妖怪道中一六奇譚~七士雑貨店人件費の怪
寒暖の差もようやく落ち着き、緩やかに冬に向かわんという或る日の目覚め。そろそろ布団は冬物に取り替えねばならんなあと思いながら、ぬくもりを惜しみつつ半身を起こす。布団脇の煙草盆に手を伸ばし煙管を取るが、肝心の煙草を切らしていた。朝の一服を逃した失望感は大きい。今日は目的もなくだらだらと過ごすようにという、お天道様の思し召しであろう。
本日の宿は命蓮寺の離れである。
完全なる居候もとい食客という立場は、住人達には概ね好意的に受け止められているが、白蓮とネズミには白眼視されている。とはいえ、白眼視が怖くて妖怪狸の務まるものではない。儂をここへ呼んだのが一応連中の身内に数えられている鵺である以上、どうせ追い出す事は出来ないのだ。そんなことをすれば彼奴が余計に肩身の狭い思いをすることになると、お優しい住職は分かっているのだから。
枕元の眼鏡をかけて部屋を出る。外は曇り空で、明るさを見るに午前五時といったところ。硝子戸を開けると、なかなかの寒さに思わず夜着の前を合わせる。初雪が降るまでひと月とないだろう。突っ掛けを履いて庫裡と離れの間にあるポンプに向かうと、向かい側から件の白蓮がやってくるのが見えた。
「おはようございます」
「おはようさん」
「背筋が曲がっていますよ。朝からそんなことではいけません」
「朝一番に説教を垂れるお前さんはもう少し当たりを柔らかくした方がよかろうのう、そのでかい乳の半分くらいには」
白蓮は表情をそのままに、額に青筋を浮かべて聞き流した。
大概の相手ならここで儂のすれんだーなぼでーに対して反撃の一言でも差し挟むのだろうが、この女は他人の乳房に言及する等といった破廉恥な真似は出来ないのである。己を律することの馬鹿々々しさかな。
「今日はこちらにお泊りだったのですね。貴方が此処を当面出ていかないつもりであるのはいい加減飲み込みますけど、いるのかいないのかくらいハッキリさせていただけませんか」
「昨日は酔うて遅くに戻ったから、叩き起こすのは可哀想だと思ったんじゃ。熱心にもまだ起きておった一輪には伝えておいたが」
「あら、そんなに遅くに一輪がなぜ起きていたのでしょうね」
「悟りを開くのに修行でもしておったんじゃろ」
寒い夜にはうってつけの、酩酊感のある修行じゃ。
「あらあら。あとで成果を聞いておかねばなりませんね」
白蓮はそういうと、庫裡の方へとってかえした。何をしに水場に来たんだか。
顔を洗って部屋に戻り、柿色の長着に紺の帯を締め、若草色の羽織を合わせる。人里をぶらりと歩くつもりで耳を隠した。今日は十月の二十六日。日の一の位が六だから、里は休日の喧騒に溢れているはずである。
幻想郷の人里においては古くからの名残りで、1日、6日、11日と、いわゆるイチロク日―――1の位が1か6の日―――が休日となっている。七曜日はそこそこ教養のあるものが知識として知っているにとどまり、普段から意識しているモノがおるとすれば、紅魔館お抱えの魔術師ぐらいのものだ。
起床時間が早めだったこともあり、朝食は少し足を延ばすことにした。最寄りの人里入口から里の中へ入る。人の出入りはその多くが田畑へ向かう農民たちが里から出てくるものであるから、一人逆走する儂は幾らか目立ったが、元々器量の良さで目立ってしまっておるから大差はない。訝しげにこちらを見る門衛にも、控えめに微笑んでやれば、早朝勤務の疲れも吹き飛んだような、景気のいい最敬礼が返ってくる。……門衛は突っ立っているだけに見えても、一応里の警備軍の実力者であるはずで、妖怪と人間の区別はついているはずだが、里の中を妖怪が闊歩していることが常態化しているためか、見た目が良ければ気にしないという豪胆なのかおおざっぱなのかよくわからない風潮があるようだ。
擦れ違う百姓たちの世間話を仄聞きする限りでは、昨今の寒さのおかげで白菜などの葉物野菜の育ちが良いらしい。鍋物野菜は冬が寒いと需要も増えるから、園芸農家はこの冬景気が良さそうだ。里に於いて農畜産物は主要な流通品であるから、天候、作況の情報は経済へのインパクトが大きい。そんな中でもやはり農家はアンテナが高いから、この種の世間話も馬鹿にはならないものがある。
……そういえば先月、延滞債権の借換えを頼みに来た男は野菜の先物相場で全額返済する等という世迷言同然の返済計画をぶち上げでおった。泥沼に頭から飛び込む蛮勇に敬意を表し、体中の臓器を担保に借換えを認めてやったが、意外にも賭けに勝ったらしい。督促がてら生存祝いに酒でも差し入れてやろう。
里の内部に入っていくと、平日ならば五月蠅いほどの物売りの呼び声が無く、代わりに身なりの良い親子連れや、小遣い片手の丁稚が浮足立ってふらつく姿が目立っている。空は曇りでも心は晴れ模様のようである。休日の往来に人が少ない町は経済的に見通しが立たないものだ。とはいえ、人間の居住域、消費地がこれだけ集約されている都市は外界には無いのだから、比較することにあまり意味は無いかもしれない。そのうち誰かが儲けに目がくらんで、イオンでも誘致してこない限り、ここがシャッター通りになることは無いだろう。
……イオン幻想郷店か。ちょっと面白そうではある。
閑話休題。
閑散として問屋街で、しかしその店は休日でも営業している。大衆食堂「つるみ屋」。市場関係者向けに早朝から営業しているこの食堂は、その味と価格から人気が集まり、市場が空いていない日にも営業をするようになったという。従業員の労務管理がどうなっているのか知れないが、儂の気にするところではない。労働基準監督署もいい加減幻想入りも同然じゃろうと思うが、最近外でもどうにか踏ん張っているのか、人里には未だブラック労働が絶える気配はないようだ。丁稚奉公に出された農家の三男四男など、江戸の昔は奴隷同前。脱走防止に上階に寝泊まりさせ、夜は梯子を外すようなことも普通だったから、今はまだましやもしれぬ。
「ぇらっしゃい!」
暖簾をくぐるとすぐに威勢のいい店員に案内される。店内はなかなか混んでいて、九割がた埋まっていた。
「あいすいません、相席でもかまいやせんか?」
「かまわんよ」
「へえ、ではこちらに」
通された卓では向かい側にハンチングを被った小柄な女性が座って、既に食事をとっていた。体格に見合わず健啖家のようで、大盛りの白飯を漬け物と味噌汁でかき込んでいる。
「正面失礼するぞい」
「ふぇえ、ふぉうふぉ」
女はリスのように頬一杯に飯を頬張ったまま何やら応じた。辛うじて了承の意であることが雰囲気から感じ取れた。上品に食事する女も乙なものだが、人目もはばからずがつがつ食べる女というのもまた魅力的である、特にこのような大衆食堂では。
笑みをかみ殺して向かいの女を見ていると、そいつはこちらをしばらくじっと見て
「ふむんっ!」
