Coolier - 新生・東方創想話

菫は夏に薫らない

2019/07/18 01:26:12
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「なぁ宇佐見」

 言葉を投げかける、その背中。

「……俺、まだ今月の分貰ってねぇんだけど」

 董色のベストと、菫色のプリーツスカート。肩に作った二つのおさげと、耳にかかる赤いメガネ。エプロンの紐が、腰の後ろで結ばれている。キッチンで動かす手を止め、首だけで振り返った彼女は、何の感情も読み取らせない表情でこちらを凝視してから、再び視線を手元に戻した。

「……そうだったね」

 パチリ、と。コンロの火が消され、炒めた野菜が盛り分けられていく。皿は二枚。食卓、白米の茶碗の隣に皿を置き、エプロンを脱ぐと、彼女はそくさくと自室へ戻っていった。
 月に一度の、いつもの光景だ。俺は出された飯をかっ込みながら彼女を待った。

「徹夜明けの朝メシはうめぇな」

 暫くして、茶碗の脇に小さな手が添え置かれる。

「……はい」

 そうとだけ言って、彼女が手を戻す。卓上には……数枚の紙幣が残されていた。

「うっひょお~!」

 箸を投げ出し、金を手に取る。

「三、四、五、六と……一千、二千……」

 そんな俺を気にもせず、彼女は空いてる二つの席の一つに腰かけた。

「いただきます」
「四千、五千……六万五千円!?」

 顔を上げる。彼女は目を伏せ、味噌汁をすするのみ。
 ……無言の肯定だった。

「うぉお! あざっす! いやぁ宇佐見パイセンマジパねぇっす!」
「やめてよ、その呼び方……。あんた私の同級生じゃなかったの」

 同級生。その言葉は、俺の耳には到底馴染まなかった。

「……きついな、薫子ちゃんよ。俺はもう高校なんか行くつもりねぇって」
「はぁ……」

 聞き慣れた溜息。

「そんなんだから読み間違えるのよ」
「何か言ったか?」

 彼女は答えなかった。俺には目もくれず、粛々と朝食を口に運んでいる。

「……まぁいい」

 俺は金を手に入れたんだ。多少の嫌味は流してやる。握った札をポケットに詰めながら、俺はその使い道を考え始めた。とりあえず今月分のタバコ代とパチ代はとっておくとして、少しいい酒を買ってみるのはどうか。新作のプラモを買うのもいい。二、三本気になっているやつがある。そういえば、先月完結したマンガがあったな、あれを…………いや、せっかく小遣いが増えたんだ。いっそ、奮発して風俗にでも行ってみるか。
 ……金の使い道を考えている時こそ、最も至福の時である。そのせいか、思索に耽るうち、俺の箸は止まっていた。

「ごちそうさま」

 無言の食事の後、彼女は席を立った。俺と違って、彼女には毎日通うべき場所がある。

「あ、そうそう」

 居間を出る前、振り返る。

「今日中にあれ畳んどいて」

 部屋の隅、エアコンの手前。窓際に吊るされたハンガーに、〝我が家〟の洗濯物がぶら下がっている。

「あいあい」

 干されているのは彼女のワイシャツ。靴下や手袋。何に使っているのか分からないマント、高校の体操着、等々。だがやはり目が行ってしまうのは……下着だ。干されているのは白、白、白、桃色、黄、黄、青、菫色、菫色、菫色。一昨日洗濯したばかりだから……いま宇佐見が付けているのは、ここに一枚足りない菫色だ。あいつ、俺の服と一緒に洗濯するなとは言った癖に、俺に下着を洗わせるのを何とも思っていないらしい。

「ちょっとは女の子の自覚持った方が良いぜ、宇佐見」
「は?」
「いやなんでもないっす! まじで!!」
「ともかく、今月はちゃんと節約するのよ」
「ウィっす」
「ギャンブルに使ったら殺す」
「ウィーっす」
「あと六時にご飯炊いといて」
「ウィーーっす」

 高校生の身支度は速い。化粧知らずの無敵な彼女は、半ば自動化された身支度のルーチンを数分で済ませ、今日もローファーを足につっかける。

「……いってきます」

 返答を待つことなく、扉が閉まり。
 返答をすることもなく、俺は最後の一口を食べ終えた。
 これがいつもの、彼女の一日の始まりであり。
 これがいつもの、俺の一日の終わりである。

