十一日の夜、小鈴
ボーン、ボーン。
「……あ、もうこんな時間……」
店の壁に下げられた掛け時計を見やり、とうに閉店時間を迎えていたことを悟る。結局、風邪の具合は大して良くならなかった。まあこうして店の番をしている以上、快方に向かうはずもないのだが……。
「とりあえず、店を閉めなきゃ……」
ふらふらと立ち上がり、店の外に出ると、入り口に掛けられた暖簾を下ろした。本来であれば、この後返却本を整理して、帳簿に記入する作業があるのだが、今日はやる気が起こらなかった。
幸い今日は返ってきた本は十冊にも満たないし、後回しにして今日は早く休もう――
お客が少なかったのは喜んでいいものかしら、と独り言ちながら、寝床の用意をしていると、店の戸を叩く音がした。誰だろう、と服を着替え直して屋根裏から降りる。店の入口に向かうと、灯りが見えた。
「こんばんは……小鈴、いる?」
「え? いるけど……どうしたの、こんな夜中に」
訪ねてきたのは阿求だった。店の外には提灯持ちや護衛らしき付き人が何人か。手には小さな鍋が握られている。
「どうしたのって……お見舞いよ、あんたの」
「お見舞い……って、私が風邪ひいたこと知ってたのね」
「……今朝ここで真っ青な顔して店番してた誰かさんに聞いたことだけれど」
言われて思い当たることがあった。今朝、子狐が持ってきた本。あれは確か、阿求が借りて行った本だった。きっとあの子が自分の病態を阿求に話したのだろう。
「あ、ああ、そうだったわね。えーと、その、あのときはちょっとぼんやりしてて……」
「それも聞いたわよ」
しかし、真っ青な顔、ということは風邪の演技までこなしていたのか。なるほど、子供とはいえさすがは化かしのプロだ。そんなふうにひとりで納得していると、再び激しく咳込んだ。
「ちょ、ちょっと?」
「ケホッ……だ、大丈夫よ。これでも朝よりは良くなったし」
「それのどこがよ、まったく……」
言いながら、彼女は鍋を机に置き、蓋を開けた。中から湯気が立ち上る。
「……薬屋でよく効くせき止めを調合してもらったわ。食後の薬だから、持ってきたおかゆ食べなさい。椅子ある?」
「うん……ありがと」
二人が椅子に座ると、阿求は匙で粥を掬って口に含み、もう一口ぶん掬って小鈴に差し出した。
「……ん。熱すぎることはないわね。ほら、口開けなさい」
「こ、この年になって『あーん』は恥ずかしいんだけど……。しかも、同年代に」
「つべこべ言わない。そもそもあんたの二百歳以上年上だし、ある意味」
「わ、分かったわよ……」
諺とはあべこべに、目を閉じ口を開けると、舌の上をくすぐる感触。ぱくりと口を閉じると匙が引き抜かれ、粥がとろりと広がった。
「……おいひい。これ、卵?」
「ええ。昆布と鰹で出汁をとって、溶いた卵を流して、塩で味を整えて。……ほんとはこっちで作ってあげられたらよかったんだけど、あんまし待たせるわけにもいかないしね。ほら、『あーん』」
「う……。やっぱり恥ずかしい……」
しばらくそんなやりとりを続けて、阿求は鍋の蓋を閉めた。
「……はい、これでおしまい」
「……なんか少なくない?」
「多少空腹のほうが治りが早いから。はい、薬」
そう言って阿求はたもとから小包と水筒を取り出した。小鈴は受け取って一気に流しこむ。
「う……にが……」
「我慢しなさい。良薬口に苦しって言うでしょ」
確かに、薬を飲んだら幾分か楽になった気がする。前に本で読んだ、プラなんとか効果、というやつだろうか。
「……さ、私は戻るわ。くれぐれも無理しないこと。あと水分補給。この水筒、まだ残ってるでしょ? 少なくとも寝る前と明日起きてからは必ず飲みなさいね」
「うん、ありがと」
阿求は椅子から立ち上がり、じゃあまた、と言って店を出ていった。
「……さ、言われたとおりに無理せず早寝するとしますか」
水筒の水を飲んで、再び布団に入る。少しうとうとし始めた頃、ぱんぱんと戸を叩く音が聞こえてきた。今日に限って来客が多いなあ、と思い、また着替えなおそうとする。
「小鈴ー!? まだ起きてるー!?」
しかし聞こえてきた声が阿求のものであったので、一瞬迷ったが寝間着のまま降りることにした。
「阿求、また来たの? 忘れ物?」
上着を羽織って扉を開けると、そこにいたのはやはり阿求であった。先ほどとは違いその手には籠が握られており、よほど急いで走ってきたのか綺麗な花柄の着物も少し乱れてしまっている。
「……た、度々ごめんね。一旦戻ってこれを持ってきたのよ。とりあえず、入れて頂戴?」
「う、うん。それで、これは……果物?」
阿求を店に入れる。暗い中ではよく分からなかったが、持っていた籠には柿や葡萄が入っていた。
「えぇ。とりあえず、ここに置いておくから、あとで食べてね」
「あれ? あんまりもの食べるなって言ってたじゃない」
「……そうだったっけ。まぁ、もぎたてだから、なんなら明日起きてからでもいいし」
そう言いながら籠を机の上に置く。ふぅ、と息をついて額の汗を拭う姿を見ていると、なんだか温かい気持ちになってきた。さっきまで風邪であんなに苦しかったのに、不思議なものだ。
「……ありがとね」
小鈴がそう言うと、阿求は一瞬きょとんとした顔になって、すぐ顔を赤らめた。
「そ、それじゃあ私はそろそろ帰るから……!」
「え? ちょ、ちょっと?」
阿求は急にくるりと背を向けて、早足で店を出ていく。そんなに急ぐ用事でもあるのだろうか。なら、わざわざ戻ってきてまで果物を持ってこずともよかったのに。
「……あれ?」
ふと、視界の端におかしなものが映る。
……去っていく阿求の後ろ姿に重なって、ふわふわと揺れるそれは、狐のしっぽ。
「ま、待って!」
呼び止めようとするが、阿求はそのまま店を出ていってしまう。小鈴も慌てて店を出るが、その姿は闇に溶けてしまって、もう見分けがつかなかった。そういえば、戻ってきたあとの彼女には提灯持ちの一人も付いて来ていなかった……?
小鈴は狐につままれたように、しばらくぽかんとしていたが、やがて笑いがこみ上げてきた。
「ああ、もう。恥ずかしがりやさんなんだから……ふふ」
耳を澄ませば、たたたた、と軽快な足音が聞こえる気がした。夜の暗がりのなかに、俯きがちに走る小さな狐の姿を思い描いて、小鈴は戸を閉めた。
ただ後書きの流行らせるために書きましたという文言は書かない方がよかったかも
風邪をひいた小鈴の為に、何か自分に出来る事はないかと頑張る子狐が可愛らしかったです。
ただ、原作を知らない人が読んだら「何でこの子は小鈴の知り合いなのか?」と、思うかもしれません。その旨を書いておくといいかも。