稗田阿求は傍らに立つ少女が背負ったキャンバスを取ると、掛けられた布を取り払って掲げて見せた。
「目撃者の情報を基に描かせた絵がこれになるわ」
その絵というのは、座頭を描いたものであった。しかしただの絵ではなかった。如何とも言い難い、鬼気迫るような臨場感に溢れていた。
描かれた座頭はひどく怯えているようで、唇を歪ませて歯をむき出しにし、何事か喚いているように見えた。その周囲には黒い靄のようなものが掛かっており、そしてその足元には火の点いたなんだかよく分からない毛むくじゃらの物体がまとわりついている。
「これは被害者を描いたのか? いや……」
霧雨魔理沙は身を乗り出し、じっくりと絵を覗き込んでみた。
「これは『手の目』か」
座頭の手の平には、人間の目玉が付いていた。
魔理沙の言に、阿求は頷いてみせた。
「おそらくそうね。被害者の状況にも一致しているわ」
「骨でも抜かれたか」
「被害者を見た人間はこう評していたわ。最初は人間だと分からなかった、肌色の絨毯か何かかと思った、とね。骨どころか、中身も全て消え去っていたわ。人間を皮だけになるまで吸ったようね」
「うへぇ……」
人間を皮だけにするなど、確かに妖怪の仕業に相違なかった。
だが、この手の目、そう強力な妖怪というわけでもないはずだ。今までに大きな被害を出したとは聞かない。
「被害者の数は?」
「既に五人の人間が殺されているわ」
「五人……」
野良妖怪の一個体にしては、多い。
「この数。里外の出来事とはいえ、看過できない」
「ふざけろ、里にしか興味のない稗田のくせに。どうせ里人に被害が出たんだろうが」
「まあ、否定はしないでおくわ」
阿求はあいまいに言った。食えない女だ、魔理沙はそう思った。見た目は年端のいかぬ少女で、普段の言動も少女そのもののはずなのに、時々妙に大人っぽいことを言う。阿求にはそういう、子供なのか大人なのか分からないところがあった。
「何故、こんな話を私にするんだ」
「決まっています。貴女にこの妖怪の退治を依頼したいの」
「妖怪退治は博麗の巫女に頼むのが筋じゃなかったのか?」
「この案件に限っては、貴女が適任だと判断したのです」
なるほど、と魔理沙は思った。阿求は霊夢を動かしたくないのだ、里外のことで。博麗の巫女は里の守護者、里外の人間のためにその力を振るわせるなんて勿体無い、こんなつまらない事件で万が一にも巫女が死んだりしたら、里の守護がおろそかになってしまう……なんて考えているに違いない。流石、里至上主義の稗田である。どんな汚い手口を使っても里だけは守り抜く、稗田阿求はそういう女だった。
反吐が出るな。そう心の中でつぶやく。
だが同時に、里を守るその熱意に尊敬の念も湧き上がった。守るべきものの為にその手を汚せるのは、すごい事だとも思う。
「ふーん。まあ、なんでもいいや。どうせ暇だし、やってやるぜ」
だから魔理沙は、阿求の思惑に気付かない振りをして、話を受けることにした。
「ありがとう。そこで一つお願いがあるのだけれど」
「あん? お願いだぁ?」
「その妖怪退治に、この娘を同行させてほしいの」
傍らに立つ少女を指して言う。
魔理沙が見つめると、その少女は無表情のまま、ペコリとお辞儀をした。つるりとした額がキラリと光る。可愛げのない少女だ、霖之助のものと似た角縁眼鏡なんかして。白のブラウスに紺のプリーツスカートなんて、里人にしてはハイカラな洋装をしているところも気に食わなかった。おまけに背に何か大きな木材を背負っている。これはいわゆる西洋の画架、イーゼルか。自分の体よりも大きなイーゼルとキャンバスを背負って涼しい顔をしているなんて、本当に愛想の欠片も無かった。
「誰だ? こいつ。見たこと無いな」
「私の絵師です。名前は千夏と言うの」
「絵師……って、幻想郷縁起の?」
「ええ」
幻想郷縁起。
幻想郷に住む妖怪を記した、稗田阿求の著作である。妖怪の概要とその対処法などが記載されている、里の人間には必読とされている書物。特徴的なのは、紹介された妖怪の似顔絵も同時に掲載されているというところだ。妖怪の中には人間に化けて近づく輩も多いが、縁起に似顔絵が掲載されていることにより、見破ることが容易くなっている。ひいてはそれが里の人間を守ることにもつながっているのだ。
「あの絵、お前が描いてたんじゃないのか」
「まさか。私は物書きですから」
「じゃあ、さっきの絵もこいつが」
「そうよ」
「信じられん……」
「まだほんの子供だけれども、実力はさっき見せた絵の通り、折り紙付きよ」
「子供て、お前とそう変わらんだろうが」
「この千夏に妖怪退治の現場を見学させてあげてほしいの」
「……つまり。新しい記事を書くために、妖怪さんのインタビューとスケッチをしてこいってことか」
「うふふ。どうでしょうね」
阿求はまた曖昧に笑った。
なるほど。再び魔理沙は思った。霊夢に依頼しなかった理由はこれもあるのか。あの霊夢ならこんな厄介事、二つ返事で断るに決まっている。第一、こんな子供を妖怪退治の現場に連れて行くなんて危険が過ぎるだろう。
だが。
「いいだろう。乗った」
魔理沙なら、こんな面白そうなことを断る道理は無い。そこのところ、稗田阿求はよく弁えているようだった。
『手の目』。手目坊主とも言う。座頭姿で両目が顔ではなく両手の手のひらに一つずつついている妖怪だと言う。人間を襲い、その骨を抜き取ってしゃぶり尽くすらしい。盲人が殺され強い怨みが残ると、手の目になるとも言われる。
手の目が現れたのは、里外のとある集落近くに存在する廃屋敷だった。通りかかった人間を屋敷に引き込み殺しているようだ。件の屋敷を遠目に見やると、なるほど荒れ果てていた。塀は破壊され基礎しか残っておらず、壁や屋根もところどころ剥がれていて、とても雨風を防げそうにない。おまけに周囲は鬱蒼とした森。いかにも妖怪が好みそうな場所だった。まっとうな人間なら絶対に近づかないような。
被害者達は何故こんな場所にやってきたのだ?
