破 luv(sic)
魑魅魍魎の宴に紛れ、霊夢は静かに酒を飲んでいた。アルコールが五臓六腑に染み渡り、体温がわずかに上昇する。
妖怪たちの声は次第に熱を帯び、弁論大会が始まった。昔は素晴らしかった戦争である。
「あー、昔はねえ、よかったんだうん、血を血で洗ってだね。傷口に酒を掛け合ってさ」
「昔だとう、なんだいなんだい、今が旬だよ私らは」
「旬か、美味そうだから食ってやろうか。はははは!」
「うるせー! 静かに呑みやがれってんだ」
「あんたの方がうるさい、唾がもう、汚いなぁもう」
誰の声か、きっと喋っている本人さえわかっていない。中身のない、そもそもかみ合ってない酒の席の話は喧しいが、二日酔いとは違って後に響かないのがよい。馬鹿者のたわごとなど真に受ける者の方がどうかしているのだ。
しかし、その猥談にも似たくだらないたわごとに混じらず、無言で渦の中に留まっていると得も言われぬ孤独を感じてしまう。話しかけてくる者が今日は偶々居なかったため、霊夢はその孤独をつまみにしていた。理由はないが、なんとなくそれが粋でカッコいいと思ったのだ。
そのせいか、今宵の酒はよく回った。昔話を肴に酌み交わす妖怪どもの姦しさがやたらと霊夢の耳に刺さり、堪らず席を立った。厠に行ってゲエと吐くと、水っぽい酸味が逆流する感覚で異常に目が冴えた。
「ふう、あー頭痛い」
手洗い所の水で口をゆすいで戻ろうとすると、縁側に人影を見つけた。曇り空で月も星も見えないというのに、風情を噛み締めているかのようにぼんやりとそこに佇み、おちょこで日本酒を飲んでいたのは八雲紫だった。
「何してんの」
「空見」
珍しく無機質に答えた。飾り気のない合理的な返答は、もしかしたら彼女の素の状態なのではないかと霊夢は思った。
「ふうん」
霊夢は隣に座った。もしかしたら何か見えるかもしれないと思ったのだ。しかし、空は真っ暗で肝心の雲の形さえわからなかった。
空見の理由は尋ねなかった。聞いたところで、彼女ならいくらでも意味をこじつけることができるため、胡散臭さが醸し出すそれっぽい説得力を持ったようなふわっとした返答しか期待できない。
筋金入りの正邪のような天邪鬼ならまだマシである。紫は嘘か真か判断のつかない曖昧な物言いをするように心掛けているらしく、霊夢が何かしら行動の意味を尋ねれば、きりりと表情を切り替えて、口元に扇子を当てながら昔の哲学者や文豪の言葉を引用していかにも知的な言い回しで煙に巻くに決まっていた。頭がガンガンする霊夢はそんな問答を求めてはいなかった。
「ねえ」
「ん」
「曇っているわ」
「そうね」
彼女はどんよりとした曇り空を満点の星空と同じくらい美しいものだと感じているのかもしれないが、霊夢に妖怪の感性など理解できるはずもなく、ただ退屈な時間がゆっくりとせせらぎのように流れた。丸一日、箒で庭を掃除し続けられるほどのんきな性格ゆえ、この退屈が嫌いではなかった。
しかし、ぼんやりと痴呆のように空を眺め続けるのは考える葦である霊夢には難しく、つい余計な思考が巡る。内容は主に隣にいる紫の事だった。
霊夢は思考する。こいつは、八雲紫は私の事が好きなのだ。匂わせる程度だが、日頃のくだらないからかいや、煙に巻く言い回しでちょっかいをかけてくるからそのくらいは想像できる。
ではどう言った好意か、恋愛感情ではないし、友愛とも違う気がする。愛着という言い方が一番近いかもしれない。彼女にとって幻想郷の住民が盤上の駒なら私は飛車だ。縦横無尽で使い勝手がよく、下手すれば王将よりも大事にされる。うん、上手い例えだ。きっと私が飛車だから、単なる歩兵じゃないから好いてくれるのだろう。寂しくはない、私が巫女である以上は利用してくれる。賢い者たちは盤上で駒が舞う様子を見るのが好きなのだ。
