前書き
・この作品において比那名居天子の年齢設定は約1200歳となっております。
・独自設定が非常に多くなっています、生温かい目でお願いします。
・宜しければ、最後までお付き合いいただけたら幸いです。
其の一 -投我以桃、報之以李-
秘密を知った夜が開け、天子が裸のままベッドに寝転んでいた。
紫が隠し事をさらけ出し向き合ってくれたことに嬉しさを感じたが、それ以上に紫を憎む自分の醜さに吐き気が蔓延していた。
窓から差し込んできた朝の日差しを恨みがましく眺めていると、扉を叩く音がした。
「――天子、いるか?」
二日酔いみたいに気怠い身体をもっと重くする声が響いた。
普段は聞かない父の声、家の中でも滅多に話さない家族がここまでやってくるのは珍しい。
「ちょっと待って!」
意外な来訪に天子は慌てて服を着た、父親に裸を見られたくないというよりも、肩の傷跡を見せたくなかった。
新しい服に袖を通し、胸元のボタンを一番上まできっちり留める。
「良いわよ、入って」
帽子を被りながら声をかけると、扉が開いた。
現れたのは眉間にシワを浮かべて見るからに不機嫌そうな父の顔だった。
尊大に鼻息をついて大股に部屋に敷居をまたいでくる姿に、かつて殴られたときのことを思い出した。
父親に傷つけられるのはとても痛い、肉体よりも心が悲鳴を上げる。
その辛さから体の芯が震えるのを、腹の下に力を込めて押さえ込み気丈に振る舞った。
「それで何のよう?」
「また、あの妖怪のところに行ってきたのか」
「そうよ、それが?」
うんざりしたように天子が返す、この後に何を言われるのかはだいたいわかっているのだ。
「いい加減、あの妖怪に近づくのは止めろ、苦しいだけだろう」
ほら来たと、天子は嫌な気持ちを顔に出すが、それで父は引いてくれない。
天子が紫と友達付き合いをしていると衣玖を通して知ってから、この男はこうして度々天子の行動を抑え込もうとしてくるのだ。
ただ妻を殺した妖怪憎しかそれとも本当に娘を心配しているのか、天子には私情があるゆえに測れないが、どちらにせよ手段が力づくで嫌になる。
心配よりもまず、自分の気持ちを認めてほしいと切なく思った。
「私が誰と友達になろうが関係ないでしょう」
「お前の行く末に関係があるのなら、私とて黙っておれん」
「何を今更」
「あれが何をしたのか忘れたのか、我々の大切な人を奪った張本人だぞ」
「だからってずっと敵対しろって言うの? いいでしょ仲良くしたって」
「あんなのと関わってお前が幸せになれるはずもない!」
その言葉が癇に障った。
「うるさいわよ! 苦しいからって逃げ出したあんたがそんなこと言うな!!」
思わず怒鳴り返してしまった天子は、ショックを受けて愕然とした表情の父を見て、ハッとなりバツが悪そうに顔を背けた。
娘を傷つけてしまった負い目から、そのことを持ち出されてはこの父はそれ以上何も言えず、落ち込んだ顔を俯ける。
嫌な静寂が心に響く、昔のことを引き合いに出して父を無理矢理黙らせたことに、天子は引け目を感じるがあくまで意思を主張した。
「私は逃げるつもりはない、あいつに対する憎しみにも立ち向かう。出かけるから部屋から出ていって」
そう言って、天子は総領を部屋から追い出して自分も廊下へ出ると、そのまま家から去っていった。だが実際には、父から逃げ出した。
天子にとっては、紫に立ち向かうよりも家庭にいるほうが怖かった、家族に自分の気持ちを否定されるのが辛かった。
しかしそれは父にしても似たようなものだった。本人としてはあくまで娘を心配していっているつもりだが、スキマ妖怪に対する怒りを娘にぶつけているような気がすると薄々感じている。
いやきっとそうなのだろうと、父は自らの浅ましさに頭を抱えた。
「……やはり、私はもうどうこう言う資格はないのか」
娘は父の予想を遥かに超える方法で、憎むべき相手に近づいて過去を乗り越えようとしている。
それを良いことだと言って認めれればいいのに、前に進もうとしているその背中に、頑張れと声をかけてあげるべきであるのに、その一言が言えない。
「私にも、父親としてやれることをやろうと、燃えていた時期もあったのにな」
今は娘と上手くやれぬこの総領も、かつては良き父として振る舞えていた。
傲慢さを持った夫を叱ってくれる妻のお陰で家庭内に置いて孤立せず、娘とは言いたいことを言い合いながらも、みんなで仲良くやれていた。
だが娘の将来の憂いを断つつもりで世界の異物を討ち取りに行ったあの日、妻が殺されてからすべての幸福が裏返った。
「何がお前を不幸にするだ馬鹿らしい、天子を不幸にしているのは私ではないか」
頭を抱えて壁によりかかり、自らを罵倒して自らを不幸にする。
父もまた、自らの怒りを乗り越えられずにいた。
◇ ◆ ◇
幻想郷の中でも誰も近づかない西端の僻地、侵入防止の結界が張られた屋敷に、今日は楽しげな歌が響く。
「ふんふんふふ~ん♪」
道士服の上にエプロンを着た紫が、鼻歌交じりに台所に立ってくるりと回って自分の格好を藍に見せつけていた。
「うふふ、似合うかしら?」
「はいもちろん似合ってますとも。しかしいきなり料理の練習をする言ってきたと思ったら、随分機嫌が良さそうですね。どうしたんですか?」
紫の料理の腕前というのは絶望的だ、何を作っても素材が台無しになる。
本気で学べばある程度は習得できるだろうに、よっぽど料理が下手だと無意識下まで刷り込まれたのか、ただたんに面倒くさいのか、紫が自分から台所に立つことは今までそうあったことではない。
しかしいつも藍に押し付けてばかりの紫が、いきなり料理を教えてほしいと言い出したのだ。
「私ね、決めたのよ」
「何をですか?」
「私は、天子の母親になるわ!」
間。
「……母親ぁ!?」
呆気にとられていた藍が大声を上げた。
何がどうなってそうなったのか、飛躍しすぎた結論に式神は動揺を隠せない。
「ま、まさか彼女を八雲家に引き込むとか……?」
「そこまでじゃないわ、実際に家族にするわけじゃなく、家族みたいに愛情を分け与えたいということよ」
本当のところを話され、ようやく藍は納得して落ち着いた。
母というのは誇張が過ぎると思うが、根本の部分は紫らしい思いやりがある。
「元々天子は人との触れ合いに飢えてた部分があると思うのよ。幻想郷に来て満たされた部分が大きいだろうけど、きっとまだ足りないところがある。私がそれを補っていきたいわ」
「なるほどそれで……」
しかし藍は納得しながらも、なーんかやる気が明後日の方向に行っているなあという気がした。
まず果たして天子が本当に母親を求めているのか? というのが疑問だ。例えば橙は自分や紫を親のように慕ってくれるが、天子から紫に向ける想いは何か違う気がすると藍は思う。
あるいは何かが違えばそうなる可能性もあったかもしれないが、それにしては天子は紫を対等に扱ってるし、最初にあそこまで敵意を向けてきたりはしなかっただろう。
恋は盲目と言うべきか、紫はいささか暴走気味に天子の気持ちよりも自分がしてあげたいことを求めているように見えた。
とは言え、失敗してもそれはそれでいいかという結論に達した。多少仲が拗れたくらいなら後でどうとでもなる、頭を下げればそれで解決だ。
紫がやりたいというのなら、とりあえずやらせてみればいいだろう。
「また随分と天子に入れ込みましたね」
「可愛いものは誰だって愛でたくなるものよ」
「確かに紫様とつるむ内に愛嬌は出てきましたね」
それにどっちみち、この様子では止めたところでやめないだろうし。
藍ははしゃぐ家族を生暖かい目で見守ることにした。
「さあ、始めましょうか。最初は何をするの? 魚を捌く? 肉を斬る? 野菜を粉微塵!?」
「まず包丁ぶん回すの止めてください! 天子と同レベルですよそういうところ!!」
◇ ◆ ◇
「はぁ……」
遊ぶ時はとことん遊ぶ天子だが、つい暇になると要石に乗ったまま頬杖を付いてアンニュイな溜息を漏らしがちになっていた。
理由はやはり母の仇である紫のことだ。
紫のことは憎い。母を奪い、天子の家庭から平穏を奪い、天子は今までの人生における大半を苦痛と苦悩の中で過ごしてきた。
だが紫のことをずっと悩んでいると一つの結論にたどり着く、紫がいなければ自分の存在はありえないのだ。
紫という強大な影があるからこそ、志を持つものが集まり天界を作り、名居家を作り、比那名居家の総領娘が生まれるに至ったのだ。
彼女がいなければそもそも天子は生まれない、そんな天子が生まれるきっかけを作った紫が母を殺して天子を苦しめ、だが千年以上の歳月を経て幻想郷という場所で天子の心を救った。
この因縁が示すものは何なのか、天子はそういったところまで思考の手を伸ばそうとしていた。
自らの生まれた意味とは何だ、母が死んで自分が生き残った理由とは何だ、大して望んでもいないのに天人となり今日まで生き永らえることとなったこの因果は何だ。
考えども答えは出ない。考えることは大切だ、しかしどれほど頭の中でもがいたところで、最後にはこれは自らの足で見つけに行くしかないのだ。
そしてそれは紫に立ち向かわなければならないことを意味する、戦いという手段ではなく、理解り合うことで。
「――お悩みのようですね」
思い耽っていると聞こえてきた声に天子が顔を上げた。
そこには昨日から仕事で姿を見せなかった衣玖が、ふよふよと羽衣を揺らして降りてくる。
「衣玖、呼んでもないのに来てくれたんだ」
「どこかの誰かさんが地震でも起こさない限り基本暇ですから」
「そう」
いつもより大人しい天子の反応に、衣玖は尋ねる。
「紫さんのことですか?」
「……どうしてそんな簡単にわかるのよ」
「天子様が真剣に頭を悩ませる事なんて紫さんか総領様のことくらいですから」
「あーまあ、お父様ともその」
「あら、なにか酷いこと言っちゃったんですか? 駄目ですよ、後で謝らないと」
「うぅ、わかってるわよ」
何もかもお見通しすぎて天子は悔しそうに声を漏らす。
こういうところは衣玖に頭が上がらなかった。
「まあ総領様のことは難しいので一旦置いときましょうか」
何度か天子の父とも話し合っていた衣玖は、すぐに解決できる問題ではないと思い至った。
とは言え悲観もしていない、衣玖にコソコソ娘の近況を聞きに来たり、こうやって諍いを起こしているということは、親子が互いに近づこうとしている証拠だ。
天子が紫と仲直りするためにぶつかり合うしかなかったのと同じだ、ならば娘と父が喧嘩するのは悪いことではないだろう。
親子の不器用さを、衣玖は哀れとは思わなかった。
だからまずは紫のことだ、二人の仲はかなり親密であるしこちらのほうがスムーズに問題解消とできるだろう。
「紫さんとはどうしたんですか一体?」
「……あんまり誰かに言えることじゃない」
悩みを聞こうという衣玖の申し出を天子は拒否した。
紫が自分の母を殺したことは誰にも知られたくないのだ、特に紫本人には。
これが天子を及び腰にさせていた、この事実を知られれば自分が持つ紫への憎しみが露見するだろう、それで二人の関係が変化してしまうのが無性に怖かったのだ。
この拒絶に衣玖は密かに驚いた。拗れた家庭内のことまで話してくれた天子が隠し事をするとは思いもしなかった。
どうすれば天子を助けられるかと少し悩んで、できるだけすんなりと答えを出せそうな優しい問いを選んだ。
「それなら紫さんとどうなりたいのですか?」
「紫と……」
きっと天子なら我が物顔で明るい答えを言いのけてくれると衣玖は期待していた。
だが天子はしばし空を眺めた後、頭を抱えて足元にぽつりと言葉を零した。
「……わからない」
これは思ったより重症だと衣玖は直感した。
基本的に天子は自分の欲求に関しては素直で、自分の望みや欲望をよく理解しどれだけ破天荒な行動に見えてもそこから外れることはない。
そんな天子がわからないなどと迷いを口にするとは、最初は喧嘩でもしたんだろうと楽観的な考えの衣玖だったが、相当込み入った話なのだろう。
連続して困惑させられる衣玖だが、それでも天子が持つ人間としての明るさを信じていた。
「それでは、そうですね……紫さんの普段のご厚意に感謝すべく、プレゼントでもしてみてはいかがですか?」
「プレゼント?」
「ええ、何も紫さんと仲違いしたいわけではないのでしょう? 贈り物をすることで、お互いの気持ちを再確認すればより縁が深くなるのではないでしょうか?」
「うん……そうね、それもいいかも!」
確かに天子は紫が憎い、だがそれだけではないのだ。純粋に紫と一緒にいるのは楽しいし、できれば彼女を許したい。
憎い一方で好意もある。この矛盾めいた感情の板挟みが、天子をじわりじわりと苦しませ始めていた。
だからこそ紫への好意を苦悩の中で忘れないために、そして自分の善性を信じたいからこそ天子は奮い立った。
「それじゃ早速何を送るのか考えないとね」
「そうですね、やはり気持ちの篭ったものを」
「よし、宝石にしましょ!」
「軽い気持ちでぶっ飛び過ぎじゃないですか!?」
いきなり即物的な案が出て、また別の驚きが衣玖を襲う。
衣玖としてはもっと安上がりの、それでいて天子の手作りの小物だとかそういう親しみやすいものを考えていたのだが。
「何だかんだ言って貴重なもののほうが喜ぶもんでしょ」
「それは確かにそうですが……まぁ、天界なら宝石くらいいくらでもあるでしょうけど」
「というわけでまずは原石掘りから開始するわ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください」
手作りではあったが、それはそれで衣玖の想像からかけ離れていた。
「何そのラーメン作るのに小麦粉から育てるみたいな!?」
「だってー、ただあるもの送っただけじゃ味気ないじゃないの。気持ちがこもったものが良いって言ったのは衣玖じゃない」
「それはそうですが、原石なんてそんな簡単に見つかるものじゃないでしょう」
「ちっちっち、比那名居天子様を舐めちゃ駄目よ、能力使って大地に聞けば宝石の在り処くらいすぐわかるわ」
「マジですか結婚してください」
「お断りよ」
流れる空気のままプロポーズが玉砕する。
「でも原石だけ見つけてどうにかできるんですか?」
「加工くらいできるわよ、長年暇つぶしばっかしてたからね」
「無駄に多芸ですね」
天子の意外な特技が判明したところで、二人は下界に降りて宝石が埋まっている場所を探すこととなった。
とは言っても天子の言っていた通り時間はそうかからなかった、地面に降り立つなり足元に手を置いて大地に感覚を這わした天子は、やおらに立ち上がり「こっちよ」と指差した方へ飛んでいく。
「で、ここよ。この先に宝石がいっぱい埋まってる感じがあるわ!」
「で、ここですか」
二人がたどり着いた前に広がるのは鬱蒼とした森林が広がり、山頂から厳かな風が流れてくる山の麓。
ここから見れる雄大な景色は、天子と衣玖にとっては割と馴染みのあるものだった。
「この先って、思いっきり妖怪の山の中なんですが」
「みたいね」
よりにもよってここかあ、と衣玖は山を見上げながら独りごちる。
「本当にあるんですか?」
「私の要石レーダーにビンビンよ。100%この山のどこかに宝石の原石が埋まってる、しかも大量にね。もっと近づけば正確にどこにあるのかもわかるわ」
「その胡散臭いレーダーを信じたとして、場所がわかってもこの場所では……」
並んで山の頂を眺めていた天子たちの前で、木々の奥から白い影が歩み出てくる。
印象的な片刃の大剣を背中に背負い、左手に紅葉マークの描かれた盾を持った椛が、下駄で富んだ地面を踏みしめた。
「また来たんですか。いますぐ戦争ごっこは勘弁して下さいよ、こっちも準備があるんですから」
ご丁寧に天子たちが不法侵入するを止めに来たらしい。
その顔は厄介事の予感に眉を潜めているが、意外と声色は明るい。見回りなどという面倒で退屈な仕事中に、天子たちを理由として暇を潰せるのは実はありがたいのだ。
「やっほー、もみちゃんこんにちは」
「お久しぶりですもみちゃん、元気してましたか」
「もみちゃん言うな! 揃いも揃って」
「まあまあ落ち着いて、おみやげの桃」
「おっ、ちょうど口寂しかったところです。ありがとうございます」
すかさず天子がいくつか桃を包んだ風呂敷を差し出せば、椛はあっさり態度を和らげて受け取った。
こういうところで役に立つので、天子は下界に降りる時には手土産を用意するようにしている。
包みから桃を一つ取り出した椛は、瑞々しい実を一口頬張りながら話を戻した。
「今度は何の用ですか。将棋でも打ちに来たのなら結構。襲撃したいのなら別の所へ行ってください」
「えっとね、山の方にお邪魔したいんだけど、ダメ?」
「嫌な予感しかしないので絶対ダメです。守矢神社への参拝くらいなら許しますけど」
餌付けされたと言っても、縄張りに通してくれるほど甘くはないようだ。
何度も襲撃していて通り道としてなら使わせてくれるだけありがたいところだが、それでは今の天子には都合が悪い。
門前払いされ、衣玖が天子に耳打ちした。
「どうします? のんびり宝石掘りなんてできるような場所じゃないですよ」
「あいつ千里眼もどきまで持ってるし、隠れてこっそりっていうのも無理よね」
この問題をどうクリアするか二人は頭を悩ませた。
顔を寄せ合ってコソコソと内緒話をする天界組を椛が訝しげな眼で眺めていると、彼女たちのそばを緑髪を揺らす少女が通りかかった。
「こんにちは椛さん、通りますね」
「ああ早苗さん、おかえりなさい。どうぞ」
買い物かごを提げた早苗は何事もなくその場を通り過ぎようとし。
「早苗ぇー!!!」
「うひゃあ!? 天子さんですか、なんですか!?」
そうは問屋が卸さないとばかりに飛びかかる天子に早苗がたじろぐ。
「いや、大声上げたのは無意味に脅かしただけだから大した用じゃないんだけど」
「無意味すぎますよ」
「今度守矢神社に行くからっていうのと、それから……」
早苗の耳元に口を寄せた天子は、手で隠した下で何やらゴニョゴニョと囁いた。
内容を聞いた早苗は目を見開いて輝かしい笑顔になり、天子に振り返って至近距離で光るような眼差しを送った。
「おお!! ついに、ついにですか!?」
「ついによ、準備して待っててね」
「はい!」
急にご機嫌になった早苗は、鼻歌交じりに守矢神社へと帰っていく。
「何をしたんですか?」
「ちょっとした布石よ、それじゃ次の場所よ衣玖!」
◇ ◆ ◇
それから数時間後、お騒がせコンビの天子たちが立ち寄ったのは、魔法の森に建てられたマーガトロイド邸だった。
「たのもー!」
「どうもお邪魔します」
軽快な声が棚に並べられて開かれた扉に、人形たちがわずかに震える。
ここに集まって魔法の研究会を開いていた家の主であるアリス、そして魔理沙とパチュリーの三人は突然の来訪者に驚いて手を止めた。
研究の邪魔をされることを悟ったパチュリーは、ジトッとした半目でまずアリスを問いただした。
「アリス、あなたこんなのまで招待したの?」
「ち、違うわよ! アポも取らずに何しに来たのよ地震野郎!」
「あんたに用があるんじゃないわ。魔理沙がどこにいるのって霊夢に聞いたら多分ここだって教えてくれたのよ」
「おいおい……霊夢のやつ、こんなのに教えるなよ……」
桃で懐柔される口の軽い友人を思い浮かべて、魔理沙が帽子を押さえて嫌そうに顔を隠す。
誰がどう見ても歓迎ムードなどではないが、天子はそんな空気の悪さはなんともないようにふんぞり返って帰る気配など微塵もない。
どうやら言わねばわからないと見て、パチュリーが仕方なしに口を開く。
「帰りなさい、私たちはいま研究で忙しいの」
「さて単刀直入に言わせてもらうわ」
「聞け!」
訂正、言ったところでわかる相手ではなかった。
憤るパチュリーを無視して魔理沙に詰め寄った天子は、たじろぐ白黒を前に机を叩いて身を乗り出した。
「宝石に興味はない? 未発掘の原石がゴロゴロしてる場所を知ってるのよ。協力して掘り出しましょう」
大した前置きもなく唐突に出てきた言葉に、魔法使いたちは揃って黙り込み、耳に聞こえたものが間違いか問うように互いを見合わせた。
ぶしつけにも程がある天人に、果たしてまともに対応すべきか迷うところだが、天子が述べた内容は無視するには魅力的だった。
ひとまず話を聞いてみることに決めた魔理沙が言葉を返す。
「いきなり胡散臭いな。未発掘? どうしてそんなのがあるってわかるんだ」
「私の能力を活用すれば地面の中にあるものくらいわかるわ。魔法使いにとっても宝石は貴重なんじゃない? 専門外だから詳しくは知らないけど、使わなくとも売ってお金にすればそれなりの金額になるわ」
魔理沙の疑問に対する返答の真偽はともかく、宝石が貴重なのは確かだった。
質の良い宝石には魔力を込めやすく、物によっては魔法を行使する強力な媒介になるし、そうでなくても資産となるものは誰だって欲しい。実験に使う器具にも金はかかるし、論文をまとめる紙代だってただではないのだ。
だが何故いきなり宝石なのか、そのことについて聞かれる前に天子が答えを紡ぐ。
「故あって首飾りを作るために自分で採掘した宝石が欲しくてね、手伝ってくれれば使わなかった分は譲ってあげても良いわ」
「そんなこと言って、全部使うとか言って分け前を渡さないつもりじゃないのか?」
「欲しいのはせいぜい親指くらいの量よ。埋まってる原石の総量は両手で抱えてまだ余るくらいでしょうけど」
親指大の宝石となると結構な大きさだが、天子が語るにはそれが可愛く思えるほどの埋蔵量らしい。
「そこの二人にも、協力すればそのぶん分けてあげるわよ」
天子は隙あらばパチュリーたちも話に巻き込む、話を大きくしてなし崩し的に協力させようという魂胆だ。
だが年季の入った魔女たちはその程度では動じない、何か思うところあって視線を交わすパチュリーとアリスだがそれは話に乗るか迷ったからではない、魔理沙がどう出るかという心配からだ。
「待て、話が美味しすぎるな。どうして私のところにそんな話を持ってきた?」
「少しばかり厄介な場所にあってね、のんびり穴掘りとはいかない場所なのよ」
「どこだ?」
「妖怪の山」
明かされた場所から、天子が頼ってくるのも無理はないと納得はいった。
宝石があるとわかれば天狗が自分たちの領地なのだから自分たちのものだと主張するだろう、そうならないよう妖怪たちの目を盗んで採掘する必要がある。
「協力者にあんたを選んだのはその欲深さを見込んでのことよ」
「前は貪るなとか言ってたくせに都合がいいな」
「人生を愉しみたければ貪らざるをもって宝と為せ。けど往く先が人生から外れるつもりなら、それを否定するつもりもない」
天子に言われたことに、魔理沙は目を見開いて大きく動揺した様子だった。
ある意味、これからの魔理沙の人生を核心をついた言葉に、いまだ幼い魔法使いは口をつぐんでしまう。
強引に攻め入る天子の甚だ不愉快な光景を見かねた魔女たちは、椅子から立ち上がり天子を挟んで睨みつけた。
「いい加減、私の家から出ていって。うちは悪魔の勧誘お断りよ」
「それとも天狗と事を構える前に、私達と争う気?」
「あんたたちに話してるんじゃないわよ、私は魔理沙と交渉してるの」
「どの口が言う……」
さっきはアリスたちまで勧誘しておきながら、いけしゃあしゃあと無関係だと言ってのける天子に敵意が向けられる。
だがしかし、天子はそれらに一切を跳ね返し、魔理沙への言葉を続ける。
「いざという時のために色々貯め込んでるんでしょう? 一攫千金狙いたくない?」
「魔理沙、契約というのはみだりにして良いものじゃないわよ」
「そんなやつ相手にすることないわ」
悪魔の囁きと善意の助言が交互に飛び交う。
魔理沙は組んだ手に顎を押し付け、それらをじっと聞き届けると結論を出した。
「……いや、乗ろうじゃないか」
◇ ◆ ◇
作戦の決行日は、それから三日後となった。
妖怪の山の付近で待機している魔理沙は、木の根に腰を下ろして鞄の中に詰まった魔法の道具の最終点検をしている。
閉じたフラスコの怪しげな中身を太陽に透かして色合いを確認している脇で、魔理沙の魔力を受けずに独自に浮遊していた人形と魔法の本が、魔力による振動を発し念話で言葉を伝えてきた。
『――本当によかったの魔理沙? あんなやつと手を組んで』
「宝石は魅力的だからな。二人だって話に乗ったじゃないか」
『私たちはあくまでサポートだからね』
「分け前は少ないぜ」
『わかってるわよそんなこと』
今回はパチュリーとアリスも協力するが、人形と魔本を介した遠距離からのサポートのみだ。
実際に矢面に立って被害を受けるのは魔理沙のみである、それで上手く行けば宝石が手に入るのだから二人が損することがないのだ。
だが、どちらかと言えば宝石が目当てではなく、魔理沙が心配だからのことであった。
「パチュリーの用意した契約書にサインさせたが、あれの拘束力は絶対なんだな?」
『自信はあるけど、契約なんて逃げ道を探そうと思えばいくらだって探せる。あの手の輩は、ここぞというところで言葉の揚げ足を取って裏切るわ』
天子と衣玖には魔法を付与した契約書に名前を記入させた、これにより採掘に成功したら宝石の9割は魔理沙たちに譲渡されることになる。
本人によれば1割もいらないくらいらしいが、多少損してでも明確な数字で取り分を決めるほうが安心できる。
だがそれでも完璧な安心とはいえなかった。古今東西、契約というのは裏をかくためにある。
「そんなことはわかってるぜ。あいつは何があっても自分の目的だけはちゃっかり達成する狡猾な野郎だ。最初から信用なんてならん」
『それがわかってるならどうするの』
「無論、決まってるさ」
点検の最後に八卦炉に付いていた煤を服の袖で拭った魔理沙は、脳裏に敵を思い浮かべて八卦炉を天に掲げた。
「こっちが先に裏切ってやれば良いんだよ」
魔理沙達を待たせているあいだ、天子たちは妖怪の山の内部に足を踏み入れていた。
と言っても不法侵入ではない、守矢神社への参拝という形で、最近完成した索道に揺られて木々の間を運ばれていた。
吊るされた搬器が伸ばされたロープを伝って空を巡るのを新鮮な気持ちで感じている天子は、手すりから下を眺めて神輿に乗ってるみたいだと思った。
「これがロープウェイか。こうしてゆっくり景色を見るには良いわね」
「私はちょっと怖いですけどね、いきなり落ちたりしませんよね?」
「自分で飛べるじゃない」
「それとこれとは話が別です」
ゆったりと観光気分に浸る天子と違い、衣玖は不安げにそわそわとしていて、終いには我慢しきれず、搬器の中でふわりと浮かび上がって自分で飛び始めた。
そう早くもない速度でじわじわ山を登るロープウェイに追従して飛ぶのは骨が折れそうなものだが、まるで地面の上にただ浮かんでいるかのように完璧に搬器の動きを追うという以外な器用さを見せている。
ようやく気を落ち着けた衣玖は、景色を楽しんでいる天子に話しかけた。
「一割だけとは、随分謙虚に出ましたね」
「どうせプレゼントに要る分以外はどうでもいいし、宝石自体は天界にいっぱいあるもん。お金稼ぐにしても、自分の能力であっさりっていうのはつまらないし」
「やだやだ、これだから成金はお金の重さがわかってません」
「重さがわかる機会が来てから頑張ればいいのよ」
「痛い目見てからじゃ遅いでしょうに」
今回の計画を魔理沙と共同で行うにあたって、天子は魔理沙と契約を交わして魔法の契約書にサインもした、その内容は大雑把に言えば次の六つだ。
1.妖怪の山より宝石を手に入れた場合、その分配は霧雨魔理沙が全体の九割、比那名居天子が一割である。
2.1により天子に分配される宝石は、天子が自分の意志でどれにするか決められる。
3.今回の計画については秘密であり、外部に漏らしてはならない。
4.他に協力者を得たい場合には、魔理沙と天子双方の承認が必要である。
5.4によって承認された人物にのみ、今回の計画を打ち明けることができる。
6.魔理沙はこの契約を一方的に打ち切ることが可能である。
「随分と魔理沙さん優位な契約でしたね、向こうから打ち切ってもいいだなんて」
「こっちが願い出てるんだからね、向こうに都合が良くないと乗ってこないでしょ。それに今回の一番難しいところは宝石の採掘まで、それ以降なら裏切られてもどうとでもなるし、ソッチのほうが面白いしね。ククク……」
「その破滅的なところ、直さないと紫さんが悲しみますよ」
「うぐっ」
悪役のような笑いを押し殺していた天子だったが、紫のことを持ち出されていつも傲慢な態度に初めてヒビが入った。
衣玖の忠言に意地を張るかどうか「あー」だとか「うー」だとか唸って存分に悩んだ後、苦い表情で景色の上に目を滑らせながら頷いた。
「……次からは気をつけるわよ」
「それが宜しいかと」
「ところで、それはそれとして見られてると思う?」
「恐らくは、空気の流れ方が粘っこい感じです」
視線が注がれる方向を見向きもせずに、衣玖は監視の目を言い当てた。
衣玖の意外な器用さ其の二だ、どうやらこの妖怪は神経を研ぎ澄ませることで空気からそんなことまで感じ取れるらしい。
すでに山の麓からは数十メートル離れ、空気を読むと言っても息遣いを物理的に感じられる距離ではないはずだが、本人によれば「なんとなく」でわかるとのことだ。
天子も近くの気配なら衣玖より過敏に感じ取れるが、遠距離ともなると衣玖のほうが上手だった。
「何にせよ作戦までもうすぐよ」
そう言って天子は懐から懐中時計を取り出した。
まったく同じものを同じ時間に合わせて魔理沙にも渡している。
時計の秒針が等間隔で時間を刻むのを見やりながら、天子は口を薄く開いてカウントダウンを読み上げた。
「――2……1……」
カウントがゼロに到達する瞬間、麓の方から山を穿つ爆発音が鳴り響き、ロープウェイ全体ががグラグラと揺れて、搬器の天井からミシミシと嫌な音が鳴り響く。
遠くで魔力で巻き上がる狼煙を見て、天子は獰猛な笑みで刃のない緋想の剣を取り出して握りしめた。
「さてさて、どこまで上手く行くでしょうか」
「布石はたっぷり打ち込んだ。派手に行きましょ!」
「本来はこっそりって話だったはずなんですがね」
◇ ◆ ◇
「な、何事ですか!?」
謎の爆発にいち早く反応したのが椛だった。
早苗のところに行くから乗せてくれと言ってきた天子を遠目で監視していた彼女は、爆心地のすぐそばにいた。
吹き荒れる突風が木の葉を攫って己の身に叩きつけてくる中、腕で顔をかばいながら風に逆らって爆発の中心部に飛び込んだ。
荒れ地にだった場所に穿たれたクレーターに踏み入った椛は、上空に浮かぶ白黒の魔法使いを浮かべ警戒心をあらわにする。
剣に手を伸ばす椛の前で、魔理沙は威勢よく啖呵を切って八卦炉を構えた。
「私が蒐集したアイテムを天子のやつが盗みやがった! ここが匿ってるって聞いたから取り返しに来たぜ!」
「匿ってるとは人聞きの悪い、そんな事実はありませんよ!」
「問答無用だ!」
二度目の爆発音とともに、絡みついていた視線が掻き消えたのを感じ取った衣玖は、そのことを天子に伝える。
「監視の気配が途切れましたよ」
「よし、私達も動くわよ!」
それを聞くなり天子はロープウェイから飛び出した。
このまま魔理沙に陽動してもらい、自分たちは騒ぎの乗じて宝石を掘り出す算段だ。
状況が動き出す中、一回の鴉天狗である射命丸文は、魔理沙が魔法で妖怪の山を荒らすさまを遠目に見ながら、扇子で口元を隠して今回の騒ぎを推察していた。
「暴れまくりで手が付けられない……というか動きが無軌道すぎますね、何か裏がある?」
天子を出せと言いながら、魔理沙の動きに一貫性がない、あっちへふらふらこっちへふらふら高速で飛び交いながら、同じ場所を何度も周回したりと、捜索していると言うには無駄が多すぎる。
「椛と合流して情報を集めたほうが良さそうですね」
この状況は自分の手には余ると判断した文は、最も信頼する部下のもとに向かうことに決めた。
最初の襲撃で八卦炉を使用した魔理沙だったが、それ以降はスペルカードを出し惜しみしつつ、通常弾をバラ撒いて突然の戦闘に困惑する天狗たちを追い立てていた。
背中を見せてあわあわと逃げ惑う天狗を後ろから撃ち抜き、魔理沙は相手を圧倒する優越感と万能感から得意げに鼻を伸ばした。
「よおーし、いい調子だぜ、このまま引っ掻き回しまくって」
『気を付けなさい魔理沙!』
しかし快進撃を続ける魔理沙の下方から、複数の天狗が同時に弾幕を放って攻撃を仕掛けてきた。
進路を塞ぐ弾幕は人形からのアドバイスがあってギリギリで避けれたが、いやに統制が取れた弾幕に嫌な予感が走る。
「怯むなぁ! あのクソ天人を倒すためにやった訓練を思い出せ!」
「松組は右翼、竹組は左翼へ展開! 梅組と合わせて三方向から囲むぞ!」
「被弾したものはすぐ後退! つねに部隊内でのダメージを気にかけて穴を埋めろ!」
高速で駆け巡る魔理沙に対し、天狗たちはフォーメーションを組んで食らいついてくる。
そのうち何名かを弾幕で撃ち落としても、欠けたメンバーで新しい陣形を組んで休むことなく果敢に責め立てる。
『アリスは三時方向! 私は九時方向に弾幕張るわ。魔理沙は当てられないように動き回って!』
『なんて考え込まれた連携なの……悔しいけど人形たちの参考になるわね』
「な、なんかこいつら強くないかぁ!?」
天界コンビに何度も攻め入られた妖怪の山の防衛部隊は、繰り返した戦闘の中で確かな地力を積み上げ、幻想郷の中でも守ることにかけては屈指の傑作部隊となっていた。
魔理沙達が悲鳴を上げている最中、天子たちは監視の目を掻い潜り目的の場所へと急接近していた。
「方角はあっち、山の中腹辺り東側!」
「ロープウェイの進路からは遠いですね」
「急ぐわよ!」
索道から出たことがバレないように木々の間を縫って飛ぶのは神経を使うが、天子は枝に引っかかれながらも強引にへし折って森の中をかっ飛んでいた。
その後方からは衣玖が軽やかな軌道で枝を避けて、木の葉一つ被らずに天子を追いかけている。しかしもとよりスピードで秀でているわけではないので、少し遅れ気味だ。
従者を引き離しかけていた天子だが、急に殺気を感じて後ろへ飛び退いた。
「衣玖、後ろ!」
衣玖とほとんど激突しそうなくらい近くをすれ違い、位置を入れ替えた天子は背後からの閃光に対し、気質を展開した緋想の剣で受け止めた。
緋色の刃と白刃が押し合いへし合い、二人の剣士は相手の様子を伺おうと一旦距離を取り合う。
空に浮かんだ衣玖を庇う天子が睨みつける先には、大剣と盾を構える椛が木の枝に乗って構えを取っていた。
「椛、早いじゃない」
「この前、変なことを聞いてきたからな、何かすると思ったぞ」
「監視の目が途切れたのは、騒ぎが起こってすぐに走り出したからですか」
どうやら魔理沙の陽動は完璧には行かなかったらしい。
今は天子の障害となるのは椛だけであるが、このまま戦闘が長引けば他の天狗たちも天子の存在に気づいてこちらに向かってくるだろう。
その時点で作戦は失敗、例え弾幕ごっこで勝てたとしても採掘どころではない。
非常に拙い状況のはず、なのに天子は不敵に笑って見せた。
「だけどもう駒は揃ってる、この盤面はすでに私の手の平よ!」
天子は緋想の剣を空に掲げて声を張り上げた。
途端、天候が急激に変化を始めた。まばらに浮かんでいた雲が分厚くなりだし、曇天となった空にいくつもの緋い帯が敷かれる。
暗闇がかった空の下で無数の極光が広がって妖怪の山を照らしだす。
書き換えられた天候に椛が警戒して一歩距離を取る前で、波打つ極光の一つから光が渦巻いて落ちてきて、緋想の剣に吸い込まれた。
天から受け取ったのは、極光という形で大地から取り出した膨大な量の気質。
「輝け空よ! 唸れ大地よ!」
天子は空から極光の輝きを受け取った緋想の剣を逆手に持ち、地面に落下して剣先を大地に挿し込んだ。
爆発的な気質を受け、天子の足元が大きく隆起し、下から巨大な要石が土砂を跳ね上げて現れた。
地面から盛り上がった要石はガキンガキンと硬い音を立てながら変形と巨大化を繰り返し、その勢いはとどまることを知らず山の一角に巨大な人型としてその異様を晒した。
唖然とする椛の前で、出来上がった細身の要石人形(全長20メートル)はそのままでは灰色で味気ないところを、緋色の気質が人形全体に駆け巡って表面をコーティングし、いい感じに要所要所を緋く染め上げる。
完全に二本足で自立した人型の胸元に開かれた空洞内――、否、コクピットで天子は叫んだ。
「ウェイクアップ、テンシガー!」
叫び声を最後にコクピットブロックのハッチが石で閉じられる。
このロボ(?)は驚くことに石でできたはずの関節を動かして右手を天高く伸ばすと、その手に緋く輝く気質の剣が握られる。
アニメのようにポーズをとる、緋色の巨人が妖怪の山に君臨し、天に絢爛と広がる極光とともに自らの存在を喧伝した。
椛はもとより、陽動に徹していた魔理沙も、援護していたアリスとパチュリーも、防衛に出ていた見張りの天狗たちも、様子を見ていた上層の天狗たちも、誰も彼もがその巨体を見上げて口々に呟いた。
『バカだ……』
椛は呆れるばかりだった、コソコソと何かをしていたようだが、こんなものを出しては隠れるも何もないだろうに。
しかしこんな巨大質量を相手にするのはいささか面倒だ。
自分一人で相手をするには時間がかかりすぎるが、これだけ目立つなら他の者も気付いただろうし、一旦離れていいだろう。
「……文様と合流するか」
何だかんだ言って、こういう時には一番に思い浮かぶのがあの鴉天狗のことだった。
空に向かって胸を張るテンシガーから退却する椛だったが、山の上ではとんでもないことが起ころうとしていた。
「――来ましたか。空に緋色の幕が降りる時、決戦の火蓋は切って落とされると、天子さんは言いました」
神社の鳥居の下で、吹き荒れる突風にバタバタと長髪とスカートをはためかせて、テンシガーの威容をキラキラした眼で眺めている早苗が居た。
その背後には守矢の二柱、神奈子と諏訪子がまた意味ありげな笑みを浮かべている。
自らが信奉する彼女たちに向かって、早苗は大きく腕を振り上げた。
「さあさあさあ! 今こそ、お互いに作った巨大秘密兵器を戦わせるときです! 神奈子様、諏訪子様、お願いします!」
「あいわかった!」
「ぶっちゃけ山の天魔とかには怒られそうだけど、まあいっかやっちゃおう!」
蛙のように飛び跳ねた諏訪子が参拝道に手足を付いて着地すると、境内の横の地面が突如爆発を引き起こして土砂を巻き上げた。
地面の中から現れたのは、ペラペラした、しかし異常に大きな金ぴかなゴム質の何か。
次いで早苗がお祓い棒を振り上げると、彼方より舞い込んだ風がゴムに空いた穴から入り込み、あっという間に巨大な人型へと変貌を遂げた。
おかしなことに、その人型には身体のあちこちに空洞が開いていたが、これは無意味についているわけではなかった。
「喝ッ!!」と神奈子が叫ぶと、どこからかオンバシラが飛来して、ゴムの空洞に挿し込まれた。
ついに完成した巨大兵器の頭部に用意されたコクピットへ、一人の現人神と二柱の神が座布団を持って入り込む。
「諏訪子様特性の風船タイプのボディに私が奇跡でなんやかんやして膨らませ、神奈子様のオンバシラを各所に挿し込んで骨格とする! これぞ付喪神が生まれないように即時組み立て、即時解体を追求した非想天則の発展型!」
巨人の眼孔から外部を覗き見ながら、早苗は奇跡でなんやかんやして、自らが搭乗した巨大兵器の四肢を稼働させる。
山の斜面に乗り出して、左腕を引き右腕を大きく伸ばす巨人、その内部の早苗は足りないレバーを妄想で補って、巨人に合わせて両手を振り回していた。
「グレート非想天則です! さあ、天子さん、今こそ因縁の宿命に決着をつける時!!!」
風に乗った早苗の声が、山の隅々まで凛として響き渡る。
屹立する黒い巨人を前にして、山の誰しもが内心叫んだ。
――――バカが増えたー!!!
そんなツッコミがあるとはつゆ知らず、早苗はグレート非想天則のコクピットで「やりきりました……!」と満足気にドヤ顔を決めている。
しかしライバルが現れたと言うのに、目の前のテンシガーからは何の反応も返ってこず、ノリの良い反応を待ち望んでいた早苗は首を傾げた。
「……アレ? 天子さ~ん? おーい、なんで返事しないんですかー?」
音響を最大にして尋ねてみても、周りの天狗が耳を抑えて墜落するだけで、テンシガーは動かない。
訝しんでいると、テンシガーの方向から衣玖が羽衣をひらひらさせてグレート非想天則にまで飛んできた。
グレート非想天則の眼孔越しに顔を合わせた二人はそのまま会釈する。
「どうもこんにちは早苗さん」
「ああ衣玖さんこんにちは。どうしたんですかあっちは?」
「天子様から伝言です。これ作ったはいいけど、スピーカーとか付いてないから喋れないわ、ですって」
「えっ、何ですかそれ寂しい……」
それだけ言うと衣玖は「じゃ、これで」と素早く身を翻して戻っていってしまった。できる女は引き際も鮮やかなものだ。
少しばかり意気消沈した早苗だが、すぐに気を取り直すとてっぺんの髪の毛を揺らしてフンスと息を鳴らした。
「いやいや、ロボットアニメではお前それ通信繋がってないから話しできないはずだろと言うシーンでも、会話めいた語りが挟まれたりするもの! ここは私のオリロボ設定で鍛えられた妄想脳をフル回転させて場を盛り上げましょう!」
テンション上げ上げまくった早苗はグレート非想天則にファイティングポーズを取らせ、テンシガーへと走り出させた。
土砂を巻き上げて近付いてくるグレート非想天則に、ようやくテンシガーも動き出して伸びるビームサーベルもどきを両手で構える。
大きく振りかぶって放たれたグレート非想天則のドでかい拳と、大上段から振り下ろされたテンシガーのサーベルがぶつかり合い、激しい火花を散らした。
「あなたの思い通りにはさせません!」
「人は憎しみで戦ってはいけないのです!」
「我々は我々だけで生きるべきではない!」
「人間はそんなものだって乗り越えられるー!」
「戦いこそが人間の可能性なのかもしれません!」
なんか矛盾した言葉を重ねながら、早苗は一心不乱にグレート非想天則を動かしまくる。
金色の巨体が拳で殴り、サーベルを腕で受け止めて守り、殴り、守り、殴り、守り、一進一退の攻防が振り広げられ、足元では天狗や河童が住処を踏み潰され蹴飛ばされる
大地を揺るがす重低音と多くの悲鳴をBGMに二つの巨人が競い合う。
「おりゃー! うりゃー!」
「早苗、楽しそうだあねー」
「育て方間違えたかしら……台詞選びが軟弱過ぎる」
早苗の醜態に、神奈子が嘆いて頭を押さえた。
そんなことにも気付かないほど勝負に熱中していた早苗は、隙を見て蹴りつけようとしたところを、サーベルのカウンターで突き飛ばされ、グレート非想天則がたたらを踏んで後退する。
何気に分厚い装甲はこの程度では破れないが、ダメージが蓄積すればいかにグレート非想天則と言えど危ない。
「ぬあ、流石は機械みたいな反応速度! 人間の私ではこういうところが及びませんか」
そもそも人間とでは基礎スペックに差があるのだろう、パイロットの技量はテンシガーのほうが上回っているようだ。
「しかあし、そこは愛と勇気と、パワーで逆転するところ!」
グレート非想天則が拳を掲げて唸りを上げる、右腕を大きく引き絞り、助走を付けて殴りかかった。
また先程のようにサーベルで防ごうとしたテンシガーであったが、グレート非想天則の拳を受け止めた瞬間に手の甲から突き出してきた何かが気質の刀身を貫いて、テンシガーの右肩を粉砕した。
煙と音を立てて崩れる右腕を庇い後退するテンシガーを前にして、グレート非想天則の拳から伸びていたものは、巨大なオンバシラであった。
「見ましたか! 骨格となったオンバシラは展開することで武器としても使用できるのです!」
片腕を失くしたテンシガーは上手くスペックを発揮できないのか、気質のビームサーベルは霧散して徒手空拳となっていた。
破れかぶれに残った左腕で殴りかかってくるが、重心がブレたパンチなどグレート非想天則の敵ではなく、右の手であっさりと受け止められて拳を締め上げられる。
右手だけでテンシガーを抑えつけるグレート非想天則は、溜めに溜めた左の拳をテンシガーに向けて放った。
「さあ、トドメのオンバシラバンカー!!!」
渾身のオンバシラがテンシガーの首から上を吹き飛ばす。
テンシガーは首を無くし、コクピットの上部に大穴を開けられて力なく尻餅をついて山の斜面に倒れ込んだ。また一つ天狗の家が潰れる。
巨大ロボの片割れが打倒され、空にかかっていた極光と雲はまたたくまに姿を消し、元の清々しい青空が姿を見せる。
宿敵を打ち倒し、雄々しく勝利のポーズを取ったグレート非想天則から、早苗は勝ち誇ってテンシガーの残骸を見下ろした。
「呆気ないものですが私の勝ちです天子さん! ……って、あれ?」
本来パイロットがいるべきテンシガーの胸部の空洞には誰の姿も見えず、そこにあったのは一枚の符だけだった。
「――巨大要石ロボでの陽動は上手く行ったようね」
晴れ渡った空をバックに勝鬨をあげているグレート非想天則を、木々の隙間から遠く眺めながら、天子は呟いた。
天子と衣玖がいるのは、巨大ロボたちが取っ組み合っている場所からかなり離れた山の中。
「あんたのお陰よ橙」
そう言って天子がかぶっていた帽子のつばを持ち上げると、下から黒猫が顔を出してプハーと大きく息を吐いた。
苦しそうだった黒猫は二股の尻尾を揺らしてするりと天子の頭から抜け出ると、煙を立てて人型の少女へと変化した。
「へっへー、どんなもんだい!」
「ありがとね、私じゃ遠距離で動かすまではできなかったから助かったわ」
「いいよこのくらい。紫様のためだし、それにあんな大きなものを式で動かす機会はそうないからね、いい勉強になったよ」
幼さと元気をいっぱいに詰め込んだ橙は、えへんと誇らしげに胸を張る。
彼女こそ、天子が魔理沙からの了解を取り付けて、協力を要請した秘密兵器だ。
天子は要石ロボを作り気質を介して操ることには成功したが、いかんせん遠隔操作で気質を自在に動かす技術を持っていなかった、そこで橙に式神として使ってもらうことで天子無しでの自律行動を可能としたのだ。
最初に橙を勧誘した時、天子の道楽にそこまで付き合うのはと渋っていたのだが、ちょっと首飾りのことをことを言うと、紫に関係有ることだと察して喜んで協力を約束してくれた。
役割を果たした橙は、再び黒猫の姿に戻って天子たちとは別方向へ足を向ける。
「それじゃ私はこれで御暇するよ、妖怪の山に睨まれて紫様たちに迷惑はかけたくないもん」
「オッケー、吉報を待ってなさい」
「期待してるね!」
「ありがとうございました、橙さんもお気をつけて」
別れを告げた橙が駆け出すのを見て、天子たちも目的の宝石が眠る方角へと低空飛行を開始して木々の間を抜けていく。
「それにしても、あんな大きいのをあそこまで精密に動かせるとはね。負けちゃったけどあそこまで粘るとは思わなかったわ」
「私ももっと単純な動きしか式にできないと思ってました」
天子としては陽動として軽く手足を振り回してくれればいい程度に考えていたのだが、橙の式神はそれを凌駕する完成度だった。
単純な反応速度だけなら天子と同等かそれ以上であり、勝負が長引くよう的確に防御しつつあえて防がれやすい攻撃を繰り返していた。
水に濡れただけで式神が飛ぶ未熟者というのが橙へのイメージだったが、秘めているポテンシャルは想像以上のものらしい。
「伊達に八雲家の一員じゃないってことね」
三分ほど山の中を飛び続けていた天子だったが、切り立った崖の下に差し掛かると急ブレーキを掛けて地面に降り立った。
「よし、着いたわ、ここよ!」
天子は言うなり緋想の剣を地面に突き立て気質を放出し、崖の一部に裂け目を作り上げた。
人が二人通れるかどうかの狭い隙間に天子と衣玖は潜り込み、緋想の剣を灯りとして暗闇を照らし出す。
彼女たちが見たのは、奥に押し込められるかのように固められた色とりどりの宝石が、光を受けて煌めく光景だった。
何種類もの宝石の原石が岩盤に根付いて、赤、黄、緑、青、紫、無数の色彩がひしめき合い、ここから掘り出してくれと言わんばかりに存在感を示してくる。
「な、なんですかこれ。いくつも鉱石が集まっているみたいですが、鉱床ってこういうものなんですか?」
「違うわね。多分だけど、幻想郷ってあちこちから土地を引っ張ってきたりすることもあるらしいから、その時に宝石同士が引き寄せあってここに集まったんじゃないかしら。少なくともこれは自然に発生するもんじゃないわ」
考察もそこそこに天子は緋想の剣で鉱石を根付いた岩盤ごと切り取った。
出来上がった直径1メートルほどの原石塊を持ってきた大きめの風呂敷で包み、裂け目から持ち出そうとする。
「よし、魔理沙たちの分も合わせてこれだけあれば十分ね」
「なら早めに脱出しましょう、今の地割れは結構目立ちますよ」
「わかってるわよ――っと、ちょっと待って」
切り取った岩盤の更に奥に何かを見つけ、天子は緋想の剣を伸ばして切り取った。
「天子様!」
「わかってるわ、行くわよ!」
裂け目から出た天子は、原石の詰まった風呂敷を背負って妖怪の山を下りて行く。
ここまでは順調だが、どうなるのかわからないのが幻想郷というところだ、不安と焦燥を楽しみながらも、一刻も早く山から脱出しようと先を急いだ。
◇ ◆ ◇
山中の天狗が右往左往している中、文は隣に椛を置きながら冷静に状況を俯瞰して、現状の把握に徹していた。
「上は巨大ロボ、下は白黒、あっちもこっちも滅茶苦茶ですね」
テンシガーを倒したはずのグレート非想天則は天子本体を探してその巨体で山を徘徊し、魔理沙は未だに天狗の防衛隊と衝突し続けている。
妖怪の山全体が混迷を極める中、文はすでに今回の元凶の当たりをつけていた。
「椛、あなたはどう見ますか?」
「十中八九、黒幕は天子です。恐らく魔法使いは天子にそそのかされたかと言ったところ」
「同意見ですね。私たちは天人を捕まえるために独自に動きましょう」
これぐらいは冷静に考えればすぐに出て来る結論だろう、他の天狗に横取りされる前に天子を確保しなくてはと文は静かに燃えて拳を握る。
対して目に見えて情動的な様子を見せる椛は、天子に対する不満を吐き出していた。
「彼奴は卑怯なくせに派手好き、と見えたかに思えば相当にしたたかです! きっとこの山の何処かに潜伏しています、私があいつと将棋を打った時も、大げさな言動しながらセコい手でじわじわ攻めてきて……!」
「……実はあなたが内通者じゃないでしょうね?」
「ち、違いますよ!」
椛が普通に仲のいい友達みたいな発言をするので文が睨みつけると、ふさふさの尻尾をバタバタと振り回して慌てて否定してきた。
「それにしても、文様今日はやけに熱心ですね。いつもは周りから言われない程度に、適当に相手して終わりなのに」
「当然です。今までにない行動を起こした天人、その真意とは!? スクープの予感ですよ」
「もう、そればっかりなんですから……」
呆れて肩を落としながらも立場上強く言えない椛だったが、落胆する瞳に何か奇妙なものが映った。
文の背後、空間を裂いて這い出てきた手――何故か絆創膏まみれ――が忽然と姿を表していた。
空間をも伝って世界を這う得体の知れない何者かに、椛は使命感から身を乗り出してその手を掴んだ。
「文様、後ろ危ない!」
◇ ◆ ◇
ところかわって、幻想郷の僻地にある八雲邸。
妖怪の山から遠く離れたここでは、どこかでドタバタ騒ぎが起こっていることなど露知らず、平穏の時が流れていた。
そんな場所に、二振りの剣を携えてやって来た半人半霊が一人。
「紫様、藍さん。お呼びに預かり参上しました!」
切りそろえられた前髪の下から家を見上げながら、妖夢らしい透き通った迷いのない声を響かせた。
いつもならこうやって名乗りを上げればすぐに家の中から藍が出迎えに来てくれるはずだが、しばらく待っても誰も出てこない。
「紫様? 入りますよー!」
招待を受けた身であるし、勝手に入っても問題はないだろうと妖夢は玄関を開けて家に上がる。
紫から呼びつけられたのはついさっきのこと、白玉楼で昼食後の後片付けをしているといつのまにかスキマから手紙が届けられており「よければ手伝って」と書かれていた。
何を手伝えばいいのか書かれていない胡散臭い内容に、妖夢は主人の幽々子から派遣されたのだだ、何を手伝わされるのかドキドキしながら、誰かいる気配のある台所へと向かった。
だがその不安のドキドキは、台所の扉を開けた瞬間に恐怖のドキドキへと変化した。
妖夢の眼前に広がるのは、並べられた皿の上から色とりどりの煙が立ち上り渦を巻いて、本来清浄であるべき台所を魔境へと変貌させている光景であった。
百鬼夜行も裸足で逃げ出し悪臭と邪気が渦巻く魔境となり果て、その中心で割烹着姿の紫が佇んでいる。
「うわ、なんだこれ!?」
「あら妖夢、来てくれてたね!」
こちらに気付いた紫は嬉しそうな顔でこちらを見つめてきた。その手には無数の絆創膏が張られて、血を滲ませている。
妖夢は厄介ごとの予感をひしひしと感じながらも、しょうがなく台所に上がり込む。
途端、鼻を突いた緑色の煙のおどろおどろしい臭いに吐き出しそうになるのを、口元を手で押さえて堪えた。
「ど、どうしたんですかこの惨状!?」
「それが、藍に料理を教えてもらってたんだけど、中々上手く行かなくて」
「えっ、料理? 新手の拷問兵器の開発じゃなくて?」
妖夢が毒々しい物体Xシリーズに目を滑らせていると、机の影で大きな何かがもぞもぞと動くのが目に映ってぞっとした。
まさか料理で人体錬成でもしてしまったのかと思いきや、よくよく見ているとそれは倒れ伏していた九尾であった。
「おぉ……よ、妖夢、逃げろ、ここは地獄だ…………!」
「ら、藍さん、気をしっかり!」
妖夢が慌てて藍を助け起こすが、その頬はこけ、つやつやとした毛並みだった尻尾は色あせ萎びてしまっている。
藍から息も絶え絶えに絞り出された声は、胃の奥からこみ上げてきた料理の悪臭が滲んでいて、妖夢は気持ち悪さに顔をしかめた。
「紫様の料理を食べては生きて戻れない、早く冥界に逃げ込むんだ……」
「そんな、あなたを置いてだなんて!」
「私はいい、ただ伝えてくれ……橙に……お前を愛して……いた、と……」
「藍さん……? らんさああああああああん!!!!」
がっくりと力を失って頭を垂らした藍を、前にして妖夢の慟哭が木霊する。
妖夢はこの事態を引き起こした張本人である紫に顔を向かせ、涙で滲んだ眼で睨みつけた。
「どうして、どうしてこんな酷いことを……!」
「味見してもらってたらこうなっちゃって」
「それだけでこうなるって常軌を逸してますね……」
チラリと机に並べられた失敗作を見てみる、確かにこれは一口食べただけでヤバいと思わせるプレッシャーがある、というかこうして漂ってくる臭いだけでキツイ。
「これもすべては天子のため……必ず天子に美味しいと言わせてあの娘を喜ばせるわ!」
「は、はあ……」
段々と自分が呼ばれた理由を察してきた妖夢は、恐る恐る紫に問いかけた。
「あの……私が呼ばれたのって、もしかして……」
「藍がダウンしちゃったから、代わりに料理を教えてくれないかしら?」
キラキラとした目とともに返ってきた答えが予想と一致したことに愕然として、ショックのあまり抱えていた藍が床に落ちてビターンと音を立てた。
こんな危険物質を作り上げる化物に自分がどうしろと? 流石は世界の理を歪める異物がどうとか言われてるだけのことはある、もはや巫女が出動する案件だ。
とにかく自分には荷が重すぎる、藍が無理だったことをどうにかできるとは思えない。
返答に困っていると、床に叩きつけられていた藍が妖夢の足首をガシリと掴んだ。
「た、頼む……妖夢……私はもう無理だ、私の代わりに紫様を……」
「逃げろって言ったり頼むって言ったりどっちなんですかぁ!」
正直に言って帰りたい、帰って主人と茶でもしばいてのんびり過ごしたい。
しかしこと生真面目な妖夢は最初から断るという選択がほとんどない。
「ねえ妖夢、お願い私に料理を教えて!天子のためなの!」
何より、いつもは胡散臭く振る舞ってる紫が純粋な女の子らしい態度で頼み込んでくるのを振り払うことは良心が許さなかった。
「わかり……ました……」
「やった! ありがとう、助かるわ」
結局料理の準備をしだす紫を不安げに見つめていると、起き上がった藍がポンと妖夢の肩に手を置いた。
「ありがとう妖夢。私もしばらく休んだら復帰するからそれまで頼む」
「はあ……というか大丈夫なんですか」
「さっき言ったとおり、一口味見したら残りは残してるからな、実際にはそれほど食べてないんだ。食材もったいないがしょうがない……」
「それでその弱りようは尋常じゃないんですが、というか本人に食べさせるのはダメなんですか」
「そうしてたんだが、すでに紫様の舌から味覚がなくなり始めててな……」
「余計不安になってきたんですけど!? っていうかそんな状態であんなアッパーテンションなんですか!?」
天子のことで咲いたお花畑は、どんな毒物にも耐える無駄に頑丈な花でできていた。
むしろ苦痛であればあるほど「天子のためなら!」と変な方向に燃え上がっている、もしやすでに殺人料理で精神を壊してしまったのではと藍は思い始めていた。
「紫様が包丁握ったら救急箱の用意をしろ、毎回血が出るからな。あと平気でフライパンから火を噴かすし、調味料は残ってるものを全部使おうとするし、野菜は皮剥き過ぎで親指ほどしか残らないし、鍋は吹き零れるのを通り越して爆発するし、途中まで普通でも何故か完成すると毒物になってるから気を付けろ。それじゃ私はこれで……」
「ま、待って! 食べなくていいからせめて傍にいてくれませんか藍さん!? 藍さーん!!?」
藍がご丁寧な忠告を残して去ろうとするのに、死を予感した妖夢が大声で喚きながら縋り付く。
紫はそんな光景を視界の端に収めながらも、なんとかは盲目と言ったところで、大して気にせずに料理の準備を進めていた。少し嫌がってるようだが、練習が終わったら有名所のお菓子でも持たせて埋め合わせすればいいだろう程度に考えている。
「そろそろ切れそうな食材があるわね、新しいのを調達しないと。きのこきのこ、と……」
取り置きの食材をチェックして、どうせなら新鮮のが良いなと思い自生しているきのこを探し出した。
幻想郷中に張り巡らせた監視の目にアクセスし、妖怪の山に生えていたきのこを見つけると、すぐにスキマで空間を繋いで手を伸ばした。
しかし紫にとって全く予想外のことに、スキマの向こう側で何者かが紫の手首を引っ掴んだ。
相手が戦闘中で警戒しているわけでもあるまいし、まさか前触れ無く飛び出た腕を掴んでくる輩がいるとは予想外で、紫は驚いて対処する暇がないまま身体ごと腕を引っ張られた。
「え? なにこれ、あー!!?」
「紫様!?」
妖夢が見ている前で、紫はスキマの中に引きずり込まれてしまう。
有無を言わせてもらえないまま妖怪の山に連れてこられた紫は、地面の上に受け身も取れないままうつ伏せで倒れ込んだ。
「あいたた、一体何が……」
痛みに苦しみながらも上半身を起き上がらせて周囲に目を向けると、黒と白の二人の天狗と目が合った。
「なななななななな!?」
「や、八雲紫ー!!?」
妖怪の山に住む天狗の文と椛だ、どうやら彼女たちのせいでこっちに引っ張ってこられたらしい。
向こうもまさか紫が来るとは思ってなかったようで、現れた大妖怪に驚いて慌てふためいている。
しかし紫の奇妙な格好に気がつくと、その驚愕も一気に沈静化した。
「……何で割烹着?」
「ハッ」
紫は自分の身体を見下ろして、この状況が意外と切羽詰まっていることに気が付いた。
こんな格好で山にいるところを新聞の記事にでもされたら、妖怪の賢者が割烹着なんか来て山で何をしているんだと変な勘ぐりを受けることになる。
何よりも、割烹着でスキマから引っ張り出された情けない姿を天子に知られる訳にはいかない!
