今なら分かることだけれど、あれは椛にとっては一世一代の告白だったのだろう。思い返せば、そんなにすんなりと言えた様子でもなかったと思う。きっと彼女なりに思い悩んで、何度も足踏みをして、やっと前に踏み出した一歩だったのかもしれない。
「はぁ、またあの夢……」
窮屈に伸びをした私は、深呼吸をしながら一つ、二つ咳き込んだ。
冴えない朝の目覚め。去っていく椛の姿を夢に見たのはもう何度目か分からない。
一通り言い終えた椛の表情は、なにか期待するような、怯えたような複雑なものだったように思う。何度も見た夢の中で、その顔はぼんやりとしか映らない。
『……ごめんね、今までありがとう』
それが私の聞いた最後の言葉だった。それ以来椛とは会っていない。ずっと椛は仕事終わりに私の所へ通うだけで、私は椛の家すら知らなかった。私は無関心だった。
その日、私は新しい発明品の開発に勤しんでいた。椛が訪ねてきた時も、空返事で部屋に通した。私はずっと背を向けていた。
雑然とした部屋を見渡した。埃っぽくて薄暗い。朝なのか夜なのかはっきりしない。ただわずかな光だけがカーテンの隙間から射しているので、夜でないことが判る。機械の部品が掃き溜めのように部屋の隅に追いやられているのが見える。その中には、あの日熱中していた発明品が変わり果てた姿で転がっている。その金属の塊がどんな便利な道具として造られようとしていたのか、もう思い出せない。
初めて椛の夢を見た夜。
それ以来、私は発明をやめた。
はじめ、私は分からなかった。機械弄りをしていた私が振り返った時、わずかに見えた椛の横顔が、どうしてあんなに悲しそうに見えたのか。その顔がずっとまぶたの裏にもやもやして、その日は少し早めに眠りについた。
次の夜も同じ夢を見た。悲しげな横顔が昨晩より増してはっきりと見えた。私は夢の中で、ようやく気がついた。私が椛の気持ちを、決意を受け止めず、疎かにしてしまったこと。
夢の中で私は手を伸ばそうとする。立ち上がって追いかけようとする。夢の中の私は動かなかった。思考だけがやるべきことを知っているのに、身体はあの時と同じ無神経な私だった。
やがて私は目を覚ました。その朝、私は涙を流した。枕元に大事に置いてあった作りかけの発明品を、無造作に掴んで床に叩きつけた。金属の欠片が音を立てて弾け、私の脚に冷たい切り傷を残した。
わずかな光を覗かせているカーテンを、少しめくって外を眺める。あの夏の日から比べるとずいぶんと心許なくなってしまった日の光が、灰色の雲に覆われてうつむいていた。
あれから私は家からほとんど出なくなった。機械弄りもやらない。無駄な食事もしない。窓の外と切り離されたこの部屋で、ただ時間が過ぎるのを待つ。
はじめは同僚の河童が心配して様子を見に来たこともあった。私がかたくなに戸を閉じていると、そのうち誰も来なくなった。
それからも時々、同じ夢を見た。夢の中の椛はしだいにぼんやりと薄れていった。はっきりと見えた横顔も、もうほとんど見えなくなってしまった。
自分の心に問いかけてみる。
おまえはなぜこんなにも、荒んでしまっているのか?
おまえは何を失ったのか?
おまえは何を望んでいるのか?
「——そんなの、一つしかない」
もう一度見たい。
靄のかかった悲しい夢ではなく、私のこの目で。
「椛に、会いたい」
私は立ち上がり鏡の前に向かう。酷くくすんだ顔を洗い、髪を整えて二つに結んだ。服を着替え、緑色の帽子を頭に乗せる。
玄関の戸には錠と鎖が何重にもかかっていた。その一つに手をかける。鍵はない。愚かなわたしが鍵を棄て、私をこの独房に閉じ込めようとしたからだ。でも、
残念だったね、わたし。
ばきっ、ばりっ、がらん。がしゃ、がしゃん。
鉄鎖を引きちぎる。錠前を握りつぶす。破壊する。
この閉ざされた部屋を、私の心をこじ開ける。
私も山の妖怪の端くれ。この私を、この程度の鎖で縛ろうとしたの?
