Coolier - 新生・東方創想話

畜生が野球をやっちゃいかんのか

2020/09/12 00:51:12
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【ここで娘々からの解説です。この方達が野球をするにあたって気になっている方々もいることでしょう。ずばり、『人外の力の使用』についてです】
【単純に空を飛ぶだけでも守備では大幅に有利ですね。ホームランを阻止するのも容易でしょう】
【幻想郷の野球ルールでは単純な身体能力以外の使用に大きなペナルティが課されます。足以外の移動手段を用いてワンバウンド以上した打球に触れた場合、エンタイトルスリーベースとして扱われますわ】
【羽を持っている選手などはうっかり飛んでしまうこともあるでしょうが、強い自制心が求められますね。黒駒もやってしまわないか心配です】
【早鬼ちゃんは頭より先に身体が動きそうですものねえ。そして空を飛ぶなどしてノーバウンドの打球に触れた場合や、念力などでボールの軌道を変えた場合、たとえへなちょこな内野フライでも本塁打として扱われます。非常に厳しい罰則ですね】
【しかしそうしないと野球が野球ではなくなってしまいますからね。止むを得ないでしょう】
【他にも魔法やそれに準ずる力で試合に介入したと認められた場合はその打席を本塁打とし、あまりにも酷い場合には選手の退場も有り得ます。まあスポーツマンシップに則って試合をしましょうねということですわ】
【以上、青娥と私、豊聡耳神子による幻想郷ならではの特殊ルール解説でした。引き続き試合をお楽しみください】


──ズバン!!

 直球が豪快な音を立ててミットに吸い込まれる。
 驪駒の左腕から放たれる豪速球にまともに触れられた者は、未だ彼女の球をホームベースで受け止めている吉弔一人のみであった。
 当初こそ心配された二人のバッテリーはまるで熟年夫婦かの如く完璧に機能していたのだ。
『バッターアウッ! チェンジ!』
 球審の声にも気合が入る。驪駒と吉弔のバッテリーが奏でる轟音に自然と心を動かされているのだ。
『驪駒様、スッゲーッス!!』
『まだ一人もランナーを出してないゾゥ! うちの試合とは思えないゾゥ!』
 エンジェルスサイドのベンチも大盛り上がりだ。彼らが失点をするのは守備陣が仕事をしなければならない時で、ボールが飛んでこなければ失点しようがなかったのだ。
 0対0。
 両チーム共に無得点のまま6回表が終了した。

【う~ん、素晴らしいですわ! ここまで18人の打者に対してノーヒット。このままいけば夢の完全試合すら見えてきます。いかがですか、太子様】
【想像以上の活躍に私も驚きです。最高で165キロにまで達する剛速球……流石は私の黒駒ですね】
【埴輪の皆さんはこのまま手足も出ないまま終わってしまうのでしょうか。私にはまだ何かを隠しているように見えますね~?】
【一方で黒駒達も埴安神が投げる多彩な変化球に全く対応できておりません。勝負がこれからどうなるか、私も楽しみです】

「……やるじゃない。想像以上のタマだわ」
 袿姫は空を切ったバットを立て掛けて、一人ほくそ笑んだ。
 拙守のチームだと聞いていたが、驪駒がマウンドに上がっただけでここまで攻略し難いチームになるとは。もっとも、それを実現しているのは彼女の球を的確に投げさせて捕球するだけの実力と頭脳を持った吉弔がいればこそだ。いつも投げている畜生霊のバッテリーでは今頃失点の山であっただろう。
「荒れ球ではありますが四球になりそうでなりませんね。驪駒の奴、如何にもノーコンと思わせて意外と制球力もあるようです。ですが、これからですよ。そうですよね、袿姫様」
 磨弓がグローブを装着して彼女の守備位置であるセカンドに駆け出した。主の投球を背後から守らんと、磨弓にとって最も気合の入るポジションなのだ。
「……ふふ。面白いわ、とっても面白い。使うまでもないと思ったけど、これは私達の全力をぶつけるに相応しいわ」

 いよいよ肩の温まってきた袿姫の球もキレを増した。7番吉弔をキャッチャーフライに仕留め、8番ヘビシマをショートライナー、9番カワイを三振で切って取り、こちらもここまでパーフェクトだ。
「クソッ! 埴安の奴め、小賢しいピッチングばっかりしやがって!」
 六度目の三者凡退で終わったベンチで驪駒が歯軋りする。今のは守備重視の吉弔チームの打線だったとはいえ、こちらもノーヒットで打者二巡。攻撃偏重のエンジェルスとしては異常事態である。無失点による上機嫌は無得点であっという間にひっくり返るのだった。
「忌々しいですが、流石に芸術趣味だけあって器用な指です。七色の変化球とはまさにあれの事でしょう。それに不思議と球が重い……」
 神の気迫が込められた球には力が宿るのだろうか。吉弔も軟投派の球を打ったとは思えない手の痺れを感じていた。
「だが打てないのは奴らも同じ事だ! 行くぞ吉弔、勝負はこれからだ!」
「……ええ」
 吉弔は左手首を撫でた。大丈夫だ、まだ捕れる。
 あれほどの球威の球を捕っていれば当然手への負担は大きい。久しぶりのプレーでいきなり驪駒の豪速球は目覚めの一発には強すぎたが、奴の前でだけは弱った顔をしたくない。それは驪駒を宿命のライバルとして認めているからこその吉弔のプライドだった。
 あと9人のバッターを打ち取ればいい。それだけだ。
 静かに気合を入れ直して、ホームベースにしゃがみ込む。その直後の事だった。