突然奇声を発すると同時に飯をのどに詰まらせたのか、目を白黒させ始めた。
「女将、焼きめざしにお新香と冷酒、それからこっちの御嬢さんに水を」
「はいはい、ただいま」
女は水を飲んでようやく人心地付いた様子である。気づけば茶碗は空になっている。ハンチングのつばを少し上げ、改めてこちらをしげしげと見る。
「……なんじゃ?」
「あんた、……あ、ちょい待った」
何か言いたいことが有るのかと促すと、女はこちらに向けて待ったをかけて、
「女将ー、串団子ー!」
振り返って追加注文をした。
何とも食い意地のはった……ははあ、なるほど。とここで得心が行った。
「鈴瑚か」
「ここでは橘凛子ちゃん」
「ちゃん付けするようなかわいいタマか?」
声を潜めて何やら主張する女は、月からやってきたという玉兎、鈴瑚であった。
やってきたとは言いながら、その実、任務の末に置き去りにされたらしい彼女らのまとめ役がこの鈴瑚である。彼女だけは幾らか月の情勢に敏感だったのか、放逐の可能性を予見して多少の蓄えを持ち出していたらしい。現地勢力と早い段階でつながるというのも彼女の策略で、体よく伝手を得たのが儂の率いる二ツ岩組だったというわけである。
「最近の調子はどうじゃ」
「こっちは相変わらずなんだけど、なかなか馴染めてない奴もまだまだいるカンジ」
月の石などという錬金術師垂涎のアイテムの処分を引き受ける見返りに、玉兎たちには棲み家や仕事を斡旋してやった。とにかく事を荒立てず、幻想郷に隠れ潜んで月に帰る道を探そうという後ろ向きなウサギたちは竹林の古兎を頼ったようで、儂が世話したのはここのコミュニティに溶け込もうとした連中である。後ろ盾のない、しかも妖怪たちから四面楚歌である月の手の物ということで当初は伝手づくりにも難航したようだが、月面戦争の遺恨のない新勢力であり、かつある種の治外法権になっている里の中にある程度パイプを広げつつある儂らのコミュニティはうってつけであった。
「清蘭なんか、長屋に引きこもっちゃって」
儂はあの調子に乗りやすく打たれ弱そうな兎を思い出す。
「人見知りをするようなタイプには見えなんだが。里心でもついたのかのう」
「ううん。帰れないのが堪えてるのもあるんだろうけど、どうも体内時計が人里に馴染めていない節もあるんだよね」
「ほほう」
ちょうど儂のめざしと鈴瑚の串団子が同時にやってきたので、一旦話が途切れる。
「いただきます」
カリカリに焼かれためざしを頭からバリバリと齧る。
「ううむ」
前に焦げる寸前くらいまで焼いてくれと言ったのを覚えていたのか、今日は伝え忘れていたのに好みの焼き加減であった。こういうところが人気店とそうでない店をわけるんじゃろうなあなどと感心しつつ冷酒をあおる。
「朝っぱらから良いご身分で」
「酒も飲まずによく一日が始められるもんじゃと、むしろ感心するわい」
「アルコールは活動エネルギーとしてはちょっと足らない」
鈴瑚はそういって、ひと串の団子をいっぺんに頬張った。
「ふぉれでね……」
「飲み込んでから話さんか」
「んぐ、ごめんごめん。軍に居ると早食いの癖が着いちゃうんだよね」
「どうだか」
食い意地が張っているだけに相違あるまい。
「それでさ、やっぱり月生まれ月育ちだと、一日の時間間隔とかが地上と全然違うんだよね。私は元々いつでも眠れていつでもおきられる性質だから全然困ってないんだけど、みんなはそうでもないみたいなんだ。ぁぐ、もぐ」
「なるほどのう」
月の一日って地球のそれより長いんじゃったっけ。月を相手にビジネスしようと思ったことがなかったせいで、意外と知識がたらんことを思い知る。
「まあ、そればっかりは慣れじゃろうなあ。玉兎もいずれ妖怪のようなもんじゃろうから、精神的なものも大きいんじゃないか。地球に根を下ろそうとせん限りは、いつまでたっても時差ボケかもしれん」
「んぐ。精神的な問題かー。カウンセラーでも探すかな」
「良さそうなやつがおったら紹介してやろう」
「紹介料取るんでしょ」
「まさか。せめてまともに働ける様になってもらわんと金も貸せんじゃろう」
「うわー」
如何にも、ひくわー、みたいな表情であるが、こいつも相当強かなやつなので別に気にすることもない。暫くめざしをバリバリやりながらちびちびと酒を飲む。周りを見ると、一六日ということもあってか、他にも朝っぱらから一杯やっている連中がちらほらと見られた。酒は百薬の長ともいう。これから寒くなる上では、これがなくては始まらないだろう。銚子を空にしながらそんな益体もないことを考える。
「一服よいか?」
「どーぞ」
こちらも既に食べ終えた鈴瑚が団子の串を楊枝にしながら返事をする。儂は懐から煙管を取りだしてから、ぺちと額を叩いた。
「……切らしておるんじゃった」
そもそも煙草を調達するついでに街をぶらつこうというのが今日の趣旨であったというのに。すっかり失念していた。ここは物忘れというよりは旨いめざしと酒のせいということにしておくのが幸せだろう。
「そんなにおいしいモン? 大麻の方が効率よくない?」
「バカ言え一応禁制品じゃ。煙草には煙草のよさがある」
幻想郷の喫煙率は低くない。人里のそれは昭和頃の外界並みであるし、妖怪にも愛煙家が多いため、煙草の専業農家は一定数おり、妖怪の山などでは独自に精算されていたりもする。また、高いながらも外界からの輸入品も一部出回っている。里では煙管が主流だが、昨今紙巻も流行っている。妖怪たちの間では煙管の他パイプや水煙草等趣味的喫煙具によるものも多い。
ちなみに大麻は公に栽培こそされていないが、そこかしこに自生している。人里の中では禁止されているが塀の外には愛好家が集まる阿片窟めいたスポットもある。尤も、医療用や錬金術用など需要も一定存在し、許可制にして栽培しても良いのではないかという論争は古くから存在するようだ。
「外ではどんどん厳しくなっておるから、その点だけでもこちらにやってきた甲斐があったというもんじゃ」
「厳しくって、規制が?」
「おお。一部自治体じゃあ家の中で吸うのも制限するとか、最近はそんな様子らしい。おっそろしい話じゃ」
「……外の新聞て手に入るの?」
「欲しいか?」
「やめとく」
鈴瑚はちょっと興味がある風にも見えたが、費用が嵩みそうな気配を敏感に察知した様子である。懸念は実際大正解で、相応の伝手と相応の心付けが必要な高級品である。相応の伝手までの仲介料を加味すればいよいよ用意できるものではない。
「ま、他にも必要なもんがあればなんなり相談するがよかろう。出すもの出せば調達してやるぞい」
「覚えとくよ。……女将お勘定!」
鈴瑚は支払いに立った。癖で咄嗟に財布の中身を確認してしまう。思ったより持ちあわせがあって、やはり大した奴じゃという評価を継続した。
