Coolier - 新生・東方創想話

百年目の水の幽霊

2016/12/09 02:03:53
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 ええ。確かにあれは幽霊でした。
 ご存知の通り、人里から湖に行く途中に古い大きな橋がございます。私は若い頃より毎日のように橋を渡り、釣りをしているのでございます。夜も暗い時分に橋を渡り、お天道様が山の下よりはっきりと顔をだす頃には、また橋を渡って帰る。そして釣った魚を売り歩く。そんな生活を七十年ばかり続けていました。
 昨日の明け方のことです。
 一週間ばかり雨が降っていたので、しばらく釣りに行けなかったのですが、昨日の明朝は久しぶりに晴れておりましたので、霧の湖へと向かいました。しかし天気が良かったのは一時間かそこらでした。気がつけば雨が降ってきましたので、早々に釣りを切り上げて帰りました。迂闊にも傘を持って来ていなかった私は、釣り竿片手に小走りで里へと向かいました。そのまま橋を渡ろうとした時のことです。
 橋の真ん中あたりの所に、人の影が見えました。
 まだ日が出るか出ないかの頃でございます。そんな時間に人と出会うことなど滅多に無かったので、どうにも妙なことだと思いました。その人をよく見てみようと目をこすったのですが、そうすると人影がすうっと消えていったのです。
 そのときは私は見間違いだろうと思いました。まだ朝というよりも夜が近い時間帯です。辺りは薄暗く、しかも雨が降っていたたので、正直なところ視界は悪うございました。以前も釣りからの帰り際で、狐や狸をすわ妖怪のたぐいか、と見間違ったことがございます。今回もそうだと思ったのです。
 そして私は雨で滑りやすくなった橋の上を、注意しながら真真ん中の辺りまで歩いていきました。そのまま人里の方へと歩こうとした、その時でした。
 すぐ後ろから声が聞こえてきたのでございます。
 立ち去れ、立ち去れ。
 井戸の底のような暗い声が、そう私に呼びかけたのでございます。思わず振り返った私の前には、青白い女がいました。
 その女は頭に桜のかんざしをしていました。ただ、それ以外は着物も顔も白一色でした。特にその女の顔の青白さといったら、彼女の着物以上に白く、とてもこの世のものとは思えませんでした。そして女の、手が、手が、私のほうに……!
 ……失礼しました。長く生きていましたが、こんなこと初めてでございますので。
 そのあと私はどこをどう逃げたのか、気がつけば自分の家に閉じこもっていました。その日はとても外に出る気になれませんでした。扉を開けると、あの能面のような女が、目の前に現れそうな気がしたのです。
 ですがこのまま何もしないわけにも行かず、ようやく今日になって家を出て、こちらに伺った次第でございます。
 巫女さま。哀れな老人からのお願いです。どうかあの橋に巣食う幽霊を祓っていただけないのでしょうか。


 傘をさした霊夢が、橋にたどり着いたのは午後を少し回ったころだった。
 人里と霧の湖を結ぶ道の途中にあるその橋は、かなり昔に建てられたものらしく、板の色はすっかり抜け落ち、傷やへこみが無数にある。手すりは一部腐っており、所々に大きなヒビのはえたところがある。とはいえ時たま修理が行われているので、渡ることには問題は無さそうだった。
 止む気配のない雨に舌打ちをしつつ、霊夢は橋を渡る。雨が降っているせいか、周りに人はいない。
 何歩か歩いて周りの様子を伺う。特に幽霊や妖怪の気配は見られず、雨粒が橋板を叩く音と、下を流れる波の音しか聞こえない。
 本当にいるのだろうか? そう思いつつ霊夢は先へ進む。
 川幅が大きいこともあり、橋は長かった。雨が降っているせいもあって、その先端は霞んでいてよく見えない。幅も大人三人がゆうに横になれるほどあって動きやすい。もし幽霊が本当にいて、霊夢の不意をついたとしても、避けるのは造作も無いだろう。