私は過去のわたしを罵倒しながら、鎖を裂いていく。最後の錠前ががちゃりと落ちる。
私は扉を開いた。どんよりとした曇り空が、目がくらむほど眩しかった。
河原に人影はない。日は先ほどより、少し高くなっている。この時間、大体の河童は自宅で機械弄りをしているか、河を離れて哨戒中の白狼天狗とつるんでいるはずだ。
椛もきっとその内のどこかにいる。椛の周りにもおそらく他の河童がいる。一度関わりを絶った他の河童たちに、私は会わせる顔がない。河童たちが私に向ける冷たい視線が容易に想像できる。社会を踏み外した者に慈悲はないだろう。河童とはそういうものなのだ。
私は川に下りて時間をつぶすことにした。ひんやりとした水に身体を浸すと、不思議と活力が戻ってくる。膝、腰、胸、肩、頭まですっかり水に入ってしまうと、私は沈むでもなく、浮かび上がるでもなくただ水中に漂っていた。
これが私の本来の姿なのだ。川に潜んで人目を避けて。そうすれば心は川の水のように、冷静でいられる。川を出なければ、頭を悩ませたり、胸が苦しくなったりしなくて済むはずなのに。
私は川を出て、他の妖怪と、人間と共存する道を選んだ。川の中で誰かが近づくのを待っては引きずり込んでいた昔とは違うのだ。私は私が欲するものに、自ら手を伸ばさなければいけない。
水中に椛の顔を思い浮かべる。幾度となく夢に見た表情。仕事が終わると真っ先に私の元に来て、見せてくれていた笑顔。
「……椛」
言葉は泡となって浮かんでいく。川の流れにぶつかって、水面にたどり着く前に壊れてしまう。
「私も……椛のこと」
息が苦しい。河童である私にとって、水中で呼吸をするのは地面を歩くよりずっと簡単だ。それなのに、胸が苦しくなる。何か、大きな気持ちに押しつぶされそうになる。
(——すき)
遅すぎたその言葉はあまりに小さくて、形にならずに口元に消えた。
浮かんでいく泡を視線で追いかける。その先の水面は、少しずつ赤く染まっていく。もう、頃合いだろうか。
水面から顔だけを出す。近くに駐屯している哨戒天狗たちが、自宅の方へと飛び去るのが見えた。
私は身体を宙に放り上げて、少し高い空から辺りを見回してみる。各々の帰る場所を目指す白狼天狗たちの中に、椛の姿はなかった。所属が違うのかもしれない。だとすれば急がなくてはいけなかった。椛の家を私は知らない。帰路で椛を見つけなければ会えないからだ。
私は必死に飛び回った。山の反対側、麓、山頂、川を遡って、また川に沿って下りる。途中鉢合わせそうになった河童たちの視線を避けながら、ひたすらに探した。
夕日の赤が夜に飲み込まれていく。地平線だけがわずかに明るい。青い顔をしたまん丸の月が、日の光をどうにか避けようとして昇ってくる。
結局、椛の姿を見つけることはできなかった。椛とよく似た後ろ姿を追っていっても、皆人違いだった。
やっぱり椛はもう、私の前に現れてはくれない。悪いのは全て私だ。椛を傷つけてしまった罪は、あまりにも大きすぎたのだ。今さら足掻いたところで、天も椛も、私を許さないだろう。
私は何もかもを諦めて、ふらふらと自宅の方向へ流されるように飛んで行った。その先にあるのはまたあの薄暗い部屋。今度こそ扉は開かない。永遠にも近い時間を一人で過ごす。それが私の贖罪の形だ。
黒々とした水面に映る満月が揺らめいて、粉々に壊れる。水音に虫の声が混ざって、静けさはより際立っている。
私は降りているのか落ちているのか分からないほど不安定に、自宅へと降りて行った。
昼間乱暴に壊した扉が、綺麗に片付けられている。不思議に思って辺りを見渡した。
「——あ」
視線を逸らすことが出来ない。身体が動かない。口の中はからからに乾く。手のひらに汗がにじむ。私は消え入りそうな声を、なんとかひねり出した。
「も、みじ……」
