平成二十八年 三月二日
「なぁ宇佐見」
背中にかかる、その言葉。
「……俺、まだ今月の分貰ってねぇんだけど」
一度振り返り、彼を見た。椅子に胡坐をかき、頬杖をつくその図々しさは、まるで母親に対する小学生だ。
「……そうだったね」
火を消し、炒めた野菜を食卓に並べる。エプロンを脱いでから、私は自室に戻った。鍵付きの棚、そこに仕舞った茶封筒を取り出し、中に入った札束を取り出す。
……今月はいつもより溜まったみたいだ。
「……はい」
そうとだけ言って、札を食卓に叩きつける。
「うっひょお~!」
箸を投げ出し、彼は金を数え始めた。
「三、四、五、六と……一千、二千……」
みっともない、なんて叱る気さえ消え失せて。私は空いてる二つの席の一つに腰かけた。
……残りの一つは、亡くなった母の席だ。
「いただきます」
「四千、五千……六万五千円!?」
へぇ。六万五千円なのか。どうせ彼が数えてしまうから、私はもう自分で数えるのを辞めていた。
「うぉお! あざっす! いやぁ宇佐見パイセンマジパねぇっす!」
「やめてよ、その呼び方……。あんた私の同級生じゃなかったの」
二十以上も年上の男にパイセンと呼ばれる、女子高生の身にもなってみろ。
「……きついな、薫子ちゃんよ。俺はもう高校なんか行くつもりねぇって」
「はぁ……」
何度目の溜息だろう。
「そんなんだから読み間違えるのよ」
そう、彼は必ず「菫子」を「薫子」と呼び間違えた。
「何か言ったか?」
否、彼の中では正しいのだ。私を「宇佐見」と、あるいは「薫子」と呼ぶことは。
「……まぁいい」
訂正しようとしたことは何度もあった。だが、全て徒労に終わっている。
箸の動きが止まっている彼。どうせ小遣いの使い道でも考えているのだろう。今月は額が多いから……奮発して風俗にでも行くのだろうか。
……行きたければ勝手に行け。妻を喪った男がそうするのを、誰も責めたりはしない。
「ごちそうさま」
独り、席を立つ。
「あ、そうそう……今日中にあれ畳んどいて」
洗濯と掃除だけが、彼の仕事だ。
私のシャツや下着の入り混じるハンガーを、彼はしばらく眺めていた。
「ちょっとは女の子の自覚持った方が良いぜ、宇佐見」
「は?」
「いやなんでもないっす! まじで!!」
この手のセリフは、無自覚な男が放つほど最低である。世の中の女性は、男性の何倍も性を自認している。否、させられているのだから。他ならぬ、男共の視線によって。
はて、私が着ているこの制服というものは、本来そうした視線から学生を護るためのものではなかったか。だがその象徴性は、容易に倒錯という火に対する油となる。消費の対象へと成り下がる。女にまつわるものは、須らく男共の餌となる。それを嫌という程実感したのは、つい最近のことだった。高校に進学して、毎朝毎夕乗るようになった通勤通学の電車。そこで私に向けられる視線は、正木先生の歌う「女の市場があのニューヨーク」のそれと、如何程の違いがあるというのか。
ただ……目の前のこの男だけからは。そんな視線を感じることは一切無かった。その意味で、彼は私にとって唯一の存在だった。同じ屋根の下で暮らしていながら、そんなことが微塵も起こらないのは。きっと、二重の意味で生物学的忌避感から来るものだろう。
「ともかく、今月はちゃんと節約するのよ」
「ウィっす」
「ギャンブルに使ったら殺す」
「ウィーっす」
「あと六時にご飯炊いといて」
「ウィーーっす」
本当に聞いているのだろうか。そんな心配をしている時間は私には残っていない。
「……いってきます」
その言葉は、誰に向けられたものだっただろう。そこに居る男に対してか。それとも、自分に対してか。或いは、荒んだ生活を内包するこの居住空間に対してか。……何れでもない。その言葉に対象は存在しない。「いただきます」も「ごちそうさま」も、この場所に於いて果たす役目は変わらない。
日常の演出。日常の構成、日常の偽造。常ならぬ生活に身を置いて、それでもなお常であろうとする祈り。「私は普通の生活をしている」という自己暗示。きっといつかは、元の生活に戻れるであろうという願い。
「夕飯時には……戻るから」
そう、私はこの男、実の父を養っている。
***
養っているというのは、しかし、養われているという彼の持つ認識に合わせたものに過ぎない。本当は、そして世間一般の目からすれば。私のしていることは……。
……否。今の自分の境遇を、分かりやすい枠に当て語るなど、私には到底できない。それは即ち……亡き母への冒涜なのだから。
昨年の夏。私は母を喪い、そして父は、最愛の妻を喪った。
私は人並み以上に悲しんだと思う。本当のところ、その悲哀を表現する術を私は持ち合わせていなかった。若くして肉親を失った子は誰でも、自分の悲しみをそう表現するしか無いのだろう。今はもう、流しに流して乾いた涙の跡を、空虚な残滓が撫でるだけだ。
人は自らの死の運命に直面したとき、四つの段階を経るという。
――困惑、怒り、絶望、受容。
そしてそれは、親しい者を喪った者も同じである。
初めは、事実を正しく認識することすら叶わなかった。死という究極の理不尽に対し、やり場のない怒りを覚え、腹の底で暴れるそいつを必死に噛み殺しながら過ごしていた。だがどれほど怒りを抱こうと、決して変わらぬその現実に対し、やがて無力感と絶望を覚えるようになっていった。そして最後に残るもの。あらゆる感情が目まぐるしく駆け巡った、胸の内は荒涼として。全てが流れ去った後に残る、砂漠の夜の岩が如く。揺るがぬ現実として、それは私の中に固定されたのであった。それが〝受容〟であると自覚したのは、あの日からちょうど百を数えるくらいの秋だった。
こうして過程を経るのにかかる時間は、もちろん人によって異なる。一般的に言って、私のそれは長いものだったらしい。
では、私の父はどうだったか?
一人の大人として、子供の私よりも早く、現実と向き合うことを選んだか?
それとも、最愛の人を喪う悲しみは親を喪うそれよりも深く、故に今もまだ絶望に囚われたままなのか?
