「霊夢さん、私をペットにしてくださいっ!」
こんな台詞を聞かされて、冗談だと思わない人間が果たしてこの世にどれだけ存在するのか。
仮にそんな人間が存在するのだとしたら、よほどの変態か、あるいは周囲が変態だらけで常識が捻じ曲げられた哀れな人間かのどちらかだと思う。
もちろん私は常識人なので、冗談として受け取った。
仮に彼女が土下座しながら頼み込んできたとしても、その手には力強く首輪が握られていたとしても、冗談は冗談でしかない。
冗談であって欲しいと願う。
……冗談、なのよね?
「あんたにしては珍しく――」
「私は本気です」
食い気味に言ってくるあたりに本気度を感じる。
うん、うん、薄々は感づいてたけどさ。
真面目な椛が、一歩間違えると下ネタになってしまうような冗談を言うはずがないってことぐらい、一緒に暮らしている私が知らない訳がない。
なんで私が彼女と一緒に暮らしているかって言うと……まあ、その辺は色々あって。
足に怪我を負った椛を助けたのが二ヶ月前。
その後、彼女は治療のために二週間ほど永遠亭でお世話になって、そしてなぜかうちで引き取ることになった。
なぜかっていうか、私が引き取るって言い出したんだけども。
でもさ、確かに提案したのは私だけど、まさか頷くとは思いもしないじゃない?
言ってしまった以上は無かったことにするわけにもいかず、完治するまでって条件付きでこうして居候させることになってしまった。
哨戒部隊の仕事に復帰できる程度に怪我が治るまでは、もうしばらく面倒を見るつもりではある。
そんな私の行為に対して恩義を感じてくれているのは素直に嬉しいし、恩返しのために家事全般をこなしてくれてるのもかなり助かってる……けども。
ただ、ペットにするってのは、さすがに、ねえ?
「私にそんな趣味は無いっての。
ほら、さっさと自分の席に戻って、落ち着いてお茶でも飲んだらどう?」
頼み事をするだけなら、机を挟んで対面した状態でも良いはず。
なのにわざわざ私の横まで移動してきた時点でいやーな予感はしてたんだけど、まさかこんなことを言い出すとは。
緑茶の苦味が彼女に正気を取り戻させてくれるといいんだけど。
「むぅ」
椛はしぶしぶ、と言った様子で私の向かいにある自分の定位置まで、座ったまま、足を引きずりながら戻っていった。
そして私の指示通りにお茶を啜る。
不満はあるけど、私の言葉を無視するわけにはいかない、そんな心理状況。
ほんと律儀な性格してるわよね、おかげで制御しやすいんだけどさ。
「私は落ち着いてるんですよ、考えに考え抜いた結果なんです」
「なら考えに考えに考え抜きなさい」
「一緒じゃないですか」
「一回分足りてないのよ、ペットになりたいだなんて血迷ったとしか思えないわ」
「ダメですか……」
「だーめ」
耳を垂らしながら落ち込む椛。
相手が椛じゃなかったら、二言目には怒鳴りつけてる所だった。
いや待った、なんでこの子相手だからって甘くしなきゃなんないのよ。
手負いとは言え、相手は妖怪だってのに。
”完治するまで”って曖昧な基準を決めた私が悪いんだけど、本当ならもう一人で生活するには十分なぐらい治ってるはずなのよね。
なのに、追い出そうともしないなんて。
一応、私の立てた予定では、椛が自分から神社を出てってくれるはず、ってことになってたんだけど。
だって、野良妖怪と違って椛には天狗の里って言う居場所があって、そこには自分の家だってあるだろうから、ちょっと旅行に行っただけでも、自分の家って恋しくなるものじゃない?
まさかここまで懐かれるとは思ってなかったし、追い出す手段を考えてなかった私が悪いと言えばそれまでなんだけど。
「霊夢さんは、私のことがお嫌いですか?」
椛は目を潤ませながら私を見つめている。
そ、そんな顔されたって、私は絆されないんだからね、博麗の巫女舐めんじゃないわよこのやろー!
……と、まあこんなことを考えてる時点で絆されてるって白状してるようなものよね。
「どうしてそういう話に持っていくかなあ。
嫌いなやつを助けたり預かったりするわけないでしょ」
「霊夢さん……!」
正直な話をすると、彼女を助けた時点では好きでも嫌いでも無かったんだけど。
お見舞いに行ったり、一緒に暮らすようになって、彼女のことを知ってしまって――あんなに良い子っぷりを見せつけられたら、嫌いになんてなれるわけがないじゃない。
「だったらぜひペットに!」
「しつこいっての!」
その後、強引に首輪をつけようとする椛をどうにかこうにか説得して、諦めさせることに成功した。
今回だけ終わってくれればいいんだけど。
今後また同じやり取りを繰り返すんだとしたら、私の心が少しでも揺れやしないかと心配だ。
私だって、自分の心配してる時点でかなりやばいってことはわかってるのよ?
そして翌朝。
ペット騒動の翌日なだけに、朝から妙なことを言い出すんじゃないかと警戒してたんだけど――
「霊夢さん、起きてください。
朝ごはんできましたよ」
私を起こしてくれたのは、いつもの朝と変わらない、実に良い子ちゃんな椛だった。
ここ最近の私の朝は、椛に起こされることで始まる。
柔らかで丸っこい、目覚ましとして最高級の優しい声に導かれ、夢の世界から現実へと引き上げられる私。
椛に起こされるようになってから、寝覚めが非常に良好なのは喜ぶべきなのか嘆くべきなのか。
世界に二つと無い、この高性能目覚ましを手放せなくなりそうでちょっと怖い。
その上、料理も上手だし、その他家事全般もそつなくこなすし、何より一生懸命で、妖怪のくせに私よりよっぽど生活能力が高いというハイスペックぷり。
このままずっとうちで暮らしてくれるならペットでも……と一瞬でも考えてしまうのは、私が変態だからじゃないと思いたい。
椛の性能が高すぎるのが悪いのよ。
「おはようございます」
目を開けると、エプロン姿の椛が笑顔でお迎えしてくれた。
その刹那、確信する。
ああ、この子絶対にいいお嫁さんになるわ――と。
朝食の準備から目覚まし係まで、面倒な家事を全部押し付けてるってのに、どうしてそんなに笑えるのか私にはわからない。
わからないんだけど、笑いかけられて嫌な気分ではなかった。
『霊夢さんの役に立てるのが嬉しいんですよ』
そう椛は言っていたけれど、尽くされるほどのことをやったつもりなんて無いのに。
誰だって、椛の置かれた状況と、助ける手段さえあればそうしたと思う。
特別なんかじゃない。
憧れられるようなものでもない。
尽くされるべき英雄なんてどこにもいない。
椛が幸せならそれでいいのかもしれないけど、さすがに任せすぎて申し訳ない気分になってしまう。
かと言って、仕事を奪うと逆に悲しい顔をされるのよねえ。
うーん……どうしたものか。
まあいいや、小難しいことは朝に考えるべきじゃない、また別の機会にしよう。
とりあえず、目を覚ましたんなら、まずはやるべきことをやっておかないとね。
「おはよ、椛」
負けじと私も笑顔でそう言うと、椛の表情はさらに輝いた。
起き上がった私は、横目で鏡を見てさっと寝癖を直し、先に部屋を出た椛を追って居間へと向かう。
机の上にはすでに朝食が準備されていて、炊きたてのご飯と焼き魚の香ばしさが、寝起きの胃袋を一気に覚醒させた。
最初に朝食作りを任せた時は、気合を入れすぎてとんでもない量を朝から食べさせられたもんだけど、今では量を抑えて質を取るスタイルに変わっている。
ゆっくり眠れる上に、こんなに美味しい朝食にもありつけるってんだから、椛さまさまよね。
毎朝二人分の朝食を作るのは大変なはずなのに、よく自分からやるって言い出せるわよね。
任せっきりで申し訳ない気持ちはどうやったって消えやしないんだけど、どうせ私がやるって言ったって譲ってくれないんだし、神社にいる間ぐらいは任せることにしよう。
それに、『霊夢さんが美味しそうに食べてくれるのを見るのが、私の幸せなんです』なーんて言われちゃったら、もう何も言えなくなるに決まってるじゃない。
今日だってほら、私が食卓のついただけであんなに嬉しそうに笑ってる。
椛が笑うと、私の気分も高揚する。
――いつかは強引にでも天狗の里に帰さなきゃならないことぐらい、私にだってわかってる。
でも、こんなに日常が楽しいと思えることなんて久しく無かったから。
ご飯の時ぐらいは、暗い未来のことなんて考えたくはない。
朝食と身支度を済ませた私は、椛に見送られて人里へと向かった。
私の外出中に来客の可能性もあるんだけど、椛が神社に居るという情報はすっかり幻想郷中に広まっているので、トラブルの心配は必要ない。
幸いなことに天狗の新聞を介した情報でもないから、変に話が曲解されてる心配も無いし。
気がかりなのは、私が出ていく時にいっつも寂しそうな顔をしてることだけど……さすがに、人里を連れ回すわけにはいかないしねえ。
椛が私の指示に背くことは無いから、勝手に出ていく心配をする必要はないんだろうけど、ずっと神社に閉じ込めておくのも良策とは思えない。
ただ困ったことに、やんごとなき理由で”椛は危険な妖怪だ”って話が人里に広まっちゃってるのよね。
どうしよう、適当な理由でも付けて”今は力を封印しているので安全”って設定にでもしておこうかしら。
「よっ、霊夢」
人里での用事を終え、とある建物から出てきた私の背後から、飽きるほど聞き慣れた声が聞こえてきた。
「あら魔理沙じゃない、たまたま……ってわけでもなさそうね」
「神社に寄ったら椛が里に行ったって教えてくれたんでな。
里での用事と言えば米問屋の屋敷だろうと思って、近くで待ってたんだよ」
私の行動は魔理沙に筒抜けだったらしい。
付き合い長いし、これだけ毎日通ってればそりゃ気付かれるわよね。
魔理沙の言う通り、私は最近になってとある依頼を受け、米問屋の屋敷に通うようになった。
人里でも指折りの巨大な屋敷で、博麗神社の敷地をそのまま二階建てにしたんじゃないかってぐらいの大きさを誇っている。
……いや、さすがにそれは言いすぎかな。
でも具体的な大きさなんて知らないし……まあ、とにかく大きいってことで。
しかも、地下室まで作ってるなんて噂もあるらしい。
屋敷の主人は独身だって話だし、この巨大な屋敷に一人暮らしなんて寂しくないのかしら。
一応はお手伝いさんを雇ってるって話だけど、所詮は仕事で来てるだけだろうしねえ。
さて、なぜ私がそんな金持ちの屋敷に通っているかと言うと――”解呪”のためだったりする。
商売が安泰でも、どんなに強い用心棒を雇っても、人間というのは常に不安に追われ続ける生き物。
現実が満たされている者ほど、その不安はオカルト方面に向きやすい。
米問屋の主も例外ではなく、あるかもわからない”呪い”恐れて、私にお祓いを頼んでるってわけ。
「詳しい事情までは知らないが、あんな奴からの依頼を受けるとはね、尊敬するよ」
「皮肉じゃないでしょうね?」
「違う違う、純粋にそう思ってるから言ったんだ。
米問屋の主人と言えば、金に物を言わせて好き放題やってるって噂のろくでなしだろう?
