「まさかこの目で見る日が来るとわね」
「わが国が引き起こした最大の負の遺産よ」
現地住民が近づこうとしないその施設に、我々は足を踏み入れた。
「結界のこととなれば、メリー」
「えぇ、もう見当がついたわ」
結界の生成、そして〝回転〟となれば、自ずと答えは見えてくる。
「……結界の炉心でしょう」
結界は、それ自体を作ろうとしても作れるものではない。結界は〝できる〟ものなのだ。
通常、人の手を加えない現実は混沌である。神の手が加わる前の宇宙が混沌であったように。そして神は天と地を分かった。そのとき神は、「境界」を引いたのではない。混沌から天を取り出して上に運び、また地を取り出して下に運んだだけだ。「境界」は、その結果として〝できる〟ものである。この世のあらゆる物理的境界は、すべてそうしてできている。同じように、人間が「結界」を作るときも、「結界」は引かれるものではなく、〝こちら側〟に何かを運び出し、〝あちら側〟に別のものを送り込むことによって、自然と〝できる〟ものなのだ。
故に、結界を作るには、物質、あるいは概念を輸送するための機構が要る。我々霊能力者は皆、この仕組みをどこかしらに備えており、その機構を拠り所にして能力を行使している。
だが人間が扱える結界の範囲には限界がある。土地全体を覆うような結界を生成し、かつ半永久的に継続させるには、機械の力が不可欠だ。実際。日本やインドを覆う結界にも、こうした機構が備わっていて、その中心には必ず、物質と概念の輸送を司る〝ポンプ〟が存在する。だから、タイを覆うはずだった結界を管理するこの施設にも、その〝ポンプ〟があるはずなのだ。
結界の生成の中心機構、我々はそれを〝炉心〟と呼ぶ。その基本構造は、まさしく機械式ポンプと全く同じである。すなわち、ファンを高速に回転させ、一方から他方へモノを運ぶ。
そう、〝回転〟だ。
巨大な結界を作る炉心ならば、それに見合うだけファンは大きく、そして途轍もない速さで回っていたに違いないのだ。
* * *
立ち入り禁止のあらゆる忠告を超越し、私たちは〝炉心〟に続く扉を見つけ出した。扉を蹴破った先、そこは巨大な地下空間。自分たちの声が、コンクリートの巨大な壁に反響され、底無しの地下深くに吸い込まれていった。
当然照明はつかなかった。しかし明かりに困ることはなかった。なぜなら、この廃墟を住処としていたのであろう野良犬たちが、冷却プールに落ち、その中で青白い光を放っていたからだ。
「うぁ、すごい」
蓮子が感嘆の声を上げる
「チェレンコフ光!」
「ちぇ蓮子……ふ?」
「あの野良犬たち、可哀そうに、高速回転しすぎて水中で光速超えたわね」
「……かわいそう……」
物理的な説明は分からなかったが、かわいそうなのは分かる。
「間違いない。此処がタイの犬の高速回転の中心よ」
スカスカの、網状の足場に怯えながらも、私たちは何とかファンの足元に降り立った。六基ある概念ファンのうち、一つだけ異常なものがあるとすぐに気づく。
……すでに稼働を停止したはずのこの施設で、そのファンだけが元気に稼働していた。
「当たりだわ」
蓮子は稼働するファンのあたりを見回し、非常停止装置らしきものを見つけ出した。トルクをかけて回す仕組みのようだ。蓮子はすぐに回そうとするが、しかしびくともしない。
「これ……もしかして、ファンの動きに反発されてる?」
「どういうこと?」
「だから、あの回転に打ち勝つくらいの力を入れないと無理なのよ。普通は電気制御で止められるんでしょうけど、この非常用装置は最終手段の油圧式ね」
蓮子は「参ったな」とでも言いたげな顔で頬を書きながら、私の瞳を見つめた。
「何よ、その目」
「あ……だから……」
「言いたいことがあるなら、はっきりと言いなさいよ」
「メリーの出番だ、ってこと」
結局そうなるか。
「マッサージは五倍増しだからね」
「……仰せの通りに、お嬢様」
私はハンドルを握った。そして目一杯の力を籠める。
「ふっん……!」
〝お嬢様〟から程遠い力み方。
「す、すごい……!」
「そのオリンピック競技で選手の筋力に驚嘆してるみたいな反応やめて?」
言いつつも、力は緩めなかった。
ズズズ……
ハンドルは回り始める。同時に目の前のファンが唸り声を上げて減速していく。
ズズズ……。
十二分の一回転。
速いすぎて見えなかったファンの回転方向が、徐々に分かるようになる。
ズズズ……。
八分の一。
回転の方向は……反時計回り。蓮子の予想通り、街の犬たちとは反対巻きだ。
ズズズ……。
六分の一。
ファンはさらに減速。その上に、何かが乗っていることに気づく。
ズズズ……。
四分の一。
遂にハンドルは回らなくなった。これ以上ブレーキはかからないということか。
握った手を放し、再びファンを注視する。今や羽の形が見える程にそれは減速しており、数秒後、がこん、という重い音と共に動きを止めた。
「見て、メリー、あれ!」
蓮子が指さす先。静止した黄色い色のファン。その中心に……
……胴が三倍に伸びた、一匹のコーギーがへばり付いていた。
「なるほど、確かにコーギーは慣性モーメントが大きい……」
「感心してる場合?! あの子、生きてるんでしょうね……?」
「まさか。あんな酷い回転を続けてたら、普通中身はめちゃくちゃ……」
「ワン!!!!」
「うっっっっわびっくりしたなぁ!!! もう!!!」
「生きてる!! 蓮子!! この子生きてる!!」
不自然に長い胴を器用にくねらせながら、そのコーギーは私の元に駆け寄ってきた。舌を出し、笑顔で私を見上げる、その姿は何とも愛らしい。
「うっわなっが!! 胴体長っ!!!!!」
横から見ている蓮子には、このコーギーが相当不自然に見えるだろう。けれど、今の私には関係なかった。この子が助かっただけでも安心だ。
私はコーギーを心ゆくまで撫でた。高速回転したせいか、毛並み竜巻のように荒れ狂っていたが、それも全部直してあげるくらいに撫でまわした。コーギーも喜んでいるようで、私の顔を見て……
……あれ?
さっきまで見えていたはずのその姿が、今にも消え入りそうになっている。
「しまった!」
蓮子の声。しかし声のする方を向いても彼女の姿は無い。
「コーギーの高速回転を止めたら、周りの犬の高速回転も止まって……さっきのチェレンコフ光も消えるじゃない!!」
「………………あー、」
本当にしまったな。ほんとうにしまっている。
「ライトとか持ってないの……?」
「無い……」
「ほら、星が見れれば……」
「地下から星は見えない……」
「えっ……? じゃあどうやってここから出るのよ」
「分からない……」
「ちょっ!?」
「ワン!!!!!」
「うっっっっわびっくりしたなぁ!!! また君か!!!」
「ねぇ蓮子。……もしかして、この子が案内してくれるんじゃない?」