声に、ナースステーションで電子カルテを書いていた私は頭をあげる。
「あ、宇佐見さん。こんにちは、今日は早いですね」
時刻は午後15時。いつもは17時にやってくる彼女に、ふと浮かんだ疑問を投げかけてみる。
「今日は3限が休講になったんですよ。ラッキーです。いまって大丈夫ですか?」
「今日はもう診察はありませんね。いつも通り、19時までですよね」
彼女はもうお見舞いの常連さんだ。すでに顔も名前も覚えているくらいに。もちろん、彼女の訪ね先も。
「さすがにもう覚えられていますよね。では」
そういうと、彼女はにこやかに手を振りながら病室へと歩いて行った。いつも通りの、軽やかな足取りで、
行先は、もちろん89号室。彼女はいつも、そこでマエリベリーさんに話しかける。まるで会話をしているみたいに。それを聞くのがここ数か月の私の楽しみでもある。
今日はどんな話をするのだろう、専門的だとつまらないなぁ。
そんなことを考えながら、いつも通り彼女の後姿を見送るのだった。
「メリーただいま。今日は3限が休講になったから早めに来たわよ。病室から窓を眺めるだけの、つまらない日々を過ごすあなたに蓮子さんが会いに来てあげたわよ!」
「はいはいお疲れさま。ここは病院よ?もう少し声のボリュームを抑えなさいよ」
「安心しなさい。両隣の部屋は空き室だということはリサーチ済みよ。だから、多少うるさくしても大丈夫ってこと」
「そういうことじゃなくてね、私が言いたいことは。それよりも、3限が休講になったって本当なの?」
「マジのマジよ。2限の途中に畑邑が体調崩しちゃってね。3限も畑邑が担当だったんだけど、真っ青な顔色で退室してそれっきりよ」
「あら、心配ね。去年から忙しそうだったもんね」
「でね、その畑邑が面白いことを話してたのよ。たまたま2限のオムニバス1が文学で、それで畑邑が担当で。芥川龍之介の『河童』についてだったんだけどさ」
どうやら今日は芥川龍之介の「河童」について話すらしい。
今はこうして看護師をしている私だが、実は中学生までは文学の道に進もうとしていた。つまり今日の話題は、私と相性バッチリだということ。
気分転換に反対側のお手洗いまで歩いてよかったな。足が自然と浮足立つのを感じながら、なんとなく89号室を覗き込む。
青々とした新緑が覗く窓と、そこに体を向けるマエリベリーさん。今日の天気はかんかん照りの快晴だ。
陽の光に照らされて、生命力に満ちた窓の外。それに比べて89号室は、逆光のせいか薄暗い。というか、明らかにマエリベリーさんの周囲だけ陰鬱気な雰囲気が漂っている。
宇佐見さんは今も話しているし、その周囲は朗らかな午後の陽気に包まれている。にも関わらず、マエリベリーさんの周りだけ妙に仄暗い。
マエリベリーさんの居るベッドと、宇佐見さんの座る椅子。その間に横たわる床は、部屋の陰陽を分ける境界のようだ。
陽光差し込む89号室は、なぜかマエリベリーさんの近くだけ陰が差していて、それが余計に部屋の明暗をはっきりさせていて。
私の眼にはマエリベリーさんが、まるで異世界にいるように見えた。
「あらすじだけは聞いたことあるわ。河童の世界を通して人の世界を見つめ直すのよね。あと狂人が出てくる」
「久しぶりに読んだら視点人物が狂人でびっくりよ。しかも名前が第23号、無機質すぎ。あと、昔おばあちゃんちで読んだなろう系と似てて笑っちゃったわ」
「は?何言ってんのよ、あの作品群と河童を似てるなんて言う人は初めてよ。確かに異世界には行ってるけども」
「案外あってるみたいよ。講義によるとね、河童となろう系が生まれた時代背景が似ているみたいなの。フィクションは現実とリンクしているから、そういう意味でも両者は似てるって畑邑が」
「フィクションは現実とリンクしている、ねぇ。ゴジラみたいな?」
「良い例を出すじゃない!ゴジラは核の脅威から生まれた怪物ね。時代時代で世間を騒がせたものが基になりやすいんだって」
「その場合、河童は何かしら。見つめ直すから、日本そのものとか?」
「正解。『河童』は軍国主義に突き進む日本やそれによって起こる大量死への不安から生まれたみたい。明治に日本を騒がせたものは戦争ってことね」
「なるほどね。じゃあなろう系はどうなの?なんとなくわかる気はするけど一応聞いてみるわ」
「わざわざ聞くんですかメリーさんよ。2010年代の出来事を思い出してみて」
「なろう系は平成よね?2010年代だから……地震に不況に貿易戦争もあったわね。役満じゃない」
「あとは単純に、両方とも色々と行き詰まってたし。閉塞した窮屈な世界とか私は嫌よ」
「行き詰まって退屈な世界、ね。そういった意味では、結界を破ろうとする私たちも似たような存在なのかもね」
「『河童』は現実を批判できたけど、なろう系は異世界に逃避する事しかできなかった。それくらいひどかったのよ、あの時代は。私たちは見つめ直してみる?それとも異界に転生する?メリーが選んでいいよ」
「私たちは異界に転生するほうが手っ取り早そうね。普通の人に比べれば、そういう経験も無駄に豊富だし」
「転生するとしても、トラックに轢かれるのは勘弁ね。そういえば、令和の初めにはコロナがあったじゃない。あの頃の大学生は登校できなかったらしいわ、ある意味異世界転生じゃない?」