【あ~っと、これは一体どうした事でしょう!? 埴輪の皆さんが光り輝いています!】
 実況の青娥が叫ぶ。彼女が言う通り、袿姫サイドにいる磨弓を始めとする埴輪達が赤い光に包まれていたのだ。それは埴輪の生みの親である袿姫も同じである。
【埴輪達がこれは……整形でしょうか。顔が変わったように見えますね。明らかに神の力が使われているようですが、これは良いのでしょうか】
【う~ん……ギリギリセーフ? チェンジ中の出来事ですし、ルールにも試合中に整形をしてはいけないとは書かれていませんのでいいんじゃないでしょうか】
 しかしそれがただの整形でない事は一目瞭然であった。
 動きが違う。今まで機械のように等しく動いていた埴輪達が『個』を得ていた。
 壮年の男が再現された顔からは歴戦の風格が漂っており、今までにない威圧感を放っていた。

【さて、バッターは1番・ライトの……これは、まさか? バッターボックスに入る前の入念な柔軟体操、バットの構え、そして背中に輝くナンバーフィフティワン……これは間違いなく、あの人ですわ!】
【知っているのですか、青娥】
【恐るべし、袿姫様! 精巧に似せることで埴輪達にプロ野球選手のレジェンド達の魂を宿らせたのだと思われます!】
【流石の私も現代の野球選手は知りませんが……彼らが只者ではない事は伝わってきますね】

「フン、レジェンドだか何だか知らないが……相手が強いほど倒しがいがあるってもんさ!」
 驪駒の闘志は衰えなかった。実際、100マイルを超える驪駒の直球はメジャー級の選手でも易々と打てるものではない。しかしそんなメジャーを相手に大記録を達成した野球界の伝説中の伝説、その人物の力を宿した埴輪は驪駒の球にも喰らいついたのだ。
「……レフトッ!」
 快音を響かせた打球はレフトへ転がった。レフトを守るは『打っても守っても安打製造機』の異名を持つハリー。その期待を裏切らず、何でもないゴロの捕球なのにグラブで弾いてしまう。普通ならレフト前ヒットで済むところを、俊足の彼はその隙を見逃さずに二塁まで駆け込んでいた。

【ツーベース、ツーベースです! この試合初めてのヒットはハニーズから! 早鬼ちゃん、打たれてしまいました!】
【素晴らしい足の速さでしたね。抜けていたらレフト方向でも三塁打を狙えたのではないでしょうか】
【レフトの守備はちょっといただけませんね。これは喝を入れてもらうべきですわ】

「チッ、やるじゃないか! だがうちの試合じゃこんなのはまだまだ序の口だぞ!」
 確かに二桁失点が日常茶飯事のチームではかすり傷にもなりはしないが、絶対的なエースである驪駒がいきなり打たれた事は今後の炎上を否応なく予感させるものであった。

【続きまして2番・サードの……あれは、北のサムライ!?】
【髭が特徴的なガッツに溢れた顔付きですね。二番といえば繋ぎという印象が強いですがこれは強打者の予感がします。生前の黒駒といえば……いえ、本人の名誉の為に伏せますが、とにかく今打たれた事がメンタルに響かなければいいのですが】
 神子がバラすまでもなく、驪駒が聖徳太子を好きすぎてそれ絡みで非常に繊細になる事は周知の事実となっていたが、やる気に満ち溢れた今の彼女にそんな心配は不要であった。
 驪駒の球威は全く落ちることなく、しかしバッターの方も打撃で歴代記録に名を残す強打者である。驪駒の球は再びバットに捉えられたが、今度の球は詰まってセンターフライ。センターに居るのはエンジェルスの中では貴重な攻守共に優秀なタカハシだ。何でもないセンターフライで終わるところだが、セカンドで目を光らせるあの男はそれだけでは済まさなかった。
「……タッチアップだ!」
 俊足の彼は迷うことなく走った。タカハシも動じる事なくサードへ送球するが間に合わない。ボールがグラブに届くよりも先にランナーの足が塁に触れた。
 それだけではない。
 サードのフルイはこれまた守備が酷い。ランナーに動揺したフルイはタカハシが投げた送球を見事に後逸したのだ。
「あの、馬鹿がっ!」
 打たれだしたら早速だ。吉弔は苛立ちを顕にした。
 レフトの拙守とサードのエラー、この二つが無ければまだワンアウト一塁だったはず。どうせ打てないのだったら全員うちのメンバーにしておけば良かったと心から後悔した。
 あの状態からエラーしてランナーがホームを狙わないはずがない。打者二人で早くも一失点……と思ったのだが。

【あーっと、捕っています! 早鬼ちゃん、サードのエラーを予測していたか、後ろに回り込んで送球を捕っていました! そのままバックホーム! 判定は……アウト! アウトです!!】
【部下のミスを見越して自らサポートに入るとは素晴らしい。流石は私の黒駒です】

