前書き
・この作品において比那名居天子の年齢設定は約1200歳となっております。
・独自設定が非常に多くなっています、生温かい目でお願いします。
・宜しければ、最後までお付き合いいただけたら幸いです。
其の一 -投我以桃、報之以李-
其の二 -妖怪の山大決戦!-
「何だよ、これは……」
朝から泣きそうな顔の橙に頼まれて萃香が友人の屋敷にやって来ると、その友人がボロボロと涙をこぼして畳の上でうずくまっているのを見て唖然とした。
紫は頭を抱えて絶えず絶望的な力なき声を漏らし、不規則に身体を揺らして苦しんでいる。
「私、私はずっと忘れ……何度も何度も何度も何度も、し……死……あぁぁぁぁぁ……いやぁぁ……」
あまりの苦悩に見かねて、先に来ていた幽々子が紫の背中を手で擦った。
「紫、しっかりして? ね、落ち着いて」
「あぁ、幽々子……私、わたしはぁ……」
「うん、わかった。苦しかったのね、ごめんねわかってあげられなくて」
紫は涙と鼻水まみれの顔を拭きもせず、ほとんど寝転がったような体勢で幽々子の腰元に抱き着いた。
幽々子はただ悲しそうな顔をして、必死に紫を慰めている。
その向こうで紫を見守っていた藍が、萃香が来たのに気付いて顔を上げた。
「橙、ここにいてくれ、萃香には私が事情を話そう。妖夢、すまないがお茶の準備をしておいてくれ、みんな温まった方がいい」
「は、はいわかりました」
「すぐ準備します!」
妖夢が慌てた様子で台所に向かっていったあと、萃香は藍に連れられて客間に通された。
藍から説明されたことは、紫がなんらかの記憶を取り戻したということだけだった。
「なんだ、それじゃあ無くした記憶の一部が戻ってきたってことなのか。どうしてだ」
「わからん。紫様もあんな状態だから言っていることも要領を得ない」
朝一番に衰弱した紫を見つけてから、そこまで聞き出すだけでも相当な労力を消費した。
食事も食べようとせず、水すら飲まない紫を前に藍は必死に励ましたが、橙が夕方に幽々子たちを連れてくるまでほとんど進展がなかったくらいだ。
「それでここからが問題だが、無くした瞬間の記憶を取り戻したことで、紫様は記憶の喪失を死と混同してしまったらしい。だから記憶を失うことに酷く恐怖してしまっているんだ」
「はあ!? つまり忘れるのが死ぬほど怖いってことか!?」
「ああ、恐らくそうなる」
それは確かに辛いことだろう。
定期的に記憶を失う性質なのに、それが死ぬことだと感じるようになればああもなるかもしれない。
「昨日の朝からずっとあの状態だ」
「一日中? じゃああいつ寝てないのか」
「ああ、眠るのが怖いらしい、また忘れるかもしれないとな。精神的に追い詰められて何もかも臆病になってる」
本当なら普通に妖怪として眠るだけなら記憶を失うことはないのだが、つい境界に引き込まれる時のことを思い出してしまうようだった。
そのことを語る藍も、目の下に隈を浮かべて酷く辛そうに見える。
「お前も疲れてるだろ、休めよ」
「紫様が寝たらな」
「いいから橙を連れて寝てろ! 紫のやつは私と幽々子たちでなんとかする」
「……あぁ、済まないな」
藍と橙を寝室へと追いやって、萃香は泣きわめく紫たちの元へやってきた。
「おい紫。話は聞いたよ、しっかりしな」
声をかけられた紫は身体をビクリと震わせ、幽々子の胸元から振り返って萃香を見つめてきた。
涙で顔がぐちゃぐちゃになった友人のあまりの弱々しさに、萃香は強い苛立ちを感じる。
「あぁ、萃香……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「お、おいどうしたのさ。いきなり謝んないでよ」
しかしいの一番に飛び出してきたのは謎の謝罪に出鼻をくじかれた。
これには萃香も困るしかなく、大人しく紫の話を聞く。
「わ、私は、たしか……ひっぐ、殺されそうなあなたを、た、助けてこっぴどく怒られた……」
「そういえばそんなこともあったけどさ、お前はその時にもう謝ったじゃんか」
もう随分昔の話だ、月の綺麗な夜に散歩に出ていた紫と出会い、その直後に人間に討伐されそうになったところ助けられたのだ。
当時の萃香は勝負の邪魔をしてきたことを激しく怒ったが、そのことがきっかけで紫との付き合いがある。
「ごめんなさい、ごめんなさい、忘れちゃってごめんなさい…………あぁぁぁ、覚えてない、怒られたのは知ってるのにどんな風に怒られたのか覚えてないのよ……萃香、あなたはその時にどうしたの……」
「そんなの私だってほとんど覚えてないよ! そんな下らないこと覚えてなくたって生きてられるんだから元気出しなって!」
「駄目の……駄目なのよ、私は覚えれて、忘れちゃ私は消え……消え……うぅ、うぐ、ふぅぅぅ……!!」
まるで千年以上の苦しみが一気に噴出しているかのような有様だった。
幽々子が辛そうに泣きじゃくる紫を抱きしめ、優しく背中を叩く。
「ねえ、紫。私が生きてる頃の記憶はずっと保存してくれてたのよね? 聞かせてみて?」
「うん……うん……! 私が、誰かに追われて、傷ついてね……ひっぐ、幽々子に会って優しくしてくれてね……!」
萃香はそれを眺めるしかなかった。
他人を元気づけるような言葉を持たない鬼は、胡座をかいで不機嫌そうに顔を険しくしていると、妖夢がお盆にお茶を持って現れた。
「萃香さん、お茶を淹れましたが飲みますか?」
「飲むよ。酔う気にもなれない」
萃香は慣れない茶の苦味で舌をいじめながら、幽々子に縋り付く紫の姿をじっと見ていた。
紫の語りは幽々子との出会いから移り、覚えている限りの過去の話を辿っていく。
長らく語りは続いたが、急につまづき始めた。
「それで、幽々子が死んで、亡霊になって……それから皆で一緒に暮らすようになって……それから……」
「それから?」
「それ、から……あぁ、萃香と出会ったの、かしら……? ああ、だったと思うわ、でもどこでどうやって出会って……?」
「思い出せるものだけでいいのよ、ゆっくりね」
「とにかく萃香と知り合ったの、その後、助けて怒られて……それから、それから……」
「天子を呼ぼうよ紫!」
その名を出されて紫が震え、怯えた眼で萃香を見る。
「お前がこんな時に、あいつに頼らなくってどうするんだ! 辛いなら天子のやつにだって聞いてもらえば」
「止めて! 天子は連れてこないで!」
しかし萃香の言葉を振り払って、紫は幽々子の胸元に顔を埋めた。
「天子とは、会いたくない……」
「何でだよ、お前あんなにあいつに……」
偉大な妖怪として恐れられる友人の子供のような姿に、萃香からも覇気が失せ、声が沈んでいく。
「天子といる時間は眩しすぎて、ますます記憶を失うのが怖くなる。私は、もう十分に、彼女との時間を楽しんだ。この思い出を抱えたまま消え去りたい……」
それだけ言った紫が、塞ぎ込んだまま幽々子に頭を撫でてもらっているのを前に、萃香はそれ以上何も言えなかった。
脱力し、ただ眺めるしかなくなった萃香の前で、紫が眠りについたのは日が沈み始めるころだった。
「紫様は?」
「ようやく寝たよ。しばらく目覚めないんじゃないか」
徐々に暗くなる空を縁側から眺めながら、やけ酒を飲んでいた萃香に、起き出した藍が声をかけてきた。
手に持った盃に酒を注ぎ、水面に浮かぶ自分の表情を見て酷い顔だなと思う。
「あんなに弱かったんだなあいつは」
萃香は悲しい目で紫がいる奥の部屋を見やる。
大妖怪と呼ばれ誰からも恐れられる彼女が、まるでか弱い少女のようだ。
背負ったものを知れば失望などしないが、友人のあんな情けない姿は萃香の表情に深い影を落とす。
「本当はな、紫様が闇の底に眠る度に死んでいると同義ではないかと、ずっと前から私も思っていたんだ」
「……なんだって?」
思わず萃香が聞き返した、知っていたのならば何故今まで黙っていたのかという苛立ちが篭もっている。
だが藍は構わず話を続ける。
「冬眠直後に、余分なメモリーを削除して記憶を整理した紫様は好きなものがガラリと変わることがあってな。そういう時に前とは別人なんだと思わされるんだ。それを最初に実感したのは、以前はバクバク食べていた味付けを『美味しくない』と言われた時だったな。記憶を消して前と違う誰かになる、もしかしたらそれは死と言って良いのかもしれないと思った、なら毎回記憶を無くすのも……」
「馬鹿らしいよ、お前も紫も何言ってるんだよ、表面的な趣味や好みなんていくらでも変わるさ。昔は好きだったものが今はそうじゃないなんていくらでもある、悩みすぎだ」
「ああ、結局は受け取り方次第だ。だが紫様はこれを死と捉えた。多分、幽々子嬢もこうなる可能性に気付いていただろう。あの人は私などよりも聡いからな」
単なる思い込みでも、紫がそれを信じ切っている以上、本人にとってはそれが真実だった。
そしてはそれは萃香には変えることが出来ない。
「紫はどうなると思う?」
「死に際に望むことなど誰でも同じさ、みな救いを求める。今のあの方にとっての救いは、記憶を無くさない完全無欠の本当の『死』だろう」
「そんなの、本末転倒だろ……」
記憶を失うのが死ぬほど辛いから本当に死んでしまいたいなど矛盾している。
だがきっと藍が言った通り、紫は自死を望むのだろう、そして恐らくは、それまでの時間はさほど残されていない。
「世界の境界を超えてあの方を救ってやりたかった。あの哀れな少女を助けたくて、ずっと式神をやる傍ら、その方法を探し続けていた。だが遅かったかもな……」
藍もまた、その結末には悲しいのだろう、目を伏せてわずかに声を震わせる。
しかし彼女は主人と同じように悲観し、すでに諦めていた。
「紫様が幻想郷での役割を果たせなくなったのなら、私にはやるべきことがある。しばらくここにいてくれていい、家のものは好きに使ってくれ」
それだけ言って、藍は家の奥に引っ込んでいってしまった。
萃香は暗い表情のまま何も言わず、足音が遠のくのを背中で感じてから持ってきていた盃に瓢箪から酒を注いだ。
しかししばらく酒を飲まずにじっとしていると、口をつけないままやおらに立ち上がった。
廊下を笑って玄関から外に出ると、酒の注がれていた盃を取り零して、震わせた拳を地面に叩きつけた。
木々を揺らす地鳴りと共に足場が陥没する。
「私だけか、なんにも知らなかったのは」
クレーターの真ん中で、悔しさに萃香は奥歯を噛み、ジャリッと不快な音を鳴らした。
自分では到底、紫の説得はできそうにない。かと言って藍や幽々子も、この事態をひっくり返す気はないようだ。
誰も彼も悲観して、紫を取り巻く状況は諸共に沈んでいく。
「いやまだだ、まだやれることはある」
自分たちには無理でも天子なら、あの人間らしい前向きさを本質に持った天子なら、あるいは。
「私は心を動かす力はない弱虫だけどな、お前に酷いことしてやるよ」
低い声で宣言した萃香はが身体から霧を沸き立たせると、その霧は風に乗って大空へと舞い上がっていった。
――私は紫に死に場所を奪われた。
鬼として人と戦って人と酒を掻っ食らって、勇者に討たれればそれで満足だった。
それなのに最期と決めた場所で紫に助けられ、私は死に際を見失って鬼としてのプライドをボロボロにされてしまった。
さっきは紫に覚えてないって言ったけどあれは嘘だ、本当はあの日の憤りも、親に怒られる子供みたいな紫の顔も全部覚えてる。
それでも生きてる以上は仕方ないから生きることにしたけど、一度は人に敗れた身で昔みたいな生き方をしようとも思えなくて、鬼の生き方に反してみた。
本気で戦うことがなくなった、人に追われても適当にからかって、煙に巻いて逃げてみたりした。
軽い嘘をついてみたりした。
禁酒は試してみて一日で失敗した。
鬼の仲間たちは豹変した私を軟弱者と罵った。
勇儀とか華扇みたいな器の大きいやつは「それもいいんじゃないか」と認めてくれたけど、私自身これで良いんだろうかと疑っていたよ。
でも戦う以外の生き方、死に場所を求めず過ごす日常に、活力が充実していった。
今まで見たことのなかった世界が開けて、新しい楽しみを覚えた。
なんでかな、能力は前よりずっと上手く扱えうようになって、死に場所を決めたときよりも強くなっていた。
そして思っちゃったんだ、こういう生き方も悪くないんじゃないかって。
まったく屈辱だね、昔の私を否定させられちまったようなもんさ。
だから紫、仕返ししてやる。
私の死に場所を奪ったように、あんたの最期を台無しにしてやるよ。
◇ ◆ ◇
これから転生する幽霊たちのよりどころである白玉楼であるが、今はその主はおらず、幽霊たちはどうすればいいか迷ってふよふよと辺りをうろついている。
死者以外に誰もいないはずの屋敷で、唯一死んでいない者が庭の真ん中で佇んでいた。
四季映姫・ヤマザナドゥ。本日は事前に幽々子と会う約束を取り付けてここに来たのだが、その相手がここにいなかった。
日付が間違っているというわけでもない、日取りも互いに確認しながら取り決めたことなので、幽々子側が勘違いしたというわけでもないはずだ。
見事に約束をすっぽかされた映姫は、やることもなく地蔵のように庭に立ち続けているが、彼女からは苛立った様子は見受けられない。
西行寺幽々子は飄々とした性格だが、無意味に約束を破るような軽率さは持っていない。彼女に付き従っている妖夢とて生真面目だ
ならば約束を破るだけの理由が何かあったのだろう、そう推理した映姫は腹をたてることもせずに、時間が許すまで幽々子たちが白玉楼に戻ってくるのを待っていた。
そこで待ち続けて一時間ほど、半霊を連れた妖夢がひょっこりと現世から戻ってきた。
「閻魔様?」
ずっと幽々子とともに紫のそばにいた妖夢だったが、それなりに長く白玉楼を開けると冥界の管理が行き届かなくなるので、一度戻ってきたのだった。
しかし閻魔との約束については忘れてしまっていたようで、どうしてここにいるのだと、まるで悪気がない表情で声を掛けてくる。
映姫は相変わらず石のような雰囲気で言葉を返した。
「魂魄妖夢、今日は約束の日だったはずですが」
「……あっ! す、すいません忘れてました! 今日は無理そうで……」
今更思い出したらしい妖夢が焦りながら頭を下げる。
まだまだ未熟さを引きずった彼女だが、今日はいつにもまして慌て気味だ。
つまりは約束を忘れるだけの事件があったということだと、映姫は目ざとく推察した。
「何かありましたか?」
「それは、その……紫さんが、かなり精神的に疲弊していて、とても危ない状態になってしまって」
それは映姫にとっても衝撃的な内容だった。
紫が憔悴してまともでいられなくなったというのならば、それがきっかけで境界が崩れて世界が崩壊してしまう可能性だってある。
そこまでは行かなくとも、幻想郷が滅びることくらいはあるだろう。
映姫は事態を重く受け止めていた。
「……そうですか」
「すみません。きっと幽々子様は言っても戻ってきません」
「わかりました、今日のところはこれで帰らせていただきます。後日改めて」
紫に依存している幽々子のことだ、冥界の管理などより親友を優先するだろう。ここで不手際について妖夢を叱りつけたところで仕方がない。
だがそれはそれとして、映姫はやはり説教に出た。
「魂魄妖夢、あなたも随分と内に想いを貯めてこんでいるようですね」
映姫の指摘に妖夢はビクリと肩を震わす。
図星なのだろう、半ば怯えた目で閻魔を見つめた。
「見守るのと、言いたいことがあるのに黙っているのとでは違いますよ」
「……閻魔様には、隠し事ができませんね」
剣士は、己の未熟さを恥じて眉の端を下げる。
紫の緊急事態は、幽々子の危機に直結する。それに対し、妖夢は大きな想いを発散できないまま抱えていた
この気持をどう処理すればいいのだろうかと、閻魔に縋るような視線を送ってしまう。
「しかし、その件に関しては私ごときでは助言はできないしょうね」
だが映姫はにべもなくその視線を断ち切る。
妖夢は困った顔をして顔を俯けるしかなかった。
「あなたにはもっと適任がいるはずです。頼る相手はもっと選ぶべきだ」
映姫の言葉に妖夢は驚愕に目を開いて顔を上げた。
その隣を通り過ぎ、映姫は妖夢に見つめられながら悠然と去っていく。
「頼る相手……」
妖夢は本当に何でもお見通しな閻魔だなと思う。
確かに、今の妖夢にもこの事態について助けを求められる相手が唯一いる。
亡霊としての幽々子の成り立ちからそばで見守り、また紫の性質についても熟知した人物。
妖夢にとっても深い関係であり、きっと助けになるだろう知恵と力を持った者。
――即ち、彼女の剣の師たる、魂魄妖忌である
幽々子との約束を反故にされ、暇になってしまった映姫は、冥界からの帰りにふと呟く。
「八雲紫の危機、ですか……」
あの妖怪が不安定になったとしたならば、それを変えられる者はそう多くはないだろう。
西行寺幽々子では駄目だ、紫本人に同調する以外に選択を取らないだろう。八雲藍も主人に仕える以上のことをしようとしない。
立場の弱い橙も、友人と言ってもそこまで深入りしていない萃香も役者不足。
となれば心当たりは一人。
「比那名居天子は、どう動くでしょうね」
その名を出し、自分には何ができるかなと、わかりきったことを考えた。
◇ ◆ ◇
「今日は巫女が騒がしいわね、何かあったのかしら」
日が沈み始めた西の空を見て、要石に座った天子が頬杖を突きながら、隣に浮いている衣玖に話しかける。
一日を人里で遊び倒した天子だったが、どうやらあちこちに霊夢が出張っていたようで、帰りには叩きのめされた妖怪が涙目で倒れている光景をそこかしこで見かけた。
「紫さんも顔を見せませんでしたしね、裏で頑張ってるのでしょうか」
「あいつも大変ねぇ、よくやるわ」
彼女に会えないのは寂しいが、紫にもやることがあるのだから仕方あるまい、気慰めに胸元の首飾りを指先で撫でる。
今日はもう家に帰って寝ようかと思っていた天子だったが、二本の角を伸ばした鬼が天界に上がってくるのを見て予定を変更する。
「おっと、珍客だわ。出迎えるわよ衣玖」
これは夜も騒がしくなりそうだと、天子は笑みを作った。
だが、険しい顔をした萃香を前にして、楽しい飲み会とは行かなかった。
「そういうわけだ。お前達にはすぐ紫の家に来てもらうよ」
萃香から語られた内容に、天子も衣玖も驚愕して何も言えずにいる。
特に天子の驚きようは相当なもので、青白い顔をして微動だにせず、浅い呼吸を繰り返していた。
紫が記憶を取り戻し死を望む、突然過ぎて事実だけが頭の中で鳴り響いて頭の裏側を揺らす。何故そんな結論になるというのか。
固まった主人の代わりに、衣玖が萃香に質問した。
「その、紫さんが記憶を無くし続けているという話は初めて聞いたんですが……」
「ああ、衣玖は知らなかったのか。その通りさ、あいつは定期的に記憶を失くして、その分をバックアップから毎回書き込んで補ってる」
「なるほど、それで……紫さんが自殺する確証があるんですか?」
「あくまで予想だけど藍はそうするだろうって言ってたし、実際そうしかねないくらいに取り乱した。完全に生きる気力を失ってる。急いで手を打たないと手遅れになるぞ」
段々と明瞭化する天子の思考が、心当たりを探り当てる。
いつかの閻魔と戦った日の秘密の口づけ、まさかと思うが天子が一番に浮かんだ原因がそれだった。
天子だって紫が特別な好意を寄せてくれていることは薄々気付いてきている、だからこそ天子もその気持ちにここまで甘えてきてしまった。
あの日の口づけだって、本心からの好意であったはずだ。
だというのに、何故好意がそんな最悪の結末へ辿り着かせるというのだ。
それとも――自分がすべての気持ちを伝えていたならこうはならなかったのだろうか?
「おい天子……天子しっかりしろ!」
天子の様子を伺っていた萃香が、虚ろな目に大声で呼びかけてきて、ようやく天子は我に返る。
「しっかりしろ、お前が頼りだ! お前が紫を繋ぎ止めるんだよ」
「私が!?」
「他に誰がするんだよ。いいか、いま紫が一番心惹かれてるのがお前なんだ、お前が呼びかけないと話になんないよ。天子が紫と話して死なないでって説得するのさ」
「藍さんや幽々子さんは?」
「当てにならないね、二人とも傍観するつもりさ。現状、どうにかできるのは天子だけだよ」
「そんな、藍さんたちが……」
ショックを受ける衣玖だったが、天子はそちらについてはなんとなく納得した。
あの二人は、どこか紫に対して盲目的になっているところがある、あるいは自分を縛り付けているとでも言うのだろうか。
だから紫を止められるのは自分しかいないというのも天子にはわかったが、すぐに萃香の話には乗れなかった。
「私に……できるのかしら」
自信なく天子は不安を零した。
閻魔とのいざこざがあってから、ずっと天子は秘密を告白することができなかった。
未だに憎しみを捨てきれず、紫に甘え続けていた自分が、果たして彼女の心を動かすことができるのか。
情けないつぶやきに萃香は呆気に取られてから、声を荒げて突っかかった。
「何言ってるのさ! そんな弱気で!」
「萃香さん、待ってください」
いきり立つ萃香を静止して、衣玖が天子の前に出る。
真正面から見つめられると、天子は心の奥が暴かれるような予感がしてたじろいだ。
「不安ですか天子様」
「……うん」
衣玖が確かめるように問いかける。
「……母君の因縁が気になりますか?」
「――――」
天子は何も言えずに衣玖を見つめ返すしかなかった。
どうしてそれを、とこれまで付いてきてくれた従者へ眼で尋ねた。
「推測でしたが、当たりのようですね」
「よく、わかったわね」
「これでも一応はあなたの従者ですから」
横の萃香は「母親?」と怪訝な表情を浮かべているが、衣玖は構わず天子に語りかけた。
「天子様、その事情を顧みれば、一方的に頭を下げたことは良いこととは言えなかったかもしれません。結果的には紫さんと仲良くなれましたが、もしかしたらあなた自身の嘆きを解消する道が他にあったかもしれないし、何より私は自らを傷付ける行為を素直に賞賛は出来ません」
天子は閻魔から流されただけだと指摘されたことを思い出す。
今思えば、その時にもう母殺しの罪を戒告し、お互いの罪を精算するべきだったかもしれない。
天子は自らの過去を悔み、表情を曇らせて顔を俯かせた。
衣玖もまた天子が桃を差し出した時に見た悲痛の涙を思い出すが、その苦しみは察するに余りあった。
母を殺したことすら忘れた仇敵に謝ることはどれほどの苦痛だっただろう、そもそも紫が天子の母を殺さなければ異変を起こすような無茶もしでかさなかったかもしれないのに。
それでも頭を下げた天子の前のめりの姿勢を、衣玖は立派だとは思えずむしろ痛ましいとすら感じた。
きっとそんなに傷つかずとも生きる道はあっただろうに、天子は苦しい道を歩くことしか知らなかった。
「――しかしその是非がどうであれ、あなたはここまで歩いてこれたではありませんか」
それでも天子はそれら苦痛を受け入れてでも、あらゆる自己の矛盾と立ち向かい、傷つきながら進み続けてきた。
今はまだ賞賛はしない、それでも衣玖はここまで歩いてきた天子の背中に心から敬服する。
「天子様、あなたは例えそれが逃げでも、一度として立ち止まることはなかった。どれほど苦しくとも、傷つきながらでも、ずっと歩き続けてきたじゃないですか。ならその中で培われてきたものがきっとある。私はその強い意思と、積み重ねを信じます、きっと次はみんなが笑える良い道を見つけられますよ」
励ましの言葉に、天子は落ち込んだ心にわずかながら火を入れられて顔を上げる。
不安は消えない、だが意志だけは思い出せた。
衣玖の言う通り、自分は今まで歩き続けてきた、そのことは自分の誇りだ。
紫への憎しみは今でもありありと思い出せるし、まだ紫の全てを認めることはできないけれど、だからってここで止まれはしない。
このまま紫のことを死で終わらせないために、天子は今こそ進まねばならない。
「……わかった、やってみる」
天子は右手を胸元に持っていき、紫色の首飾りを手で包むと、手の平がとても熱く感じた。
大事なことは何も話せなかった自分に勇気なんてないけれど、せめてまた紫と笑い合えるために、ひとかけらの願いを握りしめた。
◇ ◆ ◇
幽々子の膝下で眠りについた紫は、一度目を覚ましてからはさっきまでの取り乱しようが嘘のように静まり返っていた。
しかしそれは落ち着いたのではなくただ気力を亡くしただけであり、幽々子に縋り付いたままぐったりとしている。
ずっと何も食べていないのに、藍の持ってきた食事に手を付けようともしない。
正座で控える藍に見守られながら、幽々子が膝下の紫を撫でてあげていた。
「……また記憶を無くすのが怖い」
紫がポツリと呟いた。また感情が沸き立ってきたのか、一筋の涙が頬を伝う。
「またあの思い出を亡くすなんて、私にはもう、耐えられない」
「……大丈夫、大丈夫よ紫」
幽々子は紫を励まし続ける。
この亡霊は、この愛しい友人が悲しまずにいられるよう、ただひたすらにそれだけを願っていた。
あらゆる苦悩を癒やしてあげたい、すべての悲しみから開放してあげたい。
頑張り続けた友人に、永遠に安寧を渡したい。
「あなたはもう何処へも行く必要はない、記憶をなくすことなんてないわ」
幽々子が優しい声で静かに囁く、流れる水のような透明な言葉は紫の心に染み渡り、悲鳴を上げて暴走する心の熱を冷ましてあげた。
紫のために自分に何ができるのだろうか、それを何度も何度も繰り返し考えた幽々子は結論を口にした。
「紫がこれ以上悲しまないように、私があなたを殺してあげる」
唱えられた狂気に、紫は一抹の安堵を覚えて瞳を閉じた。
――藍、聞こえるわね。
見守っていた藍の脳内に、紫の声が響いた。
式を通した念話術式だ。幽々子に聞かれないように、紫は密かに言葉を伝える。
――幽々子の執念ならば、私を殺すことも出来るかもしれない。でも保険は必要だわ。
私が居なくなった後の準備が終わったら、彼女に連絡を。彼女なら必ず私を――
それだけを伝えて紫は再び眠りにつく。
藍は言葉なくただ頷いて主人の頼みを聞き入れると、席を立って部屋を離れた。
廊下を歩き向かった先は、自らの研究室。
扉を開けて中に入ると、そこには橙が二股の尾を床に垂らして立っていた。
藍に背を向けて、研究室に置かれた一つの機材に向かっている。
それは以前に橙が綺麗だと言った、気質を利用した装置だった。
だが以前は緋色の光が灯っていたはずのそれは、今は紫色の光を湛えている。
「……妖夢は帰ったか?」
「いえ、まだです」
本題から外れたことを尋ねてしまい、藍は自分も迷っているのだなと自省した。
何があろうとじぶんはあの主人に付き従うと心に決めていたはずだ、彼女の願いを助ける式だと自らを定めたはずだ。
自らの気持ちが何であろうと、ただ主人の言葉を実行するのみだ。
改めて決意した藍が、鋭い視線をまだ幼い黒猫の背中に突き刺す。
「橙、覚悟は良いな」
ようやく藍を仰ぎ見た橙は、とても強張った顔をしていた。
藍は袖の下で拳を握りしめ、自らが逃げ出さないように叱咤する。
「時は来た、お前を拾ってやった理由を思い出せ。我々は我々の役割を果すぞ」
「……藍様、一つだけ聞かせてください」
硬い表情の橙が、藍の目を見つめてくる。
「藍様は、これでいいんですか」
投げ掛けられた質問に、藍は何かを押さえ込むように顔を緊張させた。
胸にざわめくものを束縛し、あくまで気丈に言葉を紡ぐ。
「……無論だ。私は式神、術者に従うシステムだ。命令をこなすことに、私情を挟む余地などない」
だが本人は気付いているのだろうか、式神に私情は要らないと言いながら、自らが従える式神の橙に自由を与えているという矛盾を。
「もう一度言う、役割を果すぞ。橙、やってくれるな」
「はい、藍様」
橙がまるで真似をするように機械的な返答をするのを見て、藍は辛そうな顔をしていた。
◇ ◆ ◇
萃香に連れられた天子と衣玖は、紫の元へ向かおうと森の上空を飛行していた。
「紫の家は結界で守られてるはずだけど、私たちは入れるの?」
「ああ、私の本体が家の中にいるからね」
急ぎ紫の家に向かいながら、天子が先導する萃香の背中に尋ねる。
「紫の結界は距離感や方向を狂わす結界とかからできた、認識阻害系の多重防壁だ。外からじゃどんなに歩いてもたどり着けないし、ワープ系能力で直行しようとしても、家に座標を置けずに別の場所に飛んじゃう。でも今回はすでに結界内部にいる私の本体が能力で天子たちを萃めてるから大丈夫」
「萃香さんは結界のパスを持ってないんですか? 幽々子さん方は素通りできると聞いてますが」
「秘密基地だ、行き来できるやつは少ないほうがいいだろうって辞退したよ。今思えば気を使いすぎたね、まったく私としたことが」
「紫さん自身が気を使うタイプですからね、でも萃香さんがいて良かったです」
今ここにいる萃香は、本体の萃香から分裂した全体の3分の1の身体らしい。
お互いの繋がりを利用して、本来なら萃香では超えられない結界を超えようとしているのだ。
「でも逆に言えばそれだけで通り抜けられる結界なのね」
屋敷を守るための結界だが、自衛にはいささか弱いと天子は思った。
これをくぐり抜けるためには結界内に案内人を置けばそれで事足りる、難しい話だがありえないことでもない。
例えば紫の身内に裏切り者が出れば結界をスルーできてしまうし、現に今だって萃香の招きで天子たちは結界内に侵入している。
一つくらい物理的に妨害する結界があれば、誰も入れなくなるだろうに。
「あいつは寂しがり屋だからね」
萃香の答えに、天子はその通りなんだろうなと納得した。
やがて天子たちは結界の外周部に差し掛かろうとした辺りで、思わぬ人物と出くわした。
予想外の出会いに、天子は驚愕と警戒を含めた声を上げる。
「あんたは……!?」
見間違えるはずのない、小さな身体に石のような頑固さを持った硬い雰囲気。
四季映姫・ヤマザナドゥが、結界の前で天子を待ち受けていた。
「詳細は知りませんが、八雲紫が大変なことになっているようですね」
挨拶もなく、映姫が話しかけてくる。
彼女の姿には、天子の横にいる萃香も、後ろの衣玖も敵意を張り詰めさせた。
天子が一番に緋想の剣を構えて前に出ると、緋い刀身の輝きを受けて他の二人も各々戦闘態勢を整えた。
「また私の命を狙いに来たわけ?」
「なんだい、今は大変なんだ、邪魔するなら容赦しないよ」
「天子様に害をなすなら、私も戦わせてもらいます」
威圧感が映姫の肌に突き刺さる。
一触即発という状況で、閻魔は一貫して態度を崩さない。
「また説教に来ただけですよ、それにこれは仕事ではなく私事です。あなたのこれからを止めなどしませんし、言うだけ言って満足すれば私も帰ります」
それはつまり、説教が出来なければ戦闘も辞さないということだろう。
厄介な堅物に苦虫を噛み潰したような顔をする天子だが、状況が緊迫している今、争っている余裕などなく、それならご高説を邪魔せずにさっさと帰ってもらうほうがいい。
そう判断した天子が仕方なく剣を収めると、後ろの二人もその意図を察し、同じく構えた腕を下ろす。
「あなたが八雲紫に甘えていたこと、それについては後悔しているならもはや言う必要もないでしょう」
しかしそれを聞き、天子の表情が更に嫌そうに歪んだ。
後悔していることまで含めてすべて図星なのだからたちが悪い。
「前置きは良いからさっさと言いなさいよ!」
「……誰かを助けるとは、とても困難なことですよ比那名居天子」
苛立った天子が急かすと、映姫はわずかに声を静めてそう唱えた。
つねに平等にあるべき審判者が、教えを説いている最中だというのに、わずかな感情を垣間見せる。
「私とて、今まで誰かを助けられたことなどただの一度もない。万の言葉を並べようが、人を助けるには到底足りません」
誰も掬い上げられなかった己の手を見つめて閻魔が呟く、その言葉に込められた無力感は本物だった。
映姫とてずっと悩みながら説教を続けてきたのだ、人をより良くするための説教なのに、まるで誰も正してやれない自分の不甲斐なさを感じながら。
ただ正論をぶつけるだけでない、もっと上手く人の心を導くようなことを言えれば、今ここにいる天子も追い詰められずに本心を打ち明けられたかもしれないのに。
もっとも自分次第で人が成長できるなど、そう思う事自体が傲慢であり、それ故に他者の心を邪魔することとなると自分でもわかっている、わかっているがどうすればいいかわからない、わからないが諦められない。
憂いを見せる映姫に、天子は初めて共感というものを覚えた。
自分が誰かを救えると思っているどうしようもない傲慢さが、諦めたくないという意地が痛いほどわかる。
「それでも手を伸ばすのならば、今まで与えられた愛情から逃げず、すべて認め受け入れることです。恵まれたあなたなら、道を拓けるでしょう」
気を取り直した映姫の言葉に、心が近寄りすぎていた天子が正気に戻る。
今しがた閻魔から言われたことは、素直に同意はせざるを得なかった。
「恵まれた? 私が?」
「ええそうです。気付くことですね、あなたのこれまでの旅路がいかに情に恵まれていたか」
断言された言葉に怪訝な顔をしてしまう。
思い出すのはかつて父に虐げられた日々、幻想郷に至るまでの憎しみを抱えた空白な日常。
これまでの苦しみを思い、納得が行かない天子に、映姫はそれもわかっているのか次の言葉を唱えた。
「今までの人生が不幸であったと思うならそうなのでしょう、しかし奪われる一方で与えられるものもあったはずです。それは八雲紫だけでなく、父親のこともそうです」
会ったこともない父親のことを良くもここまで言えるものだと、天子はますます不機嫌になる。
本当に目の前にいる審判者は、人の気持ちがわかっていると言うのか、わかっているというのなら何故そんな無思慮にそんな言葉を吐ける。
「憎しみの自我から抜け出せなくとも、与えられたものには感謝しなければならない」
「どうしてそこまで言い切れるのよ……っ」
「だって、あなたの後ろには付いてきてくれる者がいるではないですか」
だがその指摘は、天子の心に電撃が走ったように響いた。
振り返れば、そこにいるのは自身を見守ってくれていた衣玖がいる。穏やかな彼女は、自分を崩さずにこれまで天子を見守っていてくれていた。
そう、かつて自分が父に殴られた記憶を語った時も慰めてくれた、紫とどう付き合えばいいか悩んでいた時に助けてくれた。
彼女には天子だって何度も感謝を感じた、思ってみれば、それだけで天子は恵まれていたのだ。
そして衣玖を糸口に、他の記憶も蘇る。
自分を抱きしめて護ってくれて紫、幼いころ娘のためにと奮闘してくれた父。
たしかにこれまでの天子は幸福と言うには苦しみすぎた、それでも先に進むには十分な恵みをすでに与えられていたのだ。
あとは天子が受け取るだけ。
目の前の衣玖は自身を見て驚いている主人を、相変わらず穏やかな面持ちで見守ってくれている。
その視線を振り切って、天子はもう一度閻魔に向かい合う。
映姫もまた頑なな気配を、ほんの少しだけ和らげて説教を締めくくった。
「きっともうすぐ、あなたに全てが試される時が来るのでしょう。あなたがそこにたどり着き、更に先に進もうとできるのはあなただけの力ではない。エゴに囚われず他者を受け入れ、これまであなたが受けてきた情に報いることです。それこそが、窮した他人を救うただ一つの道ですよ」
それだけ言い、映姫がその場を後にしようとする。
横を抜けて飛び去る映姫の姿を、天子は目で追おうともしなかった。
ただ彼女の言葉だけを受け取る。
しばらく天子が何も言わず佇んでいるのを、衣玖も萃香も黙って見ていた。
紫のことを考えれば急がなければいけないが、今の天子の邪魔をしてはいけないと感じていた。
「……衣玖、ここまでずっと着いてきてくれてありがとう」
これまでの人生に気付いた天子が、背後に語りかけた。
「どういたしまして。でも天子様を支えてくれていたのは、私だけじゃありませんよ」
「うん……衣玖のお陰で気づけたわ」
きっと今の自分が思っている以上に、この身に力を与えてくれた存在は多く、計り知れないほど大きいのだろう。
与えられたものがどれだけなのか、壮大過ぎてわからなくて、愛情に報いるなんてできる気がしないけれど、かつて自分に最も大切なものを与えてくれた母は、天子に向かってあなたは誰かを助けられる人なのだと言ってくれた。
せめてその期待に応えて見せたいと思った。
「ねえ天子、私にも何か言ってくれて良いんじゃない?」
「あーうん、萃香もありがとありがと」
「何だその適当なのー!?」
「冗談よ、ジョーダン! あんたも色々気にかけてくれてありがとね」
萃香だってたびたび天子のことを手助けしてくれたし、何だかんだ言って紫との仲を取り持ってくれたりした。彼女もまた、自分を支えてくれた大切な友達だ。
そしてこの先にいる紫にも、天子は感謝の念を想う。
あと一人、気持ちを伝えあうべき父が会いに来てくれないことが心残りだが。
天子が一抹の切なさを抱える後ろで、衣玖は自分はなぜこの人に付いてきたのだろうと今更になって考え始めた。
これまで衣玖は当然のように天子を支えてきた、彼女が愉快な人物だからというのも理由にあるが、これ自体は自分の本質に届くものではない気がする。
自分は天子に何を求めているのだろうと、胸の内にある無意識の雲に手を伸ばした。
◇ ◆ ◇
「いひひ、よーし。天子たちはもう近くまで来てる」
紫の屋敷に居座っていた萃香の本体は、縁側に腰を下ろしたまま意地の悪い顔でニヤついている。
瓢箪から盃に酒を注ぐと、上機嫌に水面を揺らしてチャプンと音を立てた。
「何が思い出を抱えたままでいたいだ、悲しみに酔って下らないこと抜かして。そんな最期、私は許さないよ。滅茶苦茶に引っ掻き回して――」
ニヤニヤと笑う萃香だったが、後ろから得体の知れない空気を感じてゾッと背中を粟立たせた。
それはかつて鬼らしく人間相手に戦っていた時に感じたものを遥かに超越した、重々しい殺意。
粘ついた空気の中で振り返った萃香が見たのは、周囲に蝶を漂わせて白い顔で見下ろしてくる幽々子だった。
「あ――」
何かを言う間に、蝶形の弾幕が幽々子の背後から大量に湧き出て萃香に殺到した。
スペルカードルールではない、本物の殺意、本物の物量。逃げる隙間など何処にもなく、萃香は瞬く間に埋め尽くされた。
数千の蝶は萃香を消し飛ばしただけでは飽き足らず、縁側から屋敷の外に溢れ出た。
巻き起こった霊力の嵐は、屋敷に近くまで飛んできていた天子たちも感じ取った。
驚いてブレーキをかける天子と衣玖の前で、分身の萃香が身体を震わせ口から血を吐きだす。
「萃香!?」
慌てて後ろにいた二人が駆け寄って、崩れ落ちた萃香の身体が地面に落ちる寸前で受け止める。
森のなかに降り立った二人は、虚ろな目で痙攣する萃香に呼びかけた。
「萃香さんしっかり!」
「萃香! 今のは……!?」
衣玖が萃香を揺さぶる横で、天子は力を感じ取った方角を見つめる。
遠目からでは何があったのか判断できないが、最悪な事態が起こっている気がする。
不吉に駆られていると、萃香が震える手を伸ばしているのに気付いて、天子も萃香に向き直った。
「う……あ……」
「萃香どうしたの、何があったの!?」
「あ……に……」
息も絶え絶えに喋ろうとする萃香が、指を立てて紫の屋敷のある方へ向けた。
「逃げろ……!」
指し示した方へ顔を向けた天子が見たのは、嵐のように渦巻いて当たりを飲み込む蝶の群れだった。
高速で飛び交う蝶は、あっという間に範囲を広げ天子たちがいた場所を飲み込んだ。
蝶が飛び交ったあとには、何も残らなかった。
木々は一つ残らず死に絶え、一瞬で枯れ果てた枝が蝶の巻き起こす旋風に攫われて粉々に砕け散る。
動物や虫なども同様だった。何があったのか気づく前に全てが死に、死骸を蝶が蹂躙して跡形残らず消え失せた。
屋敷の周囲一キロは、ほんのわずかなあいだに不毛の大地と化した。
荒れ果てた地面だけが残る悲しい風景に、幽々子が破壊した壁から歩み出る。
「誰も紫には手を出させない。彼女の安寧を破壊させはしない」
紫に対する執着心が、亡霊の内で暴れ狂っていた。
幽々子はどこまでも純粋だった、純粋に紫のことを想っていた。
だから紫が傷付くのを良しとしせず、彼女を脅かすものの存在を許さなかった。
「来るというのなら、あなたも殺すわ、比那名居天子」
ゆらりと外に飛び出た幽々子が視線を向けた先では、一瞬にしてあらゆる命を失った荒れ地で、不自然に盛り上がった岩塊がガラガラと音を立てて崩れていた。
複数の要石を重ねて作られたドームの下から現れたのは、三人で身を寄せ合って縮こまっていた天子たちだった。
「あ、危なかった……!」
ギリギリのところで防壁が間に合ったが、もう数秒ほど遅ければまとめて絶命していただろう。
突然の無差別攻撃が一体何なのか、わからないまま即席シェルターから抜け出した天子は、殺意を張り詰めさせた亡霊を見てゾッと怖気立ち、今のが幽々子の仕業だと理解した。
思わぬ障害に意識を戦闘用に切り替えていると、衣玖に抱きかかえられた萃香が声を発した。
「う……ぐ……」
「萃香、生きてる!?」
「な、なんとかね」
天子が幽々子に警戒を向けたまま聞くと、萃香は震える手で衣玖の肩を支えにして身体を起き上がらせる。
「幽々子のやつ、いきなり私の本体に襲ってきた。なんとか霧になって逃れようとしたけど、全体の半分は今での死んだよ」
どんでもない事実に、天子と衣玖が絶句して息を呑み込む音が、不毛となった地に静かに響く。
萃香はこのことを伝えると、能力を発動して自らを霧として空気に紛れる。
「私は戦えそうにないから逃げさしてもらうけど、覚悟した方がいい。幽々子は本気で、紫に近づくお前を殺す気だ」
「な、なんでそうなるんですか、天子様は説得しに来ただけですよ!?」
「紫が悲しむのが、本人よりも耐えられないのさ」
萃香の気配が散っていくのを感じる、できれば鬼の腕力に助力して欲しかったが、肉体の半分を失ったという消耗を考えれば期待できないだろう。
舌打ちをして緋想の剣を手に取った天子の前に、周囲に淡く光る蝶を羽ばたかせる幽々子が宙を渡ってきた。
「……ッ。なんて圧力よ、あいつ亡霊通り越して仙霊にまで片足突っ込んでるじゃない」
幽々子から感じる力にさしもの天子も腰が引けそうになる。
なんという執念、いや妄執か。いつもは穏やかそうだった彼女の胸に、一体どれだけの感情が渦巻いていたのか。
だからと言って、天子もここで逃げる訳にはいかない。
「幽々子! 私たちは紫を説得しに行くんだから、あいつを助ける邪魔をしないで!」
「邪魔をしているのはあなたたちのほう、紫の心は私が救う」
万が一に賭けて天子が幽々子と交渉してみるが、返ってくるのは狂気だけ。
「彼女がもう二度と悲しまなくて良いように、私が紫を殺す」
「……そんなのが、幸せな最期なわけないでしょうが」
明らかに滅茶苦茶だ、矛盾ばかりで話にならない。
だが天子は、まるで幽々子が紫の意思を持ってここに現れたように感じた。
もっとも紫と心を通わせ、紫と心を共にしたのがこの幽々子なのだ。そして今まさに幽々子が見せている狂気こそが、紫の抱える心の闇へと通じている。
幽々子の言っていることは彼女自身の主張に見えて、自ら死のうとする紫の心を代弁しているのに過ぎないでは。
ならばなおのこと負けれらないと、天子の瞳が光が灯る。
この幽々子を乗り越えなければ、紫の心には到底届かない。
握った緋想の剣を振り抜いて緋色の刃で風を鳴らした天子は、昏い瞳で薄く睨みつけてくる亡霊へと立ち向かう。
「て、天子様、まさか本当に……」
「倒すのよ決まってるでしょ」
覚悟の決まらない衣玖の前で天子が一歩踏み入った時、幽々子の目が見開かれて霊力が噴出した。
巻き上がる力場は扇状に空へ広がると、空中で蝶の形となり豪雨のように天子たち目掛けて降り注いだ。
隙間なく視界を覆う蝶の一つ一つは幽々子の能力で紡がれた死そのもの、頑丈な身体を持つ天子であっても直撃を受ければ死は免れない。
込められた霊力も先程より増大し、生半可な防壁では紙切れも同然だ。
「要石!!」
号令とともに複数個の柱のような要石が空中で生成され、天子たちを守る壁として地面に振り落とされた。
連なってそびえ立つ要石は城壁のような威容を誇っていたが、蝶形の弾幕が群がってくるや否や瞬く間に砕き散らされていく。その様は優雅な蝶というよりも、貪欲なイナゴの群れだ。
防壁が無数の蝶に穿たれて秒ごとに薄まっていき、微塵に粉砕された瞬間、地上から撃ち放たれた緋色の極光と蒼い雷槌が、死の群れを焼き払った。
幽々子が霊力の放出を一時止めて様子を見ると、剣を掲げる天子と羽衣をまとった腕を突きつける衣玖の姿が土煙の下から現れた。
「当たるんじゃないわよ衣玖! こいつの能力はあんたも知ってるでしょ、相殺するか躱し切れ!」
要石の防壁と迎撃で第一波を生き永らえたが、それで安心できる相手ではなく、天子は頭上に浮かぶ幽々子を睨みながら叱咤する。
しかし背後の衣玖は予想外の戦闘から、見知った相手と命懸けで戦うことに迷いが見える。
「天子様! 私が食い止めて先に行くのは!? こんな時に戦ってる場合じゃ……」
「駄目よ! 背中を見せたら殺される、ここで倒さないと! 戦う覚悟が持てないなら下がってなさい!」
衣玖を残し、勇猛果敢に天子が飛び立つ、周辺の気質を緋想の剣に集めて刀身に集中させると、薙ぎ払った刃から放射状に放出した。
微細な気質の粒が集まり固まり研ぎ澄まされ、斬撃のように空気を裂いて幽々子の首へ差し迫る。
だが再び湧き上がった蝶たちが羽ばたくと、俊敏な動きで幽々子の前方に集まりだし、気質の刃へ己を捧げて術者を守った。
無残に身を散らす蝶を眺める幽々子の目はどこまでも冷たく、天子は怯みそうになる心を、こんなところで負けていられるかと叱りつける。
あくまで対峙する天子を見下して、幽々子が唇から重たい声を発した。
「あなたはまだ紫を悲しませようというの」
「そんなつもりはないわよ! 私はただ紫を助けたいだけ!」
「戯言を、よくも紫を追い詰めておきながら」
それまで敵意をたたえながらも、静かなものだった幽々子に変化が現れる。
食いしばった歯を剥き出しにし、寄せた眉のあいだに深い溝を作り表情へと豹変させた。
整った顔立ちが怒りに歪められ、端に皺が寄るほど大きく開かれた口から悲鳴にも似た叫びが轟いた。
「紫に怒りを抱きながら、よくそんなことを言えるわね!!」
秘密のヴェールを拭い取られ、あらわになった罪が、天子の呼吸を殺した。
最悪の敵を前にしながら、まるで大切な歯車が壊れてしまったように剣を持つ腕が動かない。
言葉一つで身動きできなくなった天子の矮小な身体を、幽々子は冷徹な目で見据える。
「わからなかったと思う? 私に?」
ある意味、幽々子はもっとも紫を見てきた女なのだ。
紫自身の強さも弱さも、そしてそんな彼女に向けられた感情も、紫本人よりもよくわかっている。
「紫に怒りながらも、それでも歩み寄るあなたを評価してたのに。いつまでたっても振り切れない、ほとほと呆れるわ。あなたが感情に振り回されて紫を傷付けた時、一思いに殺してしまえばよかった。」
閻魔のような神の視点ですらなく、個の感情が罪を暴き立てる感覚に、天子は荒れ狂う本能と理性が激突し、生きることの意味すら忘却する。
抗いようのない隙を晒した天子に、幽々子が指を突きつけた。
爪の先が淡く灯り、凝縮された一矢が放たれる。
「その報いを、受けなさい」
一つの死が、静寂を横切って天子の胸に突き刺さった。
◇ ◆ ◇
外から届く大気の揺れる音に、眠っていた紫はゆっくりと瞳を開けた。
疲れが残った頭を持ち上げて、誰もいない部屋をしばらく眺め、ようやく自分が取り残されたことに気が付いた。
「幽々子は、どこに……」
疑問に思った直後に爆発音が響き、屋根が揺れる。
不可解な爆音を座り込んだまま聞き、聡い紫は全てを理解した。
「そうか、天子が来たのね。幽々子は彼女を……」
幽々子の性格を考えれば、天子が来たらどう行動するかおおよそ予想はつく。
おそらく、橙か萃香辺りが天子を連れてきたのだろう。橙には別の役割があることを考えれば、案内人は萃香か。
外の様子を確認しようとスキマを開きかけたところで、へたり込んだ足元からドス黒い何かが這い出て紫の身体を上ってきた。
「――くっ、もう、時間が……」
タイムリミットだ、次の帰還が必要な時が迫っている。
予想以上に早い、精神的動揺からくる心身の疲弊により、こちら側での活動時間が短くなってしまったのだろう。
それは同時に、またあの記憶を喪ってしまうことを示す。
込み上がってきた恐怖に身体中が凍えつく。
あの誰もいない寂しい闇の中で、輝かしい瞬間が奪い去られる瞬間を思い出して叫び出したくなる衝動に駆られた。
「まだ……まだ来ないで……!」
空間に意識を集中。世界を成り立たせる結界に干渉し、歪み始めた境界を修復することで自分が引き戻されるのを防ぐ。
湧き出た黒い手のような何かは、押し込められるように戻っていく。
だがそんなもの決定的瞬間を遅らせているに過ぎない、いずれ能力は疲弊し境界を維持できなくなる、そうなればまたあの闇の中だ。
もう駄目だ、堪えられない。あんな絶望をまた味わうくらいなら、自らこの生命を絶つ。
だが紫に自身には己を完全に殺す手段を備えていなかった、天界や龍神たちが幾星霜の時をかけて成し得なかったことであるし、そもそも元々はあちら側の存在である自分に死の概念自体があるのかすら不明だ。
例え短剣を取り出して自らの胸に突き刺しても、この身体が死ぬだけで紫は境界の隙間に帰還し、記憶を奪われこちらに戻ってくるだけだ。それは死ぬより怖ろしい。
幽々子は外で戦闘中、藍と橙はおそらくこの家の何処かで紫が死んだ後の事を準備しているのだろう。
藍には奥の手を引っ張り出すように頼んだが、二人にもしもの時は紫自身よりも幻想郷の維持を優先するように言い含めてある、彼女が来るのはもう少し先になりそうだ。
あるいは、藍が家族を殺すのを躊躇したのかもしれない。何にせよ紫は一人取り残された気持ちになった。
「あぁ……」
力なく息をつく。どこにも行けない、少しでも動けば境界が崩れて元いた世界の隙間に引き戻される。
紫にできるのはここで死力を尽くしてただ待つか、奈落の闇に転がり落ちるかの二つだけだ。
だが前者を選んでも、そう長い時間は残されていない。
押し戻したはずの黒い手は、今度は紫ではなく外を目指して伸びる。
紫がどうしても抵抗を続けるのなら、この機に乗じて向こう側の存在が紫を通じてこの世界に現れようとしているのだ。
もしこのまま向こう側の住人が際限なくなだれ込むようなことがあれば、幻想郷は滅ぶ。
そうしたら自分の記憶どころのはなしではない、家族の藍も橙も、友人の幽々子も妖夢も萃香も、そして天子もみな死んでしまう。
自らの絶望か親しい者の死か、究極の二択に紫は荒い呼吸を繰り返す。
「時間が……」
孤独に震えているとき、一筋の光が差した。
「――ご安心を、紫様」
部屋に響いた声に、紫が顔を上げる。
廊下の床が軋み、誰かが立ち上がる音がする。ずっと部屋の前で座して待っていたのだろう。
「あの人は私に頼みました、あなたを食い止めろと」
襖が音もなく開き、奥から声の主が姿を現す。
「紫様、世界の異物であるあなたを封じるは、元より我ら魂魄家の使命」
揺れたのは、切りそろえられたおかっぱの短い髪。
あの幼さを捨てきれない妖夢が、張り詰めた空気で腰の剣に手をかけて、堂々とした振る舞いで立ちふさがった。
普段の優柔不断な彼女はどこへやら、弱々しさの一つも見せず、真剣な目で紫を見据えている。
自分の前に立つ無謀を紫は笑いはしない、彼女は正真正銘、幽々子にとっての切り札だ。
「妖夢、そう……幽々子はどうしても自分の手で私を殺したいのね」
親友の歪んだ愛情に紫はふっと嘲笑した。かつて優しい人としてあった幽々子の亡骸を、そこまでの狂気に駆り立てた張本人は自分だ。
あの亡霊に、もっと幸せにな人になれるよう必要なものを分け与えられたらと思ったが、自分には無理だなと諦めて溜息をつく。
「でも妖夢、無理矢理私をこの世界に繋いでいるせいで、向こう側の住人が這い出ようとしてきてる。未熟なあなたがこれをどうにかできるの?」
紫が問いかけている間にも、足元に蠢く闇は手を伸ばし始めた。
向かう先は同類の紫ではなく、もっと眩しいものを持った妖夢へと向けられる。
「――逃げなさい妖夢!」
警告した時にはもう、制御の効かなくなった闇が、待ちきれなかったとばかりに飛び出した。
矢の如く迫りくる世界の外側に住まう魔の手に、妖夢は一切の動揺を見せず剣を握る。
手に取られたのは右手に持った楼観剣だけでなく、本来は戦闘に向かない白楼剣までもが左手に握られる。
魂魄家に伝わる二振りが、極限まで集中した妖夢に構えられる。
「この身は人であり、人ならざるものであり、陰にして陽、陽にして陰」
妖かしが鍛えし楼観剣に備わった陰の気と、人の迷いを断つ白楼剣の陽の気が交差する。
重力のようになめらかに白刃が十字を辿り、影の手形を斬撃の中心に捉えた。
紫が目を見張る刹那より短い時の中で、二つの軌跡は重なり合った点であらゆる法則を凌駕して、この世界の成り立ちの根本にまで辿り着き、空間のざわめきを鎮める。
その空間に飲み込まれるように手だけの境界の住民は、この世界から追い払われて元いた場所へと送還された。
須臾に行われた技は紫にもまったく見えず、その神技に打ち震える。
音すらなく成されたそれは、本質的には斬撃ではなく結界だった。
「斬って絶つのではなく、二つの刃で切り結ぶ、陰と陽の境界を正す結界剣。これぞ我が師、魂魄妖忌が異物を封じるために見出した魂魄の剣の極地。人鬼一体のこの剣にて、あなたを徹底的に封じてみせます」
そう言って再び妖夢が構える。剣先は微動だにせず、真剣な眼は空間の一挙一動を見つめている。
紫は自らの魂が怯えて震えるのを感じていた。無理も無い、この技術の全てはこの世界の異物たる己に対して向けられているのだから。
これこそが、スキマ妖怪に対抗した人間たちが長い年月の果てに生み出した、一つ技の完成形だった。
「……そう、これが魂魄の剣。知識では受け継いでいたけど、こういうものだったのね」
乱れた世界の理を元通りに書き直す偉業。
かつて魂魄妖忌はこの技術を極め、そしてもしもの時には紫を押さえるために、幽々子の隣というスキマ妖怪に極めて近い場所に身を置いていたのだ。
そして妖夢がその意志と技を受け継いだ。赤ん坊の頃から知っている少女の成長に、紫はこの非常時でさえ感嘆を禁じえなかった。
「陰の気と陽の気を持って境界を敷き追い返す、半人半霊だからこそできる技か。未熟な身でありながら、よく実現できたわね」
「……ついさっき、お祖父様に会いました」
「……妖忌の居場所を知ってるの!?」
この事実には紫も驚いた。
妖忌はある日突然悟りを得てから白玉楼から姿を消し、紫の眼すら欺いてどこかに消えた。
長いあいだ紫も探し続けていたが見つけられず、外界かはたまた何処かの異界へでも向かったのかと思っていたが、この幻想郷に残っていたとは。
「はい、お祖父様が旅立つ時、どこに腰を下ろすのか私にだけ教えてくれました。然るとべき時が来れば尋ねればいいと」
「なら彼を連れてくればよかったのに」
「それは無意味です。すでにお祖父様は命を亡くされましたから、魂魄の剣は振るえません」
「……彼に、何を聞かせてもらったの?」
「とりとめのない、ことですよ」
祖父とどんな話をしたのか、妖夢は紫に聞かせてくれた。
妖夢が久々に会った祖父は、その佇まいを大きく変化させていた。
かつて厳格で固い性格であり雰囲気からもそれが感じられたが、今は厳かな見た目でこそあれやんわりとした親しみやすさがあった。
けれど優しいだけでなく、身体は老いて枯れ枝のように細いのに挙動の一つ一つがまったく乱れず、柔らかいのに芯がある、一つの悟りを得た者が持つのだろう独特な空気をまとっていた。
――
――――
――――――――
妖夢は主である幽々子とその親友である紫の元から離れ、ある人物の元へと足を運んでいた。
これは弱り果てた紫と悲しみのるつぼに溺れる幽々子を見たくなかったという、現実逃避の意味合いも強い。
辿り着いた場所は幻想郷の僻地、無縁塚に近い場所に建てられた人が一人なんとか住めるくらいの小さな小屋。
妖夢は腰に備えた剣の柄を撫でると、震える手で扉を叩いた。
「ごめんください」
返事はない、それどころか人の気配すらない。妖夢は恐る恐る引き戸の扉を開ける。
声のなかった引き戸の奥にはしかして、囲炉裏を挟んで一人の老人が壁に背を向けて座っていた。
「随分と呼吸が乱れておるな、まだ未熟だの」
その声は、決して重くなかった。
老いてしわがれているというのに軽やかで心地よく、心に滑り込んでくる安らかさがある。
予想よりもずっと優しい声に、妖夢は張っていた肩の力を抜いた。
「お久しぶりです、お祖父様」
禿げた頭と対照的に筆のような濃い顎髭を生やした老人は、柔和な笑みを浮かべている。
このどこにでもいそうな痩せ細った老人こそ、魂魄妖夢の祖父である魂魄妖忌であった。
妖夢は家に入り扉を閉める。彼女の眼の前にいる祖父は、孫と違って半霊を連れていない。
彼はすでに老衰して死んでしまい、幽霊そのものになってしまった身であった。
「訪ねてくれたのに何も出さないのも悪い。今、茶を出すから待っていなさい」
「お祖父様、聞いて欲しい話が」
「いいから座りなさい。何事も焦ってはいかんよ」
そう言って妖忌は奥の戸棚を漁ると茶葉を取り出した。
囲炉裏の上には妖夢が来ることを知っていたかのようにお湯が温まっており、妖忌は慣れた手つきでお茶を淹れる。
「粗茶ですまないが、さあ飲みなさい」
差し出された湯飲みを手に取って、妖夢は香りを吸った後、まだ熱いお茶を少しだけ口に含んだ。
喉を通って流し込まれたお茶の熱を胃の奥で感じて、自らの猛りを冷ますように深く息を吐いた。
「それで妖夢や、このご老体になんのようかな?」
「……魂魄の務めを果たす時が急にやってまいりました」
「ふむ、覚悟ができていないと?」
穏やかな問いが、妖夢の核心を揺さぶった。
やんわりとした目つきなのに、自らのすべてを見据えているのがわかる。
「……紫様が、自死を望み始めました。幽々子様もそれに同調してあの方を自分の手で殺してしまおうとしています、いつ状況が悪化してもおかしくなくて、その時には私が事態を抑えねばなりません」
「その時にはすればいいことだろう、妖夢にしかできないことなのだから、何も迷うことはあるまい」
妖忌は軽々と言ってのけた、確かにどれほど論じようと最終的にはそこに帰結する。
だが妖夢はその結論を受け入れられずにいた、そのことも妖忌はわかっていたようで、続けて尋ねた。
「それなのに、何故やれないのだ?」
「私は……私は怖いのです。未熟な身で紫様と立ち会ったところで、何もできないのではないかと」
「それは違うな。人は失敗そのものを恐れるのではない、失敗によって起こる何かが怖いのだ」
祖父の言葉に妖夢がビクリと身体を強張らせた。
「妖夢さ、お前が怖いのは死ぬことか?」
この問いかけに、妖夢は長い時間を掛けた。
答えに悩んだのではない、わかっていた答えを認めることに時間が必要だった。
しばらく黙り込んでいた妖夢は、やがて結んでいた唇を解くと本音を語った。
「……私は、幽々子様が破滅してしまうのが、怖いです」
それこそが妖夢がもっとも恐れる未来だった。
妖夢にとって紫も、彼女にまつわる因縁も本質的には興味が無いのだ。
大事なのは主人であり、己が恋い焦がれる幽々子の幸福であり、それ以外の全てが些事である。
しかし今回の事件は、西行寺幽々子の存在を揺るがしかねない。
「あの人は、悲しむことに流されるままで、このままでは紫様に引き摺られて壊れてしまいそうで、怖いんです」
「ふむ、怒りたくないと言う人ほど怒り、悲しみたくないと言う人ほど悲しむ、誰しも簡単に不幸になろうとするものよな」
人の弱さを憂い遠い目をした妖忌だが、すぐにその視線を妖夢へと戻す。
祖父は孫娘をまっすぐ見て、誰よりも親身になって優しく語りかけた。
「いちばん重要なのはそれさ妖夢。もっとも怖い未来、それこそ逃げてはならないものだよ……私は千年もの昔、それがわかっていなかったから失敗した、受け継いだ使命感に突き動かされ八雲紫を討伐しようとした、当時の幽々子嬢を取り巻く西行妖のことをわかろうとせずにな」
千年もの遥かな昔、歌人であった幽々子の父が桜の下で自害し、彼を慕う者が何人も後を追った結果、妖怪桜の西行妖が誕生した。
人の死体を吸い、誰にも手に負えなくなった西行妖は、最終的には自害した幽々子の遺体を以て封印された。
年寄りの思い出話を、妖夢はじっと心の耳を凝らして聞いた。
「聞いてくれるかな妖夢や。妖怪すらやれぬあの少女は、親友を助けようとしていたのにな、私が異物は排除すべしと闇雲に剣を振るった結果、八雲紫の邪魔をして幽々子嬢が命を落とすこととなったのだ。私はこの世界に住むみんなのためにと剣を振るったが、紫も幽々子嬢と心を通わせた時点で、すでにこの世界に根を下ろしたも同然であったのにのう」
自らの過去を悔い、その過ちを繰り返すなと老人は語る。
詳しい経緯までは教えてもらえなかったが、妖夢にはその時の情景がありありと想像できた。
きっと人間だった頃の幽々子は、悲しい目をして生涯に幕を下ろしたのだろう。自分がそうするしかないのならと、誰かの不幸を肩代わりしたのだろう。
今の亡霊の幽々子もそれと同じだ、どんなに狂おうと、彼女は本質的に優しい人なのだ。
「私が紫を倒しきれなかったのも、その至らなさ故かもな。今思えばそれだけが幸いだった、私だけでは幽々子嬢を支えられなかっただろう。紫の激しい悲しみが亡霊に中身を与えた、それが今日に幽々子嬢を追い込むのは皮肉だが、乗り越えられぬものでもない」
悲劇を口にしながらも、妖忌は言葉の最後を希望で締めくくった。
その一言は妖夢の心に力を送り、不安に負けそうだった心に活力を与えてくれる。
今一度現実に戻った魂魄の二人は、不幸に負けぬ強い目をして見つめ合った。
「話が反れたな、現実の幻想を考えようか。幽々子嬢が思い通りに紫を殺したらどうなると思う?」
「……壊れかねないと思います」
「お前から見てその可能性はやはりあるか。儂は妖夢が傍にいれば最悪には至らんとも思うが……最善ではないのは確かだな。では紫を助けられる可能性は?」
「私にはなんとも、幽々子様を通してでしかあの方を知りませんから。でも一人、紫さんが心を許した人物がいます、可能性があればその人だけかと」
「ほう、その者の名は?」
「比那名居天子です」
「ひなない、聞いたことあるようなないような。名前からしてなゐの神関係かの」
妖忌は伸びた髭を指で挟み込むように撫で、心当たりを探った。長く生きただけあって、その推測はおおよそ当たっている。
「天人です、親族の関係で天界に上がったと聞きました」
「なんじゃ、天界の関係者か。とするとその者も異物を排除しようとした者だな、そんな存在が紫のそばにいるとは因果だの」
「しかし天子が紫様に手を伸ばせば幽々子様が殺しにかかるかと。ある意味で紫様を苦しませている元凶ですから」
そこまで聞いて「ふむ……」と声を漏らして頷いた妖忌は、腕を組んで考え込んだ。
「ならばやはりお前のやるべきことはただ一つだよ。時間を稼ぐのだ妖夢」
最終的に行き着く結論はそこしかなかった。
元よりただ剣に尽くし、幽々子に尽くした身で、やれることなどそうありはしないのだ。
「幽々子嬢とその天人がぶつかるなら、どんな結末になろうと決着には時間がかかろう。幽々子嬢がその先の現実を受け止めるには、本人が全力を出した末の回答である必要がある。お前の剣で、あの方の道を斬り拓くのだ。それができなければ、間違いなく幽々子嬢は不幸な行く末を辿ろう」
「私にその役目を果たせるでしょうか、迷ってばかりの私に」
「できる。お前の心に迷いはあっても、願いに曇りはない」
妖忌は断言した、彼の言葉はまるで大木のように頼もしい。
妖夢を見つめる彼の瞳はどこまでも澄んでいて、妖夢の心にかかった靄を洗い流してくれる。
「妖夢、お前は純粋だ。報われたいと思うのではなく、ただ大切な者の幸福だけを願える者は決して多くない。その研ぎ澄まされた刃の如き願いだけが、最良の選択を手繰り寄せる。魂魄の剣の極地に至るにおいて究極的には技術も要らない。願いに手をかけようとする者こそが自らの全てを見定める、良きも悪きもな。それこそが陰と陽を和合させ、世界の果てを作り上げるのだ」
熱く語った妖忌は、一息つくと立ち上がって天井際に作られた窓に近づいた。
窓に覗く大空と、そこを飛ぶ一匹の名も知れぬ鳥を眺め、妖忌は口を開く。
「妖夢、私が悟りを開いてわかったことは、世の中そう悲観するもんでもないさということだ。焦らず心を開いてすべてを受け入れれば、大抵のことはなんとかなるさ。頑張りなさい」
「……はい、ありがとうございます」
話が終わり、立ち上がった妖夢は憑き物が落ちた顔だった。
心は決まった、自分はただ幽々子様に奉仕するのみ、それが妖夢が定めた自分の道であった。
――――――――
――――
――
「随分と元気そうじゃない、いきなり悟ったなんて言った隠居した以降は、ぷっつりと情報が途絶えているのに」
「あの人の言う悟りとは、要は死ですよ。庭先で掃除していたらいきなり老衰でぽっくり逝ったんです。そのまま幽霊になったお祖父様は、私に庭掃除を押し付けると、自分の死体を担いで白玉楼を出ていきました」
「変わったわね、私の覚えてる限りじゃ、色々うるさい性格だったみたいだけど……」
記憶のバックアップの中に残されたデータでは厳格で根は熱血漢の記憶が散見されたが、今しがた妖夢が語った妖忌とはいい意味で正反対だ。
きっと死を体験することで本当に悟りを得て自らを変革させたのだろう、それだけの修行を積んだ人だと紫のメモリーが語っている。
彼もまた幽々子の死から千年、悔み、悩み、自らの道を求めて修行してきた男なのだ。
「私はずっと迷っていました、幽々子様に振り回されて、あの人に付いていこうと必死になってもふよふよと先に行かれて。でももうそれでいい、ただ私はあの人を傍で護れればそれでいい、人のことをからかって困らせてばかりのあんな酷い人だけど、私は幽々子様が好きなんです」
胸の内を吐き出した妖夢の顔は、それまでの生涯で一番清々しく、迷いのない顔だった。
「本当は幽々子様に早まった真似は止してほしいのですが、あの方の世界の中心は貴女で、私が何を言ったところで変えられない。ならばせめて、幽々子様が行きたいと思う道を私が護ります。例えその先が冥土の果てでも付き従うと、私は決めました」
もしも幽々子が望みどおりに紫を殺せば、その瞬間に親友を殺した事実に壊れてしまうかもしれない。
それでも他に幽々子が向かう先がないのなら、せめてそれを護り続けよう、倒れてしまわないようそばで支え続けよう。
それが妖夢の決意だった。
「幽々子様が天子を始末して、ここに戻ってきて紫様を殺すまで、私が時間を稼ぎます」
堂々と宣言した妖夢の前で、紫は膝を突いたまま足元を見やった。
紫の存在を起点として刻一刻と世界の境界は歪み、うぞうぞと隙間の住民がこちらに這い出てきている。
だが今の妖夢なら、もしもの時も押さえきれるだろう。
「未熟さを抱えながら、よくその領域まで辿り着いたものだわ……でも妖夢、あなたは二つ勘違いしている」
紫としてはこの成長を褒め称えたいところであったが、言わねばならないこともあった。
「一つ目、幽々子の中心が私であっても、あなたが心からの気持ちを素直に伝えられれば、幽々子は必ず耳を貸す。あなたの気持ちは無価値ではない」
紫の言葉を聞かされて、妖夢は瞳をうるわせわずかに剣先を下げた。
戦意を無くしたわけでもない、ただ少し救われただけだ。
高鳴る鼓動を押さえ込み、すぐにまた意識を正す。
「二つ目、天子は死なないわ。幽々子には彼女を殺せない、天子の素質を見誤っている」
だが次の言葉には、妖夢の眉がわずかだが不快に歪んだ。
「極光の本質、闇夜にあって輝ける彼女は死の誘惑などには屈しない。本気になった天子は、陰の側に立つすべての存在の天敵なのだから。あれはそういう生まれなのよ」
紫は語る、天子が持つ可能性を、彼女が持ちうる力を。
天子は頑なに隠していた何かがあるのだろう、目を逸らし続けてきたものがあるのだろう。
それでも、泣きながらでも、苦しみながらでも、彼女はいつだって前へ進み続けて来た。
「だからこそ、私も惹かれた……」
あの日、泣きじゃくりながら桃を渡してきた天子の姿を、紫は一生忘れない。
◇ ◆ ◇
幽々子の目の前で、空に浮かぶ天子の身体が崩れた。
「許せないわ。笑顔の下に怒りを渦巻かせたようなあなたが、紫をああまで掻き乱すなんて。絶対に許せない」
無慈悲に言い放つ幽々子の下で、心臓を撃たれた天子がよろけて宙から落ちていく。
握られた緋想の剣からは刀身が掻き消え、小さな身体はうめき声すら出せず、力なく頭から墜落した。
嫌に重い音とともに土煙が立つ絶望的な光景に、後塵を拝していた衣玖から悲鳴が上がった。
「天子様ぁー!!!」
殺し合いの場に臆して出遅れたことの後悔が過りながら、衣玖が駆け出した。
地面に仰向けで倒れた天子を抱き起こすと、まるで生気のない土気色の顔にゾッとした。
「天子様! 天子様しっかりして!」
懸命に声を掛けながら体を揺さぶるが、天子はぐったりとしたまま手足と首を垂らしたままだ。
まさかと思いながら声を止めて天子の口元に耳を寄せてみると、呼吸が止まっていた。
戦慄する衣玖に幽々子が無感動な声を上げた。
「天子は死んだわ」
「死っ……」
それを聞いた瞬間、衣玖の中で怒りと悲しみがごちゃまぜになった激情が溢れ出て、天子の身体を地面に降ろして幽々子と向き合った。
羽衣を腕にまとわせて戦闘態勢を取る衣玖に、幽々子が人差し指を向けてくる。
「あなたは、どうする? 私の邪魔をして死ぬか、退くか、すぐに決めなさい」
お前などどうでもいいと、無感情に幽々子は語りかけてきた。
衣玖は興奮しながらも、一方で冷静に思考を回していた。
ここに来たのは、そもそも天子が紫を説得するためだ、もし仮に幽々子を倒して自分だけが紫のもとにたどり着いたところで、天子がいなければ何の意味もない。
ここで幽々子と戦うのは復讐でしかない、そんなものに意味を見出せはしなかった。
本当なら、自分が天子を支えるべきだったはずだ、送り届けるべきだったはずだ。それなりに、現実にはこのざまだ。
それなら自分は何のためにここまで付いてきたのかと、自らに対する憤りで胸がいっぱいだった。
――――気質とは、万物に宿るあらゆる心の想いである。
どんな想いでも微弱な力を備えており、感情の発露とともに段々と物質に貯まっていく。
気質を受け止める最も大きな器は大地だ、その上に乗せる人間から動植物まで様々な思念から溢れた想いを受け止め気質を蓄積させる。
その気質が飽和すると大地から漏れ出し空の上で集まり緋色の雲を形成し、この気質の集合体である緋色の雲が地中の気質と共鳴してエネルギーを放出することで地震が発生するのだ。
要石と緋想の剣は、これらの特性を持つ気質を最も効率よく扱うためのツールである。
石によって気質を留め、剣によって引き出すのだ。
だが気質が想いであるからに、理論上はそんな物がなくとも心を持っていれば気質を作り出すことはできるのだ。
本当に強い想いさえあれば――――
幽々子が作り出した死を招く蝶は、天子の胸の内側に入り込んでその奥を目指していた。
向かうは心臓。地に倒れた天子は死がゆっくりと身体に馴染んでいくのを朦朧とした意識で感じ取っていた。
しかし死に誘われることは、なんと甘美であることか。末端から力を喪っていく身体はまるで世界に溶けるように心地よく、死の誘惑は甘い吐息で身体から熱を奪い、生きる気力を萎えさせていく。
きっとこの先に辛いことなんてないのだろう。これならここで死んでしまうのも良いかもなんて、そんなことを考えてしまうくらい、死は優しかった。
あとほんの少しで死が天子の核に触れ、その鼓動を永遠に眠らせるようとし、
「……ムカつく」
心臓から燃え上がった熾烈な緋い灯が、死の力を灼き尽くした。
ポツリと呟かれた言葉を聞き、衣玖が振り向き、幽々子が目を見張る。
「天子、様……?」
聞いていた衣玖は主人の生存に喜ぶこともできず、肝が冷えて竦み上がった、それだけの精神的質量が込められた呪詛だった。
だが見下ろす幽々子の驚きは比ではない、彼女が作り出した死の化身は確かに天子の胸に食い込んだはずなのだ。
なのに何故喋れる。
何故、あの少女が空に手を伸ばし、小さな体躯を起き上がらせようとしている。
「ムカつく、ムカつく。ムカつくムカつくムカつくムカつくムカつく、ムカつくっ!!!」
あの力は何だ――幽々子がそう思う前で、天の少女が立つ。
怒声と共に緋想の剣の刃を再構成して振り上げた天子が、剣先を大地に突きつけて想いを爆発させた。
緋想の剣を伝って吐き出された気質が地面の中で爆発して周囲から大地が刃のように突き出し、衣玖は慌てて空に逃げる。
激しい破滅的感情はそれだけでは消えるに足りず、天子の体から溢れ出した気質が渦を巻いて空へと上がり、夕焼けの空に不吉なまでに緋い輝きを重ね掛けた。
発現する極光。暴風のような荒々しい気質が大気を押しのけ、突風に煽られて幽々子の髪が揺らめいた。
「怒り? 知ったふうな口を、私がどれだけあいつに苦しめられたか知らないくせに」
睨め上げてくる天子の感情に、幽々子も目を剥いて動きを止めるしかなかった。
一歩でも体制を崩せば、あっという間に飲み込まれてしまうような圧力がそこにあった。
幽々子は天子が内部に暗い感情を溜め込んでいることには気付いていた、それは自分も同じであるし紫が苦しむまで大して気にしなかった。
「いいわ、ここには紫のやつもいない。あんたが私を推し量ろうっていうのなら、この憎しみを受けてみせなさいッ!!」
――だがこれほどの劇物だとは。
「天よ地よ、私の憎悪を映し出せ!」
空に広がり世界を燃えるような緋で染める極光の幕は、天子が1200年ものあいだ溜め続けた感情の膿だった。
膨れ上がった気質は音を立てて大気をかき混ぜ、嵐のように歪な形を作り上げる。
それと感応するように大地が揺れ動くと、地面が盛り上がって地中から巨大な要石が天子の両脇に二つ現れた。
そのサイズはおよそ直径十メートルはある、尋常でない質量と威圧感を誇る岩が浮かび上がり、緋い光を湛える。
これからすることを察知した衣玖は急いで天子のはるか後方へと飛んだ。天子からゆうに五百メートルは離れたが、これでもまだ不十分かもしれない。
荒れ狂う想念が渦巻き、幽々子の前でその力を示す。
二つの巨大な要石は緋い輝きを静めたかと思うと、四方八方へデタラメに気質のレーザーを撒き散らした。
光芒は放射を続けたまま揺れ動き、射線上にあった地を裂いて爆発が巻き起こった。
地面から吹き荒れる突風と瓦礫に揉まれながら、幽々子は必死に緋い閃光を避ける。
先程までの攻撃とは比べ物にならないパワーだ、とても防ぎきれるものではない。
射程距離のギリギリ外からその様子を見た衣玖が、緋い地獄のような様相に恐怖すら抱いた。
「アッハッハッハッハッハッハ! すごいすごい! こんな、私の憎しみでこんなに力を出せるなんて! 空も大地も、こんなに歪ませられるなんて生まれて初めて!」
唸りを上げて空を燃やして渦巻く極光と、地鳴りとともに荒れ狂う大地。
何もかもが天子の手の内で、飴細工のように歪められていく。
「ああ、思うがままに恨みを撒き散らすのは、気持ち良すぎて死にたいほど気持ち悪いわ」
攻撃をやめた天子は、垂れた眼の上から痛むこめかみを押さえた。
人を呪わば穴二つ。さっきから頭痛が酷い、天子が世界を呪うのと呼応するように、自らの肉体を蝕んでいる。
自身すら滅ぼしかねない凄まじい憎悪を前にして、狂気を手にした幽々子でさえも恐れを抱き、軽蔑の台詞を吐き捨てた。
「よくもそんな、醜さを抱いて紫の前に行こうだなんて思えるわね」
「そうね、私は醜いわ。不良天人なんて言われたって仕方がない」
自らを嘲り笑い天子が剣を構える。
汲めども尽きることなく湧き出る憎悪が、誰よりも天子自身に語りかけてくる。
「私は徳の高い天人様なんてのとは違う。いつまでも憎しみを捨てられないクソッタレよ!」
自らの愚かさに唾棄し、天子は睨みつけた目元から一筋の血涙をこぼして吠えた。
初めて自らの心情を吐露して、天子は己の気持ちを自覚してしまった。
「ようやくわかった、許すなんて馬鹿らしい! 私にはそんなのは無理だ。私は一生紫のやつを許さないし、紫のやつを憎み続ける。こんな強い気持ちが消せるわけがなかったのよ!」
足りなかったピースがこれまでの過去にカチリとハマる。
何故今まで自分が紫に真実を告げられなかったのか、これほどの憎悪を、醜さを持っているなどと認めたくなかったのだ。
なんて馬鹿らしい、なんて卑しい、なんて愚かしい。
自らに失望する天子が吠えるとともに、再び要石から無数の気質が大地に向かって放たれて、そこら中の大地が爆ぜた。
今度はただの瓦礫だけでなく、巨大な棘のような岩盤までもが爆発に乗って飛び出して、上空の幽々子に襲い掛かる。
回避に専念する幽々子に向かって、天子が自ら剣を振りかざして向かってきた。
瓦礫の合間を縫って振り抜かれる刃が、避けようとした幽々子の肩口を切り裂いた。
対象に合わせて性質を変化させる剣の一撃は絶大だった。切られたのは表面の肌だけだというのに幽々子に目眩が起こり、一瞬目の前の天子すら姿がおぼろげになる。
不安定になる感覚の中で、幽々子は死に物狂いで後ろに下がる。
