私はおみくじブースを離れ、参拝の列の方向に戻った。お腹が獣のようにギュルギュル鳴いている。探すといってもあのケチな巫女のこと、ご親切にトイレを設置してくれるかは怪しいところである。とはいえ家のトイレへも、お腹に配慮すると10分は見込まないといけない。出来ることならここで済ませたい。
列の最後尾付近に星熊さんの姿を見つけた。その巨大な体躯と目立つTシャツのおかげで一目瞭然だった。先の会話ではたしか彼女は建築に関わったのだったか。少し怖いけれども、聞いてみるべきだろうな……。
「あのーすみません星熊さん」
私が恐る恐る声をかけると、星熊さんは鎖をじゃらじゃら言わせて振り返った。アルコールの臭いが温い風に付いてきた。
「ん、こいしちゃんのお姉さんじゃないか。どうかしたのかい?」
「お手洗いはどこにありますかね」
星熊さんがばつが悪そうな顔に変わった。何か悪いことを言っただろうか。人にトイレの場所を聞くことはマナー違反だったっけ。
「実はここがお手洗い待ちの列なんだ」
「えっ、参拝するんじゃないんですか」
私は驚いて行列の始点を目で追い掛けた。妖怪たちが待つ先は本殿に至る直前で折れ曲がっていた。信心深いものだと少しだけ感心していたのにそういうオチか。
「昨晩は落成記念も兼ねて皆で夜もすがら酒盛りをしてね。あれよあれよといううちにヒートアップして、飲み比べまでおっ始まってなあ。まあ飲めば出るのが自然の摂理、それがこのザマさ。いやぁ年越しだからってハメを外し過ぎたな」
星熊さんは反省の色のない苦笑いをする。来年もきっと同じことが起こるのだろう。
「待ち時間、長そうですね」
「ああ。今から並ぶとなると20分はかかるかなぁ」
「20分!?」
絶望的な数字に愕然とする。
「そんなに驚くことかい? それともあんたも福女レースに出る気だったとか? 並んでるやつらはみんな出れなくなっちまったけどな」
福女レースというものはよく分からないけれど、あいにく世間話をする余裕は持ち合わせていない。積極的に関わりたくなるような語感もしない。
「あまり興味ないですね」
「そうかそうか。確かに、見た目にもアウトドアは似合わなそうだ」
「ええまあ……。ここは諦めて帰ることにします」
「おう、じゃあ気をつけてな」
「今日は重ね重ねありがとうございました」
星熊さんに軽く一礼して、私は踵を返した。トイレが無いならまだしも、鬼たちの宴会のせいで埋まっているとは予想外だった。不運というよりとばっちりだ。この長蛇の列は彼女らが後先考えずに飲み散らかしたツケ。これこそ酒によってコミュニティを形成した酒社会の弊害……
いや違う。それは今考えるべきことじゃない。嘆いている暇があれば早く家を目指すべきなのだ。私は首を振った。右足に感情を踏みつけて、左手に臍を抑えながら石畳を進む。まずは取り急ぎこの神社を退出しておきたい。こいしに絡まれないうちに。
その時だった。
「いよいよ始まります! 第一回!ドキドキ☆福女レース~!!」
機械で拡張された、靄がかった声が境内を駆け巡った。
機械を通そうともこの声だけは忘れるべくもない。間違いなくあいつの声だった。
「あいつ」こと古明地こいしは本殿に席を構えていた。鬼の一人が持参した足の不安定な長机と、形のバラバラな椅子を2つ並べた、急造の実況席だ。湯呑みのお茶を慎重に啜って、再びマイクに語りかける。
「実況は私古明地こいし。解説は、福を恨んで不幸で飯を食う、妬みソムリエの資格を持つ水橋パルスィさんでお送りします」
「なんで私が解説を……」
「時間が迫ってますので、簡単にルール説明をさせていただきます」
「聞けよ」
「出場者の皆様には福女の権利を賭けてレースをしていただきます。神社をスタートして、地霊殿の前で折り返し、再び神社に帰ってくるとゴールとなります。見事一着でフィニッシュされた方は、福女としてありがた~い神様の祝福を受けられます。ついでに副賞で歌舞伎揚も付きますよ。飛び入りもオッケーです!是非軽い気持ちでご参加ください」
「気軽に、だよ。それじゃ犯罪に手を染めるみたいだろうよ」
「もうスタートするんですけどね」
「聞かないなあ、話」
「それではピストルの音でスタートです。この中に弾丸が一発だけ入っています。私と水橋さんで交互に撃って弾が出た方が負けです」
「全部空砲だよ。ゲームの趣旨変わってんじゃん」
「はいスタートぉ!」
パァン!