スキマでここから逃げるのは簡単だがそれだけでは不足だと、紫はまず御しやすいだろう白狼天狗のほうに飛びかかって耳に口元を近づけた。
「うわあ!? な、何をする離せ!」
「あなた、本当はそこの鴉天狗が好きなのに素直になれないんでしょ?」
「ほあ!?」
抵抗する椛に紫がしがみついたまま囁きかければ、目に見えて困惑しだした。
「そ、そんなデマカセ言って私を混乱させようなどお!?」
「そうデマカセねえ、それならあなたの懐にある大事な大事なブロマイドのことを喋ったって大したことないわけね」
「何故それを!!?」
「椛に何をするんですか!」
いきり立った鴉天狗が睨み付けてきたところで、紫は椛を放り出してターゲットを変更した。
睨みつけてくる文に真正面から近づくと、顔を寄せてボソボソと言葉を投げかける。
「あなた、そこの白狼天狗から嫌われてることを気にしてるんでしょう?」
「いきなり何を……」
「この場を穏便に済ませてくれたなら、彼女が好きなものとか色々教えてあげるわよ。好みのおかずでお弁当作ったりしたらイチコロなんだから」
「……ゴクリ」
脅しと餌を与えられたそれぞれの天狗は、仲間内で気持ちを探りあうように見つめ合うと、紫に向かって頭を下げた。
「参り」
「ました」
「ふふ、よろしい」
ひれ伏す天狗たちを前に紫は妖美な笑みを浮かべるが、しかし割烹着姿では威厳も何もなかった。
とりあえず窮地を脱することに成功し冷静になってくると、山の中で時折爆発音が聞こえてくることに気がついた。
ここにはきのこ以外に用はないのだが、この異音の正体が気になって尋ねてみる。
「ところで山全体が騒がしいようだけど、何かあったのかしら?」
「おや、てっきりあなたも関わってるのかと思ったのですが、知らないんですか? 今、また天子が騒ぎを起こしてて」
「天子が?」
顔を上げた文から出た名前に、紫が目を丸くしている中で、その場に急接近してくる何者かがいた。
猛烈なスピードで木々の枝をへし折りながら、慌てふためいた声を上げてそれは現れた。
「ちょっとそこ邪魔どいてー!!!」
特大の風呂敷を背負った天子がスピードを維持したまま襲来し、たまたま進行方向にいた文にぶち当たった。
「グギャー!?」
「文様ー!!?」
重荷からなる重量の乗った天子に轢かれた文が、きりもみ回転を起こしながら吹き飛ばされ、近くの木の幹にごんと頭を打ち付けた。
失神する上司を前に、椛は狂乱して助け起こそうとする。
「文様しっかりしてー!」
「なんか知らないけど宝石アタック!」
「ぶげっ!?」
だがその横っ面に、天子がぶん回した風呂敷を容赦なくぶち当てた。
一瞬の間に殲滅され死屍累々となった天狗たちを前に、天子はよくわからないまま額の泥を拭って達成感に溢れたいい表情を浮かべた。
「悪は去った……」
「いや、あなたがまごうごとなき悪でしょ」
思わずツッコむと、天子が振り向いて紫を顔を合わせてきた。
天子は数秒ばかり固まり、ようやく目の前のいるのが紫だということを理解すると、驚いて後ずさる。
「げえっ、紫!? なんでここにいるのよ、橙が漏らしたわけ!?」
「げえとは何よげえとは……いや、それよりもうちの橙を巻き込んで何かしてるの?」
「……なんで割烹着?」
「ハッ」
橙について言及しようとした紫だったが、再び自分の格好を思い出す。
「ああいや、これはその、最近山菜採りがマイブームでね! 汚れないように着てみてるの!」
「その手、絆創膏だらけだけどどうしたの?」
「あっ……さ、最近は藍のお手伝いで洗い物もしてるんだけど、ちょっと皮が裂けちゃって! いやー、春って言ってもまだまだ寒いわねー、おほほ!」
この姿を見られてしまったのは相当に恥ずかしいがこの際仕方ないとして、せめて料理の練習をしていることは秘密にしていたい。
サプライズで料理を振る舞って天子を喜ばそうという魂胆だった紫は、必死に言い訳を取り繕った。
天子は怪しいなあと目を細めながらも、すぐに思考を切り替えた。
「やばっ、今はそれよりあいつを撒かなきゃ! 衣玖の足止めもいつまでも保つか……!」
「あいつって、そんなに血相変えてどうし……」
いつになく焦燥した天子に紫が首を傾げていると、後方から重々しいな殺気を感じ取って、肝を冷やして振り向いた。
天子も殺気に気づいたようで、紫と同じ方向を向いて泡を食っている。
二人の視線の先にいるのは、両脇に陰陽玉を浮かばせ、異変の真っ最中もかくやという完全戦闘態勢を取った博麗の巫女がいた。
その手には竜宮の使いがボコボコにされて壮絶な表情のまま気絶し、襟首を捕まえられて空から吊るされている。
特大の危険を感じさせてくる霊夢に睨みつけられて、さしもの紫も恐怖を覚えて後ずさった。
「れ、霊夢……」
「やっぱりあんたの差し金か天子ぃ、それに紫ぃ……!!」
◇ ◆ ◇
――遡ること数時間前。
朝も早い時間から顔を赤くした萃香が、中身の詰まった風呂敷を片手に博麗神社にやってきたときのことだ。
「おはよう霊夢うわあああああああ!!!!?」
頬が痩けて生気を感じられない顔でだらんと口を開け、縁側に横たわった霊夢を見て、萃香は真っ青な顔で悲鳴を上げた。
萃香は慌てて萎びたトマトのような巫女に駆け寄る。
「ど、どうしたの霊夢!?」
「う……あ……」
「なに? しっかりして!」
「お…………お、お腹すい……た」
「お、おう?」
なんつーベタなと思いつつ、萃香は持ってきた風呂敷に詰まったいっぱいの桃に目をやった。
萃香からの天界土産を皮もむかずに食べ尽くした霊夢は、膨れた腹で仰向けに寝転ぶ。
「ようやく生き返ったわ、死ぬかと思った……」
「そりゃ良かった。しかしどうしたんだい、いつもお金には困ってるが、食べる物に困ってるところは初めて見たよ」
「……まずウチの食料ってね、紫から供給されてるのよ」
まともな参拝客もそういない博麗神社は、金銭面において安定した収入が見込めない。
それでも飢えずにいられるのは、食料に関しては紫がすべて負担していてくれるからだ。
お陰で霊夢は日々宴会騒ぎを起こされようと食料に困ることなく、神社としての僅かな収入を娯楽やお菓子に充てることが出来ている。
「今までは定期的に食材をいつのまにか用意してくれてたんだけど」
「うん、それで?」
「……台所にでも行けばわかるわよ」
霊夢から暗い声で言われて、萃香は巫女をここまで沈ませるとは何なのかと奇妙に思いながら、神社の奥へ向かった。
「……なんだいこれ」
そこで萃香が見たのは、机の上に並べられた料理の数々。
だがこれを料理と言って良いのだろうか、皿の上に盛り付けられた料理は青色やら紫色やらに変色し、カラフルな煙を吹き上げている。
その妖しい煙に誘われてか、なぜだか周りには数匹のハエが群がっていた。
ブーンブーンと不快な音を撒き散らしながら飛行するハエが煙の中をくぐった、するとピタリと羽を止めて机の上に落下する。
苦しみ悶えながら生命活動を止める虫の最期に、呆然としていた萃香もここにいたらヤバいと直感しすぐさま引き返した。
ドタバタと足音を立てながら霊夢のところに戻ってくる。
「見てきたけどなにあれ!?」
「三日前から食材じゃなくて料理で支給され始めたのよ。でも食べれたもんじゃないし」
さすがに種族:巫女と言えどあれを食しはしなかったらしい。
食料の供給を実質ストップされた霊夢は、満腹になった腹の底を怒りに震わせる。
「冗談じゃないわよ、ったく! 紫のやつ何考えてんのよ、寄越すなら産業廃棄物じゃなくて米を持ってきなさいよ!!?」
「しっかし料理か。とすると、天子のアレかな」
萃香は少し前に紫と天子がいい雰囲気だったのを思い出し、おおよその推測はできた。
恐らくは天子への想いで頭がお花畑状態になった紫が、天子のために料理の勉強をして、もったいないからと失敗作を霊夢に押し付けたのだろう。
その呟きを聞いた霊夢は、鬼のような形相で萃香の角を引っ掴んだ。
「あの天人の差し金なの!?」
「いたいイタイ痛い! 角持ってヘッドバンキング止めて!?」
萃香の頭を振り回した霊夢は、涙目の子鬼を突き飛ばして、ギラギラと怒りに滾った怪物のような眼で両手をわなわなと震わせた。
「彼奴めぇ、いつか神社をぶっ壊しただけじゃ飽き足らずに……恨みはらさでおくべきかぁぁぁぁ……!!」
「ひえぇ……」
怯える萃香の前で霊夢はお祓い棒を握りしめて軋ませると、陰陽玉を連れて縁側から突風のように飛び出していってしまった。
萃香は風にさらわれた髪がゆっくりと床に垂れるのを感じながら、霊夢を引き止めることなどできず呆然とするしかなかった。
「……あー、天子のやつ、大丈夫かな。この後アレの予定なのに」
◇ ◆ ◇
そして妖怪の山の騒ぎを聞きつけて天子を追いかけていた霊夢は、とうとう天子が紫が一緒にいるところを目撃した。
伸びた衣玖を地面に放り捨てる。今回の事件の犯人がこの二人の仕業であると断定し怒りに狂い、怒声を響かせた。
「あんたら、私が苦しんでるっていうのに揃いも揃ってこんなとこでなにやっとんじゃあぁぁぁあああ!! 許さん!!!」
「おち、おち、おち、おち、落ち着きなさって霊夢、言葉遣いおかしくなってるから」
まったく悪意のないまましでかした紫は、一体何故自分でこれほどまで敵意を向けられているのかわからず声を震わせた。
ひとまずわかるのは、とにかくここにいると危険だということだけだ。
「……脱出ー!」
「させるかー!!」
スキマから逃げようとした紫の腰に、天子がしがみついて引き止めた。
「一人だけ逃げようたってそうはいかないわよ! こうなったらあんたも巻き込んでやるー!」
「止めなさいこの構ってちゃん! どうして私まで濡れぎぬ着せられてガチギレ最終兵器の相手しなきゃいけないの。スキマ通れないでしょ、離しなさい!」
実際のところ天子のほうが濡れ衣なのだが、そんなことは誰もわからない。
勘違いしたままの霊夢は、お祓い棒を振り上げてとうとう紫と天子に向かって襲い掛かってきた。
「そこのクソ天人ともどもまとめて退治してやる!」
「あんなに怒らすなんて天子なにしたのよ!?」
「こいつには何もしてないわよ!」
四の五の言ってられなくなった二人は、飛んでくる針や御札を背に肩を並べて逃げ出した。
とにかく霊夢にやられないように、妖怪の山をあちこち飛び回り逃走劇を繰り広げる。
ヒイヒイ言いながら逃げ回っていると、騒ぎに気づいた見張りの天狗が飛び出してきた。
「見つけたぞ天人! 我らの縄張りで何をして」
「邪魔よ死ね!」
「ギャー!!!」
そして通り巫女にお祓い棒を叩きつけられ、悲鳴とともに意識を失い倒れ伏す。
最初は一連の騒ぎの元凶である天子を成敗しようと血気盛んな天狗が何人かやってきたのだが、みな霊夢に叩きのめされて、博麗の巫女が天子を追っているという情報が次第に山に伝播していった。
「うわああああ、逃げろ天人どころじゃない!」
「子供は隠れろ、大人も隠れろ! 巫女に取って喰われるぞ!」
「助けてママー!!!」
あっという間に妖怪の山は阿鼻叫喚の渦に包まれた。
天狗も神も妖精も区別なく、通り道にいた山の住人は霊夢にみんな退治されてそこら中から断末魔が上がる。
悲鳴のバックコーラスを聞きながら、天子は隣を飛ぶ紫に叫んだ。
「逃げるなら私もスキマで連れてってよ!」
「あなたの背中のが変な力場作ってて空間が安定しないのよ、何入ってるの!?」
「宝石!」
「なんで宝石!?」
「お米をよこせええええええ!!!」
謎の掛け声とともに霊夢が特別強い御札を取り出して、天子に向かって投げ飛ばした。
わずかに天子の対応が遅れている。このままでは直撃と見た紫は、咄嗟に天子を突き飛ばした。
「天子危ない!」
「うわっ!」
御札はギリギリのところで二人の間を通り抜けて、その先にあった大木の幹を木っ端微塵に吹き飛ばした。
天子を逃がすことに成功した紫だが、自分は体勢を崩して地面に肩から落っこちてしまった。
すると巫女が今度は紫に狙いをつけ、お祓い棒を振り上げて距離を詰めてきた。
それを見た天子が、慌てて手を天に掲げる。
「天罰の石柱!!」
天子によって作り出された細長い要石が、紫と霊夢の間に割って入ってきて壁となった。
進行を妨げられた霊夢を速度を落とすのと同時に、天子が紫の手を引っ張って空に飛び上がる。
「待てやゴルア!!」
「あーもう、鈍くさいわね!」
「あなたを助けようとしたんじゃないの!」
言い争いながらも、いつのまにか博麗の巫女という暴威を前に天子と紫は協力し始めていた。
そのことに気が付いた天子は、背後のプレッシャーに緊張しながらも、それ以外のものがこみ上げてきて口から漏れ出す。
「あっははは」
「こんな事態に何笑ってるのよ!」
「いやぁ、あんたとこういう風に一緒に戦うの初めてだなって、ははは」
「……まったく、そんな場合じゃないでしょうに」
呆れていた紫だったが、それを聞いて急に恐怖が和らいできた。
依然として気を抜けないものの、天子の笑い声を聞いていればなぜだか自分まで妙な気分になりだした。
自然と頬を緩むのが止められず、声に気迫が満ち溢れてくる。
「あははは」
「……ふ、ふふふ」
「あっはははははははははは!!!」
「ふふっ、はははははははは!!!」
気がつけば二人の笑い声が大合唱を織りなしていた。
たった一人、隣に彼女がいてくれる。
それだけのことに、今までの歩みの全てが力強く肯定されているように、二人は思っていた。
このままどこまでも飛び続けたい。
「何を笑ってんのよこんちくしょう!!」
楽しげな笑い声に虫唾が走った霊夢が、更に速度を上げて接近しようとする。
その時、追って追われる三人の前に巨大な壁が立ちふさがった。
視線を上に映せば、映ったのは金ピカに光る巨大なボディ。
天子を探してえっちらほっちら山を徘徊していたグレート非想天則だ。
「見つけましたよ天子さん! ってあれえ、霊夢さんまで!?」
よくわからない状況に驚く早苗だったが、細かいことを気にしない性格からすぐに気持ちを切り替える。
「まあいいです、今こそこのグレート非想天則の真の力を発揮する時!」
そう宣言してグレート非想天則は足元を飛ぶ天子たちに向かって拳を振り下ろした。
落ちてきた天蓋を三人は散り散りになって避けると、各々が違ったルートで巨大な腕に沿って空に昇っていく。
「チィッ、射線が取りづらい!」
霊夢が下品に舌打ちする。
天子と紫はグレート非想天則の周囲を旋回し、霊夢からの攻撃を受けないように立ち回っていた。
早苗はうろちょろする天子たちを叩き落とそうとグレート非想天則の両腕を振り回すが、このサイズ差ではハエを素手で落とそうとするようなもので、服の端にすら引っかからない。
「ちょっ……まっ……早っ、当たらな」
わっちゃわっちゃと上半身を動かしまくる障害物に、追いかけっこをしていた三人も鬱陶しくなってきて眉を歪めた。
「邪魔よ! 封魔陣!」
「可愛くないわね、客観結界!」
「テンシガーの恨み! 勇気凛々の剣!」
幻想郷指折りの実力者たちからの攻撃が、グレート非想天則を取り囲んで蹂躙した。
生み出された力場が非想天則の四肢をバラバラにもぎ取り、動き回る結界がゴム質のボディを引きちぎり、振るわれた気質の刃が骨格となっていたオンバシラを切り裂く。
内部に送り込まれていた風の圧力と、早苗の行使していた奇跡の力が、襲いかかる常識外のパワーと非科学的な反応を示し、なんやかんやあってグレート非想天則は大爆発を引き起こした。
暴風を巻き起こすが生き物には傷一つ付けない不思議な風圧が辺りに撒き散らされ、グレート非想天則の頭部に搭乗していた守谷の神様トリオも座っていた座布団ごと上空に向かって吹き飛ばされる。
「サイズ差厳しすぎじゃないですかあ!?」
「ぶっちゃけ私ら生身のほうが強いしねー」
「ええい、嘆かわしいわよ早苗! あなたには熱血とか魂とか色々足りない! 後で私の部屋に来なさい!」
「あっ、ヤバイ、この神奈子はGロボから始まって熱血ロボアニメ三徹コースだ」
「それじゃ威力上がっても命中しないじゃないですかヤダー!」
グレート非想天則だったものの残骸は爆発とともに空に打ち上がり、周囲に降り注いだ。
景色が乱れる中、霊夢と対峙する天子と紫だったが、その場にまた別の勢力がやってくるのに紫はいち早く気がついた。
「天子、左よ!」
紫が天子の手を後ろに引っ張ると、天子の目の前を白と黒が閃光のように過ぎって髪を攫う。
飛来した何者かを天子が目で追うと、その先には人形と魔本を従える魔理沙が三角帽が落ちないように手で押さえて、突進の勢いを殺すようブレーキを掛けていた。
「チィ、かすっただけか」
「魔理沙か、一応協力関係って契約だったはずだけど!?」
「先に破ったのはそっちだろ、どうやってギアスを掻い潜ったか知らないが、霊夢に加えて紫まで巻き込むなんてな」
「いや、こいつらはマジで想定外なんだけど」
言ったところで魔理沙はまったく信じていない目で睨み返してきた。
今回ばかりは天子も無実だが、日頃の行いを考えれば自業自得と言うべきだろう。
「やっぱりお前は信用ならないぜ、というわけで契約は破棄だ」
魔理沙はそう言って鞄から八卦炉を取り出して、天子に向かって構えた。
戦闘態勢を取る魔法使いの脇で、それまで支援していた人形と魔本は、役目を終えたかのように魔理沙の鞄に潜り込んできた。
『魔理沙、私達の契約は天子と共同で挑むところまで。手助けはここまでよ』
「冷たい奴らだぜ、分け前やらないぞ」
『裏切りほどリスクが高いものはないのよ』
魔理沙と違って、魔女たちは冷静な視点で状況を俯瞰していた。
突然、紫と霊夢がこの場に現れたことに対しては疑問に思うところはある、だが今のところは率先して天子との契約を打ち切るには理由が弱いと判断したのだ。
かと言って天子の側に付くかと言えばそうでもなく、あくまでアリスとパチュリーは魔理沙に協力しているだけなので、どちらも支援せず様子を見守ることにした。
魔女たちは引っ込み、妖怪の山からも邪魔に入ろうという無謀な者ももはやいない。
霊夢、魔理沙、そして天子と紫のコンビ。三つ巴のようにも思えるが、霊夢と魔理沙がジリジリとお互いの距離を縮めているところを見るに、どちらかと言えばタッグマッチだろう。
「ふぅ、仕方ないわね」
笑って溜息をついた紫が割烹着の肩を掴んで勢い良く脱ぎ捨てると、その下から傘を指した導師服の出で立ちで現れた。
睨み合う四者の間に白い割烹着が花びらのように舞い落ちてゆく。
魔理沙が鞄の上から指を這わせ、中に詰まった道具を確認する。
――花びらのように落ちる。
天子が風呂敷をきつく締め、緋想の剣を握り直す。
――花びらのように落ちる。
紫が目を細めて霊夢と魔理沙の呼吸を確認する。
――花びらのように落ちる
霊夢は肩の力を抜いた。
――舞っていた割烹着が木に引っかかり、しなった枝から小鳥が羽ばたいた。
目を見開いた紫が、自分の背後と魔理沙の後方をスキマで繋いで、暗い穴に潜り込んだ。
一呼吸の間に空間を伝って回り込んだ紫が、鋭い眼光で魔理沙を見定めて傘を振るう。
呼吸の虚を突いた奇襲であったが、神経を張り詰めさせていた魔理沙は、紫が視界から消えた時点で箒から魔力を噴出させて逃亡に転じていた。
薙ぎ払われた傘は先端を箒にかすらせて枝が飛び散るだけで終わり、その後の硬直を狙って霊夢が動いた。
亜空穴と名付けられた博麗家に伝わる秘術、紫のスキマにも似る瞬間移動からの飛び蹴り。
紫には避けようがない一撃に見えたそれに、空色の髪の毛をはためかせた天子が割って入ってきた。
「その手のワープ技は見慣れてんのよ!」
紫に向けられた靴底が作り出された要石に遮られ、霊夢は舌打ちしながら後退した。
すかさず天子と紫が背中を寄せ合いそれぞれ魔理沙と霊夢に追撃を仕掛け、要石と妖力が入り交じる弾幕が周囲にばらまかれた。
魔理沙は天子と紫の周囲を時計回りに旋回してこれを避け、霊夢も逆時計に回り込みながら同様に弾幕を掻い潜った。
そして紅白と白黒が交差する一瞬の時間、両者の視線が互いの意思を伝え合う。
――なんであんたがこんなとこにいんのよ!
――そりゃこっちの台詞だぜ、最近会いに行かなかったから寂しかったのか?
――ああそうよ寂しかったわよ!
――えっ。
――あんたが来てくれればキノコでもなんでも食べれてたのに!
――はあ?
「とにかくこいつらを退治するわよ! 今日はあんたがご飯作りなさい!」
「お、おぉ、それくらいならお安い御用だ」
なぜだか凶暴なオーラを撒き散らす霊夢に魔理沙は困惑気味だが、協力できるならこれ以上に信頼できる相棒はいないのでとやかく言わなかった。
魔理沙が鞄から中身の詰まったフラスコを取り出して紫の前に投げつけると、中の怪しい色合いの液体が爆発して閃光を放った。
紫の目が眩んだ隙を見て下方に回り込み、箒の先端を天子と紫に向ける。
「よおし、行っくぜ!!」
再び箒から魔力を噴出させての急加速で体当たりを仕掛けた。
天子と紫は弾かれたように離れると、空いた空間を魔理沙が煌めく尾を引いて空高くへと昇っていった。
攻撃が外れても、魔理沙の突撃はまだ止まらない。
地上から100メートルはある遥か上方に魔理沙がセッティングすると同時に、霊夢も地面スレスレにワープしてカードを切る。
「天儀、オーレリーズユニバース!」
「祈願、厄除け祈願!」
魔理沙を中心として色とりどりの球体が出現して、天体を模した交点しながら星型の光弾をばら撒き始める。一方地上の霊夢からは博麗家に伝わるありがたいお札が周囲に放たれた。
上下からの挟み撃ち、放射型の弾幕は本来なら距離を取ればいくらか避けやすいはずだが、こうされては一定の距離を保って避けざるを得ない。
弾幕の第一波が到達する前に、紫が天子に吠え立てた。
「天子、どっちから!?」
「大地を目指す、フォローは任せたわ!」
言い切るよりも早く天子が霊夢のいる地上を目指して、御札の群れに飛び込んだ。紫も「そう」とだけ楽しげに呟くと、背中から落ちるようにして後を着いていく。
連なった御札の群れに突っ込んだ天子は、器用に札の合間を縫って霊夢がいる地上へと距離を縮めていく。
流石に自信過剰なだけあってこれくらいのスペルカード相手なら怯むことはないらしい、かすった札が背中の風呂敷を一部切り裂くが、宝石ごと岩石を砕くほどのパワーはないようなので気にせず突き進む。最悪風呂敷が破れても抱えて飛べばいい。
そして天子の後ろから迫りくる魔理沙の弾幕へは、紫が対応した。
空に目を向けたまま落ちる紫は、閉じた傘で悠々と狙いをつけ、傘の先端から発射した光弾で降り注ぐ星屑を砕いていく。
お札は無視してはひたすらに相殺をし続ける。下を気にすることはない、ただ天子の気配を辿っていけば自然とお札は狙いをそれて行く。
視界の端から立ち上るお札と目の前に広がる光弾の中、背中から感じる熱気を追いかけた。
「なんでそれでかわせるんだよ!?」
魔理沙が悪態をつく頃には、対戦相手には地上近くまで逃げられて放射型弾幕では当たりそうもない。
弾幕を切り替えて球体から紫へと狙いをつけたレーザーを発射するが、その時には天子は攻撃範囲内にまで霊夢へ近づいていた。
「天子!」
「了解!」
掛け声を上げた紫が弾かれるように斜め上へ急上昇しレーザーとすれ違った、自機狙いなら紫が天子から離れればパートナーは安全だ。
紫は体を反転させ今度は身体を地上に向けると、目視で至近距離に迫ったお札を確認して気合で避ける。正直今のが一番危なかったと冷や汗が出る。
そして天子は後ろからのレーザーを気にせず、御札で埋め尽くされた霊夢の頭上へ飛び込んだ。
拡散型ゆえ、その放射の根本である霊夢の周囲こそがもっとも弾幕密度が高く、なおも接近する天子にはおよそ避けられるような隙間など存在しない。
技術だけではどうこうできない場面を、天子はパワーでこじ開けた。
「要石!!!」
天子は即時形成できる最大体積の要石、おおよそ50センチほどのそれを足で踏みつけると、足に敷いた硬い岩石でお札を蹴散らして落下攻撃を仕掛けた。
これなら要石に身を隠してお札を防ぎつつ、紫を狙った魔理沙のレーザーの射線上から避け、しかも霊夢への攻撃もできる。
足元からビリビリとお札の圧力を感じながらも突き進むが、突然振動が途切れて踏みつけていた要石が地上に到達した。
要石による攻撃は命中しなかった、しかし周囲に目を配っても霊夢はいない。
「――またワープかっ!」
お札と足元の要石で見えなかったが、恐らくは攻撃が当たる前に消えたのだろう。本来ならお札をばらまいた後は飛び退いて場所を移すスペルカードだったが、手法を変えてきたようだ。
恐らくは「踊る陰陽玉」のように、わずかな間を置いて別の場所に現れて次のお札を放ってくるのだろう。
ならばと天子は新たに要石を作り出して頭上に掲げると、目を閉じて神経を研ぎ澄ます。
この手のワープを探知するなら空間を識るのが一番だろうが、天子には空間の揺らぎを探知するような才能はない、専門分野が違う。
だが気質ならわかる。想いはあらゆる世界の壁を超えて届いてくる。
頭上から感じる慣れ親しんだ紫の気質、その遥か頭上には魔理沙の気質、周囲からも自生した植物や小動物が漏らした気質が溢れている。
それらの気質のすべてを忘れれば、感覚のすべてが暗闇のように塗りつぶされる。
そして一瞬の暗黒の後に、快い晴れ晴れしい気質が闇の中から現出した。
「そこよ、緋想の威光!」
天子が掲げていた要石を誰もいない空間に突き出し、要石を起点としてレーザー状の気質を放出した。
その直後に気質の射線上に霊夢の姿が現れる。
「――――っ!!」
姿を消して奇襲するつもりが、完全に不意を突かれて霊夢は目を見開く。
横合いから叩きつけられたレーザーに、霊夢はのけぞりながらも飛び上がることで空に逃れた。
一枚目をしくじった霊夢がしたり顔の天子を睨みつけるが、すぐに反撃できるような状況ではなかった。
「っと、やばいなこれは」
天空に座す魔理沙は危機感を覚えた、最初は挟み撃ちできる良い位置取りだと思ったのだが味方との距離が離れすぎた。
このまま空からのんびり攻撃していては天子と紫の二人がかりで霊夢がやられてしまう。各個撃破は複数戦での常套手段だ。
即座に霊夢を援護してやらなければならない、それには今から地上に近づくのは距離がありすぎる。
「ならこれだぜ」
スペルカードを自主的に打ち切った魔理沙は、鞄から八卦炉を取り出すと真下に向けて箒越しに構える。
ここぞというところで頼るのはやはり使い慣れた彼女の十八番。
魔理沙の魔砲、もとい魔法の代名詞。
「マスタースパーク!!!」
八卦炉から放たれた魔力が、太い帯のように連なって荒れ狂い牙を剥く。
大気を押しのけて進む光の本流は、まるで天から降り注ぐ滝のように、天子を丸呑みにしようとする。
その前に、紫が立ち塞がった。
「彼女の邪魔をしようとは無粋ね」
天子のすぐ背後に降り立った紫が、急速に近づいてくる魔力に向けて絆創膏まみれの指を伸ばす。
紫の能力が世界に干渉し境界を生み出して、境界は結界となり、重ねられた結界は藍色を帯び世界を遮る。
「境符――四重結界」
紫が切ったスペルカード、頭上に形成された多重構造のバリアが凶悪な魔砲を堰き止めた。
絶えず流れ落ちてくる魔力に空気が痺れた音を響かせるが、紫たちには傷一つ付けられない。
「天子を邪魔して良いのは良いのは私だけよ」
「はは、言ってなさいよ陰険ババア!」
魔理沙は必殺スペルが眼下で防がれることに苛立ちと焦燥を感じるが、この状況はそう悪くないはずだ。
今の四重結界は地上二メートルほどのところに展開され、紫たちの頭上を閉ざし、更にすぐ下には地面という限られたスペースに紫たちはいる、そこを霊夢が突いてくれれば、無防備な術者を横から叩ける。
ならば一秒でも紫をその場に縫いつけようと、魔理沙は魔力放出の反動で荒ぶる八卦炉を両手で押さえ込み、マスタースパークを維持し続けた。
段々と吐き出せる魔力は減っていくが、重ねられた結界も一枚がひしゃげて砕け散った。紫としても気を抜く訳にはいかない。
そして霊夢は魔理沙の理想通り、結界の周囲を旋回するよう飛び回りながら、手に封魔針を構えて高度を落とした。
しかし鋭く細められた眼は、天子が拳大の要石を手に持って先端を地面に向けた姿を捉えた。
「乾坤、荒々しくも母なる大地よ!」
天子が握っていた要石を地面に叩きつけると同時に、周囲の地面が突如として隆起する。
これぞ比那名居という一族が受け継いた力の一端、柱状にせり上がる大地が、降りてきた霊夢を突き上げにかかった。
カウンターを仕掛けられたことに気付いた霊夢が慌てて急上昇する。突き出した地面に足先が打たれて少し痺れたが、ギリギリで致命打は避けられた。
同時にマスタースパークも維持するには限界が来て力なく空から消えていき、防ぎ切った四重結界も力を使い果たしてボロボロに崩れていく。
荒れた大地の中央でふんぞり返る天子と紫を見て、霊夢と魔理沙は思わず唸った。
「こいつら意外と」
「いいコンビしてやがるぜ」
霊夢と魔理沙からすれば、この二人がここまで絶妙に合わせてくるとは予想外だ。
いつかの仲直りをしたということくらいは噂で聞いていたが、これほどまでに心を通い合わせるには余程の付き合いがなければ出来まい。
背を向けあった天子と紫は敵を見定めたまま、背後に視線もやらずに口を開いた。
「へえ案外、悪くないじゃないの」
「あら、あなたこそ。とは言え私のフォローがないと何もできないようだけど」
「私が使ってやってんのよ」
「言ってなさいな」
憎まれ口をたたきながらも、終始二人の笑みは崩れない。
「それに護ると言ったものね、こんなのバカバカしいけども、言った以上は責任を持つわ」
「本気だったんだ」
「本気も本気よ。信じられないなら、この戦いで見せてあげましょう」
「ふん、護られてばっかじゃ、私の気がすまないわよ!」
話をしていた二人が闘気を膨らみ始め、霊夢は亜空穴によりその場から消え失せ上空の魔理沙の傍に出現した。
天子と紫も上空へと飛び出し、再び四者が睨み合うが、今度は誰も黙って待つような真似はしなかった。
「全人類の――」
「夢想――」
「弾幕――」
「実りやすいマスター――」
全員がお得意のカードを切ろうとする。
その瞬間、地上から飛び出してきた影があった。
白いふさふさの尻尾を伸ばし、白刃を掲げる勇ましい姿。
「己、天人! 文様の仇ぃー!!」
「いぃっ!?」
突如として勝負に水を差してきた椛が、大剣を振るった。
慌てて飛び上がって避けようとする天子だが、片刃の剣は背中に背負った原石にめり込んだ。
衝撃を受け、先程からグレイズで千切れかかっていた風呂敷がとうとう破けて、宝石の原石が空中に放り出される。
そして今にも魔力を噴出させようとしていた八卦炉の射線上に落っこちた。
「あっ!?」
「えっ!?」
天子と魔理沙から悲鳴が上がり、一瞬世界が停止したかのような感覚が襲う。
しかし実際には何も止まってはくれず、次の瞬間には魔理沙のマスタースパークが宝石を飲み込み、粉々に打ち砕いてしまった。
「ああぁぁぁぁあああああ!!?」
バラバラに粉砕された宝石が、陽の光に照らされてキラキラ輝きながら撒き散らされる。
とても綺麗で下手をすれば何千万円もの値段の光景を見て、思わず両手で頭を抱えて叫ぶ天子に、霊夢から飛んできた光弾が脳天に直撃した。
「ぐげっ!」
「ちょ、天子――きゃあっ!」
味方の悲鳴に驚いた紫にも光弾が襲いかかる。
続けざまに光弾に取り囲まれ、二人はボコボコに打ちのめされてボロ布のように地上に撃ち落とされた。
「食べ物の恨み思い知ったか……ってどうしたのよ魔理沙、泣きそうな顔して」
「あ、あぁぁぁ……ちくしょう、一攫千金がぁぁ……」
『だから言ったでしょ、裏切りほど割に合わないものはないって』
『自業自得よね』
◇ ◆ ◇
日が沈み暗くなってきた妖怪の山で、今日の騒ぎを切り抜けた天狗たちは篝火を上げ、生きていることに感謝の気持ちを感じて宴会をおっ始めていた。
笑い声やら泣き声やら奇声やら届いてくるのを聞き流して、天子と紫は木の根元に並んで腰を下ろして大きなため息をつく。
「つっかれたぁー………………」
「はああああ、あーしんどいわ」
遠くから妖怪の山に住まう天狗や神々たちのどんちゃん騒ぎが聞こえてくるが、今日の天子は参加する元気が残っていなかった。
今回の事件の真相が天狗たちに知られた結果、まだ宝石が眠ってる場所があるんだろうとしつこく追求され、宝石を探して山中を歩かされたのだ。
実際には他に眠ってる鉱床はないと天子にはやる前からわかってたしありのままを伝えたのだが、天狗たちは信用してくれずたっぷり日暮れまで無駄な努力を強いられた。
「敗者の末路はいつの世も悲惨なものよね」
「日頃の行いが悪いから信じてもらえないのよ」
「あんたも人のこと言えないくせに、霊夢に散々こき使われたらしいじゃない」
紫の方はというと、霊夢に食料の供給をストップしたことについて愚痴と説教を聞かされた後、霊夢の望む食材と酒を片っ端から取り寄せさせられていた。
お酒は大吟醸酒からワインにウイスキー、ビールと世界各国のものを用意させられたのはもちろんのこと、霜降り肉、メロン、本マグロ、ロブスター、トリュフ、フォアグラ、キャビア、ポテチ、等などありとあらゆる食材を持ってこいと言いつけられた。
霊夢はたまたま近くにいた一部の不幸な天狗数名を脅して食材を調理させると、がむしゃらに飯と酒を掻っ込みながらも出された料理を食べ切らない内に次々注文を出してきた。
紫は一口も食べれずに、目を回しながら世界中とスキマを繋ぎまくって、しばらく食材を取り寄せる機械と化すしかなかった。
天子に協力していた魔理沙はと言うと、鬼の形相の霊夢の隣にいたせいで誰も彼女の罪を追求することはできなかった。
宝石を逃したことから霊夢と一緒にやけ食いしていたが、実際のところ何も失わずにタダ飯にありつけて一番得をしたと言っていい。
思う存分飲んで騒いで食い散らかした霊夢と魔理沙は、暗くなってきた頃には我が物顔でいびきを立てて寝入ってしまったが、当然誰も彼女たちに触れようとするものはいない。誰だって命は惜しい。
その頃になってようやく解放された天子と紫は、天狗たちが始めた宴会に参加する気力もなく、身を寄せ合って魂の抜け殻のようにぼーっとしていた。
「だるい、何もかもだるい。帰るのも面倒になってきたなぁ、天界まで衣玖おぶってくれないかなぁ」
「甘えすぎでしょ……そういえば衣玖は?」
「あいつなら天魔に捕まって愚痴聞いてるわよ、聞き上手だから」
「彼女も大変ねえ……」
天子は酔った椛が泣きながら文に抱きついて困らせているのを眺めながら、あー今度のテンシガーはどんなにしようかなー、などととりとめのないことを考えた。
虚ろな眼でぼんやりと辺りを見渡していると、隣にいる紫の表情が意識に滑り込んできた。
天子と同じくこき使われた紫は、髪も乱れたたままで疲れが残っているのが見て取れる。
しかし表情はとても爽やかで、その顔は騒ぎ立てる天狗たちの姿を微笑みで見守っていた。
柔らかな横顔に天子がしばし見惚れてしまっていると、視線に気づいた紫が天子を見やった。
「どうしたの、そんなに見つめて?」
「いやその……うん、優しい顔してるなって思って」
「やさっ……もう、いきなりそんなこと言って、私を弄って楽しい?」
「喜んでればいいのに、素直じゃないわね」
「あなたに言われたくはないわ」
紫が恥ずかしがって顔を背けるのを天子は笑って受け止めると、紫の肩に頭を乗せてしなだれかかる。
紫も肩に掛かる重さに気恥ずかしさを感じながらも、振り払うような真似はしなかった。
今しがた紫が見せた色んな人を包み込む優しい顔が、天子は好きだった。
「紫はさ、私が異変を起こした神社に手を出した時にすっごい怒ったわよね」
「ええ、そりゃあ怒りまくりましたとも。あなたみたいな輩が神社を握るなんて、この幻想郷の意義を揺るがしかねないし、やんちゃで済む話じゃないわ」
「でも紫は私を受け入れた、ここから追い出したりはしなかった。よくそんなことできたわね」
紫はああなんだそんなこと、と事もなげに言葉を返す。
「誰かに受け入れられるためには、まず自分が受け入れることが大切。だから私がこの世界で生きるために、この幻想郷は出来る限りより多くのものを認め、受け入れられるようにしてるの、それだけのことよ」
「すごいね、紫は」
「私だけで得た考えじゃないわ。私も別の人に教えてもらっただけ」
「そんな素敵な出会いがあったのは、きっと紫が頑張ったお陰ね」
異物として世界から排他されていた紫。あらゆる超人と神々に追い出されようとしていた紫。
それでも必死にこの世にしがみついていたのは、この世界のものからすれば迷惑だけれど、そのおかげで今がある。
「ねえ紫、私ね、藍のやつにどうして紫は幻想郷を作ったのかって質問したことあったのよ」
「あら、そんなことしてたの?」
「紫ならなんて答える?」
「あなたはもう全部知ってるじゃない、今ならバックアップ領域のためって言うだけよ」
「ふふっ、そっかぁ」
紫はそっけなく、ただ当たり前だというのに理由を述べる。
あの時は妖怪の保護なんて建前で、その奥に別の理由があると思っていた、だが今はそんなものを探る必要が無いとわかる。
本当に記憶の確保のためだけに記憶媒体が必要だったのなら、博麗大結界なんて必要ないだろうに。
もっと無駄のない選択肢があったはずだ、それは天子が以前予想した通り。
その更に奥を探れば、結論はぐるっと一周して最初に戻ってくる。
「藍のやつはね、紫が誰かのために悲しめるやつだからって言ってたわ」
「はぐらかすにしてもよくわからない理由ね」
「そうかしら? 私は核心を突いてると思うけどね」
紫がまた優しい顔で宴会を眺め始めるのを、天子はすぐそばで見上げる。
その顔の何処にも悪意はなく、真実、相手の不幸を願わずに幸福を尊ぶ微笑み。
――こんな顔を出来るやつが私の母を殺したんだと、天子の表情が一瞬曇る。
だが同時に思わされてしまうのだ、母を殺した時にあれほどの憎悪と悲観を抱えていた妖怪が、今こうしてこの安息の境地に至れているとは、なんて夢のある話なのだと。
かつて地子と呼ばれた人間だった頃、世界の異物として排他される紫と出会った、それはわずか数十秒ほどの会合だったがその時に紫から感じた闇は、当時の彼女の核心だったのだろう。
あれほど人を僻み憎み、地子の母を殺めるしかなかったあの妖怪が、誰かを助けられる存在へとなり、その優しい抱擁は天子をも包み込んでいる。
「紫は、誰かに手を差し出せるくらい、色んな物を積み重ねてきたのよね」
「ほとんど覚えていないわ」
「記憶になくても、きっと消えない本質の部分に積み重ねてたのよ。だからこんな場所を作れたのよ」
それほどの歩みをしてきた紫に、天子は尊敬すら覚えた。
「――この幻想郷を作ってくれて、ありがとう」
「また突然どうしたの?」
「ずっと、言っておきたかったの。この幻想郷に受け入れてもらえなかったら、私はずっと怒って憎んでを繰り返してた。誰かを大切だって思える気持ちを思い出すことができなかった」
今思えば、母を殺された瞬間から自分の心もまた暗闇に囚われていた気がする。
原因を作ったのが紫で、解決したのも紫で、そのすべてを是とは言えないけれど、すべてを非と踏みにじる気もない。
「私は紫に助けられた、だからありがとう」
どれほどの過去があろうと、それは決して覆せない事実だった。
天子からほのかな情の灯った芯の熱い声に、紫は自分の今までを認め、受け入れてもらえ、大きく心を揺らせれて、熱い息を吐いた。
「だったらそれは良かったわ」
ありがとうと言ってくれた天子に、紫は絆創膏が巻きついた指を伸ばして慈しむように髪を撫でる。
宴会の熱気を遠くに感じながら、肩を寄せる二人は、お互いの間で手を重ねてこれまでの傷を癒やした。
「てんしさまぁ~!!」
そこに赤面の衣玖が現れて、二人が目を丸くする前で酒臭い息を振りまいた。
「自分らけゆかりさんとイチャイチャして! いいなあいいなあ、愛がほしいなあ!」
「ちょ、大丈夫衣玖?」
「私なんてうえからグチグチ話しきかされてばっかり。愛してくださいゆかりさあん!」
「私!? なんで私!?」
天魔からずっと話を聞かされてストレスが溜まっていたのだろう、衣玖は泣きわめくように紫の胸元に抱きついた。
隣の天子が呆れた目で見てくるのを感じながら、紫は困惑しつつも衣玖の頭に手を添える。
「えーと、ほらいい子いい子?」
「ああん、ダメです紫さん。天子さまが嫉妬しちゃいますぅ」
「するかあ!」
「相当溜まってるわね……天子もたまには労って上げなさいよ」
「……考えとく」
支離滅裂なことを喚く衣玖は、紫から繰り返し撫で付けらている内に、段々とまぶたを閉じて行き、安らかな寝息を立て始めた。
紫は抱きついてきた衣玖の身体を引き剥がして、地面の上にそっと寝かせる。
「すぅー……すぴー……すぅー……」
「寝ちゃったわね、帰りは天子がおぶっていきなさいよ」
「何言ってるの、まだ帰らないわよ」
天子は立ち上がって背伸びをすると、一歩宴会場へ踏み出して紫に振り返った。
木の根に腰を下ろしたままの紫に手を差し出し、元気な声で笑いかけた。
「さあ、宴はまだ始まったばっかり! 私達も行きましょ紫!」
「……ふふっ、その通りね」
どこまでも前向きな天子がこうして手を差し伸ばしてくれることに、紫もまた救われるような思いで手を取った。
立ち上がった紫を天子が手を引いて、二人は宴会の場へと駆け寄っていく。
その後のことは語るまでもないだろう。
ただ一晩開けて二日酔いが残った衣玖と駆けつけた藍が、それぞれの主を抱えて連れ帰ったとだけ記しておく。
◇ ◆ ◇
「はい、濡れタオルです」
「ん」
「橙と妖夢に頼んでお風呂を沸かしておきましたから、まずはさっぱりしてきて下さい」
「ありがとう……」
酔いつぶれてぐっすり熟睡していた紫は、目が覚めた時には自宅で藍に介護されているような状態だった。
言われるがままに服を脱いだ紫はお風呂に身を沈め、疲れが残った身体を温める。
熱いお湯が料理の練習中に出来た指の傷に滲みて、紫は顔をしかめて両手をお湯から持ち上げて眺めた。
「はあ、思えば藍には酷いことしたわね」
天子に何かしてあげたいとハイになってたせいで気づかなかったが、霊夢に叱られたことで我に返ってみれば藍にはかなり負担を強いていた。
あのまま続けていれば妖夢まで毒牙にかけていたかと思えば自分でも恐ろしい。
「ああ~、みんなに迷惑かけるようなら練習止めたほうがいいかしら、でも天子にはお料理作ってあげたいし、でも一人じゃ時間かかりそうだし……」
浴槽で頭を抱えてうんうん唸る。
天子のことは大切だが、彼女のために他のものを蔑ろにする訳にはいかない。
「仕方ない、藍たちを苦しめるくらいなら一人でやりましょう」
幸いにも身体に染み付く技術的な記憶に関しては、バックアップに必要な容量は少ない。
目標達成は何年か越しになるかもしれないが、のんびりやって行こうと決めて紫は浴槽から立ち上がった。
一通り身を清めた紫はお風呂から出ると、浴衣姿に頭にタオルを巻いて居間に足を向けた。
決断に気を重くしながら襖を開けて、中にいる藍に謝ろうとする。
「ごめんなさいね藍、色々と迷惑を……」
しかし居間の光景に面食らった紫は、続く言葉を引っ込めた。
そこには藍と橙だけでなく、妖夢と幽々子までが揃い踏みで、机の上でいくつもの料理本を広げて顔を寄せ合っていた。
「おはよう紫、さっぱりしたかしら?」
「え、ええ……幽々子までどうして?」
「いやだわ、料理の練習するんでしょ? 妖夢だけじゃなく私も呼んでくれればいいのに」
「そのことなんだけど、やっぱりみんなに迷惑掛けるでしょうから、一人でやろうかなと……」
控えめに言った紫に、藍が呆れ顔で食いついてきた。
「何言ってるんですか、あんな壊滅的な呪いめいた腕前を一人でどうにかできるとお思いですか」
「うっ、でも藍は苦しんでたし」
「そりゃそうですがね、紫様のためならあれくらい我慢しますとも。それにここまで身の回りの世話させておいて、今更あなたの幸せを手伝わせてはくれないんですか」
「藍……」
藍が身を粉にして奉仕しようする姿勢を示すと、話を聞いていた妖夢も強い声で申し出てきた。
「私も正直言えば嫌ですけど、でも紫様にはよくお世話になってますし、協力しますよ」
「いいの? 自分で言うのも何だけどすっごく辛いわよ? 昨日の藍を思い出して」
「覚悟の上です、魂魄家に二言はありません」
一晩経って気持ちを固めたようで、もう妖夢は迷わずに言い切った。
更に昨日は家にいなかった橙までも、飛び跳ねて紫の前に躍り出る。
「もっちろん、私も協力しますよ紫様!」
「……辛いのよ? 藍だってダウンしたくらいだし……」
「なら藍様と一緒に頑張ります、未来の八雲家を一員としてここでやらずにいつやるのか! それに天子に先越されちゃ拙いし……」
「何のこと?」
「天子はせっかちだから、こっちも急がないとってことですよ」
任せてくれと橙は小さな身体で勇み立つ。
助けようとしてくれるみんなに紫が呆然としていると、再び藍が言葉を紡ぐ。
「私たちは日々を紫様に支えられてきました、ですから恩返しをさせて下さい」
その言葉に紫は胸が熱くなった。
感動で泣きそうな目を伏せて密かに涙をこらえると、良い家族と良い友に深く感謝し、今度は開けた目で一同を見回して頷いた。
「それじゃ、お願いしちゃおうかしら」
◇ ◆ ◇
「うぁ~、あったま痛い~、身体だるい~」
「酒は微酔にとか普段のたまってるくせに何言ってるんです、もう自分で歩いてください」
「いたっ! お尻蹴らないでよもう!」
ガラガラ声で喉を震わせ、泥が詰まったような瞳で天子は天界を練り歩く。
天狗に追い払われた衣玖が、仕方なしに天界にまで連れてきてくれたのだが、そこから先は叩き起こされて自分で歩くこととなった。
昨日は天魔によっぽどストレスを溜めさせられたのか、後ろを着いてくる衣玖は結構不機嫌だ。
お尻を押さえる天子の頭上で、ざあっと風が渦巻いて木々の葉を攫った。
「随分と痛い目見たようじゃないか天子、流石に今度は堪えたかな?」
「その声、萃香……」
周囲に湧き出した霧が萃まって、瓢箪片手に現れた萃香が現れた。
上機嫌にケラケラと笑う子鬼は、天子の前に降りてくる。
「そんなに疲れてちゃ、これを見たって嬉しくない?」
そう言って萃香が差し出したのは、なんと片手には収まらない大きさの宝石の原石だった。
磨かれていない石が放つくすんだ輝きに、天子は疲れた表情を段々と明るくさせていき、わなわなと震わせた拳を天に突き出した。
「やったああああああ!! 作戦大成功っ!!」
それは紛れもなく、妖怪の山で天子が最後に切り取った宝石の原石だった。
何故かここにある宝石に、天子は狂乱して歓声を上げる。
「ずるいですねー、秘密の協力者なんて」
「チッチッチッ、人聞きの悪い事言わないでよ衣玖、私は一度も契約後に魔理沙の許可なく助けを求めたりしてないわ。ただ書面にサインする前に、酔っ払ってこれからすることバラしちゃって、目当ての宝石が奪われたりしたら大変だなー、そしたらなんとかして買い取るしかないなーって不安を言っただけよ!」
そして話を聞いた萃香は、秘密裏に天子をサポートしてくれた。
原石を掘り出した天子が穴から出たところで一度合流し、掘り出した原石から特に有用そうなものを選んで萃香に渡しておいたのだ。
「それで、例のものは?」
「三分待ってなさい!」
天子はそう言うと、衣玖と萃香を残してダッシュで家に帰ると、大きな酒樽を担いで戻ってきた。
「この天界秘蔵のお酒でその宝石を買ったぁー!」
「売ったー!」
ドンと置かれた酒樽の上に、萃香がドンと宝石を置く。
売買が成立し、天子は手に入れた宝石を両手で太陽に掲げて、その輝きに酔いしれた。
「うしし、よしよし、よく来てくれたわね。あなたには私と紫を繋ぐ架け橋になってもらうわよ」
「ありがとうございます萃香さん、天子様のわがままに付き合っていただいて」
「なあに、あいつにプレゼントしたいだなんて聞かされちゃね。それに飲んだことないお酒も手に入ったしうえへへへへへ、よだれヤバい」
萃香は酒樽に頬ずりしてひとしきり愛でると、天子に向き直って指を突き付けた。
「天子、今回お前の茶番に付き合ったのは、天子を喜ばすためじゃなくて紫のためだからね、しっかりやりなよ」
「わかってるわよ、まかせなさいって」
天子は親指を立てて自信満々に返したあと、萃香に顔を近づけて耳打ちした。
「それとそのお酒、衣玖にも分けてあげて。今回けっこう無理させちゃったから」
「はいよ。一人で飲んでもつまらないしね、しばらく借りるよ」
埋め合わせには足りないかもしれないが、ひとまずこれで衣玖には我慢してもらおう。
萃香は愚痴るタイプではないし、衣玖も気楽に飲めるはずだ。
「それにしても珍しい石ですね。緋色と紫色が一緒になってるなんて」
天子の手に握られた原石を見て衣玖が呟く。
彼女が指摘した通り奇妙な宝石だった。
緋色の宝石と紫色の宝石がそれぞれ見つかるのならわかるが、これはその二つが合体しているのだ。
細長い原石の片側が緋色に輝く一方、反対側は紫色となっており、その中間部分で急に色合いが変化している。
「外界からこっちに流入してくる時点でくっついちゃったんだと思うわ、妖怪の山で見つけたもっと大きな原石は一つの岩盤に何種類も違う宝石が一緒になってたけど、それと同じことよ」
「面白い宝石だね、いい品物ができそうだ。どんなのにするのかは決めてあるのかい?」
「うん。一目見て思い浮かんだ形があるのよ、やってみるわ」
「そうかい、きっとうまくいくよ」
お世辞でなく本気で萃香はそう思ったし、衣玖も同意して頷いた。
自分たちを応援してくれる人がいる、そのことに嬉しくなって天子は破顔し、紫も同じ気持ちになってくれればいいと思って彼女の笑顔を思い浮かべた。
「ありがと、頑張るわ!」
それから数日間、天子は家にこもって紫に贈るプレゼントの制作を始めた。
宝石の大きさを測って設計図を起こし、別の宝石を使って実際に試してどうなるか確認した。
そして納得がいくと、いよいよ持ち帰った原石を削り出す。
途中で紫がここに来たりしたら、プレゼントのことがバレてサプライズにならなくなると不安だったが、幸いにも作業中はここに訪ねてくることはなかった。
そのことにほんのりと寂しさを感じながらも、順調に進んでいった――――
――――
――――――――
――――――――――――――――
たくさんの思い出を抱えて歩く。
広がる大地のようにどこまでも優しい母、不器用だが娘のために頑張ってくれる父。
この世のどこにも不安はなく、こんな時間がいつまでも続くと心から信じられた透明な記憶。
二人に愛されながら、幸せに笑って歩く。
苦しみを抱えて歩く。
母が死に、世界が閉じる。絶望が希望の上に塗りたくられる。
父は悲しみに溺れ、私のことなど見向きもしてくれない。
幸福は遠のき、独り歩く。
苦しみを抱えて歩く。
父が生きることから逃げようとするのを、必死になって止める。
代わりに殴られ、蹴られ、何故お前が生き残ったんだと罵倒され、それでも放っておけぬと空の上までついていく。
果てなき日々を、傷つきながら歩く。
苦しみを抱えて歩く。
母を殺したかの憎き妖怪は、結局滅することができなかったという。
名居家は辿るべき道を間違えた、気質という手段では彼奴に届かなかった。
つまるところ、私でもあの可哀想な妖怪を殺してやることはできないのだろう。
晴らせない憎しみを押し殺し、俯いて歩く。
苦しみを抱えて歩く。
天人になったことを後悔する。あんなに尽くした父は、負い目から私から目を背けるようになった。
誰も私の隣にはいてくれない、いっそ地上で人としてまっとうに死ねばよかったと過去の優しさを呪う。
辿れなかった幸せを想い、空想を抱き歩く。
苦しみを抱えて歩く。
何かから抜け出したくて死に物狂いで修行して、強くなっても日々は何も変わらない。
地獄からの死者に当たり散らしても、過去に父が私に拳を振り上げたのと同じだと気付き、怒りに叫んだ。
泣きそうな目を締め付け、疲れながら歩く。
――苦しみを抱えて歩く。
――苦しみを抱えて歩く。
――苦しみを抱えて歩く。
ある日、地上が面白いことになっていると気が付く。
幻想郷で起こる異変、それを解決する英雄譚。
童のころ、夢想して憧れたおとぎ話に似ていて、それに混ざろうと久々に遊んでみた。
幽霊を斬り捨て、気質を集め、空を歪め、地震を起こし、どうせ私を大切にしてくれる人などいないのだからと無茶苦茶やった。
それなりには楽しめた、溜飲は下がった、だがやれたことは結局のところ今までの延長線。
私を裏切った父を軽蔑し、死神に当たり散らし、ただ不満を叫ぶ日々とどこが違う。
こんなものなのか! これが私のやろうと思ったことか! こんなことしかできないのか私は!
