Coolier - 新生・東方創想話

非公式飛行記録

2020/03/15 20:14:44
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序 夜間飛行

 ここしばらくは曇り空が続いていた。空が乙女心のように変わりやすい時節ではあるのだが、どうも最近の龍神は感情を失ってしまったらしかった。日中はこの上なく過ごしやすいが、夜に星や月が拝めなくなるのが人々の悩みの種であった。そんな中、霧雨魔理沙は分厚い鈍色の雲をかき分け天へと近づき、独りで満点の星空を堪能していた。
「あれは、そうだな家の釜に似てるから大釜座としよう。いや待て、それだと大蝦蟇座と響きが被るな」
 人差し指で星をなぞり、点を紡ぎ線とする。空に描かれた形に自分なりに言葉を当てはめる。魔理沙は昔の人がつけた星座の名称など知らなかったし、また調べるつもりもなかった。過去の智慧は模倣したくなるからである。
 模倣は彼女の特技だった。だが空を独り占めしているこの夜だけは、先人の知恵を借りたくなかったのだ。この高尚っぽい遊びは心象スケッチに似ていた。化粧台に向かい鏡と睨めっこしている時間の何倍も、己と対話している実感があった。
 心に迷いが生じたとき、魔理沙はいつもこうして空を仰いだ。
 魔理沙は例えるなら止まることのできない彗星であった。停滞を恐れ、前へ前へと躍り出たがる性分だ。壁があれば壊す、無理なら飛び越えるか回り道をする。だが時折無性に切なくなる。これで正しいのか、道は他にあるのではないかと。
 だから夜の空を仰ぐ。深い黒の海を泳ぐように飛ぶ。そしてどれだけ飛んでも決して辿り着かない高みがあることを思い知る。すると、自分の悩みが何だかちっぽけに思えて、うじうじしているのが馬鹿馬鹿しくなり、また一歩前進できるのだ。はるか遠くできらめく星々に比べれば悩みなんて何だってんだ、諦めなければ手が届くはずだ、と。
 きらりと一筋の流れ星が落ちた。
「よし、行くか」
 本日の星見を終えた魔理沙は箒を手放した。ふわりと無重力を体感する。初めは眼を開けられなかったが、慣れた今では宙ぶらりんの天体観測ができるまでになっていた。
「おわ」
 雲海に潜ると視界は奪われる。仕方がないので眼を瞑り、神経を研ぎ澄ませば風の音はより鮮明になり、ごうごうと悲鳴に似た声が聞こえてくる。魔理沙はこれを空の叫びと呼んでいた。叫びは風の流れであり、それを掴むことで空を制した気分に浸れる。
 雲を抜けると魔理沙は眼を見開き、全身に力を込めて落下にブレーキをかけた。クッションを幾重にもイメージし徐々に速度を落としていった。
「今日は、調子がいい――」
 しかし、地面に到達するまでに速度を殺しきれず、ドスンと尻もちをついてしまった。
「痛って、ちきしょ、こればかりはなぁ」
 椅子から転落した程度の衝撃であったが、着地場所が砂利だらけだったため痛みは相当であった。しかし、以前の大怪我に比べればなんてことはない、と痛む尻をさすりながら自宅へ箒を取りに行った。
 魔理沙は自力でも飛行は可能なはずなのだが、手放しだとコントロールが困難である。彼女は魔法使いはかくあるべしという理想像を持っていた。思い込みの力は厄介で、「魔法使いは箒で空を飛ぶ」という概念が骨の髄まで染み渡り、それはもう雁字搦めに縛られていた。ほかの魔法使いたちが道具に頼らず飛行する姿を見ても、ひねくれた性格のせいかますます意固地になるばかりであった。すでに彼女にとって箒は動力であり制御装置の役割を担ってしまっていた。
 それを克服するために魔理沙は夜な夜な飛行訓練をしていた。
 魔理沙は家の軒先に立てかけてあるお気に入りの箒を手に取った。そして箒にまたがり、ハヤブサの滑空さながらの速度で紅の館へと向かった。


 深夜でも、紅魔館の扉は開いている。今となっては日中のほうがむしろ堅牢である。
 忍び足で図書館まで行き、適当な本を数冊抜き取る。それを箒に括りつけていると、むすりとした仏頂面のパチュリーが本棚の陰から顔を見せた。
「いらっしゃい、此処は貸本屋じゃないわ」
「借りてるだけ……もダメか。まぁ、ちょっとくらい、いいだろう?」
「泥棒は退治しなくちゃ」
「今から強盗に変わるぜ」
 話を切り上げるや否やパチュリーはスペルカードを発動した。
 水符「プリンセスウンディネ」
 咳き込み交じりの詠唱後に青の弾幕とレーザーが襲い掛かる。魔理沙はわずかな動作で躱し続けた。動きを最小限に留め、針の穴を通すように弾と弾の隙間をくぐった。経験と、それなりに優れた頭脳を駆使して先を読み、軽やかに安全地帯へ滑り込む。それは舞踊に近かった。体力は温存できるが、その分集中が必要であった。
 ふと、弾幕はブレインというアリスの言葉がよぎった。持ち前の天邪鬼気質から魔理沙は「今ボムを使えば快感だろう」と思ってしまい、そんな気の迷いが隙を作った。青色の弾が目前に迫っているのに気づかなかったのだ。
「おわ、ちっ、掠ったか」
 間一髪で大きく身をひるがえしたので被弾は免れた。
 頬を叩き、気を引き締め直した魔理沙は、その後スペルカードの時間切れまで粘り続け、なんとか勝利した。
「はあ、疲れたわ、けほっ」
「悪いな、いつも」
「随分、こなれたわね。なんとも見上げた執念、はぁあ、何が、あなたを、駆り立てるのかしら」
 発作とまではいかないが、呼吸が苦しそうなパチュリーはどこか優しいまなざしを向けていた。敗北がわかっていたかのようである。
「知識欲と闘争欲と、そんなとこだ」
「羨望と、嫉妬も、じゃないの?」
 パチュリーは息を切らせつつも、にやにやとしていた。魔理沙の弾幕の避け方が、日に日にどこぞの誰かに似ていくものだから、面白くてついからかってしまう。
「そんなんじゃないって」
 ぎこちない笑みで返した魔理沙は図書館を後にした。従者や、メイドが追ってくることはなかったが、途中でレミリアと遭遇してしまった。話が簡潔でないので厄介極まりない。
「あら、こんな夜更けに何しに来たのかしら。夜は吸血鬼と悪人の時間よ」
「魔女を忘れてる。まあ、今のところ私はどれにも属さないが」
「じゃあ人間、何してる。良い子は寝る時間だよ?」
 くすくすと今にも高笑いに移行しそうな声でレミリアは笑っていた。人との会話が心底楽しいといった具合だ。吸血鬼の深夜テンションに魔理沙はうんざりした調子で返した。
「生憎だが蒟蒻と問答してるほど暇じゃないんだ」
「つれないわねぇ、じゃあ弾幕ごっこでもする?」
「ちょっと今日は疲れたんだ。妹とでもやってくれ」
「ご機嫌斜めなのよ、外に出してくれって」
「出せばいいだろう、咲夜でもつけて」
「今何かと物騒だし、二人に悪い虫が寄ってきたらどうするのよ」
「あー洒落にならんな」
 主に虫が、である。トンボの羽を何の躊躇もなく千切るかの如く、邪気を持て余した七色の羽を持つ子供の図が容易に浮かぶ。お付きのメイド長は止めもせず、身動きできなくなった悪い虫を見て「つくだ煮にしようかしら」なんて冗談交じりに言い、脳内で血抜きのシミュレーションをするに違いない。
 そのまま持ち帰ることができれば御の字だが、道中にもし紅白の少女と遭遇した場合ぼっこぼこのめっためたにされ、二人の顔貌が満月のようにふっくらするだろう。そこまで想像してレミリアは大げさに膝をガクガクと震わせた。彼女も一度、ボコられた口なのだ。
「でしょう、おっかない巫女も居るしねえ、おー怖い怖い」
「確かに、あんたらにしてみりゃそうだよなぁ」
 魔理沙は乾いた声で笑った。疲労を隠し切れないという様子であった。レミリアはそれを察したらしかった。
「じゃ、一つだけ。あなたはいずれ運命の三つ又に立たされる。何がどうなるかはわからないけど、枝の先は平和か、惣忙か、はたまた破滅」
「胡散臭い占い師みたいだな、まあ破滅は避けるぜ」
 詐欺師の手口のような、ただ匂わせるだけでどうとでもとれる言い回しでレミリアはさらに続けた。
「いいえ、運命は目に見える道じゃないわ。あなたが選べるのは進むか止まるかだけ。止まれば安らかな停滞が訪れるわ」
 魔理沙の答えは決まっていたので、言う必要もなかった。レミリアは囁くように続ける。
「私なら、破滅を避けるように操作できるけど」
「いい、いい。悪魔と取引はしない」
 未来は自分で切り開く、運命なら従うのみ、ありきたりだが格好いいじゃないか、とレミリアは思った。そしてけらけらと笑ってからじゃあねと手を振った。
 無事に目的を果たし、家へと帰宅した魔理沙はすぐさまベッドに潜り込み、まどろむ間もなく深い睡眠に入った。時刻は夜の三時であった。