「なんの為に、紫の前に行くつもり!?」
「なんのため……?」
時間稼ぎに叫ばれた言葉を前に、血涙を頬に流した天子が静止した。そのあいだに、幽々子が出来る限り天子から距離を取る。
打ち上げられた瓦礫がたっぷり時間を掛けて落ちていき、二人の足元で落下が巻き起こした土煙が充満する。
やがて落下が終わり、土煙が止んだころ、天子は口を開いた。
「決まってる、あいつの力になりたいのよ」
そう唱えた瞬間、空に渦巻いていた気質の流れが静まり返り、大地も脈動を止める。
波打って揺れ動いていたはずの激しい気は、ゆったりとした動きに移り、極光の輝きが明確な意思のもと天子の頭上に集う。
天子自身が放っていたプレッシャーも、まるで研ぎ澄まされた刃のように一極に集中した。
一転した無音の世界で、極光は陰るどころか、より強い輝きで天子を照らし出す。
あまりの変貌ぶりに戸惑う幽々子の前で、天子は落ち着いた呼吸で緋想の剣を握りしめ、目の前へとその剣先を向けた。
「憎いけど、許せないけど、私は紫の温かさを信じてるから。もう嫌いになんてなれない」
憎悪と好意の矛盾の中で、天子は想いを口にした。
その真っ直ぐな目と言葉から、天子の本気の気持ちが幽々子にも伝わる。
幽々子は、自分こそが誰よりも紫を想っていると考えていた。
だが、それは間違いだったのかと思ってしまうほど、天子はただひたすらに紫の幸福を願っている。
果たして、紫にとって必要なのは天子か、幽々子か。
「それでも――それでも私は、紫の苦しむ顔は見たくないの!」
絶叫とともに蝶が舞い上がる。
幽々子の深い深い負の感情が、自らの存在すら削りながら天子と拮抗するだけの力を生み出す。
「避けられない絶望があるのなら、私が紫の心を救う!」
「巫山戯るんじゃないわよ! 絶望なんかじゃ心は死なない、生きてれば再起の道はある!」
幽々子が生み出した蝶の弾幕が、天子の前へ壁のように押し寄せてくる。
天子は先程の二つの要石を引き上げて自らの元へ寄せると、極光から気質をその二つに注ぎ込んだ。
自らを拒絶する幽々子の叫びを真正面から見据えた。
「昔の私は苦しかった、死にたいと思った、死ぬのが私だったら良かったのにと何度も思った。それでも諦めず歩き続けてこの幻想郷までたどり着いた。その私の前で、苦しいなら死んだほうがマシだなんて戯言を吐くなあ!!!」
要石が射出される。二つの巨大質量は蝶の群れに飛び込むと、内側で大爆発を引き起こして大量の気質を撒き散らした。
広がっていく緋い霧が死の意思を侵食し、弾幕の八割がこの一撃で打ち消された。
残る蝶たちのあいだを天子は駆け抜ける。一息に歪んだ願いを破り去り、幽々子の前に飛び込んで剣を振り上げた
目の前に現れた天子に、幽々子が全霊をかけた一撃を浴びせようと霊力を手元に集中させる。
互いの必殺が交差する寸前、天子が叫んだ。
「幽々子が死んだとき、紫はどんな顔をしてたのよ!」
――その言葉に、幽々子の時が止まった。
遥かな過去、原初の思い出。死して生前の記憶を失った幽々子が最初に見た光景が想起される。
夜にも暖かい陽気な春の日、満月に照らされるべき花が無くなった桜の下で目覚めた幽々子が見た親友の姿。
『ごめんなさい幽々子――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――』
親友を死なせてしまったことに、綺麗な顔をクシャクシャに歪めて泣いて詫びる紫。
生まれたばかりの赤子のごとく、自分が何者かも知れないその時の幽々子には、その姿は異様に映った。
しかし何も知らないまでも、ただその女性が自分にとって大切な誰かなのだということだけは魂で感じていた。
だというのに困惑する幽々子は、膝をついて涙を流す紫に何もできなかった、してあげられなかった。
辛すぎる言葉を繰り返す親友を抱きしめてあげられなかったのは、幽々子の最大の悔恨であった。
その時の気持ちを思い出し、幽々子の胸に痛みが走る。とうに動かなくなった心臓が軋みを上げた。
もし紫が死ねば、きっと自分も同じように泣くことだろう。そうしたら紫は、どう感じるのだろうか――
幽々子の目の前を、緋色の刃が縦に通り抜けたが、痛みは襲ってこなかった。
最後の一撃を天子はわざと外した、切っ先は服にすら引っかからず空だけ裂いて幽々子の足先で停止した。
だが幽々子もまた力の集中は途切れ、敵に向けるべき手が下に向けられていた。
眼前で荒い息を吐く天子の強い眼光を前に、幽々子は何をすればいいか思い浮かばないまま口をつぐんでいる。
「そこまでだね幽々子、お前の負けだよ」
どこからか聞こえてきた声に、幽々子が顔を上げた。
空から舞い込んできた風が霧を萃め、一つの形を取っていく。
「萃香……!」
決着が付いたと見るや、萃香が戻ってきて姿を表した。
逃げ出した萃香だったが、ずっと様子をうかがっていたようだ。
「すごいもんだね、さっきまであれだけ暴れ狂ってたのに、あっという間に気質を集中させた。心が迷った今の幽々子じゃ敵わないよ」
同意を求めるように語りかけてくる萃香を、幽々子は否定することが出来ない。
すでに戦意は消失しているが、そうでなくともこの天子を相手にはあらゆる意味で勝てる気がしなかった。
「さあ天子、もう幽々子に戦う力はないよ。とっとと行って好き勝手やってきな」
幽々子が戦う意志を失くしたのを見て、天子も闘志を収める。
空にかかった極光は掻き消え、いつの間にか暗くなった幻想郷の空が取り戻された。
それを見て戦いの終わりを知った衣玖も、天子の元へと駆け付ける。
「天子様、大丈夫ですか!?」
「うん、なんとか」
天子は血涙を拭う。
悔しげに見つめてくる幽々子を前にして、天子は緋想の剣をしまった。此処から先は武器は必要ない。
「往くわよ、付いてきなさい衣玖」
「はい」
天子は幽々子から視線を切ると、紫の屋敷に向かって下りていった。衣玖も幽々子を気にしながら、天子を追っていく。
その後姿を眺めながら幽々子が隣りにいる鬼へ話しかけた。
「……萃香は行かないのかしら」
「私が行ってもあんまり意味が無い気がするんだよねぇ」
萃香は瓢箪の蓋を開け、ひっくり返しながら呟く。
「結局のところ、私らみたいな妖怪だの亡霊だのはみんな根暗で陰気さ。もし悲観が極まった今の紫をどうにかできるなら、それは陽の下で生まれたやつだろうさ」
「ようは押し付けただけね」
「それがわかるならだいぶ頭は冷えてるじゃんか。そういう幽々子こそ追わないのかい? 別にいいんじゃないの、付いていったって」
「……敗者に、そんな権利があるわけないじゃない」
行ったところで、信念を折られた自分が紫にどんな言葉をかければいいのか。
幽々子はただ悲しげに、そう言って涙ぐんだ瞳を伏せた。
◇ ◆ ◇
荒れ地と化した大地に降りて、唯一無事な紫の屋敷に天子と衣玖は近付いた。
手っ取り早く縁側から中に入ろうとし、そこで待ち受けていた者に足を止める。
「藍……」
その金毛が煌めく美しい九尾を見間違えるはずもない。
紫の式神、紫の従者、紫の家族。
もっとも近くで紫を支え続けた藍が、今は紫から離れて天子の前に立ち塞がっていた。
やって来た天子に、藍は特に感慨もなさそうに口を開く。
「やはり幽々子様を退けたか。当然だな、紫様が惹かれた相手だ」
「まさかあんたまで私を止めるつもり?」
「一応は言葉で引き止めるくらいのことはしよう。なにせ今後のこともある」
「今後?」
不機嫌そうに眉をひそめる天子を前にして、藍は淡々と言葉を紡いだ。
「紫様は幻想郷の運営において、あらゆる面に保険を用意している。自身が機能を果たせなくなったケースも同様だ」
そう言って藍が身を横に引いた。大きな尻尾の後ろから歩み出てきた人物に天子と衣玖は目を丸くする
畳の上を柔らかな足で歩み出てきたのは、橙色の道士服に身を包み、いつも紫が使っていた傘を手に抱えた橙であった。
「改めて紹介しよう。彼女が紫様に変わって幻想郷の実質的な管理者となる、八雲橙だ」
暗い目をして黙っている橙を隣に置き、至極冷静に言い放つ藍へ、天子が睨みつけた。
「どういうことよ……」
「橙には、境界を覗く才能があってな。もしもの時のために、紫様の代替品として用意していた」
天子が聞きたいのはそんなことではなかった。
家族であるお前が、どうして紫を死んだ後のことなんかを話しているんだと言いたかった。
「これからは橙が境界操作能力の一部を引き継ぎ、幻想郷を運営していく。だが橙は未だ未熟であり信用もなければ恐れもされていない、彼女が代わりを務めると言えば住人たちのあいだで混乱は避けられないだろう」
説明を終えた藍が、天子に向かって手を差し出す。
「お前にも手を貸して欲しい。紫様が愛したこの地を、共に守っていってくれないか?」
――隣にいる衣玖が、これはやばいなと思った時には、天子は後ろ髪をはためかせて飛び出していた。
握り込まれた小さい拳が、岩のような硬さを持って、力の限り藍の頬を殴り込んだ。
橙が無感情に見つめる前で、捩じ込まれた拳に藍の身体が後ろに吹っ飛び、廊下の襖をぶち破る。
天子は靴のまま家に上がり込むと、うめき声を上げて起き上がろうとする藍へ足音を立てて近寄り、襟元を絞め上げた。
「何腑抜けたこと言ってるの駄狐が! 幻想郷の前に紫を守るくらい言いなさいよ!」
「ぐぅ、私は、紫様の式神として紫様の命令を守る……」
「式神の前に家族なんでしょうが!?」
天子が唾を散らして叫ぶ。
家族が触れ合ってくれない寂しさは天子だってよく知ってる。
それをよりにもよって藍が、紫の家族がそんな冷たい態度を取るのが許せなかった。
「言え! あんたは紫に何を求めてるの!? あんたがあいつに掛けた願いは何!? それを言わずにハイハイ従ってんじゃないわよ!」
「そんなものは、ない。あったとしても石ころみたいに無意味なものだ。私は、紫様のお役に立てればそれで、いい」
「――そんなの、紫のやつが望んでるわけないでしょうがあ!!!」
大きく振りかぶられた天子の鉄拳がもう一度振り抜かれ、藍の身体が部屋の中へ引き戻された。
九尾の大柄な身体が橙の足元に倒れ込み、藍の視界が家族の冷たい瞳を見上げた。
痛みで朦朧とする藍を見下ろして、ずっと黙っていた橙が始めて言葉を発する。
「藍様……藍様は、もっとわがままを言っていいと思います」
傷ついた藍に、愛しい家族の声が投げ掛けられた。
藍は今の橙を見て、なんて寂しい眼をしているんだろうと思った。その眼にさせているは誰かと考え、誰でもない自分だと気付き胸が痛むのを感じる。
「橙……」
「紫様のお願いばっかり聞いてないで、自分のして欲しいことを、紫様にも伝えていいと思います」
橙と天子が言ったことは、藍がタブーとして自らの禁じていたことだった。
自分は主人と本当の家族になりたかった、だからこそいついかなるときも紫を支えることに徹し、私情を押し殺して紫に支えてきた。自分がなにか言えば、あの不安定な少女が倒れてしまいそうで怖かったから。
例え自分の気持ちが何であろうと、ただ家族として傍に入れればよかった。
だが、それは本当に正しかったのだろうか、それが自分が本当に目指した家族の形だったのだろうか。
橙の寂しい眼に自らの信念を疑念を抱き、その下の本心がわずかに顔を出した。
藍が初めて掘り起こした願いに、唇を噛みしめる。
「待て、天子!」
紫を求めて廊下を行こうとしていた天子を呼び止める。
振り返って睨みつけてくる天子に向かって、藍はヨロヨロと立ち上がりながら睨み返した。
「いいか天子、私は今更自分の生き方を曲げられん! 私はあくまで紫様からの命令を果たすのが最優先だ!」
「こいつ……」
「しかし! 少しだけ、お前に賭けてみよう」
もう一度藍が差し出す、今度は紫を支える者としてでなく、天子と同じく紫の幸福を願うものとして。
「その紫様とお揃いの首飾りを貸せ、ほんの少しだけ助力してやる」
ここに来て急に態度を変えてきた藍に、天子は思わず警戒する。
どうするべきか悩んで、付いてきていた衣玖を見やると、天子を促すように頷いた。
「藍さんは決して紫さんの不利益になるようなことはしません。ならば天子様にも必ずや利になることでしょう」
従者同士でしかわからないことがあるらしく、衣玖は藍を疑っていないようだった。
迷う天子であったが、ここは衣玖の言葉を信じて紫水晶の首飾りに指をかける。
「……壊さないでよ」
外しされた首飾りが、藍の手の平に垂らされた。
紫色の輝きを指でなぞり、石の内側の感触を確かめる。
「なるほど、熱い気質を感じる。紫様とお揃いなだけあってお前の想念が強くこもっているな、これなら術式も機能する」
感心したように呟いた藍が、首飾りを持っていない手を口元に持っていき親指を鋭く噛むと、破れた皮膚から垂れた血を紫色の宝石にこすりつけた。
突然の奇行に天子は驚いて、藍を蹴り飛ばしながら首飾りをひったくった。
「な、なにすんのよ!?」
慌てて宝石が無事か確認しようと掴んだ首飾りを見下ろすと、付着した血は煙を上げて消え失せていく。
ただ宝石を汚したわけではあるまい、何らかの術を施したらしいが、天子にはそれが何なのか皆目見当がつかない。
「天子、もしもの時はその宝石にありったけの気質を込めると良い、生き延びるくらいのことはできるだろう。やり方は緋想の剣と同じだ」
「気質って、どういうことよ」
「私とて、紫様を救うために努力はしていたのさ、その成果の一つだ」
藍は蹴られたお腹を押さえながら、天子が持った首飾りを指差した。
「紫様の根本へ手を伸ばすとなると、必然世界を成り立たせる境界線の隙間を覗き見ることとなる。だが境界の住人と戦いになれば、万が一にも緋想の剣では勝ち目はない」
「……でしょうね」
元々、緋想の剣は境界の隙間から出てきた紫を滅殺しようとして作られた失敗作だ、紫と同じ性質の者が相手となれば通用しないだろう。
「境界の向こう側はいわば世界の裏側、向こう側に気質を適用させるには、その性質を反転させてやる必要がある。首飾りの術式は向こう側の性質に合わせて気質を変換するコンバーターだ、もしもの時に少しは役に立つだろう」
藍の行動の意図は理解したが、事後承諾で強行されたことは納得しきれず、天子は渋々と言った様子で、術式が付与された宝石を首から垂らした。
「紫に免じて、こいつは受け取ってあげる。もうあいつの顔に泥塗るような真似するんじゃないわよ」
そう言って天子は衣玖とともに紫の部屋に進んでいった。
天子が去り、二人きりになると橙が藍に話し掛ける。
「ようやく、わがままを言ってくれましたね」
「お前ほどじゃないがな」
「私くらいが健全なんです!」
うるさいくらいに声を上げる橙の顔は、いつものような元気いっぱいの表情だった。
見慣れた家族の表情に、藍は安堵を感じながらも背を向ける。
「さて、私は使いを頼まれているし行かねばならない。橙、お前はどうする」
「紫様を見届けます」
「そうか。大切な家族が生きるかどうかなのに傍にいられないとは、ロクデナシだったかもな私は」
「そうかもです。でも、心はずっと一緒ですよ?」
否定してくれないことが少し辛かったが、橙はとても心地よい笑顔で藍を見上げてくれた。
家族のそんな顔を見れただけで、自分が一歩踏み出したことが良かったかもしれないと思えた。
「……ありがとう、それじゃあな」
藍は別れを告げて屋敷の外へ出て、空を駆けていく。
金色の尾が星に混ざるのを眺めて、橙も天子の後を追った。
◇ ◆ ◇
広い部屋の中で、荒い息が木霊する。
「ハア、ハア――」
繰り返される剣戟が、襲いかかる黒い手を封ずる。
紫と向かい合った妖夢は、一瞬の油断も許されない中、沸き出てくる境界の住人を抑え続けていた。
汗ばんだ額に張り付く髪の不快さを気にする暇もなく、また一つ伸びてきた暗い手を二刀の剣で切り払った。
繰り出される剣技はそのすべてが全力であり、一振りごとに体力と気力の両方が著しく消耗して行く。
極限の集中の連続が、妖夢を限界へ導きつつあった。
ただじっと堪えるだけの紫も、疲弊していく妖夢を見て焦り始めていた。
このままではそう遠くない内に妖夢は剣を握れなくなる、果たしてその前に彼女が間に合うだろうか。
どうか紫にとっての最悪が訪れないことを祈っていると、開きっぱなしの扉から足音が近づいてきた。
「――――紫!!!」
紫が誰よりも恋い焦がれる天子が、彼女の名前を読んだ。
土足のまま部屋に入ってくる天子を見て、紫は辛い顔をする一方で、どこか安堵を感じていた。
「天子……」
「そうか、幽々子様は……」
妖夢は天子に首だけで振り返り、自分の主人が敗北したことを悟った。
これで幽々子が親友を殺すという業を背負わずに済んだ、しかし恐らくは本気で天子と殺し合いを演じたであろうに、大丈夫なのだろうか。
心配する妖夢であったが、天子の後を浮遊してついてきた衣玖が、こちらの顔色を見るなり笑いかけてきた。
「幽々子さんは無事ですから、安心して大丈夫ですよ」
それを聞き、妖夢は安心して見つめ合う二人の間から身を引いた。握った剣はそのままに、
そして紫は、ここに天子が現れ、声を聞かせてもらったことで、衰弱した精神に力が湧いてくるのを如実に感じ取っていた。
想い人と顔を合わせた、たったそれだけのことで気力が充填し、肉体まで回復していく。
境界を操作する能力もいくらか力を取り戻し、紫の足元から湧いていた闇すらあちら側へ押し返しつつある。
紫と面を向かわせた天子が、抑えられないとばかりに早口でまくし立てた。
「紫、話は全部聞いた。まだるっこしい話は全部抜きにして言うわ、生きてよ!」
「……やっぱり、あなたならそう言うと思った」
いつも前向きらしい彼女の言葉を聞き紫は困った顔をする。
本当に愛おしい、こんな輝きを持つ少女から好意を受けたことが幸せで、同時にとても誇らしく思えた。
「ねえ天子、私は取り戻したの。あなたは私が眠る時、大好きと言ってキスしてくれたわね」
いつのまにか部屋の前に来ていた橙が、衣玖と一緒に「おぉ~」と歓声を上げる。
天子としては小っ恥ずかしくあったが、紫が思い出した記憶について当たりをつけていたこともあり動揺はしてはいない。
「すごく温かい記憶だった、その一瞬だけで生きてきてよかったと思えるくらいに」
紫は緋色エメラルドの首飾りに手を当てて、その時の思い出に浸る。
あの瞬間の紫は、間違いなく幸福だった、全てが報われたと感じていた。
だからこそ、これが失われるのは例え一時のことでも堪えられない。
「ありがとう天子。私も、きっと今までの私もみんな、ずっとあなたを好きだった」
悲しさの上に笑顔の面を被り、精一杯の別れを告げようとした。
だがそんなもの、天子は受け取れない。紫がこんな自分を好きだと言ってくれたのは嬉しい、だがそれなら尚のことこのまま放ってなんかおけない。
何としてでも紫の心を連れ戻そうと天子は前に出る。
「紫、私は――」
――――キイエアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
だが天子の言葉は、いずこから響いた声に遮られた。
甲高い悲鳴が紫の周囲に木霊する、脳に突き刺さる不快さに紫以外の全員が思わず耳を押さえた。
謎の声は呪いを含んで空間を響かせ、肌にビリビリと突き刺さった。
「な、何よこの声……!?」
それは一人のものでもなく、何十人も、何百人もの絶叫が重ねられたような不協和音。
響く声は言葉にもならない悲鳴でしかないが、そこに込められた思念が聞くものの心に伝わってくる。
好き? 好き? 好き?
何故お前だけが手に入れる 何故お前だけが温かい
せめて せめてお前の手に入れたものを我々にも 寄越せ
頭が割れそうな声に耐えながら、橙が紫の足元で蠢いていた闇を見た、この声はあそこから来ている。
橙が元来持つ特殊な眼が、空間のねじれを捉えた。
「これは……まさか、境界が歪んで……!!」
紫の足元で穴が開くように闇が広がり、そこを通じて境界の向こう側からいくつもの手が伸びて来た。
強く強く、空間を超えて現れるものを天子は敏感に感じ取れた。
触れたものを解かして奪い尽くす胃液のように粘っこく、気味の悪い負の思念。初めて感じる種類だが、これは紛れもなく気質の一つの形だった。
声は止まらず響き続け、紫の足元から大勢の何者かが這い出てくる。
境界を超えて現れた無数の手が、紫の身体にまとわりつき、全身を手形で覆い尽くした。
「紫、待ってよ行かないで!?」
「そうか、そういうことだったの。あなたたちは、妬ましいのね」
紫は質量のないはずの闇に、身体を万力のように力で締め上げられながら唱えた言葉も絶叫に飲まれる。
闇に包まれてねじ切れそうな紫を見た天子が、絶えない怨嗟の声を振り払って駆け出す。
だがもはや猶予がないことを悟った紫は、無数の手の平の下から天子ではなく、若い剣士を見ていた。
「妖夢、頼むわ――斬って」
手形の間から覗く唇の動きを見て、妖夢が疾走った。
二刀の剣を構え、縮地により一瞬で紫の背後へ回り込むと、自らの願いを刃に乗せる。
「人鬼一体の二刀にて、今ここに陰陽の境界を成す!」
振り抜かれた陰と陽の刃が紫の背中で交差して、その中心に向かって紫の身体が歪んで引き込まれ始めた。
天子は必死に手を伸ばす。引き伸ばされた意識の中、ゆっくりと空間に飲み込まれる紫を掴もうとして、その胸元の緋い宝石に指先が触れて、だがそこまでだった。
天子の目の前で紫の輪郭が急速に離れていき、触れたはずの首飾りも遠ざかっていく。
最後の言葉を掛ける暇もないまま、真っ黒に歪んだ紫は、散り際の表情すら残すことなくこの世界から完全に消失した。
「紫ぃぃぃいいいいい!!!」
何もない場所を掴み、名前を呼ぶ天子の後ろ姿を、衣玖と橙が息を呑んで見つめる。
天子は衝動的に妖夢の襟元を掴み上げ、至近距離まで顔を近寄らせて問いただした。
「妖夢、あんた何をしたの!?」
「紫様を、強制的に世界の外へ、境界の隙間に退去させました」
妖夢は私情を押さえて、できるだけ淡々と語ろうとする。
しかしいつも世話になっていた紫を自らの手でこの世界から消し、声にわずかな動揺が滲んでいる。
「ならあいつはまた戻ってくるのよね!? 今までだってずっとそうだったんだから!」
「紫様が、これを想定していないとでも思いますか? それでも盤石に、自死の手段を用意している、そういう方です。紫様はもう二度とこちら側には出てこない。もうすぐあの方はあちら側で死ぬんです」
それを聞いた天子が手を離し、妖夢はよろめいて引き下がると二刀の剣を鞘に収める。
愕然と膝を突いた天子は、力なく天井を見つめた。
「紫が、死ぬ…………」
もう何もかも遅かった、紫を助けようにも手の届かないところにまで彼女は行ってしまった。
いきなり死ぬなんて言われても、まるで実感なんて沸かないのに、虚無感が押し寄せてきて涙となって頬をなぞる。
「勝手に私を置いて行かないでよ。大好きなんて言葉一つで、全部納得しないでよ」
身体を震わせ背を丸めた天子が、畳の上に手を押し当て涙をこぼす。
体の奥を突き抜ける感情にまかせて畳の目を引っ掻いて、イグサの付いた指を胸元に寄せる。
「私は、まだ紫に何もしてあげれてない……私の心を救ってくれて、何の恩返しも出来てない……伝えたい事がいっぱいあるのよ! してあげたいことがたくさんあるのよ! もっともっと、遊んだり、笑ったり、泣いたり、怒ったり、だから、だから……」
紫は天子を受け入れてくれた、許してくれた、救ってくれた、護ってくれた。優しく微笑んで、たくさんのものを与えてくれた。
だから天子は、それに見合うだけの喜びを、不幸を補って余りある幸せを返してあげたかったのに。
控えめな紫の笑みを思い浮かべ、彼女の色をした首飾りを掴んだ。
「こんな終わりでいいわけないじゃない、私と一緒にいてよ紫!!!」
顔を振り上げて叫んだその時、胸元で握りしめた手の下から、紫色の炎が燃え上がった。
突然の現象に一同が目を丸くする中、天子が手の内の首飾りを見つめる。
天子の想いを火種とした紫色の篝火が、紫と分け合った宝石から立ち上っていた。
「これは、藍様の部屋で見た……」
橙が時空間に気質を打ち込む装置が、同じ輝きを放っていたことを思い出す。
無論、天子にはこの輝きが何を意味するのかはわからない、だが浮かんでくる直感に導かれ、ありったけの想いを宝石に注ぎ込む。
炎は収束し閃光となり、さっきまで紫がいた場所へ向かって一直線に放たれた。
妖夢は自らが切り結んだ空間において、紫色の光が目に見えぬ壁を歪めるのを驚愕して見ていた。
「そんな馬鹿な……境界を超えるの!?」
空中にわずかな、ほんのわずかな次元な穴が開かれる。
世界の法則を凌駕する光景に、橙の脳裏に藍から語られた言葉がよぎった。
――あらゆる境界を超えて、思いはそこに届く。
天子は宙に浮く虚を燃える瞳で見上げて、緋想の剣を抜いて振りかぶった。
「私を紫のところに届けて、緋想の剣!」
天子の想いで構成された緋色の刃で、開かれた穴を突き刺す。
耳鳴りのような音で応えた剣が、真っ赤に収束して気質を空間に打ち込み、次元の穴を押し広げて天子が通れるだけの扉を作り上げた。
漆黒に通じる穴に天子が入ろうとするのを見て、妖夢が慌てて止めようと駆け寄る。
「待って! 生身で行って帰ってこれる場所じゃ――」
開いた手で天子を掴もうとしたそこに衣玖と橙が飛び込んできて、引き止める妖夢の邪魔をした。
「行って天子、あの人寂しがり屋だから、一人にしちゃ駄目だよ!」
「気持ちは伝えなくちゃ嘘ですよ天子様」
時空の穴は刻一刻と修正され、小さくなっていく。
二人の応援に返す暇もないまま、しかし確かに聞き届けて、意思の籠もった眼差しだけを返した天子は、その穴の中に身を飛び込ませた。
天の少女が音すらなく暗闇に飲まれた直後、扉は閉じて元の空間に戻った。
立ち往生していた妖夢は、信じられないという顔で立ち塞がった二人を見ている。
「衣玖さんだけじゃなく橙まで、これじゃ見殺しと一緒じゃない」
「そうかもしれない、でも境界を超えるなんて、本当は天子だけじゃ無理なこと。紫様もまた会いたいって思うから天子は壁を超えたんだよ。だったら私は、紫様の気持ちを信じる」
妖夢は確かに希望を持って語る橙から理解できないというように視線を切ると、その隣の衣玖を見る。
しかし彼女は口すら開かず、礼儀正しそうに頷くだけだった。
妖夢は彼女たちほど天子に期待できず、顔をしかめたまま部屋の奥で壁を背にして座り込んだ。紫を押さえ込むのに体力を消耗しすぎてもう限界だ。
そこに一連の異変を感じ取ったのだろう、幽々子と萃香がやって来た。
「――紫!」
途中からやってきた彼女たちは、部屋の中を見渡して紫と天子がいないことに気がつくと、部屋の佇む三人へ視線を向ける。
しかし幽々子は自失してそれ以上の声を出せず、代わりに萃香が尋ねた。
「どうなった?」
「向こう側に帰りました。きっともう戻ってきません」
一番高い可能性だけを妖夢が語り、幽々子はその場に崩れ落ちて泣き声を上げ始めた。
「う、うぅぅ……あぁ、紫ぃ……あああぁぁぁ……」
その不憫な姿に、妖夢は表情を歪めて胸を痛める。
だがこれで良かったかもしれない、愛する親友を殺すという業を背負うよりは、無力感に苛まされる方がまだ救いがあると妖夢は思う。
悲しむ想い人を前に、わずかな安堵を感じている自分を、少し恥ずかしくも思った。
「そういえば、天子はどうなったんだ?」
「天子様なら紫さんを追って境界を超えましたよ」
「……マジか!? すごいことしてるなあいつ、本気で紫のやつ連れて戻りそうだな」
「むしろ私はそう確信しますよ。しかし……」
感心する萃香を前にして、衣玖は口元を抑えて考え込む。
「どうかした?」
「先程、とても悪い空気を感じました、二人が戻ってきても一筋縄ではいかないかもしれませんね」
衣玖は紫が記憶を失う原因について詳しく聞いていなかったが、先程紫を引き込んだ黒い影がその元凶なのだろうと予測を付けていた。
あそこから感じたのは壮絶な悪意、あれほどの怨念を前にして、天子が紫を説得すれば解決することなのだろうか。
もしその先があるのなら、天子を更に支えてくれる人が必要かもしれない。
「急用ができました、私はこれでお暇します」
「なんだ、天子を待たないのか?」
「心配ではありますが、ここはあの方を信じてやれることをやります。まあ憎まれっ子世にはばかると言いますし大丈夫でしょう。それではこれで」
そう言うと衣玖は羽衣を翻して部屋から出ていってしまった。
手を振って送り出した萃香に、道士服に傘を背負った橙が話しかけてきた。
「萃香さんはどうします?」
「そうだねぇ……」
萃香はつぶやいて、泣き喚く幽々子の姿に視線を移す。
妖夢が慰めてあげれば良いが、半人半霊はぐったりとしていてそれどころではないようだ。
しょうがないなと亡霊の横で腰を下ろす。
「まあ、ここにいようかな。やることもないしね、天子のことを期待して待つよ」
「それじゃあせめて靴は脱いで下さい! 非常識ですよ」
「お、おう、ごめんね」
言われてみれば緊急事態なので土足で上がってしまっていたことを思い出し、萃香は靴を脱ごうと手にかけた。
だがそばにいた橙の眼孔が大きく開き、ピリピリとした空気を醸しながらさっき天子が消えた空間を睨みつけた。
「どうしたのさ、橙――」
「――来る!」
橙が叫んだ直後、空間が不気味な低音を立てて歪み始めた。
泣いていた幽々子さえも驚いてそちらに目を向け、誰もが息を呑みその光景を見つめる。
部屋の中に開いたねじれた穴の中から、黒い手が伸ばされた。
「歪んだ境界を超えてきた……」
呆然と妖夢が唱え、身体を起こした。
黒い手の根本は固体を保っていられずに、どぷんと粘ついた水飴のように畳の上に落ちる。
得体の知れない存在は苦しそうに酷くもがいて、なんとか歪な人型を作り上げたが、四肢が全て手で出来ているというおかしな形になってしまい、そのまま二本の手を脚として立ち上がる。
影は腕から、胸から、脚から、背中から、無数の目を開き、空間を揺らす産声を上げた。
――――キイエアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
「境界の住人だ」
紫に続く異物が、怨嗟を孕んで顕現した。
◇ ◆ ◇
境界を超えた天子を待っていたのは、虚無の闇だった。
最初は黒く切り替わった視界が晴れるのを期待して待っていたが、いつまで経っても瞳には暗闇しか映らない。
「これは――」
寂しいなんてものじゃない、そんな情念も浮かばないようなただただ黒い世界。
重力もなく、天と地もなく、命もない、あらゆる物質が形作られる原初より更に以前、はるか幾億の未来で生まれる光を待つしかない混沌の闇。
空気があるとも思えないが、とりあえず生命活動に支障はない。もしかしたら境界を超えた時点で、天子自身すら生と死の概念がなくなっているのかもしれない。
ここからどこへ向かえば良いのか、途方に暮れる天子であったが、背中に視線を感じて全身を粟立たせた。
誰だ 誰だ 誰だ
眩しい 眩しい 眩しい!
人だ 人だ 人の子が来た!
境界を超えて 世界を超えてやって来た!
歓迎しよう 歓迎しよう
頂戴 頂戴
我々の知らない光を 命が持つという情熱を
寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ!!!
闇に紛れ、形すら持たない亡者どもが天子の忍び寄り、身体を掴んだ。
頭に響く声と、肌に粘りつく気色悪さだけを感じて、天子は狂乱して叫んだ。
「い、嫌! 近寄らないで!」
緋想の剣を取り出して気質を通すと、形成された刀身が灯りとなり自分の体にまとわりつく黒だけが見えた。
それを振り払おうと我武者羅に剣を振り回すが、刀身には何の手応えもなく空振りするだけ、
焦燥のまま、自らの腕ごと黒い手を切り落とそうと刃を振り下ろしたが、ゴムを叩くような感触だけで攻撃が通じない。
天子は抵抗することもできず、ただ身体の存在が失われていくのを感じた。
「う……が……奪われる……」
声とともに絞り出された熱すらも、闇の中に溶けていく。
身体中の凍える感覚の中、天子はふと藍の言葉を思い出した。
「き、気質……を……」
影がまとわりついた腕を力づくで動かして胸元に伸ばす。
首飾りを力いっぱい握りしめ、宝石に直接自分の気質を叩き込んだ。
すると猛烈な勢いで宝石から紫色の輝きが湧き上がり、洪水のように広がって天子の身体をすっぽりと包み込んだ。
影の手はその紫色の燐光に触れた途端に苦しむように悶えて、溶けるように消えていく。
なんとか一命をとりとめた天子が、自らを囲う紫色の光景を見渡す。
「変な色してるけど、これ本当に気質だわ。藍のやつすごいじゃない……」
自分の周りを滞留して影を撃退したこれは、今までに天子が感じたことのない気質だ、きっと天界の誰もが知らない未知のエネルギーに違いない。
藍の偉業に感心していたが、安心する暇もなく再び影が取り付いてきた。
「うっ、こいつらしつこい!?」
影の手は紫色の気質に阻まれて輪郭から徐々に溶かされながらも、泥の中を這いずるように無理矢理まとった気質の下に潜り込もうとしてくる。
このままここにいるのは拙いと思い逃げ出そうとするが、どこに行けばいい、この世界のどこに安全な場所がある。
迷いながら飛び出そうとした天子の心に、こちらに来て初めて明るい声が響いた。
『――こっちへ! 手を伸ばして!』
天子はハッとして声のした方を見上げる。
「この声は――」
聞き間違えるはずがない、この声は、天子が求める聞き慣れた声。
導かれるままに天子が伸ばした手に、闇の中から白い手が現れて握りしめた。
その瞬間、天子が頭の上から真っ逆さまに落ちるような感覚と共に引っ張られ、あっという間に視界が反転し明るい空間が現れた。
同時に懐かしい重力を感じて青々しい芝生に降り立つ。鼻から吸った空気が強く肺を内側から押し上げて、青一色の空が網膜を叩いた。
だがそんなものが気にならないほどの感動が別にあった。
たった今、天子の手を引いてくれた人者の姿は、紛れもなく天子が求める大切な――
「紫!」
歓喜の声を上げる天子を掴んだまま、紫色のドレスを来た女性が優美に微笑んだ。
「いらっしゃい世界の外側へ。歓迎するわ比那名居天子」
「紫、よかった、また会え……」
だが天子は顔色を変え、握っていた手を振り払って一歩下がる。
首飾りを握りしめ、目の前の女性を睨みつけた。
「いや違う、誰なのあなた」
微笑む女の首元には、天子が渡した首飾りはどこにもなかった。
◇ ◆ ◇
その日もまた、天界は地上で起こっていることなど知らないまま、平穏な時が流れている。
日々の退屈を享受していた比那名居家総領の耳に、衣玖が謁見したいという情報が天女を通して伝わってきた。
夜も深まってきたこの時間になんだろうと思いながらも、総領はいつも天子がお世話になっているのだからと、これを快く迎えた。
客間に招き入れた衣玖を椅子に座らせ、自分も机を挟んで反対側に腰を下ろす。
「何の用かね永江衣玖、いつもと違う様子だが」
衣玖を家に招き入れたのは今日が初めてだ、こちらから会いに行くことはあっても向こうから来てくれることは極めて少ない。
目の前の竜宮の使いはいつもと変わらない様子だが、内心は興味津々で尋ねてみた。
「八雲紫が暴走を開始しました」
告げられた状況は予想を遥かに超えた事態で、比那名居家総領は目を剥いてしばし呆然とした。
あまりにいつもと変わりない様子で言うのだから冗談なのかと思ったが、嘘を言う性格でもないことは総領も知っている。
いきなり突き付けられた事実にうなだれて、重い頭を手で支える。
「……そうか」
紫がきっかけで境界の崩壊すれば、それは世界そのものの破滅につながりかねない話だが、幻想郷にはそのためのカウンターが多数用意されている。
最悪の場合、龍神が幻想郷をまるごと消滅させることですべてを丸く収めるだろう。
総領はあの非道な妖怪がどうなろうと知ったことではないのだが、娘がそれにどれだけ悲しむのかを思えば気が重い。
だが逆に言えばそれだけだ、娘だけでも天界に連れてくれば天子まで死ぬことはあるまい。
「そして天子様は紫さんを追って、境界の隙間に行きました」
しかしそんなものは儚い幻想だと衣玖に切って捨てられた。
「そ、それをお前は止めなかったのか!?」
「ええ、私が言って止まる方でもないですし、せめて見送りました。それに私は天子様が死ぬとは思っていませんよ」
立ち上がって憤る総領に、衣玖が当然のように語る。
「あの方は必ず紫さんを連れて戻ってくるでしょう。しかし何事にも代償はつきもの、その後にこそ真の修羅場があるのではないかと、私は予想しております」
実の父よりもこの竜宮の使いは天子を厚く信頼して、総領は自らの不甲斐なさを見せつけられたように、微妙な心境に顔に苦悩を浮かべた。
母が亡くなった時も決して狂った父を見捨てなかった天子のことだ、むしろそうでなくてはおかしいのかもしれない。
何も言えなくなりただ押し黙っていると、衣玖は静かに改めて問い掛けてきた。
「天子様のところに行かないのですか?」
「今更、私が行ってどうなるというのだ」
戻ってきた天子が更なる苦境に飛び込むのを咎めたところで、アレは恐らく父の話も振り切って自分のしたいようにするだろう、天子の我の強さは家族として十分知っている。
だがそれよりもなによりも。
「私に、父親ぶる資格などもうないよ」
妻がなくなって悲しいのは娘だって同じはずなのに、まるで自分だけが苦しいのかのごとく喚き散らし、あまつさえ娘の優しさに甘えて暴力を振るう。
父として最低の行為をしてきた自分が、天子に父親らしい言葉を掛ける資格はない。
「……確かに、父親に資格というものがあるのなら、失礼ながら総領様はすでにそれを失っていることでしょう」
容赦ない言葉が総領のプライドを穿たれ、弱気になった父は反論もできずに頭を垂れる。
「しかし資格があろうとなかろうと、後ろ指をさされ罵られることになっても、出来る限りのことを娘にしてやる、それが父親というものではないですか?」
それを聞き、天子の父親は天啓を受けたような面持ちで顔を上げた。
いや、教えられたというよりも、思い出を掘り起こされたと言うべきか。
懐かしい記憶、まだ人間として地上に合った頃、同じことを自分で唱えたことがあった。
「……ははは、言ってくれるな永江の」
体の芯で燃え上がってくる意識がある。
遠い千二百年以上もの昔にも、この情熱に身を任せていた気がする。
「私にもな、父親としてやれることをやろうと燃えていたことがあったんだ」
「はい」
「資格がなくとも、やれることは残っているんだろうか」
「ありますとも、必ず」
その時の良き父親たらんと奮闘していた気持ちが、まだ彼のうちで生きていた。
そこでふと思い出した、昔は自分が道を間違えると、いつも妻が叱ってくれていたことを。
元より自分は親として優秀ではなかった、傲慢で短期で、すぐに小さい地子を怖がらせていた、それなのに娘との仲が悪くなかったのが、妻が間に入って取り持ってくれていたからだった。
でももうその妻はもういない、目の前の妖怪だって天子の為に助言してくれることはあっても、妻のように家族全体を包むほど親身になって叱ってくれはしない、もう誰にもその役割を求めることは出来ない。
自分はその助けが無い中で頑張っていくしかないのだと、今更気づいた。
「よし……殴られる覚悟で、やってみようか」
長い時間を掛けて、父親はようやく妻の死を受け入れ、無意識のうちに妻を求めて弱気になっていた心に喝を入れる。
過去の頑張っていた頃の自分に背中を押され、総領は重い腰を上げた。
◇ ◆ ◇
「いや違う、誰なのあなた」
鋭い質問を放たれた女は、天子から敵意を受け警戒されても表情を崩さずに、優美に佇んでいる。
「あなたの質問に答えてあげてもいいけど、それよりもまずあなたは大丈夫? 意識ははっきりしてるかしら、自分が誰かはわかる?」
紫と同じ顔の何者かが、人を煙に巻くような胡散臭い表情で質問をかぶせてきた。
一応は心配してくれてるらしい言葉を前に、天子は気を緩めないまま頷いた。
「……特に、問題はないわ」
「そう、それじゃあ……お話をする前に、雰囲気に合ったものでも作りましょうか」
そう言って女性は手袋をはめた手を叩くと、芝生の上に洋風の白いテーブルと、向かい合って置かれた二つの椅子が現れた。
紫はよくスキマから色んな物を呼び出していたが、今のは呼び出したというよりも無から物質を作り出していた。
テーブルの上にはティーカップとポッドが並べられており、驚く天子の前で女性は椅子に腰を下ろしてポッドを手に取り、カップに紅茶を注ぐ。
「座って頂戴、お茶くらいは出せるわ。もっとも記憶から再現しただけのものだから味は保証しかねるけど」
迷った天子が時間を掛けて椅子に座ると、女性は嬉しそうに笑みを深める。
紫に似た女はあからさまに怪しいが、とにかく天子には情報が足りない。危険かもしれないが話を聞き出す必要がある。
注意を向けたまま天子はティーカップを手にとって紅茶を口にすると、舌先から感じた強い苦味に軽くむせこんだ。
「何よこれ、味だけ緑茶じゃない!? それに超ニガッ!」
「えっ?」
女性が紫の顔で呆気にとられた表情をすると、自分のカップを手にとってお茶を口に含み、舌の上で転がして味を確かめる。
だが腑に落ちない様子でカップを置いて、残念そうに溜息を漏らした。
「うぅん、駄目ね、味の基準なんてよくわからないわ。記憶を頼りに再現しただけじゃ無理があったわね」
「なんなのよこれ、毒じゃないでしょうね」
「体に害は無いはずよ、多分ね」
余計な一言に天子が嫌な顔をするのに、女性は気にせず言葉を続ける。
「ここは境界の隙間に私が作り上げた領域。世界が生まれる以前の無限の闇には、同時に無限の可能性が内包されている。この天も大地も椅子もお茶も、私がそこから取り出してみたの、失敗したけど」
言っていることは天子にも曖昧にだが理解できた。改めて空をみあげてみると、まるでペンキを塗りたくったような不条理な青一色だ。
これが無理矢理作ったものだとすれば、その不自然さにも納得がいった。
しかし、それだけの権能を持っているとなると紫以上の存在だ、ますます目の前の女性が何者なのかわからなくなる。
組んだ手に顎を乗せ笑いかけてくる女性に向かって、天子は視線を乱さずに問いかけた。
「あんたは、紫なの?」
「ふふふ、まっすぐ本質をつく質問ね。私に残った記憶の通りだわ」
天子の質問に、女性はご満悦そうにころころと笑う。
「私は紫であって紫でない者。八雲紫が今まで生きるまでに得た思い出の残り滓よ」
「……もっと正確に答えなさいよ、意味分かんないわ」
「そうね、それはいいけど……今はそれよりその首飾りが気になるわ」
「あんたまで? 渡さないわよ、紫のは別にあるんだから」
天子は紫水晶の首飾りを手で覆い、隠すように身を捩る。
しかし女性は手の上からでも宝石が見えるかのように、天子の胸元を見つめてくる。
「その宝石には特殊な術式が掛けられているわね、これを付与したのは藍かしら」
「藍を知ってるの?」
「もちろん、紫に関することはすべて知っていますとも。なるほど気質のコンバーターね、気質をこの世界の裏側に合わせて反転させる術式。小規模ながら、緋想の剣の一歩先を行った秘術か」
女性は見ただけで首飾りに掛けられた術式が何なのかピタリと言い当てた。
「天界の者たちが永い時間をかけてとうとう成し得なかったというのに、私の協力があったのは確かだけど、藍の執念も本物ね。八雲紫は、幸せものだわ」
女性は手を膝の上において佇まいを正すと、改めて天子に向かう。ようやく色々なことを話す気になったようだ。
「さて、私が拾った記憶が確かなら、あなたは何度か八雲紫が闇に沈んでこちら側に帰るのを目にしているわね。そして八雲紫が記憶を失うのを知っている。でも、何で私が闇に沈んでこちら側に来ないといけなかったかわかる?」
「……いや、知らないわ」
気になるワードが散見されたが、とりあえず天子は答える。今はその原因のほうが気になった。
紫もそれは教えてくれなかった、というよりも本人でさえ知らなかった。あの大好きな紫を苦しませた元凶がなんなのか、それを見極めることは重要だ。
「元々八雲紫という存在はね、こちら側で誕生した存在なのよ。この境界の隙間の中で言えば、神と言われるにふさわしい存在でしょう、もっともその概念すらこちらにはないけど」
紫が神とは大それた話だと天子は思ったが、それだけの力がなければ単独で境界を超えることなどできないのかもしれない。
「八雲紫は強力な存在だったけど、この闇の中ではその心は満たされなかった。だから持ち前の境界操作で世界の境界を捻じ曲げてそちら側に顕現した、自分に近しい存在である妖怪という枠組みに自分を当てはめてね」
「まあ、何もないこんな場所じゃ誰でも嫌よね」
自分だって耐えられないだろう、今いる場所はまだマシだが、さっきのような恨めしい声しか無い闇の中に一人でいれば一晩で発狂する自信がある。
「そうやってそちらの世界に定着した紫だけど、本来は世界から見て異物な存在である以上は何らかの影響で境界を歪めて、世界を崩壊させてしまう、それを鎮めるために定期的に自分の身を境界の隙間に差し出す必要があった」
「紫の存在自体が、境界を歪めるってこと?」
「半分正解で半分間違い。確かに紫は自分の意思にかかわらず境界を歪める可能性もあるけど、本当はそっとしておく分には何の問題もないはずなの。だけどそれを捻じ曲げて歪めるものがある」
件の原因に差し掛かり天子が背を伸ばす。
緊張する天子の前で、謎の女性はぽつりとたった一つだけ呟いた。
「怨念よ」
先程、紫の家で聞いた悲鳴を思い出し、天子は息を呑みこんだ。
「想いはあらゆる境界を超えて届く、それは負の思念も同じこと。この世界の隙間には紫の他にも住人は存在する、そして彼らはみんな光ある世界に焦がれてる、だから一人だけ抜け駆けする八雲紫の存在が許せないのね。妬ましくって恨めしくって、その怨念が八雲紫の存在をもう一度こちらに引きずり込もうとする。八雲紫自身も無意識下に境界を正して自衛しているけど、それが続けば段々と能力が疲弊して一度こちらに帰還して身を癒やさないといけなくなる。そうして戻ってきた羨ましい八雲紫が向こう側で過ごした証、つまりは記憶を怨念がズタズタに引き裂いて奪い去ってしまう。それが記憶を失う原因」
「何よ……何よそれそんなの!」
明かされた真実に、天子は机を叩いて立ち上がった。
押し出された椅子が草むらの上に倒れ込み、端から粒となって消えていく。
女性が机を挟んで舐るように見つめてくる前で、天子は不条理に怒りを吐き捨てた。
「紫は何も悪くないじゃない! それなのに何でそんな……!!」
「悪いか、で言えばそもそも境界を超えたこと自体が悪いけどね」
「だからって!」
確かに紫のしたことは迷惑かもしれないが、それは天子たちの世界に住む者の話で、この世界の隙間には関係ない話ではないか。
ただの逆恨みで、今まで紫が辛い思いをしてきたことが許せず、天子は紅茶に波紋が過ぎるのを見つめながら、激情に拳を震わせる。
「私はね、その時に引き裂かれた八雲紫の記憶達が、長い時間をかけてお互いに引き合って、集まって、出来上がった、記憶情報の影……いや、むしろ光かしらね」
そして女性の正体を聞かされ、天子は驚いて顔を上げた。
「……ただの情報が、そんなことできるの?」
「物だけじゃなく情報にだって想いは残るわ。記憶に残留した想念が少しずつお互いを引き寄せあって集まって、ある程度大きなものになれば自立思考をするくらいにはなる。幽霊みたいなものと考えてちょうだい、オリジナルほどの力もなくて、この狭い空間でしか自由が効かない非力な存在よ」
天子は女性の姿に合点がいった、確かにそれならば紫の姿形をしていることが正しいだろう。
彼女は本物の紫でないものの、間違いなく八雲紫でもあるのだ。
同時に確信する、目の前にいる紫はきっと自分の味方だ。
「……だいたいの状況はわかった」
情報をまとめ、結論を出した天子は背筋を伸ばし、椅子に座った紫を見つめる。
「あんたも紫だっていうのなら、一緒に行きましょうよ! それで本物の紫も助けてここを出るわよ!!」
勇ましい言葉に、記憶から生まれた残光の紫はふっと笑いをこぼした。
「そう、私までか」
「当たり前でしょ、紫は紫じゃない。記憶がどうとか関係ない」
紫がもう一人いるなら別にいいじゃないかと、天子は軽い考えでいた、本物の紫は気味悪がるかもしれないが二人まとめて抱きしめてあげればいい。
「だけどあなたに八雲紫を助けるのは無理よ、方法なんて思いつく?」
「それは……」
「あなたにできるのは、精々八雲紫が記憶を奪われるその瞬間を見守るだけ、それも一度でなく彼女がそちら側で生きつづけるかぎりずっと。そんな残酷なことを見過ごして、それでも生きろなんて傲慢なことを彼女に言うの?」
現実を指摘され言葉が詰まる。
紫のために天子ができることは本当になにもないのだ。
できることはむしろ助けることの逆、紫を不幸にすることだけ。だがそれでも――
「……言うわ、傲慢でもなんでも、死んじゃったら本当に終わりじゃない。紫の苦しみは私にはわかってあげられないけど、死に逃げなんて一番悲しいことさせられない」
「八雲紫に恨まれるかもしれないよ」
「――――!」
冷酷な物言いを、まるで脳を金槌で叩きつけてきたように感じた。
眩む頭で紫のことを考える。優しく許してくれた紫、気遣って何度も会いに来てくれた紫、遊んでくれた紫、自分のことを抱き締めてくれた紫。
恨まれたならそれらがすべて失われてしまうかもしれない、紫の胸から感じたあの温かさが永久に遠ざかってしまう。
思わず叫びたくなるような哀愁だった、紫に会って幻想郷で得たすべての幸福が闇に包まれるようだった。
もし紫の心が離れれば、再び手にした幸福など一つもこの手に残らないだろう。幻想郷を作った紫に恨まれれば、もう自分の心はあの場所を楽しむことなど出来なくなる。
凄まじい苦痛が頭を締め付け、目をぎゅっとつむり、そして開く。
「それでも構わない、それで済むんなら喜んで恨まれてやる」
「………………」
残光の紫は何も言わない。
口を閉じたまま天子を見つめて話を聞いている。
試すような無表情に、天子は一歩も引くことなく自らの意思を言い切った。
「紫が苦しむっていうのなら、何の心配もなく幸せに生きられる方法をいつか作る。何百年かかっても見つけてみせる、その時まで紫には不幸に耐えてもらう」
口に出してみればなんとも酷い話だ。無責任で紫の気持ちをちっとも考えてあげられていない。
これが自分にできる限界だ、それを認めそれを行うと言った、なんて冷血な肉袋なのだと、天子は自己嫌悪で紫より先に死んでしまいそうな気持ちだった。
だがそれを見ていた残光の紫は違った。
「極光……ね」
呟いた彼女の顔が悲しみなのか嬉しさなのか、天子にはわからなかった。
「卑屈な私とは正反対。不幸を踏破してでも幸せを追い求める、そんな光の塊のようなあなただから、八雲紫は惹かれたのね」
そう言って残光の紫は机に手をつくた、ドレスを揺らして立ち上がった。
「良いわ、それだけの覚悟があるなら言っても止まらないでしょうし、少しだけ協力してあげる。まずはアドバイス、八雲紫を見つけるには想いを辿りなさい。ここは方角も距離も存在しない世界、闇雲に探しても見つからない。けれど八雲紫はどんな時でも心の何処かであなたの光を求めているわ。そのお揃いのペンダントが道標となるでしょう」
「これが……」
天子が首飾りを手にとって眺める。
元々は衣玖の提案で送った気持ちが、ここにきて意味を持ち始めてきた。
「でもこの世界であなたの存在は脆弱過ぎる、一人では死ぬだけだわ。もうすぐここにある人物が来るでしょう、彼女を説得して協力してもらいなさい」
「彼女? 誰なのそれ」
「会えばわかるわ、あなたもよく知る人よ」
残光の紫は曖昧のまま答えてくれなかったが、こんな場所に誰が来るという事実だけで天子はとても驚いていた。
自分だって死に物狂いでここまで来て、実際死にかけたと言うのに、協力者に足るその人物とは何者なのだろうか。
「そして良いものをあげるわ。これから渡すものは単体ではあまり意味が無いでしょうけど、もしかしたら役に立つかもしれない」
最後の残光の紫が自らの胸に手を当てる。
その挙動に何故か天子は嫌な予感が走った。
「紫……何をする気?」
「言ったでしょう、私は幽霊みたいなものだと」
そう言って紫は、自らの胸をえぐり、手を突き刺した。
手首まで胸に埋まる光景を見て、天子は絶句しすぐには言葉を紡げなかった。
「記憶の集合であるこの身体は想念の塊、その全てを純粋な気質に変える」
「気質って、そんなことしたらあんたは!?」
それはつまり、残光の紫自身をエネルギーそのものに変換するということだった。
当然、そんなことをすれば残光の紫は自らの存在は薪として燃え尽きてしまう。
「いいのよ、どうせ私は何も生み出せない記憶の残り滓。八雲紫ならどう振る舞うか、それを演じているだけで願いもないただの人形に過ぎない。そのくせ容量だけ大き過ぎて、私というメモリーを八雲紫に書き込もうとすれば心が耐えられない、せめて気質として活用するくらいが関の山。辛うじて発揮できる能力も、この前ほとんど消費してしまった」
「何も出来なくたっていいじゃない、消えなくたっていいでしょ!」
その暴挙を止めようと天子したが、机を押しのけて紫の腕を握り、引き抜こうとした。
しかし二人のあいだに結界が敷かれ、天子は弾き飛ばされ、草むらの上に尻餅をついて倒れ込んだ。
「思い出でしかない私に願いなんてないんだもの、そんなのがいても邪魔なだけよ」
「嘘よ! あんたも幸せになりたいんじゃないの!?」
残光の紫に、身体の端から紫色の炎が燃え上がり始める。
身を灼かれながらも淡々と語る紫に、天子は食らいついた。
「私を助けてくれたのはどうして!? 色々教えてくれたのはどうして!? それを果たさないまま消えるなんて言わないでよ!」
それを聞き、紫は何かに気付いて息を呑むと、優しい目をして深く息を吐く。
「そうね……私にも願いはあった、でもそれももう叶った」
何もない場所で、ただ散り散りになった記憶を集め続けてきた残光の紫は、未来になんの期待もしていなかった。
本物の紫が記憶を失う繰り返しを憂いながらも、解決できないこと諦めて傍観していた。
だがある日、非常に強い力を持った記憶が現れた。それは引き裂かれ大部分の情報を奪われながらも、凄まじい執念で隙間に住まう者たちの魔の手から逃げ延び、独力で残光の紫の元へ辿り着いた。
『この記憶は――絶対に――失くしては、いけないものなの――!!』
必死に語るその記憶にわずかな可能性を感じ、残光の紫は溜め込んだ力を開放して境界の向こう側へ送り出した。
自分から何かをしようなどと彼女には初めてだった、自分から前に進んで歩く新鮮な感覚に気分を高揚させた。
長きに渡って停滞したいた自らを動かしたきっかけは、他の誰でもない天子だ。
だから残光の紫は実際にこの目で彼女を見て、声を聞いてみたかった、それが初めて生まれた願いだった。
そして出会った彼女は拾い上げた記憶に映った通り素敵な女の子で、そんな輝かしい彼女が自分にも手を差し出してくれたことは幸福だと思った。
「記憶の死と再生の旅、その果てに会えたのが貴女でよかった」
「果てじゃない、まだ行ける!!」
「いいや行かない、行く必要もない」
ずっと喪失された記憶を集め続けながら、八雲紫本人を不思議がっていた。
何故あんなにも辛い思いをしながら、それでも境界を超えてあちらへ行こうとするのか。
異物だと危険視され、やっと掴んだ幸せな思い出もすぐに失ってしまうのに。
だが今ならわかる、きっと八雲紫は、彼女――天子みたいな人に会うために境界を超えたのだ。
「あなたみたいな素敵な人に出会えて私は幸せだった、それだけでもう十分過ぎだわ」
「何で、あんたはそんな……自分勝手なのよ……!」
天子がただの情報の塊にすぎない自分にも泣いてくれている。
申し訳ないが、彼女の涙がとても嬉しい、今まで何もできなかった自分の存在にも意味はあったのだ。
紫色の炎は全身を包むほど大きくなり、同時に二人の周囲から色が失われ始めた。
残光の紫の消滅とともに、彼女が作ったものも維持できなくなる。テーブルは上に乗った紅茶ごと掻き消えて、空の青さも、草むらの緑も溶け始めて行き、その下から白い空間だけが現れた。
真っ白になった世界の中で、残光の紫はそっと呟く。
「せめてどうか最後に……八雲紫に、あのいたいけな少女に、あなたとの縁が残り続けますように」
「――約束する、私は絶対、紫から離れないから、だから」
天子の涙に、かつての紫は願いをかける。
頼もしい返答だ、いつまでも傍に寄り添って支えてくれる天子の姿がありありと目に浮かぶ。
きっと天子は、紫にまつわるあらゆる闇を払い退け、導いてくれるのだろう。
笑いかけてくれるいつかの光景を夢見て、残光の紫は胸の奥が温かくなり、顔が綻ぶのを感じた。
ああ、これが愛しいと言う気持ちなのだろう。
残光が炎となって消える、その最後の瞬間を、笑顔で締めくくって。
燃え滓の後には、紫色の霧だけが残った。
天子は目の前に浮かぶその燐光を放つ霧の灯りを見て、紫であって紫でない者たちへ感謝の言葉を掛けた。
「……ありがとう、紫」
涙で濡れた目元を拭い、手をかざして渾身の力で要石を作り出した。
全高およそ50cmの要石、戦闘で用いるには平均的なサイズだが、込めた力は何十倍もの密度だ。
はち切れそうな重さを堅牢な外郭で押さえ込む要石は宙に浮かぶ一つの大地、それを紫色の灯りに押し込んだ。
紫色の気質の粒は要石の中に浸透していき、やんわりとした燐光を放ちながらも要石に定着した。
初めて会ったかけがえのない友人からの、大切な贈り物だった。
「……紫を探さないと」
複雑な感情を噛みしめる暇などない、元々天子はそのためにこちら側に来たのだ。
しかし空っぽになったこの白い領域からどうやって出ればいい、あの暗黒の中に踏み入れればまた影達が天子の存在を奪いにかかってくる。
「――藍が予想したとおり、本当にあんたがここに来たのね」
悩んでいた天子の背後から、何者かが話しかけてきた。
「勘で飛んできたけど、紫より先にあんたと会うなんて、どういうことなのかしら」
天子が目を丸くして振り向いた先で、紅白の袖が揺れる。
「霊夢……!!」
お祓い棒を持った幻想郷の素敵な巫女が、陰陽玉を両脇に従えて、空を飛んで現れた。
◇ ◆ ◇
夜遅くに紫に叩き起こされた霊夢は、すぐに完全武装して幻想郷を見て回り、異常が見受けられないまま、博麗神社で待機し続けていた。
柱を背に座ったまま仮眠を取りながら、紫からの連絡を待っていた彼女に訪れたのは、藍から告げられた事実だった。
紫の存在が限界に達したことを知り、藍に連れられて急ぎ紫の家へ向かっていたのだが、その途中で紫が境界の隙間に転移したことを藍がすぐ気付き、それを伝えられた霊夢は単身境界を超えて、世界の裏側に到達した。
そして勘に従って闇の中を飛び回り、天子の元へとたどり着いたのだ。
「で、何であんたがここにいるの」
霊夢からの質問に、天子はどう答えればいいか戸惑った。
返答を先延ばしにし、困惑する頭で状況を推察する。
何故ここに霊夢がという疑問はすぐに答えが出た。
紫が用意した自身に対するカウンター、今回の事態を収束させるために呼び出された『紫を殺しうる存在』こそが彼女に違いない。
残光の紫は彼女と協力しろと言っていた、だが霊夢と協力なんてできるのかと天子は不安と恐怖が渦巻いた。
博麗の巫女の性質は天子も知っている、規律を重んじるというよりも、規律そのものが生を持ったような人間だ。
何も起こっていない時は無欲で怠惰な人間に過ぎないが、こと異常が発生すれば誰よりも冷静に冷酷に、あらゆる私情を殺して幻想郷の守護のために動く。
霊夢の目的は間違いなく紫の抹殺、それなのに紫を助けて欲しいなどと言ったところで素直に手伝ってくれるはずがない。
「――――ぁ」
天子は一言目を迷い、乾いた喉から霞んだ声が絞り出される。
説得は難しい、だがやらなければならない、紫を助けるために霊夢の助けが絶対に必要だ。
霊夢は単独で境界を超えこの境界の隙間に足を踏み入れ、誰の助けもなく天子のもとにたどり着いたのだ。
つまりはこの世界でも霊夢は普通に活動できるのだ、対して天子は自衛で精一杯でこちら側では大した戦力にはならない。
何としてでも霊夢を説き伏せなければならない、どんな対価でも支払う覚悟で天子は口を開いた。
「紫を助けたいの! 協力して!」
「いいわよ」
霊夢は短く応えて来た方へを振り向いた。
「……は?」
あまりにもあっさりとした返答に、天子は言葉を失った。
「……えっ、いいの!? 本当に!?」
「何よ、手伝うって言ったじゃない」
「いや、そうだけど……」
霊夢がこちらを騙しているとは思えないが、彼女とでは目的が違うはずだ。
天子は紫を助けたいと思っているが、霊夢はただ紫を殺せれば幻想郷の守護という目標を達成するだろう。
それなのに何故、紫を助けたいという確実性のない天子の願いに、迷う素振りもなく協力してくれるのか。
「あんたは紫を殺すためにこっちに来たんだと思ってた」
「そのつもりだったわ」
「ならどうして」
霊夢が自分に協力してくれるのは道理に合わないと、天子は尋ねる。
すると巫女はそっぽを向いたまま、短く呟いた。
「私にも欲しいものがあるのよ」
妙に決意めいた霊夢の表情が何を意味するのか、天子には計り知れなかった。
「さあ行くわよ、時間はそうない。まずは紫を探さないと、あんたはあいつがどこかわかる?」
「う、うん、多分なんとかできると思う」
天子が胸の宝石を指で摘み、そこから感じるものを意識する。
「紫が私を求めてくれているなら、きっと私を導いてくれるはず」
すべての決着が付いた時に、自分たちの関係がどうなるかはわからない。
けれど今は紫との間にある繋がりを信じた。
◇ ◆ ◇
世界の裏側の片隅で、暗闇の中に浮かぶ紫色の球体があった。
その球体は複数の結界によって形成されており、いくつにも重ねられた薄明かりの幕の中で、八雲紫は身体を縮こまらせて周りを見る。
幕の外側に続く無限の暗闇から、形を持たぬ亡者たちが手の平を叩きつけてくるのが彼女の眼に映った。
「暗い場所ね、ここは……」
彼女を包むのは八重結界。それは四重結界を超える無数の境界で形作られた最高の結界だ。
紫が単身で出せる力の限界、持ちうる限りを振り絞った結界が、蠢く影から術者を守っていた。
だが永遠にこのままではない、強固な結界も時間とともにすり減り、いずれは消滅して記憶を奪われる。
その前に、紫は殺されなければならない。
無意識の内に首飾りを握り込み、赤子のように身体を丸めて細い声を漏らした。
「大丈夫よ、彼女はきっと来るはず……早く来て霊夢……」
博麗家は、元を辿れば遥か昔に天界を作った者たちの血筋だ。
ただし彼女たちの家系は天界との関係を絶ち、子を生んで能力の継承を繰り返し、先祖代々能力を磨いてきた。
そして幾星霜の時を経て、霊夢より数代前の博麗の巫女はあらゆる境界を超える能力者として完成したのだ。
だが博麗の血筋はスキマ妖怪を倒すこと、それ以外に生き方を知らなかった。
力を追い求めている間は良かった、しかしかの妖怪を倒してしまったらこれからどうすればよいのだろう。天界からも忘れ去られ、空に浮き地に足つけない我らがこれからどこに往けばよいのかと、完成された巫女は嘆いた。
そこで紫は巫女に取引を持ちかけた。幻想郷において博麗の巫女が役割を持つ規律を作る、あなたたちはその中で生きればいい。
その規律には何かあった際に自分を倒す安全装置としての使命も盛り込めば、先祖の悲願も裏切らずいつか果たせる。
当時の巫女はこの取引に乗り、幻想郷の守護者と成った。
彼女たちにとって幻想郷の規律は唯一のアイデンティティであり、生きる理由であり、命の意味はそこに集約される。
だから博麗の巫女にとって規律は絶対だ、必ずその使命に乗っ取り紫を抹殺しに来てくれるはずなのだ。
不安に怯えながら待ち続けた紫が、暗闇の果てに清涼な気を感じて立ち上がった。
「霊夢! 来てくれたのね」
目を凝らして結界の外を見つめると、這いずる手の隙間から闇を疾走する人影が見えた。
希望を得て表情を明るくした紫だったが、霊夢のそばにいる人物に気付き愕然とした。
「どうして、天子が……!?」
◇ ◆ ◇
何も見えない空を天子は要石に乗って駆ける。
太陽もない世界であったが、要石と首飾りから立ち上る紫色の気質が天子を護り、隣を行く霊夢の姿を淡く照らし出してくれていた。
お陰で天子は孤独に取り込まれることなく、他者を通じて自らの存在をはっきりと認識し自我を保つことが出来ている。
「本当にあんたの行く方に紫がいるのね」
「うん、こっちから引っ張られるような感覚がある!」
根拠のないおぼろげな感覚に沿って飛ぶ天子であったが、事実として彼女は紫へ向かってまっすぐ突き進んでいた。
ふと天子がチラリと横に視線を向けた先を、いくつもの針が過ぎ去って闇に潜む何者かを蹴散らす。
「前だけ見てなさい、雑魚は私がやるわ」
「う、うん、頼んだわよ!」
霊夢は戦っているらしいが天子には何が何だか分からない。闇の中に何者がいようと触れられない限り天子はそこに何がいるのか見えもしないし、倒された何者かの断末魔も聞こえない
だが視認できないだけだ。見えない敵に怯みながら進む天子の後ろから、霊夢が四方八方に針や札をばら撒き、確実に何かを葬っていくのを確かに感じる。
もし天子が特殊な眼を持っていれば見えただろう、怨霊よりも禍々しい心さえ保てないなりそこない共が、何百と群がり返り討ちにあう戦場を。
浴びせられる呪いを御札が祓い退け、顎のようにその身を開いて天子を覆おうとするハラワタを針が突き穿つ。
飛び掛ってくる者のことごとくがお祓い棒に叩き伏せられ、無惨な悲鳴すら誰にも伝えられないままその存在ごと消失する。
本気になった博麗の巫女は、境界を超えるという意識すらない。
あらゆる障害と重力を無視して、世界の壁すら超越し渡り切る。
本来見えないはずのものも当たり前のように知覚し、倒せないはずの存在を当たり前のように倒す。
人の身でありながら、万能すら超える。
どんな法則をも振り切って、自由に空を飛ぶ者。
「これが、博麗の巫女――」
針、札、陰陽玉、それらを介し辺りを埋め尽くして結界のように覆う巫女の霊力に、天子は戦慄した。
――争うことにならず済んでよかった、敵対すれば絶対に勝てない。
「いたわ、紫よ」
「えっ、どこ!?」
霊夢に言われて天子も闇の中で目を凝らし、しばらくじっと見つめていると紫色の灯りがあることに気が付いた。
視認に時間がかかった理由は、それの表面を黒い何か這いずり回り、紫の結界を覆い尽くしていたからだった。
「私も見えた!」
「すでに囲まれてるわね」
「霊夢は退いてて、ここは私がやる!」
敵が見えているなら話が早い。
天子は刀身のない緋想の剣を柄だけで構えると、足元の要石に溜めた気質を吸い上げる。
藍の術式で性質を変換する必要はない、これは元からこの世界のあり方に沿った気質だ。
作り上げられたのは紫色の刃、その色合いは妖美で天子が生きてきた世界とは違う理の上での灯火であったが、しかし不安は感じない。
「昔いた紫達、力を貸して」
紫が与えてきてくれた力に、迷うことなどない。
「全人類の緋想天、改め――全妖怪の非想天!」
開放した気質が闇の中に広がっていく。
洪水のように押し寄せる光の波がそこにいた何者かを暴き出し、根こそぎ飲み込んでいく。
荒れ狂う気質は八重結界の表面を覆っていた影の住人を消し飛ばしていくのを見て、紫は目を見張る。
「何なのこの力、こんなの使って天子は大丈夫なの!?」
どうやってこのような性質の気質を操ったのか紫にはわからないが、こんなもの天子が本来は発揮できないはずの力だ。
紫が心配する視線の先で、天子は気質を放ちながら焦った表情で喚いていた。
「ちょっ、もういいわよ、止まって止まって!」
剣から放出する気質が止まらない、天子がいつも使っている気質とはまるで性質が違うせいだ。このままでは紫の結界まで圧し潰しかねない。
慌てて緋想の剣への気質の供給を止めて気質を使い切ったが、剣からバチリと音を立って紫電が奔った。
手から伝わってきた痺れが脳を刺し、天子は急に表情を歪めた。
「ぐっ……!」
瞬間的に耳鳴りがして、頭の中が真っ白になる。
圧縮された情報が頭痛と共に流れ込んできて、思考の空白に見たことない光景を幻視した。
――枯れたように全ての花が散った桜の樹の下で、呆然とへたり込んでいる幽々子を見ている記憶。
涙で視界をにじませながら、自分はただ一心に唱えていた。
『ごめんなさい、ごめんなさい――ごめんなさい――』
意識が戻ってきて、再び視覚が漆黒に塗りつぶされる。
瞳孔を開き、苦しそうに胸を押さえる天子を見て、霊夢が声を掛けてくる。
「あんた、大丈夫なの」
「……このくらい、なんともないわよ」
今のが映った光景が何なのか、すぐにわかった。
情報に詰まった感情が、天子の心を悲しみの渦中へと引きずり込む。
だがここまできて立ち止まっていられない、辛いとわかりきった紫の過去など何するものぞと天子は己を奮い立たせた。
そんなことよりも道は拓けた。
天子は露わになった八重結界に近づく、その後ろで霊夢が振り返って武器を構えた。
「ここは私が押さえる、紫にはあんたが話をつけなさい」
霊夢には紫に付き纏っていた影が気質に駆逐された後も、再び押し寄せてくるのが見えていた。
お祓い棒を構えながら、空いた手で御札と針を挟み込み、敵意に向けて投げ放つ。
天子は霊夢へ感謝の気持ちを浮かべて頷くと、要石から飛び降りて結界の幕を手で叩き、中にいた人物と見つめ合った。
「紫!!」
「天子……」
名前を交わし、紫は宝石の上から胸を押さえる。
愛しい姿を見て自らの恐怖が浮き彫りになる一方、ここまで来てくれたことに嬉しさを感じてしまう。
しかしその事実を胸の奥に隠して、紫は天子に怒鳴りつけた。
「おバカ! こんなとこまで何をしに来たの帰りなさい!」
「あんたを助けに来たに決まってるでしょこの馬鹿ちんが!」
怯まず怒鳴り返してくる天子の思いやりが怖くて、紫は結界の中心で膝を抱えて身を丸めた。
「もうやめて、私はもう疲れたの。どうかずっと眠らせて」
「そんな寝ぼけたこと言ってんじゃないわよ! 私と一緒に帰るわよ!」
きっと正しいのは天子なのだろう。自分勝手なのは己だと、紫にもわかっている。
だがそれでも弱った心に天子の明るさは眩しすぎて、眼を開けていられなかった。
「帰ってどうなるの、また私は記憶奪われ、そのたびに自分を喪う。何度も殺されるようなものなのよ、そんな生き地獄を永遠に味わえというの」
記憶を喪った時の恐怖が思い起こされ、紫は震える。
あの絶望感をもう一度味わうと言われただけでも、心が粉々に砕けそうだった。
「殺して……このまま私以外の誰にもならないまま終わらせて……」
暗闇の中で紫が心を閉じる。
この殻をこじ開けるには上辺だけの言葉では無理だ。
例え乱暴でも、お互いに傷つきあうことになろうと、全身全霊の心でぶつからなければ。
覚悟を決めた天子は、ゆっくりと口を開いた。
「……紫、私はずっと話せなかったことがあるの」
伝えた先の未来に怯えながらも、天子は止まらず言葉を続ける。
思い出すのは血まみれで横たわる母の凄惨な光景と、そこから始まる負の連鎖。
「1200年前、私のお母様は妖怪に殺された。そいつは私達一族が。ううん、色んな人達がずっと倒そうとしてきた相手」
「それって……」
その言葉が示すものに気付いた紫が、心臓を鷲掴みにされるような気分で顔を上げる。
疲弊した顔で見つめられながらも、天子は紫の罪を突き付けた。
「紫、あんたが私のお母様を殺したの」
明かされた真実に、紫は目を見開いたまま眉を歪めて声にならない悲鳴を漏らすと、涙をこぼす。
彼女のことが好きだったのに、護りたいと思っていたのに、誰よりも深く天子を苦しめていたのが自分だったのだと知らされて、自らの人生の意義すら崩れ始める。
思い出の口吻の幸福さえ塗りつぶされ、紫は耐えきれない現実に頭を抱えてふさぎ込むと、悲痛な金切り声を上げた。
「嫌ア! 止めて! 今更そんなことを聞かせてどうするの!?」
幸福を抱いたまま死ねると思っていたのに、生きていてよかったと思えたままでいたかったのに。
こんなこと、記憶を失うよりも残酷で、手に入れた幸福を信じていた自分が惨めすぎる。
発狂する紫を前にして、天子は沸き上がる感情をねじ伏せ、冷徹な声を発する。
「私はずっとその妖怪のことを恨んでた。そいつのせいで父は狂って、私の青春は塗りつぶされた。幸せなんて全部見失って、苦しみながら生き続けてきた」
「止めて! そんなこと聞きたくない! 知りたくない! お願いだから言わないで、幸せなまま終わらせて! 」
真実を告げられた時点で何もかも遅いと言うのに、紫はギュッと目を閉じて残酷さに塞ぎ込むしかなかった。
だが事実として、天子はそれだけの罪悪感に値するだけの人生を辿ってきたのだ。
天子は目を伏せて思い返す、母の死、その悲しみ、自殺しようとする父、殴られる日々、どうして生きているのかすら手の内から零してしまった虚ろの人生。
そして、その果てで自分を受け入れてくれた言葉を。
「でも、紫は言ってくれたよね。投我以桃、報之以李。桃を持ってくれば許すって」
天子の言葉に熱が滲む。
今までの冷たさを払う声に、紫は瞳を開けた。
「紫は、私に憎む以外の道を見せてくれた、私を許して護ってくれた」
泣いて謝る自分を撫でて慰めてくれた紫、気を遣って何度も会いに来てくれた紫、寂しい夜に抱きしめてくれた紫。
紫が母を殺した事が事実なら、その優しい思い出もすべてが真実だった。
「正直に言うわ、私はまだ紫が憎い。いや、きっとこの憎しみは永遠に消えない、ずっとあんたを憎みながら、恨みながら生き続ける。だけど、それだけなんかじゃない」
自らの醜さを口にして、天子は首飾りの上から胸を掻く。
自分は弱くて臆病で、大切な相手を許すことすらできなくて、傲慢な自分に血反吐を吐く思いをして、それでもその全てを受け入れて前へ進む。
そしてその強さを手に入れたのは、紫が嘆きを受け止めてくれたからだ、だから――
「紫が希望を見せてくれたから、私はまた歩き出せた! 楽しいも嬉しいも、たくさんの想いを引き連れてここまでやってこれた!」
――だから、そんな紫には笑っていて欲しい。
「憎いけど、恨めしいけど、それでもあんたが好きなのよ! 紫にもっと幸せになって欲しいのよ! 許せない私のことを嫌いになってもいい、だけどお願いだからこのまま死ぬなんて寂しい終わりかたしないで、苦しくても生き続けてよ、紫!!!」
天子の奥底から汲み上げられた声が、彼女を見つめる紫の瞳から入り、心を叩いた。
悲惨な事実すら凌駕する真実の想いに、紫は手を差し伸べられるのを確かに感じ取った。
――結界が割れる。重ねられた境界はすべて砕け散り、その残骸が光り輝く紫色の欠片となって二人の周囲を照らし出す。
呆然と立ち上がった紫は、胸元で輝く色違いの宝石に惹かれるように、戸惑いながらも天子に歩み寄った。
お互いに傷付いた二人は、緩やかな涙を流して心から向き合う。
「紫……ごめんね、紫を許せないこんな弱い私で」
「そんなことない、そんなことないわ天子、あなたは強い」
天子が自らの限界を悔しみ、両手を固く握りしめている。
紫はその手を取って胸元まで持ち上げると、そんなに強く握っては可哀想だと両の手で優しく包み込んだ。
それほどまでに天子を傷付けたのが自分だと知りながら問い掛ける。
「憎い私のそばに、ずっといてくれるの?」
「うん」
「記憶を失くして、何かが違う私になっても」
「うん」
天子が手を握られたまま一歩詰め寄る。
お互いの熱気が届くほどの至近距離から、天子は緋色の眼に決意を秘めて見つめ上げた。
「絶対、絶対に紫を幸せにしてみせるから」
とても尊大で身の程知らずで、けれど純粋な透き通った言葉だった。
それに込められた祈りの大きさに、紫は全ての迷いを払われて、涙に濡れた顔で嬉しそうに笑った。
「ありがとう……」
やっぱり生きていてよかったと、心から思えることに、ただただ感謝ばかりを想っていた。
「――ちょっとあんたたち! イチャついてるのはいいけど、こっちはもう持たないわよ!!」
ずっと二人を守っていた霊夢が、霊力を振り絞りながら怒鳴り声を上げた。
今が危機的状況に変わりないことを思い出し、見つめ合っていた二人は手を離して慌てて涙を拭う。
改めて天子は紫に向き直った。
例えこの先に待つものが悲劇でも、諦めないで共に進むために言わなければならない。
「紫、辛いだろうけど、また私達のところへ――」
――キィィイイエエエアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
再び、紫の家で聞いたのと同じ声が響き渡った。
いや、これは天子と紫がさっき聞いたものよりもずっと暗く、すべての不幸を望む、どうしようもなく破滅的な叫び声だ。
あまり深い響きに、三人は呻きも出せずに怯み、一方的にそこに込められた意思を叩きつけられる。
憎い 妬ましい 羨ましい
何故お前だけ 何故お前だけが手に入れる
お前の持っているものを寄越せ
寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ ――寄越せぇぇぇぇぇぇエエエエエエエエエエエエエエ!!!