人身売買の噂が流れたのだって一度や二度じゃない、私なら依頼が来ても突っぱねるね」
「私も乗り気ってわけじゃないし、リスクは承知しているわ。
でもリスクに見合うだけの報酬があるんだから良いじゃない。
今の私は二人分の食費を稼がないといけないんだから、仕事を選んでる余裕なんて無いのよ」
椛を預かるにあたって、最大の問題は二人分の食費をどう贖うか、だった。
幸い、椛はかかるお金以上の働きをしてくれてるし、椛が家事をしている間に私が里で稼げばどうにかなってはいるんだけど、理由の大半は米問屋からの依頼のおかげだったりする。
”おかげ”って言い方をするのは癪だけどね。
「家を守る椛に、稼ぎに出る霊夢……なんか夫婦みたいだな」
「冗談にしても笑えないわね」
「冗談では無いからな、笑ってくれていいぞ。
あー、そうそう、そんな感じが良い」
「笑ってない、呆れて引きつってんのよ」
冗談だったとしても、揶揄されるほどに懐かれてしまったこと、そして心を許したことは事実なのだから、ますます笑えない。
しかしそんな私を見て、魔理沙は脳天気にけらけらと笑っている。
魔理沙に限った話じゃない、椛の件で私が困った顔をすると、なぜかどいつもこいつも楽しそうに私を見て笑いやがるんだから。
「性格悪いわね」
「笑うなって方が無茶な話だぜ。
”あの”霊夢が妖怪と仲が良くなりすぎて困ってるなんて、こんな美味しいネタは他に無いからな」
「仲良くなってないっての! あの子が一方的に懐いてきてるだけで……」
「でも、養ってるんだろ?」
「傷が癒えるまでよ」
「十分すぎるだろ、今までの霊夢だったら怪我した妖怪と出会っても見捨てたと思うけどな」
「それは――」
魔理沙の言う通り、今回ばかりは少し特殊な状況だった。
見捨てろ、深追いするな――
あの時の私もそう考えていたはずなのに、ただ逃げられない状況に追い詰められてしまっただけで。
正義感なんて大したものじゃない。
同じ状況なら誰だってそうした……はず、だから。
「いいじゃない、理由なんて別にどうでも。
助けたくなる時だってあるわよ、顔見知りならなおさらにね」
「気まぐれ、ってことか?」
「そういうことにしといて」
他人に理由を話すつもりはない。
例えそれが、信頼できる魔理沙だったとしても。
「ま、お前が椛に肩入れする理由もわからないでもないんだけどな。
人懐っこい上に正直者で素直と来たもんだ、加えて働き者だ。
霊夢に足りてない要素が一通り揃ってる、あいつを嫌いになれる人間なんて滅多に居ないんじゃないか」
「一言多いけどフォローありがと、そう言ってもらえると少しだけ気が楽になるわ」
博麗の巫女が簡単に妖怪に絆された、なんて話が広まったら商売上がったりだもんね。
絆された事実は変わらなくても、”簡単じゃなかった”という点は強調しておきたい。
「しかし、いくらなんでも良い子すぎる、なんか一つぐらい欠点はないのか?」
「欠点ねぇ」
突然ペットになりたいと言い出す……ってのは魔理沙に教えると色々と面倒になりそうだし却下。
家事を張り切りすぎるとか、甘えんぼな所とか、あえて言おうと思えばいくつか思い浮かびはするんだけど、どれを言ったって受け取り方によっては長所になるわけで、欠点って言うには弱すぎる。
他に、欠点らしい欠点と言えば――
「あ、そうだ」
「何か思い浮かんだのか?」
「お風呂が長いわ」
「唯一思い浮かぶ欠点がそれなのかよ!」
むしろ椛のすごさを際立たせる結果になってしまった気がしないでもない。
しかも、綺麗好きなのは一概に欠点ってわけでもないしね。
やっぱり、私が知る限り椛に欠点なんか無いんじゃないだろうか。
「つまんねーなあ、もっと人には言えないような欠点とか色々あったら楽しめるんだが」
あったとしても、絶対にあんたには教えないけどね。
節度は守ってくれるでしょうけど、椛の状態だって万全とは言えないわけだし、うちにいる間は出来る限り守ってあげたい。
特に魔理沙みたいに、人をからかって喜ぶような輩からはね。
「とにかく、椛のことに関しては、近いうちに天狗……そうね、文あたりに相談してみて、結論は出すつもりよ」
「そうだな、最終的にはあいつらが引き取ってくれるのが最善だろうし」
故郷を思う気持ちに人間も妖怪も無い。
帰るべき場所があるというのなら、そこに戻るべきだと、私はそう考えている。
それに、椛だって帰れるんなら帰りたいはずなのよ。
所詮私たちは他人、神社は彼女にとって一時の宿にすぎない。
それに、歪な環境に身を置いていれば、いつか必ず本人にも影響が及ぶ。
博麗の巫女と妖怪。
一時的に交わることはあっても、本当の意味で互いを理解することは出来ない。
いや……してはならない。
だから私たちは、歪んでしまう前に離れなければ。
できればもう少し一緒に暮らしてたいけど、別れを嘆いたって仕方無い。
私たちは、そういう星の下に生まれてきたんだから。
人里での仕事を終え、神社に戻る。
玄関の扉に手をかけようとすると、中から不規則な足音が聞こえてきた。
「恥ずかしいからやめてくれって言ってるのに……」
椛は私が神社に近づいたことを匂いで察知できるらしく、玄関を開けるよりも前に気付いて、私を迎えようとするのだ。
今までは帰っても誰もいないか、魔理沙がだらけてるのが当たり前だったから、迎えてくれること自体はとてもうれしい。
帰ってくるのが楽しみになるっていうか、依頼を受けた時も”早く帰りたいから頑張ろう”って気分になってくるのよね。
でも、私が恥ずかしいって言ってるのはそこではなくて、匂いで私の存在がわかるって部分。
匂いが恥ずかしいってのは人間的な感覚なんでしょうけど、そればっかりは変えようがない。
かと言って、人間に比べて匂いに対して敏感な白狼天狗の感覚を変えられるわけでもないし。
犬は匂いで相手を覚えるらしいけど、白狼天狗は人型なんだし、そんな習性まで受け継ぐ必要無いと思うんだけどね。
だから文に犬っころとか呼ばれるのよ。
「おかえりなさい、霊夢さんっ」
玄関を開けた私を迎えたのは、満面の笑みを浮かべるエプロン姿の椛だった。
そんな彼女の姿を見てるとなぜか顔が熱くなって、直視できなくなってしまい、ついには目をそらしてしまった。
まさか、エプロン姿で迎えられるのがここまで強烈なインパクトだとは。
ああいうの何て言えばいいのかしら、新妻っぽいって言うの?