 目覚ましの類は使わずとも魔理沙は起床した。時計の短針は六を指していた。慢性的な疲労感はぬぐえないが、二度寝するつもりもなかった。顔を洗い、歯を磨く。寝汗でべとついた服を脱ぎ捨て、乱雑に籠に放り込んだ後、似たような白黒の服に着替えた。箪笥には霖之助が作った多少デザインの違う白黒の服が冬物夏物含めて十着と、白のパンツやドロワーズといったとても可愛らしい下着類が入っている。魔理沙はこれをルーティンで着ていたので、洋服選びに困ったことは殆どなかった。
 やたら苦い雑味たっぷりのコーヒーで眼をスッキリさせ、テーブルの上のバスケットにいつも入っている二切れのパンとチーズを食べた。朝からあまり食べられないのもあるが、この質素な朝食は彼女のお気に入りだった。栄養補給のみを目的としているようなストイックさがそれっぽくて好きだった。
「ああ、苦いなぁもう」
 コーヒーを飲み終えると、昨日の夜に牛乳を飲み忘れていたことを思い出した。「成長」の二文字に淡い希望を抱きながら寝る前に500ml飲むのが彼女の日課であった。継続は力なりと信じて疑わなかった。
 魔理沙は冷蔵庫に入っている牛乳を胃に流し込み、一息つくためにソファーに腰かけた。カフェインが十分に効いてきたくらいで、なんとはなしに時計を見つめ、長針と短針が重なったときにおもむろに立ち上がった。
「よし、ぼちぼち行くか」
 ミニ八卦炉をポケットに入れ、黒い帽子をかぶると魔理沙は命蓮寺のほうへと飛び出した。
 魔理沙が門をくぐると、やたらと声のデカい山彦こと幽谷響子が出迎えた。彼女は箒で庭を掃除していた。
「あ、魔理沙さん、おはようございます!」
「あーもう耳が痛いなもう。今、和尚いるか?」
「総動員で庭の掃除をしてるよ」
 赤茶色の落ち葉は、風に吹かれてくるくると踊っているようである。
「落ち葉の多いこと多いこと、集めた傍から飛んでくから面倒だし、風も冷たいし、いいことなしね」
 響子は珍しく愚痴を吐いた。その口調がどこぞの誰かに似ていたので魔理沙は思わず笑ってしまった。
「今頃同じこと言ってそうだな。いやむしろあいつが言ったから、お前が復唱したのかも」
「あいつって巫女のこと? しないよ、何されるかわかったもんじゃない」
「大丈夫さ、あんたらなら。それこそ大々的な布教活動とかしなければ」
「生き辛い世の中になったものね、ライブもできやしない」
 けたたましいだけに思えた響子の叫びに近い歌声も、いざ無くなると一抹の寂しさを覚える。人妖問わず身も心も躍らせ、混沌と一体感を兼ね備えた一見矛盾した空間を生み出す、かつて山彦と夜雀が組んだロックバンドはそんな音楽を響かせていた。その時は人と妖が手を取り合うという白蓮の念願が成就したようにさえ思えた。
 しかし、ライブで体感したむせかえるような熱気は、長い道のりの中で追い風に煽られた時の瞬間最大速度であったことに気づいたのは、バンドが凍結してからだった。
 響子はライブの幻影を思い返すたびに、どうしようもない虚しさに駆られていた。
「やりたきゃ、やりゃあいいだろ」
「そうよね! それがロック! ああでも巫女がー! でも反骨の心がぁ」
 もどかしさを抱える悩める山彦を救うことは魔理沙にはできなかったので、話を雑に切り上げて白蓮を探しに行った。
 白蓮は寺の裏に居た。諸行無常を噛み締めるかのように真剣に掃除をする様は妙に楽しそうで、魔理沙が声をかけると柔和な笑みを見せた。
「何にやにやしてんだよ」
「いえいえ、失礼ですが、こんなにも熱心だとは知りませんでした。悟りを開くおつもりですか」
「無理無理。修行しに来てるわけじゃないし、私は見かけによらず欲深いんだ。知らなかっただろ?」
「まあ、存じ上げませんでした。ふふふ、言葉は軽いものです」
 筋金すらひん曲がっているひねくれ者の魔理沙が「稽古つけてくれ」と頼み込みに来た時は、流石の白蓮も面食らい、空が落ちてくるのではないかという不安がよぎった。初めは何かの冗談だろうと思っていたが、一時の疫病神すら凌ぐほど熱心に通い続けたので、白蓮は彼女の評価を改めていた。
「今日もよろしくお願いします」
 魔理沙は恭しく頭を下げた。魔理沙はあまりにも礼節を欠く言動をしてしまったことが一度あった。「手っ取り早く頼むよ」とへらへらとした態度で臨んだのだ。白蓮が怒り「先ずは性根を叩き直すとこから始めましょう」とか何とか言って、かれこれ三時間は説教した。しかもその内容がしっかりと魔理沙に向けたもので、仏教に詳しくない者でも理解できる言葉で的確に心をえぐってくるものだからメンタルはずたずたになった。悪意があるとしか思えないが、当の聖は説教を終えると満足げに「反省したようですね」と言うのだ。まったくもって善意なのである。その日の魔理沙は家に帰って「あんなに言わなくてもいいのぜ、酷いのぜ、ぐすん」と乙女チックに涙で枕を濡らした。
 そんな経験もあって魔理沙は相変わらず口は悪いが、礼儀正しいお嬢さんのようにふるまうくらいは、恥ずかしげもなくできるようになった。いいとこの嬢ちゃん育ちなので最低限の作法くらいは身についている。
「ええ、では出かけると伝えてきます」
 稽古の内容は弾幕ではなく、白蓮が得意とする身体強化魔法の修得である。魔理沙はラーニングが得意であるため、指導よりも組手や実践訓練が主だった。
 今日の修行は滝行であった。精神統一しつつ身体に負荷をかけるのだ。今の季節、水が冷たいので一層効果的である。掃除を済ませた後、二人して白装束に着替えると山まで飛んで移動した。
 九天の滝の比較的水の勢いが穏やかな場所を選んだ。それでも並の人間なら骨折するほどの勢いはある。
 一刻ほど、無言で滝に打たれた。身体は芯まで冷えていたが、まだ限界には程遠い。魔理沙は「私も成長したなぁ」と心の中で自我自賛した。自分に優しくすることが長続きのコツであると修行中に学んだのだ。
 修行を終え、二人が帰り支度をしている最中、恐ろしいスピードでこちらに迫ってくる影があった。
「あらま、ずぶ濡れの少女が二人、なんと破廉恥な」
 風を切り裂いてシュタリとスタイリッシュに着地し、冗談を飛ばしたのは射命丸文であった。少女と言われ、白蓮はまんざらでもないようである。
「おかしいですね、このあたりは天狗の管轄ではないはずですが」
「住職のおっしゃる通り、河童が管理してますがね。まぁ私は風来娘ですので」
「で、そのフータローが何の用だよ?」
 魔理沙が要件を話せとばかりに割って入った。
「なんか辛辣ね。まあわけを話しますと、新聞も鳴かず飛ばずでして、売れる記事は書けずじまい、捏造もとい脚色には風当たりの強い世の中、間違いをすると叩かれ潰され、つぶさに調べ上げられ、ゆえにゴシップも減り、取材は断られ、ま、ありていに言うとヒマなんです」
 文は早口でそう捲し立てた。風の流れが変わり、時代はゴシップを求めなくなっていた。己の保身に走る者が多く、記者たちも容易に踏み込めないでいるのだ。そもそも事実は小説よりも奇なりを地で行く幻想郷では、血なまぐさい事件など珍しくもなかった。今は良質で荒唐無稽もしくはベッタベタのフィクションが好まれるとは文の談。里内や妖怪同士の熱愛発覚の記事を書いたときだけ少し売り上げが伸びる程度で、恐ろしい真実は心地良いだけの虚構に負けていた。
 天狗の書いた新聞は特に脚色が強く、真実に尾ひれをつけて流すたちの悪さも相まって人里では敬遠されていた。それでも文は勝手に配っているのだが、巫女にシバきまわされてからは頻度が減っていた。
「というわけで、取材許可をば」
「構いませんが、せめて着替えと昼餉が終わってからにしてもらいたいですね」
「ええ、ええ、構いませんとも。不本意ながら時間だけはあるんでね。はぁここらで魔理沙さんが何かしらしでかしてほしいんですが」
 ため息をついた後、文はにやにやしながらそう言ったので、魔理沙は含みを持たせてこう返した。
「まだ早い、花火は準備が大事なんだよ。魔法も」
「ほほう、何か企みがありそうで。大方予想はつきますがね」
「私も何となく」
 情熱には必ず理由がある。魔理沙の修行熱心な姿の陰には、貪欲に何かを追い求めている人間らしい煩悩が満ちていた。同時にそれは、寿命が短い人間であるがゆえの焦りでもあった。白蓮は、その貪欲さを好ましくすら思っていた。煩悩を捨て去り悟りを開きたい、という煩悩が消せない矛盾から生じる求道者の焦燥は、かつて白蓮も感じていたからだ。せめて寿命がなければ、と何度も願ったものだった。
「変な勘繰りは野暮ってもんだ。いずれな」
「楽しみにしてます。ではとりあえず一枚撮らせてもらいます」
 文はカメラを構えたが、すぐに白蓮が制した。
「いえ、髪も乱れておりますし、一度整えてから――」
「まま、いいじゃないですか。布教用としますので」
 滝行はベターであるが、如何にも修行という豪快さもあり、布教にはうってつけである。、それっぽさは一見さんを引き寄せるためには本質以上に重要だ。白蓮もそう思っていたのだが、以前新聞の広告に滝行後のずぶ濡れ写真を掲載したところ、煩悩の塊のような者たちしか食いついてこなかったという苦い経験があった。修行しに来たという男衆は、ずぶ濡れ装束がぴたりと張り付いた女体を拝みたいという煩悩が、人間のつつましさはどこに行ったとばかりに顔から駄々洩れており、聖徳太子でなくとも読み取れるほどであった。そうなることは初めからわかっていたはずなのだが、心の奥底に自分の清純さを肯定したいというつまらない欲が潜んでいたことに気づかされた。白々しく無知に振舞った己の愚かさを思い知り、そもそも、新聞に載せるのが間違いだと白蓮は思うようになった。
「一理ありますが、浅はかすぎます。許せません、いざ南無三!」
「あやぁ!?」
 しかし白蓮とて、いまさら記者の言葉に動揺するほど若くはない、とどのつまり彼女も退屈していたのだ。他の妖怪連中に比べれば穏やかだが、彼女もまた血の気の多い性分である。説法と称して肉体言語に訴えかけるやり方は十八番だ。間違いなく聖人なのだが、なまぐさ坊主という謂れが消えないのはそのためであった。