脳裏をかすめる疑問が、魔理沙を用心深くさせた。阿求は何かを隠しているのかもしれない。あるいは阿求すら知らない何かが、この場所に秘められている可能性もある。
「疫病……だって?」
近隣の集落で行った聞き込みを反芻する。
「ああ、あんたもすぐに離れたほうがいい。もう何人も熱を出して倒れている。おまけに近くには恐ろしい妖怪もうろついてるんだ。博麗の巫女様にお頼みしたいが、巫女様に疫病が感染ってはいかん。どうしたものか……」
阿求が里外の妖怪退治を依頼してきたのはそういうわけだったのだ。疫病の発生した集落の人間が、妖怪恐ろしさに里へ避難してくることを防ぐ為に、阿求は妖怪バスターを派遣した。魔理沙は完全に鉄砲玉扱いではあるが、阿求の立場上、仕方の無いことではある。これは誰かがやらなければならないことだ。仮に疫病を恐れて妖怪退治を行わなかったとすると、阿求の取れる手立てはこの集落を焼き払う以外に無くなるのだから。考えれば考えるほど、魔理沙にお鉢が回ってきたことに納得してしまった。まあ、噂の死体探偵のほうが魔理沙よりも適任だったような気もするが、稗田阿求はおそらく死体探偵に頼りたくないのだろう。死体探偵の正体は、妖怪なのだから。
千夏は背負っていた木製のイーゼルを下ろすと、キャンバスを張り、外来の鉛筆でスケッチを始めた。その筆運びは繊細にして素早い。みるみる廃屋の遠景が出来上がった。
「うまいもんだな」
千夏に声を掛けても、反応すらしなかった。やりにくさを覚えて、魔理沙は溜息を吐く。
「あれ? なんだ、この線」
キャンバスに描かれた廃屋の周りに、か細い線がいくつも描かれていた。
「雨……か?」
空を見上げても、雨のあの字も見えやしない。
「一体なんで雨なんか描いたんだ」
問いかけてもやはり反応が無い。千夏は黙々と筆を動かし、キャンバスに色を乗せている。
「そうだ」
ならばと魔理沙は体を乗り出し、千夏の顔を覗き込んだ。息が掛かりそうな距離に、さすがの無愛想娘もうろたえて頬を赤く染めた。
「私の似顔絵も描いてくれよ」
魔理沙が頼むと、千夏は俯き、困ったような顔をした。
「なあ、頼むよ」
それでもしつこく魔理沙が言うと、千夏は小さく首を振り、蚊の鳴くような声でぼそぼそと言った。
「……描きたくない」
喋れるのか、この娘。千夏があ者である事を疑っていた魔理沙は内心少し驚いて、しかしあえて不機嫌そうに言った。
「なんだよ、私は描けないってのか」
「そ、そうじゃなくて……私、人は描きたくないの……」
「描きたくない?」
「あの、その……」飲み込むように、喘ぐように言葉を発する。「描いても、喜ばれないから……」
喜ばれないとは一体なんだ。魔理沙は首を捻った。
人間の絵が下手なわけではないだろう。事実、妖怪とはいえ座頭姿を見事に描いて見せている千夏である。多少リアリズムが強すぎる面もあるが。
リアリズム。自分の頭に浮かんだ言葉に違和感を感じ、魔理沙は再び手の目の絵を取り出した。
この手の目。怯えている。そして、炎に包まれているように見える。
稗田阿求は言った。目撃者の情報を基にこの絵を描かせた、と。
ならば何故、描かれた手の目は怯えているのか。手の目は人間を襲う側のはずだ。目撃者が証言したのか? 手の目が怯えていたと。そんなことはありえないはずだ。道理がつながらない。
この絵は、人間には描けないはずの絵なのだ。
だが実際に絵は魔理沙の眼前に存在し、強烈なリアリティでもって魔理沙の本能へ訴えかけて来ている、妖怪の存在を、その脅威を。
現実にはあり得ないリアルとは、一体。この絵は存在からして矛盾しているのではないか。
「おい。どうやってこの絵を描いた」
再び魔理沙が問いかけると、千夏は俯いて黙ってしまった。どうやら怯えてしまったようだ。覚えず、声にドスが効いてしまっていた。
「……ごめんな。いっぺんに聞きすぎた」
魔理沙は溜息を吐くと千夏の頭をぽんと叩いた。
たくさんの謎は残るが、魔理沙のやるべきことは単純だった。手の目を退治すればいいのだ。
残念ながら手の目の退治法は伝わっていないが、逆を言えば特別な退治法は要らないと言うことでもある。力づくで消滅させてしまえばよい。そちらのほうが単純で、魔理沙の性に合っている。魔理沙の手持ちの武器は愛用の魔法箒と各種魔法薬を少々、それに奥の手のミニ八卦炉。並の妖怪が相手ならば十分すぎるほどの装備だ。
今はまだ日も高い。手の目は元々盲人、暗闇に強いことが予測される。ならば日の高い内に行動するほうが得策だった。
「私はこれからあの屋敷に突入する。お前はここで待っていろ」
魔理沙が千夏に告げると、千夏は首を振り、魔理沙の袖を掴んだ。
「お役目だから……」
ぼそぼそとか細い声で言う。
魔理沙は困って、頭を掻いた。
「スケッチなら、倒した後ですりゃいいだろ」
「稗田様に見てこいと言われたの……」
「しかし、危険だぞ」
千夏は俯いたまま、梃子でも動きそうにない。見た目に反して力も強く、掴まれた袖を振り払えそうになかった。
魔理沙は溜息を吐いた。
「自分の身は自分で守れ。お前に出来るか」
そう言うと、千夏は黙ってポケットからパレットナイフを取り出した。
「……仕方ない。付いてこい」
そう言うとようやく千夏は魔理沙の袖から手を離してくれた。
魔理沙は慎重に足を運び、廃屋の入り口に近づいた。遠景では分からなかったが、死臭がする。魔理沙は確信した、妖怪が屋敷内にいる、と。ここは妖怪の狩場なのだ。念の為に、いつでも使えるよう魔法薬を腰のベルトにセットする。魔理沙の警戒尾ぶりに当てられて千夏も恐怖を感じたのか、両手で握りしめたパレットナイフが大きく震えていた。
死臭は一歩踏み出す度に強くなった。それを隠そうともしないのは妖の知能が低いからではあるまい。誘っているのだ。しかし何故? 魔理沙の本能が警鐘を鳴らしている。なんとなく、このまま正面から行っては不味い気がした。魔理沙は正面玄関を避け、裏へ回り勝手口を探した。あの臆病者のアリスみたいな慎重さだと自嘲しながら。
勝手口はあるにはあったが、その扉は破壊されていた。どうやら、道具を使って外側から無理やりこじ開けたらしい。それも最近。やはり何か嫌な予感がした魔理沙は、ここも避けて屋敷を一周し、結局縁側から侵入することにした。
破れた障子の隙間から身をよじ入れ、板の間を踏みしめる。ぎこちない動作で千夏もそれに続いた。背負った画架が引っかかって千夏が悲鳴を上げたので、仕方なく手を貸してやる。イーゼルを降ろせと小声で言ったが、千夏は聞かなかった。よほど大事なものなのか、よほど頑固なのか。しかし今は言い聞かせている暇は無かった。
中は薄暗く、湿った黴の臭いと一層強くなった死臭が鼻を突く。足を出す度、腐った板が魔理沙の体重に悲鳴を上げた。これでは魔理沙の位置を教えているようなものだ。魔法箒を使って飛び上がることも考えたが、狭すぎる。千夏を乗せて二人分の飛翔を行えば、余波でこの脆い家屋が倒壊してしまうかもしれない。壁を破壊して光と空気を確保したかったが、同じ理由で断念した。
板張りの縁側を抜け、腐った襖で区切られた奥へと歩を進める。どうやらここから先は畳張りの小さな部屋が続いているようだ。ようやく音の自己主張が消えてくれた。だが、靴のまま畳を踏む感触は慣れない。強くなった湿気が魔理沙の額を濡らした。
ふと、踏み出した足が違和感を覚える。ぐにゃりとした感触に、流石の魔理沙も体中の毛が逆立った。アリスなら悲鳴を上げて卒倒しているところだろう。足元を覗くと、案の定、ぺらぺらの皮だけになった人間の死体が転がっていた。肌色の絨毯は言い得て妙だ、踏み心地は最悪だがな。まだ魔理沙には軽口を叩く余裕があった。
後ろ手で千夏に止まれと合図すると、魔理沙は被害者を足で隅へ除けた。被害者を足蹴にするなどバチが当たりそうだが、きっちり仇は取ってやるつもりなのできっと五分だろう。
ようやく薄暗さに目が慣れてきた頃、またもや襖に突き当たった。立て付けの悪さに閉口しながら力づくで襖を開けると、さらなる闇が魔理沙を迎えた。もはや外の光も届かぬ闇。仕方無く、魔理沙が魔法で光を出そうとしたその時、急に部屋の中が微かな明かりに照らされた。部屋の奥の行灯がひとりでに灯ったのだ。
やはり、誘っているのか。
いや、と魔理沙は思う。
どうやらこれは、逆だったようだ。
魔理沙は思い切って部屋内に飛び込むと、行灯を引っ掴み、一気に突き進んで反対側の襖を蹴り破った。
板の間の奥に、座頭が一人、片手で長持の蓋を掴んで棒立ちしていた。もう片方の手は魔理沙に向けられている。その手の平には、ギョロリと光る目玉が付いていた。
間違い無い。妖怪、手の目だ。
魔理沙が一気に突入したので、長持の中へと隠れ損ねたのだろう、間抜けな奴だ。
手の目が身を翻そうとした瞬間、小さな星弾の早撃ちで右肩を撃ち抜くと、手の目はおぞましい叫び声を上げた。
「うおお……! まさか、無鉄砲に突っ込んで来よるとは……」
妖に成り下がったとはいえ元は人間、この手の目は人語を介するようだ。だが、弾幕戦を嗜むような優雅さは無い。尤も、あったとしても初撃を避けられなかった時点でリタイアだが。
「商売敵の嫌がる事をやれ、ってのが霧雨家の家訓なんでな」
人皮を配置したり、行灯を灯したり、手の目は露骨な時間稼ぎを行っていた。ならば一気に突き抜ける方が、相手にとって都合が悪いだろう事は明白である。
「小娘がぁ!」
手の目は悪あがきとばかりに弾幕を飛ばして来たが、隣の部屋の行灯を付けるのに手間取っていたような輩である。遠隔で行使できる力は弱いようだ。弾幕は魔力を込めた箒の一振りで闇の中にかき消えてしまった。
「き、貴様……退魔師か」
魔理沙との力量差を悟った手の目がうろたえるのが見える。行灯に照らされたその表情、浮かぶ怯え。千夏の絵の情景に似ていた。いや、似すぎていた。目撃者から話を聞いただけで、これほど人相を似せて描ききれるものなのか?
