幻想郷にも四季が来る、その彩りは石のビルと照明に遮られないぶん外界よりも艶めかしい。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が来る。止まることなく、奇跡のように移ろい廻る命のサイクル。
残暑を抜けて秋が訪れた今日このごろ。山は朱く萌え、多くの実りが大地を潤わす。
冬に向けて種を残して亡骸を大地に埋める虫や草花などが多いため、生命の化身である騒がしい妖精たちは少なくなり、逆に邪魔者がいないということで妖怪たちは活発的になったりもする。
秋ならではの賑わいを見せてくれる幻想郷で、八雲家に遊びに来ていた天子は縁側で腰を落ち着けて大きく手足を伸ばした。
「ん~! だいぶ涼しくなってきたわね」
「そうね、寝汗をかかなくていいから快適だわ」
今日も今日とて寝ることばかり考えている紫は、天子の隣に座りながら手に持った本のページをパラリと捲った。
天子は腕を伸ばしたまま居間に向かって寝転がると、縁側の敷居に背中を寝かせながら白く健康的な腕を振り回す。
「私は夏のうだるくらいの暑さも『夏だー!』って走り出したくなる感じがして好きだけど、秋も良いわよねー。この前、妖怪の山で秋の神が焚き火やってたから焼き芋貰っちゃった」
「あなたは食べることばっかりね、そろそろ頭の桃もお芋に生え変わるんじゃない?」
「仙芋ってのも悪くないかもね、ところで何読んでんのよゆかりっ!」
唐突に起き上がった天子が、紫に飛びつくと馴れ馴れしく肩を回す。
紫は手に持った本を揺らして、呆れながらも穏やかな横顔を見せた。
「ちょっと、ひっつかないでようっとうしい」
「高貴な天人様の触ってやってんのよ、嬉しがりなさいよ、うりうりー。そしたら少しはババア肌が若くなるかもよー?」
「じょーだん、藍の尻尾の触り心地を見習ってから来なさい。それにまだピチピチよ」
「ちぇっ。それで何の本?」
天子が本に手を伸ばし、端をつまんでのぞき見た。
外界の本らしいツヤツヤした発色の良いページに描かれていたのは、包帯で右耳を覆った男の絵だった。
「誰このおじさん」
「フィンセント・ファン・ゴッホよ、有名な画家、これは彼の自画像」
「ふーん、なんか面白そうなやつね」
天子は勝手にページをめくってひまわりや星月夜の絵を食い入るように見つめていた。
「興味あるの?」
「そうねぇ……絵……絵かぁ……」
幾度か呟いた天子は、ひときわ大きく輝かしい眼を見開くと、興奮した子供のように鼻息を鳴らしてその場に立ち上がった。
「よし! 紫!」
「なあに、天子?」
そしてまた唐突に、当然に、したいことを口にするのだ。
「絵を描くわよ!!」
~~~~夜の幻想、昼の灯り。~~~~
食欲の秋。
スポーツの秋。
弾幕の秋。
昼寝の秋――主にスキマ妖怪――。
涼やかな秋は家の外でも中でも過ごしやすく、楽しみ方は人それぞれ、千差万別。
その中で芸術の秋という過ごし方も、享楽をモットーとする者たちには大いに歓迎される。
「ってなわけでー、どうせなら博麗神社を使ってイラストコンテストでもやろうじゃないか! 酒を飲みながら一番を決める、優勝者には景品付きでどうだ!?」
いきなりスキマから紫の首根っこ掴んでやってきた天子に、話を聞いた霊夢は座布団に座ったまま肩を落として面倒そうに眉を寄せた。
「はあ……イラストコンテストねぇ……」
「いいんじゃないかしら霊夢。たまにはそういうのも盛り上がるわよ」
「いやそれは良いんだけどね」
紫が首を猫のように吊るされながらフォローしてやると、霊夢は困った風に腕を組んで難しい顔をした。
「ちょうど今、同じ企画持ってきたやつがここに」
そう言って霊夢が顔を横に向けた先にいたのは、座布団に座った赤い翼にキュートなカリスマ。
天子の発言を聞き、彼女は気に入らなさそうに青筋浮かべて、鋭い牙をむき出しにして無理やり笑った。
「な・ん・で、よりにもよって私と被るんだお前は」
「あっ。赤い館のちんちくりんの小悪魔」
「誰が小悪魔だ! 誇り高きツェペシュの末裔、レミリア・スカーレットだ!」
あっという間に堪忍袋の緒が切れたレミリアは、怒りを露わにして襲いかかった。
すわ敵襲かと、天子は紫を放り捨てて、小さい吸血鬼と神社の中で取っ組み合いを演じる。
「あんたまさか私の計画パクったわけー!?」
「それはこっちの台詞だー!! 後からやってきて何をぬけぬけと! お前みたいなのと被るってのが気に入らん! お前うちの館を覗いてたんじゃないだろうな!?」
「なによー! そっちこそ運命インチキしたんじゃないのー!?」
「霊夢、被ったの?」
「それはもう、優勝者には景品ってとこまで一緒」
「けっこう思考回路似てるわね、このワガママ娘たち」
ドッタンバッタンひっくり返る二人のおてんば少女を前に、紫は扇子で口元を隠しながら霊夢とこっそり話す。
しばらくして「いい加減ウチで暴れんな」と霊夢にお叱りの陰陽玉を受けた天子とレミリアは、頭にタンコブを作りながら人差し指を突きつけあった。
「こうなったら、絵で決着を付けるわよチビ吸血鬼!」
「いい度胸だ世間知らずの高慢ちき! 勝負は二週間後、宴会の日に! お互いに景品を持ち寄る!」
「イラストコンテンストの参加者は自由! 投票で一番になったやつが景品を掻っ攫う! それで良いわね!?」
「応とも!!」
――とまぁ、一悶着あったものの、こうして博麗神社でイラストコンテストが催される運びとなった。
このことはすばやく幻想郷中に伝えられ、多くの人妖から興味を引いた。
元より幻想郷には芸術を楽しむような者も多い、冥界の亡霊主人、永遠亭の姫様、山の神社の神々などが参加を表明し、普段は音楽活動にいそしむプリズムリバーもこの期には画材を取り出した。
そういった風流な者たちが筆を取れば、普段は呑んだくれてばかりいる妖怪も絵画に興味を持ち始める。
博麗神社の常連客たちの間では、あっという間に絵描きブームが巻き起こり、そこかしこでイラストコンテンストに向けて筆を滑らせる光景が見れるようになった。
その日、依神女苑は散歩ついでに命蓮寺に顔を出してみたのだが、そこでも筆を持って紙と睨めっこしている住人たちの姿があった。
雲山にポーズを取らせて模写している一輪、庭の池を前にして病的なのめり込みで色を塗りたくる水蜜、和室で墨を擦って静かに寅の絵を描く星、色が破裂したようなよくわからん前衛芸術的な絵を描くぬえなどなど。
「あんたらもお絵かきモードってわけね」
「はい、女苑も興味はないの?」
尋ねた聖は、隣りにいた女苑が「全然」と首と振ったのを見てキャンバスに向き直る。彼女は門の前に立って、そこから覗く寺の光景を絵に落とし込もうとしていた。
紙の中の参道には聖たち命蓮寺の住人たちが並んで描かれている――何故かそこには女苑もいた。
「ちょうど来てくれてよかったわ。お寺のみんなは描けるけど、女苑ちゃんの服はちょっと難しいから、本人が来てくれて参考になるわ」
「もしかして、他の奴らは見ずに描けるの?」
「ええ、もちろん」
「ふーん」
内心では堕落したがってる僧侶だが、住人たちのことはよく見ているようだ。
聖は今のうちに女苑を完全に描き切ろうと、本人と絵をしきりに見比べながら絵の具を筆に取る。
女苑はその横からキャンバスを覗き込む、聖の筆はゆっくりだが迷いなく大胆に動かされ、ベタベタと色を付けていく。
あまり絵を描き慣れていないのだろう、下手っぴだ。だが技術の稚拙さを補うほど、丁寧に、心をこめて描いている。
キャンバスの中は温かみに溢れた情景で、実にイキイキと描いているのが見て感じ取れた。
「絵なんて子供の頃に、命蓮と地面に落書きするくらいしかしたことなかったけど、千年も経てば画材も豊富になって面白いですね。みんな自分の好きな風景を描いているわ」
「良いのかなぁ、尼さんが修行もせずそんなことしてて」
「感性を伸ばすことは悟りを開く事にも通じます、それにこういったことをあるがままに楽しむことも修行の一つですよ」
「と、いう方便でサボるわけか」
「女苑や?」
「はいはい、聖さまは熱心な住職様ですよ」
聖の描く依神女苑が大体の形になったところで、女苑は寺を後にして自宅へと足を向けた。
こんだけブームなら文房具屋は大儲けだろうな、取り憑いてちょっとうまい汁を吸わせてもらおうか、などと考えながら人里を抜け、寂れた住宅街にある姉との共同住居の扉を開ける。
「ただいまー」
「おかえり女苑」
「やあ久しぶりだな疫病神!」
「お邪魔しております」
そこで聞こえてきた姉のものではない、やたらと胸を張ったでかい声を聞き、女苑は苦い表情を浮かべる。
小さな家の中にいたのは、部屋の真ん中で畳に置かれたキャンバスの前に膝立ちで絵を書いている紫苑と、腕を組んで胸を張ったワガママ天人、及び腰巾着の竜宮の使いだった。
「げげえ、暴力天人!」
「むう、何だその嫌そうな顔は。地上の民とは格の違う天人様が来てやったんだぞ、おもてなしの心を持て」
「あんたに出すぶぶ漬けすらないっての」
「ちょっと、駄目じゃない女苑。天人様に失礼なこと言っちゃ」
天子のことを警戒する女苑に、紫苑が黄色の絵の具を鼻につけながら口を出した。
「天人様は私たちのために画材をプレゼントしてくれたのよ。ありがとうございます、天人様」
「このくらい安いものさ、配下が絵もかけずに喘いでいるのを助けねば高貴さがすたるからね」
「うちの姉を勝手にしもべ扱いにすな」
正直、女苑は内心余計なことをと思った。
ああもう、こんなことに慣れない姉さんにいきなり絵描きなんてさせるから、服が絵の具でベタベタじゃないか。
「あとついでに、衣玖の参考に色んな絵を見せてやりたくてな」
そう言われ、天子の後ろでふよふよと浮いていた衣玖がやんわりと笑みを浮かべた。
「はい。私もコンテストに参加してみようかと思ったのですが、何を描けばいいかわからなくて。総領娘様に相談したら、なら他の方の絵を一度見てみれば良いだろうということで」
「ふーん、そう」
元からイラストコンテンストに興味がない女苑はどうでも良さそうにしていたが、そんな彼女に姉の紫苑が笑いかけた。
「女苑も一緒に描きましょ? 二人で描いたらきっと楽しいわ」
「えー、でも興味ないし」
「天人様が女苑のぶんもお絵かきセットを揃えてくれたわ。ね? 良いでしょ?」
最初は首を横に振っていた女苑だったが、姉から屈託のない期待の視線を向けられて心が揺らぐ。
今まで絵など描いたことのない女苑は、少し恥ずかしげに頬をかいたが、紫苑の微笑みを見て仕方なく頷いた。
「まあ……それなら……」
「やったー♪」
「別に描くのは良いけど、姉さんはこんな狭い家でなに描いてるのよ」
キャンバスの向こう側にあるのはちゃぶ台だけだ、一体これで何を描こうとしているのかと気になって女苑が覗いてみると、描かれていたものに「うげっ」と頬を引きつらせた。
紫苑が描いていたのは、貧乏くさい家の貧乏くさいちゃぶ台の上に並べられた、貧相な想像力で精一杯に作り上げた妄想料理の数々だった。
「こうやってね、いっぱいおかずを描いて、それを見ながらご飯を食べたら美味しいかなーって」
「うむ、よくできてるな」
「いやー、どうなんでしょうこれは……」
天子は頷いているが、衣玖は後ろで微妙そうな顔をしている。女苑も後者とだいたい同意見だ。
いっそこれが幻想郷では珍しい海鮮料理だの、鮮やかな季節の味覚などが美しく描かれていればまあいい。
だが描かれた料理はあくまで貧乏な紫苑が想像できる範疇と言うか、豪華になりきれず肉じゃがだとかきんぴらごぼうだとか、あくまで一般的な範囲のもので、具体的には茶色ばかりだ。
しみったれた発想としみったれた内容の絵を見て絶句した女苑は、自分の分の画材を手に取ると玄関に足を向けた。
「……私、外で絵ぇ描いてくるわ」
「えー!? 女苑も一緒にご飯いっぱい描いてお腹いっぱいになろうよー!」
「えーい、そんなケチくさいことできるかー!! ……ギャーッ! こらジャケット掴むな、これ高いんだからー!」
「それじゃあ衣玖、紫苑の絵は見たし次行こっか」
「はい、そうですね」
「あっ!? おい、先に私を助けてけー!!」
紫苑の絵の具で汚れた手で掴まれて動けない女苑を置いて、天子と衣玖はさっさと依神家を後にした。
◇ ◆ ◇
天子と衣玖は肩を並べて幻想郷の空を飛んで回った。
少し目を凝らしてあちらこちらへ出向いてみると、見えるわ見えるわ、美しい景色を前に筆を持つ姿。
鈴蘭のお花畑で共に絵を描く毒人形と花の妖怪、霧の湖で遊びながら筆を振り回す妖精たち、紅葉の山を見上げて赤を色塗る白狼天狗。
「みな思い思いの場所を描いていますね」
「やっぱ自分の住んでる近くを描いてるやつが多いわねー。妖怪なんて大抵は好きなとこに住んでるから当然だけど。あんたも住処の近くを描いてみたら?」
「雲の中は無理として、天界ですかね……確かに景色は素晴らしいですが、他になにか描けるものがある気がします」
天子に言われて衣玖は想像を巡らせてみるが、天界で絵を描く自分に違和感というか、何かこれじゃないなあという感想を抱く。
それとは別にあることを思い出した。
「そういえば名居守様が、天子様が最近どうしてるか心配してましたよ」
「あー? 心配なのは私じゃなくて、私が地上で暴れてないかでしょ。あの人、気にし過ぎなんだから」
「またそんな捻くれたことを言って、小耳に挟まれでもしたら怒られますよ」
「あれで甘い人だから心配いらないわよ。それより! あんたはなに描くか決まらないの?」
「そうですねぇー……」
改めて衣玖はこれまで見てきた絵描き人たちを思い返した。
「紫苑さんはいっぱいのご飯、針妙丸さんは自分が住んでいる輝針城、みんな好きなものを描いているようですね」
「なら衣玖は好きなものないの?」
「うーん、なんでしょう……描きたいと思うほど好きなもの……いつもふわふわ浮いて過ごしているので、そこまで執着するものがないんですよねぇ」
わざわざ絵にしてみたいもの、となるとパッとは思い浮かばない。
「ふわふわ、ねぇ。まあそれが衣玖のいいとこだけど……決まらないなら、今度は紫のやつのでも見る? 多分今なら描いてる頃でしょ」
「紫さんの、ですか?」
あのスキマ妖怪の絵と聞いて、衣玖は猛烈に興味が惹かれるのがわかった。
謎深いが慈愛も深い彼女がどんな絵を描こうとするか、自分の参考にするよりも純粋に気になる。