 弾幕ごっこを終えると、二人は寺に戻り、井戸の水で汗を流した。ミニ八卦炉は便利なもので、火力さえ調節すれば簡単にお湯を沸かすことができる。冷えた身体に暖かいお湯が染み渡ると、それだけで苦労が報われた気がした。
 流れで魔理沙は昼餉のお粥と大根の漬物をごちそうになり、帰ろうとしたところで呼び止められた。
「説法ではなく、忠告を一つ。生き急ぐ必要はない、まだ若いのですから。と私が言っても説得力はないですね」
「いや、年の功はありがたく呑み込むことにしたんだ」
 柔和な笑みは崩れなかったが、白蓮の眼の下に影が差した。
「怒ってませんとも、これも長年の徳のなせる業」
「結構気にはしてるんだな……」
 とりわけ人間は青春信仰に憑りつかれやすい。老いが恐ろしいからである。若い潤った肌を蝕む不可逆な時間の流れは、無慈悲にも美しさを損なわさせ、さらには死への恐れを増幅させる。後者は良い言い方をすれば、関心が内側に向き物事をよく考えられることでもある。かつて弟を失い、自分と見つめ合うことが多くなった白蓮は、誰よりも若さを渇望した。心の器が人一倍大きい彼女ですら受容できないのが老いである。
妖怪は精神と肉体の結びつきが強固であり、若くあろうとすれば身体が応えてくれる。だから幻想郷には少女が多いのだ。
「ひとつだけ問答を。作麼生」
「ええと、説破」
「あなたは光を、遥か先の空の光を目指しているようですが、もしそこに辿り着いたとして、何が残るのでしょうか」
 一心不乱に突き進む、自分と違って老いを恐れてはいないのだろうと白蓮は思った。儚くも力強い流星のような生き様を矜持としているようだ。到達目標は何となくわかるが、最終的に何者になりたいのかを聞いてみたかった。
 魔理沙はしばらく考え込んでから冗談めかして言った。
「あんたらが言うところの、曼荼羅になるかもな」
 魔理沙の指す曼荼羅とは神仏が集会する荘厳そうな図絵のことである。
「ふむ。その心は?」
「全部オシャカだ」
 彼女はうまいこと言ったったというふうであったが、いちいち訂正するのも面倒くさいので、白蓮は苦笑いを浮かべるだけに留めた。なんとなく言いたいことはわかったのだ。魔理沙の言葉はただの冗談で深い意味はないが、言わんとしていることは大方こんな具合だろう。刹那的な生き方、若さゆえの慢心、つまり「そんな先の事なんて考えてねーよバーカバーカ」である。