こちらも支払いを済ませて往来をまたぷらぷらと歩く。食事の間に少し日が差したのか若干ながら寒さは和らいでいる。その辺にある角の煙草屋で適当に済ませて、あとは帰って寝ていてもいいし、折角里まで来たのだから専門店――あるところにはある――まで足を延ばしてもいい。どうしたものかと無意識に袂から煙管を取りだし、何度目だと自分で呆れる。煙草を吸っとるつもりが、自分の方が煙草に吸われているのかもしれん。そういう視点に立つと、法規制もやむなしの所があるんだろうかな、と馬鹿々々しいことを考えている時にふと、ある思い付きが浮かんだ。折よくやってきた馬車鉄道に乗り込み、一路里の北側を目指す事にする。
三十分ほど揺られたのち、徒歩で向かったのは麒麟坂地区、通称「渡来人通り」と呼称される商店街である。名前からなんとなく想像はつくところだろうが、所謂帰化外来人が開いた店が多く集まる通りだ。そもそも生きて人里なり博麗神社なりに到達できる外来人がそれほど多くなく、更に、結界から戻るのではなくこの幻想郷に根を下ろそうとし、かつ実際にそれに成功する外来人というのはそう多くない。
一方で、彼らはこの幻想郷にない様々な発想や見識を持っているために、それをうまく活用して自活することに成功した者もいる。ここらで有名なのは、既に開業から十年経とうというラーメン屋や、自作のボードゲームなどの玩具を売るおもちゃ屋などである。 一六日には物見遊山の人間でにぎわう通りは今日も盛況で、ぶつからないように目的の店へと進む。
通りの終わり際に構えたこじんまりとした店の名前は「七士(ななし)雑貨店」である。外界の人間にはちょっと頭をひねれば分かるような洒落であるが、七と十一、即ちセブンイレブンに着想を得た、この人里でも極めて珍しい二十四時間営業の雑貨店である。
神隠しに逢い、幻想入りして数か月、儂の前に表れたその青年は、当初「山井伸一」と名乗った。今は七士伸一と名乗るこの雑貨店の店主である。聞くに、彼は家族との関係芳しからず、また目的意識もなく上京し、日々をバイトに費やす大学生であった。先の展望もない中で突然に幻想郷へ放り出された彼には、これが再起のチャンスであると思われたという。自らの力で自立し、日々を生きる。しかしそれに当たって、彼が発揮できることはそれほどなかった。ただの大学生であった彼には、これといったスキルもノウハウもなく、里の人間に比べ体力も劣っている。そのような中で、彼が見つけた、自分に備わった経験というのが、まさにそのコンビニバイトでの知見であった。
幻想郷に二十四時間営業の雑貨屋を開く、ついては回転資金を融通してくれという彼には、経営関係のノウハウ不足を加味してなお、金を貸してやっても良いと思える面白さがあった。
商店街は外来人へのテナント提供に前向きであった。商品の入手経路――もちろん煙草も――を案内し、バックヤードに簡単な台所を作り、食い詰めた弁当屋を紹介した。烏天狗どもや里の小さな出版社に販売スペースを用意し、伸一が経理を覚えるまで、組の若手を出向させてやった。
店内に入ると店員が威勢よく声を上げる。
「っしゃーせー! っああ、麻美(あさみ)さん、お世話になってます」
店主の伸一は従業員にレジを任せてこちらに出てきた。麻美というのは人里向けの儂の偽名である。
「まあまあの人手じゃのう」
店内には四~五名の客が商品棚を物色していた。
「初め頃の物珍しさは流石に薄れましたけど、夜中でもまあまあ売り上げがあってます」
「なるほど。需要の見込はある程度当たった様じゃな」
「ええ。今の所競合もいませんから」
七士雑貨店は二十四時間営業だというのを大々的にチラシで巻いたところ、夜中に腹を空かした若い衆や、朝の早い警備隊の妻、飲みの帰りの男たちなどがちょこちょこと寄るようになり、一定の需要が発掘されることになった。
「クリーニングサービスはどうじゃ」
「まだ認知度がそれほど。でも提携先の洗濯屋には好評で」
「ふむ」
業態はまだまだ手探りな所がある。しかしながら、見知らぬ土地に根を下ろそうという人間が四苦八苦する姿は、やはり興味深く、儂も金貸し冥利に尽きるところがある。
「あと三ヶ月は元金据え置きの契約じゃが、その先、元金含めて返済していく目途はどうじゃ」
「それが……、ちょっとこっちへ」
伸一は声を潜めてバックヤードへと誘導した。それだけでも何やら不都合が起こっていることは十分に伝わったところだ。
「人件費?」
「そうなんです」
曰く、深夜帯の従業員のシフトがなかなか埋まらず、賃金の割増率を上乗せすることでなんとか人を集めているという。それでも計画数を下回っており、現状ではオーナーである伸一自身がその穴を気合で埋めている状況とのこと。
「現実にセブンイレブンで勤めとったお前さんは重々承知と思うが、コンビニのオペレーションは単純作業ではないからのう」
「ええ。ここはまだ業務の種類も少ないですから覚えてもらうのにもそこまで支障は出てませんが、ただでさえ集まりが悪いうえに一定の条件まで課すとなると、何とも」
深夜帯に働くことができる、もとい、深夜帯に働かなければならないという時点で、まともな人間でない確率は、ここ幻想郷においては高い。学生というある種の余剰人員を抱えている外界とは事情が異なるのである。その点、伸一にとっては誤算であったし、儂にとってもいま少し至らなかったところである。
「とはいえ、お前さんが埋めると言っても限界はあろう? 人件費圧縮のために社員を降らした挙句、自分の作業量を増やし、倒れて会社を潰す中小の経営者というのは少なくないぞい」
「ははは」
笑い事ではないと思うが。
実際、人件費というのは、少なくともお天道様の当てられる真っ当なやり方に於いては早々圧縮できるものではない。一定のバッファのある大企業におけるリストラクチャリングとは根本的に発想が違うのである。個人商店においてはまさに死活問題だ。
幻想郷に労働基準法は無い。しかし、外界では時に限りなく価値を減じている人道というものが人里にはある。もちろん例外はいろいろとあるけれど。
日本国憲法がこの幻想郷に及ぶものか、果たして意見の分かれるところではあろうが、お題目のあるなしに関わらず、基本的人権というものは斯くも得難いものである。
店舗内に用意された軽食用の喫茶スペースに案内されて、一応出資者のようなものということでサービスにお茶が出された。それなりの格のある茶葉を挽いた抹茶は七喫茶(セブンカフェ)の商品としてそこそこの人気になっている。その理由は恐らく、ちょっと見た目の変わったカップのせいであろうが。
お茶がお金を払って買うものだという認識になったのは、外界においては80年代、伊藤園が缶入り煎茶を発売してからである。まして明治の昔に閉ざされた幻想郷では、お茶というのは家で飲むものか、飲食店において無償提供されるものである。このような場所で果たしてコンビニのお茶を買うものがおるだろうかと半信半疑であったが、まさか容器自体の工夫でその文化が根付きつつあるということには素直に驚きを感じる。