ただ怒りのまま、悲しみのまま、全てを薙ぐような生き方しか出来ないのか!!!
慟哭を胸に押し殺し、せめて手慰めに神社に手を伸ばした。
新しい居場所が欲しかった、そこからまた歩き続けたかった、何もかも喪ったまま歩みを止めたくなかった。その先が終わらない苦難の道でも、止まれなかった。
そんな時に、剣を振りかざして歩く私の前に、あいつが――
投我以桃、報之以李。私に桃を持ってくれば、李を持って許しましょう。
現れたのは原初の憎悪。
憎むべき仇敵から、母が死んで以来初めて、泣き叫んで歩く以外の道を教えられた。
――――――――――――――――
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――――
――懐かしい夢を見た。歩き続けた最果てに希望の糸が垂らされる夢を見た。
否、最果てではない。縋った希望の先は未だ続いている。
作業場で寝ていた天子は勢い良く起き上がると、窓から入ってくる日差しに目を細めた。
思わず日にかざした手に、何かが握られているのに気が付いた。
握った手を緩めると細いチェーンが垂れて、先についた宝石が太陽の光を受けて輝いた。
そうだ、紫に贈る首飾りが昨夜完成したのだ。
大きさにして5cmほどの宝石は、雫を模した形にカットされ、幾つもの平面が入ってきた光を内部で反射させて眩さを誇っている。
自分が紫に贈るに相応しい出来だと、天子は誇らしげに鼻を鳴らした。
「できたはいいけど、問題はどうやって贈るかよね」
首飾りを布で包んでポケットに入れた天子は、家から出て歩きながら呟いた。
紫とはかなり仲良くなった天子だが、こちらから紫の家にお邪魔することは出来ない。紫が住んでいる屋敷の一帯は常時無数の結界が張られていて、侵入者を追い払うようになっている。
これを乗り越えられるのは紫本人とその家族である藍と橙、後は特別仲が良い親友の幽々子と彼女の従者の妖夢だけ。
自分や萃香が紫の家に行くときはスキマで結界内に転送してもらうか、藍たちに案内してもらう必要がある。
いつもは紫が定期的に顔を出してくれたから、わざわざこちらから出向こうと思うことはなかった。今更ながら気遣ってくれてたんだなと思わされ、改めて紫に感謝する。
だがここのところの紫は忙しいらしくて会いに来てくれず、秘密を打ち明けてくれたあの夜から出会ったのは妖怪の山でのいざこざでだけだ。
とりあえずマヨヒガにいるだろう橙を尋ねて紫との約束を取り付けてもらうのが一番早いだろうが、忙しい中で時間を都合して貰えるだろうか。
考え込みながら歩いていた天子であったが、突然目の前で空間に亀裂が入り肩を緊張させて足を止めた。
すごく都合のいいことに、紫が今まさに会いに来てくれたらしい。だがいきなりプレゼントを送る相手が現れては天子の心の準備が間に合わず、丸くして後ずさる。
そうこうしている内に亀裂が広がり、開かれた空間のスキマからいつものように紫が優雅に現れた。
「こ、こんにちひゃ、天子!」
――訂正、優雅ではなかった。なぜだか向こうも緊張しまくりだった。
内心疑問に思う天子であったが、天子は天子でそこに突っ込むほどの余裕がない。
「ひさ、久しぶりね紫。どうしてたにょ?」
思いっきり噛んで変な声が出る。
普段ならばこれをネタにからかうところではあるが、興のところはお互いにツッコむ余裕などない。
「えーと、その……忙しくって」
「そ、そうなんだ」
だったらどうして妖怪の山なんかに、しかも割烹着姿でいたんだろうかと疑問だがやはりこれも聞けなかった。
――どうするの!? 今ここでプレゼント渡しちゃう!?
ポケットに入った首飾りを今渡すべきかどうかで、天子の頭はちょっとしたパニック状態になっていた。
作り終わってすぐの勢いのある内に渡してしまいたいが、だからと言ってこの場で即渡すのは風情がなさすぎるのではないか。
せっかく丹精込めて作ったプレゼントなのだ、もっといい雰囲気の時に改まって渡したい、ちゃんと取って置きの言葉を考えて送りたい。
今か後か、天子がらしくない優柔不断に悩んでいると紫が先に口を開いた。
「その、天子。今日の夕食はウチで食べていかないかしら?」
「おっ!? い、いいわねうん、それいい! じゃ、じゃあそれまでどうする、どこかで遊ぶ?」
ありがたい申し出だったが、最後の一言はいらなかったと後悔した。
つい口走ってから、そこは約束した後は一旦別れて準備するべきところでしょうがと内心では自分を叱りつける。
「い、いや! 夕方には迎えに行くから、それまで私はやることあるから天子は待っててもらえるかしら!?」
「う、うん、それでいいわ、うんがそれがいい」
だが運の良いことに、しどろもどろな紫は天子の誘いを断ってくれた。
都合がいいのは確かなのだが、この余所余所しい感じはどうしたのだろうか。
約束もできたことで落ち着きを取り戻し始めた天子に、今更ながら疑問が湧き始める。
しかし聞いてみようとしたところで、紫は背後にスキマを開いて身を翻してしまった。
「それじゃ私はこれで! 迎えに来るからお腹減らして待っててね? おやつ食べすぎないでね? それじゃあ!」
「あっ、ちょっと待ってよ紫!」
やたらと念を押しながら手を振った紫が素早くスキマに潜り込む。
紫が自分を嫌っているわけではないだろうが、この状況に一抹の寂しさがあるのを否定できなかった。
少し暗い気持ちになる天子だが何にせよ好都合なのは事実だ、夕食の後で渡すとして今から準備しておこう。
「というわけで、今日中には渡せそうよ」
「へえ、いよいよか頑張りなよ」
まずは時間があったので衣玖と萃香に事の経過を報告しておいた。
「私はどうしますか? 着いて行かずに待っていたほうがいいでしょうか」
「さっさと帰っちゃったから衣玖のこと聞くの忘れてけど、いつも衣玖と一緒に行ってるし二人分の夕食を作ってくれてるでしょ。どうせだから一緒に来て頃合いを見て藍と橙をどっかに連れ出してよ。二人っきりで渡したいし」
「とか言いながら、一人じゃ心細いんじゃないのー?」
「ぶっ、違うし、そんなんじゃないし!」
「ちゃんとプレゼントする時の台詞は決めたんですか?」
「い、いやその、そんなのいつもありがとうって言えば良いじゃない」
「ダメだねそんなんじゃ、愛してます結婚してください! くらいの勢いでだね」
「そして二人は熱い口づけを……」
「いやー、仲良きことは美しきかな」
「そんなのするかー!」
顔を真っ赤にする天子を見て笑っていた萃香だったが。ふと思い出して声を上げた。
「そうだ、ちょっと前にここで珍しいのを見たよ」
「珍しいの?」
「鬼だよ、鬼」
「……珍しくないじゃない?」
「いや、私じゃなくてさ」
鬼なら今ここにもいるだろうと天子は指を向けるが、萃香に手を振って否定される。
天界にいる鬼といえば萃香で定着していた天子だったが、少し考えて言われた内容を理解して手を叩いた。
「ああ、鬼神長のやつらね。地獄の鬼でしょ」
「地獄のだったのかい、そういえば雰囲気が私ら野良妖怪のとはだいぶ違ったね、エリート様って感じでさ」
「わかるわかる、お固い感じなのよねあいつら」
納得が行ったと瓢箪の酒を喉に流し込む萃香だが、話を聞いていた衣玖は不思議そうに尋ねてきた。
「地獄の鬼が、天界に用があるんですか?」
「ようは地獄からのお迎えってやつよ。ここの誰かを殺しに来たんでしょ」
剣呑なワードに衣玖は息を呑む。たしかに言葉としては物騒なのはわかるが、そんなに驚くほどのことではないのになあと天子は思った。
「こ、殺しにですか……その割に天子様は呑気ですね」
「天界にとっては数少ない娯楽みたいなもんだしね。懐かしいなあ、私のとこには数十年くらい前に来たっきりね」
天子はここのところにお迎えがこないことに残念そうに呟く。
対する衣玖は不安な気持ちになった。
お迎えについて詳しくは知らないが、大事な天子の命の危険など少ないほうが良いに決まっている。
「ここのところ相手してないのよねー……一時期むしゃくしゃしてたから、殺しにきた鬼神長を逆に殺しかけたことがあって、私のお迎えを誰もやりたがらないらしいのよ」
「地獄からも厄介がられてるとは流石天子様ですね。軽蔑します、あっ間違えた尊敬します」
「わざとでしょあんた……まあもう来なくてもいいけど、幻想郷に降りてから暇潰しには困らないしねー」
「あんまり油断してると足元掬われるよ」
「その時はその時、私がそこまで程度の存在だったって話よ。そんな簡単に終わるつもりはないけど」
受け取り方によっては諦めにも似た言葉だったが、衣玖は確かな活力を感じてむしろ安心できた。
天子は生きることに前向きだ、決して死を前にしても諦めることはないだろう。
「……そうですね、私もそう信じています」
この輝きがいつまでも続くようにと、衣玖は願って呟いた。
◇ ◆ ◇
幻想郷は外界の現実からズレた位相にすべりこむように存在する場所だが、その幻想から更にズレた場所がある。それが天界であり、冥界であったりする。
ここもそういったあの世を目前とした場所。浮世ではありえない霧の掛かった雄大な川の上を、いくつかの船が横切っており、それらは船頭の後ろに半透明のふよふよとした人魂が乗っていた。
死んだ魂を届ける三途の川、此岸と彼岸の隙間に引かれた境界であった。
魂を届け終えた舟が此岸に戻ってきた。
船頭の死神は岸に辿り着くと舟を漕ぐのに使っていた櫓を置いて、舟を縄で岸につなぎとめてしまった。
常に霧がかかって昼も夜もない三途の川であるが、現世に合わせて時計が合わせられており休憩時間が用意されている。
しかし昼食の休憩にはまだ早いはずだと、舟に乗せて貰おうと人魂が近付いた。
「あーごめんね。お昼の休憩だよ、後でね後で」
しかし困惑する人魂を押し退けて、小野塚小町は岸に上がると時計も確認せずに河原に並んだ幽霊の列を無視して寝転がってしまった。
「いやー働いたね、こぎっぱなしで疲れたよ」
こぎっぱなしなのは、あえて罪の重い幽霊を選んで運んでいたからなのだが、さも頑張りましたよという風に主張して寝たまま背伸びをする。
今日も三途の川は異常なし、小町はいつも通りのんびりゆっくり気ままに仕事をしていた。
「少ししたら人里にご飯食べに行こうかね。どこの店にしようかな、あのピンクの仙人が詳しそうだし久しぶりにあいつの家に顔を出しておすすめを聞くのも面白い」
「ほお、それはそれは優雅なことですね」
今後の予定を立てて気持ちよく身体を休めていた小町だったが、ここにいるはずのない人物の声に驚いて目を丸くした。
視線を上に向けてみると、見知った小柄な上司が逆さまに映った。
「え、映姫さ、きゃん!」
飛び起きようとした小町の額に悔悟棒と呼ばれる笏が落とされて悲鳴が上がる。
悶絶して背を丸める死神を見て、上司の映姫は残念そうに溜息を零した。
「休憩にはまだまだ早いでしょうに。また仕事をサボって」
「そ、そういう映姫様こそどうしたここにいるんですか。まさか映姫様もサボり……いたっ! 違いますよねわかってますスミマセン!」
青筋を立てた映姫に悔悟棒で滅多打ちされ、小町は必死に頭を下げた。
映姫は叩きのめして気を晴らすと、這いつくばって頭を守る小町を見下ろしてここに来た理由を告げた。
「小町、いつもと違う仕事が入りました。幻想郷に出ますよ」
「おっ」
映姫から伝えられた言葉に小町は立ち上がると、ニヤニヤと笑みを浮かべた。
「おやおや鬼神長達が頼んできましたか。標的は?」
「比那名居天子、あなたは誰だか知っているらしいですね」
「ああ、あの娘ですか。なるほど厄介そうだ」
自分たちにお鉢が回ってくるわけだと、小町は異常気象の異変で戦った天人を思い出して得心する。
しかし彼女の前にいる上司は、部下とは対照的に眉を曲げて嫌そうな顔をしている。
「不機嫌そうですね映姫様」
「当然です、元々私の仕事ではないのですから。管轄外の仕事を押し付けられて良い気分にはなれません」
「私はけっこう楽しみですけどね。特別手当に上手く行けばボーナスも倍ドンですし。あの天人はどんな反応をするのかねえ」
顎に手を当てて想像を巡らす小町に、映姫は口をとがらせた。
「小町わかっているでしょうが、他の部署がなんと思おうと、私は説教をするだけです」
動かぬ意思を主張する映姫であったが、それが相手には一番厄介なんだよなぁと小町は気の毒な笑いを漏らした。
◇ ◆ ◇
朝に招待を受けてから、いつ紫が来ても良いように天界で待ち受けていた天子だったが、日が沈み始めてもまだこない待ち人に、そわそわと要石に座った体を揺らして焦れったそうにしていた。
「ま、まだかしら、遅くない?」
「遅いですねぇ、いつもなら早めに合流して駄弁ってるのに」
天子とは違い衣玖はのんびりとした様子で敬愛する主人を見守っている。
いつまで経っても紫が来ないということで、萃香は飽きて何処かに行ってしまった。
不安と期待を胸に待っていた天子の前で、空間に亀裂が奔った。
「――き、キタ!」
開いた闇の中から人影が歩み出てくる。
暗闇に溶けてしまいそうな紫色のドレスを着た紫が、人を惑わす妖美な表情で口を開いた。
「ごご、ごきげんひょう天子!? 今日もいい月ね!」
「ここ、こんばんひゃ紫!? そうね、良い新月ね!」
――何この人ら面白い。
まだ月も出てないのに何を言ってるんだこの人はと、衣玖は笑いを堪えるのに必死だった。
しかし天子はともかく妖怪の賢者までこの有様とは、一体何があったのだろうか。
「そ、それじゃあ早速来てちょうだい、二人でゆっくり夕餉を……」
「あのー……私もいるんですが」
ナチュラルにハブられかけてた衣玖が声をかけると、紫から一瞬純朴な少女のような無垢な目で見つめ返された。
「えっ……? ああ、そうよね! 衣玖も来るわよね。ええわかっていますとも」
どうやら衣玖の存在は発言するまで本当に眼中になかったようだ。
「しまったわ、衣玖も……ああ、そうだわ。そういえば藍が従者同士で話があるって言ってたから、会ってあげてくれないかしら?」
「ええ、構いませんが……」
露骨に除け者にされている気がするのを衣玖は感じた。
流石に疎外感から気が悪くなったが、紫の様子がおかしいこともあるし何かしら事情があるんだろうと不満を飲み込んだ。
元々衣玖がついてくる理由も天子と紫が二人っきりになれるようフォローするためであるし、ここは素直に従っておくことにする
「それでは、改めてお手を拝借」
そう言って紫は絆創膏が取れたまっさらな手の平を二人に差し出した。
天子は紫の右手を取り、衣玖は左手を取る。
両方の手を握りしめた紫はふわりと表情を和らげて、後ろ向きに歩き来る時に開いたスキマに背中から入り込んだ。
ズブズブとスキマに沈んでいく紫に、天子と衣玖も着いて行き中に入る。
世界の隙間という異常な空間に視界が黒く染まった後、急に目の前が拓けて、三人はいつのまにか生い茂った森のなかに立つ和風の屋敷の前に立っていた。
「いらっしゃい二人とも、よく来てくれたわ」
スキマで二人を連れてきた紫は手を離し、来客に笑いかけると玄関の戸を開いた。
天子たちは「お邪魔します」と言って家に上がると、紫に続いて屋敷の廊下を歩いた。
「じゃあ衣玖、そっちの居間で藍たちが待ってるから」
「はい、わかりました」
「私は?」
「天子はこっち、応接間よ。私と一緒に来て」
紫が天子を応接間に招くのは珍しいことだった。大抵は居間や縁側で家族を交えてのんびりするのが常だったのに。
応接間に行く二人と別れた衣玖は、居間の襖を開いた。
「こんばんは、お邪魔しまうわあああああ!!?」
中に踏み込んだ衣玖が見たのは死屍累々の惨状。
テーブルの上に置かれたおびただしい量の皿と、その周りに耳と尻尾をへにゃりとしおらせ倒れ込む藍と橙、そして同様に死人のような顔色で伏す幽々子と妖夢の痛ましい姿だった。
みな肩で弱々しく息を吐いて、痩せこけた頬でお腹を抑えている。
驚いて部屋に入った衣玖は鼻につく異臭と頭に重くのしかかる陰気さにうっと口元を抑えた、とんでもなく空気が淀んでいる。
来客に気付き藍がよろよろと起き上がった。
「おぉ……来てくれたか衣玖、何も歓迎できずすまない……」
「ど、どうしたんですか皆さん揃って!? 随分と痩せたようですけど」
「ふふ、わかるか? ここ数日で5キロは減ったよ。どうして食べてばっかりなのにこうまで痩せるか自分でもさっぱりわからん……」
「うにゃぁ、もう……もう毒味はいやぁ……」
「ああ、川の向こう側で妖忌が手を振って……」
「半人半霊なんかじゃなく、いっそ死にたい……」
「と、とりあえず換気しましょう、ここの空気色んな意味で悪過ぎでヤバいです」
◇ ◆ ◇
応接間に通された天子は、掛け軸の掛けられた床の間に近い上座に座る。
慣れない場所でなんとなく落ち着かない天子に、紫は立ったまま笑いかけた。
「それじゃあ、用意するから待ってて頂戴」
「用意って、紫が? 藍じゃなくて」
応接間から紫が出て襖を閉めるのを見届けて、天子は首を傾げる。
いつもなら藍がご飯を用意してくるはずなのに、紫がわざわざ料理を持ってくるとはどういう理由なのだろうか。
妙な可能性が頭をよぎるが、いやまさかあの料理下手がと思い直し、しかしそれなら何故と天子はぐるぐる頭を悩ませる。
やがて廊下から足音が聞こえてきて応接間の前で立ち止まると、お盆を床に降ろす音の後に襖が開かれた。
緊張気味に顔を赤らめた紫が、料理が乗ったお盆を部屋の中に動かして戸を閉めると、改めて天子の前にやってきた。
「その、口に合うかわからないけれど」
差し出された料理は、白飯に薄揚げと大根の浮いた味噌汁に肉じゃが、そして副菜に水菜の天ぷらと摩り下ろした大根を添えた卵焼きだった。
春の食材を使った定番の料理ばかりだが、藍が作ったものとしては味噌汁の大根や卵焼きの形がいびつだったりと、微妙な下手さがあった。
「もしかしてこれって……」
「その、私が作ったのよ」
おずおずと申し出られ、天子は驚いて料理から顔を上げると、顔を俯けている紫を見つめた。
紫に背けられた視線は、耳の赤さから恥ずかしいんだとわかる。
天子はここのところ紫が会いに来てくれなかったのは、ずっとこのために料理の練習をしてくれていたのだと悟った。
自分が首飾りを作ったことと示し合ったように、紫も素敵な贈り物を与えてくれたことに、天子は嬉しさで胸をときめかせた。
「残念だけど藍にはかなわないし、い、イヤなら食べなくても……」
「ううん、食べる! 食べさせて!」
わずかに怖気づいた紫に、天子は身を乗り出す。
すると紫は赤い顔を上げて強張っていた表情を明るくさせると、お箸を手に取って肉じゃがを摘んだ。
「それじゃ……あーん」
照れくさそうに、しかしながら大胆に紫が箸で持った肉じゃがを差し出してくる。
思わぬ行動に、今度は天子まで顔を赤くしてしまう。
「じ、自分で食べれるわよ!」
「食べさせてっていったじゃない」
「そういう意味じゃなくて!」
「私が、食べさせてあげたいんだけど、ダメ、かしら?」
そんな風に恐る恐る伺われたら、天子は例え恥ずかしくても押し黙るしかなかった。
わずかに恨みがましい視線を投げかけた後、観念して口を開く。
「あー……」
雛鳥のような天子を前に、紫が喜びで顔を綻ばせて料理を運んでくる。
ゆっくりと口の中に肉じゃがが差し出されると、天子は口を閉じて料理を頬張った。
唇の間からお箸が引き抜かれ、天子は味を確かめるように噛み始める。
「どどどどうかしら!?」
「うん……」
正直なところ、上手ではない。
味は薄いし、ちょっと焦げてて苦いし、肉は硬いし、じゃがいもは崩れてドロドロだし、玉ねぎはほとんど溶けてて口の中にあるかどうかもわからない。
だがそれでも、以前食べた紫の料理よりかは遥かに上達していて、きっとこのために長い時間練習してくれたんだろうということが伝わってきた。
「……美味しい」
「ほ、本当? 無理して褒めなくてもいいのよ? ようやく食べれるレベルになっただけって自分でもわかってるから」
「ううん、無理なんてしてない」
噛みしめるごとに感じる、紫からの愛情の味。
それが何よりものスパイスとなって、天子の心に染み入る。
「とっても、とっても美味しいわ」
胸が暖かくなる料理なんて、食べたのは何年振りだろうか。
ご満悦の天子は、にっこりと笑って紫を急かした。
「ねえ、早く次のちょうだいよ。食べさせてくれるんでしょ?」
「……ええ、ええ! はい、あーん」
紫も喜んで次々料理を食べさせてくれる。
次に口にした水菜の天ぷらは、案の定というか固かった
味噌汁はしょっぱくて、卵焼きは甘ったるくて、それでも今まで食べた中で一番美味しく感じる。
そして天子が美味しいというと、紫もまた喜んでくれるのがまた楽しかった。
なんて、なんて幸せなんだろう。
今までの悩みなんてどうでもよくなるような、心が躍る夢のような時間。
天子は満面の笑みでご飯を頬張り、ただただこんな素敵な時間を与えてくれる紫に感謝ばかり感じていた。
「ふふふ、私の事母親と思って甘えてくれていいのよ」
――――それを聞いて、頭の裏で心が崩れる音がするまでは。
「母親って、どういう、こと……」
「ずっと寂しい思いをしてきたようだから、少しでも元気づけたいと思って。それでね、家族みたいにあなたを支えられたらって」
屈託なく笑って語る紫を前にして、天子は眼孔の奥が燃え上がるのを感じた。
喉の奥がカラカラする、体の芯が震えて、心臓が狂って脈を打つ。
無邪気に笑う紫が、猛る感情を通して歪んだように見えて、楽しそうな声は聞いてられずに頭痛が走る。
「私が母親代わりなんておこがましいかもしれないけど、それでちょっとでもあなたに欠けたものの足しになれば――」
「――ふざけないで!!!」
叫ばずにはいられなかった。
一番敏感だった部分を突き刺され、天子は堪らず立ち上がって紫の首元を締め上げた。
突如として変貌し、怒りで顔を歪ませる天子を前にして、紫が驚愕してなすがままに身体を固まらせる。
「あんたが! よりにもよって紫なんかに、お母様の真似事なんてされたくない!」
「て、てんし……?」
困惑し、怯えすら見せる紫だが、それですら天子の怒りを鎮められない。
頭が痛い、手が痺れる、このままではどうにかなってしまいそうだ。
発狂しそうな喉を締め付け、せめてこれ以上叫ばないように口をつぐんだ天子は、顔を伏せて紫を突き飛ばすと部屋の戸を開け駆け出した。
「天子!」
紫の声が厭に遠く聞こえる。
離れていく想いを背に、天子は逃げ出した。
◇ ◆ ◇
「なるほど、紫さんの料理のイケニエに」
「その言葉のチョイスはどうかと思うが、まあ概ね間違っていない」
衣玖の呼びかけにより瀕死の状態からなんとか復帰した面々は、まだ優れない顔で食卓を囲んでいた。
机に置かれたのはちゃんとした料理ではなく、外界で言うところのカップ麺。藍たちに夕食の用意をする気力はなく、紫に用意してもらっていたこれにお湯を注ぐこととなった。
幻想郷では珍しい食べ物を口にしながら、衣玖は何があったのかを説明してもらっていた。
「すまないな、本当ならこんな温かみのないものを家族や客人に出すべきでないのに」
「いやいや、お気になさらず。皆さん大変だったようですし、これはこれで美味しいですから」
橙や妖夢などは「おいしいおいしい」と涙しながら麺をすすっているが、紫の料理はどれだけ殺人的だったのだろうか。
「妖怪の山で天子たちと別れた後、今度は紫様を手伝ったんだけどね。あまりの不味さに式が剥がれて変化が解けて、上も下もわからない時に黒くてドロドロとしてよくわかんない場所に浮かんでたよ」
「ヤバい扉を開けかけてませんか?」
衣玖は「大変でしたねえ」と橙の頭を撫でてあげると、身をくねらせて喜んだ。
そのことに藍が「むう」と少し不満げに見つめてくるのを受け流し、幽々子たちに顔を向ける。
「幽々子さんがたもお手伝いしてたんですね」
「ええ、親友の一大事なんだから当然よ」
背筋を伸ばしてお行儀よく麺をすすっていた幽々子がサラリと答える。
すでに疲労を感じさせない声色な辺り流石だった。
「終盤の幽々子様はすごかったぞ。私達が全滅した中で、最後まで紫様の料理を食べ続けたからな」
「死に物狂いでかっこんでましたね、あんなに必死になった幽々子様初めて見ました」
今の幽々子を見ていると想像できないが、どうやら壮絶な戦いだったらしい。
幽々子は賞賛を受けながら、当然のように言った。
「言ったでしょ、親友のためなら当然だって」
紫の作った料理は本当に不味かった、幽々子は大食らいながら結構な美食家で味にはうるさいほうなのだが、文句の一つも零さず紫の料理を平らげ続けた。
胃がキュウキュウに喉を締め上げてこれ以上この料理という名の異物を入れるなと反抗してきたが、それでも食べ続けた。
しかし拒絶反応を無視して食べる姿のその悲痛なこと、途中で紫は何度も「無理して付き合ってくれなくてもいいのよ?」と言ってきたが、それを断って最後まで味見役をやりきった。
親友の幸せは自分の幸せ。紫が誰かのことを大切に想い、その誰かのために頑張りたいと言うのなら、幽々子も全力でそれを手伝う。
数日のあいだ不味い料理を食べ続けたのは苦痛だったが、ようやくまともな腕前になった紫が喜びながら「ありがとう」と言ってくれただけで頑張った甲斐があったというものだ。
「あとは二人の仲が上手く行ってくれれば十分……」
――――ふざけないで!!
突然響いてきた大声に、机を囲んでいた面々は顔を上げた。
激しい怒りを含んだ叫びに全員がそんなまさかと呆然としていると、続いて廊下から大股で歩く重い足音が聞こえてくる。
「ちょ、ちょっと失礼します」
衣玖は気が気でない思いをしながら襖を開けると、ちょうど奥の部屋からやってきた天子が通り過ぎるところだった。
驚いて身を引いてしまう衣玖の前で、天子の後を追ってきた紫がやってきて手を伸ばした。
「待って天子!」
天子は悲鳴にも似た呼びかけを受けながらも、固い背中で無視して玄関に置いていた靴へ乱暴に足を突っ込み、音を立てて扉を開き出ていってしまった。
開けっ放しの玄関を見て紫は伸ばしていた手を力なく下げ、途方に暮れて立ち尽くす。
とんでもない場面に空気が凍りつくなか、衣玖は自分の立場を思い出して青い顔で藍たちに振り返った。
「わ、私は天子様を追います。なんとか宥めて連れてきますから! 紫さんもそう落ち込まないで!」
慌てて部屋を飛び出して、すれ違いざまに紫にも声をかけると衣玖も玄関から出て扉を閉めた。
凍りついた表情で橙と妖夢の横で、藍は手で顔を押さえた。
「ああー……こうなってしまったか」
紫が暴走気味なのもあって、空回りして失敗するのではと少し予感していたが、天子の態度からして想像よりも悪い方へ転がってしまったようだ。
この場合に問題なのはと、藍は手の下から目を開いて、紫ではなく机を挟んで向かい側に座っていた幽々子を見た。
「――――――」
真っ白で表情に激しい怒りを浮かべる亡霊がそこにいた。
天子が親友を悲しませたことに許せないと感じており、その激情に幽々子の周りの空間が歪んでいるようにすら思う。
物言わぬ威圧感に、橙などは小さく悲鳴を上げて藍に縋り付いた。
幽々子の顔の横に、ふわりと蝶が浮かぶ。
「幽々子様、能力が漏れています。ご自重ください」
ある程度、主の性質を心得ていた妖夢が、冷静な声で指摘するが幽々子の態度は変わらない。
これはいけないと誰もが思う。幽々子は怒りのままに天子を殺す気だ。
「幽々子、早まった真似をしてくれてはダメよ」
しかしそれを察した紫が、廊下から振り向きもせずに声を掛けてきた。
それを聞いた幽々子が眉をひん曲げて悲しそうな顔を紫に向ける。
「でも紫」
「これは私が無遠慮過ぎたせいよ。浮かれすぎたわ」
幽々子は納得が行かないようであったが、紫から背中越しに静かに言われ、仕方なくと言った様子で発現した蝶を消し去る。
「……わかったわ。でも私にできることがあったらなんでも言ってね」
「ええ、ありがとう」
ようやく振り向いた紫は、精一杯取り繕った笑顔で感謝を口にする。
しかしショックなのは間違いなく、すぐに影のある表情でため息を吐いた。
「なんだか疲れてしまったわ。藍、布団の用意をお願い」
「はい、かしこまりました」
そう言って紫は自室へと廊下を歩いて行く。
主からの頼みを聞いて藍が立ち上がったが、客人である妖夢もそれに続いた。
「なら私はお風呂の準備をしておきます。幽々子様、今日は泊まって行かれますよね」
「そうね、そうしようかしら」
「それじゃあお願いしようかな。橙、お前は夕食の後片付けを頼むよ」
「は、はい、わかりました」
藍もこの申し出を断りはせず、どこか影のある表情で佇む幽々子と二尾を揺らして机の上を片付けていく橙を残し、二人は部屋から出て襖を閉めた。
並んで廊下を歩きながら、妖夢が口を開く。
「幽々子様は、悲しむことに臆病ですね」
短い言葉は実に的を得ていると藍は思った。
「私が言っても幽々子様は止まらなかったのに、紫様が言えば怒りを収めた。私が、幽々子様のそばにいる意味はあるんでしょうか……」
「あるさ。それを言うなら私だって紫様の全てを支えられているわけじゃない」
己の意義に迷い弱きな言葉を口にする妖夢を、藍は冷静に励ました。
「幽々子様の存在は紫様にとって心の支えだし、萃香は私や幽々子様が言えないことを言ってくれる。橙もまだまだ子供だがあれで重要な役割がある。妖夢も、幽々子様のためにお前にしか出来ないことを立派に務めてるよ」
「そうでしょうか」
「そうさ。むしろ私は凄いと思うよ、紫様に依存しがちな幽々子様の懐に、潜り込めたのはお前くらいだ」
相談もそこそこに妖夢は藍から別れて浴室へと向かい、藍は紫の自室に入った。
広々とした部屋の主は、窓から月が輝き始める様を見てぼうっとしている。
藍が押し入れからふかふかの布団を取り出して畳の上に敷く。
「準備してくれてありがとう」
「どういたしまして……紫様のお料理は、片付けておきますか?」
「いいえ、起きたら私がやるわ、やらせて」
語気を強くする紫に、藍は「ではそのように」と頭を下げる。
「紫様、あまり気に病むことはないです、また仲直りできますよ」
「ありがとう、藍」
励ましの言葉を送ってみるが、今いち効果があるように思えない。
私だけではどうにもならないなと、藍は自虐気味に結論を出し、今はただ従者として出来ることをすると決めた。
「紫様、あちらのほうの睡眠はまだ大丈夫ですか?」
「そうね、そろそろあっち側に戻らないといけない頃よ。明日くらいにはお願いするわ」
「御意」
「もう寝るわね、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
藍が部屋から出ていくと、紫は服も着替えず布団に潜り込んだ。
気が静まらない一方、ショックを受けた心が休みたがっていて、手足の先が鉛のように重く感じる。
悲しげな瞳で見た暗い天井に浮かぶのは、怒り狂う天子の姿。
「……私では彼女のそばにいる資格はないというのかしら」
不思慮だった、というよりも自惚れていた。
自分なら天子の心を癒せると粋がっていた、それがこの結果だ。
この世界に望まれない異物では、彼女を助けることなど出来ないというのだろうか。
妖怪の山で天子が言ってくれたありがとうの言葉が、すでに遥か遠い過去のように感じ、上手く思い出すことができなかった。
◇ ◆ ◇
辺りから虫や蛙の声が聞こえてくる。
新月の夜は妖怪も大人しくて、一人きりになった天子は霧の湖の辺りに膝を抱えて座り込み、自失呆然としていた。
「……またやっちゃった」
紫に吐いた酷い言葉を思い出し、天子は膝の間に顔を埋める。
「まだ許せないなんて」
紫が自分のために料理を作ってくれたことは素直に嬉しかった、幸せを感じられた。
だが紫が母をやるということだけはどうしても黙っていられなかった。
母の存在を汚されたようで、自分の思いでに残る母の姿すら奪われてしまいそうで、激しい憤りが止まらなかった。
これからどうしたらいいだろう、優しい紫はきっと許してくれるだろうが、自分なんかが紫のそばにいて良いのだろうか。
ずっとこの怒りを抱えたまま一緒にいても、また紫を悲しませるだけではないのか。
それならいっそ、この幻想郷から姿を消してしまったほうが良いのでは、そんなことまで考えてしまう。
「――あなたが、天人の比那名居天子ですね」
落ち込んでいる背中に声を掛けられ、天子は気怠げに顔を上げて振り向いた。
そこにいたのはいつか戦った死神の船頭と、緑色の衣服に身を包んで笏を持った小柄な女性。
緑の少女を見てその正体を看破した天子は、病んでいた精神を引き上げて、神経を集中し眼を鋭くした。
「閻魔が、生者に何の用よ」
「お察しの通り、私は閻魔の四季映姫・ヤマザナドゥ。鬼神長に仕事を回されてここに来ました」
それを聞くやいなや、天子はその場から飛び上がり逃げ出した。
湖の上空に出て霧に紛れようとしてところで、一瞬で目の前に現れた小町が大鎌を振るう。
「遅いねっ!」
凶悪な刃が迫るのを、緋想の剣から展開した気質でなんとか防ぐ。
服の肩を切り裂いた鎌が、肌に冷たく押し当てられるのを感じて、天子は危機感を覚えながら大鎌を押し返した。
「ちぃっ、船頭風情が!」
そのまま小町に距離を詰めて切り返そうとしたのだが、飛び込んだつもりだったのにほんの少しも前に進んでいなかった。
とてつもない違和感に押し潰されそうな天子が、今度は背後に飛び退ってみようとするが、これもまったくその場から動かない。
手足が動かないわけではないが、自分の位置だけはまったく動かせない、冷静でいようとしながらも困惑を隠しきれない天子に、小町は笑って距離を離した。
「もう無駄さ、あんたはもう何処へもいけない」
死神は大鎌を背負い、軽やかに映姫の隣に降り立つ。
天子はあらゆる方向へ飛ぼうとしてみるが、上下左右前後、どちらへ行こうとしてもその場から移動できなかった。
ならばと要石を作り出して小町に向けて撃ち放ってみるが、回転して突き進もうとする要石はほんの数ミリしか前に進まない。
それなのに何故か要石と離れていく実感があり、距離が離れすぎて天子との繋がりが切れた感覚がすると、要石はようやくその場から動いて湖に零れ落ちた。
「私の能力で、あんたの周囲の距離を弄った。周りの空間は三途の川の長さと同じだ、越えようとも越えられないさ」
魂を運ぶ三途の川の渡し人として小町に与えられた距離を操る能力、本来はその者の罪の応じて川の長さを変化させるためのものだ。
ならば天子の周囲の空間は今、天子自身の罪に応じた距離を持っていることになる。なるほどちょっとやそっとじゃ動けないわけだ。
無の牢獄に囚われた天子は、空から映姫を見下ろして吠え立てた。
「閻魔が生者に干渉して、目的は何!?」
「概ねお察しのとおりです。鬼神長に頼まれて、あなたの頭上の華を枯らせに来ました」
閻魔の返答は、天子が予想していたこととピッタリ一致していた。
天子は差し迫った身の危険に険しい顔をする。精神的に最悪なこのタイミングで殺しにかかられたことは非常に拙い。
今の精神状態では全力を発揮できないし、それにこの二人、今までに天子が戦ってきたどのお迎えよりも強力だ。
まずは能力で囚われたこの状況をなんとかしなければと、天子は体の奥から湧き上がる気質を剣に集めた。
「だったら、こいつはどうよ。緋想の剣!」
「だから無駄だって」
さっきの要石のように進むことができないと高をくくっていた小町が口笛を吹く。
しかし剣先から放出された気質の閃光は、引き伸ばされたはずの空間を物ともせず直進し、油断していた小町の鼻先に熱気を浴びせかけてきた。
「ウッソぉぉおおお!?」
小町が悲鳴を上げながら後ろに倒れ込んで、紙一重で気質のレーザーを避ける。
意図せずして奇襲になったようだが、残念ながら失敗に終わった。
派手に尻餅をついた小町は、閻魔から白い目で見られているのに気がつくと、慌てて身を起こして警戒を強める。
「数千キロはあるはずなのに、一瞬で飛び越えてくるなんて。厄介だね想いってのは!」
「構いませんよ小町。本人が動けなければ後は問題ありません」
一方、閻魔は一切動じず、何事も受け止めるその精神性は見事なものだった。
こいつを出し抜くのは難しそうだなと、天子は苦虫を噛み潰す。
「……とは言え、妨害はご遠慮願いたいですが」
映姫がそう言うと同時に、近くの草むらから緋色の衣が雷を纏って躍り出て、閻魔に差し迫った。
回転し先を尖らせた衣のドリルを、小町が今度は冷静に大鎌で弾き飛ばす。
攻撃を防がれた何者かは、羽衣を揺らして天子の前へ庇うように躍り出た。
「衣玖!」
「すみません、遅くなりました……が、どういう状況でしょうか」
天子を窘めようと追ってきたはずの衣玖だったが、待っていたのは想像より遥かに混沌とした状況だった。
とりあえず間違ってたら後から謝ればいいの精神で奇襲を仕掛けてみたが、案外間違った判断でもなかったらしい。
「鬼神長のお使いで私を殺しに来たんだと」
「ああ、やっぱり。楽しいだとか言ってられそうにありませんね」
「同感、こいつらはちょっと厄介だわ」
衣玖は周囲の空気の流れからして、天子がその場に釘付けにされていることを察した。手助けが必要そうだ。
この状況で優先すべき目標は何かで、死神の横にいる固い顔の少女だと当たりをつける。
小柄な少女から漂ってくる底知れないプレッシャーと信念、彼女を天子に近づけてはいけない。
「――邪魔はさせないね!」
衣玖が戦闘態勢に移ろうとした一瞬の隙に、小町が割り込んできた。
船頭にとっては本来は飾りに過ぎないはずの大鎌が振るわれ、衣玖の胴に迫る。
衣玖はすかさず羽衣を操り、ひらひらした布切れのはずのそれで刃を受け止めた。羽衣に傷はなし、龍神から賜った品物にこの程度の攻撃は通用しない。
「衣玖! あんたは死神の方に集中しなさい。一対一でそいつを倒すのよ」
「しかしそう簡単に行きますか!?」
衣玖が刃を捉えたまま大声で言葉を返す。
会話をしながらも、同時に大鎌から電撃を流し込もうとしたところで、小町はそれを察して衣玖から離れていってしまった。
「向こうは誘いに乗るわ。閻魔のやつは、私と立ち会えればそれでいいみたいだから」
天子の推測では、小町の能力も天子の位置を固定するためにリソースのほとんどを割いている。衣玖が挑めば逃げずに立ち会うしかないはずだ。
「……わかりました、ご武運を」
衣玖はそう言い残して映姫を無視して小町にだけ敵意を向けて飛び掛かって行った。
「よーし来なよ、簡単すぎても退屈だしね!」
小町もそれについては都合がいいらしく、薄く笑うと映姫から離れるように立ち回りながら衣玖に応戦する。
天子の予想通り、やはり小町は衣玖との戦闘で距離を操る能力を使用していないようだ。これなら衣玖もそれなりに早く決着を付けられる。
なら自分がやるべきはそれまで生き延びることだと、映姫を見定めて闘志を引き出した。
「私を殺そうだなんてね、閻魔の癖に生者を裁くのか!」
「私はあなたを殺しに来たのではありません。説教に来たのです。そして裁くのは私ではなく、あなた自身ですよ」
「同じこと!!」
天子が緋想の剣から気質の弾丸を放出する。
様子見の牽制だが、映姫もそのことはわかっていたようで僅かに位置をずらされただけで避けられてしまった。
地面に着弾した気質が砂埃を上げる隣で、帽子が飛ばないように押さえた映姫はこちらを見上げてくる。
「なるほど、気質の扱いについては素晴らしい才覚です。しかしその使い方を間違った」
地獄からのお迎えが天人を殺しに来る場合、基本となるのが言葉での精神攻撃だ。
人間の枠組みを超えた天人はその存在の比重が大きく精神に偏っているため、精神の衰弱は死につながる、その上、天子の扱う気質は感情によって威力が左右されるため精神状態の安定は余計に重要だ。
何を言ってくるのか当たりをつけた天子は、飲まれないようにと気を引き締めた。
「あなたの罪の一つ、かつて異変を起こす時に多くの幽霊を斬った。地震を起こす、ただそれだけのために」
「それがどうしたぁっ!」
自らの罪を啓示されても、天子は怯むことなく緋想の剣を振るった。
たった今、映姫に言われたことなどとっくの昔に天子の中で決着が付いた話だ、その程度のことで戸惑う心などない。
拡散する気質が敵とその周囲を飲み込もうとした時、映姫は懐から出した手鏡を飛来する弾幕とかざした。
それは浄玻璃の鏡と言う罪人の過去を映すという道具だ。本来なら死後の裁判のために使う道具であるが、映姫から力を注ぎ込まれた鏡は特殊な力場を前方に形成し、術者に飛来する気質を弾き返した。
鏡に映る緋い輝きに、映姫は天子の過去を垣間見る。
外れた気質が地面を掘り返し土砂を巻き上げる中で、無傷の映姫が佇んでいるのを見て天子は舌打ちした。
「それが悪いこと? 罪なこと? そんなの全部わかってやったのよ、前へ進むためにそうせずにはいられなかった。反省はしても後悔はない!」
「自らの心を偽ることもまた罪なことですよ」
威勢よく啖呵を斬る天子だったが、映姫は冷徹に心の隙を突く。
閻魔が持つ、こちらのあらゆる核心を識るかのような眼差しに、天子は腰が引けるのを感じた。
「確かにあなたには必要なことだったかもしれない、しかし後悔もまた僅かなしこりとして残っている。振り切ろうとするのは立派ですが、いささか急ぎすぎる。それでは自身も周囲も傷つけてしまう」
「うっさい、余計なお世話よ!」
自分でも目を逸らしてた恥部を指摘され、今度はつい羞恥から叫んでしまった。
言われてみればそうかもしれない、気にしない振りをしていただけの過去の行いを後悔していたのだろう。
だがなんと言われようと、あの時の天子の行動は致し方なかったことだ。どれほどの非道であろうと、自分が辿る道はそれしかなかった。
ならば反省も後悔も認めるだけだと精神を立て直す天子だが、映姫は口を閉じず責め立てる。
「あなたは長く生きすぎた、1200年は長すぎる。それだけ生きてあなたは何を成したのですか、ただ惰性のまま暴れ狂ってばかりで新たなものは何も生み出せてはいない。世界のリソースは限られていて、常に最新の命に割り振られるべきもの」
「そんなもん知るか! 私はまだまだ物足りないのよ!」
何も知らずにのうのうと語る閻魔に、否、すべて知りながら語っているからこそ、天子は喉を震わせ怒声を響き渡らせた。
苦しみを抱えて歩き続けた過去を想起させられ、空虚な人生に激しい怒りが沸き立った。
天子は緋想の剣を前方に掲げると、己の内から気質を取り出して剣へと集中させる。
気質を集めた緋想の剣は回転を初め、膨大なエネルギーが緋い光を放つ。
「私の人生はもっと楽しいもののはずだった! 幸せに溢れてるはずだった! それを、それを取り戻そうとして何が悪い!」
鬼気迫る咆哮、望んだ未来を渇望する無垢なる輝きが、剣に重ねられた。
挑むは窮地、望むは極光、発現されるのは天道を行く比那名居天子の底力。
「全人類の緋想天!」
天子が持ちうる最大の攻撃が辺り一面を覆い尽くし、夜の闇を照らし出す。
無秩序に奔り世界を穿つ閃光が、映姫はもとより遠方で戦っていた衣玖と小町のところにまで届いた。
「うおっと、暴れん坊だねあんたの主人は!」
辺りを侵掠する緋い輝きに、小町が戦闘を一時中断し冷や汗を掻きながら身を翻した。
衣玖は天子から流れてくる威圧的な空気を感じ取り、優雅に飛び回って天子からの攻撃を避ける。
「その通り、なんにも我慢ができない我侭娘。ですが綺麗でしょう?」
「酔狂だねぇ、あんたも」
一面を覆う暴威を前にして、映姫も続く言葉を打ち切って回避に徹した。
鋭い気質が刃のように飛び交い、閻魔の頬に僅かな切り傷を作り上げる。
放出されたエネルギーは驚異的な量である、だがこんなものは見てくれだけだ、怒りだけの杜撰な攻撃など冷静になれば避けられないものではない。
映姫が飛び交う閃光の間を縫って飛び続ければ、感情的に放出される気質はあっという間に底を突き、第一波はほどなく終了した。
肩を上下させ荒い息を吐く天子に、再び映姫が口を開く。
「そうやって我欲のまま貪るつもりですか。それだけの時間を無為に過ごしたあなたが、今更何かを成し得ると?」
「何もできなかったからこそ、こんなところで止まれない。これからよ!」
反論する天子はもう一度剣を掴み気質を溜め始めた、集中された気質により刀身が震え空気を叩き甲高い音を響かせる。
長過ぎる空虚の欠落を埋めるほどの成果を、生きていてよかったと思える何かを。
ただ前へ、ただ前へ、その一心で道を切り開く。
天子の本質、あらゆる苦痛苦難の中で置いてもなお前へ進もうとする意思。
母を喪った悲しみも、父に殴られた苦痛も、紫と出会って感じた苦悩も、この意思だけは止められなかった。
だからこそ天子はここにいる、まだ先へと無限に進み続ける。
「私は、この場所で、もっと幸せになってやるんだから!!」
握りしめるのは誰もが持つ他愛ない願い、光を帯びた眼が未来を見据える。緋想の剣がより多くの気質を与えられ強く光り輝いた。
もっと先へ、もっと前へ、がむしゃらに――
「そしてあなたの最大の罪は、己の仇を騙していることです」
だがその言葉に、心が足を止めた。
気質の高鳴りが音を止める、僅かに剣先が下がり天子は半開きの口から言葉を返せず、瞳を揺らした。
遠方の衣玖が話し声は聞こえないまでも不穏な空気が漂いだすのを感じ取るが、天子の攻撃が止んだことで再び死神との戦闘が再開し、助けに入る余裕はなかった。
「許せてもいない相手を憎んでいないかのように振る舞い、己の醜さをひた隠しにして八雲紫に近づいた。そして今なお本心を隠し、彼女の気持ちを蔑ろにしている」
「あんたに、何が……」
「母を殺された気持ちなどわかりませんとも。しかし罪は罪、変えられない事実です」
閻魔の一言一言に天子は心が締め付けられるのを感じる。
抗いようのない罪悪感が脳髄で暴れまわり、眉を歪めて奥歯を噛みしめた。
「許そうとっ……したのよ私は!」
それが精一杯絞り出した言葉だった。
「私を許してくれたみたいに、私もあいつを許せたら良いって、お互いに笑い合えたら一番いいって思って!」
「それが愚かだというのです。それは自らの意志で選んだのでなく、ただ感情に流されたに過ぎない。憎むよりも許すよりも、その道が一番楽だから、それらしい名分にかこつけて憎む醜い自分から逃げただけです」
「そんなことない!」
紫を許したい、それは本心のはずだった、そのつもりだった。
だというのにどうしてここまで心がかき乱されるのか。
いやわかっている、もう天子の心を気付いてしまっている、だが気持ちがその事実を無意識下に押し込もうと反発する。
激しく狼狽し、子供の駄々のような悲鳴を上げる天子に、極めつけの一言が放たれた。
「ならば何故その剣を捨てないのです」
閻魔の指摘に身体を震わせ、手に握られて緋想の剣を見下ろす。
「その剣は元々、八雲紫を討伐するために作られた代物。本当に彼女を許したいというのなら、剣を捨て、お互いの罪を清算して始めてその可能性が生まれるというのに。心に刃を隠し持って、顔だけの笑顔で抱きしめたところで傷つけるだけ」
瞳が揺れる、涙が滲む。
不明瞭になった視界のなかで、緋想の剣の輝きがぼやけていく。
気質の集中が途切れる、想いが手の平から零れ落ちる、道が途絶える音が聞こえる。
「武器を捨てられないあなたに、憎しみを捨てることなど出来はしない」
天子の手の中で、緋想の剣が刀身を解き、すべての気質が霧散し消え失せた。
あらゆるエゴを剥ぎ取られ、裸の心になった天子は涙をこぼし声を震わす。
「わたし……わたしは……」
自分がしてきたことは何だったのだろうか、すべては間違いだったのだろうか。
誰も彼も傷つけただけなのだろうか、生きてきた意味などなかったのだろうか。
「天子様!?」
「だーかーら、行かせないっての」
いよいよ追い込まれた天子に、衣玖は助けに入ろうとするがたどり着けない。
大鎌をいなしながら、声を贈るのが限界だった。
しかし、今の天子に何を言ってあげれば良いのかわからない。
「天子様! しっかりして下さい、そいつの言葉に耳を貸さないで、天子様!!」
ずっと気持ちを隠してきた天子の心に、助け舟を送れるものはいなかった。
天子はもはや自己を保てず、小町の能力で固定されなければ空を飛んでいることもできず落ちているところだった。
緋想の剣も、要石も、何も生み出せれず、呆然と映姫が浮かび上がるのを見上げる。
「さあ判決を下す時です、審判はあなた自身。生きて醜態を晒すか、死を持ってすべてを償うか」
映姫が悔悟棒を振り上げる。
すでにその笏には天子の罪が記されており、それで叩かれたが最後、罪に応じた罰が与えられる。
掲げられた忌々しい悔悟棒を、天子は泣きながら睨みつけた。
私はもう何処へも行けないのか。
行き先なんて初めからわからなかった、ただどうすることもできず迷いながら生きてきた。
母が死ぬ時何もできなかった、父の心を救うこともできなかった。無意味だったと言われれば否定するだけの自信がない。
でもこれからだって思えたのは確かなのに、紫と出会ってぶつかって、生きることを楽しいと思う気持ちも奪った相手を憎む気持ちも、すべての感情を取り戻してようやくこの地を踏みしめて歩き出せたのに。
「比那名居天子に問う、その天道、是か非か!」
映姫から初めての直接攻撃。天に向けられた悔悟棒が振り下ろされ、天子の頭上に迫った。
狙いは帽子の桃、天子にとっての頭上の華。これを散らされることは天人の五衰である頭上華萎であり、死への門を潜ることとなる。
自分には、まだやるべきことが残っているというのに、握りしめた緋想の剣は沈黙したまま。
これで終わりなのかと、開いた口からは叫び声も出せないまま――
「――それはさせられませんわ」
天子の代わりに話すかのように、澄み渡った声が差し込まれた。
背後からしなやかな手が扇子を持って伸びてきて、天子の頭上で悔悟棒を受け止めた。
罪の重さに扇子が軋み音を立て、空気が重く震えるのを腹の底で聞き届ける。
振り返った天子の目に映ったのは、誰よりも彼女が心動かされ、惹かれ求めるあの微笑み。
「紫……!」
八雲紫が、泣いた天子を背中から護るように、力強く包み込んでいた。
◇ ◆ ◇
天子と喧嘩別れをしてしまった後の紫は、布団の中で泥のように眠っていた。
本来なら、このまま時間が過ぎるのを待つだけだっただろう、だがこの日の紫は現実ではなく夢の中で目を覚ました。
「夢? この私が……」
開いた目に映ったのは、柔らかな不定形の暗闇。いつも境界の隙間に戻る時に出てくるようなものではなく、どこかぬくもりを感じる。
広大な空間は紛れもない夢の世界、異界に浮かぶ身体を自覚し、紫が静かに驚いた。
動物や人間に限らず、妖怪までもが夢を見る。眠りの中で、夢という空間を通じて他者と繋がる。
だが紫には縁のない話だった。
「おやおや、こういった形であなたと会うとは珍しいですね」
紫が振り向くと、夢の管理人であるドレミーが眠そうな顔で、ピンク色の夢魂を手で揉みほぐしながら浮かんでいた。
「ドレミー・スイート。あなたがここに招いたの?」
「いやいや、まさか。あなたは本来は現実世界での住人ですらない。この世界の体系に含まれていないあなたに夢は与えられないもの、夢はこちらの公共物ですから」
癪だがドレミーの言うとおりだ、紫は今まで他者の夢に介入したことはあっても、自分自身が夢を見たことはない。
自発的にでなく、こうやって自分の意思でないのに夢の中にいるのは初めての体験だった。
夢を見れるようになった、などとは思えない。これには何かしらの理由があるはずだ。
「あなたが誘われた理由は、それでしょう」
考え込む紫に、ドレミーが人差し指を伸ばしてそう言った。
紫は指の指した方に目を向けて、胃の底が熱くなった。
空のように透き通った蒼色の夢魂が、緋い霧を吐き出してそこにあった。
「夢と現の境界を超えて届く想いとは、さしもの私も初めての経験ですね」
まさかと思った、あんな別れ方をした後なのに。
それでもドレミーが言うようなことを成し遂げられるような存在を、紫は一人しか知らない。
彼女が繋がろうとしてくれたのか、あらゆる垣根を超えて、自分という異物に。
「さあ、受け取ってみては?」
目を見開いて押し黙る紫に、ドレミーは至極丁寧に促した。
紫は迷うようにドレミーに振り向いて、半目で笑う彼女の顔を見て自分がその夢を手に取っていいのだと知らされ、ゆっくりと歩み出た。
蒼い夢の前に立つ、漏れ出す緋い霧が肌に熱い。
果たして、自分がこれに手を差し出す資格があるのだろうか。
彼女の想いに触れるのが怖い、あの激情に立ち向かうと自分の存在を試されているような気がして、その結果を知るのが怖ろしい。
もし叶うなら、愛らしい彼女をただ愛でていたい。
だがそうはいられない、何事も普遍のままではいられず、いずれ足元が崩れ落ちるより先に前へ進まねばならないのだ。
自分は天子を知り、共に変わらなければならない。
決心して夢魂に触れる、ゼリーのような柔らかい表層はとても熱く手の平が焼けるようだ。
彼女らしい熱量に、紫は顔をしかめながらも夢の中に手を挿し込んだ。
紫の心に、彼方から声が届いた。
――――私は、まだこんなところで終われない。
まだまだ、納得して死ぬには足りない――
――いや、それよりもまず。
私は、まだあいつに何も伝えられてない!