 魔理沙は散らかり放題の家に戻ると、研究室と称した二階の部屋に行き、机に向かった。そして手帳に本日の修行の成果を数値化して書き込んだ。前回に比べて、魔力の練り方は上達したか、身体の強度は増したかなど、様々な分析を行った。
 成長を客観視できたところで一度大きく伸びをすると、今度は図書館から借りた本を開いた。本の文章は五行思想について、ラテン語と独逸語と日本語、さらに著者自身が考えた造語で構成されていた。著者を確認するとパチュリー・ノーレッジと書いてあった。
「これは、挑戦状だな」
 魔女は自身の魔法に関しては決して直接の指導はせず、本にして人を試すのだ。読めるもんなら読んで見なさい、と知恵比べをしたがるのが性である。パチュリーは根っからの魔女気質で、膨大な知識がその小さな口から語られることは少ない。白蓮や魅魔のように直接指導してくれる方が珍しいのである。
「そういや、魅魔様もむつかしい本ばかり読ませてきたっけ」
 魔理沙はかつての師を思い出した。尤も魅魔は自称神様(悪霊)であり純粋な魔女ではないため、自ら指導し、自身の強さを誇示してきた。そのせいで魔理沙は神様とは自己顕示欲の塊みたいなものだと認識していた。あながち間違ってはいない。
 本を読み進めるうち、疲労困憊の魔理沙に睡魔が襲いかかった。うつらうつらと夢と現実を行き来しながら時は流れ、そして、時計の鐘が午後の六時を告げる音でようやく目が覚めた。しばしの間ボーンボーンと鐘が鳴り、ケージで飼っているツチノコがキシャーと鳴いていた。
 どうやら魔理沙は夢を見たらしかった。内容はおぼろげだが、汗を掻いていたので良い夢ではなかったことだけは想像できた。
 少し寝たおかげか頭はすっきりと冴えており、魔理沙は自分が空腹であることがわかった。
「あれ?」
 魔理沙は食事が用意されてないことと、普段は静かなツチノコが鳴いていることを疑問に思い、一階の台所に向かった。
 台所の床には包丁を持ったままの人形が落ちていた。まな板の上に野菜を途中まで切った痕跡がある。火を使ってなかったのが救いであった。
「あちゃあ、故障かな」
 魔理沙とツチノコの食事はアリス・マーガトロイド製の人形が作っていた。アリスは、決まった時間にデータとして埋め込まれたいくつものレシピから、ランダムで料理を作るという半自律人形を完成させていた。しかし、そもそも食事が必要なく、またその時の気分で食べたいものが変わるアリスにとっては無用の長物だった。半自律の式が組み込めれば満足だったため、二年前に譲ったのである。
 人形は必ず五時に料理を開始し、六時に完成させて魔理沙の自室に運ぶようプログラムされており、魔力さえ流し込めば毎日欠かさず動作するという優れものであった。
 複雑な調理という手間を省ける人形は重宝していた。これといって食べたいものがない限り、食事のメニューを逐一考えるのは魔理沙にしてみれば無駄な労力に思えた。ものの本に「人間は一日に決断できる回数は決まっている」と書いてあったため影響されたのだった。
 部屋が散らかっているのも、同じ服ばかり着るのも、すべてそのストイックな研究姿勢ゆえの効率的な行動なのであり、ものぐさなわけではない、と魔理沙は自分に言い聞かせ続けてきた。たまに誰かにたしなめられて、舌打ちするまでがセットである。
 明日にでもアリスのところに持って行こうと思い、魔理沙は人形を拾い上げた。そしてバスケットの中のパン二切れをもさもさと食べ、ツチノコに野菜のきれっぱしを与えた。なんでも食べるのでこれで十分だった。
 その後は部屋に戻り、汗と唾液でびちょびちょになっていた本の三十ページ目をなかったことにして、続きを読み始めた。


 魔理沙は夜更かしをしたにも関わらず普段通り六時に目が覚めた。朝っぱらから尋ねて機嫌を損ねるのも合理的ではないと思ったので、いつも通りの簡素な食事をゆっくり時間をかけて摂った。
 そしてソファーの近くに落ちていた『結界入門、応用編』を開き、ぱらぱらと内容を思い返すように読んだ。魔理沙はもう少し踏み込んだ領域までを会得しているのだが、様々な研究、訓練を並行しているため、時折を読み返すことで基礎を忘れないようにしていた。
 八時になったところで、丁度読み終わったのでアリス邸へと向かった。
 箒に乗れば五分と掛からずに着く場所にアリス邸はある。魔理沙は木製の扉をノックし、返事を待たずにずかずかと上がり込んだ。
「おはよう、突然だが人形が故障しちまったんで直してくれ」
「唐突ね。みせて」
 魔理沙は「私が壊したわけではない」と言い訳がましく伝えながら手渡した。すぐに原因はわかったようで、さっそくとアリスは修理に取り掛かった。
 その間魔理沙は勝手に紅茶を二人分淹れ、白いソファーの上で寛ぎながら自分の分を飲んだ。アリスは戻ってきてソファーに腰かけると、まだ湯気が立っている紅茶を一口だけ啜ってから故障の原因を説明し始めた。
「終わったわ。なんてことはない、自律プログラムの糸が摩耗しただけ。うーん、自己修復機能も入れた方がいいかしら。そうすると自爆装置外さなきゃいけなくなるんだけど」
「ぜひ、そうしてほしいな、危ないのは嫌だな、な、アリス」
 アリスはたっぷりとティーカップ一杯分考えてから「やめておくことにする」と言った。彼女のこだわりを魔理沙は理解できなかったが、説得に応じるようなやわな女ではないことは知っていたため、諦めて直った人形を受け取った。
「直したは良いけど、そんなんなら捨食使えばいいじゃない。あと捨虫」
 捨食は食事、睡眠を魔力で補い、捨虫は不老長寿を得るための術である。求聞史紀曰く、種族としての魔法使いはこの術を会得しているのだとか。
「あー、もうしばらくは清い身体で居たいんだ」
「何よ人を、じゃない、魔女を穢れてるみたいに」
 魔理沙は人間で居たかった。たとえ、どれだけ強大な魔法が使えても、国を転覆させる腕力があっても、この世の真理を悟っても、一月も食わねば餓死する脆い存在、それが彼女の人間象であった。
 だがその儚さを美しいと称するのは妖怪側の視点である。執着の理由をアリスはなんとなく予想はできるが、共感には至らなかった。
「そんなに大事かしら。……たしかにアレも一応人間だけど」
 アリスは紅白と白黒の人間が放つ弾幕が交わる様を思い浮かべた。実に絵になる。人対人、敵対関係ではないその構図は魔理沙の理想なのかもしれないが、それだけのために人間を続ける意義を見出すことはアリスにはできなかった。別に魔女でもよいではないか、守矢の風祝は現人神で、白玉楼の庭師は半人半霊だ。あんたたちが仲良くしている香霖堂の店主だって半人半妖ではないか、そう思った。
「アレとか言うなよ。殺されるぞ」
「物騒ねぇ、昔はもう少し穏やかだった気がするけど」
「何時の話だよ、お前が魔界に居た頃か」
 紅白の少女は、アリス達が気づかないところで少し大人になっていた。彼女は積極的に妖怪退治に励むようになり、今までよく神社に来ていた妖怪たちともある程度距離を置くようになったのだ。
「ま、変わるのも人間ゆえかしら。あんたは全く変わらないわね、主に背丈とか腰つきとか、胸周りとか」
 アリスは平坦な全身を舐めるように見てから、最後に小ぶりな胸元を注視した。魔理沙は隠すように腕組みをして、口を尖らせた。失敗を咎められ、自覚があるために余計意固地になる拗ねた子供のような調子で、吐き捨てるように言った。
「デリカシーのない発言は嫌われるぜ」
「だって魔女だもの」
 魔女の定義は特にないが、物語に出てくる魔女は総じて意地悪で、性根が腐っており、常に悪役としての条件を兼ね備えている。そのうえ貪欲で、目的のためには手段を選ばない。幻想郷に住む魔女と聞いてピンとくる者たちも、三者三様の貪欲さを持っていた。
 