「いいや。普通の魔法使いさ」
一対一なら、この程度の妖怪に遅れを取る魔理沙ではない。止めを刺すべく魔法箒を構える。
手の目は息荒く長持にもたれかかりながら、しかし目のない顔を歪ませて笑った。
「魔法使い、か。だがまだ経験が浅いと見える。儂の思惑を見抜いた時点で引くべきだったな、小娘」
「なんだと?」
「そうれ、効いてきおったぞ」
背後で何かが崩れる音がした。
「……千夏?」
千夏が倒れている。背負ったイーゼルに押し潰されるようにして。
「どうした……う!」
行灯を捨てて駆け寄ろうとしたその時、魔理沙の足は空を切った。床が抜けたのだ。絡繰の駆動音がガラガラと大きな音を立てている、何かの罠か。落ちながら咄嗟に箒へ飛翔術を掛けた魔理沙だったが、千夏と二人分の体重を支えきることはできず、落下の衝撃を和らげただけだった。
たっぷり五間は落ちただろう。魔理沙達はむき出しの土の上に体を横たえていた。落下の衝撃で行灯の火は消え、真の闇が魔理沙と千夏を包んでいる。
見上げれば、小さな灯りの中に、ぎょろりと目玉が光った。
「油断したのう。こんな単純な落とし穴に引っかかるとは。知恵を司る魔法使い様が聞いてあきれるわい」
「このクソジジイ……!」
魔理沙は星弾を放つが、手の目はひょいと避けてしまった。流石に射程距離外だった。もっと出力を上げて弾速を増さなければ。そう思い指先に魔力を集中するが、途端に頭痛が魔理沙を襲った。魔力が掻き乱される。
「く……なんだ、これは」
「こやつの力じゃ」
手の目の腕先に、何か毛むくじゃらの物体が纏わり付き蠢いている。それには小さな目があり、行灯の光を受けて妖しくきらめいていた。妖怪だ。
「あれは……まさか、毛羽毛現……?」
毛羽毛現は取り付いた家屋に疫病を蔓延させる妖怪だ。近隣の集落に発生した疫病は、あいつが振りまいていたのか。
ようやく魔理沙にも合点が行った。何故被害者達が手の目の潜むこんな妖怪屋敷にやって来たのか。彼らは毛羽毛現を追ってこの場所にやって来たのだ。
「くくく……馬鹿で臆病な人間共が。こやつを退治しようと勇んでやって来おったというのに、儂の仕掛けに心惑わされおって。時間を掛ければ掛けるだけ、貴様らは弱っていくというわけじゃ」
毛羽毛現は人間をこの場所におびき寄せ、手の目が時間を稼ぐ。時間が経てば毛羽毛現の病で人間は弱っていく。そこまで強力ではない手の目が、多くの被害を出した理由はこれか。
魔理沙は戦慄した。
つまりはあの手の目、他の妖怪と組んでいたということになる。力の強い天狗や河童などはともかく、有象無象や野良妖怪までもが徒党を組んで人間を襲うなど、異変の領域に片足を突っ込んでいる。
「そうら、狩りの時間じゃ。たっぷり時間を掛けて楽しませてもらおう」
手の目が引っ込むと、再び絡繰の駆動音がして、穴が閉じた。そうして、魔理沙達は真闇の中に閉じ込められてしまった。
「久方ぶりの若いおなごじゃて、いたぶり犯して喰ろうてやろうぞ」
手の目の薄気味の悪い笑い声が、穴の中に木霊した。
とにかく、魔理沙は一緒に落ちた行灯に八卦炉で火を付け、明かりを確保した。暗闇での戦闘は魔理沙に不利となる。こうなった以上、明かりが生命線だ。
「大丈夫か、千夏」
千夏に駆け寄り状態を見てみる。疫病は熱病に近いようだった。玉のような汗をかき、高熱が出ている。さらに千夏は全身に筋肉痛と倦怠感を訴えていた。しかし、直ぐに命を落とすというようなことはなさそうだ。毛羽毛現が振りまいている疫病となると、おそらく実態は呪いに近いのだろう。
毛羽毛現、またの名を希有希現。その名の通り毛むくじゃらで、その名の通り滅多に現れない妖怪らしい。床下のように湿った場所に棲み、とりついた家に疫病をばらまいて病人を出すと言う。見たところ知能は低そうだったが、手の目と連携して人間狩りを行うとは……あの個体が特別なのか、それとも何かが力を与えたのか。
魔理沙が頭痛の走る頭で考えを巡らせていたその時、
しゃらりん
という錫杖の音が響いた。
どこかから、手の目が降りてきたのだ。錫杖の音は魔理沙たちに恐怖を与えるための演出か。
手の目は狩りだと言った。ならばと行灯を掲げて辺りを照らせば、果たして、地下室の奥へと通じる道が続いていた。魔理沙はふらつく体で千夏を背負うと、躊躇わず奥へと進んだ。
地下はさながら迷路だった。入りくんだ通路に沿って座敷牢がいくつもあり、その中には人間が生活していた形跡があった。白骨化した遺体が放置されている牢もある。遺体の骨格や身に着けた着物から見て、おそらく女。地上にいる時は気付かなかったが、どうやらこの建物は特殊な娼館らしかった。この座敷牢は、金で買ったか誘拐してきた女を逃さないための施設といったところだろう。
反吐が出るな、そう心の中でつぶやく。
息苦しいのは疫病のせいだけではない。地下道にはすえた臭いが充満しており、黴の臭いと合わさり鼻がもげそうなほどだ。こんな中であのおぞましい手の目に犯され、骨の髄までしゃぶられるなんて、潔癖症のアリスでなくても真っ平御免である。
奥の一画に鍵の掛かっていない牢を見つけた。複数人が同時に押し込められていたのか、結構な広さがあり、板間の先に畳が見えた。熱が上がって来て、流石の魔理沙も息が上がってしまっている。畳の上で少し休もうと、牢の格子に手を掛けた。
しゃらりん
その時、遠くで錫杖の音が響いた。驚いた拍子に、魔法薬の瓶を落として割ってしまい、大きな音が響いた。薬瓶の中身も板の上にぶちまけられてしまう。
手の目が、近づいてきている。今の音で現在位置も知られただろう。
魔理沙は薬液を踏まないように慎重に牢の中に入ると、千夏を降ろして、畳に座り込んだ。畳はところどころ腐って黴が生えていたが、それでも土の上よりはマシだった。
闇に包まれた地下道の景色をぼうっと見つめていると、アリスと共に魔法の森の地下を探索した時の事を嫌でも思い出した。あの時は魔法が使えなくて大変だったが、今度は疫病である。やはり地下という奴は性に合わないと魔理沙は思った。
気が付くと、千夏が座敷牢の壁に絵を描いていた。震える腕で、大汗をかきながら。
「こんな時にも絵か。おい、無理するなよ」
話しかけても反応せず、相変わらず千夏は黙々と絵筆を動かしていた。
何を描いているのかと視線を向けてみると、その絵には見覚えがあった。阿求が見せてきた、怯える手の目を描いたあの絵だった。相変わらず謎の毛むくじゃらの物体も描かれている。
しゃらりん
魔理沙は、千夏の筆を掴んだ。
驚いて目を丸くする千夏に向かって、魔理沙は言った。
「なあ。簡単でいい。私の絵を描いてみてくれよ」
「でも……」
「どうせこのままじゃ死ぬんだ。どんな絵を描いたって怒らない」
千夏は少し迷ったようだが、再び錫杖の音が響くと、頷き絵筆を取った。
絵は直ぐに出来上がった。土壁に描かれた絵は、泥まみれになってべそをかく、情けない魔理沙の姿だった。
「なるほどな……」
稗田阿求が何を思って千夏を同行させたのか、ようやく魔理沙にも分かった。
その時、唐突に、行灯の火が消えた。
しゃらりん
一際大きくその音が響く。座敷牢の外では、蝋燭の灯りが揺らめくのが見える。
千夏は息を飲み、パレットナイフを握って震えていた。
ひたりひたりと足音が近づいてくる。気味の悪い息遣いが響く度に、魔理沙の背筋を悪寒が駆け巡った。
そして、ビタリと音を立てて、牢の格子の隅に何かが張り付いた。
それは、腕。
手の平におぞましい目玉のついた、醜い腕。
その目玉がぎょろりと回ると、
「見つけたぞ」
その声とともに、錫杖を持った手の目が姿を現した。その肩には、毛むくじゃらの毛羽毛現の姿も見える。
「さあ小娘。股を開いて命乞いをせい。もはや魔法を使う力も残っておるまい。貴様に助かる道は無いぞ」