喫茶スペースに座ってみている間にも、また一組、二人連れの男女が珍し気に七喫茶のお茶――生意気にも商品名はグリーンティ――を買って、そのまま往来へ出ていった。
トラベラーリット、というあまり知られていない正式名称のある、あの穴の開いた蓋。スタバなど、いわゆるシアトル系コーヒーショップが持ち込んだあの特徴的なそれは、儂も初めて見たとき「こいつら蓋したままどうやって飲んでるんじゃ」とドン引きしたものだが、慣れてしまえばあって当たり前のものである。近所の工場に依頼して、プレス機で量産できるようになったとのこと。ああやって往来を持ち歩く姿が目に付くようになれば、瞬く間に流行し、どこでも手に入るものになるだろう。人間の新しいもの好きは結界の外と内とでなんら変わりない。
「あっつ」
儂は未だにちょっと苦手だ。
牛乳と砂糖を混ぜた新商品、抹茶ラテを少し高めの価格で売り出し客単価の上積みを図ることで何とか収支を好転させる計画であるとの言葉をひとまずは聞き置いて、また数週間後に来ると告げて店を出た。飲食できる雑貨屋というものがこの先如何に認知されるものかは分からない。しかしながら、人間も妖怪も含めて、外界からやってきた者が常に何かを齎し、隔離されたはずのこの幻想郷に影響を与え続けることを、果たして賢者たちがどう考えているものか、儂は知りたくなった。
気付けばすっかり晴れて、通りは人で活気づいている。
神隠しという現象は、結界の性質上、一定の確率で必ず起こるように設計されているというのを幻想郷の古参妖怪から聞いている。それは第一義的には「食糧」の確保なのだろうが、それを乗り越えて里へたどり着いたものを排除しない姿勢には、やはり意図を感じる。外界の影響を断ち、失われし幻想達を保存するこのスノードームの理念には確かに反している。
一定の外部刺激がなければ、緩慢な死を避けられない、そういう危機感があるのだろうか。実際にここに来るまで、儂は幻想郷のことをホスピスのようなものだと思っておった。外での生存が絶望的になった者たちを、せめて穏やかに終わらせる終末期医療(ターミナルケア)。だからぬえに誘われたとき、ここに来てみようかと思ったのは、儂も疲れておったのかもしれぬ。良くなったり悪くなったり、振り子のように繰り返しながら、確実に生きづらくなっていく世界を一度離れてみようと思ったのだ。
ところが賢者たちは、そうは思っていないようだ。
此処は幻想がただ終わりを待つ場所ではなく、独自の生き残りを模索する、最初からそういう設計になっている。ゆっくりと、しかし確かに結界の内側も発展、進化を続けている。それが外と同じ道を辿る可能性だって十分にあるはずだ。だからこそ儂は、あんまり外の流儀を持ち込み過ぎないほうがいいのではないかと、どこかに遠慮があった気がする。
それでもこの郷が、リスクを負ってでも外とは違う道を辿らんとするのであれば、儂らもそれに応えよう。めいっぱい好き勝手、する方が得である。
儂はまた随分と歩いて、組のものが管理している里のはずれの寂れた長屋に向かった。人里の中に数多ある、人のふりした人外の住まう、妖怪長屋である。
バンバンバン、と隙間だらけの薄い戸を、壊さない程度に叩く。
「おおい、おらんのか?」
バンバンバン。
しばらくして、中で何やらごそごそ音がし、それからさらに数十秒待たされてから、ガラガラと戸が開いた。
「んぇ……はい……」
目を擦るそれだけの動作さえ億劫そうに、現れたのは今朝話題にした浅葱色の宇宙兎、清蘭である。前合わせの着物が肩まではだけているが、色っぽいというよりいろいろと台無しさを感じさせる有様だった。
「日の高いうちから何を寝とるんじゃ。誰が訪ねてきたかもわからんのに、耳を出したまま戸を開けるバカたれめ」
「んんん……ふぅわあああぁ。ああ、マミゾーか」
真っ赤な目はウサギだからか、寝不足なのか判断が付かなかった。
「昼夜逆転しとるようじゃのう」
「地球の時間は合わないわ」
「そんなホームシックのお前に仕事の話を持って来てやったんじゃ」
「えええ?」
仕事と聞いて露骨に嫌そうな顔をする寝ぼけウサギの耳を摘まんでぴろぴろ振ってやる。
「ここの家賃だれが払っとると思うとるんじゃ。いつまで鈴瑚に養ってもらうつもりじゃ」
「ううう、一生」
「ずうずうしいやつめ。鈴瑚が世話しとる隊員……元隊員か、何羽おると思っとる。その調子だと今に見捨てられて路頭に迷うぞい。今朝会って話したが、そろそろ引き取り先を探しとるといっとたぞ」
「……ええっ!?」
ようやく起きたなコイツ。
まあ、あの面倒くさがりがわざわざ気にかけとるコイツを見捨てることは万に一つもないじゃろうが、そこはそれ、方便である。
「まともに働く気があるなら、ここを訪ねろ。夜に働ける誰にでもできて簡単な仕事じゃ」
七士雑貨店の住所を渡してやる。
「本当!?」
「本当じゃ」
嘘じゃ。世の中に簡単な仕事なんかない。しかしそれもまた仕方のないこと。金は命より重いのである。
「長屋の他の連中にも教えてやれ。夜行性のがいくらもおるじゃろう」
ここ人里の中では、妖怪は人間たちの狭間で細々と生きている。天狗だのといった我が物顔で領地を占有する連中は寧ろ少数派だ。妖怪というものは人間が生むのじゃから、人間社会にこそ潜んでいる。ろくろ首、ぬらりひょん、化け猫、のっぺらぼう。常に人間が襲えるわけではないから、連中にも金が要る。彼らは総じて人間よりも体力があり、価値観が違うから汚れ仕事を忌避しない。如何せん日の出ているうちはぱっとしないが、そうやって底辺の底辺で生きている。
人里の中に大変な仕事が増えれば、彼らの需要も増えていくだろう。お客様は神様じゃ。需要が増えれば夜間労働も増える。妖怪の雇用は増え、経営者は人件費を圧縮。ウィンウィンに見えて、その実、里全体の給与水準が下がり続けていく地獄の我慢比べの幕開けである。
人類の英知さまさまじゃなあ。
少し遅めの昼食をどうしようかとふらつきながら、考える。賢者たちは、龍神は、こんな愚かしい進化を果たして止めようと思わぬのだろうか。など。
「ばかばかしい、それこそ儂の忖度するところではないのう」
儂は金を数えて楽しく過ごせればそれでよいのだから。
懐からキセルを取り出し、……そして額をぺちと叩く。
七士雑貨店に何を買いに行ったんだったかを思い出した。
寒暖の差もようやく落ち着き、緩やかに冬に向かわんという或る日の目覚め。そろそろ布団は冬物に取り替えねばならんなあと思いながら、ぬくもりを惜しみつつ半身を起こす。布団脇の煙草盆に手を伸ばし煙管を取るが、肝心の煙草を切らしていた。朝の一服を逃した失望感は大きい。今日は目的もなくだらだらと過ごすようにという、お天道様の思し召しであろう。