 驪駒はセカンドが走り出した時点でサードに走っていた。この程度のエラーはエンジェルスで野球をやっていれば十分に予測できる。元馬ならではの俊足を活かして後ろに逸れた珠に追いついたのだ。首の皮一枚のギリギリセーフであった。
「気合を入れ直せよ! この試合、一点もくれてはやらんぞッ!」
 驪駒から檄が飛ぶ。そう、気合を入れ直さなければならない。
 なぜなら次のバッターは憎き埴輪軍団の兵長である磨弓なのだから。

『磨弓・磨弓・ホームラン! 磨弓・磨弓・ホームラン! ウォオオオオオ……!』
 観客席の人間霊は打つ前から大盛り上がりだ。ツーアウト走者無しとはいえ明らかに流れが来ている。ここで彼らのアイドル磨弓に打順が回ってきて興奮しないはずがない。
【さあ、三度目の磨弓ちゃんの打席です! 彼女だけは顔が変わっていませんが、動きが明らかに違いますね。おそらく同名のあの選手らしく、打順は1番ではありませんが勝負強い打撃に期待しましょう!】

 磨弓が打席に立つ。顔こそ変わらないが、顔付きが違う。目の前にして吉弔にもはっきりとそれがわかった。
「自分達だけでは勝てないから野球の神頼みとは、お前たちの崇める邪神も随分と情けないことで……」
 自分ばかり気苦労をして、吉弔も気晴らしに嫌味の一つも言いたくなるというものだ。キャッチャーがバッターに三味線を引くのはプロ野球の世界でも時たまあることだが、吉弔も裏の手としてそれを得意としていた。ちなみに、吉弔の能力の都合上『振れ』と言えばボール球でも振らせる事はできるのだが、それをやったら即刻退場と決められている。
「……そんなの、お互い様です」
 磨弓の口調は穏やかだった。プレッシャーのかかるこの場面においても磨弓は全く緊張していない。
 吉弔は舌打ちした。二つの意味でやられたな、と思ったのだ。
 こいつは、やる。
 今まで鉄火場をくぐり抜けてきた奴は決まってこういう顔をしていた。人ではない何かの声が聞こえているような、超感覚に目覚めた者は。
 吉弔も覚悟を決めざるを得なかった。

 驪駒が、投げる。
 磨弓は、初球を完璧に捉える。
 スタンドからは大歓声が上がった。

【1】
 投手戦となっていた試合ではあまりに重い数字がボードに刻まれた。

【……ホームランです! 磨弓ちゃん、ファンの期待に応えて豪速球を見事にスタンドに運びましたぁ!】
【本当に見事な一発でしたね。まぐれ当たりというわけでもなさそうです。インパクトの瞬間、磨弓選手にはボールが止まって見えていたのではないでしょうか】
「……くく。ちぇー、完封試合ならずかぁ! まあいいさ、これからこれからぁ!」
 宿敵から完璧に打たれたにも関わらず驪駒は能天気だった。野球なんて点を取られて、取り返して、最後の最後に逆転するから面白いのだ。たったの1点差なんて逆転してくれと言っているようなものと考えていた。
 驪駒の闘志は逆に燃え上がり、投げる球はさらに勢いを増した。

【……チェンジです! 早鬼ちゃん、見事に立ち直りました!】
 4番に三度の三冠王に輝いたファースト、5番にキャッチャーで三冠王に輝いた偉人という、一人だけでも逃げ出したくような強打者の打線に驪駒は一歩も引かなかった。4番をセンター前ヒットで出塁させてしまったものの、次の5番を内野フライに仕留めてアウトを奪いとったのだ。
「どうだ! まぐれ当たりで打たれてしまったが本気を出せばこんなものさ!」
「強がりはいいですが、未だにヒットの一本も出ていない状況では笑えませんよ」
「だが奴の球にも目が慣れてきた。当てられるならそのうちヒットも生まれるさ」
 そのうち、なんて悠長な事を言ってられる時ではない。あと3回の間に袿姫から最低でも2点を奪わなければならないのに。敵の伝説的な打線を考えると本当は5点のリードくらいはないと安心できない。それぐらいに厳しい。
 しかし今の打線を見て、吉弔には思うところもあった。もしかして、袿姫の奴は──。

「……私の作戦を聞く気はありますか?」
「なんだ? 聞くだけならいいぞ。実行するかは内容次第だ」
「難しい話ではありません。ただ、奴との勝負をじっくり楽しみなさい、ということです」
 物は言いようだ。このような言い方ならば驪駒でも聞いてくれる可能性がある。驪駒の気質をよく理解している吉弔だからこそだった。

『ボール!』
 第5球目、球審は3回目のボールを告げた。
 これまでの驪駒とは明らかに違う。それは投げている袿姫にもはっきりとわかった。今までは初球から振ってくる早打ちだったのに、この打席ではまだ一度も振ってこない。その理由はおそらく、ベンチから射抜くような視線を飛ばしている宿敵の入れ知恵なのだろう。
 空振りを取るための鬼のように曲がるスライダーと、リズムを崩して打ち損じを狙うチェンジアップ。この二つを中心に多彩な変化球を操る袿姫の投球は、俗に言うブンブン丸にはよく刺さるが振らない相手にはどうしてもボール球が増えるのだ。
 ノーアウトフルカウントの場面、袿姫がこの試合で初めての冷や汗をかいた。こちらはまだ完全試合の可能性も残っているが実際は綱渡りだ。驪駒を始めとする強打者揃いのチームは決して侮れる相手ではない。まして今回は知恵袋に吉弔まで加わっている。
 しかし、何も知恵袋は吉弔だけではなかったのだった。