「見てみたいですが、どこで描いているのか教えてもらったんですか?」
「聞いてないけど、あいつならまああそこでしょ。あそこが何もかも一番きれいに見えるもの」
そう言って、やはり天子は迷いなく心当たりへと進路を向けた。
◇ ◆ ◇
その日、紫は珍しく朝早くから起き出した。そうすると前日から決めてあった。
家族一緒に朝ごはんを食べ、藍から用意して貰った弁当を受け取り、家族と手を振り合って一人で家を出る。
スキマを使わず、ゆったりと空を飛んで幻想郷の空を胸いっぱいに吸い込んだ。
見晴らしのいい丘の上に降り立つ。髪をかき分け、首元に涼やかな風を受け入れる。
草の上に立って景色を眺める。青空の下、厳つくそびえる妖怪の山が朱く煌めき、人里の近くでは人々が一生懸命に育てた田んぼが黄金の風を呼んでいる。
日差しは暖かく、風は涼しく、優しい草と土の匂いが心を受け止める。
雄大な自然、愛する素晴らしい景色に、己の存在が迎え入れられたような、清々しい気持ちになった。
紫は大きく深呼吸すると、スキマから画材一式を取り出した。
草のキャンバスを立て、水の入ったバケツを足元に。パレットの穴に左手の親指をさし、板の上に絵の具を乗せ、右手に筆を持つ。
準備が終わりすっかり芸術家に変身した紫は、横向けに開いたスキマの上に座りながら絵を書き始めた。
落ち着いた呼吸と柔らかな眼差しで、ゆっくりと丁寧に筆を動かす。
長く生きているだけ絵の技術も中々のものであり、かなり精密な絵を描いていた。
だが己の技術に驕ることなく、ひと塗りひと塗りに心を込めて、絵に命を吹き込んでいく。
そこに天子たちがやってきたのは、お昼ご飯を食べて休憩した後、再び筆を手にとってすぐのころだった。
紫はキャンバスの向こうからこちらに飛んでくる二人組を見て顔を上げる。
「あら、天子と衣玖じゃない。こんにちは」
「やっほー、紫! やっぱりここにいた」
「紫さん、どうもこんにちは」
天子と衣玖は紫の隣に降り立った。
「どうしてここに?」
「衣玖が絵の題材に迷っててね、紫の絵を見せてやろうと思って」
「私がここで描くとわかっていたの?」
「うん、あんたならここだろうって」
「あら、それは……ふふ、嬉しいわね」
紫は少し照れくさそうに笑って衣玖へと顔を向けた。
「まだ途中だけど、描きながらで良かったらご覧になって」
「はい、ありがとうございます」
「どれどれー? 紫の絵は、ど・ん・な・の・かな~?」
絵の続きを描き始める紫の横から、二人はキャンバスを覗き込んだ。
描かれていたのは当然ながらこの丘の上から見える幻想郷の景色だ、そしてその精緻さは流石賢者だと思わざるを得ない。
だが少し変わっていたのが、絵の中の景色は暗く、空に浮かんでいるのが太陽でなく月であるところ。
「へぇー、夜を描いてるんだ」
「昼間にも描けるものなのですね」
「写真と違い、絵を描くという行為は現実を写し取るものじゃありませんもの。例え昼間でも、心に夜を浮かべれば、筆は自然と暗闇をなぞるものですわ」
「そういうものですか」
サラリと言うが、常人には難しいことを当然のようにやってのける方だ、と衣玖は思う。
それを難しいと思わずにやってのけるがゆえの才知であろう。
紫が筆を動かしたまま尋ねてきた。
「題材で悩んでいるのかしら?」
「えぇ、まぁ。みなさんは好きなものを描いているそうですが、自分は描きたいものが思わず」
「そう……なら何でも良いんじゃないかしら? 迷うくらいなら、まずやってみるのも選択肢よ。何ならここで描いてみたら良いですわ」
「紫さんと一緒にですか? それでは内容が被ってしまいますが」
「大した問題ではないわ。網膜に映る光など錯覚に過ぎず、誰しも自分だけの風景を脳に刻んでいる。同じ光景でも、違う者が絵に描けば違うものが表れるわ」
現に紫が描いている光景は、現実から外れた夜の幻想郷だ。
衣玖がここからの景色を絵に落とし込もうとしても、夜景を描こうとは思わないだろう。
「そうですか……いやでも、紫さんの絵と比べられるのは恥ずかしいと言うか……」
「良いじゃないの下手だって。一緒に描けば紫からコツとか聞けるし、それに私の絵が一番上手いんだから、他のやつの絵なんてみんな同程度だからね! 気にせずやりたいようやればいいわ!」
「うーん、この上から目線」
天子の威張りように衣玖は思わず遠い目になるが、これはこれで聞いていて元気づけられるから大したものだ。
そばから聞いていた紫はため息を付いて呆れた視線を送る。
「そういう天子は何を描くつもりで?」
「ひ・み・つ。まあ期待しといてよ」
「そう。優勝賞品の用意もあるんだから早めに描ききりなさい」
「わかってるって」
◇ ◆ ◇
天子の題材はズバリ、天界そのものだ。地上のものを絵でひれ伏させるには、偉大なる天の世界こそが最適だと単純に考えたからだ。
そのため天子は、追放された身でありながら我が物顔で天界に戻ってきて絵を描き始めていた。
ひとえに天界と言っても四つの層に分かれている。
第一天、空無辺処天。第二天、識無辺処天。第三天、無所有処天。そして天子が住んでいた第四天にして最高天、有頂天とも呼ばれる非想非非想天だ。
それらは空間的に分けられていて、物理的に重なっているようには見えないが、天子はその四つの天界を一つの絵の中で再現し、その威光を以ってイラストコンテンストで優勝を狙っていた。
それぞれの天界から少しはぐれた位置で運動できるくらいのサイズの要石を作って浮かばせ、その上にキャンバスなどを用意して筆を持つ。
別に浮かせた小さめの要石を椅子代わりにして、しばらく気ままに絵を描いていると、上の方から降りてくる影があった。
「久しいな比那名居の娘よ」
老練さを感じる渋い声。天子が顔を上に向けてみると、後ろ手に組んだ老人が、直立不動のまますっとより高みから降りてきた。
静かに要石の上に降り立ったのは、比那名居家の上司とも言える名居守だ。
短く整えられた髭に生まれながらの仏頂面、普通の天女なら気を損ねていないか焦るところだが、彼がその厳つさについて「部下から怖がられて辛い」と嘆いていることを天子は知っている。
「おや名居守様、どうもごきげん麗しゅう」
「息災のようで何よりだが、断りなく戻ってきおって。追放の意味がわかっとるのか」
「ふふーん、別に天界には足を踏み入れてないですし?」
「屁理屈抜かすでない。まったく、かの斉天大聖よりも度し難い娘よな」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めとらんわ」
一応敬語を使いながら軽い調子で話し合う。
天人たちの中には比那名居家のことを不良天人として蔑む者も多いが、天子は名居守とは血族として近いこともあり、それなりに親しい間柄だった。
本来なら礼儀を尽くさねばならないはずの名居守を相手にしながら、天子は特に気にすることなく絵を描きながら喋り続ける。
「ほかの天人の小言なんてどうだっていいですよ。どいつもこいつも、口先ばかりで大したことありゃしない」
「そう言うでない、ここは退屈ゆえお前のような者は目に付きやすいのだ……ところで儂の評価は?」
「んー? 中の上くらいですね」
「贔屓目で?」
「はい」
「名居様ショック……」
「あはは、じょーだんじょーだん。小遣いくれる親戚のおじさま程度には尊敬してますよ」
「儂のお陰で天界に上がっといてこいつめが」
名居守は天子の隣に立ってキャンバスを覗いてきた。
「絵か」
「はい。地上の催事で、イラストコンテストを開きましたので、ちょいと天人の威光を示してあげようと」
「ふーむ……」
彼は前かがみになり、検分するように絵の詳細を観察する。
天子が偉そうなことを言うだけあって、その絵は見るものを圧倒する厳かさを放ち、雲の中に浮かぶ大地が重なるさまは、地上の人間が見れば己の矮小さを知らしめることだろう。
天子が幻想郷に降りるまで数百年、つまらない天界で暇を持て余していたあいだに、手慰みで絵を描いていた経験が活きている。
その出来に感心した名居守は、深くうなずいて息巻いた。
「うむ! さすがは我らが住まいし天界! 絵だけでもその偉大さが伝わってこようものよな」
「そーでしょそーでしょ?」
なんだかんだ偉そうな名居守に持ち上げられ、天子は上機嫌で笑みを浮かべた。
「しかし、地に足ついとらんな」
が、すぐに落とされた。
「私の絵がどこが不満ですか?」
「特に問題点があるわけではない、しかしそれが良いわけではないのが芸術の奥深さだ。迫力はあるがこれでは足りんな」
『――本当、これじゃ一位は無理ね』
「うるさいわよもう……あれ?」
「ん? どうした?」
響いてきた声に悪態をついた天子だが、周りを見てもいるのは名居守だけ。
キョトンとする彼と目を合わせて、天子は首を横に振った。
「いえ、なんでもありません。失礼しました」
「……まあ、回り道もよいか、よく励め。他の天人には儂が良い含めておいてやる、天界の威厳を知らしめるためとでも言っておけば、それで納得するだろうよ」
「ありがとうございます。今度、地上のお酒でも持ってきましょうか?」
「いらんよ、年寄りに地上の泥臭さはちとキツイ」
背を向けた名居守が、手をひらひらと振って有頂天へと上がっていく。
その姿が十分に離れてから、天子は気を研ぎ澄まして、近くの空間に筆を突き刺した。
筆先はなにもない空間に飲み込まれ、直後にそこにスキマが開いて奥から鼻を青色で汚した美少女が出てくる。
「て~ん~し~?」
「のぞき見してくるほうが悪い」
出てくるなり唸り声を上げて睨みつけてくる紫に対し、天子はぶっきらぼうに答えて睨み返すと、すぐにまたキャンバスに向き直った。
現れた紫はハンカチで鼻を拭いてスキマに座ると、天子のそばに身を寄せて絵を覗き込んだ。
「そう、こういう路線できたの」
「そうよ。これで何が足らないっていうの?」
「途中でそれを言ってしまうのは気がひけるけど……あなたなら大丈夫か」
紫は少し視線を漂わせてから言葉を決めると、スキマから扇子を取り出して口元を隠すように開かせた。
「貪欲さが足りない。一番をもぎ取るという目標は向上の原動力になりうる、けれどそれには泥水を啜っても立ち上がるような必死さが必要な道。天界でのうのうと遊んで暮らしてたお嬢様には難しいでしょうね」
物事の真髄を突き刺すような鋭い目で絵を批評する。
率直に物申す紫に、天子は悔しそうに表情を歪めた。
「絵の道に、いやさ生き方に正しいも間違いもない。一人に見てもらうための絵もあれば、名前も知らない多数を喜ばすための絵もある。描き方は自由でそこに優劣はないけれど、これは私があなたに期待していたものではないわね」
「むー……」
面白くない言葉を並べられ、天子が苦虫をかみつぶす。
やがて紫からそっぽを向いて口をとがらせた。
「いいもん、別に紫を喜ばそうと思って描いてるわけじゃないし」
「えぇ、その通りね、言葉が過ぎたわ。でもあなたらなら、私が何を言おうとやり抜くでしょう?」
「当然! 私が間違ってるわけないし!」
「ふふ、そうね」
俄然、奮起して絵に向かう天子の意固地さを、しかして紫は愛おしげに見つめてから、うろんげな瞳を向けた。
「今度のコンテスト、誰の作品がもっとも票を集めるのか、私にはもうわかっている。彼女の絵をよく見てみることね」
それっきり言って、天子が目を向けた時には紫は姿を消していた。
天子は誰もいない空間を見つめて気に入らなさそうに鼻を鳴らすと、俄然やる気になって絵に向かうのだった。
◇ ◆ ◇
イラストコンテストの日、宴会のついでに行われるそれには多くの絵画が集い、展示用のパーテーションに掛けて博麗神社の境内に並べられることとなった。
その展示作品の一画で、ある作品を見た聖白蓮は目を輝かせていた。
「こ、これは……ウチがよく滝行で使ってる場所……!」
額縁に収めて飾られていたのは勢いよく流れる滝の絵だ、その下には控えめな文字で『依神女苑』と作者の名前が書かれている。
聖が手を合わせて喜ぶ横で、女苑本人は頬を赤くしながら、照れくさそうに髪の縦ロールを指でいじっていた。
「まあ別に、他に描くものなかっただけっていうか、特に他意はないし……」
「命蓮寺での修行のこと忘れないでいてくれたのね、嬉しいわー!」
「いやそんなんじゃ……って、くっつくな撫でるなー!」
彼女たちがはしゃぐ横では、姉の紫苑の描いた理想のご馳走の絵が飾られている。
だが、絵から伝わってくる異様な迫力、あるいは魔力に怯えて見物客は遠目に見るだけだった。
「なんだこの絵……下手だけど妙なスゴ味って言うか、これ食べたいっていう必死さが伝わってくる……」
「美味しそうじゃなくて、なんか怖い……」
「厄神が隣でめっちゃクルクル回ってんぞ……」
他にも技術の稚拙さを気持ちでカバーした人物画から、精練された画力により手がけられた風景画や、更にはハナから上手い下手を超越したセンスで表現された抽象画まで、様々な特徴的な絵を見ることができた。
「私達の音のイメージを色で表してみたんだ、メルランはテンポの良さそうな波紋、リリカは綺麗に整頓された戸棚みたいに見えるね。私のは静かな水の流れみたいだって妹たちから言われたよ、絵に真剣に取り組むのは初めてだったけど面白い経験になったね」
「餅つきしてる兎たちの絵よ、絵本みたいなのを描こうと思ってやんわりとした絵柄にしてみたの。小さな子でも楽しめるように描いてたら、童心に返ったみたいで楽しくなっちゃったわ」
「白玉楼の桜を描いてみたの、どんな色合いか知らないから、花びらの表現に手こずったわ。絵の中でくらい満開を見てみたくてね~」
「ザクレロとブラウ・ブロとサイコミュ試験型ザク描きました!!!」
「早苗、こっちのやつにゃわからんて」
多種多様な幻想郷らしく、持ち寄られた作品の傾向もバラバラで、宴会目当ての見物客も飽きない絵画の数々に楽しんでいる。
賑わいを見せる博麗神社に、天子と衣玖は少し遅れてやってきた。
「おー、中々盛り上がってるじゃないの。けっこうけっこう」
「色んな作品がありますね」
天子は一度周囲を見渡すと、納得した顔で頬を緩ませた。
「……うん、どれもいい作品ばっかりだわ。みんな気持ちのいい気質がこもったものばかり」
「気質ですか?」
「えぇ、そうよ」