本日の宿は命蓮寺の離れである。
完全なる居候もとい食客という立場は、住人達には概ね好意的に受け止められているが、白蓮とネズミには白眼視されている。とはいえ、白眼視が怖くて妖怪狸の務まるものではない。儂をここへ呼んだのが一応連中の身内に数えられている鵺である以上、どうせ追い出す事は出来ないのだ。そんなことをすれば彼奴が余計に肩身の狭い思いをすることになると、お優しい住職は分かっているのだから。
枕元の眼鏡をかけて部屋を出る。外は曇り空で、明るさを見るに午前五時といったところ。硝子戸を開けると、なかなかの寒さに思わず夜着の前を合わせる。初雪が降るまでひと月とないだろう。突っ掛けを履いて庫裡と離れの間にあるポンプに向かうと、向かい側から件の白蓮がやってくるのが見えた。
「おはようございます」
「おはようさん」
「背筋が曲がっていますよ。朝からそんなことではいけません」
「朝一番に説教を垂れるお前さんはもう少し当たりを柔らかくした方がよかろうのう、そのでかい乳の半分くらいには」
白蓮は表情をそのままに、額に青筋を浮かべて聞き流した。
大概の相手ならここで儂のすれんだーなぼでーに対して反撃の一言でも差し挟むのだろうが、この女は他人の乳房に言及する等といった破廉恥な真似は出来ないのである。己を律することの馬鹿々々しさかな。
「今日はこちらにお泊りだったのですね。貴方が此処を当面出ていかないつもりであるのはいい加減飲み込みますけど、いるのかいないのかくらいハッキリさせていただけませんか」
「昨日は酔うて遅くに戻ったから、叩き起こすのは可哀想だと思ったんじゃ。熱心にもまだ起きておった一輪には伝えておいたが」
「あら、そんなに遅くに一輪がなぜ起きていたのでしょうね」
「悟りを開くのに修行でもしておったんじゃろ」
寒い夜にはうってつけの、酩酊感のある修行じゃ。
「あらあら。あとで成果を聞いておかねばなりませんね」
白蓮はそういうと、庫裡の方へとってかえした。何をしに水場に来たんだか。
顔を洗って部屋に戻り、柿色の長着に紺の帯を締め、若草色の羽織を合わせる。人里をぶらりと歩くつもりで耳を隠した。今日は十月の二十六日。日の一の位が六だから、里は休日の喧騒に溢れているはずである。
幻想郷の人里においては古くからの名残りで、1日、6日、11日と、いわゆるイチロク日―――1の位が1か6の日―――が休日となっている。七曜日はそこそこ教養のあるものが知識として知っているにとどまり、普段から意識しているモノがおるとすれば、紅魔館お抱えの魔術師ぐらいのものだ。
起床時間が早めだったこともあり、朝食は少し足を延ばすことにした。最寄りの人里入口から里の中へ入る。人の出入りはその多くが田畑へ向かう農民たちが里から出てくるものであるから、一人逆走する儂は幾らか目立ったが、元々器量の良さで目立ってしまっておるから大差はない。訝しげにこちらを見る門衛にも、控えめに微笑んでやれば、早朝勤務の疲れも吹き飛んだような、景気のいい最敬礼が返ってくる。……門衛は突っ立っているだけに見えても、一応里の警備軍の実力者であるはずで、妖怪と人間の区別はついているはずだが、里の中を妖怪が闊歩していることが常態化しているためか、見た目が良ければ気にしないという豪胆なのかおおざっぱなのかよくわからない風潮があるようだ。
擦れ違う百姓たちの世間話を仄聞きする限りでは、昨今の寒さのおかげで白菜などの葉物野菜の育ちが良いらしい。鍋物野菜は冬が寒いと需要も増えるから、園芸農家はこの冬景気が良さそうだ。里に於いて農畜産物は主要な流通品であるから、天候、作況の情報は経済へのインパクトが大きい。そんな中でもやはり農家はアンテナが高いから、この種の世間話も馬鹿にはならないものがある。
……そういえば先月、延滞債権の借換えを頼みに来た男は野菜の先物相場で全額返済する等という世迷言同然の返済計画をぶち上げでおった。泥沼に頭から飛び込む蛮勇に敬意を表し、体中の臓器を担保に借換えを認めてやったが、意外にも賭けに勝ったらしい。督促がてら生存祝いに酒でも差し入れてやろう。
里の内部に入っていくと、平日ならば五月蠅いほどの物売りの呼び声が無く、代わりに身なりの良い親子連れや、小遣い片手の丁稚が浮足立ってふらつく姿が目立っている。空は曇りでも心は晴れ模様のようである。休日の往来に人が少ない町は経済的に見通しが立たないものだ。とはいえ、人間の居住域、消費地がこれだけ集約されている都市は外界には無いのだから、比較することにあまり意味は無いかもしれない。そのうち誰かが儲けに目がくらんで、イオンでも誘致してこない限り、ここがシャッター通りになることは無いだろう。
……イオン幻想郷店か。ちょっと面白そうではある。
閑話休題。
閑散として問屋街で、しかしその店は休日でも営業している。大衆食堂「つるみ屋」。市場関係者向けに早朝から営業しているこの食堂は、その味と価格から人気が集まり、市場が空いていない日にも営業をするようになったという。従業員の労務管理がどうなっているのか知れないが、儂の気にするところではない。労働基準監督署もいい加減幻想入りも同然じゃろうと思うが、最近外でもどうにか踏ん張っているのか、人里には未だブラック労働が絶える気配はないようだ。丁稚奉公に出された農家の三男四男など、江戸の昔は奴隷同前。脱走防止に上階に寝泊まりさせ、夜は梯子を外すようなことも普通だったから、今はまだましやもしれぬ。
「ぇらっしゃい!」
暖簾をくぐるとすぐに威勢のいい店員に案内される。店内はなかなか混んでいて、九割がた埋まっていた。
「あいすいません、相席でもかまいやせんか?」
「かまわんよ」
「へえ、ではこちらに」
通された卓では向かい側にハンチングを被った小柄な女性が座って、既に食事をとっていた。体格に見合わず健啖家のようで、大盛りの白飯を漬け物と味噌汁でかき込んでいる。
「正面失礼するぞい」
「ふぇえ、ふぉうふぉ」
女はリスのように頬一杯に飯を頬張ったまま何やら応じた。辛うじて了承の意であることが雰囲気から感じ取れた。上品に食事する女も乙なものだが、人目もはばからずがつがつ食べる女というのもまた魅力的である、特にこのような大衆食堂では。
笑みをかみ殺して向かいの女を見ていると、そいつはこちらをしばらくじっと見て
「ふむんっ!」
突然奇声を発すると同時に飯をのどに詰まらせたのか、目を白黒させ始めた。
「女将、焼きめざしにお新香と冷酒、それからこっちの御嬢さんに水を」
「はいはい、ただいま」