嘆きは憎悪になり、幾多の怨念が重なって、ただ一人に向けられる。
急激に増した力は霊夢の防衛網を飛び抜けて、その奥にいた光へ――天子へと手を伸ばした。
霊夢がしまったと思う時には、華奢な体は無数の手形に捕らえられ、全身を締め付けられていた。
喉と口まで押さえつけられ、何一つ悲鳴を上げられないまま苦しむ天子を見て紫は叫ぶ。
「天子!! こいつら、私から天子まで奪うつもり!?」
今までは紫の記憶だけで溜飲を下げていた者たちが、紫のもっとも大切な存在である天子に己等の怨念を差し向けたのだ。
紫は天子を助けようと黒い手を掴んで引き剥がそうとするが、ドス黒い怨嗟に突き動かされる力はびくともしなかった。
「天子! しっかりして天子!!」
「――、――――!」
天子は全身を圧迫されたまま指一つ動かせず、飛び出しそうなほど目を見開いている。
首飾りに気質を送り込もうにも、宝石自体を掴まれてしまい、それすら封じられてしまっている。気質を溜めた要石との繋がりすら断ち切られていた。
霊夢も助けに行こうとしたのだが、次から次に殺到してくる影を食い止めるのに精一杯で身動きが取れなかった。
お祓い棒を振り回す霊夢を視界の端に収めて、紫は焦りを顔に浮かべる。
「このままじゃ、このままじゃ天子が、何か手は……」
すでに消耗した自分では、天子だけを助け出すことは出来ない。
だがこのまま見ているだけなど絶対に許されない、もはや紫にとって天子は生きる希望であり存在理由ですらある。
何を懸けてでも絶対に天子は護ると、心から覚悟を決める。
例えそれが――幻想郷を天秤にかける行為でも。
意を決した紫が両の手を合わせ、意識を集中させる。
そこから感じる不穏な気配に、霊夢が驚いて振り向いた。
「まさか、ちょっと紫!?」
「天子だけは、何があっても殺させない」
重い声が世界を震わす。
紫はあらん限りの力を振り絞り、境界を操る能力を発現する。
「歪め境界よ、開け結界」
紫の足先に小さな白い穴が現れたかと思うと、瞬く間に肥大化して辺りを覆い尽くす。
空間に開かれた光の先に映るのは荒れ果てた大地。
境界が捻れた余波が空間を伝い、天子の身を包んでいた影は風に巻かれるよう吹き飛ばされていった。
解放されて自由を手にした天子は「ぷはぁ!」と息を吐いてあえぐと、直下から感じる大地が自分もよく知るものであることに気がついた。
「これって!?」
「馬鹿! まさか幻想郷と繋げるなんて」
天子だけを助けられるほど精密なコントロールができないなら、いっそ周囲全体の境界を乱せばいい。
後先考えない力技で、紫は天子を助け出したのだ。
意図を理解した天子が、だがこれではと慄く中、紫が肩に腕を回して抱き込んできた。
「飛ぶわよ、じっとしてなさい! 霊夢もこっちへ!」
「あーもう、この馬鹿!」
「ちょっと待って、アレも一緒に!」
霊夢が身を寄せてくるのを見て、天子は慌てて気質の篭もった要石を引き寄せた。
石に巻かれた注連縄を小さな手で掴み、紫へと振り返る。
「オッケー、いいわよ!」
「黙ってなさい、舌を噛むわ!」
紫が自分たちの足元にスキマを開き幻想郷へと繋げる。
三人がそこから逃げおおせた直後、闇の中から大勢の影が雪崩込んできた。
◇ ◆ ◇
天子が去った後の屋敷では、狂喜の悲鳴が響き渡っていた。
ドロドロの影は、千切れそうな手足を振り回して、身体中に感じる熱と光に溢れんばかりの感動を抱き、絶叫へと変えて吐き出していた。
――キィィェェエエエエアアアアアアアアアア
耐え難い高周波に妖夢たちが怯む前で、その影からとうとう腕の一本がボトリと生々しい音を立ててもぎ取れた。
境界を超え違う世界に踏み入った代償に、自らの存在が破滅へと向かうのを実感しながら喜んでいた。
「こ、これは拙そうだね……!」
初めて相対する存在に、萃香は立ち上がると一歩引き下がる。
こちらに来て何を考えているかは知らないが、はっきり言ってまともではなさそうだ。
影は自らの腕がもげていたことに気づくと、絶叫を止めて全身の目で落ちた腕を見下ろす。
崩れ落ちる身体に何を思ったか、今度はその目を橙と幽々子と萃香の三人に向けて獣のように駆け出した。
反射的に萃香が両腕から鎖で繋がった球体と三角錐の分胴を影へ目掛けて放り投げた。
続けて幽々子が咄嗟に閉じた扇子を突き付け、そこから全開の霊力を込めた死の蝶を射出する。
鬼の腕力と死の誘惑、この世界においてもトップクラスが全力を持って異物を迎え撃つ。
だが分胴と蝶は影の中にドプリと沈むだけで、何の効果も表さなかった。
「いいっ!?」
「こいつは、私の能力が効かない……!」
物理的な衝撃でも、霊的な力も全く通じない。
萃香は次元が違う脅威を前にして影に沈んだ分胴の鎖を引き千切ると、幽々子の身体を抱えて逃げ出そうとする。
だが時間が足りない、幽々子を持ち上げるより早くその黒い手に捕まえられるだろうと歴戦の鬼は予測できてしまっていた。
橙が先頭に立つと、白い日除け傘を広げた。
「三重結界!」
紫から引き継いだ傘を媒介に境界を敷く。
重ねられた結界は三枚、それぞれの力場が発する波長が絡み合い橙色の光を映し出す。
突撃した影は結界に激突し、反動で大きく身体をのけぞらせてたたらを踏む。
この場でこれに対抗しうるのは魂魄の剣と、紫の力を引き継いだ橙のみ、そう判断した妖夢は二刀の剣を引き抜く。
「幽々子様は逃げてください! 通常の手段じゃ効きそうにありません!」
「ほら、行くよ幽々子! ……おわっ!?」
そう言って萃香が幽々子の身体を抱えるが、亡霊は残ろうとする妖夢を見て手足をバタつかせて抵抗した。
「待って、妖夢を置いてなんて!」
「ああもう、じっとしてなって!」
普段の萃香なら腕力に物を言わせて連れて行けただろうが、弱体化した今はバランスを崩して廊下の上で膝を突いてしまった。
各人の焦燥が募る中、橙は傘を閉じると萃香の足元へと先端を向けた。
「開けスキマよ!」
号令とともに萃香の下に境界が操られ、別の場所へとスキマが繋がれる。
それまで真似できるのかと萃香が驚いた時には、小さな鬼の身体は角の中ほどまでスキマに沈んでいた。
萃香と一緒に下半身まで埋まった幽々子は、妖夢へ向かって手を伸ばす。
「橙、待って! 妖夢、あなたまで失いたくな――」
言い切れないまま、幽々子もまたスキマに消える。
残るは半人半霊の剣士と黒猫、そしてギョロギョロと目玉を動かす片腕の影。
影の不気味な様相を眺めながら、妖夢は先程の幽々子の言葉を反響させ笑みをこぼした。
――よかった、あの人は自分のことも心配してくれる。
不謹慎極まりない話であったが、そのことに喜ぶ自分がいた。
「笑ってる場合じゃないよ」
「ご、ごめんなさい。集中します」
橙に言われ、妖夢はいつのまにか下がっていた剣先を持ち上げ、目の前の影を橙と前後から挟撃するよう位置取る。
影の足元を見ると、もげた腕はウジュルウジュルと不気味な音を上げながら宙に消えていったが、その周りの畳も一緒に溶けていく。
無闇にぶつかるのはよくなさそうだと判断していると、影が今度は妖夢に目を向け、勢い良く振り返り走って寄ってきた。
影の腕が剣士を狙って振り抜かれるのを、妖夢は冷静に身をかわした。
妖夢はすでに体力気力、共に限界に達した直後だ、そう長くは剣を振るえない。
自身の状況を顧みて、妖夢は幾度となく振り回される影を前に、できるだけ回避に集中し隙を伺った。
「客観結界!」
そして五回目の攻撃を妖夢が避けた時、橙が閉じた傘の先端から結界から結界を生じさせ、影の周囲を取り囲ませた。
無軌道に見えて計算ずくで放たれた結界は、妖夢を巧みに避け、影へと向かう。
影は肘を逆に向けるような滅茶苦茶な動きで結界を避けたが、その一つが影の足元を掬い上げた。
それを見て妖夢は一歩踏み込み、二刀の剣を交差するよう切り払う。
剣が交わった場所に影が伸ばしていた腕は、空間に吸い込まれるよう消え失せる。
しかし形を持った影は身体をくねらせて悶え始めると、顔らしい部分を口のように開いて再び不協和音を唱えた。
空気に波紋する言葉にならない声から、橙は意識を読み取って顔をしかめる。
眩しい! 眩しい! 痛い! 痛い!
嬉しい! 嬉しい! 嬉しい! これが光か!
「よ、喜んでるよこいつ」
感じ取れる限り、こいつは紫様とはまるで違うと橙は思う。
これはより貪欲で不幸しか産むことが出来ない存在だ。
――もっと頂戴!
両腕を失った影はそう響かせると、先が手である脚の一本を振り回した。
雑な攻撃を二人は避け、妖夢が再び剣を振り、片足をこの世界から追い出す。
四肢のほとんどを失って影がバランスを崩したところに、橙が日傘を突き刺した。
「三重結界!」
境界は胴体部分から影を破砕して、畳の上へとバラバラに撒き散らした。
影は別れた下半身が倒れ、残った上半身も目玉をギョロリと動かす以外は何もできなくなり、畳の上で転がっている。
勝敗は付いたように見えるが、橙と妖夢は油断せずに無闇に近寄ったりはしなかった。
これから用心深くトドメを刺そうところで、橙の眼が何かを視た。
「拙い!」
橙は素早く身を飛び出させ影の上を飛び越えると、妖夢へと抱きつく。
「うわっ、なに!?」
「飛ぶよ妖夢!」
困惑する妖夢であったが、次の瞬間には橙が開いたスキマへ二人一緒に飲み込まれていた。
残された影が静かな部屋で苦しそうに何か呻いた後、前触れもなく見開かれた目玉の奥から閃光が発し、大爆発が巻き起こった。
膨張する熱量が空気を押し飛ばしてあたりを包み、八雲家を粉微塵に吹き飛ばして爆風が屋敷の外まで広がっていく。
屋敷から五キロほど離れた上空に出てきた橙と妖夢であったが、荒れ狂う熱風はそこにまで届いてきて、目が焼けないようまぶたを閉じた。
夜の闇をひっくり返す光を伴った爆風が付近の木々を大きく傾かせ、木の葉を巻き上げる。
風が止み、目を開けた二人が見たのは、爆心地に広がる数百メートルはあろうかというクレーターだった。
「な、何があったの!?」
訳が分からず妖夢が尋ねる。
「こっちの世界に合わせた、もっとちゃんとした身体を作ろうとしたんだけど、失敗して反物質になったの」
「は、はんぶん?」
「要は爆弾になっちゃったってこと」
二人はちょうどいい原っぱの上に降りると、座り込んで身を休めた。
妖夢は息も絶え絶えで剣を鞘に収めるのにも苦労していて、橙もいきなり大きな力を使ってくたびれていた。
なんとか剣をしまった妖夢は、草むらに倒れ込むと空気を求めてあえぐ口をゆっくりと動かす。
「あいつは……倒せたの……?」
「たぶんね、スキマから見た感じ、もろとも爆死したみたい」
爆心地にスキマを開いて様子を見ていた橙が告げる。
紫がちゃんとした肉体を形成出来ていたのは、彼女が特別だったのかもしれない。
橙は境界の乱れが修復され、もう同じような影が出てこないことを確認するとスキマを閉じる。
「幽々子様たちは……?」
「とりあえず白玉楼にでも送ったよ、またすぐこっち戻ろうと出たみたいだけど」
「幽々子様に、こっちは無事だって伝えられる? 心配してるだろうし、安心させたいけど」
「ごめん、私も疲れたし休みたい、広い幻想郷を探せるほど、紫様の力を使いこなせてるわけでもないし」
そういうと橙も傘を置いて身体を寝かせ、星が浮かぶ夜空を見上げた。
妖夢はしばらく呼吸を整えてから話しかけた。
「家、壊れちゃったね……」
「うん、でもまだ幻想郷は残ってるし」
同情する妖夢だったが、それほど橙は落ち込んではいないようだった。
しばらく休んでいた二人だったが、急に橙が猫耳をピクリと反応させると、勢い良く起き上がった。
「どうしたの?」
「何か感じた! 空の上に変なのが視える!」
橙が見据える屋敷があった方向の空を妖夢も眺めてみるが、目を凝らしたところで何もみえない。
しかしその直後の夜空に、夜の闇より更に深く暗い穴が開いたのが妖夢にも見て取れた。
その中心に、橙は紫が天子と霊夢に腕を回している様子を、遠くからでも見つけ嬉しそうに目を輝かせた。
「紫さ――」
だが空の穴から大量の影が押し寄せてきて、幻想郷に落ちてきた光景に、橙の笑顔は固まった。
大地の一角を覆えるほどの影たちから歓声が上がり、橙たちの耳元まで届いた。
「――幻想郷、終わったかも」
誰もが恐れていた最悪の事態が現実のものとなった。
世界を成り立たせるもっとも重要な境界は崩れ落ちた。
開いた風穴からは、絶えず黒い影が流入してきていて、このままでは何もかもが混ざり合って形を崩す。
物理法則すら意味をなさなくなり、後に残るのは一色の明けることなき闇夜だけだ。
「ど、どうするの、これもう手がつけられない状態なんじゃ……」
「……いや、まだ紫様がいる」
広がる影を遠くに見て妖夢がとまどう横で、橙は目に力を込める。
どれほど不安定な存在であろうと、紫は橙と藍の拠り所となる主なのだ。
あの方が帰ってきた今、自分は何をするべきかと橙は自問する。
――決まっている、家族のために戦うのだ。
決断した橙は、妖夢の足元にスキマを開く。
「待って、橙! まさか一人で行くつもり!?」
何をする気なのかわかった妖夢が必死に訴えたが、橙は笑みを浮かべた横顔を見せるだけだった。
結局妖夢はロクな説得も出来ないまま、強制的にいずこかへ飛ばされた。
妖夢を送り出し、一人になった橙は空に浮かび上がる。
「私に何がやれるかわからないけど、せめて時間稼ぎくらいはしないとね」
それが精一杯でも、橙は少しでも家族の助けになればと思った。
橙は自分が八雲家に拾ってもらった時のことを思い出す。
妖怪ではなくただの野良猫だったときから、橙はこの世ならざるものが見えていた。
人の世にあるべきものでもなく、妖怪の住まう場所でさえもありえない境界線の向こう側。
そちらを覗けば向こう側からもこちらを覗く目が見えて、橙はそこからいつ手が伸びてくるのかと、いつ自分がその闇の中に落ちてしまうのかといつも恐怖していた。
常に足元が崩れてしまうような幻覚に苛まされて世の何もかもが信じられず、妖怪となっても誰ともわかりあえず独りで逃げるように生きていたところを、偶然にも紫が張り巡らせた結界を乗り越えて、八雲の屋敷に近付いたことで藍に保護された。
お前は特殊な目を持っている、きっとそれが原因で結界を超えてきてしまったのだろうと藍は言いながら、橙に対しなんの敵意も見せず、ただ寂しそうだからという理由だけで家に迎え入れた。
藍と紫は自分の特殊性をわかってくれた、それまで他の猫たちに話してもまるで信じてもらえなかった境界の存在を信じてくれる、初めての理解者だった。
それでも最初は上手く付き合えなかった、友人もいなかった橙には優しくされてもどういう対応をすればいいかわからず、反発して困らせてばかりだった。
特に始末に悪いのが紫だ、当時はまだ博麗大結界によるバックアップ領域の確保ができていなかったため引き継げる記憶は一ヶ月程度のものしかなく、橙に同じ言葉を何度も掛け、何度も突っ返され、何度もへこんで、それを見せつけられる橙も落ち込まさせられた。
だがそれでも、二人は橙を見捨てなかった。
紫は境界を見てしまう眼との付き合い方を教えてくれ、藍は温かいご飯を食べさてくれた。
隣の布団に親しい誰かの寝息を聞きながら眠りに付くのは、この上ない安心感があった。
「……藍様と紫様に拾ってもらって、嬉しかったなぁ」
二人に出会わなければ、早晩に境界を踏み外し、死んでしまっていたと思う。
だが橙はそうならなかった、そのことに深い感謝の念を覚え、家族のことを大切に思う。
今さっき家は消え失せた、だがまだ幻想郷が残っている。
紫様と藍様が四苦八苦しながら作り上げた、妖怪最後の理想郷。
この場所が残る限り、自分たちは笑って過ごせる、だから、
「この幻想郷は、私達家族の帰る場所なんだ。お前達なんかに、負けないよ」
山のようにそびえる黒い影を前に、橙はたった一人立ち向かった。
◇ ◆ ◇
その日、夕方から博麗神社に足を運んだ魔理沙は、霊夢がいないことに落胆した。
本当なら夕食をたかるつもりだったのにと残念がる魔理沙だったが、ぐうと鳴る腹の音に「よし」と決意すると、慣れた手付きで神社の奥を漁ってご飯を炊いて、適当に野菜を炒め、手頃な漬物を添えて勝手に晩御飯の用意をしてしまった。
机の上に並べられた簡素な夕食を前に、いざ両手を合わせる。
「いただきま――うわあっ!!?」
そこに突如として、魔理沙の目の前に霊夢と紫、それに天子が現れて机の上にお尻から飛び降りてきた。
三人の下敷きになり机が盛大に歪み、衝撃で吹き飛んだ皿から夕食を顔に被った魔理沙は、熱い白米を慌てて振り払って青い顔で霊夢を見上げる。
「な、何だあ!? 勝手に食べたのそんなに悪かったか!?」
だが霊夢は魔理沙の方を一瞥しただけで、剣呑な表情で神社の外に飛び出た。
ボコボコにされるかと肝を冷やした魔理沙だったが、こちらのことをまるで無視する霊夢を視線で追い、次に机の上に乗ったままの紫と天子を見た。
「紫、大丈夫?」
「ええ、でも消耗しすぎてもうスキマでの移動はできそうにないわね」
傍に紫色に妖しく光る要石を浮かばせながら、天子は紫の身体を支えている。
「……何だこの状況」
わけがわからず呆然とする魔理沙を差し置いて、外に出た霊夢は遠くを見つめている。
境内から見える遥か西側に、黒い塊がチラついた。
「まずい、完全に境界が崩れて溢れ始めてる」
そのまま霊夢は魔理沙たちを置いて、西へと飛んでいってしまった。
魔理沙は去りゆく霊夢と机に乗ったままの紫たちを見比べて、何か面白いことでもあったのかと箒を掴んで外に出た。
「おい待てよ霊夢、どうしたんだ!?」
魔理沙は後を追って飛んでいく、神社には天子と紫だけが残された。
「立てる?」
「それくらいはやれるわ、普通に動き回る分には大丈夫よ」
支えを断って紫が机の上からふわりと浮いて外に出るのを天子も後に続く。
そこで二人は霊夢と同じものを見て顔を強張らせた。
「今はあっち側に連れ込まれたりしないの?」
「その感じはしないわね。境界の崩壊で狂喜乱舞していてそれどころではないんでしょう」
境界が崩れた場所から、着々とこちら側にこの世界のものではない何かが這い出て来ている。
やつらが欲した光が自分たちの手で捕まえられる今、わざわざ紫一人に構っている暇はないということだ。
暴力的にも関わらず音もなく影の手が広がる光景はまるで現実味のないが、そこに宿る危機は幻想郷の過去最大級だ。
「これどうするの、相当やばいんじゃない?」
「ええ、このままじゃ幻想郷は終わりね。けどそれを回避するプランもある。藍と連絡を取るから少し待って……」
紫は手をかざして天子との会話を遮って念話を送ろうとしたが、その前に博麗神社へ向かって飛来する物体に気が付いた。
金色の尾を引いて夜空を疾走するそれは、音すら裂いて流星のごとく迫りくる。
流星は高度を落とすと、目を丸くする紫と天子の前を通り過ぎ、木の葉を巻き上げながら神社の境内に落下した。
飛来したそれは二本の足で地面を踏ん張って、ゴリゴリと整えられていた土を削り飛ばし、神社の敷地をたっぷり利用して速度を殺しきる。
遅れてやってきた音と風に、紫と天子は顔を防ぎながら流星を見やった。
「藍!」
「紫様、ご無事でしたか!?」
全力疾走してきた藍は、荒い息を整える暇もなく、血相を変えて紫の元へ走り寄ってきた。
土煙を撒いて走って、いつもの冷静さはどこへやら、感情のままに紫に抱きつく。
「ら、藍!?」
「よかった……ご無事で、よかったです……」
藍は今にも泣き出しそうなほど、声を震わせて腕に力を込める。
彼女らしくない狼狽ぶりに呆気にとられた紫だが、すぐに柔らかい顔をすると、腕を回して優しく家族の背中に手をやった。
「ごめんなさい、心配かけたわ」
「いいんです、あなたが無事でいられるなら、それで」
生きて抱き合えること、その嬉しさを分かち合う二人を、天子は静かな笑みで見守っていた。
本当ならこの感動に浸りたいが、のんびりしていられる状況でもない。
藍はすぐに抱擁を解いて紫から離れると、今度は天子へ顔を向ける。
「……天子、自らの望みに正直だったお前が紫様を助けられた。従い続けた私が間違っていたんだろうか」
「さあね、私だって正しいかはわからないわよ。状況がより大変になったのは確かだし」
幻想郷の西側では、今まさに世界の滅びの真っ最中だ。
ある意味で、天子がすべての崩壊のトリガーを引いてしまったと言っても過言ではない。
「でもね、愚者の身で言わせてもらえば、歩いていかなきゃ何も変わらないのよ」
だから後悔なんてないわと、天子は心の光を絶やさずに言い切った。
「藍、こうなった場合の事はわかっているわね」
「勿論です。これより幻想郷保全の最終フェーズへ移行します」
「えぇ……でもその前に、みんなはどうなったか知っている?」
境界が崩れたのは紫たちの家の真上、今は影が蠢く魔境に紫のために集まってくれたみんなが居たはずなのだ。
しかし霊夢を呼ぶため屋敷から離れていた藍は、明確な答えを返すことはできなかった。
「私には何も、ですが橙が対応してくれたことでしょう。すでにスキマで移動できるよう、能力の引き継ぎも行なっていましたから」
「そうね……あの子を信じましょう」
心配ではあるが、今は不安に引き摺られている余裕など無い。
各々が役割をこなさねば、もたついている間に破滅が足元を掬う。
「始めるわよ、あなたは調整をお願い」
「はい!」
藍は鳥居の傍に陣取ると、自らの周囲に八枚の符を設置した。
足元の符からは光壁が立ち上り、八卦を描いて藍を包み込むと、壁面に博麗大結界を構成する術式のコードが流れてくる。
高速で連なる術式の一つ一つ、藍は眼で追いかける。
紫もまた境内に出ると、博麗神社の鳥居を前にして大きく口を開く。
「ドレミー・スイート、境界が崩れる時が来たわ! 幻想郷の住民を夢の中に逃させてもらうわよ!」
何処かに呼び掛ける紫に応えて、鳥居から何者かの声が届いてきた。
『おやおや、いよいよそうなってしまいましたか。生身に夢の世界は毒ですよ』
「移送するだけよ! 手は出さないで!」
『まあ仕方ありませんか、妖怪たちの夢を失うのは寂しいですしね』
紫が手をかざすと、鳥居の下の空間に異界へと通じる扉が開かれる。
『あなたの夜に槐安がありますよう……』
それで会話は終わったようで、紫は鳥居に背を向けて天子のそばに戻ってきた。
話がよくわからないと、天子は首を傾げて紫を見上げる。
「どういうこと?」
「幻想郷の全住民を夢の世界を通して別の場所に移送するわ」
微動だにせず眼に神経を集中させる藍は、その転移術式の最終調整を行っているところだ。
もっともこの非常時を見越して最初から博麗大結界に組み込んでいた術式であるから、最悪の場合は藍の手助けがなくとも機能する。
それでも万が一の綻びがあってはならないと、藍は術式のバグがないかを総ざらいしていた。
「もうスペアは確保してるから、いよいよ最後となったら博麗大結界の術式が発動して、自動的に転移される」
「やった! これで後は龍神がぶっ放してくれれば解決ね!」
住んでいた土地を離れなければならないのは辛いことだが、背に腹は代えられないだろう。
それよりも全員が助かることに天子は両手を振り上げて喜んだ。
「えぇ、私以外は」
「えっ?」
「この事態を引き起こした私まで逃げ出したら龍神は納得しない。妖怪たちの存命を乞うならば、私の存在をこの幻想郷に封印する必要がある」
「ダメよそんなの!」
天子は声を荒げる。
「なんとかするわよ紫!」
「……もちろん、今更死ねないわ」
こうなった以上、紫も臆病を捨て最後まで足掻く覚悟だった。
そんな心境に至った紫自身も、身体に通じる活力と心の迷いのなさに驚いていた。
この天子がくれた力から突き動かされることに、楽しさすら感じて熱に浮かれるようだった。
「それで紫、あれを止めれる手段はある?」
「ふふふ、結局私に頼るのね」
「仕方ないじゃない! あれのことよく知らないんだから」
「普通なら、龍神でも呼んで一切合切消し飛ばすしかないところだけど……天子、それは気質?」
紫が要石を指差した。
境界から持ち帰った石は、まだ紫色の淡い輝きを放っている。
「うん、話すとややこしいから省くけど、境界の隙間で生成された反転した気質を集めてる」
「随分と大量の気質ね、よく短時間でこれだけ集められたものだわ」
紫が要石に手を置いて調べたが、気質の総量に驚いている様子だった。
それだけの量があって当然だろうなと天子は思う、なにせ紫が今まで生きてきた証のようなものなのだ。
「……これならやれるかもしれないわ」
「本当!? どうすればいいの」
「これの他に、幻想郷全体に溜まった気質を神社に挿している要石に移して引き抜き、境界が崩れた中心点にまで持っていく。そこで二つの気質で結界を展開すれば、理論上は影を追い払いつつ境界を正せるはず」
「うっ、反転したほうは使ってみたんだけど、上手くコントロールできるか微妙なのよね」
境界の隙間では、危うく紫まで圧し潰すところだったのを思い出す。
紫が言うような細かな調整をやれるか、天子は自信がなかった。
「こっちの気質とは形式が違うから無理も無いわね。なら操作は私が担当するわ、あなたは思いのままに気質を放出してくれればいい」
「やった、楽でいいわ」
「言っておくけどこれほど大量の非想の気を放出するんだから、油断すると心が砕けるわよ」
紫が危惧するように、また情報の流入が起きる可能性はあるだろう。
しかも気質を大量に使えば使うほど、天子の心は多くのものを見せつけられるに違いない。
だが天子はそのことについて、大して気にしていなかった。
「問題ないわよ、紫が隣りにいてくれるなら、そんなことに負けないわ」
「……もう、意地っ張りねあなたは」
紫は恥ずかしげ苦笑しながらも、天子の頭を愛おしそうに撫でた。
もう二人に迷いはない、逃げ出したりせず、共にすべてをやり遂げようと固く誓っていていた。
「さあ、それじゃあ行きましょっか!」
天子は西の空に振り向いて意気揚々宣言したが、いざ出発しようとしたところで、また上空から神社に近づいてくる誰かがいることに気がついた。
その人物を見て天子の足が止まる。紫も彼が何者なのかは、スキマごしに見た情報だけだが知っていた。
「……お父様、どうしてここに」
ここにいるのが信じられないと、天子は呆然と呟いた。
天子の父、比那名居家の総領は神妙な面持ちで現れると、天子たちの前に降り立った。
何故ここに来たのか、戸惑った瞳で見つめる天子に、総領は硬い声色で話しかけてきた。
「往くのか、天子」
父から掛けられた言葉に天子がわずかに怯えを見せ、隣りにいた紫にも緊張が伝わる。
天子はどこまで自分のことを知ってくれているのだろうと、疑念を持って目の前の男を睨んだ。もし大して知りもせず、自分の行動を否定してくるようなら許せない。
肩の傷が疼くのをきにしながら言い返した。
「ええ行くわ。止めるつもり?」
「……いや、言っても聞くまい。だからな天子」
父が勢い良く腕を広げて、驚く天子に叫んだ。
「この父を殴れ天子!!」
「ええっ!?」
「せめてもの贖罪だ! それですべて許されるなどあろうはずがないが、それでもせめてお前の気の済むように殴れ!! さあっ!!!」
過去の負い目から天子から逃げていた父の、いつになく真っ直ぐな目線。
母が亡くなって以来、初めて父は天子に真正面からぶつかろうとしてくれていた。
両手を広げて覚悟を決める父を前に、天子はどうするべきかと迷いながら、やがて拳を振り上げた。
だがこれから殴る方だと言うのに、天子のほうが殴られるかのように表情は苦渋に満ちていて、硬く握られた拳はブルブルと震わされており、我慢しきれなかったように拳を解いて父の胸元に抱きついた。
「殴れだなんて、言わないでよ……っ」
父に涙をこすりつけながら、必死になって震える声を絞り出す。
「そんなことより、その日なにがあったかって、話を聞いてくれたらそれだけでいいのに……!!」
罪滅ぼしなんかより、ただ普通の親子の温もりが欲しい。
切実な訴えに父はまた間違ってしまったことに後悔しながらも、かつて娘を殴ったその手で今度こそ天子を抱きしめた。
「……すまない天子、父が愚かだった」
抱き合う親子、娘のすすり泣く声。
事情は知らぬ紫であったが、例え世界が終わろうともそれは邪魔するべきものではないと察し、ただ黙ってその光景を眺めていた。
数分ほど経つと天子も落ち着いてきて小さな泣き声も静まってくると、父は抱擁を解いて今度は八雲紫と向き合った。
「スキマ妖怪、世界の異物よ、私の娘が世話になっているようだな」
「いえ、私の方が世話になり通しですわ」
謙遜でもなく本心のつもりだ。天子のお陰で本当に沢山のことに気付いて向き合うことが出来たし、それに押し潰されることなく、こうしてこちら側の世界に戻ってこれた。
「だがお前は知っているか? 天子の母を殺したのは貴様だ」
「……はい、存じております」
問題になってくるのはやはりそこだった。
総領は鼻を鳴らすと、紫を睨みつける。
「いいか、私はお前の所業を許さん。正直を言えば、お前が天子と仲良くすることだって大反対だ」
「それ言ったらお父様の方から紫を殺そうとしたんじゃない」
「ぐっ、危険を排除しようとするのは当然の行動だろう、だったらお前は憎くないのか!?」
「憎いけど他のやつが紫を憎むのは腹立つ!」
「ええい、相変わらず滅茶苦茶だな、父のことくらい許せ娘よ! いやさ、許せなくてもいいから黙っとれ、話が進まん!」
怒鳴りあった総領は、紫に向けて指を突き付けた。
「八雲紫としての貴様に問うぞ、お前は天子をどうしたい?」
嘘の一切を許さないと、娘を大事に想う父親の眼光が紫に注がれる。
きっと親としては当然の疑念なのだろうと、紫はこの質問を真剣に受け止めた。
自分を助け出してくれた天子、たくさんの喜びを与えてくれた彼女から、あまりに大きすぎるものを奪っていた事実には心が揺れる。
申し訳ない気持ちを伝えたところで済む話でもないし、自分が母の代わりを努めようなどおこがましいにも程がある。
例え記憶を失う前のことであっても、それは許されることではないだろう。
だがそれでも、闇の中で一人死に絶えようとしていた自分に差し込んだ光を思い出し、紫は自分の心に活を入れる。
「私はこの世界にいていい存在ではないと、ずっと教えられ続けてきました」
「そんなことない!」
「……それでも、そんな私を、天子は幸せにすると言って助けてくれました」
あの言葉がある限り、紫はどこまででも生きていこうと思える。
天子の気持ちに応えるため、彼女とともにどこまででも往こう。
「例え世界のすべてと敵対することになろうと、天子が私を求め続けくれる限り私は抗います。私は天子を幸せにするために戦います。彼女を傷付けたというのならなおのこと愛しましょう」
そう語る紫は真摯であるのに、微笑むような安らかな顔をしていた。
だがその眼差しと声に宿るひたむきさに、総領は紫の言葉を本心として信じることにした。
「……よかろう、その言葉を違えたならば殴り飛ばすぞ」
「そしたら私がお父様を殴るからね」
「お、おう」
さっきは殴らなかったのに紫のためなら殴ると言う天子に、自分よりも紫のほうが大切なのだなと感じてしまいつい、総領が悲しそうに肩を落とす。
娘との距離が近くなったような離れてしまったような、もどかしい寂しさを堪えて娘達に向き直る。
「それで、これからどうするつもりだ?」
「幻想郷の気質を要石に移して、境界から出てきてるドロドロにぶつけるわ」
「かつてスキマ妖怪を倒すために同じことを名居家の血筋すべてで行ったが、それでも完全に滅することはできなかったぞ」
「それはこちらの世界の気質を、境界の隙間に適した気質に変換できなかったからです。今はこちらに反転した気質が用意されております」
紫が紫色の霧をまとった要石を示す。
総領は可能性があることを納得して頷いた。
「しかしそれならば天子がこの地に挿した要石を抜かねばならんな、ならばそれによって起きる地震は私が代わりに鎮めよう。できれば私も付いていきたいが」
「残念ですが、お父様の身に何かあっては地震を抑えるものがいなくなります、ここにいて幻想郷を支えてください」
「そうだな、身の程はわきまえよう」
「昔みたいに失敗したら承知しないわよお父様」
「あの時とは違うさ、任せてくれ」
かつて妻が亡くなり地震を止められなくなった時よりも、今の比那名居家総領ははるかに心が充実している。
父は両手を胸の前で組み集中すると、自らの頭上に渾身の力を込めて巨大な要石を創りだした。
続けて天子が要石を抜くわけだが。
「……ところで要石を抜くなら、上にある博麗神社は潰れるわよね」
「あら、あなたのお得意なんでしょう?」
「まったく、責任を持ってまた建て直さないと」
「ええ、萃香に頼まないと。あなたはそこら辺は信用できないし、また変なことされかねないわ」
「ちぇっ、お見通しか」
紫からの意地の悪い言葉にも天子は楽しそうに笑うと、神社に向けて手をかざし、力を込めて指を開いた。
天子の真剣な眼差しの奥で緋色の光が輝く。境内の地面が揺れ動き始め、神社が下から何かに押し上げられてバキバキと音を立てながら崩れ始めた。
更に幻想郷全体で地鳴りが響くと共に地震が起こり、大地から緋色の霧が噴出し始めた。
頃合いを見計らって比那名居家総領が「ハア!」と気合とともに要石を自らの背後に突き刺し、それ以上の揺れを押し止める。
崩壊する神社を突き破って、天子がかつて仕込んだ要石が現れた。
先に紫の気質を込めた要石と同じくらいのサイズのそれに、緋色の霧が集まってきて渦巻く。
さまざまな人と妖怪が住まう幻想郷からかき集められた大量の気質は、音を立てて大気揺らして神社の周囲を辺りを強く照らし出す。
そして天子の掌握された緋色の霧は収束し圧縮され、神社から抜かれた要石に宿った。
紫と緋、正と負、それぞれの気質を宿した二つの要石が天子の両脇に並んで、暗い空の下で呼応するように仄かな光を発した。
「準備完了! 行くわよ紫!」
「ええ、あなたとならどこまででも」
同じように天子と紫も並び立つ。もはや何の憂いもなく、二人の顔は同じ方向を向いていた。
共に飛び立つ前に、一度だけ天子は父親に振り向いた。
「行ってくるわねお父様」
「ああ、思う存分暴れてこい……しかし、さっきの八雲紫の言葉にはドキリとしたな、まるで結婚前の私と母さんの言葉みたいで」
「間違ってないんじゃない?」
「……は?」
呆気に取られる父の前で、天子は快活に笑う。
紫も恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、くすりと微笑んだ。
「お、おおお……お前ら!? 友達じゃなくて本気でそういう……!?」
驚く父親を置いて、二人は笑い合って共に飛び立ち、二つの要石が浮遊して後を続く。
慌てて後を追おうとしたが、これから戦いに行く二人の邪魔になると気付いてここから動けず、負け台詞のような言葉を吐くしかなかった。
「ま、待て天子! お父さんは認めんからなー!!!」
「べー、だ」
目元を引っ張って舌を出した天子は、見せつけるように紫の手を引いていく。
親子の確執に挟まれた紫は、困った顔を天子に向けた。
「舅問題が不安だから、あまりお父様を虐めないで頂戴ね」
「だってこればっかりは譲れないし、向こうが折れなきゃ家出もなんでもしてやるもん」
「せめて家の中じゃ優しくね」
「はいはーい」
まともに聞いてくれているのかいないのか、天子がそっけない顔で流すのを見て、紫は痛む頭を押さえた。
まあ元々問題のあった親子なのだからそれくらいは仕方ないと腹を括り、紫は前を向く。
「さてと、無駄話はここまで。気を引き締めていくわよ」
「おうとも。全力をぶつけてあげようじゃない」
天子も同じ方向を剥き、握り合った手に力を込める。
幻想郷を広がっていく影を見ながら、負ける気はしなかった。
仲良く飛んでいく二人を総領が憤慨している奥で、藍は博麗大結界の調整を続けながら横目でそれを眺めていた。
そして口を小さく動かし、ボソリと呟く。
「……聞こえますか、ドレミー・スイート」
『はい、何でしょうか八雲藍さん?』
果たして応答があるか不安であったが、鳥居から繋がった異界への通路から声が返ってきた。
「会ったこともないのに私のことを知っているとは、夢の管理者だけありますね」
『あなたこそ、私の名前なんて有名ではないはずですが』
「紫様があなたによく迷惑をかけていると聞いています」
藍は夢の世界を自由に渡ったりしたことはなかったので、ドレミーの姿を見たことはなかったが主人から伝聞で知っていた。
彼女とは友好も何もない初対面、むしろ紫が迷惑を掛けているだけ向こうからの印象は悪いだろう。
それでも藍は彼女に頼まないといけないことがあった。
「無礼を承知でお願いします。槐安通路にて私を家族の元へ送っていただきたい」
◇ ◆ ◇
――オォォォォオオオオオオ ――オォォォオオオオオオオ
耳触りな声を聞きながら、選択を間違えたかなと霊夢は思う。
右を見ても、左を見ても、視界を埋め尽くす圧倒的物量。
影たちは広がった端からこちら側と混じり合って、共に消滅していくしかないというのに、まるで嬉しそうな悲鳴が上がっていた。
地上のすべては漆黒に沈み、世を見つめる眼孔がこちらを睨み、泥の中から分離した人型が空中に飛び上がって襲い掛かってくる。
近づいて来た影をお祓い棒で薙ぎ払いながら考える、自分だけこの中で生き残るのなら楽勝だが、幻想郷全体の防衛は自分一人では不可能だと。
あの時に天子を助けずに紫を殺せばこんな苦労はしなかった。博麗の巫女として規律だけを守っていればなんと楽だったことだろう。
だがそれでも、霊夢にはどうしても手を届かせたいものがあった。
これは博麗の巫女ではなく、博麗霊夢として挑んだ戦いだ。意地になってでも最後まで飛びきってみせようと、影から伸ばされた手に御札を投げつけて破壊した。
「うわあ! 霊夢、どうなってんだこれ!」
寄越せええええええええええ
届いた声に霊夢が振り返ると、箒の乗ってこちらにやってくる魔理沙がいた。
彼女の背後には人の輝きを求めて伸ばされた手があって、霊夢はすかさず飛び込み魔理沙とすれ違うと、影をお祓い棒で薙ぎ払う。
手の影が消滅するのを確かめてから魔理沙に顔を向ける。
「魔理沙、あんたも着いてきたの」
「こいつら妖怪なのか!?」
「それよりもっとタチの悪いやつよ、このままじゃ幻想郷が滅びかねないからとっとと逃げときなさい、ほっといても新しい幻想郷に逃してもらえるはずだから」
「それ、私の家はどうなる?」
「そんなの持ってく余裕なんてないわよ」
「おいおい、さらっととんでもないこと言うなよ、私のコレクションを諦めろっていうのか」
コレクションじゃなくてガラクタだろうにと思う霊夢の前で、魔理沙はカバンを漁る。
お手製の封印が付与された包帯でグルグル巻きにされたものを取り出した、しかも二つ。
魔理沙は包帯を解くと、中から現れた人形と魔本に話しかけた。
「おいアリス、パチュリー! どっちでもいいから聞こえるか、応答してくれ!」
『はいはい、聞こえてるから大声で叫ばないで。いきなり何の用よ』
『その本、都合のいいお助けアイテム扱いにしてないで早く返しなさい』
それは妖怪の山で暴れる際に、アリスとパチュリーから支援として渡されたアイテムだった。
ステレオで響く音声に、魔理沙が怪訝な顔をする。
「あれ、お前らもしかして一緒にいる?」
『共同研究中よ』
「私に隠れてずるいぜ。ああいや、そんなことより何か知らんがヤバいんだ、手を貸してくれ」
魔理沙は人形の頭を掴むと地上に向けさせた。
黒いドロドロした何かがまだら模様に眼を開けて地上を流れていく様子が、人形を通じてアリスとパチュリーに送られる。
あたたかいあたたかぁぁぁい 星 眩しい 月 眩しい 太陽 何処
消える 消える 消える もっと もっと もっと
無秩序な思念が魔力に乗ってアリスたちのところにも届き、通信越しにも魔女たちが絶句するのが伝わってきた。
『……なにこれ』
「知らん。とにかく霊夢を手伝ってこいつらを出来る限り処理するぞ。魔力を回せ!」
魔理沙が八卦炉を構えると、両脇の支援アイテムも正面に魔法陣を浮かばせる。
霊夢は地上から伸びてくる手に弾幕を撒き散らしながら、魔理沙の様子を横目で見ていた。
「無駄よ、とっとと逃げなさい」
「マスタースパーク!!」
構わず放たれた魔光が、人形と魔本から放たれた光線と螺旋を描いて地上の影に降り注いだ。
意味が無いだろうと思っていた霊夢だったが、驚くべきことに微力ながら効果が出ている。
魔女たちから送られてきた陰の魔力と自前の陽の魔力が合わさることで、わずかにだがダメージを与えられているのだ。
やっていることは妖夢の行った封印剣に近い、霊夢はそのことは知らないが原理についてはなんとなく理解した。
これが魔理沙の持つ長所と言っていいだろう、人でありながら簡単に妖怪と和合して力を合わせれる。
博麗の巫女である自分とは違い、何の使命も義務もないのに自由意志だけでこれをやってのけるのは、ある種の才能と言っていい。
――だからこそ、その先にあるものを危惧してしまう。
「まあ、今は考えても仕方ないわね」
「クッソー、全然効かないぜ、お前ら本気出せよ!」
『やってるわよ!』
『むきゅー、持病が悪化しそう』
「魔理沙、力を振り絞るんじゃなくて魔力を同調させる感じでやりなさいよ。そっちのほうがマシよ」
魔理沙たちの攻撃は効果があっても、それは妖夢などとは比べるまでもない低レベルな力しか発揮できていない。
猫の手でも借りたいこの状況、ないよりはマシだがあてに出来るほどのものでもない。
それでも、彼女がここまで自分を追いかけてきてくれたことを思い、霊夢は密かに口端を吊り上げた。
「来い、私の自由を証明してやるわ」
◇ ◆ ◇
妖怪の山の守矢神社から、神奈子が腕を組んで西の果てを睨んでいる。彼女の隣には諏訪子も同じ報を向いて剣呑な顔でカエル座りしている
遠い天と地の間から、溢れ出た影が闇夜の中に膨らんでいる様子が見て取れた。
「大変なことになってるねぇー」
「人から忘れられ、安息の地を探してここに流れ着いたが、どこも難しいものね。まあまだ保った方か」
歪む空間と影と混ざり合い消失していく空気により、気圧がおかしくなって気味の悪い風が山の下へ吹いていく。
恐らくは山に住まう天狗や河童たちも、いやさ幻想郷の至るところの有力者たちは、慌てふためいて今後の準備に奔走しているころだろう。
神奈子が吹きすさぶ風に攫われる髪を鬱陶しそうに手で押さえていると、神社の本殿から早苗が駆けてきた。
「ど、どうしますか神奈子様、諏訪子様!?」
「私達じゃどうにもならないわ、放っておくしかないわよ」
「じゃ、じゃあ、とりあえず火の始末して窓とか扉とか全開にしましたけど、ほっかぶり着けて避難ですか!?」
「落ち着きなさい早苗、外界でも相当古いからそれ。事前の説明じゃ、どうにもならなくなった場合は転移術式で逃してくれるから大丈夫だよ」
神奈子たちは幻想郷に来る前から八雲紫から話を聞いていた。
彼女こそが今の事態の原因ではあるが、自身で二重三重の保険を用意していることを教えてもらい、それらに納得したから幻想郷に移ってきたのだ。
「あっ、なんだ、何が起こってるかわかりませんけどそれなら安心ですね」
「と言っても何もかも持っていけるわけじゃないよ。幻想郷をまとめて槐安通路で移送するんだから、私達が持っていける分は湖が精一杯。神社は新しい場所で再建よ」
「えぇー!? じゃあ私の部屋にある棚いっぱいのロボットたちは!?」
「当然、ここでお陀仏ね」
「そんなぁー!!」
早苗が子供の駄々のような悲鳴を上げるのを、神奈子には叱れなかった。
気持ちは十二分にわかる、自分だって信仰がなくて暇な時間を持て余した時に作ったフルスクラッチジャイ○ントロボ最終決戦仕様は惜しい。
「うわぁーん、私の白いお髭様が! S鳥アセンの黒い鳥ア○ーヤが!! 自作可動王シー○ー・ザ・キングがあ!!!」
「あーもう、三つまで選びなさい! 一つは私が持っててあげるから!」
「あぁー、どれにしましょう、やっぱり今言った三つ……ああ、でも幼稚園の頃に作った紙粘土製ムゲン○ラモンも捨てがたいしぃー!」
「何だかんだ言って甘いねぇー、神奈子ってば」
「うるさいね、置いてくよ」
「それじゃあ早苗のおもちゃが二つのなっちゃうじゃん」
腐れ縁が顔を寄せていやらしくケロケロと笑ってくるのを睨みつける。こいつがケロちゃん仕様アッ○マーを持っていきたいと駄々を捏ねても捻り潰してやると心に決めた。
色々と思うところはあるが嘆いても仕方ない、それに逆に考えれば新天地へ引っ越しのいざこざは宗教家にとってはチャンスでもある。ここで混乱する人里の人間たちを導けば信仰はうなぎのぼりだ。
準備をしなければと本殿に戻ろうとした神奈子だったが、ふと振り返った。
「……うん?」
「どうしたのー神奈子。急いで準備しなきゃ信仰取られちゃうよ」
「いや……」
今一瞬、確かに感じたものがある。
荒れる天候の中、それに負けず吹き抜けた一陣の風があった。
「風が変わった気がしてね」
◇ ◆ ◇
西の大地に影が広がっていく中、紫の家を目指して冥界から急いで出てきた幽々子は、その光景を見て気が気でない様子だった。
騒ぎ立てながら進む彼女を、萃香が押さえ込もうと必死になっている。
「妖夢! 妖夢ー!!」
「あーもう! ちょっと待ちなって、パニクった状態で行ってどうなるのさ!!」
自分たちでどうにかなるような問題ではないと萃香は客観視して、冥界で妖夢が帰ってくるのを待とうと進言したのだが、聞き入れては貰えなかった。
仕方なく服を引っ掴んで止めようとしているのだが、肉体の殆どを失って弱体化した状態では押さえきれず、じわじわと引き摺られる。
「紫だけじゃなくて、妖夢までいなくなったら私は……私は……!」
「幽々子様ー!」
だが発狂していた幽々子の背後から、慣れ親しんだ声が届いてきた。
幻聴かとも思いながら振り返ると、そこには愛おしい半人半霊が肩で息を吐いて幽々子たちのところにやってきていた。
「よかった、合流できた」
「妖夢!」
幽々子が狂おしいほどに喜んで名を呼び、安堵に脱力した。
妖夢の存在に幽々子が若干落ち着いたのを見て、萃香が掴んだ手の力を緩める。
「妖夢、生きててくれてよかったよ。どこにいたのさ?」
「私も橙にスキマで冥界まで飛ばされて……って、幽々子様!?」
萃香から解放された幽々子は、一心不乱に妖夢に抱き着いた。
泣き顔を擦り付け、妖夢の胸元を涙で汚す。
「妖夢、良かったわ妖夢……」
幽々子から感じる痛いほどの情動に、妖夢は子鬼の視線を気にして、かと言って引き剥がすことも出来ず、恥ずかしがって両手を振りまわした。
「と、とりあえず地面に降りましょう幽々子様! 少し落ち着いてから行動しましょう」
妖夢は幽々子を抱えると一旦地面に下りる。萃香もまた後を追って妖夢の前に降り立って顔を合わせた。
「妖夢、このあと幻想郷はどう動くか知ってるか?」
「確か異界を通って住民を避難させる術式が働くはずですけど、でもあの穴が開いた時に紫様が戻ってくるのを橙が見たそうです」
「紫が生きてるの!!?」
幽々子が勢い良く顔を上げ、熱い息を至近距離で浴びせながら声を上げた。
妖夢が「はい」とだけ答えると、幽々子はまた泣き始めて妖夢の胸に抱き縋る。
それを見て萃香はとりあえず二人の心配はしなくともいいと思ったようで、影が蠢く方向へ身体を向けた。
「おい妖夢、幽々子のことは任せたぞ、私はあの黒いやつの様子を見てくるから」
「大丈夫なんですか? なんか力弱まってる気が……」
幽々子が萃香を殺しかけたことを知らない妖夢が尋ねた。
暢気な質問をしてくる彼女に、萃香は少し笑って飛び上がった。
「なあに、どうしようもなさそうなら逃げるさ、戦って死ぬだけが能じゃないんでね」
萃香の身体が能力を使って霧になり、風に巻かれて空に消えていく。
見送った妖夢はしばらく主人の背を撫でていたのだが、急に幽々子が顔を上げて冷たい言葉を呟いた。
「紫を助けなくちゃ……」
「助けなくちゃって、まさかあそこに行く気ですか!? 無茶ですよ、さっきだって何もできなかったのに」
「それでも行かなくちゃ、あそこに紫がいるかもしれないなら何かしなくちゃ」
何かに駆られ、幽々子がうわ言のように繰り返して立ち上がる。
フラフラと死地へ向かおうとする手を、妖夢は咄嗟に掴んで引き戻した。
「紫さんがいるかもわからないじゃないですか! もうスキマで逃げたかもしれないし、冷静になりましょうよ」
「でも、私は……紫が困ってるかもしれないなら、行かなくちゃ」
「なんで、あなたはそこまで……」
妖夢が引っ張り幽々子の身体を向けさせたが、彼女の顔は俯いていて、淀んだ瞳にはこの世のすべてが苦しいような悲観が篭もっている。
それを見て妖夢もまた辛そうな顔をすると、溜め込んでいたものを吐き出した。
「……もっと、もっと自分を大切にしてください!」
生まれた時からずっと幽々子に感じていた憂いを、妖夢は全力で投げつける。
「他人のことばっかり心配して、どうして自分のために何かしようと思えないんですか!?」
しかし妖夢の言葉にも、幽々子の表情は変わらず、本人の気力が感じられない。
伝わらない想いに妖夢は落ち込みながらも、幽々子に問い掛けた。
「……自分が死んで紫様を悲しませてしまったことを、許せないんですか」
それを聞いて、幽々子がゆっくりと顔を上げると、ドロドロの目で妖夢を見た。
「どうして、そのことを……」
「お祖父様が教えてくれました、幽々子様はその時のことをずっと後悔しているって」
道に迷った妖夢が妖忌のもとを訪ねた折、祖父は妖夢に少しばかり昔話をしてくれた。
そこで妖夢は、亡霊としての幽々子の出発点を知ったのだ。
「そうよ、私は紫を悲しませた、それを償わないと……」
「幽々子様が悲しませたわけじゃありません、ただ何かがまかり間違っただけで、幽々子様が償う必要なんて」
「だったらどうして紫は泣いていたの!?」
幽々子が狂ったように声を上げる。
彼女もまた、1000年に及ぶ妄執を妖夢に叫ぶ。
「私が亡霊として生まれ変わった時に誰も祝福はしなかった! みんな悲しんでごめんなさいって頭を下げてきた! 私が、みんなを、悲しませ………」
悲痛を胸に、悲劇を口に、喉を震わせた幽々子は、妖夢の両肩を掴んだまま力を失って項垂れた。
「私は……私は許されない」
この暢気そうな亡霊は、笑顔の裏で負い目から自分自身を責め続けて来たのだ。
周りを悲しませないように、精一杯の陽気さを振る舞って。
ようやく見せてくれた幽々子の暗闇を前にして、妖夢は毅然とした表情で両手を幽々子の背中に回した。
「そんなことはありません」
誰よりも近くで幽々子と紫の交流を見てきた妖夢は言い切る。
紫が死んだ本人を恨んでいるはずがないし、幽々子がそのことに後悔を感じる必要もない。
だが問題なのは、紫よりもまず自分自身を許せないことだ。本質的に、自分はいてはいけない存在だと思いこんでいる。
でもそれなら尚のこと、妖夢は幽々子が許すべきだと思うのだ。
「私は、幽々子様に会えて嬉しかった、それで納得してはくれませんか」
妖夢は静かに、語りかけた。
周知の事実の、しかしこの亡霊にとっては思いもよらない言葉に、幽々子の顔が少し上を向く。
「もしも私一人だったら、紫様に立ち向かったりは恐ろしくてできませんでした、幽々子様がいたから私は使命を果たそうと立ち上がれたんです。誰かのために頑張るのは、その誰かが頑張る値する人じゃなきゃ駄目なんです。幽々子様は、私の行動の理由になってくれる素晴らしい人なんですよ」
白玉楼で育ち、子供の頃から幽々子を見てきた妖夢が、幽々子のためだけの言葉を与える。
人間だった頃の幽々子を知らない、亡霊の幽々子にだけ向けた言葉を。
「あなたはあなたのために、今を気ままに過ごしていいんです」
それは幽々子が、心の奥底で一番欲していた言葉であった。
過去に引っ張られることはないのだと。生きていた頃の自分から解き放たれ、亡霊としての道を歩いてもいいのだと。
「幽々子様はもう十分頑張りました、私は幽々子様のすべてを許します。私と出会ってくれて、ありがとうございます」
私なんかで申し訳ないですけどねと妖夢は苦笑して付け加えた。
幽々子の唇が熱に震える。1000年の時を超え、初めて自分の死に意義はあったのだと認めてもらえた気がした。
亡霊の眼に光が宿るのを見て、妖夢は安心して肩の力を抜く。
自信はなかったが、どうやら少しくらいは想いが届いてくれたらしい。
ひとまず主人も落ち着いたし、これからどうしようかと思案し始めた時、上空に紫と天子が要石を連れて飛んで行くのが見えた。
まだ彼女たちの戦いは続いているのだと察し、妖夢は自身に掛けられた幽々子の手をそっと外し立ち上がる。
幽々子が自らの情動をどう表現すればいいかわからないまま見上げてくるのを、できるかぎり強がった笑顔で見つめ返した。
「どうかここで待っていてくれませんか。私にはまだやれることがあるから、終わった後に帰るところが欲しいんです」
「帰るところなら、冥界が」
「その、察してくれませんか?」
照れくさそうに頭をかく妖夢に、幽々子は言葉の真意に気付く。
少し戸惑った後、いつもみたいにおどけた調子で笑いかけた。
「隣は開けておくわ、一緒にお花見をしましょう」
「……はい!」
嬉しそうな顔をした妖夢が空を駆ける。
半霊を漂わす後ろ姿を見送ってから、夏の今にどんな花を見ればいいんだろうと幽々子は後から気づく。
それならそれで、咲かない桜の下で、遥か昔の誰かに別れを告げながら飲むのもいいかも、と静かに笑うことができた。
◇ ◆ ◇
「幽々子と妖夢……よかった、逃げれてたのね」
博麗神社を出発し暗い夜の空を天子と共に手を繋いだまま飛び続けていた紫は、風を切って飛ぶさなか、地上に佇む二人の姿を見つけて、止まらないまま安堵して緊張していた胸を押さえた。
しかし力量を弁えている萃香はともかく橙の姿が未だ見当たらないことが気にかかる、嫌な予感が過るがそれを確かめる余裕はない。
「紫! 家の結界までもうちょっとよ!」
天子の呼び声で、紫は不安を追い出し目の前の危機に集中する。
全速力で幻想郷の夜空を横切った二人は、紫の屋敷を守っていた結界付近まで辿り着いた。
彼女たちを待ち受けていたのは、光を追い求めて目玉をギラつかせる亡者のおどろおどろしい歓声。
幾千、幾万の意思が混じり合い、実体のない虚像が崩れ、液状になって大地に広がっていく様は正に地獄絵図だ。
しかし幻想郷に押し寄せる影の塊は、コップから零れそうで零れない水のように、途中から進めなくなっているのが遠くからでもわかった。
「なにあれ、あいつら途中で止まってる」
「家の結界の効果よ、この時には術式が反転して内から外に出ないよう切り替わるよう準備してたの」
紫は何事にも万全を期していた、屋敷に張っていた結界は自衛のためだけではなかったということだ。
より多くの輝きを求めてさまよう影たちは、結界の境界線ギリギリのところであらゆる感覚を狂わされ、内部に押し留められている。
「博麗大結界にも同じ機能が備わってるわ、やつらは今はまだ大結界と家の結界のあいだに閉じ込められてる」
「……中の植物や動物は?」
「この様子じゃ、全滅ね」
冷静に言い放たれ天子の表情に歪む。
不可抗力とはいえこうなった原因の一端は自分にもあるのだから、責任くらいは感じた。
だが今はそのことに構っていられる状況ではなく、もっと差し迫って問題が目の前に広がっている。
「このままじゃ拙いかもしれない、数が多すぎる。放っておいたらじきに内圧で屋敷の結界が崩れるわ。そうすれば溜まっていたこいつらが幻想郷の内側へ一気に雪崩込む、そうなったら幻想郷の半分くらいは侵食されるわね」
紫が開けた境界の穴は刻一刻と広がり続け、それに比例し幻想郷に流入する影も数を増している。
それでは住民だけ転移で避難させても、幻想郷の生態系にまで大きな影響が出るだろう。
転移術式があるお陰で人や妖怪に被害はなくとも、だが妖精など自然に由来する存在にとっては致命的な打撃となる。
紫が愛するこの幻想郷が削り取られることに、天子は我慢できず叫んだ。
「ここでこいつらを潰さないと!」
一度ここいらの影を気質で一掃してから進んではどうかと天子は進言した。
だが紫はあくまで計算づくで首を振る。ここで時間を食えば更に境界の穴は広がるだろうし、気質の無駄遣いも避けたい。
「残念だけどそんな余裕はない、先を急ぐしかないわ!」
きっと一番辛いだろう紫にそう言われては、天子も強くは言い返せなかった。
方針を決めかねているあいだに、二人は影の上空に差し掛かる。
結界の内部に入り込むと、地上に広がった影の目玉から一斉に視線が注がれた。
「来るわよ天子! 戸惑ってる暇はない、犠牲は覚悟で進むわ!」
「あんたはそれでいいの!?」
「よくないけど行くのよ!」
「チィッ!」
悔しさに舌打ちした天子はすぐ背後まで要石を引き寄せると、緋想の剣に負の気質を通して紫色の刀身を灯す。
直下の影たちがドロドロに溶け合った海から分離して、一個体に戻って空に飛び出してくる。
自分たちが持てない輝きを求めて手を伸ばす報われない者たちに、天子が剣先を向けようとして、そこに現れた者に遮られた。
「それはいけません、この期に及んで妥協なんて似合いませんよ天子様。一切合切踏み越えて行って下さい」
天子たちの視界が一瞬白く染まったかと思うと、轟音を響かせて雷が通り過ぎる。
蒼き雷は空気を割りながら辺りを蹂躙し、迫りくる影を粉々に噛み砕いた。
電撃を放った何者かは、身に纏った羽衣をふわりと揺らし、天子たちの前に下りてきた。
「衣玖!?」
「お待たせしました、格好つけるには中々いいタイミングだったようですね」
そんなことを口に出したら台無しだろうに、わざと間が抜けた調子を出して衣玖が背中越しに顔だけで振り向いた。
通常の手段では倒せないはずの世界の異物たちを倒してみせた姿に、誰よりも紫は驚いている。
「ど、どうやったの今のは!?」
「龍神様から権限を上乗せしてもらいました、おかげさまで向こう側に追い返すくらいはできます。それと最終攻撃に関してもギリギリまで待ってくれるそうですよ」
あっさりと述べられたことに紫は仰天の連続だった。
そんな簡単に最高神が力を貸してくれるなど都合が良すぎる、普通なら有無を言わさず幻想郷を灰燼にしてもおかしくはないというのに。
「さっすが衣玖! 私の部下なことだけあるわ!」
「私の成果じゃありませんよ。龍神様がお力添えしてくれたのは紫さんの努力の結果です」
「私の……?」
「頑張ってれば見てくれている者がいる、ということです」
衣玖が嘆願したのは境界が崩れたことに対して龍神による最終攻撃の待ったと、羽衣から行使できる権限の増大。
重苦しい威圧感に耐えて状況を説明していた時は無理かもしれないとも思ったが、驚くほどあっさりと衣玖の願いは通った。
曰く――彼女の足掻きが実を結ぶのなら、それはそれで良いとのことだ。
龍神は長らく異物であるスキマ妖怪への対策を考えてきたが、同時にこの世界に溶け込もうとした八雲紫も知っている、だからこそ幻想郷の成り立ちからわずかながら協力してきたのだ。
再び影たちが沸いて出てくる。
無秩序に同胞が追いやられることに何も感じることはなく、狂ったように光を求めて同じことを繰り返す。
唸りを上げて直情的に飛び込んでくる影の群れに向かって、衣玖が羽衣を巻きつけた腕を向けた。
「今度は幽々子さんのときのように、臆したりはしませんよ天子様」
「えっ? そんなの気にしてたの」
「ええ、意外と」
二度、三度と繰り返し轟いた蒼雷が、近寄る影を片っ端から粉砕していく。
この場へ軽やかにやってきた衣玖だが、ここは現実として死と隣り合わせの戦場だ。
衣玖は本来、殺し合いの場に出てこれるような性分ではないのは、先の幽々子を相手に臆したことからも明らか、死に対して気後れする程度には常識人だ。
それでも、そんな穏やかな性格のはずの彼女は、今こうして戦っている。
今まで自分は天子の後を着いていくのが当たり前だった、それが映姫の言葉で何故そうしているのか疑問が浮かび、幽々子との戦いで天子が死にかけて揺さぶられた。
そして考えてみて、一つの結論に達した。
「天子様、昔の私は雲の中を漂うだけの人生でした。今思えばつまらないものでしたが、結構満足してましたよ」
別に衣玖は当時のことを思い出しても特に後悔を感じたりはしないし、それどころかあれはあれでよかったとも思う。
また一人の頃に戻ったところで寂しさを感じるのは最初だけで、普通にそこそこ満ち足りて生きていけるだろう。
「時折見れる緋色の雲の光景が好きだったんです。野蛮で力強く原始的で、地に根付く想いが映す天候は何よりもたくましかった」
地震が起きる前兆である緋色の雲は、地上に住まう様々な想いが蓄積されたものだ。
人々のみならず、妖怪から動植物に至るまで、様々な魂の積み重ねが生み出した光景は、個を圧倒する輝きを発し、そこから世界のうねりを感じるのが好きだった。
だから衣玖は現状に満足して、龍神へのおべっかや地震の知らせなどの仕事をこなしながら特別な望みなどなく生きてきたのだ、天子と出会うまでは。
「でも、あなたならもっとよいものを見せてくれる、そう信じているんです」
今まで自分は何一つ作ることなく、ただ見守るだけだった、それが永江衣玖の性質だ。
それを恥じることはしない、見守ることしか出来ないなら、きっと未来に素晴らしいことを成し遂げる彼女の行末を見守っていたい。
だから今度は怯えて遅れたりはしない、最後まで自分にやれることをやり通し、天子たちを見守り、支えとなる。
異臭が鼻を突く、境界を超えてきた影ではなく、実体のある肉が焼き焦げる嫌な匂いだ。
衣玖が手をちらりと見下ろせば、指先が炭化し始めている。
全能たる龍神から貸し与えられた力は、境界を超える存在をも焼き尽くす反面、衣玖の身にすら牙を向いている。
諸刃の剣が我が身を傷付ける痛みを感じながら、衣玖は躊躇なく叫んだ。
「ここは私達が食い止めましょう。何をする気は知りませんが、派手なのを期待してますよ!」
衣玖の気持ちを、天子は押し付けがましいとは決して思わなかった、それどころか勇気が湧いてくる。
心を許した相手から受け取る願いというものは、こんなにも力を与えてくれるものなのかと、驚きながら握った手に力を込める。
隣を見れば紫が力強い目で頷いてきて、天子はこの期待に応えるべきだと教えられた。
「衣玖、あんたがいなければここまで来れなかったと思う」
「私なんかがいなくても、天子様は同じ選択を取りましたよ」
「でも過程と結末は大きく違ったと思う、本当にありがとう。でもこれで終わりじゃないわよ、明日からだって面白いものを見せてあげるんだから、絶対に生き延びなさいよ」
「ええ勿論、これまでわがままに付き合ってきて討ち死にじゃ割に合いませんし」
「わかってるなら結構よ! ここは任せた!」
衣玖を飛び越えて、天子と紫が要石を引き連れて先へ進む。影たちの一部がそれを邪魔しようとするのを、衣玖は至極冷静に、淡々と作業をこなすように電撃で焼き払う。
しかし腕から感じる痺れと痛みが気になる。死ぬつもりがないのは本当だが、最悪腕が焼ききれるかもしれない。
まあその時はその時だ、主人に介護でもしてもらおうと気軽に考え、引きつる腕を無視して電撃を放った。
「随分と頑張ってるようじゃんか、ならサポートは任せなよ」
電撃を放ち続ける衣玖の耳元に、何者かが話しかけてきた。
首だけで振り返って背後を見ると、周囲から霧が集めってきて見慣れた子鬼の姿が現れた。
「萃香さん、調子が悪いのでは?」
「そうも言ってられないさ、まあ雑魚を萃めるくらいはなんとかなるよ」
萃香はそう言って機嫌が良さそうに酒を呷る、彼女も天子と紫が手を取り合うところを見たのだ。
「あなたも何だかんだ言って付き合いが良いですね」
「どこぞの馬鹿の影響だね。あいつにゃ散々、恩を着させられたし」
過去を思い出し、萃香は口元を歪めて渋い顔をする。
「本当にバッカだよねー。恨まれるってわかってるのに手を差し出すなんて、私といいこの幻想郷といい」
「幻想郷はすべてを受け入れる、ですか」
「そうその通り、そんでもって残酷なことに救われちゃったりするんだなこれが」
苦い溜息を吐いて萃香は手を振り上げる。
密と疎を操り、蠢く影たちが結界の外へ這い出ないよう引き寄せた。
「ほーらこいこい! お前達に宴の場所になんて行かせてやらないもんね、私らと一緒に隅っこで仲良くしような!」
単純な腕力や死の概念も通じない相手だが、直接滅ぼす力ではない萃香の能力は効果的だったようだ。
地上を埋め尽くす影の群れが波打ったかと思うと、上空の萃香に引き寄せられていくつもの人型がドロドロに溶け合った影から分離して姿を現す。
四肢を手で構成し、体中に気味の悪い目を見開いた影が、一つ、また一つと這い出ると、空へと浮かび上がってくる。
わかりやすい形で増えていく敵を前にして不敵に笑う衣玖と萃香であったが、影が空の三分の一も埋め尽くすと余裕が崩れ、絶えることなくワラワラと沸いてくる影が、比率を逆しまにするころには目を剥いて冷や汗を垂らしまくっていた。
気が付いた時には、二人はバケツを引っくり返したような数の影に囲まれていた。
「集めすぎですよお!?」
「うわあ、ちょっとタンマタンマ!」
萃香が能力の使用を中断するがもう遅い。
感情のまま飛び掛ってくる影たちに衣玖が全方位に向かって五芒星を模した雷をばら撒いたが、撃ち漏らしが何体か雷をくぐり抜けてくる。
「うわわわわ!?」
「さようなら天子様、あなたに出会えて幸せでした……」
「早々に諦めんなぁー!?」
衣玖の迎撃は間に合わない、かと言って萃香では影への攻撃手段を持たず、万事休すと言ったところで刃が閃光のように奔った。
絡み合う二刀の太刀筋が境界を結び、念願の光を浴びていた影たちを、本来あるべき境界の隙間へと強制的に送還する。
竦み上がっていた衣玖と萃香の前で、飛び出してきた剣士が半霊を漂わせて剣を振りかざした。
「なんだかわかりませんが、とにかく斬る!」
愚者のままの物言いで、己の命の真理を得た妖夢は空を飛び回り、陰と陽の二刀にて影を斬る。
「私にできることは斬ることだけ。ならば片っ端から斬って斬って事を収めましょう!」
おかっぱの髪の下から迷いなき眼光を放ち、周囲の敵影を見つめた。妖夢もまた加勢に来てくれたのだ。
「妖夢か! やるもんだね、助かったよ」
未熟さを感じさせない佇まいを見せる半人半霊の少女に、萃香は成長したなと感嘆の声を漏らした。
何があったのかは知らないが、今の妖夢の姿にはこれまでにない意志が宿っている。
衣玖もこれなら安心して任せられると、羽衣の行使に集中した。
「妖夢さん、撃ち漏らしをお願いします!」
「はい、お任せ下さい!」
近距離防御役が現れたことで、衣玖は自らに近寄る敵影に構わず雷を撃ちまくり、遠方にいる大量の影を吹き飛ばす。
自傷で痛む腕のせいでムラのある攻撃であったが、その隙間を縫って襲い掛かってくる影に関しては妖夢が対処した。
目にも留まらぬ踏み込みで影の懐に潜り込むと、二刀を持ってこの世界から斬り捨て、即座に身を翻すと返す刃で次の影を斬る。
萃香も動転した気を持ち直すと、能力を適度に使用して、やりすぎない程度に影の目を集めた。
「よし、いい感じですね」
即席のメンバーだが、役割分担が完成しつつあった。
各々思うことはあるが目的は一つ、天子と紫を助けることだ。
誰もが自然と笑みを浮かべる、二人の足跡が力となって、段々と集まってくるのをみんなが感じていた。
「そういえば、橙のやつはあの後どうしたんだ? あいつ、家にいたんだろ」
「橙さんが?」
衣玖と萃香が妖夢へ目を向けた。
妖夢は一瞬言葉に詰まる、わずかにぶれた剣先を瞬時に整え、近付く影を切り払った。
「……橙なら、戦ってます。誰よりも危険な場所で、家族のために」
◇ ◆ ◇
戦闘開始からおよそ半刻、一秒ごとに戦況が悪くなるのを霊夢は肌で感じるのを逃れられずにいた。
境界の歪みは加速度的に増していき、緩んだ穴から際限なくやつらが溢れてくる。周りは文字通り山のように影がうごめいていて、もはや一見すると地形にしか見えないほど巨大で無数だ。
霊夢が結界の修復手段を持たない以上、影の住人をいくら滅ぼそうとも切りがない。
それどころか、眼前にはもっと酷い光景が広がっていた。
霊夢すら圧倒するのは、世界が崩れ物理法則すら支離滅裂に乱れた黒い霧。
境界の崩れた穴を中心に広がるそれは、物理法則すら崩れて崩落した空間そのものだった。
霧状の虚無は幻想郷を飲み込もうとするかのように球状に膨らんでいて、夜の闇よりなお暗い威容を見せつけている。
「霊夢! いつになったらこの耐久終わるんだあ!?」
魔理沙の泣き言が響くが、明るい言葉は何も返せない。
そもそも霊夢の持ちうる情報からすれば、境界が崩れた時点で幻想郷は詰みだ、いくら霊夢が無敵だろうと世界から浮かび上がるだけではどうにもならない。
ここまで来て得た結果が幻想郷からまるごと夜逃げなど、それじゃ諦めがつかないから意地になっているに過ぎない。
どうすればいいかわからず、抵抗するしかない霊夢に遠くから声が届いた。
「――霊夢! あなたもここにいたの!?」
声の方向へ振り込いて霊夢だが、両手を広げて突っ込んできた影が邪魔になって誰かは見えない。
視界を遮る影をお祓い棒で吹き飛ばすと、その向こう側に手を繋いだ紫と天子、それに二つの要石があった。
「紫!」
「と天子!? 何でこいつもいるんだ、最近あいつら仲いいな」
ここまで紫が来たことに何か意味があることを感じ取った霊夢が、眼下より浮かび上がってくる影たちを一望する。
疲弊した霊力を上手くコントロールし、できるだけ少ない消耗で、かつ周囲を一掃できるだけの力をまとめ上げた。
「神技、八方龍殺陣!!」
練り上げた霊力が力場を形成し、霊夢を中心とした光の柱が作り出される。
上空から突き刺さってくる陣に地上の影は悲鳴を上げて消え失せていき、彼奴らが消えた後に抉られた地面が顔を出した。
十分に影を打ちのめしたあとで陣が解除されると、紫と天子が霊夢のそばに飛び込んできた。
数秒間だけ形成された安全地帯に魔理沙も加わり、すかさず霊夢は紫へ視線を向ける。
「紫、何か手は!?」
「ある! 私と天子が崩れた境界を結び直す。そのためには、境界が崩れた中心部に行く必要があるわ!」
ようやく勝利条件が見えてきて、霊夢の顔が希望で明るさを見せた。
魔理沙もこの話を聞くと気力を取り戻したようで、闇夜に高々と声を上げた。
「なら、決まりだな!」
魔理沙は力を振り絞って笑顔を作ると、八卦炉を取り出して球状の暗黒に向ける。
「今度こそ全力で行くぜ!」
『さっきからこっちは必死よ!』
『むきゅう、息する暇もないくらいキツイわね』
反論されつつも、なけなしの魔力が魔理沙の元へと転送されてくる。
許容量を超えた魔力に魔理沙の体内の回路が大きく唸りを上げ激痛が走るが、魔理沙は冷や汗を流しながらも笑顔を崩そうとせず八卦炉を構える腕を降ろさない。
その背後に霊夢が回り込み、色とりどりの光弾を作り上げて浮遊させた。
「夢想封印!」
「マスタースパーク!!!」
放たれた光弾が霧へと向かうのを追い越して、魔法の閃光が暗闇に線を引く。
森羅万象の理を識ろうと手を伸ばす魔女たちの力が、世界を正して暗黒へ続く足掛かりを作り上げる。
黒い霧に突き刺さった魔砲は周りの霧を押し退けてると、そこへ霊夢の光弾がなだれ込み、内部で霊的な爆発を引き起こした。
八卦炉からの光が途絶えた時には、霧の表面から内部へと続く道ができていた。
「行って! 紫!」
「ミスんなよ紫!」
「ちょっと! 私もいるんだけど!?」
いてもいなくても変わらないような扱いを受けていた天子が、怒って騒ぎ立てる。
しかし魔理沙はなぜよりにもよって紫の隣にいるのがこいつなのかと、白けた顔で天子を見てきた。
「役に立つのかお前?」
「何当たり前のこと言ってるのよ! そうよね、紫?」
天子が問い掛けると、紫はふわりを笑みを浮かべて言葉を返した。
「ええ、天子は私に必要な人よ」
その笑みが、いつも胡散臭い妖怪のものにしてあまりにも眩しすぎて、ぽかんとあっけに取られる魔理沙に、天子は勝ち誇った顔を浮かべた。
そして紫に負けないくらいの笑みを浮かべると、二人一緒に崩れた霧の中へ突入した。
◇ ◆ ◇
境界に開いた穴に一番近い戦場で、橙の孤独な戦いは続いていた。
周辺の空間は半ば混沌と同化した。空に浮かぶべき星と月はとうに消え去り、永遠の闇だけが包み込んでいる。
重力も失われた世界で上も下も関係なく、そこらじゅうから境界の住人が沸いてくる。
取り囲まれる中で、橙はボロボロの傘を振るった。
「境界よここに、三重結界!」
跳び跳ねながら開いた傘を自らの体ごと振り回し、傘の先端に橙色の境界を展開する。
飛び掛かってきたいくつもの影は、近づいた端から無軌道に回転する結界にバラバラに引き千切られて行く。
しかしまともな思考もできない影たちは、感情のまま橙を追いかけるのを止めなかった。
――――私たち に も 寄越せ ええええええ
泣き叫びながら伸ばしてくる手には哀れさすらあったが、行われるのが略奪である以上、橙は一切の容赦を持たなかった。
だが手数が足りない、全周囲が嘆きに溢れる現状、ただ結界を張るだけでは迎撃が間に合いそうもない。
橙は一度傘を閉じて背中に背負うと、空中で大きく引き下がって、そこに地面があるかのように四つん這いになった。
「即席! 自由気ままな三重結界!」
両手両足、そしてしなやかな二股の尾の先に結界が展開される。
橙色の結界はサイズこそ小さいが、込められた力は先程と比べても遜色ない。
周囲から影が立ち並び、向かってくるとともに橙もまた空を駆け出した。
両手を前に伸ばし、脚を思いっきり伸ばして前に飛び出すと、同時に四肢から結界が放たれ橙の周囲を走り回った。
四肢の動きに連動して、四つの三重結界は縦横無尽に駆け巡り、橙に伸ばされた魔の手のことごとくを駆逐した。
そんな中でも結界をかいくぐって飛び込んできた影が橙の背中に触れようとし、寸前のところで尻尾が振るわれ、先端の結界が手を切り裂いた。
「くぅ、これ、疲れる……!」
一旦攻撃の波が引いたところで、橙は結界を解除すると苦しそうに頭を押さえる。
結界を使用するにあたり式を利用しているが、演算の度に脳がズキズキと痛んで限界を訴えてくる。それに境界線を見つめすぎて、目の奥も火傷したみたいに熱い。
だがここで音を上げる訳にはいかない。幻想郷保全の最終フェーズが開始すれば紫は永遠に誰もいないこの場所に自ら封印される、そんなことはあってはならない。
もしも紫様が自身が生き残るために策を講じるならば、ここで自分が敵の目を引いて足止めすることには意味があるはずだと、そう思い、橙はあるかもわからない可能性のために、迷うことなく命を懸けた。
焼き付きそうな脳と眼孔に活を入れ、なんとか戦闘態勢を取ろうとした橙が自分を包もうとしている巨大な影に気がついた。
「マズ――」
複数の影が連結して、巨大な口のような形を成して橙を飲み込もうとしている。
ご丁寧に牙まで真似たそれに気づいた橙は、逃走か迎撃かを迫れられ、前者を選択した。
上下から迫る顎から全速力で逃れる橙であったが、口の外に出ようとしたところで別の影が橙に襲いかかってきた。
四肢を手で構成した人型の影が目の前に四体。
この程度なら止まることはない。橙は背中から傘を手に取って突きつけると、先端に展開した三重結界で薙ぎ払った。
だがその時に生じた硬直の隙を突いて、牙から伸びてきていた手が橙の左足首を掴んだ。
「ぐっ!?」
靴下越しに焼けるような冷たさが伝わってきて、橙は悲鳴を上げてしまった。
足先に結界を作り掴んできた手を即座に弾き返したが、靴と靴下はすでに崩れ落ちてしまい、その下から皮膚が溶け筋肉の一部が露出した足があらわになる。
激痛を堪えながらもなんとか前へ出て、閉じた影の顎からすんでのところで脱出できた。
危機を回避したことから足が無事かということに意識を割いてしまう、そこに口の表側から影が分裂して飛び掛かってきた。
わずかに橙の反応が遅れる、思考の枷となる痛苦を振り払って結界を作ろうとするが、間に合わないと脳裏に計算が出た。
無我夢中で何も考える暇もない中、橙は振り返る視界に一瞬だけそれを見た。
闇の中を進む、緋色と紫色の輝きを。
「――天子! 体力も回復して、短距離なら空間を繋げられる!」
「よおし、要石!」
かき混ぜられた空間に突入した天子と紫は、闇の奥で追い詰められようとしている橙の姿を見つけていた。
天子は大量の要石を自らの周囲に作り出すと、そこに反転した気質を押し込んだ。細かい操作が無理でも、これくらいなら天子単独でも出来る。
紫は気質が装填されてからコンマ一秒のタイムラグもなく、要石にスキマを開いて空間を繋ぐと、橙を取り囲む影から更にその外側を囲むように移動させた。
配置についた要石が影の背後で爆発して、気質の篭もった破片となって周囲にばら撒かれた。
突然の爆撃に影たちは次々と破片に打ちのめされて、橙へ辿り着く前に無数の穴を身体に開けて崩れていく。
残ったのはそれを物ともしない巨体を誇った影の口だけ。それが再び顎を開けて橙に食らいつこうとした時、橙の身体を守るように片腕が抱きしめ、横にスッと伸びてきた白い手がかざされた。
「――八重結界!」