不思議そうに尋ねる衣玖に、天子が答えた。
「気質とは万物に宿る想い。特に今のこの場所には、沢山の気質が集まっていてキラキラと光り輝いてる。みんなが想いを込めて作品を作った証拠だわ」
「そういう見方もあるんですね、そういうのが見れるなんて羨ましいです」
「そんなの簡単よ、ただあるがままに見て感じればいい。さて、どこから見ていこっかなー」
「あっ、天子ー! 衣玖ー!」
二人のことに気付いた誰かが、甲高い声を響かせて名を呼んだ。
お椀に乗った針妙丸だ。空中にぷかぷかと浮かびながら、天子と衣玖の前にやってくる。
「二人ともやっと来たんだ!」
「待たせたか? まあ主役は遅れてくるものだからな」
「絵は昨日のうちに運び入れてたのに、遅れたところで何もない気が……ご無沙汰です針妙丸さん、絵の方は完成しましたか?」
「うん、なんとかね。この体で大きな絵を描くのは大変だったけどちゃんとできたよ。二人の絵は見たよ、どっちも上手く描けてたね。特に天子のは迫力あってすごかった!」
「ふっふっふ、まあ天人の手にかかればそのくらい当然だな」
「私は紫さんから色々教えていただきましたから」
「私の絵も見るでしょ? こっちこっちー!」
針妙丸に案内されて、彼女の絵の前に移動した。
そこで見た完成品は、空にそびえる輝針城の隣で、更に巨大なサイズの針妙丸が手を振り上げて吠えている絵だった。
「おー、よくできてるじゃないか」
「えへへ、そうかな……?」
絵のサイズは縦が30cm、横が20cmほどで、小人である針妙丸が紙の上に寝転べる程度の大きさだ。普通に描くだけでも難しかったことだろう。
小さな体で力いっぱい筆を振り回して描いた絵はバランスが悪いが、全体として勢いがあり、彼女の理想を現した内容は見るものの気持ちを前向きにさせるものがある。
上手い絵ではないが、本人の趣向がよく現れた絵は、天子と衣玖には好ましいものだった。
「なるほど……描きかけを見せてもらった時は輝針城の絵だと思っていましたが、こう描きたかったのですか」
「そうそう、将来はこれくらいおっきくなりたいってね」
「針妙丸ならきっとなれるとも、なんせこの私が見込んだ相棒だからな!」
「やったー、天人様のお墨付き!」
無根拠な言葉でも、自身に溢れた天子の態度に針妙丸は嬉しそうににっこり笑う。
「私は作品を観終わったから、これからコンテストの投票に行ってくるよ。みんな面白い絵ばっかりだよ」
「ああ、存分に楽しんでくるさ」
「それじゃあまた後でねー」
針妙丸が投票所の設置された本堂の方へと飛んでいくのを天子たちは見送った。
「さあて、どこから見ていこうかな……」
「総領娘様、あちらに」
衣玖に指で示されてそちらを見ると、コンテストに来た人妖たちに紛れて紫が立っていた。
彼女は自身が手がけた夜の幻想郷の絵画を、少し離れた位置から遠巻きに眺めているようだった。
紫の作品はあのスキマ妖怪の作ということで、中々の注目を浴びているようで周りには見物客が集まっている。
しかしそこから聞こえてくる評判はあまり芳しくないようだった。
「これが紫の絵か……どんなのが来るかと思ったけど、案外普通だな」
「流石に線は整ってるけど、全然特徴がないっていうか」
「夜空なんか、月と星の明かりが薄くてのっぺりしてるわね」
絵の質は周りと比べて見劣りするレベルではないのだが、八雲紫に掛けられた期待と興味に釣り合うほどのものでなかったというところだろう。
時々聞こえてくる批評を、紫は特に感慨のない顔で聞き流している。
そんな紫に、口をすぼめた天子が後ろから話しかけた。
「ちょっと、いいのあんた、あんなに言わせといて」
「あら、天子。来てたのね」
紫はいつもの調子で振り向いたが、天子はふくれっ面だ。
確かに、聞こえてくる通りあまりいい絵とは思えない。
紫による夜の風景画は地上に対し夜空の比率が大きめで描かれており、この空が絵のメインになるはずだが、そこに描かれているのは薄い月と星だけで、これでは何を見せたいのかわからない。
また明暗のメリハリもアンバランスだ、空が薄暗いのに地上が明るく照らされすぎている。
マイナスの批評は真っ当だが、だからこそ天子にはもどかしい。
紫なら観るものの度肝を抜くような、もっとすごい絵を描けたはずなのに、どうしてそうしなかったのか。
本人よりも苛立たしそうにしている天子に、紫は興味なさげに首を振った。
「別に構わないわ。コンテストには興味ないし、これは彼女たちに見せるために描いた絵ではないもの」
「じゃあ、何のために描いたのよ」
問われて、紫は口を閉じたままじっと天子へ瞳を向けてきた。
急に妖しい視線で見つめられて、天子は眼を合わせたままドキリと肩を狭める。
「あなたは何だと思う?」
「私? ……そうねぇ」
天子は一度、紫の絵に向き直る。
紫が心に思い描いた夜の幻想郷を、眉を寄せて睨みつけるように観るが、そこに込められた何かを掴もうとするが霧に阻まれるように手が届かない。
「……一本芯が足りないように感じる。本質的な何かが欠けているような……」
そう、もどかしく言うのが精一杯だった天子を、紫は真っ直ぐ見つめながら眼を薄くした。
「それで、結局どういう考えで描いたのよ?」
「……ふふ、秘密よ」
天子が振り返ると、紫は視線を切って、いつものように胡散臭く笑った。
相変わらず本心を打ち明けない紫だが、天子が何も言えずにいると、後ろに付いてきていた衣玖が「ゴホン」と咳をこぼす。
「ところで総領娘様、紫さんの絵の隣にあるのが私の絵なのですが」
「お、おっとそうなんだ。どれどれ」
天子は気を取り直して展示作品の前に駆け出した。
そばに寄って衣玖の描いた絵を見る。同じ場所で描いただけあり紫の絵と構図は一緒だが、景色が昼であることを除いても何かが違う。
それは単純な技術の差もあるが、描かれた山や田畑、人里などの大きさが微妙に違ったりするところに個性が現れているように思えた。
より多くの色を使って描かれた絵であり、実際の光景よりもより色が眩しく見える。
また他にない特徴として、青空には空に顔を覗かせる龍の姿が付け加えられていた。
絵を眺める天子に衣玖がおずおずと尋ねた。
「それで……総領娘様から見てどうですか?」
「ん~……微妙」
「うぐっ」
「なんかイマイチまとまりがないっていうか一貫性がない。いっぱい色を使ってるけどおかげで視線が滑るし、空の龍もとりあえずで付けた感じがして目立ってないし。紫に教えてもらったから上手く描けてるといえばそうだけど、これなら針妙丸や紫苑のほうが描きたいものがハッキリしてて個性的だわ」
「龍については、私らしいものを絵に入れようと思って……」
「だったら最初から龍をメインに描くべきだったわね、これ後から付け加えただけでしょ、これならないほうが風景が映えていいくらいね」
「うぐぐっ……」
「そこまでにしてあげなさい。無闇に言葉を並び立てるのは賢いことではないわ」
心苦しそうに呻く衣玖に、天子が指摘を続けていると、紫が割って入ってきた。
「良いじゃない、私は好きよ。確かにこの絵には迷いが見える、けれどそれも裏返せば、より良いものを描こうとした証。試行錯誤の過程が見えて愛らしいわ」
「褒めてるんでしょうか……?」
「ええ、もちろんですとも」
「まあ、初めてにしては悪くないか」
仲のいい友人の絵も見れたことであるし、そろそろ自分の絵を確認しようと周りを見た天子だが、それより先に目立つ絵が視界に飛び込んできた。
衣玖は紫と作品のことで話し込んでいたので、二人を置いてそちらへと向かってみると、それは縦幅が二メートルはありそうな巨大な肖像画だった。
豪華な金の額縁に収められた絵は、紅い部屋に置かれた巨大な椅子に、二人の小柄な羽のある少女が座っている様子を描いている。
それはレミリア・スカーレットとその妹のフランドール・スカーレットの絵だ、だがそれぞれ絵柄が微妙に違う。
いや、ハッキリ言ってしまえば、フランドールは非常に上手く描けていたが、レミリアについては拙さが見えた。
その他の椅子や室内の風景にしても、絵が上手い部分と下手な部分が入り乱れている。
「おや、来たか天人」
絵の近くには日傘を差したレミリアが立っていた。
天子を観るなり口元を引きつらせて、不機嫌そうに睨んでくる。
「なんか機嫌悪そうねあんた」
「当然だ、主催の一人の癖して準備をこっちに丸投げしてくれるとはな!」
レミリアと共同でイラストコンテストを開催したはずの天子だったのだが、前日に自分の絵を届けただけであとは投げっぱなしにしていたのだ。
「些事なんて地上のやつにやらせとけばいいのよ、任せられただけ光栄に思いなさい」
「クックック、別に良いがお前の絵は一番端っこに飾っといてやったからな」
「なぁー!?」
喉を鳴らして愉しそうに笑うレミリアを天子は悔しそうに睨みつけた後、改めて絵に向き直った。
「これ、合作?」
「あぁ、妹と描いた。絵を描く話をしてたらそんな流れになってな。順番に椅子に座って、相手の姿を描いたんだ。あとは一緒に顔を突き合わせて好きな部分を埋めていった」
絵の下には『レミリア・スカーレット、フランドール・スカーレット作』と両名の名前が書かれていた。
いい絵だと天子は思う、観るものを唸らせる絵ではないけれど、家族の温かみに溢れている。
だがコンテストでの競争には合わないだろう。
「まあこれをコンテストで見せびらかすと言ったらフランのやつは顔真っ赤にして襲いかかってきたけれどな!」
「わがままな姉を持つと大変ね」
「なんとか総掛かりで妹を館に閉じ込めて、コンテストに持ってこれた。いやあ、うちの妹は可愛かったぞ」
「暴れだすくらいに気持ちが詰まった立派な絵だけど、これじゃ優勝は難しいんじゃない?」
「だろうな、フランの描いた部分はお世辞にも良いとは言えないし。ただまあ……」
レミリアは飾られた作品に近づき、やわらかな眼をしてその額縁を指でなぞる。
「この絵で誇りたくなってしまったからな。かけがえない家族と、素晴らしい絵が描けたんだと」
己が幸福を味わうように自分と妹の作品を眺めるレミリアに、天子は茶化したりすることは出来なかった。
「そういうことだ、今回のところは引き分けにしておいてやろう」
「引き分け? 不戦敗じゃないの」
「引き分けさ、運命なぞ視ていると、普通に目で見ただけでも先にことがわかるようになって困る。お前がこのあと自分の絵をコソコソと目立つ場所へ入れ替えたところで意味はない」
これからやろうとしていたことを言い当てられ、天子がムッとした顔になっていたが、レミリアは気にせずその場を後にして、去り際に言い残した。
「敵も味方もないやつに勝つのは至難の業ということさ」
「――というわけで、今回のイラストコンテストの優勝者は、博麗霊夢のイラストに決定しました」
投票の終了とともに宴会が始まり、盛り上がってきたところでメイドが発表された集計結果に、どよめきが上がった。
その奥で友人たちに挟まれて酒を飲んでいた天子は目を丸くした。
「え、えぇー!!?」
早速優勝作品をメイドが宴会場の真ん前に運び込んできて、一番目立つ位置に飾る。
宴会の参加者たちが今一度その絵に目を向ける。それは縁側から見える境内の日常風景を絵に写しただけのありふれた一枚。
快晴の空、朱い鳥居、境内を囲む紅葉の木々と、参拝道の上で遊んでいる妖精たちと白黒の魔法使い。
「あちゃー、霊夢の絵か」
「まさかねぇー。割と普通の絵と思うんだけど、私以外に票入れるやつがいるなんて」
「この絵に投票するなんて私以外にいないだろって思って、お情けのつもりで入れてたのに」
みな口々にこれが優勝するとは思わなかったと驚き、天子もまた同意見だ。
素人が描いた絵だ、それほど根気よく丁寧に描いたわけでもないので雑な部分が多いし、宴会の席で飲ん兵衛たちが決めたからこそ一番に選ばれたが、これが真剣な審査員たちの元で論じられれば選考落ちだろう。
しかしそれでも、この場で優勝したのは間違いなくこの作品だった。
「えっ? 私のが? ホントに?」
「なんだよ、またやりやがったな霊夢、こいつぅー!」
敗した魔理沙が悔しがりながらも、霊夢の肩に腕を回してはやし立てる。
霊夢は優勝するとは思わなかったのか、周りの騒ぎ用に目をパチクリしていた。
「びっくりだわ、適当に描いただけなのに」
「まったくお前いつもそうだな、私だって頑張って描いたのに」
「そりゃあんたでっかいキノコの絵なんて誰も投票しないでしょ」
「それ言うならお前のだって誰も入れなさそうだろー。まあ私も霊夢のに入れたけど」
「そっかー、優勝かー、えへへ……お絵かき巫女ってのもいいかもねー……いや、やっぱ面倒だから良いや」
霊夢が優勝を祝われて、満更なさそうに頬を緩ませる。
その様子を眺める天子は口をあんぐり上げて酒を取りこぼし、衣玖たちから慰められるように肩を叩かれていた。
確かに悪くない絵ではあったし、天子もなんとなくでこの絵に一票を投じた。
しかしだからといって、まさかこんな普通の絵が、優勝を勝ち取ろうなどとは思いもしなかった。
霊夢には主催のレミリアからヴィンテージワインの詰め合わせを、天子からは手作り食器セットが進呈され。
その後はいつもどおり、飲んで騒いでのどんちゃん騒ぎが夜遅くまで続くこととなった。
そんな中、暗くなる前に紫の絵が隠されていたのだが、誰にも気づかれることはなかった。
◇ ◆ ◇
イラストコンテストから数日後、絵描きブームも一段落して、また幻想郷住人たちが思い思いの秋を過ごし始めていたのだが、あれから天子は難しそうな顔で日々を過ごしていた。
輝針城にまでやってきた天子が、壁際に座り込み、腕を組んで眉を寄せ、「ん~、ん~」と唸りを上げて何かを悩んでいる。
同じ部屋では針を持って裁縫に精を出す針妙丸と、その様子を前に紙と鉛筆を手にした衣玖が、唸り声を聞いていた。
衣玖は大して気にしたそぶりも見せずにサラサラと針妙丸の姿を絵に写しているが、モデルは嫌そうな顔をして天子を横目で見ていた。
「むぅ~、気が散るなぁ。なんでウチまで来て悩むかな」
「寂しがり屋ですからね、一人で悩むのが嫌なんですよ。大目に見てあげてください」
「そこ、うるさいこと言わない」
「うるさいのは天子だよもぉ~」
衣玖は鉛筆を動かし続け、涼しい顔で問いかけた。
「コンテストの結果について、何かお悩みですか」