 注意深く辺りを伺っているうちに、霊夢は橋の中央にまで来た。川の水が波打つ音が、霊夢の耳に大きく聞こえる。1週間ほど前から雨が降り続いているからか、何時にもまして川の水量が多い。
 実は幽霊はいないのでは? 霊夢が疑問に思ったその時だった。
 背後に気配を感じた霊夢は、咄嗟に前に飛んで振り返る。
 白装束の女が立っていた。その女は死化粧そのままに、雪の粉で固めたような白い顔をしていた。その中で頭につけられた桜のかんざしだけが、色を持っていて妙に霊夢の目がついた。
 女の生気のない顔を見つめ、霊夢は確信する。彼女は幽霊、それも強い力を持ったものだと。
 霊夢は傘を投げ捨て、懐から霊符を取り出した。そして間髪いれず幽霊に放った。
「悪霊退散!」
 霊符は幽霊の体を完全に捉えていた。命中した瞬間、爆発音を伴って幽霊の体がはじけ飛び、霧散した。
 雨粒が橋を叩く。霊符を放った霊夢は傘も取らず、幽霊が消えた辺りを見つめた。確かに札は辺り、幽霊は見えなくなった。だが。
「……まだいるわね」
 視界には見えないものの、すぐ近くに気配を感じ、霊夢は身構える。
「一撃で仕留めるつもりだったんだけどなあ」
 独り言をつぶやき、霊夢は唇を噛んだ。普通の幽霊なら霊夢の札に触れれば、即座に成仏する。しかし今の幽霊は、霊夢の予想よりも力を持ったものらしい。かなりの長い年月を生きた地縛霊か、あるいは相当の怨念を持った亡霊か。どちらにしろ一筋縄ではいかない相手だった。
 どれほど時間がたっただろうか、霊夢の体はすっかり冷え、気がつけば鼻の辺りがムズムズして、くしゃみが出てきた。一向に幽霊は出てこない。気がつけば幽霊の気配も感じられなくなっている。
 霊夢はもう一度くしゃみをすると、転がっていた自分の傘を手に取った。
 これ以上待っても、風邪が悪化するだけで終わりそうであった。出直して来ようと思い、霊夢は里の方に足を向ける。
 橋を過ぎ、しばらく歩いてから振り返った。雨の中の橋には、やはり誰もいなかった。


「本を見るのは良いのですが、体は拭いてくださいよ」
 稗田阿求はそう言って手ぬぐいを博麗霊夢に手渡した。霊夢は受け取ると同時に、大きなくしゃみをした。
「……傘、投げ飛ばすんじゃなかった」
「何やっているんですか、あなたは」
 阿求は呆れつつ、玄関で寒さに震える霊夢を見た。すっかり雨を吸った服のそでから、水滴が落ちていく。よっぽど長いこと雨に打たれていたらしい。とても足りそうになかったので、もう一枚ほど手ぬぐいを取りに行き、ついでにちり紙も用意する。戻ってくると霊夢は礼を言いつつ、再びくしゃみをした。頼むから風邪をうつすのだけは勘弁してほしい。そう思いつつ阿求は腕を組んだ。
「それで、いったい何の用ですか?」
「調べ物をしたいのよ。湖近くの古い橋について」
「あの大きな橋ですか。何かあったんですか?」
「幽霊が出るのよ。それもたちが悪いのが」
「……幽霊」
 霊夢の言葉に、阿求の顔が曇った。
「一筋縄ではいきそうにないから、情報がほしいのよ。あの辺りで亡くなった人のこととか、近くであった事故とかね。そこから幽霊の弱点が……阿求?」
 阿求は霊夢の問いかけに、すぐに答えることができなかった。彼女の背筋に冷たいものが走り、足元がぐらついたような感覚を覚えた。雨に濡れた霊夢よりも、きっとひどい顔をしているだろう。
 阿求はこみ上げてくる不安を胸の奥に抱え、心配そうに覗き込む霊夢を見返した。
「霊夢さん。あなたは幽霊に会いましたか?」
「ええ。すぐに逃げられたけどね」
「その幽霊は、桜のかんざしをしていましたか?」
 霊夢は息を飲んだ。
「……なんで知っているの?」
「たぶんその子のことを私は知っています。……いいえ、知っていました」
「どういうこと?」
 思い描いていた不安が当たってしまった。そのことに愕然としつつ、阿求はゆっくりと言葉を吐き出した。