「それはどうかな」
魔理沙は、にやりと笑った。
「お前、魔法使いが最初に習う魔法を知っているか?」
「何?」
「それはな、火を起こす魔法だ」
右手の人差指の先で、小さな火を起こしてみせる。
「火は人間に文明という光をもたらした最初の魔法。だから魔法使いは必ず火を起こす魔法から覚える。基礎の基礎だな」
「そんな小さな火で何が出来る」
目のない顔を歪ませて、手の目が嘲笑った。牢を押し開けて、座敷牢の中に踏み込んだその顔が、今度は違和感に歪む。足元の液体の感触に。
「ああ、確かに限られているな。こんな小さな火種じゃ、まあせいぜい……」魔理沙は指で鉄砲の形をつくった。「罠の起爆に使うくらいしか出来ないな」
魔理沙の放った炎弾は、手の目の足元に満たされた可燃性の魔法薬液にぶつかると爆発、炎上した。
「ぐわあああ!」
燃え上がった炎は一瞬で手の目の全身を包んだ。それは手の目の肩に乗った毛羽毛現も例外ではなかった。炎の燃え移った全身を振り乱し、毛むくじゃらの妖怪はキイキイと哀れな悲鳴を上げた。
妖怪達の焼ける炎に照らされて、魔理沙は高笑いした。
「この霧雨魔理沙様がお前ごとき木っ端妖怪にやられるなんて、一瞬でも本気で考えたのか? お前を殺す方法なんていくらでもあるぜ」
「こ、小娘が、こんな地下で火を使うなどと! 貴様も死ぬ気か!」
「何のために私がこんな土牢の奥まで逃げてきたと思っている。答えはたった一つ。お前達を絶対に逃さないためだ。この地下には消化のための水はないぞ!」
特に魔理沙が警戒したのが、毛羽毛現だった。逃して里にでも逃げ込まれれば、疫病で多数の犠牲者が出る。しかもこいつは有象無象程度の知恵しか無いくせに、別の妖怪と連携している。誰かが、何かが入れ知恵したのだ。それはこの間抜けな手の目などではない。もっと大きな力を持った何かだ。絶対にここで逃がすわけには行かなかった。
「ぐ、うおおお!」
錫杖を放り出し、けたたましい悲鳴を上げながら、手の目は地下牢を疾走した。水を求めて地上を目指したのだろう。心中覚悟で牢の入り口に陣取られては不味かったので、実は冷や汗を掻いていた魔理沙は、ほっと胸をなでおろした。
気づけば頭痛が消え、思考を上滑りさせていた熱も消えている。毛羽毛現が弱り、力の行使が出来なくなったのだ。
「行けるか? 千夏」
千夏も症状が消えたのだろう、こくりと頷いた。
手の目を追って地下道を逆走する。座敷牢のあちこちは火が放たれていた。手の目が魔理沙を足止めするために放ったのだろう。魔力を取り戻した魔理沙にとって障害にはならない。だが、空気の失くなるのだけは不味い。行く手を阻む炎の壁を衝撃魔法で薙ぎ倒して鎮火しながら、魔理沙は千夏の手を取り駆け抜けた。
「あ……イーゼル……」
炎の壁を突破し、落とし穴の下まで戻ってくると、千夏は落ちていたイーゼルとキャンバスを背負い直した。正直、急いでいるし重くなるので置いていって欲しかったのだが、
「……まあ、誰にでも命より大切なものはあるよな」
そう思い直して、目を瞑ることにした。
千夏を待ってから、魔理沙は魔法箒を垂直に立てた。弾幕を放ちながら急上昇する、エスケープベロシティ。天井を砕いて、魔理沙達は長持のあった板間に躍り出た。
手の目の姿は見えないが、屋敷には既に火が放たれており、黒い煙が充満していた。あの妖怪が賢明であれば、外に逃げ出しているはずだが。
魔理沙と千夏は手を繋いで、板間を抜け腐った襖のある畳の間へ入った。
途端、襖の一つが吹き飛び、炎に包まれた手の目が現れた。
手の目は両手を大きく広げると、炎をまとったまま、魔理沙に抱きついて来た。魔理沙は千夏を縁側へ突き飛ばすと、自分も身を躱したが、寸前、左腕を掴まれてしまった。箒を叩きつけて手の目を引き剥がしたが、炎は既に魔理沙の体にも移ってしまっていた。猛る炎が、魔理沙の服と腕を焼く。
「ぐわはは、小娘、お返しだ。貴様も焼け死ね!」
しかし魔理沙は落ち着き払って言った。
「妖怪手の目、ねえ。だけどまだまだ経験が浅いと見えるな」
「なんだと?」
「地下で私の思惑を見抜けなかった時点で、お前は引くべきだったんだよ、ジジイ」
魔理沙は縁側の障子を突き破って、屋敷の外に降り立った。
天から降り注ぐ冷たい雨が、魔理沙の炎を癒やしてくれた。
空には黒い雲がかかり、春雨が降りしきっている。まさしく、千夏の描いた屋敷の絵の通りだった。
「馬鹿な……。な、何故雨が……そんな都合よく……」
狼狽える手の目を尻目に、千夏はイーゼルを組み立て、絵を描き始めた。この状況でこの娘、いい度胸している。魔理沙は初めて千夏の事が好きになれそうだと思った。
「さあジジイ。股を開いて命乞いしろ。お前が助かる道は、もう無い」
魔理沙は帽子の下からミニ八卦炉を取り出して、手の目へと向けた。
手の目はひどく怯え、唇を歪ませて歯をむき出しにし、何事か喚いていた。その周囲には黒い煙がまるで汚いものを覆い隠すかのように掛かっており、その足元には火のついた毛むくじゃらの物体……おぞましき毛羽毛現が恐怖に身を捩らせている。
千夏の描いた絵は、この光景を克明に捉えていた。
千夏は未来を描いていたのだ。
「や、やめろ、やめてくれ、助け……」
手の目の命乞いは、迸るマスタースパークの光の前に掻き消えた。
「言ったろ。ウチの家訓は、敵の嫌がる事をやれ、なんだぜ」
稗田阿求は眉をひそめた。
「これがその、件の手の目と?」
「そうだ」
千夏の描いた妖怪の最期の姿。それは、春の花に囲まれて穏やかな顔で庭先に佇む、手の目の姿だった。これではパっと見、ただの好々爺にしか見えない。実際は残忍で趣味の悪いクソジジイだったが。
阿求はしばらく厳しい顔をして黙っていたが、
「これでは縁起の挿絵に使えないわね。この絵からは妖怪の恐怖が感じられないわ」
やがて溜息を吐いて、絵に布を掛けた。千夏はただ、阿求の前にひれ伏していた。
「他に妖怪は居なかったの?」
「いや。手の目だけだった」
魔理沙がそう言うと、阿求は微笑んだ。
「そう」
毛羽毛現が近隣の村に疫病を撒いた事。毛羽毛現と手の目が結託して人間を襲った事。毛羽毛現の死によってその疫病が消え去った事。それらは、魔理沙と千夏の頭の片隅に留めて置いた。ついでに魔理沙が帰り道で派手にすっ転び、泥だらけになって泣きべそをかいたことも。
「ご苦労だったわね。報酬は後日、支払わせていただきます」
「ああ。じゃ、私はこれで」
出された茶に手も付けず、魔理沙は席を立った。
「これは独り言なのだけれど」
魔理沙の背に、阿求の言葉が春風のように吹き付けた。
「この幻想郷には、里を守るための様々な力があるわ。霊夢の博麗の力を筆頭に、自警団の力、白鐸の上白沢先生の力。私の、稗田の力とてその一つに過ぎないわ。この力を束ねて、私達は里を守って行かなければならない。魔理沙。貴女の力だってその一翼を担うに足る。今回の件で、私はそう思ったわ」
春風が、魔理沙の背を押す追い風になった事。阿求は気付かなかった。
「……反吐が出るな」
後日発行された幻想郷縁起改訂版には、手の目に加え、毛羽毛現の項目が追加された。挿絵には千夏の最初の絵が用いられていた。怯え引きつった妖怪の姿は、人々の恐怖を掻き立てるのに十分だったに違いない。
あの稗田が未来視の力を得てどうするつもりなのか。魔理沙は別段興味を惹かれなかった。ただ、あの地下牢に千夏の描いてくれた似顔絵を残してきた事を、少しだけ後悔した。
「目撃者の情報を基に描かせた絵がこれになるわ」
その絵というのは、座頭を描いたものであった。しかしただの絵ではなかった。如何とも言い難い、鬼気迫るような臨場感に溢れていた。