「んー、まぁねぇー……」
「結果がご不満でしたか」
衣玖がチラリと部屋の壁を見上げる、そこには天子が描いた天界の絵画が飾られていた。特に持っていく場所がないということで、この輝針城に飾られることとなったのだ。
「別に、結果についてとやかく言う気はないわよ。でも、なんか悔しくて」
「ほぉ」
天子の描いた絵は丹精込めて描かれた力作であったが、優勝を逃したことについては単なる力不足と認めていた。
だが天子は、別のところでもやもやとしたものを抱えている。
「私にはもっと、やれることがあった気がするのよ」
自分が描いた絵には後悔はない、少なくともあの一枚に関しては出せるだけ出し切った。
しかしそれだけで終わるのは、どこか納得できないでいた。
思い出すのは紫苑や針妙丸、それにレミリアが描いた作品だ。
どれもその当人の気持ちが込められた素晴らしい絵。
特に、レミリア本人が妹とともに描いた絵を見て、満足そうな顔をしているあの瞬間が頭に浮かんでくる。
「なら、やってみてはいかがですか。私はそうしていますよ」
考え込む天子へ、衣玖は優しく語りかけた。
「私がコンテストに持っていった絵。総領娘様に言われて批評が胸に刺さりましたが、だからこそ自分が本当に描きたかったものはなんなのか、それに手を伸ばしてみたくて、また描いてみてます」
「私、普通に針仕事してるだけだけど、これでいいの?」
「はい、もちろんですよ。私が描きたいと思うような素晴らしいものを考えてみました。それは大げさなものでなく、日常に宿る想いではないかと」
「そっか、じゃあカッコよく描いてね! ふふーん」
「がんばりますね」
衣玖の目は素朴で自然な光を宿しており、サラサラと迷いなく紙に情景を写す。
言われたからとりあえずやってみるのでなく、改めて自発的に自己を追い始めた衣玖を眺め、やがて天子が立ち上がった。
「どちらへ?」
「神社行って、霊夢の絵を見てくる。それじゃ」
「いってらっしゃいませ」
「天子ばいばーい」
気が変わるなり天子が輝針城から出ていった後、針妙丸が衣玖へと問いかける。
「衣玖さ、本当に描きたいのって私じゃなくて、天子のああいうとこじゃないの?」
「ええ、そうかもしれませんね。しかし今はその時でありません」
衣玖は一度手を止め、自身が価値あると感じる光景を思い浮かべた。
「二人揃った時こそ、その情熱は輝くものですから」
◇ ◆ ◇
天子が博麗神社に来た時、霊夢はお昼ご飯を食べているところだった。
昼食中の巫女をよそに、天子は床の間に飾られた優勝作品を眺めている。
「……この絵が、一番多くの心を動かしたのか」
いつもの博麗神社のワンシーン。見れば観るほどありふれた作品だ、これがコンテストに優勝した絵だとは聞かないとわかるまい。
「なあ、霊夢はどうしてこの絵を描いたんだ?」
「んー? そんな大層なもんじゃないわよ」
霊夢は一度味噌汁をすすると、食事に箸を向けたまま答える。
「コンテストだし描いてみるかって気になって、なんとなくで描いてみた、それだけよ」
「そうだな、お前という巫女はそういうやつだ」
いや、だからこそなのかもしれない。
神社の日常風景を題材としたその時の選択は、多分怠惰ではなく、肩の力を抜いたからこそ自然に選び取れた最良だったのかも。
その時のテンション次第であるが、普段の霊夢はズバ抜けて無欲で無邪気で無頓着だ。たまに金儲けに目がくらんだりするが、一時の欲求に過ぎず、基本的に普段どおりで満足している。
そんないつも自然体な霊夢が、描きたいと本心から選んだものこそこれなのでは。
「――ごちそうさま」
天子の背後で、食べ終わった霊夢が手を合わせた。
空になった食器を重ねながら、そう言えばと霊夢が話しかける。
「この食器、賞品で貰ったものだけどあんたの手作り?」
「えっ? ああ、そうだが」
「これ、けっこう良いわ」
箸もお椀もお皿も、すべて天子がイチから作り上げたものだ。
天子が自分の手で削り取った箸は霊夢の小さな手にもよく馴染む。
少し大きめの茶碗は厚く堅牢で、程よい重さで安定感があり、また口当たりも良くて、ご飯をかきこむときにはスッと唇にのしかかる。
使っていて気持ちよく食事ができる、いい器だ。
「ふふん、当然だな。本当は私が自分で使うために最高のものを作ったのさ」
「ふうん、気に入ってるから返さないわよ」
「天人たるもの、一度あげたものを返せとは言わないさ。でもそうか……気に入ったか……」
自分のために作ったものでも、他人から評価されることもあるのだなと、天子はなんとなく安心を覚えた。
思えば優勝を狙って大衆受けを狙った天界の絵よりも、あの食器のほうがより自分の核心に近いものな気がする。
そこに優劣はないけれど、自分が追い求めている方はどちらか。
天子は博麗神社の絵を見上げた。
この絵はきっと、いつも自然体な霊夢という、みんなに好かれる彼女の本質を表した絵だ。だからこそ、大勢の気を惹いて、あの会場においては一番に選ばれた。
なら同じように、天子もまた絵に自分自身をぶつけてみたいと思い始めてきた。
「お茶ぐらい淹れようか?」
「いや、もう行く。礼を言うぞ、ありがとう!」
天子はすぐさま走り出して、あっという間に博麗神社から出ていった。
嵐が過ぎ去ったような神社で、霊夢は賞品の湯呑にお茶を淹れて一服する。
「なるほどねぇ、紫が夢中になるわけだわ」
湯呑の触り心地を味わいながら感心して一息ついた。
◇ ◆ ◇
天子はすぐさま画材一式を用意して外に飛び出した。
目標は、紫や衣玖が描いた場所と同じ丘の上。あそこからの景色が一番好きだ。
キャンバスを立て、パレットにありったけの色の絵の具を絞り出し、水の乗った筆に乗せて混ぜ合わせる。
目の前にはキャンバスと、命賑わう幻想郷の大地。
「よっし!」
目を輝かせて幻想郷を見つめた天子は、ウキウキ顔で色のついた筆をキャンバスへと向けた。
地面に立ったまま、素早い手付きで筆を動かすが、慌てているわけでなく、それは青空の下で走り回るのが楽しくて仕方ない子供のように次々と色を塗っていく。
ベタベタと色を塗っている時、後ろから老人の声が届いた。
「今度は地に足つけて描き始めたようだな」
「この声……名居様?」
天子が後ろに振り向くと、名居守が立っていた。
自分以外の天人が地上に降りてくるなど珍しいが、天子はすぐにキャンバスに向き直り、絵を描きながら尋ねた。
「珍しいですね、こんなとこまで」
「なに、美しいものが見れる気がしてな、ちょいと久々に地上の様子を見に来たわけだ」
「ご覧の通り私は忙しいんで、案内とかはできませんよ」
「よい、ただここで少し見させておくれ」
「ご自由に!」
誰のことも気にかけず、夢中で絵を描く天子を、名居守は自前の要石に腰掛けて黙って見守っていた。
天子の視線がキャンバスと風景とを行ったり来たりし、その間にいくつもの雲が流れ、鳥や妖怪が空を飛び交うのが遠くから見えた。
たっぷり時間を掛け、白紙を彩っていき、太陽が西に沈み始めてもまだ絵を描き続けた。
暗くなってきたので名居守が気遣って光球を作って照らしてやっても、天子は「ありがとうございます」と一言だけ述べて見向きもせず、描いて描いて描きまくった。
絵の具で自分が汚れようと、地面に根が生えたみたいに何時間も立ち続けた。
やがて夜の虫が鳴き声を聴かせ、月が美しく彼女を照らし、夜が更けてきた頃になって、ようやく天子は声を上げた。
「できた……!」
頬を絵の具で赤く汚したまま眼を大きく見開き、天子の目の前に完成した作品が広がる。
それは風景画とも、抽象画とも言えるような、大地の輪郭をなぞっていくつもの色の絵の具を使って塗りたくられ彩られた、無限の彩色の幻想郷だった。
眠りかけていた名居守が天子の声に起こされ、顔を上げて後ろから覗き込む。
「ほほう、これがお前の描きたかったものか」
「はい!」
天子は胸を張って名居守に自分の絵を見せて誇る。
描かれた色とりどりの色彩の大地こそ、天子がこの地に降りてから見つめてきたもの。
「私は緋想の剣で気質を使ううちに、色んな気質を感じられるようになりました。この大地には色んな気質が息づいていて、どこも光り輝いている。どれ一つとして同じでなく、微妙に違う色合いに煌めく地上の生き物たち」
気質とは万物に宿る想いの欠片。人や妖怪だけでなく、動物や魚に植物に昆虫、果ては目に見えない微生物まで、あらゆる生命の息吹と共に発せられる想いが地に宿ったものだ。
みな自分の意志で息をして、走って、必死に、そして何より楽しく生きている命の現れ、その奇跡。
それを天子は読み取って、いくつもの色を使って紙の上で灯りとして見せた。
「私が一番美しいと思うもの、たくさんの想いが生きるこの幻想郷そのものです!」
喜怒哀楽、それらに満ちる地上の景色。
天上に住まう自らが惹かれた無限に輝く大地の絵を見せ、天子は汚れたままの顔で満面の笑みを浮かべた。
彼女が描いた絵にも負けず劣らず輝かしいその顔に、名居守はため息をついて肩を落とした。
「まったく、お前の笑顔には天界が束になってもかなわんな」
◇ ◆ ◇
――イラストコンテストが終わってから、八雲の屋敷では、居間に二つの絵が額縁に収めて飾られている。
一つはマヨヒガで寝転ぶ猫たちの絵、もう一つは三人の家族を描いた絵。
だが本当なら並べて飾られていいはずの三枚目は、その場にはなかった。それは作者である紫の自室に飾られている。
その絵にこめられた秘密を知った時、主人がこれを自室に飾ると言っても橙と藍は異論を唱えなかった。
紫は灯りのつけていない部屋の中で、肘掛けに身を預けてゆったりと酒を飲んでいる。
障子の開かれた丸窓から入ってくる、わずかな月明かりだけが部屋を照らす。
薄っすらと見える闇の中で、紫は壁にかけられた自分の絵を肴にしながら、ほどよい酔いに心を任せていた。
絵に仕込まれた『真実の姿』を一人味わい――
「ゆっかりぃー!!!」
突如窓から飛び込んできた大声に耳をつんざかれた。
紫は目を白黒させながら窓を見ると、そこには明るい顔した天人が、頬を赤い絵の具で汚したまま、暗い部屋を覗き込んでいる。
「て、天子!?」
「なんで暗くしてるの? 部屋入るわね!」
「玄関から来なさいまったく、ちょっと待って」
紫は天子を制止すると、部屋にあるあんどんに火を灯した。薄い紙越しにオレンジの光が広がり部屋を照らし出す。
それから紫は「入ってもいいわ」と招き入れた。天子は靴を脱いで外に置きっぱなしにすると、窓をくぐって部屋に侵入してきた。
そんな彼女が一枚のキャンバスボードを抱えているのに気付き、紫は瞳を大きく開いた。
「天子、それは……」
「見て、紫! これが私の絵よ!!」
天子はキャンバスボードに貼り付けられたままの絵を、紫の眼の前に掲げて見せつける。
紙の上に広がった彩りどりの大地の様子に、紫は胸をときめかせて顔を近づけた。
「まぁ……素敵だわ」
「私が地上に感じる溢れるほどの想い、それを形にしたのよ。いっぱいよく見てね」
天子がボードをそのまま差し出してきたので、紫は震える手で絵を直に手に取った。
手の内に広がった世界に、紫は感嘆の熱い吐息をこぼす。
「私が天界から降りてこようって思ったのは、この輝きがあったから。この地上に惹かれたから、私は出てこれた」
「そうか……あなたの眼には、幻想郷はこんな風に映っていたのね……」
これまで紫が影から支えてきた幻想郷が、今はこんなにも鮮やかなものとして天子に認めてもらえている。
その事実に、天子から見た幻想郷の美しさに、紫は感動に打ち震えた。
「……絵を描いてすぐ、紫に見せたいって思った。紫が守ってきたものはこんなに美しいんだって伝えたかった。多分、紫とこの景色を見たいから、この絵を描いたんだ」
「……ありがとう天子。伝わるわ、あなたの感じるすべてが」
温かな気持ちで絵を眺める紫を見て、天子は満足そうに鼻をこすった。
そしてようやく落ち着いて部屋を見渡すと、紫が絵画を前にして酒を飲んでいたことに気がついた。
「紫ってば、灯りも付けないので飲んでたの?」
「あ……えぇと、それは……」
紫が戸惑ったように口ごもる。それを不思議に思った天子が、紫の描いた絵を見てあることに気がついた。
あんどんの薄い光に照らされた、夜の幻想郷の絵。その空に別の光がわずかに宿っている。
天子はそれを見つけて「あっ!」と声を上げると、急いであんどんのそばに近づいた。
「紫!」
「はぁ……わかったわ、好きにして」
紫が観念したのを見て、天子はあんどんの中の火を吹き消した。
音を立てて揺らいだ火が消えると、再び部屋の中が暗闇に包まれる。
その状態で、天子は紫の絵があった場所を仰ぎ見て、光を見た。
「……綺麗」
そこにあったのは、暗闇に差す淡い緑色の極光。
帯となった光が、薄暗い部屋のただ中にこそ見える。
紫が描いた幻想郷の夜空に隠された秘密、それは暗闇の中で光を放つこの輝きだったのだ。
「すごい、これ絵の具が光ってるんだ……!」
「蓄光塗料と言ってね、明るいうちに光を集めて、暗くなる素材があるの」
紫はそれで絵の中に極光を描いていたのだ。アンバランスの絵は、これが真の完成形だったのだ。
暗闇に慣れてきた天子の眼に、極光で照らされる幻想郷の風景がハッキリと見えてくる。
空に掛かる鮮やかな光が、地上を優しく包み込む美しさは、確かに天子の心に届き震わせた。
「……すごいね。とっても綺麗……素敵……」
「恥ずかしいから見せるつもりはなかったのに、いきなりやってくるんだもの」
紫は預かった天子の絵を、月明かりがよく当たっている壁、夜の幻想郷の真下に立てかけた。
そして天子に肩を寄せ、人の領域に閃光のように入り込んでくる彼女の温かみをそばに感じた。
「……でも……本当は、あなたとこれを見たくて描いたのかもしれない」
「紫……」
天子の身体を抱き寄せ、そっと耳に囁いた。
「これはあなたが来てくれたから、見ることができた光なのよ」
それから二人は暗闇の中で肩を寄せあって、静かに盃を交わし、それぞれが見出した夜の幻想と、昼の灯りを眺めた。
酒でたゆたう心に、お互いの美しさを分かち合い、心地よい一夜を楽しむのだった。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、また春が来る。止まることなく、奇跡のように移ろい廻る命のサイクル。