 魔理沙が家に戻ると、矢田寺成美がソファーを陣取り、寛ぎながらコーヒーを淹れていた。成美は一口啜り、あまりのまずさに額にしわを寄せてしまった。
「あ、おかえり。これ随分苦いね。魔理沙の分も淹れておいたよ」
「あー、もう一週間か」
 魔理沙も腰を下ろし、苦いコーヒーを一口含んだ。あまりの苦さに吐き出しそうになったがすんでのところで飲み込んだ。
「うげ、苦っ」
 豆を蒸らすなどという工程を一切無視して適当に淹れたコーヒーであるが、そもそも上等な豆では無いため淹れ方どうこうで味に差はでない。根本的にまずいのだ。朝の眠気覚ましに飲むから気分が出るのであって、意識が覚醒したこの時間帯では苦行でしかなかった。
 角砂糖を五つ入れるとようやく飲めるようになった。
「たまにはと思って淹れたんだけどね。やっぱ緑茶のほうがいいわー」
「だな、私もそう思う。今度美味い茶を飲みにでも行くか」
「面倒だからパス。あんま騒がれたくないし」
 成美は出不精であり魔法の森からは殆ど出ないが、時折こうやって魔理沙の家を訪ねてくる。家自体が森の瘴気の気質に染まっていて居心地が良いのだ。それに、たまに会話しないとせっかく動く口が固まってしまう気がするのだ。行動範囲が広い魔理沙は、話の種も尽きず、相手としてうってつけであった。
 ご近所付き合いのよしみで魔理沙は自身の生命力を強化もとい引き出してもらっていた。これにより最低限の休息で研究に没頭できた。成美は寿命が縮む、と再三注意はしていたが、そもそも瘴気に塗れた生活をしているので長生きするつもりはないのだろうと納得し、今では普通に協力していた。
「じゃ頼む」
「合点承知」
 魔理沙はソファーに寝そべり、眼を瞑った。成美が手をかざすと、心臓の鼓動はその一定のリズムを崩し、徐々に高鳴った。全身を熱い血液が駆け巡り、じんわりと発汗する。新陳代謝が亢進していた。この生命力強化の魔法は彼女特有のもので、仕組みや原理は一切わからない。使えるだけで本人も理解していなかった。
 一刻ほどで終了する。アロマテラピーを受けたような心地よさが残っていた。
「はい、おしまい」
「毎度毎度助かる。あー身体が軽くなった。なんかこれで商売でも始めればいいんじゃないか?」
 はり師やきゅう師がいるのだから魔法療法士が居ても良いだろう。今なら地蔵療法のパイオニアになれる。魔理沙はそう提案したが、成美は首を縦には振らなかった。
「やーよ。面倒だし、結構疲れるんだから」
「たまにだよ、たまに。週一とかで、里に下りて。前やってたアリスの人形劇みたいに」
「あれ中止になったじゃん。なんだっけ、変なおっさんが発情したんだっけ」
「そんなとこだな」
 好評を博していたアリスの人形劇は、里に住まう変態により中止となり、以来上演されていない。その時はアリスがか弱い女性を演じたおかげで、周りの男衆が変態を取り押さえ事なきを得たが、一歩間違えれば死人が出ていたかもしれないのだ。事故が起きてからでは遅く、また正当防衛の法は幻想郷にはないため、妖怪は里内でむやみに反撃もできないのである。「欲情させる身体してるのが悪いんだ」とは変態の弁で、現在も座敷牢に幽閉されているという。風の噂ではありあわせの材料で黙々とアリス人形をこしらえているのだとか。
「変態同士お似合いだと思うがなぁ」
「それ言ったらアリスキレると思う。ともかく、私も怖いから里には下りないよ」
 他にも里では秦こころが演じる能や、プリズムリバー楽団の演奏会が中止になったりしていた。理由の殆どは、欲情を誘発するからである。彼女たちは魅力的過ぎるのだ。
「だな、それが賢明だ。人と妖怪の恋愛譚の末路なんて碌なもんじゃない」
 自分で言いだしといて、とは成美は言わなかった。おしゃべりは適当で良いのだ。ことガールズトークにおいては、ばら撒き弾のように話があっちこっちに飛ぶ。重要なのは内容ではなく、その時の感情の昂りなのだ。そして、恋の話題は彼女たちを熱くさせる筆頭であった。
「それそれ、よく言われるけどなんでだろ。ほぼ固定概念としてあるよね。私思うんだけどね、生殖できないから結婚するなっていう一種の教訓じゃないかって」
「つっても古今東西、ハーフは少ないけど居るぞ。香霖とかもそうだし」
「じゃああれね、寿命問題。残った方は不幸になるわ。わかりきっている絶望に突っ込ませたくないから、ていう親心」
「それは妖怪側の視点だろ。寿命の克服方法なんていくらでもあるし」
「むう、違うか。ああわかった。悲劇的な物語しか残ってないからだ。だって幸せになったなら歴史として語り継がれるわけないもの。穏やかに身分を隠しながら生きていたに違いないわ。そんな昔ばなし面白くないしね」
 他人の惚気話など、親しい間柄でもない限り聞くに堪えないもので、それならオチのついた悲劇が後世に残るほうが自然である。魔理沙は一理ある、と頷いた。
「確かに。恋の魔法使いに言わせれば、悲劇ほどよく燃えるんだよ。恋は非日常だからな。穏やかな恋なんて本当の恋じゃない」
「恋の恋のって、あんた彼氏いないじゃん、おぼこじゃん」
「うるさい」
「家出してなければ今頃お見合いしてたわよ。里の有力者のよくできた息子あたりと」
「喧嘩売ってるなら言い値で買うぞ! 疲れもとれたしな!」
「やー、怖いわー」
 少女二人はきゃぴきゃぴと戯れる。 
 一人で研究に没頭していると、狭い世界に足を引きずり込まれ、大きな姿見鏡のみが置かれた空間に閉じ込められたような気分になる。そこでは集中はできるが、己の醜さまでもが良く見えてしまい、鬱々とした気分に何度も陥ってしまう。喜怒哀楽を吐き出せる他人との会話は、魔理沙にとって精神的な薬になっていた。