「……今月も稼いできてくれよな……宇佐見」
 
 そう、俺はこの女、宇佐見薫子に養われている。



 世間は俺のような男をヒモと言うらしい。俺がどう呼ばれようとどうでもいい話だが、しかし、この「ヒモ」という言葉に込められた人々の意識が俺は気に食わなかった。
 ヒモという言葉、それは俺のような男に対する侮蔑の言葉として使われる。例えヒモという行為自体に罪が無かったとしても、人が俺に向けてその言葉を放つ限りにおいて、それは侮蔑なのである。では、なぜ「ヒモ」が侮蔑の対象たり得るのか。
 それは、侮蔑としてのこの言葉が、「転落」を意味するからだ。〝本来〟養う側のはずの男が、逆に女に養われている。その情けなさを嘲笑する意識が、「ヒモ」という言葉には込められている。逆に、女が男に養われている姿を見ても、それを「ヒモ」と呼んで侮蔑することは稀だ。この点で、「オカマ」という言葉も似ている。この言葉も、対象を男から女に「転落」したものと見なす者によって、侮蔑の言葉として使われてきた。女が男の立場へ進出することが却って褒め称えられることとは対照的に。
 だが、この「転落」の発想が出るのは、そもそも男が女より上であるという思考が無ければあり得ない。俺の気に障るのはここだ。何せ、字にしてしまえば明確な男女差別以外の何物でもないこの命題が、しかし、社会が育てた習慣として、あるいは歴史的に形成された常識として、無意識のうちに人々に根付いてしまっている。故に「ヒモ」という言葉で人は笑ってしまえるわけだ。
 その言葉自体よりも、その言葉を侮蔑として成り立たせている、根本の原因の方が気に食わない。自分の歪んだ常識に無自覚な健常者が、その歪んだ常識に則って、誤って共有された意識に依るが故に成立する侮蔑の言葉で以て、俺を馬鹿にしているのが気に入らないんだ。
 だから俺は、自分がヒモと呼ばれたところで恥じるつもりは無い。
 そうだ、俺はヒモだ。ヒモ中のヒモだ。ヒモで悪いか。何か文句でもあるのか。
 開き直りでも見栄でもなく、俺は社会への密かな啓発として、誇りをもって養われている。俺を馬鹿にしたければ、まず俺を馬鹿にしたがる自分の動機の根源を省みることから始めることだ。

 ……と、そんなヒモ哲学を展開したところで、誰かが考えを改めることも無く。社会は俺を置いて回っていく。取り残された俺は、それを追いかける気にもなれず、また独り、女子高生の部屋の床に寝転がって惰眠を貪る。俺の態度がどんなにデカかろうと、一人の声はやはり小さかった。その声を拾ってくれるのは、いまはもう、彼女しかいない。
 俺に残された道は一つ。
 宇佐見薫子。彼女との関係を保つことだけだった。

「そういえば」

 寝返りを打ち、窓の外を見る。
 雲のまばらな青空に、ひらりと一枚の花弁が舞った。格ゲーで鍛え抜かれた俺の動体視力は、それが梅の花弁であることを正確に同定した。
 冬の終わり。それは季節。俺には縁がなくなったもの。気にしなくなった時の流れ。いつのまに、薫子は……そして一応、俺は。一年次を終えようとしているのか。高校に行かなくなった俺に、学年という肩書がどれほど意味を成すのかよく分からないけど。
 でも、春が始まるということは……もうすぐその日がやってくる。
 ポケットに入っているこの金。その使い道が、もう一つ浮かんだ気がした。





 * * *





「で、これは何」

 ある春の日の夕方。
 玄関にうず高く積まれた段ボール。それを指差し、宇佐見は言った。最後の一箱を受け取って、宅配のあんちゃんを見送った俺は、予想通り困り顔の彼女とご対面だ。

「俺が頼んだ」
「何で?」
「何でって、いや、お前……」
「節約してって言ったばかりじゃん……」
「ちょっと待て、それはないだろ?」
「何が」
「俺一人のためにこんなものを頼んだと思うか?」
「どういう意味」
「開けてみろよ」
「……」

 宇佐見は、俺の持っていた一箱をかっさらうと、雑にガムテープを剥がし始めた。べりべりと音を鳴らす段ボール。がさがさと音を立てる緩衝材の古紙。現れたのは……二つの青い箱。表面には、デフォルメされたパンダが描かれている。

「何よ、これ……」
「分からないのか?」

 続いて、青い箱が開かれた。中には、銀色の包装をした菓子袋が、みっちり詰まっていた。同じ顔をしたパンダたちが、皆で揃って、こちらを向いて笑っている。
 そう、これは……宇佐見がよく食べているお菓子、ざくざくぱんだ。その箱買いだ。

「どうだ? 宇佐見。嬉しくて声も出ないだろ」

 自分でも分かった。俺は今すごく笑っていた。人に笑顔を向けたことなんて、いつぶりだろう。

「……馬鹿じゃないの……」

 呆れたような、あるいは折れたような。そんな声が漏れた。廊下の壁にもたれかかった彼女は、暫くうなだれたような格好をしてから、再びこちらに目を向けた。

「何で私なんかの為に……。どうして! こんな下らないことにお金をつぎ込むの? 何のためにあんたに小遣いあげてると思ってるのよ!」
「お、おいおい……」

 想定外の反応で、俺は暫く混乱していた。

「……何でそこでキレんだよ」

 これだから、女子の心は分からない。

「……私がどんな気持ちで……。こっちは夜までバイトしてんのよ? アンタのためにさ……。使うなら、自分のために使いなさいよ!」
「待て、落ち着けって、俺は……」
「お金の使い方ってものを知らないの? あんたは。ほんっとに貨幣に向いてないわね。……だいたい、どうするの、こんな量。二人でも食べきれるわけないじゃない」
「いや、確かに買いすぎたかもしれないけどさ……」
「はぁ……」

 やれやれ、と。頭を抱える宇佐見。これではまるで、息子のお茶目に耐えかねた母親みたいだ。

「とにかく……私が欲しいものは私が買うんだから、あんたは自分が欲しいものだけ買ってればいいの。分かった?」

 手をひらひらと振りつつ、部屋に戻ろうとする宇佐見。ちょっとした消化不良に襲われ、俺は後ろから声をかけた。

「でもなぁ、宇佐見、プレゼントってそういうもんじゃねぇのか?」

 ぴたり、と。彼女が通常でない挙動で停止する。ぎこちなく振り返り、間を空けること数秒。

「……何よ、それ」
「いや、だから、プレゼント」
「うん、だから、どういうこと?」
「プレゼントはプレゼントだよ」
「そうじゃなくて。……何で今日なの」
「は?」
「は?」