描かれた座頭はひどく怯えているようで、唇を歪ませて歯をむき出しにし、何事か喚いているように見えた。その周囲には黒い靄のようなものが掛かっており、そしてその足元には火の点いたなんだかよく分からない毛むくじゃらの物体がまとわりついている。
「これは被害者を描いたのか? いや……」
霧雨魔理沙は身を乗り出し、じっくりと絵を覗き込んでみた。
「これは『手の目』か」
座頭の手の平には、人間の目玉が付いていた。
魔理沙の言に、阿求は頷いてみせた。
「おそらくそうね。被害者の状況にも一致しているわ」
「骨でも抜かれたか」
「被害者を見た人間はこう評していたわ。最初は人間だと分からなかった、肌色の絨毯か何かかと思った、とね。骨どころか、中身も全て消え去っていたわ。人間を皮だけになるまで吸ったようね」
「うへぇ……」
人間を皮だけにするなど、確かに妖怪の仕業に相違なかった。
だが、この手の目、そう強力な妖怪というわけでもないはずだ。今までに大きな被害を出したとは聞かない。
「被害者の数は?」
「既に五人の人間が殺されているわ」
「五人……」
野良妖怪の一個体にしては、多い。
「この数。里外の出来事とはいえ、看過できない」
「ふざけろ、里にしか興味のない稗田のくせに。どうせ里人に被害が出たんだろうが」
「まあ、否定はしないでおくわ」
阿求はあいまいに言った。食えない女だ、魔理沙はそう思った。見た目は年端のいかぬ少女で、普段の言動も少女そのもののはずなのに、時々妙に大人っぽいことを言う。阿求にはそういう、子供なのか大人なのか分からないところがあった。
「何故、こんな話を私にするんだ」
「決まっています。貴女にこの妖怪の退治を依頼したいの」
「妖怪退治は博麗の巫女に頼むのが筋じゃなかったのか?」
「この案件に限っては、貴女が適任だと判断したのです」
なるほど、と魔理沙は思った。阿求は霊夢を動かしたくないのだ、里外のことで。博麗の巫女は里の守護者、里外の人間のためにその力を振るわせるなんて勿体無い、こんなつまらない事件で万が一にも巫女が死んだりしたら、里の守護がおろそかになってしまう……なんて考えているに違いない。流石、里至上主義の稗田である。どんな汚い手口を使っても里だけは守り抜く、稗田阿求はそういう女だった。
反吐が出るな。そう心の中でつぶやく。
だが同時に、里を守るその熱意に尊敬の念も湧き上がった。守るべきものの為にその手を汚せるのは、すごい事だとも思う。
「ふーん。まあ、なんでもいいや。どうせ暇だし、やってやるぜ」
だから魔理沙は、阿求の思惑に気付かない振りをして、話を受けることにした。
「ありがとう。そこで一つお願いがあるのだけれど」
「あん? お願いだぁ?」
「その妖怪退治に、この娘を同行させてほしいの」
傍らに立つ少女を指して言う。
魔理沙が見つめると、その少女は無表情のまま、ペコリとお辞儀をした。つるりとした額がキラリと光る。可愛げのない少女だ、霖之助のものと似た角縁眼鏡なんかして。白のブラウスに紺のプリーツスカートなんて、里人にしてはハイカラな洋装をしているところも気に食わなかった。おまけに背に何か大きな木材を背負っている。これはいわゆる西洋の画架、イーゼルか。自分の体よりも大きなイーゼルとキャンバスを背負って涼しい顔をしているなんて、本当に愛想の欠片も無かった。
「誰だ? こいつ。見たこと無いな」
「私の絵師です。名前は千夏と言うの」
「絵師……って、幻想郷縁起の?」
「ええ」
幻想郷縁起。
幻想郷に住む妖怪を記した、稗田阿求の著作である。妖怪の概要とその対処法などが記載されている、里の人間には必読とされている書物。特徴的なのは、紹介された妖怪の似顔絵も同時に掲載されているというところだ。妖怪の中には人間に化けて近づく輩も多いが、縁起に似顔絵が掲載されていることにより、見破ることが容易くなっている。ひいてはそれが里の人間を守ることにもつながっているのだ。
「あの絵、お前が描いてたんじゃないのか」
「まさか。私は物書きですから」
「じゃあ、さっきの絵もこいつが」
「そうよ」
「信じられん……」
「まだほんの子供だけれども、実力はさっき見せた絵の通り、折り紙付きよ」
「子供て、お前とそう変わらんだろうが」
「この千夏に妖怪退治の現場を見学させてあげてほしいの」
「……つまり。新しい記事を書くために、妖怪さんのインタビューとスケッチをしてこいってことか」
「うふふ。どうでしょうね」
阿求はまた曖昧に笑った。
なるほど。再び魔理沙は思った。霊夢に依頼しなかった理由はこれもあるのか。あの霊夢ならこんな厄介事、二つ返事で断るに決まっている。第一、こんな子供を妖怪退治の現場に連れて行くなんて危険が過ぎるだろう。
だが。
「いいだろう。乗った」
魔理沙なら、こんな面白そうなことを断る道理は無い。そこのところ、稗田阿求はよく弁えているようだった。
『手の目』。手目坊主とも言う。座頭姿で両目が顔ではなく両手の手のひらに一つずつついている妖怪だと言う。人間を襲い、その骨を抜き取ってしゃぶり尽くすらしい。盲人が殺され強い怨みが残ると、手の目になるとも言われる。
手の目が現れたのは、里外のとある集落近くに存在する廃屋敷だった。通りかかった人間を屋敷に引き込み殺しているようだ。件の屋敷を遠目に見やると、なるほど荒れ果てていた。塀は破壊され基礎しか残っておらず、壁や屋根もところどころ剥がれていて、とても雨風を防げそうにない。おまけに周囲は鬱蒼とした森。いかにも妖怪が好みそうな場所だった。まっとうな人間なら絶対に近づかないような。
被害者達は何故こんな場所にやってきたのだ?
脳裏をかすめる疑問が、魔理沙を用心深くさせた。阿求は何かを隠しているのかもしれない。あるいは阿求すら知らない何かが、この場所に秘められている可能性もある。
「疫病……だって?」
近隣の集落で行った聞き込みを反芻する。
「ああ、あんたもすぐに離れたほうがいい。もう何人も熱を出して倒れている。おまけに近くには恐ろしい妖怪もうろついてるんだ。博麗の巫女様にお頼みしたいが、巫女様に疫病が感染ってはいかん。どうしたものか……」
阿求が里外の妖怪退治を依頼してきたのはそういうわけだったのだ。疫病の発生した集落の人間が、妖怪恐ろしさに里へ避難してくることを防ぐ為に、阿求は妖怪バスターを派遣した。魔理沙は完全に鉄砲玉扱いではあるが、阿求の立場上、仕方の無いことではある。これは誰かがやらなければならないことだ。仮に疫病を恐れて妖怪退治を行わなかったとすると、阿求の取れる手立てはこの集落を焼き払う以外に無くなるのだから。考えれば考えるほど、魔理沙にお鉢が回ってきたことに納得してしまった。まあ、噂の死体探偵のほうが魔理沙よりも適任だったような気もするが、稗田阿求はおそらく死体探偵に頼りたくないのだろう。死体探偵の正体は、妖怪なのだから。
千夏は背負っていた木製のイーゼルを下ろすと、キャンバスを張り、外来の鉛筆でスケッチを始めた。その筆運びは繊細にして素早い。みるみる廃屋の遠景が出来上がった。
「うまいもんだな」
千夏に声を掛けても、反応すらしなかった。やりにくさを覚えて、魔理沙は溜息を吐く。
「あれ? なんだ、この線」
キャンバスに描かれた廃屋の周りに、か細い線がいくつも描かれていた。
「雨……か?」
空を見上げても、雨のあの字も見えやしない。
「一体なんで雨なんか描いたんだ」
問いかけてもやはり反応が無い。千夏は黙々と筆を動かし、キャンバスに色を乗せている。
「そうだ」
ならばと魔理沙は体を乗り出し、千夏の顔を覗き込んだ。息が掛かりそうな距離に、さすがの無愛想娘もうろたえて頬を赤く染めた。
「私の似顔絵も描いてくれよ」
魔理沙が頼むと、千夏は俯き、困ったような顔をした。
「なあ、頼むよ」