「……その子は友達です。100年前、私が阿弥だったときの」
 息を飲む霊夢の様子を見ながら、阿求の脳裏には百年前、稗田阿弥の頃の記憶が浮かび上がった。


「阿弥さん。阿弥さん!」
 まどろみから目覚めると、稗田阿弥の前には一人の女性の姿があった。初代、稗田阿礼から数えて八代目となる稗田阿弥は、その女性に方を捕まれ、揺らされていた。
「お花、さん?」
 目をこすると目の前の様子がはっきりと見えてくる。稗田阿弥の肩を揺すっていたのは、幼馴染のお花であった。お花は若草色の着物をはためかせ、彼女に抱きついた。
 阿弥は辺りを見回そうとして、桜の花びらが一枚、舞い落ちていくのを見た。見上げると庭先に映える桜の巨木が、青空の下で満開に花を咲かせていた。阿弥は庭を一望できる縁側に座っていた。阿弥は先ほどまでお花と花見をしていた。その時に体調を崩し、意識を失ったらしい。
「良かった! もう駄目かと思いました……」
 震えながら阿弥に抱きつくお花に、優しく笑いかけながら阿弥は抱き返した。お花の髪に結ってある、桜のかんざしを目にとめつつ、ゆっくりと言った。
「心配しなくてもいいのです。いつものことですから」
「心配します。今度こそ、起きないかもしれないと思うと……」
 顔を上げたお花の目に、涙があった。涙が緩やかに頬を伝い、あごに落ちる様子を見ると、二十九という自身の年齢が胸に重くのしかかってきた。普通なら若者と言ってもいい年頃だが、稗田家の人間には全く別の意味があった。
 稗田家の当主は、類い稀な記憶力と引き換えに三十歳近くで死んでしまう。
 死ぬ年齢に何年かの誤差はあるものの、若くして亡くなるのは、決して避けることのできない運命だった。
「お花は大げさです。死ぬのはもう何度も経験しましたし、慣れました。またか、という感じですよ」
 安心させるつもりで言ったが、お花は首を振った。そして抱きついた手を解き、正面から阿弥を見据えた。
「もう、こんなこと止めましょう」
 お花が言いたいことがつかめず、阿弥は首を傾げた。お花は続ける。
「若くして死に、転生するという稗田の力は、私には呪いにしか見えません。何度も何度も死ぬなんて酷すぎるじゃないですか。だから巫女様に頼んでその呪いをなくしてしまうとか、名のある修験僧に頼んで長生きできるようしてもらうとか……」
「そうしたら、誰が幻想郷の歴史を残すのですか?」
 お花の言葉を遮り、阿弥はお花をにらんだ。お花が心配してくれることは痛いほど分かっていた。けれど先ほどの言葉は稗田の人間として聞き捨てならなかった。
「私が何度も死に、生まれ変わるのは決して呪いではありません」
 お花は顔を伏せた。陽の光を反射して、桜のかんざしが光るのを見ながら、阿弥は話す。
「確かに死ぬのは痛いです。嫌です。でも私にはお役目があります。この能力があるからこそできる、私のお役目が」
 思い返せば千年近く前、初代の稗田阿礼の頃から阿弥は転生を繰り返してきていた。生きることも死ぬことも何度も経験してきた。職務を投げ出そうと思えば、その長い年月のなかでいくらでも機会はあった。けれど決して降りることは無かった。今までも。そしてきっと、これからも。
「お花。私は思うのです。人間は誰しも役目を持っていて、そのために生きるのだと。自分の役割を全うする。これに勝る喜びはありません」
 風が吹き、桜の花びらがこぼれ、阿弥とお花の前を通り抜けていく。お花は拳を握りしめたまま、それでも俯いたままでいた。阿求はそんなお花に顔を近づけた。
「お花、顔をあげてください。笑ってください。私はあなたの笑顔が好きなのです」
 ゆっくりと顔を上げたお花に、阿弥は笑いかけた。お花は目尻を拭い、顔を歪めたが、それでも笑った。
「私は、阿弥と一緒にいたいのです。いつまでも、いつまでも」
「ではお花にお願いします。もう少しだけ私の隣にいて下さい」