残暑を抜けて秋が訪れた今日このごろ。山は朱く萌え、多くの実りが大地を潤わす。
冬に向けて種を残して亡骸を大地に埋める虫や草花などが多いため、生命の化身である騒がしい妖精たちは少なくなり、逆に邪魔者がいないということで妖怪たちは活発的になったりもする。
秋ならではの賑わいを見せてくれる幻想郷で、八雲家に遊びに来ていた天子は縁側で腰を落ち着けて大きく手足を伸ばした。
「ん~! だいぶ涼しくなってきたわね」
「そうね、寝汗をかかなくていいから快適だわ」
今日も今日とて寝ることばかり考えている紫は、天子の隣に座りながら手に持った本のページをパラリと捲った。
天子は腕を伸ばしたまま居間に向かって寝転がると、縁側の敷居に背中を寝かせながら白く健康的な腕を振り回す。
「私は夏のうだるくらいの暑さも『夏だー!』って走り出したくなる感じがして好きだけど、秋も良いわよねー。この前、妖怪の山で秋の神が焚き火やってたから焼き芋貰っちゃった」
「あなたは食べることばっかりね、そろそろ頭の桃もお芋に生え変わるんじゃない?」
「仙芋ってのも悪くないかもね、ところで何読んでんのよゆかりっ!」
唐突に起き上がった天子が、紫に飛びつくと馴れ馴れしく肩を回す。
紫は手に持った本を揺らして、呆れながらも穏やかな横顔を見せた。
「ちょっと、ひっつかないでようっとうしい」
「高貴な天人様の触ってやってんのよ、嬉しがりなさいよ、うりうりー。そしたら少しはババア肌が若くなるかもよー?」
「じょーだん、藍の尻尾の触り心地を見習ってから来なさい。それにまだピチピチよ」
「ちぇっ。それで何の本?」
天子が本に手を伸ばし、端をつまんでのぞき見た。
外界の本らしいツヤツヤした発色の良いページに描かれていたのは、包帯で右耳を覆った男の絵だった。
「誰このおじさん」
「フィンセント・ファン・ゴッホよ、有名な画家、これは彼の自画像」
「ふーん、なんか面白そうなやつね」
天子は勝手にページをめくってひまわりや星月夜の絵を食い入るように見つめていた。
「興味あるの?」
「そうねぇ……絵……絵かぁ……」
幾度か呟いた天子は、ひときわ大きく輝かしい眼を見開くと、興奮した子供のように鼻息を鳴らしてその場に立ち上がった。
「よし! 紫!」
「なあに、天子?」
そしてまた唐突に、当然に、したいことを口にするのだ。
「絵を描くわよ!!」
~~~~夜の幻想、昼の灯り。~~~~
食欲の秋。
スポーツの秋。
弾幕の秋。
昼寝の秋――主にスキマ妖怪――。
涼やかな秋は家の外でも中でも過ごしやすく、楽しみ方は人それぞれ、千差万別。
その中で芸術の秋という過ごし方も、享楽をモットーとする者たちには大いに歓迎される。
「ってなわけでー、どうせなら博麗神社を使ってイラストコンテストでもやろうじゃないか! 酒を飲みながら一番を決める、優勝者には景品付きでどうだ!?」
いきなりスキマから紫の首根っこ掴んでやってきた天子に、話を聞いた霊夢は座布団に座ったまま肩を落として面倒そうに眉を寄せた。
「はあ……イラストコンテストねぇ……」
「いいんじゃないかしら霊夢。たまにはそういうのも盛り上がるわよ」
「いやそれは良いんだけどね」
紫が首を猫のように吊るされながらフォローしてやると、霊夢は困った風に腕を組んで難しい顔をした。
「ちょうど今、同じ企画持ってきたやつがここに」
そう言って霊夢が顔を横に向けた先にいたのは、座布団に座った赤い翼にキュートなカリスマ。
天子の発言を聞き、彼女は気に入らなさそうに青筋浮かべて、鋭い牙をむき出しにして無理やり笑った。
「な・ん・で、よりにもよって私と被るんだお前は」
「あっ。赤い館のちんちくりんの小悪魔」
「誰が小悪魔だ! 誇り高きツェペシュの末裔、レミリア・スカーレットだ!」
あっという間に堪忍袋の緒が切れたレミリアは、怒りを露わにして襲いかかった。
すわ敵襲かと、天子は紫を放り捨てて、小さい吸血鬼と神社の中で取っ組み合いを演じる。
「あんたまさか私の計画パクったわけー!?」
「それはこっちの台詞だー!! 後からやってきて何をぬけぬけと! お前みたいなのと被るってのが気に入らん! お前うちの館を覗いてたんじゃないだろうな!?」
「なによー! そっちこそ運命インチキしたんじゃないのー!?」
「霊夢、被ったの?」
「それはもう、優勝者には景品ってとこまで一緒」
「けっこう思考回路似てるわね、このワガママ娘たち」
ドッタンバッタンひっくり返る二人のおてんば少女を前に、紫は扇子で口元を隠しながら霊夢とこっそり話す。
しばらくして「いい加減ウチで暴れんな」と霊夢にお叱りの陰陽玉を受けた天子とレミリアは、頭にタンコブを作りながら人差し指を突きつけあった。
「こうなったら、絵で決着を付けるわよチビ吸血鬼!」
「いい度胸だ世間知らずの高慢ちき! 勝負は二週間後、宴会の日に! お互いに景品を持ち寄る!」
「イラストコンテンストの参加者は自由! 投票で一番になったやつが景品を掻っ攫う! それで良いわね!?」
「応とも!!」
――とまぁ、一悶着あったものの、こうして博麗神社でイラストコンテストが催される運びとなった。
このことはすばやく幻想郷中に伝えられ、多くの人妖から興味を引いた。
元より幻想郷には芸術を楽しむような者も多い、冥界の亡霊主人、永遠亭の姫様、山の神社の神々などが参加を表明し、普段は音楽活動にいそしむプリズムリバーもこの期には画材を取り出した。
そういった風流な者たちが筆を取れば、普段は呑んだくれてばかりいる妖怪も絵画に興味を持ち始める。
博麗神社の常連客たちの間では、あっという間に絵描きブームが巻き起こり、そこかしこでイラストコンテンストに向けて筆を滑らせる光景が見れるようになった。
その日、依神女苑は散歩ついでに命蓮寺に顔を出してみたのだが、そこでも筆を持って紙と睨めっこしている住人たちの姿があった。
雲山にポーズを取らせて模写している一輪、庭の池を前にして病的なのめり込みで色を塗りたくる水蜜、和室で墨を擦って静かに寅の絵を描く星、色が破裂したようなよくわからん前衛芸術的な絵を描くぬえなどなど。
「あんたらもお絵かきモードってわけね」
「はい、女苑も興味はないの?」
尋ねた聖は、隣りにいた女苑が「全然」と首と振ったのを見てキャンバスに向き直る。彼女は門の前に立って、そこから覗く寺の光景を絵に落とし込もうとしていた。
紙の中の参道には聖たち命蓮寺の住人たちが並んで描かれている――何故かそこには女苑もいた。
「ちょうど来てくれてよかったわ。お寺のみんなは描けるけど、女苑ちゃんの服はちょっと難しいから、本人が来てくれて参考になるわ」
「もしかして、他の奴らは見ずに描けるの?」
「ええ、もちろん」
「ふーん」
内心では堕落したがってる僧侶だが、住人たちのことはよく見ているようだ。
聖は今のうちに女苑を完全に描き切ろうと、本人と絵をしきりに見比べながら絵の具を筆に取る。
女苑はその横からキャンバスを覗き込む、聖の筆はゆっくりだが迷いなく大胆に動かされ、ベタベタと色を付けていく。
あまり絵を描き慣れていないのだろう、下手っぴだ。だが技術の稚拙さを補うほど、丁寧に、心をこめて描いている。
キャンバスの中は温かみに溢れた情景で、実にイキイキと描いているのが見て感じ取れた。
「絵なんて子供の頃に、命蓮と地面に落書きするくらいしかしたことなかったけど、千年も経てば画材も豊富になって面白いですね。みんな自分の好きな風景を描いているわ」
「良いのかなぁ、尼さんが修行もせずそんなことしてて」
「感性を伸ばすことは悟りを開く事にも通じます、それにこういったことをあるがままに楽しむことも修行の一つですよ」
「と、いう方便でサボるわけか」
「女苑や?」
「はいはい、聖さまは熱心な住職様ですよ」
聖の描く依神女苑が大体の形になったところで、女苑は寺を後にして自宅へと足を向けた。
こんだけブームなら文房具屋は大儲けだろうな、取り憑いてちょっとうまい汁を吸わせてもらおうか、などと考えながら人里を抜け、寂れた住宅街にある姉との共同住居の扉を開ける。
「ただいまー」
「おかえり女苑」
「やあ久しぶりだな疫病神!」
「お邪魔しております」
そこで聞こえてきた姉のものではない、やたらと胸を張ったでかい声を聞き、女苑は苦い表情を浮かべる。
小さな家の中にいたのは、部屋の真ん中で畳に置かれたキャンバスの前に膝立ちで絵を書いている紫苑と、腕を組んで胸を張ったワガママ天人、及び腰巾着の竜宮の使いだった。
「げげえ、暴力天人!」
「むう、何だその嫌そうな顔は。地上の民とは格の違う天人様が来てやったんだぞ、おもてなしの心を持て」
「あんたに出すぶぶ漬けすらないっての」
「ちょっと、駄目じゃない女苑。天人様に失礼なこと言っちゃ」
天子のことを警戒する女苑に、紫苑が黄色の絵の具を鼻につけながら口を出した。
「天人様は私たちのために画材をプレゼントしてくれたのよ。ありがとうございます、天人様」
「このくらい安いものさ、配下が絵もかけずに喘いでいるのを助けねば高貴さがすたるからね」
「うちの姉を勝手にしもべ扱いにすな」
正直、女苑は内心余計なことをと思った。
ああもう、こんなことに慣れない姉さんにいきなり絵描きなんてさせるから、服が絵の具でベタベタじゃないか。
「あとついでに、衣玖の参考に色んな絵を見せてやりたくてな」
そう言われ、天子の後ろでふよふよと浮いていた衣玖がやんわりと笑みを浮かべた。
「はい。私もコンテストに参加してみようかと思ったのですが、何を描けばいいかわからなくて。総領娘様に相談したら、なら他の方の絵を一度見てみれば良いだろうということで」
「ふーん、そう」
元からイラストコンテンストに興味がない女苑はどうでも良さそうにしていたが、そんな彼女に姉の紫苑が笑いかけた。
「女苑も一緒に描きましょ? 二人で描いたらきっと楽しいわ」
「えー、でも興味ないし」
「天人様が女苑のぶんもお絵かきセットを揃えてくれたわ。ね? 良いでしょ?」
最初は首を横に振っていた女苑だったが、姉から屈託のない期待の視線を向けられて心が揺らぐ。
今まで絵など描いたことのない女苑は、少し恥ずかしげに頬をかいたが、紫苑の微笑みを見て仕方なく頷いた。
「まあ……それなら……」
「やったー♪」
「別に描くのは良いけど、姉さんはこんな狭い家でなに描いてるのよ」
キャンバスの向こう側にあるのはちゃぶ台だけだ、一体これで何を描こうとしているのかと気になって女苑が覗いてみると、描かれていたものに「うげっ」と頬を引きつらせた。
紫苑が描いていたのは、貧乏くさい家の貧乏くさいちゃぶ台の上に並べられた、貧相な想像力で精一杯に作り上げた妄想料理の数々だった。
「こうやってね、いっぱいおかずを描いて、それを見ながらご飯を食べたら美味しいかなーって」
「うむ、よくできてるな」
「いやー、どうなんでしょうこれは……」
天子は頷いているが、衣玖は後ろで微妙そうな顔をしている。女苑も後者とだいたい同意見だ。
いっそこれが幻想郷では珍しい海鮮料理だの、鮮やかな季節の味覚などが美しく描かれていればまあいい。
だが描かれた料理はあくまで貧乏な紫苑が想像できる範疇と言うか、豪華になりきれず肉じゃがだとかきんぴらごぼうだとか、あくまで一般的な範囲のもので、具体的には茶色ばかりだ。
しみったれた発想としみったれた内容の絵を見て絶句した女苑は、自分の分の画材を手に取ると玄関に足を向けた。
「……私、外で絵ぇ描いてくるわ」
「えー!? 女苑も一緒にご飯いっぱい描いてお腹いっぱいになろうよー!」
「えーい、そんなケチくさいことできるかー!! ……ギャーッ! こらジャケット掴むな、これ高いんだからー!」
「それじゃあ衣玖、紫苑の絵は見たし次行こっか」
「はい、そうですね」
「あっ!? おい、先に私を助けてけー!!」
紫苑の絵の具で汚れた手で掴まれて動けない女苑を置いて、天子と衣玖はさっさと依神家を後にした。
◇ ◆ ◇
天子と衣玖は肩を並べて幻想郷の空を飛んで回った。
少し目を凝らしてあちらこちらへ出向いてみると、見えるわ見えるわ、美しい景色を前に筆を持つ姿。
鈴蘭のお花畑で共に絵を描く毒人形と花の妖怪、霧の湖で遊びながら筆を振り回す妖精たち、紅葉の山を見上げて赤を色塗る白狼天狗。
「みな思い思いの場所を描いていますね」
「やっぱ自分の住んでる近くを描いてるやつが多いわねー。妖怪なんて大抵は好きなとこに住んでるから当然だけど。あんたも住処の近くを描いてみたら?」
「雲の中は無理として、天界ですかね……確かに景色は素晴らしいですが、他になにか描けるものがある気がします」
天子に言われて衣玖は想像を巡らせてみるが、天界で絵を描く自分に違和感というか、何かこれじゃないなあという感想を抱く。
それとは別にあることを思い出した。
「そういえば名居守様が、天子様が最近どうしてるか心配してましたよ」
「あー? 心配なのは私じゃなくて、私が地上で暴れてないかでしょ。あの人、気にし過ぎなんだから」
「またそんな捻くれたことを言って、小耳に挟まれでもしたら怒られますよ」
「あれで甘い人だから心配いらないわよ。それより! あんたはなに描くか決まらないの?」
「そうですねぇー……」
改めて衣玖はこれまで見てきた絵描き人たちを思い返した。
「紫苑さんはいっぱいのご飯、針妙丸さんは自分が住んでいる輝針城、みんな好きなものを描いているようですね」
「なら衣玖は好きなものないの?」
「うーん、なんでしょう……描きたいと思うほど好きなもの……いつもふわふわ浮いて過ごしているので、そこまで執着するものがないんですよねぇ」
わざわざ絵にしてみたいもの、となるとパッとは思い浮かばない。
「ふわふわ、ねぇ。まあそれが衣玖のいいとこだけど……決まらないなら、今度は紫のやつのでも見る? 多分今なら描いてる頃でしょ」
「紫さんの、ですか?」
あのスキマ妖怪の絵と聞いて、衣玖は猛烈に興味が惹かれるのがわかった。
謎深いが慈愛も深い彼女がどんな絵を描こうとするか、自分の参考にするよりも純粋に気になる。
「見てみたいですが、どこで描いているのか教えてもらったんですか?」
「聞いてないけど、あいつならまああそこでしょ。あそこが何もかも一番きれいに見えるもの」
そう言って、やはり天子は迷いなく心当たりへと進路を向けた。