 宇佐見も、俺も、開いた口が塞がっていない。

「は? じゃねぇよ」

 まさか、自分で忘れたんじゃないだろうな。

「だって今日は……



 ……お前の誕生日だろ?」



 その一瞬だけ、二人の間の時は止まった気がした。もし外を見れたのなら、散って舞う桜の花弁さえ、宙に止まって見えただろう。

「っ……」

 静寂を破ったのは、うめきとでも言うべき嗚咽だった。彼女が言葉を詰まらせたのがよく分かる。手を合わせ、紅くなった顔を隠すように。廊下にへたり込み、彼女は俯いた。


「お、おい」

 耳を澄ませば、すすり泣くような声すら聞こえてくる。

「いや……そこまで喜ばれるとは思ってなかったんだが……」

 それとも、そんなに意外だったのだろうか。俺がお前に贈り物をすることが。だとしたら……それは少し寂しくないか?

「覚えて……」

 顔を見せずに、彼女はそう呟いた。そんなに恥ずかしいことなのだろうか。
 ……でもな、宇佐見。これは、お前がいつも、平気な顔で、俺にしてくれていることなんだよ。

「覚えてて……くれて……」
「あぁ、もちろんだよ――」

 忘れる訳が無い。

「――最初に惚れた、女の誕生日だからな」

 瞬間、がさりと包装がこすれ合う音がして。
 何かが顔に飛んでくる。

「いてッ!」

 ばさり。俺の顔で跳ねて、それは廊下に落ちた。投げられたのは、ざくざくぱんだの袋。

「おまっ、何すんだよ! ……っ!」

 ばさり。二つ目の袋が命中する。

「やっぱり要らない!」

 ばさり。三つ目。

「ちょっ」

 四つ目。五つ目。

「おいやめろ! 投げんな!」

 菓子袋の雨が止む。六つ目の袋を掲げたまま、宇佐見はぷるぷると震えていた。

「今日は私の誕生日じゃない!」
「はぁ?」

 やはり宇佐見は、顔を背けている。
 もしかして。

「もしかして……お前、照れてるのか?」
「ちがっ……」

 それ以上、彼女は何も言わなかった。
 夕日の光が、菓子袋の銀に反射して、ぎらりと金色に輝く。

「……不器用な奴だな」

 しゃがみこみ、床に散らかった袋を拾い集める。場の空気に耐えかねたのか、宇佐見は自分で握りしめていた一袋を箱に戻すと、逃げるようにキッチンへ消えていった。



 その日の晩御飯は、いつもより旨かった。





 * * *





「ただいま」

 今日も宇佐見は帰ってきた。ずぶ濡れの傘を手に提げて。

「……最悪」

 夏服。ベストを着なくなった東深見の女子生徒は、いささかか防御が足りないように思う。殊に、今日のような大雨の日には。

「透けてるぜ」
「黙れヒモ」

 梅雨。引きこもりの俺でも、その到来はすぐに察知できた。梅雨に気づくのに、風で季節が感じられるような豊かな感性は必要ない。それは快・不快という極めて基本的な生物の本能に直接訴えてくる。思うに、梅雨というのは季節ではなく災害なのだ。

「にしても濡れすぎじゃね? お前傘さすの下手くそかよ」
「いや、そもそも外出しないあんたに言われたくないわね」

 言って、彼女は白い箱を俺に渡した。

「何これ」
「冷蔵庫入れといて」

 見ると、その箱だけは一滴も雨粒が付いていなかった。そんなに大事なものなのだろうか。そう思って顔を上げた頃には、宇佐見は脱衣所に入って扉を閉めていた。

「……また増えるな、洗い物」

 洗濯という数少ない俺の仕事は、この梅雨の時期、分厚い雲に遮られ、度々その完遂を妨げられた。部屋干しをすれば臭いが酷く、その被害を一身に受けるのは家主たる宇佐見ではなく居候の俺なのだ。一方、その洗濯物を増やしているのは、俺ではなく宇佐見である。
 洗濯物を代償に守られた白い箱。俺は冷蔵庫を開き、ぎっしり並んだビールを退けつつ、なんとかそれを奥へと仕舞った。



 いつものように晩飯――俺にとっては昼飯だが――を終え、俺はテレビの前のソファーに陣取った。食後の一服しようと、ライターを取り出す。そのとき。

「ねぇ、それちょっと貸して」

 意外な言葉が耳に入り、こすろうとした親指は止まった。振り向けば、宇佐見がこちらに掌を向けている。

「何だ? 宇佐見、お前も吸う気になったのか?」
「は? 違うから。私を何歳だと思ってるの」
「そういうお前こそ、俺を何歳だと思ってるんだよ。今年から風紀委員になったんだろ? 宇佐見。生徒の未成年喫煙、注意しなくていいのか?」
「それは……」

 引き抜いたタバコを一本、見せびらかすように咥えた。ぴょこぴょこと、その白い棒を踊らせてみる。

「……からかわないで」

 俺は知っていた。宇佐見は酒やタバコ程度のことでいちいち俺を咎めない。この家に居座り始めてから、ずっとそうしてきている。彼女が注意するのを諦めているのか、あるいは呆れているのか、それは分からないが。きっと、その両方なんだろう。
 ただ、今日は少しだけ様子が違った。

「ともかく、今日はタバコ、ちょっと待ってくれない?」
「何でさ」
「いいから」

 宇佐見がこちらに手を差し出していた。

「ちぇっ」

 ぺちりとはたくようにライターを押し付け、俺はソファーに寝転がった。タバコを吸えなくなっただけで、丸一日、やることが無くなったみたいだ。一体、彼女は何に火を使うつもりだろう。聞けば、じゃり、じゃりとライターをこする音が聞こえてくる。
 同時に、宇佐見の短い悲鳴も。