 そう言いつつ阿弥は、正面の桜の方へ体を向けた。白砂の真ん中に立つ桜は、青空を割るように大きく天を覆っていた。今が一番桜が咲き乱れているころで、あと数日もすれば散ってしまうだろう。だからこそ眼前に広がる光景を、阿弥は目に焼き付けた。
 阿弥は静かに言った。
「……恐らく、桜を見れるのは今年が最後です。お花、あなたと一緒に見れてよかった」
 春の穏やかな陽の光は、次第に陰っていく。空に広がった青は、いつしか朱がまじりその中に桜の花びらが混じる。鮮やかな夕暮れが辺りを照らすまで、二人は桜を見つめていた。そろそろ宵の明星が出ようというころ、花びらを見ながら阿弥は言った。
「お花。きっとあなたにも、あなたにしか出来ない役目があるわ」
「それは今、あなたと花見をするより大切?」
 阿弥は満面の笑みを浮かべお花に振り返った。
「それも大切な、あなたの役目よ」
 お花も振り返り、笑い返した。今度こそお花が、心の底から笑った気がした。


 桜が散り、梅雨が開け、そろそろ夏にさしかかろうというとき、人間の里に大きな問題が持ち上がった。
 湖への橋が流されてしまったのだ。
 数日ほど雨が続いた後に台風が来たため、激しい風雨と濁流に耐えきれず橋は跡形もなく消え去った。橋が流されたのはここ二十年で三度目であり、しかも三年前に橋を建て替えたばかりであった。里のものは水神のたたりと噂をし、恐れおののいた。
 これ以上、橋を壊されるわけには行かない。そう思った当時の里長は、一計を案じた。
 彼は橋を建てるときに、人柱を用意しようとした。
 人身御供を行えば、水神の怒りも鎮まる。そのように里長を含めた村の上層部は考えていた。ところが問題になるのは誰が人質をやるか、だった。
 好き好んで人柱になるものなどいない。そこで村長は出来た橋を、最初に渡った人間を人柱に仕立てようとした。
 本来であれば、このような計画が行われる前に博麗の巫女に頼み、彼女に異変のもとを退治してもらうべきだった。しかし里長達は博麗の巫女を信用していなかった。
 当時の巫女は真面目ではあるものの実力に欠けていた。妖怪退治や除霊に度々失敗しており、春の終わりには、暴れる妖獣に対処できず、誤って里への侵入を許したために、五人近くの人間が犠牲になった。巫女自身も実力がないことを自覚していたため、里長たちの計画に薄々勘付いていたのものの、何も言うことはなかった。恐らく何も言えなかったのだろう。
 そしてセミの鳴き声が激しくなりはじめた頃、一人の女性が生贄に選ばれた。彼女は最初に橋を渡り、そのために死ぬことになった。その女性こそ、お花だった。


 阿求の話を聞き、霊夢はゆっくりと目を開いた。長く話をしたせいか、先ほどまで濡れに濡れていた彼女の服は、すっかり乾いていた。
「つまりその子は生贄になったことを恨んで、化けて出てきたというわけね」
 阿求は首を振った。
「それは有りえません。彼女は自分から望んで生贄になったのです」
「でも生贄の話なんて、里の重鎮しか知らないんでしょう? その子が知るわけないじゃない」
「霊夢さん。私も重鎮の一人ですよ。……彼女には私が話したのです」
「どういうこと?」
 怪訝な表情を浮かべる霊夢に、阿求は言った。
「私は彼女に死んでほしくなかった。だから悪いことだと承知で、生贄の話を伝え、お花に橋に近づかないよう言ったのです。だからお花はすでに知っていました」
「じゃあなんで橋を渡ったのよ?」
「お花は言いました。阿求が里のために頑張るなら、私も里のために尽くしたい。これが私の役目だ、と」
 今でもそのときの彼女の様子を阿求は思い浮かべることが出来た。死ぬことが分かっているというのに、それでもお花は阿求に笑いかけていた。全てはお花が決めたことだった。だから阿求は何も言うことができなかった。
「お花は死んだことを恨んでいません。だからこそあの子が、化けて出てきたのは信じられないんです」