『聖徳太子様があくびをしとるなあ……』
「……ッ!?」
 それは喋るとは思わなかった埴輪のキャッチャーからだ。まさか退屈しているのか、驪駒は思わず後ろに座っている神子の顔を確認してしまうが、それは自ら集中を削ぎ落とす自殺行為に他ならなかった。
 タイムはかかっていない。よそ見した驪駒などお構いなしに袿姫は球を放る。
 それは、今まで一度も投げてこなかった山なりの遅い球だった。完全に調子を狂わされた驪駒は、子供が投げたようなふわりとした球を呆気なく空振りしてしまう。

【……超スローボール! 袿姫様、まさかの超スローボールで早鬼ちゃんを三振に仕留めました!】
【驪駒がこちらに振り返っていましたね。私が魅力的なのは仕方ありませんが試合に集中しましょう】

「……チッ! 吉弔みたいな小賢しいマネしやがって……!」
 驪駒が知らないのは無理もないが逆である。このキャッチャーに宿る霊こそ打者にささやいて心を乱す戦術を始めた張本人なのだから、吉弔が彼の真似をしているにすぎないのだ。
 その後、後続もフォアボール狙いで粘りに徹しようとするが、袿姫の制球力とキャッチャーの巧みなリードの前にあえなく凡退する。
 しかし驪駒も負けない。6番のアニキなレフト、7番のアイドルのように奇抜なセンター、8番の全てにおいて安定したショート。いずれも名手が揃った打線だが、吉弔から借りた内野陣の奮闘にも助けられて何とか無安打で終える。
 袿姫も負けじとエンジェルス打線を8度目のノーヒットで終わらせ、いよいよ完全試合が間近に迫る。
 さあ、泣いても笑っても最終回だ。


【太子様、ここまでをいかがですか?】
【恐るべしは埴安神ですね。ストレートは平均ですが抜群の制球力と変化球。それらが組み合わされた結果、バッターには或いは黒駒に負けない速さに見えているのではないでしょうか】
【ではエンジェルスには全く打つ手がないということですか?】
【いいえ、先程から慎重なバッティングに切り替えていることからもスタミナ切れを狙っているのは明らかでしょう】
【袿姫様、どう見ても普段から運動しているタイプではなさそうですものねえ。とはいえ神としての力は疑いようがありません。9回も投げきれない体力とは思えませんが、はたしてどうなるのでしょうか!?】
【さて、黒駒がマウンドに上がりました。打順は9番、埴安神との直接対決から始まります。これは目が離せません。しっかりと行く末を見届けましょう】

 驪駒と袿姫、本日三度目の対戦だ。ここまでは二回とも驪駒に軍配が上がっているが、袿姫自身が纏うオーラも今までとは変わっている。彼女にも何らかの神の力が宿っているのは間違いなかった。
 さらに、袿姫はもう一つ今までとの違いを加えてきた。
【おっと? 今まで右打ちだった袿姫様が、左打席に入っています。スイッチヒッターだったとは、ますます器用なお方ですわね】
【ですが左投げの黒駒には一般的に右打席の方が有利のはず。それをあえて左に変えたということは……】

「……まともに打てないから少しでも一塁に近い方で打とうということですか。神を自称しているくせに、情けない」
 吉弔はここぞとばかりに口撃を加えた。並のバッターでは前に飛ばすのも難しい驪駒の剛球を、ボテボテのゴロでもいいから当てて内野安打を狙おうという腹なのだろう。
「いやだねえ。ノロマのドン亀さんにはこの差が理解できないのだろうねえ」
 敵をノーヒットに抑えている袿姫は吉弔の嫌味に対しても余裕の表情だ。敗者が何を言ってもそれは負け犬の遠吠えにすぎない。本当は無様に凡退しろとでも言いたいのだろうが、それを口にすれば吉弔の能力の使用と見なされて退場だ。きっと歯がゆいに違いないと心の中で嘲笑う。
 吉弔は具体的な対策として全体に前進守備のサインを出した。転がすなら三塁方向だが、そこにいるのは先程やらかしたフルイである。強襲されればまず取れないのだし、前に出してバントを躊躇させる方がマシだと思った。
 しかしその読みは思い切り外れるのである。

 第3球、えぐり込むような内角の球を、袿姫は稲妻のような鋭いスイングで弾き返した!
【打った! 袿姫様、早鬼ちゃんの速球を引っ張り打ち! 打球はファーストの右へ抜けました!】
 袿姫の打球は一塁線を転がり、ファーストのキヨムラのグローブをかい潜ってファールゾーンギリギリのヒットとなる。驪駒の代わりにライトを守備しているのは、よりによってエンジェルスで最も鈍重で守備が苦手なクマ霊のポーという選手なのであった。
【走る走る! 袿姫様はセカンドへ! この速さはまさしく赤い彗星、レッドスター! ライトはファールゾーンの球にまだ追いつけません!】
【素晴らしい俊足ですね。エンジェルスは前進守備が裏目に出ました。鈍足のライトが球場の奥まで走らなければいけません。それにしてもあの球を引っ張れるとは恐ろしい……】
 ようやくライトが球を拾えそうだという時、既に袿姫は三塁にまで到達しようとしていた。
 ああ、2点目か。
 誰もがそれを覚悟した時、有り得ない人物がそこに現れたのである。