指先から展開された結界が、顎の中から広がって影の集合体を空間ごとバラバラに引き裂くのを、橙は口を開けてみていた。
破裂した風船みたいに当たりに散っていく影の切れ端から目を離し、目を丸くしていた橙がゆっくりと身体を振り向かせる。
そこにいた大切な家族に、身体の芯が熱くなる。
自分を見つめる優しい微笑み視界が滲んだ。
「橙、大丈夫?」
待ち望んでいた穏やかな声に、目元が緩むのを止められなくなった。
「ゆかり……さま……」
呆然と唱えた橙が思わず傘を手放し、頬を濡らして紫の胸元に抱きつく。
紫は柔らかな身体で抱きしめてくれて、腕の中で感動に打ち震えた。
「ゆかりさま……ゆかりさまぁ……! 良かったです、紫様……!」
喉を震わす嗚咽が、冷たい闇の中を伝う。
そばで天子から温かい目で見守られながら橙を抱きしめる紫は、改めて橙の身体の小ささに驚いていた。
こんな小さな体で傷つきながらもなお、なんて頑張ってくれていたんだろう。
それが誰のためなのかはこの涙が伝えてくれる、服に滲んだ涙の熱さに、紫は橙をたくさん褒めてあげたかった。
だけどそんな時間はないと、空間の軋む嫌な音が告げてきた。
地鳴りのような音に反応し、紫が今まで辿ってきた進路を振り返り、橙もそれにならって同じものを視た。
「どうしたの、何よこの音」
「状況が変わってきたわ……橙」
「はい、視えました。やつら戻ってくる」
二人が見ているのは異変の中心ではなく外側だ。
「紫様と天子のことを警戒してるんだ! このままじゃ、外に向かって広がっていた影が一気に押し寄せてくる!」
「それってヤバイんじゃないの!?」
「当然、よくない状況よ。やつらが集まってきたら空間の密度が更におかしくなって、境界を正すのが難しくなるし、結界の展開を邪魔される恐れもある」
ただでさえ目的地の中心からは境界の住人が這い出てきているのだ、これに加えて今まで散っていた影が戻ってくれば挟み撃ちになる。
橙は周囲を漂っていた傘を迷わず握ると、決死の覚悟で紫たちに背中を向けた。
「紫様は先へ行って下さい、ここは私が!」
「何言ってるの橙、あなたももう限界じゃない!」
「四の五の言ってる場合じゃないって子供でもわかります! 紫様は自分を助けるためにここに来たんじゃないんですか!?」
橙の言うことは正論だ、この状況においてはそれが最善だ。
だが紫にはそれはできなかった。
「私は、紫様をお助けしたいんです」
紫は自らの意思で橙を見捨てては行けない、橙が死ぬくらいなら代わりに自分の身を差し出す女だ。
この場で先へ進むかどうかの選択肢を与えられたのは紫本人ではなく、この光景を見守っていた天子だ。
進むか退くか、二つの道に天子は焦燥を募らせる。
紫が拒もうが強引に手を引いて前へ迎えるのは天子だけだ、だがしかし天子こそ、紫を諦めまいと願い、ここまで絶対にその信念を曲げなかったのだ。
ここにきて紫に諦めろと言うことは、天子にもできなかった。
紫と握り合うべき手は震え、二人の間を彷徨った。
「――私が槐安通路を伸ばせるのはあなたの家の結界までが限界です、それ以上は自力でたどり着かないといけません」
あまりに遠く、とても近い異界の果てで、ナイトキャップをかぶった獏の眠たげな目が境界を見つめる。
「夢はどこまでも広く、どこにでも行ける、しかし裏を返せば迷い易いということです。ここから先は境界が崩れた影響で時空が歪んでいて、下手をすれば気が付いた時には宇宙の果ということもありうる。道標はあなたの想いだけ、わずかな迷いがあれば別の場所に飛ばされます。帰りのことはわからない、それでも」
「それでも行くさ」
向かう先は想像を絶する困難。そう言い含められても、隣にいた式神は信念を口にした
「あそこが、あの二人のいるところが、私の帰るところだ」
夢の夜を金色の尾が奔り出す。
道なき暗闇、狂気すら意味をなさない果てを目指し、燃え尽きそうなほど速度を上げる。
衝突して引き伸ばされる空間がその身を擦り切り、美しき尾から血が流れてもなお疾く。
流れる視界は意味をなさず、行き先すら不確かなまま踏み込み続ける。
主に従い続けた過去は遥か遠く、明日へと続く境界線に我が身をぶつけた。
「紫様!! 橙!!!」
理が崩れた領域にて、想いの一つで光も超える。
成ったのは尾を引く彗星、闇すら切り裂く凶つ星。
空間を突き抜けて出きた黄金の閃光は、爪先にまとった紫色の灯火で影を裂き、崩れた暗闇を縦横無尽に駆け巡る。
――そして見つけた、共に幸せを分かち合うべき家族を。
紫たちの目の前で閃光が跳ね回った、細切れにされた影の残骸だけが漂っている。
大妖怪たる紫の眼を持ってすら追いつけない神速を以て、紫炎を宿した白面の狐が紫と天子の退路に立ち塞がり、血を滾らせる九つの尾を広げた。
「八雲藍、ここに参上いたしました!」
思わぬ加勢に、誰もが言葉を失った。
「藍、様……?」
「やはりここにいたんだな橙、お前ならそうすると思っていた」
なんとか名前だけをひねり出した橙に向かって、藍は我が子の成長を見るような誇らしげな顔で笑った。
一番衝撃を受けていた紫が、衝動的に言葉をぶつける。
「藍、どうやってここに!? いや、それよりも大結界の調整は!?」
「無論、速攻で終わらせましたとも! 故にこのくらいのわがままは大目に見ていただきたい!」
吠える藍の爪先に灯るのは、術式により反転した負の気質。
彼女が努力の果てに到達した境界をも超えるその力で、主人の元へ集まろうとしていた影を駆逐せしめたのだ。
「ドレミー・スイートより伝言です。あなたを疎ましく思っていますが嫌ってはいないとね、存外みんなから好かれてるじゃないですか」
「まさか、槐安通路からここまで来たの……!?」
あまりにも無謀な試みだ、この周囲の空間は根本から崩れ落ちており、異界から直接転移してくるのは紫ですら叶わない。
万が一にも成し得ないはずの所業に身を投じた藍を、紫は信じられないという眼で見つめている。
「藍……どうしてあなたは、そこまでして私を助けてくれるの」
「あなたの家族になりたいからですよ!」
過去に幾度となく繰り返された疑問に、藍は長き主従関係の最後に自らが得た答えを掲示する。
「紫様、私は幽々子嬢の死に泣いたあなたに光を感じた。仮にも妖怪の姿で現れたあなたがそれにたどり着けたことに可能性を感じた」
元々、藍は自分に家族愛などいらないと、手に入らないものだと思っていた。
悪狐の性として男をたぶらかし、上っ面だけ取り繕った愛だけを抱えたまま、最期には誰からも見捨てられて惨めに死ぬ、妖怪の最期なんてそういうものだと思って悲観していた。
だが無理やり自分を拉致して式神としてこき使っていた紫が、友の死に涙するのを見て自らの価値観を大きく揺さぶられた。
仮にも妖怪でありながらこんな風に泣けるやつがいるのかと、彼女なら自分の死にも泣いてくれるのではないのかと。
自分も泣いてもらって良いのかと。
「私は死の間際に泣いてくれる誰かが欲しかったんです、だからあなたがそばにいてくれるだけで良かった。でもそれだけじゃダメなんですね」
家族の中にある愛を幻想し、死に際まで共にあるよう願って紫に従い続けてきたが、それだけではどこまで行っても使い魔でしかないのだ。
だから今度は盲目的に従うのではなく、自らの心を伝え、お互いのことを話し合える関係になろうと思う。
そんな理想にいち早く辿り着いた天の少女に、藍は目を向けた。
「紫様、私はね、そこのワガママ娘と同じなんですよ。この先の幻想郷にも、あなたがいなければ納得なんてできない」
散らされた影の向こうから、新手が次々に現れる。
藍は天子から目を逸らし、再び家族の敵を見据えた。
「あなたには何としてでも生きていて欲しい!」
新たに押し寄せてくる影の波を前に藍は猛然と駆け出した。
気質をまとった手刀にて、近寄る有象無象を片っ端から引き裂き散らす。
跳躍する五体に絶望感などどこにもない、あるのはただ希望に向かう言いようのない高揚感。
終わりのない闇の中で、己の内に生まれた光を胸にして喉を震わせた。
「フハハハ! 大切な誰かのために走るというのは気持ちがいいな! 通りで負けないわけだな天子!」
張り切りすぎる藍を前にして紫は狼狽していたが、橙はかつてない歓声に藍の本気を知り、また覚悟を決めた。
死地を走る覚悟ではない。大切な家族とともに、生きて明日を迎える覚悟だ。
「境界よ今こそここに、我ら三人、家族の想い重ね合わせ、ここにありしは大結界」
傘の先から重ね合った境界が広がっていく。
球状に広がっていく結界は境界が崩れた穴の周囲を取り囲み、外側から入れないよう壁を作ったが、唯一橙がいる地点にだけ抜け道を作っていた。
これで嘆きのまま走ることしか出来ない単純な影たちは、この場所を狙って集まってくるはず。より激しい戦場になるが、ここさえ守りきれれば紫たちの障害の半分は取り除かれる。
「紫様、ここは私と藍様に任せて!」
「この先に可能性があるなら、私達の望みも連れて進んで下さい。みんなが本当の家族になるために、あなたの往く道を支えさせて下さい!」
背中を見せる家族の気持ちに、紫は胸がはち切れそうだ。
こんなにも自分を愛してくれる家族がいる、みんなに迷惑かけてばかりの自分をこうまで支えてくれる。
ならば紫にやることは一つ、彼女たちの想いに感謝と共に報いるのだ。
それが正しいことだとわかっている天子が、いち早く紫の手を取った。
「行きましょう、紫!」
真っ直ぐな目が未来を語りかけてくるのを、紫は強く握り返した。
「藍、橙、全部終わったら思いっきり抱きしめたいから、怪我をしないようにね」
「その言葉、覚えましたから。後で恥ずかしいから止めってのはナシですよ。ではご武運を!」
「天子! 紫様は、けっこう危なっかしい方だから、頼んだよ!」
「もちろんよ!」
愛する家族を守る藍と橙は、背後から気配が遠のいていくのを感じる。
だがこれを寂しいとは思わない。夜に眠る前のおやすみと言うように、これを温かく受け入れた。
「ご機嫌ですね藍様」
「ああ、こんなに気分がいいのは生まれて初めてだよ。今ならなんだってやれそうだ」
「こんなに強気な藍様は珍しいです」
「ははは、むしろこれが地さ!」
自らを縛っていた枷から解き放たれ、藍は快活に喉を震わす。
いつもの冷静さを捨てて態度を豹変した九尾の姿に、橙はむしろ素敵だと思って釣られて笑みを零す。
「さあ、行くぞ橙!」
「はい!」
二人の式神が押し寄せる影に立ち向かうのを紫は背中で感じながら、家族の言葉を思い返して苦笑した。
「あの二人ったら、あんなこと言って」
「でも、良い家族でしょ?」
「ええ、本当に」
天子の問いに、自分にはもったいないくらいだと紫は二の句もなく頷く。
もはや憂いはなく、世界が入り混じった混沌を行く二人であったが、入り混じった思念が眼を開けて、希望を持って進む二人を見た。
戻ってきた 戻ってきた 裏切り者が戻ってきた
何のために 何のために 何のために
まさか また裏切る気か 我らから奪う気か
ようやく手に入れた この熱を
――キィィィエエエエェェエェアアアアアアア
「はん! 紫から奪ってきて虫が良すぎるのよ!」
「熱いか冷たいかでしか考えられない、その隙間にあるものをわからないあなたたちに、この世界の輝きは渡せないわね」
気丈に言い放つ二人の前に、今までを遥かに超えた物量が蠢いた。
崩れた境界から押し寄せる影が次々と形をなし、文字通り他に何も見えないほどの敵影が現れる。
しかも今度はがむしゃらに飛び掛かってきただけの今までと違い、はっきりとした敵意を持って、より戦闘に適した形態を取っていた。
あるものは四つん這いの獣なって、あるものは手を翼のように広げて、あるものは隣の影を握って武器のように振り回し、あるものは周囲の影を飲み込んで吸収し十メートルはある巨人へと成り果てた。
「天子、緋想の剣に気質を注いでこっちに」
天子は紫から手を離して緋想の剣を持つと、言われたとおり負の気質を注ぎ込んで、不安定な紫色の刀身を作り上げた。
風に吹かれて揺らめく篝火のような剣を差し出すと、紫が天子の上から手を重ね、気質の操作系に介入した。
すると瞬く間に気質がピンと張り詰めて細く熱く集中し、小さく音を響かせて鋭い刃が形成された。
「気質を集中して保たせた、後は好きにしなさい」
「よし、要石の牽引は任せたわ」
天子が神通力による不可視の紐を要石から解くと、紫から伸ばされた妖力が二つの石を掴んだ。
速度を抑えた紫を置いて前に出た天子は、一度だけ振り向いて歯を見せて笑う。
「じゃあ紫、私のこと見ててよね!」
天子が圧倒的物量へ飛び込んでいく。
突貫する少女に、影たちは各々構えを取って出迎えた。
戦い 戦い 知っている
殺すか 殺されるか 生きたら勝ち 死んだら負け
遊び 遊び 遊び
「むっ、カッチーンと来たわ。何よそれ」
こと楽しいこと好きな天子が、遊びというワードに反応した。
勿論それは好意的な反応ではない、納得がいかないという彼女特有の押し付けがましいわがままだ。
「それだけの殺気を出してて遊びだなんて無粋ね、なら私たちが本当のゲームを見せてあげるわ!」
伝わってくるざわめきに天子は剣を振りかざす。
獣のような影がすばしっこく空間を跳ね回り、死角を取って襲おうとしてくるのを、天子はよく引きつけてから緋想の剣で顔から胴体まで串刺しにした。
そのまま剣を振り抜いて獣の影を裂くと、目玉の付いた翼を持った影が自らの身体をすり減らして弾丸を作り上げ、翼の目から飛ばしてきた。
天子の現在位置と未来位置にそれぞれ放たれた弾を、天子はわざとスカートを大きく振り回して華麗に避けてみせた。
裾についた極光の飾りがすれ違う闇の中で煌めいて、天子の姿を際立たせる。
かすりもせず避けきった天子は、棍棒のようなものを振り回す影に対し、あえて最初の二撃を打ち込ませた。
振るわれる棍棒を身を捩るだけで避けてみせた天子は、三撃目でその出掛かりを狙って武器の根本を緋想の剣で突いた。
力を込める前に押さえつけられた影が、無様にも武器を捨てて強引に体当たりを仕掛けてくる。
ここで影を切り捨てるのは簡単だったが天子はそうせず、剣先で相手を撫でるように押し付けて力を受け流すと、身体を回転させて影の背後に回り込んだ。
「遊びが視えるわよ天子、悪い癖ね!」
「何言ってるのよ、こいつらには見せつけてやらなきゃ!」
紫からの注意に笑って返した天子へ向けて、奥で佇んでいた巨体が手を振り回した。
影の味方ごと巻き込んで迫ってくる手を前に、天子は巨大な要石を作り出して剣の気質を少し移すと、真正面から打ち当てた。
気質を持って打ち据えられた要石は衝撃で砕け散ったが、同時に無理やり作られた巨体の腕もあえなく分解し、吸収されていた影が破片から元の形を取り戻す。
天子は不敵に笑うと、あえてその影の群れに飛び込む。要石の瓦礫を蹴って縦横無尽に動き回り、宙を漂う影を切り裂いた。
その動きはまったくどれもが戦いに勝つことを意識したものではなく、無駄ばかりが目立っている。
それなのになぜ、これほどにも洗練された美しいものとして眼目に映るのか、影たちにはわからなかった。
生き死にの中でありのままの自分で競う天子の姿に、困惑している他ない。
「やれやれ、楽しそうにしちゃって」
呆れたように息を吐く紫であったが、その目には僅かな嫉妬が爛々と燃えていた。
その対象は天子ではなく、彼女が立ち向かう大勢に向けられたものだ。
「でも私ならもっとあなたを楽しませられるわよ」
紫がゆるく持ち上げた両腕を広げて、背後に弾幕を浮かび上がらせた。
弾幕は緩やかな弧を描いて展開されていき、天子を取り囲むように円の形をとる。
「深弾幕結界、夢幻泡影」
紫が抱きしめるように腕を閉じると、天子の周囲を弾幕が飛び交った。
今までと違いより戦闘を意識して動き回る影たちであったが、理論立ててこの弾幕を避けようとしてもことごとくが撃ち抜かれた。
それもそのはずだ、この弾幕は影を倒そうとして放たれているのではない、天子だけを目標として撃ち込まれているのだ、故に自らが狙われていると考えて避けようとすれば逆に当たる。
その中心にあって天子は自らを包み込む弾幕を、見もしないまま軽やかに避けていた。
この状況において紫が自分を狙ってくるのなんてなんとなくわかっていたし、どこにどう打ち込んでくるのかも手に取るようにわかった。
最初の軽い牽制を受け流し、本流となる弾幕の隙間を縫って飛び跳ねる。時に激しく、時に強く、けれどどこか相手のことを気遣った意識の流れに自らも合わせる。
そして大量の弾幕を避けきって少し体勢が崩れた頃を狙って飛んできた本命を、剣を打ち付けて弾き飛ばした。
刀身から飛び散った弾幕の火花から、安心すら感じる。こんなものただのじゃれ合いにすぎない、天子はただ踊るように舞った。
天子が飛び回る傍らで、彼女を抱擁する紫の弾幕が次々と影を討つ。
闘争心を引き出したはずの影たちは、手も足も出ないまま倒されていき、消滅の間際に目を見開いて二人の弾幕ごっこを瞳に映した。
これはなんだ 合理でもなく 不合理でもなく そのあいだに見える力は
わからない わからない 理解できない
影たちは天子と紫のあいだにある見えない繋がりをしかと感じ、自分たちの理解の外側にある何かに、恐怖すら抱いておののいた。
貪欲に喰らおうとしていた影たちの動きに変化が現れる。恐れが伝播し迷いを生み、その足を止めさせる。
どよめいた影がわずかに後退するのを見て、天子が紫へ振り向いて手を伸ばした。
「さあ、紫!」
「ええ、天子!」
紫が要石を引き連れて天子へ近付くと、差し出された手を取り合い、もう片方の手で緋想の剣を一緒に持った。
要石に貯蔵された膨大な負の気質を緋想の剣へと抽出すると、紫がその力が向かう方向を導く。
大きく燃え上がった紫色の灯火が、二人の手の中で収束し一旦静まると、爆発的に広がった。
「全妖怪の――」
「――非想天!!」
光線として周囲に放射された気質が、怯える影の群れを薙ぎ払っていく。
わずかに広がりながら突き進む気質に、影たちは抵抗する力すら持てないまま輝きに突き刺されて滅び去る。
はるか遠くまで紫色の閃光が通り過ぎた後は怨嗟の声も静まり返り、境界が崩れた時空の穴の中心部までの道を作り上げた。
「行くわよ天子、決着を付けましょう」
すべての障害も消え失せて、二人はつい境界の穴の直下にまで辿り着いた。
右に紫が、左に天子が並んで、二人一緒に緋想の剣を持ち、その両脇に気質を込めた要石を浮かばせる。
紫のそばで紫色の気質が、天子のそばで緋色の気質が燃え上がった。
「天子、ありったけ注ぎ込んで!」
「よし、これでおしまいよ!」
正と負、二つの気質が緋想の剣を通して刃となると、紫色と緋色の光刃が反発しあい、螺旋を描いて伸びて行く。
刀身から溢れ出した大量の気質が霧となって周囲を覆い渦を巻いた。
「気質の同調開始、非想結界展開、境界を再構築する!」
二種類の霧は紫の意思のもとに幾何学的な紋様を映し出し、二人を囲んで互いに重ね合わされた。
更に内側から同じものが次々と生成されながら広がっていき、崩れた世界に境界線を敷いていく。
二人の周囲から暗黒が払われ、時空の穴を塞ぐように結界を重ねると、目に見えて穴の大きさが小さくなってきた。
これなら行ける、と天子は嬉しそうに笑みを深める。
――やめろぉぉぉぉおぉぉぉおぉぉぉぉぉおぉぉぉぉおぉおぉおぉおぉおおお
しかし鳴り響いた声に、余裕は打ち消された。
やめろ やめろ やめてくれえぇぇぇえええ
奪うな 奪うな 私から 僕から 俺から 我らから 光をおぉぉおお奪うなああぁぁああああああぁぁああ
緋色の結界の動きが徐々に鈍くなり始める。
次々生成される紫色の結界に追いつけなくなり、境界線を震わせながらゆっくりとしか展開させられない。
「これは……!?」
「拙いわ、奴らが!」
紫が見上げた先にいたのは、結界が敷かれる向こう側で蠢く影の住人たち。
光を求めて止めない彼らは、苦しそうなうめき声を上げながらこちらを見つめ、結界に無数の手を叩きつけてくる。
嘆きは増大し、呪詛が空間を歪ませ、閉じようとする境界をこじ開けてくる。
「境界の修復を邪魔してくる……ダメだわ、このままじゃ気質が足りない!」
紫が苦しそうなうめき声を上げた。
抵抗はあることは予想していたが、所詮は自らの足元すら覚束ない、恨み妬むことしかできない存在のものだからと楽観視していた。
しかしこれほど切実な叫びを上げてくるとは。
隣を見る天子の前で額に冷たい汗を掻き、眉の間に焦りをにじませる。
「幻想郷の気質だけじゃ、境界を支えきれない……!」
反転した気質だけなら周囲の影を消滅させたうえで境界を支えるに十分な量があった。
だがこちらの世界の気質が足らないのだ。
展開された緋色の結界が内側から徐々に崩れていくのが天子から見え、縮まりかけた穴がまた大きさを増していく。
あともう少しなのに、望んだ結末が遠のいていくのに天子は諦めきれず剣を強く握りしめた。
「まだ……まだこんなもんじゃ……!」
「すぐに気質の放出を中断して! バランスが崩れて、反転した気質が逆流してくるわよ!」
「でも、このままじゃ!」
緋想の剣が不気味な音を立てたかと思うと、柄にヒビが入り、割れ目から紫色の光が漏れ出す。
紫の警告を無視した天子だったが、剣を通し気質が身体のうちを駆け上ってきて、そのまま心臓を貫いてきた。
心が溶けるような得体の知れない感覚に天子は目を剥くと、口を開いて大きくのけぞる。
「天子!」
意地でも剣を離そうとしない中、紫の呼び声が遠のいていき、代わりに耳鳴りが大きくなっていく。
天子の意識は裏返り、虚無の向こう側へ心が沈んでいった。
◇ ◆ ◇
次第に耳鳴りが薄れていき、思考にかかった霧が晴れていく。
上も下もわからない中で、真っ白に塗りつぶされた情景に何故か自分が目を閉じてるんだと気がついた。
ゆっくりと開いたまぶたの端から、柔らかい光が差し込んでくる。
「ここは……」
徐々にピントが合う視界には、綺麗に整えられた庭があった。
物干し竿に掛けられた布団に、いい風が吹く開放された縁側。
天子が知らない建物だが、どこか白玉楼に似てるように思った。
何の危険も感じられない穏やかな光景に、何で自分はここにいるんだろうかとボーっと考えて、先程までの状況を思い出した。
「そうだ、境界が!?」
我に返った天子が状況の不可解さに驚いていると、縁側の奥から声が聞こえてきた。
「ほとけには……の花を、たてまつれ……ねえ、幽々子。この字はなんて読むの?」
「それはね、桜って読むのよ」
たどたどしく歌を読む子供のように真っ白な声だが、天子はそれに、そして言葉を教える誰かの声にも聞き覚えがあった。
縁側から回り込み、屋敷の中を覗いてみると、そこには予想通りの人物がいた。
「紫……!?」
屋敷の中で机の前に座り、綺麗な着物を着た紫が、本を前にして透き通った瞳で書を追っていた。
その隣には幽々子の姿があり、紫に顔を寄せて何かを教えている。
「さくら……」
紫は幽々子から教えられた言葉を反芻し、飲み下すように顔を天井に向けた。
その姿は天子が知るどの紫とも違い、子供のように純粋な気配がした。
奇妙な光景に天子が唖然として眺める前で、紫が書面に視線を戻すともう一度先程の歌を読み上げる。
「ほとけには桜の花をたてまつれ、我が後の世を、人とぶらはば……」
「すごいすごい、一週間前は字なんて読めなかったのに、もうすっかり達人ね」
喜ぶ幽々子もまた、天子が知っている幽々子とは違うように感じた。
儚さの中に芯がある、不安定なように見えて大樹のような精神性を持つ、そんな強い人間の特徴が感じ取れる。
まるで幼き日に自分を愛した母のようだと、地子だった時代を一瞬思い出した。
未知の光景を前にして、天子は段々と今の自分がどうなっているのかわかり始めた時、不意に後ろから肩に手を置かれた。
「また随分と無茶をしたようね」
驚いて振り向くと、そこにいたのは紫色のドレスを着た紫がもう一人いた。
こちらのほうが天子の知っている紫に近しい雰囲気を持っていたが、だがきっと彼女もまた本物の八雲紫ではないのだろう。
「あんたは、記憶の紫……?」
「ええ、お察しの通り。お別れが台無しだけど、また会えて嬉しいわ」
底の見えない胡乱げな笑顔は、間違いなく天子が境界の隙間で出会った彼女のもの。
自らを記憶の残光と形容した紫が、陽の下で蠱惑的に笑いかけてきた。
「あんたがいるってことは、じゃあここはやっぱり、紫の記憶の中なんだ……」
天子はもう一度縁側に視線を移し、楽しそうに話しながら、幽々子に言葉を教えてもらっている過去の紫を見た。
気質に残留した記憶情報が天子の中に流れ込んできてしまったのだろう。
ここにある光景は、かつて紫が体験したものということだ。
残光の紫は、その記憶の渦に乗って天子の心の中に足を運んできたのだ。
「こんなにも高密度の情報を受け取ってしまうなんて、もっと自分の体を大切にしなさい……なんて、言ってられる状況でもなさそうね」
「そうよ、大変なのよ! 今すぐ戻りたいんだけどどうすればいい!?」
「慌てなくとも大丈夫よ。外を覗いてみたけど、時が止まったみたいに静かだわ。今私達が体感してる時間は、現実での一瞬ということよ」
残光の紫が大空を見上げてそう言った。
その瞳に何が映っているのかはわからないが信用してもいいだろう。
「でもでも、こんな時にのんびりさせらても落ち着かないわよ、早く出して!」
「私には無理よ、しばらく記憶を見たら自然と現実に引き戻されるからゆっくりなさい」
「うぅー……」
仕方なく唸った天子は、所在なさげに視線を動かす。
やるべきことを取り上げられ、暇になってしまった天子は記憶の光景を眺めるしかなかった。
「幽々子、桜って何? お花?」
「桜はね、木の名前よ。季節が春……暖かくなってきたころに、綺麗な花を咲かせるの。来年は、私と一緒にお花を見ながらお酒を飲みましょうね」
「うん」
幽々子に対する過去の紫の態度は、とても素朴で着飾っておらず、あるがままに幽々子の言葉を受け取っていてとても素直だ。
「なんか私の知ってる紫とだいぶ違うわね……」
「当然よ、この時期の八雲紫は記憶のバックアップができるようになって間もない、初めて地に足つけて歩み始めた頃だもの」
いわば目の前の紫は見た目こそ今と変わらないが、精神的には幼少期というわけだ。
「私はまだ生きていたころの幽々子に出会い、彼女に素敵な名前を与えてもらった。この出会いがきっかけになって記憶を引き継ぐ術を作り、思い出の大切さを学んだ。まだ赤ん坊みたいな私に、幽々子はいろんなことを教えてくれたの」
世界の異物として追いやられたスキマ妖怪としてではない、八雲紫として生きるようになった少女の原点。
「何が善で何が悪か、何が綺麗で何が嬉しいか、あらゆる価値観は幽々子と過ごした数年間の生活の中で形作られた。これだけは消し去ってはならないと今でもすべての記憶を残している、何千回、何万回と思い出された八雲紫の根底なのよ」
これを欠けば現在の紫すら成り立たなくなる、一番重要な思い出だと残光の紫が語る。
それを聞いた天子は、それだけのものを紫に与えた幽々子に感謝の念も感じた。
今は現実での危機も一時忘れ、紫が一歩一歩自分の心をを積み重ねる微笑ましい光景を眺めていた。
「幽々子、そろそろお腹が減ってきたころ?」
「あら、そうだけど、どうしてわかったの?」
「この一週間、今の時間帯に幽々子がご飯にしましょうって言うから」
「覚えててくれたのね、嬉しいわ。でも今日は藍が作ってくれるのよね?」
「うん、できるって言ってたからやらせた。そろそろ持ってくると思うわ」
話の中で出てきた名前に、あいつもいるんだと天子はちょっとした安心感を覚えた。
この頃の藍はどんな性格なのだろうと考えて、なんとなく橙みたいな姿を想像していると、部屋の戸が空いて件の九尾がお盆にご飯を載せて現れた。
「お待たせしましたクソガキご主人様、ご飯ができた……できましたよ」
「ぶふっ」
もの凄ぉく嫌そうな顔して毒を吐くやさぐれ藍に、天子は噴き出すのを堪えられなかった。
口元を押さえる天子の前で、部屋に入ってきた藍は足を使って乱暴に戸を閉めると、机の上に音を立ててご飯を並べ始める。
粗暴ながらも器から料理を零したりはしなかった辺り生真面目さが滲み出ているが、苦渋に満ちた顔で愚痴を吐き捨てた。
「クソッ……なんで私がこんなことを……」
「ごめんね藍、家事まで頼んじゃって」
「まったくだよ、私は子守のために家事を学んだんじゃないぞ。本当なら男を誑かして悠々自適に酒池肉林のはずが」
「あまり口答えするようならお仕置きよ」
「ぐっ……申し訳ありません」
紫が先程までの無垢さを切り捨てた恐ろしい眼光で藍を睨みつけ、表情に怒りを滲ませた。
短い言葉だったが、その中には恨みと憎しみに嫉妬さえも混じっていて、己が激情を叩きつけるかのような様子には、愉快な気分になっていた天子も思わずぞくりと来た。
この威圧感を前にしては強大な九尾と言えども従うしかなく、藍も身体を竦ませると、嫌々ながらも謝罪を口にする。
しかしそんな中で、幽々子は殺気にまるで怯えず、紫の肩を軽く叩いて窘めた。
「紫、脅かしちゃダメよ。藍にはこっちがお願いしてる立場なんだから、ほら怖がらせてごめんなさいって謝って」
「怖がらせてごめんなさい」
すると紫は驚くほど素直に頭を下げて謝った。
殺気も消え失せた豹変ぶりに、藍も天子も毒気を抜かれて肩を落とす。
「本当にわかってるのかこいつ……まあいい、冷めない内に食べてしまえ」
「ありがとうね。さあ紫もそこまでにして一緒に食べましょう」
のほほんとしながらも紫を躾ける姿に、さしもの天子も感服した。
どうやらこの幽々子は亡霊ではない、人間時代の幽々子らしいが、紫相手にこの度胸は大したものだ。
「この幽々子すごいわね、亡霊になった後より肝が座ってるわ」
「彼女は死んだ時に記憶を失って自分をやり直し始めたのよ。でも、私では幽々子を昔のように幸せな人に導くことはできなかった」
残光の紫が未練がましそうに言うのを見て、天子は少しもどかしさを覚える。
落ち込むことなんてないと、紫はよくやれたと言えたら楽だったが、紫の元へ辿り着くまでにその幽々子を打ちのめした天子にはそれを言う資格が無いように思えた。
しょうがなく食卓の光景に視線を戻すと別の話を始める。
「藍も刺々しいっていうか生意気な感じね、この紫のほうが生意気だけど」
「この時はまだ藍も私とは家族と呼べる関係ではなかった。術式を貼り付けて無理やり従えていただけよ。あと最後の一言は余計よ」
通りでお互いの態度が辛辣なわけだ。
藍を信用せずにしばりつけているだけの紫と、仕方なく従っているだけの藍では友好関係など結べまい。むしろ現在に至るまでによくあそこまで仲良くなれたものだ。
「当時の私は幽々子以外はどうでもよかった、というよりも憎んですらいたからね。」
「でも、その割にはそこまで嫌な雰囲気じゃないわね」
現在の藍からも昔の紫が恨み辛みを抱えていたと聞いたことがあったのを思い出す。
一見するとそんな風には見えないが、それを抑えているのはきっと幽々子なのだろう。
今さっき藍を一瞥した表情が紫の地に違いない。
「幽々子は妖怪の私達にも分け隔てなく接してくれたから。人間らしい思いやりで、私達の心を温めてくれた。この優しさが、世を憎むことしか知らなかった私に中身を吹き込んでくれたのよ」
屋敷で行われる日常は幽々子を中心として朗らかな空気で回っていく。
彼女の優しさに抱かれ、紫は勿論のこと藍も心を落ち着かせ、満更でもなさそうに過ごしている。
眺めている天子もまた安堵して、胸元にある紫色の宝石を抱きしめて、自らの知っている紫を夢想した。
「なんだか、良かったわ……大変そうだけど、紫の大本はこんな温かい記憶で出来てたんだ」
これらの優しい日常があったからこそ、天子を受け入れた現在の紫があるのだろう。
紫の心の始まりがこんなにも幸せでありふれたものであってくれたことに、天子は心底嬉しく思う。
だが残光の紫は少し表情に陰りを見せて、天子から顔を背けた。
暗い気配を感じ取って、天子は困惑気味に隣を見上げる。
「……紫?」
「ええ、あなたの言うとおり、表層的な理性においては、これらの温もりが礎となったのは間違いない」
残光の紫が含みのある言い方をするのを、天子は真意を探ろうとじっと見つめる。
すると天子の目の前にいる過去の紫達の残光は、観念したかのように、あるいは待ちきれなかったかのように、天子に向き直って思い唇を開く。
「けれどそれより深く、無意識下の領域にこびり付いたものもまた別にある。いい機会かもしれない、あなたが八雲紫と歩むのならば、これを知ってあげる義務があるでしょう」
そう言って残光の紫は硬い表情で、天子へと手の平を差し出した。
「あなたが私を助けたいというのならば、見てみるが良いわ。例え記憶を奪われようとも消えない、魂の核に染み込んだ、拭いようのない感情の渦を」
この手を取った先にあるものが決して良いものではないことは、天子にもわかった。
食卓から聞こえてくる楽しげな会話を遠くに聞きながら、天子は迷いのない目を見せる。
「紫が知って欲しいって言うのなら、私はいくらでも手を出すわ」
残光の紫が強張った顔をわずかに綻ばせ、天子は彼女の手を取った。
手の平から何かが突き抜けてくる刺激に、来ると思った時には天子の思考がぐにゃりと歪み押し流され、激しく天地を揺さぶられる感覚のあとまた別の場所に立っていた。
場面は家の中。橙が壁に顔を向けて背を丸めているのを、困った顔をした過去の紫が呼びかけている。
「そんなに固くなってないで、こっちに来て橙?」
横から見える橙のむくれ面で、機嫌が悪いというよりも心の歪みが自然と出てしまっているような雰囲気があった。
「これは藍が橙を拾ってきてすぐの記憶ね、当時は橙も心を許してくれなかったの」
「……へえ、そうなんだ」
いじけた橙というのも天子から見れば珍しいが、そう面白いものではない。
事実、流れる空気は先程までの光景と相反して重たいものだった。
「今日で橙が来てから何日経ったかしらね」
「……二ヶ月くらい」
「そうそう、もうそんなになるのね」
「……私のことなんて覚えてないくせに」
橙の辛辣な指摘に、紫は辛そうな顔をして痛む胸を押さえる。
それでも頭を振って挫けまいとすると、笑顔を浮かべて橙に話しかけた。
「そうだ、橙。何かして欲しいことはある? せっかく家族になったんだし、して欲しいことは何でも……」
「うるさいよ、この前も同じこと聞いたよ! あんたのボケなんかに付き合ってられないんだから構わないで!」
橙からの激しい拒絶に、紫は言葉を押し込んで身を引くしかなかった。
それでもまだ何かしようと迷い、掛ける言葉に悩みながら手を伸ばすが、すぐにまた胸元に戻す。
「ご……ごめんなさいね……」
何を言えばいいかわからず、ただ謝罪だけを口にするしかない紫の背中を、天子は悲しい顔をして見ていた。
静かな部屋で、残光の紫が口を開いた。
「この頃の記憶の保持は一ヶ月程度が限度でね。情報の編纂もゆっくりできなくて、日常的な事実は何も記録できていなかったから、今ほどコミュニケーションが上手く行かなかった」
紫の態度からは家族になった橙に何かしてあげたいという気持ちが見て取れるが、失くした記憶が溝となって伸ばした手が届いていない。
幽々子に与えられた優しさすら上手く表現できない紫の姿は、とても苦しんでいるように見えた。
天子はその背中を抱きしめたくなったが、すべては過ぎ去った事実である以上は、ただ見ていることしか出来ない。
悔しさに手を握りしめた時、再び視界が歪んで別の場所に放り出された。
吹き抜けてきた涼しい風が肌を冷やし、草木に隠れる虫たちが鳴き声を響かせる。
見知らぬ山の中、ほのかな月明かりに照らされた天子の目の前で、今度は血まみれの萃香が紫の胸ぐらを掴んで詰め寄っていた。
「何でだ! 何で私を助けたりなんかした!? 」
流れる血を物ともせず鬼気迫る表情で怒鳴る鬼に、天子は思わず息を呑んだ。
首を絞め上げられた紫は、萃香を見つめたまま怯えた表情のまま固まってしまっている。
「黙ってるな! これは私に対する侮辱だぞ! なんとか言ってみろ!?」
「う……その……」
紫はもごもごと口を動かすと、まるで親に怒られている子供のような、本当に恐る恐ると言った感じで言葉を呟いた。
「昨日の夜、あなたは散歩していた私に話しかけてくれたから……今日は風が気持ちいいねって……」
「そんなことが理由になるのか!?」
「だって……その思い出を、大切にしたかったの……」
「……ふざけるな!」
「止めて!」
最後の言葉は天子が上げた悲鳴だった。
過去の記憶に何を言っても意味が無いとわかっているのに、気が付いたら声を上げて拳を振り上げた萃香に走り寄っていた。
振るわれた萃香の拳に手を伸ばして受け止めようとしたのだが、拳は天子の身体をすり抜けて紫の頬を殴り抜けた。
等身大の身体が吹き飛ぶ嫌に鈍い音を聞き、天子が耐えられずぎゅっと目をつむると、また感覚が歪んで天子の身体が投げ出された。
視界が移り変わって足を止めた時、天子は険しい山岳の上にいた
空は暗雲に包まれ雷の鳴る音が大気を揺らす中、紫は切り立った崖の上に膝を突いていたが、まともな姿ではなかった。
服らしいものを着ず、ボロボロの布切れだけをまとっていて、髪は洗っていないのか泥だらけで全体的に荒んだ風貌だ。
その身体は傷だらけで、身体中から刺々しい殺気を放ち、憎々しい顔で牙を剥いて睨め上げている。
この紫の姿は天子に大きな精神的動揺を与えたが、だがそれを吹き飛ばすような衝撃が他に居た。
紫の見据える先にいるのは、暗雲の中に身を沈めてもなお隠れきれないほどの巨体を持ち、身体中の鱗から轟雷を響かせている。
地を噛み砕きそうな巨大な顎と、天を穿つような大角、その威容は直接その存在を見たことなかった天子ですら何者かすぐにわかった。
幻想郷の最高神としても祀られる全能の存在、龍神に相違ない。
「……何なのだ貴様は」
龍神の呟きに山が僅かに揺れるものの、その声の中には確かな戸惑いがあった、怯えさえあった。
圧倒的な権能をも持つ最高神が恐れるものとは何者なのか、この状況を見れば誰でもわかる。
龍神の周りには、他にも人影があった。
紫を取り囲むように数人の人が宙を浮いて、座り込んだ紫を見下ろしている。
彼らから感じる気配に、天子はその者たちが天人かあるいはそれに近しい者たちだとわかった。
人影もまた、恐れを乗せて次々に口を開く。
「どうやればこいつを消滅させられる」
「試行すること251回、何度殺そうとこやつは境界の向こうから這い出てきた」
「封印も無駄だった、いつの間にか消えて別の場所に現れる」
「なぜこんなものが存在する」
「あってはならない異物だ」
次々に口にされる拒絶の意。
突き刺さる言葉と侮蔑の視線に、排他されようとする紫は顔を歪める。
「どうしてなの!? 何で私だけがこんな目に合う! 他の化物にだってこんなにも追い立てられはしないのに、私だけを排他して……憎らしいわ、貴様らが憎いわ。いつか必ずぶち殺して、そのハラワタを引きずり出してやる!!」
放たれた呪詛に、天子は大きく驚いて身を竦めた。
「お前らだけじゃない! 幸せそうな人間どもを何もかもぶち殺して、私から奪うすべての者たちからあらゆる幸福を奪い尽くしてやる!」
この呪いを天子は知っている、獣のような憎悪を間近で感じたことがある。
忘れもしない幼き日の記憶、まだ天子が人間であった頃、母を殺した時に見た恐ろしき世界の異物。
これこそが幽々子と出会い人生のスタートを切る前の、記憶が無いまま流浪しかなかったころの紫なのだ。
しかし何故こんなにも恨みばかりを膨れさせてしまったのか、そう愕然とする天子の前で龍神が重々しい声を響かせる。
「逆に問おう、名すら与えられない隙間の妖怪。何故お前は我らの世界に来た」
「何故……何故……なぜ……?」
問い掛けられ、走り出しそうな憎悪が不意に止まる。
まだ名もない妖怪は、頭を押さえ少ない記憶を手繰り寄せようとする。
「何故、私は……う、うぅ……」
どれほど考えようと答えは出ず、紫は顔を俯かせてうずくまってしまった。
「どうして私はここにいるの……どうしてこんな苦しい思いをしなければならないの……」
うなされるように呟きが漏れる。
憎しみの下から湧き上がってきた疑念に押され、紫が顔を上げた時には一筋の涙が零れていた。
「気がついたらここにいて! 追い立てられて! 誰にも受け入れられてもらえないまま、どうして私はここにいるの!!?」
「……哀れな童よ」
悲壮を持って吠え立てた紫に、龍神が一抹の憐憫を持って呟くが、この世界の異物に慈悲が掛けられることはない。
龍神の牙の先に紫電が迸り、全能の力が集まっていく。
それが誰に対するものなのか、わかってしまった紫は絶望を顔に浮かべると、両手で頭を押さえて身を丸めた。
「奪おうとする限り、お前の居場所はこの世界にはない、あるべきところへ帰るが良い」
「いやァ!! いや……イヤァァァアア!!!」
今度は天子にも止められなかった、こんなにもの悲劇に自分に何が出来るのかと躊躇ってしまった。
泣き叫ぶ紫の頭上から蒼雷が降り注ぐ。
一瞬にして泣き声は掻き消され、紫の身体が跡形もなくこの世界から消え失せる。
記憶は途切れ、雷槌の閃光とともにすべての風景が黒色で塗りつぶされた。
気が付いた時には、一面の闇の中に佇んでいた天子に、残光の紫が語りかける。
「これが、かつての私達の記憶、その一端。楽しい思い出がなかったわけじゃない。でも八雲紫の感情は、これら悲壮によって突き動かされている。記憶以外の部分、心の奥底に染み付いた苦悩に」
残光の紫はそれだけ述べると、後は静かに背中から天子を見据えていた。
何故、幽々子と出会う前の紫が、母を殺した恐ろしい妖怪が、あれほどの憎悪を湛えていたのかわかった。
ずっとあんなことを繰り返していたのだろう、誰からも受け入れてもらえないまま絶望を繰り返していたんだろう。
なんてかわいそうな話だと天子は思う、あれでは何もかも憎むようになって当然だ、けれど、
「……私は酷いやつだ、これを見て紫の沢山を知っても、まだ許せない」
自分の母を殺したことを、天子は許せはしなかった。
仕方なかったのかもしれない、なるようになってしまっただけなのかもしれない、それでも自分からあらゆる幸せを奪ったことを許せないのは確かだった。
「でもどうしてだろう、胸が苦しいわ」
首飾りの上に手を重ねて、紫の足跡を想う。
悲しいことばかりでも、紫は与えることを学んでからはそれを愚直にやり続けてきた。
思うようにいかなかったことがあった、恨まれたことがあった、それでも紫は誰かを受け入れ続けたのだ。
それを天子は誰よりも知っている。
「紫には、笑っていて欲しい」
振り返った天子は、何故か泣いていた。理由は自分でもわからない。
嬉しさでも、悲しさでも、憎しみからくる慟哭でもなく、胸の奥から汲めども湧き出てくる熱が涙となって押し寄せた。
残光の紫が天子を見て、その行先を確信する。
涙しながらも熱い光を宿した瞳を見て、この人に知ってもらってよかったと、安心してまどろむように目を伏せた。
◇ ◆ ◇
「――天子!? しっかりしなさい天子!」
正気を失っていた天子の瞳に光が戻る、結界を叩く影たちの手を見てここが現実だと思い知った。
紫の呼びかけを受けて現実に戻った天子は、首を仰け反らせたまま崩れかけた結界を見上げていた。
危機的状況を思い出し、緩みかけていた身体に活を入れると、引き戻した顔に眼光を強めて前を見据える。
「気質の放出を続ける!」
「天子!」
気質の波に巻かれた天子の心が戻ってきたことを知り、紫が安心した声を上げたが、すぐにまた険しい顔になった。
「諦めたくないのはわかるけど無理よ、一度撤退しましょう! 気質の絶対量が不足してる、この方法じゃ……」
「足りない分は私が補う!」
弱気を振り払う威勢に、紫が目を丸くする。
「紫が苦しんだ時間が、何千年だろうが何万年だろうが関係ない! 私が紫に懸ける想いは、そんなの全部支えてみせる!」
天子が今までに見てきた紫の姿を思い出し、その末に出された答えと覚悟が世界を揺るがした。
「緋想の剣! 倒すための意思じゃない、助けるために、私の想いをみんなに見せて!」
ひびが入りボロボロになった緋想の剣が、それでも応えるように気質の刃を震わせて甲高い音を立てた。
天子の手の平から大量の気質が剣を通して顕れて、緋色の霧が天子の周囲に吹き出した。
今までの比ではない膨大な気質の量に、隣りにいる紫までもが吹き荒れる気質に押されて思わず手を離してしまう。
そのまま天子と離れ離れになってしまいそうな紫であったが、回り込んできた気質がその体を優しく受け止めた。
気質は紫の周りでだけ暴威を弱め、そよ風のように漂って優しく包み込む。
「これは、この気質は一体……」
呆然とする紫の前で、なおも気質は溢れていく。
緋想の剣からは緋色の輝きが増していく、まばゆい輝きに結界の向こう側で蠢く影ですら動きを止める。
倒すための力ではない、誰かを助けるために生み出された、世界最高の光だった。
「聞きなさい、境界の根暗共!! あんた達なんかに紫の持ち物は何一つ渡さない! 紫は奪われて苦しむためにこっちへ来たんじゃない!!」
天子の叫び声が気質の波に乗って広がっていく。
本気の心に影達は叱られた子供のように竦み上がり、闇の中に開かれた無数の眼で、声に光が宿るのを見た。
「紫は――幸せになるためにここにいるのよ! その邪魔をするのなら、私がいくらだって追い返してやる!」
天子から放たれる気質が渦巻きながら密度を増していく。
霧が重なる中心で、紫はその輝きに包まれていた。
「温かい……」
光から伝わる温もりを抱きしめるように、紫は両手を胸の上に重ねて感じ入った。
心の底にまで染み入ってくる気質はどこまでも嘘がなく透き通っていて、かつてない安心を感じる。
これこそが天子の到達した一つの極地、許せないまま、それでも紫の幸福を願って走れる想い――――
――即ち愛である。
「ありがとう、天子。でも一つだけ言わせて」
紫はもう一度、天子の手に自分の手を重ねる。
自分を愛してくれる強い少女に臆すことなく、自らの気持ちを分け与えた。
「私だけじゃない、あなたもまた幸せになるために生きてきたのよ」
顔を見合わせた天子は、嬉しそうな笑顔を浮かべると、すぐに勝ち気な表情をして前を見た。
天子に合わせ、紫もまた明るい顔で未来を見据え、ありったけの気持ちを剣に込める。
「さあ世界よ! 私達の想いを映し出せ!」
「八雲の空に緋想天、九つ重なれば玖にも届くわ!」
再び緋想の剣から緋色と紫色の二つの気質が刃を形成し、螺旋を描いて先で交わる。
これまでの紫の人生と、これからの天子の決意が重ねられ、二色の刃が混じり合いその色合いを変化させた。
思いは一つとなり、緋色の輝きは波長を静めて橙色に、橙色から黄色へと移り変わっていき最後に紫色にまで到達すると、そこからまた緋色に戻る。
二つの気質で無限に色付けられた極彩色の極光が二人の頭上に顕現し、闇を退けて猛烈なスピードで広がっていく。
彼女たちのもっとも近くで戦っていた藍と橙は、広がる極光の幕が空に蔓延していた黒い霧を打ち払うさまを間近で垣間見た。
「すごい、これって二人の!?」
橙が叫んだ直後には、間近で展開された気質が空気を巻き上げ、突風となって吹きすさび、極光が橙の作り上げられた結界をも飛び越えた。
二人を襲いかかろうとしていた影達は、瞬く間に風に巻かれて、悲鳴すら上げる暇なく虚空へ消え失せていった。
闇が照らされる幻想的な光景に驚く藍の頬を、何か温かいものを叩いた。
気になって頬に触れたものを指ですくい取ってみると、指先から感じたのは水滴の感触。
「これは、天気雨か……?」
指に付着していたのは、極彩色の輝きを湛える雨粒だった。
極光は止まることなく夜の幻想郷へと広がっていき、その後から気質の篭もった温かな雨がぱらぱらと降り注ぐ。
この光景は影を閉じ込める結界の端で戦っていた衣玖たちの元へもすぐ届いた。
衣玖を始め、戦っていたものはみな影が打ち払われるのに驚き、色付く夜空を見上げる。
この輝きがどうやって作られたものなのか、衣玖は極光から伝わってくる優しい空気にすぐ察した。
「そうですか、天子様。あなたはそこまで辿り着けましたか」
極光から降り注ぐ気質の雨の一粒一粒は一つの結界であり、地上を這いずり回っていた影たちを境界の隙間へと送り返していく。
直下の影たちが雨粒に増えた端から消えて行くのを見て、萃香が指を差して嬉しそうな声を上げた。
「やった! あいつら消えてくよ、あの二人がやったんだな!」
「……ふう」
妖夢もまたその光景に安心して剣を収めるが、衣玖はそんなものには目もくれずただ空に広がる輝きを眺めていた。
広がり続ける極光の波は力強く、けれど誰かを傷付けるような激しさはなく、慈愛を持って夜の闇を温かく包み込む。
絶えず変化する無限の色彩と降り注ぐ雨。
衣玖が今までに見てきた緋色の雲はどれもが凄まじい力を孕んでいたが、それは無秩序な激情によって編まれたものに過ぎなかった。
だがこれは違う、ただ叩きつけるような感情ではなく、共に歩むものを愛し進もうと未来へ向けられた輝き、これこそが――
「――ああ、私はこれが見たかった」
光の降る夜。
衣玖は夢見た理想の輝きを全身で受け止め、自らの心を満たした。
極光が広がる中心部で、天子と紫は剣を手に想いを編む。
かの龍神の持つ十全の力にも届きうる、永久に続く縁の結び目。
『非想――九重大結界!!!』
二つの気質が重ねられ、この世界を支える力、その一つの極地に達した結界が二人の頭上で光り輝いた。
展開された結界は今度こそその勢いを削がれることなく、境界に開いた穴を塞いでいく。
結界に遮られ急速に閉じていく空間の繋がりから、こちらに目を開く影たちへ紫は呟いた。
「さようなら、いつの日かこれが何なのかわかったならまた来なさい」
だから今はおやすみ。
結界を形作るこの力がなんなのか、世界の外側に住まう住人たちの誰にもわからなかった。
ただ一つ、これを穢してはならないとだけは思い、誰も手出ししなかった。
閉じていく境界の向こうから、世界が分かたれる最後までこの輝きを眺めていた。
極光と光の雨はすでに幻想郷のすべてを包み込んでいた。
謎の現象であったが、一部の妖怪や神々については、これが幻想郷を安定させるものと察して安堵する。
そんなことは知らない騒ぎが好きな幻想郷の妖怪たちも、この晩だけは極光を仰ぎ見て、暴れだすこともなく静かにしていた。
極光から漂う温かさが、あらゆる邪念を晴らしていた。
「おおー、黒いのが消えてくぜ。すごいな」
『こっちでも観測できてるわ、幻想郷全土に極光が降り注いでる』
前線で戦っていた魔理沙も、この光景には酔いしれていた。
人形と魔本を通じた先でも、魔女たちが外に出てこれを直に見ているようだ。
『興味深い現象だわ……』
『また研究するの?』
『……いや、今日はレミィと一緒にこれを眺めようかしら。アリスも来る?』
「私らももう帰るか霊夢……おい霊夢?」
魔理沙が声をかけるが、巫女は背中を向けたまま答えてくれない。
博麗霊夢は魔理沙のことはひとまず置いておいて、空に浮かびながら腕を開き、すべてを受け止めるように大きく息を吸った。
――やっと、自分で選べた。
博麗の巫女ではない、博麗霊夢としての選択で、霊夢は幻想郷よりも他のものを選び取れた。
そうだ自分は自由だ、規律なんて飛び越して、大切なモノを手に取れる。
だから例え、大切な人が人間の道を踏み外したとしても、その時には博麗の巫女としてではなく、一人の友達として――
「おいどうした霊夢? ボーっとして」
まさかさっきの戦闘でダメージを受けたのかと、不安に思った魔理沙が心配して巫女に近寄る。
だが霊夢はようやく振り返ると、今まで誰にも見せたことのない満面の笑顔を魔理沙に向けた。
「ううん、なんでもないわ!」
その笑顔は空にまたたく極光にも負けず劣らず輝かしく、魔理沙は一目見ただけで胸の奥が疼くのを感じた。
あまりに綺麗な霊夢の姿に直視できなくて、思わず帽子を押さえて視界を遮る。
「お、おう、そうか……よ、よかった……ぜ」
恥ずかしがる魔理沙が帽子の下からチラチラと様子を伺ってくるのを、霊夢は晴れやかな気持ちで見守っていた。
いつも先を行かれてばかりだったけれど、ようやく目の前の魔法使いに並べた気がした。
ご満悦の霊夢は、ちょっとした勝利の優越感に酔い、魔理沙の脇を抜けて神社へと凱旋する。
「今日は私の勝ちね、晩御飯は魔理沙が宜しく」
「へっ? ああいいけど、勝ちってなんのことだよ。おーい!?」
遠く離れた博麗神社で、比那名居家の総領は光る空を仰ぎ見る。
「……ふん、天子があの異物とこれを作ったのか」
腕を組んで鼻を鳴らし、複雑な心境で眉を歪める。
この美しさを素直に受け取るには、彼もまた失いすぎた。
自分から妻を奪った八雲紫を、憎みたいし認めたくもない。
だが、妻が遺した娘が、それを乗り越えた先に希望を体現するに至ったというのなら。
「癪だが……本当に癪だが。これだけの光景を作れる相手というのなら、一緒にいることくらいは認めなければならんのかもな」
父は要石に背中から寄りかかり、光る雨に打たれながら肩の荷を降ろした。
だが彼はまだ知らない、倒壊した博麗神社に要石とともに不審な男がいるこの状況、巫女が帰ってきたらどう思うのか、そしてどう行動するのか。
その先の不幸を知らず、父は娘の帰りを待ち続けていた。
極光の下で温かい雨に身を濡らす幽々子は、遠く影が消えていくのを眺めていた。
自分が間違っていたのだろうか、何が間違っていたのだろうか。
そんな想いが顔を出し、自分を責め立てたくなる。紫の役に立たないといけなかったのに、これでは自分がしたことは足を引っ張っただけではないか。
だがそこに、半人半霊の剣士が現れた。
彼女は空から地上に佇む幽々子を見つけると、半霊を浮かばせながらゆっくりと下りてくる。
その姿に幽々子は死人でありながら心臓が早鐘を打つ、耳朶にドクンドクンと緊張が木霊し、息が詰まる。
目の前に従者が降り立ち、収められた剣がカチャリと音を立てた。
自分にこの言葉を言う資格があるのだろうか、言って許されるのだろうか。
でも彼女は、幽々子がいられるからこそ戦えるのだと言ってくれた。
もし本当に、自分にその価値があるというのなら、愛しい彼女を労ってあげたい。
幽々子はわずかに開けた唇を震えさせ、一度固く結ぶと、全霊を込めて言葉を紡いだ。
「……おかえりなさい、妖夢」
「はい、ただいま戻りました!」
帰ってきたのは蒼天のような一点の曇りもない満面の笑み。
それだけで、幽々子はすべてが報われた気持ちになった。
橙は手に持った傘を下ろし呆然と空を見上げる。
境界を視るその瞳には、美しい輝きが世界を正す様子が映っていた。
戦い通しで服はどこもボロボロだが、これの前では気にならない。
影の者たちに奪われた傷の痛みも、この光を浴びているとなんとなく和らぐようだ。
「……やりましたね、藍様」
「ああ、そうだな」
隣りにいる藍の頬に、雨粒とは別の雫が流れている。
愛する家族が幸せな結末にたどり着いたことが、自分のことのように嬉しいと感じていた。
感動に打ち震える藍の背中を、橙の小さな手が叩いた。
「さあ! 紫様にギュッとしてもらいに行きましょうよ!」
とても元気な声に、藍はまだまだこれからなのだと教えられた。
これで終わりではない、紫の人生は今まさに新たなスタートを切ったところなのだ。
「……ああ、みんなで一緒に抱き合って寝ようか」
橙は自分が使うには大きすぎる傘を閉じると片手で抱えて、もう片方の手を藍と繋いだ。
目指す場所は決まっている。
「境界が修復されていく、これで危機は去ったわ」
幻想郷の西端で、自分たちが生み出した極光を見上げて紫が呟いた。
天子は自分たちがやり遂げたのだと知り、安心して剣を握る手から力を抜いた時、手の内で変化が起きた。
「緋想の剣が……!」
元々ヒビだらけになっていた緋想の剣が気質の刀身を散らすと、パリンと小さな音を立ててバラバラに崩れていく。
ずっとここまでかざしてきた愛剣が手の平から抜け落ちるのに天子は寂しさを覚える、天人になってから長い時間をこの剣と一緒に走ってきたのだ
地獄からのお迎えと戦う時も、紫とわかり合う時も、そして紫と共に歩み始めた今までも、緋想の剣は天子の力としてあってくれた。
それがなくなってしまうことに不安も感じたが、天子は最後の別れをあくまで笑顔で告げた。
「ありがとう、私をここまで届けてくれて。」
最後の最後、倒すために作られた剣は、己の宿敵を助けたことでその役目を終え、極光に照らされながら散っていく。
戦いの先へ至ったこの人に、もう自分は必要ないと言うかのように。
キラキラと光りながら落ちていく剣の残骸を眺めていると、不意に隣の紫が力なく崩れ落ちた。
「紫!?」
地面に墜落しそうになったその体を天子は慌てて支え、クレーター状に抉れた大地へ怪我がないようにゆっくりと下ろす。
まさか紫の身体に負担をかけすぎたのかと嫌な予感がしたが、紫が開いた口からつぶやいたのは暢気な言葉だった。
「天子、疲れたわ……すごく眠い……」
「それって!?」
「心配しなくても、普通に寝るだけだから……お願い寝させて……」
「そっか良かった……って、紫ってば、これから宴だって言うのに」
どうやらあの深い闇の中に帰るわけでもなく、本当にただ眠るだけのようだ。
だけど幻想郷流で言えばここから宴会がいつもの流れなのに、と天子は不満そうに口をすぼめるが、寝息を立て始める紫を見ているとしょうがないなと思い始めた。
大切なこの妖怪が何の不安も怯えもない安らかな寝顔でいることに、喜びを感じてクスリと笑みを漏らす。
「おやすみなさい紫、きっと明日は良い日よ」
天子が身をかがめ、唇を紫へ近づける。
重なり合う二人の隙間で、お互いの首飾りが近づいてコツンと音を立てた。
・この作品において比那名居天子の年齢設定は約1200歳となっております。
・独自設定が非常に多くなっています、生温かい目でお願いします。
・宜しければ、最後までお付き合いいただけたら幸いです。
其の一 -投我以桃、報之以李-
其の二 -妖怪の山大決戦!-
「何だよ、これは……」
朝から泣きそうな顔の橙に頼まれて萃香が友人の屋敷にやって来ると、その友人がボロボロと涙をこぼして畳の上でうずくまっているのを見て唖然とした。
紫は頭を抱えて絶えず絶望的な力なき声を漏らし、不規則に身体を揺らして苦しんでいる。
「私、私はずっと忘れ……何度も何度も何度も何度も、し……死……あぁぁぁぁぁ……いやぁぁ……」
あまりの苦悩に見かねて、先に来ていた幽々子が紫の背中を手で擦った。
「紫、しっかりして? ね、落ち着いて」
「あぁ、幽々子……私、わたしはぁ……」
「うん、わかった。苦しかったのね、ごめんねわかってあげられなくて」
紫は涙と鼻水まみれの顔を拭きもせず、ほとんど寝転がったような体勢で幽々子の腰元に抱き着いた。
幽々子はただ悲しそうな顔をして、必死に紫を慰めている。
その向こうで紫を見守っていた藍が、萃香が来たのに気付いて顔を上げた。
「橙、ここにいてくれ、萃香には私が事情を話そう。妖夢、すまないがお茶の準備をしておいてくれ、みんな温まった方がいい」
「は、はいわかりました」
「すぐ準備します!」
妖夢が慌てた様子で台所に向かっていったあと、萃香は藍に連れられて客間に通された。
藍から説明されたことは、紫がなんらかの記憶を取り戻したということだけだった。
「なんだ、それじゃあ無くした記憶の一部が戻ってきたってことなのか。どうしてだ」
「わからん。紫様もあんな状態だから言っていることも要領を得ない」
朝一番に衰弱した紫を見つけてから、そこまで聞き出すだけでも相当な労力を消費した。
食事も食べようとせず、水すら飲まない紫を前に藍は必死に励ましたが、橙が夕方に幽々子たちを連れてくるまでほとんど進展がなかったくらいだ。
「それでここからが問題だが、無くした瞬間の記憶を取り戻したことで、紫様は記憶の喪失を死と混同してしまったらしい。だから記憶を失うことに酷く恐怖してしまっているんだ」
「はあ!? つまり忘れるのが死ぬほど怖いってことか!?」
「ああ、恐らくそうなる」
それは確かに辛いことだろう。
定期的に記憶を失う性質なのに、それが死ぬことだと感じるようになればああもなるかもしれない。
「昨日の朝からずっとあの状態だ」
「一日中? じゃああいつ寝てないのか」
「ああ、眠るのが怖いらしい、また忘れるかもしれないとな。精神的に追い詰められて何もかも臆病になってる」
本当なら普通に妖怪として眠るだけなら記憶を失うことはないのだが、つい境界に引き込まれる時のことを思い出してしまうようだった。
そのことを語る藍も、目の下に隈を浮かべて酷く辛そうに見える。
「お前も疲れてるだろ、休めよ」
「紫様が寝たらな」
「いいから橙を連れて寝てろ! 紫のやつは私と幽々子たちでなんとかする」
「……あぁ、済まないな」
藍と橙を寝室へと追いやって、萃香は泣きわめく紫たちの元へやってきた。
「おい紫。話は聞いたよ、しっかりしな」
声をかけられた紫は身体をビクリと震わせ、幽々子の胸元から振り返って萃香を見つめてきた。
涙で顔がぐちゃぐちゃになった友人のあまりの弱々しさに、萃香は強い苛立ちを感じる。
「あぁ、萃香……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「お、おいどうしたのさ。いきなり謝んないでよ」
しかしいの一番に飛び出してきたのは謎の謝罪に出鼻をくじかれた。
これには萃香も困るしかなく、大人しく紫の話を聞く。
「わ、私は、たしか……ひっぐ、殺されそうなあなたを、た、助けてこっぴどく怒られた……」
「そういえばそんなこともあったけどさ、お前はその時にもう謝ったじゃんか」
もう随分昔の話だ、月の綺麗な夜に散歩に出ていた紫と出会い、その直後に人間に討伐されそうになったところ助けられたのだ。
当時の萃香は勝負の邪魔をしてきたことを激しく怒ったが、そのことがきっかけで紫との付き合いがある。
「ごめんなさい、ごめんなさい、忘れちゃってごめんなさい…………あぁぁぁ、覚えてない、怒られたのは知ってるのにどんな風に怒られたのか覚えてないのよ……萃香、あなたはその時にどうしたの……」
「そんなの私だってほとんど覚えてないよ! そんな下らないこと覚えてなくたって生きてられるんだから元気出しなって!」
「駄目の……駄目なのよ、私は覚えれて、忘れちゃ私は消え……消え……うぅ、うぐ、ふぅぅぅ……!!」
まるで千年以上の苦しみが一気に噴出しているかのような有様だった。
幽々子が辛そうに泣きじゃくる紫を抱きしめ、優しく背中を叩く。
「ねえ、紫。私が生きてる頃の記憶はずっと保存してくれてたのよね? 聞かせてみて?」
「うん……うん……! 私が、誰かに追われて、傷ついてね……ひっぐ、幽々子に会って優しくしてくれてね……!」
萃香はそれを眺めるしかなかった。
他人を元気づけるような言葉を持たない鬼は、胡座をかいで不機嫌そうに顔を険しくしていると、妖夢がお盆にお茶を持って現れた。
「萃香さん、お茶を淹れましたが飲みますか?」
「飲むよ。酔う気にもなれない」
萃香は慣れない茶の苦味で舌をいじめながら、幽々子に縋り付く紫の姿をじっと見ていた。
紫の語りは幽々子との出会いから移り、覚えている限りの過去の話を辿っていく。
長らく語りは続いたが、急につまづき始めた。
「それで、幽々子が死んで、亡霊になって……それから皆で一緒に暮らすようになって……それから……」
「それから?」
「それ、から……あぁ、萃香と出会ったの、かしら……? ああ、だったと思うわ、でもどこでどうやって出会って……?」
「思い出せるものだけでいいのよ、ゆっくりね」
「とにかく萃香と知り合ったの、その後、助けて怒られて……それから、それから……」
「天子を呼ぼうよ紫!」
その名を出されて紫が震え、怯えた眼で萃香を見る。
「お前がこんな時に、あいつに頼らなくってどうするんだ! 辛いなら天子のやつにだって聞いてもらえば」
「止めて! 天子は連れてこないで!」
しかし萃香の言葉を振り払って、紫は幽々子の胸元に顔を埋めた。
「天子とは、会いたくない……」
「何でだよ、お前あんなにあいつに……」
偉大な妖怪として恐れられる友人の子供のような姿に、萃香からも覇気が失せ、声が沈んでいく。
「天子といる時間は眩しすぎて、ますます記憶を失うのが怖くなる。私は、もう十分に、彼女との時間を楽しんだ。この思い出を抱えたまま消え去りたい……」
それだけ言った紫が、塞ぎ込んだまま幽々子に頭を撫でてもらっているのを前に、萃香はそれ以上何も言えなかった。
脱力し、ただ眺めるしかなくなった萃香の前で、紫が眠りについたのは日が沈み始めるころだった。
「紫様は?」
「ようやく寝たよ。しばらく目覚めないんじゃないか」
徐々に暗くなる空を縁側から眺めながら、やけ酒を飲んでいた萃香に、起き出した藍が声をかけてきた。
手に持った盃に酒を注ぎ、水面に浮かぶ自分の表情を見て酷い顔だなと思う。
「あんなに弱かったんだなあいつは」
萃香は悲しい目で紫がいる奥の部屋を見やる。
大妖怪と呼ばれ誰からも恐れられる彼女が、まるでか弱い少女のようだ。
背負ったものを知れば失望などしないが、友人のあんな情けない姿は萃香の表情に深い影を落とす。
「本当はな、紫様が闇の底に眠る度に死んでいると同義ではないかと、ずっと前から私も思っていたんだ」
「……なんだって?」
思わず萃香が聞き返した、知っていたのならば何故今まで黙っていたのかという苛立ちが篭もっている。
だが藍は構わず話を続ける。
「冬眠直後に、余分なメモリーを削除して記憶を整理した紫様は好きなものがガラリと変わることがあってな。そういう時に前とは別人なんだと思わされるんだ。それを最初に実感したのは、以前はバクバク食べていた味付けを『美味しくない』と言われた時だったな。記憶を消して前と違う誰かになる、もしかしたらそれは死と言って良いのかもしれないと思った、なら毎回記憶を無くすのも……」
「馬鹿らしいよ、お前も紫も何言ってるんだよ、表面的な趣味や好みなんていくらでも変わるさ。昔は好きだったものが今はそうじゃないなんていくらでもある、悩みすぎだ」
「ああ、結局は受け取り方次第だ。だが紫様はこれを死と捉えた。多分、幽々子嬢もこうなる可能性に気付いていただろう。あの人は私などよりも聡いからな」
単なる思い込みでも、紫がそれを信じ切っている以上、本人にとってはそれが真実だった。
そしてはそれは萃香には変えることが出来ない。
「紫はどうなると思う?」
「死に際に望むことなど誰でも同じさ、みな救いを求める。今のあの方にとっての救いは、記憶を無くさない完全無欠の本当の『死』だろう」
「そんなの、本末転倒だろ……」
記憶を失うのが死ぬほど辛いから本当に死んでしまいたいなど矛盾している。
だがきっと藍が言った通り、紫は自死を望むのだろう、そして恐らくは、それまでの時間はさほど残されていない。
「世界の境界を超えてあの方を救ってやりたかった。あの哀れな少女を助けたくて、ずっと式神をやる傍ら、その方法を探し続けていた。だが遅かったかもな……」
藍もまた、その結末には悲しいのだろう、目を伏せてわずかに声を震わせる。
しかし彼女は主人と同じように悲観し、すでに諦めていた。
「紫様が幻想郷での役割を果たせなくなったのなら、私にはやるべきことがある。しばらくここにいてくれていい、家のものは好きに使ってくれ」
それだけ言って、藍は家の奥に引っ込んでいってしまった。
萃香は暗い表情のまま何も言わず、足音が遠のくのを背中で感じてから持ってきていた盃に瓢箪から酒を注いだ。
しかししばらく酒を飲まずにじっとしていると、口をつけないままやおらに立ち上がった。
廊下を笑って玄関から外に出ると、酒の注がれていた盃を取り零して、震わせた拳を地面に叩きつけた。
木々を揺らす地鳴りと共に足場が陥没する。
「私だけか、なんにも知らなかったのは」
クレーターの真ん中で、悔しさに萃香は奥歯を噛み、ジャリッと不快な音を鳴らした。
自分では到底、紫の説得はできそうにない。かと言って藍や幽々子も、この事態をひっくり返す気はないようだ。
誰も彼も悲観して、紫を取り巻く状況は諸共に沈んでいく。
「いやまだだ、まだやれることはある」
自分たちには無理でも天子なら、あの人間らしい前向きさを本質に持った天子なら、あるいは。
「私は心を動かす力はない弱虫だけどな、お前に酷いことしてやるよ」
低い声で宣言した萃香はが身体から霧を沸き立たせると、その霧は風に乗って大空へと舞い上がっていった。
――私は紫に死に場所を奪われた。
鬼として人と戦って人と酒を掻っ食らって、勇者に討たれればそれで満足だった。
それなのに最期と決めた場所で紫に助けられ、私は死に際を見失って鬼としてのプライドをボロボロにされてしまった。
さっきは紫に覚えてないって言ったけどあれは嘘だ、本当はあの日の憤りも、親に怒られる子供みたいな紫の顔も全部覚えてる。
それでも生きてる以上は仕方ないから生きることにしたけど、一度は人に敗れた身で昔みたいな生き方をしようとも思えなくて、鬼の生き方に反してみた。
本気で戦うことがなくなった、人に追われても適当にからかって、煙に巻いて逃げてみたりした。
軽い嘘をついてみたりした。
禁酒は試してみて一日で失敗した。
鬼の仲間たちは豹変した私を軟弱者と罵った。
勇儀とか華扇みたいな器の大きいやつは「それもいいんじゃないか」と認めてくれたけど、私自身これで良いんだろうかと疑っていたよ。
でも戦う以外の生き方、死に場所を求めず過ごす日常に、活力が充実していった。
今まで見たことのなかった世界が開けて、新しい楽しみを覚えた。
なんでかな、能力は前よりずっと上手く扱えうようになって、死に場所を決めたときよりも強くなっていた。
そして思っちゃったんだ、こういう生き方も悪くないんじゃないかって。
まったく屈辱だね、昔の私を否定させられちまったようなもんさ。
だから紫、仕返ししてやる。
私の死に場所を奪ったように、あんたの最期を台無しにしてやるよ。
◇ ◆ ◇
これから転生する幽霊たちのよりどころである白玉楼であるが、今はその主はおらず、幽霊たちはどうすればいいか迷ってふよふよと辺りをうろついている。
死者以外に誰もいないはずの屋敷で、唯一死んでいない者が庭の真ん中で佇んでいた。
四季映姫・ヤマザナドゥ。本日は事前に幽々子と会う約束を取り付けてここに来たのだが、その相手がここにいなかった。
日付が間違っているというわけでもない、日取りも互いに確認しながら取り決めたことなので、幽々子側が勘違いしたというわけでもないはずだ。
見事に約束をすっぽかされた映姫は、やることもなく地蔵のように庭に立ち続けているが、彼女からは苛立った様子は見受けられない。
西行寺幽々子は飄々とした性格だが、無意味に約束を破るような軽率さは持っていない。彼女に付き従っている妖夢とて生真面目だ
ならば約束を破るだけの理由が何かあったのだろう、そう推理した映姫は腹をたてることもせずに、時間が許すまで幽々子たちが白玉楼に戻ってくるのを待っていた。
そこで待ち続けて一時間ほど、半霊を連れた妖夢がひょっこりと現世から戻ってきた。
「閻魔様?」
ずっと幽々子とともに紫のそばにいた妖夢だったが、それなりに長く白玉楼を開けると冥界の管理が行き届かなくなるので、一度戻ってきたのだった。
しかし閻魔との約束については忘れてしまっていたようで、どうしてここにいるのだと、まるで悪気がない表情で声を掛けてくる。
映姫は相変わらず石のような雰囲気で言葉を返した。
「魂魄妖夢、今日は約束の日だったはずですが」
「……あっ! す、すいません忘れてました! 今日は無理そうで……」
今更思い出したらしい妖夢が焦りながら頭を下げる。
まだまだ未熟さを引きずった彼女だが、今日はいつにもまして慌て気味だ。
つまりは約束を忘れるだけの事件があったということだと、映姫は目ざとく推察した。
「何かありましたか?」
「それは、その……紫さんが、かなり精神的に疲弊していて、とても危ない状態になってしまって」
それは映姫にとっても衝撃的な内容だった。
紫が憔悴してまともでいられなくなったというのならば、それがきっかけで境界が崩れて世界が崩壊してしまう可能性だってある。
そこまでは行かなくとも、幻想郷が滅びることくらいはあるだろう。
映姫は事態を重く受け止めていた。
「……そうですか」
「すみません。きっと幽々子様は言っても戻ってきません」
「わかりました、今日のところはこれで帰らせていただきます。後日改めて」
紫に依存している幽々子のことだ、冥界の管理などより親友を優先するだろう。ここで不手際について妖夢を叱りつけたところで仕方がない。
だがそれはそれとして、映姫はやはり説教に出た。
「魂魄妖夢、あなたも随分と内に想いを貯めてこんでいるようですね」
映姫の指摘に妖夢はビクリと肩を震わす。
図星なのだろう、半ば怯えた目で閻魔を見つめた。
「見守るのと、言いたいことがあるのに黙っているのとでは違いますよ」
「……閻魔様には、隠し事ができませんね」
剣士は、己の未熟さを恥じて眉の端を下げる。
紫の緊急事態は、幽々子の危機に直結する。それに対し、妖夢は大きな想いを発散できないまま抱えていた
この気持をどう処理すればいいのだろうかと、閻魔に縋るような視線を送ってしまう。
「しかし、その件に関しては私ごときでは助言はできないしょうね」
だが映姫はにべもなくその視線を断ち切る。
妖夢は困った顔をして顔を俯けるしかなかった。
「あなたにはもっと適任がいるはずです。頼る相手はもっと選ぶべきだ」
映姫の言葉に妖夢は驚愕に目を開いて顔を上げた。
その隣を通り過ぎ、映姫は妖夢に見つめられながら悠然と去っていく。
「頼る相手……」
妖夢は本当に何でもお見通しな閻魔だなと思う。
確かに、今の妖夢にもこの事態について助けを求められる相手が唯一いる。
亡霊としての幽々子の成り立ちからそばで見守り、また紫の性質についても熟知した人物。
妖夢にとっても深い関係であり、きっと助けになるだろう知恵と力を持った者。
――即ち、彼女の剣の師たる、魂魄妖忌である
幽々子との約束を反故にされ、暇になってしまった映姫は、冥界からの帰りにふと呟く。
「八雲紫の危機、ですか……」
あの妖怪が不安定になったとしたならば、それを変えられる者はそう多くはないだろう。
西行寺幽々子では駄目だ、紫本人に同調する以外に選択を取らないだろう。八雲藍も主人に仕える以上のことをしようとしない。
立場の弱い橙も、友人と言ってもそこまで深入りしていない萃香も役者不足。
となれば心当たりは一人。
「比那名居天子は、どう動くでしょうね」
その名を出し、自分には何ができるかなと、わかりきったことを考えた。
◇ ◆ ◇
「今日は巫女が騒がしいわね、何かあったのかしら」
日が沈み始めた西の空を見て、要石に座った天子が頬杖を突きながら、隣に浮いている衣玖に話しかける。
一日を人里で遊び倒した天子だったが、どうやらあちこちに霊夢が出張っていたようで、帰りには叩きのめされた妖怪が涙目で倒れている光景をそこかしこで見かけた。
「紫さんも顔を見せませんでしたしね、裏で頑張ってるのでしょうか」
「あいつも大変ねぇ、よくやるわ」
彼女に会えないのは寂しいが、紫にもやることがあるのだから仕方あるまい、気慰めに胸元の首飾りを指先で撫でる。
今日はもう家に帰って寝ようかと思っていた天子だったが、二本の角を伸ばした鬼が天界に上がってくるのを見て予定を変更する。
「おっと、珍客だわ。出迎えるわよ衣玖」
これは夜も騒がしくなりそうだと、天子は笑みを作った。
だが、険しい顔をした萃香を前にして、楽しい飲み会とは行かなかった。
「そういうわけだ。お前達にはすぐ紫の家に来てもらうよ」
萃香から語られた内容に、天子も衣玖も驚愕して何も言えずにいる。
特に天子の驚きようは相当なもので、青白い顔をして微動だにせず、浅い呼吸を繰り返していた。
紫が記憶を取り戻し死を望む、突然過ぎて事実だけが頭の中で鳴り響いて頭の裏側を揺らす。何故そんな結論になるというのか。
固まった主人の代わりに、衣玖が萃香に質問した。
「その、紫さんが記憶を無くし続けているという話は初めて聞いたんですが……」
「ああ、衣玖は知らなかったのか。その通りさ、あいつは定期的に記憶を失くして、その分をバックアップから毎回書き込んで補ってる」
「なるほど、それで……紫さんが自殺する確証があるんですか?」
「あくまで予想だけど藍はそうするだろうって言ってたし、実際そうしかねないくらいに取り乱した。完全に生きる気力を失ってる。急いで手を打たないと手遅れになるぞ」
段々と明瞭化する天子の思考が、心当たりを探り当てる。
いつかの閻魔と戦った日の秘密の口づけ、まさかと思うが天子が一番に浮かんだ原因がそれだった。
天子だって紫が特別な好意を寄せてくれていることは薄々気付いてきている、だからこそ天子もその気持ちにここまで甘えてきてしまった。
あの日の口づけだって、本心からの好意であったはずだ。
だというのに、何故好意がそんな最悪の結末へ辿り着かせるというのだ。
それとも――自分がすべての気持ちを伝えていたならこうはならなかったのだろうか?