◇ ◆ ◇
その日、紫は珍しく朝早くから起き出した。そうすると前日から決めてあった。
家族一緒に朝ごはんを食べ、藍から用意して貰った弁当を受け取り、家族と手を振り合って一人で家を出る。
スキマを使わず、ゆったりと空を飛んで幻想郷の空を胸いっぱいに吸い込んだ。
見晴らしのいい丘の上に降り立つ。髪をかき分け、首元に涼やかな風を受け入れる。
草の上に立って景色を眺める。青空の下、厳つくそびえる妖怪の山が朱く煌めき、人里の近くでは人々が一生懸命に育てた田んぼが黄金の風を呼んでいる。
日差しは暖かく、風は涼しく、優しい草と土の匂いが心を受け止める。
雄大な自然、愛する素晴らしい景色に、己の存在が迎え入れられたような、清々しい気持ちになった。
紫は大きく深呼吸すると、スキマから画材一式を取り出した。
草のキャンバスを立て、水の入ったバケツを足元に。パレットの穴に左手の親指をさし、板の上に絵の具を乗せ、右手に筆を持つ。
準備が終わりすっかり芸術家に変身した紫は、横向けに開いたスキマの上に座りながら絵を書き始めた。
落ち着いた呼吸と柔らかな眼差しで、ゆっくりと丁寧に筆を動かす。
長く生きているだけ絵の技術も中々のものであり、かなり精密な絵を描いていた。
だが己の技術に驕ることなく、ひと塗りひと塗りに心を込めて、絵に命を吹き込んでいく。
そこに天子たちがやってきたのは、お昼ご飯を食べて休憩した後、再び筆を手にとってすぐのころだった。
紫はキャンバスの向こうからこちらに飛んでくる二人組を見て顔を上げる。
「あら、天子と衣玖じゃない。こんにちは」
「やっほー、紫! やっぱりここにいた」
「紫さん、どうもこんにちは」
天子と衣玖は紫の隣に降り立った。
「どうしてここに?」
「衣玖が絵の題材に迷っててね、紫の絵を見せてやろうと思って」
「私がここで描くとわかっていたの?」
「うん、あんたならここだろうって」
「あら、それは……ふふ、嬉しいわね」
紫は少し照れくさそうに笑って衣玖へと顔を向けた。
「まだ途中だけど、描きながらで良かったらご覧になって」
「はい、ありがとうございます」
「どれどれー? 紫の絵は、ど・ん・な・の・かな~?」
絵の続きを描き始める紫の横から、二人はキャンバスを覗き込んだ。
描かれていたのは当然ながらこの丘の上から見える幻想郷の景色だ、そしてその精緻さは流石賢者だと思わざるを得ない。
だが少し変わっていたのが、絵の中の景色は暗く、空に浮かんでいるのが太陽でなく月であるところ。
「へぇー、夜を描いてるんだ」
「昼間にも描けるものなのですね」
「写真と違い、絵を描くという行為は現実を写し取るものじゃありませんもの。例え昼間でも、心に夜を浮かべれば、筆は自然と暗闇をなぞるものですわ」
「そういうものですか」
サラリと言うが、常人には難しいことを当然のようにやってのける方だ、と衣玖は思う。
それを難しいと思わずにやってのけるがゆえの才知であろう。
紫が筆を動かしたまま尋ねてきた。
「題材で悩んでいるのかしら?」
「えぇ、まぁ。みなさんは好きなものを描いているそうですが、自分は描きたいものが思わず」
「そう……なら何でも良いんじゃないかしら? 迷うくらいなら、まずやってみるのも選択肢よ。何ならここで描いてみたら良いですわ」
「紫さんと一緒にですか? それでは内容が被ってしまいますが」
「大した問題ではないわ。網膜に映る光など錯覚に過ぎず、誰しも自分だけの風景を脳に刻んでいる。同じ光景でも、違う者が絵に描けば違うものが表れるわ」
現に紫が描いている光景は、現実から外れた夜の幻想郷だ。
衣玖がここからの景色を絵に落とし込もうとしても、夜景を描こうとは思わないだろう。
「そうですか……いやでも、紫さんの絵と比べられるのは恥ずかしいと言うか……」
「良いじゃないの下手だって。一緒に描けば紫からコツとか聞けるし、それに私の絵が一番上手いんだから、他のやつの絵なんてみんな同程度だからね! 気にせずやりたいようやればいいわ!」
「うーん、この上から目線」
天子の威張りように衣玖は思わず遠い目になるが、これはこれで聞いていて元気づけられるから大したものだ。
そばから聞いていた紫はため息を付いて呆れた視線を送る。
「そういう天子は何を描くつもりで?」
「ひ・み・つ。まあ期待しといてよ」
「そう。優勝賞品の用意もあるんだから早めに描ききりなさい」
「わかってるって」
◇ ◆ ◇
天子の題材はズバリ、天界そのものだ。地上のものを絵でひれ伏させるには、偉大なる天の世界こそが最適だと単純に考えたからだ。
そのため天子は、追放された身でありながら我が物顔で天界に戻ってきて絵を描き始めていた。
ひとえに天界と言っても四つの層に分かれている。
第一天、空無辺処天。第二天、識無辺処天。第三天、無所有処天。そして天子が住んでいた第四天にして最高天、有頂天とも呼ばれる非想非非想天だ。
それらは空間的に分けられていて、物理的に重なっているようには見えないが、天子はその四つの天界を一つの絵の中で再現し、その威光を以ってイラストコンテンストで優勝を狙っていた。
それぞれの天界から少しはぐれた位置で運動できるくらいのサイズの要石を作って浮かばせ、その上にキャンバスなどを用意して筆を持つ。
別に浮かせた小さめの要石を椅子代わりにして、しばらく気ままに絵を描いていると、上の方から降りてくる影があった。
「久しいな比那名居の娘よ」
老練さを感じる渋い声。天子が顔を上に向けてみると、後ろ手に組んだ老人が、直立不動のまますっとより高みから降りてきた。
静かに要石の上に降り立ったのは、比那名居家の上司とも言える名居守だ。
短く整えられた髭に生まれながらの仏頂面、普通の天女なら気を損ねていないか焦るところだが、彼がその厳つさについて「部下から怖がられて辛い」と嘆いていることを天子は知っている。
「おや名居守様、どうもごきげん麗しゅう」
「息災のようで何よりだが、断りなく戻ってきおって。追放の意味がわかっとるのか」
「ふふーん、別に天界には足を踏み入れてないですし?」
「屁理屈抜かすでない。まったく、かの斉天大聖よりも度し難い娘よな」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めとらんわ」
一応敬語を使いながら軽い調子で話し合う。
天人たちの中には比那名居家のことを不良天人として蔑む者も多いが、天子は名居守とは血族として近いこともあり、それなりに親しい間柄だった。
本来なら礼儀を尽くさねばならないはずの名居守を相手にしながら、天子は特に気にすることなく絵を描きながら喋り続ける。
「ほかの天人の小言なんてどうだっていいですよ。どいつもこいつも、口先ばかりで大したことありゃしない」
「そう言うでない、ここは退屈ゆえお前のような者は目に付きやすいのだ……ところで儂の評価は?」
「んー? 中の上くらいですね」
「贔屓目で?」
「はい」
「名居様ショック……」
「あはは、じょーだんじょーだん。小遣いくれる親戚のおじさま程度には尊敬してますよ」
「儂のお陰で天界に上がっといてこいつめが」
名居守は天子の隣に立ってキャンバスを覗いてきた。
「絵か」
「はい。地上の催事で、イラストコンテストを開きましたので、ちょいと天人の威光を示してあげようと」
「ふーむ……」
彼は前かがみになり、検分するように絵の詳細を観察する。
天子が偉そうなことを言うだけあって、その絵は見るものを圧倒する厳かさを放ち、雲の中に浮かぶ大地が重なるさまは、地上の人間が見れば己の矮小さを知らしめることだろう。
天子が幻想郷に降りるまで数百年、つまらない天界で暇を持て余していたあいだに、手慰みで絵を描いていた経験が活きている。
その出来に感心した名居守は、深くうなずいて息巻いた。
「うむ! さすがは我らが住まいし天界! 絵だけでもその偉大さが伝わってこようものよな」
「そーでしょそーでしょ?」
なんだかんだ偉そうな名居守に持ち上げられ、天子は上機嫌で笑みを浮かべた。
「しかし、地に足ついとらんな」
が、すぐに落とされた。
「私の絵がどこが不満ですか?」
「特に問題点があるわけではない、しかしそれが良いわけではないのが芸術の奥深さだ。迫力はあるがこれでは足りんな」
『――本当、これじゃ一位は無理ね』
「うるさいわよもう……あれ?」
「ん? どうした?」
響いてきた声に悪態をついた天子だが、周りを見てもいるのは名居守だけ。
キョトンとする彼と目を合わせて、天子は首を横に振った。
「いえ、なんでもありません。失礼しました」
「……まあ、回り道もよいか、よく励め。他の天人には儂が良い含めておいてやる、天界の威厳を知らしめるためとでも言っておけば、それで納得するだろうよ」
「ありがとうございます。今度、地上のお酒でも持ってきましょうか?」
「いらんよ、年寄りに地上の泥臭さはちとキツイ」
背を向けた名居守が、手をひらひらと振って有頂天へと上がっていく。
その姿が十分に離れてから、天子は気を研ぎ澄まして、近くの空間に筆を突き刺した。
筆先はなにもない空間に飲み込まれ、直後にそこにスキマが開いて奥から鼻を青色で汚した美少女が出てくる。
「て~ん~し~?」
「のぞき見してくるほうが悪い」
出てくるなり唸り声を上げて睨みつけてくる紫に対し、天子はぶっきらぼうに答えて睨み返すと、すぐにまたキャンバスに向き直った。
現れた紫はハンカチで鼻を拭いてスキマに座ると、天子のそばに身を寄せて絵を覗き込んだ。
「そう、こういう路線できたの」
「そうよ。これで何が足らないっていうの?」
「途中でそれを言ってしまうのは気がひけるけど……あなたなら大丈夫か」
紫は少し視線を漂わせてから言葉を決めると、スキマから扇子を取り出して口元を隠すように開かせた。
「貪欲さが足りない。一番をもぎ取るという目標は向上の原動力になりうる、けれどそれには泥水を啜っても立ち上がるような必死さが必要な道。天界でのうのうと遊んで暮らしてたお嬢様には難しいでしょうね」
物事の真髄を突き刺すような鋭い目で絵を批評する。
率直に物申す紫に、天子は悔しそうに表情を歪めた。
「絵の道に、いやさ生き方に正しいも間違いもない。一人に見てもらうための絵もあれば、名前も知らない多数を喜ばすための絵もある。描き方は自由でそこに優劣はないけれど、これは私があなたに期待していたものではないわね」
「むー……」
面白くない言葉を並べられ、天子が苦虫をかみつぶす。
やがて紫からそっぽを向いて口をとがらせた。
「いいもん、別に紫を喜ばそうと思って描いてるわけじゃないし」
「えぇ、その通りね、言葉が過ぎたわ。でもあなたらなら、私が何を言おうとやり抜くでしょう?」
「当然! 私が間違ってるわけないし!」
「ふふ、そうね」
俄然、奮起して絵に向かう天子の意固地さを、しかして紫は愛おしげに見つめてから、うろんげな瞳を向けた。
「今度のコンテスト、誰の作品がもっとも票を集めるのか、私にはもうわかっている。彼女の絵をよく見てみることね」
それっきり言って、天子が目を向けた時には紫は姿を消していた。
天子は誰もいない空間を見つめて気に入らなさそうに鼻を鳴らすと、俄然やる気になって絵に向かうのだった。
◇ ◆ ◇
イラストコンテストの日、宴会のついでに行われるそれには多くの絵画が集い、展示用のパーテーションに掛けて博麗神社の境内に並べられることとなった。
その展示作品の一画で、ある作品を見た聖白蓮は目を輝かせていた。
「こ、これは……ウチがよく滝行で使ってる場所……!」
額縁に収めて飾られていたのは勢いよく流れる滝の絵だ、その下には控えめな文字で『依神女苑』と作者の名前が書かれている。
聖が手を合わせて喜ぶ横で、女苑本人は頬を赤くしながら、照れくさそうに髪の縦ロールを指でいじっていた。
「まあ別に、他に描くものなかっただけっていうか、特に他意はないし……」
「命蓮寺での修行のこと忘れないでいてくれたのね、嬉しいわー!」
「いやそんなんじゃ……って、くっつくな撫でるなー!」
彼女たちがはしゃぐ横では、姉の紫苑の描いた理想のご馳走の絵が飾られている。
だが、絵から伝わってくる異様な迫力、あるいは魔力に怯えて見物客は遠目に見るだけだった。
「なんだこの絵……下手だけど妙なスゴ味って言うか、これ食べたいっていう必死さが伝わってくる……」
「美味しそうじゃなくて、なんか怖い……」
「厄神が隣でめっちゃクルクル回ってんぞ……」
他にも技術の稚拙さを気持ちでカバーした人物画から、精練された画力により手がけられた風景画や、更にはハナから上手い下手を超越したセンスで表現された抽象画まで、様々な特徴的な絵を見ることができた。
「私達の音のイメージを色で表してみたんだ、メルランはテンポの良さそうな波紋、リリカは綺麗に整頓された戸棚みたいに見えるね。私のは静かな水の流れみたいだって妹たちから言われたよ、絵に真剣に取り組むのは初めてだったけど面白い経験になったね」
「餅つきしてる兎たちの絵よ、絵本みたいなのを描こうと思ってやんわりとした絵柄にしてみたの。小さな子でも楽しめるように描いてたら、童心に返ったみたいで楽しくなっちゃったわ」
「白玉楼の桜を描いてみたの、どんな色合いか知らないから、花びらの表現に手こずったわ。絵の中でくらい満開を見てみたくてね~」
「ザクレロとブラウ・ブロとサイコミュ試験型ザク描きました!!!」
「早苗、こっちのやつにゃわからんて」
多種多様な幻想郷らしく、持ち寄られた作品の傾向もバラバラで、宴会目当ての見物客も飽きない絵画の数々に楽しんでいる。
賑わいを見せる博麗神社に、天子と衣玖は少し遅れてやってきた。
「おー、中々盛り上がってるじゃないの。けっこうけっこう」
「色んな作品がありますね」
天子は一度周囲を見渡すと、納得した顔で頬を緩ませた。
「……うん、どれもいい作品ばっかりだわ。みんな気持ちのいい気質がこもったものばかり」
「気質ですか?」
「えぇ、そうよ」
不思議そうに尋ねる衣玖に、天子が答えた。
「気質とは万物に宿る想い。特に今のこの場所には、沢山の気質が集まっていてキラキラと光り輝いてる。みんなが想いを込めて作品を作った証拠だわ」
「そういう見方もあるんですね、そういうのが見れるなんて羨ましいです」