このけたたましい炸裂音がレースの始まりを合図し、同時に私の戦いの始まりをも示していた。レースの出場者と覚わしき者たちは今、私の目と鼻の先を走っている。目的地は同じ、地霊殿だ。つまり、私は体よくレースに参加させられてしまったのだ。
そしてもう一つ別の人影に気がついた。宙で逆さ吊りになった土蜘蛛だった。糸のレールをスライドして走者を追い掛けている。彼女が何らかの手段で状況を伝達しているようだ。勿論あの実況席へも。
きっと今も見ているんでしょうね、こいし。私が腹痛に襲われるのも、くだらないレースを企画したのも、全てあなたの策略の内ってわけ? ゲームマスター気取って、高いところから私の駆けずり回る姿を眺めて楽しんでいるのでしょう。見てなさい。あなたの思惑を暴き、同じ土俵に上がらせてやるわ。
届いているかはわからない。だが私は土蜘蛛の方を睨み付けた。
「では出場者を紹介していきましょう」
「まずはキスメ選手。桶を使った殺人ローリング走法で優勝を目指します」
「おめでたくも何でもなくなるから死人だけは出すなよ」
「続いて火焔猫燐選手。干支の争いでは敗れましたが今度こそ猫の意地を見せられるか!」
「そんな大層なレースじゃないだろう」
「本家博霊神社からの出張参戦、高麗野あうん選手。宴会では二度リバースしました」
「すごいフラフラしてるよ大丈夫か」
「私の姉、古明地さとり選手。性格の悪さは水橋さんに匹敵します」
「おい」
「オホン、失礼しました。水橋さんには遠く及びません」
「逆だ逆!」
「最後はマラソン三姉妹です。趣味は落書きだそうです」
「へぇ落書きねぇ。……って、誰だよ」
「知りませんか? マラソンが得意で有名なOちゃん、Pちゃん、Rちゃんの三姉妹です」
「知らないし、Qちゃんにどちゃくそ便乗してるじゃんか……」
「選手紹介も済んだところで、それでは水橋さん、レースの展望をお願いします」
「序盤、中盤、終盤、隙の無い走りをしたひとが勝つんじゃない? 適当だけど」
「全くわからないそうです」
「そうやっていちいち腹立つ発言が出来るのは逆に妬ましいわ」
「『妬ましい!』一本入りましたーぁ!」
「はぁ。付き合ってられん。ところで、選手のスカートがやけにめくれてるわけだ。つまりそっち方面で盛り上げようって考えてるわけ?」
「いえ!スイスイ飛んでいかれると勝負がつまらないので、強力なダウンフォースが吹く結界を張っているのです。副作用として動くと衣服に多少の風が入り込んでしまうようですが」
「そんな便利な結界よく――――」
「ご都合主義にケンカを売るものから消されていく、というのはモンスターパニック映画のセオリーですがどう思われますか」
「――――おっと何かぶら下がってるなー」
「第一の障害、パン食いゾーンですね」
「風のせいか、各選手苦戦してるみたいだなー」
「全員横一線でしょうか、いや高麗野あうん選手が食い付きました! さすがワンコだキャッチが上手い」
「ベロベロに酔ってるときはあんまり食べない方が……」
「ああっと口を押さえています、気持ち悪そうです」
「あーやっぱり。これはあれが出るよ。出る。恋符マスターリバース。」
「下を向いて、一回えずいて、」
「あーいった」
「酸だーっ!出ました黄色いナイアガラ!これじゃシーサーというよりマーライオンですね」
「ヤツは狛犬だし、シンガポールの人に謝れ」
「リバースを尻目に、さとり選手が遅れてやって来ました。パンには見向きもしません」
「ちょっと待って、反則ではないの?」
「まあパンを取らなきゃいけないなんてルール無いんですけどね」
「だったら狛犬さんの体を張った芸は何だったんだよ!」
「あれは芸というよりゲエって感じでしょう」
「これ以上イジるのはやめてあげなよ……」