「信じられるも何も、私は実際に見たんだ。あんたの言うお友達が化けて出てきたのをね」
「でも……」
 言い返そうとした阿求だが、霊夢は腕を組み畳み掛けた。
「それにね、幽霊を見たのってお爺さんだけじゃないの。他にもここ一週間で三人ほど、橋の幽霊を見た人がいるのよ」
「そんな……」
「他の人も桜のかんざしを見たし、立ち去れ、立ち去れと言われた。阿求の話を聞く限り、十中八九その子が幽霊だと思うわ」
 そこまで言われれば、阿求は言い返すことができなかった。お花が化けて出てきたというのは、阿求にとって信じられることではないが、言い返す言葉を持っていなかった。
 黙り込んだ阿求を見つめ、霊夢は言った。
「ところで、その子はどうやって死んだんの?」
「……お花は橋の真ん中の柱にくくりつけられました。しばらくして雨が降り、川の水が増えて……」
「それ以上は良いわ。だいたいわかったから。あとは私に任せなさい」
 分かった? 何のことかと思い見上げた霊夢の顔は、真剣な表情を浮かべていた。
「私の見たところ、あの幽霊は地縛霊のたぐいね。恐らく縛られた柱の周りを清めてやれば消え去るわ」
「待って。私も……」
「行っても辛いだけよ。残りなさい」
 霊夢は濡れた手ぬぐいを突き出した。思わず受け取ると、傘を片手に彼女は玄関から出て行った。慌てて靴を履き追いかけると、雨の降る中を霊夢は走り去って行った。
 このまま、何もしないままで良いのだろうか。胸の内に焦燥が広がり、気がつけば阿求は玄関脇に置いてあった傘をとると、雨の中をかけだした。
 どうしても気になることがあった。
『なぜ今になってお花は現れたのか』
 幽霊として現れるなら、こんなに長く待つ必要はない。死んですぐにでも現れればいい。あるい時間がたつうちに怨念が溜まってきたのだろうか。阿求は首を振る。彼女の知っているお花は、そのようなことな未練を執念深く残すような人では無かった。
 阿求は傘を開きながら橋の様子を思い描く。度々補修が行われているものの、橋の柱は朽ちかけ、足元は傷だらけになっていた。雨が続いたため、橋の下には川の水が音をたてて、激しく流れる。そして雨に打たれ、お花の幽霊が現れる。雨の中で彼女は言う。立ち去れ、立ち去れと。激しい雨で辺りの色彩は消え去り、山水画のように橋の形と、お花の姿が淡が淡く浮かぶ。
 阿求は顔を上げた。なんとなくお花が現れた理由がわかった気がした。
「もし私の考えが正しければ……」
 傘には雨粒が激しく叩きつけられる。それでも阿求は駆け足で、前へ前へと進んでいく。霊夢の消えた先を見つめて、阿求は言った。
「お花は悪霊じゃない」


 やはり彼女は悪霊だ。霊夢は札を構えて目の前の霊と対峙した。白装束を着た幽霊の目は虚ろだが、百年もの年月を成仏せずに残った霊体には、確かな力を感じる。
 力があるということは、それだけ悪いものを引き寄せる。放っておけばその力はより強くなり、人に危害を与えるだろう。そして力があるということは
「……強い未練があるということ」
 彼女が何を思って現世に留まっているのかは知ったことではないが、博麗の巫女としては放っておくわけにはいかない。
 霊夢は橋の真ん中で霊夢と幽霊は向かい合っている。幽霊はうわ言のように、立ち去れ、立ち去れと呟いている。霊夢はふと疑問に思った。ここには何か、近づかれるとまずいものがあるのだろうか。
 霊夢は顔を上げた。まずいものがあったとしても無かったとしても、やることは変わらない。とっとと幽霊を冥界に叩き返す。それだけだった。
 先ほどと同じように霊夢は幽霊に札を投げつける。しかし幽霊はそれを避け、姿を消した。霊夢は苦笑いを浮かべた。
 さすがに二度も同じ手には食わないわけね。
 霊夢は辺りを振り返る。吹き付ける雨と流れる川の轟音に気を取られ、いまいち幽霊の位置がつかめなかった。