「あっつ!!」

 見れば、宇佐見が親指を咥えていた。食卓で何をしてるのか、この高さからは分からないが。きっと、ヘマをして自分の親指を炙ってしまったのだろう。

「……阿呆か」

 見ていられず、立ち上がる。

「火が出る向きを考えろよ」
「し、知らないわよ! 普段使わないんだから」
「貸せって」
「あっちょっ」

 ライターを取り戻し、食卓の傍に立つ。そこで初めて、俺は宇佐見が何をしていたのか理解した。



 ――Happy Birthday



 小さめのホールケーキ。そこにプレートが乗り、ロウソクが刺さっていた。

「お前、これ……」

 あからさまにそっぽを向く宇佐見。ライターを持ち、俺は立ち尽くしていた。
 ぽたり、と。溶けた蝋がひとしずく、ロウソクの背中を伝っていく。 

「誕生日でしょ、今日」
「そうだけどさ……何で分かった? 俺、喋った覚えは無いぞ」
「そんなの、分かるものは分かる」

 即答だった。俺の生徒手帳でも盗み見したのだろうか。

「……ずるい奴だな」

 仕方なく、残りのロウソクにも火を付けていく。

「俺のプレゼントは受け取ろうとしなかったくせに――」

 六本目、七本目。じゅわりと音を立て、硬い蝋が溶けていく。

「――俺にはプレゼントを渡そうとするんだな」

 最後の一本を灯し、ライターの火を止めた。

「あれは……悪かったと思ってる」 

 片のおさげをかき上げ、彼女は俺に向き直った。

「今日はそのお返し」

 その眼差しは、思いの外真剣である。

「どうしたんだよ……らしくねぇじゃんか」

 俺に向かって謝る姿なんて、見たのは今日が初めてだ。

「いいから座ってよ」
「あいあい」

 俺が座ると、彼女は部屋の電気を消した。辺りがやわらかな橙に包まれ、見える景色の陰影が深まる。普段から住まう……否、居座っているはずの空間は、この時だけ、とても違っているように見えた。食卓に飾られた菫の造花も、今は何か神秘的なものに見えてくる。
 灯りというは、思いの外、世界の見方を左右するらしかった。こうしていると、普段は気づかないことに気づけたり、あるいは……忘れていたことを、思い出せたりするのかもしれない。

「誕生日、おめでとう」

 向かいの席から聞こえてくる声。暗くて表情は見えないけれど、おかげで彼女は、素直にその言葉を言えたのだろう。こういうとき、どんな顔をしたらいいか分からない俺にとっても、この暗さは却って都合が良かった。

「ありがとな、薫子」

 返す言葉は単純で、それで十分だったと思う。
 揺らめくロウソクの火。数は八本。それがケーキの上のイチゴを、ホイップクリームを、そしてお祝いの言葉のプレートを照らし出していた。初めて見た眺めに、俺は自然と惹きつけられていった。初めて……
 ……本当に初めてか? 俺が今、こうして感じている温かさは。初めてのものに対する興味というより、寧ろ……懐かしさに類する感情ではあるまいか? ……けれど。
 それはあり得ない。俺の家族は――もう、家族と呼びたくも無い奴らは――俺の誕生日の為にこんなことはしてくれなかった。それどころか、誕生日おめでとう、の一言すら無かった。……奴らにとっては、俺の誕生なんてものは、さしてめでたいことでも無かったのだろう。それだから、自分のためのバースデーケーキなんてものを、この目で見たことは一度も無かった。だからそれを懐かしく感じるような思い出も当然無い。全ては初めてのはずだ。
 実際、俺は戸惑っていた。
 今、これがどういう状況なのか、俺には分からないのだから。

「ロウソクが八本……てのは、何か意味があるのか?」
「えっ? それはさ……」

 暗に、察しろと言われている気がした。こういう特別な時には、あまり説明的すぎるのは野暮なのかもしれない。そう思いつつ、でも気になるから確認してしまう。

「あぁ、すまんすまん。俺の年齢だな? ええと……一本だけ高いのがあって、これが〝十〟か。残りの七本と合わせて、十七歳。そうだろ?」
「う、うん……」

 成る程。晴れて俺も十七歳。宇佐見の年齢にまた追いついたわけだ。こうやって、宇佐見を追い越すことも無く、俺はただ背中を追いかけるのだろう。 これまでも、これからも。
 そっちの方が、俺の性には合っていると思った。
 ……ところで。

「それでさぁ、宇佐見」

 そろそろ我慢の限界だ。何故、彼女は黙って、こちらを見ているのだろう。まるで、何かを待つように。……俺が何かをするのを待つように。

「どうすんだ? これ」



「し……知らないの?!」



 素っ頓狂な声で、穏やかなムードはぶち壊された。いや、この場合、壊したのは俺の方かもしれない。

「吹いて……消すのよ」
「そうか」

 せっかく俺が点けたのにな。
 ふぅう、と。名残惜しさをかき消すように。白い煙を立ち昇らせて、火は次々と消えていく。焦げ臭いような、僅かに甘いような、そんな匂いが香っては、儚く散っていった。