そうだ、寂しくはない。
なぜ、そんな言い訳じみた考えが浮かんだのだろうか。そもそも、こいつが俯瞰の立場にいる棋士だとしたら、なぜ私の隣でちびちびと酒を飲んでいるんだ。からかうか、説教するか、もしくは手入れでもするのが自然ではないか。おそらく、式神の藍にはそうしているはずだ。
霊夢はちらと紫を見た。視線に気づくこともなく、暗い空を眺めては思い出したように酒を飲んでいた。
思考が巡る。私というより人間そのものが好きなのだ。その証拠にこいつは強いくせに嘘もつくし、あたかも智慧があるような意味深な喋り方をしたがる。そんで奥ゆかしい仕草を好む。「理性的な人間」ごっこをしているんだ。長い歴史の中でこの性格がどのように形成されたのかはまるで見当もつかないけど、もとからそういう性質なのかもしれないし、友人の幽々子に影響されたのかもしれない。
ただでさえ強いのに奥ゆかしいとより強そうに見える。なんてたちが悪いんだ。いや、強いから余裕があり、いろんなものを好きになるのだろう。幻想郷そのものを愛しているのかもしれない。わからない。こいつの思考は読めない。
じゃあ逆に、私はこいつをどう思っているのか。うざったいし、頭良くて強いから面倒だし、胡散臭いし、でも……嫌いじゃない。そう思えるのは何らかの摩訶不思議な引力が働いているからだろうか。
わからない、引力や重力は私にはないも同然だ。幼いころからそうだった。浮世離れしているだとか言われていたのは知っている。普通にしているつもりなのに、私はずっとひとりぼっちだった。親はいたはずだが、覚えていない。他人と交流した最初の記憶はすでに朧だ。
「ねえ、紫」
「何かしら」
霊夢は掌を紫の手の甲に重ねようとしてはっとなり、手を引っ込めた。無意識下の行動に意識が追いついたのだ。
「……なんでもない」
またも思考する。私は今、何を求めたのだろうか。つまらない会話の応酬か、はたまた怪しい彼女の眼か。にこりと微笑んで「寂しがりやさんね」とでも言ってほしかったのか。それではあまりにも野面皮ではないか、私。
こいつは妖怪だ。陰だ。社会を裏から牛耳るヤクザの親玉みたいなもので、私は利用される哀れで善良な陽だ。太極図のようなもので、ぱっと見交わらないが干渉し合っている関係だ。傍に居て、私も悪い気分ではないのはきっと表裏一体だからだろう。ああ、なるほど、これが引力の正体だ。こいつと私は切っても切れない鎖で結ばれていて、私の感情の揺れに特に理由は無いのだ。そう言うものなのだ。きっとそうだ。
こいつの好意もそうだ。勿論、道具への愛着もあるが、それは異変を解決しているときや一緒に行動するときに湧き上がるもので、今、呆けた老人のように空を見てるこいつは、無防備にも素の妖怪妖怪した部分を晒しているのだろう。ある程度、私を信頼しているから「らしくもない」姿を見せても平気なのだ。そうだとしたら巫女として不名誉だが、ちょっぴり嬉しい。
頭痛が治まり、肌寒さをその身に覚えたため、霊夢はスクっと立ち上がった。すると紫は胡散臭さをようやく思い出したかのように言った。
「時の流れは残酷、変わらないものを愛したくなるのは、人も妖も同じなのかもしれないわ」
「そうね」
とってつけたような空見の理由であったが、霊夢は納得することにした。宴会の騒音の中に戻り、今度は飲み比べに参加した。馬鹿みたく酔っ払って、顔を真っ赤にする巫女を、紫は少し離れた場所から眺めて微笑んだ。
ほどなくして冬が来た。しんしんと降り積もる雪は気力を奪い取り、寒風摩擦に誇りをかけた年寄りと犬畜生以外の動物は、あたたかい布団からなるべく出ないよう知恵を振り絞るだろう。霊夢も例外ではなく、文明の利器たる炬燵にぬくぬくとつかる自堕落な生活を送った。