「さあ各選手ようやくパンをゲットした模様です。さとり選手の後に続きます」
「ほらー狛犬さんショックで立ち直れなくなってるじゃん」
「…………競争に犠牲は付き物です」
「かわいそうに」
「さあ、レースが動きましたよ! 何かが飛び出しました」
「あれは……桶だ」
「桶! キスメ選手です! ついに出ました。桶に入り猛スピードで転がっていく、あれこそ殺人ローリング走法です!」
「果たして中身は大丈夫なのか」
「さあ速い速い! ぐるぐる回る妖怪ドラム式洗濯機! 風が吹けば桶が転がる!勢いそのまま、第二の障害、ジャンプ台に差し掛かります!」
「この風でジャンプ台は意味無いんじゃない?」
「キスメ選手のスピードなら分かりませんよ! さあ行け! 月まで届け、不思議な桶! 飛んだぁぁぁっ!」
「うわっ、行った」
「風をものともしない弾丸ライナーで飛んでいきます! これなら行けるかもしれません。多くの人々が追い掛けた大空への夢、多くの命を奈落へ突き落としてきた自由の世界、その境地へ。月は出ているか、太陽に身を焦がせ。空飛ぶ円盤正体見たり、キスメの桶は天を衝く!」
「わあ危ない!」
「……天井に突き刺さりました」
「そりゃ地下だもん」
「そうですね。気を取り直して、先頭集団は間もなく折り返し地点に差し掛かります!」
私はまさに青息吐息だった。地霊殿に転がり込み、トイレの扉を這うようにして目指した。遠い。足が摩れるほど往復してきた家の廊下が何倍にも引き伸ばされて感じられる。
そしてようやく、辿り着いた。その無機質な黒い板切れは、後光を背負い、私には楽園への扉に映った。飛びついて迷わずノブを回す。私のアルカディアがそこに待っている。
「やった……勝った……!」
私の前方には6畳程度のスペースが広がっている。こんなにも部屋は広かっただろうか。戸棚に机にベッド、床には本が縦に積まれている。こんなにも物は多かっただろうか。便器やトイレットペーパーはない。随分と見飽きた感覚がある家具の配置だ。アンティークの戸棚の上に煤けた日記帳が見える。
「って、私の部屋じゃねーか!」
叫んだ瞬間、茶色のアレが顔を出した。
「うあああああっ」
ギリギリ。やつは引っ込んだ。辛うじてお尻のバルブを閉め直し、古明地家当主の社会的尊厳は死守された。
思えば朝、部屋のドアを外したのもこいしだ。やられた。私が出た後で扉をすり換えたのだろう。あの時から仕込みが始まっていたとなるとますます末恐ろしい。
隣に私の部屋の扉があった。位置的にも中身は本物のトイレで間違いない。
迷わずノブを回す。今度こそ私のアルカディアがそこに待って……
ガキン。
あ、ああ……! 手元で金属がぶつかり合った。冷たいドアノブに冷たい汗が染み付く。鍵だ。
「ちょっと! 誰か居るの!」
自室に鍵を設けたことが仇となった。私は扉を叩き割らんばかりにノックする。それこそ近隣トラブルを招くような大声が出ていたと思う。
「わたしです。お空です」
返ってきた声はどこか悲しそうだった。
「お空なの? お願いだから早く出て!」
「ダメです。開けられません」
お空は頑なに拒む。普段はこんなこと有り得ないのに。
「どうしてよ! 私は可及的迅速に不特定多数の視線から恥部の露出を保護し且つ、公衆衛生を維持する機構が備わった環境で排泄を行うことが能わない場合、社会的地位や名誉に深刻な影響が齎される危機に瀕して…………、いやあなたにも分かるように言えば、うんこがもれそうなの!」
「ごめんなさい。でもさとり様の部屋にはどうしても入れられないんです」
「だからどうして入れないのよ!」
どうしても私は声を荒げてしまう。
「この部屋に呪いが掛けられてるからさとりさまだけは絶対に通すなって……」