それでもしつこく魔理沙が言うと、千夏は小さく首を振り、蚊の鳴くような声でぼそぼそと言った。
「……描きたくない」
喋れるのか、この娘。千夏があ者である事を疑っていた魔理沙は内心少し驚いて、しかしあえて不機嫌そうに言った。
「なんだよ、私は描けないってのか」
「そ、そうじゃなくて……私、人は描きたくないの……」
「描きたくない?」
「あの、その……」飲み込むように、喘ぐように言葉を発する。「描いても、喜ばれないから……」
喜ばれないとは一体なんだ。魔理沙は首を捻った。
人間の絵が下手なわけではないだろう。事実、妖怪とはいえ座頭姿を見事に描いて見せている千夏である。多少リアリズムが強すぎる面もあるが。
リアリズム。自分の頭に浮かんだ言葉に違和感を感じ、魔理沙は再び手の目の絵を取り出した。
この手の目。怯えている。そして、炎に包まれているように見える。
稗田阿求は言った。目撃者の情報を基にこの絵を描かせた、と。
ならば何故、描かれた手の目は怯えているのか。手の目は人間を襲う側のはずだ。目撃者が証言したのか? 手の目が怯えていたと。そんなことはありえないはずだ。道理がつながらない。
この絵は、人間には描けないはずの絵なのだ。
だが実際に絵は魔理沙の眼前に存在し、強烈なリアリティでもって魔理沙の本能へ訴えかけて来ている、妖怪の存在を、その脅威を。
現実にはあり得ないリアルとは、一体。この絵は存在からして矛盾しているのではないか。
「おい。どうやってこの絵を描いた」
再び魔理沙が問いかけると、千夏は俯いて黙ってしまった。どうやら怯えてしまったようだ。覚えず、声にドスが効いてしまっていた。
「……ごめんな。いっぺんに聞きすぎた」
魔理沙は溜息を吐くと千夏の頭をぽんと叩いた。
たくさんの謎は残るが、魔理沙のやるべきことは単純だった。手の目を退治すればいいのだ。
残念ながら手の目の退治法は伝わっていないが、逆を言えば特別な退治法は要らないと言うことでもある。力づくで消滅させてしまえばよい。そちらのほうが単純で、魔理沙の性に合っている。魔理沙の手持ちの武器は愛用の魔法箒と各種魔法薬を少々、それに奥の手のミニ八卦炉。並の妖怪が相手ならば十分すぎるほどの装備だ。
今はまだ日も高い。手の目は元々盲人、暗闇に強いことが予測される。ならば日の高い内に行動するほうが得策だった。
「私はこれからあの屋敷に突入する。お前はここで待っていろ」
魔理沙が千夏に告げると、千夏は首を振り、魔理沙の袖を掴んだ。
「お役目だから……」
ぼそぼそとか細い声で言う。
魔理沙は困って、頭を掻いた。
「スケッチなら、倒した後ですりゃいいだろ」
「稗田様に見てこいと言われたの……」
「しかし、危険だぞ」
千夏は俯いたまま、梃子でも動きそうにない。見た目に反して力も強く、掴まれた袖を振り払えそうになかった。
魔理沙は溜息を吐いた。
「自分の身は自分で守れ。お前に出来るか」
そう言うと、千夏は黙ってポケットからパレットナイフを取り出した。
「……仕方ない。付いてこい」
そう言うとようやく千夏は魔理沙の袖から手を離してくれた。
魔理沙は慎重に足を運び、廃屋の入り口に近づいた。遠景では分からなかったが、死臭がする。魔理沙は確信した、妖怪が屋敷内にいる、と。ここは妖怪の狩場なのだ。念の為に、いつでも使えるよう魔法薬を腰のベルトにセットする。魔理沙の警戒尾ぶりに当てられて千夏も恐怖を感じたのか、両手で握りしめたパレットナイフが大きく震えていた。
死臭は一歩踏み出す度に強くなった。それを隠そうともしないのは妖の知能が低いからではあるまい。誘っているのだ。しかし何故? 魔理沙の本能が警鐘を鳴らしている。なんとなく、このまま正面から行っては不味い気がした。魔理沙は正面玄関を避け、裏へ回り勝手口を探した。あの臆病者のアリスみたいな慎重さだと自嘲しながら。
勝手口はあるにはあったが、その扉は破壊されていた。どうやら、道具を使って外側から無理やりこじ開けたらしい。それも最近。やはり何か嫌な予感がした魔理沙は、ここも避けて屋敷を一周し、結局縁側から侵入することにした。
破れた障子の隙間から身をよじ入れ、板の間を踏みしめる。ぎこちない動作で千夏もそれに続いた。背負った画架が引っかかって千夏が悲鳴を上げたので、仕方なく手を貸してやる。イーゼルを降ろせと小声で言ったが、千夏は聞かなかった。よほど大事なものなのか、よほど頑固なのか。しかし今は言い聞かせている暇は無かった。
中は薄暗く、湿った黴の臭いと一層強くなった死臭が鼻を突く。足を出す度、腐った板が魔理沙の体重に悲鳴を上げた。これでは魔理沙の位置を教えているようなものだ。魔法箒を使って飛び上がることも考えたが、狭すぎる。千夏を乗せて二人分の飛翔を行えば、余波でこの脆い家屋が倒壊してしまうかもしれない。壁を破壊して光と空気を確保したかったが、同じ理由で断念した。
板張りの縁側を抜け、腐った襖で区切られた奥へと歩を進める。どうやらここから先は畳張りの小さな部屋が続いているようだ。ようやく音の自己主張が消えてくれた。だが、靴のまま畳を踏む感触は慣れない。強くなった湿気が魔理沙の額を濡らした。
ふと、踏み出した足が違和感を覚える。ぐにゃりとした感触に、流石の魔理沙も体中の毛が逆立った。アリスなら悲鳴を上げて卒倒しているところだろう。足元を覗くと、案の定、ぺらぺらの皮だけになった人間の死体が転がっていた。肌色の絨毯は言い得て妙だ、踏み心地は最悪だがな。まだ魔理沙には軽口を叩く余裕があった。
後ろ手で千夏に止まれと合図すると、魔理沙は被害者を足で隅へ除けた。被害者を足蹴にするなどバチが当たりそうだが、きっちり仇は取ってやるつもりなのできっと五分だろう。
ようやく薄暗さに目が慣れてきた頃、またもや襖に突き当たった。立て付けの悪さに閉口しながら力づくで襖を開けると、さらなる闇が魔理沙を迎えた。もはや外の光も届かぬ闇。仕方無く、魔理沙が魔法で光を出そうとしたその時、急に部屋の中が微かな明かりに照らされた。部屋の奥の行灯がひとりでに灯ったのだ。
やはり、誘っているのか。
いや、と魔理沙は思う。
どうやらこれは、逆だったようだ。
魔理沙は思い切って部屋内に飛び込むと、行灯を引っ掴み、一気に突き進んで反対側の襖を蹴り破った。
板の間の奥に、座頭が一人、片手で長持の蓋を掴んで棒立ちしていた。もう片方の手は魔理沙に向けられている。その手の平には、ギョロリと光る目玉が付いていた。
間違い無い。妖怪、手の目だ。
魔理沙が一気に突入したので、長持の中へと隠れ損ねたのだろう、間抜けな奴だ。
手の目が身を翻そうとした瞬間、小さな星弾の早撃ちで右肩を撃ち抜くと、手の目はおぞましい叫び声を上げた。
「うおお……! まさか、無鉄砲に突っ込んで来よるとは……」
妖に成り下がったとはいえ元は人間、この手の目は人語を介するようだ。だが、弾幕戦を嗜むような優雅さは無い。尤も、あったとしても初撃を避けられなかった時点でリタイアだが。
「商売敵の嫌がる事をやれ、ってのが霧雨家の家訓なんでな」
人皮を配置したり、行灯を灯したり、手の目は露骨な時間稼ぎを行っていた。ならば一気に突き抜ける方が、相手にとって都合が悪いだろう事は明白である。
「小娘がぁ!」
手の目は悪あがきとばかりに弾幕を飛ばして来たが、隣の部屋の行灯を付けるのに手間取っていたような輩である。遠隔で行使できる力は弱いようだ。弾幕は魔力を込めた箒の一振りで闇の中にかき消えてしまった。
「き、貴様……退魔師か」
魔理沙との力量差を悟った手の目がうろたえるのが見える。行灯に照らされたその表情、浮かぶ怯え。千夏の絵の情景に似ていた。いや、似すぎていた。目撃者から話を聞いただけで、これほど人相を似せて描ききれるものなのか?
