「地霊殿に到着したのは、地底の子供たちに大人気! マラソン三姉妹です」
「だから誰なんだ」
「地霊殿の目の前で立ち止まりましたね。どうしたのでしょう。服の中を何やら探っていますが、あっ、塗料を取り出しました、趣味の落書きでしょうか? それぞれ赤青黄の三色です」
「あんたの家だろいいのかよ」
「芸術点次第かな。この三色となると、描こうとしているのはルーマニア国旗でしょうか」
「そんなの言われても絵面が思い浮かばないよ。言葉じゃ伝わりにくいわ」
「なるほどそうでしたか。ルーマニアよりこっちの旗の方が分かりやすかったですかね。そうかがっ――」
「そっちのネタはダメだって、ほんとに」
「そうこうしているうちにさとり選手が地霊殿を出てきました。お腹をさすっていますが、ナニをしていたのでしょうか。まさかあの短時間で孕んだというのか!」
「…………」
「えー失礼しました。下ネタはNGですね。トップは依然火焔猫選手ですが追い付けるでしょうか。今後の展開に注目です。後半戦も面白くなりそうですねぇ水橋さん」
「…………」
「水橋さん?」
ジャンプ台を乗り越えると、お燐の背中が見えなくなっていた。無事にゴールへ向かってくれただろうか。福女の称号、そんなものは必要ない。私にとってはふくを懸けたレースではなく、うんを懸けたレースなのだ。
少し歩くと猫の代わりに狛犬の娘がいた。砂漠で行き倒れた探検家のように、うつ伏せで力尽きている。全身をアルコールに蝕まれているのだろう。苦しそうに砂を握って、「うぅ」だの「あぁ」だの呻いている。鬼式歓迎術の洗礼はあまりにも厳しすぎた。
「もうやだよぉ……甘酒が良かったよぉ……」
かわいそうに。初夢が酒に沈んで見る悪夢とあってはさぞ辛かろう。
「ごめんね。アイツらが滅茶苦茶で」
一声だけ掛けて、私はその横を通り過ぎる。助けてやりたいのは山々だが、道程は先を急ぐ。まもなくパン食いエリアだ。そこを越えればゴールはすぐそこだ。大丈夫。このペースなら間に合う。自分を勇気づけながら進んでいく。
「さとりさま!」
お燐? 神社へ行ったのでは無かったのか?
「さとりさま! とにかく気を付けてください! あの方がやってきます!」
声の出所を追うと、お燐はコースを外れ、民家の軒下で座り込んでいる。何故走っていないのだ。特段血色は悪くなく、怪我を負った様子もない。
「どういうこと? いきなり気を付けろと言われても困るわ。あの方って誰?」
「それは――――」
心を読む程度の能力。相手の想像していることを言語化して読み取る力。読み取る言葉は音声でも映像でもなく、文字としてニューロンに直接伝わってくる。ただし時として強い感情は「色」を持つことがある。情報が色を伴って伝わるのだ。色ペンで書いた文字を目で見るようなイメージでいい。
今回は緑。冷たく血の気の引いて、ふつふつと毒気を帯びた緑色だ。
妬ましい。
伝わる感情は彼女の瞳と同じ色。嫉妬の炎の緑色だった。
「申し訳ないけど、ここは通せない」
立ちはだかったのは水橋パルスィ。解説者のはずの、こいしと一緒に実況席にいたはずの、彼女が何故ここにいる。
また、こいしか? またこいしの差し金なのか!?
妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。妬ましい。嫉ましい。
心を探ってはみたがこの一点張り。思惑は読み解けないまま、彼女はつらつらと、身の上話を語り出す。
「堪えられなくなったんだ。焼け付くほど妬ましかった。あんたたちがレースをしている楽しそうな姿が」
「どこが!? 土に突き刺さったり吐瀉物撒き散らしたりするレースのどこが楽しそうなの!?」
水橋さんは明らかに動揺して肩を尖らせた。
「え……まあ少なくともあんたは――――
「楽しいわけあるか!『クソ』と悪態も出そうなくらいしんどいわ!」
「だ、だとしてもそこの猫耳! 猫耳は楽しんでるはずだ! 妬ましい!」
「あのー、せっかく準備してくれたイベントに対して申し訳ないですけど、あたいもずっと独りで走ってたしいまいち張り合いが無いっていうか……」
「じゃ、じゃあ……そそうだ!」
「粗相はまだしてません!」
まったく、いきなり何を言う。とんだ失礼だ。
「そうじゃない。あのなんだったか、落書きしてる三姉妹居ただろ。 あれは間違いなく楽しんでるさ! 妬ましい!」
「そいつらはレースを放棄してるじゃない」
水橋さんは動かなくなった。最後の希望を失って、数秒間黙り込まざるを得なくなった。そして、吹っ切れた。
「ええい、とにかく私には楽しそうに見えたんだ! その上カミサマに福まで貰って、皆にちやほやされて、ついでに歌舞伎揚も食べられるだなんて我慢ならない! 妬ましい!」
「もうなんでもありね……」
「一番福だけは私が貰う。だからここで待ち伏せをして、出場者の皆さんにはリタイアしてもらうことにした」
ゆっくりと、水橋さんが距離を詰めてくる。そもそも私はレースに興味はないのだ。見逃してもらうようにはできないのか。
「私は福なんていらないわよ。私に必要なのは清潔なトイレとお尻を拭くものだけ。…………あと、あればウォシュレット」
「信じられないね。あんたには酷いことをする。汚い手だとは自分でも分かっているつもりだよ。でも気が済まないんだ。大丈夫、一瞬で済むから」
「何をするつもり?」
暴力か? 弾幕か? どんな手で来る。どうすれば出し抜ける。腸内環境は逼迫している。相手にしている時間なんて無いってのに!