しかし、そのせいか風邪をひいてしまった。布団に潜り込み、ゴホゴホと咳をしながら、雪かきをしなければならない雪景色を睨みつける。身体が重いというのに、さらに憂鬱が圧し掛かった。こういう時に限って風邪薬を切らしているのだ。
意識はぼんやりとして、腹も減らず、じっとりとした不快さと倦怠感が身体を支配していた。
「怠いなぁ、あー怠い」
口にすればなおさら怠くなり、それは眠気に変わった。瞼を二、三度しぱしぱさせてから、ぐっと閉じた。そして気が付くと、外は赤く染まっていた。
身体はまだ重いが、眠気は軽減していた。覚醒してしまうと、時間が進むのがやたら遅く感じられた。
「誰か来ないかなぁ」
何気なくつぶやいた一言で、自分が孤独を感じていることがわかった。コチコチと寂れた音を立てて回る時計が余計に孤独を助長した。こういう日に限って妖精たちは姿を見せないし、狛犬も気をつかっているのかだんまりである。
寂しさと寄り添う、なんとも詩的だ、私カッコいい。そう思い、孤独の素晴らしさを言い聞かせた。孤独に打ち勝つのは強者の証だ、誰にも縛られない自由を謳歌しようではないか、とも。
しかし、考えるほど虚しくなる。風邪ごときに何もできない自分がみじめに思えてくる。寂しいと思ってしまったことが情けない。
「紫」
脳裏に浮かんだのは胡散臭い大妖怪であった。今、彼女になら心情をぶちまけられる気がした。情けないと馬鹿にしろ、そして自覚が足りないとでも叱ってくれ、そう願った。
日が完全に沈む一寸手前、魔理沙がキノコ類をもって見舞いに来た。
「おうおう、風邪ひいたんだってな。飯作りに来たぞ」
「助かるわ」
「いつになくいじらしいな。風邪ひくと弱るとは聞いたが」
「うっさい」
優しさが胸に突き刺さる。正直泣きそうだった。しかし、霊夢は魔理沙の前では冷静であろうとした。変なプライドが邪魔をするのだ。
魔理沙は手際良くキノコ入りのおかゆを作り、土鍋とレンゲを手渡した。霊夢はうまそうにがっついた。腹は減っていなくてもスルスル入った。鼻水が止まらなくなったのでチリ紙で三度ほどチーンとやった。
鍋が空になったころには汗だくになっていた。
「ふう、生き返ったわ。もう少し濃いめが良いわね」
「風邪ひいたから舌が鈍ってんだよ。その様子だと空腹で苦しんでいただけみたいだな」
「まぁそうね」
霊夢は二つの嘘をついた。一つは味は丁度良かったこと、もう一つはたいして空腹ではなかったこと。自分でも、なぜ意味のない嘘をついたのかわからなかった。
「食ったならはよ寝ろよ。なあに滋養強壮キノコ使ったんだ、すぐ治るさ」
永遠亭の風邪薬を持ってこなかったのは、キノコ好き魔法使いの意地である。魔理沙はうんうんと頷いて、土鍋を流し場に放り込み、水で乱雑に注いだ後、さよならも言わず帰っていった。
その日は、着替えるのも面倒なので霊夢はそのまま眠りについた。
霊夢の風邪は尾を引いたようで、全身の重鈍感は三日にわたって続いた。その間、着替え、排泄、軽い調理以外では一切布団から出なかった。時間が経つにつれ思考ははっきりしてくるので、その分寂しさをこじらせた。魔理沙はあれ以来、神社には来ていなかった。すでに回復しきったと思い込んでいたらしかった。
「会いたいなぁ」
うわごとのように繰り返し、その度に妖怪の姿がぼんやりと思い浮かぶ。鮮明に輪郭を思い出そうとすると動悸が発現し、いてもたってもいられなくなる。妖艶な笑みが、柔らかな髪の毛が、豊かな肉体が、想起されると腹の奥底から熱が沸き上がり、全身に伝播する。
言葉がほしい、触れてほしい、抱擁がほしい。