「……知らないってのは想定外だったわ」

 ぱちり、と部屋の電気が戻される。

「仕方ねぇだろ、こんなのは初めてなんだ」
「……そう、なのね」
「お前は慣れてるのか? こういうの」
「まぁ……うん」
「……そうか――」



「――幸せだったんだろうな、お前の家族ってのは」



 俺がそう言ったとき、宇佐見の動きが一瞬止まった。ケーキを切るための果物ナイフに、ちょうど手をかけたところだった。

「何それ……嫌味?」

 自分が放った言葉が、かなり無神経だったと。後になって気づき、後悔する。
けれど。

「あのな」

 俺もそろそろ、聞いておかなくちゃいけない。

「……不公平だと思わないか? お前は、何で俺が独りなのか……身を以って知っている。けど俺は、お前が何で……」
「それ、今日聞くことなの」
「そうだな……。何でもない日に、お前は話そうとしないんじゃないか? 宇佐見」
「……」

 口を結んだまま、彼女は席に戻った。

「聞かせてくれよ、家族の話」

 ロウソクを、一つずつ抜き、プレートを脇に置く。何も言わず。彼女はケーキを切り始めた。自分で話すのは、やはり堪えるのだろうか。
 それなら。

「お母さんは、どんな人だったんだ?」
「別に。……普通の人よ」
「やっぱり、美人だったのか? お前に似てさ」
「あんたがそう思うんなら、そうなんじゃない?」
「何だそれ」

 彼女は答えず、代わりに一切れ、小皿に移したケーキを差し出した。周到にも傍に置かれたフォークを手に取り、俺はケーキをつまみ始める。

「でも……クソみたいな男に引っかかった」

 語気に怒りが籠ったのを感じ、俺は一瞬身構えた。だがそれは怒りというよりも、どうにもならない事実に対する嫌味や諦観に近かった。

「それって……まさかお前のお父さんのことか?」
「そうよ。残念ながらね」
「酷い言われようだな。そんなにクソ野郎だったのか?」
「いや……それが」

 同じく一切れを小皿に移し、宇佐見もまたケーキをつつき始める。

「私が知る限りは……良いお父さんだった」
「何だよ、それ」
「娘が生まれて変わった、とかでしょ。よくあることよ」
「じゃあやっぱり。良い家族だったんじゃないか」
「まぁ……あんたの身の上からしたら、そういう感想を持つかもしれないけど」
「よく分かってるじゃんか」
「うん。……高校入るまで、あんたの言う通り『良い家族』だったと思う」
「それで?」
「終わった」

 ぶすり、と。イチゴを差す宇佐見の動作が、心なしか残酷に見えた。

「終わった?」
「お母さんが死んで、それで終わり」
「それは……急なこと、だったのか?」
「ううん。事故とかじゃない。病気。しかも絶対に治らない、どうすることもできない……病気」
「……そうか」

 なんだかやるせなくなって、俺もイチゴを差してみた。ぶすりと弾け、白い生地に赤が滲む。

「でも、その話だと、お父さんは……亡くなってはいないんだろ?」
「……まだ生きてるわ」

 先程とは違い、宇佐見の答えには間があった。

「なら今はどうしてるんだ?」
「……どっか行った」
「どっか行っただって? 一人娘をこんなところに置いて、他に行く場所がどこにあんだよ」
「さぁ……どこに行っちゃったんだろうね」

 そう呟く宇佐見は、どこか遠い目をしていた。

「……私のお父さん」

 その目を俺は、何度か見たことがある。今日より前にも、何度か。その目をするのは決まって夜で、宇佐見は一人食卓につき、何もせずただ頬杖をつくだけで。ここではないどこかを、今ではないいつかを眺めていた。それは、失われた両親を懐かしむ過去への眼差しか。あるいは、父親が再び姿を現す未来への眼差しか。分からないけれど、それでも俺は知っていた。その目線がただ漠然と、失われた家庭というものに向けられた視線であることに。
 気づけたのは……たぶん、彼女と境遇が似ていたからなんだろう。
 お互い、両親を失くした者同士。普段は絶対口にしないその事実は、しかし確実に、この生活の支えとして太い根を張っていた。

「早く、帰ってくるといいな」

 その場しのぎの気がする、そんな言葉をかける。二人に違う点があるとするなら、彼女は親が帰るのを望んでいて、俺は望んでいないということだけだ。

「……意外」
「何だよ」
「もし本当に帰ってきたら、あんたはお払い箱なのよ」

 確かにその通りだ。反論の余地も無い。俺が父親だとしたら、娘とこんなクソ野郎を同棲させるはずがない。

「そのときは……静かに居なくなってやるさ」
「かっこつけんな。居候のくせに」
「……そうだったな」

 言って、また一口、ケーキを頬張る。

「ほれでさぁ、宇佐見」
「何。飲み込んでから喋って」
「このケーキ、めっちゃうめぇよな」
「当たり前でしょ」
「どうやったらこんなドンピシャで俺の好み当てられンだよ」
「……どれだけ長い間あんたと食事してきたと思ってんの」