「さとりさま!パンツです!」
叫んだのはお燐だ。
「茶色にはなってないわ。ふざけないで、今真剣に考えてるの!」
「大真面目です! あの人はあたいたちのパンツを奪い取って動けなくするんですよ!」
なるほど、パンツを盗られて、それで見られないように座り込んでいたのか。合点がいった。……とはならないだろう普通。
「そんなことある? 履いているパンツを奪うって軽くミッションインポッシブルよ?」
ところが、水橋さんは首を振る。
「猫耳さんの言うとおりだよ。一瞬でも両足を浮かせたのなら、私は完璧に脱がせられる。その昔、あざとくパンチラを演出しているファッキンビッチどもが妬ましくて身につけた技術だ」
理解はしたが理解できない。水橋さんは満足そうにして、つらつらと計画を話し始める。
「このコースには風の仕掛けがある。おかげで少しでも動けば、簡単にスカートが捲れてしまう。パンツ程度なら良くても中身は見せられないだろう? 全員を行動不能にしたところで、私が悠々ゴールするって算段だ。勿論、パンツはレースが終わればちゃんと返すよ」
「私には時間が無いの!」
そんなもの待ってはいられない。確実にダムは決壊する。○ンコか○ンコ、どちらで死ぬか選べというのか!
「いいよ、実力行使だ。強気に反抗するあんたは妬ましい。その見透かす眼も妬ましい。あア、妬ましいなア」
怪しい笑顔がじわりじわりとにじり寄ってくる。口からは涎が垂れて、雨粒のように地面を濡らす。やはり変態か? 私がたまらず後ずさりするその刹那。
「てめぇのパンツは何色だーッ!!」
緑眼の怪物が私に飛び掛かる。
「っ!」
咄嗟に避けようとしたが寸前で思いとどまる。さっきの発言、裏を返せば、両足が浮かないとパンツは奪えない。足を地面に縫いつけておけば、
『スライディングで足払い』
神経に電流が流れ、相手の思考が頭に刻まれた。不味い!
「それが狙いか!」
砂を弾く靴底をギリギリ飛び退いてかわした。だが、立ち直りが早い。
『フェイントを掛けて左から』
次の一手が来る。フェイントの間に狙いの反対側へ回り込む。ここで反撃を、
『反転し、腕を掴む』
「くそっ」
反撃の隙がない。幾ら心が読めても、便を我慢している鈍い身体では、スピードで追いつけない。このままでは押し切られる!
『突進。再び足を狙う』
『右へ跳躍する』
『めくれたスカートの裾をとる』
「ぐっ」
波状攻撃に屈し、ついに私はバランスを崩してしまう。ビリジアンの瞳はその好機を見逃さない。すぐさま魔の手が迫る。
『直線最短距離でパンツに手を掛ける』
「あああああ!」
倒れるように転がることでかろうじて凌げたが、次の手は――――
「獲ったァ!」
タッチの差で、立ち上がるのが間に合わなかった。すきま風。すぐに股の間からスースーした物足りなさが感じられた。目の前の右手に白い下着が握られている。私のパンツだ。私と一年を共に過ごした相棒が、敵の手に堕ちたのだった。
「さとりさまぁぁぁぁ!」
お燐がこの世の終わりとばかりに金切り声を上げる。
「悪かったよ手荒な真似をして。もう少しだけ待っててくれ」
疲労か興奮か、水橋さんは息を切らしながら、あろうことか謝罪を入れる。勝ち誇らない謙虚な姿勢に応じて、私も丁寧な調子で言葉を返す。
「このくらい大したことじゃありませんよ。妹の悪戯に比べたら可愛いものです。でも最後に1つだけ忠告があります」
「忠告?」
彼女の足元を指差し、私は告げる。
「ゲロ踏んでますよ」
彼女はおもむろに目線を下げていく。黒い艶めいた靴、その下。
「うわあああっ!」
吃驚して飛び上がった瞬間、真珠のように滑らかな白のパンツを私の右手が奪い返した。その場で履き直す。水橋さんの靴を汚したのはパンを食べて吐いた高麗野あうんの胃液。たまたま近くにあったので誘導させてもらった。
「あーもう! 汚れるのは嫌いなんだ。帰ったら丸ごと洗ってやらなきゃ。臭いも取らないと。やっぱり福だけは貰わなきゃ腹の虫が納まらないな」
水橋さんは不快感をあらわに汚物を踏んだ足を振る。そんな中、私の腹の虫も治まりそうにない。