って、新妻だったらまるっきり夫婦じゃない、こんなんじゃ魔理沙に反論なんて出来ないわ。
「た、ただいま」
椛に怪しまれないよう、出来る限り平静を装って返事をした。
もちろん、視線は外したままで。
明らかに誤魔化しきれてないような気がするけど……まあ、いいでしょう。
椛はそこらへんに野暮な突っ込みを入れる子じゃないし。
「霊夢さん、ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも……あいたっ」
椛の額に、渾身のチョップが炸裂する。
ベタなボケしてんじゃないわよ、まったく誰からそんな芸を仕込まれたんだか。
「わざとやってるでしょ」
「霊夢さんが喜んでくれるって魔理沙さんが教えてくれたので、えへ」
えへじゃないわよ、可愛いから余計にむかつくわ。
「あいつめぇ……」
そういや、私に会いに来る前に椛に会ったとか言ってたっけ。
私の居場所を聞いただけかと思えば、余計な入れ知恵までするとは。
この苛立ちは、そのうち魔理沙本人に思う存分ぶつけることにしよう。
「嫌、でしたか?」
「そういうのは将来の旦那様にでもやってなさい」
「でもでもっ、霊夢さんの顔、見たこと無いぐらい嬉しそうでしたよ?」
「それは錯覚よ、忘れなさい、今すぐに!」
「いたっ、いたいっ、さすがに同じ場所を連打されると弱くても痛いですっ!」
渾身のチョップが追加で十発ほど炸裂する。
良くない、これは良くない傾向だぞ。
誰かが迎えてくれる喜びも、一連のやりとりの楽しさも、それに慣れてきている自分自身も。
当たり前なんかじゃないんだって、自分に言い聞かせておかないと。
これ以上慣れて、馴染んでしまえば、失うのが今以上に怖くなってしまいそうだから。
「ふぅ……こんなことやってたら夕食が冷めちゃうわね。
ほら、準備は済んでるんでしょう? 早いとこ食べるわよ」
「はいっ、実はお腹ぺこぺこだったんで、お風呂って言われたらどうしようかと思ってました」
自分で言っておいて困るんかい。
そんなことを言う椛の頭を無性に撫でたくなったので、ぽふんと手をのせ、わしゃわしゃと動かす。
髪が乱れているにも拘らず、彼女は耳を揺らしながら気持ちよさそうに目を細めた。
釣られて、私の頬も自然と緩んでしまうのであった。
翌日、昨日に続いて人里にやってきた私は、米問屋の屋敷に向かう前に鈴奈庵へと向かった。
私が小鈴ちゃんと面識を持ってから結構経ったけど、最近は経過観察の意味も含めて、最低でも週に一度は鈴奈庵を訪れるようにしている。
ちょうど、今日がその日だった。
あくまで博麗の巫女として彼女を監視するためであって、客として来ているわけじゃないんだけど、もちろん小鈴ちゃんに私の真意を明かすことは出来ない。
「いらっしゃいませ霊夢さんっ、そろそろ来る頃かなーと思ってました」
だから今でも彼女は、私のことを決まった曜日にやってくる常連さんと思ってくれているみたいで、人懐っこい笑顔で私を迎えてくれる。
罪悪感が無いとは言わないけど、これも博麗の巫女としての役目なのだから仕方無い。
しっかし、相変わらず胡散臭い店内ね。
彼女が妖魔本コレクターと知っているからそういう風に見えてしまうのかもしれないけど、どうにもこの店の雰囲気には慣れない。
落ち着かないというか、油断できないというか、巫女としての本能なんだろうか。
私個人としては小鈴ちゃんのことを気に入っているし、早いとこ妖魔本なんて危険な代物への興味が失せてくれると助かるんだけど。
そしたら私も、今度こそ純粋な客として鈴奈庵を訪れることができる、罪悪感に苛まれる必要も無くなるんだから。
「じー……」
監視と言っても、小鈴ちゃんの様子が変じゃないか確認する程度のもので、特別不自然な行動を取るわけじゃない。
場合によっては普通に本を借りていくこともあった。
と言うか、小鈴ちゃんに異常が無いかなんて見た時点でわかるんだし、鈴奈庵に入った時点で用事の九割は済んでいるとも言える。
後は適当に、椛の暇つぶしに使えそうな本でも見繕って帰ろう。
やっぱ料理本とか、家事絡みの本が良いのかな。
それとも剣術の、いや意外と小説なんかも――
「じぃー……」
なんだろう、すごく、視線を感じる。
鈴奈庵にいる客は私だけなわけだから、視線の主は妖怪でも居ない限り小鈴ちゃんしか居ないわけだけど。
「じぃぃー……」
ちらりと小鈴ちゃんの様子を確認する。
うわあ、見てる。すっごい見てる。
口でわざわざ”じー”と言いながら、わざとらしくアピールしている。
いかにも話しかけてほしそうな顔をしながら。
無視する……わけにはいかないんだろうなぁ。
嫌な予感はするけど、私はしぶしぶ、自分から小鈴ちゃんに話しかける。
「小鈴ちゃん、気になることがあるなら言ってくれないと、見られてるだけじゃわからないわよ」
「私の興味なんて一つしかありません、例の妖怪の話です」
だと思った。
まあ、小鈴ちゃんが妖怪に興味を持たないわけが無いわよね。
「椛の?」
「はい、妖怪の名前が椛さんかどうかはわかりませんが、たぶん椛さんです」
「興味あるのね」
「ありますよお、興味しか無いってぐらいあります。
なんでも噂によると、強い呪いの力を持った恐ろしい妖怪らしいじゃないですか」
小鈴ちゃんは前のめりになりながら、興味津々といった様子でそう言った。
椛には申し訳ないんだけど、便宜上『犬走椛という妖怪は、噛み付いた相手に呪いをかける恐ろしい妖怪で、今は博麗の巫女が傍に居ることでどうにか力を抑え込んでいる』と、そういうことにさせてもらっている。
退治しなかったのは、追い詰められた椛が米問屋の主にかけた呪いを発動させて、命を奪うといけないから。
そんな理由で、私はあの男を含む周辺の人々を納得させたってわけ。
おかげで、私は椛が神社に居ることを隠す必要もない。
もちろん椛にはそんな能力なんて無いし、性格だって人畜無害そのもので、下手すれば人間よりも大人しいぐらいなんだけどね。
「呪いは敵対した相手にしか使わない、だから本来は特に危険な妖怪ってわけでもないのよ。
敵対した相手を傷つけるのは、何も妖怪に限った話じゃないでしょう?」
「そうなんですか?
もっと見境なく誰も彼も噛み付いて回る、凶暴な妖怪かと思ってました」
「むしろ人間より穏やかなぐらいよ。
それに、今は私の力で封印しているから、呪いの力は使えないのよ」
「うーん、ちょっとがっかりです」
なぜそこでがっかりする。
こういう発言を聞かされるたびに、監視の必要性を実感してしまう。
自分から危険に首を突っ込んでいくもんだから、危なっかしくて目が離せない。
私や阿求が守ってなかったら、今頃どうなってることやら。
阿求が必要以上に過保護になってしまう気持ちも理解できる。
「でも考えてみれば、霊夢さんが一緒に暮らせるぐらいなんですもんね。
悪い妖怪なはずがありません」
「そうそう、家事全般だって任せてるしね、料理なんて私よりも美味しいぐらいよ」
「意外と家庭的なんですね……」
「妖怪と言っても、人食いだって居れば、人間と同じような食生活を送る妖怪まで色々なのよ」
それに、人間に混じって生きている妖怪だっている。
彼らに関しては、ちょっと不思議な力が使えて、寿命が長いこと以外は人間とそう大差は無い。
むしろ、内面では妖怪よりも化物じみた人間がうようよと居るんだから、そんな人間が妖怪や呪いを恐れるってのも妙な話よね。
椛の怪我だってそう、そもそもの発端は米問屋の主が――
「椛さんもそんな妖怪の一人だったんだとしたら、ちょっと可哀想ですね」
「可哀想?」
そんな言葉が、小鈴ちゃん――いや、人里の人間から出てくるとは思わなかった。
被害者ということになっているあの男が、椛に関する悪い話をさんざん里に流しているはずなのに。
「いつも通りの生活をしていたのに、急に捕まえられて、閉じ込められて、家に帰れなくなって。
そんなの、誰だって怖いに決まってるじゃないですか。
私だって嫌だし、逃げられるなら犯人を殺してでも逃げると思います。
それに、体の傷は癒えても、心の傷は簡単に癒えないでしょうし……」
「……そうねぇ」
「やっぱり、椛さんもそうなんですか?」
「まあ、さすがに無傷とは言えないわね」
一人で生きていけるかと問われれば、答えはイエス。
体を動かす分には、右足の動きが悪い以外には特に問題はなかった。
ただそれだけの傷なら、私だって椛を追い出すことを躊躇ったりはしなかった。
あー……いや、どうなんだろう、足の傷だけでも躊躇ってたかもしれない。
それに加えてもう一つ重大な問題があるもんだから、そりゃ悩みに悩むってもんよ。
その重大な問題って言うのが、小鈴ちゃんの言う通り”心の傷”ってわけ。
椛を引き取ったその日の内に、私は彼女に客間を一室与えた。
ここを自室として使っていい、と。
そして訪れる初日の夜、丑三つ時。
とっくに眠りについていた私は、何者かの気配を感じて目を覚ました。
侵入者かと思ったけど、それにしては足音も殺さず、気配を消そうとする様子すらない。
――ああ、やっぱり。
私の頭に浮かんできた言葉はそれだった。
入院中の彼女の姿を見て、なんとなくこうなる予感はしていたから。
椛はゆっくりとふすまを開き、こちらの様子を伺うように恐る恐る部屋に入ってくる。
枕を抱きしめながら、荒い呼吸を繰り返し、額に汗を浮かべるその姿は、何かに怯えているようにも見えた。
『あの、霊夢さん……起こしてしまって、ごめんなさい。
その、迷惑とは思ったんですが……私、私っ……』
こんなに怯えて、体まで震わせてるくせに、第一にやることが私への謝罪とはね。
こんなにもいじらしい姿を見せられて、放っておける訳がない。
思えば彼女を助けた時もそうだった。
椛の姿や声には、私の心に響く何かが含まれているのかもしれない。
『怪我人が遠慮なんてしないの。
私が甘やかしたくて連れてきたんだから、ここにいる間ぐらいは遠慮はやめなさい』
そう言って椛を抱きしめると、彼女は胸に顔を埋めてわんわんと泣き出した。
自分で甘えろと言っておいて何だけど、こういう時どうしたらいいのか、私にはよくわからない。
とりあえず背中を擦ってやると、椛の体から少しだけ力が抜けた気がした。
そのまま抱きしめ続けると、次第に椛の体の震えや涙は収まっていた。
『夢を、見たんです』
ぼそりと一言、椛はそう呟いた。
トラウマが一ヶ月やそこらで消えるわけがない。
彼女の負った心の傷が、どこかで表面化するとは思っていたけれど、それが夢だったってわけ。
こうなってしまうと、もう椛を一人で寝かすわけにも行かない。
それから私と椛は、同じ部屋で布団を並べて眠るようになった。
最初は毎日のように悪夢にうなされていたけれど、今では三日か四日に一度程度の頻度に減りつつある。
それに、悪夢の程度も徐々にマシになってきているようで、私が手を握ればそれだけで打ち勝てる程度には克服出来ていた。
それでもまだ、少しだけ足りていない。
でもあと少しの辛抱で、近いうちに悪夢だって一人で乗り切れるようになる。
……そう信じたい。
もし椛がうちを出て行くとしたら、悪夢を見なくなって、心の傷が完全に癒えた時、ってことになるんだろうけど。
悪夢の元凶はまだ生きているし、期待通りに事が進むかどうかは微妙な所だけどね。
「霊夢さんにも悩みとかあるんですね」
「え? どうしたのよ急に」
「自覚ないんですか?
