十一日の朝、小鈴
その日の小鈴の気分は最悪であった。朝起きれば気怠さが全身をゆったりと駆け抜け、体を起こすと堰を切ったように咳が出る。平熱を一・五度上回る値を示す体温計をじっと見つめて小鈴がため息をついたのが、今から半刻ほど前の話。
それでもなお、彼女が店に立つのはなにも勤労精神がどうの、ワーカホリックがどうのの話ではなく、単に彼女以外に店番を務められるものがいないからである。今日と明日、彼女の家族は用事で家を空けているのだ。彼女一人の都合で店を閉めるわけにもいかない。たとえそれで風邪が酷くなると分かっていても。
苦しくともそれを表に出す訳にはいかない。しかし客が訪ねてくるまでのこの時間くらいは、と椅子に座って楽にしていると、チリンと音が鳴って自分が転寝していたことに気づいた。
「……あら」
「おはようございます……ぁふ」
本日最初のお客様、ノートを抱くようにして持った子狐が、眠たそうに挨拶した。
「……今日は随分早いね」
小鈴が少しぎこちない笑顔を向けると、子狐はこくりと頷き、昨日の夜たくさん書いたの、と笑顔で告げた。
「新しいノートね、ちょっと待ってて」
小鈴はすぐ後ろの本棚から新しいノートを引っ張り出すと、子狐が持ってきたノートと交換する。
「はい、どうぞ」
「ん……。お姉さん、ありがとう」
「ええ、どういたしまし……ッ、」
ゲホ、ゴホッ。とっさにお客さんと商品から顔を逸らして咳込む。唐突に大きな音がしてびっくりしたのか、子狐が小さく飛び跳ねる。ぜいぜいと呼吸を落ち着けながら、いま髪の隙間から見えたのは狐耳かしら、なんて脈絡のないことを考える。
「お、お姉さん、大丈夫……?」
「……はあ。うん、平気よ。ただの風邪だから」
「休んでなきゃ、だめだよ……」
「心配してくれてありがとね。でも、今日は私しかいないから」
小さな狐の優しい忠告に、困った顔で弁解する。
「……あ、あの」
子狐が心配そうな顔で小鈴に話しかける。ほんとにただの風邪だから、心配しなくても大丈夫よ。そう告げると、子狐はふるふると頭を振ってこう提案した。
「……代わりにお店番、しよっか?」
「……え?」
あまりに唐突な申し出に、小鈴は一瞬固まったが、すぐに慌てて止めに入る。
「だ、ダメよ! そんなことしたら、ッ、……目立っちゃ、まずいでしょ?」
だってこの子は、正体を隠して人に紛れて生活しているんだから。
「……大丈夫だよ」
しかし子狐は、そう言って微笑んだ。大丈夫って何が、と小鈴が聞くより先に、子狐が口を開いた。
「ほら、見てて?」
そう言うと、子狐は隠しから一枚の葉っぱを取り出して、ちょこんと頭の上に乗せる。そのままとん、と床を蹴り。くるん、と綺麗に宙返り。どろん、と煙に包まれて。再び床に足をついたとき、そこに立っていたのは見慣れた幼い寺子屋の生徒……ではなかった。
――市松模様の着物の上から淡い黄色のエプロンを掛け、髪は飴色のツインテール。もっと見慣れたその姿はそう、まるで。
「私……?」
「……まねっこ♪」
驚きで絶句する小鈴に代わって、寸分と違わぬ声色で「お姉さんの驚いた顔、ごちそうさま」ともう一人の小鈴がいたずらっぽく笑う。まるで姿見に映った自分が勝手に動き出したような、不思議な感覚。その表情は、どこか誇らしげだ。
「……えへへ。まだ子供だけど……お姉さんに化けるくらいなら、できるんだよ?」
化ける……。そうだ、この子は化け狐。あまりに人間の里に溶け込んでいて、半分忘れていた。
「私のふりをして、あくまで私として接客すれば、あなた自身が目立つことはないってこと?」
「です。……そっくりでしょ?」
確かに、これは凄い……。……でも。
「いくら姿がそっくりでも、きっとばれちゃうわよ……?」
接客というのは、文字どおり客と接すること。その点でいえば、この幼い狐と何度か接して感じたのは、どうもこの子は口数少なく、そのうえ若干人見知りらしいということだ。とてもじゃないが接客などできそうもない。
「……まだ心配? じゃあ……」
言うと子狐は、んんっ、と小さく二度咳払いしたあと、ぱっと笑って、
「いらっしゃいませ! 本日はどんな御用でしょうか?」
「……!?」
本をお探しですか、どのような本をお求めでしょう、探してみますので少々お待ちください……。子狐は次々と小鈴の真似をする。まるで立て板に水を掛けるがごとく、何年も接客をしてきたかのように滑らかな物言いに、小鈴は思わず息を呑んだ。まるで人が変わったようだ。いや、狐が、というべきか。
「ありがとうございました、またお越しください!」
綺麗な礼を一つすると、憑き物が落ちたように、小鈴の姿のままいつもの子狐に戻った。
「……ど、どう?」
「そ、そうね。確かにこれなら……。ッ、」
そこまで言って、また咳込む。
「ほ、ほら……。お姉さん、早く休んで」
「ちょ、ちょっと、分かったから押さないで!」
……結局、子狐に押し切られる形で小鈴は寝床の屋根裏に戻ってきていた。
あの子、大丈夫かな。
心配ではあるが、せっかくの好意を無駄にするのも忍びない。小鈴はもう少しだけ、と布団に潜った。