女は水を飲んでようやく人心地付いた様子である。気づけば茶碗は空になっている。ハンチングのつばを少し上げ、改めてこちらをしげしげと見る。
「……なんじゃ?」
「あんた、……あ、ちょい待った」
何か言いたいことが有るのかと促すと、女はこちらに向けて待ったをかけて、
「女将ー、串団子ー!」
振り返って追加注文をした。
何とも食い意地のはった……ははあ、なるほど。とここで得心が行った。
「鈴瑚か」
「ここでは橘凛子ちゃん」
「ちゃん付けするようなかわいいタマか?」
声を潜めて何やら主張する女は、月からやってきたという玉兎、鈴瑚であった。
やってきたとは言いながら、その実、任務の末に置き去りにされたらしい彼女らのまとめ役がこの鈴瑚である。彼女だけは幾らか月の情勢に敏感だったのか、放逐の可能性を予見して多少の蓄えを持ち出していたらしい。現地勢力と早い段階でつながるというのも彼女の策略で、体よく伝手を得たのが儂の率いる二ツ岩組だったというわけである。
「最近の調子はどうじゃ」
「こっちは相変わらずなんだけど、なかなか馴染めてない奴もまだまだいるカンジ」
月の石などという錬金術師垂涎のアイテムの処分を引き受ける見返りに、玉兎たちには棲み家や仕事を斡旋してやった。とにかく事を荒立てず、幻想郷に隠れ潜んで月に帰る道を探そうという後ろ向きなウサギたちは竹林の古兎を頼ったようで、儂が世話したのはここのコミュニティに溶け込もうとした連中である。後ろ盾のない、しかも妖怪たちから四面楚歌である月の手の物ということで当初は伝手づくりにも難航したようだが、月面戦争の遺恨のない新勢力であり、かつある種の治外法権になっている里の中にある程度パイプを広げつつある儂らのコミュニティはうってつけであった。
「清蘭なんか、長屋に引きこもっちゃって」
儂はあの調子に乗りやすく打たれ弱そうな兎を思い出す。
「人見知りをするようなタイプには見えなんだが。里心でもついたのかのう」
「ううん。帰れないのが堪えてるのもあるんだろうけど、どうも体内時計が人里に馴染めていない節もあるんだよね」
「ほほう」
ちょうど儂のめざしと鈴瑚の串団子が同時にやってきたので、一旦話が途切れる。
「いただきます」
カリカリに焼かれためざしを頭からバリバリと齧る。
「ううむ」
前に焦げる寸前くらいまで焼いてくれと言ったのを覚えていたのか、今日は伝え忘れていたのに好みの焼き加減であった。こういうところが人気店とそうでない店をわけるんじゃろうなあなどと感心しつつ冷酒をあおる。
「朝っぱらから良いご身分で」
「酒も飲まずによく一日が始められるもんじゃと、むしろ感心するわい」
「アルコールは活動エネルギーとしてはちょっと足らない」
鈴瑚はそういって、ひと串の団子をいっぺんに頬張った。
「ふぉれでね……」
「飲み込んでから話さんか」
「んぐ、ごめんごめん。軍に居ると早食いの癖が着いちゃうんだよね」
「どうだか」
食い意地が張っているだけに相違あるまい。
「それでさ、やっぱり月生まれ月育ちだと、一日の時間間隔とかが地上と全然違うんだよね。私は元々いつでも眠れていつでもおきられる性質だから全然困ってないんだけど、みんなはそうでもないみたいなんだ。ぁぐ、もぐ」
「なるほどのう」
月の一日って地球のそれより長いんじゃったっけ。月を相手にビジネスしようと思ったことがなかったせいで、意外と知識がたらんことを思い知る。
「まあ、そればっかりは慣れじゃろうなあ。玉兎もいずれ妖怪のようなもんじゃろうから、精神的なものも大きいんじゃないか。地球に根を下ろそうとせん限りは、いつまでたっても時差ボケかもしれん」
「んぐ。精神的な問題かー。カウンセラーでも探すかな」
「良さそうなやつがおったら紹介してやろう」
「紹介料取るんでしょ」
「まさか。せめてまともに働ける様になってもらわんと金も貸せんじゃろう」
「うわー」
如何にも、ひくわー、みたいな表情であるが、こいつも相当強かなやつなので別に気にすることもない。暫くめざしをバリバリやりながらちびちびと酒を飲む。周りを見ると、一六日ということもあってか、他にも朝っぱらから一杯やっている連中がちらほらと見られた。酒は百薬の長ともいう。これから寒くなる上では、これがなくては始まらないだろう。銚子を空にしながらそんな益体もないことを考える。
「一服よいか?」
「どーぞ」
こちらも既に食べ終えた鈴瑚が団子の串を楊枝にしながら返事をする。儂は懐から煙管を取りだしてから、ぺちと額を叩いた。
「……切らしておるんじゃった」
そもそも煙草を調達するついでに街をぶらつこうというのが今日の趣旨であったというのに。すっかり失念していた。ここは物忘れというよりは旨いめざしと酒のせいということにしておくのが幸せだろう。
「そんなにおいしいモン? 大麻の方が効率よくない?」
「バカ言え一応禁制品じゃ。煙草には煙草のよさがある」
幻想郷の喫煙率は低くない。人里のそれは昭和頃の外界並みであるし、妖怪にも愛煙家が多いため、煙草の専業農家は一定数おり、妖怪の山などでは独自に精算されていたりもする。また、高いながらも外界からの輸入品も一部出回っている。里では煙管が主流だが、昨今紙巻も流行っている。妖怪たちの間では煙管の他パイプや水煙草等趣味的喫煙具によるものも多い。
ちなみに大麻は公に栽培こそされていないが、そこかしこに自生している。人里の中では禁止されているが塀の外には愛好家が集まる阿片窟めいたスポットもある。尤も、医療用や錬金術用など需要も一定存在し、許可制にして栽培しても良いのではないかという論争は古くから存在するようだ。
「外ではどんどん厳しくなっておるから、その点だけでもこちらにやってきた甲斐があったというもんじゃ」
「厳しくって、規制が?」
「おお。一部自治体じゃあ家の中で吸うのも制限するとか、最近はそんな様子らしい。おっそろしい話じゃ」
「……外の新聞て手に入るの?」
「欲しいか?」
「やめとく」
鈴瑚はちょっと興味がある風にも見えたが、費用が嵩みそうな気配を敏感に察知した様子である。懸念は実際大正解で、相応の伝手と相応の心付けが必要な高級品である。相応の伝手までの仲介料を加味すればいよいよ用意できるものではない。
「ま、他にも必要なもんがあればなんなり相談するがよかろう。出すもの出せば調達してやるぞい」
「覚えとくよ。……女将お勘定!」
鈴瑚は支払いに立った。癖で咄嗟に財布の中身を確認してしまう。思ったより持ちあわせがあって、やはり大した奴じゃという評価を継続した。