そんなに悩ましい顔をしている霊夢さんを見るのは初めてです、これはとんだレアモノですよ」
「レアって……そうかもしれないけど。
そうね、らしくないことしてると、らしくない表情しちゃうもんなのかもしれないわ」
「でも、そういう霊夢さんも悪くないと思いますよ。
なんというか、悩んでるけど、慈愛に満ちてると言いますか」
慈愛ねえ。私が……椛に?
あるわけないって言いたい所だけで、言い切るには証拠が揃いすぎてて。
意識してそういう顔をしてたわけじゃないし、もう無意識のレベルにまで染み込んでるってことなのかな。
それが本当に慈愛なのか、私にはわからないけれど。
んー……いや、やっぱ慈愛と呼べるほど綺麗なものじゃないと思う。
本当に椛のことを想っているなら、彼女が徐々に快方に向かう現状を、心の底から喜ぶべきだろうから。
ペット発言にしてもそうだけど、椛が私を求めてくれるのは、未だ心の傷が癒えていないからに過ぎない。
弱気になった心から漏れ出る逃避。
私はそれを、諌める立場で居るべきだ。
傷が癒えれば、私は必要でなくなる。
椛は、帰るべき場所に帰っていく。
博麗神社は、その時が来るまでの仮宿に過ぎない。
それが最上の結末、満場一致のハッピーエンド……の、はずなんだけど。
私を必要として欲しい、求めて欲しい、出て行かないで欲しい。
そのためなら、怪我も、心の傷も、治らなくたっていい。
そう考えてしまう悪い私が、心の片隅に棲み着いている。
椛のハッピーエンドを嘆く私は、きっと彼女を堕落へと引きずり込む悪魔なんだ。
彼女の気持ちが変わっても、私が博麗の巫女だって事実は変わらないのに。
私が私である限り、どこまで行っても、私たちは交わらない。
私の気の迷いは、椛を不幸にするだけ。
何度だって、私は自分にそう言い聞かせる。
「眉間の皺が深くなってます。
ひょっとして、私の振った話題って触れない方がいいやつでしたか?」
「小鈴ちゃんのせいじゃないわ」
「と言われましても、困らせるのは私としても本意ではありませんから。
そうですね、ここはばっさりと話題を変えちゃいましょう。
えっと……そうだ。あ、でもこの話題は暗いなぁ……」
「あんまり気を使わないでよ」
「わかりました、じゃあ明るい話題じゃないですけど、ちょっと聞きたいことがありまして」
まあ、椛の話題以外だったらなんだっていい。
「霊夢さんは、米屋敷に入ったことがあるんですよね?」
……米屋敷?
ああ、もしかして、里の若い子の間じゃ米問屋の屋敷のことをそういう風に呼んでるのかな。
もちろん私も若いんだけどさ、ほら人里の人間じゃないし。
「あるわよ、最近は依頼を受けてて毎日通ってるわ」
「だったら、地下室の噂とか聞いたことありませんか?」
確かに聞いたことはある。
でも私が知っているのは、たぶん情報元が小鈴ちゃんと同じの、人里に流れている怪しげな噂に過ぎない。
屋敷の使用人たちと会話を交わすことはほとんど無いし、自由に動くことすら許されていないから、調べることも出来ないし。
「生憎だけど、小鈴ちゃんが期待しているような情報は持ってないわ」
「霊夢さんですら知らないとなると、本当に存在してないのかな……」
「小鈴ちゃんってそういう噂が好きそうだもんね」
好奇心は猫をも殺すって言うぐらいだし、できれば自重して欲しいんだけど。
でも、小鈴ちゃんから好奇心を取ったら何が残るのかしら。
「噂が好きとか、そういう話じゃないんです、これに関しては。
ちょうど二年ほど前の話になるんですが、友達が行方不明になってしまって。
行方不明自体はそう珍しい話ではないんですが、私にはどうにも妖怪の仕業とは思えなかったんです」
顔を伏せ、珍しく真面目な顔で小鈴ちゃんはそう語った。
友達と一言で言ってるけど、結構親しい相手だったのかな。
確かに小鈴ちゃんの言う通り、神隠しや人食いのせいで、人間が行方不明になるという事案自体はそう珍しいことじゃない。
増えすぎた人間は減らされる、そういう仕組みになっているから。
「妖怪の仕業じゃないっていう根拠は?」
「確証はありません。
でも当時、里で米問屋のご主人とすれ違った時に、彼女を品定めするような目で見ていたというか。
ねっとりとした視線を向けられて、とにかくすごく嫌な感じだったんで、もしかしたらと思って」
誘拐か、あるいは人身売買か。
どちらにしても、そんな噂話だけで屋敷を勝手に調べるわけにはいかないし、ましてや本人に話を聞けるわけでもない。
でも……いくら妖怪とは言え、人型である椛にあれだけのことをやったあいつが、人間の一人や二人攫ってたって違和感はない。
「でも……もう二年、ですもんね。
仮に誘拐されていたとしても、とっくに……」
――生きては居ないだろう。
私も同感だった。
もし誘拐が事実だったとして、相手が年端もいかない少女であるということは、目的が何なのかは想像に難くない。
少なくとも、まともに人間らしい扱いは受けられないはず。
二年という月日は、平穏であれば矢のごとく過ぎていくけれど、地獄の二年は、あまりに長い。
運良く命を永らえていたとしても、心はもう、原型をトドメてはいないんじゃないかな。
「調べられる機会があれば、それとなく探ってみるわ。
わかったら小鈴ちゃんには真っ先に伝えるから」
「ありがとう、ございます。
私にできることなんてほとんど何も無いのに、一方的に面倒をかけてしまってすいません」
「構いやしないわ。
代わりってわけじゃないけど、一つお願いがあるんだけど」
「何でしょう?」
「ちょっとね、椛に関する話を広めてほしんだけど――」
小鈴ちゃんは接客業という仕事柄、色んな人間と接する機会が多い。
噂を広めてもらおうにはおあつらえ向きの人材だった。
いつまでも椛を神社に引き篭もらせておくわけにはいかないし、そろそろ、ある程度自由に出歩けるように布石を打っておかないとね。
鈴奈庵を後にした私は、米問屋の屋敷へと向かう。
屋敷の近くで怪しげな人影を見かけたけど、それはひとまず後回し。
約束の時間にくれるとまずいので、寄り道はせずに真っ直ぐに屋敷の門へと向かう。
警備の男は私の顔を見ただけで通してくれたけど、相変わらず屋敷の中では使用人による案内付きでの移動だった。
「部屋の場所は覚えたから案内は要らない」と言っても、「主様からの申し付けですので」の一点張り。
ここまで頑なだと、やっぱり何か後ろめたい物があるんじゃないかと勘ぐってしまう。
二階にある主の自室にたどり着くまでの間、私は周囲を細かく観察したがら移動したんだけど、怪しい物は一つも見つからなかった。
ま、そんなわかりやすい場所に配置するわけがないわよね。
でも逆手に取って考えれば、私の通ったルートには隠し部屋は存在してないってことなんじゃないかしら。
もし屋敷を自由に動ける機会があったとしても、おそらくその時間はそう長くはない。
探索する機会が来るかどうかも微妙な所だけど、場所の目星ぐらいは付けておきたい所ね。
案内され部屋に入ると、小太りの男が悪趣味な金装飾の椅子に座っていた。
明らかに和室に合った椅子じゃないんだけど、高価で珍しかったら何でもいいんでしょう。
あえて確認するまでもなく、この男こそが米問屋の主だった。
齢は二十後半といった所かしら。
先代が暴漢に襲われ亡くなってから早五年、放蕩息子と呼ばれていた彼が跡を継ぐことに不安を抱く人は多かったみたいだけど、他の才能はさておき経営の才能はきっちり受け継いでいたらしい。
そのおかげか、米問屋の経営状況は至って良好。
良好すぎて色んな方面に手を広げているらしく、最近では妖怪相手の事業も始めようとしてるって噂すらあるぐらいだ。
さすがにそれは、博麗の巫女として見過ごせないけどね。
でも、いくら経営手腕が優れていても、人格が伴っているとは限らない。
父親の死や、十四で死んだ長男――つまりは兄の死すらも、彼の仕業ではないかと疑われるほどに評判が悪く、人望は皆無と言っても良いほどだった。
それでも寄ってくる女は絶えないらしい。
金目当てなんだろうけど、私には理解できないわ。
部屋に壁には骨董品や絵画、外から流れ着いてきた道具など、統一感のない品々が所狭しと飾られている。
手入れはしっかりとされているのか、それらの表面にはほこり一つ付いていない。
中には妖怪の標本なんてちょっとグロテスクな代物もあって、悪趣味は椅子に限った話じゃないことが一目で分かった。
どうやらこれは、彼にとって自慢のコレクションらしい。
人間は裏切るけど、物は裏切らないってことなのかしら。
壁には、椛の足に傷跡を残した例の銃も大事に飾られていた。
「霊夢さん、ちょうど良かった。
今日はどうも調子が良くなくてね、呪いのせいじゃないかと思うんだが……ああ、とにかく早く解呪してくれないか」
そう言って、彼は袖をまくって右腕を差し出した。