「今までの日常が一変するということ?そういう意味では異世界転生とも言えそうね。今まであった大学生の常識が通用しなくなるんだし。なら私の今の状況は、異世界転生そのものじゃない。言葉も通じないし」
「メリーさんはきっかけだけなら自業自得でしょうに。どうせ家から出ないし友人も私以外にいないだろうし、そんなに問題ないのでは?」
「あら、渋る私を連れだしたのはどこの女学生さんだったっけ?それに、そんな私に毎日会いに来るあたなはどうなのよ」
「ちょっと、そこは触れないお約束でしょうに。痛いところを突かないでよ」
「だいたいね、この生活も結構しんどいのよ。例えばほら、この病室って大通りに面しているじゃない。だから毎朝通勤通学に勤しむ人が見えるのよ。そんな景色を看護師さんたちは、わざわざ毎日ベッドの向きを変えてまでみせてくるの。急に日常が壊れて困惑する、私の気持ちも知らずにね」
「異世界へ転生したのに前の世界が見られるってことか。確かにしんどいわねそれ、もどかしさで発狂してしまいそう。心療内科にかけあってみようか?」
「発狂だなんてそんな、それじゃあ私は第23号みたいじゃない。まさか蓮子は、私の悲鳴を本にでもするつもりなの?」
「どうしてもっていうならいいわよ。冒頭で『どうか彼女の悲鳴を聞いてください』ってお願いしておくね。あ、でもそうすると私、半年以内にメリーとお別れすることになるじゃない。それは嫌ねぇ」
ドアを開けると、そこには宇佐見さんとマエリベリーさんがいた。爽やかな日差しの下、二人は穏やかに笑い合っているように見える。もちろん、実際に笑っているのは宇佐見さんだけだけど。
それに、その表情はどう見ても追い詰められた人のするそれではない。
「お邪魔しまーす。検温の時間です」
「あれ、もうそんな時間だったか」
どう聞いても、追い詰められた人のする返事ではない。あまりに自然すぎる。とっさに切り替えたようには見えないし。
私の心の中で、蠢いていた焦りがしぼんでいく。
「検温させていただきますね」
部屋の空気が気まずすぎる。ごまかしも兼ねて、昔ながらの体温計をマエリベリーさんの脇に差し込んだ。いつも思うが、マエリベリーさんはいい匂いだなぁ。
「そういえば、さっき河童の話してませんでした」
「えっ!聞こえてたんですか?うわ~恥ずかしい……」
そういうと、宇佐見さんは両手で顔を覆ってしまった。普段とのギャップが激しいなぁ。
「気にしないでください。それに、私好きなんですよね。芥川龍之介の『河童』が」
「そうなんですか?珍しい、もしよかったらどの辺がお好きなのか聞きたいです」
あ、花が咲いた。宇佐見さんの瞳がキラリと光る。
「ほら、『河童』って異世界に行くじゃないですか。小さなころから、今ここじゃない場所に行ってみたいと思うことがよくあって。親が厳しくて厳しくて、それが窮屈で息苦しくて。でもいまも昔も旅行に行くのは難しくてね。せめてフィクションの中ではって」
宇佐見さんがマエリベリーさんの方を見る。その瞳はなぜか、輝きと驚きで満ちていた。コロコロと変わる表情が羨ましい、私は仏頂面だからな。
「わかります。やっぱり変化は大切ですよね。変わらない日々ほどしんどいことは……。ところで変化が欲しいで思ったんですけど、今度メリーと外に行っても大丈夫ですか?」
「ちょっと私ではわかりませんね。先生に相談してみないと。でも、どうして急に?」
たぶん、平気。マエリベリーさんはただ意識がないだけだから。車椅子と点滴が、少し邪魔に感じるくらいだと思う。
「私がいうのもなんですけど、2か月も通っていると景色に飽きてしまいまして」
宇佐見さんは、目をそらして苦笑いをしながらそう言った。
「それに、メリーにもいいかなって思ったんです」
「意識がないのでなんとも言えませんが……でも、それが刺激になるかもしれないですしね。先生に伝えておきます、きっと許可が出ますよ」
環境を変えてみることは、心療内科ではよく行われる治療のひとつだ。もしかしたら思いがけない効果が発揮されるかもしれない。
「やった!いやー毎日部活帰りの学生を見るとなんだか虚しくなってきてしまって」
「よく通りますもんね。では、私はこの辺りで失礼します」
会話を切る。どうやら話し込んでしまっていたらしく、あと10分で5人の検温をしなくてはいけない。急がないと。
「おつかれさまでーす」
そんな宇佐見さんの声を聞きながら、私は病室の扉を押した。
それにしても、宇佐見さんの提案は意外だった。それというのも、今まで意識がないということで、そういった方面からのアクションは為されていなかったからだ。他の患者さんにもできるかどうか、先生に提案しようと思う。
それに私も、今度からは検温をする時に声をかけてみようと思う。ここだけの話、検温は意外と退屈で単調で、作業感が強い時があるからだ。しかも、話しかけてみることは、マエリベリーさんだけでなく私にも恩恵があるかもしれない。
変わらない日常に新しい風を吹き込めば、もしかしたら良いことがあるかもしれないしね。
「よかったね、メリー」
「うん。ありがとう蓮子、助かったわ」
病室から、嬉しそうな宇佐見さんの声が聞こえた。
良いと思います。ただここまでの経緯も読めるともっと楽しめたかなって。
御馳走様でした。次回も楽しみにしています。