答えは単純で、それ故に残酷だった。
――彼は過程を経なかったのだ。
時が流れるに従って、死というものが受容されていくのなら。
彼は時の流れそのものに反逆した。
現実を拒むあまり、認識の方を捻じ曲げてしまったのだ。
母の墓を立て、粛々と自宅に戻ったその夕方。彼は私にこう言った。
「――宇佐見、腹減った――」
そう。彼は。
良き父だった筈の彼は。
妻を喪った衝撃に耐えかねて。
二七年分の記憶を巻き戻してしまった。
二七年。
それは私と母の歳の差であり。
即ち、彼の記憶に……
……〝私〟は、居ない。
彼には私が、高校時代の私の母に見えているのだから。
* * *
四月十九日
「で、これは何」
ある春の日の夕方。
玄関にうず高く積まれた段ボール。それを指差し、私は言った。最後の一箱を受け取って、宅配の男を見送った彼は、何故かしたり顔でこちらを向いた。
「俺が頼んだ」
「何で?」
「何でって、いや、お前……」
「節約してって言ったばかりじゃん……」
「ちょっと待て、それはないだろ?」
「何が」
「俺一人のためにこんなものを頼んだと思うか?」
「どういう意味」
「開けてみろよ」
それは、私がよく食べているお菓子、ざくざくぱんだの箱買いだった。
「どうだ? 宇佐見。嬉しくて声も出ないだろ」
得意になる彼が、痛々しくて耐えられなかった。
「……馬鹿じゃないの……」
少しでも多く、あんたの心に余裕を持たせれば、その綻びをきっかけに「思い出して」くれるかもしれない。そう期待して、小遣いをあげているのに。彼も自分の好きなことをやっていれば、凍ってしまったその記憶が溶け出すかもしれない、と。
淡い期待だと分かっていた。初めの頃、私は何度も直接的な手段で彼の目を覚まそうとした。だがその全ては悉く失敗した。次の日にはけろりとして、彼は私に朝飯を要求するだけだった。だから……こんな間接的な手段で、何か成果が得られるとは思っていない。
それでも止めなかったのは……希望が欲しかったから。少しでも未来に対する期待を持てなければ、こんな生活は続けられないから。小さなことでも、試せるなら試して、「もしかしたら」の気持ちを無理やり湧き立たせて。自らに課した義務は、いつしか罰のように私を縛り、実体のない罪の意識を私に植え付けた。父から宇佐見薫子を奪ったのは、私だとでも言うように。
償いとしての父の扶養という監獄で、私は、良き父だった頃の彼にしか伝わらないコンテクストにある言葉を、会話の至るところに織り交ぜては、半ば八つ当たりのように彼に投げつけるようになっていた。
今回も、きっと同じなんだ。真意は隠しながらも、何とかそれを伝えようとして。察してくれるかもしれないという希望を託して。でもやっぱり、彼には伝わってくれなくて。結局今日もまた、彼の能天気に根負けしてしまう。
無理やり落としどころを見つけて話を終わらせた私は、この大量のざくざくぱんだをどうやって処理しようかと考えながら、自室に戻ろうとした。
しかし。
「でもなぁ、宇佐見、プレゼントってそういうもんじゃねぇのか?」
ぴたり、と。私の足が止まる。彼が口にした、「プレゼント」という言葉が耳に引っかかったから。
「……何よ、それ」
「いや、だから、プレゼント」
「うん、だから、どういうこと?」
「プレゼントはプレゼントだよ」
「そうじゃなくて。……何で今日なの」
「は?」
「は?」
お互い、開いた口が塞がっていない。
「は? じゃねぇよ。だって今日は……お前の誕生日だろ?」
じん、と。まるで後頭部を打たれたような、強い衝撃が思考を穿った。記憶の外に置いていたもの。悲しみと共に抑圧して、忘れようとしてしまったこと。その全てを、ある種の電撃を伴って、私は一挙に思い出してしまった。
今日、四月十九日は。
私の母の誕生日じゃないか。
「っ……」
全ての想いに先んじて、深い嗚咽が喉から漏れた。震えて、縮こまって、強張って。私の体はその場にへたり込んでしまう。
「お、おい」
思い出していた。かつての母の、誕生日のこと。三人で食卓を囲み、バースデーケーキのロウソクを灯して、ハッピーバースデーの歌を歌ったこと。体の弱い母は、息を吹く力も弱くて、だから私もロウソクを吹き消すのを手伝ってあげたこと。微笑みながら涙を浮かべる母を見て、どうして泣いているのと私は尋ねて……幼い私が、人は喜びで涙を流すと、初めて知った日のこと――
「いや……そこまで喜ばれるとは思ってなかったんだが……」
――私が生まれて以来、改心して働き始めたという父は、家族の誕生日にはいつも無理して高いケーキを買ってきた。到底一日では食べきれない大きさのケーキを、三日にも、四日にも分けて毎晩食べた。冷蔵庫の中で、日が経つごとに小さくなっていくケーキを眺めて、私は少し寂しい気持ちになったりした。そのときのことを、今でも覚えている。
けれど、
あなたはどうなの。……お父さん。
あの日々のことを。
「覚えて……」
……覚えて、いるの?
母が他界した今、それを覚えていられるのは父だけなのに。その父にすら忘れられてしまったのなら、あの場に居た私は……そしてこの記憶は……一体何なのだろう。私の記憶にしかない、私だけの思い出。どうしたら、それが幻ではないと証明できるの?
豹変した父を目の前にした私は……それが確たる現実であったという自信を、今も失いかけている。
「覚えてて……くれて……」
その言葉は願望だった。どうか、忘れないでいてほしい、と。全部でなくたって、せめて、誕生日のような、大切な日のことを、一日でも……。
「あぁ、もちろんだよ――」
確かに彼はそう言った。けれど……。
「――最初に惚れた、女の誕生日だからな」
彼は、母と二人だけの思い出を語った。
……娘であるはずの私に向けて。
「いてッ!」
気づけば、私は菓子の袋を投げていた。
「おまっ、何すんだよ! ……っ!」
自分に向けられているのに、自分には向けられていない。その言葉がひどく不気味で、私には恐ろしかった。
「やっぱり要らない!」
母に贈られたプレゼントを、どうして私が勝手に受け取れようか。
人違いで向けられた好意を、どうして素直に受け止められようか。
「ちょっ」
横取りなんて最低だ。お前が独りで食べていろ。その方がまだマシだ――。伝わるはずのない思いを込めて、また一つ、菓子袋を振るった。
「おいやめろ! 投げんな!」
聞いて、私の手は止まったけれど。
今度は口が本心をこぼした。
「今日は私の誕生日じゃない!」
お前が今日祝うべきは……私じゃない。
「はぁ?」
今日は母の誕生日だ。
そう叫んでしまえば、どんなに楽だっただろうか? ――否。私はまた、自分を傷つけることになる。「お前が薫子だろ」「母って何だ」「菫子って、誰だ」――。そんな言葉はもう、二度と、聞きたく、ない。
だから叫ばなかった。叫べなかった。故に……伝わるはずが無かった。
ああ。彼が今日、この日を、この〝私〟の誕生日として祝ったのなら。
本当の〝私〟の誕生を、祝ってくれる家族は……どこに居る?