そこには微かにだけど、椛の犬歯によって穿たれた、二つの傷跡が残っていた。
私から見ても何の変哲もない傷跡で、放っておけばそのうち消えてしまいそう。
もちろん呪いの気配などは感じられない。
おそらく私より優れた巫女を連れてきても、強大な力を持つ妖怪でも、そして八意永琳でも、その腕から呪いの気配を感じ取ることは出来ないはず。
それもそのはず、解呪なんてのは、私がでっちあげた嘘なんだから。
最初は椛を屋敷から連れ出すため。
そして今は、二人分の生活費を養うため。
詐欺だってのはわかってるけど、この男が人間の法で裁けないっていうんなら、私たちが代償を払わせるしか無い。
……私が博麗の巫女じゃなかったら、とっくに殺してるのに。
「まったくあの犬畜生め、噛みつくだけでなく呪いまでかけやがって……。
霊夢さんが居なかったら大変なことになっていた所でしたよ」
「良かったですね」
畜生はあんたの方でしょうが。
いっそ解呪を装って呪ってやろうかとも思ったけど、それで人里での信用を無くすのはまずい。
仕留めるなら、私に疑いが向かない状況じゃないと。
今はただただ、この男に不幸が降りかかることを祈りつつ、呪いを解く振りを続けた。
その後も、男は椛への不平不満を漏らし続けた。
一度噛みつかれたのがよほど気に食わなかったのか、あることないこと言いたい放題。
叫び声が気に食わないだとか、触ってやっても反応が無いだとか、体の”具合”が悪いだとか。
どうして私は、こんな男に……くそ、くそ、くそっ、いつまでこんな愛想笑いを続けないといけないのよ……ああ、どうして、どうして――
二人分の食費なんて、その気になれば男に頼らなくてもどうとでもなった。
問題はそこじゃない。
例え嫌われ者だとしても、男は人里において絶大な権力をもっている。
それこそ、妖怪たちから目をつけられるほどに。
何より彼は――”人間”だったから。
私は、博麗の巫女は、人殺しなんかじゃない。
妖怪になりかけた人間を殺すことはあっても、無為に人殺しをする権限までは与えられていない。
でも……殺したい。
博霊の巫女とかどうでもいいから、この場で、この男を殺してしまいたい。
なのに、殺せない。
茶番は続く。
世間話、愛想笑い、社交辞令。
椛への罵詈雑言を聞き流す、憎しみを表面化させることは許されない。
胸の底に溜まり溜まっていく、黒き泥の塊。
それだけじゃない。
同じ空気を吸っているという事実が、現実が、私の体を毒のように冒していくようで。
汚れている。
黒ずんでいく。
だけど、私を取り巻く環境が、彼を害すことを許してくれなかった。
私にできることは、せいぜいせこい手を使って、男から金をむしり取るだけで――
屋敷から出た私は、一直線で神社に戻ることにした。
不審者の件は明日でもいい、明後日でもいい、あれが男に害をなす存在なら放っておけばいい。
今はただ、彼女の声が聞きたくて、温もりが恋しくて、たまらなかった。
「霊夢さんおかえりなさいっ」
玄関を開けた私を、椛の笑顔が迎えてくれる。
「ご飯にしますか、お風呂にしますか、それとも……」
椛は昨日と同じやり取りをあえて繰り返そうとしている。
でもごめん、椛。
今日は期待通りの反応はできそうに無いわ。
「あんたにする」
「私に……って、え、えええええぇっ!?」
慌てふためく椛を、私は無言で抱きしめた。
いくら余裕がないとは言え、椛の体を求めるような発言はどうかと思ったけど……良かった、椛は気にしてないみたい。
いや、気にしてないっていうか、それどころじゃないって感じね。
そういう初心な反応も、私の淀んだ気持ちを浄化してくれる。
「霊夢さんっ、そのっ、さ、誘ったのは確かに私ですけども……急すぎて、心の準備がっ!」
「いいから大人しく抱かれときなさい」
「ひゃ、ひゃいぃっ!」
同意を得られたってことで、いいのかな。
いいや、よく聞こえなかったけどそういうことにしておこう。
椛の胸に顔を埋める。
体温が、柔らかさが、そしてやたら早い心音がなんだか面白くて、私の気持ちは次第に落ち着いていった。
そう、私はあいつを殺しちゃいけない。
人殺しは禁忌だとか、今更そんな綺麗事を振りかざすつもりはない。
でも、あいつを殺せば、真っ先に疑いを向けられるのは椛だ。
その時は私が自分で名乗り出るつもりではあるけど、迷惑をかけてしまうことに変わりはない。
あの男の命に大した価値は無い。
殺したせいで今の生活を失うぐらいなら、歯を食いしばって我慢するべきだ。
「人里で何かあったんですね?」
何も言わずに頷く。
椛は全てを察してくれたのか、それ以上は人里での件について何も聞いてこなかった。
「いつもは私が霊夢さんに甘えてばかりですから、霊夢さんから甘えてくれて実はかなり嬉しかったりするんですよ。
誰かに必要とされるのって、素敵なことなんです。
だから……今日は気が済むまで甘えてくださいね」
椛はいつか私が彼女にそうしたように、私の頭を撫でている。
慣れていないのか、手つきはぎこちなかったけれど――気持ちがこもっていたから、百点満点をあげようと思う。
甘えて、甘えられて。
底なしの沼に落ちていくように、私たちは抜け出せなくなっていく。
いや違うか。
この場合、自分から沼に突っ込んでるって言った方がいいのかな。
追い出すと言っておきながら、自分から抱きついてみたりしてさ。
なんか自分でも、何がやりたいのかわかんなくなってきた。
好きで、一緒にいたくて、それでいいんじゃないかな。
だめなのかな。
だめ……なんだろうな。
それを許してしまったら、今まで”博麗の巫女だから”って無理やり自分を納得させてやってきたこと、全部何だったんだってことになるし。
あーあ、めんどくさいな。
なんで私が巫女で、椛が妖怪だったんだろ。
まあ、じゃなきゃ最初から一緒に暮らすことにはなってなかったんだけどさ。
でも、恨みたくもなるって。
だって椛の腕の中、こんなにあったかいんだもん。
これを手放せとか、神様も酷いこと言ってくれるよね。
昨日は例の不審者を後回しにしてしまったけど、気持ちが落ち着いた今、放置する理由がない。
案の定、今日も屋敷の周囲をうろうろとしてた、尼頭巾を被った怪しげな女性を発見。
尼頭巾自体は、珍しくはあるけど不審ってほどでもないし、具体的にどう怪しいのかって言われるとうまく説明できない。
でも私の勘が告げてるのよ、あいつは普通の人間じゃないって。
早足で歩み寄ると、そいつは露骨に私から距離を取ろうと離れていく。
私が駆け寄ると、あちらも慌てるように速度を上げたけど、もう遅い。
腕を掴み、頭巾越しに耳元で告げる。
「危害を加えるつもりはないわ、ただ聞きたいことがあるだけよ」
私の言葉を聞くと、彼女はそれ以上抵抗しなかった。
「人目の付かない場所に行きましょう」
手を引いて、人気のない場所へと連れ込む。
女性は一切抵抗せず、従順に私についてきた。
初対面の相手にしては大人しすぎる。
なんとなくそんな気はしてたけど、どうも彼女は私の知り合いらしい。
変化……狸かしら。だとすると、マミゾウあたり?
でもあいつが米問屋を調べる理由が見当たらないし、天狗あたりかな。
でも文は、人里に来る時に変装はしても変化なんて使ってなかったはず。
「ここいらでいいでしょ? あんまり屋敷から離れたくないんだ」
女性はそう言うと、頭巾と羽織っていた上着を脱ぎ去る。
ヴェールのように舞う衣服の向こうから姿を表したのは、河童――河城にとりだった。
明らかに縦の縮尺が合ってないんだけど、どういう仕組みなのよそれ。
変化を使ってるんだろうし、身長ぐらい変えられても不思議じゃないのはわかる。
それでも、こうやって目の前で見せられると、我ながらよく見抜けたなと感心してしまう。
変化って便利よねえ、妖怪の特権だとしても羨ましいわ。
私にも使えたら、証拠を残さずにムカつくやつをぶっ飛ばせるのに。
それにしても、米問屋に用事があるってことは椛の関係者の可能性が高いわけだし、なんで彼女の名前が出てこなかったんだか。
にとりはプライベートで遊ぶくらい仲の良い相手だって、椛本人から聞いてたのに。
「なんだ、あんただったのね」
「って、気付いてないのにこんなところに連れ込んだのかい!?」
「怪しい人影を見かけてね、十中八九妖怪だろうって目星はついてたのよ。
結果的に当たってたんだからいいじゃない」
「博麗の巫女の勘恐るべし……。
でもさ、そんなこと言いながら、実は椛絡みの案件だと思ったから強引な手を使ったんじゃないの?」
気付かれてたか、そりゃそうよね。
でもそれはお互い様よ。
「あんたも椛のために、米問屋のこと調べてたんでしょう?」
どうして今更、という疑問は残るけど。
「まあ、椛のためかどうかはさておき、関係ないとは言い切れないかな。
私が調べてるのは、椛の足を傷つけたっていう銃のことさ」
あの男のコレクションとして飾られてる銃のこと?