──驪駒だ。

【あ~っと!? まさかそんな、早鬼ちゃんがライトの球を拾っています! ですがこれは……!】
【……明らかに翼で加速しましたね。いくら俊足の黒駒でもピッチャーマウンドからライトの奥まで足だけで間に合うはずがない。青娥、ルールでは……】
【ワンバウンド以上した球なのでエンタイトルスリーベースの反則となります! 早鬼ちゃん、我慢できずに飛んできちゃったのでしょうか】
【いえ、おそらくは……】
【ですわよねえ……】

「……参ったわね。ヤクザだけあって汚い手を使うじゃない」
 袿姫は三塁の上で口を尖らせた。
 驪駒は別に我慢できなかったわけではない。ランニングホームランを阻止するために飛んだのである。
 あのまま黙ってライトに投げさせていれば袿姫は確実に本塁まで駆け込んでいた。それを判断した驪駒は批判覚悟で反則を選んだのだ。決して褒められないファインプレーであった。
「……はっはっは! ついうっかり飛び出してしまったよ! 気を取り直して次は完璧に抑えてやるさ!」
 しかし同じ手を二度は使えない。今度やれば間違いなく退場だ。観客からは野次も飛ぶが、こういう時におバカキャラというのは得である。驪駒がおバカだから反則をしてしまったと思い込んでいる観客も少なからずいた。
「考え無しのようで本能で悪知恵が働くからタチが悪い……」
 腹黒さは生前の飼い主に似たのだろうな、と吉弔は毒づいた。結果的に首の皮一枚で繋がったのだから文句も言えないのだが。それに悪いことばかりではない。サードの袿姫をチラリと見る。
 袿姫はまだ肩で息をしていた。あわよくばランニングホームランまで狙って全力疾走してしまったのである。9回表にこれは相当効いたに違いない。
 なぜリードの状態でピッチャーがそこまで無理をしたのかはわからないが大きなミスだ。裏の攻撃にも希望が見えてきた。
 もっとも、先ほど驪駒から点をもぎ取った打順をノーアウト三塁の状態から無傷で済ませられればの話だが。

【さあ、バッターは1番! 早鬼ちゃんからヒットを打った一人です!】
 言われるまでもなく正念場だ。驪駒は打席に立つ伝説の男を睨み付ける……が、何か様子が違うような気がする。それも都合のいい方にだ。
 前回よりも受ける威圧感が減ったような、とにかく楽になったのだ。
「……へっ! リードしてるからって気が抜けたか? そんな気迫でこの驪駒様の球を打てるものか!」
 一方で驪駒はまだバテる気配がなかった。投球数は100を越えたが一欠片の疲労も見えない。明らかにスイングの切れが悪くなった1番、2番を容易く三振に切って取り、ツーアウトの状態で宿敵磨弓を迎えるのだ。

『磨弓・磨弓・ホームラン! オォオオオオオオ……!』
 再びドームがあの応援コールに包まれる。
「……袿姫様の為に!」
 絶対に自分の手で袿姫をホームに帰す!
 袿姫への忠誠心で満ちた磨弓だけは他の埴輪と違った。

 歓声で盛り上がるのは何も磨弓だけではない。敵の声に呼応して驪駒も燃え上がる。
 こいつで最後だ。
 チーム最強のバッターを前に驪駒の闘志が最高潮に達した。
 その速球は、今まで最高の音を立ててミットに叩き付けられたのである。

『ストライクッ!!』
 審判が大声で叫ぶ。今日何度目のやり取りだろうか。
 驪駒が豪速球を投げ、それを吉弔が捕る。自分の球をここまで完璧に捕ってくれるキャッチャーは今までいなかった。ついに現れた唯一の存在が敵である吉弔という皮肉。驪駒はかすかに思ってしまった。このままずっと試合が続いてくれないだろうかと。しかしそのようなことがあるはずもない。
 ボールを、落としていた。

 吉弔の限界の方が先に来たのだ。

「吉弔!?」
『吉弔様!』

 吉弔が下を向いてうずくまっている。この非常事態に驪駒と畜生霊が駆け寄った。
「もしかして……手首か!? そうなんだな!? すまん吉弔、お前なら大丈夫と思って全力で……」
「……っ、不要な、心配です。あと少し付き合うぐらいなんでもない。マウンドに戻りなさい」
 そう言われても強がりにしか聞こえなかった。実際、砲弾のような驪駒の剛球を捕り続けた吉弔の左手はミットの中で真っ赤に腫れ上がっていたのである。それでも、驪駒の前でだけは弱った姿を見せたくない。驪駒のことを誰よりも意識しているが故のプライドだった。
「大丈夫なわけないだろ! いいから見せて……!」
「触るな! 私を心配するな!」
 吉弔らしくない、感情を露わにした悲痛な叫びだった。しかしそんな言われ方をされたら驪駒はますます引けない。この押し問答は試合をしばらく止めるものと思われたが──。