「だったらこちらにも考えがあるわ」
 霊夢は橋の欄干から飛び降りると、川の上で浮いた。激しく波打つ川の、水しぶきが足にかかって顔をしかめるが、目は柱を凝視していた。
 阿求の言葉によると、彼女の友人は橋の柱にくくりつけられていた。そうであるなら、わざわざ幽霊を追い回さなくても、柱を浄化してしまえばいい。霊夢は橋中央の一本に目星をつけた。その柱だけどことなく、普通でない気配があった。懐から札を取り出し、霊夢は柱に投げつけようとした。そのとき霊夢の目の端に何かが映った。
「あの馬鹿!」
 阿求が橋に駆け寄っていた。慌てて霊夢は橋のたもとに戻り、阿求の前に降りる。
「来るなって言ったでしょう。何をやっているの!」
「霊夢さん。お花は多分、悪霊ではありません」
「何を……」
 言いかけた霊夢は、気配を感じ背後を振り返った。そこにはあの幽霊が立っていた。白くゆらめきながらも、霊夢と阿求に虚ろな眼光を向けていた。
「……立ち去れ。立ち去れ」
「お花……」
 震える阿求の声を聞きつつ、霊夢は札を構えた。しかし投げようとした手は、背後から止められる。振り返ると阿求が霊夢の手を掴んでいた。
「待って下さい。霊夢さん、ここから離れて下さい!」
「だからアンタは何しているの!? 邪魔しないで!」
「あの橋はもう危険なんです。霊夢さ……」
「うるさい!」
 霊夢は何か言いかけた阿求を振りほどくと、幽霊に向かい飛びかかった。幽霊の目の前に降り立つと、間髪入れずに札を持った右腕を振りかぶった。幽霊は身じろぎもせず霊夢へと顔を向けていた。何一つ表情を感じられない、能面のような顔に向けて、札を振り下ろそうとしたそのとき、霊夢は足元に重々しい音がしたのに気づいた。怪訝に思い霊夢は立ち止まった。
「……阿弥」
 幽霊は霊夢を見ていなかった。彼女の背後にいた阿求の姿を見つめていた。無表情、そう思っていた彼女の目に、光るものがあった。
「お花!」
 阿求の声に振り返ると阿求が橋を渡り、霊夢たちのもとに歩み寄っていた。霊夢は目を見開く。
 早く倒さなければ、不用意に阿求が幽霊に近づいてしまう。改めて幽霊に向かい合った霊夢は札を持つ手に力を込めた。しかしその札は、放たれることはなかった。
「立ち去れ!」
 幽霊の大声が聞こえたと思うと、地面が揺れた。姿勢を崩し、倒れかけた霊夢は、地面が沈んでいくのを感じた。橋が傾こうとしていた。考える前に霊夢は後ろに飛んでいた。
「阿求!」
 叫びながら近づいてきた阿求を抱え込み、橋のたもとに逃げる。どうにかたどり着いた時、背後から激しい音が聞こえた。振り返ると水しぶきを上げて、橋は川の濁流の中に消えていった。
「阿求、大丈夫?」
「……お花が」
 振り返ると霊夢は、先ほどまで橋があった場所に立つ、一人の女を見た。桜のかんざしをつけたその女は、微かに笑うと、降りしきる雨の中に消えていった。


 人間の里への道を、二つの傘が並んで歩く。
 地面はぬかるみ、脇の木々からは雨に打たれて葉っぱが垂れ下がっている。稗田阿求は濡れた髪を払いつつ、霊夢に顔を向けた。
「お花が現れたと知った時から、私にはずっと分かりませんでした。なぜ今頃になってお花が現れたのか」
 雨粒が傘をたたき、小気味よい音をたてる。雨音の中で阿求は話を続ける。
「だけどお花が言っていたことを思い返して、ようやく理由が分かりました」
「『立ち去れ』と言っていたこと?」
「ええ。お花は橋に人を近づけたくなかった。なぜなら、いつ橋が崩れてもおかしくなかったから」
 霊夢は立ち止まった。それに合わせて阿求も立ち止まる。額に雫を滴らせている霊夢の顔を、阿求は見上げた。
「あの橋は出来てから百年近くたっています。何度か補修も行われましたが、柱は痛み、ぼろぼろになっていました。そこにここ数日の雨です」
「雨……」