「おい天子……天子しっかりしろ!」
天子の様子を伺っていた萃香が、虚ろな目に大声で呼びかけてきて、ようやく天子は我に返る。
「しっかりしろ、お前が頼りだ! お前が紫を繋ぎ止めるんだよ」
「私が!?」
「他に誰がするんだよ。いいか、いま紫が一番心惹かれてるのがお前なんだ、お前が呼びかけないと話になんないよ。天子が紫と話して死なないでって説得するのさ」
「藍さんや幽々子さんは?」
「当てにならないね、二人とも傍観するつもりさ。現状、どうにかできるのは天子だけだよ」
「そんな、藍さんたちが……」
ショックを受ける衣玖だったが、天子はそちらについてはなんとなく納得した。
あの二人は、どこか紫に対して盲目的になっているところがある、あるいは自分を縛り付けているとでも言うのだろうか。
だから紫を止められるのは自分しかいないというのも天子にはわかったが、すぐに萃香の話には乗れなかった。
「私に……できるのかしら」
自信なく天子は不安を零した。
閻魔とのいざこざがあってから、ずっと天子は秘密を告白することができなかった。
未だに憎しみを捨てきれず、紫に甘え続けていた自分が、果たして彼女の心を動かすことができるのか。
情けないつぶやきに萃香は呆気に取られてから、声を荒げて突っかかった。
「何言ってるのさ! そんな弱気で!」
「萃香さん、待ってください」
いきり立つ萃香を静止して、衣玖が天子の前に出る。
真正面から見つめられると、天子は心の奥が暴かれるような予感がしてたじろいだ。
「不安ですか天子様」
「……うん」
衣玖が確かめるように問いかける。
「……母君の因縁が気になりますか?」
「――――」
天子は何も言えずに衣玖を見つめ返すしかなかった。
どうしてそれを、とこれまで付いてきてくれた従者へ眼で尋ねた。
「推測でしたが、当たりのようですね」
「よく、わかったわね」
「これでも一応はあなたの従者ですから」
横の萃香は「母親?」と怪訝な表情を浮かべているが、衣玖は構わず天子に語りかけた。
「天子様、その事情を顧みれば、一方的に頭を下げたことは良いこととは言えなかったかもしれません。結果的には紫さんと仲良くなれましたが、もしかしたらあなた自身の嘆きを解消する道が他にあったかもしれないし、何より私は自らを傷付ける行為を素直に賞賛は出来ません」
天子は閻魔から流されただけだと指摘されたことを思い出す。
今思えば、その時にもう母殺しの罪を戒告し、お互いの罪を精算するべきだったかもしれない。
天子は自らの過去を悔み、表情を曇らせて顔を俯かせた。
衣玖もまた天子が桃を差し出した時に見た悲痛の涙を思い出すが、その苦しみは察するに余りあった。
母を殺したことすら忘れた仇敵に謝ることはどれほどの苦痛だっただろう、そもそも紫が天子の母を殺さなければ異変を起こすような無茶もしでかさなかったかもしれないのに。
それでも頭を下げた天子の前のめりの姿勢を、衣玖は立派だとは思えずむしろ痛ましいとすら感じた。
きっとそんなに傷つかずとも生きる道はあっただろうに、天子は苦しい道を歩くことしか知らなかった。
「――しかしその是非がどうであれ、あなたはここまで歩いてこれたではありませんか」
それでも天子はそれら苦痛を受け入れてでも、あらゆる自己の矛盾と立ち向かい、傷つきながら進み続けてきた。
今はまだ賞賛はしない、それでも衣玖はここまで歩いてきた天子の背中に心から敬服する。
「天子様、あなたは例えそれが逃げでも、一度として立ち止まることはなかった。どれほど苦しくとも、傷つきながらでも、ずっと歩き続けてきたじゃないですか。ならその中で培われてきたものがきっとある。私はその強い意思と、積み重ねを信じます、きっと次はみんなが笑える良い道を見つけられますよ」
励ましの言葉に、天子は落ち込んだ心にわずかながら火を入れられて顔を上げる。
不安は消えない、だが意志だけは思い出せた。
衣玖の言う通り、自分は今まで歩き続けてきた、そのことは自分の誇りだ。
紫への憎しみは今でもありありと思い出せるし、まだ紫の全てを認めることはできないけれど、だからってここで止まれはしない。
このまま紫のことを死で終わらせないために、天子は今こそ進まねばならない。
「……わかった、やってみる」
天子は右手を胸元に持っていき、紫色の首飾りを手で包むと、手の平がとても熱く感じた。
大事なことは何も話せなかった自分に勇気なんてないけれど、せめてまた紫と笑い合えるために、ひとかけらの願いを握りしめた。
◇ ◆ ◇
幽々子の膝下で眠りについた紫は、一度目を覚ましてからはさっきまでの取り乱しようが嘘のように静まり返っていた。
しかしそれは落ち着いたのではなくただ気力を亡くしただけであり、幽々子に縋り付いたままぐったりとしている。
ずっと何も食べていないのに、藍の持ってきた食事に手を付けようともしない。
正座で控える藍に見守られながら、幽々子が膝下の紫を撫でてあげていた。
「……また記憶を無くすのが怖い」
紫がポツリと呟いた。また感情が沸き立ってきたのか、一筋の涙が頬を伝う。
「またあの思い出を亡くすなんて、私にはもう、耐えられない」
「……大丈夫、大丈夫よ紫」
幽々子は紫を励まし続ける。
この亡霊は、この愛しい友人が悲しまずにいられるよう、ただひたすらにそれだけを願っていた。
あらゆる苦悩を癒やしてあげたい、すべての悲しみから開放してあげたい。
頑張り続けた友人に、永遠に安寧を渡したい。
「あなたはもう何処へも行く必要はない、記憶をなくすことなんてないわ」
幽々子が優しい声で静かに囁く、流れる水のような透明な言葉は紫の心に染み渡り、悲鳴を上げて暴走する心の熱を冷ましてあげた。
紫のために自分に何ができるのだろうか、それを何度も何度も繰り返し考えた幽々子は結論を口にした。
「紫がこれ以上悲しまないように、私があなたを殺してあげる」
唱えられた狂気に、紫は一抹の安堵を覚えて瞳を閉じた。
――藍、聞こえるわね。
見守っていた藍の脳内に、紫の声が響いた。
式を通した念話術式だ。幽々子に聞かれないように、紫は密かに言葉を伝える。
――幽々子の執念ならば、私を殺すことも出来るかもしれない。でも保険は必要だわ。
私が居なくなった後の準備が終わったら、彼女に連絡を。彼女なら必ず私を――
それだけを伝えて紫は再び眠りにつく。
藍は言葉なくただ頷いて主人の頼みを聞き入れると、席を立って部屋を離れた。
廊下を歩き向かった先は、自らの研究室。
扉を開けて中に入ると、そこには橙が二股の尾を床に垂らして立っていた。
藍に背を向けて、研究室に置かれた一つの機材に向かっている。
それは以前に橙が綺麗だと言った、気質を利用した装置だった。
だが以前は緋色の光が灯っていたはずのそれは、今は紫色の光を湛えている。
「……妖夢は帰ったか?」
「いえ、まだです」
本題から外れたことを尋ねてしまい、藍は自分も迷っているのだなと自省した。
何があろうとじぶんはあの主人に付き従うと心に決めていたはずだ、彼女の願いを助ける式だと自らを定めたはずだ。
自らの気持ちが何であろうと、ただ主人の言葉を実行するのみだ。
改めて決意した藍が、鋭い視線をまだ幼い黒猫の背中に突き刺す。
「橙、覚悟は良いな」
ようやく藍を仰ぎ見た橙は、とても強張った顔をしていた。
藍は袖の下で拳を握りしめ、自らが逃げ出さないように叱咤する。
「時は来た、お前を拾ってやった理由を思い出せ。我々は我々の役割を果すぞ」
「……藍様、一つだけ聞かせてください」
硬い表情の橙が、藍の目を見つめてくる。
「藍様は、これでいいんですか」
投げ掛けられた質問に、藍は何かを押さえ込むように顔を緊張させた。
胸にざわめくものを束縛し、あくまで気丈に言葉を紡ぐ。
「……無論だ。私は式神、術者に従うシステムだ。命令をこなすことに、私情を挟む余地などない」
だが本人は気付いているのだろうか、式神に私情は要らないと言いながら、自らが従える式神の橙に自由を与えているという矛盾を。
「もう一度言う、役割を果すぞ。橙、やってくれるな」
「はい、藍様」
橙がまるで真似をするように機械的な返答をするのを見て、藍は辛そうな顔をしていた。
◇ ◆ ◇
萃香に連れられた天子と衣玖は、紫の元へ向かおうと森の上空を飛行していた。
「紫の家は結界で守られてるはずだけど、私たちは入れるの?」
「ああ、私の本体が家の中にいるからね」
急ぎ紫の家に向かいながら、天子が先導する萃香の背中に尋ねる。
「紫の結界は距離感や方向を狂わす結界とかからできた、認識阻害系の多重防壁だ。外からじゃどんなに歩いてもたどり着けないし、ワープ系能力で直行しようとしても、家に座標を置けずに別の場所に飛んじゃう。でも今回はすでに結界内部にいる私の本体が能力で天子たちを萃めてるから大丈夫」
「萃香さんは結界のパスを持ってないんですか? 幽々子さん方は素通りできると聞いてますが」
「秘密基地だ、行き来できるやつは少ないほうがいいだろうって辞退したよ。今思えば気を使いすぎたね、まったく私としたことが」
「紫さん自身が気を使うタイプですからね、でも萃香さんがいて良かったです」
今ここにいる萃香は、本体の萃香から分裂した全体の3分の1の身体らしい。
お互いの繋がりを利用して、本来なら萃香では超えられない結界を超えようとしているのだ。
「でも逆に言えばそれだけで通り抜けられる結界なのね」
屋敷を守るための結界だが、自衛にはいささか弱いと天子は思った。
これをくぐり抜けるためには結界内に案内人を置けばそれで事足りる、難しい話だがありえないことでもない。
例えば紫の身内に裏切り者が出れば結界をスルーできてしまうし、現に今だって萃香の招きで天子たちは結界内に侵入している。
一つくらい物理的に妨害する結界があれば、誰も入れなくなるだろうに。
「あいつは寂しがり屋だからね」
萃香の答えに、天子はその通りなんだろうなと納得した。
やがて天子たちは結界の外周部に差し掛かろうとした辺りで、思わぬ人物と出くわした。
予想外の出会いに、天子は驚愕と警戒を含めた声を上げる。
「あんたは……!?」
見間違えるはずのない、小さな身体に石のような頑固さを持った硬い雰囲気。
四季映姫・ヤマザナドゥが、結界の前で天子を待ち受けていた。
「詳細は知りませんが、八雲紫が大変なことになっているようですね」
挨拶もなく、映姫が話しかけてくる。
彼女の姿には、天子の横にいる萃香も、後ろの衣玖も敵意を張り詰めさせた。
天子が一番に緋想の剣を構えて前に出ると、緋い刀身の輝きを受けて他の二人も各々戦闘態勢を整えた。
「また私の命を狙いに来たわけ?」
「なんだい、今は大変なんだ、邪魔するなら容赦しないよ」
「天子様に害をなすなら、私も戦わせてもらいます」
威圧感が映姫の肌に突き刺さる。
一触即発という状況で、閻魔は一貫して態度を崩さない。
「また説教に来ただけですよ、それにこれは仕事ではなく私事です。あなたのこれからを止めなどしませんし、言うだけ言って満足すれば私も帰ります」
それはつまり、説教が出来なければ戦闘も辞さないということだろう。
厄介な堅物に苦虫を噛み潰したような顔をする天子だが、状況が緊迫している今、争っている余裕などなく、それならご高説を邪魔せずにさっさと帰ってもらうほうがいい。
そう判断した天子が仕方なく剣を収めると、後ろの二人もその意図を察し、同じく構えた腕を下ろす。
「あなたが八雲紫に甘えていたこと、それについては後悔しているならもはや言う必要もないでしょう」
しかしそれを聞き、天子の表情が更に嫌そうに歪んだ。
後悔していることまで含めてすべて図星なのだからたちが悪い。
「前置きは良いからさっさと言いなさいよ!」
「……誰かを助けるとは、とても困難なことですよ比那名居天子」
苛立った天子が急かすと、映姫はわずかに声を静めてそう唱えた。
つねに平等にあるべき審判者が、教えを説いている最中だというのに、わずかな感情を垣間見せる。
「私とて、今まで誰かを助けられたことなどただの一度もない。万の言葉を並べようが、人を助けるには到底足りません」
誰も掬い上げられなかった己の手を見つめて閻魔が呟く、その言葉に込められた無力感は本物だった。
映姫とてずっと悩みながら説教を続けてきたのだ、人をより良くするための説教なのに、まるで誰も正してやれない自分の不甲斐なさを感じながら。
ただ正論をぶつけるだけでない、もっと上手く人の心を導くようなことを言えれば、今ここにいる天子も追い詰められずに本心を打ち明けられたかもしれないのに。
もっとも自分次第で人が成長できるなど、そう思う事自体が傲慢であり、それ故に他者の心を邪魔することとなると自分でもわかっている、わかっているがどうすればいいかわからない、わからないが諦められない。
憂いを見せる映姫に、天子は初めて共感というものを覚えた。
自分が誰かを救えると思っているどうしようもない傲慢さが、諦めたくないという意地が痛いほどわかる。
「それでも手を伸ばすのならば、今まで与えられた愛情から逃げず、すべて認め受け入れることです。恵まれたあなたなら、道を拓けるでしょう」
気を取り直した映姫の言葉に、心が近寄りすぎていた天子が正気に戻る。
今しがた閻魔から言われたことは、素直に同意はせざるを得なかった。
「恵まれた? 私が?」
「ええそうです。気付くことですね、あなたのこれまでの旅路がいかに情に恵まれていたか」
断言された言葉に怪訝な顔をしてしまう。
思い出すのはかつて父に虐げられた日々、幻想郷に至るまでの憎しみを抱えた空白な日常。
これまでの苦しみを思い、納得が行かない天子に、映姫はそれもわかっているのか次の言葉を唱えた。
「今までの人生が不幸であったと思うならそうなのでしょう、しかし奪われる一方で与えられるものもあったはずです。それは八雲紫だけでなく、父親のこともそうです」
会ったこともない父親のことを良くもここまで言えるものだと、天子はますます不機嫌になる。
本当に目の前にいる審判者は、人の気持ちがわかっていると言うのか、わかっているというのなら何故そんな無思慮にそんな言葉を吐ける。
「憎しみの自我から抜け出せなくとも、与えられたものには感謝しなければならない」
「どうしてそこまで言い切れるのよ……っ」
「だって、あなたの後ろには付いてきてくれる者がいるではないですか」
だがその指摘は、天子の心に電撃が走ったように響いた。
振り返れば、そこにいるのは自身を見守ってくれていた衣玖がいる。穏やかな彼女は、自分を崩さずにこれまで天子を見守っていてくれていた。
そう、かつて自分が父に殴られた記憶を語った時も慰めてくれた、紫とどう付き合えばいいか悩んでいた時に助けてくれた。
彼女には天子だって何度も感謝を感じた、思ってみれば、それだけで天子は恵まれていたのだ。
そして衣玖を糸口に、他の記憶も蘇る。
自分を抱きしめて護ってくれて紫、幼いころ娘のためにと奮闘してくれた父。
たしかにこれまでの天子は幸福と言うには苦しみすぎた、それでも先に進むには十分な恵みをすでに与えられていたのだ。
あとは天子が受け取るだけ。
目の前の衣玖は自身を見て驚いている主人を、相変わらず穏やかな面持ちで見守ってくれている。
その視線を振り切って、天子はもう一度閻魔に向かい合う。
映姫もまた頑なな気配を、ほんの少しだけ和らげて説教を締めくくった。
「きっともうすぐ、あなたに全てが試される時が来るのでしょう。あなたがそこにたどり着き、更に先に進もうとできるのはあなただけの力ではない。エゴに囚われず他者を受け入れ、これまであなたが受けてきた情に報いることです。それこそが、窮した他人を救うただ一つの道ですよ」
それだけ言い、映姫がその場を後にしようとする。
横を抜けて飛び去る映姫の姿を、天子は目で追おうともしなかった。
ただ彼女の言葉だけを受け取る。
しばらく天子が何も言わず佇んでいるのを、衣玖も萃香も黙って見ていた。
紫のことを考えれば急がなければいけないが、今の天子の邪魔をしてはいけないと感じていた。
「……衣玖、ここまでずっと着いてきてくれてありがとう」
これまでの人生に気付いた天子が、背後に語りかけた。
「どういたしまして。でも天子様を支えてくれていたのは、私だけじゃありませんよ」
「うん……衣玖のお陰で気づけたわ」
きっと今の自分が思っている以上に、この身に力を与えてくれた存在は多く、計り知れないほど大きいのだろう。
与えられたものがどれだけなのか、壮大過ぎてわからなくて、愛情に報いるなんてできる気がしないけれど、かつて自分に最も大切なものを与えてくれた母は、天子に向かってあなたは誰かを助けられる人なのだと言ってくれた。
せめてその期待に応えて見せたいと思った。
「ねえ天子、私にも何か言ってくれて良いんじゃない?」
「あーうん、萃香もありがとありがと」
「何だその適当なのー!?」
「冗談よ、ジョーダン! あんたも色々気にかけてくれてありがとね」
萃香だってたびたび天子のことを手助けしてくれたし、何だかんだ言って紫との仲を取り持ってくれたりした。彼女もまた、自分を支えてくれた大切な友達だ。
そしてこの先にいる紫にも、天子は感謝の念を想う。
あと一人、気持ちを伝えあうべき父が会いに来てくれないことが心残りだが。
天子が一抹の切なさを抱える後ろで、衣玖は自分はなぜこの人に付いてきたのだろうと今更になって考え始めた。
これまで衣玖は当然のように天子を支えてきた、彼女が愉快な人物だからというのも理由にあるが、これ自体は自分の本質に届くものではない気がする。
自分は天子に何を求めているのだろうと、胸の内にある無意識の雲に手を伸ばした。
◇ ◆ ◇
「いひひ、よーし。天子たちはもう近くまで来てる」
紫の屋敷に居座っていた萃香の本体は、縁側に腰を下ろしたまま意地の悪い顔でニヤついている。
瓢箪から盃に酒を注ぐと、上機嫌に水面を揺らしてチャプンと音を立てた。
「何が思い出を抱えたままでいたいだ、悲しみに酔って下らないこと抜かして。そんな最期、私は許さないよ。滅茶苦茶に引っ掻き回して――」
ニヤニヤと笑う萃香だったが、後ろから得体の知れない空気を感じてゾッと背中を粟立たせた。
それはかつて鬼らしく人間相手に戦っていた時に感じたものを遥かに超越した、重々しい殺意。
粘ついた空気の中で振り返った萃香が見たのは、周囲に蝶を漂わせて白い顔で見下ろしてくる幽々子だった。
「あ――」
何かを言う間に、蝶形の弾幕が幽々子の背後から大量に湧き出て萃香に殺到した。
スペルカードルールではない、本物の殺意、本物の物量。逃げる隙間など何処にもなく、萃香は瞬く間に埋め尽くされた。
数千の蝶は萃香を消し飛ばしただけでは飽き足らず、縁側から屋敷の外に溢れ出た。
巻き起こった霊力の嵐は、屋敷に近くまで飛んできていた天子たちも感じ取った。
驚いてブレーキをかける天子と衣玖の前で、分身の萃香が身体を震わせ口から血を吐きだす。
「萃香!?」
慌てて後ろにいた二人が駆け寄って、崩れ落ちた萃香の身体が地面に落ちる寸前で受け止める。
森のなかに降り立った二人は、虚ろな目で痙攣する萃香に呼びかけた。
「萃香さんしっかり!」
「萃香! 今のは……!?」
衣玖が萃香を揺さぶる横で、天子は力を感じ取った方角を見つめる。
遠目からでは何があったのか判断できないが、最悪な事態が起こっている気がする。
不吉に駆られていると、萃香が震える手を伸ばしているのに気付いて、天子も萃香に向き直った。
「う……あ……」
「萃香どうしたの、何があったの!?」
「あ……に……」
息も絶え絶えに喋ろうとする萃香が、指を立てて紫の屋敷のある方へ向けた。
「逃げろ……!」
指し示した方へ顔を向けた天子が見たのは、嵐のように渦巻いて当たりを飲み込む蝶の群れだった。
高速で飛び交う蝶は、あっという間に範囲を広げ天子たちがいた場所を飲み込んだ。
蝶が飛び交ったあとには、何も残らなかった。
木々は一つ残らず死に絶え、一瞬で枯れ果てた枝が蝶の巻き起こす旋風に攫われて粉々に砕け散る。
動物や虫なども同様だった。何があったのか気づく前に全てが死に、死骸を蝶が蹂躙して跡形残らず消え失せた。
屋敷の周囲一キロは、ほんのわずかなあいだに不毛の大地と化した。
荒れ果てた地面だけが残る悲しい風景に、幽々子が破壊した壁から歩み出る。
「誰も紫には手を出させない。彼女の安寧を破壊させはしない」
紫に対する執着心が、亡霊の内で暴れ狂っていた。
幽々子はどこまでも純粋だった、純粋に紫のことを想っていた。
だから紫が傷付くのを良しとしせず、彼女を脅かすものの存在を許さなかった。
「来るというのなら、あなたも殺すわ、比那名居天子」
ゆらりと外に飛び出た幽々子が視線を向けた先では、一瞬にしてあらゆる命を失った荒れ地で、不自然に盛り上がった岩塊がガラガラと音を立てて崩れていた。
複数の要石を重ねて作られたドームの下から現れたのは、三人で身を寄せ合って縮こまっていた天子たちだった。
「あ、危なかった……!」
ギリギリのところで防壁が間に合ったが、もう数秒ほど遅ければまとめて絶命していただろう。
突然の無差別攻撃が一体何なのか、わからないまま即席シェルターから抜け出した天子は、殺意を張り詰めさせた亡霊を見てゾッと怖気立ち、今のが幽々子の仕業だと理解した。
思わぬ障害に意識を戦闘用に切り替えていると、衣玖に抱きかかえられた萃香が声を発した。
「う……ぐ……」
「萃香、生きてる!?」
「な、なんとかね」
天子が幽々子に警戒を向けたまま聞くと、萃香は震える手で衣玖の肩を支えにして身体を起き上がらせる。
「幽々子のやつ、いきなり私の本体に襲ってきた。なんとか霧になって逃れようとしたけど、全体の半分は今での死んだよ」
どんでもない事実に、天子と衣玖が絶句して息を呑み込む音が、不毛となった地に静かに響く。
萃香はこのことを伝えると、能力を発動して自らを霧として空気に紛れる。
「私は戦えそうにないから逃げさしてもらうけど、覚悟した方がいい。幽々子は本気で、紫に近づくお前を殺す気だ」
「な、なんでそうなるんですか、天子様は説得しに来ただけですよ!?」
「紫が悲しむのが、本人よりも耐えられないのさ」
萃香の気配が散っていくのを感じる、できれば鬼の腕力に助力して欲しかったが、肉体の半分を失ったという消耗を考えれば期待できないだろう。
舌打ちをして緋想の剣を手に取った天子の前に、周囲に淡く光る蝶を羽ばたかせる幽々子が宙を渡ってきた。
「……ッ。なんて圧力よ、あいつ亡霊通り越して仙霊にまで片足突っ込んでるじゃない」
幽々子から感じる力にさしもの天子も腰が引けそうになる。
なんという執念、いや妄執か。いつもは穏やかそうだった彼女の胸に、一体どれだけの感情が渦巻いていたのか。
だからと言って、天子もここで逃げる訳にはいかない。
「幽々子! 私たちは紫を説得しに行くんだから、あいつを助ける邪魔をしないで!」
「邪魔をしているのはあなたたちのほう、紫の心は私が救う」
万が一に賭けて天子が幽々子と交渉してみるが、返ってくるのは狂気だけ。
「彼女がもう二度と悲しまなくて良いように、私が紫を殺す」
「……そんなのが、幸せな最期なわけないでしょうが」
明らかに滅茶苦茶だ、矛盾ばかりで話にならない。
だが天子は、まるで幽々子が紫の意思を持ってここに現れたように感じた。
もっとも紫と心を通わせ、紫と心を共にしたのがこの幽々子なのだ。そして今まさに幽々子が見せている狂気こそが、紫の抱える心の闇へと通じている。
幽々子の言っていることは彼女自身の主張に見えて、自ら死のうとする紫の心を代弁しているのに過ぎないでは。
ならばなおのこと負けれらないと、天子の瞳が光が灯る。
この幽々子を乗り越えなければ、紫の心には到底届かない。
握った緋想の剣を振り抜いて緋色の刃で風を鳴らした天子は、昏い瞳で薄く睨みつけてくる亡霊へと立ち向かう。
「て、天子様、まさか本当に……」
「倒すのよ決まってるでしょ」
覚悟の決まらない衣玖の前で天子が一歩踏み入った時、幽々子の目が見開かれて霊力が噴出した。
巻き上がる力場は扇状に空へ広がると、空中で蝶の形となり豪雨のように天子たち目掛けて降り注いだ。
隙間なく視界を覆う蝶の一つ一つは幽々子の能力で紡がれた死そのもの、頑丈な身体を持つ天子であっても直撃を受ければ死は免れない。
込められた霊力も先程より増大し、生半可な防壁では紙切れも同然だ。
「要石!!」
号令とともに複数個の柱のような要石が空中で生成され、天子たちを守る壁として地面に振り落とされた。
連なってそびえ立つ要石は城壁のような威容を誇っていたが、蝶形の弾幕が群がってくるや否や瞬く間に砕き散らされていく。その様は優雅な蝶というよりも、貪欲なイナゴの群れだ。
防壁が無数の蝶に穿たれて秒ごとに薄まっていき、微塵に粉砕された瞬間、地上から撃ち放たれた緋色の極光と蒼い雷槌が、死の群れを焼き払った。
幽々子が霊力の放出を一時止めて様子を見ると、剣を掲げる天子と羽衣をまとった腕を突きつける衣玖の姿が土煙の下から現れた。
「当たるんじゃないわよ衣玖! こいつの能力はあんたも知ってるでしょ、相殺するか躱し切れ!」
要石の防壁と迎撃で第一波を生き永らえたが、それで安心できる相手ではなく、天子は頭上に浮かぶ幽々子を睨みながら叱咤する。
しかし背後の衣玖は予想外の戦闘から、見知った相手と命懸けで戦うことに迷いが見える。
「天子様! 私が食い止めて先に行くのは!? こんな時に戦ってる場合じゃ……」
「駄目よ! 背中を見せたら殺される、ここで倒さないと! 戦う覚悟が持てないなら下がってなさい!」
衣玖を残し、勇猛果敢に天子が飛び立つ、周辺の気質を緋想の剣に集めて刀身に集中させると、薙ぎ払った刃から放射状に放出した。
微細な気質の粒が集まり固まり研ぎ澄まされ、斬撃のように空気を裂いて幽々子の首へ差し迫る。
だが再び湧き上がった蝶たちが羽ばたくと、俊敏な動きで幽々子の前方に集まりだし、気質の刃へ己を捧げて術者を守った。
無残に身を散らす蝶を眺める幽々子の目はどこまでも冷たく、天子は怯みそうになる心を、こんなところで負けていられるかと叱りつける。
あくまで対峙する天子を見下して、幽々子が唇から重たい声を発した。
「あなたはまだ紫を悲しませようというの」
「そんなつもりはないわよ! 私はただ紫を助けたいだけ!」
「戯言を、よくも紫を追い詰めておきながら」
それまで敵意をたたえながらも、静かなものだった幽々子に変化が現れる。
食いしばった歯を剥き出しにし、寄せた眉のあいだに深い溝を作り表情へと豹変させた。
整った顔立ちが怒りに歪められ、端に皺が寄るほど大きく開かれた口から悲鳴にも似た叫びが轟いた。
「紫に怒りを抱きながら、よくそんなことを言えるわね!!」
秘密のヴェールを拭い取られ、あらわになった罪が、天子の呼吸を殺した。
最悪の敵を前にしながら、まるで大切な歯車が壊れてしまったように剣を持つ腕が動かない。
言葉一つで身動きできなくなった天子の矮小な身体を、幽々子は冷徹な目で見据える。
「わからなかったと思う? 私に?」
ある意味、幽々子はもっとも紫を見てきた女なのだ。
紫自身の強さも弱さも、そしてそんな彼女に向けられた感情も、紫本人よりもよくわかっている。
「紫に怒りながらも、それでも歩み寄るあなたを評価してたのに。いつまでたっても振り切れない、ほとほと呆れるわ。あなたが感情に振り回されて紫を傷付けた時、一思いに殺してしまえばよかった。」
閻魔のような神の視点ですらなく、個の感情が罪を暴き立てる感覚に、天子は荒れ狂う本能と理性が激突し、生きることの意味すら忘却する。
抗いようのない隙を晒した天子に、幽々子が指を突きつけた。
爪の先が淡く灯り、凝縮された一矢が放たれる。
「その報いを、受けなさい」
一つの死が、静寂を横切って天子の胸に突き刺さった。
◇ ◆ ◇
外から届く大気の揺れる音に、眠っていた紫はゆっくりと瞳を開けた。
疲れが残った頭を持ち上げて、誰もいない部屋をしばらく眺め、ようやく自分が取り残されたことに気が付いた。
「幽々子は、どこに……」
疑問に思った直後に爆発音が響き、屋根が揺れる。
不可解な爆音を座り込んだまま聞き、聡い紫は全てを理解した。
「そうか、天子が来たのね。幽々子は彼女を……」
幽々子の性格を考えれば、天子が来たらどう行動するかおおよそ予想はつく。
おそらく、橙か萃香辺りが天子を連れてきたのだろう。橙には別の役割があることを考えれば、案内人は萃香か。
外の様子を確認しようとスキマを開きかけたところで、へたり込んだ足元からドス黒い何かが這い出て紫の身体を上ってきた。
「――くっ、もう、時間が……」
タイムリミットだ、次の帰還が必要な時が迫っている。
予想以上に早い、精神的動揺からくる心身の疲弊により、こちら側での活動時間が短くなってしまったのだろう。
それは同時に、またあの記憶を喪ってしまうことを示す。
込み上がってきた恐怖に身体中が凍えつく。
あの誰もいない寂しい闇の中で、輝かしい瞬間が奪い去られる瞬間を思い出して叫び出したくなる衝動に駆られた。
「まだ……まだ来ないで……!」
空間に意識を集中。世界を成り立たせる結界に干渉し、歪み始めた境界を修復することで自分が引き戻されるのを防ぐ。
湧き出た黒い手のような何かは、押し込められるように戻っていく。
だがそんなもの決定的瞬間を遅らせているに過ぎない、いずれ能力は疲弊し境界を維持できなくなる、そうなればまたあの闇の中だ。
もう駄目だ、堪えられない。あんな絶望をまた味わうくらいなら、自らこの生命を絶つ。
だが紫に自身には己を完全に殺す手段を備えていなかった、天界や龍神たちが幾星霜の時をかけて成し得なかったことであるし、そもそも元々はあちら側の存在である自分に死の概念自体があるのかすら不明だ。
例え短剣を取り出して自らの胸に突き刺しても、この身体が死ぬだけで紫は境界の隙間に帰還し、記憶を奪われこちらに戻ってくるだけだ。それは死ぬより怖ろしい。
幽々子は外で戦闘中、藍と橙はおそらくこの家の何処かで紫が死んだ後の事を準備しているのだろう。
藍には奥の手を引っ張り出すように頼んだが、二人にもしもの時は紫自身よりも幻想郷の維持を優先するように言い含めてある、彼女が来るのはもう少し先になりそうだ。
あるいは、藍が家族を殺すのを躊躇したのかもしれない。何にせよ紫は一人取り残された気持ちになった。
「あぁ……」
力なく息をつく。どこにも行けない、少しでも動けば境界が崩れて元いた世界の隙間に引き戻される。
紫にできるのはここで死力を尽くしてただ待つか、奈落の闇に転がり落ちるかの二つだけだ。
だが前者を選んでも、そう長い時間は残されていない。
押し戻したはずの黒い手は、今度は紫ではなく外を目指して伸びる。
紫がどうしても抵抗を続けるのなら、この機に乗じて向こう側の存在が紫を通じてこの世界に現れようとしているのだ。
もしこのまま向こう側の住人が際限なくなだれ込むようなことがあれば、幻想郷は滅ぶ。
そうしたら自分の記憶どころのはなしではない、家族の藍も橙も、友人の幽々子も妖夢も萃香も、そして天子もみな死んでしまう。
自らの絶望か親しい者の死か、究極の二択に紫は荒い呼吸を繰り返す。
「時間が……」
孤独に震えているとき、一筋の光が差した。
「――ご安心を、紫様」
部屋に響いた声に、紫が顔を上げる。
廊下の床が軋み、誰かが立ち上がる音がする。ずっと部屋の前で座して待っていたのだろう。
「あの人は私に頼みました、あなたを食い止めろと」
襖が音もなく開き、奥から声の主が姿を現す。
「紫様、世界の異物であるあなたを封じるは、元より我ら魂魄家の使命」
揺れたのは、切りそろえられたおかっぱの短い髪。
あの幼さを捨てきれない妖夢が、張り詰めた空気で腰の剣に手をかけて、堂々とした振る舞いで立ちふさがった。
普段の優柔不断な彼女はどこへやら、弱々しさの一つも見せず、真剣な目で紫を見据えている。
自分の前に立つ無謀を紫は笑いはしない、彼女は正真正銘、幽々子にとっての切り札だ。
「妖夢、そう……幽々子はどうしても自分の手で私を殺したいのね」
親友の歪んだ愛情に紫はふっと嘲笑した。かつて優しい人としてあった幽々子の亡骸を、そこまでの狂気に駆り立てた張本人は自分だ。
あの亡霊に、もっと幸せにな人になれるよう必要なものを分け与えられたらと思ったが、自分には無理だなと諦めて溜息をつく。
「でも妖夢、無理矢理私をこの世界に繋いでいるせいで、向こう側の住人が這い出ようとしてきてる。未熟なあなたがこれをどうにかできるの?」
紫が問いかけている間にも、足元に蠢く闇は手を伸ばし始めた。
向かう先は同類の紫ではなく、もっと眩しいものを持った妖夢へと向けられる。
「――逃げなさい妖夢!」
警告した時にはもう、制御の効かなくなった闇が、待ちきれなかったとばかりに飛び出した。
矢の如く迫りくる世界の外側に住まう魔の手に、妖夢は一切の動揺を見せず剣を握る。
手に取られたのは右手に持った楼観剣だけでなく、本来は戦闘に向かない白楼剣までもが左手に握られる。
魂魄家に伝わる二振りが、極限まで集中した妖夢に構えられる。
「この身は人であり、人ならざるものであり、陰にして陽、陽にして陰」
妖かしが鍛えし楼観剣に備わった陰の気と、人の迷いを断つ白楼剣の陽の気が交差する。
重力のようになめらかに白刃が十字を辿り、影の手形を斬撃の中心に捉えた。
紫が目を見張る刹那より短い時の中で、二つの軌跡は重なり合った点であらゆる法則を凌駕して、この世界の成り立ちの根本にまで辿り着き、空間のざわめきを鎮める。
その空間に飲み込まれるように手だけの境界の住民は、この世界から追い払われて元いた場所へと送還された。
須臾に行われた技は紫にもまったく見えず、その神技に打ち震える。
音すらなく成されたそれは、本質的には斬撃ではなく結界だった。
「斬って絶つのではなく、二つの刃で切り結ぶ、陰と陽の境界を正す結界剣。これぞ我が師、魂魄妖忌が異物を封じるために見出した魂魄の剣の極地。人鬼一体のこの剣にて、あなたを徹底的に封じてみせます」
そう言って再び妖夢が構える。剣先は微動だにせず、真剣な眼は空間の一挙一動を見つめている。
紫は自らの魂が怯えて震えるのを感じていた。無理も無い、この技術の全てはこの世界の異物たる己に対して向けられているのだから。
これこそが、スキマ妖怪に対抗した人間たちが長い年月の果てに生み出した、一つ技の完成形だった。
「……そう、これが魂魄の剣。知識では受け継いでいたけど、こういうものだったのね」
乱れた世界の理を元通りに書き直す偉業。
かつて魂魄妖忌はこの技術を極め、そしてもしもの時には紫を押さえるために、幽々子の隣というスキマ妖怪に極めて近い場所に身を置いていたのだ。
そして妖夢がその意志と技を受け継いだ。赤ん坊の頃から知っている少女の成長に、紫はこの非常時でさえ感嘆を禁じえなかった。
「陰の気と陽の気を持って境界を敷き追い返す、半人半霊だからこそできる技か。未熟な身でありながら、よく実現できたわね」
「……ついさっき、お祖父様に会いました」
「……妖忌の居場所を知ってるの!?」
この事実には紫も驚いた。
妖忌はある日突然悟りを得てから白玉楼から姿を消し、紫の眼すら欺いてどこかに消えた。
長いあいだ紫も探し続けていたが見つけられず、外界かはたまた何処かの異界へでも向かったのかと思っていたが、この幻想郷に残っていたとは。
「はい、お祖父様が旅立つ時、どこに腰を下ろすのか私にだけ教えてくれました。然るとべき時が来れば尋ねればいいと」
「なら彼を連れてくればよかったのに」
「それは無意味です。すでにお祖父様は命を亡くされましたから、魂魄の剣は振るえません」
「……彼に、何を聞かせてもらったの?」
「とりとめのない、ことですよ」
祖父とどんな話をしたのか、妖夢は紫に聞かせてくれた。
妖夢が久々に会った祖父は、その佇まいを大きく変化させていた。
かつて厳格で固い性格であり雰囲気からもそれが感じられたが、今は厳かな見た目でこそあれやんわりとした親しみやすさがあった。
けれど優しいだけでなく、身体は老いて枯れ枝のように細いのに挙動の一つ一つがまったく乱れず、柔らかいのに芯がある、一つの悟りを得た者が持つのだろう独特な空気をまとっていた。
――
――――
――――――――
妖夢は主である幽々子とその親友である紫の元から離れ、ある人物の元へと足を運んでいた。
これは弱り果てた紫と悲しみのるつぼに溺れる幽々子を見たくなかったという、現実逃避の意味合いも強い。
辿り着いた場所は幻想郷の僻地、無縁塚に近い場所に建てられた人が一人なんとか住めるくらいの小さな小屋。
妖夢は腰に備えた剣の柄を撫でると、震える手で扉を叩いた。
「ごめんください」
返事はない、それどころか人の気配すらない。妖夢は恐る恐る引き戸の扉を開ける。
声のなかった引き戸の奥にはしかして、囲炉裏を挟んで一人の老人が壁に背を向けて座っていた。
「随分と呼吸が乱れておるな、まだ未熟だの」
その声は、決して重くなかった。
老いてしわがれているというのに軽やかで心地よく、心に滑り込んでくる安らかさがある。
予想よりもずっと優しい声に、妖夢は張っていた肩の力を抜いた。
「お久しぶりです、お祖父様」
禿げた頭と対照的に筆のような濃い顎髭を生やした老人は、柔和な笑みを浮かべている。
このどこにでもいそうな痩せ細った老人こそ、魂魄妖夢の祖父である魂魄妖忌であった。
妖夢は家に入り扉を閉める。彼女の眼の前にいる祖父は、孫と違って半霊を連れていない。
彼はすでに老衰して死んでしまい、幽霊そのものになってしまった身であった。
「訪ねてくれたのに何も出さないのも悪い。今、茶を出すから待っていなさい」
「お祖父様、聞いて欲しい話が」
「いいから座りなさい。何事も焦ってはいかんよ」
そう言って妖忌は奥の戸棚を漁ると茶葉を取り出した。
囲炉裏の上には妖夢が来ることを知っていたかのようにお湯が温まっており、妖忌は慣れた手つきでお茶を淹れる。
「粗茶ですまないが、さあ飲みなさい」
差し出された湯飲みを手に取って、妖夢は香りを吸った後、まだ熱いお茶を少しだけ口に含んだ。
喉を通って流し込まれたお茶の熱を胃の奥で感じて、自らの猛りを冷ますように深く息を吐いた。
「それで妖夢や、このご老体になんのようかな?」
「……魂魄の務めを果たす時が急にやってまいりました」
「ふむ、覚悟ができていないと?」
穏やかな問いが、妖夢の核心を揺さぶった。
やんわりとした目つきなのに、自らのすべてを見据えているのがわかる。
「……紫様が、自死を望み始めました。幽々子様もそれに同調してあの方を自分の手で殺してしまおうとしています、いつ状況が悪化してもおかしくなくて、その時には私が事態を抑えねばなりません」
「その時にはすればいいことだろう、妖夢にしかできないことなのだから、何も迷うことはあるまい」
妖忌は軽々と言ってのけた、確かにどれほど論じようと最終的にはそこに帰結する。
だが妖夢はその結論を受け入れられずにいた、そのことも妖忌はわかっていたようで、続けて尋ねた。
「それなのに、何故やれないのだ?」
「私は……私は怖いのです。未熟な身で紫様と立ち会ったところで、何もできないのではないかと」
「それは違うな。人は失敗そのものを恐れるのではない、失敗によって起こる何かが怖いのだ」
祖父の言葉に妖夢がビクリと身体を強張らせた。
「妖夢さ、お前が怖いのは死ぬことか?」
この問いかけに、妖夢は長い時間を掛けた。
答えに悩んだのではない、わかっていた答えを認めることに時間が必要だった。
しばらく黙り込んでいた妖夢は、やがて結んでいた唇を解くと本音を語った。
「……私は、幽々子様が破滅してしまうのが、怖いです」
それこそが妖夢がもっとも恐れる未来だった。
妖夢にとって紫も、彼女にまつわる因縁も本質的には興味が無いのだ。
大事なのは主人であり、己が恋い焦がれる幽々子の幸福であり、それ以外の全てが些事である。
しかし今回の事件は、西行寺幽々子の存在を揺るがしかねない。
「あの人は、悲しむことに流されるままで、このままでは紫様に引き摺られて壊れてしまいそうで、怖いんです」
「ふむ、怒りたくないと言う人ほど怒り、悲しみたくないと言う人ほど悲しむ、誰しも簡単に不幸になろうとするものよな」
人の弱さを憂い遠い目をした妖忌だが、すぐにその視線を妖夢へと戻す。
祖父は孫娘をまっすぐ見て、誰よりも親身になって優しく語りかけた。
「いちばん重要なのはそれさ妖夢。もっとも怖い未来、それこそ逃げてはならないものだよ……私は千年もの昔、それがわかっていなかったから失敗した、受け継いだ使命感に突き動かされ八雲紫を討伐しようとした、当時の幽々子嬢を取り巻く西行妖のことをわかろうとせずにな」
千年もの遥かな昔、歌人であった幽々子の父が桜の下で自害し、彼を慕う者が何人も後を追った結果、妖怪桜の西行妖が誕生した。
人の死体を吸い、誰にも手に負えなくなった西行妖は、最終的には自害した幽々子の遺体を以て封印された。
年寄りの思い出話を、妖夢はじっと心の耳を凝らして聞いた。
「聞いてくれるかな妖夢や。妖怪すらやれぬあの少女は、親友を助けようとしていたのにな、私が異物は排除すべしと闇雲に剣を振るった結果、八雲紫の邪魔をして幽々子嬢が命を落とすこととなったのだ。私はこの世界に住むみんなのためにと剣を振るったが、紫も幽々子嬢と心を通わせた時点で、すでにこの世界に根を下ろしたも同然であったのにのう」
自らの過去を悔い、その過ちを繰り返すなと老人は語る。
詳しい経緯までは教えてもらえなかったが、妖夢にはその時の情景がありありと想像できた。
きっと人間だった頃の幽々子は、悲しい目をして生涯に幕を下ろしたのだろう。自分がそうするしかないのならと、誰かの不幸を肩代わりしたのだろう。
今の亡霊の幽々子もそれと同じだ、どんなに狂おうと、彼女は本質的に優しい人なのだ。
「私が紫を倒しきれなかったのも、その至らなさ故かもな。今思えばそれだけが幸いだった、私だけでは幽々子嬢を支えられなかっただろう。紫の激しい悲しみが亡霊に中身を与えた、それが今日に幽々子嬢を追い込むのは皮肉だが、乗り越えられぬものでもない」
悲劇を口にしながらも、妖忌は言葉の最後を希望で締めくくった。
その一言は妖夢の心に力を送り、不安に負けそうだった心に活力を与えてくれる。
今一度現実に戻った魂魄の二人は、不幸に負けぬ強い目をして見つめ合った。
「話が反れたな、現実の幻想を考えようか。幽々子嬢が思い通りに紫を殺したらどうなると思う?」
「……壊れかねないと思います」
「お前から見てその可能性はやはりあるか。儂は妖夢が傍にいれば最悪には至らんとも思うが……最善ではないのは確かだな。では紫を助けられる可能性は?」
「私にはなんとも、幽々子様を通してでしかあの方を知りませんから。でも一人、紫さんが心を許した人物がいます、可能性があればその人だけかと」
「ほう、その者の名は?」
「比那名居天子です」
「ひなない、聞いたことあるようなないような。名前からしてなゐの神関係かの」
妖忌は伸びた髭を指で挟み込むように撫で、心当たりを探った。長く生きただけあって、その推測はおおよそ当たっている。
「天人です、親族の関係で天界に上がったと聞きました」
「なんじゃ、天界の関係者か。とするとその者も異物を排除しようとした者だな、そんな存在が紫のそばにいるとは因果だの」
「しかし天子が紫様に手を伸ばせば幽々子様が殺しにかかるかと。ある意味で紫様を苦しませている元凶ですから」
そこまで聞いて「ふむ……」と声を漏らして頷いた妖忌は、腕を組んで考え込んだ。
「ならばやはりお前のやるべきことはただ一つだよ。時間を稼ぐのだ妖夢」
最終的に行き着く結論はそこしかなかった。
元よりただ剣に尽くし、幽々子に尽くした身で、やれることなどそうありはしないのだ。
「幽々子嬢とその天人がぶつかるなら、どんな結末になろうと決着には時間がかかろう。幽々子嬢がその先の現実を受け止めるには、本人が全力を出した末の回答である必要がある。お前の剣で、あの方の道を斬り拓くのだ。それができなければ、間違いなく幽々子嬢は不幸な行く末を辿ろう」
「私にその役目を果たせるでしょうか、迷ってばかりの私に」
「できる。お前の心に迷いはあっても、願いに曇りはない」
妖忌は断言した、彼の言葉はまるで大木のように頼もしい。
妖夢を見つめる彼の瞳はどこまでも澄んでいて、妖夢の心にかかった靄を洗い流してくれる。
「妖夢、お前は純粋だ。報われたいと思うのではなく、ただ大切な者の幸福だけを願える者は決して多くない。その研ぎ澄まされた刃の如き願いだけが、最良の選択を手繰り寄せる。魂魄の剣の極地に至るにおいて究極的には技術も要らない。願いに手をかけようとする者こそが自らの全てを見定める、良きも悪きもな。それこそが陰と陽を和合させ、世界の果てを作り上げるのだ」
熱く語った妖忌は、一息つくと立ち上がって天井際に作られた窓に近づいた。
窓に覗く大空と、そこを飛ぶ一匹の名も知れぬ鳥を眺め、妖忌は口を開く。
「妖夢、私が悟りを開いてわかったことは、世の中そう悲観するもんでもないさということだ。焦らず心を開いてすべてを受け入れれば、大抵のことはなんとかなるさ。頑張りなさい」
「……はい、ありがとうございます」
話が終わり、立ち上がった妖夢は憑き物が落ちた顔だった。
心は決まった、自分はただ幽々子様に奉仕するのみ、それが妖夢が定めた自分の道であった。
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「随分と元気そうじゃない、いきなり悟ったなんて言った隠居した以降は、ぷっつりと情報が途絶えているのに」
「あの人の言う悟りとは、要は死ですよ。庭先で掃除していたらいきなり老衰でぽっくり逝ったんです。そのまま幽霊になったお祖父様は、私に庭掃除を押し付けると、自分の死体を担いで白玉楼を出ていきました」
「変わったわね、私の覚えてる限りじゃ、色々うるさい性格だったみたいだけど……」
記憶のバックアップの中に残されたデータでは厳格で根は熱血漢の記憶が散見されたが、今しがた妖夢が語った妖忌とはいい意味で正反対だ。
きっと死を体験することで本当に悟りを得て自らを変革させたのだろう、それだけの修行を積んだ人だと紫のメモリーが語っている。
彼もまた幽々子の死から千年、悔み、悩み、自らの道を求めて修行してきた男なのだ。
「私はずっと迷っていました、幽々子様に振り回されて、あの人に付いていこうと必死になってもふよふよと先に行かれて。でももうそれでいい、ただ私はあの人を傍で護れればそれでいい、人のことをからかって困らせてばかりのあんな酷い人だけど、私は幽々子様が好きなんです」
胸の内を吐き出した妖夢の顔は、それまでの生涯で一番清々しく、迷いのない顔だった。
「本当は幽々子様に早まった真似は止してほしいのですが、あの方の世界の中心は貴女で、私が何を言ったところで変えられない。ならばせめて、幽々子様が行きたいと思う道を私が護ります。例えその先が冥土の果てでも付き従うと、私は決めました」
もしも幽々子が望みどおりに紫を殺せば、その瞬間に親友を殺した事実に壊れてしまうかもしれない。
それでも他に幽々子が向かう先がないのなら、せめてそれを護り続けよう、倒れてしまわないようそばで支え続けよう。
それが妖夢の決意だった。
「幽々子様が天子を始末して、ここに戻ってきて紫様を殺すまで、私が時間を稼ぎます」
堂々と宣言した妖夢の前で、紫は膝を突いたまま足元を見やった。
紫の存在を起点として刻一刻と世界の境界は歪み、うぞうぞと隙間の住民がこちらに這い出てきている。
だが今の妖夢なら、もしもの時も押さえきれるだろう。
「未熟さを抱えながら、よくその領域まで辿り着いたものだわ……でも妖夢、あなたは二つ勘違いしている」
紫としてはこの成長を褒め称えたいところであったが、言わねばならないこともあった。
「一つ目、幽々子の中心が私であっても、あなたが心からの気持ちを素直に伝えられれば、幽々子は必ず耳を貸す。あなたの気持ちは無価値ではない」
紫の言葉を聞かされて、妖夢は瞳をうるわせわずかに剣先を下げた。
戦意を無くしたわけでもない、ただ少し救われただけだ。
高鳴る鼓動を押さえ込み、すぐにまた意識を正す。
「二つ目、天子は死なないわ。幽々子には彼女を殺せない、天子の素質を見誤っている」
だが次の言葉には、妖夢の眉がわずかだが不快に歪んだ。
「極光の本質、闇夜にあって輝ける彼女は死の誘惑などには屈しない。本気になった天子は、陰の側に立つすべての存在の天敵なのだから。あれはそういう生まれなのよ」
紫は語る、天子が持つ可能性を、彼女が持ちうる力を。
天子は頑なに隠していた何かがあるのだろう、目を逸らし続けてきたものがあるのだろう。
それでも、泣きながらでも、苦しみながらでも、彼女はいつだって前へ進み続けて来た。
「だからこそ、私も惹かれた……」
あの日、泣きじゃくりながら桃を渡してきた天子の姿を、紫は一生忘れない。
◇ ◆ ◇
幽々子の目の前で、空に浮かぶ天子の身体が崩れた。
「許せないわ。笑顔の下に怒りを渦巻かせたようなあなたが、紫をああまで掻き乱すなんて。絶対に許せない」
無慈悲に言い放つ幽々子の下で、心臓を撃たれた天子がよろけて宙から落ちていく。
握られた緋想の剣からは刀身が掻き消え、小さな身体はうめき声すら出せず、力なく頭から墜落した。
嫌に重い音とともに土煙が立つ絶望的な光景に、後塵を拝していた衣玖から悲鳴が上がった。
「天子様ぁー!!!」
殺し合いの場に臆して出遅れたことの後悔が過りながら、衣玖が駆け出した。
地面に仰向けで倒れた天子を抱き起こすと、まるで生気のない土気色の顔にゾッとした。
「天子様! 天子様しっかりして!」
懸命に声を掛けながら体を揺さぶるが、天子はぐったりとしたまま手足と首を垂らしたままだ。
まさかと思いながら声を止めて天子の口元に耳を寄せてみると、呼吸が止まっていた。
戦慄する衣玖に幽々子が無感動な声を上げた。
「天子は死んだわ」
「死っ……」
それを聞いた瞬間、衣玖の中で怒りと悲しみがごちゃまぜになった激情が溢れ出て、天子の身体を地面に降ろして幽々子と向き合った。
羽衣を腕にまとわせて戦闘態勢を取る衣玖に、幽々子が人差し指を向けてくる。
「あなたは、どうする? 私の邪魔をして死ぬか、退くか、すぐに決めなさい」
お前などどうでもいいと、無感情に幽々子は語りかけてきた。
衣玖は興奮しながらも、一方で冷静に思考を回していた。
ここに来たのは、そもそも天子が紫を説得するためだ、もし仮に幽々子を倒して自分だけが紫のもとにたどり着いたところで、天子がいなければ何の意味もない。
ここで幽々子と戦うのは復讐でしかない、そんなものに意味を見出せはしなかった。
本当なら、自分が天子を支えるべきだったはずだ、送り届けるべきだったはずだ。それなりに、現実にはこのざまだ。
それなら自分は何のためにここまで付いてきたのかと、自らに対する憤りで胸がいっぱいだった。
――――気質とは、万物に宿るあらゆる心の想いである。
どんな想いでも微弱な力を備えており、感情の発露とともに段々と物質に貯まっていく。
気質を受け止める最も大きな器は大地だ、その上に乗せる人間から動植物まで様々な思念から溢れた想いを受け止め気質を蓄積させる。
その気質が飽和すると大地から漏れ出し空の上で集まり緋色の雲を形成し、この気質の集合体である緋色の雲が地中の気質と共鳴してエネルギーを放出することで地震が発生するのだ。
要石と緋想の剣は、これらの特性を持つ気質を最も効率よく扱うためのツールである。
石によって気質を留め、剣によって引き出すのだ。
だが気質が想いであるからに、理論上はそんな物がなくとも心を持っていれば気質を作り出すことはできるのだ。
本当に強い想いさえあれば――――
幽々子が作り出した死を招く蝶は、天子の胸の内側に入り込んでその奥を目指していた。
向かうは心臓。地に倒れた天子は死がゆっくりと身体に馴染んでいくのを朦朧とした意識で感じ取っていた。
しかし死に誘われることは、なんと甘美であることか。末端から力を喪っていく身体はまるで世界に溶けるように心地よく、死の誘惑は甘い吐息で身体から熱を奪い、生きる気力を萎えさせていく。
きっとこの先に辛いことなんてないのだろう。これならここで死んでしまうのも良いかもなんて、そんなことを考えてしまうくらい、死は優しかった。
あとほんの少しで死が天子の核に触れ、その鼓動を永遠に眠らせるようとし、
「……ムカつく」
心臓から燃え上がった熾烈な緋い灯が、死の力を灼き尽くした。
ポツリと呟かれた言葉を聞き、衣玖が振り向き、幽々子が目を見張る。
「天子、様……?」
聞いていた衣玖は主人の生存に喜ぶこともできず、肝が冷えて竦み上がった、それだけの精神的質量が込められた呪詛だった。
だが見下ろす幽々子の驚きは比ではない、彼女が作り出した死の化身は確かに天子の胸に食い込んだはずなのだ。
なのに何故喋れる。
何故、あの少女が空に手を伸ばし、小さな体躯を起き上がらせようとしている。
「ムカつく、ムカつく。ムカつくムカつくムカつくムカつくムカつく、ムカつくっ!!!」
あの力は何だ――幽々子がそう思う前で、天の少女が立つ。
怒声と共に緋想の剣の刃を再構成して振り上げた天子が、剣先を大地に突きつけて想いを爆発させた。
緋想の剣を伝って吐き出された気質が地面の中で爆発して周囲から大地が刃のように突き出し、衣玖は慌てて空に逃げる。
激しい破滅的感情はそれだけでは消えるに足りず、天子の体から溢れ出した気質が渦を巻いて空へと上がり、夕焼けの空に不吉なまでに緋い輝きを重ね掛けた。
発現する極光。暴風のような荒々しい気質が大気を押しのけ、突風に煽られて幽々子の髪が揺らめいた。
「怒り? 知ったふうな口を、私がどれだけあいつに苦しめられたか知らないくせに」
睨め上げてくる天子の感情に、幽々子も目を剥いて動きを止めるしかなかった。
一歩でも体制を崩せば、あっという間に飲み込まれてしまうような圧力がそこにあった。
幽々子は天子が内部に暗い感情を溜め込んでいることには気付いていた、それは自分も同じであるし紫が苦しむまで大して気にしなかった。
「いいわ、ここには紫のやつもいない。あんたが私を推し量ろうっていうのなら、この憎しみを受けてみせなさいッ!!」
――だがこれほどの劇物だとは。
「天よ地よ、私の憎悪を映し出せ!」
空に広がり世界を燃えるような緋で染める極光の幕は、天子が1200年ものあいだ溜め続けた感情の膿だった。
膨れ上がった気質は音を立てて大気をかき混ぜ、嵐のように歪な形を作り上げる。
それと感応するように大地が揺れ動くと、地面が盛り上がって地中から巨大な要石が天子の両脇に二つ現れた。
そのサイズはおよそ直径十メートルはある、尋常でない質量と威圧感を誇る岩が浮かび上がり、緋い光を湛える。
これからすることを察知した衣玖は急いで天子のはるか後方へと飛んだ。天子からゆうに五百メートルは離れたが、これでもまだ不十分かもしれない。
荒れ狂う想念が渦巻き、幽々子の前でその力を示す。
二つの巨大な要石は緋い輝きを静めたかと思うと、四方八方へデタラメに気質のレーザーを撒き散らした。
光芒は放射を続けたまま揺れ動き、射線上にあった地を裂いて爆発が巻き起こった。
地面から吹き荒れる突風と瓦礫に揉まれながら、幽々子は必死に緋い閃光を避ける。
先程までの攻撃とは比べ物にならないパワーだ、とても防ぎきれるものではない。
射程距離のギリギリ外からその様子を見た衣玖が、緋い地獄のような様相に恐怖すら抱いた。
「アッハッハッハッハッハッハ! すごいすごい! こんな、私の憎しみでこんなに力を出せるなんて! 空も大地も、こんなに歪ませられるなんて生まれて初めて!」
唸りを上げて空を燃やして渦巻く極光と、地鳴りとともに荒れ狂う大地。
何もかもが天子の手の内で、飴細工のように歪められていく。
「ああ、思うがままに恨みを撒き散らすのは、気持ち良すぎて死にたいほど気持ち悪いわ」
攻撃をやめた天子は、垂れた眼の上から痛むこめかみを押さえた。
人を呪わば穴二つ。さっきから頭痛が酷い、天子が世界を呪うのと呼応するように、自らの肉体を蝕んでいる。
自身すら滅ぼしかねない凄まじい憎悪を前にして、狂気を手にした幽々子でさえも恐れを抱き、軽蔑の台詞を吐き捨てた。
「よくもそんな、醜さを抱いて紫の前に行こうだなんて思えるわね」
「そうね、私は醜いわ。不良天人なんて言われたって仕方がない」
自らを嘲り笑い天子が剣を構える。
汲めども尽きることなく湧き出る憎悪が、誰よりも天子自身に語りかけてくる。
「私は徳の高い天人様なんてのとは違う。いつまでも憎しみを捨てられないクソッタレよ!」
自らの愚かさに唾棄し、天子は睨みつけた目元から一筋の血涙をこぼして吠えた。
初めて自らの心情を吐露して、天子は己の気持ちを自覚してしまった。
「ようやくわかった、許すなんて馬鹿らしい! 私にはそんなのは無理だ。私は一生紫のやつを許さないし、紫のやつを憎み続ける。こんな強い気持ちが消せるわけがなかったのよ!」
足りなかったピースがこれまでの過去にカチリとハマる。
何故今まで自分が紫に真実を告げられなかったのか、これほどの憎悪を、醜さを持っているなどと認めたくなかったのだ。
なんて馬鹿らしい、なんて卑しい、なんて愚かしい。
自らに失望する天子が吠えるとともに、再び要石から無数の気質が大地に向かって放たれて、そこら中の大地が爆ぜた。
今度はただの瓦礫だけでなく、巨大な棘のような岩盤までもが爆発に乗って飛び出して、上空の幽々子に襲い掛かる。
回避に専念する幽々子に向かって、天子が自ら剣を振りかざして向かってきた。
瓦礫の合間を縫って振り抜かれる刃が、避けようとした幽々子の肩口を切り裂いた。
対象に合わせて性質を変化させる剣の一撃は絶大だった。切られたのは表面の肌だけだというのに幽々子に目眩が起こり、一瞬目の前の天子すら姿がおぼろげになる。
不安定になる感覚の中で、幽々子は死に物狂いで後ろに下がる。
「なんの為に、紫の前に行くつもり!?」
「なんのため……?」
時間稼ぎに叫ばれた言葉を前に、血涙を頬に流した天子が静止した。そのあいだに、幽々子が出来る限り天子から距離を取る。
打ち上げられた瓦礫がたっぷり時間を掛けて落ちていき、二人の足元で落下が巻き起こした土煙が充満する。
やがて落下が終わり、土煙が止んだころ、天子は口を開いた。
「決まってる、あいつの力になりたいのよ」
そう唱えた瞬間、空に渦巻いていた気質の流れが静まり返り、大地も脈動を止める。
波打って揺れ動いていたはずの激しい気は、ゆったりとした動きに移り、極光の輝きが明確な意思のもと天子の頭上に集う。
天子自身が放っていたプレッシャーも、まるで研ぎ澄まされた刃のように一極に集中した。
一転した無音の世界で、極光は陰るどころか、より強い輝きで天子を照らし出す。
あまりの変貌ぶりに戸惑う幽々子の前で、天子は落ち着いた呼吸で緋想の剣を握りしめ、目の前へとその剣先を向けた。
「憎いけど、許せないけど、私は紫の温かさを信じてるから。もう嫌いになんてなれない」
憎悪と好意の矛盾の中で、天子は想いを口にした。
その真っ直ぐな目と言葉から、天子の本気の気持ちが幽々子にも伝わる。
幽々子は、自分こそが誰よりも紫を想っていると考えていた。
だが、それは間違いだったのかと思ってしまうほど、天子はただひたすらに紫の幸福を願っている。
果たして、紫にとって必要なのは天子か、幽々子か。
「それでも――それでも私は、紫の苦しむ顔は見たくないの!」
絶叫とともに蝶が舞い上がる。
幽々子の深い深い負の感情が、自らの存在すら削りながら天子と拮抗するだけの力を生み出す。
「避けられない絶望があるのなら、私が紫の心を救う!」
「巫山戯るんじゃないわよ! 絶望なんかじゃ心は死なない、生きてれば再起の道はある!」
幽々子が生み出した蝶の弾幕が、天子の前へ壁のように押し寄せてくる。
天子は先程の二つの要石を引き上げて自らの元へ寄せると、極光から気質をその二つに注ぎ込んだ。
自らを拒絶する幽々子の叫びを真正面から見据えた。
「昔の私は苦しかった、死にたいと思った、死ぬのが私だったら良かったのにと何度も思った。それでも諦めず歩き続けてこの幻想郷までたどり着いた。その私の前で、苦しいなら死んだほうがマシだなんて戯言を吐くなあ!!!」
要石が射出される。二つの巨大質量は蝶の群れに飛び込むと、内側で大爆発を引き起こして大量の気質を撒き散らした。
広がっていく緋い霧が死の意思を侵食し、弾幕の八割がこの一撃で打ち消された。
残る蝶たちのあいだを天子は駆け抜ける。一息に歪んだ願いを破り去り、幽々子の前に飛び込んで剣を振り上げた
目の前に現れた天子に、幽々子が全霊をかけた一撃を浴びせようと霊力を手元に集中させる。
互いの必殺が交差する寸前、天子が叫んだ。
「幽々子が死んだとき、紫はどんな顔をしてたのよ!」
――その言葉に、幽々子の時が止まった。
遥かな過去、原初の思い出。死して生前の記憶を失った幽々子が最初に見た光景が想起される。
夜にも暖かい陽気な春の日、満月に照らされるべき花が無くなった桜の下で目覚めた幽々子が見た親友の姿。
『ごめんなさい幽々子――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――』
親友を死なせてしまったことに、綺麗な顔をクシャクシャに歪めて泣いて詫びる紫。
生まれたばかりの赤子のごとく、自分が何者かも知れないその時の幽々子には、その姿は異様に映った。
しかし何も知らないまでも、ただその女性が自分にとって大切な誰かなのだということだけは魂で感じていた。
だというのに困惑する幽々子は、膝をついて涙を流す紫に何もできなかった、してあげられなかった。
辛すぎる言葉を繰り返す親友を抱きしめてあげられなかったのは、幽々子の最大の悔恨であった。
その時の気持ちを思い出し、幽々子の胸に痛みが走る。とうに動かなくなった心臓が軋みを上げた。
もし紫が死ねば、きっと自分も同じように泣くことだろう。そうしたら紫は、どう感じるのだろうか――
幽々子の目の前を、緋色の刃が縦に通り抜けたが、痛みは襲ってこなかった。
最後の一撃を天子はわざと外した、切っ先は服にすら引っかからず空だけ裂いて幽々子の足先で停止した。
だが幽々子もまた力の集中は途切れ、敵に向けるべき手が下に向けられていた。
眼前で荒い息を吐く天子の強い眼光を前に、幽々子は何をすればいいか思い浮かばないまま口をつぐんでいる。
「そこまでだね幽々子、お前の負けだよ」
どこからか聞こえてきた声に、幽々子が顔を上げた。
空から舞い込んできた風が霧を萃め、一つの形を取っていく。
「萃香……!」
決着が付いたと見るや、萃香が戻ってきて姿を表した。
逃げ出した萃香だったが、ずっと様子をうかがっていたようだ。
「すごいもんだね、さっきまであれだけ暴れ狂ってたのに、あっという間に気質を集中させた。心が迷った今の幽々子じゃ敵わないよ」
同意を求めるように語りかけてくる萃香を、幽々子は否定することが出来ない。
すでに戦意は消失しているが、そうでなくともこの天子を相手にはあらゆる意味で勝てる気がしなかった。
「さあ天子、もう幽々子に戦う力はないよ。とっとと行って好き勝手やってきな」
幽々子が戦う意志を失くしたのを見て、天子も闘志を収める。
空にかかった極光は掻き消え、いつの間にか暗くなった幻想郷の空が取り戻された。
それを見て戦いの終わりを知った衣玖も、天子の元へと駆け付ける。
「天子様、大丈夫ですか!?」
「うん、なんとか」
天子は血涙を拭う。
悔しげに見つめてくる幽々子を前にして、天子は緋想の剣をしまった。此処から先は武器は必要ない。
「往くわよ、付いてきなさい衣玖」
「はい」
天子は幽々子から視線を切ると、紫の屋敷に向かって下りていった。衣玖も幽々子を気にしながら、天子を追っていく。
その後姿を眺めながら幽々子が隣りにいる鬼へ話しかけた。
「……萃香は行かないのかしら」
「私が行ってもあんまり意味が無い気がするんだよねぇ」
萃香は瓢箪の蓋を開け、ひっくり返しながら呟く。
「結局のところ、私らみたいな妖怪だの亡霊だのはみんな根暗で陰気さ。もし悲観が極まった今の紫をどうにかできるなら、それは陽の下で生まれたやつだろうさ」
「ようは押し付けただけね」
「それがわかるならだいぶ頭は冷えてるじゃんか。そういう幽々子こそ追わないのかい? 別にいいんじゃないの、付いていったって」
「……敗者に、そんな権利があるわけないじゃない」
行ったところで、信念を折られた自分が紫にどんな言葉をかければいいのか。
幽々子はただ悲しげに、そう言って涙ぐんだ瞳を伏せた。
◇ ◆ ◇
荒れ地と化した大地に降りて、唯一無事な紫の屋敷に天子と衣玖は近付いた。
手っ取り早く縁側から中に入ろうとし、そこで待ち受けていた者に足を止める。
「藍……」
その金毛が煌めく美しい九尾を見間違えるはずもない。
紫の式神、紫の従者、紫の家族。
もっとも近くで紫を支え続けた藍が、今は紫から離れて天子の前に立ち塞がっていた。
やって来た天子に、藍は特に感慨もなさそうに口を開く。
「やはり幽々子様を退けたか。当然だな、紫様が惹かれた相手だ」
「まさかあんたまで私を止めるつもり?」
「一応は言葉で引き止めるくらいのことはしよう。なにせ今後のこともある」
「今後?」
不機嫌そうに眉をひそめる天子を前にして、藍は淡々と言葉を紡いだ。
「紫様は幻想郷の運営において、あらゆる面に保険を用意している。自身が機能を果たせなくなったケースも同様だ」
そう言って藍が身を横に引いた。大きな尻尾の後ろから歩み出てきた人物に天子と衣玖は目を丸くする
畳の上を柔らかな足で歩み出てきたのは、橙色の道士服に身を包み、いつも紫が使っていた傘を手に抱えた橙であった。
「改めて紹介しよう。彼女が紫様に変わって幻想郷の実質的な管理者となる、八雲橙だ」
暗い目をして黙っている橙を隣に置き、至極冷静に言い放つ藍へ、天子が睨みつけた。
「どういうことよ……」
「橙には、境界を覗く才能があってな。もしもの時のために、紫様の代替品として用意していた」
天子が聞きたいのはそんなことではなかった。
家族であるお前が、どうして紫を死んだ後のことなんかを話しているんだと言いたかった。
「これからは橙が境界操作能力の一部を引き継ぎ、幻想郷を運営していく。だが橙は未だ未熟であり信用もなければ恐れもされていない、彼女が代わりを務めると言えば住人たちのあいだで混乱は避けられないだろう」
説明を終えた藍が、天子に向かって手を差し出す。
「お前にも手を貸して欲しい。紫様が愛したこの地を、共に守っていってくれないか?」
――隣にいる衣玖が、これはやばいなと思った時には、天子は後ろ髪をはためかせて飛び出していた。
握り込まれた小さい拳が、岩のような硬さを持って、力の限り藍の頬を殴り込んだ。
橙が無感情に見つめる前で、捩じ込まれた拳に藍の身体が後ろに吹っ飛び、廊下の襖をぶち破る。
天子は靴のまま家に上がり込むと、うめき声を上げて起き上がろうとする藍へ足音を立てて近寄り、襟元を絞め上げた。
「何腑抜けたこと言ってるの駄狐が! 幻想郷の前に紫を守るくらい言いなさいよ!」
「ぐぅ、私は、紫様の式神として紫様の命令を守る……」
「式神の前に家族なんでしょうが!?」
天子が唾を散らして叫ぶ。
家族が触れ合ってくれない寂しさは天子だってよく知ってる。
それをよりにもよって藍が、紫の家族がそんな冷たい態度を取るのが許せなかった。
「言え! あんたは紫に何を求めてるの!? あんたがあいつに掛けた願いは何!? それを言わずにハイハイ従ってんじゃないわよ!」