 たったの一年でも、俺を世話するのは草臥れるから、もっと長く感じた。そんな皮肉を言われた気がした。





***





 その日、宇佐見は帰って来なかった。
 夏休みのくせに制服を身に着けた彼女は、「ちょっと遅くなるかもしれない」と言い残し、昼過ぎに出て行ってしまったのだ。そのとき俺は起きたばかりで、寝ぼけていたから、聞いた言葉も定かではない。本当は他にも何か言っていたのかもしれないが、だとしても忘れてしまった。どこに行ったのか、何をしに行ったのか、何もかも分からないままだ。
 まず飯はどうするんだろう。遅くなるというのは、ただ帰るのが遅くなるというだけで、帰ってきたら晩飯は作ってくれるという意味なのだろうか。それとも晩飯を作れないほど遅くなるから、何か自分で適当に食べておけという意味なのだろうか。とりあえず机にカップ麺を置いてみたものの、やっぱりもうすぐ帰ってくるかもしれないという気がかりがあり、結局お湯を沸かさないまま時間が過ぎていった。
 時計の針は十時を回り、それでも部屋のチャイムは鳴らぬまま。懲りずに俺はカップ麺を開けなかった。俺は笑った。こんなに空腹を我慢してまで、何故目の前の食料を我慢する必要がある? 
 あぁ。判っている。ただ、こんなことになるまで気づかなかっただけだ。今日は飯は作らないと予め伝えられていたのなら、俺は迷わずお湯を沸かしただろう。だが未確定の状態で俺がそれを我慢するということは、つまりそういうことだ。
 俺は宇佐見が作る飯が好きなんだ。

「早く帰って来ねぇかな」

 普段は絶対に言わない言葉を口にした。
 普段は、口にしなくとも、帰ってくるのだから。そうやって規則正しく行っては戻ってくる宇佐見に引きずられるように、俺の生活は回っていた。多くの人間が、行っては戻る太陽に引きずられているの同じだ。だから今の俺は混乱していた。宇佐見が居なきゃ何も始まらない。俺の時計は凍り付いたままだった。そうしてやるべきことを見失った俺に、意識を保ち続けることは難しかった。
 十一時を回る。俺は食卓に突っ伏した。決して開かぬカップ麺を眺めながら。傾いた視界の中、中途半端に点けた部屋の明かりは暗く、影の淀んだ壁の模様に俺の意識は溶け込んでいった――



 夢を、見ていたんだと思う。それはもう酷い夢だった。何が酷いかと言えば、端的に言うと恥ずかしかった。どころか、畏れ多くさえ思った。夢は自分の欲望を映し出すと言うが、いくらなんでも、これが自分の欲望だとは認めたくなかった。
 それは、俺が宇佐見と結婚した夢だった。
 夢にしては詳細で、編集されたように整っていて、まるで誰かの人生をダイジェストで見させられていたかのような気分だった。
 ただ、結婚生活と言ったって、普段と殆ど変わらないようだ。俺は情けない男のままで、宇佐見に叱られつつ、少しだけ家事を手伝いながら、養われていくだけ。月の初めに金を貰い、好きな物を買って、好きなものを読んで、好きな時に寝る。それ以上を俺は望まなかった。臨もうとせずに諦めていた。昔から変わらないことだ。それでも確かに、違うものがあった。例えば、宇佐見がメガネをかけなくなったこと。宇佐見の身体が成長していたこと。そして、俺に笑顔を向けることが少しだけ増えたこと。一つ一つは小さな変化だが、夢を見ている俺の心持ちには、明らかに以前とは違うものが宿っていた。
 それは一つの事実だった。心の変化の根源に根付く、たった一つの事実。俺は宇佐見と結婚したんだという、その事実だけが静かにそこに佇んでいた。
自ら主張はしないけれど、必ずそこに居るような事実。例えるなら、小説のページの端に常に印字されている、話のタイトルのようなものだ。自分は今、この小説を読んでいるのだという、判り切ったことを確認してはページをめくるように。俺が宇佐見と結婚したんだという、揺るがない事実を心に刻んでは、夢の中の俺は堕落した生活を続けていた。

 満たされていたんだ。少なくとも、夢の中の俺は。けれど、こんな未来をどこか諦観している現実の自分も、またそこには居た。

 俺が結ばれる相手が居たとしたらそれは宇佐見に違いなかった。けれどそれは俺にとってそれ以外に可能性があり得ないというだけの話だ。宇佐見本人は違う。彼女は高校に通い、多くの人間と交流している。今でなくともこれから先、高校が終わればきっと大学に通い、それから社会に出ていくだろう。その間にどれだけの出会いがあるだろうか。引きこもりの俺には想像もつかない。そして、それだけの出会いの中で、宇佐見が俺という男を選ぶという選択肢を持つことが果たしてあり得るだろうか?
 無い。無いに決まっている。無だ。ゼロだ。夢を見ている時の畏れ多さはここから来ていた。結婚相手に相応しいかどうかという判定基準において、俺より下に来る奴が社会に居るはずがないのだ。それでも俺が相応しい、だなんて自信が持てるほど自己評価が高かったのなら、俺は今頃こうしてはいなかっただろう。だというのに夢が、俺にこれを見せて、その欲望を自覚させようとしてくる。これで自分の高望みに恥ずかしさを感じない訳がない。夢の中の俺が満たされていくほどに、現実の俺の自虐心はどんどんと深まっていった。
 宇佐見。お前は綺麗なんだから、もっと人を選べよ。いつまでも俺みたいなクソ野郎の面倒を見ていたら、お前まで腐っちまうぜ。そんなことを、ことあるごとに口にした。ただの自己満足だ。女子高生に自分の面倒を見させているという、時折顔を出す罪悪感をかき消すため予防線。自分を正当化するための言い訳。そこに居ない神父への懺悔。傷を抉る快楽。憐みで人の心を搔き乱す一種の享楽。
 そう、憐み。宇佐見が俺に向ける視線はいつも憐みだった。俺が向ける羨望の、ともすると崇拝の視線とは裏腹に。彼女は俺をそういう目では見ていない。だから平気で俺に下着を洗わせるし、風呂から裸で出てくることもある。端的に言えば、俺は男としてナメられている。そしてその立場に俺は甘んじている。宇佐見をそういう目で見るというのは、自分を養っている母親に対して欲情するようなものだ。
 そう、思っていたのに。
 俺の夢は、未来の続きを見せ続けた。結婚のその先にあることも。
 夢の世界で。
 お腹をさすりながら、宇佐見は俺に呟いた。