 成美は昼過ぎ頃に帰った。魔法の効能で汗を掻いていたので、魔理沙は炎魔法で沸かしたお湯に久方ぶりにじっくりつかった。そして風呂上がりに無駄なあがきと知ってなお、カルシウムとタンパク質を必要以上に補充し、今日のノルマのうち一つを終えた。次にノルマの二つ目として、三日分の衣類の洗濯を行った。
「晴れないな」
 外に干そうかとも考えたが生憎お天道さまには期待できそうもなかったので、ミニ八卦炉の熱で乾燥させ、綺麗に畳んでから箪笥に締まった。
 魔理沙は週に二度、まとめて洗濯をしていた。一応臭いは気になるお年頃であるため、以前香霖堂からくすねたファブリーズと自身の調合した芳香剤を混ぜて部屋に振りまいていた。ただ、もうそれだけで良いんじゃないかという考えに至ってしまい、極端に家事の頻度は減っていた。
 夕食の時間となったので、直りたての人形が作った熱々のストロガノフを堪能し、日付が変わる前に布団に潜り込んだ。しかし、眠気はあまりない。古典に倣って羊を数えながら目を瞑ってみてもどうもうまくいかない。成美の魔法が効いているのか、体力が有り余っている感じがした。
 夜に目的もないのに眠れなくなると、不思議と焦る。何かをしなくちゃと、居てもたってもいられなくなり、つい余計なことをしてしまう。予定外の行動は、合理的ではない。それは体力を前借りするようなもので、必ずどこかでツケを払わなければならなくなるからである。
 頭ではわかっているのだがとうとう我慢できなくなり、魔理沙は棚の上に置いてある魔女の軟膏を手に取り、外に出た。
 ぴゅうぴゅうと秋の夜風が吹き付ける。魔理沙はこれから飛行するつもりだった。
 森の木々が邪魔なので、開けた場所まで箒で飛んだ。そこで箒を投げ捨て、万が一に備えて身体強化の魔法をかけた。そして、持ってきた軟膏薬を身体全体に塗りたくった。
「うお」
 感覚が鋭敏になり、飛ばずとも風の叫びが聞こえてくる。耳を傾けているうちに彼女の身体は自然に宙へと舞い上がった。闇に紛れる黒い魔法使いの夜間飛行が始まった。
「狂え、私」
 狂気に追いつけ、と心の中で何度も念じた。ぶっ飛べ、正気の番人を飛び越えるんだ。魔女の軟膏ではまだ足りない。重力という絶対の力ですら無に帰す完全な浮遊を体感しろ。そうすれば空に手が届くはずだ。
 魔理沙は高く飛ぶというイメージに身を任せた。
 風が鋭利な刃物のように彼女の身体に突き刺さった。脳が激しく揺れ動き、全身からは汗が噴き出した。
「ぐ、あ、あ」
 意識が溶ける。暗い夜の世界と混ざる。目を瞑ると上下左右がわからなくなり次元の壁を越えたようにさえ錯覚する。
 そして魔理沙は意識を失った。


 悪夢を見た。寂しげな背中の少女をがむしゃらに追いかけていた。大気を切り裂く感覚はあるが箒の制御が全く効かないことから、魔理沙はこれが明晰夢であるとわかった。しかし、以前来た夢の世界とも違う気がした。こんなにも殺風景ではなかったからだ。距離は一向に縮まらない。目印も何もない白一色の空間だから、前に進んでいるかすら疑わしい。
「くそ、潜在意識ってやつか。だったら、あいつは霊夢か」
 口にした途端、前を飛ぶ少女に色がついた。紅白の姿は紛れもなく博麗霊夢だった。ちらりと一度だけ、後ろを見てぎこちない笑顔を作った。その怪し気な目は魔理沙の知る霊夢像とは似ても似つかないものだった。
「違うだろ、そんな顔、お前はしないだろ。馬鹿野郎」
 霊夢は困ったような顔をして、もう一度振り返った。
「偽物だ、お前は虚像だ、夢が作った架空の存在なんだろう。もっと自然に笑うだろう、怒るだろう、その顔、止めろよ」
 今度は立ち止まって振り返り、頭を掻きながら照れたように笑った。その顔は魔理沙が幼いころに見た、面倒な客の対応をしている母親にそっくりで、今にも「申し訳ありませんでした」と頭を下げんばかりであった。
 魔理沙が追いついた。霊夢の頬には艶やかに朱が差していた。
「お前は霊夢じゃない」
 そう言った瞬間、霊夢の身体はボロボロと崩れ落ち、風もないのに紙吹雪となって散り散りになった。


 目が覚めると清潔そうな白い天井がまず魔理沙の視界に入った。そして鈍痛が全身を縛っていることがわかった。魔理沙は包帯でグルグル巻きにされ、永遠亭の処置室に寝かされていた。
 あの後、気絶してしまった魔理沙は真っ逆さまに落ち、地面に衝突した。高度がそれほどでもなかったことと、白蓮に教わっていた身体強化を事前にかけていたおかげで一命は取り留めた。半日ほど気絶していたところ、魔法の森の植物を摘みに偶然通りかかった鈴仙が発見し、搬送したのだ。
 ぼんやり天井を眺めていると、永琳が様子を見に入ってきた。覚醒した魔理沙を見て、永琳はあきれ顔を浮かべて言った。
「おかえりなさい。バッドトリップは楽しかったかしら」
 魔理沙が使用した魔女の軟膏とは、アヘン等のアルカロイドを中心に植物等の素材を調合した麻薬である。どちらかと言えばダウン系で、軽度の幻覚作用があるようにオリジナルで調合したものだった。鎮痛のほかによく言われる「トブ」という現象を引き起こすのだが、それが悪い方に作用してしまうとひどい悪夢を見たりする。疲労がある時や精神状態が良好でない時に使用するとバッドトリップは起きやすく、魔理沙はまさにそれを体験してきたのだ。気丈に振舞っても、精神は疲弊していた。
「また失敗したのか……」
「何度も言ってるじゃない。浅はかなのよ、ジャンキーにしか見えないわ」
「私は依存症じゃないし、ちゃんと目的があって使ってる」
 魔理沙は不貞腐れたように言った。実は、彼女が搬送されるのはこれで四度目である。あくまで飛行体験が目的なのだが、こうも続くと医療者としてはただの依存症を疑ってしまう。
「ジャンキーもヒッピーも大差ないと思うけどね。しかしまあ、こんな出来の悪い混ぜ物で、もう少しましなもの作りなさいな。ええと、ケシの実にマンドラゴラ、スベリヒユ、レタス、スイレン、踊茸……変なアレンジね。瘴気の影響で変性した茸まで入ってる」
 魔理沙が持っていた魔女の軟膏は、永琳がその成分をきっちりと分析していた。ラベルも張ってわざわざ読み上げてみせるところが意地悪である。怒るわけでもなく、調合の下手さを見下すところは彼女らしい。自分ならばもっといいものが作れると言いたいのだ。
「あっ返せっ、痛っー!」
 魔理沙は取り返そうとしたが、打撲による痛みで身体が動かなかった。手を伸ばすだけで灼熱感がある。話せる元気があるのは偶然の産物に過ぎない。
「没収します。代わりにちゃんとした薬を出しておくわ」
「うう、酷い」
 永琳は軟膏を自身のラボに運ばせるよう命じた。のちの研究に活用するつもりである。むしろそれが目的で取り上げたのだ。永琳としては、たとえ魔理沙が重度のジャンキーになったとしても治せる自信があったので、無理に咎めたりはしていなかった。一応、医療者として注意喚起をする程度に留めている。
「しばらくは安静にすること。一週間は入院ね、あとで脳に異常がないかを検査するわ」
「えー、私には時間がないんだ。あんたたちと違って」
 魔理沙は頑張って皮肉を吐いた。冗談のように言っているが、この焦りが今回の件を引き起こしたのである。本人は懲りてないようなので、永琳は含みを持たせて言った。
「……若い身体で無茶すると発育に影響するわよ」
「……以後気をつけます」
 思わず敬語になってしまった魔理沙であった。年長者が真面目なトーンで話すと急に説得力が増すのである。