『やれやれです。いずれそうなると思いました』
 汗臭いグラウンドに突如として香る甘ったるい匂い。膠着を止めたのは実況席から抜け出てきた青娥だった。
「大師匠様!? どうしてここに!」
 驪駒が叫ぶ。神子の師匠だから大師匠。しかしそんなことは今はどうでもいい。実況を投げ出してなぜここに来たのかだ。
「それはね、豊聡耳様のご命令で、ちょっとした応急処置でもしてあげようかと。構いませんよねー、袿姫様~?」
 三塁の袿姫は首を縦に振った。痴話喧嘩を眺める趣味はないし、吉弔が負傷交代なら球を捕れる捕手のいない驪駒も降板だろう。それでは面白くない。もちろん勝ちにいくなら認めない方がいいが、袿姫すらも吉弔には多少なり同情を覚えていたのだ。
「私は、邪仙の施しなど受ける気は……!」
『弟子のペットが迷惑をかけたお詫びよ。貸しにはしないであげるから大人しくなさい』
 青娥は有無を言わさず吉弔の手首に一枚の札を貼り、両手の指で手首を突くように挟んだ。その瞬間、不思議なことに吉弔は手から痛みを感じなくなったのである。
『本来はキョンシー用だけど痛覚を消すお札。それに筋肉と骨に生じたズレを戻してあげました。痛んでいるのに変わりはないので後でちゃんとお医者さんに診てもらってくださいね』
「……ふん。私の手はどこもおかしくなっていませんよ。ですが……せっかくなのでこの札は貼ったままにしておいてあげます」
『素直じゃないですねえ。ちょっと貴方のことが気に入ってしまいそうです。それじゃ、終わったらゆっくり話しましょ?』
 邪仙のお気に入りという死刑宣告を残し、青娥はふわふわと実況席に戻っていった。

「吉弔、本当に手は……」
「お前も、もう一度言います。さっさとマウンドに戻ってください。この馬鹿試合もあと少しで終わるんです。あと一人、全力で投げ抜きなさい」
 自分を心配する驪駒など見たくはなかった。驪駒はいつだってふてぶてしくて、自信満々で、カリスマ性もあって。まさに畜生界最強を自負するに足る力を持った人物だ。そんな奴だからこそ並び立つ意味がある。並び立つなら高みでなければならないのだ。下を向いた自分の為に降りてくるなど、それは自分自身の誇りの為にもあってはならなかった。
「……わかったよ、吉弔。結果どうなっても恨むなよ?」
 驪駒が握り拳を向けた。
 これが最後の打席だ。打たせるわけにはいかない。
 そう強く誓ってタイムの終了を告げた。

 磨弓がバットを構える。
 驪駒が振りかぶる。

 渾身の速球の球威は最後まで全く落ちなかった。いや、落とさないつもりだった。
 しかし、最後の最後で吉弔の手を思いやってしまった驪駒の指は、本当に微かに加減をしたのである。
 結果、本来ならばボールの下を通っていたバットに、伸びが足りなかったボールが丁度よく当たってしまうのだった。

【ピッチャー強襲! 打球は二遊間を抜けてセンターへ……!】
 磨弓の打球は驪駒の右足の横を鋭いゴロとなって転がった。
 ピッチャー強襲のセンター前ヒット! 見た瞬間誰もがそうなると予想した。

【……いえ、捕った! 捕りました! ショート・カワイのダイビングキャッチ!!】
 これ以上組長に負担をかけさせるわけにはいかない! 吉弔の側近が奮起したのだ。
 強烈なゴロをショートのカワイが横っ飛びで捕球し、グラブに収まった打球を駆け付けたセカンドのヘビシマにグラブトス。素手で球を受け取ったヘビシマがファーストに素早く投げる!
【アウト! スリーアウトです! ハニーズ、最終回で得点ならず! 磨弓ちゃん、二遊間のファインプレーに阻まれました……!】
 完全に抜けたと思った打球を好守に阻まれ、磨弓は思わずバットを地面に叩きつけた。
「くそっ! 申し訳ありません、袿姫様……!」
「今のは仕方がないねえ。あんな見事な連携を魅せられたら諦めるしかないわ。さあ、最終回をきっちり守るわよ!」
 袿姫は磨弓の背中を力強く、それでいて優しく叩いた。最終回、磨弓が稼いでくれた虎の子の1点を守り抜く! 苦しい戦いだが二人の闘志は再燃した。