「こいしか!? こいしに言われたのね!」
「そうです」
あいつ……!いったいどこまで私を苦しめれば気が済むんだ。
「そんなの嘘よ嘘。呪いだなんて何の証拠もないじゃない。そもそも私の部屋じゃなくてトイレなのよ」
「だってさとり様の部屋が、呪いで便器みたいなものがポツンとあるだけの狭い部屋に変えられてるんですよ」
「それをトイレって言うのよ!」
「ううっ、ごめんなさい……」
扉の向こうから鼻をすする音が漏れ……いや、聞こえてきた。
お空は素直過ぎる。見え見えの嘘なのに信じてしまうところも。泣きながら約束を必死に守ろうとするところも。感情が混線してもはや何に対して謝っているかも分かっていないのだろうが、それでも彼女なりに私の為を想って反抗しているのだ。どこまでも優しい子。そんなお空に追及を続けるのはあまりにも酷だ。
「でもこっちだって社会的な生死が掛かってんだよおおおお!」
なりふりなど構っていられるか。トイレに入れるのなら神だって信じてやる。
「そ、そうよ。呪いの内容は聞いてないでしょ? 実は大したものではなかったわ。えっと、鼻毛の伸びるスピードが倍になるとかで」
「いいえ。それも聞きました。顔が森近霖之助そっくりになる呪いだって」
「なっ」
あの森近霖之助だって……?「森近霖之助の顔になる」これはポル・ポトの虐殺を語るよりおぞましいことだ。惨い、惨すぎる。私は一度だけソレを見たことがあるが、一瞬で昏倒した。不細工なんて生易しい表現ではまるで足りない。こいしよ、いくら何でもやりすぎだ。純朴で無知なお空には刺激が強過ぎる。
「もういいわ、私が悪かった。ごめんね」
駄目だ。
もし私がこの場を押し入って、呪いを心配したお空が森近霖之助のことを調べたら……そんな想像をするともう、扉に触れることが出来なくなった。私の肛門よ、好きなだけ私を罵ってくれ。意気地無し、偽善者、屁理屈、腐れ外道、頭でっかち、バカ、アホ、おたんこなす。……貧乳はやめろ。私は本能に反してでも、お空の笑顔をぶち壊すことだけはできないのだ。
しかしお腹はなおも私を責めたてるかのように痛みを増す。便に慈悲の心などはない。一刻も早く、ドンドン腸壁を押す茶色い暴走列車の宛先を見つけねばならなかった。
残された選択肢は少ない。
灼熱地獄のマグマに放り込むか? 他のペットに見られでもしたらアウトだ。
トイレを借りられそうな家を探す? 正月早々トイレを借りに走るなど恥でしかないし、誰が在宅しているかも分からない。
自室なら見られることはない? それじゃ漏らすも同然だろう。
「ハハ、ハ……」
渇いた笑いが込み上げてくる。
来た道を引き返すことは難しい。一度捨てた選択肢を選び直すには非常に勇気がいる。まるで決断を褒める言葉のようだが、他に打つ手が無いときは、ただただ悲惨なだけだ。
神社に戻る。それが唯一このクソッタレのゲームを生き残る道だった。待機列も私が辿り着く頃には消化されているはずだ。さすがに公共のトイレはこいしも占拠しないだろうし、本人は実況席で手を出せない。成算はあった。
だがタイムリミットは迫っていた。お尻の筋肉が少し震え始めている。コルク抜きが直腸でキリキリ回っているような嫌な感覚が継続して、一瞬でも油断すれば力が抜けてしまいそうだった。我慢できてもあと10分が限度だろう。
だからこれは片道切符の決死行。神社に間に合うか間に合わないか、結末はたった二つの最後の戦い。一歩踏み出してしまえばもう、家で漏らした方がマシだなんて暢気なことは言えない。なんとしても尊厳を守りきる。いや、こいしの計略に打ち勝ちたい。こいしに負けたくない。汚い地べたでのたうち回る私の前で、ふんぞり返るこいしの鼻を明かしてやりたい。
私は決意で満たされた。