 魔法の森と里の間に位置し、店主が傲慢にも、ここが幻想郷の中心だと豪語する古道具屋は今日も閑散としていた。店の外はガラクタという名の宝物で溢れかえり、一歩間違えればゴミ屋敷と見間違えられそうな香霖堂の扉を魔理沙はノックもせずに開けた。
「いらっしゃ、君か」
 店主の森近霖之助は、客ではなかったとわかるが否や「はぁ」とため息をついて見せた。
「ああ、私だ」
 霖之助の不愛想なまなざしは、魔理沙にしてみれば、一面の新緑のカーペットに寝そべったかのように親しみがあるもので、穏やかで変わらない日常がそこにあるという安心感すらもたらしてくれた。きっとこいつはいつまでもこんな調子なのだろう、そう思った。退院直後で薬剤の匂いが染みついた永遠亭の住民以外とまともに関わってなかったので、なおさら埃まみれの空間に安堵する。
「特に用はないんだが、進捗を尋ねにな」
「ああ、あらかた終わっているよ、というか前にもそう伝えたはずだが」
「そうだったっけ、いやまて、もう一度採寸した方がいいんじゃないか。なんたって成長期だ」
 魔理沙が依頼していたのは新しい服であった。一か月も前に完成はしているのだが、彼女はまだ受け取っていなかった。
「変わらないよ、見ればわかる」
 ちんちくりんな体躯はほんのわずかな期間では変わらない。魔理沙の採寸などここ一年はしていなかった。長い付き合いなのもあり、霖之助は彼女の些細な変化も見落とさない。本人は商売人として当然だと思っていた。
「お前まで言うのか! なんでどいつもこいつも私に遠慮がないんだよ!」
「ふむ、事実は受け入れるものだよ。ただ、どうしても辛いのなら目を背けるといい。僕はそうしている」
 わからないことは考えない、これは霖之助の哲学であり、不思議で溢れかえっている幻想郷で気が狂わないための思考法であった。
「うるせぇやい。私は茨の道を選ぶんだ。傷だらけの魔理沙だぞ、ほら、優しくしろ」
「応援するよ。破れた服くらいなら繕ってあげよう」
 霖之助はお茶を用意した。出涸らしではなく最近はもっぱら出花である。しみじみとうまい茶を啜り、霖之助は何かを思い出したように言った。
「丁度よかった。魔理沙、一つ頼まれてくれないかい」
「単刀直入に言わない時はやましさを隠してる証拠だぜ」
「僕の無意識は後ろめたいのかもしれないね。まあいい、これを届けてくれないか」
 魔理沙の言い分を適当に流しつつ、霖之助は巫女装束を取り出した。霊夢が依頼したものだ。彼女は三年ほど前から香霖堂へ来る回数が激減しており、服や武器の新調といった用事がなければ訪れなくなっていた。また、依頼品にはしっかりと代金を支払っていた。
 そのことに霖之助は寂しさを覚えつつ成長のあかしだと受け止めていた。妖怪と人間という関係上、線引きの意識を持ったのだろう。ちなみに、ツケはまだ半分ほど残っている。半人でもある自分への甘えであると霖之助は考えていた。
「魔女の宅配便は高くつくぜ」
「ツケで」
「きくわけないだろ」
「君のツケを減らすと言ってるんだ」
「……ぐ」
 魔理沙は滞納したツケをいまだ支払っていない。払うときは霧雨魔理沙が死ぬ直前だろうと、半ばあきらめの境地に達していた。
「わあったよ、服の新調ね、はぁ」
 魔理沙のため息の意味を数十秒ほど考え、勝手に納得して霖之助は言った。
「ああ、彼女も成長期だからね、個人差はあるさ」
 恨めし気に魔理沙は睨みを利かせた。「身長のことだよ」と付け足されると、今度は不貞腐れた。
「あーあ行くの憂欝になったなぁ香霖のせいでなぁ」
「わかったわかった。僕が悪かったよ」
 面倒くさい醜女のような駄々をこねていたが、霖之助が謝るとすんなりと機嫌は直ったようであった。
「よろしい、じゃ行ってくる」
「いってらっしゃい、は少し変か。頼んだよ」
 魔理沙は箒を手にすると、博麗神社に向かって勢いよく飛び立っていった。