声が血潮に響き渡り、紫は現実の夜に目覚めた。
◇ ◆ ◇
「紫……!」
自らを抱きしめる紫を見て、天子は驚愕に目を見開いた。
ここでこいつに助けられるなんて、都合が良すぎるなんて思う。
割り込んできた大物に、映姫は目を細める。
「珍しいですね、あなたが自分から私の前に現れるのは」
紫は扇子で受け止めた悔悟棒を弾き、天子の耳元に口を寄せた。
「飛ぶわよ、舌を噛まないように」
そう言って紫はスキマを背後に開いて、天子ごと異空間に倒れ込んだ。
二人の体は湖から少し離れた地面の上に現れる。
「あっちゃあ、あいつが出てくるとはね」
衣玖と戦いながらも状況を見ていた小町が残念そうな声を上げた。
あの妖怪が相手では、距離を操る能力も形無しだ。
「そうのんびりしてられるかな? 来たのはあの方だけではないぞ」
重い声が響き、小町は緩んだ緊張を再び張り詰めさせ、大鎌を持ち上げた。
鉄槌のような金色が回転しながら飛び出してきて、鎌の柄を激しく殴打する。
小町は間一髪で防げたもの衝撃に手が痺れ、現れた難敵からよろめきながら逃げ延びた。
回転を止めて降り立った彼女に、衣玖が思わず声を上げた。
「藍さん! お二人とも来てくれましたか」
「ああ、いきなりで驚いたが、無事で何よりだ」
紫からの要請を受け、召喚された藍が衣玖の横に並んだ。
絶望的な状況から一気に逆転し、衣玖の顔が安心して綻ぶ。
紫がいる以上、小町の能力で天子が束縛されることもない。四対二の現状、もはや負ける可能性は皆無だろう。
だが助け出されたはずの天子は、信じられないという表情で紫の顔を仰ぎ見た。
「紫、どうして……」
「言ったでしょう? あなたの邪魔をして良いのは私だけだと」
呆然とする天子に、紫は笑いかける。
「あなたが間違った道を往こうものなら、それを塞いでみせますとも」
天子たちの周りに、衣玖と藍が降り立って並んだ。
同様に、映姫と小町も肩を並べ地面の上に降り立つ。
紫が天子から目を離し余裕をもった表情を閻魔に向けると、その横に藍が並ぼうとした。
「紫様、お供します」
「いいえ、無用よ藍。手出しせず、見ておいてちょうだい」
しかし紫は手をかざしてそれを止めると、拍子を抜かれた藍を置いて一歩進み出た。
ここから力づくで映姫たちを追い返すのは簡単だ、だがそれで済ませていい問題とは思えない。
力による排他は恨みを残す可能性もある、眼の前の閻魔はそんなことを引きずるタイプではないとわかっているが、それでも本当に天子のことを想うならそれ以外の解決策を探すべきだ。
遺恨を残すような真似をして天子にあまり業を背負わせたくない、穏便な方法で決着が付くならそれに越したことはない。
「四季映姫・ヤマザナドゥ様に妖怪の賢者として申し上げます。比那名居天子は幻想郷にとって必要な人材、どうかこの場はお見逃しください」
「私に嘘など見苦しいですよ。本音を言ったらどうです」
分が悪いにもかかわらず、映姫は一歩も退くことなく言いのけた。
「建前など不要、必要なのはあなた自身の願いです」
あらゆる飾りを捨て、紫に胸の内を語れと命じてきた。
その態度を見ていた天子は、紫を馬鹿にされたような気がして、頭に血が上るのを感じる。
しかし紫は気に留めた様子もなく、余裕ぶった表情をきつく締めた。
「――ならば率直に言いましょう。天子は、私にとってかけがえのない存在、どうか彼女の華を摘み取らないでください」
紫は躊躇することなく地面に膝を突き、野の上に正座した。
いきなりの行動に驚く面々の前で、指を伸ばした手を地面に置き頭を下げ、平伏した。
「どうか、お願い申し上げます」
天子は土下座する紫の姿に愕然として、衝撃で身体が崩れそうだった。
自分が紫にこんな無様な姿をやらせているという現実を受け止められず、表情を歪めて顔を背ける。
だがそんな天子の肩に衣玖が手を置いて囁きかけた。
「天子様、目を離してはいけません」
衣玖が逃げるなと言い聞かせてきて、言葉の辛さに天子は悲鳴を上げたくなる。
「紫さんの想いを、受け止めるんです」
嗚呼が漏れそうなのを押し殺して、天子は紫にもう一度顔を向けた。
藍は、主とその最も新しき友人を、じっと見守っている。
対する閻魔は一切動じることもなく、死神が驚く横で相変わらず石のような表情だ。
「八雲紫、あなたがこの幻想郷での自由を得ているのは、神々に逆らわずにいるからです。私に対する態度いかんによっては、龍神もあなたに対する認識を変える可能性がある。そのリスクを犯してまで、彼女を庇うのですか」
「私の想いは変わりません。私は、天子を護りたい」
映姫が石なら、紫は岩のような頑固さだ。
脅しにも屈せず、頭を下げながらも天子を守るという意地は決して崩さない。
頼み込んでいるというのにまるで見上げるような巨大さを感じる土下座を前にして、映姫は硬い表情のまま思考を巡らす。
本来ならばいくら頼み込まれようと、仕事を決着が付かぬまま投げ出すようなことをこの閻魔はしない。
だが今回、四季映姫は仕事ではなく説教のつもりできた、そして説教とは何も相手をこき下ろすためにするものではない。
"相手の人生をよりよいものにするためのもの"が説教なのだ、そして映姫は言葉の無力さをよく知っている。
どれだけ正論をぶつけようとそれだけでは人は変われはしない、成長に必要なのはそれ以外にその人の心を埋めるものが必要なのだ。
ならば、今の比那名居天子にとって必要なものは言葉か、紫の想いか。
わかりきった問題に、ため息をついて天子を見つめた。
「比那名居天子、自分のために頭を下げられる者はいますが、他人のためにそれができる者は少ない。そのことを覚えて感謝するように」
映姫はそれだけ言って、頭を下げる紫に背を向けて歩き出した。
死神を連れて去る姿に天子は妙な憤りを感じて、黙らずにはいられなくなった。
「な、なんなのよあんた偉そうに! 私を殺しに来たんでしょ、やってみなさいよ! まだ終わってないわよ、言い逃げなんて卑怯よ!」
「天子様、落ち着いて!」
天子は無茶苦茶だった、自分でも何を言っているのかわからなかった。
ただ母を殺した妖怪が自分のために行動してる姿が矛盾して、その重たさを放り出したくなったのだ。
天子の愚かさにも、映姫は動じない。
「そうやって、親しき人の気持ちを受け取らないのも罪ですよ。そして私は、殺しにきたんでなく説教に来ただけです!」
ここにきて初めて、映姫は声を荒げた。
固かった表情を不機嫌そうに変えて、笏を振り回し小柄な身体で怒りを表現する。
豹変した態度に、天子だけでなく衣玖と藍まで面食らって、呆気にとられた顔をする。
「私が趣味で説教しただけで悔いて自ら死ぬような軟弱な天仙が多かったから、こうやって業務外の仕事を押し付けられてますが! 私は一度として能動的に生者を殺したことはありません!」
「まあまあ、映姫様落ち着いて……」
「そもそもあなたが仕事をサボってばかりだから、閻魔をクビになりかけて、こんなことをすることになってるのじゃないですか!」
「へ、へえ、その……すみません」
映姫の言うとおり、小町が原因で揃ってリストラに遭うところを、人手不足だからと天仙への地獄の使いという名目上の仕事を与えられ、成否に問わずとりあえずは仕事をしているという事実を作らせて貰い、なんとか首を繋いでいるのだ。
「今回の仕事も、私が説教してついでに華を枯らせられるならそれでよし、無理なら無理で構わないのです」
興奮して鼻息を荒くしていた映姫は、気を落ち着けさせると今一度姿勢を正す。
「そういうわけで、私はこれで帰ります。せいぜい反省することです、それでは」
「じゃあね、また会ったらよろしく頼むよ」
映姫だけでなく、小町もお気楽そうな別れを告げその場を離れた。
二人が歩いて行ってからしばらくして、ようやく紫は重い頭を上げてゆっくりと身を起こす。
「…………紫」
振り向いて笑いかけてきた紫に、天子は胸を締め付けられる。
あんな屈辱的なことをして、それでも笑ってくれることが、申し訳なくて苦しかった。
「わ、私は、助けて欲しいなんて頼んじゃ……」
その笑顔から逃げ出して、心にもない言葉を吐こうとする天子に、紫は右手を服で拭いてから伸ばした。
怯えて身をすくませる天子と帽子のあいだに手を滑り込ませ、子をあやすように優しく撫でる。
「あなたが無事でよかったわ」
ただただ天子を心配する慈愛に、天子の幼稚な反抗心はすべてを拭い去られた。
泣きそうな顔で押し黙るしかない天子に、紫は少しだけ困った顔をする。
紫としては、そんな顔をしてもらうために助けたわけじゃないのに、ただ嬉しいと言ってくれればいいのに、と少し思う。だがそれは高望みなのだろうか。
何にせよ天子を助けられたことは事実だ、満足感に浸る紫に藍が歩み寄った。
「お疲れ様です紫様、立派でしたよ」
「ええ、藍も突然呼び出してごめんなさいね」
「構いません。あなたの大切な方の為ですから」
こちらもこちらでまるで譲らない態度で、それが頼もしくて紫は苦笑した。
「さあ、天子、今日は疲れたでしょうしうちに泊まっていきなさい」
「で、でも……」
「反論はなしよ。ゆっくり休んで気を落ち着けなさい」
今の天子を一人にするのは不安だ、家に帰っても家庭に安心はないだろうし、それならまだ自分たちの家に招くほうが良いのではと紫は判断した。
とはいえ、天子にまた激しく突き放されるのではと一抹の不安もあった。
内心怯える紫の前で、天子は力なく頷いて、消極的にだがこれを受け入れた。
◇ ◆ ◇
霧の湖から離れたところで、小町は肩の上に鎌の柄を担いで歩きながら、前を行く映姫に話しかけた。
「残念でしたね、あともうちょっとでボーナスだったのに。あの天人も運がいい」
「運も実力の内です。まだ死ぬ時ではなかった、ということなんでしょう」
悔しさを持たない映姫の澄ませた横顔を、小町は興味深げに覗き込む。
「おや、あのスキマ妖怪が来たのは偶然ではないと?」
「かもしれません、あるいは彼女が来なくてもどうにかなったでしょう。生き残る人というのはそういうものです」
「それじゃあの妖怪がせっかく助けに来たのに意味がないですね」
「そうでもないですよ。きっと意味はあります」
映姫の口調は一見するとお固いが、長い付き合いの小町には穏やかなものに聞こえた。
失敗に終わったと言うのに、この上司がこんなに機嫌が良さそうなのは珍しい。
「なんだか、あれだけ説教したのに生き残って嬉しそうですね」
「嬉しいとは違いますが、期待はしています。そもそも罪がない命など存在しない、みな等しく罪を背負い、その罪を贖うために生きている」
「では、どうすれば生きながら罪は償えるんですか?」
小町は尋ねながらも、自分なりに返ってくる答えをいくつか予想してみた。
きっと善行のうちの何かだろうが、それほどまでに罪を償えることとは一体何なのか。
オーソドックスにお金を稼ぐことだろうか、あるいは子を産むことかもしれない。
しかし映姫から語られたのはそのどれでもなかった。
「誰かを愛すること、それが最高の罪滅ぼしですよ」
堅物閻魔が出したロマンチックな言葉に、小町は思わず笑い声が零れた。
そんなことを伝えたいがために、あんな説教をするしかないとは。
自らの性格に縛られる閻魔の不器用な思いやり、他のものにはとても疎ましいものとして映るだろうが、小町だけはそれを愛おしいと思っていた。
「では私からも一言をば。映姫様、あなたはいささかお硬過ぎる」
「むむっ」
図星を突かれた映姫がむくれっつらで唇をへの字に曲げる。
「まずはその愛を自らが実践してしかるべき……ということで私も映姫様からの愛がほしいなー、と。具体的に言うならアルコールとか」
「露骨ですよ小町、謙虚さを覚えなさい」
呆れてジト目で似た見つける映姫だが、こんな不器用な自分についてきてくれる物好きは、このお調子者くらいなのだ。
自分を見限らず付いてきてくれる部下に、映姫は感謝をの気持ちを思い出し、表情を和らげて頷く。
「まあいいでしょう。さっきの仕事が終わったら好きにしていいと言われてますし」
「やったあ! へっへっへ、映姫様と飲むのも久しぶりですね」
「あなたが仕事をサボらなければ、もうちょっと機会が増えるんですけど」
「それはまあ、言いっこなしで」
あとはまあ、もっと仕事を頑張ってくれれば文句なしなのだがと、映姫は密かに苦笑した。
◇ ◆ ◇
紫たちの家に戻ってきた天子は、気まずそうな顔で座り込んでいる。
口数の少ない天子の代わりに、衣玖が紫たちに頭を下げてお礼を言っていた。
「ありがとうございます、お陰で助かりました」
「どういたしまして。疲れたでしょう、まずはお風呂に入ってきたらいいわ」
紫は何も気にしていないというふうに、できるだけいつもどおりでいるよう努めた。
背を丸めて小さくなった天子を見下ろして、胡散臭く笑いかける。
「なんなら私が洗ってあげましょうか?」
「子供扱いしないでよ!」
「なら元気が良くて結構、疲れを落としてきなさい」
反発する気力が残っているのなら良かったと、紫は本心から喜んだ。
あとはゆっくり休んでもらうだけ、そう考えていたところに藍が横から口を挟んでくる。
「しかし紫様、二人を泊まらせるにも客室は幽々子様たちが使ってますよ」
「そういえばそうだったわね。まあ部屋は他にもあるし」
「では衣玖は私と橙の部屋で、天子は紫様の部屋で一緒に寝たらどうでしょう」
「ちょ、ちょっと藍!?」
思わぬ進言に、紫が一転して慌てだした。
気遣いなのはわかるが、余計なおせっかいにも程がある。
これには天子も落ち込んでいた顔を上げて声を荒げた。
「な、なんでそうなるのよ!?」
「いやー、いいんじゃないですか、そんな空気ですよホント」
「こら、衣玖まで!」
「まあまあ、助けられた恩返しと思って」
「本人だって嫌がってるじゃないの!」
天子に指差され、紫は戸惑って視線を逸らす。
「いやその、わた、私は嫌がってるわけじゃ……」
「紫さんも、天子様と一緒の部屋で寝たいですよね?」
続けざまに衣玖に問われ、紫は顔を赤くしてしばらく黙り込んでいたが、やがて控えめに首を縦に振った。
「わ、わかったわよ……」
かくして寝床が決定した後は、天子が一番にお風呂に入って身体を洗い、それから浴衣に着替えると布団が二つ並べられた紫の部屋に通された。
入れ違いで紫がお風呂に入ったので、布団の上で枕を抱えて座り込み、一人さっきまでのことを振り返っていた。
紫は自分を守ってくれた。
それに対する自分はどうだ、感情に振り回されて、自棄になって。
何という情けなさだと陰鬱とした気持ちになる、いたたまれなさに逃げ出して一人きりになりたい。
だがそういうわけにはいかない、せめて紫に一言謝らなければと、天子は気落ちしながらも反省した。
紫も今日は夕食の後ですぐに寝ていたこともあり、天子の後でお風呂に入り、汚れを洗い落としてきた。
外で土下座して髪が汚れたのもあるし、何より天子と一緒の部屋で寝るというのだから、身を清めねばと気合が入っていた。
寝間着の浴衣に着替え、湯気を漂わせながら紫が自室に戻ると、浴衣を着た天子と目が合う。
枕を抱えた姿が小動物みたいに可愛いなと思いながら声をかけた。
「あら、まだ寝てなかったの?」
「……お礼言ってなかったから」
天子は当てもなく下を見ると、枕に顎を押し付けて、もごもごと口を動かす。
「今日は色々ありがとう、それとごめん、勝手に怒って」
「いいのよ。私が迂闊だった、気に病むことはないわ」
紫の丁寧な口調からは邪気を感じられず、彼女が本当に怒ったり恨んだりしていないのだとわかり、天子はますます自分を恥じ入った。
自分の間違いを償うにはどうすればいいだろうと考えて、ふと紫に食べさせてもらった料理を思い出した。
「そういえば、さっきのご飯、どうしたの?」
「まだ捨ててなくて机に上に残しっぱなしだけど」
「……食べていい?」
天子が尋ねると、紫は驚いて目を丸くした。
せっかくできるだけ美味しい料理を振る舞えるようにと練習したのに、冷めて不味くなった料理を天子に食べさせる訳にはいかないと、慌てふためいて両手を振り回す。
「い、いやでも、出しっぱなしでお米とかカピカピになってるだろうし! 絶対美味しくないし、無理して食べなくてもいいのよ!?」
「いいの、食べたい」
天子は迷惑かもしれないと思ったが、改めて紫の気持ちを受け止めたいと思った。
頑として言うことを聞かず見つめる天子に、やがて紫が先に折れてがっくりと肩を落とした。
「……持ってくるわ」
紫は立ち上がって部屋から出ると、応接間に料理を取りに行った。
冷たくなった料理を前にして、外界から電子レンジでも持ってきて温め直そうかと考えたが、天子はそういうことを望んでいないように思えてそのままにした。
料理をお盆に乗せ、紫は天子が待つ自室へと戻る。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
畳の上に置かれた料理の前へと天子は腰を動かす。
湯気のないご飯をじっと見つめ、おずおずと箸を手に取った。
白いご飯はやはり水気を失いお茶碗にこびりついていて、苦労して引き剥がして口に入れると、その歯ごたえはいやに硬かった。
お米がよだれを吸って口の中が乾いてきたのを、冷たい味噌汁を流し込んで癒やす。
不安そうに見守る紫の前で、天子が言葉を漏らした。
「……美味しいよ」
「嘘を吐かなくても」
「ううん、美味しいよ」
冷たくて固くて、どれも食べれたものじゃなくて、でもそこには紫の優しさが残っているように感じられた。
幻想の温もりを求めて、天子は一心不乱に箸を進める。
けれどそれが不味いことには変わりない。
紫が自分のために一生懸命作ってくれたご飯。きっとできたてならちゃんとした味だっただろうに、それを自分がこんなに台無しにしたのだ。
そのことに思い至ると、天子はご飯を口に含んだまま、表情を歪めて大粒の涙を流し始めた。
「ごめん……ごめんね、ゆかり……ゆか、紫は、私にこんなに優しくしてくれるのに、私は、何も言えなくて……!」
両膝に押し付ける手の甲に涙が落ち、燃えるような熱さが広がっていく。
冷めたご飯に塩味が混じり、吐き出しそうになるのを必死に飲み下した。
鼻水まで垂らして咽び泣く天子に、見守っていた紫は悲痛な表情で身を乗り出した。
「私が悪いのよ、だから天子は元気を出して」
「違うの! 私は、ずっと黙ってたことが……」
言うのだ、言わねばならない。
このまま黙っていくわけにはいかない、現実と向き合わねばならない。
「紫! 紫は、紫は私の……!」
母を殺した、そのことを告白しようと思うが、言葉が閉じこもって出てこない。
なんとか声を出そうと唇を動かすが、嗚咽が漏れるだけで言葉らしいものは何も言えなかった。
隠し事なんてよくないはずなのに、そのためにこれだけ紫のことを裏切ってしまっているのに言えなかった。
踏み出せもせずかと言って虚勢を貫くこともできず、情けない自分に涙が止まらない。
泣きじゃくる天子の前で、紫もまた心を揺らす。
天子を苦しみから解放してあげたい、抱きしめて甘い言葉で囁いて、自分も知らぬ彼女の罪を許してあげたい、だがそれは場を取り繕うただの偽善にも感じる。
自分もかつて迷った末、天子に自分の秘密を打ち明けた、それと同じ強さを天子にも求めるのは、果たしてエゴなのだろうか。
「……天子、あなたには辛いかもしれないけど、秘密があるというのなら私はそれを聞きたいわ。それが私に関わるものなら尚更よ」
いくつかの選択肢のせめぎ合い、葛藤した紫は何よりも本心でぶつかることを優先した。
良き友として傍にいるためには、それが絶対の条件であったから。
紫の意思を聞き、天子の心が悲鳴を上げる。言わねば紫に嫌われると心臓が締め上げられた。
しかし恐怖が滲む天子の涙を、紫の指が優しくそっと拭った。
世に仇なす妖怪は、か弱い心にあらん限りの思いやりを持って心をぶつける。
「でも、今は言えないというのならそれでもいい。時間が必要ならその時まで待ってみせる」
そばに擦り寄った紫が、天子の手を取って震えを押さえる。
濡れた涙が冷め始めていた手に、再び温かさを与えられ、心を締め上げる恐怖が解されていくのを天子は感じた。
あまりに大きすぎる想いを前にして、なすがままに紫の気持ちを受け取っていた。
「勇敢なあなたなら、いつか必ず打ち明けてくれると私は信じてるから」
天子の迷いを非としながらも、紫はそれを認め受け入れていた。
大いなる優しさに、天子は顔を俯けて甘えてしまう。
今の自分には、まだ伝える勇気が持てない、だがここで終わらせてしまったいい話じゃない。
核心はまだ言えなくても、他に伝えられるものはある。
「……紫、これ」
天子は部屋の隅に脱ぎ捨てていた私服を探ると、ポケットから布で包まれた首飾りを取り出した。
包みと解いて現れた緋い宝石を見て、紫は驚いて声を漏らす。
「あら、これは……?」
「私が、自分で作ったの。この前の妖怪の山で手に入れた材料で作ったわ。プレゼントよ」
「え、わ、私に!? ど、どうしていきなり」
「その、お世話になってるし……紫が宝石に興味なんてあるかわからないけど、頑張って作ってみた」
せめてこの気持だけでも伝えないといけない。
手を震わせ迷いながらも、覚悟を決めて首飾りを紫へ差し出した。
「私も、紫のことは大切だから、これはその証明っていうか確認っていうか……とにかく、受け取って! お願い!」
もはや縋るような声に、紫は打ち震えていた。
天子の怯えた声からは、一緒にいたいんだという気持ちが痛いほど伝わってきて、その感動で思わず涙ぐみながら、贈り物を受け取った。
「あ、ありがとう……! 大切にするわ」
満面の笑みで感謝を口にする紫に、天子はようやく安心することができた。
肩の力を抜いて涙を止めた天子の前で、紫は首飾りを手でいじり、色んな方向から眺めてみる。
透き通った緋色が部屋の灯りを反射させ、キラキラと輝いて素晴らしい輝きを放っていた。
「それにしても、綺麗な緋色ね。どんな宝石……あっ」
贈り物がなんなのか、それを確かめようと知識を洗ってみた紫は、一つの答えにたどり着いて顔をこわばらせた。
「も、もしかしてこれ、レッドベリルじゃ……」
「それ、この宝石の名前……? 聞いたことないわ……珍しいの?」
「希少も希少、ダイヤモンド……金剛石よりもずっと価値がある、宝石の中でも最高峰の部類よ」
レッドベリルとは緋色のエメラルドを指す名だ。
一部の地域で僅かな量しか取れず、大きく育った原石も非常に少なく1カラットを超えるものは殆ど無い。
あまりの希少さゆえに採掘しても逆に採算が取れず、外界ではこれを採掘できた鉱山は閉鎖し、売買も原石のままコレクターの間で取引されるものがほとんどだ。
それがまさかこの幻想郷で見つかるなどと奇跡のような話だ。
宝石から感じる重みが増し、思わず手が震えそうになる紫の前で、天子が嬉しそうに表情を緩めた。
「へへへ、そうなんだ」
「笑ってるけど、いいの? こんな貴重なものを」
「プレゼントって言ったじゃない、返せだなんて言わないわよ」
度を超えた貴重品に紫が迷っているというのに、天子は涙を拭くと緋色の瞳に灯りを灯して笑い飛ばした。
「貴重だっていうならそのほうが良いじゃない。それくらいの物じゃなきゃ、私の想いを映すに足らないわ」
天子から感じる輝きは、この宝石にも負けないくらい美しく、さっきまでどうやって天子を慰めればいいかと考えていた紫のほうが、逆に元気づけられてしまった。
そうだった、この輝きに自分は惹かれたのだと、紫は宝石を胸に抑える。
「言うじゃない、調子が出てきたようで結構だわ」
「ふふん、いつまでもへこんでばっかじゃないのよ」
さっきまで死にかけた子犬のようだったというのに、大したタフネスさで天子は張りのある声を上げる。
「ね、ね、付けてみてよ」
「ええ、もちろんそうさせてもらうわ」
正直待ちきれなずにいた紫は、意気揚々と宝石を首に掛ける。
胸元に零れる緋色を確認して、少し恥ずかしげに天子を見つめた。
「どう? 似合う、かしら……?」
「うん、ばっちり! 綺麗よ紫」
「私と宝石、どっちが?」
「どっちもよ! それとね、もう一つあるんだけど」
意地悪な質問にも満点で答えた天子は、もう一度服をあさるとさっきとは別の包みを取り出した。
訝しむ紫の前で天子が包を開けると、中から出てきたのは紫色の輝きをたたえた同じ形の首飾りが現れた。
「じゃじゃーん! これお揃いの紫水晶版、こっちは私用に作ったんだ!」
光る紫色を、天子は自慢げに見せびらかす。
まさかのペアルックに紫が衝撃的な嬉しさに悲鳴が上がりそうになるが、天子が用意したものはそれ以上だった。
「実はね、この紫水晶の原石を見つけた時、その緋色の宝石とくっついた状態だったの」
「くっついたって、物理的に?」
「うん、多分外界から入ってくる段階で混ざって接合したんだと思う。これはそこから削り出したものを使ってるから、金具の根元にはちょっとだけ緋色の部分が残ってるの。同じように紫へ渡したやつは、根っこに紫水晶が残ってる」
そう言って天子は首飾りを掛けて、紫色の輝きを胸元に垂らした。
緋色と紫色、対象的な二つの色が二人の胸で輝くが、それは本質的につながっている。
そんなふうに感じて、紫は身体の芯を熱くする。
「私たちは相容れない部分が多いけど、それでも一緒にいられるようにって願掛け。これからもよろしくね、紫!」
なんて素敵な願いなんだろうと、紫は穏やかな気持で光り輝く笑顔を見つめていた。
「私からも……ずっとずっと、よろしくね」
愛しくて愛しくて、朗らかに笑う天子の身体を力の限り抱きしめたい、抱きしめられたい、そんなことまで想ってしまう。
でも根は臆病な紫はそこまで行動することは出来なくて、代わりに他の気持ちを伝えた。
「天子、できればまた、この前みたいに眠らせてもらえないかしら?」
自分がこの世界に生きることに引け目を感じる紫の、それが精一杯の甘え方だった。
「眠るって、名前を呼ぶほうの?」
「ええ、そろそろそっちの睡眠が必要なころだから。一度境界を超えてから、こっちに戻ってくるまでまた時間が掛かるけど……」
境界から戻ってきた時の紫は、女としてとても恥ずかしい姿だが、同時にスキマ妖怪にとって最大の弱点でもある。
でもだからこそ、大切な人にこそ見守ってもらい、その時の自分を守って欲しいという欲求が羞恥を越えて溢れ出てしまったのだ。
「いいわよ、やって欲しいんでしょ? 私にやらせてよ」
天子は迷うことなくお願いを聞き入れてくれた。
紫としてはこちら側に戻ってきた直後の醜態を晒すのは恥ずかしくもあるが、それ以上にそんな姿を受け止めてもらえることに喜びを感じずにはいられない。
「それじゃあ、これは預かっておいて」
そう言って紫は首飾りを外して、天子に押し付けた。
「えー、せっかくプレゼントしたのに」
「気持ちは嬉しいけど、向こう側に行ったら身に付けているものは全部無くなっちゃうから」
「仕方ないわね……すぐ戻ってきてよ」
少しぐずる天子の幼心地もかわいくて、紫は顔を綻ばせる。
藍たちに迷惑を掛けないようにと防音の結界を張ると、紫は早速天子の膝に頭を寝かせた。
「ねえ、これって意味あるの?」
天子が紫の目元を隠し、手を握りながら聞いてくる。
「本当はないんだけどね、こっちのほうが安心するから」
「……怖いの?」
「少し。私も向こう側のことは覚えてないから、どうなるのかわからないし」
「……私が付いてるからね」
そう言って天子が握った手に力を込めるのを、紫は暗闇の中でハッキリと受け取った。
天子の存在を感じながら深呼吸して精神を整えると、最後に別れの言葉を告げる。
「おやすみなさい、天子……」
「おやすみ、紫」
それをきっかけにしたように、紫の直下から暗闇が湧き始めた。
前にも一度見た光景だが、やはり慣れないもので天子は寒気立つのを我慢する。
膝元に横たわる紫の身体を、形を持った闇が引きずり込もうとまとわりつくのを、天子は見下ろしながら目を細めた。
――自分が一番大切にすべきものは何だ。
紫は憎い、この憎しみから癒やされたくてあえて近づいたが、未だ彼女を赦せない。
彼女が天子の母親を努めたいと言ったとき、胸の内では怒りが荒れ狂った、その顔を叩きのめしたいと思った。
正直を言えば今でも復讐したい、今ここで紫の首を絞め殺してやればどれだけ気持ちいいだろう。
いや、それよりもいい方法がある、ここで紫が闇の中で眠りにつくのを待ち、彼女の名前を呼ばずに幻想郷を破壊してしまえば、彼女の名を呼ぶ身内を皆殺しにしてしまえば、紫は再び記憶も名もなくし流浪の日々を送るだろう。
紫は不幸になる、誰も救われることなく、すべてが不幸になる。
――こんなものなのか! これが私のやろうと思ったことか! こんなことしかできないのか私は!
――ただ怒りのまま、悲しみのまま、全てを薙ぐ災厄のような生き方しか出来ないのか!!!
かつて胸に満ちた慟哭が自らの気持ちを罵倒する。
その道に行ってはならぬと何かが叫んだ。
本当に大切なものは――忘れてはいけないものは――
目の前の紫が緊張を解いていく、静かにこの世界から抜け落ちようとする姿に、天子は決心した。
天子の背が丸まり、息を漏らす唇が閉じられた。
―――チュッ
静かな部屋に、短い音が鳴った。
垂れ幕のように視界を阻む空色の髪のあいだに、触れ合った淡い桃色の唇を見つめ、天子は無邪気に顔をほころばせる。
「えへへ、大好き、紫」
ああそうだ、忘れてはならないものはこれだ。
憎くても、恨めしくても、それでももう紫の存在は、天子にとってならないものだった。
一緒に遊んでくれる紫、競い合ってくれる紫、軽口を叩き合える紫、寂しい夜に抱きしめてくれた紫。
例え紫が、あの日に狂気で母を殺したあの恐ろしい妖怪の続きであっても、彼女のくれた温かさを天子は信じていた。
「本当は、ムカつくし、恨みだってあるけど……でも、大好きよ……好き、ずっと好きよ紫」
紫の身体は殆どが闇に引きずり込まれ、残ったのは胸部から上だけだ、この声も聞こえていないかもしれないが、だからこそ言えた。
まだこの大切な妖怪には恥ずかしくって面を向かって言えないから、自分の想いに向き合って言霊を吐いた。
消え行く親友を前に目を閉じて、指先に触れた温かさに心を澄ませた。
この熱を忘れるな、肌から感じるこの温かさを忘れるな。
これを手放してしまえばそれこそ自分は道を踏み外してしまう、どこにも行けなくなってしまう。
これこそが本当に自分が求めていたものなのだから。
――――――てん、し。
消え行く紫の口がかすかに動くのを、天子は見逃していた。
――――――――
――――
――
自らの存在が境界を超えて引き戻される間際、天子の言葉はしっかりと紫に届いていた。
まるで夢のような気分だった。時間にしてたった数秒だったが、この幸福は永遠のものだと確信できるような奇跡の瞬間だった。
深淵に身を沈めた紫は、たった今唇に感じた熱量に一瞬呆けて目を丸くし、しかし直後には必死の形相で光を求めて手を伸ばした。
「ま、待って! 待って待って、待って!! まだ――まだ記憶のバックアップが済んでない!!!」
悲痛に叫んだ紫が幻想郷を戻ろうと足掻くが、その爪は何も無いところを闇雲に引っ掻くだけ。
幻想郷にバックアップされた紫のメモリーは、天子に眠らせてもらう直前までのものだ、その後に起こった今の記憶は含まれていない。
もう一度幻想郷に行きたいと紫は境界を操って闇を越えようとする、だが元々消耗した身体を癒すためこちらに戻ってきたと言うのに、今の体力では境界は超えられない。
消える、消えてしまう。記憶を代償とする宿命を背負って、それでも負けず生きてきて辿り着いたあの時が、無くなってしまう。
「あ……あああ…………ああああぁぁぁぁぁ――――」
絶望の声が涙とともに溢れる。
溺れるようにもがく手は、もう闇に飲まれて真っ黒になっていた。
スラリと伸びて整った四肢も、綺麗な金色の髪も、何もかも黒く侵食され、自分の存在が薄れていくのを感じながら、一つの結論を得た。
「そうか――死ぬのね、私は」
もう一度自分は幻想郷に戻ってくるだろう、そこにはその名を呼ばれた八雲紫がいるのだろう。
だがそれは紫であって今の紫ではない、この記憶を持たない自分とは決定的に違う。
あの口づけは、あの言葉は、今までの紫の人生をひっくり返すだけのものだった、天子の想いを受けた今の紫は昨日までの紫と決定的に違う存在だ。
この記憶を永遠に失ってしまうということは、今の自分が死んでしまうことと同義だ。
それを自覚した時、紫は全てを理解してしまった。
何度も記憶を失い続けていた自分は、それと同じ数だけ死にながら生きてきたことを。
「いや、いやあ! 忘れたくない、死にたくない! 私は――いやあ、誰か助けて! 藍! 幽々子! 萃香! ……天子――――てんしぃぃぃ!!」
何もできず、記憶に縋って助けを求めても悲鳴は木霊することすらなく溶けて消える。
童子のように泣きじゃくり、頭を抱えて背中を丸める紫を、闇は無秩序にまとわりついていった。
妬ましや 恨めしや
何故お前だけ 寄越せ 寄越せ
――
――――
――――――――
「ゆっかりー!」
朗らかな声が駆け抜けた。
春の日差しのような親愛の込められた声に紫は振り向こうとしたが、その前に声の主が後ろから腰元に抱き着いてきた。
紫が驚いてよろめいた時、抱擁した天子は紫の腰に回した腕をガッチリと組んで眼を光らせた。
「貰ったぁー! これぞ早苗から教わった外界の秘奥義ジャーマンスープレックスー!!」
唐突に決められた必殺技に、あわや紫が脳天から叩きつけられるというところで、地面にスキマが開き紫の上半身だけが空間を通り抜けた。
本来あるべき支えがなく、脳天からブリッジの姿勢になった天子は「うぐう!?」とくぐもった悲鳴を上げ、更にその天子の下半身の近くに紫の上半身が出現した。
すかさず紫は特徴的な極彩色の飾りが付いたスカートを捲り中を覗く。
「白ね」
「うきゃー!!?」
奇声を上げた天子が紫を離して突き放した。紫はスキマから逆さまに落ちるところを華麗に身を反転させて足から着地する。
「ななな、何すんのよ!?」
「こっちの台詞よ。おかしいでしょ出会い頭にプロレス技って」
「いや、抱き着いたらこれは行けるなって思ったら、そのままノリでやってみたくなって」
「ノリでかますものじゃないでしょ」
「あんたこそ避けるならまだしも何でスカート捲ったのよ!?」
「ノリよ!」
「人のこと言えないじゃないのよ!」
相変わらずの騒がしさ、相変わらずの仲の良さ。
仲睦まじい二人の言い争いを、幽々子と妖夢が縁側から眺めている。
「まずウチの庭で暴れるなと言いたい」
「あらいいじゃない。働けばご飯が美味しいわよ」
「なら庭掃除は幽々子様にお願いしますね」
「私は妖夢を愛でるのに忙しいもの」
天子に付いてふよふよと浮いて来た衣玖は、庭に佇んでいた藍と橙の元へ近づくと丁寧に頭を下げた。
「こんにちは藍さん橙さん、すみません今日もまた天子様が」
「いやいいさ、紫様も言葉だけ怒ってるが、後で機嫌がよくなるからな」
「天子が帰ったあとの紫様は優しいですもんねー。この前もお菓子貰っちゃいました」
「橙、歯磨きはよくするようにね」
「ぶー、わかってますよー」
「こうなったら勝負よ紫! 勝った方がご飯の用意!」
「ふふ、望むところよ」
普通は負けたほうが作るんじゃないのかと周りは思うが、本人たちは至って真面目だ。
双方とも、相手のために何かしてあげたいと張り切るところは似た者同士だ。
「私の料理が食べたいからと、わざと負けてはダメよ?」
「ふん、そっちこそ手を抜かないでよね」
「いや、それはないわ」
「なんでよー!?」
真顔で手を振って否定する紫に、天子がいきり立つ。
「だって天子の料理、いつまでたっても美味しくならないじゃない。どうしたら桃の皮で魚を包んで焼くなんて発想が出るのよ、独創の前に基本を学びなさい」
「なら早く紫が料理教えてよ! 紫に教えてほしくてずっと待ってるんだから」
「そ、それはちょっと、まだ自信がなくて……」
「そうやって恥ずかしがってばっかでー!」
いざとなると紫のほうが臆してしまうのだった。
そのこともあって二人の関係は友達以上のギリギリ恋人未満程度に収まっている。
ガミガミ言い争っている庭先に、霧が舞い込んできて、そこから萃香が姿を現した。
「やあやあ、今日も楽しそうだねえ」
「萃香さんこんにちは、いいところに来ましたね」
「何はともかく勝負よ天子!」
「誤魔化したわねこいつ! いいわよ、勝ってその頭踏みにじってやる!」
「おっ、喧嘩かー? やれやれー!」
構えて距離を取る両者の胸元に、緋色と紫色の首飾りが対になって輝いた。
あれから数ヶ月、二人の関係は絶えず変わらず仲が良いままで、天子も未だ紫に過去を打ち明けられずにいる。
だが以前と比べてそのことに思い悩むことはほとんどなくなった。
紫に甘えている、と言われればその通りだ。
天子はあえて問題を先送りにした、このままずっと秘密にし続けるつもりはない、だが自発的に打ち明けるつもりもない。
このまま紫と一緒にいればいつの日か言わなければならない時が来る、ならばその時に言おうと、流れに身を任せることを選んだ。
言えない不甲斐ない自分を紫は待つと言ってくれたから、迷いも甘えも受け入れてくれたから、天子は秘密があるくらいのことで自分たちの関係が崩れるものではないと信じた。
だからその日が来るまでに、母を殺した仇を許せるようになるよう、紫との時間を目一杯に楽しんでいる。
「――今日も良い一日だったわ」
白玉楼で思う存分騒いだ紫は、家に帰ってきて満足した面持ちでお茶を啜る。
「悔しがりながら幸せそうにご飯を食べる人は初めて見ましたよ」
「うふふ、私の腕前を持ってすればあの通りよ」
「メキメキ上達してますよね! 天子にだけじゃなくて私にも作ってくださいよー」
「お、おほほ、ありがとうね橙。そのうち……ね」
紫がチラリと目を向けた先で、九つの尾が溢れんばかりの嫉妬心を抑えるのに必死になっていた。
家事の達人として家庭内の地位を得ていた藍だが、最近それを脅かされそうで紫に若干の敵対心を持ちつつある。
紫としはまだまだ料理の腕前では藍を超えられないし、もし逆転しても藍には他にも色々できることがあるのにと思うのだが。
「……まあ、あんなことがありましたが仲良くやれていて良かったです」
「あんなことくらいじゃ私達の仲は切れないのよ、見てみてこの首飾り?」
「はいはい、もう何百回と見せられましたよ」
ご満悦の笑顔の紫が指で首元で光る緋色を弄るのを見て、藍と橙が呆れた表情をする。
あれから事あるごとに首飾りのことを自慢してくるのだから、家族としては少しばかり鬱陶しい。
「でも紫様、そんなので記憶の整理は大丈夫なんですか? 天子が好きで思い出が消せないーってなったりして」
「それなのよね、今から冬を思うと憂鬱だわ」
橙から言われたことに、紫は頬を押さえて気怠げに顔色を曇らせた。
「だけど天子との日々を何度も新鮮な気持ちで楽しめると考えれば悪くないし、特に大事な記憶を残すくらいの容量は余ってるもの」
「だからって容量の計算を間違えないで下さいね。油断してメモリーがパンクなんてなったら結界の修復が大変ですから」
「言われなくともわかってるわ」
藍の小言を聞き流してもう一度お茶を啜る。
湯呑みに浮かぶ水面に映し見て、なんて楽しい日々だろうと思い返す。
「このまま、天子とずっと一緒にいられたらいいのに」
あまりにも幸せな日常に、たまに見せる弱気な気持ちが湧いてきた。
天子はずっと一緒にいられるようにと首飾りを渡してくれた、しかし不安定な自分がいつまでも自己を保てるものなのだろうか。
悲観を感じさせる紫に、橙が慌てて抱きつく。
「紫様なら、ずっとこっちにいられますよ!」
「うん、ありがとうね橙」
「それにそれに、天子だけじゃなくて私達もずっと一緒にいますから! 一緒に紫様を支えますから!」
「嬉しいわ、もしもの時はお願いね」
でもまあ、少なくとも当分は大丈夫だろうと安心した。
自分にはかけがえない家族と友達がいる、この輪の中でなら何も心配することはない。
その日の夜、紫は布団の中で暗い天井を見上げて思った。
「明日はどんなことがあるかしら」
ここのところ毎日が楽しい、そのほとんどは天子のお陰だ。
きっとこの気持が恋というのだろうと、紫はほぼ自覚していた。
「またいいことがありますように……」
枕元に置いた首飾りを流し見て、紫は祈りを口に眠りについた。
霞がかる意識の端で、翌日のことを考えていた紫であったが、彼女の意識が次に見たものは、現実ではなかった。
広がる暗闇、無数の夢魂。
「……夢? まさかまた?」
夢を見ないはずの紫だが、そこは確かに夢の世界だった。
再び天子の無意識が自分を呼んだのだろうか。
だがおかしいことに、ドレミー・スイートの姿が見えない。こちら側の夢に紫が干渉しようものなら様子を見に来そうなものだが。
とにかく自分がここに連れてこられた要因がどこかにあるはずだとあたりを見渡すと、他と存在を隔絶するものがそこにあった。
「私を呼んだのは、これ……なの……?」
闇に埋もれてしまいそうな深い黒色の夢魂が宙に浮いていた。
天子ではない、伝わってくる雰囲気から直感がそう告げている。
だが天子以外の何者が紫に繋がろうとしているのか、まるで心当たりが思い浮かばない。
ここで夢に触れるのは危険かもしれない、しかし異界を通してまで紫に干渉してきているのだ、もしここで開けなくとも現実で相対するに違いない。
それならばできるだけ早くこの相手を見極ねばならないと、紫は危険を承知で夢に手を伸ばした。
夢魂に触れた時、その冷たさに驚いた。あまりの冷気に手の感覚がなくなりそうだ。
固唾を呑んで、氷のように冷たい夢の中に手を差し込む。
明けた瞬間から、脳裏にノイズ混じりの音が響く、天子の時とは違い不明瞭で中身がわからず、紫の脳を揺さぶってくる。
まるで不完全で欠けてしまったような音の中で、わずかに聞き取れた言葉があった。
『忘れ――な――――――忘れたくない!』
その声を聞き、紫は目を見開いて暗闇の中で飛び起きた。
痛みが走る頭を抑えて肩で息をする、汗でぐっしょりとした寝間着が気持ち悪い。
今しがた夢の中で感じたものに悪寒が止まらずにはいられなかった。
「今のは――!?」
漠然とだが、嫌な予感がする。尋常ではない、鬼気迫るなにかがあった。
そして激しく上下する胸の奥が告げている、紫を呼び寄せる何かがいると。
紫は起き上がって道士服に着替えると、家族にも告げず急いで家を出た。
誰かに相談しようとも思わなかった、激しい焦燥感に急かされてとにかく動かずにはいられなかった。
時間はちょうど丑三つ時。屋敷の外から空に上って幻想郷を睨むと、新月の夜は不気味なほど暗く、静かに沈んでいた。
まず最初に心当たりとして向かったのは博麗神社だ。
「霊夢! 霊夢はいる!? 起きてる!?」
先程のアレは、下手をすれば幻想郷を揺るがしかねない何かのように感じ取れた。
スキマから神社の内部に直接乗り込んで、眠っていた霊夢を叩き起こす。
大声で名前を呼ばれ、ぼんやりと起き出した霊夢は、夢見心地のままで眠たい目元をこすった。
「なぁによ、ゆかり? いま何時だと思ってんのよ……」
「霊夢、何か異常は起きなかった? 心当たりは!?」
険しい剣幕でまくし立てる紫を見て、うつろうつろしていた霊夢は一瞬で意識を覚醒させた。
霊夢も紫とはそれなりに長い付き合いなのだ、彼女をここまで焦らせる時点で、今回の事件の危険度が計り知れないということがわかる。
「何があったの」
「私にもわからないけど、何かが起こってる。心当たりはないのね?」
「何も気づかなかったわ、今から探してみる」
「お願い、こっちもあちこち回ってみるわ」
霊夢はすぐさま枕元に置いていた巫女服を引っ掴んで寝間着から着替えると、お祓い棒や陰陽玉で完全武装する。
巫女が神社から飛び立つ前に、紫もスキマから別の場所を探りに行った。
「他に何かがあるとしたら……無縁塚かしら」
無縁塚とは死体が妖怪化する可能性がある幻想郷において、身寄りのない人間の死体を埋める場所である。
大抵は外界から迷い込んだ縁のない人間を埋葬する、故に無縁塚。
そのせいで幻想郷の中と外、そして冥界まで巻き込んで結界が歪んでしまっている危険地帯で、普段は妖怪も近づかない場所だ。
夢という異界にまで想念を届けるなら、あの場所が最適だろう。
スキマから無縁塚の中心に飛ぶ。夏に入ったことでそろそろ咲く準備を始めた彼岸花が茎を伸ばしており、その周りには結界の歪みにより外界から流入してきた物品がゴミの山となっている。
生温い夏の夜の風がじっとりと首にへばりつくのを、紫は堪えながら辺りを見渡した。
その時、ゴミの山から物音が聞こえて振り向いた。
「誰! 誰かそこにいるの!?」
夜も深いこの時間に、こんな場所に来る者は滅多にいない。
最大の警戒心を持ってゴミ山を乗り越えてその向こう側を見た。
息を呑む、不吉な鐘が脳裏に響き、恐怖が胸を縛り上げた。
揺れる瞳が、星明かりを頼りにそこにある光景を紫の意識に伝えてきた。
山の上に立つ八雲紫の目の前に、八雲紫がそこにいた。
「あなたは……誰!?」
紫は愕然とした表情で、自分と同じ顔の女を見る。
その身体は服の上から真っ黒な絵の具に塗りつぶされたように黒く、わずかに色が残った顔もひび割れたような黒い線が頬を走っている。
見ただけでわかった、目の前の存在はこの世にあって良いものでないし、それ故に刻一刻と崩壊していっている。
だが何故自分と同じ姿なのだ。同じ顔が壊れていく様子は鳥肌が立って仕方がない。
気味の悪い女は瞳孔が開いた焦点の合っていない目で、それでも紫の姿を捉えてニンマリと笑みを浮かべた。
「やっと、見つけた……」
「だから誰なのあなたは!?」
柄にもなく取り乱した紫に、女がゴミの上を這い寄ってくる。
手を伸ばしてくる女を振り払いたくなったが、何故かそれはできなかった。まるで自分の体が目の前の女を迎えようとしているかのように動こうとしない。
痺れた足に、女の手が迫った。
「お願いが、あるの……」
足元まで這いずってきた女が、紫の身体を掴んで身を起こそうとする。
力のこもらない四肢で必死に立ち上がった女は力なく倒れ、抱きしめるように紫の身体に縋り付いた。
「どうか、この気持ちをなくさないで――」
願いを最期に全てを使い果たしたのだろう、女の体が黒い粒になって、霞消えていく。
その粒の一つ一つが紫の身体に染み込んで行き、解放されたたった一つだけの思い出が脳裏を貫いた。
『えへへ、大好き、紫』
そのメモリーを思い出して、女が何者だったのか悟った紫は、膝を突いて呆然と空を眺めた。
「あ……あぁぁぁぁ…………!!!」
涙を流し、悲鳴を漏らす。
これは、この記憶は、この温かさは。自分はこれを、こんなものを無くしてしまっていたというのか。
取り戻した嬉しさよりも先に浮かんできたのは、闇に沈んだ紫と同じ絶望感。
これを無くしてしまったということは、過去の自分は死んだも同然だったのだ。
ならば記憶の消去と再生を繰り返していた自分は、その度に死んでいたのだ。
消える瞬間ではなく、生きている紫がこれに気付いてしまった。
これがもたらすものが何か。
「私…………私はずっと………………」
自分の肩を抱き締めて、ゴミ山の上で寂しさにうずくまる。
零れた涙がゴミの上を伝って流れるのを呆然と眺めながら、身体の底から湧き出る感情に何の抵抗もできず紫はただ震える。
それはこの世界の生きとし生けるものなら誰でも持つ、死への恐怖だった。
いつもと変わりない朝が八雲家に顔を出す。
窓から差した朝日の光が台所を照らし出し、夏の暑さに額を拭いながら今日も藍は朝食の準備に勤しんでいた。
隣では橙が何かと手伝ってくれているのだが、肝心の主人が起き出す気配が感じられない。
昔は寝たい時に寝ておきたい時にねる紫であったが、天子と遊ぶようになってからは人間と同じ生活サイクルになっていた。
それなのに朝食の準備が終わっても起きてこないのは珍しい。
「今日の紫様は起きてくるのが遅いな。橙、見てきてくれ」
「ラジャー! 橙隊員行ってまいります!」
割烹着を脱ぐ藍に命じられ、橙は快活に了承して廊下を走った。
「ゆっかり様ー。朝ですよー?」
主人の主人の部屋にまでたどり着き、部屋の中を覗いてみると盛り上がった布団が目に映る。
どうやら起きたまま布団にくるまっているようだ。
「何だ起きてるじゃないですか、もうご飯できますよ。紫様?」
部屋の中に入ってみるが、紫からの反応がない。
橙が、不審に思い始めていると、紫はゆっくりと布団を脱いで振り返ってきた。
すでに道士服に着替えていた紫は、真っ青な顔色でブルブルと身体を震わせ、死人のような虚ろな眼で見つめ返してきた。
あまりの形相に、橙は驚いて声をかけようとする。
「紫様いったいどうし」
「橙、わた……私、私は……あ、あぁぁ…………あああああぁぁぁぁあああああ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚あ!!!!?」
――――絶叫。
・この作品において比那名居天子の年齢設定は約1200歳となっております。
・独自設定が非常に多くなっています、生温かい目でお願いします。
・宜しければ、最後までお付き合いいただけたら幸いです。
其の一 -投我以桃、報之以李-
秘密を知った夜が開け、天子が裸のままベッドに寝転んでいた。
紫が隠し事をさらけ出し向き合ってくれたことに嬉しさを感じたが、それ以上に紫を憎む自分の醜さに吐き気が蔓延していた。
窓から差し込んできた朝の日差しを恨みがましく眺めていると、扉を叩く音がした。
「――天子、いるか?」
二日酔いみたいに気怠い身体をもっと重くする声が響いた。
普段は聞かない父の声、家の中でも滅多に話さない家族がここまでやってくるのは珍しい。
「ちょっと待って!」
意外な来訪に天子は慌てて服を着た、父親に裸を見られたくないというよりも、肩の傷跡を見せたくなかった。
新しい服に袖を通し、胸元のボタンを一番上まできっちり留める。
「良いわよ、入って」
帽子を被りながら声をかけると、扉が開いた。
現れたのは眉間にシワを浮かべて見るからに不機嫌そうな父の顔だった。
尊大に鼻息をついて大股に部屋に敷居をまたいでくる姿に、かつて殴られたときのことを思い出した。
父親に傷つけられるのはとても痛い、肉体よりも心が悲鳴を上げる。
その辛さから体の芯が震えるのを、腹の下に力を込めて押さえ込み気丈に振る舞った。
「それで何のよう?」
「また、あの妖怪のところに行ってきたのか」
「そうよ、それが?」
うんざりしたように天子が返す、この後に何を言われるのかはだいたいわかっているのだ。
「いい加減、あの妖怪に近づくのは止めろ、苦しいだけだろう」
ほら来たと、天子は嫌な気持ちを顔に出すが、それで父は引いてくれない。
天子が紫と友達付き合いをしていると衣玖を通して知ってから、この男はこうして度々天子の行動を抑え込もうとしてくるのだ。
ただ妻を殺した妖怪憎しかそれとも本当に娘を心配しているのか、天子には私情があるゆえに測れないが、どちらにせよ手段が力づくで嫌になる。
心配よりもまず、自分の気持ちを認めてほしいと切なく思った。
「私が誰と友達になろうが関係ないでしょう」
「お前の行く末に関係があるのなら、私とて黙っておれん」
「何を今更」
「あれが何をしたのか忘れたのか、我々の大切な人を奪った張本人だぞ」
「だからってずっと敵対しろって言うの? いいでしょ仲良くしたって」
「あんなのと関わってお前が幸せになれるはずもない!」
その言葉が癇に障った。
「うるさいわよ! 苦しいからって逃げ出したあんたがそんなこと言うな!!」
思わず怒鳴り返してしまった天子は、ショックを受けて愕然とした表情の父を見て、ハッとなりバツが悪そうに顔を背けた。
娘を傷つけてしまった負い目から、そのことを持ち出されてはこの父はそれ以上何も言えず、落ち込んだ顔を俯ける。
嫌な静寂が心に響く、昔のことを引き合いに出して父を無理矢理黙らせたことに、天子は引け目を感じるがあくまで意思を主張した。
「私は逃げるつもりはない、あいつに対する憎しみにも立ち向かう。出かけるから部屋から出ていって」
そう言って、天子は総領を部屋から追い出して自分も廊下へ出ると、そのまま家から去っていった。だが実際には、父から逃げ出した。
天子にとっては、紫に立ち向かうよりも家庭にいるほうが怖かった、家族に自分の気持ちを否定されるのが辛かった。
しかしそれは父にしても似たようなものだった。本人としてはあくまで娘を心配していっているつもりだが、スキマ妖怪に対する怒りを娘にぶつけているような気がすると薄々感じている。
いやきっとそうなのだろうと、父は自らの浅ましさに頭を抱えた。
「……やはり、私はもうどうこう言う資格はないのか」
娘は父の予想を遥かに超える方法で、憎むべき相手に近づいて過去を乗り越えようとしている。
それを良いことだと言って認めれればいいのに、前に進もうとしているその背中に、頑張れと声をかけてあげるべきであるのに、その一言が言えない。
「私にも、父親としてやれることをやろうと、燃えていた時期もあったのにな」
今は娘と上手くやれぬこの総領も、かつては良き父として振る舞えていた。
傲慢さを持った夫を叱ってくれる妻のお陰で家庭内に置いて孤立せず、娘とは言いたいことを言い合いながらも、みんなで仲良くやれていた。
だが娘の将来の憂いを断つつもりで世界の異物を討ち取りに行ったあの日、妻が殺されてからすべての幸福が裏返った。
「何がお前を不幸にするだ馬鹿らしい、天子を不幸にしているのは私ではないか」
頭を抱えて壁によりかかり、自らを罵倒して自らを不幸にする。
父もまた、自らの怒りを乗り越えられずにいた。
◇ ◆ ◇
幻想郷の中でも誰も近づかない西端の僻地、侵入防止の結界が張られた屋敷に、今日は楽しげな歌が響く。
「ふんふんふふ~ん♪」
道士服の上にエプロンを着た紫が、鼻歌交じりに台所に立ってくるりと回って自分の格好を藍に見せつけていた。
「うふふ、似合うかしら?」
「はいもちろん似合ってますとも。しかしいきなり料理の練習をする言ってきたと思ったら、随分機嫌が良さそうですね。どうしたんですか?」
紫の料理の腕前というのは絶望的だ、何を作っても素材が台無しになる。