「ねぇ、名前、どうするの?」

 病院に置かれた黒電話が、じりじりと鳴っていた――



 ――がたり。夢の中の動揺が、現実の身体に伝わり、俺の足は向かいの椅子を蹴飛ばした。痛みと衝撃で目を覚まし、ゆっくりと瞼を開く。視線の先には菫の造花。その向こう、壁にかかった時計は……。

「二時半……?」

 とっくに終電の時間を過ぎているじゃないか。宇佐見は……まだ帰って来ないのか?
 夢の中で電話が鳴っていたのを思い出す。気づけば、それは現実の音だった。気づくのに結構時間がかかったはずだが、それでも電話は鳴り続けていた。こんな夜中に、一体誰が……。
 俺は受話器を取った。

「もしもし」
『寝てんじゃないわよ』

 聞き慣れたその声。少し喉が枯れているようにも聞こえるが。

「宇佐見……?」
『いいからドア開けて』

 見れば、インターホンが点いている。成る程、居眠りして俺がチャイムに気づかなかったから、電話をかけられてしまったらしい。そう納得しかけて席を立った。
 が……廊下を歩くうちに違和感に気づく。それは妙だ。あいつなら、俺が寝ていても鍵を開けて入って来られるはずだ。
 ……何故鍵を持っていないんだ?
 気になることは、まぁ、直接本人に聞けばいいか。そう決めて、いつものようにドア開けた。

「……ただいま」

 目が合う。ドア枠を挟んで相対する。それは文字通り、一瞬の出来事だった。だが俺はそれを見逃さなかった。瞬きの間に網膜に刻まれた、一枚の記憶が無限に反芻され、そして俺は直感した。

 ――この目は初めて見た、と。

 聞きたい事、言いたい事はたくさんあった。何故帰りが遅くなったのか。こんな夜中まで一体何をしていたのか。どこに行って誰と会っていたのか。どうやって帰ってきたのか。だがその疑問が俺の口から発せられることは無かった。
 次の瞬間には、目が背けられていて。彼女は俺を押し飛ばすように玄関に踏み込み、靴も揃えず脱ぎ捨てて廊下に上がった。
 その背中を、その後ろ姿を見て……俺が抱いていた疑問は、すぐに消え去ってしまった。新たに浮かんだ大量の疑問に埋もれ、上書きされ、掻き消えてしまったから。

 ――なぁ宇佐見。どうしてお前のシャツはほつれているんだ。
 ――どうしてお前のおさげは片方だけほどけているんだ。
 ――どうしてお前は片方しか靴下を履いていないんだ。
 ――なぁ宇佐見。
 ――スカートに滲むその汚れは何だ?
 ――なぁ宇佐見……。

 俺は手を伸ばし、その痣だらけの腕を掴もうとして。

「嫌ぁっ!」

 その手は強引に振り払われた。
 ばしん、という乾いた音が、真夜中の廊下に響き渡る。
 振り返った宇佐見は……俺をジッと見つめていた。否、睨んでいた。まるで、悪魔でも見るような目で。俺が悪の象徴だとでも言わんばかりに。表情は変えぬまま、目だけで俺を突き刺している。そんな気がした。

「何があったんだ」

 全ての質問を差し置いて、ただ一言、その言葉がこぼれた。

「……何も聞かないで」
「宇佐見……」
「何も言わないで」
「おい」
「いいから黙ってて!」

 叫び声にも近かった。釘を刺された俺は、しばらく宙に磔にされたように動けなかった。
 彼女の肩に、出かけるときに持っていたはずのスクールバッグは無く、手ぶらのまま廊下を歩きながら……あろうことか、彼女は服を脱いでいった。まるで、制服こそが彼女を束縛していて、それを彼女が引き剥がそうとしているかのように。それは、鬱陶しい全てのものからの脱却だった。
 首のリボンが外された。片方の靴下が放り出された。腰に巻いたカーディガンがほどかれた。腰に指先を入れ、ホックを外し、制服のスカートがばさりと床に落ちた。
 風呂場に入る直前。シャツと下着だけで振り返った彼女は、何も感情を読み取らせない表情で、こう言った。