そして三日目の真夜中、とうとう霊夢は神社を飛び出し、寒空の中を駆け抜けた。
四半世紀にも満たない歴史は幼すぎて、己が抱く感情を客観的に捉えることは霊夢にはできなかった。ただ、会いたいという想いだけを胸に空を飛んだ。目が覚めたらしい狛犬の声も聞こえてなかった。
身体はプログラムされたかのように勝手に動いていた。彼女の勘はさえわたっていた。妖怪の山の中腹、若干の結界のほつれを無理やりこじ開ける。
そこには、一軒の家があった。屋敷というほど広くもない、和風の造りである。豪華絢爛たる紫のイメージに反して随分と質素であるように感じた。
霊夢は玄関の扉を静かに叩いた。しかし誰も出て来ない。なぜだか心細くなり、今度は乱暴に叩いた。すると目の下に隈を浮かべた八雲藍が扉を開けた。
「どうしたんだ、もう真夜中だぞ」
「紫は、居る?」
藍は怪訝な表情を浮かべ、霊夢の眼をじっと見た。異変の犯人捜しをしているおっかない形相ではなく、また緊急事態というふうでもない。冬の寒空に曝されてわずかに紅潮した頬と、どこか不安気な眼、良からぬことを企んでいるようには見えなかった。
「今、寝室で眠っておられる。正月か、もしくは春までは起きないと思う」
「いい、ちょっと会わせて」
霊夢なら危険なことはすまい、しかも彼女は紫様のお気に入りだ、藍はそう自分に言い聞かせ、招き入れることにした。
「わかった、起してくる」
「それもいい、すぐ終わるから」
霊夢は案内され、寝室の前まで来た。藍は寝室の襖をわずかに開け、眠っている主に一応声をかけたが起きなかった。藍はすぐさま引っ込み、家の外へと出て行った。
霊夢は襖を音をたてずに開き、寝室に一歩踏み出した。四畳半の狭い部屋、床は年季の入った畳で、壁には掛け軸や立冬から放置されている日めくりがあった。部屋の中心に藤色のふかふかした布団が敷いてあり、その中で紫は安らかで無防備な寝顔を晒していた。すうすうと静かに寝息を立てる姿はあどけなさすら感じさせる。涎でも垂らしかねない。
緩み切った彼女の顔を覗き込もうと、霊夢はゆっくり近づいた。
「紫、ねえ」
呼びかけにはむにゃむにゃと答えるばかりで、起きる気配はない。
「ねえ、紫」
畳の上を一歩踏み出すたびに呼吸が荒くなる。風邪のほてりがぶり返したように思える。脱力しきった寝顔に近づくほど、己の情動が膨れ上がる。余裕たっぷりな笑みも、威圧されるほどの妖気も、今の彼女からは感じ取れない。裸同然だ、それもとびきり煽情的。強者として、管理者として、完璧なはずの大妖怪があられもない姿を晒している。それがとてもか弱く思えて、霊夢の胸が締めつけられた。
霊夢は布団の上から馬乗りになり、覆いかぶさるように顔をのぞき込んだ。そうまでしてようやく、紫の瞼が持ち上がった。
「ん、え、れ、霊夢?」
頭が回らず、混乱すらなかった。
霊夢は紫の頬を両の手で支え、両の眼を瞑った。ゆっくりと顔を近づける。
そして、ほんの数秒だけ二人の呼吸が止まった。
そこで紫の意識は完全に覚醒した。瞬時に状況を理解し、霊夢を引きはがした。
「はっ、はぁ、はぁ」
霊夢は二度目と、その先を求めた。少なくとも紫には、彼女の表情や仕草はそうとしか捉えられなかった。
紫は咄嗟に逃げた。霊夢を無理やり退けた後、布団から抜け出し部屋の隅へと距離を置いた。そして獰猛な獣を宥めるかのように話しかけた。
「ねえ、霊夢、あなたの求めるものは何かしら。考えてみて頂戴」
紫は霊夢より何倍も冷静だった。思考の混乱を制し、ひたすら客観的に現状を分析した。
霊夢のそれは明らかな求愛行動だ。それも動物的なアプローチ。今にも「愛してる」と言いながら私にしなだれかかってきそうだ。