「川の水がすっかり増え、橋に押しかけてきました。思い出してみて下さい霊夢さん。お花が現れたのは雨が降ってからです。彼女は川の増水で、橋が壊れかねないと知っていたのです。だからこそ今、現れた」
 阿求はお花の様子を思い起こす。お花は警告はするものの決して危害を与えようとはしなかった。それに生前のお花を思えば、彼女が恨みに囚われるようなことは想像ができなかった。
 霊夢は顔を下げた。そして何か考え込むように、顎に手を当てた。
「本当にそれだけかしら?」
「え?」
「私にはね、阿求。あの子が今になって現れたのは、他にも理由があると思うの」
 霊夢は顔を上げた。その目は阿求の目の中をじっと見つめている。
「きっと阿求がいたからよ」
「……どういうこと、ですか?」
「阿求の話をきいて、そのお花って人のやることがチグハグに思ったの。あんたに死ぬなって言っていおいて、その後で自分から生贄になるなんてね」
「あ……」
 阿求は思わず口を大きく開き、霊夢を仰ぎ見た。まったく考えもしていなかったことだった。目の前の霊夢の表情は張り詰めていた。
「お花って子は、きっとあなたが思っている以上にあなたのことを好きだったと思う。だからあなたが死んでほしくなかった。でも阿求の運命が変わらないと悟ったとき、彼女は死ぬことを選んだ。たぶん、あなたとまた会うために」
「私と会うため?」
「百年後にあなたと会うためよ」
 阿求は押し黙った。彼女の口から漏れた吐息が雨の中に解けていった。霊夢は言った。
「稗田はだいたい百年ごとに転生する。けれど生身であれば百年後に生きている保証がない。だから彼女は幽霊になることを選んだ。でもただの幽霊では、死神に連れ去られ成仏してしまう。だからこそ彼女は生贄になったんじゃないかしら」
「……生贄」
「生贄に慣れば伝承として後世に残る。例え何の能力を持っていない人間でも、伝承に寄り添えば大きな力を持った幽霊になる。百年でも二百年でも、その場所に留まることができる」
 阿求は傘を強く強く握りしめた。今になってお花の浮かべた笑顔が、痛ましく思えた。そんな阿求を見下ろす霊夢の顔は、どこか優しかった。
「橋は流されたけど、きっとお花はまだ橋にいる。そしてあなたを待っている。いつまでも」
 霊夢は阿求に背を向けた。そして足を踏み出した。
「あとはあんたが考えなさい。あの子をあそこに縛り付けるのが、本当に良いことなのか」
 歩き出した霊夢に、阿求は一歩遅れてついていく。空は黒く、雨は当分止みそうにない。
 阿求は振り返った。
 道の先にある橋は、生い茂る木々と雨がカーテンになって見ることが出来ない。それでも阿求はお花のいるだろう場所を、じっと見つめた。
 雨が止んだら橋に行こうと思った。
 どうしたら良いのか、答えはまだ出ていない。けれどもう一度、お花に会いに行こう。彼女には随分と待たせてしまったのだから。
小泉八雲のある短編を下敷きにした話です。

阿求は転生する度に、昔の知り合い(ただし今は幽霊)と出会って気まずくなってそう。
maro
http://twitter.com/warabibox
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コメント



0.50簡易評価
2.30名前が無い程度の能力削除
所々で人名ごっちゃになってませんか?
あと内容に懸けたのと同程度に文章にも力いれたほうがいいですよ。
3.100南条削除
面白かったです
特に最序盤の老人の独白部分で話に引き込まれました
4.80名前が無い程度の能力削除
これ骨組みはすごく良いと思います。
ただ展開がちょっと早すぎると言いますか、キャラの思考の過程が端折られているので、その点がすごくもったいないな、と思いました。もう少しじっくり描けばもっと良くなったはず……!
5.90大根屋削除
好きなお話でしたね。阿求の友人を想う気持ちが伝わりました。
6.80奇声を発する程度の能力削除
面白く良かったです