彼女はそこにいた。
私が失ったもの。私が夢見たもの。
私が望んだもの。私が諦めたもの。
「——にとりちゃん」
その声はとても穏やかだった。
記憶の中にあった声が色を取り戻す。その姿にはっきりとした輪郭が描かれる。
「椛……どうして、ここに」
椛の優しい表情が、わずかに翳るのが見えた。私は数秒前の問いかけを後悔した。本当のことなど、聞きたくはなかった——
「にとりちゃん、……ごめんなさい」
塞ぎかけた耳を、もう一度開いた。
「……え?」
「あの日、私は、本当は、にとりちゃんに本当の気持ちを伝えて……それで、諦めをつけようと思ったの」
「椛……?」
「にとりちゃんのことが好きだった。でも、にとりちゃんにとって私が大事な存在じゃないことも分かってた。だから私は、あれでよかったの」
「そう、だったんだ」
あの日の記憶を、私は慎重に辿っていく。
『——こんばんは、にとりちゃん。……ううん、別に、少し仕事が長引いただけだよ。それよりも』
思いつめた表情を覗かせていたあの姿が、目の前の椛と重なる。
「しばらくは私も、それで終わらせられたはずだった。でもそのうちに、諦めの悪い自分がまだ残ってることに気がついて……それで、にとりちゃんの家を訪ねたんだけど、にとりちゃんは……」
椛の言っている、しばらくというのがどのくらいの時間かは分からない。一つだけわかるのは、私は椛を一度ばかりでなく、二度も拒んでしまったということ。
「それでも私は諦められなかった。仕事に行くとき、帰るとき、毎日にとりちゃんの家に寄って、鍵のかかった扉を眺めて。でもそれを叩く勇気がなくて、毎日同じことを繰り返してた」
「……そんな、どうして私なんか」
言いかけた言葉を飲み込んだ。今は椛の声に耳を傾けよう。疑問も、謝罪も、全てその後に伝えればいい。
「今日も同じようににとりちゃんの家に寄ったの。そしたら扉が開いてた。でも中に気配がなかったから、仕事が終わってからすぐにここに戻って、にとりちゃんが帰ってくるのをずっと待ってたの」
「椛……」
私が探していたものは、こんなにも近くにあった。私が目を背けていただけで、椛はずっと、私を待ってくれていた。私が踏み出すことを恐れたせいで、私と椛はすれ違ってしまった。
「でも今日やっと、にとりちゃんに会えたから、嬉しいよ。……だから私の本当の気持ちを、もう一度聞いて欲しいんだ」
「……うん」
あの日のような、深い表情。私はじっと待つ。目をそらしてしまったら、また大事なものをなくしてしまいそうで。
『あのね、今日は……にとりちゃんに、つ……伝えたいことがあるの』
椛に背を向けていたわたし。でも今なら、椛の言葉をまっすぐに、素直に受け止められる気がした。
椛が、ふっと顔を上げる。その顔はどこか晴れやかで、自信に満ちていた。私もそれに応えるように、その目をしっかりと見据える。
やがて椛の小さな口が、ゆっくりと開く。
「『私……にとりちゃんが——にとりちゃんが好き!』」
数秒の沈黙。それは今までに過ごしてきた、どんな時間よりも永く感じた。
「私も、ううん、私は……椛が、大好きだよ。だから」
「——にとりちゃんっ……!」
椛の澄んだ瞳から、大粒の雫があふれ出す。白い頬に筋をつくるほどに、止めどなく流れる。
思えばあの日から、椛のことを考えない日はなかった。自分の心から目をそらし続けた。でも、もう違う。
「椛、ごめんね。……それと、ありがとう」
思いを言葉にすることは難しい。それなら、この椛への思いを、目に見えるように示せばいい。
私は椛の肩に両腕を回して、その身体をそっと抱き寄せた。椛は少しだけ、涙に濡れた顔を気にするようにそらした。その涙を、私の袖で拭ってあげる。
「椛、ずっと私を好きでいてくれて、ありがとう」