愛は愛以外では形容しがたい感覚的なものである。遥か昔から幾人もの神、宗教家、哲学者たちが定義し、それを別の誰かが上書きしていた。ある意味では破壊と創造の根源だ。彼らの理論はおしなべて歴史と経験からくるもので、すべてを包括し表現するには言葉という媒体はあまりにも不足している。いくつも関連する言葉が当てはめられたが、本質をズバリと言い当てることはできない。
様々な形態の内の一つとして、愛はすなわち生殖活動の副産物だという説は根強く浸透している。「愛してる」と言い合いながら肌を重ねることでしか実感できない感受性の欠乏した者がなんと多いことか。無論、生殖と愛はイコールではない、だが強い結びつきがあると信じている者ばかりだ。それはなぜか、その二つを切り離して考えることは難しく、また独立したそれらが正体不明で恐ろしいからだ。愛という不定形のなにかを疑似的に可視化することで恐れを無くし、さらには種の保存という本能をまっとうするという大義を得ることができる。老いて朽ちていく肉体を持つ人間にとって、それは非常に理にかなったものだ。
つまり、だ、今の霊夢の行動は無知ゆえで、二重螺旋に組み込まれた根源的本能に従っているに過ぎない。
妖怪は、とりわけ自身は唯一無二の存在であったため種の保存とは無縁だ。性の営みは煙草のような嗜好品の一つに過ぎず、神聖なものでも汚らわしいものでもない。だから、齟齬が生じたのだ。
経験則から理解はしているつもりだったが、霊夢もまた普通の人間だったということだ。そして自分は彼女の渇望を見誤っていた、それだけだ。大方、孤独をこじらせたのだろう。人間らしい脆弱さが表出したに過ぎない。孤独はどうしようもなくつらいものだから仕方がないのかもしれない。身体を重ねずとも、言葉にして表出せずとも、十分にわかり合える、と思っていたが霊夢はそうじゃなかっただけだ。
これから私は失望し、ため息をつきながら幼い巫女を説き伏せなければならないのだ。それが賢者のするべきことだ。
言い訳がましく、紫は頭の中で理屈をこねた。そして、厳かに諭すように言った。
「冷静さを欠いてはいけないわ」
「紫ぃ、わ、私」
霊夢の眼にジワリと涙が浮かんだ。想いがぐちゃぐちゃに交じり合い、溢れ出てきそうだった。何をされたいのか、自分がどうしたいのかすらわからず、言葉が出てこない。
紫はあくまで対話をした。霊夢が歩み寄ろうとすればその分後ずさり、常に半畳以上の距離を保った。それは手を伸ばしても届かない距離であった。
「よく考えなさい」
「だって」
妖怪と博麗は陰と陽だ。必要悪が秩序をもたらす。それは変わらないし変わってはいけない、幻想郷の均衡に直結するものだ。存在意義を人間の恐怖や信仰に依存している妖怪にとって、立場というものは重要だ。妖怪と博麗の巫女が交わるなど言語道断、最悪の場合、システムの崩壊すらありうるのだ。紫はそう考えた。
紫の優れた思考回路による予見はラプラスの魔眼のように限りなく正確である。そんな彼女の理性は境界を踏み越えることを拒んだ。
「あなたは博麗の巫女よ」
いつもの余裕を孕んだ微笑を取り繕いながら言った。管理者らしい言葉は霊夢の耳を冷たく抉った。言葉の意味が読み取れない、博麗だからなんだというのか、霊夢にはわからなかった。だが、強い拒絶の意味が込められていることだけは理解できた。
「そう、そうよね」
拒絶が耳の奥で反芻した。自分よりも何倍も聡明な彼女が言うのだから間違いないと、霊夢はうつむいた。すでに熱は下がっていた。
「ごめんね、紫」
霊夢は紫に背中を向けた。そして、そのまま外へ出ると、ふわりと飛びあがり結界をすり抜けた。