 神社に人の気配はなくいつも通り寂れていたが、静寂がむしろ神々しさを醸し出していた。清められた空気が漂う領域に、魔理沙は踏み込んだ。鳥居をくぐると、狛犬が出迎えてくれる。今は夜で、高麗野あうんはうつらうつらとしていたが人の気配を感じ取ったのか、目を覚ました。
「ご無沙汰してます」
「なんだあうんか、てっきり追い払われたと思ってた」
 霊夢は妖怪たちと距離を置いていた。あくまで、妖怪を退治する側であるという立場を示すようになったのは、三年ほど前からである。本人曰く「普段からそうしていたつもりなのに、妖怪どもが勝手に寄ってきて辟易していた」とのことだが、以前の霊夢に説得力は欠片もなかった。今は随分と厳かである。
「私はもともと神社の狛犬ですし。霊夢さんも情けをかけてくれたんでしょう」
「薄情なあいつがか」
「せめて、情け容赦ないって言ってあげてください。まぁ、確かに話しかけてきてはくれませんけど」
 あうんは寂しそうに言った。彼女は退屈していた。ただでさえ参拝客の一つすらないというのに喧しい妖怪連中も来なくなっては神社は静かになるばかりであった。きゃあきゃあうるさいだけの妖精たちは来なくなり、床下のクラウンピースも拠点を変えていた。
 霊夢も霊夢で、修行と称してどこかへ行ってしまう頻度が増えたので、眺めるものもない。元々が狛犬であった以上黙って見張りしていること自体は苦痛ではなかったが、ひたすら退屈だった。
「じゃ、またな」
「えーもっとおしゃべりしましょうよー」
「今日はいいだろ。霊夢に用事があるんだよ」
「ちぇ、わかりましたよーだ。あ、でも今魔理沙さん侵入者ですよね。勝負する大義名分が――」
 逃げるように魔理沙は本殿へと転がり込んだ。決してあうんは強くないが、用事が先である。
 霊夢は縁側でのほほんとお茶を飲み、空を仰いでいた。これが彼女の至福のひと時であり、あらゆるものから解放される瞬間であった。ゆえに表情もだらしなく緩み切っていた。だが暗闇に紛れながら近づいてくる気配を感じ取ったので一瞬身構えた。
「なんだ。魔理沙か」
「なんだとは失礼な。お届け物だぜ」
「わぷ」
 魔理沙は巫女装束を放り投げた。湯呑を持っていた霊夢は顔面で受け止めるしかなかった。
「あーできたのね。取りに行ったのに」
「いや、私が勝手にやったんだ」
 特に意味のない嘘ばかり言うのは彼女の本能なので仕方なかった。
「なあ、遊ぼうぜ。夜が更けるまで」
「いいわね」
 二人は高く飛び上がり、幻想郷全土を覆う雲を突き抜けた。夜空に浮かぶ狂気と紙一重の満月と、その周りにちりばめられた星々が彼女たちを歓迎しているかのようであった。風は凪いでいた。無粋な歓声も、熱を帯びた視線もない贅沢な静寂の中、声を先に発したのは霊夢だった。
「夢符「二重結界」」
 開口一番で小手調べとばかりにスペルカードを発動した。札の隙間をかいくぐり魔理沙はひたすら避けに徹した。飛び交う弾幕を目に焼き付けながら、考えを読み、いくつものパターンから最も華麗で無駄のない動きを目指す。あいつならどう躱す、あいつならどこに撃つ、第六感で捉えるイメージである。憑依したかのように、相手の思考に自らを重ねた。これは霊夢の弾幕をよく見てきた魔理沙にしかできない芸当で、ある意味では彼女らしさが詰まった戦法であると言えた。
「じれったい」
 霊夢は弾速を加速させ、さらに密度を高めた。霊夢にも魔理沙の動きは予想できた。
右、右、そこで切り返し、自分が一番やられたくないところを的確についてくる。らしくもない。「最大の防御開始だ」と言って突っ込んでくる粗暴さを忘れたのだろうか、レーザーで道を切り開く大胆不敵な彼女はもういない。相手は合理と経験で食らいつくこす狡い魔法使いだ。
 嬉しい。魔理沙は本気なのだ。首をとるために必死で考え、プライドすら捨てて、真っ向から勝負を挑んでいる。今の魔理沙に華は無い。弾幕は己を写す鏡で、自己表現の境地なのだから。
 それでもなお嬉しい。こいつだけはずっと、ひたむきに追いかけてきてくれる。何処へ行っても後をついてくる。たまに先を越されると堪らなく悔しい。
 負けたくない、霊夢はそう思った。
 霊夢はにやりと口元を歪ませた。本人は気づかれてないつもりのようだが、月の光に照らされてくっきりと輪郭が浮かび上がっていた。あんなに楽しそうな表情を見れるのは私くらいだ、魔理沙は半ば本気でそう思った。
 他の皆、パチュリーにしろ、白蓮にしろ、少々勘違いをしていた。霊夢との弾幕ごっこにおいて魔理沙は単に勝ちたいのではない、彼女の豊かな喜怒哀楽を刺激して楽しませ、そのうえで勝利をもぎ取りたかった。追いかけ、偶に抜かすから霊夢はいつまでも孤独ではない。自分の世界に閉じこもるのと同じくらい、誰かと触れ合う瞬間は素晴らしいもので、現状霊夢にはそれが足りないから荒れているように見えてしまう。魔理沙はちょっとだけ哀れな、大人になりかけている少女の空虚な部分を埋めていた。
 スペルカードが途絶えた。ここまで一度の被弾もなく、またボムの一つすら使っていない。魔理沙は眼前まで迫り、帽子の鍔をくいと上げ、ミニ八卦炉を構えた。それが勝利宣言だった。
「まいった」
「へへ、今日も勝ちはいただいたぜ」
 弾幕の実力は五分五分といったところで、最近は魔理沙が勝ち越していた。地団駄を踏みたくなるほど悔しかったが、幼子のような醜態を今の霊夢が晒せるはずもなく、面白くなさそうにこう言った。
「なんで、そんな避けれるのよ。結構難しくしたつもりなんだけど」
「私は霊夢を一番よく知っているんだ」
「何それ気持ち悪い」
 魔理沙は恥ずかしげもなく言った。努力を影に隠すための気の利いた冗談でも、歪曲した愛の告白でもない、ただの事実だからだった。


 けが人が階段を降りるようにゆっくりと、二人は高度を下げた。風にあたるとすうっと霊夢の無念は溶けてなくなった。あくまで弾幕ごっこは遊びであり、悔恨を引きずってはいけないというのが彼女の流儀であった。どうしてもというなら濃い酒で洗い流す。残るのは興奮の余韻と、再戦への渇望だけだ。その流儀について魔理沙も口だけは同意していた。
 秋の夜空が雲に隠れて、光は少ないが幻想郷がよく見渡せた。熱に浮かされたように魔理沙は言った。
「良い場所だ。此処は」
「ええ、ほんとに」
 無数の歯車で構築された、残酷なまでに美しい楽園だ。清い水と穢れた体液、清濁併せ呑んだ大地と、そこに強靭な根を張る緑。霊夢にはそれが先ほど見た、完璧なお月様よりもずっと素晴らしいものに思えるのだ。空を飛び、何者にも縛られない彼女の望郷の念であった。たった数刻、地から離れていただけで抱くほど、霊夢は幻想郷を好いていた。
 深夜零時、ふわふわと天から下り続け神社の屋根が見えた頃、霊夢は何かを発見した。森の中、木々に遮られてはいるが狐の妖怪と人間が唇を重ね合っているように見えた。それはキスだったのかもしれないし、妖怪側が襲っているのかもしれなかった。
 霊夢は魔理沙を置き去りにして一目散に飛んでいった。
「あちゃあ」
 魔理沙が追いつくとそこには骸のように物言わぬ、妖怪と思しき肉塊が一つ転がっていた。霊夢は聖母のような温かい微笑みで、怯えている里の男に語り掛けていた。
「大丈夫? 私が来たからよかったものの、夜は妖怪達の時間、あまり出歩いちゃだめよ」
 慰めと警告を孕んだ柔和な声色は、砂糖菓子のような甘ったるい感覚から秋の寒空の現実に引き戻すには十分過ぎた。怒りも恨みもなく、男は無言で震えていた。
 間抜けなやつだ、と魔理沙は思った。
 縛られると抜け道を探したくなる、危険な恋の道はその分甘美だ。ふわふわとした綿菓子のような幻想に包まれれば痛みすら忘れてしまう。だから好奇心は恐ろしい。それを断ち切ってくれる霊夢は一見無慈悲だが、実は良心的なのだ。悲劇を未然に防ぐヒーローは称賛こそされないが、平和の理想像に最も近いのである。
「あーあ、嫌なもん見ちまった、流石は泣く子も黙る鬼巫女様」
「何よ失礼ね。人間巫女よ。まあ血なまぐさいのは私も嫌いだけどね」
「後処理どうすんだこれ」
「さあ、動物たちが食べるんじゃない」
 放心状態の男を二人がかりで担ぎ、人里まで送り届けた。
 帰り足、魔理沙は自宅の真上で別れを告げた。
「じゃまたな」
「ええ、またね」

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