これからも——なんて、ありきたりな言葉は今はいらない。
私は椛を抱きとめたまま、次第に高く、明るくなる満月を、いつまでも、いつまでも眺めていた。
「はぁ、またあの夢……」
窮屈に伸びをした私は、深呼吸をしながら一つ、二つ咳き込んだ。
冴えない朝の目覚め。去っていく椛の姿を夢に見たのはもう何度目か分からない。
一通り言い終えた椛の表情は、なにか期待するような、怯えたような複雑なものだったように思う。何度も見た夢の中で、その顔はぼんやりとしか映らない。
『……ごめんね、今までありがとう』
それが私の聞いた最後の言葉だった。それ以来椛とは会っていない。ずっと椛は仕事終わりに私の所へ通うだけで、私は椛の家すら知らなかった。私は無関心だった。
その日、私は新しい発明品の開発に勤しんでいた。椛が訪ねてきた時も、空返事で部屋に通した。私はずっと背を向けていた。
雑然とした部屋を見渡した。埃っぽくて薄暗い。朝なのか夜なのかはっきりしない。ただわずかな光だけがカーテンの隙間から射しているので、夜でないことが判る。機械の部品が掃き溜めのように部屋の隅に追いやられているのが見える。その中には、あの日熱中していた発明品が変わり果てた姿で転がっている。その金属の塊がどんな便利な道具として造られようとしていたのか、もう思い出せない。
初めて椛の夢を見た夜。
それ以来、私は発明をやめた。
はじめ、私は分からなかった。機械弄りをしていた私が振り返った時、わずかに見えた椛の横顔が、どうしてあんなに悲しそうに見えたのか。その顔がずっとまぶたの裏にもやもやして、その日は少し早めに眠りについた。
次の夜も同じ夢を見た。悲しげな横顔が昨晩より増してはっきりと見えた。私は夢の中で、ようやく気がついた。私が椛の気持ちを、決意を受け止めず、疎かにしてしまったこと。
夢の中で私は手を伸ばそうとする。立ち上がって追いかけようとする。夢の中の私は動かなかった。思考だけがやるべきことを知っているのに、身体はあの時と同じ無神経な私だった。
やがて私は目を覚ました。その朝、私は涙を流した。枕元に大事に置いてあった作りかけの発明品を、無造作に掴んで床に叩きつけた。金属の欠片が音を立てて弾け、私の脚に冷たい切り傷を残した。
わずかな光を覗かせているカーテンを、少しめくって外を眺める。あの夏の日から比べるとずいぶんと心許なくなってしまった日の光が、灰色の雲に覆われてうつむいていた。
あれから私は家からほとんど出なくなった。機械弄りもやらない。無駄な食事もしない。窓の外と切り離されたこの部屋で、ただ時間が過ぎるのを待つ。
はじめは同僚の河童が心配して様子を見に来たこともあった。私がかたくなに戸を閉じていると、そのうち誰も来なくなった。
それからも時々、同じ夢を見た。夢の中の椛はしだいにぼんやりと薄れていった。はっきりと見えた横顔も、もうほとんど見えなくなってしまった。
自分の心に問いかけてみる。
おまえはなぜこんなにも、荒んでしまっているのか?
おまえは何を失ったのか?
おまえは何を望んでいるのか?
「——そんなの、一つしかない」
もう一度見たい。
靄のかかった悲しい夢ではなく、私のこの目で。
「椛に、会いたい」
私は立ち上がり鏡の前に向かう。酷くくすんだ顔を洗い、髪を整えて二つに結んだ。服を着替え、緑色の帽子を頭に乗せる。
玄関の戸には錠と鎖が何重にもかかっていた。その一つに手をかける。鍵はない。愚かなわたしが鍵を棄て、私をこの独房に閉じ込めようとしたからだ。でも、
残念だったね、わたし。
ばきっ、ばりっ、がらん。がしゃ、がしゃん。
鉄鎖を引きちぎる。錠前を握りつぶす。破壊する。
この閉ざされた部屋を、私の心をこじ開ける。
私も山の妖怪の端くれ。この私を、この程度の鎖で縛ろうとしたの?