「そんなの簡単よ、ただあるがままに見て感じればいい。さて、どこから見ていこっかなー」
「あっ、天子ー! 衣玖ー!」
二人のことに気付いた誰かが、甲高い声を響かせて名を呼んだ。
お椀に乗った針妙丸だ。空中にぷかぷかと浮かびながら、天子と衣玖の前にやってくる。
「二人ともやっと来たんだ!」
「待たせたか? まあ主役は遅れてくるものだからな」
「絵は昨日のうちに運び入れてたのに、遅れたところで何もない気が……ご無沙汰です針妙丸さん、絵の方は完成しましたか?」
「うん、なんとかね。この体で大きな絵を描くのは大変だったけどちゃんとできたよ。二人の絵は見たよ、どっちも上手く描けてたね。特に天子のは迫力あってすごかった!」
「ふっふっふ、まあ天人の手にかかればそのくらい当然だな」
「私は紫さんから色々教えていただきましたから」
「私の絵も見るでしょ? こっちこっちー!」
針妙丸に案内されて、彼女の絵の前に移動した。
そこで見た完成品は、空にそびえる輝針城の隣で、更に巨大なサイズの針妙丸が手を振り上げて吠えている絵だった。
「おー、よくできてるじゃないか」
「えへへ、そうかな……?」
絵のサイズは縦が30cm、横が20cmほどで、小人である針妙丸が紙の上に寝転べる程度の大きさだ。普通に描くだけでも難しかったことだろう。
小さな体で力いっぱい筆を振り回して描いた絵はバランスが悪いが、全体として勢いがあり、彼女の理想を現した内容は見るものの気持ちを前向きにさせるものがある。
上手い絵ではないが、本人の趣向がよく現れた絵は、天子と衣玖には好ましいものだった。
「なるほど……描きかけを見せてもらった時は輝針城の絵だと思っていましたが、こう描きたかったのですか」
「そうそう、将来はこれくらいおっきくなりたいってね」
「針妙丸ならきっとなれるとも、なんせこの私が見込んだ相棒だからな!」
「やったー、天人様のお墨付き!」
無根拠な言葉でも、自身に溢れた天子の態度に針妙丸は嬉しそうににっこり笑う。
「私は作品を観終わったから、これからコンテストの投票に行ってくるよ。みんな面白い絵ばっかりだよ」
「ああ、存分に楽しんでくるさ」
「それじゃあまた後でねー」
針妙丸が投票所の設置された本堂の方へと飛んでいくのを天子たちは見送った。
「さあて、どこから見ていこうかな……」
「総領娘様、あちらに」
衣玖に指で示されてそちらを見ると、コンテストに来た人妖たちに紛れて紫が立っていた。
彼女は自身が手がけた夜の幻想郷の絵画を、少し離れた位置から遠巻きに眺めているようだった。
紫の作品はあのスキマ妖怪の作ということで、中々の注目を浴びているようで周りには見物客が集まっている。
しかしそこから聞こえてくる評判はあまり芳しくないようだった。
「これが紫の絵か……どんなのが来るかと思ったけど、案外普通だな」
「流石に線は整ってるけど、全然特徴がないっていうか」
「夜空なんか、月と星の明かりが薄くてのっぺりしてるわね」
絵の質は周りと比べて見劣りするレベルではないのだが、八雲紫に掛けられた期待と興味に釣り合うほどのものでなかったというところだろう。
時々聞こえてくる批評を、紫は特に感慨のない顔で聞き流している。
そんな紫に、口をすぼめた天子が後ろから話しかけた。
「ちょっと、いいのあんた、あんなに言わせといて」
「あら、天子。来てたのね」
紫はいつもの調子で振り向いたが、天子はふくれっ面だ。
確かに、聞こえてくる通りあまりいい絵とは思えない。
紫による夜の風景画は地上に対し夜空の比率が大きめで描かれており、この空が絵のメインになるはずだが、そこに描かれているのは薄い月と星だけで、これでは何を見せたいのかわからない。
また明暗のメリハリもアンバランスだ、空が薄暗いのに地上が明るく照らされすぎている。
マイナスの批評は真っ当だが、だからこそ天子にはもどかしい。
紫なら観るものの度肝を抜くような、もっとすごい絵を描けたはずなのに、どうしてそうしなかったのか。
本人よりも苛立たしそうにしている天子に、紫は興味なさげに首を振った。
「別に構わないわ。コンテストには興味ないし、これは彼女たちに見せるために描いた絵ではないもの」
「じゃあ、何のために描いたのよ」
問われて、紫は口を閉じたままじっと天子へ瞳を向けてきた。
急に妖しい視線で見つめられて、天子は眼を合わせたままドキリと肩を狭める。
「あなたは何だと思う?」
「私? ……そうねぇ」
天子は一度、紫の絵に向き直る。
紫が心に思い描いた夜の幻想郷を、眉を寄せて睨みつけるように観るが、そこに込められた何かを掴もうとするが霧に阻まれるように手が届かない。
「……一本芯が足りないように感じる。本質的な何かが欠けているような……」
そう、もどかしく言うのが精一杯だった天子を、紫は真っ直ぐ見つめながら眼を薄くした。
「それで、結局どういう考えで描いたのよ?」
「……ふふ、秘密よ」
天子が振り返ると、紫は視線を切って、いつものように胡散臭く笑った。
相変わらず本心を打ち明けない紫だが、天子が何も言えずにいると、後ろに付いてきていた衣玖が「ゴホン」と咳をこぼす。
「ところで総領娘様、紫さんの絵の隣にあるのが私の絵なのですが」
「お、おっとそうなんだ。どれどれ」
天子は気を取り直して展示作品の前に駆け出した。
そばに寄って衣玖の描いた絵を見る。同じ場所で描いただけあり紫の絵と構図は一緒だが、景色が昼であることを除いても何かが違う。
それは単純な技術の差もあるが、描かれた山や田畑、人里などの大きさが微妙に違ったりするところに個性が現れているように思えた。
より多くの色を使って描かれた絵であり、実際の光景よりもより色が眩しく見える。
また他にない特徴として、青空には空に顔を覗かせる龍の姿が付け加えられていた。
絵を眺める天子に衣玖がおずおずと尋ねた。
「それで……総領娘様から見てどうですか?」
「ん~……微妙」
「うぐっ」
「なんかイマイチまとまりがないっていうか一貫性がない。いっぱい色を使ってるけどおかげで視線が滑るし、空の龍もとりあえずで付けた感じがして目立ってないし。紫に教えてもらったから上手く描けてるといえばそうだけど、これなら針妙丸や紫苑のほうが描きたいものがハッキリしてて個性的だわ」
「龍については、私らしいものを絵に入れようと思って……」
「だったら最初から龍をメインに描くべきだったわね、これ後から付け加えただけでしょ、これならないほうが風景が映えていいくらいね」
「うぐぐっ……」
「そこまでにしてあげなさい。無闇に言葉を並び立てるのは賢いことではないわ」
心苦しそうに呻く衣玖に、天子が指摘を続けていると、紫が割って入ってきた。
「良いじゃない、私は好きよ。確かにこの絵には迷いが見える、けれどそれも裏返せば、より良いものを描こうとした証。試行錯誤の過程が見えて愛らしいわ」
「褒めてるんでしょうか……?」
「ええ、もちろんですとも」
「まあ、初めてにしては悪くないか」
仲のいい友人の絵も見れたことであるし、そろそろ自分の絵を確認しようと周りを見た天子だが、それより先に目立つ絵が視界に飛び込んできた。
衣玖は紫と作品のことで話し込んでいたので、二人を置いてそちらへと向かってみると、それは縦幅が二メートルはありそうな巨大な肖像画だった。
豪華な金の額縁に収められた絵は、紅い部屋に置かれた巨大な椅子に、二人の小柄な羽のある少女が座っている様子を描いている。
それはレミリア・スカーレットとその妹のフランドール・スカーレットの絵だ、だがそれぞれ絵柄が微妙に違う。
いや、ハッキリ言ってしまえば、フランドールは非常に上手く描けていたが、レミリアについては拙さが見えた。
その他の椅子や室内の風景にしても、絵が上手い部分と下手な部分が入り乱れている。
「おや、来たか天人」
絵の近くには日傘を差したレミリアが立っていた。
天子を観るなり口元を引きつらせて、不機嫌そうに睨んでくる。
「なんか機嫌悪そうねあんた」
「当然だ、主催の一人の癖して準備をこっちに丸投げしてくれるとはな!」
レミリアと共同でイラストコンテストを開催したはずの天子だったのだが、前日に自分の絵を届けただけであとは投げっぱなしにしていたのだ。
「些事なんて地上のやつにやらせとけばいいのよ、任せられただけ光栄に思いなさい」
「クックック、別に良いがお前の絵は一番端っこに飾っといてやったからな」
「なぁー!?」
喉を鳴らして愉しそうに笑うレミリアを天子は悔しそうに睨みつけた後、改めて絵に向き直った。
「これ、合作?」
「あぁ、妹と描いた。絵を描く話をしてたらそんな流れになってな。順番に椅子に座って、相手の姿を描いたんだ。あとは一緒に顔を突き合わせて好きな部分を埋めていった」
絵の下には『レミリア・スカーレット、フランドール・スカーレット作』と両名の名前が書かれていた。
いい絵だと天子は思う、観るものを唸らせる絵ではないけれど、家族の温かみに溢れている。
だがコンテストでの競争には合わないだろう。
「まあこれをコンテストで見せびらかすと言ったらフランのやつは顔真っ赤にして襲いかかってきたけれどな!」
「わがままな姉を持つと大変ね」
「なんとか総掛かりで妹を館に閉じ込めて、コンテストに持ってこれた。いやあ、うちの妹は可愛かったぞ」
「暴れだすくらいに気持ちが詰まった立派な絵だけど、これじゃ優勝は難しいんじゃない?」
「だろうな、フランの描いた部分はお世辞にも良いとは言えないし。ただまあ……」
レミリアは飾られた作品に近づき、やわらかな眼をしてその額縁を指でなぞる。
「この絵で誇りたくなってしまったからな。かけがえない家族と、素晴らしい絵が描けたんだと」
己が幸福を味わうように自分と妹の作品を眺めるレミリアに、天子は茶化したりすることは出来なかった。
「そういうことだ、今回のところは引き分けにしておいてやろう」
「引き分け? 不戦敗じゃないの」
「引き分けさ、運命なぞ視ていると、普通に目で見ただけでも先にことがわかるようになって困る。お前がこのあと自分の絵をコソコソと目立つ場所へ入れ替えたところで意味はない」
これからやろうとしていたことを言い当てられ、天子がムッとした顔になっていたが、レミリアは気にせずその場を後にして、去り際に言い残した。
「敵も味方もないやつに勝つのは至難の業ということさ」
「――というわけで、今回のイラストコンテストの優勝者は、博麗霊夢のイラストに決定しました」
投票の終了とともに宴会が始まり、盛り上がってきたところでメイドが発表された集計結果に、どよめきが上がった。
その奥で友人たちに挟まれて酒を飲んでいた天子は目を丸くした。
「え、えぇー!!?」
早速優勝作品をメイドが宴会場の真ん前に運び込んできて、一番目立つ位置に飾る。
宴会の参加者たちが今一度その絵に目を向ける。それは縁側から見える境内の日常風景を絵に写しただけのありふれた一枚。
快晴の空、朱い鳥居、境内を囲む紅葉の木々と、参拝道の上で遊んでいる妖精たちと白黒の魔法使い。
「あちゃー、霊夢の絵か」
「まさかねぇー。割と普通の絵と思うんだけど、私以外に票入れるやつがいるなんて」
「この絵に投票するなんて私以外にいないだろって思って、お情けのつもりで入れてたのに」
みな口々にこれが優勝するとは思わなかったと驚き、天子もまた同意見だ。
素人が描いた絵だ、それほど根気よく丁寧に描いたわけでもないので雑な部分が多いし、宴会の席で飲ん兵衛たちが決めたからこそ一番に選ばれたが、これが真剣な審査員たちの元で論じられれば選考落ちだろう。
しかしそれでも、この場で優勝したのは間違いなくこの作品だった。
「えっ? 私のが? ホントに?」
「なんだよ、またやりやがったな霊夢、こいつぅー!」
敗した魔理沙が悔しがりながらも、霊夢の肩に腕を回してはやし立てる。
霊夢は優勝するとは思わなかったのか、周りの騒ぎ用に目をパチクリしていた。
「びっくりだわ、適当に描いただけなのに」
「まったくお前いつもそうだな、私だって頑張って描いたのに」
「そりゃあんたでっかいキノコの絵なんて誰も投票しないでしょ」
「それ言うならお前のだって誰も入れなさそうだろー。まあ私も霊夢のに入れたけど」
「そっかー、優勝かー、えへへ……お絵かき巫女ってのもいいかもねー……いや、やっぱ面倒だから良いや」
霊夢が優勝を祝われて、満更なさそうに頬を緩ませる。
その様子を眺める天子は口をあんぐり上げて酒を取りこぼし、衣玖たちから慰められるように肩を叩かれていた。
確かに悪くない絵ではあったし、天子もなんとなくでこの絵に一票を投じた。
しかしだからといって、まさかこんな普通の絵が、優勝を勝ち取ろうなどとは思いもしなかった。
霊夢には主催のレミリアからヴィンテージワインの詰め合わせを、天子からは手作り食器セットが進呈され。
その後はいつもどおり、飲んで騒いでのどんちゃん騒ぎが夜遅くまで続くこととなった。
そんな中、暗くなる前に紫の絵が隠されていたのだが、誰にも気づかれることはなかった。
◇ ◆ ◇
イラストコンテストから数日後、絵描きブームも一段落して、また幻想郷住人たちが思い思いの秋を過ごし始めていたのだが、あれから天子は難しそうな顔で日々を過ごしていた。
輝針城にまでやってきた天子が、壁際に座り込み、腕を組んで眉を寄せ、「ん~、ん~」と唸りを上げて何かを悩んでいる。
同じ部屋では針を持って裁縫に精を出す針妙丸と、その様子を前に紙と鉛筆を手にした衣玖が、唸り声を聞いていた。
衣玖は大して気にしたそぶりも見せずにサラサラと針妙丸の姿を絵に写しているが、モデルは嫌そうな顔をして天子を横目で見ていた。
「むぅ~、気が散るなぁ。なんでウチまで来て悩むかな」
「寂しがり屋ですからね、一人で悩むのが嫌なんですよ。大目に見てあげてください」
「そこ、うるさいこと言わない」
「うるさいのは天子だよもぉ~」
衣玖は鉛筆を動かし続け、涼しい顔で問いかけた。
「コンテストの結果について、何かお悩みですか」
「んー、まぁねぇー……」
「結果がご不満でしたか」
衣玖がチラリと部屋の壁を見上げる、そこには天子が描いた天界の絵画が飾られていた。特に持っていく場所がないということで、この輝針城に飾られることとなったのだ。
「別に、結果についてとやかく言う気はないわよ。でも、なんか悔しくて」