「そんなものは、ない。あったとしても石ころみたいに無意味なものだ。私は、紫様のお役に立てればそれで、いい」
「――そんなの、紫のやつが望んでるわけないでしょうがあ!!!」
大きく振りかぶられた天子の鉄拳がもう一度振り抜かれ、藍の身体が部屋の中へ引き戻された。
九尾の大柄な身体が橙の足元に倒れ込み、藍の視界が家族の冷たい瞳を見上げた。
痛みで朦朧とする藍を見下ろして、ずっと黙っていた橙が始めて言葉を発する。
「藍様……藍様は、もっとわがままを言っていいと思います」
傷ついた藍に、愛しい家族の声が投げ掛けられた。
藍は今の橙を見て、なんて寂しい眼をしているんだろうと思った。その眼にさせているは誰かと考え、誰でもない自分だと気付き胸が痛むのを感じる。
「橙……」
「紫様のお願いばっかり聞いてないで、自分のして欲しいことを、紫様にも伝えていいと思います」
橙と天子が言ったことは、藍がタブーとして自らの禁じていたことだった。
自分は主人と本当の家族になりたかった、だからこそいついかなるときも紫を支えることに徹し、私情を押し殺して紫に支えてきた。自分がなにか言えば、あの不安定な少女が倒れてしまいそうで怖かったから。
例え自分の気持ちが何であろうと、ただ家族として傍に入れればよかった。
だが、それは本当に正しかったのだろうか、それが自分が本当に目指した家族の形だったのだろうか。
橙の寂しい眼に自らの信念を疑念を抱き、その下の本心がわずかに顔を出した。
藍が初めて掘り起こした願いに、唇を噛みしめる。
「待て、天子!」
紫を求めて廊下を行こうとしていた天子を呼び止める。
振り返って睨みつけてくる天子に向かって、藍はヨロヨロと立ち上がりながら睨み返した。
「いいか天子、私は今更自分の生き方を曲げられん! 私はあくまで紫様からの命令を果たすのが最優先だ!」
「こいつ……」
「しかし! 少しだけ、お前に賭けてみよう」
もう一度藍が差し出す、今度は紫を支える者としてでなく、天子と同じく紫の幸福を願うものとして。
「その紫様とお揃いの首飾りを貸せ、ほんの少しだけ助力してやる」
ここに来て急に態度を変えてきた藍に、天子は思わず警戒する。
どうするべきか悩んで、付いてきていた衣玖を見やると、天子を促すように頷いた。
「藍さんは決して紫さんの不利益になるようなことはしません。ならば天子様にも必ずや利になることでしょう」
従者同士でしかわからないことがあるらしく、衣玖は藍を疑っていないようだった。
迷う天子であったが、ここは衣玖の言葉を信じて紫水晶の首飾りに指をかける。
「……壊さないでよ」
外しされた首飾りが、藍の手の平に垂らされた。
紫色の輝きを指でなぞり、石の内側の感触を確かめる。
「なるほど、熱い気質を感じる。紫様とお揃いなだけあってお前の想念が強くこもっているな、これなら術式も機能する」
感心したように呟いた藍が、首飾りを持っていない手を口元に持っていき親指を鋭く噛むと、破れた皮膚から垂れた血を紫色の宝石にこすりつけた。
突然の奇行に天子は驚いて、藍を蹴り飛ばしながら首飾りをひったくった。
「な、なにすんのよ!?」
慌てて宝石が無事か確認しようと掴んだ首飾りを見下ろすと、付着した血は煙を上げて消え失せていく。
ただ宝石を汚したわけではあるまい、何らかの術を施したらしいが、天子にはそれが何なのか皆目見当がつかない。
「天子、もしもの時はその宝石にありったけの気質を込めると良い、生き延びるくらいのことはできるだろう。やり方は緋想の剣と同じだ」
「気質って、どういうことよ」
「私とて、紫様を救うために努力はしていたのさ、その成果の一つだ」
藍は蹴られたお腹を押さえながら、天子が持った首飾りを指差した。
「紫様の根本へ手を伸ばすとなると、必然世界を成り立たせる境界線の隙間を覗き見ることとなる。だが境界の住人と戦いになれば、万が一にも緋想の剣では勝ち目はない」
「……でしょうね」
元々、緋想の剣は境界の隙間から出てきた紫を滅殺しようとして作られた失敗作だ、紫と同じ性質の者が相手となれば通用しないだろう。
「境界の向こう側はいわば世界の裏側、向こう側に気質を適用させるには、その性質を反転させてやる必要がある。首飾りの術式は向こう側の性質に合わせて気質を変換するコンバーターだ、もしもの時に少しは役に立つだろう」
藍の行動の意図は理解したが、事後承諾で強行されたことは納得しきれず、天子は渋々と言った様子で、術式が付与された宝石を首から垂らした。
「紫に免じて、こいつは受け取ってあげる。もうあいつの顔に泥塗るような真似するんじゃないわよ」
そう言って天子は衣玖とともに紫の部屋に進んでいった。
天子が去り、二人きりになると橙が藍に話し掛ける。
「ようやく、わがままを言ってくれましたね」
「お前ほどじゃないがな」
「私くらいが健全なんです!」
うるさいくらいに声を上げる橙の顔は、いつものような元気いっぱいの表情だった。
見慣れた家族の表情に、藍は安堵を感じながらも背を向ける。
「さて、私は使いを頼まれているし行かねばならない。橙、お前はどうする」
「紫様を見届けます」
「そうか。大切な家族が生きるかどうかなのに傍にいられないとは、ロクデナシだったかもな私は」
「そうかもです。でも、心はずっと一緒ですよ?」
否定してくれないことが少し辛かったが、橙はとても心地よい笑顔で藍を見上げてくれた。
家族のそんな顔を見れただけで、自分が一歩踏み出したことが良かったかもしれないと思えた。
「……ありがとう、それじゃあな」
藍は別れを告げて屋敷の外へ出て、空を駆けていく。
金色の尾が星に混ざるのを眺めて、橙も天子の後を追った。
◇ ◆ ◇
広い部屋の中で、荒い息が木霊する。
「ハア、ハア――」
繰り返される剣戟が、襲いかかる黒い手を封ずる。
紫と向かい合った妖夢は、一瞬の油断も許されない中、沸き出てくる境界の住人を抑え続けていた。
汗ばんだ額に張り付く髪の不快さを気にする暇もなく、また一つ伸びてきた暗い手を二刀の剣で切り払った。
繰り出される剣技はそのすべてが全力であり、一振りごとに体力と気力の両方が著しく消耗して行く。
極限の集中の連続が、妖夢を限界へ導きつつあった。
ただじっと堪えるだけの紫も、疲弊していく妖夢を見て焦り始めていた。
このままではそう遠くない内に妖夢は剣を握れなくなる、果たしてその前に彼女が間に合うだろうか。
どうか紫にとっての最悪が訪れないことを祈っていると、開きっぱなしの扉から足音が近づいてきた。
「――――紫!!!」
紫が誰よりも恋い焦がれる天子が、彼女の名前を読んだ。
土足のまま部屋に入ってくる天子を見て、紫は辛い顔をする一方で、どこか安堵を感じていた。
「天子……」
「そうか、幽々子様は……」
妖夢は天子に首だけで振り返り、自分の主人が敗北したことを悟った。
これで幽々子が親友を殺すという業を背負わずに済んだ、しかし恐らくは本気で天子と殺し合いを演じたであろうに、大丈夫なのだろうか。
心配する妖夢であったが、天子の後を浮遊してついてきた衣玖が、こちらの顔色を見るなり笑いかけてきた。
「幽々子さんは無事ですから、安心して大丈夫ですよ」
それを聞き、妖夢は安心して見つめ合う二人の間から身を引いた。握った剣はそのままに、
そして紫は、ここに天子が現れ、声を聞かせてもらったことで、衰弱した精神に力が湧いてくるのを如実に感じ取っていた。
想い人と顔を合わせた、たったそれだけのことで気力が充填し、肉体まで回復していく。
境界を操作する能力もいくらか力を取り戻し、紫の足元から湧いていた闇すらあちら側へ押し返しつつある。
紫と面を向かわせた天子が、抑えられないとばかりに早口でまくし立てた。
「紫、話は全部聞いた。まだるっこしい話は全部抜きにして言うわ、生きてよ!」
「……やっぱり、あなたならそう言うと思った」
いつも前向きらしい彼女の言葉を聞き紫は困った顔をする。
本当に愛おしい、こんな輝きを持つ少女から好意を受けたことが幸せで、同時にとても誇らしく思えた。
「ねえ天子、私は取り戻したの。あなたは私が眠る時、大好きと言ってキスしてくれたわね」
いつのまにか部屋の前に来ていた橙が、衣玖と一緒に「おぉ~」と歓声を上げる。
天子としては小っ恥ずかしくあったが、紫が思い出した記憶について当たりをつけていたこともあり動揺はしてはいない。
「すごく温かい記憶だった、その一瞬だけで生きてきてよかったと思えるくらいに」
紫は緋色エメラルドの首飾りに手を当てて、その時の思い出に浸る。
あの瞬間の紫は、間違いなく幸福だった、全てが報われたと感じていた。
だからこそ、これが失われるのは例え一時のことでも堪えられない。
「ありがとう天子。私も、きっと今までの私もみんな、ずっとあなたを好きだった」
悲しさの上に笑顔の面を被り、精一杯の別れを告げようとした。
だがそんなもの、天子は受け取れない。紫がこんな自分を好きだと言ってくれたのは嬉しい、だがそれなら尚のことこのまま放ってなんかおけない。
何としてでも紫の心を連れ戻そうと天子は前に出る。
「紫、私は――」
――――キイエアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
だが天子の言葉は、いずこから響いた声に遮られた。
甲高い悲鳴が紫の周囲に木霊する、脳に突き刺さる不快さに紫以外の全員が思わず耳を押さえた。
謎の声は呪いを含んで空間を響かせ、肌にビリビリと突き刺さった。
「な、何よこの声……!?」
それは一人のものでもなく、何十人も、何百人もの絶叫が重ねられたような不協和音。
響く声は言葉にもならない悲鳴でしかないが、そこに込められた思念が聞くものの心に伝わってくる。
好き? 好き? 好き?
何故お前だけが手に入れる 何故お前だけが温かい
せめて せめてお前の手に入れたものを我々にも 寄越せ
頭が割れそうな声に耐えながら、橙が紫の足元で蠢いていた闇を見た、この声はあそこから来ている。
橙が元来持つ特殊な眼が、空間のねじれを捉えた。
「これは……まさか、境界が歪んで……!!」
紫の足元で穴が開くように闇が広がり、そこを通じて境界の向こう側からいくつもの手が伸びて来た。
強く強く、空間を超えて現れるものを天子は敏感に感じ取れた。
触れたものを解かして奪い尽くす胃液のように粘っこく、気味の悪い負の思念。初めて感じる種類だが、これは紛れもなく気質の一つの形だった。
声は止まらず響き続け、紫の足元から大勢の何者かが這い出てくる。
境界を超えて現れた無数の手が、紫の身体にまとわりつき、全身を手形で覆い尽くした。
「紫、待ってよ行かないで!?」
「そうか、そういうことだったの。あなたたちは、妬ましいのね」
紫は質量のないはずの闇に、身体を万力のように力で締め上げられながら唱えた言葉も絶叫に飲まれる。
闇に包まれてねじ切れそうな紫を見た天子が、絶えない怨嗟の声を振り払って駆け出す。
だがもはや猶予がないことを悟った紫は、無数の手の平の下から天子ではなく、若い剣士を見ていた。
「妖夢、頼むわ――斬って」
手形の間から覗く唇の動きを見て、妖夢が疾走った。
二刀の剣を構え、縮地により一瞬で紫の背後へ回り込むと、自らの願いを刃に乗せる。
「人鬼一体の二刀にて、今ここに陰陽の境界を成す!」
振り抜かれた陰と陽の刃が紫の背中で交差して、その中心に向かって紫の身体が歪んで引き込まれ始めた。
天子は必死に手を伸ばす。引き伸ばされた意識の中、ゆっくりと空間に飲み込まれる紫を掴もうとして、その胸元の緋い宝石に指先が触れて、だがそこまでだった。
天子の目の前で紫の輪郭が急速に離れていき、触れたはずの首飾りも遠ざかっていく。
最後の言葉を掛ける暇もないまま、真っ黒に歪んだ紫は、散り際の表情すら残すことなくこの世界から完全に消失した。
「紫ぃぃぃいいいいい!!!」
何もない場所を掴み、名前を呼ぶ天子の後ろ姿を、衣玖と橙が息を呑んで見つめる。
天子は衝動的に妖夢の襟元を掴み上げ、至近距離まで顔を近寄らせて問いただした。
「妖夢、あんた何をしたの!?」
「紫様を、強制的に世界の外へ、境界の隙間に退去させました」
妖夢は私情を押さえて、できるだけ淡々と語ろうとする。
しかしいつも世話になっていた紫を自らの手でこの世界から消し、声にわずかな動揺が滲んでいる。
「ならあいつはまた戻ってくるのよね!? 今までだってずっとそうだったんだから!」
「紫様が、これを想定していないとでも思いますか? それでも盤石に、自死の手段を用意している、そういう方です。紫様はもう二度とこちら側には出てこない。もうすぐあの方はあちら側で死ぬんです」
それを聞いた天子が手を離し、妖夢はよろめいて引き下がると二刀の剣を鞘に収める。
愕然と膝を突いた天子は、力なく天井を見つめた。
「紫が、死ぬ…………」
もう何もかも遅かった、紫を助けようにも手の届かないところにまで彼女は行ってしまった。
いきなり死ぬなんて言われても、まるで実感なんて沸かないのに、虚無感が押し寄せてきて涙となって頬をなぞる。
「勝手に私を置いて行かないでよ。大好きなんて言葉一つで、全部納得しないでよ」
身体を震わせ背を丸めた天子が、畳の上に手を押し当て涙をこぼす。
体の奥を突き抜ける感情にまかせて畳の目を引っ掻いて、イグサの付いた指を胸元に寄せる。
「私は、まだ紫に何もしてあげれてない……私の心を救ってくれて、何の恩返しも出来てない……伝えたい事がいっぱいあるのよ! してあげたいことがたくさんあるのよ! もっともっと、遊んだり、笑ったり、泣いたり、怒ったり、だから、だから……」
紫は天子を受け入れてくれた、許してくれた、救ってくれた、護ってくれた。優しく微笑んで、たくさんのものを与えてくれた。
だから天子は、それに見合うだけの喜びを、不幸を補って余りある幸せを返してあげたかったのに。
控えめな紫の笑みを思い浮かべ、彼女の色をした首飾りを掴んだ。
「こんな終わりでいいわけないじゃない、私と一緒にいてよ紫!!!」
顔を振り上げて叫んだその時、胸元で握りしめた手の下から、紫色の炎が燃え上がった。
突然の現象に一同が目を丸くする中、天子が手の内の首飾りを見つめる。
天子の想いを火種とした紫色の篝火が、紫と分け合った宝石から立ち上っていた。
「これは、藍様の部屋で見た……」
橙が時空間に気質を打ち込む装置が、同じ輝きを放っていたことを思い出す。
無論、天子にはこの輝きが何を意味するのかはわからない、だが浮かんでくる直感に導かれ、ありったけの想いを宝石に注ぎ込む。
炎は収束し閃光となり、さっきまで紫がいた場所へ向かって一直線に放たれた。
妖夢は自らが切り結んだ空間において、紫色の光が目に見えぬ壁を歪めるのを驚愕して見ていた。
「そんな馬鹿な……境界を超えるの!?」
空中にわずかな、ほんのわずかな次元な穴が開かれる。
世界の法則を凌駕する光景に、橙の脳裏に藍から語られた言葉がよぎった。
――あらゆる境界を超えて、思いはそこに届く。
天子は宙に浮く虚を燃える瞳で見上げて、緋想の剣を抜いて振りかぶった。
「私を紫のところに届けて、緋想の剣!」
天子の想いで構成された緋色の刃で、開かれた穴を突き刺す。
耳鳴りのような音で応えた剣が、真っ赤に収束して気質を空間に打ち込み、次元の穴を押し広げて天子が通れるだけの扉を作り上げた。
漆黒に通じる穴に天子が入ろうとするのを見て、妖夢が慌てて止めようと駆け寄る。
「待って! 生身で行って帰ってこれる場所じゃ――」
開いた手で天子を掴もうとしたそこに衣玖と橙が飛び込んできて、引き止める妖夢の邪魔をした。
「行って天子、あの人寂しがり屋だから、一人にしちゃ駄目だよ!」
「気持ちは伝えなくちゃ嘘ですよ天子様」
時空の穴は刻一刻と修正され、小さくなっていく。
二人の応援に返す暇もないまま、しかし確かに聞き届けて、意思の籠もった眼差しだけを返した天子は、その穴の中に身を飛び込ませた。
天の少女が音すらなく暗闇に飲まれた直後、扉は閉じて元の空間に戻った。
立ち往生していた妖夢は、信じられないという顔で立ち塞がった二人を見ている。
「衣玖さんだけじゃなく橙まで、これじゃ見殺しと一緒じゃない」
「そうかもしれない、でも境界を超えるなんて、本当は天子だけじゃ無理なこと。紫様もまた会いたいって思うから天子は壁を超えたんだよ。だったら私は、紫様の気持ちを信じる」
妖夢は確かに希望を持って語る橙から理解できないというように視線を切ると、その隣の衣玖を見る。
しかし彼女は口すら開かず、礼儀正しそうに頷くだけだった。
妖夢は彼女たちほど天子に期待できず、顔をしかめたまま部屋の奥で壁を背にして座り込んだ。紫を押さえ込むのに体力を消耗しすぎてもう限界だ。
そこに一連の異変を感じ取ったのだろう、幽々子と萃香がやって来た。
「――紫!」
途中からやってきた彼女たちは、部屋の中を見渡して紫と天子がいないことに気がつくと、部屋の佇む三人へ視線を向ける。
しかし幽々子は自失してそれ以上の声を出せず、代わりに萃香が尋ねた。
「どうなった?」
「向こう側に帰りました。きっともう戻ってきません」
一番高い可能性だけを妖夢が語り、幽々子はその場に崩れ落ちて泣き声を上げ始めた。
「う、うぅぅ……あぁ、紫ぃ……あああぁぁぁ……」
その不憫な姿に、妖夢は表情を歪めて胸を痛める。
だがこれで良かったかもしれない、愛する親友を殺すという業を背負うよりは、無力感に苛まされる方がまだ救いがあると妖夢は思う。
悲しむ想い人を前に、わずかな安堵を感じている自分を、少し恥ずかしくも思った。
「そういえば、天子はどうなったんだ?」
「天子様なら紫さんを追って境界を超えましたよ」
「……マジか!? すごいことしてるなあいつ、本気で紫のやつ連れて戻りそうだな」
「むしろ私はそう確信しますよ。しかし……」
感心する萃香を前にして、衣玖は口元を抑えて考え込む。
「どうかした?」
「先程、とても悪い空気を感じました、二人が戻ってきても一筋縄ではいかないかもしれませんね」
衣玖は紫が記憶を失う原因について詳しく聞いていなかったが、先程紫を引き込んだ黒い影がその元凶なのだろうと予測を付けていた。
あそこから感じたのは壮絶な悪意、あれほどの怨念を前にして、天子が紫を説得すれば解決することなのだろうか。
もしその先があるのなら、天子を更に支えてくれる人が必要かもしれない。
「急用ができました、私はこれでお暇します」
「なんだ、天子を待たないのか?」
「心配ではありますが、ここはあの方を信じてやれることをやります。まあ憎まれっ子世にはばかると言いますし大丈夫でしょう。それではこれで」
そう言うと衣玖は羽衣を翻して部屋から出ていってしまった。
手を振って送り出した萃香に、道士服に傘を背負った橙が話しかけてきた。
「萃香さんはどうします?」
「そうだねぇ……」
萃香はつぶやいて、泣き喚く幽々子の姿に視線を移す。
妖夢が慰めてあげれば良いが、半人半霊はぐったりとしていてそれどころではないようだ。
しょうがないなと亡霊の横で腰を下ろす。
「まあ、ここにいようかな。やることもないしね、天子のことを期待して待つよ」
「それじゃあせめて靴は脱いで下さい! 非常識ですよ」
「お、おう、ごめんね」
言われてみれば緊急事態なので土足で上がってしまっていたことを思い出し、萃香は靴を脱ごうと手にかけた。
だがそばにいた橙の眼孔が大きく開き、ピリピリとした空気を醸しながらさっき天子が消えた空間を睨みつけた。
「どうしたのさ、橙――」
「――来る!」
橙が叫んだ直後、空間が不気味な低音を立てて歪み始めた。
泣いていた幽々子さえも驚いてそちらに目を向け、誰もが息を呑みその光景を見つめる。
部屋の中に開いたねじれた穴の中から、黒い手が伸ばされた。
「歪んだ境界を超えてきた……」
呆然と妖夢が唱え、身体を起こした。
黒い手の根本は固体を保っていられずに、どぷんと粘ついた水飴のように畳の上に落ちる。
得体の知れない存在は苦しそうに酷くもがいて、なんとか歪な人型を作り上げたが、四肢が全て手で出来ているというおかしな形になってしまい、そのまま二本の手を脚として立ち上がる。
影は腕から、胸から、脚から、背中から、無数の目を開き、空間を揺らす産声を上げた。
――――キイエアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
「境界の住人だ」
紫に続く異物が、怨嗟を孕んで顕現した。
◇ ◆ ◇
境界を超えた天子を待っていたのは、虚無の闇だった。
最初は黒く切り替わった視界が晴れるのを期待して待っていたが、いつまで経っても瞳には暗闇しか映らない。
「これは――」
寂しいなんてものじゃない、そんな情念も浮かばないようなただただ黒い世界。
重力もなく、天と地もなく、命もない、あらゆる物質が形作られる原初より更に以前、はるか幾億の未来で生まれる光を待つしかない混沌の闇。
空気があるとも思えないが、とりあえず生命活動に支障はない。もしかしたら境界を超えた時点で、天子自身すら生と死の概念がなくなっているのかもしれない。
ここからどこへ向かえば良いのか、途方に暮れる天子であったが、背中に視線を感じて全身を粟立たせた。
誰だ 誰だ 誰だ
眩しい 眩しい 眩しい!
人だ 人だ 人の子が来た!
境界を超えて 世界を超えてやって来た!
歓迎しよう 歓迎しよう
頂戴 頂戴
我々の知らない光を 命が持つという情熱を
寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ!!!
闇に紛れ、形すら持たない亡者どもが天子の忍び寄り、身体を掴んだ。
頭に響く声と、肌に粘りつく気色悪さだけを感じて、天子は狂乱して叫んだ。
「い、嫌! 近寄らないで!」
緋想の剣を取り出して気質を通すと、形成された刀身が灯りとなり自分の体にまとわりつく黒だけが見えた。
それを振り払おうと我武者羅に剣を振り回すが、刀身には何の手応えもなく空振りするだけ、
焦燥のまま、自らの腕ごと黒い手を切り落とそうと刃を振り下ろしたが、ゴムを叩くような感触だけで攻撃が通じない。
天子は抵抗することもできず、ただ身体の存在が失われていくのを感じた。
「う……が……奪われる……」
声とともに絞り出された熱すらも、闇の中に溶けていく。
身体中の凍える感覚の中、天子はふと藍の言葉を思い出した。
「き、気質……を……」
影がまとわりついた腕を力づくで動かして胸元に伸ばす。
首飾りを力いっぱい握りしめ、宝石に直接自分の気質を叩き込んだ。
すると猛烈な勢いで宝石から紫色の輝きが湧き上がり、洪水のように広がって天子の身体をすっぽりと包み込んだ。
影の手はその紫色の燐光に触れた途端に苦しむように悶えて、溶けるように消えていく。
なんとか一命をとりとめた天子が、自らを囲う紫色の光景を見渡す。
「変な色してるけど、これ本当に気質だわ。藍のやつすごいじゃない……」
自分の周りを滞留して影を撃退したこれは、今までに天子が感じたことのない気質だ、きっと天界の誰もが知らない未知のエネルギーに違いない。
藍の偉業に感心していたが、安心する暇もなく再び影が取り付いてきた。
「うっ、こいつらしつこい!?」
影の手は紫色の気質に阻まれて輪郭から徐々に溶かされながらも、泥の中を這いずるように無理矢理まとった気質の下に潜り込もうとしてくる。
このままここにいるのは拙いと思い逃げ出そうとするが、どこに行けばいい、この世界のどこに安全な場所がある。
迷いながら飛び出そうとした天子の心に、こちらに来て初めて明るい声が響いた。
『――こっちへ! 手を伸ばして!』
天子はハッとして声のした方を見上げる。
「この声は――」
聞き間違えるはずがない、この声は、天子が求める聞き慣れた声。
導かれるままに天子が伸ばした手に、闇の中から白い手が現れて握りしめた。
その瞬間、天子が頭の上から真っ逆さまに落ちるような感覚と共に引っ張られ、あっという間に視界が反転し明るい空間が現れた。
同時に懐かしい重力を感じて青々しい芝生に降り立つ。鼻から吸った空気が強く肺を内側から押し上げて、青一色の空が網膜を叩いた。
だがそんなものが気にならないほどの感動が別にあった。
たった今、天子の手を引いてくれた人者の姿は、紛れもなく天子が求める大切な――
「紫!」
歓喜の声を上げる天子を掴んだまま、紫色のドレスを来た女性が優美に微笑んだ。
「いらっしゃい世界の外側へ。歓迎するわ比那名居天子」
「紫、よかった、また会え……」
だが天子は顔色を変え、握っていた手を振り払って一歩下がる。
首飾りを握りしめ、目の前の女性を睨みつけた。
「いや違う、誰なのあなた」
微笑む女の首元には、天子が渡した首飾りはどこにもなかった。
◇ ◆ ◇
その日もまた、天界は地上で起こっていることなど知らないまま、平穏な時が流れている。
日々の退屈を享受していた比那名居家総領の耳に、衣玖が謁見したいという情報が天女を通して伝わってきた。
夜も深まってきたこの時間になんだろうと思いながらも、総領はいつも天子がお世話になっているのだからと、これを快く迎えた。
客間に招き入れた衣玖を椅子に座らせ、自分も机を挟んで反対側に腰を下ろす。
「何の用かね永江衣玖、いつもと違う様子だが」
衣玖を家に招き入れたのは今日が初めてだ、こちらから会いに行くことはあっても向こうから来てくれることは極めて少ない。
目の前の竜宮の使いはいつもと変わらない様子だが、内心は興味津々で尋ねてみた。
「八雲紫が暴走を開始しました」
告げられた状況は予想を遥かに超えた事態で、比那名居家総領は目を剥いてしばし呆然とした。
あまりにいつもと変わりない様子で言うのだから冗談なのかと思ったが、嘘を言う性格でもないことは総領も知っている。
いきなり突き付けられた事実にうなだれて、重い頭を手で支える。
「……そうか」
紫がきっかけで境界の崩壊すれば、それは世界そのものの破滅につながりかねない話だが、幻想郷にはそのためのカウンターが多数用意されている。
最悪の場合、龍神が幻想郷をまるごと消滅させることですべてを丸く収めるだろう。
総領はあの非道な妖怪がどうなろうと知ったことではないのだが、娘がそれにどれだけ悲しむのかを思えば気が重い。
だが逆に言えばそれだけだ、娘だけでも天界に連れてくれば天子まで死ぬことはあるまい。
「そして天子様は紫さんを追って、境界の隙間に行きました」
しかしそんなものは儚い幻想だと衣玖に切って捨てられた。
「そ、それをお前は止めなかったのか!?」
「ええ、私が言って止まる方でもないですし、せめて見送りました。それに私は天子様が死ぬとは思っていませんよ」
立ち上がって憤る総領に、衣玖が当然のように語る。
「あの方は必ず紫さんを連れて戻ってくるでしょう。しかし何事にも代償はつきもの、その後にこそ真の修羅場があるのではないかと、私は予想しております」
実の父よりもこの竜宮の使いは天子を厚く信頼して、総領は自らの不甲斐なさを見せつけられたように、微妙な心境に顔に苦悩を浮かべた。
母が亡くなった時も決して狂った父を見捨てなかった天子のことだ、むしろそうでなくてはおかしいのかもしれない。
何も言えなくなりただ押し黙っていると、衣玖は静かに改めて問い掛けてきた。
「天子様のところに行かないのですか?」
「今更、私が行ってどうなるというのだ」
戻ってきた天子が更なる苦境に飛び込むのを咎めたところで、アレは恐らく父の話も振り切って自分のしたいようにするだろう、天子の我の強さは家族として十分知っている。
だがそれよりもなによりも。
「私に、父親ぶる資格などもうないよ」
妻がなくなって悲しいのは娘だって同じはずなのに、まるで自分だけが苦しいのかのごとく喚き散らし、あまつさえ娘の優しさに甘えて暴力を振るう。
父として最低の行為をしてきた自分が、天子に父親らしい言葉を掛ける資格はない。
「……確かに、父親に資格というものがあるのなら、失礼ながら総領様はすでにそれを失っていることでしょう」
容赦ない言葉が総領のプライドを穿たれ、弱気になった父は反論もできずに頭を垂れる。
「しかし資格があろうとなかろうと、後ろ指をさされ罵られることになっても、出来る限りのことを娘にしてやる、それが父親というものではないですか?」
それを聞き、天子の父親は天啓を受けたような面持ちで顔を上げた。
いや、教えられたというよりも、思い出を掘り起こされたと言うべきか。
懐かしい記憶、まだ人間として地上に合った頃、同じことを自分で唱えたことがあった。
「……ははは、言ってくれるな永江の」
体の芯で燃え上がってくる意識がある。
遠い千二百年以上もの昔にも、この情熱に身を任せていた気がする。
「私にもな、父親としてやれることをやろうと燃えていたことがあったんだ」
「はい」
「資格がなくとも、やれることは残っているんだろうか」
「ありますとも、必ず」
その時の良き父親たらんと奮闘していた気持ちが、まだ彼のうちで生きていた。
そこでふと思い出した、昔は自分が道を間違えると、いつも妻が叱ってくれていたことを。
元より自分は親として優秀ではなかった、傲慢で短期で、すぐに小さい地子を怖がらせていた、それなのに娘との仲が悪くなかったのが、妻が間に入って取り持ってくれていたからだった。
でももうその妻はもういない、目の前の妖怪だって天子の為に助言してくれることはあっても、妻のように家族全体を包むほど親身になって叱ってくれはしない、もう誰にもその役割を求めることは出来ない。
自分はその助けが無い中で頑張っていくしかないのだと、今更気づいた。
「よし……殴られる覚悟で、やってみようか」
長い時間を掛けて、父親はようやく妻の死を受け入れ、無意識のうちに妻を求めて弱気になっていた心に喝を入れる。
過去の頑張っていた頃の自分に背中を押され、総領は重い腰を上げた。
◇ ◆ ◇
「いや違う、誰なのあなた」
鋭い質問を放たれた女は、天子から敵意を受け警戒されても表情を崩さずに、優美に佇んでいる。
「あなたの質問に答えてあげてもいいけど、それよりもまずあなたは大丈夫? 意識ははっきりしてるかしら、自分が誰かはわかる?」
紫と同じ顔の何者かが、人を煙に巻くような胡散臭い表情で質問をかぶせてきた。
一応は心配してくれてるらしい言葉を前に、天子は気を緩めないまま頷いた。
「……特に、問題はないわ」
「そう、それじゃあ……お話をする前に、雰囲気に合ったものでも作りましょうか」
そう言って女性は手袋をはめた手を叩くと、芝生の上に洋風の白いテーブルと、向かい合って置かれた二つの椅子が現れた。
紫はよくスキマから色んな物を呼び出していたが、今のは呼び出したというよりも無から物質を作り出していた。
テーブルの上にはティーカップとポッドが並べられており、驚く天子の前で女性は椅子に腰を下ろしてポッドを手に取り、カップに紅茶を注ぐ。
「座って頂戴、お茶くらいは出せるわ。もっとも記憶から再現しただけのものだから味は保証しかねるけど」
迷った天子が時間を掛けて椅子に座ると、女性は嬉しそうに笑みを深める。
紫に似た女はあからさまに怪しいが、とにかく天子には情報が足りない。危険かもしれないが話を聞き出す必要がある。
注意を向けたまま天子はティーカップを手にとって紅茶を口にすると、舌先から感じた強い苦味に軽くむせこんだ。
「何よこれ、味だけ緑茶じゃない!? それに超ニガッ!」
「えっ?」
女性が紫の顔で呆気にとられた表情をすると、自分のカップを手にとってお茶を口に含み、舌の上で転がして味を確かめる。
だが腑に落ちない様子でカップを置いて、残念そうに溜息を漏らした。
「うぅん、駄目ね、味の基準なんてよくわからないわ。記憶を頼りに再現しただけじゃ無理があったわね」
「なんなのよこれ、毒じゃないでしょうね」
「体に害は無いはずよ、多分ね」
余計な一言に天子が嫌な顔をするのに、女性は気にせず言葉を続ける。
「ここは境界の隙間に私が作り上げた領域。世界が生まれる以前の無限の闇には、同時に無限の可能性が内包されている。この天も大地も椅子もお茶も、私がそこから取り出してみたの、失敗したけど」
言っていることは天子にも曖昧にだが理解できた。改めて空をみあげてみると、まるでペンキを塗りたくったような不条理な青一色だ。
これが無理矢理作ったものだとすれば、その不自然さにも納得がいった。
しかし、それだけの権能を持っているとなると紫以上の存在だ、ますます目の前の女性が何者なのかわからなくなる。
組んだ手に顎を乗せ笑いかけてくる女性に向かって、天子は視線を乱さずに問いかけた。
「あんたは、紫なの?」
「ふふふ、まっすぐ本質をつく質問ね。私に残った記憶の通りだわ」
天子の質問に、女性はご満悦そうにころころと笑う。
「私は紫であって紫でない者。八雲紫が今まで生きるまでに得た思い出の残り滓よ」
「……もっと正確に答えなさいよ、意味分かんないわ」
「そうね、それはいいけど……今はそれよりその首飾りが気になるわ」
「あんたまで? 渡さないわよ、紫のは別にあるんだから」
天子は紫水晶の首飾りを手で覆い、隠すように身を捩る。
しかし女性は手の上からでも宝石が見えるかのように、天子の胸元を見つめてくる。
「その宝石には特殊な術式が掛けられているわね、これを付与したのは藍かしら」
「藍を知ってるの?」
「もちろん、紫に関することはすべて知っていますとも。なるほど気質のコンバーターね、気質をこの世界の裏側に合わせて反転させる術式。小規模ながら、緋想の剣の一歩先を行った秘術か」
女性は見ただけで首飾りに掛けられた術式が何なのかピタリと言い当てた。
「天界の者たちが永い時間をかけてとうとう成し得なかったというのに、私の協力があったのは確かだけど、藍の執念も本物ね。八雲紫は、幸せものだわ」
女性は手を膝の上において佇まいを正すと、改めて天子に向かう。ようやく色々なことを話す気になったようだ。
「さて、私が拾った記憶が確かなら、あなたは何度か八雲紫が闇に沈んでこちら側に帰るのを目にしているわね。そして八雲紫が記憶を失うのを知っている。でも、何で私が闇に沈んでこちら側に来ないといけなかったかわかる?」
「……いや、知らないわ」
気になるワードが散見されたが、とりあえず天子は答える。今はその原因のほうが気になった。
紫もそれは教えてくれなかった、というよりも本人でさえ知らなかった。あの大好きな紫を苦しませた元凶がなんなのか、それを見極めることは重要だ。
「元々八雲紫という存在はね、こちら側で誕生した存在なのよ。この境界の隙間の中で言えば、神と言われるにふさわしい存在でしょう、もっともその概念すらこちらにはないけど」
紫が神とは大それた話だと天子は思ったが、それだけの力がなければ単独で境界を超えることなどできないのかもしれない。
「八雲紫は強力な存在だったけど、この闇の中ではその心は満たされなかった。だから持ち前の境界操作で世界の境界を捻じ曲げてそちら側に顕現した、自分に近しい存在である妖怪という枠組みに自分を当てはめてね」
「まあ、何もないこんな場所じゃ誰でも嫌よね」
自分だって耐えられないだろう、今いる場所はまだマシだが、さっきのような恨めしい声しか無い闇の中に一人でいれば一晩で発狂する自信がある。
「そうやってそちらの世界に定着した紫だけど、本来は世界から見て異物な存在である以上は何らかの影響で境界を歪めて、世界を崩壊させてしまう、それを鎮めるために定期的に自分の身を境界の隙間に差し出す必要があった」
「紫の存在自体が、境界を歪めるってこと?」
「半分正解で半分間違い。確かに紫は自分の意思にかかわらず境界を歪める可能性もあるけど、本当はそっとしておく分には何の問題もないはずなの。だけどそれを捻じ曲げて歪めるものがある」
件の原因に差し掛かり天子が背を伸ばす。
緊張する天子の前で、謎の女性はぽつりとたった一つだけ呟いた。
「怨念よ」
先程、紫の家で聞いた悲鳴を思い出し、天子は息を呑みこんだ。
「想いはあらゆる境界を超えて届く、それは負の思念も同じこと。この世界の隙間には紫の他にも住人は存在する、そして彼らはみんな光ある世界に焦がれてる、だから一人だけ抜け駆けする八雲紫の存在が許せないのね。妬ましくって恨めしくって、その怨念が八雲紫の存在をもう一度こちらに引きずり込もうとする。八雲紫自身も無意識下に境界を正して自衛しているけど、それが続けば段々と能力が疲弊して一度こちらに帰還して身を癒やさないといけなくなる。そうして戻ってきた羨ましい八雲紫が向こう側で過ごした証、つまりは記憶を怨念がズタズタに引き裂いて奪い去ってしまう。それが記憶を失う原因」
「何よ……何よそれそんなの!」
明かされた真実に、天子は机を叩いて立ち上がった。
押し出された椅子が草むらの上に倒れ込み、端から粒となって消えていく。
女性が机を挟んで舐るように見つめてくる前で、天子は不条理に怒りを吐き捨てた。
「紫は何も悪くないじゃない! それなのに何でそんな……!!」
「悪いか、で言えばそもそも境界を超えたこと自体が悪いけどね」
「だからって!」
確かに紫のしたことは迷惑かもしれないが、それは天子たちの世界に住む者の話で、この世界の隙間には関係ない話ではないか。
ただの逆恨みで、今まで紫が辛い思いをしてきたことが許せず、天子は紅茶に波紋が過ぎるのを見つめながら、激情に拳を震わせる。
「私はね、その時に引き裂かれた八雲紫の記憶達が、長い時間をかけてお互いに引き合って、集まって、出来上がった、記憶情報の影……いや、むしろ光かしらね」
そして女性の正体を聞かされ、天子は驚いて顔を上げた。
「……ただの情報が、そんなことできるの?」
「物だけじゃなく情報にだって想いは残るわ。記憶に残留した想念が少しずつお互いを引き寄せあって集まって、ある程度大きなものになれば自立思考をするくらいにはなる。幽霊みたいなものと考えてちょうだい、オリジナルほどの力もなくて、この狭い空間でしか自由が効かない非力な存在よ」
天子は女性の姿に合点がいった、確かにそれならば紫の姿形をしていることが正しいだろう。
彼女は本物の紫でないものの、間違いなく八雲紫でもあるのだ。
同時に確信する、目の前にいる紫はきっと自分の味方だ。
「……だいたいの状況はわかった」
情報をまとめ、結論を出した天子は背筋を伸ばし、椅子に座った紫を見つめる。
「あんたも紫だっていうのなら、一緒に行きましょうよ! それで本物の紫も助けてここを出るわよ!!」
勇ましい言葉に、記憶から生まれた残光の紫はふっと笑いをこぼした。
「そう、私までか」
「当たり前でしょ、紫は紫じゃない。記憶がどうとか関係ない」
紫がもう一人いるなら別にいいじゃないかと、天子は軽い考えでいた、本物の紫は気味悪がるかもしれないが二人まとめて抱きしめてあげればいい。
「だけどあなたに八雲紫を助けるのは無理よ、方法なんて思いつく?」
「それは……」
「あなたにできるのは、精々八雲紫が記憶を奪われるその瞬間を見守るだけ、それも一度でなく彼女がそちら側で生きつづけるかぎりずっと。そんな残酷なことを見過ごして、それでも生きろなんて傲慢なことを彼女に言うの?」
現実を指摘され言葉が詰まる。
紫のために天子ができることは本当になにもないのだ。
できることはむしろ助けることの逆、紫を不幸にすることだけ。だがそれでも――
「……言うわ、傲慢でもなんでも、死んじゃったら本当に終わりじゃない。紫の苦しみは私にはわかってあげられないけど、死に逃げなんて一番悲しいことさせられない」
「八雲紫に恨まれるかもしれないよ」
「――――!」
冷酷な物言いを、まるで脳を金槌で叩きつけてきたように感じた。
眩む頭で紫のことを考える。優しく許してくれた紫、気遣って何度も会いに来てくれた紫、遊んでくれた紫、自分のことを抱き締めてくれた紫。
恨まれたならそれらがすべて失われてしまうかもしれない、紫の胸から感じたあの温かさが永久に遠ざかってしまう。
思わず叫びたくなるような哀愁だった、紫に会って幻想郷で得たすべての幸福が闇に包まれるようだった。
もし紫の心が離れれば、再び手にした幸福など一つもこの手に残らないだろう。幻想郷を作った紫に恨まれれば、もう自分の心はあの場所を楽しむことなど出来なくなる。
凄まじい苦痛が頭を締め付け、目をぎゅっとつむり、そして開く。
「それでも構わない、それで済むんなら喜んで恨まれてやる」
「………………」
残光の紫は何も言わない。
口を閉じたまま天子を見つめて話を聞いている。
試すような無表情に、天子は一歩も引くことなく自らの意思を言い切った。
「紫が苦しむっていうのなら、何の心配もなく幸せに生きられる方法をいつか作る。何百年かかっても見つけてみせる、その時まで紫には不幸に耐えてもらう」
口に出してみればなんとも酷い話だ。無責任で紫の気持ちをちっとも考えてあげられていない。
これが自分にできる限界だ、それを認めそれを行うと言った、なんて冷血な肉袋なのだと、天子は自己嫌悪で紫より先に死んでしまいそうな気持ちだった。
だがそれを見ていた残光の紫は違った。
「極光……ね」
呟いた彼女の顔が悲しみなのか嬉しさなのか、天子にはわからなかった。
「卑屈な私とは正反対。不幸を踏破してでも幸せを追い求める、そんな光の塊のようなあなただから、八雲紫は惹かれたのね」
そう言って残光の紫は机に手をつくた、ドレスを揺らして立ち上がった。
「良いわ、それだけの覚悟があるなら言っても止まらないでしょうし、少しだけ協力してあげる。まずはアドバイス、八雲紫を見つけるには想いを辿りなさい。ここは方角も距離も存在しない世界、闇雲に探しても見つからない。けれど八雲紫はどんな時でも心の何処かであなたの光を求めているわ。そのお揃いのペンダントが道標となるでしょう」
「これが……」
天子が首飾りを手にとって眺める。
元々は衣玖の提案で送った気持ちが、ここにきて意味を持ち始めてきた。
「でもこの世界であなたの存在は脆弱過ぎる、一人では死ぬだけだわ。もうすぐここにある人物が来るでしょう、彼女を説得して協力してもらいなさい」
「彼女? 誰なのそれ」
「会えばわかるわ、あなたもよく知る人よ」
残光の紫は曖昧のまま答えてくれなかったが、こんな場所に誰が来るという事実だけで天子はとても驚いていた。
自分だって死に物狂いでここまで来て、実際死にかけたと言うのに、協力者に足るその人物とは何者なのだろうか。
「そして良いものをあげるわ。これから渡すものは単体ではあまり意味が無いでしょうけど、もしかしたら役に立つかもしれない」
最後の残光の紫が自らの胸に手を当てる。
その挙動に何故か天子は嫌な予感が走った。
「紫……何をする気?」
「言ったでしょう、私は幽霊みたいなものだと」
そう言って紫は、自らの胸をえぐり、手を突き刺した。
手首まで胸に埋まる光景を見て、天子は絶句しすぐには言葉を紡げなかった。
「記憶の集合であるこの身体は想念の塊、その全てを純粋な気質に変える」
「気質って、そんなことしたらあんたは!?」
それはつまり、残光の紫自身をエネルギーそのものに変換するということだった。
当然、そんなことをすれば残光の紫は自らの存在は薪として燃え尽きてしまう。
「いいのよ、どうせ私は何も生み出せない記憶の残り滓。八雲紫ならどう振る舞うか、それを演じているだけで願いもないただの人形に過ぎない。そのくせ容量だけ大き過ぎて、私というメモリーを八雲紫に書き込もうとすれば心が耐えられない、せめて気質として活用するくらいが関の山。辛うじて発揮できる能力も、この前ほとんど消費してしまった」
「何も出来なくたっていいじゃない、消えなくたっていいでしょ!」
その暴挙を止めようと天子したが、机を押しのけて紫の腕を握り、引き抜こうとした。
しかし二人のあいだに結界が敷かれ、天子は弾き飛ばされ、草むらの上に尻餅をついて倒れ込んだ。
「思い出でしかない私に願いなんてないんだもの、そんなのがいても邪魔なだけよ」
「嘘よ! あんたも幸せになりたいんじゃないの!?」
残光の紫に、身体の端から紫色の炎が燃え上がり始める。
身を灼かれながらも淡々と語る紫に、天子は食らいついた。
「私を助けてくれたのはどうして!? 色々教えてくれたのはどうして!? それを果たさないまま消えるなんて言わないでよ!」
それを聞き、紫は何かに気付いて息を呑むと、優しい目をして深く息を吐く。
「そうね……私にも願いはあった、でもそれももう叶った」
何もない場所で、ただ散り散りになった記憶を集め続けてきた残光の紫は、未来になんの期待もしていなかった。
本物の紫が記憶を失う繰り返しを憂いながらも、解決できないこと諦めて傍観していた。
だがある日、非常に強い力を持った記憶が現れた。それは引き裂かれ大部分の情報を奪われながらも、凄まじい執念で隙間に住まう者たちの魔の手から逃げ延び、独力で残光の紫の元へ辿り着いた。
『この記憶は――絶対に――失くしては、いけないものなの――!!』
必死に語るその記憶にわずかな可能性を感じ、残光の紫は溜め込んだ力を開放して境界の向こう側へ送り出した。
自分から何かをしようなどと彼女には初めてだった、自分から前に進んで歩く新鮮な感覚に気分を高揚させた。
長きに渡って停滞したいた自らを動かしたきっかけは、他の誰でもない天子だ。
だから残光の紫は実際にこの目で彼女を見て、声を聞いてみたかった、それが初めて生まれた願いだった。
そして出会った彼女は拾い上げた記憶に映った通り素敵な女の子で、そんな輝かしい彼女が自分にも手を差し出してくれたことは幸福だと思った。
「記憶の死と再生の旅、その果てに会えたのが貴女でよかった」
「果てじゃない、まだ行ける!!」
「いいや行かない、行く必要もない」
ずっと喪失された記憶を集め続けながら、八雲紫本人を不思議がっていた。
何故あんなにも辛い思いをしながら、それでも境界を超えてあちらへ行こうとするのか。
異物だと危険視され、やっと掴んだ幸せな思い出もすぐに失ってしまうのに。
だが今ならわかる、きっと八雲紫は、彼女――天子みたいな人に会うために境界を超えたのだ。
「あなたみたいな素敵な人に出会えて私は幸せだった、それだけでもう十分過ぎだわ」
「何で、あんたはそんな……自分勝手なのよ……!」
天子がただの情報の塊にすぎない自分にも泣いてくれている。
申し訳ないが、彼女の涙がとても嬉しい、今まで何もできなかった自分の存在にも意味はあったのだ。
紫色の炎は全身を包むほど大きくなり、同時に二人の周囲から色が失われ始めた。
残光の紫の消滅とともに、彼女が作ったものも維持できなくなる。テーブルは上に乗った紅茶ごと掻き消えて、空の青さも、草むらの緑も溶け始めて行き、その下から白い空間だけが現れた。
真っ白になった世界の中で、残光の紫はそっと呟く。
「せめてどうか最後に……八雲紫に、あのいたいけな少女に、あなたとの縁が残り続けますように」
「――約束する、私は絶対、紫から離れないから、だから」
天子の涙に、かつての紫は願いをかける。
頼もしい返答だ、いつまでも傍に寄り添って支えてくれる天子の姿がありありと目に浮かぶ。
きっと天子は、紫にまつわるあらゆる闇を払い退け、導いてくれるのだろう。
笑いかけてくれるいつかの光景を夢見て、残光の紫は胸の奥が温かくなり、顔が綻ぶのを感じた。
ああ、これが愛しいと言う気持ちなのだろう。
残光が炎となって消える、その最後の瞬間を、笑顔で締めくくって。
燃え滓の後には、紫色の霧だけが残った。
天子は目の前に浮かぶその燐光を放つ霧の灯りを見て、紫であって紫でない者たちへ感謝の言葉を掛けた。
「……ありがとう、紫」
涙で濡れた目元を拭い、手をかざして渾身の力で要石を作り出した。
全高およそ50cmの要石、戦闘で用いるには平均的なサイズだが、込めた力は何十倍もの密度だ。
はち切れそうな重さを堅牢な外郭で押さえ込む要石は宙に浮かぶ一つの大地、それを紫色の灯りに押し込んだ。
紫色の気質の粒は要石の中に浸透していき、やんわりとした燐光を放ちながらも要石に定着した。
初めて会ったかけがえのない友人からの、大切な贈り物だった。
「……紫を探さないと」
複雑な感情を噛みしめる暇などない、元々天子はそのためにこちら側に来たのだ。
しかし空っぽになったこの白い領域からどうやって出ればいい、あの暗黒の中に踏み入れればまた影達が天子の存在を奪いにかかってくる。
「――藍が予想したとおり、本当にあんたがここに来たのね」
悩んでいた天子の背後から、何者かが話しかけてきた。
「勘で飛んできたけど、紫より先にあんたと会うなんて、どういうことなのかしら」
天子が目を丸くして振り向いた先で、紅白の袖が揺れる。
「霊夢……!!」
お祓い棒を持った幻想郷の素敵な巫女が、陰陽玉を両脇に従えて、空を飛んで現れた。
◇ ◆ ◇
夜遅くに紫に叩き起こされた霊夢は、すぐに完全武装して幻想郷を見て回り、異常が見受けられないまま、博麗神社で待機し続けていた。
柱を背に座ったまま仮眠を取りながら、紫からの連絡を待っていた彼女に訪れたのは、藍から告げられた事実だった。
紫の存在が限界に達したことを知り、藍に連れられて急ぎ紫の家へ向かっていたのだが、その途中で紫が境界の隙間に転移したことを藍がすぐ気付き、それを伝えられた霊夢は単身境界を超えて、世界の裏側に到達した。
そして勘に従って闇の中を飛び回り、天子の元へとたどり着いたのだ。
「で、何であんたがここにいるの」
霊夢からの質問に、天子はどう答えればいいか戸惑った。
返答を先延ばしにし、困惑する頭で状況を推察する。
何故ここに霊夢がという疑問はすぐに答えが出た。
紫が用意した自身に対するカウンター、今回の事態を収束させるために呼び出された『紫を殺しうる存在』こそが彼女に違いない。
残光の紫は彼女と協力しろと言っていた、だが霊夢と協力なんてできるのかと天子は不安と恐怖が渦巻いた。
博麗の巫女の性質は天子も知っている、規律を重んじるというよりも、規律そのものが生を持ったような人間だ。
何も起こっていない時は無欲で怠惰な人間に過ぎないが、こと異常が発生すれば誰よりも冷静に冷酷に、あらゆる私情を殺して幻想郷の守護のために動く。
霊夢の目的は間違いなく紫の抹殺、それなのに紫を助けて欲しいなどと言ったところで素直に手伝ってくれるはずがない。
「――――ぁ」
天子は一言目を迷い、乾いた喉から霞んだ声が絞り出される。
説得は難しい、だがやらなければならない、紫を助けるために霊夢の助けが絶対に必要だ。
霊夢は単独で境界を超えこの境界の隙間に足を踏み入れ、誰の助けもなく天子のもとにたどり着いたのだ。
つまりはこの世界でも霊夢は普通に活動できるのだ、対して天子は自衛で精一杯でこちら側では大した戦力にはならない。
何としてでも霊夢を説き伏せなければならない、どんな対価でも支払う覚悟で天子は口を開いた。
「紫を助けたいの! 協力して!」
「いいわよ」
霊夢は短く応えて来た方へを振り向いた。
「……は?」
あまりにもあっさりとした返答に、天子は言葉を失った。
「……えっ、いいの!? 本当に!?」
「何よ、手伝うって言ったじゃない」
「いや、そうだけど……」
霊夢がこちらを騙しているとは思えないが、彼女とでは目的が違うはずだ。
天子は紫を助けたいと思っているが、霊夢はただ紫を殺せれば幻想郷の守護という目標を達成するだろう。
それなのに何故、紫を助けたいという確実性のない天子の願いに、迷う素振りもなく協力してくれるのか。
「あんたは紫を殺すためにこっちに来たんだと思ってた」
「そのつもりだったわ」
「ならどうして」
霊夢が自分に協力してくれるのは道理に合わないと、天子は尋ねる。
すると巫女はそっぽを向いたまま、短く呟いた。
「私にも欲しいものがあるのよ」
妙に決意めいた霊夢の表情が何を意味するのか、天子には計り知れなかった。
「さあ行くわよ、時間はそうない。まずは紫を探さないと、あんたはあいつがどこかわかる?」
「う、うん、多分なんとかできると思う」
天子が胸の宝石を指で摘み、そこから感じるものを意識する。
「紫が私を求めてくれているなら、きっと私を導いてくれるはず」
すべての決着が付いた時に、自分たちの関係がどうなるかはわからない。
けれど今は紫との間にある繋がりを信じた。
◇ ◆ ◇
世界の裏側の片隅で、暗闇の中に浮かぶ紫色の球体があった。
その球体は複数の結界によって形成されており、いくつにも重ねられた薄明かりの幕の中で、八雲紫は身体を縮こまらせて周りを見る。
幕の外側に続く無限の暗闇から、形を持たぬ亡者たちが手の平を叩きつけてくるのが彼女の眼に映った。
「暗い場所ね、ここは……」
彼女を包むのは八重結界。それは四重結界を超える無数の境界で形作られた最高の結界だ。
紫が単身で出せる力の限界、持ちうる限りを振り絞った結界が、蠢く影から術者を守っていた。
だが永遠にこのままではない、強固な結界も時間とともにすり減り、いずれは消滅して記憶を奪われる。
その前に、紫は殺されなければならない。
無意識の内に首飾りを握り込み、赤子のように身体を丸めて細い声を漏らした。
「大丈夫よ、彼女はきっと来るはず……早く来て霊夢……」
博麗家は、元を辿れば遥か昔に天界を作った者たちの血筋だ。
ただし彼女たちの家系は天界との関係を絶ち、子を生んで能力の継承を繰り返し、先祖代々能力を磨いてきた。
そして幾星霜の時を経て、霊夢より数代前の博麗の巫女はあらゆる境界を超える能力者として完成したのだ。
だが博麗の血筋はスキマ妖怪を倒すこと、それ以外に生き方を知らなかった。
力を追い求めている間は良かった、しかしかの妖怪を倒してしまったらこれからどうすればよいのだろう。天界からも忘れ去られ、空に浮き地に足つけない我らがこれからどこに往けばよいのかと、完成された巫女は嘆いた。
そこで紫は巫女に取引を持ちかけた。幻想郷において博麗の巫女が役割を持つ規律を作る、あなたたちはその中で生きればいい。
その規律には何かあった際に自分を倒す安全装置としての使命も盛り込めば、先祖の悲願も裏切らずいつか果たせる。
当時の巫女はこの取引に乗り、幻想郷の守護者と成った。
彼女たちにとって幻想郷の規律は唯一のアイデンティティであり、生きる理由であり、命の意味はそこに集約される。
だから博麗の巫女にとって規律は絶対だ、必ずその使命に乗っ取り紫を抹殺しに来てくれるはずなのだ。
不安に怯えながら待ち続けた紫が、暗闇の果てに清涼な気を感じて立ち上がった。
「霊夢! 来てくれたのね」
目を凝らして結界の外を見つめると、這いずる手の隙間から闇を疾走する人影が見えた。
希望を得て表情を明るくした紫だったが、霊夢のそばにいる人物に気付き愕然とした。
「どうして、天子が……!?」
◇ ◆ ◇
何も見えない空を天子は要石に乗って駆ける。
太陽もない世界であったが、要石と首飾りから立ち上る紫色の気質が天子を護り、隣を行く霊夢の姿を淡く照らし出してくれていた。
お陰で天子は孤独に取り込まれることなく、他者を通じて自らの存在をはっきりと認識し自我を保つことが出来ている。
「本当にあんたの行く方に紫がいるのね」
「うん、こっちから引っ張られるような感覚がある!」
根拠のないおぼろげな感覚に沿って飛ぶ天子であったが、事実として彼女は紫へ向かってまっすぐ突き進んでいた。
ふと天子がチラリと横に視線を向けた先を、いくつもの針が過ぎ去って闇に潜む何者かを蹴散らす。
「前だけ見てなさい、雑魚は私がやるわ」
「う、うん、頼んだわよ!」
霊夢は戦っているらしいが天子には何が何だか分からない。闇の中に何者がいようと触れられない限り天子はそこに何がいるのか見えもしないし、倒された何者かの断末魔も聞こえない
だが視認できないだけだ。見えない敵に怯みながら進む天子の後ろから、霊夢が四方八方に針や札をばら撒き、確実に何かを葬っていくのを確かに感じる。
もし天子が特殊な眼を持っていれば見えただろう、怨霊よりも禍々しい心さえ保てないなりそこない共が、何百と群がり返り討ちにあう戦場を。
浴びせられる呪いを御札が祓い退け、顎のようにその身を開いて天子を覆おうとするハラワタを針が突き穿つ。
飛び掛ってくる者のことごとくがお祓い棒に叩き伏せられ、無惨な悲鳴すら誰にも伝えられないままその存在ごと消失する。
本気になった博麗の巫女は、境界を超えるという意識すらない。
あらゆる障害と重力を無視して、世界の壁すら超越し渡り切る。
本来見えないはずのものも当たり前のように知覚し、倒せないはずの存在を当たり前のように倒す。
人の身でありながら、万能すら超える。
どんな法則をも振り切って、自由に空を飛ぶ者。
「これが、博麗の巫女――」
針、札、陰陽玉、それらを介し辺りを埋め尽くして結界のように覆う巫女の霊力に、天子は戦慄した。
――争うことにならず済んでよかった、敵対すれば絶対に勝てない。
「いたわ、紫よ」
「えっ、どこ!?」
霊夢に言われて天子も闇の中で目を凝らし、しばらくじっと見つめていると紫色の灯りがあることに気が付いた。
視認に時間がかかった理由は、それの表面を黒い何か這いずり回り、紫の結界を覆い尽くしていたからだった。
「私も見えた!」
「すでに囲まれてるわね」
「霊夢は退いてて、ここは私がやる!」
敵が見えているなら話が早い。
天子は刀身のない緋想の剣を柄だけで構えると、足元の要石に溜めた気質を吸い上げる。
藍の術式で性質を変換する必要はない、これは元からこの世界のあり方に沿った気質だ。
作り上げられたのは紫色の刃、その色合いは妖美で天子が生きてきた世界とは違う理の上での灯火であったが、しかし不安は感じない。
「昔いた紫達、力を貸して」
紫が与えてきてくれた力に、迷うことなどない。
「全人類の緋想天、改め――全妖怪の非想天!」
開放した気質が闇の中に広がっていく。
洪水のように押し寄せる光の波がそこにいた何者かを暴き出し、根こそぎ飲み込んでいく。
荒れ狂う気質は八重結界の表面を覆っていた影の住人を消し飛ばしていくのを見て、紫は目を見張る。
「何なのこの力、こんなの使って天子は大丈夫なの!?」
どうやってこのような性質の気質を操ったのか紫にはわからないが、こんなもの天子が本来は発揮できないはずの力だ。
紫が心配する視線の先で、天子は気質を放ちながら焦った表情で喚いていた。
「ちょっ、もういいわよ、止まって止まって!」
剣から放出する気質が止まらない、天子がいつも使っている気質とはまるで性質が違うせいだ。このままでは紫の結界まで圧し潰しかねない。
慌てて緋想の剣への気質の供給を止めて気質を使い切ったが、剣からバチリと音を立って紫電が奔った。
手から伝わってきた痺れが脳を刺し、天子は急に表情を歪めた。
「ぐっ……!」
瞬間的に耳鳴りがして、頭の中が真っ白になる。
圧縮された情報が頭痛と共に流れ込んできて、思考の空白に見たことない光景を幻視した。
――枯れたように全ての花が散った桜の樹の下で、呆然とへたり込んでいる幽々子を見ている記憶。
涙で視界をにじませながら、自分はただ一心に唱えていた。
『ごめんなさい、ごめんなさい――ごめんなさい――』
意識が戻ってきて、再び視覚が漆黒に塗りつぶされる。
瞳孔を開き、苦しそうに胸を押さえる天子を見て、霊夢が声を掛けてくる。
「あんた、大丈夫なの」
「……このくらい、なんともないわよ」
今のが映った光景が何なのか、すぐにわかった。
情報に詰まった感情が、天子の心を悲しみの渦中へと引きずり込む。
だがここまできて立ち止まっていられない、辛いとわかりきった紫の過去など何するものぞと天子は己を奮い立たせた。
そんなことよりも道は拓けた。
天子は露わになった八重結界に近づく、その後ろで霊夢が振り返って武器を構えた。
「ここは私が押さえる、紫にはあんたが話をつけなさい」
霊夢には紫に付き纏っていた影が気質に駆逐された後も、再び押し寄せてくるのが見えていた。
お祓い棒を構えながら、空いた手で御札と針を挟み込み、敵意に向けて投げ放つ。
天子は霊夢へ感謝の気持ちを浮かべて頷くと、要石から飛び降りて結界の幕を手で叩き、中にいた人物と見つめ合った。
「紫!!」
「天子……」
名前を交わし、紫は宝石の上から胸を押さえる。
愛しい姿を見て自らの恐怖が浮き彫りになる一方、ここまで来てくれたことに嬉しさを感じてしまう。
しかしその事実を胸の奥に隠して、紫は天子に怒鳴りつけた。
「おバカ! こんなとこまで何をしに来たの帰りなさい!」
「あんたを助けに来たに決まってるでしょこの馬鹿ちんが!」
怯まず怒鳴り返してくる天子の思いやりが怖くて、紫は結界の中心で膝を抱えて身を丸めた。
「もうやめて、私はもう疲れたの。どうかずっと眠らせて」
「そんな寝ぼけたこと言ってんじゃないわよ! 私と一緒に帰るわよ!」
きっと正しいのは天子なのだろう。自分勝手なのは己だと、紫にもわかっている。
だがそれでも弱った心に天子の明るさは眩しすぎて、眼を開けていられなかった。
「帰ってどうなるの、また私は記憶奪われ、そのたびに自分を喪う。何度も殺されるようなものなのよ、そんな生き地獄を永遠に味わえというの」
記憶を喪った時の恐怖が思い起こされ、紫は震える。
あの絶望感をもう一度味わうと言われただけでも、心が粉々に砕けそうだった。
「殺して……このまま私以外の誰にもならないまま終わらせて……」
暗闇の中で紫が心を閉じる。
この殻をこじ開けるには上辺だけの言葉では無理だ。
例え乱暴でも、お互いに傷つきあうことになろうと、全身全霊の心でぶつからなければ。
覚悟を決めた天子は、ゆっくりと口を開いた。
「……紫、私はずっと話せなかったことがあるの」
伝えた先の未来に怯えながらも、天子は止まらず言葉を続ける。
思い出すのは血まみれで横たわる母の凄惨な光景と、そこから始まる負の連鎖。
「1200年前、私のお母様は妖怪に殺された。そいつは私達一族が。ううん、色んな人達がずっと倒そうとしてきた相手」
「それって……」
その言葉が示すものに気付いた紫が、心臓を鷲掴みにされるような気分で顔を上げる。
疲弊した顔で見つめられながらも、天子は紫の罪を突き付けた。
「紫、あんたが私のお母様を殺したの」
明かされた真実に、紫は目を見開いたまま眉を歪めて声にならない悲鳴を漏らすと、涙をこぼす。
彼女のことが好きだったのに、護りたいと思っていたのに、誰よりも深く天子を苦しめていたのが自分だったのだと知らされて、自らの人生の意義すら崩れ始める。
思い出の口吻の幸福さえ塗りつぶされ、紫は耐えきれない現実に頭を抱えてふさぎ込むと、悲痛な金切り声を上げた。
「嫌ア! 止めて! 今更そんなことを聞かせてどうするの!?」
幸福を抱いたまま死ねると思っていたのに、生きていてよかったと思えたままでいたかったのに。
こんなこと、記憶を失うよりも残酷で、手に入れた幸福を信じていた自分が惨めすぎる。
発狂する紫を前にして、天子は沸き上がる感情をねじ伏せ、冷徹な声を発する。
「私はずっとその妖怪のことを恨んでた。そいつのせいで父は狂って、私の青春は塗りつぶされた。幸せなんて全部見失って、苦しみながら生き続けてきた」
「止めて! そんなこと聞きたくない! 知りたくない! お願いだから言わないで、幸せなまま終わらせて! 」
真実を告げられた時点で何もかも遅いと言うのに、紫はギュッと目を閉じて残酷さに塞ぎ込むしかなかった。
だが事実として、天子はそれだけの罪悪感に値するだけの人生を辿ってきたのだ。
天子は目を伏せて思い返す、母の死、その悲しみ、自殺しようとする父、殴られる日々、どうして生きているのかすら手の内から零してしまった虚ろの人生。
そして、その果てで自分を受け入れてくれた言葉を。
「でも、紫は言ってくれたよね。投我以桃、報之以李。桃を持ってくれば許すって」
天子の言葉に熱が滲む。
今までの冷たさを払う声に、紫は瞳を開けた。
「紫は、私に憎む以外の道を見せてくれた、私を許して護ってくれた」
泣いて謝る自分を撫でて慰めてくれた紫、気を遣って何度も会いに来てくれた紫、寂しい夜に抱きしめてくれた紫。
紫が母を殺した事が事実なら、その優しい思い出もすべてが真実だった。
「正直に言うわ、私はまだ紫が憎い。いや、きっとこの憎しみは永遠に消えない、ずっとあんたを憎みながら、恨みながら生き続ける。だけど、それだけなんかじゃない」
自らの醜さを口にして、天子は首飾りの上から胸を掻く。
自分は弱くて臆病で、大切な相手を許すことすらできなくて、傲慢な自分に血反吐を吐く思いをして、それでもその全てを受け入れて前へ進む。
そしてその強さを手に入れたのは、紫が嘆きを受け止めてくれたからだ、だから――
「紫が希望を見せてくれたから、私はまた歩き出せた! 楽しいも嬉しいも、たくさんの想いを引き連れてここまでやってこれた!」
――だから、そんな紫には笑っていて欲しい。
「憎いけど、恨めしいけど、それでもあんたが好きなのよ! 紫にもっと幸せになって欲しいのよ! 許せない私のことを嫌いになってもいい、だけどお願いだからこのまま死ぬなんて寂しい終わりかたしないで、苦しくても生き続けてよ、紫!!!」
天子の奥底から汲み上げられた声が、彼女を見つめる紫の瞳から入り、心を叩いた。
悲惨な事実すら凌駕する真実の想いに、紫は手を差し伸べられるのを確かに感じ取った。
――結界が割れる。重ねられた境界はすべて砕け散り、その残骸が光り輝く紫色の欠片となって二人の周囲を照らし出す。
呆然と立ち上がった紫は、胸元で輝く色違いの宝石に惹かれるように、戸惑いながらも天子に歩み寄った。
お互いに傷付いた二人は、緩やかな涙を流して心から向き合う。
「紫……ごめんね、紫を許せないこんな弱い私で」
「そんなことない、そんなことないわ天子、あなたは強い」
天子が自らの限界を悔しみ、両手を固く握りしめている。
紫はその手を取って胸元まで持ち上げると、そんなに強く握っては可哀想だと両の手で優しく包み込んだ。
それほどまでに天子を傷付けたのが自分だと知りながら問い掛ける。
「憎い私のそばに、ずっといてくれるの?」
「うん」
「記憶を失くして、何かが違う私になっても」
「うん」
天子が手を握られたまま一歩詰め寄る。
お互いの熱気が届くほどの至近距離から、天子は緋色の眼に決意を秘めて見つめ上げた。
「絶対、絶対に紫を幸せにしてみせるから」
とても尊大で身の程知らずで、けれど純粋な透き通った言葉だった。
それに込められた祈りの大きさに、紫は全ての迷いを払われて、涙に濡れた顔で嬉しそうに笑った。
「ありがとう……」
やっぱり生きていてよかったと、心から思えることに、ただただ感謝ばかりを想っていた。
「――ちょっとあんたたち! イチャついてるのはいいけど、こっちはもう持たないわよ!!」
ずっと二人を守っていた霊夢が、霊力を振り絞りながら怒鳴り声を上げた。
今が危機的状況に変わりないことを思い出し、見つめ合っていた二人は手を離して慌てて涙を拭う。
改めて天子は紫に向き直った。
例えこの先に待つものが悲劇でも、諦めないで共に進むために言わなければならない。
「紫、辛いだろうけど、また私達のところへ――」
――キィィイイエエエアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
再び、紫の家で聞いたのと同じ声が響き渡った。
いや、これは天子と紫がさっき聞いたものよりもずっと暗く、すべての不幸を望む、どうしようもなく破滅的な叫び声だ。
あまり深い響きに、三人は呻きも出せずに怯み、一方的にそこに込められた意思を叩きつけられる。
憎い 妬ましい 羨ましい
何故お前だけ 何故お前だけが手に入れる
お前の持っているものを寄越せ
寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ 寄越せ ――寄越せぇぇぇぇぇぇエエエエエエエエエエエエエエ!!!