私は過去のわたしを罵倒しながら、鎖を裂いていく。最後の錠前ががちゃりと落ちる。
私は扉を開いた。どんよりとした曇り空が、目がくらむほど眩しかった。
河原に人影はない。日は先ほどより、少し高くなっている。この時間、大体の河童は自宅で機械弄りをしているか、河を離れて哨戒中の白狼天狗とつるんでいるはずだ。
椛もきっとその内のどこかにいる。椛の周りにもおそらく他の河童がいる。一度関わりを絶った他の河童たちに、私は会わせる顔がない。河童たちが私に向ける冷たい視線が容易に想像できる。社会を踏み外した者に慈悲はないだろう。河童とはそういうものなのだ。
私は川に下りて時間をつぶすことにした。ひんやりとした水に身体を浸すと、不思議と活力が戻ってくる。膝、腰、胸、肩、頭まですっかり水に入ってしまうと、私は沈むでもなく、浮かび上がるでもなくただ水中に漂っていた。
これが私の本来の姿なのだ。川に潜んで人目を避けて。そうすれば心は川の水のように、冷静でいられる。川を出なければ、頭を悩ませたり、胸が苦しくなったりしなくて済むはずなのに。
私は川を出て、他の妖怪と、人間と共存する道を選んだ。川の中で誰かが近づくのを待っては引きずり込んでいた昔とは違うのだ。私は私が欲するものに、自ら手を伸ばさなければいけない。
水中に椛の顔を思い浮かべる。幾度となく夢に見た表情。仕事が終わると真っ先に私の元に来て、見せてくれていた笑顔。
「……椛」
言葉は泡となって浮かんでいく。川の流れにぶつかって、水面にたどり着く前に壊れてしまう。
「私も……椛のこと」
息が苦しい。河童である私にとって、水中で呼吸をするのは地面を歩くよりずっと簡単だ。それなのに、胸が苦しくなる。何か、大きな気持ちに押しつぶされそうになる。
(——すき)
遅すぎたその言葉はあまりに小さくて、形にならずに口元に消えた。
浮かんでいく泡を視線で追いかける。その先の水面は、少しずつ赤く染まっていく。もう、頃合いだろうか。
水面から顔だけを出す。近くに駐屯している哨戒天狗たちが、自宅の方へと飛び去るのが見えた。
私は身体を宙に放り上げて、少し高い空から辺りを見回してみる。各々の帰る場所を目指す白狼天狗たちの中に、椛の姿はなかった。所属が違うのかもしれない。だとすれば急がなくてはいけなかった。椛の家を私は知らない。帰路で椛を見つけなければ会えないからだ。
私は必死に飛び回った。山の反対側、麓、山頂、川を遡って、また川に沿って下りる。途中鉢合わせそうになった河童たちの視線を避けながら、ひたすらに探した。
夕日の赤が夜に飲み込まれていく。地平線だけがわずかに明るい。青い顔をしたまん丸の月が、日の光をどうにか避けようとして昇ってくる。
結局、椛の姿を見つけることはできなかった。椛とよく似た後ろ姿を追っていっても、皆人違いだった。
やっぱり椛はもう、私の前に現れてはくれない。悪いのは全て私だ。椛を傷つけてしまった罪は、あまりにも大きすぎたのだ。今さら足掻いたところで、天も椛も、私を許さないだろう。
私は何もかもを諦めて、ふらふらと自宅の方向へ流されるように飛んで行った。その先にあるのはまたあの薄暗い部屋。今度こそ扉は開かない。永遠にも近い時間を一人で過ごす。それが私の贖罪の形だ。
黒々とした水面に映る満月が揺らめいて、粉々に壊れる。水音に虫の声が混ざって、静けさはより際立っている。
私は降りているのか落ちているのか分からないほど不安定に、自宅へと降りて行った。
昼間乱暴に壊した扉が、綺麗に片付けられている。不思議に思って辺りを見渡した。
「——あ」
視線を逸らすことが出来ない。身体が動かない。口の中はからからに乾く。手のひらに汗がにじむ。私は消え入りそうな声を、なんとかひねり出した。
「も、みじ……」
彼女はそこにいた。
私が失ったもの。私が夢見たもの。
私が望んだもの。私が諦めたもの。
「——にとりちゃん」
その声はとても穏やかだった。