「はは。また、吉弔の策に救われてしまったな……」
 一方で驪駒は自嘲する。エンジェルスのいつもの二遊間だったら確実に抜かれていた打球だった。またしても、対偶像において吉弔の作戦が功を奏したのだ。
「やはり二遊間だけでも変えておいて正解でしたね。流石は私が手塩にかけて育てた精鋭です。二人ともよく守ってくれました」
 出血を防いでくれた自身の配下二人に、吉弔としては最上級の労いの言葉と共に微笑んだ。
「最終回は私達の打席です。必ず塁に出なさい。この試合、勝ちますよ」
『ハッ!』
 吉弔から塁に出ろと言われたら出るしかない。もちろん出られるかは彼らの能力にかかっているのだが、冷静さが売りの二人も今回ばかりは燃えに燃え、バットを握りしめて最後の打席に臨む。
「……お前はいつまで落ち込んでいるのですか」
「ハハ、馬鹿を言うな。9回を1失点で抑えてるんだぞ。誰がどう見ても立派な成績だろう?」
 確かに立派には違いない。しかしそれが決して驪駒一人の功績ではないことは彼女自身が最も理解していた。そもそも野球とはそういうスポーツである。だからこそ今回の事も堪えたのだ。
「もし、ほんの僅かでも私に報いたい気持ちがあるのなら勝利で返しなさい。私達の誰かが塁に出ればお前に打順が回ってくる。いつものお前らしく、お前自ら勝利をもぎ取ればいいでしょう」
「……すまん、吉弔。ありがとう」
「フン、礼を言われる筋合いなどありませんよ。気持ち悪いだけですから」
 必ずやこの手で勝利を。驪駒は前のめりになって、打席に立つ7番バッター、吉弔を見送った。
 吉弔はバットを一切振らなかった。今の左手では袿姫の球を打つのは無理だろうと判断し、ここで無理をして手に負担をかけ、延長戦で球が捕れなくなる可能性を減らしたのだ。
 しかし吉弔の頭脳を警戒した袿姫はカウントをフルに使って三振を取る羽目になる。
 そして続く8番ヘビシマの打席で事件は起こるのである。


 吉弔のチームから一人名を上げろ、と言われたら大体がヘビシマと答えるだろう。8番のヘビシマはトータスドラゴンズ一の守備能力に打力も持ち合わせる名プレイヤーだった。その分プライドが非常に高く、自らの地位を脅かす者は策を持って潰すことも厭わない、まさに畜生界に相応しい性格でもある。
 人格を理由にあらゆる所から避けられる自分を唯一認めてくれた吉弔の為、彼は毒蛇のような執念を持って袿姫のボールに喰らいつき続けていた。
【……またファール! ヘビシマ選手、粘りに粘っています!】
【素晴らしいバットコントロールですね。埴安神の体力をここで削り取る気でいるのでしょう】
 8球目、外角の球を右方向に流してファール。ツーツーになってから4連続のファールだ。
 キャッチャーもボソボソと集中を削ぐような事を言い続けているのだが彼の集中力が上回っていた。
『……ボール!』
 9球目、インコースの球はストライクゾーンを外れた。これでフルカウントだ。もし四球ならそこで完全試合は崩れることになる。

『タイム!』
 キャッチャーがタイムを要求し、マウンドの袿姫に磨弓を始めとする埴輪が集まってきた。
「袿姫様、体力は大丈夫なのですか? 交代をなさっても……」
「正直、結構きついけど、でも投げさせてちょうだい。驪駒は投げきった。だったら私も負けてられないもの」
「……わかりました。ここは勝負に出ても良いかと思います。打たれるやもしれませんが私達が完璧に守ってみせます! このメンバーで、必ずや勝利しましょう!」
「ありがとう、磨弓。皆もよろしく頼むわね」
 プレイ再開。埴輪達が持ち場に付き直した。
 ここまで粘られるならやむを得ないと、袿姫は10球目に勝負に出た。内角高めの喧嘩球、ストライクゾーンの本当にギリギリに渾身の直球を投げ込む!

 そして、ヘビシマはこの球を逃さなかった。

『……ボール! フォアボール!!』
 選球眼に長けたヘビシマは眼前を通過する球でも一切微動だにせず見逃しを選択した。何としても塁に出る! ヘビシマの執念が勝ったのだ。
 ワンアウト、一塁。袿姫の完全試合はここで崩れた。

『よし!!』
 驪駒と吉弔は仲良く雄叫びを上げた。
 ついに、ついに袿姫の牙城にヒビが入った。たかが一人塁に出ただけと言えばその通りだが、この場に限っては極めて大きな価値があった。
「完全試合はダメだったわねえ。まあいいわ、完封試合を目指しましょう!」
 まだヒットを打たれたわけではない。依然としてノーヒットは継続中だ。袿姫は袖で額の汗を拭う。エースとして、神として、ここで腐る姿を見せるわけにはいかなかった。
 続くバッターは9番のカワイ、ここで一番やってはいけないのは併殺打だ。貧打の彼ならばやらかす可能性は十分にあった。
 しかし、彼はチームでもっとも地味で堅実な選手として有名である。それが意味するところはバントにおいて彼の右に出る者はいないということだ。
【……やりました! カワイ選手、袿姫様から送りバントを見事に決め、これでツーアウト二塁!】
【一打同点のチャンス、ホームランが出ればサヨナラです。そしてバッターは1番に返って黒駒……最高の見せ場になりましたね】