嘆きは憎悪になり、幾多の怨念が重なって、ただ一人に向けられる。
急激に増した力は霊夢の防衛網を飛び抜けて、その奥にいた光へ――天子へと手を伸ばした。
霊夢がしまったと思う時には、華奢な体は無数の手形に捕らえられ、全身を締め付けられていた。
喉と口まで押さえつけられ、何一つ悲鳴を上げられないまま苦しむ天子を見て紫は叫ぶ。
「天子!! こいつら、私から天子まで奪うつもり!?」
今までは紫の記憶だけで溜飲を下げていた者たちが、紫のもっとも大切な存在である天子に己等の怨念を差し向けたのだ。
紫は天子を助けようと黒い手を掴んで引き剥がそうとするが、ドス黒い怨嗟に突き動かされる力はびくともしなかった。
「天子! しっかりして天子!!」
「――、――――!」
天子は全身を圧迫されたまま指一つ動かせず、飛び出しそうなほど目を見開いている。
首飾りに気質を送り込もうにも、宝石自体を掴まれてしまい、それすら封じられてしまっている。気質を溜めた要石との繋がりすら断ち切られていた。
霊夢も助けに行こうとしたのだが、次から次に殺到してくる影を食い止めるのに精一杯で身動きが取れなかった。
お祓い棒を振り回す霊夢を視界の端に収めて、紫は焦りを顔に浮かべる。
「このままじゃ、このままじゃ天子が、何か手は……」
すでに消耗した自分では、天子だけを助け出すことは出来ない。
だがこのまま見ているだけなど絶対に許されない、もはや紫にとって天子は生きる希望であり存在理由ですらある。
何を懸けてでも絶対に天子は護ると、心から覚悟を決める。
例えそれが――幻想郷を天秤にかける行為でも。
意を決した紫が両の手を合わせ、意識を集中させる。
そこから感じる不穏な気配に、霊夢が驚いて振り向いた。
「まさか、ちょっと紫!?」
「天子だけは、何があっても殺させない」
重い声が世界を震わす。
紫はあらん限りの力を振り絞り、境界を操る能力を発現する。
「歪め境界よ、開け結界」
紫の足先に小さな白い穴が現れたかと思うと、瞬く間に肥大化して辺りを覆い尽くす。
空間に開かれた光の先に映るのは荒れ果てた大地。
境界が捻れた余波が空間を伝い、天子の身を包んでいた影は風に巻かれるよう吹き飛ばされていった。
解放されて自由を手にした天子は「ぷはぁ!」と息を吐いてあえぐと、直下から感じる大地が自分もよく知るものであることに気がついた。
「これって!?」
「馬鹿! まさか幻想郷と繋げるなんて」
天子だけを助けられるほど精密なコントロールができないなら、いっそ周囲全体の境界を乱せばいい。
後先考えない力技で、紫は天子を助け出したのだ。
意図を理解した天子が、だがこれではと慄く中、紫が肩に腕を回して抱き込んできた。
「飛ぶわよ、じっとしてなさい! 霊夢もこっちへ!」
「あーもう、この馬鹿!」
「ちょっと待って、アレも一緒に!」
霊夢が身を寄せてくるのを見て、天子は慌てて気質の篭もった要石を引き寄せた。
石に巻かれた注連縄を小さな手で掴み、紫へと振り返る。
「オッケー、いいわよ!」
「黙ってなさい、舌を噛むわ!」
紫が自分たちの足元にスキマを開き幻想郷へと繋げる。
三人がそこから逃げおおせた直後、闇の中から大勢の影が雪崩込んできた。
◇ ◆ ◇
天子が去った後の屋敷では、狂喜の悲鳴が響き渡っていた。
ドロドロの影は、千切れそうな手足を振り回して、身体中に感じる熱と光に溢れんばかりの感動を抱き、絶叫へと変えて吐き出していた。
――キィィェェエエエエアアアアアアアアアア
耐え難い高周波に妖夢たちが怯む前で、その影からとうとう腕の一本がボトリと生々しい音を立ててもぎ取れた。
境界を超え違う世界に踏み入った代償に、自らの存在が破滅へと向かうのを実感しながら喜んでいた。
「こ、これは拙そうだね……!」
初めて相対する存在に、萃香は立ち上がると一歩引き下がる。
こちらに来て何を考えているかは知らないが、はっきり言ってまともではなさそうだ。
影は自らの腕がもげていたことに気づくと、絶叫を止めて全身の目で落ちた腕を見下ろす。
崩れ落ちる身体に何を思ったか、今度はその目を橙と幽々子と萃香の三人に向けて獣のように駆け出した。
反射的に萃香が両腕から鎖で繋がった球体と三角錐の分胴を影へ目掛けて放り投げた。
続けて幽々子が咄嗟に閉じた扇子を突き付け、そこから全開の霊力を込めた死の蝶を射出する。
鬼の腕力と死の誘惑、この世界においてもトップクラスが全力を持って異物を迎え撃つ。
だが分胴と蝶は影の中にドプリと沈むだけで、何の効果も表さなかった。
「いいっ!?」
「こいつは、私の能力が効かない……!」
物理的な衝撃でも、霊的な力も全く通じない。
萃香は次元が違う脅威を前にして影に沈んだ分胴の鎖を引き千切ると、幽々子の身体を抱えて逃げ出そうとする。
だが時間が足りない、幽々子を持ち上げるより早くその黒い手に捕まえられるだろうと歴戦の鬼は予測できてしまっていた。
橙が先頭に立つと、白い日除け傘を広げた。
「三重結界!」
紫から引き継いだ傘を媒介に境界を敷く。
重ねられた結界は三枚、それぞれの力場が発する波長が絡み合い橙色の光を映し出す。
突撃した影は結界に激突し、反動で大きく身体をのけぞらせてたたらを踏む。
この場でこれに対抗しうるのは魂魄の剣と、紫の力を引き継いだ橙のみ、そう判断した妖夢は二刀の剣を引き抜く。
「幽々子様は逃げてください! 通常の手段じゃ効きそうにありません!」
「ほら、行くよ幽々子! ……おわっ!?」
そう言って萃香が幽々子の身体を抱えるが、亡霊は残ろうとする妖夢を見て手足をバタつかせて抵抗した。
「待って、妖夢を置いてなんて!」
「ああもう、じっとしてなって!」
普段の萃香なら腕力に物を言わせて連れて行けただろうが、弱体化した今はバランスを崩して廊下の上で膝を突いてしまった。
各人の焦燥が募る中、橙は傘を閉じると萃香の足元へと先端を向けた。
「開けスキマよ!」
号令とともに萃香の下に境界が操られ、別の場所へとスキマが繋がれる。
それまで真似できるのかと萃香が驚いた時には、小さな鬼の身体は角の中ほどまでスキマに沈んでいた。
萃香と一緒に下半身まで埋まった幽々子は、妖夢へ向かって手を伸ばす。
「橙、待って! 妖夢、あなたまで失いたくな――」
言い切れないまま、幽々子もまたスキマに消える。
残るは半人半霊の剣士と黒猫、そしてギョロギョロと目玉を動かす片腕の影。
影の不気味な様相を眺めながら、妖夢は先程の幽々子の言葉を反響させ笑みをこぼした。
――よかった、あの人は自分のことも心配してくれる。
不謹慎極まりない話であったが、そのことに喜ぶ自分がいた。
「笑ってる場合じゃないよ」
「ご、ごめんなさい。集中します」
橙に言われ、妖夢はいつのまにか下がっていた剣先を持ち上げ、目の前の影を橙と前後から挟撃するよう位置取る。
影の足元を見ると、もげた腕はウジュルウジュルと不気味な音を上げながら宙に消えていったが、その周りの畳も一緒に溶けていく。
無闇にぶつかるのはよくなさそうだと判断していると、影が今度は妖夢に目を向け、勢い良く振り返り走って寄ってきた。
影の腕が剣士を狙って振り抜かれるのを、妖夢は冷静に身をかわした。
妖夢はすでに体力気力、共に限界に達した直後だ、そう長くは剣を振るえない。
自身の状況を顧みて、妖夢は幾度となく振り回される影を前に、できるだけ回避に集中し隙を伺った。
「客観結界!」
そして五回目の攻撃を妖夢が避けた時、橙が閉じた傘の先端から結界から結界を生じさせ、影の周囲を取り囲ませた。
無軌道に見えて計算ずくで放たれた結界は、妖夢を巧みに避け、影へと向かう。
影は肘を逆に向けるような滅茶苦茶な動きで結界を避けたが、その一つが影の足元を掬い上げた。
それを見て妖夢は一歩踏み込み、二刀の剣を交差するよう切り払う。
剣が交わった場所に影が伸ばしていた腕は、空間に吸い込まれるよう消え失せる。
しかし形を持った影は身体をくねらせて悶え始めると、顔らしい部分を口のように開いて再び不協和音を唱えた。
空気に波紋する言葉にならない声から、橙は意識を読み取って顔をしかめる。
眩しい! 眩しい! 痛い! 痛い!
嬉しい! 嬉しい! 嬉しい! これが光か!
「よ、喜んでるよこいつ」
感じ取れる限り、こいつは紫様とはまるで違うと橙は思う。
これはより貪欲で不幸しか産むことが出来ない存在だ。
――もっと頂戴!
両腕を失った影はそう響かせると、先が手である脚の一本を振り回した。
雑な攻撃を二人は避け、妖夢が再び剣を振り、片足をこの世界から追い出す。
四肢のほとんどを失って影がバランスを崩したところに、橙が日傘を突き刺した。
「三重結界!」
境界は胴体部分から影を破砕して、畳の上へとバラバラに撒き散らした。
影は別れた下半身が倒れ、残った上半身も目玉をギョロリと動かす以外は何もできなくなり、畳の上で転がっている。
勝敗は付いたように見えるが、橙と妖夢は油断せずに無闇に近寄ったりはしなかった。
これから用心深くトドメを刺そうところで、橙の眼が何かを視た。
「拙い!」
橙は素早く身を飛び出させ影の上を飛び越えると、妖夢へと抱きつく。
「うわっ、なに!?」
「飛ぶよ妖夢!」
困惑する妖夢であったが、次の瞬間には橙が開いたスキマへ二人一緒に飲み込まれていた。
残された影が静かな部屋で苦しそうに何か呻いた後、前触れもなく見開かれた目玉の奥から閃光が発し、大爆発が巻き起こった。
膨張する熱量が空気を押し飛ばしてあたりを包み、八雲家を粉微塵に吹き飛ばして爆風が屋敷の外まで広がっていく。
屋敷から五キロほど離れた上空に出てきた橙と妖夢であったが、荒れ狂う熱風はそこにまで届いてきて、目が焼けないようまぶたを閉じた。
夜の闇をひっくり返す光を伴った爆風が付近の木々を大きく傾かせ、木の葉を巻き上げる。
風が止み、目を開けた二人が見たのは、爆心地に広がる数百メートルはあろうかというクレーターだった。
「な、何があったの!?」
訳が分からず妖夢が尋ねる。
「こっちの世界に合わせた、もっとちゃんとした身体を作ろうとしたんだけど、失敗して反物質になったの」
「は、はんぶん?」
「要は爆弾になっちゃったってこと」
二人はちょうどいい原っぱの上に降りると、座り込んで身を休めた。
妖夢は息も絶え絶えで剣を鞘に収めるのにも苦労していて、橙もいきなり大きな力を使ってくたびれていた。
なんとか剣をしまった妖夢は、草むらに倒れ込むと空気を求めてあえぐ口をゆっくりと動かす。
「あいつは……倒せたの……?」
「たぶんね、スキマから見た感じ、もろとも爆死したみたい」
爆心地にスキマを開いて様子を見ていた橙が告げる。
紫がちゃんとした肉体を形成出来ていたのは、彼女が特別だったのかもしれない。
橙は境界の乱れが修復され、もう同じような影が出てこないことを確認するとスキマを閉じる。
「幽々子様たちは……?」
「とりあえず白玉楼にでも送ったよ、またすぐこっち戻ろうと出たみたいだけど」
「幽々子様に、こっちは無事だって伝えられる? 心配してるだろうし、安心させたいけど」
「ごめん、私も疲れたし休みたい、広い幻想郷を探せるほど、紫様の力を使いこなせてるわけでもないし」
そういうと橙も傘を置いて身体を寝かせ、星が浮かぶ夜空を見上げた。
妖夢はしばらく呼吸を整えてから話しかけた。
「家、壊れちゃったね……」
「うん、でもまだ幻想郷は残ってるし」
同情する妖夢だったが、それほど橙は落ち込んではいないようだった。
しばらく休んでいた二人だったが、急に橙が猫耳をピクリと反応させると、勢い良く起き上がった。
「どうしたの?」
「何か感じた! 空の上に変なのが視える!」
橙が見据える屋敷があった方向の空を妖夢も眺めてみるが、目を凝らしたところで何もみえない。
しかしその直後の夜空に、夜の闇より更に深く暗い穴が開いたのが妖夢にも見て取れた。
その中心に、橙は紫が天子と霊夢に腕を回している様子を、遠くからでも見つけ嬉しそうに目を輝かせた。
「紫さ――」
だが空の穴から大量の影が押し寄せてきて、幻想郷に落ちてきた光景に、橙の笑顔は固まった。
大地の一角を覆えるほどの影たちから歓声が上がり、橙たちの耳元まで届いた。
「――幻想郷、終わったかも」
誰もが恐れていた最悪の事態が現実のものとなった。
世界を成り立たせるもっとも重要な境界は崩れ落ちた。
開いた風穴からは、絶えず黒い影が流入してきていて、このままでは何もかもが混ざり合って形を崩す。
物理法則すら意味をなさなくなり、後に残るのは一色の明けることなき闇夜だけだ。
「ど、どうするの、これもう手がつけられない状態なんじゃ……」
「……いや、まだ紫様がいる」
広がる影を遠くに見て妖夢がとまどう横で、橙は目に力を込める。
どれほど不安定な存在であろうと、紫は橙と藍の拠り所となる主なのだ。
あの方が帰ってきた今、自分は何をするべきかと橙は自問する。
――決まっている、家族のために戦うのだ。
決断した橙は、妖夢の足元にスキマを開く。
「待って、橙! まさか一人で行くつもり!?」
何をする気なのかわかった妖夢が必死に訴えたが、橙は笑みを浮かべた横顔を見せるだけだった。
結局妖夢はロクな説得も出来ないまま、強制的にいずこかへ飛ばされた。
妖夢を送り出し、一人になった橙は空に浮かび上がる。
「私に何がやれるかわからないけど、せめて時間稼ぎくらいはしないとね」
それが精一杯でも、橙は少しでも家族の助けになればと思った。
橙は自分が八雲家に拾ってもらった時のことを思い出す。
妖怪ではなくただの野良猫だったときから、橙はこの世ならざるものが見えていた。
人の世にあるべきものでもなく、妖怪の住まう場所でさえもありえない境界線の向こう側。
そちらを覗けば向こう側からもこちらを覗く目が見えて、橙はそこからいつ手が伸びてくるのかと、いつ自分がその闇の中に落ちてしまうのかといつも恐怖していた。
常に足元が崩れてしまうような幻覚に苛まされて世の何もかもが信じられず、妖怪となっても誰ともわかりあえず独りで逃げるように生きていたところを、偶然にも紫が張り巡らせた結界を乗り越えて、八雲の屋敷に近付いたことで藍に保護された。
お前は特殊な目を持っている、きっとそれが原因で結界を超えてきてしまったのだろうと藍は言いながら、橙に対しなんの敵意も見せず、ただ寂しそうだからという理由だけで家に迎え入れた。
藍と紫は自分の特殊性をわかってくれた、それまで他の猫たちに話してもまるで信じてもらえなかった境界の存在を信じてくれる、初めての理解者だった。
それでも最初は上手く付き合えなかった、友人もいなかった橙には優しくされてもどういう対応をすればいいかわからず、反発して困らせてばかりだった。
特に始末に悪いのが紫だ、当時はまだ博麗大結界によるバックアップ領域の確保ができていなかったため引き継げる記憶は一ヶ月程度のものしかなく、橙に同じ言葉を何度も掛け、何度も突っ返され、何度もへこんで、それを見せつけられる橙も落ち込まさせられた。
だがそれでも、二人は橙を見捨てなかった。
紫は境界を見てしまう眼との付き合い方を教えてくれ、藍は温かいご飯を食べさてくれた。
隣の布団に親しい誰かの寝息を聞きながら眠りに付くのは、この上ない安心感があった。
「……藍様と紫様に拾ってもらって、嬉しかったなぁ」
二人に出会わなければ、早晩に境界を踏み外し、死んでしまっていたと思う。
だが橙はそうならなかった、そのことに深い感謝の念を覚え、家族のことを大切に思う。
今さっき家は消え失せた、だがまだ幻想郷が残っている。
紫様と藍様が四苦八苦しながら作り上げた、妖怪最後の理想郷。
この場所が残る限り、自分たちは笑って過ごせる、だから、
「この幻想郷は、私達家族の帰る場所なんだ。お前達なんかに、負けないよ」
山のようにそびえる黒い影を前に、橙はたった一人立ち向かった。
◇ ◆ ◇
その日、夕方から博麗神社に足を運んだ魔理沙は、霊夢がいないことに落胆した。
本当なら夕食をたかるつもりだったのにと残念がる魔理沙だったが、ぐうと鳴る腹の音に「よし」と決意すると、慣れた手付きで神社の奥を漁ってご飯を炊いて、適当に野菜を炒め、手頃な漬物を添えて勝手に晩御飯の用意をしてしまった。
机の上に並べられた簡素な夕食を前に、いざ両手を合わせる。
「いただきま――うわあっ!!?」
そこに突如として、魔理沙の目の前に霊夢と紫、それに天子が現れて机の上にお尻から飛び降りてきた。
三人の下敷きになり机が盛大に歪み、衝撃で吹き飛んだ皿から夕食を顔に被った魔理沙は、熱い白米を慌てて振り払って青い顔で霊夢を見上げる。
「な、何だあ!? 勝手に食べたのそんなに悪かったか!?」
だが霊夢は魔理沙の方を一瞥しただけで、剣呑な表情で神社の外に飛び出た。
ボコボコにされるかと肝を冷やした魔理沙だったが、こちらのことをまるで無視する霊夢を視線で追い、次に机の上に乗ったままの紫と天子を見た。
「紫、大丈夫?」
「ええ、でも消耗しすぎてもうスキマでの移動はできそうにないわね」
傍に紫色に妖しく光る要石を浮かばせながら、天子は紫の身体を支えている。
「……何だこの状況」
わけがわからず呆然とする魔理沙を差し置いて、外に出た霊夢は遠くを見つめている。
境内から見える遥か西側に、黒い塊がチラついた。
「まずい、完全に境界が崩れて溢れ始めてる」
そのまま霊夢は魔理沙たちを置いて、西へと飛んでいってしまった。
魔理沙は去りゆく霊夢と机に乗ったままの紫たちを見比べて、何か面白いことでもあったのかと箒を掴んで外に出た。
「おい待てよ霊夢、どうしたんだ!?」
魔理沙は後を追って飛んでいく、神社には天子と紫だけが残された。
「立てる?」
「それくらいはやれるわ、普通に動き回る分には大丈夫よ」
支えを断って紫が机の上からふわりと浮いて外に出るのを天子も後に続く。
そこで二人は霊夢と同じものを見て顔を強張らせた。
「今はあっち側に連れ込まれたりしないの?」
「その感じはしないわね。境界の崩壊で狂喜乱舞していてそれどころではないんでしょう」
境界が崩れた場所から、着々とこちら側にこの世界のものではない何かが這い出て来ている。
やつらが欲した光が自分たちの手で捕まえられる今、わざわざ紫一人に構っている暇はないということだ。
暴力的にも関わらず音もなく影の手が広がる光景はまるで現実味のないが、そこに宿る危機は幻想郷の過去最大級だ。
「これどうするの、相当やばいんじゃない?」
「ええ、このままじゃ幻想郷は終わりね。けどそれを回避するプランもある。藍と連絡を取るから少し待って……」
紫は手をかざして天子との会話を遮って念話を送ろうとしたが、その前に博麗神社へ向かって飛来する物体に気が付いた。
金色の尾を引いて夜空を疾走するそれは、音すら裂いて流星のごとく迫りくる。
流星は高度を落とすと、目を丸くする紫と天子の前を通り過ぎ、木の葉を巻き上げながら神社の境内に落下した。
飛来したそれは二本の足で地面を踏ん張って、ゴリゴリと整えられていた土を削り飛ばし、神社の敷地をたっぷり利用して速度を殺しきる。
遅れてやってきた音と風に、紫と天子は顔を防ぎながら流星を見やった。
「藍!」
「紫様、ご無事でしたか!?」
全力疾走してきた藍は、荒い息を整える暇もなく、血相を変えて紫の元へ走り寄ってきた。
土煙を撒いて走って、いつもの冷静さはどこへやら、感情のままに紫に抱きつく。
「ら、藍!?」
「よかった……ご無事で、よかったです……」
藍は今にも泣き出しそうなほど、声を震わせて腕に力を込める。
彼女らしくない狼狽ぶりに呆気にとられた紫だが、すぐに柔らかい顔をすると、腕を回して優しく家族の背中に手をやった。
「ごめんなさい、心配かけたわ」
「いいんです、あなたが無事でいられるなら、それで」
生きて抱き合えること、その嬉しさを分かち合う二人を、天子は静かな笑みで見守っていた。
本当ならこの感動に浸りたいが、のんびりしていられる状況でもない。
藍はすぐに抱擁を解いて紫から離れると、今度は天子へ顔を向ける。
「……天子、自らの望みに正直だったお前が紫様を助けられた。従い続けた私が間違っていたんだろうか」
「さあね、私だって正しいかはわからないわよ。状況がより大変になったのは確かだし」
幻想郷の西側では、今まさに世界の滅びの真っ最中だ。
ある意味で、天子がすべての崩壊のトリガーを引いてしまったと言っても過言ではない。
「でもね、愚者の身で言わせてもらえば、歩いていかなきゃ何も変わらないのよ」
だから後悔なんてないわと、天子は心の光を絶やさずに言い切った。
「藍、こうなった場合の事はわかっているわね」
「勿論です。これより幻想郷保全の最終フェーズへ移行します」
「えぇ……でもその前に、みんなはどうなったか知っている?」
境界が崩れたのは紫たちの家の真上、今は影が蠢く魔境に紫のために集まってくれたみんなが居たはずなのだ。
しかし霊夢を呼ぶため屋敷から離れていた藍は、明確な答えを返すことはできなかった。
「私には何も、ですが橙が対応してくれたことでしょう。すでにスキマで移動できるよう、能力の引き継ぎも行なっていましたから」
「そうね……あの子を信じましょう」
心配ではあるが、今は不安に引き摺られている余裕など無い。
各々が役割をこなさねば、もたついている間に破滅が足元を掬う。
「始めるわよ、あなたは調整をお願い」
「はい!」
藍は鳥居の傍に陣取ると、自らの周囲に八枚の符を設置した。
足元の符からは光壁が立ち上り、八卦を描いて藍を包み込むと、壁面に博麗大結界を構成する術式のコードが流れてくる。
高速で連なる術式の一つ一つ、藍は眼で追いかける。
紫もまた境内に出ると、博麗神社の鳥居を前にして大きく口を開く。
「ドレミー・スイート、境界が崩れる時が来たわ! 幻想郷の住民を夢の中に逃させてもらうわよ!」
何処かに呼び掛ける紫に応えて、鳥居から何者かの声が届いてきた。
『おやおや、いよいよそうなってしまいましたか。生身に夢の世界は毒ですよ』
「移送するだけよ! 手は出さないで!」
『まあ仕方ありませんか、妖怪たちの夢を失うのは寂しいですしね』
紫が手をかざすと、鳥居の下の空間に異界へと通じる扉が開かれる。
『あなたの夜に槐安がありますよう……』
それで会話は終わったようで、紫は鳥居に背を向けて天子のそばに戻ってきた。
話がよくわからないと、天子は首を傾げて紫を見上げる。
「どういうこと?」
「幻想郷の全住民を夢の世界を通して別の場所に移送するわ」
微動だにせず眼に神経を集中させる藍は、その転移術式の最終調整を行っているところだ。
もっともこの非常時を見越して最初から博麗大結界に組み込んでいた術式であるから、最悪の場合は藍の手助けがなくとも機能する。
それでも万が一の綻びがあってはならないと、藍は術式のバグがないかを総ざらいしていた。
「もうスペアは確保してるから、いよいよ最後となったら博麗大結界の術式が発動して、自動的に転移される」
「やった! これで後は龍神がぶっ放してくれれば解決ね!」
住んでいた土地を離れなければならないのは辛いことだが、背に腹は代えられないだろう。
それよりも全員が助かることに天子は両手を振り上げて喜んだ。
「えぇ、私以外は」
「えっ?」
「この事態を引き起こした私まで逃げ出したら龍神は納得しない。妖怪たちの存命を乞うならば、私の存在をこの幻想郷に封印する必要がある」
「ダメよそんなの!」
天子は声を荒げる。
「なんとかするわよ紫!」
「……もちろん、今更死ねないわ」
こうなった以上、紫も臆病を捨て最後まで足掻く覚悟だった。
そんな心境に至った紫自身も、身体に通じる活力と心の迷いのなさに驚いていた。
この天子がくれた力から突き動かされることに、楽しさすら感じて熱に浮かれるようだった。
「それで紫、あれを止めれる手段はある?」
「ふふふ、結局私に頼るのね」
「仕方ないじゃない! あれのことよく知らないんだから」
「普通なら、龍神でも呼んで一切合切消し飛ばすしかないところだけど……天子、それは気質?」
紫が要石を指差した。
境界から持ち帰った石は、まだ紫色の淡い輝きを放っている。
「うん、話すとややこしいから省くけど、境界の隙間で生成された反転した気質を集めてる」
「随分と大量の気質ね、よく短時間でこれだけ集められたものだわ」
紫が要石に手を置いて調べたが、気質の総量に驚いている様子だった。
それだけの量があって当然だろうなと天子は思う、なにせ紫が今まで生きてきた証のようなものなのだ。
「……これならやれるかもしれないわ」
「本当!? どうすればいいの」
「これの他に、幻想郷全体に溜まった気質を神社に挿している要石に移して引き抜き、境界が崩れた中心点にまで持っていく。そこで二つの気質で結界を展開すれば、理論上は影を追い払いつつ境界を正せるはず」
「うっ、反転したほうは使ってみたんだけど、上手くコントロールできるか微妙なのよね」
境界の隙間では、危うく紫まで圧し潰すところだったのを思い出す。
紫が言うような細かな調整をやれるか、天子は自信がなかった。
「こっちの気質とは形式が違うから無理も無いわね。なら操作は私が担当するわ、あなたは思いのままに気質を放出してくれればいい」
「やった、楽でいいわ」
「言っておくけどこれほど大量の非想の気を放出するんだから、油断すると心が砕けるわよ」
紫が危惧するように、また情報の流入が起きる可能性はあるだろう。
しかも気質を大量に使えば使うほど、天子の心は多くのものを見せつけられるに違いない。
だが天子はそのことについて、大して気にしていなかった。
「問題ないわよ、紫が隣りにいてくれるなら、そんなことに負けないわ」
「……もう、意地っ張りねあなたは」
紫は恥ずかしげ苦笑しながらも、天子の頭を愛おしそうに撫でた。
もう二人に迷いはない、逃げ出したりせず、共にすべてをやり遂げようと固く誓っていていた。
「さあ、それじゃあ行きましょっか!」
天子は西の空に振り向いて意気揚々宣言したが、いざ出発しようとしたところで、また上空から神社に近づいてくる誰かがいることに気がついた。
その人物を見て天子の足が止まる。紫も彼が何者なのかは、スキマごしに見た情報だけだが知っていた。
「……お父様、どうしてここに」
ここにいるのが信じられないと、天子は呆然と呟いた。
天子の父、比那名居家の総領は神妙な面持ちで現れると、天子たちの前に降り立った。
何故ここに来たのか、戸惑った瞳で見つめる天子に、総領は硬い声色で話しかけてきた。
「往くのか、天子」
父から掛けられた言葉に天子がわずかに怯えを見せ、隣りにいた紫にも緊張が伝わる。
天子はどこまで自分のことを知ってくれているのだろうと、疑念を持って目の前の男を睨んだ。もし大して知りもせず、自分の行動を否定してくるようなら許せない。
肩の傷が疼くのをきにしながら言い返した。
「ええ行くわ。止めるつもり?」
「……いや、言っても聞くまい。だからな天子」
父が勢い良く腕を広げて、驚く天子に叫んだ。
「この父を殴れ天子!!」
「ええっ!?」
「せめてもの贖罪だ! それですべて許されるなどあろうはずがないが、それでもせめてお前の気の済むように殴れ!! さあっ!!!」
過去の負い目から天子から逃げていた父の、いつになく真っ直ぐな目線。
母が亡くなって以来、初めて父は天子に真正面からぶつかろうとしてくれていた。
両手を広げて覚悟を決める父を前に、天子はどうするべきかと迷いながら、やがて拳を振り上げた。
だがこれから殴る方だと言うのに、天子のほうが殴られるかのように表情は苦渋に満ちていて、硬く握られた拳はブルブルと震わされており、我慢しきれなかったように拳を解いて父の胸元に抱きついた。
「殴れだなんて、言わないでよ……っ」
父に涙をこすりつけながら、必死になって震える声を絞り出す。
「そんなことより、その日なにがあったかって、話を聞いてくれたらそれだけでいいのに……!!」
罪滅ぼしなんかより、ただ普通の親子の温もりが欲しい。
切実な訴えに父はまた間違ってしまったことに後悔しながらも、かつて娘を殴ったその手で今度こそ天子を抱きしめた。
「……すまない天子、父が愚かだった」
抱き合う親子、娘のすすり泣く声。
事情は知らぬ紫であったが、例え世界が終わろうともそれは邪魔するべきものではないと察し、ただ黙ってその光景を眺めていた。
数分ほど経つと天子も落ち着いてきて小さな泣き声も静まってくると、父は抱擁を解いて今度は八雲紫と向き合った。
「スキマ妖怪、世界の異物よ、私の娘が世話になっているようだな」
「いえ、私の方が世話になり通しですわ」
謙遜でもなく本心のつもりだ。天子のお陰で本当に沢山のことに気付いて向き合うことが出来たし、それに押し潰されることなく、こうしてこちら側の世界に戻ってこれた。
「だがお前は知っているか? 天子の母を殺したのは貴様だ」
「……はい、存じております」
問題になってくるのはやはりそこだった。
総領は鼻を鳴らすと、紫を睨みつける。
「いいか、私はお前の所業を許さん。正直を言えば、お前が天子と仲良くすることだって大反対だ」
「それ言ったらお父様の方から紫を殺そうとしたんじゃない」
「ぐっ、危険を排除しようとするのは当然の行動だろう、だったらお前は憎くないのか!?」
「憎いけど他のやつが紫を憎むのは腹立つ!」
「ええい、相変わらず滅茶苦茶だな、父のことくらい許せ娘よ! いやさ、許せなくてもいいから黙っとれ、話が進まん!」
怒鳴りあった総領は、紫に向けて指を突き付けた。
「八雲紫としての貴様に問うぞ、お前は天子をどうしたい?」
嘘の一切を許さないと、娘を大事に想う父親の眼光が紫に注がれる。
きっと親としては当然の疑念なのだろうと、紫はこの質問を真剣に受け止めた。
自分を助け出してくれた天子、たくさんの喜びを与えてくれた彼女から、あまりに大きすぎるものを奪っていた事実には心が揺れる。
申し訳ない気持ちを伝えたところで済む話でもないし、自分が母の代わりを努めようなどおこがましいにも程がある。
例え記憶を失う前のことであっても、それは許されることではないだろう。
だがそれでも、闇の中で一人死に絶えようとしていた自分に差し込んだ光を思い出し、紫は自分の心に活を入れる。
「私はこの世界にいていい存在ではないと、ずっと教えられ続けてきました」
「そんなことない!」
「……それでも、そんな私を、天子は幸せにすると言って助けてくれました」
あの言葉がある限り、紫はどこまででも生きていこうと思える。
天子の気持ちに応えるため、彼女とともにどこまででも往こう。
「例え世界のすべてと敵対することになろうと、天子が私を求め続けくれる限り私は抗います。私は天子を幸せにするために戦います。彼女を傷付けたというのならなおのこと愛しましょう」
そう語る紫は真摯であるのに、微笑むような安らかな顔をしていた。
だがその眼差しと声に宿るひたむきさに、総領は紫の言葉を本心として信じることにした。
「……よかろう、その言葉を違えたならば殴り飛ばすぞ」
「そしたら私がお父様を殴るからね」
「お、おう」
さっきは殴らなかったのに紫のためなら殴ると言う天子に、自分よりも紫のほうが大切なのだなと感じてしまいつい、総領が悲しそうに肩を落とす。
娘との距離が近くなったような離れてしまったような、もどかしい寂しさを堪えて娘達に向き直る。
「それで、これからどうするつもりだ?」
「幻想郷の気質を要石に移して、境界から出てきてるドロドロにぶつけるわ」
「かつてスキマ妖怪を倒すために同じことを名居家の血筋すべてで行ったが、それでも完全に滅することはできなかったぞ」
「それはこちらの世界の気質を、境界の隙間に適した気質に変換できなかったからです。今はこちらに反転した気質が用意されております」
紫が紫色の霧をまとった要石を示す。
総領は可能性があることを納得して頷いた。
「しかしそれならば天子がこの地に挿した要石を抜かねばならんな、ならばそれによって起きる地震は私が代わりに鎮めよう。できれば私も付いていきたいが」
「残念ですが、お父様の身に何かあっては地震を抑えるものがいなくなります、ここにいて幻想郷を支えてください」
「そうだな、身の程はわきまえよう」
「昔みたいに失敗したら承知しないわよお父様」
「あの時とは違うさ、任せてくれ」
かつて妻が亡くなり地震を止められなくなった時よりも、今の比那名居家総領ははるかに心が充実している。
父は両手を胸の前で組み集中すると、自らの頭上に渾身の力を込めて巨大な要石を創りだした。
続けて天子が要石を抜くわけだが。
「……ところで要石を抜くなら、上にある博麗神社は潰れるわよね」
「あら、あなたのお得意なんでしょう?」
「まったく、責任を持ってまた建て直さないと」
「ええ、萃香に頼まないと。あなたはそこら辺は信用できないし、また変なことされかねないわ」
「ちぇっ、お見通しか」
紫からの意地の悪い言葉にも天子は楽しそうに笑うと、神社に向けて手をかざし、力を込めて指を開いた。
天子の真剣な眼差しの奥で緋色の光が輝く。境内の地面が揺れ動き始め、神社が下から何かに押し上げられてバキバキと音を立てながら崩れ始めた。
更に幻想郷全体で地鳴りが響くと共に地震が起こり、大地から緋色の霧が噴出し始めた。
頃合いを見計らって比那名居家総領が「ハア!」と気合とともに要石を自らの背後に突き刺し、それ以上の揺れを押し止める。
崩壊する神社を突き破って、天子がかつて仕込んだ要石が現れた。
先に紫の気質を込めた要石と同じくらいのサイズのそれに、緋色の霧が集まってきて渦巻く。
さまざまな人と妖怪が住まう幻想郷からかき集められた大量の気質は、音を立てて大気揺らして神社の周囲を辺りを強く照らし出す。
そして天子の掌握された緋色の霧は収束し圧縮され、神社から抜かれた要石に宿った。
紫と緋、正と負、それぞれの気質を宿した二つの要石が天子の両脇に並んで、暗い空の下で呼応するように仄かな光を発した。
「準備完了! 行くわよ紫!」
「ええ、あなたとならどこまででも」
同じように天子と紫も並び立つ。もはや何の憂いもなく、二人の顔は同じ方向を向いていた。
共に飛び立つ前に、一度だけ天子は父親に振り向いた。
「行ってくるわねお父様」
「ああ、思う存分暴れてこい……しかし、さっきの八雲紫の言葉にはドキリとしたな、まるで結婚前の私と母さんの言葉みたいで」
「間違ってないんじゃない?」
「……は?」
呆気に取られる父の前で、天子は快活に笑う。
紫も恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、くすりと微笑んだ。
「お、おおお……お前ら!? 友達じゃなくて本気でそういう……!?」
驚く父親を置いて、二人は笑い合って共に飛び立ち、二つの要石が浮遊して後を続く。
慌てて後を追おうとしたが、これから戦いに行く二人の邪魔になると気付いてここから動けず、負け台詞のような言葉を吐くしかなかった。
「ま、待て天子! お父さんは認めんからなー!!!」
「べー、だ」
目元を引っ張って舌を出した天子は、見せつけるように紫の手を引いていく。
親子の確執に挟まれた紫は、困った顔を天子に向けた。
「舅問題が不安だから、あまりお父様を虐めないで頂戴ね」
「だってこればっかりは譲れないし、向こうが折れなきゃ家出もなんでもしてやるもん」
「せめて家の中じゃ優しくね」
「はいはーい」
まともに聞いてくれているのかいないのか、天子がそっけない顔で流すのを見て、紫は痛む頭を押さえた。
まあ元々問題のあった親子なのだからそれくらいは仕方ないと腹を括り、紫は前を向く。
「さてと、無駄話はここまで。気を引き締めていくわよ」
「おうとも。全力をぶつけてあげようじゃない」
天子も同じ方向を剥き、握り合った手に力を込める。
幻想郷を広がっていく影を見ながら、負ける気はしなかった。
仲良く飛んでいく二人を総領が憤慨している奥で、藍は博麗大結界の調整を続けながら横目でそれを眺めていた。
そして口を小さく動かし、ボソリと呟く。
「……聞こえますか、ドレミー・スイート」
『はい、何でしょうか八雲藍さん?』
果たして応答があるか不安であったが、鳥居から繋がった異界への通路から声が返ってきた。
「会ったこともないのに私のことを知っているとは、夢の管理者だけありますね」
『あなたこそ、私の名前なんて有名ではないはずですが』
「紫様があなたによく迷惑をかけていると聞いています」
藍は夢の世界を自由に渡ったりしたことはなかったので、ドレミーの姿を見たことはなかったが主人から伝聞で知っていた。
彼女とは友好も何もない初対面、むしろ紫が迷惑を掛けているだけ向こうからの印象は悪いだろう。
それでも藍は彼女に頼まないといけないことがあった。
「無礼を承知でお願いします。槐安通路にて私を家族の元へ送っていただきたい」
◇ ◆ ◇
――オォォォォオオオオオオ ――オォォォオオオオオオオ
耳触りな声を聞きながら、選択を間違えたかなと霊夢は思う。
右を見ても、左を見ても、視界を埋め尽くす圧倒的物量。
影たちは広がった端からこちら側と混じり合って、共に消滅していくしかないというのに、まるで嬉しそうな悲鳴が上がっていた。
地上のすべては漆黒に沈み、世を見つめる眼孔がこちらを睨み、泥の中から分離した人型が空中に飛び上がって襲い掛かってくる。
近づいて来た影をお祓い棒で薙ぎ払いながら考える、自分だけこの中で生き残るのなら楽勝だが、幻想郷全体の防衛は自分一人では不可能だと。
あの時に天子を助けずに紫を殺せばこんな苦労はしなかった。博麗の巫女として規律だけを守っていればなんと楽だったことだろう。
だがそれでも、霊夢にはどうしても手を届かせたいものがあった。
これは博麗の巫女ではなく、博麗霊夢として挑んだ戦いだ。意地になってでも最後まで飛びきってみせようと、影から伸ばされた手に御札を投げつけて破壊した。
「うわあ! 霊夢、どうなってんだこれ!」
寄越せええええええええええ
届いた声に霊夢が振り返ると、箒の乗ってこちらにやってくる魔理沙がいた。
彼女の背後には人の輝きを求めて伸ばされた手があって、霊夢はすかさず飛び込み魔理沙とすれ違うと、影をお祓い棒で薙ぎ払う。
手の影が消滅するのを確かめてから魔理沙に顔を向ける。
「魔理沙、あんたも着いてきたの」
「こいつら妖怪なのか!?」
「それよりもっとタチの悪いやつよ、このままじゃ幻想郷が滅びかねないからとっとと逃げときなさい、ほっといても新しい幻想郷に逃してもらえるはずだから」
「それ、私の家はどうなる?」
「そんなの持ってく余裕なんてないわよ」
「おいおい、さらっととんでもないこと言うなよ、私のコレクションを諦めろっていうのか」
コレクションじゃなくてガラクタだろうにと思う霊夢の前で、魔理沙はカバンを漁る。
お手製の封印が付与された包帯でグルグル巻きにされたものを取り出した、しかも二つ。
魔理沙は包帯を解くと、中から現れた人形と魔本に話しかけた。
「おいアリス、パチュリー! どっちでもいいから聞こえるか、応答してくれ!」
『はいはい、聞こえてるから大声で叫ばないで。いきなり何の用よ』
『その本、都合のいいお助けアイテム扱いにしてないで早く返しなさい』
それは妖怪の山で暴れる際に、アリスとパチュリーから支援として渡されたアイテムだった。
ステレオで響く音声に、魔理沙が怪訝な顔をする。
「あれ、お前らもしかして一緒にいる?」
『共同研究中よ』
「私に隠れてずるいぜ。ああいや、そんなことより何か知らんがヤバいんだ、手を貸してくれ」
魔理沙は人形の頭を掴むと地上に向けさせた。
黒いドロドロした何かがまだら模様に眼を開けて地上を流れていく様子が、人形を通じてアリスとパチュリーに送られる。
あたたかいあたたかぁぁぁい 星 眩しい 月 眩しい 太陽 何処
消える 消える 消える もっと もっと もっと
無秩序な思念が魔力に乗ってアリスたちのところにも届き、通信越しにも魔女たちが絶句するのが伝わってきた。
『……なにこれ』
「知らん。とにかく霊夢を手伝ってこいつらを出来る限り処理するぞ。魔力を回せ!」
魔理沙が八卦炉を構えると、両脇の支援アイテムも正面に魔法陣を浮かばせる。
霊夢は地上から伸びてくる手に弾幕を撒き散らしながら、魔理沙の様子を横目で見ていた。
「無駄よ、とっとと逃げなさい」
「マスタースパーク!!」
構わず放たれた魔光が、人形と魔本から放たれた光線と螺旋を描いて地上の影に降り注いだ。
意味が無いだろうと思っていた霊夢だったが、驚くべきことに微力ながら効果が出ている。
魔女たちから送られてきた陰の魔力と自前の陽の魔力が合わさることで、わずかにだがダメージを与えられているのだ。
やっていることは妖夢の行った封印剣に近い、霊夢はそのことは知らないが原理についてはなんとなく理解した。
これが魔理沙の持つ長所と言っていいだろう、人でありながら簡単に妖怪と和合して力を合わせれる。
博麗の巫女である自分とは違い、何の使命も義務もないのに自由意志だけでこれをやってのけるのは、ある種の才能と言っていい。
――だからこそ、その先にあるものを危惧してしまう。
「まあ、今は考えても仕方ないわね」
「クッソー、全然効かないぜ、お前ら本気出せよ!」
『やってるわよ!』
『むきゅー、持病が悪化しそう』
「魔理沙、力を振り絞るんじゃなくて魔力を同調させる感じでやりなさいよ。そっちのほうがマシよ」
魔理沙たちの攻撃は効果があっても、それは妖夢などとは比べるまでもない低レベルな力しか発揮できていない。
猫の手でも借りたいこの状況、ないよりはマシだがあてに出来るほどのものでもない。
それでも、彼女がここまで自分を追いかけてきてくれたことを思い、霊夢は密かに口端を吊り上げた。
「来い、私の自由を証明してやるわ」
◇ ◆ ◇
妖怪の山の守矢神社から、神奈子が腕を組んで西の果てを睨んでいる。彼女の隣には諏訪子も同じ報を向いて剣呑な顔でカエル座りしている
遠い天と地の間から、溢れ出た影が闇夜の中に膨らんでいる様子が見て取れた。
「大変なことになってるねぇー」
「人から忘れられ、安息の地を探してここに流れ着いたが、どこも難しいものね。まあまだ保った方か」
歪む空間と影と混ざり合い消失していく空気により、気圧がおかしくなって気味の悪い風が山の下へ吹いていく。
恐らくは山に住まう天狗や河童たちも、いやさ幻想郷の至るところの有力者たちは、慌てふためいて今後の準備に奔走しているころだろう。
神奈子が吹きすさぶ風に攫われる髪を鬱陶しそうに手で押さえていると、神社の本殿から早苗が駆けてきた。
「ど、どうしますか神奈子様、諏訪子様!?」
「私達じゃどうにもならないわ、放っておくしかないわよ」
「じゃ、じゃあ、とりあえず火の始末して窓とか扉とか全開にしましたけど、ほっかぶり着けて避難ですか!?」
「落ち着きなさい早苗、外界でも相当古いからそれ。事前の説明じゃ、どうにもならなくなった場合は転移術式で逃してくれるから大丈夫だよ」
神奈子たちは幻想郷に来る前から八雲紫から話を聞いていた。
彼女こそが今の事態の原因ではあるが、自身で二重三重の保険を用意していることを教えてもらい、それらに納得したから幻想郷に移ってきたのだ。
「あっ、なんだ、何が起こってるかわかりませんけどそれなら安心ですね」
「と言っても何もかも持っていけるわけじゃないよ。幻想郷をまとめて槐安通路で移送するんだから、私達が持っていける分は湖が精一杯。神社は新しい場所で再建よ」
「えぇー!? じゃあ私の部屋にある棚いっぱいのロボットたちは!?」
「当然、ここでお陀仏ね」
「そんなぁー!!」
早苗が子供の駄々のような悲鳴を上げるのを、神奈子には叱れなかった。
気持ちは十二分にわかる、自分だって信仰がなくて暇な時間を持て余した時に作ったフルスクラッチジャイ○ントロボ最終決戦仕様は惜しい。
「うわぁーん、私の白いお髭様が! S鳥アセンの黒い鳥ア○ーヤが!! 自作可動王シー○ー・ザ・キングがあ!!!」
「あーもう、三つまで選びなさい! 一つは私が持っててあげるから!」
「あぁー、どれにしましょう、やっぱり今言った三つ……ああ、でも幼稚園の頃に作った紙粘土製ムゲン○ラモンも捨てがたいしぃー!」
「何だかんだ言って甘いねぇー、神奈子ってば」
「うるさいね、置いてくよ」
「それじゃあ早苗のおもちゃが二つのなっちゃうじゃん」
腐れ縁が顔を寄せていやらしくケロケロと笑ってくるのを睨みつける。こいつがケロちゃん仕様アッ○マーを持っていきたいと駄々を捏ねても捻り潰してやると心に決めた。
色々と思うところはあるが嘆いても仕方ない、それに逆に考えれば新天地へ引っ越しのいざこざは宗教家にとってはチャンスでもある。ここで混乱する人里の人間たちを導けば信仰はうなぎのぼりだ。
準備をしなければと本殿に戻ろうとした神奈子だったが、ふと振り返った。
「……うん?」
「どうしたのー神奈子。急いで準備しなきゃ信仰取られちゃうよ」
「いや……」
今一瞬、確かに感じたものがある。
荒れる天候の中、それに負けず吹き抜けた一陣の風があった。
「風が変わった気がしてね」
◇ ◆ ◇
西の大地に影が広がっていく中、紫の家を目指して冥界から急いで出てきた幽々子は、その光景を見て気が気でない様子だった。
騒ぎ立てながら進む彼女を、萃香が押さえ込もうと必死になっている。
「妖夢! 妖夢ー!!」
「あーもう! ちょっと待ちなって、パニクった状態で行ってどうなるのさ!!」
自分たちでどうにかなるような問題ではないと萃香は客観視して、冥界で妖夢が帰ってくるのを待とうと進言したのだが、聞き入れては貰えなかった。
仕方なく服を引っ掴んで止めようとしているのだが、肉体の殆どを失って弱体化した状態では押さえきれず、じわじわと引き摺られる。
「紫だけじゃなくて、妖夢までいなくなったら私は……私は……!」
「幽々子様ー!」
だが発狂していた幽々子の背後から、慣れ親しんだ声が届いてきた。
幻聴かとも思いながら振り返ると、そこには愛おしい半人半霊が肩で息を吐いて幽々子たちのところにやってきていた。
「よかった、合流できた」
「妖夢!」
幽々子が狂おしいほどに喜んで名を呼び、安堵に脱力した。
妖夢の存在に幽々子が若干落ち着いたのを見て、萃香が掴んだ手の力を緩める。
「妖夢、生きててくれてよかったよ。どこにいたのさ?」
「私も橙にスキマで冥界まで飛ばされて……って、幽々子様!?」
萃香から解放された幽々子は、一心不乱に妖夢に抱き着いた。
泣き顔を擦り付け、妖夢の胸元を涙で汚す。
「妖夢、良かったわ妖夢……」
幽々子から感じる痛いほどの情動に、妖夢は子鬼の視線を気にして、かと言って引き剥がすことも出来ず、恥ずかしがって両手を振りまわした。
「と、とりあえず地面に降りましょう幽々子様! 少し落ち着いてから行動しましょう」
妖夢は幽々子を抱えると一旦地面に下りる。萃香もまた後を追って妖夢の前に降り立って顔を合わせた。
「妖夢、このあと幻想郷はどう動くか知ってるか?」
「確か異界を通って住民を避難させる術式が働くはずですけど、でもあの穴が開いた時に紫様が戻ってくるのを橙が見たそうです」
「紫が生きてるの!!?」
幽々子が勢い良く顔を上げ、熱い息を至近距離で浴びせながら声を上げた。
妖夢が「はい」とだけ答えると、幽々子はまた泣き始めて妖夢の胸に抱き縋る。
それを見て萃香はとりあえず二人の心配はしなくともいいと思ったようで、影が蠢く方向へ身体を向けた。
「おい妖夢、幽々子のことは任せたぞ、私はあの黒いやつの様子を見てくるから」
「大丈夫なんですか? なんか力弱まってる気が……」
幽々子が萃香を殺しかけたことを知らない妖夢が尋ねた。
暢気な質問をしてくる彼女に、萃香は少し笑って飛び上がった。
「なあに、どうしようもなさそうなら逃げるさ、戦って死ぬだけが能じゃないんでね」
萃香の身体が能力を使って霧になり、風に巻かれて空に消えていく。
見送った妖夢はしばらく主人の背を撫でていたのだが、急に幽々子が顔を上げて冷たい言葉を呟いた。
「紫を助けなくちゃ……」
「助けなくちゃって、まさかあそこに行く気ですか!? 無茶ですよ、さっきだって何もできなかったのに」
「それでも行かなくちゃ、あそこに紫がいるかもしれないなら何かしなくちゃ」
何かに駆られ、幽々子がうわ言のように繰り返して立ち上がる。
フラフラと死地へ向かおうとする手を、妖夢は咄嗟に掴んで引き戻した。
「紫さんがいるかもわからないじゃないですか! もうスキマで逃げたかもしれないし、冷静になりましょうよ」
「でも、私は……紫が困ってるかもしれないなら、行かなくちゃ」
「なんで、あなたはそこまで……」
妖夢が引っ張り幽々子の身体を向けさせたが、彼女の顔は俯いていて、淀んだ瞳にはこの世のすべてが苦しいような悲観が篭もっている。
それを見て妖夢もまた辛そうな顔をすると、溜め込んでいたものを吐き出した。
「……もっと、もっと自分を大切にしてください!」
生まれた時からずっと幽々子に感じていた憂いを、妖夢は全力で投げつける。
「他人のことばっかり心配して、どうして自分のために何かしようと思えないんですか!?」
しかし妖夢の言葉にも、幽々子の表情は変わらず、本人の気力が感じられない。
伝わらない想いに妖夢は落ち込みながらも、幽々子に問い掛けた。
「……自分が死んで紫様を悲しませてしまったことを、許せないんですか」
それを聞いて、幽々子がゆっくりと顔を上げると、ドロドロの目で妖夢を見た。
「どうして、そのことを……」
「お祖父様が教えてくれました、幽々子様はその時のことをずっと後悔しているって」
道に迷った妖夢が妖忌のもとを訪ねた折、祖父は妖夢に少しばかり昔話をしてくれた。
そこで妖夢は、亡霊としての幽々子の出発点を知ったのだ。
「そうよ、私は紫を悲しませた、それを償わないと……」
「幽々子様が悲しませたわけじゃありません、ただ何かがまかり間違っただけで、幽々子様が償う必要なんて」
「だったらどうして紫は泣いていたの!?」
幽々子が狂ったように声を上げる。
彼女もまた、1000年に及ぶ妄執を妖夢に叫ぶ。
「私が亡霊として生まれ変わった時に誰も祝福はしなかった! みんな悲しんでごめんなさいって頭を下げてきた! 私が、みんなを、悲しませ………」
悲痛を胸に、悲劇を口に、喉を震わせた幽々子は、妖夢の両肩を掴んだまま力を失って項垂れた。
「私は……私は許されない」
この暢気そうな亡霊は、笑顔の裏で負い目から自分自身を責め続けて来たのだ。
周りを悲しませないように、精一杯の陽気さを振る舞って。
ようやく見せてくれた幽々子の暗闇を前にして、妖夢は毅然とした表情で両手を幽々子の背中に回した。
「そんなことはありません」
誰よりも近くで幽々子と紫の交流を見てきた妖夢は言い切る。
紫が死んだ本人を恨んでいるはずがないし、幽々子がそのことに後悔を感じる必要もない。
だが問題なのは、紫よりもまず自分自身を許せないことだ。本質的に、自分はいてはいけない存在だと思いこんでいる。
でもそれなら尚のこと、妖夢は幽々子が許すべきだと思うのだ。
「私は、幽々子様に会えて嬉しかった、それで納得してはくれませんか」
妖夢は静かに、語りかけた。
周知の事実の、しかしこの亡霊にとっては思いもよらない言葉に、幽々子の顔が少し上を向く。
「もしも私一人だったら、紫様に立ち向かったりは恐ろしくてできませんでした、幽々子様がいたから私は使命を果たそうと立ち上がれたんです。誰かのために頑張るのは、その誰かが頑張る値する人じゃなきゃ駄目なんです。幽々子様は、私の行動の理由になってくれる素晴らしい人なんですよ」
白玉楼で育ち、子供の頃から幽々子を見てきた妖夢が、幽々子のためだけの言葉を与える。
人間だった頃の幽々子を知らない、亡霊の幽々子にだけ向けた言葉を。
「あなたはあなたのために、今を気ままに過ごしていいんです」
それは幽々子が、心の奥底で一番欲していた言葉であった。
過去に引っ張られることはないのだと。生きていた頃の自分から解き放たれ、亡霊としての道を歩いてもいいのだと。
「幽々子様はもう十分頑張りました、私は幽々子様のすべてを許します。私と出会ってくれて、ありがとうございます」
私なんかで申し訳ないですけどねと妖夢は苦笑して付け加えた。
幽々子の唇が熱に震える。1000年の時を超え、初めて自分の死に意義はあったのだと認めてもらえた気がした。
亡霊の眼に光が宿るのを見て、妖夢は安心して肩の力を抜く。
自信はなかったが、どうやら少しくらいは想いが届いてくれたらしい。
ひとまず主人も落ち着いたし、これからどうしようかと思案し始めた時、上空に紫と天子が要石を連れて飛んで行くのが見えた。
まだ彼女たちの戦いは続いているのだと察し、妖夢は自身に掛けられた幽々子の手をそっと外し立ち上がる。
幽々子が自らの情動をどう表現すればいいかわからないまま見上げてくるのを、できるかぎり強がった笑顔で見つめ返した。
「どうかここで待っていてくれませんか。私にはまだやれることがあるから、終わった後に帰るところが欲しいんです」
「帰るところなら、冥界が」
「その、察してくれませんか?」
照れくさそうに頭をかく妖夢に、幽々子は言葉の真意に気付く。
少し戸惑った後、いつもみたいにおどけた調子で笑いかけた。
「隣は開けておくわ、一緒にお花見をしましょう」
「……はい!」
嬉しそうな顔をした妖夢が空を駆ける。
半霊を漂わす後ろ姿を見送ってから、夏の今にどんな花を見ればいいんだろうと幽々子は後から気づく。
それならそれで、咲かない桜の下で、遥か昔の誰かに別れを告げながら飲むのもいいかも、と静かに笑うことができた。
◇ ◆ ◇
「幽々子と妖夢……よかった、逃げれてたのね」
博麗神社を出発し暗い夜の空を天子と共に手を繋いだまま飛び続けていた紫は、風を切って飛ぶさなか、地上に佇む二人の姿を見つけて、止まらないまま安堵して緊張していた胸を押さえた。
しかし力量を弁えている萃香はともかく橙の姿が未だ見当たらないことが気にかかる、嫌な予感が過るがそれを確かめる余裕はない。
「紫! 家の結界までもうちょっとよ!」
天子の呼び声で、紫は不安を追い出し目の前の危機に集中する。
全速力で幻想郷の夜空を横切った二人は、紫の屋敷を守っていた結界付近まで辿り着いた。
彼女たちを待ち受けていたのは、光を追い求めて目玉をギラつかせる亡者のおどろおどろしい歓声。
幾千、幾万の意思が混じり合い、実体のない虚像が崩れ、液状になって大地に広がっていく様は正に地獄絵図だ。
しかし幻想郷に押し寄せる影の塊は、コップから零れそうで零れない水のように、途中から進めなくなっているのが遠くからでもわかった。
「なにあれ、あいつら途中で止まってる」
「家の結界の効果よ、この時には術式が反転して内から外に出ないよう切り替わるよう準備してたの」
紫は何事にも万全を期していた、屋敷に張っていた結界は自衛のためだけではなかったということだ。
より多くの輝きを求めてさまよう影たちは、結界の境界線ギリギリのところであらゆる感覚を狂わされ、内部に押し留められている。
「博麗大結界にも同じ機能が備わってるわ、やつらは今はまだ大結界と家の結界のあいだに閉じ込められてる」
「……中の植物や動物は?」
「この様子じゃ、全滅ね」
冷静に言い放たれ天子の表情に歪む。
不可抗力とはいえこうなった原因の一端は自分にもあるのだから、責任くらいは感じた。
だが今はそのことに構っていられる状況ではなく、もっと差し迫って問題が目の前に広がっている。
「このままじゃ拙いかもしれない、数が多すぎる。放っておいたらじきに内圧で屋敷の結界が崩れるわ。そうすれば溜まっていたこいつらが幻想郷の内側へ一気に雪崩込む、そうなったら幻想郷の半分くらいは侵食されるわね」
紫が開けた境界の穴は刻一刻と広がり続け、それに比例し幻想郷に流入する影も数を増している。
それでは住民だけ転移で避難させても、幻想郷の生態系にまで大きな影響が出るだろう。
転移術式があるお陰で人や妖怪に被害はなくとも、だが妖精など自然に由来する存在にとっては致命的な打撃となる。
紫が愛するこの幻想郷が削り取られることに、天子は我慢できず叫んだ。
「ここでこいつらを潰さないと!」
一度ここいらの影を気質で一掃してから進んではどうかと天子は進言した。
だが紫はあくまで計算づくで首を振る。ここで時間を食えば更に境界の穴は広がるだろうし、気質の無駄遣いも避けたい。
「残念だけどそんな余裕はない、先を急ぐしかないわ!」
きっと一番辛いだろう紫にそう言われては、天子も強くは言い返せなかった。
方針を決めかねているあいだに、二人は影の上空に差し掛かる。
結界の内部に入り込むと、地上に広がった影の目玉から一斉に視線が注がれた。
「来るわよ天子! 戸惑ってる暇はない、犠牲は覚悟で進むわ!」
「あんたはそれでいいの!?」
「よくないけど行くのよ!」
「チィッ!」
悔しさに舌打ちした天子はすぐ背後まで要石を引き寄せると、緋想の剣に負の気質を通して紫色の刀身を灯す。
直下の影たちがドロドロに溶け合った海から分離して、一個体に戻って空に飛び出してくる。
自分たちが持てない輝きを求めて手を伸ばす報われない者たちに、天子が剣先を向けようとして、そこに現れた者に遮られた。
「それはいけません、この期に及んで妥協なんて似合いませんよ天子様。一切合切踏み越えて行って下さい」
天子たちの視界が一瞬白く染まったかと思うと、轟音を響かせて雷が通り過ぎる。
蒼き雷は空気を割りながら辺りを蹂躙し、迫りくる影を粉々に噛み砕いた。
電撃を放った何者かは、身に纏った羽衣をふわりと揺らし、天子たちの前に下りてきた。
「衣玖!?」
「お待たせしました、格好つけるには中々いいタイミングだったようですね」
そんなことを口に出したら台無しだろうに、わざと間が抜けた調子を出して衣玖が背中越しに顔だけで振り向いた。
通常の手段では倒せないはずの世界の異物たちを倒してみせた姿に、誰よりも紫は驚いている。
「ど、どうやったの今のは!?」
「龍神様から権限を上乗せしてもらいました、おかげさまで向こう側に追い返すくらいはできます。それと最終攻撃に関してもギリギリまで待ってくれるそうですよ」
あっさりと述べられたことに紫は仰天の連続だった。
そんな簡単に最高神が力を貸してくれるなど都合が良すぎる、普通なら有無を言わさず幻想郷を灰燼にしてもおかしくはないというのに。
「さっすが衣玖! 私の部下なことだけあるわ!」
「私の成果じゃありませんよ。龍神様がお力添えしてくれたのは紫さんの努力の結果です」
「私の……?」
「頑張ってれば見てくれている者がいる、ということです」
衣玖が嘆願したのは境界が崩れたことに対して龍神による最終攻撃の待ったと、羽衣から行使できる権限の増大。
重苦しい威圧感に耐えて状況を説明していた時は無理かもしれないとも思ったが、驚くほどあっさりと衣玖の願いは通った。
曰く――彼女の足掻きが実を結ぶのなら、それはそれで良いとのことだ。
龍神は長らく異物であるスキマ妖怪への対策を考えてきたが、同時にこの世界に溶け込もうとした八雲紫も知っている、だからこそ幻想郷の成り立ちからわずかながら協力してきたのだ。
再び影たちが沸いて出てくる。
無秩序に同胞が追いやられることに何も感じることはなく、狂ったように光を求めて同じことを繰り返す。
唸りを上げて直情的に飛び込んでくる影の群れに向かって、衣玖が羽衣を巻きつけた腕を向けた。
「今度は幽々子さんのときのように、臆したりはしませんよ天子様」
「えっ? そんなの気にしてたの」
「ええ、意外と」
二度、三度と繰り返し轟いた蒼雷が、近寄る影を片っ端から粉砕していく。
この場へ軽やかにやってきた衣玖だが、ここは現実として死と隣り合わせの戦場だ。
衣玖は本来、殺し合いの場に出てこれるような性分ではないのは、先の幽々子を相手に臆したことからも明らか、死に対して気後れする程度には常識人だ。
それでも、そんな穏やかな性格のはずの彼女は、今こうして戦っている。
今まで自分は天子の後を着いていくのが当たり前だった、それが映姫の言葉で何故そうしているのか疑問が浮かび、幽々子との戦いで天子が死にかけて揺さぶられた。
そして考えてみて、一つの結論に達した。
「天子様、昔の私は雲の中を漂うだけの人生でした。今思えばつまらないものでしたが、結構満足してましたよ」
別に衣玖は当時のことを思い出しても特に後悔を感じたりはしないし、それどころかあれはあれでよかったとも思う。
また一人の頃に戻ったところで寂しさを感じるのは最初だけで、普通にそこそこ満ち足りて生きていけるだろう。
「時折見れる緋色の雲の光景が好きだったんです。野蛮で力強く原始的で、地に根付く想いが映す天候は何よりもたくましかった」
地震が起きる前兆である緋色の雲は、地上に住まう様々な想いが蓄積されたものだ。
人々のみならず、妖怪から動植物に至るまで、様々な魂の積み重ねが生み出した光景は、個を圧倒する輝きを発し、そこから世界のうねりを感じるのが好きだった。
だから衣玖は現状に満足して、龍神へのおべっかや地震の知らせなどの仕事をこなしながら特別な望みなどなく生きてきたのだ、天子と出会うまでは。
「でも、あなたならもっとよいものを見せてくれる、そう信じているんです」
今まで自分は何一つ作ることなく、ただ見守るだけだった、それが永江衣玖の性質だ。
それを恥じることはしない、見守ることしか出来ないなら、きっと未来に素晴らしいことを成し遂げる彼女の行末を見守っていたい。
だから今度は怯えて遅れたりはしない、最後まで自分にやれることをやり通し、天子たちを見守り、支えとなる。
異臭が鼻を突く、境界を超えてきた影ではなく、実体のある肉が焼き焦げる嫌な匂いだ。
衣玖が手をちらりと見下ろせば、指先が炭化し始めている。
全能たる龍神から貸し与えられた力は、境界を超える存在をも焼き尽くす反面、衣玖の身にすら牙を向いている。
諸刃の剣が我が身を傷付ける痛みを感じながら、衣玖は躊躇なく叫んだ。
「ここは私達が食い止めましょう。何をする気は知りませんが、派手なのを期待してますよ!」
衣玖の気持ちを、天子は押し付けがましいとは決して思わなかった、それどころか勇気が湧いてくる。
心を許した相手から受け取る願いというものは、こんなにも力を与えてくれるものなのかと、驚きながら握った手に力を込める。
隣を見れば紫が力強い目で頷いてきて、天子はこの期待に応えるべきだと教えられた。
「衣玖、あんたがいなければここまで来れなかったと思う」
「私なんかがいなくても、天子様は同じ選択を取りましたよ」
「でも過程と結末は大きく違ったと思う、本当にありがとう。でもこれで終わりじゃないわよ、明日からだって面白いものを見せてあげるんだから、絶対に生き延びなさいよ」
「ええ勿論、これまでわがままに付き合ってきて討ち死にじゃ割に合いませんし」
「わかってるなら結構よ! ここは任せた!」
衣玖を飛び越えて、天子と紫が要石を引き連れて先へ進む。影たちの一部がそれを邪魔しようとするのを、衣玖は至極冷静に、淡々と作業をこなすように電撃で焼き払う。
しかし腕から感じる痺れと痛みが気になる。死ぬつもりがないのは本当だが、最悪腕が焼ききれるかもしれない。
まあその時はその時だ、主人に介護でもしてもらおうと気軽に考え、引きつる腕を無視して電撃を放った。
「随分と頑張ってるようじゃんか、ならサポートは任せなよ」
電撃を放ち続ける衣玖の耳元に、何者かが話しかけてきた。
首だけで振り返って背後を見ると、周囲から霧が集めってきて見慣れた子鬼の姿が現れた。
「萃香さん、調子が悪いのでは?」
「そうも言ってられないさ、まあ雑魚を萃めるくらいはなんとかなるよ」
萃香はそう言って機嫌が良さそうに酒を呷る、彼女も天子と紫が手を取り合うところを見たのだ。
「あなたも何だかんだ言って付き合いが良いですね」
「どこぞの馬鹿の影響だね。あいつにゃ散々、恩を着させられたし」
過去を思い出し、萃香は口元を歪めて渋い顔をする。
「本当にバッカだよねー。恨まれるってわかってるのに手を差し出すなんて、私といいこの幻想郷といい」
「幻想郷はすべてを受け入れる、ですか」
「そうその通り、そんでもって残酷なことに救われちゃったりするんだなこれが」
苦い溜息を吐いて萃香は手を振り上げる。
密と疎を操り、蠢く影たちが結界の外へ這い出ないよう引き寄せた。
「ほーらこいこい! お前達に宴の場所になんて行かせてやらないもんね、私らと一緒に隅っこで仲良くしような!」
単純な腕力や死の概念も通じない相手だが、直接滅ぼす力ではない萃香の能力は効果的だったようだ。
地上を埋め尽くす影の群れが波打ったかと思うと、上空の萃香に引き寄せられていくつもの人型がドロドロに溶け合った影から分離して姿を現す。
四肢を手で構成し、体中に気味の悪い目を見開いた影が、一つ、また一つと這い出ると、空へと浮かび上がってくる。
わかりやすい形で増えていく敵を前にして不敵に笑う衣玖と萃香であったが、影が空の三分の一も埋め尽くすと余裕が崩れ、絶えることなくワラワラと沸いてくる影が、比率を逆しまにするころには目を剥いて冷や汗を垂らしまくっていた。
気が付いた時には、二人はバケツを引っくり返したような数の影に囲まれていた。
「集めすぎですよお!?」
「うわあ、ちょっとタンマタンマ!」
萃香が能力の使用を中断するがもう遅い。
感情のまま飛び掛ってくる影たちに衣玖が全方位に向かって五芒星を模した雷をばら撒いたが、撃ち漏らしが何体か雷をくぐり抜けてくる。
「うわわわわ!?」
「さようなら天子様、あなたに出会えて幸せでした……」
「早々に諦めんなぁー!?」
衣玖の迎撃は間に合わない、かと言って萃香では影への攻撃手段を持たず、万事休すと言ったところで刃が閃光のように奔った。
絡み合う二刀の太刀筋が境界を結び、念願の光を浴びていた影たちを、本来あるべき境界の隙間へと強制的に送還する。
竦み上がっていた衣玖と萃香の前で、飛び出してきた剣士が半霊を漂わせて剣を振りかざした。
「なんだかわかりませんが、とにかく斬る!」
愚者のままの物言いで、己の命の真理を得た妖夢は空を飛び回り、陰と陽の二刀にて影を斬る。
「私にできることは斬ることだけ。ならば片っ端から斬って斬って事を収めましょう!」
おかっぱの髪の下から迷いなき眼光を放ち、周囲の敵影を見つめた。妖夢もまた加勢に来てくれたのだ。
「妖夢か! やるもんだね、助かったよ」
未熟さを感じさせない佇まいを見せる半人半霊の少女に、萃香は成長したなと感嘆の声を漏らした。
何があったのかは知らないが、今の妖夢の姿にはこれまでにない意志が宿っている。
衣玖もこれなら安心して任せられると、羽衣の行使に集中した。
「妖夢さん、撃ち漏らしをお願いします!」
「はい、お任せ下さい!」
近距離防御役が現れたことで、衣玖は自らに近寄る敵影に構わず雷を撃ちまくり、遠方にいる大量の影を吹き飛ばす。
自傷で痛む腕のせいでムラのある攻撃であったが、その隙間を縫って襲い掛かってくる影に関しては妖夢が対処した。
目にも留まらぬ踏み込みで影の懐に潜り込むと、二刀を持ってこの世界から斬り捨て、即座に身を翻すと返す刃で次の影を斬る。
萃香も動転した気を持ち直すと、能力を適度に使用して、やりすぎない程度に影の目を集めた。
「よし、いい感じですね」
即席のメンバーだが、役割分担が完成しつつあった。
各々思うことはあるが目的は一つ、天子と紫を助けることだ。
誰もが自然と笑みを浮かべる、二人の足跡が力となって、段々と集まってくるのをみんなが感じていた。
「そういえば、橙のやつはあの後どうしたんだ? あいつ、家にいたんだろ」
「橙さんが?」
衣玖と萃香が妖夢へ目を向けた。
妖夢は一瞬言葉に詰まる、わずかにぶれた剣先を瞬時に整え、近付く影を切り払った。
「……橙なら、戦ってます。誰よりも危険な場所で、家族のために」
◇ ◆ ◇
戦闘開始からおよそ半刻、一秒ごとに戦況が悪くなるのを霊夢は肌で感じるのを逃れられずにいた。
境界の歪みは加速度的に増していき、緩んだ穴から際限なくやつらが溢れてくる。周りは文字通り山のように影がうごめいていて、もはや一見すると地形にしか見えないほど巨大で無数だ。
霊夢が結界の修復手段を持たない以上、影の住人をいくら滅ぼそうとも切りがない。
それどころか、眼前にはもっと酷い光景が広がっていた。
霊夢すら圧倒するのは、世界が崩れ物理法則すら支離滅裂に乱れた黒い霧。
境界の崩れた穴を中心に広がるそれは、物理法則すら崩れて崩落した空間そのものだった。
霧状の虚無は幻想郷を飲み込もうとするかのように球状に膨らんでいて、夜の闇よりなお暗い威容を見せつけている。
「霊夢! いつになったらこの耐久終わるんだあ!?」
魔理沙の泣き言が響くが、明るい言葉は何も返せない。
そもそも霊夢の持ちうる情報からすれば、境界が崩れた時点で幻想郷は詰みだ、いくら霊夢が無敵だろうと世界から浮かび上がるだけではどうにもならない。