記憶の中にあった声が色を取り戻す。その姿にはっきりとした輪郭が描かれる。
「椛……どうして、ここに」
椛の優しい表情が、わずかに翳るのが見えた。私は数秒前の問いかけを後悔した。本当のことなど、聞きたくはなかった——
「にとりちゃん、……ごめんなさい」
塞ぎかけた耳を、もう一度開いた。
「……え?」
「あの日、私は、本当は、にとりちゃんに本当の気持ちを伝えて……それで、諦めをつけようと思ったの」
「椛……?」
「にとりちゃんのことが好きだった。でも、にとりちゃんにとって私が大事な存在じゃないことも分かってた。だから私は、あれでよかったの」
「そう、だったんだ」
あの日の記憶を、私は慎重に辿っていく。
『——こんばんは、にとりちゃん。……ううん、別に、少し仕事が長引いただけだよ。それよりも』
思いつめた表情を覗かせていたあの姿が、目の前の椛と重なる。
「しばらくは私も、それで終わらせられたはずだった。でもそのうちに、諦めの悪い自分がまだ残ってることに気がついて……それで、にとりちゃんの家を訪ねたんだけど、にとりちゃんは……」
椛の言っている、しばらくというのがどのくらいの時間かは分からない。一つだけわかるのは、私は椛を一度ばかりでなく、二度も拒んでしまったということ。
「それでも私は諦められなかった。仕事に行くとき、帰るとき、毎日にとりちゃんの家に寄って、鍵のかかった扉を眺めて。でもそれを叩く勇気がなくて、毎日同じことを繰り返してた」
「……そんな、どうして私なんか」
言いかけた言葉を飲み込んだ。今は椛の声に耳を傾けよう。疑問も、謝罪も、全てその後に伝えればいい。
「今日も同じようににとりちゃんの家に寄ったの。そしたら扉が開いてた。でも中に気配がなかったから、仕事が終わってからすぐにここに戻って、にとりちゃんが帰ってくるのをずっと待ってたの」
「椛……」
私が探していたものは、こんなにも近くにあった。私が目を背けていただけで、椛はずっと、私を待ってくれていた。私が踏み出すことを恐れたせいで、私と椛はすれ違ってしまった。
「でも今日やっと、にとりちゃんに会えたから、嬉しいよ。……だから私の本当の気持ちを、もう一度聞いて欲しいんだ」
「……うん」
あの日のような、深い表情。私はじっと待つ。目をそらしてしまったら、また大事なものをなくしてしまいそうで。
『あのね、今日は……にとりちゃんに、つ……伝えたいことがあるの』
椛に背を向けていたわたし。でも今なら、椛の言葉をまっすぐに、素直に受け止められる気がした。
椛が、ふっと顔を上げる。その顔はどこか晴れやかで、自信に満ちていた。私もそれに応えるように、その目をしっかりと見据える。
やがて椛の小さな口が、ゆっくりと開く。
「『私……にとりちゃんが——にとりちゃんが好き!』」
数秒の沈黙。それは今までに過ごしてきた、どんな時間よりも永く感じた。
「私も、ううん、私は……椛が、大好きだよ。だから」
「——にとりちゃんっ……!」
椛の澄んだ瞳から、大粒の雫があふれ出す。白い頬に筋をつくるほどに、止めどなく流れる。
思えばあの日から、椛のことを考えない日はなかった。自分の心から目をそらし続けた。でも、もう違う。
「椛、ごめんね。……それと、ありがとう」
思いを言葉にすることは難しい。それなら、この椛への思いを、目に見えるように示せばいい。
私は椛の肩に両腕を回して、その身体をそっと抱き寄せた。椛は少しだけ、涙に濡れた顔を気にするようにそらした。その涙を、私の袖で拭ってあげる。
「椛、ずっと私を好きでいてくれて、ありがとう」
これからも——なんて、ありきたりな言葉は今はいらない。
私は椛を抱きとめたまま、次第に高く、明るくなる満月を、いつまでも、いつまでも眺めていた。
にとりの此れまでの在り方に関して言及されていた部分は成程っと感じながら読ませていただきました。
椛の実直さが乙女でよかったです
なんて初々しいんだと思いました
恋に初心な椛がいじらしく思いましたね