「ほぉ」
天子の描いた絵は丹精込めて描かれた力作であったが、優勝を逃したことについては単なる力不足と認めていた。
だが天子は、別のところでもやもやとしたものを抱えている。
「私にはもっと、やれることがあった気がするのよ」
自分が描いた絵には後悔はない、少なくともあの一枚に関しては出せるだけ出し切った。
しかしそれだけで終わるのは、どこか納得できないでいた。
思い出すのは紫苑や針妙丸、それにレミリアが描いた作品だ。
どれもその当人の気持ちが込められた素晴らしい絵。
特に、レミリア本人が妹とともに描いた絵を見て、満足そうな顔をしているあの瞬間が頭に浮かんでくる。
「なら、やってみてはいかがですか。私はそうしていますよ」
考え込む天子へ、衣玖は優しく語りかけた。
「私がコンテストに持っていった絵。総領娘様に言われて批評が胸に刺さりましたが、だからこそ自分が本当に描きたかったものはなんなのか、それに手を伸ばしてみたくて、また描いてみてます」
「私、普通に針仕事してるだけだけど、これでいいの?」
「はい、もちろんですよ。私が描きたいと思うような素晴らしいものを考えてみました。それは大げさなものでなく、日常に宿る想いではないかと」
「そっか、じゃあカッコよく描いてね! ふふーん」
「がんばりますね」
衣玖の目は素朴で自然な光を宿しており、サラサラと迷いなく紙に情景を写す。
言われたからとりあえずやってみるのでなく、改めて自発的に自己を追い始めた衣玖を眺め、やがて天子が立ち上がった。
「どちらへ?」
「神社行って、霊夢の絵を見てくる。それじゃ」
「いってらっしゃいませ」
「天子ばいばーい」
気が変わるなり天子が輝針城から出ていった後、針妙丸が衣玖へと問いかける。
「衣玖さ、本当に描きたいのって私じゃなくて、天子のああいうとこじゃないの?」
「ええ、そうかもしれませんね。しかし今はその時でありません」
衣玖は一度手を止め、自身が価値あると感じる光景を思い浮かべた。
「二人揃った時こそ、その情熱は輝くものですから」
◇ ◆ ◇
天子が博麗神社に来た時、霊夢はお昼ご飯を食べているところだった。
昼食中の巫女をよそに、天子は床の間に飾られた優勝作品を眺めている。
「……この絵が、一番多くの心を動かしたのか」
いつもの博麗神社のワンシーン。見れば観るほどありふれた作品だ、これがコンテストに優勝した絵だとは聞かないとわかるまい。
「なあ、霊夢はどうしてこの絵を描いたんだ?」
「んー? そんな大層なもんじゃないわよ」
霊夢は一度味噌汁をすすると、食事に箸を向けたまま答える。
「コンテストだし描いてみるかって気になって、なんとなくで描いてみた、それだけよ」
「そうだな、お前という巫女はそういうやつだ」
いや、だからこそなのかもしれない。
神社の日常風景を題材としたその時の選択は、多分怠惰ではなく、肩の力を抜いたからこそ自然に選び取れた最良だったのかも。
その時のテンション次第であるが、普段の霊夢はズバ抜けて無欲で無邪気で無頓着だ。たまに金儲けに目がくらんだりするが、一時の欲求に過ぎず、基本的に普段どおりで満足している。
そんないつも自然体な霊夢が、描きたいと本心から選んだものこそこれなのでは。
「――ごちそうさま」
天子の背後で、食べ終わった霊夢が手を合わせた。
空になった食器を重ねながら、そう言えばと霊夢が話しかける。
「この食器、賞品で貰ったものだけどあんたの手作り?」
「えっ? ああ、そうだが」
「これ、けっこう良いわ」
箸もお椀もお皿も、すべて天子がイチから作り上げたものだ。
天子が自分の手で削り取った箸は霊夢の小さな手にもよく馴染む。
少し大きめの茶碗は厚く堅牢で、程よい重さで安定感があり、また口当たりも良くて、ご飯をかきこむときにはスッと唇にのしかかる。
使っていて気持ちよく食事ができる、いい器だ。
「ふふん、当然だな。本当は私が自分で使うために最高のものを作ったのさ」
「ふうん、気に入ってるから返さないわよ」
「天人たるもの、一度あげたものを返せとは言わないさ。でもそうか……気に入ったか……」
自分のために作ったものでも、他人から評価されることもあるのだなと、天子はなんとなく安心を覚えた。
思えば優勝を狙って大衆受けを狙った天界の絵よりも、あの食器のほうがより自分の核心に近いものな気がする。
そこに優劣はないけれど、自分が追い求めている方はどちらか。
天子は博麗神社の絵を見上げた。
この絵はきっと、いつも自然体な霊夢という、みんなに好かれる彼女の本質を表した絵だ。だからこそ、大勢の気を惹いて、あの会場においては一番に選ばれた。
なら同じように、天子もまた絵に自分自身をぶつけてみたいと思い始めてきた。
「お茶ぐらい淹れようか?」
「いや、もう行く。礼を言うぞ、ありがとう!」
天子はすぐさま走り出して、あっという間に博麗神社から出ていった。
嵐が過ぎ去ったような神社で、霊夢は賞品の湯呑にお茶を淹れて一服する。
「なるほどねぇ、紫が夢中になるわけだわ」
湯呑の触り心地を味わいながら感心して一息ついた。
◇ ◆ ◇
天子はすぐさま画材一式を用意して外に飛び出した。
目標は、紫や衣玖が描いた場所と同じ丘の上。あそこからの景色が一番好きだ。
キャンバスを立て、パレットにありったけの色の絵の具を絞り出し、水の乗った筆に乗せて混ぜ合わせる。
目の前にはキャンバスと、命賑わう幻想郷の大地。
「よっし!」
目を輝かせて幻想郷を見つめた天子は、ウキウキ顔で色のついた筆をキャンバスへと向けた。
地面に立ったまま、素早い手付きで筆を動かすが、慌てているわけでなく、それは青空の下で走り回るのが楽しくて仕方ない子供のように次々と色を塗っていく。
ベタベタと色を塗っている時、後ろから老人の声が届いた。
「今度は地に足つけて描き始めたようだな」
「この声……名居様?」
天子が後ろに振り向くと、名居守が立っていた。
自分以外の天人が地上に降りてくるなど珍しいが、天子はすぐにキャンバスに向き直り、絵を描きながら尋ねた。
「珍しいですね、こんなとこまで」
「なに、美しいものが見れる気がしてな、ちょいと久々に地上の様子を見に来たわけだ」
「ご覧の通り私は忙しいんで、案内とかはできませんよ」
「よい、ただここで少し見させておくれ」
「ご自由に!」
誰のことも気にかけず、夢中で絵を描く天子を、名居守は自前の要石に腰掛けて黙って見守っていた。
天子の視線がキャンバスと風景とを行ったり来たりし、その間にいくつもの雲が流れ、鳥や妖怪が空を飛び交うのが遠くから見えた。
たっぷり時間を掛け、白紙を彩っていき、太陽が西に沈み始めてもまだ絵を描き続けた。
暗くなってきたので名居守が気遣って光球を作って照らしてやっても、天子は「ありがとうございます」と一言だけ述べて見向きもせず、描いて描いて描きまくった。
絵の具で自分が汚れようと、地面に根が生えたみたいに何時間も立ち続けた。
やがて夜の虫が鳴き声を聴かせ、月が美しく彼女を照らし、夜が更けてきた頃になって、ようやく天子は声を上げた。
「できた……!」
頬を絵の具で赤く汚したまま眼を大きく見開き、天子の目の前に完成した作品が広がる。
それは風景画とも、抽象画とも言えるような、大地の輪郭をなぞっていくつもの色の絵の具を使って塗りたくられ彩られた、無限の彩色の幻想郷だった。
眠りかけていた名居守が天子の声に起こされ、顔を上げて後ろから覗き込む。
「ほほう、これがお前の描きたかったものか」
「はい!」
天子は胸を張って名居守に自分の絵を見せて誇る。
描かれた色とりどりの色彩の大地こそ、天子がこの地に降りてから見つめてきたもの。
「私は緋想の剣で気質を使ううちに、色んな気質を感じられるようになりました。この大地には色んな気質が息づいていて、どこも光り輝いている。どれ一つとして同じでなく、微妙に違う色合いに煌めく地上の生き物たち」
気質とは万物に宿る想いの欠片。人や妖怪だけでなく、動物や魚に植物に昆虫、果ては目に見えない微生物まで、あらゆる生命の息吹と共に発せられる想いが地に宿ったものだ。
みな自分の意志で息をして、走って、必死に、そして何より楽しく生きている命の現れ、その奇跡。
それを天子は読み取って、いくつもの色を使って紙の上で灯りとして見せた。
「私が一番美しいと思うもの、たくさんの想いが生きるこの幻想郷そのものです!」
喜怒哀楽、それらに満ちる地上の景色。
天上に住まう自らが惹かれた無限に輝く大地の絵を見せ、天子は汚れたままの顔で満面の笑みを浮かべた。
彼女が描いた絵にも負けず劣らず輝かしいその顔に、名居守はため息をついて肩を落とした。
「まったく、お前の笑顔には天界が束になってもかなわんな」
◇ ◆ ◇
――イラストコンテストが終わってから、八雲の屋敷では、居間に二つの絵が額縁に収めて飾られている。
一つはマヨヒガで寝転ぶ猫たちの絵、もう一つは三人の家族を描いた絵。
だが本当なら並べて飾られていいはずの三枚目は、その場にはなかった。それは作者である紫の自室に飾られている。
その絵にこめられた秘密を知った時、主人がこれを自室に飾ると言っても橙と藍は異論を唱えなかった。
紫は灯りのつけていない部屋の中で、肘掛けに身を預けてゆったりと酒を飲んでいる。
障子の開かれた丸窓から入ってくる、わずかな月明かりだけが部屋を照らす。
薄っすらと見える闇の中で、紫は壁にかけられた自分の絵を肴にしながら、ほどよい酔いに心を任せていた。
絵に仕込まれた『真実の姿』を一人味わい――
「ゆっかりぃー!!!」
突如窓から飛び込んできた大声に耳をつんざかれた。
紫は目を白黒させながら窓を見ると、そこには明るい顔した天人が、頬を赤い絵の具で汚したまま、暗い部屋を覗き込んでいる。
「て、天子!?」
「なんで暗くしてるの? 部屋入るわね!」
「玄関から来なさいまったく、ちょっと待って」
紫は天子を制止すると、部屋にあるあんどんに火を灯した。薄い紙越しにオレンジの光が広がり部屋を照らし出す。
それから紫は「入ってもいいわ」と招き入れた。天子は靴を脱いで外に置きっぱなしにすると、窓をくぐって部屋に侵入してきた。
そんな彼女が一枚のキャンバスボードを抱えているのに気付き、紫は瞳を大きく開いた。
「天子、それは……」
「見て、紫! これが私の絵よ!!」
天子はキャンバスボードに貼り付けられたままの絵を、紫の眼の前に掲げて見せつける。
紙の上に広がった彩りどりの大地の様子に、紫は胸をときめかせて顔を近づけた。
「まぁ……素敵だわ」
「私が地上に感じる溢れるほどの想い、それを形にしたのよ。いっぱいよく見てね」
天子がボードをそのまま差し出してきたので、紫は震える手で絵を直に手に取った。
手の内に広がった世界に、紫は感嘆の熱い吐息をこぼす。
「私が天界から降りてこようって思ったのは、この輝きがあったから。この地上に惹かれたから、私は出てこれた」
「そうか……あなたの眼には、幻想郷はこんな風に映っていたのね……」
これまで紫が影から支えてきた幻想郷が、今はこんなにも鮮やかなものとして天子に認めてもらえている。
その事実に、天子から見た幻想郷の美しさに、紫は感動に打ち震えた。
「……絵を描いてすぐ、紫に見せたいって思った。紫が守ってきたものはこんなに美しいんだって伝えたかった。多分、紫とこの景色を見たいから、この絵を描いたんだ」
「……ありがとう天子。伝わるわ、あなたの感じるすべてが」
温かな気持ちで絵を眺める紫を見て、天子は満足そうに鼻をこすった。
そしてようやく落ち着いて部屋を見渡すと、紫が絵画を前にして酒を飲んでいたことに気がついた。
「紫ってば、灯りも付けないので飲んでたの?」
「あ……えぇと、それは……」
紫が戸惑ったように口ごもる。それを不思議に思った天子が、紫の描いた絵を見てあることに気がついた。
あんどんの薄い光に照らされた、夜の幻想郷の絵。その空に別の光がわずかに宿っている。
天子はそれを見つけて「あっ!」と声を上げると、急いであんどんのそばに近づいた。
「紫!」
「はぁ……わかったわ、好きにして」
紫が観念したのを見て、天子はあんどんの中の火を吹き消した。
音を立てて揺らいだ火が消えると、再び部屋の中が暗闇に包まれる。
その状態で、天子は紫の絵があった場所を仰ぎ見て、光を見た。
「……綺麗」
そこにあったのは、暗闇に差す淡い緑色の極光。
帯となった光が、薄暗い部屋のただ中にこそ見える。
紫が描いた幻想郷の夜空に隠された秘密、それは暗闇の中で光を放つこの輝きだったのだ。
「すごい、これ絵の具が光ってるんだ……!」
「蓄光塗料と言ってね、明るいうちに光を集めて、暗くなる素材があるの」
紫はそれで絵の中に極光を描いていたのだ。アンバランスの絵は、これが真の完成形だったのだ。
暗闇に慣れてきた天子の眼に、極光で照らされる幻想郷の風景がハッキリと見えてくる。
空に掛かる鮮やかな光が、地上を優しく包み込む美しさは、確かに天子の心に届き震わせた。
「……すごいね。とっても綺麗……素敵……」
「恥ずかしいから見せるつもりはなかったのに、いきなりやってくるんだもの」
紫は預かった天子の絵を、月明かりがよく当たっている壁、夜の幻想郷の真下に立てかけた。
そして天子に肩を寄せ、人の領域に閃光のように入り込んでくる彼女の温かみをそばに感じた。
「……でも……本当は、あなたとこれを見たくて描いたのかもしれない」
「紫……」
天子の身体を抱き寄せ、そっと耳に囁いた。
「これはあなたが来てくれたから、見ることができた光なのよ」
それから二人は暗闇の中で肩を寄せあって、静かに盃を交わし、それぞれが見出した夜の幻想と、昼の灯りを眺めた。
酒でたゆたう心に、お互いの美しさを分かち合い、心地よい一夜を楽しむのだった。
秋のゆかてん、堪能させていただきました。
衣玖さんとかレミリアとか、他のキャラたちもみんな生き生きしてて、ああもうほんと素敵な幻想郷だなぁって!
見えない筈の絵が見えてくる様だった。
秋、秋、……→ゆかてん
いやそんなバカな
そして何より、この物語は美しいと思います。
それはそうと星ちゃんの趣味が妖夢並に渋そうなのが個人的にイメージぴったりすぎる……。
二人に限らず皆の距離感が近いのがとても良き。秋なのに暖かい作品をありがとうございました