「もしかして……お前、照れてるのか?」
「ちがっ……」
私は言葉を失った。
何もかもが伝わらず。
何もかもがすれ違っていた。
夕日の光が、菓子袋の銀に反射して、ぎらりと金色に輝く。
「……不器用な奴だな」
しゃがみこみ、床に散らかった袋を拾い集める彼。見るに堪えなくて、握っていた最後の一袋を箱に落とし、私はキッチンに逃げ込んだ。
何も考えたくないときは、料理に集中するのが一番だ。
そう、思ったから。
気づけば、その日の晩御飯は、いつもより手が込んでいた。
* * *
六月三十日
高校の帰り道のこと。
そうか、誕生日か、と。私は思い立った。記憶を引き出すにあたって、やはり鍵になるのは日にちだ。そして特別な日の記憶は、特別に強く残る。だから……
「ただいま」
私は梅雨の大雨から死守しながら〝それ〟を買って帰った。
「……最悪」
お陰で自分がひどく濡れてしまったが。
「透けてるぜ」
「黙れヒモ」
他の男に言われたら身の毛もよだつような汚言は、しかし、彼の口から発せられる限りにおいては何も意味をなさなかった。生まれた頃から私の裸を見てきた彼に、今更何を言われようが「黙れ」の一言で終わりだ。
「にしても濡れすぎじゃね? お前傘さすの下手くそかよ」
「いや、そもそも外出しないあんたに言われたくないわね」
言って、私は白い箱を彼に渡した。
「何これ」
その箱を見ただけでも、あの頃の父なら飛び上がって喜んだはずだった。
だが……今は良い。
「冷蔵庫入れといて」
夕食が終わったら、在りし日の誕生日パーティーを再現するつもりだ。
夕食の皿を片付け、綺麗にした食卓に、私はケーキの箱を置いた。丁寧に包装を解き、自分で選んだロウソクを差していく。数は八本。うち四本が太く、四本は細い。
この本数を見れば、もしかしたら彼は……。
微かな期待を持って、私はソファーの方を見た。彼はちょうど、ライターでタバコに火を点けるところだった。
「ねぇ、それちょっと貸して」
意外そうに振り返る彼。
「何だ? 宇佐見、お前も吸う気になったのか?」
「は? 違うから。私を何歳だと思ってるの」
「そういうお前こそ、俺を何歳だと思ってるんだよ」
――今日で四十四だろうに。
「今年から風紀委員になったんだろ? 宇佐見。生徒の未成年喫煙、注意しなくていいのか?」
「それは……」
私は言葉に窮した。なぜなら自分は風紀委員長などではなかったから。高校で私は一端の図書委員である。そうであったのは……私ではなく、私の母に違いない。
咥えたタバコをぴょこぴょことする彼は、風紀委員をからかっているつもりなのだろう
「……からかわないで」
私が彼の酒やタバコを咎めないのは当然だ。彼は成人を二周するだけの歳を重ねているのだから。
「ともかく、今日はタバコ、ちょっと待ってくれない?」
「何でさ」
「いいから」
今はただ、ライターが欲しいだけだ。
「ちぇっ」
ぺちりとはたくように渡されたライター。それをまじまじと見つめる。
そういえば……これを使うのは初めてだ。家でライターを使う機会があるとしたら、それはロウソクに火を灯す時であり。そして……その役目を負うのは、いつでも父だったから。
見よう見まねで、金具らしき部分をこすってみる。
「あっつ!!」
一本目のロウソクは点いたみたいだけれど。
「……阿呆か」
口に咥えて指を冷まそうとする私を見て、彼は呆れ顔で立ち上がった。
「火が出る向きを考えろよ」
「し、知らないわよ! 普段使わないんだから」
嘘は言っていない。私はパイロキネシスで自由に火を出せるから、本来道具は必要ないのだ。この力――所謂、超能力――は、母から授かったものである。二世代にわたって、彼には昔からずっと、内緒にしている。
家では彼に見られてしまうから、今はライターを使おうとしただけだ。
「貸せって」
「あっちょっ」
私の手からライターを奪い取り、食卓に視線を落とす彼。
そこでやっと、白い箱の中身を理解したようだった。
「お前、これ……」
彼の言葉が途切れたとき、私はなるべく口を挟まないようにと決めている。彼が何かを思い出す、その機会を奪わないために。
暫く彼は立ち尽くし、溶けるろうの雫を眺めていたようだった。けれど言葉は、いつまでも繋がらぬまま。私は仕方なく口を開く。
「誕生日でしょ、今日」
「そうだけどさ……何で分かった? 俺、喋った覚えは無いぞ」
「そんなの、分かるものは分かる」
母がいつ、どのようにして彼の誕生日を知ったのかは分からないけれど。その日にちを、私は、一人の娘として覚えている。
「……ずるい奴だな」
彼は順に残りのロウソクにも火を点けていった。自分の本当の年齢を表した、その八本へ。
「俺のプレゼントは受け取ろうとしなかったくせに、俺にはプレゼントを渡そうとするんだな」
最後の一本を灯し、ライターを止める彼。……やっぱり、気づいてくれないのかな。
「あれは……悪かったと思ってる」
片のおさげをかき上げ、私は彼に向き直った。
「今日はそのお返し」
仕返し、と言った方が本当は正しい。たとえ彼が無自覚でも、四月のあの日に彼が言ったことは、紛れも無く私への意地悪だった。だから今日は私の番だ。
「どうしたんだよ……らしくねぇじゃんか」
「いいから座ってよ」
「あいあい」
彼が座ると、私は部屋の電気を消した。
本当は、あの日のように、ハッピーバースデー、と、歌いたかったけれど。
「誕生日、おめでとう」
その言葉が精一杯だった。
歌ってしまえばまた、泣いてしまうかもしれなかったから。
「ありがとな、薫子」
言って、彼はずいぶんと長い間、ケーキを見つめていた。ロウソクの火に惹かれるように、感慨深そうに。あるいは……何かを思い出すように。
暗く、赤い火だけが灯るこの空間は、きっと彼の網膜にも焼き付いているはずだ。そう思ったから、私はこれを企てたんだ。