本気で学べばある程度は習得できるだろうに、よっぽど料理が下手だと無意識下まで刷り込まれたのか、ただたんに面倒くさいのか、紫が自分から台所に立つことは今までそうあったことではない。
しかしいつも藍に押し付けてばかりの紫が、いきなり料理を教えてほしいと言い出したのだ。
「私ね、決めたのよ」
「何をですか?」
「私は、天子の母親になるわ!」
間。
「……母親ぁ!?」
呆気にとられていた藍が大声を上げた。
何がどうなってそうなったのか、飛躍しすぎた結論に式神は動揺を隠せない。
「ま、まさか彼女を八雲家に引き込むとか……?」
「そこまでじゃないわ、実際に家族にするわけじゃなく、家族みたいに愛情を分け与えたいということよ」
本当のところを話され、ようやく藍は納得して落ち着いた。
母というのは誇張が過ぎると思うが、根本の部分は紫らしい思いやりがある。
「元々天子は人との触れ合いに飢えてた部分があると思うのよ。幻想郷に来て満たされた部分が大きいだろうけど、きっとまだ足りないところがある。私がそれを補っていきたいわ」
「なるほどそれで……」
しかし藍は納得しながらも、なーんかやる気が明後日の方向に行っているなあという気がした。
まず果たして天子が本当に母親を求めているのか? というのが疑問だ。例えば橙は自分や紫を親のように慕ってくれるが、天子から紫に向ける想いは何か違う気がすると藍は思う。
あるいは何かが違えばそうなる可能性もあったかもしれないが、それにしては天子は紫を対等に扱ってるし、最初にあそこまで敵意を向けてきたりはしなかっただろう。
恋は盲目と言うべきか、紫はいささか暴走気味に天子の気持ちよりも自分がしてあげたいことを求めているように見えた。
とは言え、失敗してもそれはそれでいいかという結論に達した。多少仲が拗れたくらいなら後でどうとでもなる、頭を下げればそれで解決だ。
紫がやりたいというのなら、とりあえずやらせてみればいいだろう。
「また随分と天子に入れ込みましたね」
「可愛いものは誰だって愛でたくなるものよ」
「確かに紫様とつるむ内に愛嬌は出てきましたね」
それにどっちみち、この様子では止めたところでやめないだろうし。
藍ははしゃぐ家族を生暖かい目で見守ることにした。
「さあ、始めましょうか。最初は何をするの? 魚を捌く? 肉を斬る? 野菜を粉微塵!?」
「まず包丁ぶん回すの止めてください! 天子と同レベルですよそういうところ!!」
◇ ◆ ◇
「はぁ……」
遊ぶ時はとことん遊ぶ天子だが、つい暇になると要石に乗ったまま頬杖を付いてアンニュイな溜息を漏らしがちになっていた。
理由はやはり母の仇である紫のことだ。
紫のことは憎い。母を奪い、天子の家庭から平穏を奪い、天子は今までの人生における大半を苦痛と苦悩の中で過ごしてきた。
だが紫のことをずっと悩んでいると一つの結論にたどり着く、紫がいなければ自分の存在はありえないのだ。
紫という強大な影があるからこそ、志を持つものが集まり天界を作り、名居家を作り、比那名居家の総領娘が生まれるに至ったのだ。
彼女がいなければそもそも天子は生まれない、そんな天子が生まれるきっかけを作った紫が母を殺して天子を苦しめ、だが千年以上の歳月を経て幻想郷という場所で天子の心を救った。
この因縁が示すものは何なのか、天子はそういったところまで思考の手を伸ばそうとしていた。
自らの生まれた意味とは何だ、母が死んで自分が生き残った理由とは何だ、大して望んでもいないのに天人となり今日まで生き永らえることとなったこの因果は何だ。
考えども答えは出ない。考えることは大切だ、しかしどれほど頭の中でもがいたところで、最後にはこれは自らの足で見つけに行くしかないのだ。
そしてそれは紫に立ち向かわなければならないことを意味する、戦いという手段ではなく、理解り合うことで。
「――お悩みのようですね」
思い耽っていると聞こえてきた声に天子が顔を上げた。
そこには昨日から仕事で姿を見せなかった衣玖が、ふよふよと羽衣を揺らして降りてくる。
「衣玖、呼んでもないのに来てくれたんだ」
「どこかの誰かさんが地震でも起こさない限り基本暇ですから」
「そう」
いつもより大人しい天子の反応に、衣玖は尋ねる。
「紫さんのことですか?」
「……どうしてそんな簡単にわかるのよ」
「天子様が真剣に頭を悩ませる事なんて紫さんか総領様のことくらいですから」
「あーまあ、お父様ともその」
「あら、なにか酷いこと言っちゃったんですか? 駄目ですよ、後で謝らないと」
「うぅ、わかってるわよ」
何もかもお見通しすぎて天子は悔しそうに声を漏らす。
こういうところは衣玖に頭が上がらなかった。
「まあ総領様のことは難しいので一旦置いときましょうか」
何度か天子の父とも話し合っていた衣玖は、すぐに解決できる問題ではないと思い至った。
とは言え悲観もしていない、衣玖にコソコソ娘の近況を聞きに来たり、こうやって諍いを起こしているということは、親子が互いに近づこうとしている証拠だ。
天子が紫と仲直りするためにぶつかり合うしかなかったのと同じだ、ならば娘と父が喧嘩するのは悪いことではないだろう。
親子の不器用さを、衣玖は哀れとは思わなかった。
だからまずは紫のことだ、二人の仲はかなり親密であるしこちらのほうがスムーズに問題解消とできるだろう。
「紫さんとはどうしたんですか一体?」
「……あんまり誰かに言えることじゃない」
悩みを聞こうという衣玖の申し出を天子は拒否した。
紫が自分の母を殺したことは誰にも知られたくないのだ、特に紫本人には。
これが天子を及び腰にさせていた、この事実を知られれば自分が持つ紫への憎しみが露見するだろう、それで二人の関係が変化してしまうのが無性に怖かったのだ。
この拒絶に衣玖は密かに驚いた。拗れた家庭内のことまで話してくれた天子が隠し事をするとは思いもしなかった。
どうすれば天子を助けられるかと少し悩んで、できるだけすんなりと答えを出せそうな優しい問いを選んだ。
「それなら紫さんとどうなりたいのですか?」
「紫と……」
きっと天子なら我が物顔で明るい答えを言いのけてくれると衣玖は期待していた。
だが天子はしばし空を眺めた後、頭を抱えて足元にぽつりと言葉を零した。
「……わからない」
これは思ったより重症だと衣玖は直感した。
基本的に天子は自分の欲求に関しては素直で、自分の望みや欲望をよく理解しどれだけ破天荒な行動に見えてもそこから外れることはない。
そんな天子がわからないなどと迷いを口にするとは、最初は喧嘩でもしたんだろうと楽観的な考えの衣玖だったが、相当込み入った話なのだろう。
連続して困惑させられる衣玖だが、それでも天子が持つ人間としての明るさを信じていた。
「それでは、そうですね……紫さんの普段のご厚意に感謝すべく、プレゼントでもしてみてはいかがですか?」
「プレゼント?」
「ええ、何も紫さんと仲違いしたいわけではないのでしょう? 贈り物をすることで、お互いの気持ちを再確認すればより縁が深くなるのではないでしょうか?」
「うん……そうね、それもいいかも!」
確かに天子は紫が憎い、だがそれだけではないのだ。純粋に紫と一緒にいるのは楽しいし、できれば彼女を許したい。
憎い一方で好意もある。この矛盾めいた感情の板挟みが、天子をじわりじわりと苦しませ始めていた。
だからこそ紫への好意を苦悩の中で忘れないために、そして自分の善性を信じたいからこそ天子は奮い立った。
「それじゃ早速何を送るのか考えないとね」
「そうですね、やはり気持ちの篭ったものを」
「よし、宝石にしましょ!」
「軽い気持ちでぶっ飛び過ぎじゃないですか!?」
いきなり即物的な案が出て、また別の驚きが衣玖を襲う。
衣玖としてはもっと安上がりの、それでいて天子の手作りの小物だとかそういう親しみやすいものを考えていたのだが。
「何だかんだ言って貴重なもののほうが喜ぶもんでしょ」
「それは確かにそうですが……まぁ、天界なら宝石くらいいくらでもあるでしょうけど」
「というわけでまずは原石掘りから開始するわ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください」
手作りではあったが、それはそれで衣玖の想像からかけ離れていた。
「何そのラーメン作るのに小麦粉から育てるみたいな!?」
「だってー、ただあるもの送っただけじゃ味気ないじゃないの。気持ちがこもったものが良いって言ったのは衣玖じゃない」
「それはそうですが、原石なんてそんな簡単に見つかるものじゃないでしょう」
「ちっちっち、比那名居天子様を舐めちゃ駄目よ、能力使って大地に聞けば宝石の在り処くらいすぐわかるわ」
「マジですか結婚してください」
「お断りよ」
流れる空気のままプロポーズが玉砕する。
「でも原石だけ見つけてどうにかできるんですか?」
「加工くらいできるわよ、長年暇つぶしばっかしてたからね」
「無駄に多芸ですね」
天子の意外な特技が判明したところで、二人は下界に降りて宝石が埋まっている場所を探すこととなった。
とは言っても天子の言っていた通り時間はそうかからなかった、地面に降り立つなり足元に手を置いて大地に感覚を這わした天子は、やおらに立ち上がり「こっちよ」と指差した方へ飛んでいく。
「で、ここよ。この先に宝石がいっぱい埋まってる感じがあるわ!」
「で、ここですか」
二人がたどり着いた前に広がるのは鬱蒼とした森林が広がり、山頂から厳かな風が流れてくる山の麓。
ここから見れる雄大な景色は、天子と衣玖にとっては割と馴染みのあるものだった。
「この先って、思いっきり妖怪の山の中なんですが」
「みたいね」
よりにもよってここかあ、と衣玖は山を見上げながら独りごちる。
「本当にあるんですか?」
「私の要石レーダーにビンビンよ。100%この山のどこかに宝石の原石が埋まってる、しかも大量にね。もっと近づけば正確にどこにあるのかもわかるわ」
「その胡散臭いレーダーを信じたとして、場所がわかってもこの場所では……」
並んで山の頂を眺めていた天子たちの前で、木々の奥から白い影が歩み出てくる。
印象的な片刃の大剣を背中に背負い、左手に紅葉マークの描かれた盾を持った椛が、下駄で富んだ地面を踏みしめた。
「また来たんですか。いますぐ戦争ごっこは勘弁して下さいよ、こっちも準備があるんですから」
ご丁寧に天子たちが不法侵入するを止めに来たらしい。
その顔は厄介事の予感に眉を潜めているが、意外と声色は明るい。見回りなどという面倒で退屈な仕事中に、天子たちを理由として暇を潰せるのは実はありがたいのだ。
「やっほー、もみちゃんこんにちは」
「お久しぶりですもみちゃん、元気してましたか」
「もみちゃん言うな! 揃いも揃って」
「まあまあ落ち着いて、おみやげの桃」
「おっ、ちょうど口寂しかったところです。ありがとうございます」
すかさず天子がいくつか桃を包んだ風呂敷を差し出せば、椛はあっさり態度を和らげて受け取った。
こういうところで役に立つので、天子は下界に降りる時には手土産を用意するようにしている。
包みから桃を一つ取り出した椛は、瑞々しい実を一口頬張りながら話を戻した。
「今度は何の用ですか。将棋でも打ちに来たのなら結構。襲撃したいのなら別の所へ行ってください」
「えっとね、山の方にお邪魔したいんだけど、ダメ?」
「嫌な予感しかしないので絶対ダメです。守矢神社への参拝くらいなら許しますけど」
餌付けされたと言っても、縄張りに通してくれるほど甘くはないようだ。
何度も襲撃していて通り道としてなら使わせてくれるだけありがたいところだが、それでは今の天子には都合が悪い。
門前払いされ、衣玖が天子に耳打ちした。
「どうします? のんびり宝石掘りなんてできるような場所じゃないですよ」
「あいつ千里眼もどきまで持ってるし、隠れてこっそりっていうのも無理よね」
この問題をどうクリアするか二人は頭を悩ませた。
顔を寄せ合ってコソコソと内緒話をする天界組を椛が訝しげな眼で眺めていると、彼女たちのそばを緑髪を揺らす少女が通りかかった。
「こんにちは椛さん、通りますね」
「ああ早苗さん、おかえりなさい。どうぞ」
買い物かごを提げた早苗は何事もなくその場を通り過ぎようとし。
「早苗ぇー!!!」
「うひゃあ!? 天子さんですか、なんですか!?」
そうは問屋が卸さないとばかりに飛びかかる天子に早苗がたじろぐ。
「いや、大声上げたのは無意味に脅かしただけだから大した用じゃないんだけど」
「無意味すぎますよ」
「今度守矢神社に行くからっていうのと、それから……」
早苗の耳元に口を寄せた天子は、手で隠した下で何やらゴニョゴニョと囁いた。
内容を聞いた早苗は目を見開いて輝かしい笑顔になり、天子に振り返って至近距離で光るような眼差しを送った。
「おお!! ついに、ついにですか!?」
「ついによ、準備して待っててね」
「はい!」
急にご機嫌になった早苗は、鼻歌交じりに守矢神社へと帰っていく。
「何をしたんですか?」
「ちょっとした布石よ、それじゃ次の場所よ衣玖!」
◇ ◆ ◇
それから数時間後、お騒がせコンビの天子たちが立ち寄ったのは、魔法の森に建てられたマーガトロイド邸だった。
「たのもー!」
「どうもお邪魔します」
軽快な声が棚に並べられて開かれた扉に、人形たちがわずかに震える。
ここに集まって魔法の研究会を開いていた家の主であるアリス、そして魔理沙とパチュリーの三人は突然の来訪者に驚いて手を止めた。
研究の邪魔をされることを悟ったパチュリーは、ジトッとした半目でまずアリスを問いただした。
「アリス、あなたこんなのまで招待したの?」
「ち、違うわよ! アポも取らずに何しに来たのよ地震野郎!」
「あんたに用があるんじゃないわ。魔理沙がどこにいるのって霊夢に聞いたら多分ここだって教えてくれたのよ」
「おいおい……霊夢のやつ、こんなのに教えるなよ……」
桃で懐柔される口の軽い友人を思い浮かべて、魔理沙が帽子を押さえて嫌そうに顔を隠す。
誰がどう見ても歓迎ムードなどではないが、天子はそんな空気の悪さはなんともないようにふんぞり返って帰る気配など微塵もない。
どうやら言わねばわからないと見て、パチュリーが仕方なしに口を開く。
「帰りなさい、私たちはいま研究で忙しいの」
「さて単刀直入に言わせてもらうわ」
「聞け!」
訂正、言ったところでわかる相手ではなかった。
憤るパチュリーを無視して魔理沙に詰め寄った天子は、たじろぐ白黒を前に机を叩いて身を乗り出した。
「宝石に興味はない? 未発掘の原石がゴロゴロしてる場所を知ってるのよ。協力して掘り出しましょう」
大した前置きもなく唐突に出てきた言葉に、魔法使いたちは揃って黙り込み、耳に聞こえたものが間違いか問うように互いを見合わせた。
ぶしつけにも程がある天人に、果たしてまともに対応すべきか迷うところだが、天子が述べた内容は無視するには魅力的だった。
ひとまず話を聞いてみることに決めた魔理沙が言葉を返す。
「いきなり胡散臭いな。未発掘? どうしてそんなのがあるってわかるんだ」
「私の能力を活用すれば地面の中にあるものくらいわかるわ。魔法使いにとっても宝石は貴重なんじゃない? 専門外だから詳しくは知らないけど、使わなくとも売ってお金にすればそれなりの金額になるわ」
魔理沙の疑問に対する返答の真偽はともかく、宝石が貴重なのは確かだった。
質の良い宝石には魔力を込めやすく、物によっては魔法を行使する強力な媒介になるし、そうでなくても資産となるものは誰だって欲しい。実験に使う器具にも金はかかるし、論文をまとめる紙代だってただではないのだ。
だが何故いきなり宝石なのか、そのことについて聞かれる前に天子が答えを紡ぐ。
「故あって首飾りを作るために自分で採掘した宝石が欲しくてね、手伝ってくれれば使わなかった分は譲ってあげても良いわ」
「そんなこと言って、全部使うとか言って分け前を渡さないつもりじゃないのか?」
「欲しいのはせいぜい親指くらいの量よ。埋まってる原石の総量は両手で抱えてまだ余るくらいでしょうけど」
親指大の宝石となると結構な大きさだが、天子が語るにはそれが可愛く思えるほどの埋蔵量らしい。
「そこの二人にも、協力すればそのぶん分けてあげるわよ」
天子は隙あらばパチュリーたちも話に巻き込む、話を大きくしてなし崩し的に協力させようという魂胆だ。
だが年季の入った魔女たちはその程度では動じない、何か思うところあって視線を交わすパチュリーとアリスだがそれは話に乗るか迷ったからではない、魔理沙がどう出るかという心配からだ。
「待て、話が美味しすぎるな。どうして私のところにそんな話を持ってきた?」
「少しばかり厄介な場所にあってね、のんびり穴掘りとはいかない場所なのよ」
「どこだ?」
「妖怪の山」
明かされた場所から、天子が頼ってくるのも無理はないと納得はいった。
宝石があるとわかれば天狗が自分たちの領地なのだから自分たちのものだと主張するだろう、そうならないよう妖怪たちの目を盗んで採掘する必要がある。
「協力者にあんたを選んだのはその欲深さを見込んでのことよ」
「前は貪るなとか言ってたくせに都合がいいな」
「人生を愉しみたければ貪らざるをもって宝と為せ。けど往く先が人生から外れるつもりなら、それを否定するつもりもない」
天子に言われたことに、魔理沙は目を見開いて大きく動揺した様子だった。
ある意味、これからの魔理沙の人生を核心をついた言葉に、いまだ幼い魔法使いは口をつぐんでしまう。
強引に攻め入る天子の甚だ不愉快な光景を見かねた魔女たちは、椅子から立ち上がり天子を挟んで睨みつけた。
「いい加減、私の家から出ていって。うちは悪魔の勧誘お断りよ」
「それとも天狗と事を構える前に、私達と争う気?」
「あんたたちに話してるんじゃないわよ、私は魔理沙と交渉してるの」
「どの口が言う……」
さっきはアリスたちまで勧誘しておきながら、いけしゃあしゃあと無関係だと言ってのける天子に敵意が向けられる。
だがしかし、天子はそれらに一切を跳ね返し、魔理沙への言葉を続ける。
「いざという時のために色々貯め込んでるんでしょう? 一攫千金狙いたくない?」
「魔理沙、契約というのはみだりにして良いものじゃないわよ」
「そんなやつ相手にすることないわ」
悪魔の囁きと善意の助言が交互に飛び交う。
魔理沙は組んだ手に顎を押し付け、それらをじっと聞き届けると結論を出した。
「……いや、乗ろうじゃないか」
◇ ◆ ◇
作戦の決行日は、それから三日後となった。
妖怪の山の付近で待機している魔理沙は、木の根に腰を下ろして鞄の中に詰まった魔法の道具の最終点検をしている。
閉じたフラスコの怪しげな中身を太陽に透かして色合いを確認している脇で、魔理沙の魔力を受けずに独自に浮遊していた人形と魔法の本が、魔力による振動を発し念話で言葉を伝えてきた。
『――本当によかったの魔理沙? あんなやつと手を組んで』
「宝石は魅力的だからな。二人だって話に乗ったじゃないか」
『私たちはあくまでサポートだからね』
「分け前は少ないぜ」
『わかってるわよそんなこと』
今回はパチュリーとアリスも協力するが、人形と魔本を介した遠距離からのサポートのみだ。
実際に矢面に立って被害を受けるのは魔理沙のみである、それで上手く行けば宝石が手に入るのだから二人が損することがないのだ。
だが、どちらかと言えば宝石が目当てではなく、魔理沙が心配だからのことであった。
「パチュリーの用意した契約書にサインさせたが、あれの拘束力は絶対なんだな?」
『自信はあるけど、契約なんて逃げ道を探そうと思えばいくらだって探せる。あの手の輩は、ここぞというところで言葉の揚げ足を取って裏切るわ』
天子と衣玖には魔法を付与した契約書に名前を記入させた、これにより採掘に成功したら宝石の9割は魔理沙たちに譲渡されることになる。
本人によれば1割もいらないくらいらしいが、多少損してでも明確な数字で取り分を決めるほうが安心できる。
だがそれでも完璧な安心とはいえなかった。古今東西、契約というのは裏をかくためにある。
「そんなことはわかってるぜ。あいつは何があっても自分の目的だけはちゃっかり達成する狡猾な野郎だ。最初から信用なんてならん」
『それがわかってるならどうするの』
「無論、決まってるさ」
点検の最後に八卦炉に付いていた煤を服の袖で拭った魔理沙は、脳裏に敵を思い浮かべて八卦炉を天に掲げた。
「こっちが先に裏切ってやれば良いんだよ」
魔理沙達を待たせているあいだ、天子たちは妖怪の山の内部に足を踏み入れていた。
と言っても不法侵入ではない、守矢神社への参拝という形で、最近完成した索道に揺られて木々の間を運ばれていた。
吊るされた搬器が伸ばされたロープを伝って空を巡るのを新鮮な気持ちで感じている天子は、手すりから下を眺めて神輿に乗ってるみたいだと思った。
「これがロープウェイか。こうしてゆっくり景色を見るには良いわね」
「私はちょっと怖いですけどね、いきなり落ちたりしませんよね?」
「自分で飛べるじゃない」
「それとこれとは話が別です」
ゆったりと観光気分に浸る天子と違い、衣玖は不安げにそわそわとしていて、終いには我慢しきれず、搬器の中でふわりと浮かび上がって自分で飛び始めた。
そう早くもない速度でじわじわ山を登るロープウェイに追従して飛ぶのは骨が折れそうなものだが、まるで地面の上にただ浮かんでいるかのように完璧に搬器の動きを追うという以外な器用さを見せている。
ようやく気を落ち着けた衣玖は、景色を楽しんでいる天子に話しかけた。
「一割だけとは、随分謙虚に出ましたね」
「どうせプレゼントに要る分以外はどうでもいいし、宝石自体は天界にいっぱいあるもん。お金稼ぐにしても、自分の能力であっさりっていうのはつまらないし」
「やだやだ、これだから成金はお金の重さがわかってません」
「重さがわかる機会が来てから頑張ればいいのよ」
「痛い目見てからじゃ遅いでしょうに」
今回の計画を魔理沙と共同で行うにあたって、天子は魔理沙と契約を交わして魔法の契約書にサインもした、その内容は大雑把に言えば次の六つだ。
1.妖怪の山より宝石を手に入れた場合、その分配は霧雨魔理沙が全体の九割、比那名居天子が一割である。
2.1により天子に分配される宝石は、天子が自分の意志でどれにするか決められる。
3.今回の計画については秘密であり、外部に漏らしてはならない。
4.他に協力者を得たい場合には、魔理沙と天子双方の承認が必要である。
5.4によって承認された人物にのみ、今回の計画を打ち明けることができる。
6.魔理沙はこの契約を一方的に打ち切ることが可能である。
「随分と魔理沙さん優位な契約でしたね、向こうから打ち切ってもいいだなんて」
「こっちが願い出てるんだからね、向こうに都合が良くないと乗ってこないでしょ。それに今回の一番難しいところは宝石の採掘まで、それ以降なら裏切られてもどうとでもなるし、ソッチのほうが面白いしね。ククク……」
「その破滅的なところ、直さないと紫さんが悲しみますよ」
「うぐっ」
悪役のような笑いを押し殺していた天子だったが、紫のことを持ち出されていつも傲慢な態度に初めてヒビが入った。
衣玖の忠言に意地を張るかどうか「あー」だとか「うー」だとか唸って存分に悩んだ後、苦い表情で景色の上に目を滑らせながら頷いた。
「……次からは気をつけるわよ」
「それが宜しいかと」
「ところで、それはそれとして見られてると思う?」
「恐らくは、空気の流れ方が粘っこい感じです」
視線が注がれる方向を見向きもせずに、衣玖は監視の目を言い当てた。
衣玖の意外な器用さ其の二だ、どうやらこの妖怪は神経を研ぎ澄ませることで空気からそんなことまで感じ取れるらしい。
すでに山の麓からは数十メートル離れ、空気を読むと言っても息遣いを物理的に感じられる距離ではないはずだが、本人によれば「なんとなく」でわかるとのことだ。
天子も近くの気配なら衣玖より過敏に感じ取れるが、遠距離ともなると衣玖のほうが上手だった。
「何にせよ作戦までもうすぐよ」
そう言って天子は懐から懐中時計を取り出した。
まったく同じものを同じ時間に合わせて魔理沙にも渡している。
時計の秒針が等間隔で時間を刻むのを見やりながら、天子は口を薄く開いてカウントダウンを読み上げた。
「――2……1……」
カウントがゼロに到達する瞬間、麓の方から山を穿つ爆発音が鳴り響き、ロープウェイ全体ががグラグラと揺れて、搬器の天井からミシミシと嫌な音が鳴り響く。
遠くで魔力で巻き上がる狼煙を見て、天子は獰猛な笑みで刃のない緋想の剣を取り出して握りしめた。
「さてさて、どこまで上手く行くでしょうか」
「布石はたっぷり打ち込んだ。派手に行きましょ!」
「本来はこっそりって話だったはずなんですがね」
◇ ◆ ◇
「な、何事ですか!?」
謎の爆発にいち早く反応したのが椛だった。
早苗のところに行くから乗せてくれと言ってきた天子を遠目で監視していた彼女は、爆心地のすぐそばにいた。
吹き荒れる突風が木の葉を攫って己の身に叩きつけてくる中、腕で顔をかばいながら風に逆らって爆発の中心部に飛び込んだ。
荒れ地にだった場所に穿たれたクレーターに踏み入った椛は、上空に浮かぶ白黒の魔法使いを浮かべ警戒心をあらわにする。
剣に手を伸ばす椛の前で、魔理沙は威勢よく啖呵を切って八卦炉を構えた。
「私が蒐集したアイテムを天子のやつが盗みやがった! ここが匿ってるって聞いたから取り返しに来たぜ!」
「匿ってるとは人聞きの悪い、そんな事実はありませんよ!」
「問答無用だ!」
二度目の爆発音とともに、絡みついていた視線が掻き消えたのを感じ取った衣玖は、そのことを天子に伝える。
「監視の気配が途切れましたよ」
「よし、私達も動くわよ!」
それを聞くなり天子はロープウェイから飛び出した。
このまま魔理沙に陽動してもらい、自分たちは騒ぎの乗じて宝石を掘り出す算段だ。
状況が動き出す中、一回の鴉天狗である射命丸文は、魔理沙が魔法で妖怪の山を荒らすさまを遠目に見ながら、扇子で口元を隠して今回の騒ぎを推察していた。
「暴れまくりで手が付けられない……というか動きが無軌道すぎますね、何か裏がある?」
天子を出せと言いながら、魔理沙の動きに一貫性がない、あっちへふらふらこっちへふらふら高速で飛び交いながら、同じ場所を何度も周回したりと、捜索していると言うには無駄が多すぎる。
「椛と合流して情報を集めたほうが良さそうですね」
この状況は自分の手には余ると判断した文は、最も信頼する部下のもとに向かうことに決めた。
最初の襲撃で八卦炉を使用した魔理沙だったが、それ以降はスペルカードを出し惜しみしつつ、通常弾をバラ撒いて突然の戦闘に困惑する天狗たちを追い立てていた。
背中を見せてあわあわと逃げ惑う天狗を後ろから撃ち抜き、魔理沙は相手を圧倒する優越感と万能感から得意げに鼻を伸ばした。
「よおーし、いい調子だぜ、このまま引っ掻き回しまくって」
『気を付けなさい魔理沙!』
しかし快進撃を続ける魔理沙の下方から、複数の天狗が同時に弾幕を放って攻撃を仕掛けてきた。
進路を塞ぐ弾幕は人形からのアドバイスがあってギリギリで避けれたが、いやに統制が取れた弾幕に嫌な予感が走る。
「怯むなぁ! あのクソ天人を倒すためにやった訓練を思い出せ!」
「松組は右翼、竹組は左翼へ展開! 梅組と合わせて三方向から囲むぞ!」
「被弾したものはすぐ後退! つねに部隊内でのダメージを気にかけて穴を埋めろ!」
高速で駆け巡る魔理沙に対し、天狗たちはフォーメーションを組んで食らいついてくる。
そのうち何名かを弾幕で撃ち落としても、欠けたメンバーで新しい陣形を組んで休むことなく果敢に責め立てる。
『アリスは三時方向! 私は九時方向に弾幕張るわ。魔理沙は当てられないように動き回って!』
『なんて考え込まれた連携なの……悔しいけど人形たちの参考になるわね』
「な、なんかこいつら強くないかぁ!?」
天界コンビに何度も攻め入られた妖怪の山の防衛部隊は、繰り返した戦闘の中で確かな地力を積み上げ、幻想郷の中でも守ることにかけては屈指の傑作部隊となっていた。
魔理沙達が悲鳴を上げている最中、天子たちは監視の目を掻い潜り目的の場所へと急接近していた。
「方角はあっち、山の中腹辺り東側!」
「ロープウェイの進路からは遠いですね」
「急ぐわよ!」
索道から出たことがバレないように木々の間を縫って飛ぶのは神経を使うが、天子は枝に引っかかれながらも強引にへし折って森の中をかっ飛んでいた。
その後方からは衣玖が軽やかな軌道で枝を避けて、木の葉一つ被らずに天子を追いかけている。しかしもとよりスピードで秀でているわけではないので、少し遅れ気味だ。
従者を引き離しかけていた天子だが、急に殺気を感じて後ろへ飛び退いた。
「衣玖、後ろ!」
衣玖とほとんど激突しそうなくらい近くをすれ違い、位置を入れ替えた天子は背後からの閃光に対し、気質を展開した緋想の剣で受け止めた。
緋色の刃と白刃が押し合いへし合い、二人の剣士は相手の様子を伺おうと一旦距離を取り合う。
空に浮かんだ衣玖を庇う天子が睨みつける先には、大剣と盾を構える椛が木の枝に乗って構えを取っていた。
「椛、早いじゃない」
「この前、変なことを聞いてきたからな、何かすると思ったぞ」
「監視の目が途切れたのは、騒ぎが起こってすぐに走り出したからですか」
どうやら魔理沙の陽動は完璧には行かなかったらしい。
今は天子の障害となるのは椛だけであるが、このまま戦闘が長引けば他の天狗たちも天子の存在に気づいてこちらに向かってくるだろう。
その時点で作戦は失敗、例え弾幕ごっこで勝てたとしても採掘どころではない。
非常に拙い状況のはず、なのに天子は不敵に笑って見せた。
「だけどもう駒は揃ってる、この盤面はすでに私の手の平よ!」
天子は緋想の剣を空に掲げて声を張り上げた。
途端、天候が急激に変化を始めた。まばらに浮かんでいた雲が分厚くなりだし、曇天となった空にいくつもの緋い帯が敷かれる。
暗闇がかった空の下で無数の極光が広がって妖怪の山を照らしだす。
書き換えられた天候に椛が警戒して一歩距離を取る前で、波打つ極光の一つから光が渦巻いて落ちてきて、緋想の剣に吸い込まれた。
天から受け取ったのは、極光という形で大地から取り出した膨大な量の気質。
「輝け空よ! 唸れ大地よ!」
天子は空から極光の輝きを受け取った緋想の剣を逆手に持ち、地面に落下して剣先を大地に挿し込んだ。
爆発的な気質を受け、天子の足元が大きく隆起し、下から巨大な要石が土砂を跳ね上げて現れた。
地面から盛り上がった要石はガキンガキンと硬い音を立てながら変形と巨大化を繰り返し、その勢いはとどまることを知らず山の一角に巨大な人型としてその異様を晒した。
唖然とする椛の前で、出来上がった細身の要石人形(全長20メートル)はそのままでは灰色で味気ないところを、緋色の気質が人形全体に駆け巡って表面をコーティングし、いい感じに要所要所を緋く染め上げる。
完全に二本足で自立した人型の胸元に開かれた空洞内――、否、コクピットで天子は叫んだ。
「ウェイクアップ、テンシガー!」
叫び声を最後にコクピットブロックのハッチが石で閉じられる。
このロボ(?)は驚くことに石でできたはずの関節を動かして右手を天高く伸ばすと、その手に緋く輝く気質の剣が握られる。
アニメのようにポーズをとる、緋色の巨人が妖怪の山に君臨し、天に絢爛と広がる極光とともに自らの存在を喧伝した。
椛はもとより、陽動に徹していた魔理沙も、援護していたアリスとパチュリーも、防衛に出ていた見張りの天狗たちも、様子を見ていた上層の天狗たちも、誰も彼もがその巨体を見上げて口々に呟いた。
『バカだ……』
椛は呆れるばかりだった、コソコソと何かをしていたようだが、こんなものを出しては隠れるも何もないだろうに。
しかしこんな巨大質量を相手にするのはいささか面倒だ。
自分一人で相手をするには時間がかかりすぎるが、これだけ目立つなら他の者も気付いただろうし、一旦離れていいだろう。
「……文様と合流するか」
何だかんだ言って、こういう時には一番に思い浮かぶのがあの鴉天狗のことだった。
空に向かって胸を張るテンシガーから退却する椛だったが、山の上ではとんでもないことが起ころうとしていた。
「――来ましたか。空に緋色の幕が降りる時、決戦の火蓋は切って落とされると、天子さんは言いました」
神社の鳥居の下で、吹き荒れる突風にバタバタと長髪とスカートをはためかせて、テンシガーの威容をキラキラした眼で眺めている早苗が居た。
その背後には守矢の二柱、神奈子と諏訪子がまた意味ありげな笑みを浮かべている。
自らが信奉する彼女たちに向かって、早苗は大きく腕を振り上げた。
「さあさあさあ! 今こそ、お互いに作った巨大秘密兵器を戦わせるときです! 神奈子様、諏訪子様、お願いします!」
「あいわかった!」
「ぶっちゃけ山の天魔とかには怒られそうだけど、まあいっかやっちゃおう!」
蛙のように飛び跳ねた諏訪子が参拝道に手足を付いて着地すると、境内の横の地面が突如爆発を引き起こして土砂を巻き上げた。
地面の中から現れたのは、ペラペラした、しかし異常に大きな金ぴかなゴム質の何か。
次いで早苗がお祓い棒を振り上げると、彼方より舞い込んだ風がゴムに空いた穴から入り込み、あっという間に巨大な人型へと変貌を遂げた。
おかしなことに、その人型には身体のあちこちに空洞が開いていたが、これは無意味についているわけではなかった。
「喝ッ!!」と神奈子が叫ぶと、どこからかオンバシラが飛来して、ゴムの空洞に挿し込まれた。
ついに完成した巨大兵器の頭部に用意されたコクピットへ、一人の現人神と二柱の神が座布団を持って入り込む。
「諏訪子様特性の風船タイプのボディに私が奇跡でなんやかんやして膨らませ、神奈子様のオンバシラを各所に挿し込んで骨格とする! これぞ付喪神が生まれないように即時組み立て、即時解体を追求した非想天則の発展型!」
巨人の眼孔から外部を覗き見ながら、早苗は奇跡でなんやかんやして、自らが搭乗した巨大兵器の四肢を稼働させる。
山の斜面に乗り出して、左腕を引き右腕を大きく伸ばす巨人、その内部の早苗は足りないレバーを妄想で補って、巨人に合わせて両手を振り回していた。
「グレート非想天則です! さあ、天子さん、今こそ因縁の宿命に決着をつける時!!!」
風に乗った早苗の声が、山の隅々まで凛として響き渡る。
屹立する黒い巨人を前にして、山の誰しもが内心叫んだ。
――――バカが増えたー!!!
そんなツッコミがあるとはつゆ知らず、早苗はグレート非想天則のコクピットで「やりきりました……!」と満足気にドヤ顔を決めている。
しかしライバルが現れたと言うのに、目の前のテンシガーからは何の反応も返ってこず、ノリの良い反応を待ち望んでいた早苗は首を傾げた。
「……アレ? 天子さ~ん? おーい、なんで返事しないんですかー?」
音響を最大にして尋ねてみても、周りの天狗が耳を抑えて墜落するだけで、テンシガーは動かない。
訝しんでいると、テンシガーの方向から衣玖が羽衣をひらひらさせてグレート非想天則にまで飛んできた。
グレート非想天則の眼孔越しに顔を合わせた二人はそのまま会釈する。
「どうもこんにちは早苗さん」
「ああ衣玖さんこんにちは。どうしたんですかあっちは?」
「天子様から伝言です。これ作ったはいいけど、スピーカーとか付いてないから喋れないわ、ですって」
「えっ、何ですかそれ寂しい……」
それだけ言うと衣玖は「じゃ、これで」と素早く身を翻して戻っていってしまった。できる女は引き際も鮮やかなものだ。
少しばかり意気消沈した早苗だが、すぐに気を取り直すとてっぺんの髪の毛を揺らしてフンスと息を鳴らした。
「いやいや、ロボットアニメではお前それ通信繋がってないから話しできないはずだろと言うシーンでも、会話めいた語りが挟まれたりするもの! ここは私のオリロボ設定で鍛えられた妄想脳をフル回転させて場を盛り上げましょう!」
テンション上げ上げまくった早苗はグレート非想天則にファイティングポーズを取らせ、テンシガーへと走り出させた。
土砂を巻き上げて近付いてくるグレート非想天則に、ようやくテンシガーも動き出して伸びるビームサーベルもどきを両手で構える。
大きく振りかぶって放たれたグレート非想天則のドでかい拳と、大上段から振り下ろされたテンシガーのサーベルがぶつかり合い、激しい火花を散らした。
「あなたの思い通りにはさせません!」
「人は憎しみで戦ってはいけないのです!」
「我々は我々だけで生きるべきではない!」
「人間はそんなものだって乗り越えられるー!」
「戦いこそが人間の可能性なのかもしれません!」
なんか矛盾した言葉を重ねながら、早苗は一心不乱にグレート非想天則を動かしまくる。
金色の巨体が拳で殴り、サーベルを腕で受け止めて守り、殴り、守り、殴り、守り、一進一退の攻防が振り広げられ、足元では天狗や河童が住処を踏み潰され蹴飛ばされる
大地を揺るがす重低音と多くの悲鳴をBGMに二つの巨人が競い合う。
「おりゃー! うりゃー!」
「早苗、楽しそうだあねー」
「育て方間違えたかしら……台詞選びが軟弱過ぎる」
早苗の醜態に、神奈子が嘆いて頭を押さえた。
そんなことにも気付かないほど勝負に熱中していた早苗は、隙を見て蹴りつけようとしたところを、サーベルのカウンターで突き飛ばされ、グレート非想天則がたたらを踏んで後退する。
何気に分厚い装甲はこの程度では破れないが、ダメージが蓄積すればいかにグレート非想天則と言えど危ない。
「ぬあ、流石は機械みたいな反応速度! 人間の私ではこういうところが及びませんか」
そもそも人間とでは基礎スペックに差があるのだろう、パイロットの技量はテンシガーのほうが上回っているようだ。
「しかあし、そこは愛と勇気と、パワーで逆転するところ!」
グレート非想天則が拳を掲げて唸りを上げる、右腕を大きく引き絞り、助走を付けて殴りかかった。
また先程のようにサーベルで防ごうとしたテンシガーであったが、グレート非想天則の拳を受け止めた瞬間に手の甲から突き出してきた何かが気質の刀身を貫いて、テンシガーの右肩を粉砕した。
煙と音を立てて崩れる右腕を庇い後退するテンシガーを前にして、グレート非想天則の拳から伸びていたものは、巨大なオンバシラであった。
「見ましたか! 骨格となったオンバシラは展開することで武器としても使用できるのです!」
片腕を失くしたテンシガーは上手くスペックを発揮できないのか、気質のビームサーベルは霧散して徒手空拳となっていた。
破れかぶれに残った左腕で殴りかかってくるが、重心がブレたパンチなどグレート非想天則の敵ではなく、右の手であっさりと受け止められて拳を締め上げられる。
右手だけでテンシガーを抑えつけるグレート非想天則は、溜めに溜めた左の拳をテンシガーに向けて放った。
「さあ、トドメのオンバシラバンカー!!!」
渾身のオンバシラがテンシガーの首から上を吹き飛ばす。
テンシガーは首を無くし、コクピットの上部に大穴を開けられて力なく尻餅をついて山の斜面に倒れ込んだ。また一つ天狗の家が潰れる。
巨大ロボの片割れが打倒され、空にかかっていた極光と雲はまたたくまに姿を消し、元の清々しい青空が姿を見せる。
宿敵を打ち倒し、雄々しく勝利のポーズを取ったグレート非想天則から、早苗は勝ち誇ってテンシガーの残骸を見下ろした。
「呆気ないものですが私の勝ちです天子さん! ……って、あれ?」
本来パイロットがいるべきテンシガーの胸部の空洞には誰の姿も見えず、そこにあったのは一枚の符だけだった。
「――巨大要石ロボでの陽動は上手く行ったようね」
晴れ渡った空をバックに勝鬨をあげているグレート非想天則を、木々の隙間から遠く眺めながら、天子は呟いた。
天子と衣玖がいるのは、巨大ロボたちが取っ組み合っている場所からかなり離れた山の中。
「あんたのお陰よ橙」
そう言って天子がかぶっていた帽子のつばを持ち上げると、下から黒猫が顔を出してプハーと大きく息を吐いた。
苦しそうだった黒猫は二股の尻尾を揺らしてするりと天子の頭から抜け出ると、煙を立てて人型の少女へと変化した。
「へっへー、どんなもんだい!」
「ありがとね、私じゃ遠距離で動かすまではできなかったから助かったわ」
「いいよこのくらい。紫様のためだし、それにあんな大きなものを式で動かす機会はそうないからね、いい勉強になったよ」
幼さと元気をいっぱいに詰め込んだ橙は、えへんと誇らしげに胸を張る。
彼女こそ、天子が魔理沙からの了解を取り付けて、協力を要請した秘密兵器だ。
天子は要石ロボを作り気質を介して操ることには成功したが、いかんせん遠隔操作で気質を自在に動かす技術を持っていなかった、そこで橙に式神として使ってもらうことで天子無しでの自律行動を可能としたのだ。
最初に橙を勧誘した時、天子の道楽にそこまで付き合うのはと渋っていたのだが、ちょっと首飾りのことをことを言うと、紫に関係有ることだと察して喜んで協力を約束してくれた。
役割を果たした橙は、再び黒猫の姿に戻って天子たちとは別方向へ足を向ける。
「それじゃ私はこれで御暇するよ、妖怪の山に睨まれて紫様たちに迷惑はかけたくないもん」
「オッケー、吉報を待ってなさい」
「期待してるね!」
「ありがとうございました、橙さんもお気をつけて」
別れを告げた橙が駆け出すのを見て、天子たちも目的の宝石が眠る方角へと低空飛行を開始して木々の間を抜けていく。
「それにしても、あんな大きいのをあそこまで精密に動かせるとはね。負けちゃったけどあそこまで粘るとは思わなかったわ」
「私ももっと単純な動きしか式にできないと思ってました」
天子としては陽動として軽く手足を振り回してくれればいい程度に考えていたのだが、橙の式神はそれを凌駕する完成度だった。
単純な反応速度だけなら天子と同等かそれ以上であり、勝負が長引くよう的確に防御しつつあえて防がれやすい攻撃を繰り返していた。
水に濡れただけで式神が飛ぶ未熟者というのが橙へのイメージだったが、秘めているポテンシャルは想像以上のものらしい。
「伊達に八雲家の一員じゃないってことね」
三分ほど山の中を飛び続けていた天子だったが、切り立った崖の下に差し掛かると急ブレーキを掛けて地面に降り立った。
「よし、着いたわ、ここよ!」
天子は言うなり緋想の剣を地面に突き立て気質を放出し、崖の一部に裂け目を作り上げた。
人が二人通れるかどうかの狭い隙間に天子と衣玖は潜り込み、緋想の剣を灯りとして暗闇を照らし出す。
彼女たちが見たのは、奥に押し込められるかのように固められた色とりどりの宝石が、光を受けて煌めく光景だった。
何種類もの宝石の原石が岩盤に根付いて、赤、黄、緑、青、紫、無数の色彩がひしめき合い、ここから掘り出してくれと言わんばかりに存在感を示してくる。
「な、なんですかこれ。いくつも鉱石が集まっているみたいですが、鉱床ってこういうものなんですか?」
「違うわね。多分だけど、幻想郷ってあちこちから土地を引っ張ってきたりすることもあるらしいから、その時に宝石同士が引き寄せあってここに集まったんじゃないかしら。少なくともこれは自然に発生するもんじゃないわ」
考察もそこそこに天子は緋想の剣で鉱石を根付いた岩盤ごと切り取った。
出来上がった直径1メートルほどの原石塊を持ってきた大きめの風呂敷で包み、裂け目から持ち出そうとする。
「よし、魔理沙たちの分も合わせてこれだけあれば十分ね」
「なら早めに脱出しましょう、今の地割れは結構目立ちますよ」
「わかってるわよ――っと、ちょっと待って」
切り取った岩盤の更に奥に何かを見つけ、天子は緋想の剣を伸ばして切り取った。
「天子様!」
「わかってるわ、行くわよ!」
裂け目から出た天子は、原石の詰まった風呂敷を背負って妖怪の山を下りて行く。
ここまでは順調だが、どうなるのかわからないのが幻想郷というところだ、不安と焦燥を楽しみながらも、一刻も早く山から脱出しようと先を急いだ。
◇ ◆ ◇
山中の天狗が右往左往している中、文は隣に椛を置きながら冷静に状況を俯瞰して、現状の把握に徹していた。
「上は巨大ロボ、下は白黒、あっちもこっちも滅茶苦茶ですね」
テンシガーを倒したはずのグレート非想天則は天子本体を探してその巨体で山を徘徊し、魔理沙は未だに天狗の防衛隊と衝突し続けている。
妖怪の山全体が混迷を極める中、文はすでに今回の元凶の当たりをつけていた。
「椛、あなたはどう見ますか?」
「十中八九、黒幕は天子です。恐らく魔法使いは天子にそそのかされたかと言ったところ」
「同意見ですね。私たちは天人を捕まえるために独自に動きましょう」
これぐらいは冷静に考えればすぐに出て来る結論だろう、他の天狗に横取りされる前に天子を確保しなくてはと文は静かに燃えて拳を握る。
対して目に見えて情動的な様子を見せる椛は、天子に対する不満を吐き出していた。
「彼奴は卑怯なくせに派手好き、と見えたかに思えば相当にしたたかです! きっとこの山の何処かに潜伏しています、私があいつと将棋を打った時も、大げさな言動しながらセコい手でじわじわ攻めてきて……!」
「……実はあなたが内通者じゃないでしょうね?」
「ち、違いますよ!」
椛が普通に仲のいい友達みたいな発言をするので文が睨みつけると、ふさふさの尻尾をバタバタと振り回して慌てて否定してきた。
「それにしても、文様今日はやけに熱心ですね。いつもは周りから言われない程度に、適当に相手して終わりなのに」
「当然です。今までにない行動を起こした天人、その真意とは!? スクープの予感ですよ」
「もう、そればっかりなんですから……」
呆れて肩を落としながらも立場上強く言えない椛だったが、落胆する瞳に何か奇妙なものが映った。
文の背後、空間を裂いて這い出てきた手――何故か絆創膏まみれ――が忽然と姿を表していた。
空間をも伝って世界を這う得体の知れない何者かに、椛は使命感から身を乗り出してその手を掴んだ。
「文様、後ろ危ない!」
◇ ◆ ◇
ところかわって、幻想郷の僻地にある八雲邸。
妖怪の山から遠く離れたここでは、どこかでドタバタ騒ぎが起こっていることなど露知らず、平穏の時が流れていた。
そんな場所に、二振りの剣を携えてやって来た半人半霊が一人。
「紫様、藍さん。お呼びに預かり参上しました!」
切りそろえられた前髪の下から家を見上げながら、妖夢らしい透き通った迷いのない声を響かせた。
いつもならこうやって名乗りを上げればすぐに家の中から藍が出迎えに来てくれるはずだが、しばらく待っても誰も出てこない。
「紫様? 入りますよー!」
招待を受けた身であるし、勝手に入っても問題はないだろうと妖夢は玄関を開けて家に上がる。
紫から呼びつけられたのはついさっきのこと、白玉楼で昼食後の後片付けをしているといつのまにかスキマから手紙が届けられており「よければ手伝って」と書かれていた。
何を手伝えばいいのか書かれていない胡散臭い内容に、妖夢は主人の幽々子から派遣されたのだだ、何を手伝わされるのかドキドキしながら、誰かいる気配のある台所へと向かった。
だがその不安のドキドキは、台所の扉を開けた瞬間に恐怖のドキドキへと変化した。
妖夢の眼前に広がるのは、並べられた皿の上から色とりどりの煙が立ち上り渦を巻いて、本来清浄であるべき台所を魔境へと変貌させている光景であった。
百鬼夜行も裸足で逃げ出し悪臭と邪気が渦巻く魔境となり果て、その中心で割烹着姿の紫が佇んでいる。
「うわ、なんだこれ!?」
「あら妖夢、来てくれてたね!」
こちらに気付いた紫は嬉しそうな顔でこちらを見つめてきた。その手には無数の絆創膏が張られて、血を滲ませている。
妖夢は厄介ごとの予感をひしひしと感じながらも、しょうがなく台所に上がり込む。
途端、鼻を突いた緑色の煙のおどろおどろしい臭いに吐き出しそうになるのを、口元を手で押さえて堪えた。
「ど、どうしたんですかこの惨状!?」
「それが、藍に料理を教えてもらってたんだけど、中々上手く行かなくて」
「えっ、料理? 新手の拷問兵器の開発じゃなくて?」
妖夢が毒々しい物体Xシリーズに目を滑らせていると、机の影で大きな何かがもぞもぞと動くのが目に映ってぞっとした。
まさか料理で人体錬成でもしてしまったのかと思いきや、よくよく見ているとそれは倒れ伏していた九尾であった。
「おぉ……よ、妖夢、逃げろ、ここは地獄だ…………!」
「ら、藍さん、気をしっかり!」
妖夢が慌てて藍を助け起こすが、その頬はこけ、つやつやとした毛並みだった尻尾は色あせ萎びてしまっている。
藍から息も絶え絶えに絞り出された声は、胃の奥からこみ上げてきた料理の悪臭が滲んでいて、妖夢は気持ち悪さに顔をしかめた。
「紫様の料理を食べては生きて戻れない、早く冥界に逃げ込むんだ……」
「そんな、あなたを置いてだなんて!」
「私はいい、ただ伝えてくれ……橙に……お前を愛して……いた、と……」
「藍さん……? らんさああああああああん!!!!」
がっくりと力を失って頭を垂らした藍を、前にして妖夢の慟哭が木霊する。
妖夢はこの事態を引き起こした張本人である紫に顔を向かせ、涙で滲んだ眼で睨みつけた。
「どうして、どうしてこんな酷いことを……!」
「味見してもらってたらこうなっちゃって」
「それだけでこうなるって常軌を逸してますね……」
チラリと机に並べられた失敗作を見てみる、確かにこれは一口食べただけでヤバいと思わせるプレッシャーがある、というかこうして漂ってくる臭いだけでキツイ。
「これもすべては天子のため……必ず天子に美味しいと言わせてあの娘を喜ばせるわ!」
「は、はあ……」
段々と自分が呼ばれた理由を察してきた妖夢は、恐る恐る紫に問いかけた。
「あの……私が呼ばれたのって、もしかして……」
「藍がダウンしちゃったから、代わりに料理を教えてくれないかしら?」
キラキラとした目とともに返ってきた答えが予想と一致したことに愕然として、ショックのあまり抱えていた藍が床に落ちてビターンと音を立てた。
こんな危険物質を作り上げる化物に自分がどうしろと? 流石は世界の理を歪める異物がどうとか言われてるだけのことはある、もはや巫女が出動する案件だ。
とにかく自分には荷が重すぎる、藍が無理だったことをどうにかできるとは思えない。
返答に困っていると、床に叩きつけられていた藍が妖夢の足首をガシリと掴んだ。
「た、頼む……妖夢……私はもう無理だ、私の代わりに紫様を……」
「逃げろって言ったり頼むって言ったりどっちなんですかぁ!」
正直に言って帰りたい、帰って主人と茶でもしばいてのんびり過ごしたい。
しかしこと生真面目な妖夢は最初から断るという選択がほとんどない。
「ねえ妖夢、お願い私に料理を教えて!天子のためなの!」
何より、いつもは胡散臭く振る舞ってる紫が純粋な女の子らしい態度で頼み込んでくるのを振り払うことは良心が許さなかった。
「わかり……ました……」
「やった! ありがとう、助かるわ」
結局料理の準備をしだす紫を不安げに見つめていると、起き上がった藍がポンと妖夢の肩に手を置いた。
「ありがとう妖夢。私もしばらく休んだら復帰するからそれまで頼む」
「はあ……というか大丈夫なんですか」
「さっき言ったとおり、一口味見したら残りは残してるからな、実際にはそれほど食べてないんだ。食材もったいないがしょうがない……」
「それでその弱りようは尋常じゃないんですが、というか本人に食べさせるのはダメなんですか」
「そうしてたんだが、すでに紫様の舌から味覚がなくなり始めててな……」
「余計不安になってきたんですけど!? っていうかそんな状態であんなアッパーテンションなんですか!?」
天子のことで咲いたお花畑は、どんな毒物にも耐える無駄に頑丈な花でできていた。
むしろ苦痛であればあるほど「天子のためなら!」と変な方向に燃え上がっている、もしやすでに殺人料理で精神を壊してしまったのではと藍は思い始めていた。
「紫様が包丁握ったら救急箱の用意をしろ、毎回血が出るからな。あと平気でフライパンから火を噴かすし、調味料は残ってるものを全部使おうとするし、野菜は皮剥き過ぎで親指ほどしか残らないし、鍋は吹き零れるのを通り越して爆発するし、途中まで普通でも何故か完成すると毒物になってるから気を付けろ。それじゃ私はこれで……」
「ま、待って! 食べなくていいからせめて傍にいてくれませんか藍さん!? 藍さーん!!?」
藍がご丁寧な忠告を残して去ろうとするのに、死を予感した妖夢が大声で喚きながら縋り付く。
紫はそんな光景を視界の端に収めながらも、なんとかは盲目と言ったところで、大して気にせずに料理の準備を進めていた。少し嫌がってるようだが、練習が終わったら有名所のお菓子でも持たせて埋め合わせすればいいだろう程度に考えている。
「そろそろ切れそうな食材があるわね、新しいのを調達しないと。きのこきのこ、と……」
取り置きの食材をチェックして、どうせなら新鮮のが良いなと思い自生しているきのこを探し出した。
幻想郷中に張り巡らせた監視の目にアクセスし、妖怪の山に生えていたきのこを見つけると、すぐにスキマで空間を繋いで手を伸ばした。
しかし紫にとって全く予想外のことに、スキマの向こう側で何者かが紫の手首を引っ掴んだ。
相手が戦闘中で警戒しているわけでもあるまいし、まさか前触れ無く飛び出た腕を掴んでくる輩がいるとは予想外で、紫は驚いて対処する暇がないまま身体ごと腕を引っ張られた。
「え? なにこれ、あー!!?」
「紫様!?」
妖夢が見ている前で、紫はスキマの中に引きずり込まれてしまう。
有無を言わせてもらえないまま妖怪の山に連れてこられた紫は、地面の上に受け身も取れないままうつ伏せで倒れ込んだ。
「あいたた、一体何が……」
痛みに苦しみながらも上半身を起き上がらせて周囲に目を向けると、黒と白の二人の天狗と目が合った。
「なななななななな!?」
「や、八雲紫ー!!?」
妖怪の山に住む天狗の文と椛だ、どうやら彼女たちのせいでこっちに引っ張ってこられたらしい。
向こうもまさか紫が来るとは思ってなかったようで、現れた大妖怪に驚いて慌てふためいている。
しかし紫の奇妙な格好に気がつくと、その驚愕も一気に沈静化した。
「……何で割烹着?」
「ハッ」
紫は自分の身体を見下ろして、この状況が意外と切羽詰まっていることに気が付いた。
こんな格好で山にいるところを新聞の記事にでもされたら、妖怪の賢者が割烹着なんか来て山で何をしているんだと変な勘ぐりを受けることになる。
何よりも、割烹着でスキマから引っ張り出された情けない姿を天子に知られる訳にはいかない!