確かに凶器は重要かもしれないし、銃の見た目からして河童向きの案件かもしれないけど……その前に、もっと椛本人のことを心配しろっての。
椛が入院したてのころ、永遠亭にお藻舞に来て以来、一度だって顔すら見せてないじゃない。
「椛が至近距離で銃を向けられて無抵抗なわけがない、つまり椛が経過する必要が無いと判断する程度には距離があったはずなんだ。
そんな射程距離を持っていて、かつ的確に体に当てられる程の精度を誇る銃が、人里で作られていたのだとしたら――」
「人間と妖怪のパワーバランスが崩れる可能性があるとでも言いたいの?」
「一丁や二丁作れた所で脅威にはならないだろうけどね、念のためってことさ。
人里の技術レベルが急激に上昇して妖怪たちに対抗する力を手に入れてしまったら、博麗の巫女としても困るでしょ?」
別に私は困らないけどね。
幻想郷や、博麗の巫女のシステムを作った連中が困るってだけで。
「心配しなくても、あんなもの里で作れるわけがないわ」
「あ、やっぱり?」
にとりの反応は最初からわかっていたように、あっさりとしたものだった。
「命令されて調査してたんだけどさ、それぐらいわかりきってるよね」
妖怪の山の上層部が本当に現状を危惧しているのなら、もっと大々的な調査が行われるはず。
にとり一人って時点で、連中も大した問題だとは思ってなかったんでしょう。
「むしろ私としては、河童が作った武器が流れてる可能性を考えてたんだけど」
「それはないね。
上の連中の命令ならまだしも、個人でんなことやってたら、バレたら良くて追放、処刑でも妥当なぐらいだもん」
「上の連中ねぇ……」
以前はもっと回りくどい方法で、妖怪たちは人里における勢力争いみたいなことをしていた。
それが最近では、少し直接的な方法を使うようになっている気がする。
こうして、にとりが直接調査に訪れてきたこともそう。
今はまだ”ありえない”と笑えても、そのうち河童が人間に武器を与える、そんな時が来るのかもしれない。
それが幻想郷の掟に許されるかどうかは、別としてね。
「……ま、今回はあんたの言葉を信じておくとして」
疑う理由も無いしね。
この件に関しては、私と彼女は味方同士のはずだから。
「河童の線が消えたとなると、外の世界から流れてきたもので決まりね」
元からそういう漂流物を蒐集するのが趣味だったみたいだし、銃弾も一緒に流れてきたんだとしたら、試し撃ちをしてみたいと思うのが人の性。
まったく、愚かよね。
壁に飾って満足しておけば、妖怪たちから目をつけられることも無かったでしょうに。
「そういう結論になっちゃうよね。
だったら良いんだ、これで一件落着ってことで」
「何が一件落着よ、まだいちばん重要な問題が解決してないわ」
「これ以上に重要な問題って?」
「椛のことよ!」
「あー……そっか、そうだよね」
見舞いに来なかったとしても、事の顛末ぐらいは誰かから聞いているはず。
にとりも、私が椛の名前を出しただけで何の話なのか理解した様子。
つまり彼女にも、大なり小なり罪悪感があるってことでいいのかしら。
「でも私は河童だし、椛は天狗だし、直接関係があるわけじゃ……ってうわ、怖っ、そんな殺気ダダ漏れにして睨むことないじゃんかよぉ!」
にとりの言い分にも一理はある。
本来なら椛の身柄は天狗が引き取るべきであって、河童であるにとりに責任を負わせるのも筋違いと言われれば筋違い。
でも、椛の身柄を預かる優先順位としては、人間である私よりも、同じ妖怪の山の住人であるにとりの方が当然上なはず。
加えて、にとりは椛の友人らしい。
事件以前はただの他人だった私よりも、よっぽど頼りにされていたはず。
別に椛を預かりたくなかったってわけじゃない。
ただ、椛だって人間よりは妖怪の知り合いの方が安心できたんじゃないかと思うのは当然のことじゃないだろうか。
「椛を誰も迎えに来なかった件だよね、そっちの言いたいこともわかるよ?
私だって、最終的に誰も引き取らずに、どうしようもなくなったら匿うつもりでいたんだ。
いや、本当に、嘘なんかじゃないって!」
「ふぅん……」
「椛のことだし、例え帰る場所が無かったとしても、永遠亭の連中に面倒をかけないように素直に出ていくことは目に見えてたからさ。
もちろん、迷惑がかかるってわかってるのに、自分から他人に頼み込んだりもしない」
「その前に私が連れて行ってしまったと」
それは、わかる気がする。
椛がうちの家事を自分から引き受けてくれたのは、迷惑をかけてるって自覚があるからだろうし。
自覚があるからって、私が迷惑だと思ってるかどうかは別なんだけどね。
私としては、椛が居てくれて大助かりなんだけどね。一人で暮らすよりもずっと良い。
「予想外の展開だったよ、まさか博麗の巫女が椛のことを預かるとはね。
せっかく椛用の布団まで買って準備してたってのに。
何なら部屋を見せて証明したっていいよ、新品の布団がさびしそーに置いてあるからさ。
場所取って邪魔なんだよね、いっそ持っていく?」
「いらないわ、足りてるから」
河童の使ってる布団なんてどんな機能が隠されてるかわかったもんじゃないわ。
ま、そこまで言うのならこれも信じてやっていいかな。
でも、気になる点が一つだけ。
「ところで、あんたの言い方だと――天狗の連中が椛の面倒を見ないことを予め知っていたように聞こえるんだけど、気のせいかしら」
「知ってたっていうか、勘づいてただけだよ。
実は、椛が入院してすぐに、文から”椛の様子を気にしてあげて”って言われたんだ。
河童である私にわざわざそんな事を言うのはおかしいし、その後は文たちがお見舞いに来る様子も無かったからピンときたの。
要するにあれは、”椛の事を頼む”っていう遠回しなお願いだったんだろうって。
言っとくけど、詳しい理由は知らないからね?
どうせ偉い天狗が我が身可愛さに馬鹿みたいな命令だしたんだろうけど、
天狗社会って意外と窮屈なんだよ、上からの命令には逆らえないみたいだし」
堅苦しい上下関係、ね。
椛には友人が居なかったわけじゃないし、誰もお見舞いに来ないは不自然だとは思ってたけど、やっぱりそういう理由だったか。
でも、例えどんな理由があったとしても、仲間を見捨てて、こともあろうに人間に押し付けるなんて許されることじゃない。
「ちょっと待ってよ、そんなに睨まれたって私にはどうにもできないからね?」
自分自身が貶された時以上の怒りに、自分でも驚いていた。
誰にだって故郷を恋しく思う気持ちはある。
だから、どれだけ時間がかかっても最終的に椛は天狗の里に帰るべきだし、それ以上の最善は無いと今でも思っている。
けれど私には、天狗たちがそれを認めていないように感じられたから。
「天狗が悪いってことは理解しているわ。
それでも、友達だって言うんなら顔ぐらい見せてくれたっていいじゃない、あんたに当たりたくもなるわよ」
「どんな顔して会ったら良いかわかんなかったんだ。
もしかしたら椛は、天狗の里から見捨てられてるかもしれないんだよ?」
「そんなことっ!」
「だから私を睨んだって仕方ないってば、それにあくまでこれは仮説だから。
怪我している間は役に立たないから自分でどうにかしろって事かもしれないしね。
でも、誰もお見舞いに来なかった事とか、わざわざ文が私に頼んできたこととか、色々考えたら……」
「っ……」
思わず頭を抱える。
もし本当に、椛が見捨てられていたとしたら――あらゆる前提が崩れてしまう。
傷さえ癒えれば、また天狗の里に戻れるものとばかり思っていた。
そう思っていたからこそ、私は椛を預かった。
例えそれが甘い処置だったとしても、帰ることを前提にさえしたら許されると思っていたから。
でも……もし、まだ決まったわけじゃないけど、本当に椛が里に帰れないって言うんなら、行く宛が無いって言うんなら、神社から出てった後に一体どこに行くって言うのよ。
思い返せば、永遠亭から退院したときだってそうだった。
一人でふらっとどこかへ行こうとして。
今になって思えば、あの時も行く宛なんて無かったんじゃないかな。
手負いの白狼天狗が、幻想郷に一人放り出されて、長く生きていけるとは思えない。
つまり、あの時の椛の行動は、自殺に近い行為で。
だったら今の、椛を神社から追い出そうとする私の行為は――
「だ、大丈夫? 急に顔色が悪くなったけど、そんなにショックだったかなぁ」
「椛はそのこと、知ってるの?」
「さすがにそれはわかんないかな、知っての通り最近あんまり会ってないから。
むしろ私よりも霊夢さんの方が知ってるんじゃないの?」
心当たりなんて、そんな物は無い。
トラウマを掘り起こさないように、関連する話題は徹底して避けてきたから。
だから私は天狗の事情なんて知らないし、椛も自分から話すことはなかった。
……どうして、話さなかったんだろう。
これだけ一緒に暮らして、親しくなったのに、一度も聞いたことが無いのは逆に不自然じゃない?
それは本当に偶然だったの? それとも意図的に?