こちらも支払いを済ませて往来をまたぷらぷらと歩く。食事の間に少し日が差したのか若干ながら寒さは和らいでいる。その辺にある角の煙草屋で適当に済ませて、あとは帰って寝ていてもいいし、折角里まで来たのだから専門店――あるところにはある――まで足を延ばしてもいい。どうしたものかと無意識に袂から煙管を取りだし、何度目だと自分で呆れる。煙草を吸っとるつもりが、自分の方が煙草に吸われているのかもしれん。そういう視点に立つと、法規制もやむなしの所があるんだろうかな、と馬鹿々々しいことを考えている時にふと、ある思い付きが浮かんだ。折よくやってきた馬車鉄道に乗り込み、一路里の北側を目指す事にする。
三十分ほど揺られたのち、徒歩で向かったのは麒麟坂地区、通称「渡来人通り」と呼称される商店街である。名前からなんとなく想像はつくところだろうが、所謂帰化外来人が開いた店が多く集まる通りだ。そもそも生きて人里なり博麗神社なりに到達できる外来人がそれほど多くなく、更に、結界から戻るのではなくこの幻想郷に根を下ろそうとし、かつ実際にそれに成功する外来人というのはそう多くない。
一方で、彼らはこの幻想郷にない様々な発想や見識を持っているために、それをうまく活用して自活することに成功した者もいる。ここらで有名なのは、既に開業から十年経とうというラーメン屋や、自作のボードゲームなどの玩具を売るおもちゃ屋などである。 一六日には物見遊山の人間でにぎわう通りは今日も盛況で、ぶつからないように目的の店へと進む。
通りの終わり際に構えたこじんまりとした店の名前は「七士(ななし)雑貨店」である。外界の人間にはちょっと頭をひねれば分かるような洒落であるが、七と十一、即ちセブンイレブンに着想を得た、この人里でも極めて珍しい二十四時間営業の雑貨店である。
神隠しに逢い、幻想入りして数か月、儂の前に表れたその青年は、当初「山井伸一」と名乗った。今は七士伸一と名乗るこの雑貨店の店主である。聞くに、彼は家族との関係芳しからず、また目的意識もなく上京し、日々をバイトに費やす大学生であった。先の展望もない中で突然に幻想郷へ放り出された彼には、これが再起のチャンスであると思われたという。自らの力で自立し、日々を生きる。しかしそれに当たって、彼が発揮できることはそれほどなかった。ただの大学生であった彼には、これといったスキルもノウハウもなく、里の人間に比べ体力も劣っている。そのような中で、彼が見つけた、自分に備わった経験というのが、まさにそのコンビニバイトでの知見であった。
幻想郷に二十四時間営業の雑貨屋を開く、ついては回転資金を融通してくれという彼には、経営関係のノウハウ不足を加味してなお、金を貸してやっても良いと思える面白さがあった。
商店街は外来人へのテナント提供に前向きであった。商品の入手経路――もちろん煙草も――を案内し、バックヤードに簡単な台所を作り、食い詰めた弁当屋を紹介した。烏天狗どもや里の小さな出版社に販売スペースを用意し、伸一が経理を覚えるまで、組の若手を出向させてやった。
店内に入ると店員が威勢よく声を上げる。
「っしゃーせー! っああ、麻美(あさみ)さん、お世話になってます」
店主の伸一は従業員にレジを任せてこちらに出てきた。麻美というのは人里向けの儂の偽名である。
「まあまあの人手じゃのう」
店内には四~五名の客が商品棚を物色していた。
「初め頃の物珍しさは流石に薄れましたけど、夜中でもまあまあ売り上げがあってます」
「なるほど。需要の見込はある程度当たった様じゃな」
「ええ。今の所競合もいませんから」
七士雑貨店は二十四時間営業だというのを大々的にチラシで巻いたところ、夜中に腹を空かした若い衆や、朝の早い警備隊の妻、飲みの帰りの男たちなどがちょこちょこと寄るようになり、一定の需要が発掘されることになった。
「クリーニングサービスはどうじゃ」
「まだ認知度がそれほど。でも提携先の洗濯屋には好評で」
「ふむ」
業態はまだまだ手探りな所がある。しかしながら、見知らぬ土地に根を下ろそうという人間が四苦八苦する姿は、やはり興味深く、儂も金貸し冥利に尽きるところがある。
「あと三ヶ月は元金据え置きの契約じゃが、その先、元金含めて返済していく目途はどうじゃ」
「それが……、ちょっとこっちへ」
伸一は声を潜めてバックヤードへと誘導した。それだけでも何やら不都合が起こっていることは十分に伝わったところだ。
「人件費?」
「そうなんです」
曰く、深夜帯の従業員のシフトがなかなか埋まらず、賃金の割増率を上乗せすることでなんとか人を集めているという。それでも計画数を下回っており、現状ではオーナーである伸一自身がその穴を気合で埋めている状況とのこと。
「現実にセブンイレブンで勤めとったお前さんは重々承知と思うが、コンビニのオペレーションは単純作業ではないからのう」
「ええ。ここはまだ業務の種類も少ないですから覚えてもらうのにもそこまで支障は出てませんが、ただでさえ集まりが悪いうえに一定の条件まで課すとなると、何とも」
深夜帯に働くことができる、もとい、深夜帯に働かなければならないという時点で、まともな人間でない確率は、ここ幻想郷においては高い。学生というある種の余剰人員を抱えている外界とは事情が異なるのである。その点、伸一にとっては誤算であったし、儂にとってもいま少し至らなかったところである。
「とはいえ、お前さんが埋めると言っても限界はあろう? 人件費圧縮のために社員を降らした挙句、自分の作業量を増やし、倒れて会社を潰す中小の経営者というのは少なくないぞい」
「ははは」
笑い事ではないと思うが。
実際、人件費というのは、少なくともお天道様の当てられる真っ当なやり方に於いては早々圧縮できるものではない。一定のバッファのある大企業におけるリストラクチャリングとは根本的に発想が違うのである。個人商店においてはまさに死活問題だ。
幻想郷に労働基準法は無い。しかし、外界では時に限りなく価値を減じている人道というものが人里にはある。もちろん例外はいろいろとあるけれど。
日本国憲法がこの幻想郷に及ぶものか、果たして意見の分かれるところではあろうが、お題目のあるなしに関わらず、基本的人権というものは斯くも得難いものである。
店舗内に用意された軽食用の喫茶スペースに案内されて、一応出資者のようなものということでサービスにお茶が出された。それなりの格のある茶葉を挽いた抹茶は七喫茶(セブンカフェ)の商品としてそこそこの人気になっている。その理由は恐らく、ちょっと見た目の変わったカップのせいであろうが。
お茶がお金を払って買うものだという認識になったのは、外界においては80年代、伊藤園が缶入り煎茶を発売してからである。まして明治の昔に閉ざされた幻想郷では、お茶というのは家で飲むものか、飲食店において無償提供されるものである。このような場所で果たしてコンビニのお茶を買うものがおるだろうかと半信半疑であったが、まさか容器自体の工夫でその文化が根付きつつあるということには素直に驚きを感じる。