「ロウソクが八本……てのは、何か意味があるのか?」
内心、「来た」、と思った。
「えっ? それはさ……」
だが我慢だ。私の言葉ではなく、彼の意志で、そこに辿り着かなければ。そうでなければ、また同じことの繰り返しだ。
「あぁ、すまんすまん。俺の年齢だな?」
暗闇の中、私は独り、期待の火を灯した。
……けれど。
「ええと……一本だけ高いのがあって、これが〝十〟か。残りの七本と合わせて、十七歳。そうだろ?」
あぁ、もう。何て偶然。何て……失態。
暗闇の中では、太さよりも高さの方が目立ってしまうではないか。位置ばかり気にして、差す深さに気を配らなかった、五分前の自分を心の中で責め立てた。二十七年前の世界に生きる、彼の年齢は未だ十七歳。足し算が偶然合ってしまっている。
「う、うん……」
煙を立てて消えていった期待の火を惜しみながら、私はやんわりと返事を返した。今はいっそのこと、目の前のロウソクも早く消されてしまえと思った。だから彼が息を吹くのを待った。だがいつまで経っても、彼は黙ってそれを眺めているだけだった。
……ひどく焦らされている気分だ。これでは、どちらがどちらに意地悪をしているのか分からない。
「それでさぁ、宇佐見。……どうすんだ? これ」
「し……知らないの?!」
……まさかそこまでとは思わなかった。
「吹いて……消すのよ」
「そうか」
惜しげもなく、八つの火は消されてしまった。
「……知らないってのは想定外だったわ」
電灯を戻す。
「仕方ねぇだろ、こんなのは初めてなんだ」
「……そう、なのね」
父の家族について、私はほとんど聞いたことが無かった。二人の馴れ初めから察するに、父の家庭環境があまり良いものではなかったと容易に想像がつくが、しかしそれ故、軽い気持ちで本人に尋ねるわけにはいかなかったのだ。
「お前は慣れてるのか? こういうの」
「まぁ……うん」
「……そうか――」
……誰のおかげで慣れたと思っているのか。そんな、届かない呟きを、喉の奥で噛み潰した、そのときだった。
「――幸せだったんだろうな、お前の家族ってのは」
かつて、幸せな家族が過ごしていた居間で。
かつて幸せを共にしたはずの、父親だった男の口から。
その言葉は放たれた。
……無無自覚というのは、本当に残酷だと思う。
「何それ……嫌味?」
フォーク立てから引き抜いた果物ナイフは、自分でも悪寒が走るほど不気味な音を立てた。――このまま、何もかもを壊してしまいたい――。一瞬の、そんな悪魔の囁きが、確かに私の、指先を震わせた。
それでも彼は、さらに土足で一歩も二歩も、こちら側へ踏み込んでくる。
「あのな。……不公平だと思わないか? お前は、何で俺が独りなのか……身を以って知っている」
……知っているとも。そして私の方がより詳しく理解している。
「けど俺は、お前が何で……」
……私が何故、〝両親〟との繋がりを失い、〝独り〟になったのか。それをあなたは。……よりによって、あなたが。私に尋ねようというのか?
「それ、今日聞くことなの」
「そうだな……。何でもない日に、お前は話そうとしないんじゃないか? 宇佐見」
……ふざけるな。
私はお前に、何度も説明したんだ。事の全容を、母の死を、そして……お前の記憶喪失を。もう何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――。気が狂いそうだった。何度も説明し、何度も怒鳴って、何度も私という存在を主張して、何度も私という娘の存在を否定され……それでも続けた、精魂が尽き果てるまで繰り返した。あの一か月間は地獄のような毎日だった。だというのに、お前は理解を拒んだ。どころか、次の日にはケロッと忘れていたじゃないか。
だから、ついに私は諦めた。自分が父親に、高校時代の母の姿として認識されたまま生活することを受け入れた。高校時代の、彼の養い手を演じることを受け入れた。私はこの家で……笠原菫子を名乗るのを辞めたんだ。そうして自己同一性を完膚なきまでに抑圧される不快感は、しかし、それでも、あの地獄の日々に比べればマシだと思ったから。
だというのに。今更、お前は。
私に向けて、「どうして独りなの」と尋ねようというのか。
「聞かせてくれよ、家族の話」
……あぁ、私が母を、神として恋い慕うなら。
「お母さんは、どんな人だったんだ?」
……これが……冒涜でなくて何なんだ。
「別に。……普通の人よ」
……こうなったら、徹底的に〝私の家族〟の話をしてやる。宇佐見薫子を演じて偽りを語るのが、今日だけはもう、耐えられない。
「やっぱり、美人だったのか? お前に似てさ」
「あんたがそう思うんなら、そうなんじゃない?」
「何だそれ」
私は、不要までに力を込めてナイフを握り、無理やりケーキを切っていた。蟠り始めたフラストレーションを、何とかして鎮めるために。
切ったケーキを彼に渡しながら、言う。
「でも……クソみたいな男に引っかかった」
最大限のオブラートに包んで。
「それって……まさかお前のお父さんのことか?」
「そうよ。残念ながらね」
……察しが良いのか、悪いのか。
「酷い言われようだな。そんなにクソ野郎だったのか?」
「いや……それが」
同じく一切れを小皿に移し、私はケーキをつつき始める。手で何か作業をしていないと、本当に手が震えてしまう。
「私が知る限りは……良いお父さんだった」
……それだけは、本当だった。だからこれは、地獄なんだ。
「何だよ、それ」
「娘が生まれて変わった、とかでしょ。よくあることよ」
「じゃあやっぱり。良い家族だったんじゃないか」
……そうでなくしたのは、亡くなった母ではない。そこから目を背けたお前だ。
「まぁ……あんたの身の上からしたら、そういう感想を持つかもしれないけど」
「よく分かってるじゃんか」
……私はあんたに同情できる。でも、全てを忘れたあなたは、私に同情してくれるの?