目を背けようとしなければ、疑惑はいくつも浮上してくる。
その中でも特に、強い疑念を抱く言葉が一つあった。
「ペット……」
「ペット? 何だいそれは」
「椛が言ったのよ、その……私のペットにしてくれって。
あまりにぶっ飛んだ提案だったから深く考えなかったけど」
それが帰る場所が無いことを知った上での発言だとしたら、意味合いは大きく変わってくる。
居場所がない椛の、居場所を欲する椛のその言葉は……本当に、馬鹿げてたのかな。
「……重すぎるっての」
意味を理解した所で、簡単に受け入れられる物でもない。
自分の人生でも博麗の巫女って重荷を背負って精一杯なのに、他人の人生なんて背負えるわけがないじゃない。
例えそれがペットだったとしても、命も重みが変わるわけじゃないんだから。
「ペット、か。
白狼天狗ってのは、プライドが高くて自由を愛する種族なんだ。
だからこそ、犬扱いされるのをかなり嫌がる。
弾圧されてきた歴史があるからね、その反動なんだろうさ。
そんな椛が、自分からペットになりたいって言い出すなんて相当のことだよ」
「そこまで追い詰められてたってことよね」
「見捨てられたって話はあくまで推測だから、決まったわけじゃないよ。
でも、意味もなく椛がそんなことを言い出すとは思えないし、気にかけておいた方がいいかもね。
表面上は元気に見えても、椛って一人で色々抱え込んじゃうタイプだからさ」
「そう、なんだ」
さすがに付き合いが長いだけあって、椛のことはよく知っているらしい。
胸がチクリと痛む。
これ、もしかして嫉妬ってやつかな。
まさか河童相手に嫉妬するとは、順調にのめり込んでるわね、私。
「特に霊夢さんの前じゃ本心を明かしたくないと思うかも。
恩人だもん、ただでさえ迷惑かけたくないって思ってるのに、弱音なんて吐けるわけがない」
「迷惑なんて、私はただ助けただけよ」
「それ本気で言ってる? 命と尊厳を救っておいてさ。
さっきは重すぎるって言ってたけどさ、むしろ霊夢さんが自分の行いを軽く見すぎなんじゃないの?」
「特別なことをした意識は無かったのよ」
「それはまずい、早急に認識を改めるべきだ。
霊夢さんは間違いなく椛にとって英雄だよ、プライドを捨てて尽くしていいと思えるほどに椛の心を塗り替えてるわけだからね」
英雄なんて、どこにもいない。
あの日、私は見捨てようと思っていた。
助ける義理なんて無いと、その場を立ち去ろうとしていた。
微かに聞こえた椛の叫び声が怖くて、逃げられなくなっただけで――英雄なんて、そんな綺麗なものじゃない。
「過大評価ね」
「わかんない人だなあ。
霊夢さんが椛を助けた経緯はどうであれ、椛の方はそれを知らないわけだ。
お互いに事情があるとしても、椛がどう考えてるのかを知りたいんだったら、余計な要素は削ぎ落として考えようよ。
大事なのは結果さ。
椛はその時どうなってた? そんな椛に霊夢さんは何を与えてあげたんだい?」
椛は、どうなっていたんだっけ。
思い返す、想像する。
あの日、あの状況になるまで、彼女は何をしていたのか。
椛は――森で米問屋の主に銃撃された。
山に住む妖怪が、麓や人里の近くまで降りてくるのはそう珍しいことじゃない。
正体を隠して取材や物資補給に来てる妖怪だって頻繁に見かけるぐらいだ。
その日、椛が森を訪れたのは、山菜か茸でも採るためだったんだろう。
鼻も利くし千里眼だってある、椛は近くに人間が居ることを察知していただろうし、ひょっとすると武器を持っていることも把握していたかもしれない。
でも、逃げる必要は無いと判断した。この距離で自分を正確に射抜く武器なんて人間が持っているはずないと思っていたから。
しかし、想定外は起きた。
放たれた銃弾は椛の右太ももに命中、肉を抉り、骨を削って停止した。
あまりの激痛に、椛はのたうち回ったはず。
太ももということも考えると、流れていた血は大量だったはずだし、出血によって命を落とさなかったのは不幸中の幸いと言う他ない。
さすが妖怪と言った所だろうか。
けれどその時、椛は意識を保てなかった。
ぐったりと倒れる椛に、男は満足げに近づくと……妖怪を一人でかついで人里に帰れるとは思えないし、お付きの人間にでも命令して、袋詰めにして持ち帰ったんじゃないかな。
銃を持って森に向かったってことは、狩猟でもするつもりだったんでしょうし、獲物を詰めるための袋があったっておかしくはないから。
「銃撃された時点で、死は覚悟してたと思うよ」
なのに、椛は再び意識を取り戻してしまった。
冷たく、硬い、鉄の檻の中で。
「次に意識を取り戻した時、辱めを受けることも想像してたんじゃないかな」
屋敷へと連れてこられた椛は、治療もほとんどされないまま、主の部屋にある檻に入れられた。
檻に関しては実際に見たことがあるから知っている。
中には”餌”を入れるための小さな皿と、厠代わりの容器が置いてあるだけだった。
……もちろん、衣服なんて与えられるわけがない。
与えられる餌を手で掴み食らう様子も、用を足す様子も、男は笑いながら見ていたんだろう。
あの、今でも記憶にこびりついている、この世の悪を一つに集約したかのような不快な笑みで。
にやにやと、歯を食いしばりながら涙を流す椛を、眺めていたんだろう。
「でもさ、どんなに覚悟を決めたと言っても、耐えられるかどうかなんて実際に受けてみないとわからない」
男が望んだのは、ペットでも無ければ、慰めるための道具でもない。
玩具だった。
椛は時折、身動きの取れない状態にして檻から出された。
ベッドに縛り付けられ、想像した通りの辱めも受けただろうし、常軌を逸した責めも受けたことだろう。
救出直後に椛の体に付いていた傷で、何をされたのかはだいたい想像がつく。
そうやって椛は、体も、心も、壊されていった。
「例え我慢できたとしても、痛くないわけじゃない。辛くないわけじゃない。
どうせ誰も助けに来ないんなら、いっそ殺して欲しい。
これ以上プライドを汚されるぐらいなら……って、私だったらそう考えるかな」
米問屋の屋敷に天狗が捕らえられているという噂を聞いた私は、夜になってこっそりと屋敷の様子を見に行った。
その時点では助ける気なんてさらさら無くて、何か厄介事を引き寄せやしないかと心配になって見に来ただけだったのだ。
なのに、私は聞いてしまった。
その声を。
周囲に響くほどの力はなく、微かで、今にも消えそうな力ない声だった。
言葉に意味なんて無い、女性の呻き声が一度聞こえただけで、救いを求める言葉も無かった。
それは例の天狗の声なのだと、すぐに察した。
来なければよかった。
一瞬でもそう嘆いた私は、やっぱり英雄なんかじゃないと思う。
その小さな声が私の耳にまで届いたのは、奇跡だったのか、悲劇だったのか。
どちらにしろ、声は私をその場に縛り付けた。
痛みや苦しみが鮮明に伝わってくるようで、怖くて。
足が金縛りにあったかのように動かなくなる。
正義を騙る偽善心が、逃げてしまいそうな欲求の首を締めて”逃げるな”と私を叱った。
「実際の所、そこまで酷い有様だったかは知らないけどね。
椛を助けに行った時はどんな状況だったの?」
「……地獄、だったわ」
汗、血、男、吐瀉物、排泄物。
部屋に突入した私を迎えたのは、そんな不快を具現化したかのような匂いの塊だった。
充満した熱気と共に逃げ場を求めて外へと溢れ出した嫌悪すべき臭気は、私の体を包み込むように通り過ぎていく。
せり上がる吐き気をどうにか抑えつつ、部屋を観察する。
部屋の傍らにある、椛を捕らえていたと思われる檻。
中は空っぽだ。
そこに居たはずの椛は、ベッドに縛り付けられていた。
もはや暴れる気力も残っていないのか、時折外部から与えられる刺激に反応するだけで、すでに声を上げることすらできなくなっていた。
体の至る所に擦り傷、切り傷、火傷の痕――様々な種類の傷が痛々しく刻まれ、人間であればすでに命を落としているであろう量の血液がベッドを濡らし、そして床へと滴り落ちている。
特に酷い傷は右足にあった。
それは椛が捕獲された際に負った銃創。
まともに治療すらされなかったのか、傷の周囲は赤く腫れ上がり、傷口にはどろりとした白い膿がへばりついているように見える。
……いや、あれは本当に膿なのか。何かが蠢いているように見えたのは気の所為だろうか。
とにかく、椛の状態だけを見ても悪夢のような光景だった。
だが、それだけでは終わらない。
この屋敷の、米問屋の主が部屋には居るのだから。
彼は全裸で、目を充血させながら、実に楽しそうに椛の傷痕を棒のような物で弄っていた。
じきに間接的に触れるだけでは我慢出来なくなったのか、棒を投げ捨て、息を荒げながら直接指で傷口に触れた。
最初は自分で付けた腹部の小さな傷跡に。
次は腕、先程の傷よりかは深い切り傷を、くすぐるように、人差し指の先で撫でる。
そして脚部の銃創へ。
まるで愛する女にそうするように、自分の手が汚れることすら厭わずに、男は”愛撫”を続けた。
湿った音が部屋に響く。
傷口からすくい上げた血液が男の指先に絡み、それを見て男は頬を上気させた。
嫌悪、嫌悪、嫌悪。
地獄を目にした私に、それ以外の感情は無かった。
「見てるだけで狂ってしまいそうな……頭のイカれた光景だった」
忘れられない。
忘れることはない。
価値観が崩壊する音がした。
人間が醜いことは知っていたし、私だって自分が綺麗だとは思わない。
けれど、それを守ることに違和感を覚えたことは無かったから。
その日初めて、私は、人間を守ることを異常だと思ってしまった。
排除すべきは人間で、守るべきは妖怪なのではないかと。
「博麗の巫女がそこまで言うってことは、よっぽどだったんだね。
だったらますます英雄じゃないか、どうやってその状況から椛を救い出したんだい?