「私の為、吉弔の為、勝利をこの手で掴んでやる!」
 1番、ピッチャー、驪駒。最も強い打者を最初に持ってくるというシンプルな打順が土壇場で効いた。
 さらに驪駒は自分を追い込む為に大きな勝負に出た。打席に立つやバットでスタンドを指し示したのである。このパフォーマンスには観客も大いに沸いた。
【これは……予告ホームラン! 早鬼ちゃん、この局面でまさかのホームラン予告です!】
【まさに大胆不敵ですね。そして観客の心を掴む術を心得ている。流石は私の黒駒です】
 本当に確実な勝利を目指すなら、ホームランを狙って大振りするより駿足を生かして長打を狙うべきだ。それに次のバッターも安打製造機と呼ばれる男である。連打になる可能性は高い。
 しかし最後は何としてもこの手で勝利を掴みたいという大いなる我が儘を彼女は貫こうとしたのである。
「まったくお前という奴は、どこまでいっても馬鹿ですね……」
「こんな奴に対抗心を燃やしちゃってるんだから、私も馬鹿だねえ……」
 吉弔と袿姫はそれぞれ違った感情の笑みを浮かべた。
 チームの要である両者の身体はお互い限界が近い。袿姫の奮闘が勝つか、吉弔の苦労が勝つか、全ては驪駒のバットに委ねられていた。
『参ったなあ。これは真っ向勝負はできんわ……』
 キャッチャーもしっかりボヤいてくるが、外してこようが何が何でも打つと決めている驪駒には通じない。それに袿姫だって逃げる気はなかったのだから。
「馬鹿で結構! 私が馬鹿なおかげで今の状況があるんだからな!」
 驪駒も笑った。
 馬鹿と馬鹿との大一番、どちらがより大馬鹿者かを決めようと、袿姫の手から全力の一球が放たれた。


 4球目、その時は訪れる。
 ツーストライク、ワンボール。ここまでの三打席で袿姫の癖を掴んでいた驪駒は、狙いを外角の低めに絞り、見事、球を真芯で捉える!
(……重いッ!?)

【打ちましたァ!! ボールは高くレフト上空へ!】
 袿姫の球は想像を遥かに超える重さだった。最高のヒッティングをしたにも関わらず、驪駒の怪力をもってしてもボールは上寄りのベクトルで前に飛んだ。
【これは……入るでしょうか!? ドームの天井にも届きそうな大フライです!】
【ドーム上空は空調で向かい風が吹いていますからね。これは戻されますよ】
 ボールの行方を見届けるのもほどほどに、驪駒は全力で走った。入ってくれると信じているが、入らなかった時の為に少しでも先の塁に出なければ!
 打球はとても際どい軌道でレフトのポール際に飛んできた。入るか、入らないか。天国か地獄か。レフトは既にフェンスの側で待ち構えている。果たして、結果は──。

【……入りません! フェンスダイレクト!!】

 運は袿姫に味方した。ボールはレフトスタンドのフェンスにぶつかり、ファールゾーンギリギリの所に落ちた。
【しかし二塁ランナーは今ホームイン! これで同点です! 土壇場でゲームを振り出しに戻しました!!】
 スタンドから狂喜乱舞の声が上がる。しかし本当に気になる結末はここからだ。
 驪駒も二塁を駆け抜けていた。少しでも2点目を取りやすくするために、先へ、先へ!
 そして、ここでこの試合最大の事件が起きる。
 バックホームをするはずのレフトがボテボテの球を投げてしまったのだ。

【まさかこれは……レフト、やはり投げられない! 肩をやられているようです!】
【そんな事故は無かったと思いますがいつの間に……?】

 慌ててショートが転がる球を拾い上げる。何故かこのショートは慣れきった様子でフォローの足が早かった。
 とにかくこれは大チャンスだ。韋駄天の速さを持つ驪駒はこの隙を逃さず全力で駆ける! ショートも本塁打を阻止せんと全力で投げる!

【バックホーム! これは際どいですよ! アウトか、セーフか、審判の判定は……!?】
 最後の決め手は放送席の位置にあった。その場所とはバックネット裏だ。
 何が言いたいかというと、本塁に突っ込む驪駒の先には神子が居る。それが鼻先の人参の如く最後の一押しとなったのだ。

 審判の両手が、大きく横に振られた。

【……セーフ! セーフです!最後の最後に出たエンジェルスの初ヒットは、なんとサヨナラランニングホームラン! 2対1! 袿姫様、敗れました……!!】

 ドームが阿鼻叫喚の大歓声に包まれた。
 驪駒の戦功を讃えんとエンジェルスのメンバーが集まって彼女を胴上げする。
『組長がやったゾォ!』
『驪駒様最高ッス!』
「ハッハッハァ! やったぞお前たち、私達が勝ったんだッ!」
 優勝したわけでもないのに祭りのような乱痴気騒ぎ。その熱に昇華されるかのように、袿姫が呼び出した野球の神様達も天へと還っていく。磨弓を始めとする魂が抜けた埴輪達は呆然とした表情で立ち尽くし、全てを出し尽くした袿姫は、マウンドでただ目を閉じていた。
 一方で、吉弔は側近と共にベンチで驪駒達の馬鹿騒ぎを眺めているのだった。
『……吉弔様は加わらないのですか?』
「まさか。私にはあのような騒ぎ方は似合いませんよ。やはりあいつらとは徹底的に馬が合いませんね」
 ため息を吐きつつも、吉弔の顔には満足げな笑みが浮かぶ。
「さて、あいつらがああしている間に私は私の『仕事』を済ませましょうか」
 吉弔が見る先には、静かに自分のベンチへと帰っていく袿姫の姿があった。
 

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