「いいや。普通の魔法使いさ」
一対一なら、この程度の妖怪に遅れを取る魔理沙ではない。止めを刺すべく魔法箒を構える。
手の目は息荒く長持にもたれかかりながら、しかし目のない顔を歪ませて笑った。
「魔法使い、か。だがまだ経験が浅いと見える。儂の思惑を見抜いた時点で引くべきだったな、小娘」
「なんだと?」
「そうれ、効いてきおったぞ」
背後で何かが崩れる音がした。
「……千夏?」
千夏が倒れている。背負ったイーゼルに押し潰されるようにして。
「どうした……う!」
行灯を捨てて駆け寄ろうとしたその時、魔理沙の足は空を切った。床が抜けたのだ。絡繰の駆動音がガラガラと大きな音を立てている、何かの罠か。落ちながら咄嗟に箒へ飛翔術を掛けた魔理沙だったが、千夏と二人分の体重を支えきることはできず、落下の衝撃を和らげただけだった。
たっぷり五間は落ちただろう。魔理沙達はむき出しの土の上に体を横たえていた。落下の衝撃で行灯の火は消え、真の闇が魔理沙と千夏を包んでいる。
見上げれば、小さな灯りの中に、ぎょろりと目玉が光った。
「油断したのう。こんな単純な落とし穴に引っかかるとは。知恵を司る魔法使い様が聞いてあきれるわい」
「このクソジジイ……!」
魔理沙は星弾を放つが、手の目はひょいと避けてしまった。流石に射程距離外だった。もっと出力を上げて弾速を増さなければ。そう思い指先に魔力を集中するが、途端に頭痛が魔理沙を襲った。魔力が掻き乱される。
「く……なんだ、これは」
「こやつの力じゃ」
手の目の腕先に、何か毛むくじゃらの物体が纏わり付き蠢いている。それには小さな目があり、行灯の光を受けて妖しくきらめいていた。妖怪だ。
「あれは……まさか、毛羽毛現……?」
毛羽毛現は取り付いた家屋に疫病を蔓延させる妖怪だ。近隣の集落に発生した疫病は、あいつが振りまいていたのか。
ようやく魔理沙にも合点が行った。何故被害者達が手の目の潜むこんな妖怪屋敷にやって来たのか。彼らは毛羽毛現を追ってこの場所にやって来たのだ。
「くくく……馬鹿で臆病な人間共が。こやつを退治しようと勇んでやって来おったというのに、儂の仕掛けに心惑わされおって。時間を掛ければ掛けるだけ、貴様らは弱っていくというわけじゃ」
毛羽毛現は人間をこの場所におびき寄せ、手の目が時間を稼ぐ。時間が経てば毛羽毛現の病で人間は弱っていく。そこまで強力ではない手の目が、多くの被害を出した理由はこれか。
魔理沙は戦慄した。
つまりはあの手の目、他の妖怪と組んでいたということになる。力の強い天狗や河童などはともかく、有象無象や野良妖怪までもが徒党を組んで人間を襲うなど、異変の領域に片足を突っ込んでいる。
「そうら、狩りの時間じゃ。たっぷり時間を掛けて楽しませてもらおう」
手の目が引っ込むと、再び絡繰の駆動音がして、穴が閉じた。そうして、魔理沙達は真闇の中に閉じ込められてしまった。
「久方ぶりの若いおなごじゃて、いたぶり犯して喰ろうてやろうぞ」
手の目の薄気味の悪い笑い声が、穴の中に木霊した。
とにかく、魔理沙は一緒に落ちた行灯に八卦炉で火を付け、明かりを確保した。暗闇での戦闘は魔理沙に不利となる。こうなった以上、明かりが生命線だ。
「大丈夫か、千夏」
千夏に駆け寄り状態を見てみる。疫病は熱病に近いようだった。玉のような汗をかき、高熱が出ている。さらに千夏は全身に筋肉痛と倦怠感を訴えていた。しかし、直ぐに命を落とすというようなことはなさそうだ。毛羽毛現が振りまいている疫病となると、おそらく実態は呪いに近いのだろう。
毛羽毛現、またの名を希有希現。その名の通り毛むくじゃらで、その名の通り滅多に現れない妖怪らしい。床下のように湿った場所に棲み、とりついた家に疫病をばらまいて病人を出すと言う。見たところ知能は低そうだったが、手の目と連携して人間狩りを行うとは……あの個体が特別なのか、それとも何かが力を与えたのか。
魔理沙が頭痛の走る頭で考えを巡らせていたその時、
しゃらりん
という錫杖の音が響いた。
どこかから、手の目が降りてきたのだ。錫杖の音は魔理沙たちに恐怖を与えるための演出か。
手の目は狩りだと言った。ならばと行灯を掲げて辺りを照らせば、果たして、地下室の奥へと通じる道が続いていた。魔理沙はふらつく体で千夏を背負うと、躊躇わず奥へと進んだ。
地下はさながら迷路だった。入りくんだ通路に沿って座敷牢がいくつもあり、その中には人間が生活していた形跡があった。白骨化した遺体が放置されている牢もある。遺体の骨格や身に着けた着物から見て、おそらく女。地上にいる時は気付かなかったが、どうやらこの建物は特殊な娼館らしかった。この座敷牢は、金で買ったか誘拐してきた女を逃さないための施設といったところだろう。
反吐が出るな、そう心の中でつぶやく。
息苦しいのは疫病のせいだけではない。地下道にはすえた臭いが充満しており、黴の臭いと合わさり鼻がもげそうなほどだ。こんな中であのおぞましい手の目に犯され、骨の髄までしゃぶられるなんて、潔癖症のアリスでなくても真っ平御免である。
奥の一画に鍵の掛かっていない牢を見つけた。複数人が同時に押し込められていたのか、結構な広さがあり、板間の先に畳が見えた。熱が上がって来て、流石の魔理沙も息が上がってしまっている。畳の上で少し休もうと、牢の格子に手を掛けた。
しゃらりん
その時、遠くで錫杖の音が響いた。驚いた拍子に、魔法薬の瓶を落として割ってしまい、大きな音が響いた。薬瓶の中身も板の上にぶちまけられてしまう。
手の目が、近づいてきている。今の音で現在位置も知られただろう。
魔理沙は薬液を踏まないように慎重に牢の中に入ると、千夏を降ろして、畳に座り込んだ。畳はところどころ腐って黴が生えていたが、それでも土の上よりはマシだった。
闇に包まれた地下道の景色をぼうっと見つめていると、アリスと共に魔法の森の地下を探索した時の事を嫌でも思い出した。あの時は魔法が使えなくて大変だったが、今度は疫病である。やはり地下という奴は性に合わないと魔理沙は思った。
気が付くと、千夏が座敷牢の壁に絵を描いていた。震える腕で、大汗をかきながら。
「こんな時にも絵か。おい、無理するなよ」
話しかけても反応せず、相変わらず千夏は黙々と絵筆を動かしていた。
何を描いているのかと視線を向けてみると、その絵には見覚えがあった。阿求が見せてきた、怯える手の目を描いたあの絵だった。相変わらず謎の毛むくじゃらの物体も描かれている。
しゃらりん
魔理沙は、千夏の筆を掴んだ。
驚いて目を丸くする千夏に向かって、魔理沙は言った。
「なあ。簡単でいい。私の絵を描いてみてくれよ」
「でも……」
「どうせこのままじゃ死ぬんだ。どんな絵を描いたって怒らない」
千夏は少し迷ったようだが、再び錫杖の音が響くと、頷き絵筆を取った。
絵は直ぐに出来上がった。土壁に描かれた絵は、泥まみれになってべそをかく、情けない魔理沙の姿だった。
「なるほどな……」
稗田阿求が何を思って千夏を同行させたのか、ようやく魔理沙にも分かった。
その時、唐突に、行灯の火が消えた。
しゃらりん
一際大きくその音が響く。座敷牢の外では、蝋燭の灯りが揺らめくのが見える。
千夏は息を飲み、パレットナイフを握って震えていた。
ひたりひたりと足音が近づいてくる。気味の悪い息遣いが響く度に、魔理沙の背筋を悪寒が駆け巡った。
そして、ビタリと音を立てて、牢の格子の隅に何かが張り付いた。
それは、腕。
手の平におぞましい目玉のついた、醜い腕。
その目玉がぎょろりと回ると、
「見つけたぞ」
その声とともに、錫杖を持った手の目が姿を現した。その肩には、毛むくじゃらの毛羽毛現の姿も見える。
「さあ小娘。股を開いて命乞いをせい。もはや魔法を使う力も残っておるまい。貴様に助かる道は無いぞ」
「それはどうかな」
魔理沙は、にやりと笑った。
「お前、魔法使いが最初に習う魔法を知っているか?」
「何?」
「それはな、火を起こす魔法だ」
右手の人差指の先で、小さな火を起こしてみせる。