「それ、全部捨てといて」
「……は」
「もう着ないから」

 ばたん。疑問を投げかける余地も無く、脱衣所の扉が閉まった。何故か、声をかけても届かない気がして、だから宇佐見と俺は隔絶された。
 ようやく磔が解けたように思え、俺は息を吹き返す。滞っていた呼吸が、血が、思考が全て再び流れ出す。そうして俺は、直ちに理解した。
 玄関前、目が合ったあの瞬間、働いた直感は正しかった。あれは、俺にとって初めて向けられた瞳であり……。
 彼女にとっての〝初めて〟を映し出した瞳だったのだ。
 床に散らばった、宇佐見の衣服。しゃがみ込み、拾い集め、未だ温もりを感じる掌。もう、着ないから、捨ててしまえと宣告され、役目を失ったその衣類はぼろくずに同じく、用済み、用済み、使用済み。間近に見れば、それは酷くしわくちゃで、強引に引っ張ったような筋がいくつも走っていて、ほつれた糸はどこまでも長く、長く伸びて、俺の足をくすぐって、宇佐見の髪は布に張り付き、宇佐見のものではない金髪の一本がはらりと落ちて、菫色、スカートのプリーツは歪に曲がり、捻じれ、伸ばされて、ホックはがたがたと外れそうに、壊れたチャックの歯はずれたまま詰まって動かず、裏地のサテンの艶やかな黒に、指を這わせれば僅かに冷たい感覚、濡れた指先の僅かなぬめり、それが至るところに染み、滲み、こびり付いて取れず、鼻を突いたのは生臭い、そして甘ったるい臭気、白く赤く散ってその内側を濡らし、何度も擦り上げ布が擦れ合う音は静かに、目にしていない光景の、しかしありありと浮かぶその光景、思い出せば、見た夢の、消して忘れぬその言葉、叶わない、未来の啓示は残酷に、自ら抱いた願望で、造り出された幻想で、結ばれる、あるはずも無い明日に溺れては、確かに伴う実感と、出所分からぬ確信に、この手に抱いた感触の、紛い物ならぬ確かさに、かつて持ち合わせていたタガは外れ、生物学的忌避感は打ち破られて、そう見えなかったものがそう見える気がして、初めてが解き放たれたあの姿に、いよいよ記憶は流転し、忘れるはずも無いその言葉、大きく膨らんだ下腹部と、さする彼女の穏やかな笑顔――






「最低だ……俺って」





 息を吐いた、その瞬間。

「タオル忘れた」

 ばたん、と。脱衣所の扉が開いて。
 ……再び宇佐見と目が合った。
 硬直したのは、今度は俺だけではない。
 彼女もまた、その場で固まっていて。
 どれほど時間が経っただろう。
 こんな真夜中で、外から聞こえる音も無く。ちくたくと、居間の時計が刻む秒針の音だけが響いていた。高まっていた鼓動が、冷めて冷え切るまで待つほどに。一秒一秒が過ぎていく。
 宇佐見を映す俺の瞳に映る宇佐見が、俺を映す宇佐見の瞳に映る俺の姿を見ていて。
 俺を映す宇佐見の瞳に映る俺は、宇佐見を映す俺の瞳に映る宇佐見の姿を見ていた。





「……気持ち悪い」





 すたすたと、裸足で宇佐見が近づいてくる。シャツがはだけて、下着が見えるのもお構いなしに。

「あんたもアイツらと同類ってわけ?」

 腕を組み、目の前に立ちはだかる宇佐見。その視線は、もはや憐みではない。
 軽蔑だ。

「違う、これは……」

 言葉が続くはずもなく。腕に抱えるスカートの、その部分を隠そうとして。硬直を続ける俺から、それらを彼女はごっそりと奪い取って。尻もちをついた俺を、更に見下すように。

「出ていけ」

 と宇佐見は言った。
 その言葉が意味することを、初めは理解できなかった。否、理解を拒んでいた。俺はこの家に居座り、そうすることで生を紡いでいるごみ屑。そうする以外に能の無いがらくた。そんな吐き溜め野郎が「出ていく」として、その先に待ち受けている運命は何か……。
 その時俺は、当たり前にして忘れていた、重要なことを思い出したんだ。
 
 俺は……宇佐見に全てを握られている。



「養われていいのは……養う覚悟がある奴だけだ」



「待って……」

 最後の縋りだった。

「待ってくれ!」
「断る。今すぐ出ていけ」
「宇佐見、お願いだ」
「願いなんて聞かない。何も聞くなと言ったでしょう」
「頼むよ! 一生のお願いだ」
「私は何も言うなとも言った」
「お前が居なくちゃ俺は……」
「黙れって言っているのが分かんないの?!」
「っき……」

 俺は立ち上がった。拳を握りしめながら。怒りよりも、もどかしさを伴って。
 そして、〝初めて〟の感情を伴って。

「宇佐見」
「近寄らないで」
「俺はな……」
「来ないで」
「本気でお前のことを……!」
「それ以上近づいたら殺す」

 それが、どれだけ本心からの言葉だったのか。判断する余裕など、今の俺にはもう無い。
 だから俺は、忠告を無視して……宇佐見の身体に手を伸ばした。



「宇佐見薫子!!!」



 叫んだ、その名前を。俺が初めて惚れた、そして今、初めて愛したいと思った、その女の名前を――
 ――瞬間。

「あがっ……!!!」

 突然、息が詰まる。それはまるで、誰かに首を絞められているかのような。けれど首の周りには何も無く。顔を上げれば、宇佐見は俺に向けて右手を伸ばしていて。その指先は、力強く中空を掴んでいるようで……
 ……俺の身体は、宙に浮いていた。

「なに、を、して……」
「分からないの……?」

 彼女はもう、表情を保つことを辞めていて。

「宇佐見薫子は死んだのよ……」

 瞳には涙が浮かんでいた。

「どうい、う……ことだ……」
「今日は……八月一日は……! 彼女の命日でしょう? あなたが愛した……宇佐見薫子の一周忌!」

 意味が、解らなかった。

「何を、言って……」
「どうして……っ、思い出してくれないのよ!」

 遠のく意識の中、視界も掠れていく世界で。俺は最期まで、宇佐見の言葉に耳を傾けていた。



「私、もう……疲れた」



 悲痛な叫び。それは心からの叫びだった。蓋をされ、抑圧され、無理に閉じ込められていた黒い塊。時が経つほどに膨らんで、今にも破裂しそうな痛みを、それでも彼女は押し留め、堪え、我慢し続けてきた、そんな感情の奔流。その全てが、一挙に流れ出す瞬間が今、俺の命の終わりと共に、訪れた。































「――お願いだから目を覚ましてよ。……お父さん」










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