スキマでここから逃げるのは簡単だがそれだけでは不足だと、紫はまず御しやすいだろう白狼天狗のほうに飛びかかって耳に口元を近づけた。
「うわあ!? な、何をする離せ!」
「あなた、本当はそこの鴉天狗が好きなのに素直になれないんでしょ?」
「ほあ!?」
抵抗する椛に紫がしがみついたまま囁きかければ、目に見えて困惑しだした。
「そ、そんなデマカセ言って私を混乱させようなどお!?」
「そうデマカセねえ、それならあなたの懐にある大事な大事なブロマイドのことを喋ったって大したことないわけね」
「何故それを!!?」
「椛に何をするんですか!」
いきり立った鴉天狗が睨み付けてきたところで、紫は椛を放り出してターゲットを変更した。
睨みつけてくる文に真正面から近づくと、顔を寄せてボソボソと言葉を投げかける。
「あなた、そこの白狼天狗から嫌われてることを気にしてるんでしょう?」
「いきなり何を……」
「この場を穏便に済ませてくれたなら、彼女が好きなものとか色々教えてあげるわよ。好みのおかずでお弁当作ったりしたらイチコロなんだから」
「……ゴクリ」
脅しと餌を与えられたそれぞれの天狗は、仲間内で気持ちを探りあうように見つめ合うと、紫に向かって頭を下げた。
「参り」
「ました」
「ふふ、よろしい」
ひれ伏す天狗たちを前に紫は妖美な笑みを浮かべるが、しかし割烹着姿では威厳も何もなかった。
とりあえず窮地を脱することに成功し冷静になってくると、山の中で時折爆発音が聞こえてくることに気がついた。
ここにはきのこ以外に用はないのだが、この異音の正体が気になって尋ねてみる。
「ところで山全体が騒がしいようだけど、何かあったのかしら?」
「おや、てっきりあなたも関わってるのかと思ったのですが、知らないんですか? 今、また天子が騒ぎを起こしてて」
「天子が?」
顔を上げた文から出た名前に、紫が目を丸くしている中で、その場に急接近してくる何者かがいた。
猛烈なスピードで木々の枝をへし折りながら、慌てふためいた声を上げてそれは現れた。
「ちょっとそこ邪魔どいてー!!!」
特大の風呂敷を背負った天子がスピードを維持したまま襲来し、たまたま進行方向にいた文にぶち当たった。
「グギャー!?」
「文様ー!!?」
重荷からなる重量の乗った天子に轢かれた文が、きりもみ回転を起こしながら吹き飛ばされ、近くの木の幹にごんと頭を打ち付けた。
失神する上司を前に、椛は狂乱して助け起こそうとする。
「文様しっかりしてー!」
「なんか知らないけど宝石アタック!」
「ぶげっ!?」
だがその横っ面に、天子がぶん回した風呂敷を容赦なくぶち当てた。
一瞬の間に殲滅され死屍累々となった天狗たちを前に、天子はよくわからないまま額の泥を拭って達成感に溢れたいい表情を浮かべた。
「悪は去った……」
「いや、あなたがまごうごとなき悪でしょ」
思わずツッコむと、天子が振り向いて紫を顔を合わせてきた。
天子は数秒ばかり固まり、ようやく目の前のいるのが紫だということを理解すると、驚いて後ずさる。
「げえっ、紫!? なんでここにいるのよ、橙が漏らしたわけ!?」
「げえとは何よげえとは……いや、それよりもうちの橙を巻き込んで何かしてるの?」
「……なんで割烹着?」
「ハッ」
橙について言及しようとした紫だったが、再び自分の格好を思い出す。
「ああいや、これはその、最近山菜採りがマイブームでね! 汚れないように着てみてるの!」
「その手、絆創膏だらけだけどどうしたの?」
「あっ……さ、最近は藍のお手伝いで洗い物もしてるんだけど、ちょっと皮が裂けちゃって! いやー、春って言ってもまだまだ寒いわねー、おほほ!」
この姿を見られてしまったのは相当に恥ずかしいがこの際仕方ないとして、せめて料理の練習をしていることは秘密にしていたい。
サプライズで料理を振る舞って天子を喜ばそうという魂胆だった紫は、必死に言い訳を取り繕った。
天子は怪しいなあと目を細めながらも、すぐに思考を切り替えた。
「やばっ、今はそれよりあいつを撒かなきゃ! 衣玖の足止めもいつまでも保つか……!」
「あいつって、そんなに血相変えてどうし……」
いつになく焦燥した天子に紫が首を傾げていると、後方から重々しいな殺気を感じ取って、肝を冷やして振り向いた。
天子も殺気に気づいたようで、紫と同じ方向を向いて泡を食っている。
二人の視線の先にいるのは、両脇に陰陽玉を浮かばせ、異変の真っ最中もかくやという完全戦闘態勢を取った博麗の巫女がいた。
その手には竜宮の使いがボコボコにされて壮絶な表情のまま気絶し、襟首を捕まえられて空から吊るされている。
特大の危険を感じさせてくる霊夢に睨みつけられて、さしもの紫も恐怖を覚えて後ずさった。
「れ、霊夢……」
「やっぱりあんたの差し金か天子ぃ、それに紫ぃ……!!」
◇ ◆ ◇
――遡ること数時間前。
朝も早い時間から顔を赤くした萃香が、中身の詰まった風呂敷を片手に博麗神社にやってきたときのことだ。
「おはよう霊夢うわあああああああ!!!!?」
頬が痩けて生気を感じられない顔でだらんと口を開け、縁側に横たわった霊夢を見て、萃香は真っ青な顔で悲鳴を上げた。
萃香は慌てて萎びたトマトのような巫女に駆け寄る。
「ど、どうしたの霊夢!?」
「う……あ……」
「なに? しっかりして!」
「お…………お、お腹すい……た」
「お、おう?」
なんつーベタなと思いつつ、萃香は持ってきた風呂敷に詰まったいっぱいの桃に目をやった。
萃香からの天界土産を皮もむかずに食べ尽くした霊夢は、膨れた腹で仰向けに寝転ぶ。
「ようやく生き返ったわ、死ぬかと思った……」
「そりゃ良かった。しかしどうしたんだい、いつもお金には困ってるが、食べる物に困ってるところは初めて見たよ」
「……まずウチの食料ってね、紫から供給されてるのよ」
まともな参拝客もそういない博麗神社は、金銭面において安定した収入が見込めない。
それでも飢えずにいられるのは、食料に関しては紫がすべて負担していてくれるからだ。
お陰で霊夢は日々宴会騒ぎを起こされようと食料に困ることなく、神社としての僅かな収入を娯楽やお菓子に充てることが出来ている。
「今までは定期的に食材をいつのまにか用意してくれてたんだけど」
「うん、それで?」
「……台所にでも行けばわかるわよ」
霊夢から暗い声で言われて、萃香は巫女をここまで沈ませるとは何なのかと奇妙に思いながら、神社の奥へ向かった。
「……なんだいこれ」
そこで萃香が見たのは、机の上に並べられた料理の数々。
だがこれを料理と言って良いのだろうか、皿の上に盛り付けられた料理は青色やら紫色やらに変色し、カラフルな煙を吹き上げている。
その妖しい煙に誘われてか、なぜだか周りには数匹のハエが群がっていた。
ブーンブーンと不快な音を撒き散らしながら飛行するハエが煙の中をくぐった、するとピタリと羽を止めて机の上に落下する。
苦しみ悶えながら生命活動を止める虫の最期に、呆然としていた萃香もここにいたらヤバいと直感しすぐさま引き返した。
ドタバタと足音を立てながら霊夢のところに戻ってくる。
「見てきたけどなにあれ!?」
「三日前から食材じゃなくて料理で支給され始めたのよ。でも食べれたもんじゃないし」
さすがに種族:巫女と言えどあれを食しはしなかったらしい。
食料の供給を実質ストップされた霊夢は、満腹になった腹の底を怒りに震わせる。
「冗談じゃないわよ、ったく! 紫のやつ何考えてんのよ、寄越すなら産業廃棄物じゃなくて米を持ってきなさいよ!!?」
「しっかし料理か。とすると、天子のアレかな」
萃香は少し前に紫と天子がいい雰囲気だったのを思い出し、おおよその推測はできた。
恐らくは天子への想いで頭がお花畑状態になった紫が、天子のために料理の勉強をして、もったいないからと失敗作を霊夢に押し付けたのだろう。
その呟きを聞いた霊夢は、鬼のような形相で萃香の角を引っ掴んだ。
「あの天人の差し金なの!?」
「いたいイタイ痛い! 角持ってヘッドバンキング止めて!?」
萃香の頭を振り回した霊夢は、涙目の子鬼を突き飛ばして、ギラギラと怒りに滾った怪物のような眼で両手をわなわなと震わせた。
「彼奴めぇ、いつか神社をぶっ壊しただけじゃ飽き足らずに……恨みはらさでおくべきかぁぁぁぁ……!!」
「ひえぇ……」
怯える萃香の前で霊夢はお祓い棒を握りしめて軋ませると、陰陽玉を連れて縁側から突風のように飛び出していってしまった。
萃香は風にさらわれた髪がゆっくりと床に垂れるのを感じながら、霊夢を引き止めることなどできず呆然とするしかなかった。
「……あー、天子のやつ、大丈夫かな。この後アレの予定なのに」
◇ ◆ ◇
そして妖怪の山の騒ぎを聞きつけて天子を追いかけていた霊夢は、とうとう天子が紫が一緒にいるところを目撃した。
伸びた衣玖を地面に放り捨てる。今回の事件の犯人がこの二人の仕業であると断定し怒りに狂い、怒声を響かせた。
「あんたら、私が苦しんでるっていうのに揃いも揃ってこんなとこでなにやっとんじゃあぁぁぁあああ!! 許さん!!!」
「おち、おち、おち、おち、落ち着きなさって霊夢、言葉遣いおかしくなってるから」
まったく悪意のないまましでかした紫は、一体何故自分でこれほどまで敵意を向けられているのかわからず声を震わせた。
ひとまずわかるのは、とにかくここにいると危険だということだけだ。
「……脱出ー!」
「させるかー!!」
スキマから逃げようとした紫の腰に、天子がしがみついて引き止めた。
「一人だけ逃げようたってそうはいかないわよ! こうなったらあんたも巻き込んでやるー!」
「止めなさいこの構ってちゃん! どうして私まで濡れぎぬ着せられてガチギレ最終兵器の相手しなきゃいけないの。スキマ通れないでしょ、離しなさい!」
実際のところ天子のほうが濡れ衣なのだが、そんなことは誰もわからない。
勘違いしたままの霊夢は、お祓い棒を振り上げてとうとう紫と天子に向かって襲い掛かってきた。
「そこのクソ天人ともどもまとめて退治してやる!」
「あんなに怒らすなんて天子なにしたのよ!?」
「こいつには何もしてないわよ!」
四の五の言ってられなくなった二人は、飛んでくる針や御札を背に肩を並べて逃げ出した。
とにかく霊夢にやられないように、妖怪の山をあちこち飛び回り逃走劇を繰り広げる。
ヒイヒイ言いながら逃げ回っていると、騒ぎに気づいた見張りの天狗が飛び出してきた。
「見つけたぞ天人! 我らの縄張りで何をして」
「邪魔よ死ね!」
「ギャー!!!」
そして通り巫女にお祓い棒を叩きつけられ、悲鳴とともに意識を失い倒れ伏す。
最初は一連の騒ぎの元凶である天子を成敗しようと血気盛んな天狗が何人かやってきたのだが、みな霊夢に叩きのめされて、博麗の巫女が天子を追っているという情報が次第に山に伝播していった。
「うわああああ、逃げろ天人どころじゃない!」
「子供は隠れろ、大人も隠れろ! 巫女に取って喰われるぞ!」
「助けてママー!!!」
あっという間に妖怪の山は阿鼻叫喚の渦に包まれた。
天狗も神も妖精も区別なく、通り道にいた山の住人は霊夢にみんな退治されてそこら中から断末魔が上がる。
悲鳴のバックコーラスを聞きながら、天子は隣を飛ぶ紫に叫んだ。
「逃げるなら私もスキマで連れてってよ!」
「あなたの背中のが変な力場作ってて空間が安定しないのよ、何入ってるの!?」
「宝石!」
「なんで宝石!?」
「お米をよこせええええええ!!!」
謎の掛け声とともに霊夢が特別強い御札を取り出して、天子に向かって投げ飛ばした。
わずかに天子の対応が遅れている。このままでは直撃と見た紫は、咄嗟に天子を突き飛ばした。
「天子危ない!」
「うわっ!」
御札はギリギリのところで二人の間を通り抜けて、その先にあった大木の幹を木っ端微塵に吹き飛ばした。
天子を逃がすことに成功した紫だが、自分は体勢を崩して地面に肩から落っこちてしまった。
すると巫女が今度は紫に狙いをつけ、お祓い棒を振り上げて距離を詰めてきた。
それを見た天子が、慌てて手を天に掲げる。
「天罰の石柱!!」
天子によって作り出された細長い要石が、紫と霊夢の間に割って入ってきて壁となった。
進行を妨げられた霊夢を速度を落とすのと同時に、天子が紫の手を引っ張って空に飛び上がる。
「待てやゴルア!!」
「あーもう、鈍くさいわね!」
「あなたを助けようとしたんじゃないの!」
言い争いながらも、いつのまにか博麗の巫女という暴威を前に天子と紫は協力し始めていた。
そのことに気が付いた天子は、背後のプレッシャーに緊張しながらも、それ以外のものがこみ上げてきて口から漏れ出す。
「あっははは」
「こんな事態に何笑ってるのよ!」
「いやぁ、あんたとこういう風に一緒に戦うの初めてだなって、ははは」
「……まったく、そんな場合じゃないでしょうに」
呆れていた紫だったが、それを聞いて急に恐怖が和らいできた。
依然として気を抜けないものの、天子の笑い声を聞いていればなぜだか自分まで妙な気分になりだした。
自然と頬を緩むのが止められず、声に気迫が満ち溢れてくる。
「あははは」
「……ふ、ふふふ」
「あっはははははははははは!!!」
「ふふっ、はははははははは!!!」
気がつけば二人の笑い声が大合唱を織りなしていた。
たった一人、隣に彼女がいてくれる。
それだけのことに、今までの歩みの全てが力強く肯定されているように、二人は思っていた。
このままどこまでも飛び続けたい。
「何を笑ってんのよこんちくしょう!!」
楽しげな笑い声に虫唾が走った霊夢が、更に速度を上げて接近しようとする。
その時、追って追われる三人の前に巨大な壁が立ちふさがった。
視線を上に映せば、映ったのは金ピカに光る巨大なボディ。
天子を探してえっちらほっちら山を徘徊していたグレート非想天則だ。
「見つけましたよ天子さん! ってあれえ、霊夢さんまで!?」
よくわからない状況に驚く早苗だったが、細かいことを気にしない性格からすぐに気持ちを切り替える。
「まあいいです、今こそこのグレート非想天則の真の力を発揮する時!」
そう宣言してグレート非想天則は足元を飛ぶ天子たちに向かって拳を振り下ろした。
落ちてきた天蓋を三人は散り散りになって避けると、各々が違ったルートで巨大な腕に沿って空に昇っていく。
「チィッ、射線が取りづらい!」
霊夢が下品に舌打ちする。
天子と紫はグレート非想天則の周囲を旋回し、霊夢からの攻撃を受けないように立ち回っていた。
早苗はうろちょろする天子たちを叩き落とそうとグレート非想天則の両腕を振り回すが、このサイズ差ではハエを素手で落とそうとするようなもので、服の端にすら引っかからない。
「ちょっ……まっ……早っ、当たらな」
わっちゃわっちゃと上半身を動かしまくる障害物に、追いかけっこをしていた三人も鬱陶しくなってきて眉を歪めた。
「邪魔よ! 封魔陣!」
「可愛くないわね、客観結界!」
「テンシガーの恨み! 勇気凛々の剣!」
幻想郷指折りの実力者たちからの攻撃が、グレート非想天則を取り囲んで蹂躙した。
生み出された力場が非想天則の四肢をバラバラにもぎ取り、動き回る結界がゴム質のボディを引きちぎり、振るわれた気質の刃が骨格となっていたオンバシラを切り裂く。
内部に送り込まれていた風の圧力と、早苗の行使していた奇跡の力が、襲いかかる常識外のパワーと非科学的な反応を示し、なんやかんやあってグレート非想天則は大爆発を引き起こした。
暴風を巻き起こすが生き物には傷一つ付けない不思議な風圧が辺りに撒き散らされ、グレート非想天則の頭部に搭乗していた守谷の神様トリオも座っていた座布団ごと上空に向かって吹き飛ばされる。
「サイズ差厳しすぎじゃないですかあ!?」
「ぶっちゃけ私ら生身のほうが強いしねー」
「ええい、嘆かわしいわよ早苗! あなたには熱血とか魂とか色々足りない! 後で私の部屋に来なさい!」
「あっ、ヤバイ、この神奈子はGロボから始まって熱血ロボアニメ三徹コースだ」
「それじゃ威力上がっても命中しないじゃないですかヤダー!」
グレート非想天則だったものの残骸は爆発とともに空に打ち上がり、周囲に降り注いだ。
景色が乱れる中、霊夢と対峙する天子と紫だったが、その場にまた別の勢力がやってくるのに紫はいち早く気がついた。
「天子、左よ!」
紫が天子の手を後ろに引っ張ると、天子の目の前を白と黒が閃光のように過ぎって髪を攫う。
飛来した何者かを天子が目で追うと、その先には人形と魔本を従える魔理沙が三角帽が落ちないように手で押さえて、突進の勢いを殺すようブレーキを掛けていた。
「チィ、かすっただけか」
「魔理沙か、一応協力関係って契約だったはずだけど!?」
「先に破ったのはそっちだろ、どうやってギアスを掻い潜ったか知らないが、霊夢に加えて紫まで巻き込むなんてな」
「いや、こいつらはマジで想定外なんだけど」
言ったところで魔理沙はまったく信じていない目で睨み返してきた。
今回ばかりは天子も無実だが、日頃の行いを考えれば自業自得と言うべきだろう。
「やっぱりお前は信用ならないぜ、というわけで契約は破棄だ」
魔理沙はそう言って鞄から八卦炉を取り出して、天子に向かって構えた。
戦闘態勢を取る魔法使いの脇で、それまで支援していた人形と魔本は、役目を終えたかのように魔理沙の鞄に潜り込んできた。
『魔理沙、私達の契約は天子と共同で挑むところまで。手助けはここまでよ』
「冷たい奴らだぜ、分け前やらないぞ」
『裏切りほどリスクが高いものはないのよ』
魔理沙と違って、魔女たちは冷静な視点で状況を俯瞰していた。
突然、紫と霊夢がこの場に現れたことに対しては疑問に思うところはある、だが今のところは率先して天子との契約を打ち切るには理由が弱いと判断したのだ。
かと言って天子の側に付くかと言えばそうでもなく、あくまでアリスとパチュリーは魔理沙に協力しているだけなので、どちらも支援せず様子を見守ることにした。
魔女たちは引っ込み、妖怪の山からも邪魔に入ろうという無謀な者ももはやいない。
霊夢、魔理沙、そして天子と紫のコンビ。三つ巴のようにも思えるが、霊夢と魔理沙がジリジリとお互いの距離を縮めているところを見るに、どちらかと言えばタッグマッチだろう。
「ふぅ、仕方ないわね」
笑って溜息をついた紫が割烹着の肩を掴んで勢い良く脱ぎ捨てると、その下から傘を指した導師服の出で立ちで現れた。
睨み合う四者の間に白い割烹着が花びらのように舞い落ちてゆく。
魔理沙が鞄の上から指を這わせ、中に詰まった道具を確認する。
――花びらのように落ちる。
天子が風呂敷をきつく締め、緋想の剣を握り直す。
――花びらのように落ちる。
紫が目を細めて霊夢と魔理沙の呼吸を確認する。
――花びらのように落ちる
霊夢は肩の力を抜いた。
――舞っていた割烹着が木に引っかかり、しなった枝から小鳥が羽ばたいた。
目を見開いた紫が、自分の背後と魔理沙の後方をスキマで繋いで、暗い穴に潜り込んだ。
一呼吸の間に空間を伝って回り込んだ紫が、鋭い眼光で魔理沙を見定めて傘を振るう。
呼吸の虚を突いた奇襲であったが、神経を張り詰めさせていた魔理沙は、紫が視界から消えた時点で箒から魔力を噴出させて逃亡に転じていた。
薙ぎ払われた傘は先端を箒にかすらせて枝が飛び散るだけで終わり、その後の硬直を狙って霊夢が動いた。
亜空穴と名付けられた博麗家に伝わる秘術、紫のスキマにも似る瞬間移動からの飛び蹴り。
紫には避けようがない一撃に見えたそれに、空色の髪の毛をはためかせた天子が割って入ってきた。
「その手のワープ技は見慣れてんのよ!」
紫に向けられた靴底が作り出された要石に遮られ、霊夢は舌打ちしながら後退した。
すかさず天子と紫が背中を寄せ合いそれぞれ魔理沙と霊夢に追撃を仕掛け、要石と妖力が入り交じる弾幕が周囲にばらまかれた。
魔理沙は天子と紫の周囲を時計回りに旋回してこれを避け、霊夢も逆時計に回り込みながら同様に弾幕を掻い潜った。
そして紅白と白黒が交差する一瞬の時間、両者の視線が互いの意思を伝え合う。
――なんであんたがこんなとこにいんのよ!
――そりゃこっちの台詞だぜ、最近会いに行かなかったから寂しかったのか?
――ああそうよ寂しかったわよ!
――えっ。
――あんたが来てくれればキノコでもなんでも食べれてたのに!
――はあ?
「とにかくこいつらを退治するわよ! 今日はあんたがご飯作りなさい!」
「お、おぉ、それくらいならお安い御用だ」
なぜだか凶暴なオーラを撒き散らす霊夢に魔理沙は困惑気味だが、協力できるならこれ以上に信頼できる相棒はいないのでとやかく言わなかった。
魔理沙が鞄から中身の詰まったフラスコを取り出して紫の前に投げつけると、中の怪しい色合いの液体が爆発して閃光を放った。
紫の目が眩んだ隙を見て下方に回り込み、箒の先端を天子と紫に向ける。
「よおし、行っくぜ!!」
再び箒から魔力を噴出させての急加速で体当たりを仕掛けた。
天子と紫は弾かれたように離れると、空いた空間を魔理沙が煌めく尾を引いて空高くへと昇っていった。
攻撃が外れても、魔理沙の突撃はまだ止まらない。
地上から100メートルはある遥か上方に魔理沙がセッティングすると同時に、霊夢も地面スレスレにワープしてカードを切る。
「天儀、オーレリーズユニバース!」
「祈願、厄除け祈願!」
魔理沙を中心として色とりどりの球体が出現して、天体を模した交点しながら星型の光弾をばら撒き始める。一方地上の霊夢からは博麗家に伝わるありがたいお札が周囲に放たれた。
上下からの挟み撃ち、放射型の弾幕は本来なら距離を取ればいくらか避けやすいはずだが、こうされては一定の距離を保って避けざるを得ない。
弾幕の第一波が到達する前に、紫が天子に吠え立てた。
「天子、どっちから!?」
「大地を目指す、フォローは任せたわ!」
言い切るよりも早く天子が霊夢のいる地上を目指して、御札の群れに飛び込んだ。紫も「そう」とだけ楽しげに呟くと、背中から落ちるようにして後を着いていく。
連なった御札の群れに突っ込んだ天子は、器用に札の合間を縫って霊夢がいる地上へと距離を縮めていく。
流石に自信過剰なだけあってこれくらいのスペルカード相手なら怯むことはないらしい、かすった札が背中の風呂敷を一部切り裂くが、宝石ごと岩石を砕くほどのパワーはないようなので気にせず突き進む。最悪風呂敷が破れても抱えて飛べばいい。
そして天子の後ろから迫りくる魔理沙の弾幕へは、紫が対応した。
空に目を向けたまま落ちる紫は、閉じた傘で悠々と狙いをつけ、傘の先端から発射した光弾で降り注ぐ星屑を砕いていく。
お札は無視してはひたすらに相殺をし続ける。下を気にすることはない、ただ天子の気配を辿っていけば自然とお札は狙いをそれて行く。
視界の端から立ち上るお札と目の前に広がる光弾の中、背中から感じる熱気を追いかけた。
「なんでそれでかわせるんだよ!?」
魔理沙が悪態をつく頃には、対戦相手には地上近くまで逃げられて放射型弾幕では当たりそうもない。
弾幕を切り替えて球体から紫へと狙いをつけたレーザーを発射するが、その時には天子は攻撃範囲内にまで霊夢へ近づいていた。
「天子!」
「了解!」
掛け声を上げた紫が弾かれるように斜め上へ急上昇しレーザーとすれ違った、自機狙いなら紫が天子から離れればパートナーは安全だ。
紫は体を反転させ今度は身体を地上に向けると、目視で至近距離に迫ったお札を確認して気合で避ける。正直今のが一番危なかったと冷や汗が出る。
そして天子は後ろからのレーザーを気にせず、御札で埋め尽くされた霊夢の頭上へ飛び込んだ。
拡散型ゆえ、その放射の根本である霊夢の周囲こそがもっとも弾幕密度が高く、なおも接近する天子にはおよそ避けられるような隙間など存在しない。
技術だけではどうこうできない場面を、天子はパワーでこじ開けた。
「要石!!!」
天子は即時形成できる最大体積の要石、おおよそ50センチほどのそれを足で踏みつけると、足に敷いた硬い岩石でお札を蹴散らして落下攻撃を仕掛けた。
これなら要石に身を隠してお札を防ぎつつ、紫を狙った魔理沙のレーザーの射線上から避け、しかも霊夢への攻撃もできる。
足元からビリビリとお札の圧力を感じながらも突き進むが、突然振動が途切れて踏みつけていた要石が地上に到達した。
要石による攻撃は命中しなかった、しかし周囲に目を配っても霊夢はいない。
「――またワープかっ!」
お札と足元の要石で見えなかったが、恐らくは攻撃が当たる前に消えたのだろう。本来ならお札をばらまいた後は飛び退いて場所を移すスペルカードだったが、手法を変えてきたようだ。
恐らくは「踊る陰陽玉」のように、わずかな間を置いて別の場所に現れて次のお札を放ってくるのだろう。
ならばと天子は新たに要石を作り出して頭上に掲げると、目を閉じて神経を研ぎ澄ます。
この手のワープを探知するなら空間を識るのが一番だろうが、天子には空間の揺らぎを探知するような才能はない、専門分野が違う。
だが気質ならわかる。想いはあらゆる世界の壁を超えて届いてくる。
頭上から感じる慣れ親しんだ紫の気質、その遥か頭上には魔理沙の気質、周囲からも自生した植物や小動物が漏らした気質が溢れている。
それらの気質のすべてを忘れれば、感覚のすべてが暗闇のように塗りつぶされる。
そして一瞬の暗黒の後に、快い晴れ晴れしい気質が闇の中から現出した。
「そこよ、緋想の威光!」
天子が掲げていた要石を誰もいない空間に突き出し、要石を起点としてレーザー状の気質を放出した。
その直後に気質の射線上に霊夢の姿が現れる。
「――――っ!!」
姿を消して奇襲するつもりが、完全に不意を突かれて霊夢は目を見開く。
横合いから叩きつけられたレーザーに、霊夢はのけぞりながらも飛び上がることで空に逃れた。
一枚目をしくじった霊夢がしたり顔の天子を睨みつけるが、すぐに反撃できるような状況ではなかった。
「っと、やばいなこれは」
天空に座す魔理沙は危機感を覚えた、最初は挟み撃ちできる良い位置取りだと思ったのだが味方との距離が離れすぎた。
このまま空からのんびり攻撃していては天子と紫の二人がかりで霊夢がやられてしまう。各個撃破は複数戦での常套手段だ。
即座に霊夢を援護してやらなければならない、それには今から地上に近づくのは距離がありすぎる。
「ならこれだぜ」
スペルカードを自主的に打ち切った魔理沙は、鞄から八卦炉を取り出すと真下に向けて箒越しに構える。
ここぞというところで頼るのはやはり使い慣れた彼女の十八番。
魔理沙の魔砲、もとい魔法の代名詞。
「マスタースパーク!!!」
八卦炉から放たれた魔力が、太い帯のように連なって荒れ狂い牙を剥く。
大気を押しのけて進む光の本流は、まるで天から降り注ぐ滝のように、天子を丸呑みにしようとする。
その前に、紫が立ち塞がった。
「彼女の邪魔をしようとは無粋ね」
天子のすぐ背後に降り立った紫が、急速に近づいてくる魔力に向けて絆創膏まみれの指を伸ばす。
紫の能力が世界に干渉し境界を生み出して、境界は結界となり、重ねられた結界は藍色を帯び世界を遮る。
「境符――四重結界」
紫が切ったスペルカード、頭上に形成された多重構造のバリアが凶悪な魔砲を堰き止めた。
絶えず流れ落ちてくる魔力に空気が痺れた音を響かせるが、紫たちには傷一つ付けられない。
「天子を邪魔して良いのは良いのは私だけよ」
「はは、言ってなさいよ陰険ババア!」
魔理沙は必殺スペルが眼下で防がれることに苛立ちと焦燥を感じるが、この状況はそう悪くないはずだ。
今の四重結界は地上二メートルほどのところに展開され、紫たちの頭上を閉ざし、更にすぐ下には地面という限られたスペースに紫たちはいる、そこを霊夢が突いてくれれば、無防備な術者を横から叩ける。
ならば一秒でも紫をその場に縫いつけようと、魔理沙は魔力放出の反動で荒ぶる八卦炉を両手で押さえ込み、マスタースパークを維持し続けた。
段々と吐き出せる魔力は減っていくが、重ねられた結界も一枚がひしゃげて砕け散った。紫としても気を抜く訳にはいかない。
そして霊夢は魔理沙の理想通り、結界の周囲を旋回するよう飛び回りながら、手に封魔針を構えて高度を落とした。
しかし鋭く細められた眼は、天子が拳大の要石を手に持って先端を地面に向けた姿を捉えた。
「乾坤、荒々しくも母なる大地よ!」
天子が握っていた要石を地面に叩きつけると同時に、周囲の地面が突如として隆起する。
これぞ比那名居という一族が受け継いた力の一端、柱状にせり上がる大地が、降りてきた霊夢を突き上げにかかった。
カウンターを仕掛けられたことに気付いた霊夢が慌てて急上昇する。突き出した地面に足先が打たれて少し痺れたが、ギリギリで致命打は避けられた。
同時にマスタースパークも維持するには限界が来て力なく空から消えていき、防ぎ切った四重結界も力を使い果たしてボロボロに崩れていく。
荒れた大地の中央でふんぞり返る天子と紫を見て、霊夢と魔理沙は思わず唸った。
「こいつら意外と」
「いいコンビしてやがるぜ」
霊夢と魔理沙からすれば、この二人がここまで絶妙に合わせてくるとは予想外だ。
いつかの仲直りをしたということくらいは噂で聞いていたが、これほどまでに心を通い合わせるには余程の付き合いがなければ出来まい。
背を向けあった天子と紫は敵を見定めたまま、背後に視線もやらずに口を開いた。
「へえ案外、悪くないじゃないの」
「あら、あなたこそ。とは言え私のフォローがないと何もできないようだけど」
「私が使ってやってんのよ」
「言ってなさいな」
憎まれ口をたたきながらも、終始二人の笑みは崩れない。
「それに護ると言ったものね、こんなのバカバカしいけども、言った以上は責任を持つわ」
「本気だったんだ」
「本気も本気よ。信じられないなら、この戦いで見せてあげましょう」
「ふん、護られてばっかじゃ、私の気がすまないわよ!」
話をしていた二人が闘気を膨らみ始め、霊夢は亜空穴によりその場から消え失せ上空の魔理沙の傍に出現した。
天子と紫も上空へと飛び出し、再び四者が睨み合うが、今度は誰も黙って待つような真似はしなかった。
「全人類の――」
「夢想――」
「弾幕――」
「実りやすいマスター――」
全員がお得意のカードを切ろうとする。
その瞬間、地上から飛び出してきた影があった。
白いふさふさの尻尾を伸ばし、白刃を掲げる勇ましい姿。
「己、天人! 文様の仇ぃー!!」
「いぃっ!?」
突如として勝負に水を差してきた椛が、大剣を振るった。
慌てて飛び上がって避けようとする天子だが、片刃の剣は背中に背負った原石にめり込んだ。
衝撃を受け、先程からグレイズで千切れかかっていた風呂敷がとうとう破けて、宝石の原石が空中に放り出される。
そして今にも魔力を噴出させようとしていた八卦炉の射線上に落っこちた。
「あっ!?」
「えっ!?」
天子と魔理沙から悲鳴が上がり、一瞬世界が停止したかのような感覚が襲う。
しかし実際には何も止まってはくれず、次の瞬間には魔理沙のマスタースパークが宝石を飲み込み、粉々に打ち砕いてしまった。
「ああぁぁぁぁあああああ!!?」
バラバラに粉砕された宝石が、陽の光に照らされてキラキラ輝きながら撒き散らされる。
とても綺麗で下手をすれば何千万円もの値段の光景を見て、思わず両手で頭を抱えて叫ぶ天子に、霊夢から飛んできた光弾が脳天に直撃した。
「ぐげっ!」
「ちょ、天子――きゃあっ!」
味方の悲鳴に驚いた紫にも光弾が襲いかかる。
続けざまに光弾に取り囲まれ、二人はボコボコに打ちのめされてボロ布のように地上に撃ち落とされた。
「食べ物の恨み思い知ったか……ってどうしたのよ魔理沙、泣きそうな顔して」
「あ、あぁぁぁ……ちくしょう、一攫千金がぁぁ……」
『だから言ったでしょ、裏切りほど割に合わないものはないって』
『自業自得よね』
◇ ◆ ◇
日が沈み暗くなってきた妖怪の山で、今日の騒ぎを切り抜けた天狗たちは篝火を上げ、生きていることに感謝の気持ちを感じて宴会をおっ始めていた。
笑い声やら泣き声やら奇声やら届いてくるのを聞き流して、天子と紫は木の根元に並んで腰を下ろして大きなため息をつく。
「つっかれたぁー………………」
「はああああ、あーしんどいわ」
遠くから妖怪の山に住まう天狗や神々たちのどんちゃん騒ぎが聞こえてくるが、今日の天子は参加する元気が残っていなかった。
今回の事件の真相が天狗たちに知られた結果、まだ宝石が眠ってる場所があるんだろうとしつこく追求され、宝石を探して山中を歩かされたのだ。
実際には他に眠ってる鉱床はないと天子にはやる前からわかってたしありのままを伝えたのだが、天狗たちは信用してくれずたっぷり日暮れまで無駄な努力を強いられた。
「敗者の末路はいつの世も悲惨なものよね」
「日頃の行いが悪いから信じてもらえないのよ」
「あんたも人のこと言えないくせに、霊夢に散々こき使われたらしいじゃない」
紫の方はというと、霊夢に食料の供給をストップしたことについて愚痴と説教を聞かされた後、霊夢の望む食材と酒を片っ端から取り寄せさせられていた。
お酒は大吟醸酒からワインにウイスキー、ビールと世界各国のものを用意させられたのはもちろんのこと、霜降り肉、メロン、本マグロ、ロブスター、トリュフ、フォアグラ、キャビア、ポテチ、等などありとあらゆる食材を持ってこいと言いつけられた。
霊夢はたまたま近くにいた一部の不幸な天狗数名を脅して食材を調理させると、がむしゃらに飯と酒を掻っ込みながらも出された料理を食べ切らない内に次々注文を出してきた。
紫は一口も食べれずに、目を回しながら世界中とスキマを繋ぎまくって、しばらく食材を取り寄せる機械と化すしかなかった。
天子に協力していた魔理沙はと言うと、鬼の形相の霊夢の隣にいたせいで誰も彼女の罪を追求することはできなかった。
宝石を逃したことから霊夢と一緒にやけ食いしていたが、実際のところ何も失わずにタダ飯にありつけて一番得をしたと言っていい。
思う存分飲んで騒いで食い散らかした霊夢と魔理沙は、暗くなってきた頃には我が物顔でいびきを立てて寝入ってしまったが、当然誰も彼女たちに触れようとするものはいない。誰だって命は惜しい。
その頃になってようやく解放された天子と紫は、天狗たちが始めた宴会に参加する気力もなく、身を寄せ合って魂の抜け殻のようにぼーっとしていた。
「だるい、何もかもだるい。帰るのも面倒になってきたなぁ、天界まで衣玖おぶってくれないかなぁ」
「甘えすぎでしょ……そういえば衣玖は?」
「あいつなら天魔に捕まって愚痴聞いてるわよ、聞き上手だから」
「彼女も大変ねえ……」
天子は酔った椛が泣きながら文に抱きついて困らせているのを眺めながら、あー今度のテンシガーはどんなにしようかなー、などととりとめのないことを考えた。
虚ろな眼でぼんやりと辺りを見渡していると、隣にいる紫の表情が意識に滑り込んできた。
天子と同じくこき使われた紫は、髪も乱れたたままで疲れが残っているのが見て取れる。
しかし表情はとても爽やかで、その顔は騒ぎ立てる天狗たちの姿を微笑みで見守っていた。
柔らかな横顔に天子がしばし見惚れてしまっていると、視線に気づいた紫が天子を見やった。
「どうしたの、そんなに見つめて?」
「いやその……うん、優しい顔してるなって思って」
「やさっ……もう、いきなりそんなこと言って、私を弄って楽しい?」
「喜んでればいいのに、素直じゃないわね」
「あなたに言われたくはないわ」
紫が恥ずかしがって顔を背けるのを天子は笑って受け止めると、紫の肩に頭を乗せてしなだれかかる。
紫も肩に掛かる重さに気恥ずかしさを感じながらも、振り払うような真似はしなかった。
今しがた紫が見せた色んな人を包み込む優しい顔が、天子は好きだった。
「紫はさ、私が異変を起こした神社に手を出した時にすっごい怒ったわよね」
「ええ、そりゃあ怒りまくりましたとも。あなたみたいな輩が神社を握るなんて、この幻想郷の意義を揺るがしかねないし、やんちゃで済む話じゃないわ」
「でも紫は私を受け入れた、ここから追い出したりはしなかった。よくそんなことできたわね」
紫はああなんだそんなこと、と事もなげに言葉を返す。
「誰かに受け入れられるためには、まず自分が受け入れることが大切。だから私がこの世界で生きるために、この幻想郷は出来る限りより多くのものを認め、受け入れられるようにしてるの、それだけのことよ」
「すごいね、紫は」
「私だけで得た考えじゃないわ。私も別の人に教えてもらっただけ」
「そんな素敵な出会いがあったのは、きっと紫が頑張ったお陰ね」
異物として世界から排他されていた紫。あらゆる超人と神々に追い出されようとしていた紫。
それでも必死にこの世にしがみついていたのは、この世界のものからすれば迷惑だけれど、そのおかげで今がある。
「ねえ紫、私ね、藍のやつにどうして紫は幻想郷を作ったのかって質問したことあったのよ」
「あら、そんなことしてたの?」
「紫ならなんて答える?」
「あなたはもう全部知ってるじゃない、今ならバックアップ領域のためって言うだけよ」
「ふふっ、そっかぁ」
紫はそっけなく、ただ当たり前だというのに理由を述べる。
あの時は妖怪の保護なんて建前で、その奥に別の理由があると思っていた、だが今はそんなものを探る必要が無いとわかる。
本当に記憶の確保のためだけに記憶媒体が必要だったのなら、博麗大結界なんて必要ないだろうに。
もっと無駄のない選択肢があったはずだ、それは天子が以前予想した通り。
その更に奥を探れば、結論はぐるっと一周して最初に戻ってくる。
「藍のやつはね、紫が誰かのために悲しめるやつだからって言ってたわ」
「はぐらかすにしてもよくわからない理由ね」
「そうかしら? 私は核心を突いてると思うけどね」
紫がまた優しい顔で宴会を眺め始めるのを、天子はすぐそばで見上げる。
その顔の何処にも悪意はなく、真実、相手の不幸を願わずに幸福を尊ぶ微笑み。
――こんな顔を出来るやつが私の母を殺したんだと、天子の表情が一瞬曇る。
だが同時に思わされてしまうのだ、母を殺した時にあれほどの憎悪と悲観を抱えていた妖怪が、今こうしてこの安息の境地に至れているとは、なんて夢のある話なのだと。
かつて地子と呼ばれた人間だった頃、世界の異物として排他される紫と出会った、それはわずか数十秒ほどの会合だったがその時に紫から感じた闇は、当時の彼女の核心だったのだろう。
あれほど人を僻み憎み、地子の母を殺めるしかなかったあの妖怪が、誰かを助けられる存在へとなり、その優しい抱擁は天子をも包み込んでいる。
「紫は、誰かに手を差し出せるくらい、色んな物を積み重ねてきたのよね」
「ほとんど覚えていないわ」
「記憶になくても、きっと消えない本質の部分に積み重ねてたのよ。だからこんな場所を作れたのよ」
それほどの歩みをしてきた紫に、天子は尊敬すら覚えた。
「――この幻想郷を作ってくれて、ありがとう」
「また突然どうしたの?」
「ずっと、言っておきたかったの。この幻想郷に受け入れてもらえなかったら、私はずっと怒って憎んでを繰り返してた。誰かを大切だって思える気持ちを思い出すことができなかった」
今思えば、母を殺された瞬間から自分の心もまた暗闇に囚われていた気がする。
原因を作ったのが紫で、解決したのも紫で、そのすべてを是とは言えないけれど、すべてを非と踏みにじる気もない。
「私は紫に助けられた、だからありがとう」
どれほどの過去があろうと、それは決して覆せない事実だった。
天子からほのかな情の灯った芯の熱い声に、紫は自分の今までを認め、受け入れてもらえ、大きく心を揺らせれて、熱い息を吐いた。
「だったらそれは良かったわ」
ありがとうと言ってくれた天子に、紫は絆創膏が巻きついた指を伸ばして慈しむように髪を撫でる。
宴会の熱気を遠くに感じながら、肩を寄せる二人は、お互いの間で手を重ねてこれまでの傷を癒やした。
「てんしさまぁ~!!」
そこに赤面の衣玖が現れて、二人が目を丸くする前で酒臭い息を振りまいた。
「自分らけゆかりさんとイチャイチャして! いいなあいいなあ、愛がほしいなあ!」
「ちょ、大丈夫衣玖?」
「私なんてうえからグチグチ話しきかされてばっかり。愛してくださいゆかりさあん!」
「私!? なんで私!?」
天魔からずっと話を聞かされてストレスが溜まっていたのだろう、衣玖は泣きわめくように紫の胸元に抱きついた。
隣の天子が呆れた目で見てくるのを感じながら、紫は困惑しつつも衣玖の頭に手を添える。
「えーと、ほらいい子いい子?」
「ああん、ダメです紫さん。天子さまが嫉妬しちゃいますぅ」
「するかあ!」
「相当溜まってるわね……天子もたまには労って上げなさいよ」
「……考えとく」
支離滅裂なことを喚く衣玖は、紫から繰り返し撫で付けらている内に、段々とまぶたを閉じて行き、安らかな寝息を立て始めた。
紫は抱きついてきた衣玖の身体を引き剥がして、地面の上にそっと寝かせる。
「すぅー……すぴー……すぅー……」
「寝ちゃったわね、帰りは天子がおぶっていきなさいよ」
「何言ってるの、まだ帰らないわよ」
天子は立ち上がって背伸びをすると、一歩宴会場へ踏み出して紫に振り返った。
木の根に腰を下ろしたままの紫に手を差し出し、元気な声で笑いかけた。
「さあ、宴はまだ始まったばっかり! 私達も行きましょ紫!」
「……ふふっ、その通りね」
どこまでも前向きな天子がこうして手を差し伸ばしてくれることに、紫もまた救われるような思いで手を取った。
立ち上がった紫を天子が手を引いて、二人は宴会の場へと駆け寄っていく。
その後のことは語るまでもないだろう。
ただ一晩開けて二日酔いが残った衣玖と駆けつけた藍が、それぞれの主を抱えて連れ帰ったとだけ記しておく。
◇ ◆ ◇
「はい、濡れタオルです」
「ん」
「橙と妖夢に頼んでお風呂を沸かしておきましたから、まずはさっぱりしてきて下さい」
「ありがとう……」
酔いつぶれてぐっすり熟睡していた紫は、目が覚めた時には自宅で藍に介護されているような状態だった。
言われるがままに服を脱いだ紫はお風呂に身を沈め、疲れが残った身体を温める。
熱いお湯が料理の練習中に出来た指の傷に滲みて、紫は顔をしかめて両手をお湯から持ち上げて眺めた。
「はあ、思えば藍には酷いことしたわね」
天子に何かしてあげたいとハイになってたせいで気づかなかったが、霊夢に叱られたことで我に返ってみれば藍にはかなり負担を強いていた。
あのまま続けていれば妖夢まで毒牙にかけていたかと思えば自分でも恐ろしい。
「ああ~、みんなに迷惑かけるようなら練習止めたほうがいいかしら、でも天子にはお料理作ってあげたいし、でも一人じゃ時間かかりそうだし……」
浴槽で頭を抱えてうんうん唸る。
天子のことは大切だが、彼女のために他のものを蔑ろにする訳にはいかない。
「仕方ない、藍たちを苦しめるくらいなら一人でやりましょう」
幸いにも身体に染み付く技術的な記憶に関しては、バックアップに必要な容量は少ない。
目標達成は何年か越しになるかもしれないが、のんびりやって行こうと決めて紫は浴槽から立ち上がった。
一通り身を清めた紫はお風呂から出ると、浴衣姿に頭にタオルを巻いて居間に足を向けた。
決断に気を重くしながら襖を開けて、中にいる藍に謝ろうとする。
「ごめんなさいね藍、色々と迷惑を……」
しかし居間の光景に面食らった紫は、続く言葉を引っ込めた。
そこには藍と橙だけでなく、妖夢と幽々子までが揃い踏みで、机の上でいくつもの料理本を広げて顔を寄せ合っていた。
「おはよう紫、さっぱりしたかしら?」
「え、ええ……幽々子までどうして?」
「いやだわ、料理の練習するんでしょ? 妖夢だけじゃなく私も呼んでくれればいいのに」
「そのことなんだけど、やっぱりみんなに迷惑掛けるでしょうから、一人でやろうかなと……」
控えめに言った紫に、藍が呆れ顔で食いついてきた。
「何言ってるんですか、あんな壊滅的な呪いめいた腕前を一人でどうにかできるとお思いですか」
「うっ、でも藍は苦しんでたし」
「そりゃそうですがね、紫様のためならあれくらい我慢しますとも。それにここまで身の回りの世話させておいて、今更あなたの幸せを手伝わせてはくれないんですか」
「藍……」
藍が身を粉にして奉仕しようする姿勢を示すと、話を聞いていた妖夢も強い声で申し出てきた。
「私も正直言えば嫌ですけど、でも紫様にはよくお世話になってますし、協力しますよ」
「いいの? 自分で言うのも何だけどすっごく辛いわよ? 昨日の藍を思い出して」
「覚悟の上です、魂魄家に二言はありません」
一晩経って気持ちを固めたようで、もう妖夢は迷わずに言い切った。
更に昨日は家にいなかった橙までも、飛び跳ねて紫の前に躍り出る。
「もっちろん、私も協力しますよ紫様!」
「……辛いのよ? 藍だってダウンしたくらいだし……」
「なら藍様と一緒に頑張ります、未来の八雲家を一員としてここでやらずにいつやるのか! それに天子に先越されちゃ拙いし……」
「何のこと?」
「天子はせっかちだから、こっちも急がないとってことですよ」
任せてくれと橙は小さな身体で勇み立つ。
助けようとしてくれるみんなに紫が呆然としていると、再び藍が言葉を紡ぐ。
「私たちは日々を紫様に支えられてきました、ですから恩返しをさせて下さい」
その言葉に紫は胸が熱くなった。
感動で泣きそうな目を伏せて密かに涙をこらえると、良い家族と良い友に深く感謝し、今度は開けた目で一同を見回して頷いた。
「それじゃ、お願いしちゃおうかしら」
◇ ◆ ◇
「うぁ~、あったま痛い~、身体だるい~」
「酒は微酔にとか普段のたまってるくせに何言ってるんです、もう自分で歩いてください」
「いたっ! お尻蹴らないでよもう!」
ガラガラ声で喉を震わせ、泥が詰まったような瞳で天子は天界を練り歩く。
天狗に追い払われた衣玖が、仕方なしに天界にまで連れてきてくれたのだが、そこから先は叩き起こされて自分で歩くこととなった。
昨日は天魔によっぽどストレスを溜めさせられたのか、後ろを着いてくる衣玖は結構不機嫌だ。
お尻を押さえる天子の頭上で、ざあっと風が渦巻いて木々の葉を攫った。
「随分と痛い目見たようじゃないか天子、流石に今度は堪えたかな?」
「その声、萃香……」
周囲に湧き出した霧が萃まって、瓢箪片手に現れた萃香が現れた。
上機嫌にケラケラと笑う子鬼は、天子の前に降りてくる。
「そんなに疲れてちゃ、これを見たって嬉しくない?」
そう言って萃香が差し出したのは、なんと片手には収まらない大きさの宝石の原石だった。
磨かれていない石が放つくすんだ輝きに、天子は疲れた表情を段々と明るくさせていき、わなわなと震わせた拳を天に突き出した。
「やったああああああ!! 作戦大成功っ!!」
それは紛れもなく、妖怪の山で天子が最後に切り取った宝石の原石だった。
何故かここにある宝石に、天子は狂乱して歓声を上げる。
「ずるいですねー、秘密の協力者なんて」
「チッチッチッ、人聞きの悪い事言わないでよ衣玖、私は一度も契約後に魔理沙の許可なく助けを求めたりしてないわ。ただ書面にサインする前に、酔っ払ってこれからすることバラしちゃって、目当ての宝石が奪われたりしたら大変だなー、そしたらなんとかして買い取るしかないなーって不安を言っただけよ!」
そして話を聞いた萃香は、秘密裏に天子をサポートしてくれた。
原石を掘り出した天子が穴から出たところで一度合流し、掘り出した原石から特に有用そうなものを選んで萃香に渡しておいたのだ。
「それで、例のものは?」
「三分待ってなさい!」
天子はそう言うと、衣玖と萃香を残してダッシュで家に帰ると、大きな酒樽を担いで戻ってきた。
「この天界秘蔵のお酒でその宝石を買ったぁー!」
「売ったー!」
ドンと置かれた酒樽の上に、萃香がドンと宝石を置く。
売買が成立し、天子は手に入れた宝石を両手で太陽に掲げて、その輝きに酔いしれた。
「うしし、よしよし、よく来てくれたわね。あなたには私と紫を繋ぐ架け橋になってもらうわよ」
「ありがとうございます萃香さん、天子様のわがままに付き合っていただいて」
「なあに、あいつにプレゼントしたいだなんて聞かされちゃね。それに飲んだことないお酒も手に入ったしうえへへへへへ、よだれヤバい」
萃香は酒樽に頬ずりしてひとしきり愛でると、天子に向き直って指を突き付けた。
「天子、今回お前の茶番に付き合ったのは、天子を喜ばすためじゃなくて紫のためだからね、しっかりやりなよ」
「わかってるわよ、まかせなさいって」
天子は親指を立てて自信満々に返したあと、萃香に顔を近づけて耳打ちした。
「それとそのお酒、衣玖にも分けてあげて。今回けっこう無理させちゃったから」
「はいよ。一人で飲んでもつまらないしね、しばらく借りるよ」
埋め合わせには足りないかもしれないが、ひとまずこれで衣玖には我慢してもらおう。
萃香は愚痴るタイプではないし、衣玖も気楽に飲めるはずだ。
「それにしても珍しい石ですね。緋色と紫色が一緒になってるなんて」
天子の手に握られた原石を見て衣玖が呟く。
彼女が指摘した通り奇妙な宝石だった。
緋色の宝石と紫色の宝石がそれぞれ見つかるのならわかるが、これはその二つが合体しているのだ。
細長い原石の片側が緋色に輝く一方、反対側は紫色となっており、その中間部分で急に色合いが変化している。
「外界からこっちに流入してくる時点でくっついちゃったんだと思うわ、妖怪の山で見つけたもっと大きな原石は一つの岩盤に何種類も違う宝石が一緒になってたけど、それと同じことよ」
「面白い宝石だね、いい品物ができそうだ。どんなのにするのかは決めてあるのかい?」
「うん。一目見て思い浮かんだ形があるのよ、やってみるわ」
「そうかい、きっとうまくいくよ」
お世辞でなく本気で萃香はそう思ったし、衣玖も同意して頷いた。
自分たちを応援してくれる人がいる、そのことに嬉しくなって天子は破顔し、紫も同じ気持ちになってくれればいいと思って彼女の笑顔を思い浮かべた。
「ありがと、頑張るわ!」
それから数日間、天子は家にこもって紫に贈るプレゼントの制作を始めた。
宝石の大きさを測って設計図を起こし、別の宝石を使って実際に試してどうなるか確認した。
そして納得がいくと、いよいよ持ち帰った原石を削り出す。
途中で紫がここに来たりしたら、プレゼントのことがバレてサプライズにならなくなると不安だったが、幸いにも作業中はここに訪ねてくることはなかった。
そのことにほんのりと寂しさを感じながらも、順調に進んでいった――――
――――
――――――――
――――――――――――――――
たくさんの思い出を抱えて歩く。
広がる大地のようにどこまでも優しい母、不器用だが娘のために頑張ってくれる父。
この世のどこにも不安はなく、こんな時間がいつまでも続くと心から信じられた透明な記憶。
二人に愛されながら、幸せに笑って歩く。
苦しみを抱えて歩く。
母が死に、世界が閉じる。絶望が希望の上に塗りたくられる。
父は悲しみに溺れ、私のことなど見向きもしてくれない。
幸福は遠のき、独り歩く。
苦しみを抱えて歩く。
父が生きることから逃げようとするのを、必死になって止める。
代わりに殴られ、蹴られ、何故お前が生き残ったんだと罵倒され、それでも放っておけぬと空の上までついていく。
果てなき日々を、傷つきながら歩く。
苦しみを抱えて歩く。
母を殺したかの憎き妖怪は、結局滅することができなかったという。
名居家は辿るべき道を間違えた、気質という手段では彼奴に届かなかった。
つまるところ、私でもあの可哀想な妖怪を殺してやることはできないのだろう。
晴らせない憎しみを押し殺し、俯いて歩く。
苦しみを抱えて歩く。
天人になったことを後悔する。あんなに尽くした父は、負い目から私から目を背けるようになった。
誰も私の隣にはいてくれない、いっそ地上で人としてまっとうに死ねばよかったと過去の優しさを呪う。
辿れなかった幸せを想い、空想を抱き歩く。
苦しみを抱えて歩く。
何かから抜け出したくて死に物狂いで修行して、強くなっても日々は何も変わらない。
地獄からの死者に当たり散らしても、過去に父が私に拳を振り上げたのと同じだと気付き、怒りに叫んだ。
泣きそうな目を締め付け、疲れながら歩く。
――苦しみを抱えて歩く。
――苦しみを抱えて歩く。
――苦しみを抱えて歩く。
ある日、地上が面白いことになっていると気が付く。
幻想郷で起こる異変、それを解決する英雄譚。
童のころ、夢想して憧れたおとぎ話に似ていて、それに混ざろうと久々に遊んでみた。
幽霊を斬り捨て、気質を集め、空を歪め、地震を起こし、どうせ私を大切にしてくれる人などいないのだからと無茶苦茶やった。
それなりには楽しめた、溜飲は下がった、だがやれたことは結局のところ今までの延長線。
私を裏切った父を軽蔑し、死神に当たり散らし、ただ不満を叫ぶ日々とどこが違う。
こんなものなのか! これが私のやろうと思ったことか! こんなことしかできないのか私は!
