居待月の朝、子狐
小鈴と店番を代わった子狐がまず最初にしたのは、本棚の調査であった。よくよく考えると、自分は彼女に比べてこの店の本について詳しくない。……全くといっていいほど。どんな本がどこら辺にあるのかくらいは知っておかないと、来たお客さんに怪しまれてしまう。
「……ここは語学の本……と」
背表紙をざっと眺めて、一、二冊を手に取り中身を確認する。そうして大まかなジャンルを貰ったノートにメモしていく。そんな作業を続けてしばらくすると、玄関の鈴が音を立て、子狐に来客を告げた。
……ちょっと早いなあ。でも、これでもいっぱしの狐だもん。よーし、見事に化かしちゃうんだから!
「こんにちは」
そう言って現れたのは、子狐にも見覚えのある人だ。たぶんこのお店の常連。つまり、半端な真似じゃあ騙せない。
「いらっしゃいませ! 本日はどんな御用でしょうか?」
子狐は気合いを入れて小鈴の接客を模倣する。
「……あんた、何言ってるの?」
「……はい?」
ところが反応は予想外で、なにやら怪訝な眼差しを向ける客。接客がおかしかった? いや、普段どおりのお姉さんを真似したはず。この人はよくお店でも見かける人だし、ちょっとした違いも分かるのかもしれないけど、ここまで言われることは……。
……よく、見かける人?
「……あ」
ここへ来てやっと、子狐は目の前の「客」が誰であるか理解した。上品な和服、綺麗な紫の髪。その人の名は阿求。稗田阿求。本居小鈴の、友達。
……丁寧語なんて、使うわけない!
顔から血の気が引いていく。阿求。稗田阿求。求聞持。妖怪研究家。里の有力者。バレたら……もう里にはいられない……?
阿求は険しい表情で子狐を見つめた。完全に子狐のことを疑っている。ご、誤魔化さなきゃ! どうしよう、どうしよう。一瞬で喉が渇き、舌先がひりつく。もうだめ、と諦めかけた瞬間、小鈴が寝ている屋根裏から、ケホケホと咳の音が聞こえた。
(……そうだ!)
はっと閃く。時間がない、問い詰められる前に……! 子狐は無理矢理に口を開いた。
「あ、阿求だったのね……。ごめんなさい、いま風邪ひいてて……」
「風邪え?」
阿求の表情がさらに険しくなる。
「そ、そう。朝から熱っぽくて、それでぼんやりしてたから、来たのが阿求さ……阿求だって、気付かなかったの」
そう言って、子狐はコンコンと咳込んだ。少しわざとらしかったかな、と思いつつもちらりと阿求の顔色をうかがう。張り詰めた空気の中、やがて阿求はため息をついた。
「……分かったわ。じゃあこれ、前に借りてた本、返すから」
「う、うん。確かに受け取ったわ」
子狐は心の中でホッと胸を撫で下ろす。
「……余計な物に手を出すんじゃないわよ」
「た、ただの風邪だってば。コホッ」
阿求が店を出てからたっぷり五秒待って、子狐は大きく息をついた。
「あ、危なかったぁ……」
とはいえ、一応誤魔化せたようだし。そもそも阿求さまは例外。接客としては間違ってないわけだし、むしろ次のお客さんの自信がついた。
そう思い直し、次のお客に備えて本棚の把握に戻る。するとすぐに、屋根裏から足音が聞こえ、小鈴が顔を出した。
「……そっちは大丈夫?」
「お、お姉さん……寝てなきゃ駄目、だよ」
子狐は慌てて小鈴を戻そうとする。心配なのもあるけど、同じ人間が二人いるなんて、誰かに見られたら騒ぎになってしまう。
「……やっぱり、私がやるわ」
「そ、そんな! さっきのは少し危なかったけど、ちゃんと……」
「さっきの、っていうのは……ッ。……よく聞こえなかったけど。どの本がどこにあるか分からないでしょ?」
「だ、だから今……」
だから今覚えてるの。そう言う前に、小鈴の声が遮った。
「ううん、それでなくても、よ。……もう八時半よ?」
「……あ」
子狐はようやく、なぜ朝早くから鈴奈庵に来たのか思い出した。一応、急げば始業には間に合う。……だけど。
「で、でも。お姉さんが無理するくらいなら、一日くらい行かなくても……んう!?」
「だーめ」
こつん、と。小鈴が子狐の頭を軽く小衝く。自分と全く同じ身長の相手を小衝くのは、少し苦労したようだ。
「そんなことされたって、お姉さんちっともうれしくないわよ」
「な、なんでぇ……?」
子狐は少し涙目になりながら頭を押さえた。大して痛くはないが、自分の気持ちが否定されたような気がして、胸がきゅぅ、と締め付けられる。
「お姉さんの力になろうとしてくれたのは、素直にうれしいわ。でもね、そのために寺子屋をおさぼりするのは感心できないな」
「お、お姉さんには、関係ないでしょ」
小鈴の物言いに子狐は口を尖らせる。そんなことより、自分の心配をしてほしいのに。どうして分かってくれないの?
「……あなたと同じよ」
「……ふえ?」
子狐は目を丸くする。同じって、どういうことだろう。
「お姉さんだって、力になりたいの。お勉強、したかったんでしょ? お姉さんにも、応援させて。ね?」
「……どうして?」
「ん?」
「どうして、そこまで言ってくれるの?」
子狐が尋ねると、小鈴は困ったように笑った。
「……なんでかな。お姉さんにもよくわかんないけど」
「……」
どろんっ。
子狐は変化を解いて、ぺこりと頭を下げた。
「……わかった。お姉さん、ご迷惑かけてごめんなさい」
「そんな。迷惑なんて思ってないわ」
「……これ、さっき返ってきた本」
机に置いたままの本を示すと、小鈴は分かったわ、と言ってそっと子狐の頭を撫でた。
「さ、行ってらっしゃい。みんなが待ってるわ」
「……ん」
先程ノートにメモした配置図を、ばらけないよう紐からそっと千切り、折り畳んで隠しに仕舞うと、子狐は寺子屋に向かった。