「うん。……高校入るまで、あんたの言う通り『良い家族』だったと思う」
「それで?」
「終わった」
――ぶすり、と。気づけば私のフォークは、ケーキに乗ったイチゴを差し潰していた。
「終わった?」
「お母さんが死んで、それで終わり」
「それは……急なこと、だったのか?」
「ううん。事故とかじゃない。病気。しかも絶対に治らない、どうすることもできない……病気」
それは……超能力者として生まれた、母の宿命だった。
「……そうか」
短い返事を、私は只飲み込むことにした。次の言葉が、予測できたから。
「でも、その話だと、お父さんは……亡くなってはいないんだろ?」
「……まだ生きてるわ」
そう、生きている。生きて、目の前に座っている。……けれど。
「なら今はどうしてるんだ?」
「……どっか行った」
それもまた、私の心境としては正しかった。
「どっか行っただって? 一人娘をこんなところに置いて、他に行く場所がどこにあんだよ」
「さぁ……どこに行っちゃったんだろうね……私のお父さん」
今日、一番の意地悪だったと思う。
「早く、帰ってくるといいな」
……えぇ、本当に。
「……意外」
「何だよ」
「もし本当に帰ってきたら、あんたはお払い箱なのよ」
……一つの体には、一つの魂。目の前の男には、良き父の魂だけが宿ってくれればいい。
「そのときは……静かに居なくなってやるさ」
「かっこつけんな。居候のくせに」
「……そうだったな」
彼は一口、ケーキを頬張った。
「ほれでさぁ、宇佐見」
「何。飲み込んでから喋って」
「このケーキ、めっちゃうめぇよな」
「当たり前でしょ」
父は毎年、自分のケーキにこれを選んでいたのだから。
「どうやったらこんなドンピシャで俺の好み当てられンだよ」
私が持つ、そして今は私だけしか持たない家族の思い出を、そう甘く見ないでほしい。
「……どれだけ長い間、あんたと食事してきたと思ってんの」
これは私にとって、十六度目の父の誕生日であり。私はその度に、おいしそうにこのケーキを頬張る父の笑顔を見てきている。
彼の頭は、覚えていなくとも。彼の味覚は、その味を覚えていた。
それだけでも、今日の私にとっては、温かな救いだった。
* * *
時は遡り、二十八年前。昭和六十三年。
当時、日本は超能力ブームの真っただ中。ユリ・ゲラーを筆頭とした自称超能力者が人気を博し、世間を大いに賑わせていた。しかしそれは……とりもなおさず、〝本物〟の超能力者のコミュニティが、活発だったことの証左なのだ。
私の母、当時の宇佐見薫子はその一員だった。
超能力は、魔術や霊媒、呪術やシャーマニズムを含むあらゆる神秘術の中では最も歴史の浅いものである。故に権威性や伝承法、そして何より秘匿性という、神秘術に不可欠な要素の多くを欠いていた。超能力者の絶対数は他の秘術師に比べても遥かに少ないにもかかわらず、彼らが頻繁にメディアに露出していたのは、その表れである。
その秘匿性の無さ、能力者としての倫理の欠如は当然、人々に害をもたらした。能力行使による事件や事故が多発し、死者や重傷者も出始めた。事態を重く見た〝本物〟たちは、それを機に本腰を入れて超能力の〝秘匿〟を開始した。
翌年、平成元年はその〝秘匿〟が最も活発に行われた年であり、これを境に超能力関連事件は激減した。当時の母もまた、齢十六歳にしてこの計画に多大な貢献をしたという。
だが、事件はそれより前、昭和六十三年の晩春に起きた。〝秘匿〟が開始される前の、最も被害の多発していた時期。高校時代の私の父、笠原玄もまた、その一つに巻き込まれた。
日比谷公園焼殺事件。メディアに取り上げられた当初はそう呼ばれていた。場所は皇居にほど近い千代田区の日比谷公園、時間は午後十一時半ごろ。被害者は二名、ともに東深見高校の女子生徒。うち一人が死亡、一人が重体。原因はともに重度の熱傷であった。
当時被害者二人と同伴していたという笠原玄は、すぐに取り調べを受けた。彼の供述はシンプルで、「二人が突然燃え出した」というものだった。当然、そんな供述が真に受けられることは無く、彼は真っ先に犯人と疑われた。
死亡した一人の熱傷は特にひどく、ガソリンや灯油といった可燃物を大量に用いる必要のある計画的な焼殺事件であると断定されていた。笠原の家が灯油販売店であったこと、そして当時の笠原は高校では素行不良の少年であると認識されており、タバコを吸うためにライターを隠し持っていたこと等の偶然が災いして、彼の犯行であることはほぼ確実なものとなろうとしていた。
その窮地の彼を結果的に救ったのが、宇佐見薫子だった。そのとき彼女は、パイロキネシスを用いて日本各地で焼殺事件を繰り返す超能力者を追っていた。今は私がやっている、地面のマンホールから水を噴き上げる芸当は、この時彼女が敵に対処するために身につけたものだ。この事件で自らの高校の生徒が犠牲になったこともあって、彼女は一段と捜査に執念を燃やしていたという。
結論から言うと、笠原の供述は全く正しかった。人体発火現象(SHC)は現代オカルトの文脈では話題に事欠かない異常現象であり、犯人はその再現を目的として一般人を焼殺している愉快犯であった。これが超能力者の領域にある事件だと判明し次第、事件は〝本物〟たちに処理が委ねられ、笠原玄はひとまず解放されたのだ。
しかし、ここに、〝秘匿〟の問題が関わってくる。秘匿とは簡単に言えば「一般人に知られないようにする」というものだが、その意味することは冷酷である。超能力に関して、知られていないものは、知られないままにする。それは秘匿のあくまで一面にすぎない。問題は、知られてしまったときどうするか、だ。
〝本物〟たちの取り決めとして、知られてしまった場合には超能力による記憶処理を行うか、それが不可能な場合は目撃者を〝終了〟することになっている。その対象には、当然、笠原玄も含まれていた。幸い、彼に最終手段が下されることはなかった。つまり……〝記憶処理〟が実行された。
単に嫌疑が晴れただけならば、彼は再び一人の高校生として東深見に復帰できたであろう。しかし、この事件、日比谷公園焼殺事件は、解決したのではなく〝無かったこと〟にされたのだ。だから一般人は誰も覚えていない。家族すら覚えていない。被害者すら覚えていない。それもこれも、〝本物〟達による記憶処理の賜物である。
だが何もかもが元通りというわけではない。失われた被害者は戻らないし、壊れた人間関係は戻らない。戻る前に、忘れてしまったのだから。故に東深見の生徒は笠原玄を煙たがるままで、職を失った笠原の両親からも勘当されたままなのだ。