ただ怒りのまま、悲しみのまま、全てを薙ぐような生き方しか出来ないのか!!!
慟哭を胸に押し殺し、せめて手慰めに神社に手を伸ばした。
新しい居場所が欲しかった、そこからまた歩き続けたかった、何もかも喪ったまま歩みを止めたくなかった。その先が終わらない苦難の道でも、止まれなかった。
そんな時に、剣を振りかざして歩く私の前に、あいつが――
投我以桃、報之以李。私に桃を持ってくれば、李を持って許しましょう。
現れたのは原初の憎悪。
憎むべき仇敵から、母が死んで以来初めて、泣き叫んで歩く以外の道を教えられた。
――――――――――――――――
――――――――
――――
――懐かしい夢を見た。歩き続けた最果てに希望の糸が垂らされる夢を見た。
否、最果てではない。縋った希望の先は未だ続いている。
作業場で寝ていた天子は勢い良く起き上がると、窓から入ってくる日差しに目を細めた。
思わず日にかざした手に、何かが握られているのに気が付いた。
握った手を緩めると細いチェーンが垂れて、先についた宝石が太陽の光を受けて輝いた。
そうだ、紫に贈る首飾りが昨夜完成したのだ。
大きさにして5cmほどの宝石は、雫を模した形にカットされ、幾つもの平面が入ってきた光を内部で反射させて眩さを誇っている。
自分が紫に贈るに相応しい出来だと、天子は誇らしげに鼻を鳴らした。
「できたはいいけど、問題はどうやって贈るかよね」
首飾りを布で包んでポケットに入れた天子は、家から出て歩きながら呟いた。
紫とはかなり仲良くなった天子だが、こちらから紫の家にお邪魔することは出来ない。紫が住んでいる屋敷の一帯は常時無数の結界が張られていて、侵入者を追い払うようになっている。
これを乗り越えられるのは紫本人とその家族である藍と橙、後は特別仲が良い親友の幽々子と彼女の従者の妖夢だけ。
自分や萃香が紫の家に行くときはスキマで結界内に転送してもらうか、藍たちに案内してもらう必要がある。
いつもは紫が定期的に顔を出してくれたから、わざわざこちらから出向こうと思うことはなかった。今更ながら気遣ってくれてたんだなと思わされ、改めて紫に感謝する。
だがここのところの紫は忙しいらしくて会いに来てくれず、秘密を打ち明けてくれたあの夜から出会ったのは妖怪の山でのいざこざでだけだ。
とりあえずマヨヒガにいるだろう橙を尋ねて紫との約束を取り付けてもらうのが一番早いだろうが、忙しい中で時間を都合して貰えるだろうか。
考え込みながら歩いていた天子であったが、突然目の前で空間に亀裂が入り肩を緊張させて足を止めた。
すごく都合のいいことに、紫が今まさに会いに来てくれたらしい。だがいきなりプレゼントを送る相手が現れては天子の心の準備が間に合わず、丸くして後ずさる。
そうこうしている内に亀裂が広がり、開かれた空間のスキマからいつものように紫が優雅に現れた。
「こ、こんにちひゃ、天子!」
――訂正、優雅ではなかった。なぜだか向こうも緊張しまくりだった。
内心疑問に思う天子であったが、天子は天子でそこに突っ込むほどの余裕がない。
「ひさ、久しぶりね紫。どうしてたにょ?」
思いっきり噛んで変な声が出る。
普段ならばこれをネタにからかうところではあるが、興のところはお互いにツッコむ余裕などない。
「えーと、その……忙しくって」
「そ、そうなんだ」
だったらどうして妖怪の山なんかに、しかも割烹着姿でいたんだろうかと疑問だがやはりこれも聞けなかった。
――どうするの!? 今ここでプレゼント渡しちゃう!?
ポケットに入った首飾りを今渡すべきかどうかで、天子の頭はちょっとしたパニック状態になっていた。
作り終わってすぐの勢いのある内に渡してしまいたいが、だからと言ってこの場で即渡すのは風情がなさすぎるのではないか。
せっかく丹精込めて作ったプレゼントなのだ、もっといい雰囲気の時に改まって渡したい、ちゃんと取って置きの言葉を考えて送りたい。
今か後か、天子がらしくない優柔不断に悩んでいると紫が先に口を開いた。
「その、天子。今日の夕食はウチで食べていかないかしら?」
「おっ!? い、いいわねうん、それいい! じゃ、じゃあそれまでどうする、どこかで遊ぶ?」
ありがたい申し出だったが、最後の一言はいらなかったと後悔した。
つい口走ってから、そこは約束した後は一旦別れて準備するべきところでしょうがと内心では自分を叱りつける。
「い、いや! 夕方には迎えに行くから、それまで私はやることあるから天子は待っててもらえるかしら!?」
「う、うん、それでいいわ、うんがそれがいい」
だが運の良いことに、しどろもどろな紫は天子の誘いを断ってくれた。
都合がいいのは確かなのだが、この余所余所しい感じはどうしたのだろうか。
約束もできたことで落ち着きを取り戻し始めた天子に、今更ながら疑問が湧き始める。
しかし聞いてみようとしたところで、紫は背後にスキマを開いて身を翻してしまった。
「それじゃ私はこれで! 迎えに来るからお腹減らして待っててね? おやつ食べすぎないでね? それじゃあ!」
「あっ、ちょっと待ってよ紫!」
やたらと念を押しながら手を振った紫が素早くスキマに潜り込む。
紫が自分を嫌っているわけではないだろうが、この状況に一抹の寂しさがあるのを否定できなかった。
少し暗い気持ちになる天子だが何にせよ好都合なのは事実だ、夕食の後で渡すとして今から準備しておこう。
「というわけで、今日中には渡せそうよ」
「へえ、いよいよか頑張りなよ」
まずは時間があったので衣玖と萃香に事の経過を報告しておいた。
「私はどうしますか? 着いて行かずに待っていたほうがいいでしょうか」
「さっさと帰っちゃったから衣玖のこと聞くの忘れてけど、いつも衣玖と一緒に行ってるし二人分の夕食を作ってくれてるでしょ。どうせだから一緒に来て頃合いを見て藍と橙をどっかに連れ出してよ。二人っきりで渡したいし」
「とか言いながら、一人じゃ心細いんじゃないのー?」
「ぶっ、違うし、そんなんじゃないし!」
「ちゃんとプレゼントする時の台詞は決めたんですか?」
「い、いやその、そんなのいつもありがとうって言えば良いじゃない」
「ダメだねそんなんじゃ、愛してます結婚してください! くらいの勢いでだね」
「そして二人は熱い口づけを……」
「いやー、仲良きことは美しきかな」
「そんなのするかー!」
顔を真っ赤にする天子を見て笑っていた萃香だったが。ふと思い出して声を上げた。
「そうだ、ちょっと前にここで珍しいのを見たよ」
「珍しいの?」
「鬼だよ、鬼」
「……珍しくないじゃない?」
「いや、私じゃなくてさ」
鬼なら今ここにもいるだろうと天子は指を向けるが、萃香に手を振って否定される。
天界にいる鬼といえば萃香で定着していた天子だったが、少し考えて言われた内容を理解して手を叩いた。
「ああ、鬼神長のやつらね。地獄の鬼でしょ」
「地獄のだったのかい、そういえば雰囲気が私ら野良妖怪のとはだいぶ違ったね、エリート様って感じでさ」
「わかるわかる、お固い感じなのよねあいつら」
納得が行ったと瓢箪の酒を喉に流し込む萃香だが、話を聞いていた衣玖は不思議そうに尋ねてきた。
「地獄の鬼が、天界に用があるんですか?」
「ようは地獄からのお迎えってやつよ。ここの誰かを殺しに来たんでしょ」
剣呑なワードに衣玖は息を呑む。たしかに言葉としては物騒なのはわかるが、そんなに驚くほどのことではないのになあと天子は思った。
「こ、殺しにですか……その割に天子様は呑気ですね」
「天界にとっては数少ない娯楽みたいなもんだしね。懐かしいなあ、私のとこには数十年くらい前に来たっきりね」
天子はここのところにお迎えがこないことに残念そうに呟く。
対する衣玖は不安な気持ちになった。
お迎えについて詳しくは知らないが、大事な天子の命の危険など少ないほうが良いに決まっている。
「ここのところ相手してないのよねー……一時期むしゃくしゃしてたから、殺しにきた鬼神長を逆に殺しかけたことがあって、私のお迎えを誰もやりたがらないらしいのよ」
「地獄からも厄介がられてるとは流石天子様ですね。軽蔑します、あっ間違えた尊敬します」
「わざとでしょあんた……まあもう来なくてもいいけど、幻想郷に降りてから暇潰しには困らないしねー」
「あんまり油断してると足元掬われるよ」
「その時はその時、私がそこまで程度の存在だったって話よ。そんな簡単に終わるつもりはないけど」
受け取り方によっては諦めにも似た言葉だったが、衣玖は確かな活力を感じてむしろ安心できた。
天子は生きることに前向きだ、決して死を前にしても諦めることはないだろう。
「……そうですね、私もそう信じています」
この輝きがいつまでも続くようにと、衣玖は願って呟いた。
◇ ◆ ◇
幻想郷は外界の現実からズレた位相にすべりこむように存在する場所だが、その幻想から更にズレた場所がある。それが天界であり、冥界であったりする。
ここもそういったあの世を目前とした場所。浮世ではありえない霧の掛かった雄大な川の上を、いくつかの船が横切っており、それらは船頭の後ろに半透明のふよふよとした人魂が乗っていた。
死んだ魂を届ける三途の川、此岸と彼岸の隙間に引かれた境界であった。
魂を届け終えた舟が此岸に戻ってきた。
船頭の死神は岸に辿り着くと舟を漕ぐのに使っていた櫓を置いて、舟を縄で岸につなぎとめてしまった。
常に霧がかかって昼も夜もない三途の川であるが、現世に合わせて時計が合わせられており休憩時間が用意されている。
しかし昼食の休憩にはまだ早いはずだと、舟に乗せて貰おうと人魂が近付いた。
「あーごめんね。お昼の休憩だよ、後でね後で」
しかし困惑する人魂を押し退けて、小野塚小町は岸に上がると時計も確認せずに河原に並んだ幽霊の列を無視して寝転がってしまった。
「いやー働いたね、こぎっぱなしで疲れたよ」
こぎっぱなしなのは、あえて罪の重い幽霊を選んで運んでいたからなのだが、さも頑張りましたよという風に主張して寝たまま背伸びをする。
今日も三途の川は異常なし、小町はいつも通りのんびりゆっくり気ままに仕事をしていた。
「少ししたら人里にご飯食べに行こうかね。どこの店にしようかな、あのピンクの仙人が詳しそうだし久しぶりにあいつの家に顔を出しておすすめを聞くのも面白い」
「ほお、それはそれは優雅なことですね」
今後の予定を立てて気持ちよく身体を休めていた小町だったが、ここにいるはずのない人物の声に驚いて目を丸くした。
視線を上に向けてみると、見知った小柄な上司が逆さまに映った。
「え、映姫さ、きゃん!」
飛び起きようとした小町の額に悔悟棒と呼ばれる笏が落とされて悲鳴が上がる。
悶絶して背を丸める死神を見て、上司の映姫は残念そうに溜息を零した。
「休憩にはまだまだ早いでしょうに。また仕事をサボって」
「そ、そういう映姫様こそどうしたここにいるんですか。まさか映姫様もサボり……いたっ! 違いますよねわかってますスミマセン!」
青筋を立てた映姫に悔悟棒で滅多打ちされ、小町は必死に頭を下げた。
映姫は叩きのめして気を晴らすと、這いつくばって頭を守る小町を見下ろしてここに来た理由を告げた。
「小町、いつもと違う仕事が入りました。幻想郷に出ますよ」
「おっ」
映姫から伝えられた言葉に小町は立ち上がると、ニヤニヤと笑みを浮かべた。
「おやおや鬼神長達が頼んできましたか。標的は?」
「比那名居天子、あなたは誰だか知っているらしいですね」
「ああ、あの娘ですか。なるほど厄介そうだ」
自分たちにお鉢が回ってくるわけだと、小町は異常気象の異変で戦った天人を思い出して得心する。
しかし彼女の前にいる上司は、部下とは対照的に眉を曲げて嫌そうな顔をしている。
「不機嫌そうですね映姫様」
「当然です、元々私の仕事ではないのですから。管轄外の仕事を押し付けられて良い気分にはなれません」
「私はけっこう楽しみですけどね。特別手当に上手く行けばボーナスも倍ドンですし。あの天人はどんな反応をするのかねえ」
顎に手を当てて想像を巡らす小町に、映姫は口をとがらせた。
「小町わかっているでしょうが、他の部署がなんと思おうと、私は説教をするだけです」
動かぬ意思を主張する映姫であったが、それが相手には一番厄介なんだよなぁと小町は気の毒な笑いを漏らした。
◇ ◆ ◇
朝に招待を受けてから、いつ紫が来ても良いように天界で待ち受けていた天子だったが、日が沈み始めてもまだこない待ち人に、そわそわと要石に座った体を揺らして焦れったそうにしていた。
「ま、まだかしら、遅くない?」
「遅いですねぇ、いつもなら早めに合流して駄弁ってるのに」
天子とは違い衣玖はのんびりとした様子で敬愛する主人を見守っている。
いつまで経っても紫が来ないということで、萃香は飽きて何処かに行ってしまった。
不安と期待を胸に待っていた天子の前で、空間に亀裂が奔った。
「――き、キタ!」
開いた闇の中から人影が歩み出てくる。
暗闇に溶けてしまいそうな紫色のドレスを着た紫が、人を惑わす妖美な表情で口を開いた。
「ごご、ごきげんひょう天子!? 今日もいい月ね!」
「ここ、こんばんひゃ紫!? そうね、良い新月ね!」
――何この人ら面白い。
まだ月も出てないのに何を言ってるんだこの人はと、衣玖は笑いを堪えるのに必死だった。
しかし天子はともかく妖怪の賢者までこの有様とは、一体何があったのだろうか。
「そ、それじゃあ早速来てちょうだい、二人でゆっくり夕餉を……」
「あのー……私もいるんですが」
ナチュラルにハブられかけてた衣玖が声をかけると、紫から一瞬純朴な少女のような無垢な目で見つめ返された。
「えっ……? ああ、そうよね! 衣玖も来るわよね。ええわかっていますとも」
どうやら衣玖の存在は発言するまで本当に眼中になかったようだ。
「しまったわ、衣玖も……ああ、そうだわ。そういえば藍が従者同士で話があるって言ってたから、会ってあげてくれないかしら?」
「ええ、構いませんが……」
露骨に除け者にされている気がするのを衣玖は感じた。
流石に疎外感から気が悪くなったが、紫の様子がおかしいこともあるし何かしら事情があるんだろうと不満を飲み込んだ。
元々衣玖がついてくる理由も天子と紫が二人っきりになれるようフォローするためであるし、ここは素直に従っておくことにする
「それでは、改めてお手を拝借」
そう言って紫は絆創膏が取れたまっさらな手の平を二人に差し出した。
天子は紫の右手を取り、衣玖は左手を取る。
両方の手を握りしめた紫はふわりと表情を和らげて、後ろ向きに歩き来る時に開いたスキマに背中から入り込んだ。
ズブズブとスキマに沈んでいく紫に、天子と衣玖も着いて行き中に入る。
世界の隙間という異常な空間に視界が黒く染まった後、急に目の前が拓けて、三人はいつのまにか生い茂った森のなかに立つ和風の屋敷の前に立っていた。
「いらっしゃい二人とも、よく来てくれたわ」
スキマで二人を連れてきた紫は手を離し、来客に笑いかけると玄関の戸を開いた。
天子たちは「お邪魔します」と言って家に上がると、紫に続いて屋敷の廊下を歩いた。
「じゃあ衣玖、そっちの居間で藍たちが待ってるから」
「はい、わかりました」
「私は?」
「天子はこっち、応接間よ。私と一緒に来て」
紫が天子を応接間に招くのは珍しいことだった。大抵は居間や縁側で家族を交えてのんびりするのが常だったのに。
応接間に行く二人と別れた衣玖は、居間の襖を開いた。
「こんばんは、お邪魔しまうわあああああ!!?」
中に踏み込んだ衣玖が見たのは死屍累々の惨状。
テーブルの上に置かれたおびただしい量の皿と、その周りに耳と尻尾をへにゃりとしおらせ倒れ込む藍と橙、そして同様に死人のような顔色で伏す幽々子と妖夢の痛ましい姿だった。
みな肩で弱々しく息を吐いて、痩せこけた頬でお腹を抑えている。
驚いて部屋に入った衣玖は鼻につく異臭と頭に重くのしかかる陰気さにうっと口元を抑えた、とんでもなく空気が淀んでいる。
来客に気付き藍がよろよろと起き上がった。
「おぉ……来てくれたか衣玖、何も歓迎できずすまない……」
「ど、どうしたんですか皆さん揃って!? 随分と痩せたようですけど」
「ふふ、わかるか? ここ数日で5キロは減ったよ。どうして食べてばっかりなのにこうまで痩せるか自分でもさっぱりわからん……」
「うにゃぁ、もう……もう毒味はいやぁ……」
「ああ、川の向こう側で妖忌が手を振って……」
「半人半霊なんかじゃなく、いっそ死にたい……」
「と、とりあえず換気しましょう、ここの空気色んな意味で悪過ぎでヤバいです」
◇ ◆ ◇
応接間に通された天子は、掛け軸の掛けられた床の間に近い上座に座る。
慣れない場所でなんとなく落ち着かない天子に、紫は立ったまま笑いかけた。
「それじゃあ、用意するから待ってて頂戴」
「用意って、紫が? 藍じゃなくて」
応接間から紫が出て襖を閉めるのを見届けて、天子は首を傾げる。
いつもなら藍がご飯を用意してくるはずなのに、紫がわざわざ料理を持ってくるとはどういう理由なのだろうか。
妙な可能性が頭をよぎるが、いやまさかあの料理下手がと思い直し、しかしそれなら何故と天子はぐるぐる頭を悩ませる。
やがて廊下から足音が聞こえてきて応接間の前で立ち止まると、お盆を床に降ろす音の後に襖が開かれた。
緊張気味に顔を赤らめた紫が、料理が乗ったお盆を部屋の中に動かして戸を閉めると、改めて天子の前にやってきた。
「その、口に合うかわからないけれど」
差し出された料理は、白飯に薄揚げと大根の浮いた味噌汁に肉じゃが、そして副菜に水菜の天ぷらと摩り下ろした大根を添えた卵焼きだった。
春の食材を使った定番の料理ばかりだが、藍が作ったものとしては味噌汁の大根や卵焼きの形がいびつだったりと、微妙な下手さがあった。
「もしかしてこれって……」
「その、私が作ったのよ」
おずおずと申し出られ、天子は驚いて料理から顔を上げると、顔を俯けている紫を見つめた。
紫に背けられた視線は、耳の赤さから恥ずかしいんだとわかる。
天子はここのところ紫が会いに来てくれなかったのは、ずっとこのために料理の練習をしてくれていたのだと悟った。
自分が首飾りを作ったことと示し合ったように、紫も素敵な贈り物を与えてくれたことに、天子は嬉しさで胸をときめかせた。
「残念だけど藍にはかなわないし、い、イヤなら食べなくても……」
「ううん、食べる! 食べさせて!」
わずかに怖気づいた紫に、天子は身を乗り出す。
すると紫は赤い顔を上げて強張っていた表情を明るくさせると、お箸を手に取って肉じゃがを摘んだ。
「それじゃ……あーん」
照れくさそうに、しかしながら大胆に紫が箸で持った肉じゃがを差し出してくる。
思わぬ行動に、今度は天子まで顔を赤くしてしまう。
「じ、自分で食べれるわよ!」
「食べさせてっていったじゃない」
「そういう意味じゃなくて!」
「私が、食べさせてあげたいんだけど、ダメ、かしら?」
そんな風に恐る恐る伺われたら、天子は例え恥ずかしくても押し黙るしかなかった。
わずかに恨みがましい視線を投げかけた後、観念して口を開く。
「あー……」
雛鳥のような天子を前に、紫が喜びで顔を綻ばせて料理を運んでくる。
ゆっくりと口の中に肉じゃがが差し出されると、天子は口を閉じて料理を頬張った。
唇の間からお箸が引き抜かれ、天子は味を確かめるように噛み始める。
「どどどどうかしら!?」
「うん……」
正直なところ、上手ではない。
味は薄いし、ちょっと焦げてて苦いし、肉は硬いし、じゃがいもは崩れてドロドロだし、玉ねぎはほとんど溶けてて口の中にあるかどうかもわからない。
だがそれでも、以前食べた紫の料理よりかは遥かに上達していて、きっとこのために長い時間練習してくれたんだろうということが伝わってきた。
「……美味しい」
「ほ、本当? 無理して褒めなくてもいいのよ? ようやく食べれるレベルになっただけって自分でもわかってるから」
「ううん、無理なんてしてない」
噛みしめるごとに感じる、紫からの愛情の味。
それが何よりものスパイスとなって、天子の心に染み入る。
「とっても、とっても美味しいわ」
胸が暖かくなる料理なんて、食べたのは何年振りだろうか。
ご満悦の天子は、にっこりと笑って紫を急かした。
「ねえ、早く次のちょうだいよ。食べさせてくれるんでしょ?」
「……ええ、ええ! はい、あーん」
紫も喜んで次々料理を食べさせてくれる。
次に口にした水菜の天ぷらは、案の定というか固かった
味噌汁はしょっぱくて、卵焼きは甘ったるくて、それでも今まで食べた中で一番美味しく感じる。
そして天子が美味しいというと、紫もまた喜んでくれるのがまた楽しかった。
なんて、なんて幸せなんだろう。
今までの悩みなんてどうでもよくなるような、心が躍る夢のような時間。
天子は満面の笑みでご飯を頬張り、ただただこんな素敵な時間を与えてくれる紫に感謝ばかり感じていた。
「ふふふ、私の事母親と思って甘えてくれていいのよ」
――――それを聞いて、頭の裏で心が崩れる音がするまでは。
「母親って、どういう、こと……」
「ずっと寂しい思いをしてきたようだから、少しでも元気づけたいと思って。それでね、家族みたいにあなたを支えられたらって」
屈託なく笑って語る紫を前にして、天子は眼孔の奥が燃え上がるのを感じた。
喉の奥がカラカラする、体の芯が震えて、心臓が狂って脈を打つ。
無邪気に笑う紫が、猛る感情を通して歪んだように見えて、楽しそうな声は聞いてられずに頭痛が走る。
「私が母親代わりなんておこがましいかもしれないけど、それでちょっとでもあなたに欠けたものの足しになれば――」
「――ふざけないで!!!」
叫ばずにはいられなかった。
一番敏感だった部分を突き刺され、天子は堪らず立ち上がって紫の首元を締め上げた。
突如として変貌し、怒りで顔を歪ませる天子を前にして、紫が驚愕してなすがままに身体を固まらせる。
「あんたが! よりにもよって紫なんかに、お母様の真似事なんてされたくない!」
「て、てんし……?」
困惑し、怯えすら見せる紫だが、それですら天子の怒りを鎮められない。
頭が痛い、手が痺れる、このままではどうにかなってしまいそうだ。
発狂しそうな喉を締め付け、せめてこれ以上叫ばないように口をつぐんだ天子は、顔を伏せて紫を突き飛ばすと部屋の戸を開け駆け出した。
「天子!」
紫の声が厭に遠く聞こえる。
離れていく想いを背に、天子は逃げ出した。
◇ ◆ ◇
「なるほど、紫さんの料理のイケニエに」
「その言葉のチョイスはどうかと思うが、まあ概ね間違っていない」
衣玖の呼びかけにより瀕死の状態からなんとか復帰した面々は、まだ優れない顔で食卓を囲んでいた。
机に置かれたのはちゃんとした料理ではなく、外界で言うところのカップ麺。藍たちに夕食の用意をする気力はなく、紫に用意してもらっていたこれにお湯を注ぐこととなった。
幻想郷では珍しい食べ物を口にしながら、衣玖は何があったのかを説明してもらっていた。
「すまないな、本当ならこんな温かみのないものを家族や客人に出すべきでないのに」
「いやいや、お気になさらず。皆さん大変だったようですし、これはこれで美味しいですから」
橙や妖夢などは「おいしいおいしい」と涙しながら麺をすすっているが、紫の料理はどれだけ殺人的だったのだろうか。
「妖怪の山で天子たちと別れた後、今度は紫様を手伝ったんだけどね。あまりの不味さに式が剥がれて変化が解けて、上も下もわからない時に黒くてドロドロとしてよくわかんない場所に浮かんでたよ」
「ヤバい扉を開けかけてませんか?」
衣玖は「大変でしたねえ」と橙の頭を撫でてあげると、身をくねらせて喜んだ。
そのことに藍が「むう」と少し不満げに見つめてくるのを受け流し、幽々子たちに顔を向ける。
「幽々子さんがたもお手伝いしてたんですね」
「ええ、親友の一大事なんだから当然よ」
背筋を伸ばしてお行儀よく麺をすすっていた幽々子がサラリと答える。
すでに疲労を感じさせない声色な辺り流石だった。
「終盤の幽々子様はすごかったぞ。私達が全滅した中で、最後まで紫様の料理を食べ続けたからな」
「死に物狂いでかっこんでましたね、あんなに必死になった幽々子様初めて見ました」
今の幽々子を見ていると想像できないが、どうやら壮絶な戦いだったらしい。
幽々子は賞賛を受けながら、当然のように言った。
「言ったでしょ、親友のためなら当然だって」
紫の作った料理は本当に不味かった、幽々子は大食らいながら結構な美食家で味にはうるさいほうなのだが、文句の一つも零さず紫の料理を平らげ続けた。
胃がキュウキュウに喉を締め上げてこれ以上この料理という名の異物を入れるなと反抗してきたが、それでも食べ続けた。
しかし拒絶反応を無視して食べる姿のその悲痛なこと、途中で紫は何度も「無理して付き合ってくれなくてもいいのよ?」と言ってきたが、それを断って最後まで味見役をやりきった。
親友の幸せは自分の幸せ。紫が誰かのことを大切に想い、その誰かのために頑張りたいと言うのなら、幽々子も全力でそれを手伝う。
数日のあいだ不味い料理を食べ続けたのは苦痛だったが、ようやくまともな腕前になった紫が喜びながら「ありがとう」と言ってくれただけで頑張った甲斐があったというものだ。
「あとは二人の仲が上手く行ってくれれば十分……」
――――ふざけないで!!
突然響いてきた大声に、机を囲んでいた面々は顔を上げた。
激しい怒りを含んだ叫びに全員がそんなまさかと呆然としていると、続いて廊下から大股で歩く重い足音が聞こえてくる。
「ちょ、ちょっと失礼します」
衣玖は気が気でない思いをしながら襖を開けると、ちょうど奥の部屋からやってきた天子が通り過ぎるところだった。
驚いて身を引いてしまう衣玖の前で、天子の後を追ってきた紫がやってきて手を伸ばした。
「待って天子!」
天子は悲鳴にも似た呼びかけを受けながらも、固い背中で無視して玄関に置いていた靴へ乱暴に足を突っ込み、音を立てて扉を開き出ていってしまった。
開けっ放しの玄関を見て紫は伸ばしていた手を力なく下げ、途方に暮れて立ち尽くす。
とんでもない場面に空気が凍りつくなか、衣玖は自分の立場を思い出して青い顔で藍たちに振り返った。
「わ、私は天子様を追います。なんとか宥めて連れてきますから! 紫さんもそう落ち込まないで!」
慌てて部屋を飛び出して、すれ違いざまに紫にも声をかけると衣玖も玄関から出て扉を閉めた。
凍りついた表情で橙と妖夢の横で、藍は手で顔を押さえた。
「ああー……こうなってしまったか」
紫が暴走気味なのもあって、空回りして失敗するのではと少し予感していたが、天子の態度からして想像よりも悪い方へ転がってしまったようだ。
この場合に問題なのはと、藍は手の下から目を開いて、紫ではなく机を挟んで向かい側に座っていた幽々子を見た。
「――――――」
真っ白で表情に激しい怒りを浮かべる亡霊がそこにいた。
天子が親友を悲しませたことに許せないと感じており、その激情に幽々子の周りの空間が歪んでいるようにすら思う。
物言わぬ威圧感に、橙などは小さく悲鳴を上げて藍に縋り付いた。
幽々子の顔の横に、ふわりと蝶が浮かぶ。
「幽々子様、能力が漏れています。ご自重ください」
ある程度、主の性質を心得ていた妖夢が、冷静な声で指摘するが幽々子の態度は変わらない。
これはいけないと誰もが思う。幽々子は怒りのままに天子を殺す気だ。
「幽々子、早まった真似をしてくれてはダメよ」
しかしそれを察した紫が、廊下から振り向きもせずに声を掛けてきた。
それを聞いた幽々子が眉をひん曲げて悲しそうな顔を紫に向ける。
「でも紫」
「これは私が無遠慮過ぎたせいよ。浮かれすぎたわ」
幽々子は納得が行かないようであったが、紫から背中越しに静かに言われ、仕方なくと言った様子で発現した蝶を消し去る。
「……わかったわ。でも私にできることがあったらなんでも言ってね」
「ええ、ありがとう」
ようやく振り向いた紫は、精一杯取り繕った笑顔で感謝を口にする。
しかしショックなのは間違いなく、すぐに影のある表情でため息を吐いた。
「なんだか疲れてしまったわ。藍、布団の用意をお願い」
「はい、かしこまりました」
そう言って紫は自室へと廊下を歩いて行く。
主からの頼みを聞いて藍が立ち上がったが、客人である妖夢もそれに続いた。
「なら私はお風呂の準備をしておきます。幽々子様、今日は泊まって行かれますよね」
「そうね、そうしようかしら」
「それじゃあお願いしようかな。橙、お前は夕食の後片付けを頼むよ」
「は、はい、わかりました」
藍もこの申し出を断りはせず、どこか影のある表情で佇む幽々子と二尾を揺らして机の上を片付けていく橙を残し、二人は部屋から出て襖を閉めた。
並んで廊下を歩きながら、妖夢が口を開く。
「幽々子様は、悲しむことに臆病ですね」
短い言葉は実に的を得ていると藍は思った。
「私が言っても幽々子様は止まらなかったのに、紫様が言えば怒りを収めた。私が、幽々子様のそばにいる意味はあるんでしょうか……」
「あるさ。それを言うなら私だって紫様の全てを支えられているわけじゃない」
己の意義に迷い弱きな言葉を口にする妖夢を、藍は冷静に励ました。
「幽々子様の存在は紫様にとって心の支えだし、萃香は私や幽々子様が言えないことを言ってくれる。橙もまだまだ子供だがあれで重要な役割がある。妖夢も、幽々子様のためにお前にしか出来ないことを立派に務めてるよ」
「そうでしょうか」
「そうさ。むしろ私は凄いと思うよ、紫様に依存しがちな幽々子様の懐に、潜り込めたのはお前くらいだ」
相談もそこそこに妖夢は藍から別れて浴室へと向かい、藍は紫の自室に入った。
広々とした部屋の主は、窓から月が輝き始める様を見てぼうっとしている。
藍が押し入れからふかふかの布団を取り出して畳の上に敷く。
「準備してくれてありがとう」
「どういたしまして……紫様のお料理は、片付けておきますか?」
「いいえ、起きたら私がやるわ、やらせて」
語気を強くする紫に、藍は「ではそのように」と頭を下げる。
「紫様、あまり気に病むことはないです、また仲直りできますよ」
「ありがとう、藍」
励ましの言葉を送ってみるが、今いち効果があるように思えない。
私だけではどうにもならないなと、藍は自虐気味に結論を出し、今はただ従者として出来ることをすると決めた。
「紫様、あちらのほうの睡眠はまだ大丈夫ですか?」
「そうね、そろそろあっち側に戻らないといけない頃よ。明日くらいにはお願いするわ」
「御意」
「もう寝るわね、おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
藍が部屋から出ていくと、紫は服も着替えず布団に潜り込んだ。
気が静まらない一方、ショックを受けた心が休みたがっていて、手足の先が鉛のように重く感じる。
悲しげな瞳で見た暗い天井に浮かぶのは、怒り狂う天子の姿。
「……私では彼女のそばにいる資格はないというのかしら」
不思慮だった、というよりも自惚れていた。
自分なら天子の心を癒せると粋がっていた、それがこの結果だ。
この世界に望まれない異物では、彼女を助けることなど出来ないというのだろうか。
妖怪の山で天子が言ってくれたありがとうの言葉が、すでに遥か遠い過去のように感じ、上手く思い出すことができなかった。
◇ ◆ ◇
辺りから虫や蛙の声が聞こえてくる。
新月の夜は妖怪も大人しくて、一人きりになった天子は霧の湖の辺りに膝を抱えて座り込み、自失呆然としていた。
「……またやっちゃった」
紫に吐いた酷い言葉を思い出し、天子は膝の間に顔を埋める。
「まだ許せないなんて」
紫が自分のために料理を作ってくれたことは素直に嬉しかった、幸せを感じられた。
だが紫が母をやるということだけはどうしても黙っていられなかった。
母の存在を汚されたようで、自分の思いでに残る母の姿すら奪われてしまいそうで、激しい憤りが止まらなかった。
これからどうしたらいいだろう、優しい紫はきっと許してくれるだろうが、自分なんかが紫のそばにいて良いのだろうか。
ずっとこの怒りを抱えたまま一緒にいても、また紫を悲しませるだけではないのか。
それならいっそ、この幻想郷から姿を消してしまったほうが良いのでは、そんなことまで考えてしまう。
「――あなたが、天人の比那名居天子ですね」
落ち込んでいる背中に声を掛けられ、天子は気怠げに顔を上げて振り向いた。
そこにいたのはいつか戦った死神の船頭と、緑色の衣服に身を包んで笏を持った小柄な女性。
緑の少女を見てその正体を看破した天子は、病んでいた精神を引き上げて、神経を集中し眼を鋭くした。
「閻魔が、生者に何の用よ」
「お察しの通り、私は閻魔の四季映姫・ヤマザナドゥ。鬼神長に仕事を回されてここに来ました」
それを聞くやいなや、天子はその場から飛び上がり逃げ出した。
湖の上空に出て霧に紛れようとしてところで、一瞬で目の前に現れた小町が大鎌を振るう。
「遅いねっ!」
凶悪な刃が迫るのを、緋想の剣から展開した気質でなんとか防ぐ。
服の肩を切り裂いた鎌が、肌に冷たく押し当てられるのを感じて、天子は危機感を覚えながら大鎌を押し返した。
「ちぃっ、船頭風情が!」
そのまま小町に距離を詰めて切り返そうとしたのだが、飛び込んだつもりだったのにほんの少しも前に進んでいなかった。
とてつもない違和感に押し潰されそうな天子が、今度は背後に飛び退ってみようとするが、これもまったくその場から動かない。
手足が動かないわけではないが、自分の位置だけはまったく動かせない、冷静でいようとしながらも困惑を隠しきれない天子に、小町は笑って距離を離した。
「もう無駄さ、あんたはもう何処へもいけない」
死神は大鎌を背負い、軽やかに映姫の隣に降り立つ。
天子はあらゆる方向へ飛ぼうとしてみるが、上下左右前後、どちらへ行こうとしてもその場から移動できなかった。
ならばと要石を作り出して小町に向けて撃ち放ってみるが、回転して突き進もうとする要石はほんの数ミリしか前に進まない。
それなのに何故か要石と離れていく実感があり、距離が離れすぎて天子との繋がりが切れた感覚がすると、要石はようやくその場から動いて湖に零れ落ちた。
「私の能力で、あんたの周囲の距離を弄った。周りの空間は三途の川の長さと同じだ、越えようとも越えられないさ」
魂を運ぶ三途の川の渡し人として小町に与えられた距離を操る能力、本来はその者の罪の応じて川の長さを変化させるためのものだ。
ならば天子の周囲の空間は今、天子自身の罪に応じた距離を持っていることになる。なるほどちょっとやそっとじゃ動けないわけだ。
無の牢獄に囚われた天子は、空から映姫を見下ろして吠え立てた。
「閻魔が生者に干渉して、目的は何!?」
「概ねお察しのとおりです。鬼神長に頼まれて、あなたの頭上の華を枯らせに来ました」
閻魔の返答は、天子が予想していたこととピッタリ一致していた。
天子は差し迫った身の危険に険しい顔をする。精神的に最悪なこのタイミングで殺しにかかられたことは非常に拙い。
今の精神状態では全力を発揮できないし、それにこの二人、今までに天子が戦ってきたどのお迎えよりも強力だ。
まずは能力で囚われたこの状況をなんとかしなければと、天子は体の奥から湧き上がる気質を剣に集めた。
「だったら、こいつはどうよ。緋想の剣!」
「だから無駄だって」
さっきの要石のように進むことができないと高をくくっていた小町が口笛を吹く。
しかし剣先から放出された気質の閃光は、引き伸ばされたはずの空間を物ともせず直進し、油断していた小町の鼻先に熱気を浴びせかけてきた。
「ウッソぉぉおおお!?」
小町が悲鳴を上げながら後ろに倒れ込んで、紙一重で気質のレーザーを避ける。
意図せずして奇襲になったようだが、残念ながら失敗に終わった。
派手に尻餅をついた小町は、閻魔から白い目で見られているのに気がつくと、慌てて身を起こして警戒を強める。
「数千キロはあるはずなのに、一瞬で飛び越えてくるなんて。厄介だね想いってのは!」
「構いませんよ小町。本人が動けなければ後は問題ありません」
一方、閻魔は一切動じず、何事も受け止めるその精神性は見事なものだった。
こいつを出し抜くのは難しそうだなと、天子は苦虫を噛み潰す。
「……とは言え、妨害はご遠慮願いたいですが」
映姫がそう言うと同時に、近くの草むらから緋色の衣が雷を纏って躍り出て、閻魔に差し迫った。
回転し先を尖らせた衣のドリルを、小町が今度は冷静に大鎌で弾き飛ばす。
攻撃を防がれた何者かは、羽衣を揺らして天子の前へ庇うように躍り出た。
「衣玖!」
「すみません、遅くなりました……が、どういう状況でしょうか」
天子を窘めようと追ってきたはずの衣玖だったが、待っていたのは想像より遥かに混沌とした状況だった。
とりあえず間違ってたら後から謝ればいいの精神で奇襲を仕掛けてみたが、案外間違った判断でもなかったらしい。
「鬼神長のお使いで私を殺しに来たんだと」
「ああ、やっぱり。楽しいだとか言ってられそうにありませんね」
「同感、こいつらはちょっと厄介だわ」
衣玖は周囲の空気の流れからして、天子がその場に釘付けにされていることを察した。手助けが必要そうだ。
この状況で優先すべき目標は何かで、死神の横にいる固い顔の少女だと当たりをつける。
小柄な少女から漂ってくる底知れないプレッシャーと信念、彼女を天子に近づけてはいけない。
「――邪魔はさせないね!」
衣玖が戦闘態勢に移ろうとした一瞬の隙に、小町が割り込んできた。
船頭にとっては本来は飾りに過ぎないはずの大鎌が振るわれ、衣玖の胴に迫る。
衣玖はすかさず羽衣を操り、ひらひらした布切れのはずのそれで刃を受け止めた。羽衣に傷はなし、龍神から賜った品物にこの程度の攻撃は通用しない。
「衣玖! あんたは死神の方に集中しなさい。一対一でそいつを倒すのよ」
「しかしそう簡単に行きますか!?」
衣玖が刃を捉えたまま大声で言葉を返す。
会話をしながらも、同時に大鎌から電撃を流し込もうとしたところで、小町はそれを察して衣玖から離れていってしまった。
「向こうは誘いに乗るわ。閻魔のやつは、私と立ち会えればそれでいいみたいだから」
天子の推測では、小町の能力も天子の位置を固定するためにリソースのほとんどを割いている。衣玖が挑めば逃げずに立ち会うしかないはずだ。
「……わかりました、ご武運を」
衣玖はそう言い残して映姫を無視して小町にだけ敵意を向けて飛び掛かって行った。
「よーし来なよ、簡単すぎても退屈だしね!」
小町もそれについては都合がいいらしく、薄く笑うと映姫から離れるように立ち回りながら衣玖に応戦する。
天子の予想通り、やはり小町は衣玖との戦闘で距離を操る能力を使用していないようだ。これなら衣玖もそれなりに早く決着を付けられる。
なら自分がやるべきはそれまで生き延びることだと、映姫を見定めて闘志を引き出した。
「私を殺そうだなんてね、閻魔の癖に生者を裁くのか!」
「私はあなたを殺しに来たのではありません。説教に来たのです。そして裁くのは私ではなく、あなた自身ですよ」
「同じこと!!」
天子が緋想の剣から気質の弾丸を放出する。
様子見の牽制だが、映姫もそのことはわかっていたようで僅かに位置をずらされただけで避けられてしまった。
地面に着弾した気質が砂埃を上げる隣で、帽子が飛ばないように押さえた映姫はこちらを見上げてくる。
「なるほど、気質の扱いについては素晴らしい才覚です。しかしその使い方を間違った」
地獄からのお迎えが天人を殺しに来る場合、基本となるのが言葉での精神攻撃だ。
人間の枠組みを超えた天人はその存在の比重が大きく精神に偏っているため、精神の衰弱は死につながる、その上、天子の扱う気質は感情によって威力が左右されるため精神状態の安定は余計に重要だ。
何を言ってくるのか当たりをつけた天子は、飲まれないようにと気を引き締めた。
「あなたの罪の一つ、かつて異変を起こす時に多くの幽霊を斬った。地震を起こす、ただそれだけのために」
「それがどうしたぁっ!」
自らの罪を啓示されても、天子は怯むことなく緋想の剣を振るった。
たった今、映姫に言われたことなどとっくの昔に天子の中で決着が付いた話だ、その程度のことで戸惑う心などない。
拡散する気質が敵とその周囲を飲み込もうとした時、映姫は懐から出した手鏡を飛来する弾幕とかざした。
それは浄玻璃の鏡と言う罪人の過去を映すという道具だ。本来なら死後の裁判のために使う道具であるが、映姫から力を注ぎ込まれた鏡は特殊な力場を前方に形成し、術者に飛来する気質を弾き返した。
鏡に映る緋い輝きに、映姫は天子の過去を垣間見る。
外れた気質が地面を掘り返し土砂を巻き上げる中で、無傷の映姫が佇んでいるのを見て天子は舌打ちした。
「それが悪いこと? 罪なこと? そんなの全部わかってやったのよ、前へ進むためにそうせずにはいられなかった。反省はしても後悔はない!」
「自らの心を偽ることもまた罪なことですよ」
威勢よく啖呵を斬る天子だったが、映姫は冷徹に心の隙を突く。
閻魔が持つ、こちらのあらゆる核心を識るかのような眼差しに、天子は腰が引けるのを感じた。
「確かにあなたには必要なことだったかもしれない、しかし後悔もまた僅かなしこりとして残っている。振り切ろうとするのは立派ですが、いささか急ぎすぎる。それでは自身も周囲も傷つけてしまう」
「うっさい、余計なお世話よ!」
自分でも目を逸らしてた恥部を指摘され、今度はつい羞恥から叫んでしまった。
言われてみればそうかもしれない、気にしない振りをしていただけの過去の行いを後悔していたのだろう。
だがなんと言われようと、あの時の天子の行動は致し方なかったことだ。どれほどの非道であろうと、自分が辿る道はそれしかなかった。
ならば反省も後悔も認めるだけだと精神を立て直す天子だが、映姫は口を閉じず責め立てる。
「あなたは長く生きすぎた、1200年は長すぎる。それだけ生きてあなたは何を成したのですか、ただ惰性のまま暴れ狂ってばかりで新たなものは何も生み出せてはいない。世界のリソースは限られていて、常に最新の命に割り振られるべきもの」
「そんなもん知るか! 私はまだまだ物足りないのよ!」
何も知らずにのうのうと語る閻魔に、否、すべて知りながら語っているからこそ、天子は喉を震わせ怒声を響き渡らせた。
苦しみを抱えて歩き続けた過去を想起させられ、空虚な人生に激しい怒りが沸き立った。
天子は緋想の剣を前方に掲げると、己の内から気質を取り出して剣へと集中させる。
気質を集めた緋想の剣は回転を初め、膨大なエネルギーが緋い光を放つ。
「私の人生はもっと楽しいもののはずだった! 幸せに溢れてるはずだった! それを、それを取り戻そうとして何が悪い!」
鬼気迫る咆哮、望んだ未来を渇望する無垢なる輝きが、剣に重ねられた。
挑むは窮地、望むは極光、発現されるのは天道を行く比那名居天子の底力。
「全人類の緋想天!」
天子が持ちうる最大の攻撃が辺り一面を覆い尽くし、夜の闇を照らし出す。
無秩序に奔り世界を穿つ閃光が、映姫はもとより遠方で戦っていた衣玖と小町のところにまで届いた。
「うおっと、暴れん坊だねあんたの主人は!」
辺りを侵掠する緋い輝きに、小町が戦闘を一時中断し冷や汗を掻きながら身を翻した。
衣玖は天子から流れてくる威圧的な空気を感じ取り、優雅に飛び回って天子からの攻撃を避ける。
「その通り、なんにも我慢ができない我侭娘。ですが綺麗でしょう?」
「酔狂だねぇ、あんたも」
一面を覆う暴威を前にして、映姫も続く言葉を打ち切って回避に徹した。
鋭い気質が刃のように飛び交い、閻魔の頬に僅かな切り傷を作り上げる。
放出されたエネルギーは驚異的な量である、だがこんなものは見てくれだけだ、怒りだけの杜撰な攻撃など冷静になれば避けられないものではない。
映姫が飛び交う閃光の間を縫って飛び続ければ、感情的に放出される気質はあっという間に底を突き、第一波はほどなく終了した。
肩を上下させ荒い息を吐く天子に、再び映姫が口を開く。
「そうやって我欲のまま貪るつもりですか。それだけの時間を無為に過ごしたあなたが、今更何かを成し得ると?」
「何もできなかったからこそ、こんなところで止まれない。これからよ!」
反論する天子はもう一度剣を掴み気質を溜め始めた、集中された気質により刀身が震え空気を叩き甲高い音を響かせる。
長過ぎる空虚の欠落を埋めるほどの成果を、生きていてよかったと思える何かを。
ただ前へ、ただ前へ、その一心で道を切り開く。
天子の本質、あらゆる苦痛苦難の中で置いてもなお前へ進もうとする意思。
母を喪った悲しみも、父に殴られた苦痛も、紫と出会って感じた苦悩も、この意思だけは止められなかった。
だからこそ天子はここにいる、まだ先へと無限に進み続ける。
「私は、この場所で、もっと幸せになってやるんだから!!」
握りしめるのは誰もが持つ他愛ない願い、光を帯びた眼が未来を見据える。緋想の剣がより多くの気質を与えられ強く光り輝いた。
もっと先へ、もっと前へ、がむしゃらに――
「そしてあなたの最大の罪は、己の仇を騙していることです」
だがその言葉に、心が足を止めた。
気質の高鳴りが音を止める、僅かに剣先が下がり天子は半開きの口から言葉を返せず、瞳を揺らした。
遠方の衣玖が話し声は聞こえないまでも不穏な空気が漂いだすのを感じ取るが、天子の攻撃が止んだことで再び死神との戦闘が再開し、助けに入る余裕はなかった。
「許せてもいない相手を憎んでいないかのように振る舞い、己の醜さをひた隠しにして八雲紫に近づいた。そして今なお本心を隠し、彼女の気持ちを蔑ろにしている」
「あんたに、何が……」
「母を殺された気持ちなどわかりませんとも。しかし罪は罪、変えられない事実です」
閻魔の一言一言に天子は心が締め付けられるのを感じる。
抗いようのない罪悪感が脳髄で暴れまわり、眉を歪めて奥歯を噛みしめた。
「許そうとっ……したのよ私は!」
それが精一杯絞り出した言葉だった。
「私を許してくれたみたいに、私もあいつを許せたら良いって、お互いに笑い合えたら一番いいって思って!」
「それが愚かだというのです。それは自らの意志で選んだのでなく、ただ感情に流されたに過ぎない。憎むよりも許すよりも、その道が一番楽だから、それらしい名分にかこつけて憎む醜い自分から逃げただけです」
「そんなことない!」
紫を許したい、それは本心のはずだった、そのつもりだった。
だというのにどうしてここまで心がかき乱されるのか。
いやわかっている、もう天子の心を気付いてしまっている、だが気持ちがその事実を無意識下に押し込もうと反発する。
激しく狼狽し、子供の駄々のような悲鳴を上げる天子に、極めつけの一言が放たれた。
「ならば何故その剣を捨てないのです」
閻魔の指摘に身体を震わせ、手に握られて緋想の剣を見下ろす。
「その剣は元々、八雲紫を討伐するために作られた代物。本当に彼女を許したいというのなら、剣を捨て、お互いの罪を清算して始めてその可能性が生まれるというのに。心に刃を隠し持って、顔だけの笑顔で抱きしめたところで傷つけるだけ」
瞳が揺れる、涙が滲む。
不明瞭になった視界のなかで、緋想の剣の輝きがぼやけていく。
気質の集中が途切れる、想いが手の平から零れ落ちる、道が途絶える音が聞こえる。
「武器を捨てられないあなたに、憎しみを捨てることなど出来はしない」
天子の手の中で、緋想の剣が刀身を解き、すべての気質が霧散し消え失せた。
あらゆるエゴを剥ぎ取られ、裸の心になった天子は涙をこぼし声を震わす。
「わたし……わたしは……」
自分がしてきたことは何だったのだろうか、すべては間違いだったのだろうか。
誰も彼も傷つけただけなのだろうか、生きてきた意味などなかったのだろうか。
「天子様!?」
「だーかーら、行かせないっての」
いよいよ追い込まれた天子に、衣玖は助けに入ろうとするがたどり着けない。
大鎌をいなしながら、声を贈るのが限界だった。
しかし、今の天子に何を言ってあげれば良いのかわからない。
「天子様! しっかりして下さい、そいつの言葉に耳を貸さないで、天子様!!」
ずっと気持ちを隠してきた天子の心に、助け舟を送れるものはいなかった。
天子はもはや自己を保てず、小町の能力で固定されなければ空を飛んでいることもできず落ちているところだった。
緋想の剣も、要石も、何も生み出せれず、呆然と映姫が浮かび上がるのを見上げる。
「さあ判決を下す時です、審判はあなた自身。生きて醜態を晒すか、死を持ってすべてを償うか」
映姫が悔悟棒を振り上げる。
すでにその笏には天子の罪が記されており、それで叩かれたが最後、罪に応じた罰が与えられる。
掲げられた忌々しい悔悟棒を、天子は泣きながら睨みつけた。
私はもう何処へも行けないのか。
行き先なんて初めからわからなかった、ただどうすることもできず迷いながら生きてきた。
母が死ぬ時何もできなかった、父の心を救うこともできなかった。無意味だったと言われれば否定するだけの自信がない。
でもこれからだって思えたのは確かなのに、紫と出会ってぶつかって、生きることを楽しいと思う気持ちも奪った相手を憎む気持ちも、すべての感情を取り戻してようやくこの地を踏みしめて歩き出せたのに。
「比那名居天子に問う、その天道、是か非か!」
映姫から初めての直接攻撃。天に向けられた悔悟棒が振り下ろされ、天子の頭上に迫った。
狙いは帽子の桃、天子にとっての頭上の華。これを散らされることは天人の五衰である頭上華萎であり、死への門を潜ることとなる。
自分には、まだやるべきことが残っているというのに、握りしめた緋想の剣は沈黙したまま。
これで終わりなのかと、開いた口からは叫び声も出せないまま――
「――それはさせられませんわ」
天子の代わりに話すかのように、澄み渡った声が差し込まれた。
背後からしなやかな手が扇子を持って伸びてきて、天子の頭上で悔悟棒を受け止めた。
罪の重さに扇子が軋み音を立て、空気が重く震えるのを腹の底で聞き届ける。
振り返った天子の目に映ったのは、誰よりも彼女が心動かされ、惹かれ求めるあの微笑み。
「紫……!」
八雲紫が、泣いた天子を背中から護るように、力強く包み込んでいた。
◇ ◆ ◇
天子と喧嘩別れをしてしまった後の紫は、布団の中で泥のように眠っていた。
本来なら、このまま時間が過ぎるのを待つだけだっただろう、だがこの日の紫は現実ではなく夢の中で目を覚ました。
「夢? この私が……」
開いた目に映ったのは、柔らかな不定形の暗闇。いつも境界の隙間に戻る時に出てくるようなものではなく、どこかぬくもりを感じる。
広大な空間は紛れもない夢の世界、異界に浮かぶ身体を自覚し、紫が静かに驚いた。
動物や人間に限らず、妖怪までもが夢を見る。眠りの中で、夢という空間を通じて他者と繋がる。
だが紫には縁のない話だった。
「おやおや、こういった形であなたと会うとは珍しいですね」
紫が振り向くと、夢の管理人であるドレミーが眠そうな顔で、ピンク色の夢魂を手で揉みほぐしながら浮かんでいた。
「ドレミー・スイート。あなたがここに招いたの?」
「いやいや、まさか。あなたは本来は現実世界での住人ですらない。この世界の体系に含まれていないあなたに夢は与えられないもの、夢はこちらの公共物ですから」
癪だがドレミーの言うとおりだ、紫は今まで他者の夢に介入したことはあっても、自分自身が夢を見たことはない。
自発的にでなく、こうやって自分の意思でないのに夢の中にいるのは初めての体験だった。
夢を見れるようになった、などとは思えない。これには何かしらの理由があるはずだ。
「あなたが誘われた理由は、それでしょう」
考え込む紫に、ドレミーが人差し指を伸ばしてそう言った。
紫は指の指した方に目を向けて、胃の底が熱くなった。
空のように透き通った蒼色の夢魂が、緋い霧を吐き出してそこにあった。
「夢と現の境界を超えて届く想いとは、さしもの私も初めての経験ですね」
まさかと思った、あんな別れ方をした後なのに。
それでもドレミーが言うようなことを成し遂げられるような存在を、紫は一人しか知らない。
彼女が繋がろうとしてくれたのか、あらゆる垣根を超えて、自分という異物に。
「さあ、受け取ってみては?」
目を見開いて押し黙る紫に、ドレミーは至極丁寧に促した。
紫は迷うようにドレミーに振り向いて、半目で笑う彼女の顔を見て自分がその夢を手に取っていいのだと知らされ、ゆっくりと歩み出た。
蒼い夢の前に立つ、漏れ出す緋い霧が肌に熱い。
果たして、自分がこれに手を差し出す資格があるのだろうか。
彼女の想いに触れるのが怖い、あの激情に立ち向かうと自分の存在を試されているような気がして、その結果を知るのが怖ろしい。
もし叶うなら、愛らしい彼女をただ愛でていたい。
だがそうはいられない、何事も普遍のままではいられず、いずれ足元が崩れ落ちるより先に前へ進まねばならないのだ。
自分は天子を知り、共に変わらなければならない。
決心して夢魂に触れる、ゼリーのような柔らかい表層はとても熱く手の平が焼けるようだ。
彼女らしい熱量に、紫は顔をしかめながらも夢の中に手を挿し込んだ。
紫の心に、彼方から声が届いた。
――――私は、まだこんなところで終われない。
まだまだ、納得して死ぬには足りない――
――いや、それよりもまず。
私は、まだあいつに何も伝えられてない!