ここまで来て得た結果が幻想郷からまるごと夜逃げなど、それじゃ諦めがつかないから意地になっているに過ぎない。
どうすればいいかわからず、抵抗するしかない霊夢に遠くから声が届いた。
「――霊夢! あなたもここにいたの!?」
声の方向へ振り込いて霊夢だが、両手を広げて突っ込んできた影が邪魔になって誰かは見えない。
視界を遮る影をお祓い棒で吹き飛ばすと、その向こう側に手を繋いだ紫と天子、それに二つの要石があった。
「紫!」
「と天子!? 何でこいつもいるんだ、最近あいつら仲いいな」
ここまで紫が来たことに何か意味があることを感じ取った霊夢が、眼下より浮かび上がってくる影たちを一望する。
疲弊した霊力を上手くコントロールし、できるだけ少ない消耗で、かつ周囲を一掃できるだけの力をまとめ上げた。
「神技、八方龍殺陣!!」
練り上げた霊力が力場を形成し、霊夢を中心とした光の柱が作り出される。
上空から突き刺さってくる陣に地上の影は悲鳴を上げて消え失せていき、彼奴らが消えた後に抉られた地面が顔を出した。
十分に影を打ちのめしたあとで陣が解除されると、紫と天子が霊夢のそばに飛び込んできた。
数秒間だけ形成された安全地帯に魔理沙も加わり、すかさず霊夢は紫へ視線を向ける。
「紫、何か手は!?」
「ある! 私と天子が崩れた境界を結び直す。そのためには、境界が崩れた中心部に行く必要があるわ!」
ようやく勝利条件が見えてきて、霊夢の顔が希望で明るさを見せた。
魔理沙もこの話を聞くと気力を取り戻したようで、闇夜に高々と声を上げた。
「なら、決まりだな!」
魔理沙は力を振り絞って笑顔を作ると、八卦炉を取り出して球状の暗黒に向ける。
「今度こそ全力で行くぜ!」
『さっきからこっちは必死よ!』
『むきゅう、息する暇もないくらいキツイわね』
反論されつつも、なけなしの魔力が魔理沙の元へと転送されてくる。
許容量を超えた魔力に魔理沙の体内の回路が大きく唸りを上げ激痛が走るが、魔理沙は冷や汗を流しながらも笑顔を崩そうとせず八卦炉を構える腕を降ろさない。
その背後に霊夢が回り込み、色とりどりの光弾を作り上げて浮遊させた。
「夢想封印!」
「マスタースパーク!!!」
放たれた光弾が霧へと向かうのを追い越して、魔法の閃光が暗闇に線を引く。
森羅万象の理を識ろうと手を伸ばす魔女たちの力が、世界を正して暗黒へ続く足掛かりを作り上げる。
黒い霧に突き刺さった魔砲は周りの霧を押し退けてると、そこへ霊夢の光弾がなだれ込み、内部で霊的な爆発を引き起こした。
八卦炉からの光が途絶えた時には、霧の表面から内部へと続く道ができていた。
「行って! 紫!」
「ミスんなよ紫!」
「ちょっと! 私もいるんだけど!?」
いてもいなくても変わらないような扱いを受けていた天子が、怒って騒ぎ立てる。
しかし魔理沙はなぜよりにもよって紫の隣にいるのがこいつなのかと、白けた顔で天子を見てきた。
「役に立つのかお前?」
「何当たり前のこと言ってるのよ! そうよね、紫?」
天子が問い掛けると、紫はふわりを笑みを浮かべて言葉を返した。
「ええ、天子は私に必要な人よ」
その笑みが、いつも胡散臭い妖怪のものにしてあまりにも眩しすぎて、ぽかんとあっけに取られる魔理沙に、天子は勝ち誇った顔を浮かべた。
そして紫に負けないくらいの笑みを浮かべると、二人一緒に崩れた霧の中へ突入した。
◇ ◆ ◇
境界に開いた穴に一番近い戦場で、橙の孤独な戦いは続いていた。
周辺の空間は半ば混沌と同化した。空に浮かぶべき星と月はとうに消え去り、永遠の闇だけが包み込んでいる。
重力も失われた世界で上も下も関係なく、そこらじゅうから境界の住人が沸いてくる。
取り囲まれる中で、橙はボロボロの傘を振るった。
「境界よここに、三重結界!」
跳び跳ねながら開いた傘を自らの体ごと振り回し、傘の先端に橙色の境界を展開する。
飛び掛かってきたいくつもの影は、近づいた端から無軌道に回転する結界にバラバラに引き千切られて行く。
しかしまともな思考もできない影たちは、感情のまま橙を追いかけるのを止めなかった。
――――私たち に も 寄越せ ええええええ
泣き叫びながら伸ばしてくる手には哀れさすらあったが、行われるのが略奪である以上、橙は一切の容赦を持たなかった。
だが手数が足りない、全周囲が嘆きに溢れる現状、ただ結界を張るだけでは迎撃が間に合いそうもない。
橙は一度傘を閉じて背中に背負うと、空中で大きく引き下がって、そこに地面があるかのように四つん這いになった。
「即席! 自由気ままな三重結界!」
両手両足、そしてしなやかな二股の尾の先に結界が展開される。
橙色の結界はサイズこそ小さいが、込められた力は先程と比べても遜色ない。
周囲から影が立ち並び、向かってくるとともに橙もまた空を駆け出した。
両手を前に伸ばし、脚を思いっきり伸ばして前に飛び出すと、同時に四肢から結界が放たれ橙の周囲を走り回った。
四肢の動きに連動して、四つの三重結界は縦横無尽に駆け巡り、橙に伸ばされた魔の手のことごとくを駆逐した。
そんな中でも結界をかいくぐって飛び込んできた影が橙の背中に触れようとし、寸前のところで尻尾が振るわれ、先端の結界が手を切り裂いた。
「くぅ、これ、疲れる……!」
一旦攻撃の波が引いたところで、橙は結界を解除すると苦しそうに頭を押さえる。
結界を使用するにあたり式を利用しているが、演算の度に脳がズキズキと痛んで限界を訴えてくる。それに境界線を見つめすぎて、目の奥も火傷したみたいに熱い。
だがここで音を上げる訳にはいかない。幻想郷保全の最終フェーズが開始すれば紫は永遠に誰もいないこの場所に自ら封印される、そんなことはあってはならない。
もしも紫様が自身が生き残るために策を講じるならば、ここで自分が敵の目を引いて足止めすることには意味があるはずだと、そう思い、橙はあるかもわからない可能性のために、迷うことなく命を懸けた。
焼き付きそうな脳と眼孔に活を入れ、なんとか戦闘態勢を取ろうとした橙が自分を包もうとしている巨大な影に気がついた。
「マズ――」
複数の影が連結して、巨大な口のような形を成して橙を飲み込もうとしている。
ご丁寧に牙まで真似たそれに気づいた橙は、逃走か迎撃かを迫れられ、前者を選択した。
上下から迫る顎から全速力で逃れる橙であったが、口の外に出ようとしたところで別の影が橙に襲いかかってきた。
四肢を手で構成した人型の影が目の前に四体。
この程度なら止まることはない。橙は背中から傘を手に取って突きつけると、先端に展開した三重結界で薙ぎ払った。
だがその時に生じた硬直の隙を突いて、牙から伸びてきていた手が橙の左足首を掴んだ。
「ぐっ!?」
靴下越しに焼けるような冷たさが伝わってきて、橙は悲鳴を上げてしまった。
足先に結界を作り掴んできた手を即座に弾き返したが、靴と靴下はすでに崩れ落ちてしまい、その下から皮膚が溶け筋肉の一部が露出した足があらわになる。
激痛を堪えながらもなんとか前へ出て、閉じた影の顎からすんでのところで脱出できた。
危機を回避したことから足が無事かということに意識を割いてしまう、そこに口の表側から影が分裂して飛び掛かってきた。
わずかに橙の反応が遅れる、思考の枷となる痛苦を振り払って結界を作ろうとするが、間に合わないと脳裏に計算が出た。
無我夢中で何も考える暇もない中、橙は振り返る視界に一瞬だけそれを見た。
闇の中を進む、緋色と紫色の輝きを。
「――天子! 体力も回復して、短距離なら空間を繋げられる!」
「よおし、要石!」
かき混ぜられた空間に突入した天子と紫は、闇の奥で追い詰められようとしている橙の姿を見つけていた。
天子は大量の要石を自らの周囲に作り出すと、そこに反転した気質を押し込んだ。細かい操作が無理でも、これくらいなら天子単独でも出来る。
紫は気質が装填されてからコンマ一秒のタイムラグもなく、要石にスキマを開いて空間を繋ぐと、橙を取り囲む影から更にその外側を囲むように移動させた。
配置についた要石が影の背後で爆発して、気質の篭もった破片となって周囲にばら撒かれた。
突然の爆撃に影たちは次々と破片に打ちのめされて、橙へ辿り着く前に無数の穴を身体に開けて崩れていく。
残ったのはそれを物ともしない巨体を誇った影の口だけ。それが再び顎を開けて橙に食らいつこうとした時、橙の身体を守るように片腕が抱きしめ、横にスッと伸びてきた白い手がかざされた。
「――八重結界!」
指先から展開された結界が、顎の中から広がって影の集合体を空間ごとバラバラに引き裂くのを、橙は口を開けてみていた。
破裂した風船みたいに当たりに散っていく影の切れ端から目を離し、目を丸くしていた橙がゆっくりと身体を振り向かせる。
そこにいた大切な家族に、身体の芯が熱くなる。
自分を見つめる優しい微笑み視界が滲んだ。
「橙、大丈夫?」
待ち望んでいた穏やかな声に、目元が緩むのを止められなくなった。
「ゆかり……さま……」
呆然と唱えた橙が思わず傘を手放し、頬を濡らして紫の胸元に抱きつく。
紫は柔らかな身体で抱きしめてくれて、腕の中で感動に打ち震えた。
「ゆかりさま……ゆかりさまぁ……! 良かったです、紫様……!」
喉を震わす嗚咽が、冷たい闇の中を伝う。
そばで天子から温かい目で見守られながら橙を抱きしめる紫は、改めて橙の身体の小ささに驚いていた。
こんな小さな体で傷つきながらもなお、なんて頑張ってくれていたんだろう。
それが誰のためなのかはこの涙が伝えてくれる、服に滲んだ涙の熱さに、紫は橙をたくさん褒めてあげたかった。
だけどそんな時間はないと、空間の軋む嫌な音が告げてきた。
地鳴りのような音に反応し、紫が今まで辿ってきた進路を振り返り、橙もそれにならって同じものを視た。
「どうしたの、何よこの音」
「状況が変わってきたわ……橙」
「はい、視えました。やつら戻ってくる」
二人が見ているのは異変の中心ではなく外側だ。
「紫様と天子のことを警戒してるんだ! このままじゃ、外に向かって広がっていた影が一気に押し寄せてくる!」
「それってヤバイんじゃないの!?」
「当然、よくない状況よ。やつらが集まってきたら空間の密度が更におかしくなって、境界を正すのが難しくなるし、結界の展開を邪魔される恐れもある」
ただでさえ目的地の中心からは境界の住人が這い出てきているのだ、これに加えて今まで散っていた影が戻ってくれば挟み撃ちになる。
橙は周囲を漂っていた傘を迷わず握ると、決死の覚悟で紫たちに背中を向けた。
「紫様は先へ行って下さい、ここは私が!」
「何言ってるの橙、あなたももう限界じゃない!」
「四の五の言ってる場合じゃないって子供でもわかります! 紫様は自分を助けるためにここに来たんじゃないんですか!?」
橙の言うことは正論だ、この状況においてはそれが最善だ。
だが紫にはそれはできなかった。
「私は、紫様をお助けしたいんです」
紫は自らの意思で橙を見捨てては行けない、橙が死ぬくらいなら代わりに自分の身を差し出す女だ。
この場で先へ進むかどうかの選択肢を与えられたのは紫本人ではなく、この光景を見守っていた天子だ。
進むか退くか、二つの道に天子は焦燥を募らせる。
紫が拒もうが強引に手を引いて前へ迎えるのは天子だけだ、だがしかし天子こそ、紫を諦めまいと願い、ここまで絶対にその信念を曲げなかったのだ。
ここにきて紫に諦めろと言うことは、天子にもできなかった。
紫と握り合うべき手は震え、二人の間を彷徨った。
「――私が槐安通路を伸ばせるのはあなたの家の結界までが限界です、それ以上は自力でたどり着かないといけません」
あまりに遠く、とても近い異界の果てで、ナイトキャップをかぶった獏の眠たげな目が境界を見つめる。
「夢はどこまでも広く、どこにでも行ける、しかし裏を返せば迷い易いということです。ここから先は境界が崩れた影響で時空が歪んでいて、下手をすれば気が付いた時には宇宙の果ということもありうる。道標はあなたの想いだけ、わずかな迷いがあれば別の場所に飛ばされます。帰りのことはわからない、それでも」
「それでも行くさ」
向かう先は想像を絶する困難。そう言い含められても、隣にいた式神は信念を口にした
「あそこが、あの二人のいるところが、私の帰るところだ」
夢の夜を金色の尾が奔り出す。
道なき暗闇、狂気すら意味をなさない果てを目指し、燃え尽きそうなほど速度を上げる。
衝突して引き伸ばされる空間がその身を擦り切り、美しき尾から血が流れてもなお疾く。
流れる視界は意味をなさず、行き先すら不確かなまま踏み込み続ける。
主に従い続けた過去は遥か遠く、明日へと続く境界線に我が身をぶつけた。
「紫様!! 橙!!!」
理が崩れた領域にて、想いの一つで光も超える。
成ったのは尾を引く彗星、闇すら切り裂く凶つ星。
空間を突き抜けて出きた黄金の閃光は、爪先にまとった紫色の灯火で影を裂き、崩れた暗闇を縦横無尽に駆け巡る。
――そして見つけた、共に幸せを分かち合うべき家族を。
紫たちの目の前で閃光が跳ね回った、細切れにされた影の残骸だけが漂っている。
大妖怪たる紫の眼を持ってすら追いつけない神速を以て、紫炎を宿した白面の狐が紫と天子の退路に立ち塞がり、血を滾らせる九つの尾を広げた。
「八雲藍、ここに参上いたしました!」
思わぬ加勢に、誰もが言葉を失った。
「藍、様……?」
「やはりここにいたんだな橙、お前ならそうすると思っていた」
なんとか名前だけをひねり出した橙に向かって、藍は我が子の成長を見るような誇らしげな顔で笑った。
一番衝撃を受けていた紫が、衝動的に言葉をぶつける。
「藍、どうやってここに!? いや、それよりも大結界の調整は!?」
「無論、速攻で終わらせましたとも! 故にこのくらいのわがままは大目に見ていただきたい!」
吠える藍の爪先に灯るのは、術式により反転した負の気質。
彼女が努力の果てに到達した境界をも超えるその力で、主人の元へ集まろうとしていた影を駆逐せしめたのだ。
「ドレミー・スイートより伝言です。あなたを疎ましく思っていますが嫌ってはいないとね、存外みんなから好かれてるじゃないですか」
「まさか、槐安通路からここまで来たの……!?」
あまりにも無謀な試みだ、この周囲の空間は根本から崩れ落ちており、異界から直接転移してくるのは紫ですら叶わない。
万が一にも成し得ないはずの所業に身を投じた藍を、紫は信じられないという眼で見つめている。
「藍……どうしてあなたは、そこまでして私を助けてくれるの」
「あなたの家族になりたいからですよ!」
過去に幾度となく繰り返された疑問に、藍は長き主従関係の最後に自らが得た答えを掲示する。
「紫様、私は幽々子嬢の死に泣いたあなたに光を感じた。仮にも妖怪の姿で現れたあなたがそれにたどり着けたことに可能性を感じた」
元々、藍は自分に家族愛などいらないと、手に入らないものだと思っていた。
悪狐の性として男をたぶらかし、上っ面だけ取り繕った愛だけを抱えたまま、最期には誰からも見捨てられて惨めに死ぬ、妖怪の最期なんてそういうものだと思って悲観していた。
だが無理やり自分を拉致して式神としてこき使っていた紫が、友の死に涙するのを見て自らの価値観を大きく揺さぶられた。
仮にも妖怪でありながらこんな風に泣けるやつがいるのかと、彼女なら自分の死にも泣いてくれるのではないのかと。
自分も泣いてもらって良いのかと。
「私は死の間際に泣いてくれる誰かが欲しかったんです、だからあなたがそばにいてくれるだけで良かった。でもそれだけじゃダメなんですね」
家族の中にある愛を幻想し、死に際まで共にあるよう願って紫に従い続けてきたが、それだけではどこまで行っても使い魔でしかないのだ。
だから今度は盲目的に従うのではなく、自らの心を伝え、お互いのことを話し合える関係になろうと思う。
そんな理想にいち早く辿り着いた天の少女に、藍は目を向けた。
「紫様、私はね、そこのワガママ娘と同じなんですよ。この先の幻想郷にも、あなたがいなければ納得なんてできない」
散らされた影の向こうから、新手が次々に現れる。
藍は天子から目を逸らし、再び家族の敵を見据えた。
「あなたには何としてでも生きていて欲しい!」
新たに押し寄せてくる影の波を前に藍は猛然と駆け出した。
気質をまとった手刀にて、近寄る有象無象を片っ端から引き裂き散らす。
跳躍する五体に絶望感などどこにもない、あるのはただ希望に向かう言いようのない高揚感。
終わりのない闇の中で、己の内に生まれた光を胸にして喉を震わせた。
「フハハハ! 大切な誰かのために走るというのは気持ちがいいな! 通りで負けないわけだな天子!」
張り切りすぎる藍を前にして紫は狼狽していたが、橙はかつてない歓声に藍の本気を知り、また覚悟を決めた。
死地を走る覚悟ではない。大切な家族とともに、生きて明日を迎える覚悟だ。
「境界よ今こそここに、我ら三人、家族の想い重ね合わせ、ここにありしは大結界」
傘の先から重ね合った境界が広がっていく。
球状に広がっていく結界は境界が崩れた穴の周囲を取り囲み、外側から入れないよう壁を作ったが、唯一橙がいる地点にだけ抜け道を作っていた。
これで嘆きのまま走ることしか出来ない単純な影たちは、この場所を狙って集まってくるはず。より激しい戦場になるが、ここさえ守りきれれば紫たちの障害の半分は取り除かれる。
「紫様、ここは私と藍様に任せて!」
「この先に可能性があるなら、私達の望みも連れて進んで下さい。みんなが本当の家族になるために、あなたの往く道を支えさせて下さい!」
背中を見せる家族の気持ちに、紫は胸がはち切れそうだ。
こんなにも自分を愛してくれる家族がいる、みんなに迷惑かけてばかりの自分をこうまで支えてくれる。
ならば紫にやることは一つ、彼女たちの想いに感謝と共に報いるのだ。
それが正しいことだとわかっている天子が、いち早く紫の手を取った。
「行きましょう、紫!」
真っ直ぐな目が未来を語りかけてくるのを、紫は強く握り返した。
「藍、橙、全部終わったら思いっきり抱きしめたいから、怪我をしないようにね」
「その言葉、覚えましたから。後で恥ずかしいから止めってのはナシですよ。ではご武運を!」
「天子! 紫様は、けっこう危なっかしい方だから、頼んだよ!」
「もちろんよ!」
愛する家族を守る藍と橙は、背後から気配が遠のいていくのを感じる。
だがこれを寂しいとは思わない。夜に眠る前のおやすみと言うように、これを温かく受け入れた。
「ご機嫌ですね藍様」
「ああ、こんなに気分がいいのは生まれて初めてだよ。今ならなんだってやれそうだ」
「こんなに強気な藍様は珍しいです」
「ははは、むしろこれが地さ!」
自らを縛っていた枷から解き放たれ、藍は快活に喉を震わす。
いつもの冷静さを捨てて態度を豹変した九尾の姿に、橙はむしろ素敵だと思って釣られて笑みを零す。
「さあ、行くぞ橙!」
「はい!」
二人の式神が押し寄せる影に立ち向かうのを紫は背中で感じながら、家族の言葉を思い返して苦笑した。
「あの二人ったら、あんなこと言って」
「でも、良い家族でしょ?」
「ええ、本当に」
天子の問いに、自分にはもったいないくらいだと紫は二の句もなく頷く。
もはや憂いはなく、世界が入り混じった混沌を行く二人であったが、入り混じった思念が眼を開けて、希望を持って進む二人を見た。
戻ってきた 戻ってきた 裏切り者が戻ってきた
何のために 何のために 何のために
まさか また裏切る気か 我らから奪う気か
ようやく手に入れた この熱を
――キィィィエエエエェェエェアアアアアアア
「はん! 紫から奪ってきて虫が良すぎるのよ!」
「熱いか冷たいかでしか考えられない、その隙間にあるものをわからないあなたたちに、この世界の輝きは渡せないわね」
気丈に言い放つ二人の前に、今までを遥かに超えた物量が蠢いた。
崩れた境界から押し寄せる影が次々と形をなし、文字通り他に何も見えないほどの敵影が現れる。
しかも今度はがむしゃらに飛び掛かってきただけの今までと違い、はっきりとした敵意を持って、より戦闘に適した形態を取っていた。
あるものは四つん這いの獣なって、あるものは手を翼のように広げて、あるものは隣の影を握って武器のように振り回し、あるものは周囲の影を飲み込んで吸収し十メートルはある巨人へと成り果てた。
「天子、緋想の剣に気質を注いでこっちに」
天子は紫から手を離して緋想の剣を持つと、言われたとおり負の気質を注ぎ込んで、不安定な紫色の刀身を作り上げた。
風に吹かれて揺らめく篝火のような剣を差し出すと、紫が天子の上から手を重ね、気質の操作系に介入した。
すると瞬く間に気質がピンと張り詰めて細く熱く集中し、小さく音を響かせて鋭い刃が形成された。
「気質を集中して保たせた、後は好きにしなさい」
「よし、要石の牽引は任せたわ」
天子が神通力による不可視の紐を要石から解くと、紫から伸ばされた妖力が二つの石を掴んだ。
速度を抑えた紫を置いて前に出た天子は、一度だけ振り向いて歯を見せて笑う。
「じゃあ紫、私のこと見ててよね!」
天子が圧倒的物量へ飛び込んでいく。
突貫する少女に、影たちは各々構えを取って出迎えた。
戦い 戦い 知っている
殺すか 殺されるか 生きたら勝ち 死んだら負け
遊び 遊び 遊び
「むっ、カッチーンと来たわ。何よそれ」
こと楽しいこと好きな天子が、遊びというワードに反応した。
勿論それは好意的な反応ではない、納得がいかないという彼女特有の押し付けがましいわがままだ。
「それだけの殺気を出してて遊びだなんて無粋ね、なら私たちが本当のゲームを見せてあげるわ!」
伝わってくるざわめきに天子は剣を振りかざす。
獣のような影がすばしっこく空間を跳ね回り、死角を取って襲おうとしてくるのを、天子はよく引きつけてから緋想の剣で顔から胴体まで串刺しにした。
そのまま剣を振り抜いて獣の影を裂くと、目玉の付いた翼を持った影が自らの身体をすり減らして弾丸を作り上げ、翼の目から飛ばしてきた。
天子の現在位置と未来位置にそれぞれ放たれた弾を、天子はわざとスカートを大きく振り回して華麗に避けてみせた。
裾についた極光の飾りがすれ違う闇の中で煌めいて、天子の姿を際立たせる。
かすりもせず避けきった天子は、棍棒のようなものを振り回す影に対し、あえて最初の二撃を打ち込ませた。
振るわれる棍棒を身を捩るだけで避けてみせた天子は、三撃目でその出掛かりを狙って武器の根本を緋想の剣で突いた。
力を込める前に押さえつけられた影が、無様にも武器を捨てて強引に体当たりを仕掛けてくる。
ここで影を切り捨てるのは簡単だったが天子はそうせず、剣先で相手を撫でるように押し付けて力を受け流すと、身体を回転させて影の背後に回り込んだ。
「遊びが視えるわよ天子、悪い癖ね!」
「何言ってるのよ、こいつらには見せつけてやらなきゃ!」
紫からの注意に笑って返した天子へ向けて、奥で佇んでいた巨体が手を振り回した。
影の味方ごと巻き込んで迫ってくる手を前に、天子は巨大な要石を作り出して剣の気質を少し移すと、真正面から打ち当てた。
気質を持って打ち据えられた要石は衝撃で砕け散ったが、同時に無理やり作られた巨体の腕もあえなく分解し、吸収されていた影が破片から元の形を取り戻す。
天子は不敵に笑うと、あえてその影の群れに飛び込む。要石の瓦礫を蹴って縦横無尽に動き回り、宙を漂う影を切り裂いた。
その動きはまったくどれもが戦いに勝つことを意識したものではなく、無駄ばかりが目立っている。
それなのになぜ、これほどにも洗練された美しいものとして眼目に映るのか、影たちにはわからなかった。
生き死にの中でありのままの自分で競う天子の姿に、困惑している他ない。
「やれやれ、楽しそうにしちゃって」
呆れたように息を吐く紫であったが、その目には僅かな嫉妬が爛々と燃えていた。
その対象は天子ではなく、彼女が立ち向かう大勢に向けられたものだ。
「でも私ならもっとあなたを楽しませられるわよ」
紫がゆるく持ち上げた両腕を広げて、背後に弾幕を浮かび上がらせた。
弾幕は緩やかな弧を描いて展開されていき、天子を取り囲むように円の形をとる。
「深弾幕結界、夢幻泡影」
紫が抱きしめるように腕を閉じると、天子の周囲を弾幕が飛び交った。
今までと違いより戦闘を意識して動き回る影たちであったが、理論立ててこの弾幕を避けようとしてもことごとくが撃ち抜かれた。
それもそのはずだ、この弾幕は影を倒そうとして放たれているのではない、天子だけを目標として撃ち込まれているのだ、故に自らが狙われていると考えて避けようとすれば逆に当たる。
その中心にあって天子は自らを包み込む弾幕を、見もしないまま軽やかに避けていた。
この状況において紫が自分を狙ってくるのなんてなんとなくわかっていたし、どこにどう打ち込んでくるのかも手に取るようにわかった。
最初の軽い牽制を受け流し、本流となる弾幕の隙間を縫って飛び跳ねる。時に激しく、時に強く、けれどどこか相手のことを気遣った意識の流れに自らも合わせる。
そして大量の弾幕を避けきって少し体勢が崩れた頃を狙って飛んできた本命を、剣を打ち付けて弾き飛ばした。
刀身から飛び散った弾幕の火花から、安心すら感じる。こんなものただのじゃれ合いにすぎない、天子はただ踊るように舞った。
天子が飛び回る傍らで、彼女を抱擁する紫の弾幕が次々と影を討つ。
闘争心を引き出したはずの影たちは、手も足も出ないまま倒されていき、消滅の間際に目を見開いて二人の弾幕ごっこを瞳に映した。
これはなんだ 合理でもなく 不合理でもなく そのあいだに見える力は
わからない わからない 理解できない
影たちは天子と紫のあいだにある見えない繋がりをしかと感じ、自分たちの理解の外側にある何かに、恐怖すら抱いておののいた。
貪欲に喰らおうとしていた影たちの動きに変化が現れる。恐れが伝播し迷いを生み、その足を止めさせる。
どよめいた影がわずかに後退するのを見て、天子が紫へ振り向いて手を伸ばした。
「さあ、紫!」
「ええ、天子!」
紫が要石を引き連れて天子へ近付くと、差し出された手を取り合い、もう片方の手で緋想の剣を一緒に持った。
要石に貯蔵された膨大な負の気質を緋想の剣へと抽出すると、紫がその力が向かう方向を導く。
大きく燃え上がった紫色の灯火が、二人の手の中で収束し一旦静まると、爆発的に広がった。
「全妖怪の――」
「――非想天!!」
光線として周囲に放射された気質が、怯える影の群れを薙ぎ払っていく。
わずかに広がりながら突き進む気質に、影たちは抵抗する力すら持てないまま輝きに突き刺されて滅び去る。
はるか遠くまで紫色の閃光が通り過ぎた後は怨嗟の声も静まり返り、境界が崩れた時空の穴の中心部までの道を作り上げた。
「行くわよ天子、決着を付けましょう」
すべての障害も消え失せて、二人はつい境界の穴の直下にまで辿り着いた。
右に紫が、左に天子が並んで、二人一緒に緋想の剣を持ち、その両脇に気質を込めた要石を浮かばせる。
紫のそばで紫色の気質が、天子のそばで緋色の気質が燃え上がった。
「天子、ありったけ注ぎ込んで!」
「よし、これでおしまいよ!」
正と負、二つの気質が緋想の剣を通して刃となると、紫色と緋色の光刃が反発しあい、螺旋を描いて伸びて行く。
刀身から溢れ出した大量の気質が霧となって周囲を覆い渦を巻いた。
「気質の同調開始、非想結界展開、境界を再構築する!」
二種類の霧は紫の意思のもとに幾何学的な紋様を映し出し、二人を囲んで互いに重ね合わされた。
更に内側から同じものが次々と生成されながら広がっていき、崩れた世界に境界線を敷いていく。
二人の周囲から暗黒が払われ、時空の穴を塞ぐように結界を重ねると、目に見えて穴の大きさが小さくなってきた。
これなら行ける、と天子は嬉しそうに笑みを深める。
――やめろぉぉぉぉおぉぉぉおぉぉぉぉぉおぉぉぉぉおぉおぉおぉおぉおおお
しかし鳴り響いた声に、余裕は打ち消された。
やめろ やめろ やめてくれえぇぇぇえええ
奪うな 奪うな 私から 僕から 俺から 我らから 光をおぉぉおお奪うなああぁぁああああああぁぁああ
緋色の結界の動きが徐々に鈍くなり始める。
次々生成される紫色の結界に追いつけなくなり、境界線を震わせながらゆっくりとしか展開させられない。
「これは……!?」
「拙いわ、奴らが!」
紫が見上げた先にいたのは、結界が敷かれる向こう側で蠢く影の住人たち。
光を求めて止めない彼らは、苦しそうなうめき声を上げながらこちらを見つめ、結界に無数の手を叩きつけてくる。
嘆きは増大し、呪詛が空間を歪ませ、閉じようとする境界をこじ開けてくる。
「境界の修復を邪魔してくる……ダメだわ、このままじゃ気質が足りない!」
紫が苦しそうなうめき声を上げた。
抵抗はあることは予想していたが、所詮は自らの足元すら覚束ない、恨み妬むことしかできない存在のものだからと楽観視していた。
しかしこれほど切実な叫びを上げてくるとは。
隣を見る天子の前で額に冷たい汗を掻き、眉の間に焦りをにじませる。
「幻想郷の気質だけじゃ、境界を支えきれない……!」
反転した気質だけなら周囲の影を消滅させたうえで境界を支えるに十分な量があった。
だがこちらの世界の気質が足らないのだ。
展開された緋色の結界が内側から徐々に崩れていくのが天子から見え、縮まりかけた穴がまた大きさを増していく。
あともう少しなのに、望んだ結末が遠のいていくのに天子は諦めきれず剣を強く握りしめた。
「まだ……まだこんなもんじゃ……!」
「すぐに気質の放出を中断して! バランスが崩れて、反転した気質が逆流してくるわよ!」
「でも、このままじゃ!」
緋想の剣が不気味な音を立てたかと思うと、柄にヒビが入り、割れ目から紫色の光が漏れ出す。
紫の警告を無視した天子だったが、剣を通し気質が身体のうちを駆け上ってきて、そのまま心臓を貫いてきた。
心が溶けるような得体の知れない感覚に天子は目を剥くと、口を開いて大きくのけぞる。
「天子!」
意地でも剣を離そうとしない中、紫の呼び声が遠のいていき、代わりに耳鳴りが大きくなっていく。
天子の意識は裏返り、虚無の向こう側へ心が沈んでいった。
◇ ◆ ◇
次第に耳鳴りが薄れていき、思考にかかった霧が晴れていく。
上も下もわからない中で、真っ白に塗りつぶされた情景に何故か自分が目を閉じてるんだと気がついた。
ゆっくりと開いたまぶたの端から、柔らかい光が差し込んでくる。
「ここは……」
徐々にピントが合う視界には、綺麗に整えられた庭があった。
物干し竿に掛けられた布団に、いい風が吹く開放された縁側。
天子が知らない建物だが、どこか白玉楼に似てるように思った。
何の危険も感じられない穏やかな光景に、何で自分はここにいるんだろうかとボーっと考えて、先程までの状況を思い出した。
「そうだ、境界が!?」
我に返った天子が状況の不可解さに驚いていると、縁側の奥から声が聞こえてきた。
「ほとけには……の花を、たてまつれ……ねえ、幽々子。この字はなんて読むの?」
「それはね、桜って読むのよ」
たどたどしく歌を読む子供のように真っ白な声だが、天子はそれに、そして言葉を教える誰かの声にも聞き覚えがあった。
縁側から回り込み、屋敷の中を覗いてみると、そこには予想通りの人物がいた。
「紫……!?」
屋敷の中で机の前に座り、綺麗な着物を着た紫が、本を前にして透き通った瞳で書を追っていた。
その隣には幽々子の姿があり、紫に顔を寄せて何かを教えている。
「さくら……」
紫は幽々子から教えられた言葉を反芻し、飲み下すように顔を天井に向けた。
その姿は天子が知るどの紫とも違い、子供のように純粋な気配がした。
奇妙な光景に天子が唖然として眺める前で、紫が書面に視線を戻すともう一度先程の歌を読み上げる。
「ほとけには桜の花をたてまつれ、我が後の世を、人とぶらはば……」
「すごいすごい、一週間前は字なんて読めなかったのに、もうすっかり達人ね」
喜ぶ幽々子もまた、天子が知っている幽々子とは違うように感じた。
儚さの中に芯がある、不安定なように見えて大樹のような精神性を持つ、そんな強い人間の特徴が感じ取れる。
まるで幼き日に自分を愛した母のようだと、地子だった時代を一瞬思い出した。
未知の光景を前にして、天子は段々と今の自分がどうなっているのかわかり始めた時、不意に後ろから肩に手を置かれた。
「また随分と無茶をしたようね」
驚いて振り向くと、そこにいたのは紫色のドレスを着た紫がもう一人いた。
こちらのほうが天子の知っている紫に近しい雰囲気を持っていたが、だがきっと彼女もまた本物の八雲紫ではないのだろう。
「あんたは、記憶の紫……?」
「ええ、お察しの通り。お別れが台無しだけど、また会えて嬉しいわ」
底の見えない胡乱げな笑顔は、間違いなく天子が境界の隙間で出会った彼女のもの。
自らを記憶の残光と形容した紫が、陽の下で蠱惑的に笑いかけてきた。
「あんたがいるってことは、じゃあここはやっぱり、紫の記憶の中なんだ……」
天子はもう一度縁側に視線を移し、楽しそうに話しながら、幽々子に言葉を教えてもらっている過去の紫を見た。
気質に残留した記憶情報が天子の中に流れ込んできてしまったのだろう。
ここにある光景は、かつて紫が体験したものということだ。
残光の紫は、その記憶の渦に乗って天子の心の中に足を運んできたのだ。
「こんなにも高密度の情報を受け取ってしまうなんて、もっと自分の体を大切にしなさい……なんて、言ってられる状況でもなさそうね」
「そうよ、大変なのよ! 今すぐ戻りたいんだけどどうすればいい!?」
「慌てなくとも大丈夫よ。外を覗いてみたけど、時が止まったみたいに静かだわ。今私達が体感してる時間は、現実での一瞬ということよ」
残光の紫が大空を見上げてそう言った。
その瞳に何が映っているのかはわからないが信用してもいいだろう。
「でもでも、こんな時にのんびりさせらても落ち着かないわよ、早く出して!」
「私には無理よ、しばらく記憶を見たら自然と現実に引き戻されるからゆっくりなさい」
「うぅー……」
仕方なく唸った天子は、所在なさげに視線を動かす。
やるべきことを取り上げられ、暇になってしまった天子は記憶の光景を眺めるしかなかった。
「幽々子、桜って何? お花?」
「桜はね、木の名前よ。季節が春……暖かくなってきたころに、綺麗な花を咲かせるの。来年は、私と一緒にお花を見ながらお酒を飲みましょうね」
「うん」
幽々子に対する過去の紫の態度は、とても素朴で着飾っておらず、あるがままに幽々子の言葉を受け取っていてとても素直だ。
「なんか私の知ってる紫とだいぶ違うわね……」
「当然よ、この時期の八雲紫は記憶のバックアップができるようになって間もない、初めて地に足つけて歩み始めた頃だもの」
いわば目の前の紫は見た目こそ今と変わらないが、精神的には幼少期というわけだ。
「私はまだ生きていたころの幽々子に出会い、彼女に素敵な名前を与えてもらった。この出会いがきっかけになって記憶を引き継ぐ術を作り、思い出の大切さを学んだ。まだ赤ん坊みたいな私に、幽々子はいろんなことを教えてくれたの」
世界の異物として追いやられたスキマ妖怪としてではない、八雲紫として生きるようになった少女の原点。
「何が善で何が悪か、何が綺麗で何が嬉しいか、あらゆる価値観は幽々子と過ごした数年間の生活の中で形作られた。これだけは消し去ってはならないと今でもすべての記憶を残している、何千回、何万回と思い出された八雲紫の根底なのよ」
これを欠けば現在の紫すら成り立たなくなる、一番重要な思い出だと残光の紫が語る。
それを聞いた天子は、それだけのものを紫に与えた幽々子に感謝の念も感じた。
今は現実での危機も一時忘れ、紫が一歩一歩自分の心をを積み重ねる微笑ましい光景を眺めていた。
「幽々子、そろそろお腹が減ってきたころ?」
「あら、そうだけど、どうしてわかったの?」
「この一週間、今の時間帯に幽々子がご飯にしましょうって言うから」
「覚えててくれたのね、嬉しいわ。でも今日は藍が作ってくれるのよね?」
「うん、できるって言ってたからやらせた。そろそろ持ってくると思うわ」
話の中で出てきた名前に、あいつもいるんだと天子はちょっとした安心感を覚えた。
この頃の藍はどんな性格なのだろうと考えて、なんとなく橙みたいな姿を想像していると、部屋の戸が空いて件の九尾がお盆にご飯を載せて現れた。
「お待たせしましたクソガキご主人様、ご飯ができた……できましたよ」
「ぶふっ」
もの凄ぉく嫌そうな顔して毒を吐くやさぐれ藍に、天子は噴き出すのを堪えられなかった。
口元を押さえる天子の前で、部屋に入ってきた藍は足を使って乱暴に戸を閉めると、机の上に音を立ててご飯を並べ始める。
粗暴ながらも器から料理を零したりはしなかった辺り生真面目さが滲み出ているが、苦渋に満ちた顔で愚痴を吐き捨てた。
「クソッ……なんで私がこんなことを……」
「ごめんね藍、家事まで頼んじゃって」
「まったくだよ、私は子守のために家事を学んだんじゃないぞ。本当なら男を誑かして悠々自適に酒池肉林のはずが」
「あまり口答えするようならお仕置きよ」
「ぐっ……申し訳ありません」
紫が先程までの無垢さを切り捨てた恐ろしい眼光で藍を睨みつけ、表情に怒りを滲ませた。
短い言葉だったが、その中には恨みと憎しみに嫉妬さえも混じっていて、己が激情を叩きつけるかのような様子には、愉快な気分になっていた天子も思わずぞくりと来た。
この威圧感を前にしては強大な九尾と言えども従うしかなく、藍も身体を竦ませると、嫌々ながらも謝罪を口にする。
しかしそんな中で、幽々子は殺気にまるで怯えず、紫の肩を軽く叩いて窘めた。
「紫、脅かしちゃダメよ。藍にはこっちがお願いしてる立場なんだから、ほら怖がらせてごめんなさいって謝って」
「怖がらせてごめんなさい」
すると紫は驚くほど素直に頭を下げて謝った。
殺気も消え失せた豹変ぶりに、藍も天子も毒気を抜かれて肩を落とす。
「本当にわかってるのかこいつ……まあいい、冷めない内に食べてしまえ」
「ありがとうね。さあ紫もそこまでにして一緒に食べましょう」
のほほんとしながらも紫を躾ける姿に、さしもの天子も感服した。
どうやらこの幽々子は亡霊ではない、人間時代の幽々子らしいが、紫相手にこの度胸は大したものだ。
「この幽々子すごいわね、亡霊になった後より肝が座ってるわ」
「彼女は死んだ時に記憶を失って自分をやり直し始めたのよ。でも、私では幽々子を昔のように幸せな人に導くことはできなかった」
残光の紫が未練がましそうに言うのを見て、天子は少しもどかしさを覚える。
落ち込むことなんてないと、紫はよくやれたと言えたら楽だったが、紫の元へ辿り着くまでにその幽々子を打ちのめした天子にはそれを言う資格が無いように思えた。
しょうがなく食卓の光景に視線を戻すと別の話を始める。
「藍も刺々しいっていうか生意気な感じね、この紫のほうが生意気だけど」
「この時はまだ藍も私とは家族と呼べる関係ではなかった。術式を貼り付けて無理やり従えていただけよ。あと最後の一言は余計よ」
通りでお互いの態度が辛辣なわけだ。
藍を信用せずにしばりつけているだけの紫と、仕方なく従っているだけの藍では友好関係など結べまい。むしろ現在に至るまでによくあそこまで仲良くなれたものだ。
「当時の私は幽々子以外はどうでもよかった、というよりも憎んですらいたからね。」
「でも、その割にはそこまで嫌な雰囲気じゃないわね」
現在の藍からも昔の紫が恨み辛みを抱えていたと聞いたことがあったのを思い出す。
一見するとそんな風には見えないが、それを抑えているのはきっと幽々子なのだろう。
今さっき藍を一瞥した表情が紫の地に違いない。
「幽々子は妖怪の私達にも分け隔てなく接してくれたから。人間らしい思いやりで、私達の心を温めてくれた。この優しさが、世を憎むことしか知らなかった私に中身を吹き込んでくれたのよ」
屋敷で行われる日常は幽々子を中心として朗らかな空気で回っていく。
彼女の優しさに抱かれ、紫は勿論のこと藍も心を落ち着かせ、満更でもなさそうに過ごしている。
眺めている天子もまた安堵して、胸元にある紫色の宝石を抱きしめて、自らの知っている紫を夢想した。
「なんだか、良かったわ……大変そうだけど、紫の大本はこんな温かい記憶で出来てたんだ」
これらの優しい日常があったからこそ、天子を受け入れた現在の紫があるのだろう。
紫の心の始まりがこんなにも幸せでありふれたものであってくれたことに、天子は心底嬉しく思う。
だが残光の紫は少し表情に陰りを見せて、天子から顔を背けた。
暗い気配を感じ取って、天子は困惑気味に隣を見上げる。
「……紫?」
「ええ、あなたの言うとおり、表層的な理性においては、これらの温もりが礎となったのは間違いない」
残光の紫が含みのある言い方をするのを、天子は真意を探ろうとじっと見つめる。
すると天子の目の前にいる過去の紫達の残光は、観念したかのように、あるいは待ちきれなかったかのように、天子に向き直って思い唇を開く。
「けれどそれより深く、無意識下の領域にこびり付いたものもまた別にある。いい機会かもしれない、あなたが八雲紫と歩むのならば、これを知ってあげる義務があるでしょう」
そう言って残光の紫は硬い表情で、天子へと手の平を差し出した。
「あなたが私を助けたいというのならば、見てみるが良いわ。例え記憶を奪われようとも消えない、魂の核に染み込んだ、拭いようのない感情の渦を」
この手を取った先にあるものが決して良いものではないことは、天子にもわかった。
食卓から聞こえてくる楽しげな会話を遠くに聞きながら、天子は迷いのない目を見せる。
「紫が知って欲しいって言うのなら、私はいくらでも手を出すわ」
残光の紫が強張った顔をわずかに綻ばせ、天子は彼女の手を取った。
手の平から何かが突き抜けてくる刺激に、来ると思った時には天子の思考がぐにゃりと歪み押し流され、激しく天地を揺さぶられる感覚のあとまた別の場所に立っていた。
場面は家の中。橙が壁に顔を向けて背を丸めているのを、困った顔をした過去の紫が呼びかけている。
「そんなに固くなってないで、こっちに来て橙?」
横から見える橙のむくれ面で、機嫌が悪いというよりも心の歪みが自然と出てしまっているような雰囲気があった。
「これは藍が橙を拾ってきてすぐの記憶ね、当時は橙も心を許してくれなかったの」
「……へえ、そうなんだ」
いじけた橙というのも天子から見れば珍しいが、そう面白いものではない。
事実、流れる空気は先程までの光景と相反して重たいものだった。
「今日で橙が来てから何日経ったかしらね」
「……二ヶ月くらい」
「そうそう、もうそんなになるのね」
「……私のことなんて覚えてないくせに」
橙の辛辣な指摘に、紫は辛そうな顔をして痛む胸を押さえる。
それでも頭を振って挫けまいとすると、笑顔を浮かべて橙に話しかけた。
「そうだ、橙。何かして欲しいことはある? せっかく家族になったんだし、して欲しいことは何でも……」
「うるさいよ、この前も同じこと聞いたよ! あんたのボケなんかに付き合ってられないんだから構わないで!」
橙からの激しい拒絶に、紫は言葉を押し込んで身を引くしかなかった。
それでもまだ何かしようと迷い、掛ける言葉に悩みながら手を伸ばすが、すぐにまた胸元に戻す。
「ご……ごめんなさいね……」
何を言えばいいかわからず、ただ謝罪だけを口にするしかない紫の背中を、天子は悲しい顔をして見ていた。
静かな部屋で、残光の紫が口を開いた。
「この頃の記憶の保持は一ヶ月程度が限度でね。情報の編纂もゆっくりできなくて、日常的な事実は何も記録できていなかったから、今ほどコミュニケーションが上手く行かなかった」
紫の態度からは家族になった橙に何かしてあげたいという気持ちが見て取れるが、失くした記憶が溝となって伸ばした手が届いていない。
幽々子に与えられた優しさすら上手く表現できない紫の姿は、とても苦しんでいるように見えた。
天子はその背中を抱きしめたくなったが、すべては過ぎ去った事実である以上は、ただ見ていることしか出来ない。
悔しさに手を握りしめた時、再び視界が歪んで別の場所に放り出された。
吹き抜けてきた涼しい風が肌を冷やし、草木に隠れる虫たちが鳴き声を響かせる。
見知らぬ山の中、ほのかな月明かりに照らされた天子の目の前で、今度は血まみれの萃香が紫の胸ぐらを掴んで詰め寄っていた。
「何でだ! 何で私を助けたりなんかした!? 」
流れる血を物ともせず鬼気迫る表情で怒鳴る鬼に、天子は思わず息を呑んだ。
首を絞め上げられた紫は、萃香を見つめたまま怯えた表情のまま固まってしまっている。
「黙ってるな! これは私に対する侮辱だぞ! なんとか言ってみろ!?」
「う……その……」
紫はもごもごと口を動かすと、まるで親に怒られている子供のような、本当に恐る恐ると言った感じで言葉を呟いた。
「昨日の夜、あなたは散歩していた私に話しかけてくれたから……今日は風が気持ちいいねって……」
「そんなことが理由になるのか!?」
「だって……その思い出を、大切にしたかったの……」
「……ふざけるな!」
「止めて!」
最後の言葉は天子が上げた悲鳴だった。
過去の記憶に何を言っても意味が無いとわかっているのに、気が付いたら声を上げて拳を振り上げた萃香に走り寄っていた。
振るわれた萃香の拳に手を伸ばして受け止めようとしたのだが、拳は天子の身体をすり抜けて紫の頬を殴り抜けた。
等身大の身体が吹き飛ぶ嫌に鈍い音を聞き、天子が耐えられずぎゅっと目をつむると、また感覚が歪んで天子の身体が投げ出された。
視界が移り変わって足を止めた時、天子は険しい山岳の上にいた
空は暗雲に包まれ雷の鳴る音が大気を揺らす中、紫は切り立った崖の上に膝を突いていたが、まともな姿ではなかった。
服らしいものを着ず、ボロボロの布切れだけをまとっていて、髪は洗っていないのか泥だらけで全体的に荒んだ風貌だ。
その身体は傷だらけで、身体中から刺々しい殺気を放ち、憎々しい顔で牙を剥いて睨め上げている。
この紫の姿は天子に大きな精神的動揺を与えたが、だがそれを吹き飛ばすような衝撃が他に居た。
紫の見据える先にいるのは、暗雲の中に身を沈めてもなお隠れきれないほどの巨体を持ち、身体中の鱗から轟雷を響かせている。
地を噛み砕きそうな巨大な顎と、天を穿つような大角、その威容は直接その存在を見たことなかった天子ですら何者かすぐにわかった。
幻想郷の最高神としても祀られる全能の存在、龍神に相違ない。
「……何なのだ貴様は」
龍神の呟きに山が僅かに揺れるものの、その声の中には確かな戸惑いがあった、怯えさえあった。
圧倒的な権能をも持つ最高神が恐れるものとは何者なのか、この状況を見れば誰でもわかる。
龍神の周りには、他にも人影があった。
紫を取り囲むように数人の人が宙を浮いて、座り込んだ紫を見下ろしている。
彼らから感じる気配に、天子はその者たちが天人かあるいはそれに近しい者たちだとわかった。
人影もまた、恐れを乗せて次々に口を開く。
「どうやればこいつを消滅させられる」
「試行すること251回、何度殺そうとこやつは境界の向こうから這い出てきた」
「封印も無駄だった、いつの間にか消えて別の場所に現れる」
「なぜこんなものが存在する」
「あってはならない異物だ」
次々に口にされる拒絶の意。
突き刺さる言葉と侮蔑の視線に、排他されようとする紫は顔を歪める。
「どうしてなの!? 何で私だけがこんな目に合う! 他の化物にだってこんなにも追い立てられはしないのに、私だけを排他して……憎らしいわ、貴様らが憎いわ。いつか必ずぶち殺して、そのハラワタを引きずり出してやる!!」
放たれた呪詛に、天子は大きく驚いて身を竦めた。
「お前らだけじゃない! 幸せそうな人間どもを何もかもぶち殺して、私から奪うすべての者たちからあらゆる幸福を奪い尽くしてやる!」
この呪いを天子は知っている、獣のような憎悪を間近で感じたことがある。
忘れもしない幼き日の記憶、まだ天子が人間であった頃、母を殺した時に見た恐ろしき世界の異物。
これこそが幽々子と出会い人生のスタートを切る前の、記憶が無いまま流浪しかなかったころの紫なのだ。
しかし何故こんなにも恨みばかりを膨れさせてしまったのか、そう愕然とする天子の前で龍神が重々しい声を響かせる。
「逆に問おう、名すら与えられない隙間の妖怪。何故お前は我らの世界に来た」
「何故……何故……なぜ……?」
問い掛けられ、走り出しそうな憎悪が不意に止まる。
まだ名もない妖怪は、頭を押さえ少ない記憶を手繰り寄せようとする。
「何故、私は……う、うぅ……」
どれほど考えようと答えは出ず、紫は顔を俯かせてうずくまってしまった。
「どうして私はここにいるの……どうしてこんな苦しい思いをしなければならないの……」
うなされるように呟きが漏れる。
憎しみの下から湧き上がってきた疑念に押され、紫が顔を上げた時には一筋の涙が零れていた。
「気がついたらここにいて! 追い立てられて! 誰にも受け入れられてもらえないまま、どうして私はここにいるの!!?」
「……哀れな童よ」
悲壮を持って吠え立てた紫に、龍神が一抹の憐憫を持って呟くが、この世界の異物に慈悲が掛けられることはない。
龍神の牙の先に紫電が迸り、全能の力が集まっていく。
それが誰に対するものなのか、わかってしまった紫は絶望を顔に浮かべると、両手で頭を押さえて身を丸めた。
「奪おうとする限り、お前の居場所はこの世界にはない、あるべきところへ帰るが良い」
「いやァ!! いや……イヤァァァアア!!!」
今度は天子にも止められなかった、こんなにもの悲劇に自分に何が出来るのかと躊躇ってしまった。
泣き叫ぶ紫の頭上から蒼雷が降り注ぐ。
一瞬にして泣き声は掻き消され、紫の身体が跡形もなくこの世界から消え失せる。
記憶は途切れ、雷槌の閃光とともにすべての風景が黒色で塗りつぶされた。
気が付いた時には、一面の闇の中に佇んでいた天子に、残光の紫が語りかける。
「これが、かつての私達の記憶、その一端。楽しい思い出がなかったわけじゃない。でも八雲紫の感情は、これら悲壮によって突き動かされている。記憶以外の部分、心の奥底に染み付いた苦悩に」
残光の紫はそれだけ述べると、後は静かに背中から天子を見据えていた。
何故、幽々子と出会う前の紫が、母を殺した恐ろしい妖怪が、あれほどの憎悪を湛えていたのかわかった。
ずっとあんなことを繰り返していたのだろう、誰からも受け入れてもらえないまま絶望を繰り返していたんだろう。
なんてかわいそうな話だと天子は思う、あれでは何もかも憎むようになって当然だ、けれど、
「……私は酷いやつだ、これを見て紫の沢山を知っても、まだ許せない」
自分の母を殺したことを、天子は許せはしなかった。
仕方なかったのかもしれない、なるようになってしまっただけなのかもしれない、それでも自分からあらゆる幸せを奪ったことを許せないのは確かだった。
「でもどうしてだろう、胸が苦しいわ」
首飾りの上に手を重ねて、紫の足跡を想う。
悲しいことばかりでも、紫は与えることを学んでからはそれを愚直にやり続けてきた。
思うようにいかなかったことがあった、恨まれたことがあった、それでも紫は誰かを受け入れ続けたのだ。
それを天子は誰よりも知っている。
「紫には、笑っていて欲しい」
振り返った天子は、何故か泣いていた。理由は自分でもわからない。
嬉しさでも、悲しさでも、憎しみからくる慟哭でもなく、胸の奥から汲めども湧き出てくる熱が涙となって押し寄せた。
残光の紫が天子を見て、その行先を確信する。
涙しながらも熱い光を宿した瞳を見て、この人に知ってもらってよかったと、安心してまどろむように目を伏せた。
◇ ◆ ◇
「――天子!? しっかりしなさい天子!」
正気を失っていた天子の瞳に光が戻る、結界を叩く影たちの手を見てここが現実だと思い知った。
紫の呼びかけを受けて現実に戻った天子は、首を仰け反らせたまま崩れかけた結界を見上げていた。
危機的状況を思い出し、緩みかけていた身体に活を入れると、引き戻した顔に眼光を強めて前を見据える。
「気質の放出を続ける!」
「天子!」
気質の波に巻かれた天子の心が戻ってきたことを知り、紫が安心した声を上げたが、すぐにまた険しい顔になった。
「諦めたくないのはわかるけど無理よ、一度撤退しましょう! 気質の絶対量が不足してる、この方法じゃ……」
「足りない分は私が補う!」
弱気を振り払う威勢に、紫が目を丸くする。
「紫が苦しんだ時間が、何千年だろうが何万年だろうが関係ない! 私が紫に懸ける想いは、そんなの全部支えてみせる!」
天子が今までに見てきた紫の姿を思い出し、その末に出された答えと覚悟が世界を揺るがした。
「緋想の剣! 倒すための意思じゃない、助けるために、私の想いをみんなに見せて!」
ひびが入りボロボロになった緋想の剣が、それでも応えるように気質の刃を震わせて甲高い音を立てた。
天子の手の平から大量の気質が剣を通して顕れて、緋色の霧が天子の周囲に吹き出した。
今までの比ではない膨大な気質の量に、隣りにいる紫までもが吹き荒れる気質に押されて思わず手を離してしまう。
そのまま天子と離れ離れになってしまいそうな紫であったが、回り込んできた気質がその体を優しく受け止めた。
気質は紫の周りでだけ暴威を弱め、そよ風のように漂って優しく包み込む。
「これは、この気質は一体……」
呆然とする紫の前で、なおも気質は溢れていく。
緋想の剣からは緋色の輝きが増していく、まばゆい輝きに結界の向こう側で蠢く影ですら動きを止める。
倒すための力ではない、誰かを助けるために生み出された、世界最高の光だった。
「聞きなさい、境界の根暗共!! あんた達なんかに紫の持ち物は何一つ渡さない! 紫は奪われて苦しむためにこっちへ来たんじゃない!!」
天子の叫び声が気質の波に乗って広がっていく。
本気の心に影達は叱られた子供のように竦み上がり、闇の中に開かれた無数の眼で、声に光が宿るのを見た。
「紫は――幸せになるためにここにいるのよ! その邪魔をするのなら、私がいくらだって追い返してやる!」
天子から放たれる気質が渦巻きながら密度を増していく。
霧が重なる中心で、紫はその輝きに包まれていた。
「温かい……」
光から伝わる温もりを抱きしめるように、紫は両手を胸の上に重ねて感じ入った。
心の底にまで染み入ってくる気質はどこまでも嘘がなく透き通っていて、かつてない安心を感じる。
これこそが天子の到達した一つの極地、許せないまま、それでも紫の幸福を願って走れる想い――――
――即ち愛である。
「ありがとう、天子。でも一つだけ言わせて」
紫はもう一度、天子の手に自分の手を重ねる。
自分を愛してくれる強い少女に臆すことなく、自らの気持ちを分け与えた。
「私だけじゃない、あなたもまた幸せになるために生きてきたのよ」
顔を見合わせた天子は、嬉しそうな笑顔を浮かべると、すぐに勝ち気な表情をして前を見た。
天子に合わせ、紫もまた明るい顔で未来を見据え、ありったけの気持ちを剣に込める。
「さあ世界よ! 私達の想いを映し出せ!」
「八雲の空に緋想天、九つ重なれば玖にも届くわ!」
再び緋想の剣から緋色と紫色の二つの気質が刃を形成し、螺旋を描いて先で交わる。
これまでの紫の人生と、これからの天子の決意が重ねられ、二色の刃が混じり合いその色合いを変化させた。
思いは一つとなり、緋色の輝きは波長を静めて橙色に、橙色から黄色へと移り変わっていき最後に紫色にまで到達すると、そこからまた緋色に戻る。
二つの気質で無限に色付けられた極彩色の極光が二人の頭上に顕現し、闇を退けて猛烈なスピードで広がっていく。
彼女たちのもっとも近くで戦っていた藍と橙は、広がる極光の幕が空に蔓延していた黒い霧を打ち払うさまを間近で垣間見た。
「すごい、これって二人の!?」
橙が叫んだ直後には、間近で展開された気質が空気を巻き上げ、突風となって吹きすさび、極光が橙の作り上げられた結界をも飛び越えた。
二人を襲いかかろうとしていた影達は、瞬く間に風に巻かれて、悲鳴すら上げる暇なく虚空へ消え失せていった。
闇が照らされる幻想的な光景に驚く藍の頬を、何か温かいものを叩いた。
気になって頬に触れたものを指ですくい取ってみると、指先から感じたのは水滴の感触。
「これは、天気雨か……?」
指に付着していたのは、極彩色の輝きを湛える雨粒だった。
極光は止まることなく夜の幻想郷へと広がっていき、その後から気質の篭もった温かな雨がぱらぱらと降り注ぐ。
この光景は影を閉じ込める結界の端で戦っていた衣玖たちの元へもすぐ届いた。
衣玖を始め、戦っていたものはみな影が打ち払われるのに驚き、色付く夜空を見上げる。
この輝きがどうやって作られたものなのか、衣玖は極光から伝わってくる優しい空気にすぐ察した。
「そうですか、天子様。あなたはそこまで辿り着けましたか」
極光から降り注ぐ気質の雨の一粒一粒は一つの結界であり、地上を這いずり回っていた影たちを境界の隙間へと送り返していく。
直下の影たちが雨粒に増えた端から消えて行くのを見て、萃香が指を差して嬉しそうな声を上げた。
「やった! あいつら消えてくよ、あの二人がやったんだな!」
「……ふう」
妖夢もまたその光景に安心して剣を収めるが、衣玖はそんなものには目もくれずただ空に広がる輝きを眺めていた。
広がり続ける極光の波は力強く、けれど誰かを傷付けるような激しさはなく、慈愛を持って夜の闇を温かく包み込む。
絶えず変化する無限の色彩と降り注ぐ雨。
衣玖が今までに見てきた緋色の雲はどれもが凄まじい力を孕んでいたが、それは無秩序な激情によって編まれたものに過ぎなかった。
だがこれは違う、ただ叩きつけるような感情ではなく、共に歩むものを愛し進もうと未来へ向けられた輝き、これこそが――
「――ああ、私はこれが見たかった」
光の降る夜。
衣玖は夢見た理想の輝きを全身で受け止め、自らの心を満たした。
極光が広がる中心部で、天子と紫は剣を手に想いを編む。
かの龍神の持つ十全の力にも届きうる、永久に続く縁の結び目。
『非想――九重大結界!!!』
二つの気質が重ねられ、この世界を支える力、その一つの極地に達した結界が二人の頭上で光り輝いた。
展開された結界は今度こそその勢いを削がれることなく、境界に開いた穴を塞いでいく。
結界に遮られ急速に閉じていく空間の繋がりから、こちらに目を開く影たちへ紫は呟いた。
「さようなら、いつの日かこれが何なのかわかったならまた来なさい」
だから今はおやすみ。
結界を形作るこの力がなんなのか、世界の外側に住まう住人たちの誰にもわからなかった。
ただ一つ、これを穢してはならないとだけは思い、誰も手出ししなかった。
閉じていく境界の向こうから、世界が分かたれる最後までこの輝きを眺めていた。
極光と光の雨はすでに幻想郷のすべてを包み込んでいた。
謎の現象であったが、一部の妖怪や神々については、これが幻想郷を安定させるものと察して安堵する。
そんなことは知らない騒ぎが好きな幻想郷の妖怪たちも、この晩だけは極光を仰ぎ見て、暴れだすこともなく静かにしていた。
極光から漂う温かさが、あらゆる邪念を晴らしていた。
「おおー、黒いのが消えてくぜ。すごいな」
『こっちでも観測できてるわ、幻想郷全土に極光が降り注いでる』
前線で戦っていた魔理沙も、この光景には酔いしれていた。
人形と魔本を通じた先でも、魔女たちが外に出てこれを直に見ているようだ。
『興味深い現象だわ……』
『また研究するの?』
『……いや、今日はレミィと一緒にこれを眺めようかしら。アリスも来る?』
「私らももう帰るか霊夢……おい霊夢?」
魔理沙が声をかけるが、巫女は背中を向けたまま答えてくれない。
博麗霊夢は魔理沙のことはひとまず置いておいて、空に浮かびながら腕を開き、すべてを受け止めるように大きく息を吸った。
――やっと、自分で選べた。
博麗の巫女ではない、博麗霊夢としての選択で、霊夢は幻想郷よりも他のものを選び取れた。
そうだ自分は自由だ、規律なんて飛び越して、大切なモノを手に取れる。
だから例え、大切な人が人間の道を踏み外したとしても、その時には博麗の巫女としてではなく、一人の友達として――
「おいどうした霊夢? ボーっとして」
まさかさっきの戦闘でダメージを受けたのかと、不安に思った魔理沙が心配して巫女に近寄る。
だが霊夢はようやく振り返ると、今まで誰にも見せたことのない満面の笑顔を魔理沙に向けた。
「ううん、なんでもないわ!」
その笑顔は空にまたたく極光にも負けず劣らず輝かしく、魔理沙は一目見ただけで胸の奥が疼くのを感じた。
あまりに綺麗な霊夢の姿に直視できなくて、思わず帽子を押さえて視界を遮る。
「お、おう、そうか……よ、よかった……ぜ」
恥ずかしがる魔理沙が帽子の下からチラチラと様子を伺ってくるのを、霊夢は晴れやかな気持ちで見守っていた。
いつも先を行かれてばかりだったけれど、ようやく目の前の魔法使いに並べた気がした。
ご満悦の霊夢は、ちょっとした勝利の優越感に酔い、魔理沙の脇を抜けて神社へと凱旋する。
「今日は私の勝ちね、晩御飯は魔理沙が宜しく」
「へっ? ああいいけど、勝ちってなんのことだよ。おーい!?」
遠く離れた博麗神社で、比那名居家の総領は光る空を仰ぎ見る。
「……ふん、天子があの異物とこれを作ったのか」
腕を組んで鼻を鳴らし、複雑な心境で眉を歪める。
この美しさを素直に受け取るには、彼もまた失いすぎた。
自分から妻を奪った八雲紫を、憎みたいし認めたくもない。
だが、妻が遺した娘が、それを乗り越えた先に希望を体現するに至ったというのなら。
「癪だが……本当に癪だが。これだけの光景を作れる相手というのなら、一緒にいることくらいは認めなければならんのかもな」
父は要石に背中から寄りかかり、光る雨に打たれながら肩の荷を降ろした。
だが彼はまだ知らない、倒壊した博麗神社に要石とともに不審な男がいるこの状況、巫女が帰ってきたらどう思うのか、そしてどう行動するのか。
その先の不幸を知らず、父は娘の帰りを待ち続けていた。
極光の下で温かい雨に身を濡らす幽々子は、遠く影が消えていくのを眺めていた。
自分が間違っていたのだろうか、何が間違っていたのだろうか。
そんな想いが顔を出し、自分を責め立てたくなる。紫の役に立たないといけなかったのに、これでは自分がしたことは足を引っ張っただけではないか。
だがそこに、半人半霊の剣士が現れた。
彼女は空から地上に佇む幽々子を見つけると、半霊を浮かばせながらゆっくりと下りてくる。
その姿に幽々子は死人でありながら心臓が早鐘を打つ、耳朶にドクンドクンと緊張が木霊し、息が詰まる。
目の前に従者が降り立ち、収められた剣がカチャリと音を立てた。
自分にこの言葉を言う資格があるのだろうか、言って許されるのだろうか。
でも彼女は、幽々子がいられるからこそ戦えるのだと言ってくれた。
もし本当に、自分にその価値があるというのなら、愛しい彼女を労ってあげたい。
幽々子はわずかに開けた唇を震えさせ、一度固く結ぶと、全霊を込めて言葉を紡いだ。
「……おかえりなさい、妖夢」
「はい、ただいま戻りました!」
帰ってきたのは蒼天のような一点の曇りもない満面の笑み。
それだけで、幽々子はすべてが報われた気持ちになった。
橙は手に持った傘を下ろし呆然と空を見上げる。
境界を視るその瞳には、美しい輝きが世界を正す様子が映っていた。
戦い通しで服はどこもボロボロだが、これの前では気にならない。
影の者たちに奪われた傷の痛みも、この光を浴びているとなんとなく和らぐようだ。
「……やりましたね、藍様」
「ああ、そうだな」
隣りにいる藍の頬に、雨粒とは別の雫が流れている。
愛する家族が幸せな結末にたどり着いたことが、自分のことのように嬉しいと感じていた。
感動に打ち震える藍の背中を、橙の小さな手が叩いた。
「さあ! 紫様にギュッとしてもらいに行きましょうよ!」
とても元気な声に、藍はまだまだこれからなのだと教えられた。
これで終わりではない、紫の人生は今まさに新たなスタートを切ったところなのだ。
「……ああ、みんなで一緒に抱き合って寝ようか」
橙は自分が使うには大きすぎる傘を閉じると片手で抱えて、もう片方の手を藍と繋いだ。
目指す場所は決まっている。
「境界が修復されていく、これで危機は去ったわ」
幻想郷の西端で、自分たちが生み出した極光を見上げて紫が呟いた。
天子は自分たちがやり遂げたのだと知り、安心して剣を握る手から力を抜いた時、手の内で変化が起きた。
「緋想の剣が……!」
元々ヒビだらけになっていた緋想の剣が気質の刀身を散らすと、パリンと小さな音を立ててバラバラに崩れていく。
ずっとここまでかざしてきた愛剣が手の平から抜け落ちるのに天子は寂しさを覚える、天人になってから長い時間をこの剣と一緒に走ってきたのだ
地獄からのお迎えと戦う時も、紫とわかり合う時も、そして紫と共に歩み始めた今までも、緋想の剣は天子の力としてあってくれた。
それがなくなってしまうことに不安も感じたが、天子は最後の別れをあくまで笑顔で告げた。
「ありがとう、私をここまで届けてくれて。」
最後の最後、倒すために作られた剣は、己の宿敵を助けたことでその役目を終え、極光に照らされながら散っていく。
戦いの先へ至ったこの人に、もう自分は必要ないと言うかのように。
キラキラと光りながら落ちていく剣の残骸を眺めていると、不意に隣の紫が力なく崩れ落ちた。
「紫!?」
地面に墜落しそうになったその体を天子は慌てて支え、クレーター状に抉れた大地へ怪我がないようにゆっくりと下ろす。
まさか紫の身体に負担をかけすぎたのかと嫌な予感がしたが、紫が開いた口からつぶやいたのは暢気な言葉だった。
「天子、疲れたわ……すごく眠い……」
「それって!?」
「心配しなくても、普通に寝るだけだから……お願い寝させて……」
「そっか良かった……って、紫ってば、これから宴だって言うのに」
どうやらあの深い闇の中に帰るわけでもなく、本当にただ眠るだけのようだ。
だけど幻想郷流で言えばここから宴会がいつもの流れなのに、と天子は不満そうに口をすぼめるが、寝息を立て始める紫を見ているとしょうがないなと思い始めた。
大切なこの妖怪が何の不安も怯えもない安らかな寝顔でいることに、喜びを感じてクスリと笑みを漏らす。
「おやすみなさい紫、きっと明日は良い日よ」
天子が身をかがめ、唇を紫へ近づける。
重なり合う二人の隙間で、お互いの首飾りが近づいてコツンと音を立てた。
それ以外にも四重結界とその派生の出番が多かったことで九重大結界がいっそう映えた気がします。細かい布石の貼り方が丁寧で凄いです。
誤字報告です
・「新天地へ引っ越しのいざこざには宗教家にとってもチャンスでもある」
「に」が余計です
・「極光と光の雨はすげに幻想郷のすべてを包み込んでいた」
次で終わってしまうこの語らいは名残惜しいですが、これだけは先に言える、読んでよかったと。
無粋かもしれませんが、誤字報告にて感想を切ります↓
それ何度も何度も繰り返し考えた幽々子は→それを?
ここれは弱り果てた紫と→これは
人はそのものを失敗を恐れるのではない→失敗そのもの?
しかし恐らくは本気で天子を殺し合いを演じたであろうに、大丈夫なのだろうか→天子と?
心配する妖夢出会ったが→であったが
龍神が幻想郷をまるごと消滅させることですべてを丸く収まるだろう→すべてが(は)、または収める?
長きに渡って停滞したいた自らを動かしたきっかけはは→停滞していた、「は」の衍字
それなのに何故、、紫を助けたいという確実性のない天子の願いに→読点の被り
世界の裏側のの片隅で→「の」の衍字
何一つ悲鳴を上げられないまま苦しみ天子を見て紫は叫ぶ→苦しむ
そしてギョロギョロを目玉を動かす肩腕の影→ギョロギョロと、片腕?
本当ならこの感度に浸りたいが→感動?
「言っておくけどこれほど大量の非想の気を放出するんだから、油断するを心が砕けるわよ」→油断すると
天子の真剣な眼差し奥で緋色の光が輝く→眼差しの
「あぁー、どれにしましょう、やっぱり今行った三つ……→今言った
「なあに、どうしようもなさそうなら逃げるさ、戦って死ぬだけが脳じゃないんでね」→能
何があったのか走らないが→あったのかはしらない
気丈に言い放つ二人の前、今までを遥かに超えた物量が蠢いた→二人の前に
あるものは四つん這い獣なって→四つん這いの?
すると瞬く間に気質がピンと張り詰めて細く厚く集中し→熱く?(細い→厚みの描写だったらごめんなさい)
影たちは抵抗する力すら持てないまま輝きに突き刺される滅び去る→刺されて
相反するの世界に境界線を敷いていく→の衍字または脱字?
「ほけには桜の花をたてまつれ→ほとけ
思うようにいかたなかったことがあった、→いかなかった?
極光の下で温かい雨に見を濡らす幽々子は、→身を
紫の役に立たないといけなかったのに、こえでは自分がしたことは足を引っ張っただけではないか→これでは
無事にハッピーエンドを迎えられそうで、本当によかった。