当然、笠原玄に居場所は無くなった。彼が超能力を見たという事実も、彼を助けたのが宇佐見薫子であるという事実も、その殆どは消えている。それでも彼は、宇佐見薫子を命の恩人だと認識していたらしい。負い目を感じた彼女は、彼に居場所を与え、償いとして彼を養う道を選んだ。
これが、二人の馴れ初めの全てだ。
その経緯から見れば必然であったが、彼らは本来する必要のない苦労をすることが多かった。
記憶処理の副作用で彼に若干の知能の低下が見られたからといって、その原因が現代医学を超越している以上、病院で手当てをしてもらうなんてことはできない。
居場所を失った男を同期の高校生が扶養しなければならないからといって、その原因が公的機関に全く認知されない以上、金銭的支援を受け取ることもできない。
何より、〝秘匿〟が超能力者の最低限の倫理である以上、超常現象の影響を残す父のような人間をどこかの扶養施設に丸投げするなんてことも当然できなかったのだ。
その苦労は、しかし。二十七年後の昨年、父が父で無くなったとき、全く同様に私の身に降りかかってきた。
母は、超能力と同時に、それに付随する種々の理不尽までもを、私に遺していったことになる。そのことを恨みたくなる気持ちもあったが、しかし、自分もまた同じ力を持つ身である以上、亡き母を簡単に責めることはできなかった。
* * *
七月三十一日
1999年。ノストラダムスが世界の終焉を予言した7月の、本当に最後の日。私は生まれた。一般人よりも遥かに大真面目にその予言への対処を行っていた〝本物〟である彼女にとって、私の誕生は相当に重大な意味を持っていただろう。
その神秘学的重要性もあってか、私は母をも凌駕する強力な超能力を身に付けていった。特に幼い頃、母は私の力を父に悟らせまいとするのに大変苦労したという。けれどこの力を私が嬉々として行使していたのは、まだ母が亡くなる前の話だ。
超能力を私に授けて産み落とした彼女は、しかし、対価として自らの能力を失っていた。以降、彼女は超能力に対する耐性を欠き、それまで能力で酷使してきた身体は一斉に悲鳴を上げ始めた。歳を重ねるごとに少しずつ、しかし確実に衰弱していった彼女は、最後に私の眼前で消え入るように息を引き取った。
――特別であり続けたいのなら、誰かを愛してはいけない――
彼女の生前の言葉は、その時初めて意味を持って、私の眼前にいよいよ立ち現れたのだった。
その運命の過酷さを目の当たりにした今、どうして徒にこの力を使うことができようか。
偶然にも……否、これは必然だろう。母は私が十六を迎えた翌日の朝に亡くなった。最後の娘の誕生を祝いたいという気持ちが、彼女をその日まで持ちこたえさせたのだった。
私は迷っていた。いったい私は、この日を、そして翌日を、どのようにして過ごせばいいのか。私の誕生を祝う日でありながら、それ故に早くして命を落とした母を悼まなければならない日でもある。私が生を受けてしまったが故に、母が命を落としたという、短絡的だがしかし簡単には目を背けられない因果に対し、私はやはり良心の呵責を感じてしまうのだった。
けれど、母は私がそう考えるのを望まないのだろう。最期の一日でさえ笑顔で私を祝っていた、その彼女の信念を、そして覚悟を無下にしたくはない。故に私は、日が改まり、八月一日になるまでの間、今日という一日をなるべく楽しむことにした。そして、今の私にとって、楽しむということは、即ち全てを忘れることだった。それが残酷だと分かっていても、努めて忘れようとしたのだ。母の身に起きたこと、父の身に起きたこと……そして、私が今囚われている、自ら背負ったの罪による、際限ない罰の監獄を。
〝彼〟はそれを、もう一年も続けているのだから。私が今日一日そうすることを、どうか……赦してほしい。
だからその日、私は家に居たくなかった。
彼が私を母の誕生日に祝ってしまった以上、私が今日家に居たって、祝われることは決してない。もちろん、誕生日を毎回家族に祝ってもらえるのは幸せ者なのだと、今は自覚している。それでも、ある日から、突如としてその恩恵を断ち切られるというのは、存外に寂しかった。豹変してしまった父親と何も特別なことのない一日を過ごすくらいなら、少しでも私のことを知っているクラスメイトに、一言二言の「おめでとう」を貰いたい。
……そう、思ってしまったから。
『ねぇ、笠原さん、今日誕生日でしょ?』
仲が良かった、というわけでもない、会話をしたことがある程度のクラスの女子。その子からラインが来たのは、その日の昼前頃だった。自分から、「私の誕生日を祝え」なんて言える程図々しくもない私にとって、それは天からの贈り物のようにさえ感じた。
『ウチに来なよ。佳苗とか遥も呼ぶからさ』
普段なら警戒していたかもしれなかった私も、その日は気づけば『行く』と言っていた。今はただ、一緒に祝ってくれる人が欲しい。その一心で。
『あ、そうそう。どうせなら制服で来なよ』
何故、と問い返そうとしたが、それよりも早く向こうはメッセージを重ねた。
『その方が〝映え〟るでしょ?』
それもそうかな、と。深く考えずに着替えた私は、〝彼〟に適当な言伝をしてから家を出た。最近の女子の流行についていける程の私服も持っていなかったから、――忙しくて、揃える暇も無かったから――制服こそが最適解だ。そうやって、夏休みに制服を着る自分を正当化しながら。
クーラーの利きすぎた電車に揺られて三十分。セミの鳴き声ひしめく郊外の住宅地で、彼女は私を待っていた。
手を握られて部屋に連れられた私は……。
「「「たんおめ~!」」」
待っていたクラスメイトに突然クラッカーを焚かれた。自分の知っている祝い方とはずいぶん違うんだな、と多少戸惑いながらも、私は笑顔で好意を受け取った。
その後もそれはそれなりに楽しんで過ごした。やけに広いその居室の中、各々が持ち寄ったコンビニスイーツの食べ比べをしたり、スマホに入れた下らないゲームに真剣になってみたり、そんな光景をバックにこれでもかというほど自撮りしたりと、普段の自分には想像もつかない程談笑して騒いだ。年頃の女子高生らしい会話というものにはあまりついていけなかったけれど、それでイジられるのも悪い気分ではなかった。私の知らないところで、彼女たちはずいぶんいろんなことをしているんだなと感心さえした。
皆から貰ったプレゼントがまたもやざくざくぱんだばかりだったのは流石に失笑したが、これも仕方のないことだった。四月のあの日以来、私は、家に抱えた大量の在庫を少しずつバッグに詰めては、毎日のようにクラスの女子に配り歩いていたのだ。おかげでクラスの中の私のイメージは完全にパンダになってしまっている。けれど、今日私を呼んでくれた彼女もまた、そうやって会話のきっかけを得た相手だった。高校では友達を作る気なんて無かった私だけれど、そんな小さなきっかけで家に呼んでくれるほどの友達ができてしまうのなら、独りで居るというのは案外難しいことなのかもしれないと思った。