視界からその姿が消えるまで、紫は平常を装いつつ見送った。もし彼女が振り返っても、普段通りの怪しげな笑みがあるように努めた。しかし霊夢は一度も振り返らず、暗い空の彼方へと消えていった。
紫が戻ろうとすると、今までどこに消えていたのか、式神の藍が姿を見せた。霊夢が結界をすり抜けた以外に揺らぎはなかったので、領域内にいたことは確かである。
「見てたの、下衆な女狐ね」
露骨に怒気を込めて自らの式へ八つ当たりするかのように言った。藍は表情一つ変えず、淡々と返した。
「いいえ、席は外してました。あれはオンナの顔でしたから」
藍は霊夢の切ない表情を思い出した。少女というには艶やかだった。しかし、大人というには理性や責任が欠けている。両方の側面を併せ持った恋する乙女の顔だ。青かった、それが羨ましいと思った。自分はもう、崩れ落ちてしまいそうな危うさを持つあんな魅力的な表情はできないだろうから。傍に居るうちに、すっかり牙は抜け落ちてしまったから。道具として、満足してしまったから。
「……招いたのね」
「いいえ、彼女が勝手に来ました。結界をこじ開けたようで、先ほどまでその修復を」
「口が回ること。下品で野蛮」
意味のない悪態をついた。紫は式神がもし、気持ちは察しますなどと同情を口にすれば、スキマに落とし、ぼろ雑巾のようにしてやるつもりだった。勿論、藍は長年の付き合いでそのあたりはわかっているため、余計なことは言わなかった。代わりに、ぼんやりと心情を尋ねた。
「これでよかったのでしょうか」
「いいのよ。あの子は、踏みとどまるという選択をしたの」
紫は決して彼女を否定しない。ただ一度拒絶し、理性に訴えかけるあそびを作った。迷いなく肉体を欲すれば霊夢は力づくで屈服させることもできた。その場合紫は受け入れた後に次の手を考えたはずである。境界を歪ませて例外を作ることもできたのだ。
だが霊夢は諦め、成長につながる選択をした。だから紫は含みを持たせて、まるでこの世の真理のごとくこう言ってのけた。
「あの子の言うことはすべて正しい」
惨劇は起きないはずである。だが紫の後悔は消えなかった。博麗の責任を叩きこんでおけば、立場を明確に示していれば、徹底的に悪になりきっていれば、隙など見せなければ、彼女に触れなければ。もしくは――もっとちゃんと向き合っていれば。
「霊夢……」
主の寂しげな声が聞こえたが藍は知らないふりをした。
凍てつく暁の中、雨粒のような涙を流しながら霊夢は龍のごとく空を昇った。どこまでも真っ直ぐひたすら上空へ、呪縛を振り切るかのように。
「チクショウ……」
暗闇の中で、何度も拒絶が耳の奥で繰り返された。「あなたは博麗の巫女よ」その通りだ。紫はいつも正しい。間違っていたのは私なのだ。
わかっている、わかっているんだ。
「チクショウ、チクショウ……!」
博麗の名が枷となるのが、嫌だった。捨ててしまいたかった。だが、紫は博麗の霊夢だから気を許していたのだ。それが余計に悔しかった。自分が、悲劇の渦中にいるヒロインに思えて仕方がなかった。
飛び続け拒絶の幻聴が薄まったころ、霊夢はふと下を見た。東方から光が差し込み、幻想郷全土が見渡せた。
「なんで、こんなに美しいのよ……」
重力から解き放たれ、宙に浮かんで俯瞰で眺めた幻想郷の風景はまばゆく輝いていた。内側に残虐性を秘めているというのに、火傷するような愛憎が渦巻いているというのに、遠ざかれば遠ざかるほど愛おしく思えた。
霊夢は自分がちっぽけな歯車であったことを理解した。空を飛ぶ歯車、まさしく使い勝手の良い駒だ。
「私は博麗なんだ、楽園を守らなくちゃ」
涙はすでに乾いていた。
彼女の精神は決して狂気に呑まれることはなく、悲壮を糧として少しだけ賢くなった。そこには歪んだ愛憎と博麗の名が残っていた。
三年前の冬の出来事である。