「真のハンターはまず足元を警戒するのよ」
「ああ、油断したよ。だがまた脱がせてしまえばいい。ゲロの位置は覚えた。二度同じ手は食わないよ」
「その言葉、そっくり返すわ。二度同じ手は食わない。お燐! 水橋さんを押さえつけて!」
「で、でも……」
「猫形態よ! 猫の体ならどこを見られても放送倫理に反しない!」
お燐は特殊な変身能力を持っている。元は獣だからこそ、人の姿と猫の姿、2つの形態を自由に行き来できるというものだ。
「そっか、それなら!」
「させるか!」
水橋さんは慌てて地を蹴り、風を切る勢いで私のスカートへ手を延ばす。だが一手遅い。
「みゃーみゃみゃみゃみゃっ!」
白布に指先が届く寸前。一匹の黒猫が強靭なバネを見せ、その顔に覆い被さった。延ばした手はスカートの外で空を切る。
「なっ何だこれ」
突然視界を奪われた水橋さんは混乱し、光を求めて右往左往している。
「お燐! 後は任せたわ!」
ニャウ、と短い鳴き声が返ってきた。怪物の嫉妬に私のケツ意が勝った瞬間だ。道は開けた。私のペットが身を挺して切り開いた道、黒猫の勇姿を背に、私はその道をがっしり踏みしめて走り出す。私が神社に辿り着く。それで戦いはすべて終わる。
なおも争う一人と一匹を置き去りにすると、行く手を阻む障害はもう存在しなかった。あとは耐えるだけ。私は今にも爆発しそうな爆弾を抱えながら、遮二無二走り続けた。ひたすら前へ、前へ。それからは自身を失って、何が何だかわからなかった。あの、優しい丸みを帯びた便座のシルエットだけが脳裏で燦々ときらめいていた。
「あ。」
ふと気がつくと、真っ赤な鳥居が頭上にあった。私のアルカディアへの入口が門戸を開いて待っている。本殿への石畳はがらんとして、ここはネズミーランドかと見まがう程長かった列は、跡形もなく消え去っていた。
苦しかった。括約筋は痙攣し、膝はガクガク震え、目がチカチカして、あげく吐き気までする。腹は痛いなんてものじゃない。ゴリラだ。腸で群れをなしたゴリラがウホウホナイトフィーバーしている。茶色のバナナと一緒に森へ帰ってくれ。頭がどうにかなりそうだ。
疑いようもなく、私の体はボロボロだった。散々たる有り様。しかし、それでも精神だけは、ピカピカした希望に満ち溢れていた。
トイレは空いている。
天気の誕生、究極エネルギーの発見、トイレが空いている、この三つこそ地底三大奇跡だ。
「ハハ、ハハハハハハ……」
喜びからか安堵からか、肚から意味不明な笑いが溢れだしてきた。口のボルトが外れ、開きっぱなしで戻らない。すると、境内からざわめきが聞こえてきた。私はそんなに変な顔をしているだろうか。
…………まあ、いいだろう。トイレに入れるならどうだって。さあ私のアルカディアがそこに待っている!
「よく走った!」
「えらいぞー♡」
「お前がナンバーワンだ!」
「痛みに耐えてよく頑張った! 感動した!」
「詫び石は勘弁してやる!」
心なしか称賛されている気がする。いやまさか、ね。私が他人に讃えられたことなんて殆ど無いんだから。極限状態の耳でははっきりと聞き取れないけれど、おそらく野次でも飛ばしているのだろう。
「貧乳だけど頑張ったな!」
「誰が貧乳じゃボケ!」
さっさと行こうか。私のアルカディアがそこに……止めておこう。これを唱える度に邪魔が入ったような記憶がある。余計なことは考えず、落ち着いて数歩進めばそれだけで。
「やっ、やった……」
扉だ。今、私は扉の前に立っている。世界で一番開けたい扉。頭の中で、金管の雄大な響きが広がり、「ツァラトゥストラはかく語りき」の一節が奏でられる。ゆっくりと持ち手を引いた。楽園と私とを隔てていた最後の壁は、道を譲った。軋み一つ立たなかった。その瞬間、心の底にへばりついた最後の不安が洗い流され、オーケストラの旋律がクリアになる。ああ、こんなに簡単だったんだ。その部屋は、驚くほど容易に、有り得ないほどあっけなく、私を受け容れたのである。
追い求めてきものは、眩い光の中で待っていた。
「けっ。和式じゃん」