私は、その時点で十分に満足していたんだと思う。けれど、その一日を〝忘れた〟ままで乗り越えたいと、心のどこかで義務感のように欲張っていたから、引き上げる機会を何度も逃してしまっていた。
夕方になり、用意した飲み物も尽きかけた頃。会話も疎らになり、皆が各々のスマホに没頭するようになったところで、私は違和感を覚え始めた。
彼女らは皆、しきりに誰かと連絡を取っていた。そのくせ、居づらくなって帰ろうとする私を見ると『もっとゆっくりしてってよ』なんて甘い声をかけるのであった。思い切って誰と連絡しているのか、と聞いてみたりもしたが、「別に誰でもいいじゃん」とか「楽しみにしてて」だとかで、はぐらかされるだけだった。
違和感が確信に変わったのは、日も沈んだ夜七時くらいのことだった。家のチャイムが鳴り、「あ、来た」と言った彼女らは、何故か下賤な笑顔を浮かべていた。そうして私は、彼女らが、誰としきりに連絡を取り合っていたのか理解した。
部屋に入ってきたのは複数の、しかも厳つい男子たち。制服を見るに、ウチの高校の生徒だった。その中には一人、遥といった子が付き合っていると自慢していた先輩の姿もあり……そして、一年次にクラスで、私が母を喪ったことを知り、声をかけて優しくしてくれた、あの彼の姿もあった。
「おぉやってるか~」
「キミが菫子ちゃんかぁ。誕生日おめっと」
「本番はこれからや」
その後のことは……もう語るまでも無い。
彼女たちは……私を騙したんだ。
誕生日の孤独な女子に目を付けて、祝われたいという心の隙に付け込み、昼の間騒いで私を油断させて……。そういう算段だったんだ。彼女たちにとって、これは先輩たちへのご機嫌取りの一環でしかなく、そして私は、その道具として使い捨てられたのだ。
それを理解したとき、私は、全てを、本当に全てを蹂躙された気分だった。残るものが無いほどに、完膚なきまでに、徹底的に。込み上げた怒りも力で抑え込まれて、心の叫びも口で抑え込まれて、私は、あらゆる尊厳を失った。私が負った傷を見て、「逆らうからそうなるんだよ」「愛してくれるんだから、受け入れればいい」と声をかけた彼女たちの惚気た顔が、瞼にこびりついて、消えない。
隙を見て逃げ出せたのは午前一時のこと。財布とスマホを手に取るのが精いっぱいで、片方のソックスも、家の鍵が入ったスクールバックも置いてきてしまった。当然、電車は動いておらず、そしてこの姿で電車に乗れるはずもなく。私は実に一年ぶりに……
……東京の空を飛んだ。
黒いマントは全身を覆い、自分の姿を隠してくれる。重力を離れた浮遊感は、身体の痛みを癒してくれる。眼下の世界は遠く小さく、全て涙で歪んでしまって、この世界の裏にある暗い部分も、隅にある黒い部分も、全てぼやけて見えなくなって。
今の私にはそれが安らぎだった。
こんなとき……私を癒してくれる者が居るとしたら、それはきっと母なのだろう。けれど、私にはもう、彼女の胸に飛び込んで泣きつくことは、叶わない。
母に譲り受けたこの力に身を委ねながら、私は彼女の言葉を思い出していた。
――特別であり続けたいのなら、誰も愛してはいけない――
あの言葉は、警告だったんだ。
* * *
家に辿り着く頃には、午前二時半を回っていた。鍵は無いから、彼に開けてもらうしかない。
『もしもし』
「寝てんじゃないわよ」
『宇佐見……?』
「いいからドア開けて」
インターホンを鳴らしても出ない彼を電話で起こして、ドアを開けてもらう。
「……ただいま」
目が合う。ドア枠を挟んで相対する。それは文字通り、一瞬の出来事だった。
父親という存在は、こんなとき、娘を癒すことができる存在なのだろうか。ふと、そう思った。けれど……私の心は、ともするとそれを弾き返してしまうかもしれない。男という存在、その身体にすら、近づけないかもしれない。ましてや、頭の中が高校生の中年の男になんて――
――何も話したく、ない。
気づけば私は、彼を突き飛ばして家に上がっていた。その様子に苛立ってか、あるいは気にかけてか。彼は私の腕を掴もうとして……。
「嫌ぁっ!」
反射的に、私はそれを跳ね除けた。
ばしん、という乾いた音が、真夜中の廊下に響き渡る。
……やっぱり、受け付けない。
たとえそれが不本意でも、私は彼を睨んでいた。
「何があったんだ」
「……何も聞かないで」
「宇佐見……」
「何も言わないで」
「おい」
「いいから黙ってて!」
あぁ、私の味方をする者が、本当に居なくなってしまう。
そんな危機感と、身体に滲む忌避感がせめぎ合って。伝わってほしい。この痛みを分け合って欲しいのに、口にはしたくない。顔も合わせたくないと。身体が強張って止まないから。
……私は最後の、賭けに出た。
身に着けた、忌々しい衣類の何もかもを、乱雑に脱ぎ捨てる。リボンに、ソックスに、スカートに、あらゆるものが、染みついている。しかし、いち早く身体を洗い流したいという、その感情にも勝って、私は……
……見てもらいたいと思ったから。
「それ、全部捨てといて」
「……は」
「もう着ないから」
……これが、私のされたことの全てだ。
……これが、お前の娘が受けた辱めの全てだ。
……それでもお前は。
……父親であるお前は。
……向き合うことから逃げるのか。
……忘れたまま、ぬるま湯に浸かっているつもりか。
……ここまで惨めに落ちた私に、未だ甘やかされようとするつもりか。
……答えろ。
……私は、もう。
……………………耐えられない。
脱衣所で顔を伏せながら、私は泣いた。枯れる程に泣いた。私は、何もかもを失ったはずなのに。私は、何もかもを奪われたはずなのに。父親に対してまで、失える限りの全てを曝け出してしまって。
これ以上私を、どうすれば辱められようか。
これ以上私から、何が奪えるというのか。
……だというのに、彼は。
涙を拭って、メガネをかけ。わざとらしく「タオル忘れた」と言いながら。私は扉を開けて。彼の様子を確かめようとして。
――絶望した。
「……気持ち悪い」
深い深い失望と怒りに駆り立てられながら、彼に迫る。
「あんたもアイツらと同類ってわけ?」
腕を組み、立ちはだかる。送る視線は、ただ軽蔑のみ。
「違う、これは……」
養い、養われるこの関係を、徹底的に破壊する宣告。少しの言い訳も許さず、私は最終通告を言い渡した。
「出ていけ」
忘れたか?