「火は人間に文明という光をもたらした最初の魔法。だから魔法使いは必ず火を起こす魔法から覚える。基礎の基礎だな」
「そんな小さな火で何が出来る」
目のない顔を歪ませて、手の目が嘲笑った。牢を押し開けて、座敷牢の中に踏み込んだその顔が、今度は違和感に歪む。足元の液体の感触に。
「ああ、確かに限られているな。こんな小さな火種じゃ、まあせいぜい……」魔理沙は指で鉄砲の形をつくった。「罠の起爆に使うくらいしか出来ないな」
魔理沙の放った炎弾は、手の目の足元に満たされた可燃性の魔法薬液にぶつかると爆発、炎上した。
「ぐわあああ!」
燃え上がった炎は一瞬で手の目の全身を包んだ。それは手の目の肩に乗った毛羽毛現も例外ではなかった。炎の燃え移った全身を振り乱し、毛むくじゃらの妖怪はキイキイと哀れな悲鳴を上げた。
妖怪達の焼ける炎に照らされて、魔理沙は高笑いした。
「この霧雨魔理沙様がお前ごとき木っ端妖怪にやられるなんて、一瞬でも本気で考えたのか? お前を殺す方法なんていくらでもあるぜ」
「こ、小娘が、こんな地下で火を使うなどと! 貴様も死ぬ気か!」
「何のために私がこんな土牢の奥まで逃げてきたと思っている。答えはたった一つ。お前達を絶対に逃さないためだ。この地下には消化のための水はないぞ!」
特に魔理沙が警戒したのが、毛羽毛現だった。逃して里にでも逃げ込まれれば、疫病で多数の犠牲者が出る。しかもこいつは有象無象程度の知恵しか無いくせに、別の妖怪と連携している。誰かが、何かが入れ知恵したのだ。それはこの間抜けな手の目などではない。もっと大きな力を持った何かだ。絶対にここで逃がすわけには行かなかった。
「ぐ、うおおお!」
錫杖を放り出し、けたたましい悲鳴を上げながら、手の目は地下牢を疾走した。水を求めて地上を目指したのだろう。心中覚悟で牢の入り口に陣取られては不味かったので、実は冷や汗を掻いていた魔理沙は、ほっと胸をなでおろした。
気づけば頭痛が消え、思考を上滑りさせていた熱も消えている。毛羽毛現が弱り、力の行使が出来なくなったのだ。
「行けるか? 千夏」
千夏も症状が消えたのだろう、こくりと頷いた。
手の目を追って地下道を逆走する。座敷牢のあちこちは火が放たれていた。手の目が魔理沙を足止めするために放ったのだろう。魔力を取り戻した魔理沙にとって障害にはならない。だが、空気の失くなるのだけは不味い。行く手を阻む炎の壁を衝撃魔法で薙ぎ倒して鎮火しながら、魔理沙は千夏の手を取り駆け抜けた。
「あ……イーゼル……」
炎の壁を突破し、落とし穴の下まで戻ってくると、千夏は落ちていたイーゼルとキャンバスを背負い直した。正直、急いでいるし重くなるので置いていって欲しかったのだが、
「……まあ、誰にでも命より大切なものはあるよな」
そう思い直して、目を瞑ることにした。
千夏を待ってから、魔理沙は魔法箒を垂直に立てた。弾幕を放ちながら急上昇する、エスケープベロシティ。天井を砕いて、魔理沙達は長持のあった板間に躍り出た。
手の目の姿は見えないが、屋敷には既に火が放たれており、黒い煙が充満していた。あの妖怪が賢明であれば、外に逃げ出しているはずだが。
魔理沙と千夏は手を繋いで、板間を抜け腐った襖のある畳の間へ入った。
途端、襖の一つが吹き飛び、炎に包まれた手の目が現れた。
手の目は両手を大きく広げると、炎をまとったまま、魔理沙に抱きついて来た。魔理沙は千夏を縁側へ突き飛ばすと、自分も身を躱したが、寸前、左腕を掴まれてしまった。箒を叩きつけて手の目を引き剥がしたが、炎は既に魔理沙の体にも移ってしまっていた。猛る炎が、魔理沙の服と腕を焼く。
「ぐわはは、小娘、お返しだ。貴様も焼け死ね!」
しかし魔理沙は落ち着き払って言った。
「妖怪手の目、ねえ。だけどまだまだ経験が浅いと見えるな」
「なんだと?」
「地下で私の思惑を見抜けなかった時点で、お前は引くべきだったんだよ、ジジイ」
魔理沙は縁側の障子を突き破って、屋敷の外に降り立った。
天から降り注ぐ冷たい雨が、魔理沙の炎を癒やしてくれた。
空には黒い雲がかかり、春雨が降りしきっている。まさしく、千夏の描いた屋敷の絵の通りだった。
「馬鹿な……。な、何故雨が……そんな都合よく……」
狼狽える手の目を尻目に、千夏はイーゼルを組み立て、絵を描き始めた。この状況でこの娘、いい度胸している。魔理沙は初めて千夏の事が好きになれそうだと思った。
「さあジジイ。股を開いて命乞いしろ。お前が助かる道は、もう無い」
魔理沙は帽子の下からミニ八卦炉を取り出して、手の目へと向けた。
手の目はひどく怯え、唇を歪ませて歯をむき出しにし、何事か喚いていた。その周囲には黒い煙がまるで汚いものを覆い隠すかのように掛かっており、その足元には火のついた毛むくじゃらの物体……おぞましき毛羽毛現が恐怖に身を捩らせている。
千夏の描いた絵は、この光景を克明に捉えていた。
千夏は未来を描いていたのだ。
「や、やめろ、やめてくれ、助け……」
手の目の命乞いは、迸るマスタースパークの光の前に掻き消えた。
「言ったろ。ウチの家訓は、敵の嫌がる事をやれ、なんだぜ」
稗田阿求は眉をひそめた。
「これがその、件の手の目と?」
「そうだ」
千夏の描いた妖怪の最期の姿。それは、春の花に囲まれて穏やかな顔で庭先に佇む、手の目の姿だった。これではパっと見、ただの好々爺にしか見えない。実際は残忍で趣味の悪いクソジジイだったが。
阿求はしばらく厳しい顔をして黙っていたが、
「これでは縁起の挿絵に使えないわね。この絵からは妖怪の恐怖が感じられないわ」
やがて溜息を吐いて、絵に布を掛けた。千夏はただ、阿求の前にひれ伏していた。
「他に妖怪は居なかったの?」
「いや。手の目だけだった」
魔理沙がそう言うと、阿求は微笑んだ。
「そう」
毛羽毛現が近隣の村に疫病を撒いた事。毛羽毛現と手の目が結託して人間を襲った事。毛羽毛現の死によってその疫病が消え去った事。それらは、魔理沙と千夏の頭の片隅に留めて置いた。ついでに魔理沙が帰り道で派手にすっ転び、泥だらけになって泣きべそをかいたことも。
「ご苦労だったわね。報酬は後日、支払わせていただきます」
「ああ。じゃ、私はこれで」
出された茶に手も付けず、魔理沙は席を立った。
「これは独り言なのだけれど」
魔理沙の背に、阿求の言葉が春風のように吹き付けた。
「この幻想郷には、里を守るための様々な力があるわ。霊夢の博麗の力を筆頭に、自警団の力、白鐸の上白沢先生の力。私の、稗田の力とてその一つに過ぎないわ。この力を束ねて、私達は里を守って行かなければならない。魔理沙。貴女の力だってその一翼を担うに足る。今回の件で、私はそう思ったわ」
春風が、魔理沙の背を押す追い風になった事。阿求は気付かなかった。
「……反吐が出るな」
後日発行された幻想郷縁起改訂版には、手の目に加え、毛羽毛現の項目が追加された。挿絵には千夏の最初の絵が用いられていた。怯え引きつった妖怪の姿は、人々の恐怖を掻き立てるのに十分だったに違いない。
あの稗田が未来視の力を得てどうするつもりなのか。魔理沙は別段興味を惹かれなかった。ただ、あの地下牢に千夏の描いてくれた似顔絵を残してきた事を、少しだけ後悔した。
手汗握るような戦闘と、阿求の絵師というものに触れるということがとても良かったです。阿求の性格よろし……
熱い逆転劇と終わり方のギャップが好き
人妖含めみんな腹に一物持ってそうな性格も好きです。
阿求といい、魔理沙といい、手の目といいとてもいいキャラをしていました
バトルにも知性が感じられてとても素晴らしかったです
千夏の特性というか能力というか、それも見事に展開にハマっていました
これこそ死体探偵向きの事件じゃないかと思ったけどナズーリンはいまそれどころじゃなかった
里の実家を見限って魔法の森まで家出をした以上、人里への執着は無いですから、阿求はそういう配慮をすべきだったと思わざるを得ませんでした。
ハラハラとする『手の目』『毛有毛限』との戦闘、低級妖怪らしくどこか間の抜けたところなども面白かったです。
魔理沙滅茶苦茶カッコいい!