声が血潮に響き渡り、紫は現実の夜に目覚めた。
◇ ◆ ◇
「紫……!」
自らを抱きしめる紫を見て、天子は驚愕に目を見開いた。
ここでこいつに助けられるなんて、都合が良すぎるなんて思う。
割り込んできた大物に、映姫は目を細める。
「珍しいですね、あなたが自分から私の前に現れるのは」
紫は扇子で受け止めた悔悟棒を弾き、天子の耳元に口を寄せた。
「飛ぶわよ、舌を噛まないように」
そう言って紫はスキマを背後に開いて、天子ごと異空間に倒れ込んだ。
二人の体は湖から少し離れた地面の上に現れる。
「あっちゃあ、あいつが出てくるとはね」
衣玖と戦いながらも状況を見ていた小町が残念そうな声を上げた。
あの妖怪が相手では、距離を操る能力も形無しだ。
「そうのんびりしてられるかな? 来たのはあの方だけではないぞ」
重い声が響き、小町は緩んだ緊張を再び張り詰めさせ、大鎌を持ち上げた。
鉄槌のような金色が回転しながら飛び出してきて、鎌の柄を激しく殴打する。
小町は間一髪で防げたもの衝撃に手が痺れ、現れた難敵からよろめきながら逃げ延びた。
回転を止めて降り立った彼女に、衣玖が思わず声を上げた。
「藍さん! お二人とも来てくれましたか」
「ああ、いきなりで驚いたが、無事で何よりだ」
紫からの要請を受け、召喚された藍が衣玖の横に並んだ。
絶望的な状況から一気に逆転し、衣玖の顔が安心して綻ぶ。
紫がいる以上、小町の能力で天子が束縛されることもない。四対二の現状、もはや負ける可能性は皆無だろう。
だが助け出されたはずの天子は、信じられないという表情で紫の顔を仰ぎ見た。
「紫、どうして……」
「言ったでしょう? あなたの邪魔をして良いのは私だけだと」
呆然とする天子に、紫は笑いかける。
「あなたが間違った道を往こうものなら、それを塞いでみせますとも」
天子たちの周りに、衣玖と藍が降り立って並んだ。
同様に、映姫と小町も肩を並べ地面の上に降り立つ。
紫が天子から目を離し余裕をもった表情を閻魔に向けると、その横に藍が並ぼうとした。
「紫様、お供します」
「いいえ、無用よ藍。手出しせず、見ておいてちょうだい」
しかし紫は手をかざしてそれを止めると、拍子を抜かれた藍を置いて一歩進み出た。
ここから力づくで映姫たちを追い返すのは簡単だ、だがそれで済ませていい問題とは思えない。
力による排他は恨みを残す可能性もある、眼の前の閻魔はそんなことを引きずるタイプではないとわかっているが、それでも本当に天子のことを想うならそれ以外の解決策を探すべきだ。
遺恨を残すような真似をして天子にあまり業を背負わせたくない、穏便な方法で決着が付くならそれに越したことはない。
「四季映姫・ヤマザナドゥ様に妖怪の賢者として申し上げます。比那名居天子は幻想郷にとって必要な人材、どうかこの場はお見逃しください」
「私に嘘など見苦しいですよ。本音を言ったらどうです」
分が悪いにもかかわらず、映姫は一歩も退くことなく言いのけた。
「建前など不要、必要なのはあなた自身の願いです」
あらゆる飾りを捨て、紫に胸の内を語れと命じてきた。
その態度を見ていた天子は、紫を馬鹿にされたような気がして、頭に血が上るのを感じる。
しかし紫は気に留めた様子もなく、余裕ぶった表情をきつく締めた。
「――ならば率直に言いましょう。天子は、私にとってかけがえのない存在、どうか彼女の華を摘み取らないでください」
紫は躊躇することなく地面に膝を突き、野の上に正座した。
いきなりの行動に驚く面々の前で、指を伸ばした手を地面に置き頭を下げ、平伏した。
「どうか、お願い申し上げます」
天子は土下座する紫の姿に愕然として、衝撃で身体が崩れそうだった。
自分が紫にこんな無様な姿をやらせているという現実を受け止められず、表情を歪めて顔を背ける。
だがそんな天子の肩に衣玖が手を置いて囁きかけた。
「天子様、目を離してはいけません」
衣玖が逃げるなと言い聞かせてきて、言葉の辛さに天子は悲鳴を上げたくなる。
「紫さんの想いを、受け止めるんです」
嗚呼が漏れそうなのを押し殺して、天子は紫にもう一度顔を向けた。
藍は、主とその最も新しき友人を、じっと見守っている。
対する閻魔は一切動じることもなく、死神が驚く横で相変わらず石のような表情だ。
「八雲紫、あなたがこの幻想郷での自由を得ているのは、神々に逆らわずにいるからです。私に対する態度いかんによっては、龍神もあなたに対する認識を変える可能性がある。そのリスクを犯してまで、彼女を庇うのですか」
「私の想いは変わりません。私は、天子を護りたい」
映姫が石なら、紫は岩のような頑固さだ。
脅しにも屈せず、頭を下げながらも天子を守るという意地は決して崩さない。
頼み込んでいるというのにまるで見上げるような巨大さを感じる土下座を前にして、映姫は硬い表情のまま思考を巡らす。
本来ならばいくら頼み込まれようと、仕事を決着が付かぬまま投げ出すようなことをこの閻魔はしない。
だが今回、四季映姫は仕事ではなく説教のつもりできた、そして説教とは何も相手をこき下ろすためにするものではない。
"相手の人生をよりよいものにするためのもの"が説教なのだ、そして映姫は言葉の無力さをよく知っている。
どれだけ正論をぶつけようとそれだけでは人は変われはしない、成長に必要なのはそれ以外にその人の心を埋めるものが必要なのだ。
ならば、今の比那名居天子にとって必要なものは言葉か、紫の想いか。
わかりきった問題に、ため息をついて天子を見つめた。
「比那名居天子、自分のために頭を下げられる者はいますが、他人のためにそれができる者は少ない。そのことを覚えて感謝するように」
映姫はそれだけ言って、頭を下げる紫に背を向けて歩き出した。
死神を連れて去る姿に天子は妙な憤りを感じて、黙らずにはいられなくなった。
「な、なんなのよあんた偉そうに! 私を殺しに来たんでしょ、やってみなさいよ! まだ終わってないわよ、言い逃げなんて卑怯よ!」
「天子様、落ち着いて!」
天子は無茶苦茶だった、自分でも何を言っているのかわからなかった。
ただ母を殺した妖怪が自分のために行動してる姿が矛盾して、その重たさを放り出したくなったのだ。
天子の愚かさにも、映姫は動じない。
「そうやって、親しき人の気持ちを受け取らないのも罪ですよ。そして私は、殺しにきたんでなく説教に来ただけです!」
ここにきて初めて、映姫は声を荒げた。
固かった表情を不機嫌そうに変えて、笏を振り回し小柄な身体で怒りを表現する。
豹変した態度に、天子だけでなく衣玖と藍まで面食らって、呆気にとられた顔をする。
「私が趣味で説教しただけで悔いて自ら死ぬような軟弱な天仙が多かったから、こうやって業務外の仕事を押し付けられてますが! 私は一度として能動的に生者を殺したことはありません!」
「まあまあ、映姫様落ち着いて……」
「そもそもあなたが仕事をサボってばかりだから、閻魔をクビになりかけて、こんなことをすることになってるのじゃないですか!」
「へ、へえ、その……すみません」
映姫の言うとおり、小町が原因で揃ってリストラに遭うところを、人手不足だからと天仙への地獄の使いという名目上の仕事を与えられ、成否に問わずとりあえずは仕事をしているという事実を作らせて貰い、なんとか首を繋いでいるのだ。
「今回の仕事も、私が説教してついでに華を枯らせられるならそれでよし、無理なら無理で構わないのです」
興奮して鼻息を荒くしていた映姫は、気を落ち着けさせると今一度姿勢を正す。
「そういうわけで、私はこれで帰ります。せいぜい反省することです、それでは」
「じゃあね、また会ったらよろしく頼むよ」
映姫だけでなく、小町もお気楽そうな別れを告げその場を離れた。
二人が歩いて行ってからしばらくして、ようやく紫は重い頭を上げてゆっくりと身を起こす。
「…………紫」
振り向いて笑いかけてきた紫に、天子は胸を締め付けられる。
あんな屈辱的なことをして、それでも笑ってくれることが、申し訳なくて苦しかった。
「わ、私は、助けて欲しいなんて頼んじゃ……」
その笑顔から逃げ出して、心にもない言葉を吐こうとする天子に、紫は右手を服で拭いてから伸ばした。
怯えて身をすくませる天子と帽子のあいだに手を滑り込ませ、子をあやすように優しく撫でる。
「あなたが無事でよかったわ」
ただただ天子を心配する慈愛に、天子の幼稚な反抗心はすべてを拭い去られた。
泣きそうな顔で押し黙るしかない天子に、紫は少しだけ困った顔をする。
紫としては、そんな顔をしてもらうために助けたわけじゃないのに、ただ嬉しいと言ってくれればいいのに、と少し思う。だがそれは高望みなのだろうか。
何にせよ天子を助けられたことは事実だ、満足感に浸る紫に藍が歩み寄った。
「お疲れ様です紫様、立派でしたよ」
「ええ、藍も突然呼び出してごめんなさいね」
「構いません。あなたの大切な方の為ですから」
こちらもこちらでまるで譲らない態度で、それが頼もしくて紫は苦笑した。
「さあ、天子、今日は疲れたでしょうしうちに泊まっていきなさい」
「で、でも……」
「反論はなしよ。ゆっくり休んで気を落ち着けなさい」
今の天子を一人にするのは不安だ、家に帰っても家庭に安心はないだろうし、それならまだ自分たちの家に招くほうが良いのではと紫は判断した。
とはいえ、天子にまた激しく突き放されるのではと一抹の不安もあった。
内心怯える紫の前で、天子は力なく頷いて、消極的にだがこれを受け入れた。
◇ ◆ ◇
霧の湖から離れたところで、小町は肩の上に鎌の柄を担いで歩きながら、前を行く映姫に話しかけた。
「残念でしたね、あともうちょっとでボーナスだったのに。あの天人も運がいい」
「運も実力の内です。まだ死ぬ時ではなかった、ということなんでしょう」
悔しさを持たない映姫の澄ませた横顔を、小町は興味深げに覗き込む。
「おや、あのスキマ妖怪が来たのは偶然ではないと?」
「かもしれません、あるいは彼女が来なくてもどうにかなったでしょう。生き残る人というのはそういうものです」
「それじゃあの妖怪がせっかく助けに来たのに意味がないですね」
「そうでもないですよ。きっと意味はあります」
映姫の口調は一見するとお固いが、長い付き合いの小町には穏やかなものに聞こえた。
失敗に終わったと言うのに、この上司がこんなに機嫌が良さそうなのは珍しい。
「なんだか、あれだけ説教したのに生き残って嬉しそうですね」
「嬉しいとは違いますが、期待はしています。そもそも罪がない命など存在しない、みな等しく罪を背負い、その罪を贖うために生きている」
「では、どうすれば生きながら罪は償えるんですか?」
小町は尋ねながらも、自分なりに返ってくる答えをいくつか予想してみた。
きっと善行のうちの何かだろうが、それほどまでに罪を償えることとは一体何なのか。
オーソドックスにお金を稼ぐことだろうか、あるいは子を産むことかもしれない。
しかし映姫から語られたのはそのどれでもなかった。
「誰かを愛すること、それが最高の罪滅ぼしですよ」
堅物閻魔が出したロマンチックな言葉に、小町は思わず笑い声が零れた。
そんなことを伝えたいがために、あんな説教をするしかないとは。
自らの性格に縛られる閻魔の不器用な思いやり、他のものにはとても疎ましいものとして映るだろうが、小町だけはそれを愛おしいと思っていた。
「では私からも一言をば。映姫様、あなたはいささかお硬過ぎる」
「むむっ」
図星を突かれた映姫がむくれっつらで唇をへの字に曲げる。
「まずはその愛を自らが実践してしかるべき……ということで私も映姫様からの愛がほしいなー、と。具体的に言うならアルコールとか」
「露骨ですよ小町、謙虚さを覚えなさい」
呆れてジト目で似た見つける映姫だが、こんな不器用な自分についてきてくれる物好きは、このお調子者くらいなのだ。
自分を見限らず付いてきてくれる部下に、映姫は感謝をの気持ちを思い出し、表情を和らげて頷く。
「まあいいでしょう。さっきの仕事が終わったら好きにしていいと言われてますし」
「やったあ! へっへっへ、映姫様と飲むのも久しぶりですね」
「あなたが仕事をサボらなければ、もうちょっと機会が増えるんですけど」
「それはまあ、言いっこなしで」
あとはまあ、もっと仕事を頑張ってくれれば文句なしなのだがと、映姫は密かに苦笑した。
◇ ◆ ◇
紫たちの家に戻ってきた天子は、気まずそうな顔で座り込んでいる。
口数の少ない天子の代わりに、衣玖が紫たちに頭を下げてお礼を言っていた。
「ありがとうございます、お陰で助かりました」
「どういたしまして。疲れたでしょう、まずはお風呂に入ってきたらいいわ」
紫は何も気にしていないというふうに、できるだけいつもどおりでいるよう努めた。
背を丸めて小さくなった天子を見下ろして、胡散臭く笑いかける。
「なんなら私が洗ってあげましょうか?」
「子供扱いしないでよ!」
「なら元気が良くて結構、疲れを落としてきなさい」
反発する気力が残っているのなら良かったと、紫は本心から喜んだ。
あとはゆっくり休んでもらうだけ、そう考えていたところに藍が横から口を挟んでくる。
「しかし紫様、二人を泊まらせるにも客室は幽々子様たちが使ってますよ」
「そういえばそうだったわね。まあ部屋は他にもあるし」
「では衣玖は私と橙の部屋で、天子は紫様の部屋で一緒に寝たらどうでしょう」
「ちょ、ちょっと藍!?」
思わぬ進言に、紫が一転して慌てだした。
気遣いなのはわかるが、余計なおせっかいにも程がある。
これには天子も落ち込んでいた顔を上げて声を荒げた。
「な、なんでそうなるのよ!?」
「いやー、いいんじゃないですか、そんな空気ですよホント」
「こら、衣玖まで!」
「まあまあ、助けられた恩返しと思って」
「本人だって嫌がってるじゃないの!」
天子に指差され、紫は戸惑って視線を逸らす。
「いやその、わた、私は嫌がってるわけじゃ……」
「紫さんも、天子様と一緒の部屋で寝たいですよね?」
続けざまに衣玖に問われ、紫は顔を赤くしてしばらく黙り込んでいたが、やがて控えめに首を縦に振った。
「わ、わかったわよ……」
かくして寝床が決定した後は、天子が一番にお風呂に入って身体を洗い、それから浴衣に着替えると布団が二つ並べられた紫の部屋に通された。
入れ違いで紫がお風呂に入ったので、布団の上で枕を抱えて座り込み、一人さっきまでのことを振り返っていた。
紫は自分を守ってくれた。
それに対する自分はどうだ、感情に振り回されて、自棄になって。
何という情けなさだと陰鬱とした気持ちになる、いたたまれなさに逃げ出して一人きりになりたい。
だがそういうわけにはいかない、せめて紫に一言謝らなければと、天子は気落ちしながらも反省した。
紫も今日は夕食の後ですぐに寝ていたこともあり、天子の後でお風呂に入り、汚れを洗い落としてきた。
外で土下座して髪が汚れたのもあるし、何より天子と一緒の部屋で寝るというのだから、身を清めねばと気合が入っていた。
寝間着の浴衣に着替え、湯気を漂わせながら紫が自室に戻ると、浴衣を着た天子と目が合う。
枕を抱えた姿が小動物みたいに可愛いなと思いながら声をかけた。
「あら、まだ寝てなかったの?」
「……お礼言ってなかったから」
天子は当てもなく下を見ると、枕に顎を押し付けて、もごもごと口を動かす。
「今日は色々ありがとう、それとごめん、勝手に怒って」
「いいのよ。私が迂闊だった、気に病むことはないわ」
紫の丁寧な口調からは邪気を感じられず、彼女が本当に怒ったり恨んだりしていないのだとわかり、天子はますます自分を恥じ入った。
自分の間違いを償うにはどうすればいいだろうと考えて、ふと紫に食べさせてもらった料理を思い出した。
「そういえば、さっきのご飯、どうしたの?」
「まだ捨ててなくて机に上に残しっぱなしだけど」
「……食べていい?」
天子が尋ねると、紫は驚いて目を丸くした。
せっかくできるだけ美味しい料理を振る舞えるようにと練習したのに、冷めて不味くなった料理を天子に食べさせる訳にはいかないと、慌てふためいて両手を振り回す。
「い、いやでも、出しっぱなしでお米とかカピカピになってるだろうし! 絶対美味しくないし、無理して食べなくてもいいのよ!?」
「いいの、食べたい」
天子は迷惑かもしれないと思ったが、改めて紫の気持ちを受け止めたいと思った。
頑として言うことを聞かず見つめる天子に、やがて紫が先に折れてがっくりと肩を落とした。
「……持ってくるわ」
紫は立ち上がって部屋から出ると、応接間に料理を取りに行った。
冷たくなった料理を前にして、外界から電子レンジでも持ってきて温め直そうかと考えたが、天子はそういうことを望んでいないように思えてそのままにした。
料理をお盆に乗せ、紫は天子が待つ自室へと戻る。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
畳の上に置かれた料理の前へと天子は腰を動かす。
湯気のないご飯をじっと見つめ、おずおずと箸を手に取った。
白いご飯はやはり水気を失いお茶碗にこびりついていて、苦労して引き剥がして口に入れると、その歯ごたえはいやに硬かった。
お米がよだれを吸って口の中が乾いてきたのを、冷たい味噌汁を流し込んで癒やす。
不安そうに見守る紫の前で、天子が言葉を漏らした。
「……美味しいよ」
「嘘を吐かなくても」
「ううん、美味しいよ」
冷たくて固くて、どれも食べれたものじゃなくて、でもそこには紫の優しさが残っているように感じられた。
幻想の温もりを求めて、天子は一心不乱に箸を進める。
けれどそれが不味いことには変わりない。
紫が自分のために一生懸命作ってくれたご飯。きっとできたてならちゃんとした味だっただろうに、それを自分がこんなに台無しにしたのだ。
そのことに思い至ると、天子はご飯を口に含んだまま、表情を歪めて大粒の涙を流し始めた。
「ごめん……ごめんね、ゆかり……ゆか、紫は、私にこんなに優しくしてくれるのに、私は、何も言えなくて……!」
両膝に押し付ける手の甲に涙が落ち、燃えるような熱さが広がっていく。
冷めたご飯に塩味が混じり、吐き出しそうになるのを必死に飲み下した。
鼻水まで垂らして咽び泣く天子に、見守っていた紫は悲痛な表情で身を乗り出した。
「私が悪いのよ、だから天子は元気を出して」
「違うの! 私は、ずっと黙ってたことが……」
言うのだ、言わねばならない。
このまま黙っていくわけにはいかない、現実と向き合わねばならない。
「紫! 紫は、紫は私の……!」
母を殺した、そのことを告白しようと思うが、言葉が閉じこもって出てこない。
なんとか声を出そうと唇を動かすが、嗚咽が漏れるだけで言葉らしいものは何も言えなかった。
隠し事なんてよくないはずなのに、そのためにこれだけ紫のことを裏切ってしまっているのに言えなかった。
踏み出せもせずかと言って虚勢を貫くこともできず、情けない自分に涙が止まらない。
泣きじゃくる天子の前で、紫もまた心を揺らす。
天子を苦しみから解放してあげたい、抱きしめて甘い言葉で囁いて、自分も知らぬ彼女の罪を許してあげたい、だがそれは場を取り繕うただの偽善にも感じる。
自分もかつて迷った末、天子に自分の秘密を打ち明けた、それと同じ強さを天子にも求めるのは、果たしてエゴなのだろうか。
「……天子、あなたには辛いかもしれないけど、秘密があるというのなら私はそれを聞きたいわ。それが私に関わるものなら尚更よ」
いくつかの選択肢のせめぎ合い、葛藤した紫は何よりも本心でぶつかることを優先した。
良き友として傍にいるためには、それが絶対の条件であったから。
紫の意思を聞き、天子の心が悲鳴を上げる。言わねば紫に嫌われると心臓が締め上げられた。
しかし恐怖が滲む天子の涙を、紫の指が優しくそっと拭った。
世に仇なす妖怪は、か弱い心にあらん限りの思いやりを持って心をぶつける。
「でも、今は言えないというのならそれでもいい。時間が必要ならその時まで待ってみせる」
そばに擦り寄った紫が、天子の手を取って震えを押さえる。
濡れた涙が冷め始めていた手に、再び温かさを与えられ、心を締め上げる恐怖が解されていくのを天子は感じた。
あまりに大きすぎる想いを前にして、なすがままに紫の気持ちを受け取っていた。
「勇敢なあなたなら、いつか必ず打ち明けてくれると私は信じてるから」
天子の迷いを非としながらも、紫はそれを認め受け入れていた。
大いなる優しさに、天子は顔を俯けて甘えてしまう。
今の自分には、まだ伝える勇気が持てない、だがここで終わらせてしまったいい話じゃない。
核心はまだ言えなくても、他に伝えられるものはある。
「……紫、これ」
天子は部屋の隅に脱ぎ捨てていた私服を探ると、ポケットから布で包まれた首飾りを取り出した。
包みと解いて現れた緋い宝石を見て、紫は驚いて声を漏らす。
「あら、これは……?」
「私が、自分で作ったの。この前の妖怪の山で手に入れた材料で作ったわ。プレゼントよ」
「え、わ、私に!? ど、どうしていきなり」
「その、お世話になってるし……紫が宝石に興味なんてあるかわからないけど、頑張って作ってみた」
せめてこの気持だけでも伝えないといけない。
手を震わせ迷いながらも、覚悟を決めて首飾りを紫へ差し出した。
「私も、紫のことは大切だから、これはその証明っていうか確認っていうか……とにかく、受け取って! お願い!」
もはや縋るような声に、紫は打ち震えていた。
天子の怯えた声からは、一緒にいたいんだという気持ちが痛いほど伝わってきて、その感動で思わず涙ぐみながら、贈り物を受け取った。
「あ、ありがとう……! 大切にするわ」
満面の笑みで感謝を口にする紫に、天子はようやく安心することができた。
肩の力を抜いて涙を止めた天子の前で、紫は首飾りを手でいじり、色んな方向から眺めてみる。
透き通った緋色が部屋の灯りを反射させ、キラキラと輝いて素晴らしい輝きを放っていた。
「それにしても、綺麗な緋色ね。どんな宝石……あっ」
贈り物がなんなのか、それを確かめようと知識を洗ってみた紫は、一つの答えにたどり着いて顔をこわばらせた。
「も、もしかしてこれ、レッドベリルじゃ……」
「それ、この宝石の名前……? 聞いたことないわ……珍しいの?」
「希少も希少、ダイヤモンド……金剛石よりもずっと価値がある、宝石の中でも最高峰の部類よ」
レッドベリルとは緋色のエメラルドを指す名だ。
一部の地域で僅かな量しか取れず、大きく育った原石も非常に少なく1カラットを超えるものは殆ど無い。
あまりの希少さゆえに採掘しても逆に採算が取れず、外界ではこれを採掘できた鉱山は閉鎖し、売買も原石のままコレクターの間で取引されるものがほとんどだ。
それがまさかこの幻想郷で見つかるなどと奇跡のような話だ。
宝石から感じる重みが増し、思わず手が震えそうになる紫の前で、天子が嬉しそうに表情を緩めた。
「へへへ、そうなんだ」
「笑ってるけど、いいの? こんな貴重なものを」
「プレゼントって言ったじゃない、返せだなんて言わないわよ」
度を超えた貴重品に紫が迷っているというのに、天子は涙を拭くと緋色の瞳に灯りを灯して笑い飛ばした。
「貴重だっていうならそのほうが良いじゃない。それくらいの物じゃなきゃ、私の想いを映すに足らないわ」
天子から感じる輝きは、この宝石にも負けないくらい美しく、さっきまでどうやって天子を慰めればいいかと考えていた紫のほうが、逆に元気づけられてしまった。
そうだった、この輝きに自分は惹かれたのだと、紫は宝石を胸に抑える。
「言うじゃない、調子が出てきたようで結構だわ」
「ふふん、いつまでもへこんでばっかじゃないのよ」
さっきまで死にかけた子犬のようだったというのに、大したタフネスさで天子は張りのある声を上げる。
「ね、ね、付けてみてよ」
「ええ、もちろんそうさせてもらうわ」
正直待ちきれなずにいた紫は、意気揚々と宝石を首に掛ける。
胸元に零れる緋色を確認して、少し恥ずかしげに天子を見つめた。
「どう? 似合う、かしら……?」
「うん、ばっちり! 綺麗よ紫」
「私と宝石、どっちが?」
「どっちもよ! それとね、もう一つあるんだけど」
意地悪な質問にも満点で答えた天子は、もう一度服をあさるとさっきとは別の包みを取り出した。
訝しむ紫の前で天子が包を開けると、中から出てきたのは紫色の輝きをたたえた同じ形の首飾りが現れた。
「じゃじゃーん! これお揃いの紫水晶版、こっちは私用に作ったんだ!」
光る紫色を、天子は自慢げに見せびらかす。
まさかのペアルックに紫が衝撃的な嬉しさに悲鳴が上がりそうになるが、天子が用意したものはそれ以上だった。
「実はね、この紫水晶の原石を見つけた時、その緋色の宝石とくっついた状態だったの」
「くっついたって、物理的に?」
「うん、多分外界から入ってくる段階で混ざって接合したんだと思う。これはそこから削り出したものを使ってるから、金具の根元にはちょっとだけ緋色の部分が残ってるの。同じように紫へ渡したやつは、根っこに紫水晶が残ってる」
そう言って天子は首飾りを掛けて、紫色の輝きを胸元に垂らした。
緋色と紫色、対象的な二つの色が二人の胸で輝くが、それは本質的につながっている。
そんなふうに感じて、紫は身体の芯を熱くする。
「私たちは相容れない部分が多いけど、それでも一緒にいられるようにって願掛け。これからもよろしくね、紫!」
なんて素敵な願いなんだろうと、紫は穏やかな気持で光り輝く笑顔を見つめていた。
「私からも……ずっとずっと、よろしくね」
愛しくて愛しくて、朗らかに笑う天子の身体を力の限り抱きしめたい、抱きしめられたい、そんなことまで想ってしまう。
でも根は臆病な紫はそこまで行動することは出来なくて、代わりに他の気持ちを伝えた。
「天子、できればまた、この前みたいに眠らせてもらえないかしら?」
自分がこの世界に生きることに引け目を感じる紫の、それが精一杯の甘え方だった。
「眠るって、名前を呼ぶほうの?」
「ええ、そろそろそっちの睡眠が必要なころだから。一度境界を超えてから、こっちに戻ってくるまでまた時間が掛かるけど……」
境界から戻ってきた時の紫は、女としてとても恥ずかしい姿だが、同時にスキマ妖怪にとって最大の弱点でもある。
でもだからこそ、大切な人にこそ見守ってもらい、その時の自分を守って欲しいという欲求が羞恥を越えて溢れ出てしまったのだ。
「いいわよ、やって欲しいんでしょ? 私にやらせてよ」
天子は迷うことなくお願いを聞き入れてくれた。
紫としてはこちら側に戻ってきた直後の醜態を晒すのは恥ずかしくもあるが、それ以上にそんな姿を受け止めてもらえることに喜びを感じずにはいられない。
「それじゃあ、これは預かっておいて」
そう言って紫は首飾りを外して、天子に押し付けた。
「えー、せっかくプレゼントしたのに」
「気持ちは嬉しいけど、向こう側に行ったら身に付けているものは全部無くなっちゃうから」
「仕方ないわね……すぐ戻ってきてよ」
少しぐずる天子の幼心地もかわいくて、紫は顔を綻ばせる。
藍たちに迷惑を掛けないようにと防音の結界を張ると、紫は早速天子の膝に頭を寝かせた。
「ねえ、これって意味あるの?」
天子が紫の目元を隠し、手を握りながら聞いてくる。
「本当はないんだけどね、こっちのほうが安心するから」
「……怖いの?」
「少し。私も向こう側のことは覚えてないから、どうなるのかわからないし」
「……私が付いてるからね」
そう言って天子が握った手に力を込めるのを、紫は暗闇の中でハッキリと受け取った。
天子の存在を感じながら深呼吸して精神を整えると、最後に別れの言葉を告げる。
「おやすみなさい、天子……」
「おやすみ、紫」
それをきっかけにしたように、紫の直下から暗闇が湧き始めた。
前にも一度見た光景だが、やはり慣れないもので天子は寒気立つのを我慢する。
膝元に横たわる紫の身体を、形を持った闇が引きずり込もうとまとわりつくのを、天子は見下ろしながら目を細めた。
――自分が一番大切にすべきものは何だ。
紫は憎い、この憎しみから癒やされたくてあえて近づいたが、未だ彼女を赦せない。
彼女が天子の母親を努めたいと言ったとき、胸の内では怒りが荒れ狂った、その顔を叩きのめしたいと思った。
正直を言えば今でも復讐したい、今ここで紫の首を絞め殺してやればどれだけ気持ちいいだろう。
いや、それよりもいい方法がある、ここで紫が闇の中で眠りにつくのを待ち、彼女の名前を呼ばずに幻想郷を破壊してしまえば、彼女の名を呼ぶ身内を皆殺しにしてしまえば、紫は再び記憶も名もなくし流浪の日々を送るだろう。
紫は不幸になる、誰も救われることなく、すべてが不幸になる。
――こんなものなのか! これが私のやろうと思ったことか! こんなことしかできないのか私は!
――ただ怒りのまま、悲しみのまま、全てを薙ぐ災厄のような生き方しか出来ないのか!!!
かつて胸に満ちた慟哭が自らの気持ちを罵倒する。
その道に行ってはならぬと何かが叫んだ。
本当に大切なものは――忘れてはいけないものは――
目の前の紫が緊張を解いていく、静かにこの世界から抜け落ちようとする姿に、天子は決心した。
天子の背が丸まり、息を漏らす唇が閉じられた。
―――チュッ
静かな部屋に、短い音が鳴った。
垂れ幕のように視界を阻む空色の髪のあいだに、触れ合った淡い桃色の唇を見つめ、天子は無邪気に顔をほころばせる。
「えへへ、大好き、紫」
ああそうだ、忘れてはならないものはこれだ。
憎くても、恨めしくても、それでももう紫の存在は、天子にとってならないものだった。
一緒に遊んでくれる紫、競い合ってくれる紫、軽口を叩き合える紫、寂しい夜に抱きしめてくれた紫。
例え紫が、あの日に狂気で母を殺したあの恐ろしい妖怪の続きであっても、彼女のくれた温かさを天子は信じていた。
「本当は、ムカつくし、恨みだってあるけど……でも、大好きよ……好き、ずっと好きよ紫」
紫の身体は殆どが闇に引きずり込まれ、残ったのは胸部から上だけだ、この声も聞こえていないかもしれないが、だからこそ言えた。
まだこの大切な妖怪には恥ずかしくって面を向かって言えないから、自分の想いに向き合って言霊を吐いた。
消え行く親友を前に目を閉じて、指先に触れた温かさに心を澄ませた。
この熱を忘れるな、肌から感じるこの温かさを忘れるな。
これを手放してしまえばそれこそ自分は道を踏み外してしまう、どこにも行けなくなってしまう。
これこそが本当に自分が求めていたものなのだから。
――――――てん、し。
消え行く紫の口がかすかに動くのを、天子は見逃していた。
――――――――
――――
――
自らの存在が境界を超えて引き戻される間際、天子の言葉はしっかりと紫に届いていた。
まるで夢のような気分だった。時間にしてたった数秒だったが、この幸福は永遠のものだと確信できるような奇跡の瞬間だった。
深淵に身を沈めた紫は、たった今唇に感じた熱量に一瞬呆けて目を丸くし、しかし直後には必死の形相で光を求めて手を伸ばした。
「ま、待って! 待って待って、待って!! まだ――まだ記憶のバックアップが済んでない!!!」
悲痛に叫んだ紫が幻想郷を戻ろうと足掻くが、その爪は何も無いところを闇雲に引っ掻くだけ。
幻想郷にバックアップされた紫のメモリーは、天子に眠らせてもらう直前までのものだ、その後に起こった今の記憶は含まれていない。
もう一度幻想郷に行きたいと紫は境界を操って闇を越えようとする、だが元々消耗した身体を癒すためこちらに戻ってきたと言うのに、今の体力では境界は超えられない。
消える、消えてしまう。記憶を代償とする宿命を背負って、それでも負けず生きてきて辿り着いたあの時が、無くなってしまう。
「あ……あああ…………ああああぁぁぁぁぁ――――」
絶望の声が涙とともに溢れる。
溺れるようにもがく手は、もう闇に飲まれて真っ黒になっていた。
スラリと伸びて整った四肢も、綺麗な金色の髪も、何もかも黒く侵食され、自分の存在が薄れていくのを感じながら、一つの結論を得た。
「そうか――死ぬのね、私は」
もう一度自分は幻想郷に戻ってくるだろう、そこにはその名を呼ばれた八雲紫がいるのだろう。
だがそれは紫であって今の紫ではない、この記憶を持たない自分とは決定的に違う。
あの口づけは、あの言葉は、今までの紫の人生をひっくり返すだけのものだった、天子の想いを受けた今の紫は昨日までの紫と決定的に違う存在だ。
この記憶を永遠に失ってしまうということは、今の自分が死んでしまうことと同義だ。
それを自覚した時、紫は全てを理解してしまった。
何度も記憶を失い続けていた自分は、それと同じ数だけ死にながら生きてきたことを。
「いや、いやあ! 忘れたくない、死にたくない! 私は――いやあ、誰か助けて! 藍! 幽々子! 萃香! ……天子――――てんしぃぃぃ!!」
何もできず、記憶に縋って助けを求めても悲鳴は木霊することすらなく溶けて消える。
童子のように泣きじゃくり、頭を抱えて背中を丸める紫を、闇は無秩序にまとわりついていった。
妬ましや 恨めしや
何故お前だけ 寄越せ 寄越せ
――
――――
――――――――
「ゆっかりー!」
朗らかな声が駆け抜けた。
春の日差しのような親愛の込められた声に紫は振り向こうとしたが、その前に声の主が後ろから腰元に抱き着いてきた。
紫が驚いてよろめいた時、抱擁した天子は紫の腰に回した腕をガッチリと組んで眼を光らせた。
「貰ったぁー! これぞ早苗から教わった外界の秘奥義ジャーマンスープレックスー!!」
唐突に決められた必殺技に、あわや紫が脳天から叩きつけられるというところで、地面にスキマが開き紫の上半身だけが空間を通り抜けた。
本来あるべき支えがなく、脳天からブリッジの姿勢になった天子は「うぐう!?」とくぐもった悲鳴を上げ、更にその天子の下半身の近くに紫の上半身が出現した。
すかさず紫は特徴的な極彩色の飾りが付いたスカートを捲り中を覗く。
「白ね」
「うきゃー!!?」
奇声を上げた天子が紫を離して突き放した。紫はスキマから逆さまに落ちるところを華麗に身を反転させて足から着地する。
「ななな、何すんのよ!?」
「こっちの台詞よ。おかしいでしょ出会い頭にプロレス技って」
「いや、抱き着いたらこれは行けるなって思ったら、そのままノリでやってみたくなって」
「ノリでかますものじゃないでしょ」
「あんたこそ避けるならまだしも何でスカート捲ったのよ!?」
「ノリよ!」
「人のこと言えないじゃないのよ!」
相変わらずの騒がしさ、相変わらずの仲の良さ。
仲睦まじい二人の言い争いを、幽々子と妖夢が縁側から眺めている。
「まずウチの庭で暴れるなと言いたい」
「あらいいじゃない。働けばご飯が美味しいわよ」
「なら庭掃除は幽々子様にお願いしますね」
「私は妖夢を愛でるのに忙しいもの」
天子に付いてふよふよと浮いて来た衣玖は、庭に佇んでいた藍と橙の元へ近づくと丁寧に頭を下げた。
「こんにちは藍さん橙さん、すみません今日もまた天子様が」
「いやいいさ、紫様も言葉だけ怒ってるが、後で機嫌がよくなるからな」
「天子が帰ったあとの紫様は優しいですもんねー。この前もお菓子貰っちゃいました」
「橙、歯磨きはよくするようにね」
「ぶー、わかってますよー」
「こうなったら勝負よ紫! 勝った方がご飯の用意!」
「ふふ、望むところよ」
普通は負けたほうが作るんじゃないのかと周りは思うが、本人たちは至って真面目だ。
双方とも、相手のために何かしてあげたいと張り切るところは似た者同士だ。
「私の料理が食べたいからと、わざと負けてはダメよ?」
「ふん、そっちこそ手を抜かないでよね」
「いや、それはないわ」
「なんでよー!?」
真顔で手を振って否定する紫に、天子がいきり立つ。
「だって天子の料理、いつまでたっても美味しくならないじゃない。どうしたら桃の皮で魚を包んで焼くなんて発想が出るのよ、独創の前に基本を学びなさい」
「なら早く紫が料理教えてよ! 紫に教えてほしくてずっと待ってるんだから」
「そ、それはちょっと、まだ自信がなくて……」
「そうやって恥ずかしがってばっかでー!」
いざとなると紫のほうが臆してしまうのだった。
そのこともあって二人の関係は友達以上のギリギリ恋人未満程度に収まっている。
ガミガミ言い争っている庭先に、霧が舞い込んできて、そこから萃香が姿を現した。
「やあやあ、今日も楽しそうだねえ」
「萃香さんこんにちは、いいところに来ましたね」
「何はともかく勝負よ天子!」
「誤魔化したわねこいつ! いいわよ、勝ってその頭踏みにじってやる!」
「おっ、喧嘩かー? やれやれー!」
構えて距離を取る両者の胸元に、緋色と紫色の首飾りが対になって輝いた。
あれから数ヶ月、二人の関係は絶えず変わらず仲が良いままで、天子も未だ紫に過去を打ち明けられずにいる。
だが以前と比べてそのことに思い悩むことはほとんどなくなった。
紫に甘えている、と言われればその通りだ。
天子はあえて問題を先送りにした、このままずっと秘密にし続けるつもりはない、だが自発的に打ち明けるつもりもない。
このまま紫と一緒にいればいつの日か言わなければならない時が来る、ならばその時に言おうと、流れに身を任せることを選んだ。
言えない不甲斐ない自分を紫は待つと言ってくれたから、迷いも甘えも受け入れてくれたから、天子は秘密があるくらいのことで自分たちの関係が崩れるものではないと信じた。
だからその日が来るまでに、母を殺した仇を許せるようになるよう、紫との時間を目一杯に楽しんでいる。
「――今日も良い一日だったわ」
白玉楼で思う存分騒いだ紫は、家に帰ってきて満足した面持ちでお茶を啜る。
「悔しがりながら幸せそうにご飯を食べる人は初めて見ましたよ」
「うふふ、私の腕前を持ってすればあの通りよ」
「メキメキ上達してますよね! 天子にだけじゃなくて私にも作ってくださいよー」
「お、おほほ、ありがとうね橙。そのうち……ね」
紫がチラリと目を向けた先で、九つの尾が溢れんばかりの嫉妬心を抑えるのに必死になっていた。
家事の達人として家庭内の地位を得ていた藍だが、最近それを脅かされそうで紫に若干の敵対心を持ちつつある。
紫としはまだまだ料理の腕前では藍を超えられないし、もし逆転しても藍には他にも色々できることがあるのにと思うのだが。
「……まあ、あんなことがありましたが仲良くやれていて良かったです」
「あんなことくらいじゃ私達の仲は切れないのよ、見てみてこの首飾り?」
「はいはい、もう何百回と見せられましたよ」
ご満悦の笑顔の紫が指で首元で光る緋色を弄るのを見て、藍と橙が呆れた表情をする。
あれから事あるごとに首飾りのことを自慢してくるのだから、家族としては少しばかり鬱陶しい。
「でも紫様、そんなので記憶の整理は大丈夫なんですか? 天子が好きで思い出が消せないーってなったりして」
「それなのよね、今から冬を思うと憂鬱だわ」
橙から言われたことに、紫は頬を押さえて気怠げに顔色を曇らせた。
「だけど天子との日々を何度も新鮮な気持ちで楽しめると考えれば悪くないし、特に大事な記憶を残すくらいの容量は余ってるもの」
「だからって容量の計算を間違えないで下さいね。油断してメモリーがパンクなんてなったら結界の修復が大変ですから」
「言われなくともわかってるわ」
藍の小言を聞き流してもう一度お茶を啜る。
湯呑みに浮かぶ水面に映し見て、なんて楽しい日々だろうと思い返す。
「このまま、天子とずっと一緒にいられたらいいのに」
あまりにも幸せな日常に、たまに見せる弱気な気持ちが湧いてきた。
天子はずっと一緒にいられるようにと首飾りを渡してくれた、しかし不安定な自分がいつまでも自己を保てるものなのだろうか。
悲観を感じさせる紫に、橙が慌てて抱きつく。
「紫様なら、ずっとこっちにいられますよ!」
「うん、ありがとうね橙」
「それにそれに、天子だけじゃなくて私達もずっと一緒にいますから! 一緒に紫様を支えますから!」
「嬉しいわ、もしもの時はお願いね」
でもまあ、少なくとも当分は大丈夫だろうと安心した。
自分にはかけがえない家族と友達がいる、この輪の中でなら何も心配することはない。
その日の夜、紫は布団の中で暗い天井を見上げて思った。
「明日はどんなことがあるかしら」
ここのところ毎日が楽しい、そのほとんどは天子のお陰だ。
きっとこの気持が恋というのだろうと、紫はほぼ自覚していた。
「またいいことがありますように……」
枕元に置いた首飾りを流し見て、紫は祈りを口に眠りについた。
霞がかる意識の端で、翌日のことを考えていた紫であったが、彼女の意識が次に見たものは、現実ではなかった。
広がる暗闇、無数の夢魂。
「……夢? まさかまた?」
夢を見ないはずの紫だが、そこは確かに夢の世界だった。
再び天子の無意識が自分を呼んだのだろうか。
だがおかしいことに、ドレミー・スイートの姿が見えない。こちら側の夢に紫が干渉しようものなら様子を見に来そうなものだが。
とにかく自分がここに連れてこられた要因がどこかにあるはずだとあたりを見渡すと、他と存在を隔絶するものがそこにあった。
「私を呼んだのは、これ……なの……?」
闇に埋もれてしまいそうな深い黒色の夢魂が宙に浮いていた。
天子ではない、伝わってくる雰囲気から直感がそう告げている。
だが天子以外の何者が紫に繋がろうとしているのか、まるで心当たりが思い浮かばない。
ここで夢に触れるのは危険かもしれない、しかし異界を通してまで紫に干渉してきているのだ、もしここで開けなくとも現実で相対するに違いない。
それならばできるだけ早くこの相手を見極ねばならないと、紫は危険を承知で夢に手を伸ばした。
夢魂に触れた時、その冷たさに驚いた。あまりの冷気に手の感覚がなくなりそうだ。
固唾を呑んで、氷のように冷たい夢の中に手を差し込む。
明けた瞬間から、脳裏にノイズ混じりの音が響く、天子の時とは違い不明瞭で中身がわからず、紫の脳を揺さぶってくる。
まるで不完全で欠けてしまったような音の中で、わずかに聞き取れた言葉があった。
『忘れ――な――――――忘れたくない!』
その声を聞き、紫は目を見開いて暗闇の中で飛び起きた。
痛みが走る頭を抑えて肩で息をする、汗でぐっしょりとした寝間着が気持ち悪い。
今しがた夢の中で感じたものに悪寒が止まらずにはいられなかった。
「今のは――!?」
漠然とだが、嫌な予感がする。尋常ではない、鬼気迫るなにかがあった。
そして激しく上下する胸の奥が告げている、紫を呼び寄せる何かがいると。
紫は起き上がって道士服に着替えると、家族にも告げず急いで家を出た。
誰かに相談しようとも思わなかった、激しい焦燥感に急かされてとにかく動かずにはいられなかった。
時間はちょうど丑三つ時。屋敷の外から空に上って幻想郷を睨むと、新月の夜は不気味なほど暗く、静かに沈んでいた。
まず最初に心当たりとして向かったのは博麗神社だ。
「霊夢! 霊夢はいる!? 起きてる!?」
先程のアレは、下手をすれば幻想郷を揺るがしかねない何かのように感じ取れた。
スキマから神社の内部に直接乗り込んで、眠っていた霊夢を叩き起こす。
大声で名前を呼ばれ、ぼんやりと起き出した霊夢は、夢見心地のままで眠たい目元をこすった。
「なぁによ、ゆかり? いま何時だと思ってんのよ……」
「霊夢、何か異常は起きなかった? 心当たりは!?」
険しい剣幕でまくし立てる紫を見て、うつろうつろしていた霊夢は一瞬で意識を覚醒させた。
霊夢も紫とはそれなりに長い付き合いなのだ、彼女をここまで焦らせる時点で、今回の事件の危険度が計り知れないということがわかる。
「何があったの」
「私にもわからないけど、何かが起こってる。心当たりはないのね?」
「何も気づかなかったわ、今から探してみる」
「お願い、こっちもあちこち回ってみるわ」
霊夢はすぐさま枕元に置いていた巫女服を引っ掴んで寝間着から着替えると、お祓い棒や陰陽玉で完全武装する。
巫女が神社から飛び立つ前に、紫もスキマから別の場所を探りに行った。
「他に何かがあるとしたら……無縁塚かしら」
無縁塚とは死体が妖怪化する可能性がある幻想郷において、身寄りのない人間の死体を埋める場所である。
大抵は外界から迷い込んだ縁のない人間を埋葬する、故に無縁塚。
そのせいで幻想郷の中と外、そして冥界まで巻き込んで結界が歪んでしまっている危険地帯で、普段は妖怪も近づかない場所だ。
夢という異界にまで想念を届けるなら、あの場所が最適だろう。
スキマから無縁塚の中心に飛ぶ。夏に入ったことでそろそろ咲く準備を始めた彼岸花が茎を伸ばしており、その周りには結界の歪みにより外界から流入してきた物品がゴミの山となっている。
生温い夏の夜の風がじっとりと首にへばりつくのを、紫は堪えながら辺りを見渡した。
その時、ゴミの山から物音が聞こえて振り向いた。
「誰! 誰かそこにいるの!?」
夜も深いこの時間に、こんな場所に来る者は滅多にいない。
最大の警戒心を持ってゴミ山を乗り越えてその向こう側を見た。
息を呑む、不吉な鐘が脳裏に響き、恐怖が胸を縛り上げた。
揺れる瞳が、星明かりを頼りにそこにある光景を紫の意識に伝えてきた。
山の上に立つ八雲紫の目の前に、八雲紫がそこにいた。
「あなたは……誰!?」
紫は愕然とした表情で、自分と同じ顔の女を見る。
その身体は服の上から真っ黒な絵の具に塗りつぶされたように黒く、わずかに色が残った顔もひび割れたような黒い線が頬を走っている。
見ただけでわかった、目の前の存在はこの世にあって良いものでないし、それ故に刻一刻と崩壊していっている。
だが何故自分と同じ姿なのだ。同じ顔が壊れていく様子は鳥肌が立って仕方がない。
気味の悪い女は瞳孔が開いた焦点の合っていない目で、それでも紫の姿を捉えてニンマリと笑みを浮かべた。
「やっと、見つけた……」
「だから誰なのあなたは!?」
柄にもなく取り乱した紫に、女がゴミの上を這い寄ってくる。
手を伸ばしてくる女を振り払いたくなったが、何故かそれはできなかった。まるで自分の体が目の前の女を迎えようとしているかのように動こうとしない。
痺れた足に、女の手が迫った。
「お願いが、あるの……」
足元まで這いずってきた女が、紫の身体を掴んで身を起こそうとする。
力のこもらない四肢で必死に立ち上がった女は力なく倒れ、抱きしめるように紫の身体に縋り付いた。
「どうか、この気持ちをなくさないで――」
願いを最期に全てを使い果たしたのだろう、女の体が黒い粒になって、霞消えていく。
その粒の一つ一つが紫の身体に染み込んで行き、解放されたたった一つだけの思い出が脳裏を貫いた。
『えへへ、大好き、紫』
そのメモリーを思い出して、女が何者だったのか悟った紫は、膝を突いて呆然と空を眺めた。
「あ……あぁぁぁぁ…………!!!」
涙を流し、悲鳴を漏らす。
これは、この記憶は、この温かさは。自分はこれを、こんなものを無くしてしまっていたというのか。
取り戻した嬉しさよりも先に浮かんできたのは、闇に沈んだ紫と同じ絶望感。
これを無くしてしまったということは、過去の自分は死んだも同然だったのだ。
ならば記憶の消去と再生を繰り返していた自分は、その度に死んでいたのだ。
消える瞬間ではなく、生きている紫がこれに気付いてしまった。
これがもたらすものが何か。
「私…………私はずっと………………」
自分の肩を抱き締めて、ゴミ山の上で寂しさにうずくまる。
零れた涙がゴミの上を伝って流れるのを呆然と眺めながら、身体の底から湧き出る感情に何の抵抗もできず紫はただ震える。
それはこの世界の生きとし生けるものなら誰でも持つ、死への恐怖だった。
いつもと変わりない朝が八雲家に顔を出す。
窓から差した朝日の光が台所を照らし出し、夏の暑さに額を拭いながら今日も藍は朝食の準備に勤しんでいた。
隣では橙が何かと手伝ってくれているのだが、肝心の主人が起き出す気配が感じられない。
昔は寝たい時に寝ておきたい時にねる紫であったが、天子と遊ぶようになってからは人間と同じ生活サイクルになっていた。
それなのに朝食の準備が終わっても起きてこないのは珍しい。
「今日の紫様は起きてくるのが遅いな。橙、見てきてくれ」
「ラジャー! 橙隊員行ってまいります!」
割烹着を脱ぐ藍に命じられ、橙は快活に了承して廊下を走った。
「ゆっかり様ー。朝ですよー?」
主人の主人の部屋にまでたどり着き、部屋の中を覗いてみると盛り上がった布団が目に映る。
どうやら起きたまま布団にくるまっているようだ。
「何だ起きてるじゃないですか、もうご飯できますよ。紫様?」
部屋の中に入ってみるが、紫からの反応がない。
橙が、不審に思い始めていると、紫はゆっくりと布団を脱いで振り返ってきた。
すでに道士服に着替えていた紫は、真っ青な顔色でブルブルと身体を震わせ、死人のような虚ろな眼で見つめ返してきた。
あまりの形相に、橙は驚いて声をかけようとする。
「紫様いったいどうし」
「橙、わた……私、私は……あ、あぁぁ…………あああああぁぁぁぁあああああ嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚あ!!!!?」
――――絶叫。
レイマリとのバトルシーンも熱い。わかりやすい文章で細かい部分も鮮明に想像できたし、めまぐるしく状況が動いて臨場感たっぷり。
ゆかてんSSなのにレイマリもすごくおいしくいただきました。
レイマリにまけないツーカーぶりのゆかてんの連携も格好良かったです。
矛盾を抱えながらそれでも前に進もうとする姿はさすが天子ですね。
でもあのキスで紫が死の概念を覚えることになったところは読んでいて辛かったです。どうすれば解決するのかわからないけど、後編ではどうか幸せになってほしい。
誤字報告です
・映姫が会いに来たシーンの天子の台詞「閻魔が、正者の何の用よ」
あといろんなシーンに電動ドリルさん過去作のセルフオマージュを感じる部分があって懐かしさもありニヤニヤがとまらなかった
紫も天子も辛いのに前向きだなと思いきや最後は不穏ですね
さっそく続きも読みにかかります
バトル描写が際立つ回でしたねぇ、とても楽しませてもらいました。妖怪の山のバトルもよかったですが個人的に映姫様との場面が好き。
年を取って涙もろくなったせいか食べながら謝るところにもらい泣き…天子ちゃんマジ天使。死の概念を知った紫は果たしてどうなるのか、天子は受け止められるのか、バッドな結末にならないことを祈りながら誤字脱字報告にて終わりますね↓
「分前は少ないぜ」・「そんなこと言って、全部使うとか言って分前を渡さないつもりじゃないのか?」→分け前
ロープウェイに追従して飛ぶのは骨が降りそうなものだが、→折れそうな
「な、なんですかこれ。いくつも鉱石が集まってみたいですが、鉱床ってこういうものなんですか?」→集まって(い)る
「えっ、料理? 新手の拷問平気の開発じゃなくて?」→拷問兵器
――あんたが来てくれればキノコでもなんでも食べれてのに!→食べれ(て)た?
精神的に最悪なこのタイミングで殺しにかかられたことは非常拙い。→非常に?
何を言ってくるのは当たりをつけた天子は、→言ってくるのか?
空虚な人生に激しい狩りが沸き立った。→怒り
放出されたエネルギー驚異的な量である、→エネルギーは?
遠方の衣玖が話し声は聞こえないまでも不穏が空気が漂いだすのを感じ取るが、→不穏な?
道が途絶えるの音が聞こえる→「の」の衍字?
あるいは彼女が来なくてどうにかなったでしょう→来なくても?
だがここで終わらせてしまったいい話じゃない→終わらせてしまって?
「あんたこそ避けるならまだしも何でパンツ捲ったのよ!?」→スカート?(パンツ捲ったらまずいですよ!oh…)
ここからは自信がない箇所で↓
「おち、おち、おち、おち、落ち着きなさって霊夢、言葉遣いおかしくなってるから」→落ち着きなさいって?(尊敬語だったらごめんなさい)
油断していた小町は鼻先に熱気を浴びせた。
を感じてから紙一重で光線を避けた。:添削漏れ?(違ったらごめんなさい汗)
再び四者が睨み合うが今度は誰も黙らずにはいなかった。→脱字?(違ったらほんとごめんなさい汗)
天界(誤字ではない)は急ながら、だからこそサクサクと読めています。戦闘描写が想像しやすくて、脳内アニメーションが動く動く。
ひと波乱超えた二人に降りかかるものは何か。今から気になります
ここの切り方がめちゃめちゃ気になって、すぐ続きを読みに走りたくなる。