私はお前の……全てを握っている。
「養われていいのは……養う覚悟がある奴だけだ」
この言葉は……他でもない。父が私に教えた言葉だ。
かつて母に養われるだけの身だった彼が、娘を育てる責任を自覚し、養う覚悟を決めたという、彼の。
「待って……」
だが、その覚悟決めたはずの彼は今、醜くも、養われる立場を守ろうと必死にしがみついてきていた。
「待ってくれ!」
「断る。今すぐ出ていけ」
「宇佐見、お願いだ」
「願いなんて聞かない。何も聞くなと言ったでしょう」
「頼むよ! 一生のお願いだ」
「私は何も言うなとも言った」
「お前が居なくちゃ俺は……」
「黙れって言っているのが分かんないの?!」
「っき……」
下手に出ていた彼の目が一変する。その目はもはや、父親が娘に向けてよい視線の範疇を、遥かに逸脱していた。
「宇佐見」
「近寄らないで」
「俺はな……」
「来ないで」
「本気でお前のことを……!」
「それ以上近づいたら――」
……もっと早く、気づくべきだったと思う。どうして、気づかないまま、考えもしないままで居たのだろうか? 気づくことに、私は恐れていたのだろうか。唯一であったはずの彼にもまた、いずれそうでなくなる日が来ることに。
彼は、遺伝的にも、戸籍上も、間違いなく私の父親だ。私がどれだけ努めて彼を父と呼ばずにいようとも、それは変わらない事実。どれだけ彼が、そして生活が豹変しようとも、私はその認識をどこかに持ち続けていた。それまでの十六年と変わらず、この悲惨な一年の間にも、確たる事実としてそれは心の奥底に留め置かれていた。
……十七分の一。積み重ねた十六年があったからこそ、私はこの一年を、異常であると認識できたんだ。
けれど。
記憶を巻き戻してしまった、彼はどうだろう。
彼にとって、この一年は、ただそれだけで閉じている。それ以前のかかわりについて、家族の関係について、彼は一切を認識しない。すなわち、彼にとってはこの一年が〝宇佐見薫子〟との関わりの全てであり……等身大の、一分の一の思い出なのだ。
そう、私は……宇佐見薫子として、彼と一年を過ごしてしまった。その一年は、彼にとっては紛れもない現実であり、新しい経験であって、立派な人生の一部分なのだ。若かりし頃の母と一年を過ごしただけの成長をし、心境の変化を起こし、関わり方を覚え、信頼を深めている。それらを積み重ねた先に、一つの転機は必然的に訪れる。私が宇佐見薫子を、演じ続ける限り。
彼が再び、二十七年前を繰り返すのなら。既知なる未来を、再び過去に変えるなら。その先に待っているものを、その未来を、私は全て知っている。
なぜなら。……その果てに生を受けたのが、この私、笠原菫子なのだから。
恋をして、結ばれ、愛し合い、娘をもうける。他愛も無い男女の、ありふれた行く末。ただそれだけのことが……私にとっては、徹底的な破滅を意味した。
この繰り返しは不完全で、歪で、いつか必ず異常をきたす。そう運命付けられている。それが単なる男と女の関係などではなく、父と娘の関係であるというバグによって、この繰り返しは破綻する。
そうなる前に、彼が目を覚ませば。娘である、笠原菫子という存在を認めてくれたならば。二人はこの歪なしがらみを打ち破れたかもしれない。その日が来ることを願って、私はこの一年を、耐えてきた。
それでも頑なに。彼が私を拒むというなら。妻の死から目を逸らし、自分だけの逃避を続け……娘と禁断の愛に現をぬかすというのなら。
私たち二人は、これ以上、もう一歩も、進むことはできない。
――今日がその、タイムリミットだったんだ。
「それ以上近づいたら――殺す」
そうして彼は、踏み出してはならない一歩を踏み出した。
「宇佐見薫子!!!」
あぁ、あなたは最期まで――
――私の名前を呼んでくれない。
「あがっ……!!!」
初めての、ことだった。
何も特別でない、ひ弱で、脆くて、決して逆らえない、唯の人間を傷つけるために、この力を使ったのは。
その背徳には、暗澹たる全能感が伴った。
その倒錯は、陰鬱たる堕落の美を備えていた。
私はこの時、己が超能力者であることの、本当の意味を知った。
この力は――
――私を、孤独にする。
「なに、を、して……」
「分からないの……?」
抑え込んでいた、一切の怒りが、憎しみが、隠されることなく表情に、声に、そして……空を掴む、この指先に籠る。
「宇佐見薫子は死んだのよ……」
菫色のオーラが、無意識に、私の周囲を包み始めていた。
「どうい、う……ことだ……」
「今日は……八月一日は……! 彼女の命日でしょう? あなたが愛した……宇佐見薫子の一周忌!」
最後の慈悲を、かけるつもりで。その全てを打ち明けたのに。
「何を、言って……」
……この大切な日に、お前は――。
「どうして……っ、思い出してくれないのよ!」
こうまでしても、思い出せないのなら。
……この一年の、私の心労は何だったのだろう。
「私、もう……疲れた」
誰にも癒せぬ傷だから。
誰にも打ち明けられぬ苦しみだから。
全てをぶつけても、……いいよね。
――元凶である、お前に。
「お願いだから目を覚ましてよ――」
片手だったものを、両手にして。
あとは、目一杯に力を籠めれば。
……それで、終わり。
「――お父さん」
両の親指が、不可逆的な力を加えた。
そのとき。
「……す……」
気管から、零れだすように。
聞こえるはずのない。
微かな声が
「す、み……れ、…………こ……」
「――――――――――――――――――――――――――」
ごとり。
糸の切れたマネキンのように。
彼の身体は床に転がった。
「お、とう、さん………………?」
「ねぇ、お父さんなの」
「おとうさん」
「ねぇ、返事して……」
「……お願い」
「お父さん、――――――――――――」
駆け寄って、首を抱えて、顔を見て。
何度も叫んだ。
何度も。
何度も何度も何度も。
そうして間近に、父の顔を見つめていて。
そうして私は思い出した。
『特別であり続けたいなら、誰かを愛してはいけない』
母の言葉には……続きがあったことを。
『――でもね、お母さんは……
……特別でなくなって、幸せだったのよ』
干からびたように細くなった、その首を震わせて。
彼は。
「……大き……く、なっ、た……な………………
私の掌の中で
その首が
再び息を通すことは
もう、無かった。
* * *