喫茶スペースに座ってみている間にも、また一組、二人連れの男女が珍し気に七喫茶のお茶――生意気にも商品名はグリーンティ――を買って、そのまま往来へ出ていった。
トラベラーリット、というあまり知られていない正式名称のある、あの穴の開いた蓋。スタバなど、いわゆるシアトル系コーヒーショップが持ち込んだあの特徴的なそれは、儂も初めて見たとき「こいつら蓋したままどうやって飲んでるんじゃ」とドン引きしたものだが、慣れてしまえばあって当たり前のものである。近所の工場に依頼して、プレス機で量産できるようになったとのこと。ああやって往来を持ち歩く姿が目に付くようになれば、瞬く間に流行し、どこでも手に入るものになるだろう。人間の新しいもの好きは結界の外と内とでなんら変わりない。
「あっつ」
儂は未だにちょっと苦手だ。
牛乳と砂糖を混ぜた新商品、抹茶ラテを少し高めの価格で売り出し客単価の上積みを図ることで何とか収支を好転させる計画であるとの言葉をひとまずは聞き置いて、また数週間後に来ると告げて店を出た。飲食できる雑貨屋というものがこの先如何に認知されるものかは分からない。しかしながら、人間も妖怪も含めて、外界からやってきた者が常に何かを齎し、隔離されたはずのこの幻想郷に影響を与え続けることを、果たして賢者たちがどう考えているものか、儂は知りたくなった。
気付けばすっかり晴れて、通りは人で活気づいている。
神隠しという現象は、結界の性質上、一定の確率で必ず起こるように設計されているというのを幻想郷の古参妖怪から聞いている。それは第一義的には「食糧」の確保なのだろうが、それを乗り越えて里へたどり着いたものを排除しない姿勢には、やはり意図を感じる。外界の影響を断ち、失われし幻想達を保存するこのスノードームの理念には確かに反している。
一定の外部刺激がなければ、緩慢な死を避けられない、そういう危機感があるのだろうか。実際にここに来るまで、儂は幻想郷のことをホスピスのようなものだと思っておった。外での生存が絶望的になった者たちを、せめて穏やかに終わらせる終末期医療(ターミナルケア)。だからぬえに誘われたとき、ここに来てみようかと思ったのは、儂も疲れておったのかもしれぬ。良くなったり悪くなったり、振り子のように繰り返しながら、確実に生きづらくなっていく世界を一度離れてみようと思ったのだ。
ところが賢者たちは、そうは思っていないようだ。
此処は幻想がただ終わりを待つ場所ではなく、独自の生き残りを模索する、最初からそういう設計になっている。ゆっくりと、しかし確かに結界の内側も発展、進化を続けている。それが外と同じ道を辿る可能性だって十分にあるはずだ。だからこそ儂は、あんまり外の流儀を持ち込み過ぎないほうがいいのではないかと、どこかに遠慮があった気がする。
それでもこの郷が、リスクを負ってでも外とは違う道を辿らんとするのであれば、儂らもそれに応えよう。めいっぱい好き勝手、する方が得である。
儂はまた随分と歩いて、組のものが管理している里のはずれの寂れた長屋に向かった。人里の中に数多ある、人のふりした人外の住まう、妖怪長屋である。
バンバンバン、と隙間だらけの薄い戸を、壊さない程度に叩く。
「おおい、おらんのか?」
バンバンバン。
しばらくして、中で何やらごそごそ音がし、それからさらに数十秒待たされてから、ガラガラと戸が開いた。
「んぇ……はい……」
目を擦るそれだけの動作さえ億劫そうに、現れたのは今朝話題にした浅葱色の宇宙兎、清蘭である。前合わせの着物が肩まではだけているが、色っぽいというよりいろいろと台無しさを感じさせる有様だった。
「日の高いうちから何を寝とるんじゃ。誰が訪ねてきたかもわからんのに、耳を出したまま戸を開けるバカたれめ」
「んんん……ふぅわあああぁ。ああ、マミゾーか」
真っ赤な目はウサギだからか、寝不足なのか判断が付かなかった。
「昼夜逆転しとるようじゃのう」
「地球の時間は合わないわ」
「そんなホームシックのお前に仕事の話を持って来てやったんじゃ」
「えええ?」
仕事と聞いて露骨に嫌そうな顔をする寝ぼけウサギの耳を摘まんでぴろぴろ振ってやる。
「ここの家賃だれが払っとると思うとるんじゃ。いつまで鈴瑚に養ってもらうつもりじゃ」
「ううう、一生」
「ずうずうしいやつめ。鈴瑚が世話しとる隊員……元隊員か、何羽おると思っとる。その調子だと今に見捨てられて路頭に迷うぞい。今朝会って話したが、そろそろ引き取り先を探しとるといっとたぞ」
「……ええっ!?」
ようやく起きたなコイツ。
まあ、あの面倒くさがりがわざわざ気にかけとるコイツを見捨てることは万に一つもないじゃろうが、そこはそれ、方便である。
「まともに働く気があるなら、ここを訪ねろ。夜に働ける誰にでもできて簡単な仕事じゃ」
七士雑貨店の住所を渡してやる。
「本当!?」
「本当じゃ」
嘘じゃ。世の中に簡単な仕事なんかない。しかしそれもまた仕方のないこと。金は命より重いのである。
「長屋の他の連中にも教えてやれ。夜行性のがいくらもおるじゃろう」
ここ人里の中では、妖怪は人間たちの狭間で細々と生きている。天狗だのといった我が物顔で領地を占有する連中は寧ろ少数派だ。妖怪というものは人間が生むのじゃから、人間社会にこそ潜んでいる。ろくろ首、ぬらりひょん、化け猫、のっぺらぼう。常に人間が襲えるわけではないから、連中にも金が要る。彼らは総じて人間よりも体力があり、価値観が違うから汚れ仕事を忌避しない。如何せん日の出ているうちはぱっとしないが、そうやって底辺の底辺で生きている。
人里の中に大変な仕事が増えれば、彼らの需要も増えていくだろう。お客様は神様じゃ。需要が増えれば夜間労働も増える。妖怪の雇用は増え、経営者は人件費を圧縮。ウィンウィンに見えて、その実、里全体の給与水準が下がり続けていく地獄の我慢比べの幕開けである。
人類の英知さまさまじゃなあ。
少し遅めの昼食をどうしようかとふらつきながら、考える。賢者たちは、龍神は、こんな愚かしい進化を果たして止めようと思わぬのだろうか。など。
「ばかばかしい、それこそ儂の忖度するところではないのう」
儂は金を数えて楽しく過ごせればそれでよいのだから。
懐からキセルを取り出し、……そして額をぺちと叩く。
七士雑貨店に何を買いに行ったんだったかを思い出した。
密かに図書屋さんの書く妖怪たちの人里ネームが好きです
そこここで触れられる業種ごとの経済事情に、幻想郷に生きる人達の生活が垣間見えるようでした
そしてそれだけのとどまらず、終末論を破り捨てて生きていこうとする幻想郷の設計思想そのものにも感動しました
それらをやや俯瞰的に眺められるのも、外の世界と幻想郷の両方を知るマミゾウならではの視点なのだと思いました
最高の配役だったと思います
ハッ
それはもう夫婦なのでは?