今も屋敷でぴんぴんしている所を見ると、犯人をぶん殴ったってわけでもなさそうだし」
男の腕には、何かに噛まれたような形跡があった。
瞬時に気づく、あれは反抗した椛に噛まれた傷跡だ、と。
その状況で”呪い”というキーワードがすぐに浮かんだのは、さすがに自分を褒めるしかない。
「咄嗟に思い浮かんだのよ、椛に呪いをかけられてるから今すぐ離れた方が良いって」
「呪いって……そんなので信じたの?」
「色々と説得力を出すために、口からでまかせを重ねてね」
「それで商売人を騙せるんだから大したもんだよ、実は詐欺師の才能があるんじゃない?」
「あんな心臓に悪い嘘、もう二度と御免よ」
呪いというワードが一度出てくると、それからは次から次へと辻褄合わせの言葉が溢れ出てきた。
男には呪術に関する知識が一切無いことを良いことに、一切根拠のない理論武装を繰り返して、勢いで押し切る。
最後は半ば強引に椛をベッドから解放させ、逃げるように屋敷を立ち去った。
「方法がどうであれ、結果的に霊夢さんは、椛を地獄から連れ出すことに成功したわけだ。
どんなに自分の事を卑下しようにも、ここは否定しようがないよね、だって自分で地獄だって言ったんだもん」
「そりゃそうでしょうけど」
「ってことで、椛にとって霊夢さんは英雄なの、オーケー?」
「お、おーけー」
「不満そうだけど善しとしよう」
「で、それを私に納得させてどうしたいのよ」
「んー、それなんだけどさ」
にとりはいいにくそうに視線を逸らし、顎に手を当てた。
そして「うーん」とうなりながら考え込む。
話すべきかどうか、決めあぐねているのかもしれない。
「言いにくいことなわけ?」
「怒るかもしれない、無責任だって」
「まさかあんた、椛をこのままうちに住ませろとでも言うつもりじゃないでしょうね」
「あれ、なんでわかったんだい?」
私もその可能性を考えたことがあったから、とはさすがに言えない。
言いたいことを当てられてしまった以上、隠す必要もないと判断したにとりは、その理由を語り始めた。
「ほら、白狼天狗の待遇ってあんまり良くないからさ。
誰も助けに来なかったのも、上の連中の思惑とは別に、そのあたりの事情が絡んでると思うんだよね。
だったらいっそ、博麗神社に住んでた方が幸せなんじゃないかと思って」
「椛もそれを望まないでしょうし、私も許可するつもりはないわ」
「二人暮し、上手く行ってるんでしょ? じゃなきゃ椛にそんな感情移入するはずないもん」
「上手く行ってるとか行ってないとか関係ないのよ。
あんまり妖怪に甘くなりたくないの」
「十分甘やかしてると思うけどねえ。
だいたいさ、今まで神社に居候した妖怪だって居たはずだよね、今更じゃないか」
「あれは一時的な物だから住まわせてただけよ、ずっと一緒となると話が変わってくるわ」
どんなに博麗神社が妖怪神社呼ばわりされようとも、私は最終的に人間の味方でないといけない。
そういう役目を与えられて、今までそれを全うしてきた。
演じてきたつもりはない。
私は私のままで、うまく博麗の巫女をこなしてきたつもり、だったんだけど。
「期間限定だから許してただけ。
それにこれ以上椛と一緒に暮らしていると……巫女として駄目になりそうな気がして」
「抽象的だねえ、具体的にはどう駄目になるってのさ」
「……人間が信じられなくなりそう」
人間の味方をしていると、不思議と人間の汚い部分ばかり見るようになる。
それに加えて、今回の件。
とどめを刺された気分だった。
「なるほど、それは確かに巫女としてまずいね、妖怪としては願ったり叶ったりだけど」
「妖怪を信じられると言ったわけじゃないわ。
私も最初はそういう気分になりかけたけど、あんたの話を聞いて確定したわ、信頼すべきは椛だけね。
特に、天狗の連中に対する信頼は急降下してる」
「あっはは、そりゃそうか。
まあ、私もこんなこと頼める立場じゃないし、無理にとは言わないよ。
本来なら私が椛の身柄を引き取るべきだったんだしね。
そうだ、どうしても神社から追い出すのが辛いって言うんだったら、一旦うちに引っ越すってことにしてくれてもいいよ」
「結局は出てってもらうんでしょう?」
「そういう状況になった時、人間である霊夢さんより、妖怪である私の方が事情が理解できる分だけ話しやすいと思う。
もちろん、私だってできればずっと預かっておきたいけどさ、それはさすがに無理だから」
河童と天狗という種族の違いもある。
妖怪たちの関係がどうなってるのか、詳しいことまでは私だって知らない。
同じ山に住む妖怪として、その二つの種族はそう悪くない関係を築いてるみたいだけど、一緒に暮らすとなるとさすがにそう簡単にはいかないわよね。
上手く行ってる方だと思ってる私たちですら、生活習慣の違いとか、たまに驚くことがあるぐらいだし。
それでも、人間と妖怪よりは近い存在であることは間違いない。
にとりに引き渡すのも、選択肢としてはアリなんだろうけど、でも……。
「どうしようも無くなった時の逃げ道はあるってことを覚えておいてくれればいいよ。
椛一人ぐらいだったら、いつでも受け入れる準備はしてるからさ。
悩みに悩んだ挙句、取り返しのつかない事態になったりしたら後味悪いし」
「頭の片隅にとどめておくわ」
私にとって、にとりに椛を預けるという選択肢は、一種の敗北のように思えた。
誰に負けるってわけじゃないし、そのこだわりが私を追い詰めてるのかもしれないけど。
……逃げ道が見つかった分、気持ちは楽になったのかもしれない。
「そもそも、あの男がバカげたことをしなければ、こんなことにはならなかったんだけどさ」
「まったくよ」
にとりの言う通り、天狗たちを恨んだって事件が消えてなくなるわけじゃない。
一番悪いのは、米問屋の主だ。
あいつには何らかの、金以外の部分で責任を負わせてやらなければ私の気が済まない。
椛の件は人の法では裁けないし、天狗が動かない限りは妖怪の道理で裁かれることもない。
つまり、私が動くしか無いってことになるんだけど。
「いっそ本当に呪ってしまおうかしら」
解呪中は男はかなり無防備な状態になるし、あっちは私が何をしているかなんて理解してない。
呪いを解くふりをして呪いをかけることぐらい、造作も無いはず。
「いいねえ。
でも堂々とやってたんじゃ霊夢さんに疑いが向いちゃうよ?
こっそり動く必要があるんなら、光学迷彩ぐらいは特別に貸してあげるよ」
にとりもやけに乗り気だった。
さすがに彼女も、友人を傷つけた犯人に対しては怒っているらしい。
少し、安心したかな。
ま、私もバレたら人里での信用無くしちゃうし、そんなリスクを負ってまで殺そうとは思わないけどね。
にとりだってそれは同じ、勝手に手を出せば妖怪の山における立場が悪くなってしまうかもしれない。
もし本気でやるって言うんなら、一人じゃなくて何人か集めて、計画練らないと。
「……いや、そういうのを人間に押し付けるのはよくないか。
やるなら自分でやらないとね。
さて、私の方もこれから報告やら何やらやることあるから、そろそろ行ってもいいかな?」
「ええ、急に引き止めて悪かったわね」
「良いってことよ、こっちとしても有益な情報を手に入れられたし」
情報、ね。
にとりに与えた情報らしい情報なんて、せいぜい銃が外の世界で作られたものだってことぐらいのはず。
人里で作られた物じゃないってことは、にとり自身も前もって予想してたみたいだし、礼を言われるほどじゃないと思うんだけどね。
「大した情報なんて無かったはずよ?」
「霊夢さんなら、安心して椛を預けていいってわかっただけでも十分な収穫さ。
それに、外の世界から流れてきたものだって確定できたのは、霊夢さんが思ってるより大きな情報なんだよ。
あれは人間にとってはオーバーテクノロジーだからね。
兵器ってものは、殺傷力が大きくなるほど比例して取り扱いに注意が必要になる。
場合によっちゃ、不用意に扱うと暴発して持ち主に危険が及ぶことだってある」
銃と弾がセットで流れてきただけでも珍しいのに、わざわざ説明書までセットで付いているとは思えない。
つまり、米問屋の主は銃の正しい使い方を習得しているわけじゃないってことになる。
「安全装置を外したまま手入れをしてみたり、実は最初から故障してたりとか、暴発の可能性はいくらでも考えられるよね」
「偶然が殺してくれる可能性があるって言いたいのね」
「ただの願望だけどね、可能性が無いよりは希望が持てると思わないかい?」
確かににとりの言う通り、あいつの死を連想すると、少しだけ気持ちが軽くなる気がする。
私でこれなら、椛はどれだけ楽になるだろう。
けど、にとりの言葉には額面通りの意味だけではなく、含みがあるように感じられた。
私はそれを肯定も否定もしない。
私の立場がそれを許さない。
だから、見て見ぬふりを通すことにした。
「あれ、もしかして味付けおかしかったですか?」
私の真正面に座る椛が、心配そうにこちらを見ている。
味付けには何もおかしな所はない、いつも通り、私好みの味付けだった。
この味を椛が好んでいるのかはわからない。
『霊夢さんが美味しく食べてくれることが、私にとっての最高の調味料です』なんて言われたら聞けるはずがなかった。
そんな殺し文句、一体どこで習ってきたんだか。
命と尊厳を救われ、こうして神社に引き取って……椛が私に恩を感じる理由はわかる。
にとりの言う通り、きっと私のやったことは”大したこと”だったんだろう。
それでも、”どうしてここまで”と疑問に思うことはいくつもあった。
「そんなことないわ、今日も美味しいわよ」
「良かった……失敗したかと思いました」
椛の尻尾がぱたぱたと揺れる。
ただでさえ喜ぶとすぐに顔にでるのに、尻尾や耳まで駆使して感情表現するものだから、見るたびに思わずほっこりしてしまう。
せっかく真面目に考え事してたのに、一瞬で悩みが吹き飛んでしまうほどに。
そうやって椛が喜んでくれるのが嬉しいものだから、私もついつい”美味しい”と言ってしまう。
実際、美味しいのは間違いないんだけどさ。
そういう甘さが問題だって自覚してるくせにやめられない私の意思の弱さが恨めしいわ。
「む、また微妙な顔をしてます。
やっぱり味付けがおかしかったんじゃ……」
「違うって言ってるじゃない、少し考え事をしていただけよ」
椛を傷つけない方法なんて一つもない。
だから私は救いたくなかった。
手を差し伸べた時点で、こうなるのは見えていたから。
人間と妖怪は違う、あまりに違いすぎる。
私が百年生きたとしても、それは下手したら椛の人生のうちの数十分の一でしかない。
にとりの危惧していた通り、彼女が天狗の里から追い出されかけているのだとしても、今だったらまだ間に合う可能性だってある。
この二ヶ月にもみたいなちっぽけな時間のために、人生全部を棒に振るような事があっていいわけがない。
何度でも言い聞かせる。
寂しくても、傷ついても、痛くても、私たちは与えられた居場所に戻るべきだって。
だったら、私のやるべきことは決まってるはずなのに。
突き放したら良い。
冷たく、無感情で、目を瞑ってたって構わない。
なのに躊躇うのはきっと、私自身が椛に甘えてるからだ。
心地よいぬくもりに溺れてしまいたいと、そう望んでいるからだ。
そのまま砂糖の海に沈んで、緩やかに、退廃的に破滅していくのも悪くないのかもしれない。
ただし、あくまでそれは私の願望であって、椛を巻き込めるほど利己的にはなれないのだけど。
夕食が終わっても、湯船に浸かっても、テーブルに突っ伏してみても、答えが出ることは無かった。
いや、答えはわかっているのに、私は選ぶことから逃げ続けている。
正しさが何かをしっているのに、どうして過ちに傾こうとするのだろう。
外から吹き込む夜風が私の頭を冷やしても、天秤の角度は変わらない。
たぶん、今の私たちは近すぎるんだと思う。
悪夢が未だ消えていなかったとしても、いつか一人で立ち向かわなければならない日が来る。
いつまでも私が手を握っておくわけにはいかない。
少しずつ、明日からではなく今日から、痛みを受け入れていかないと。
いつか壊れる間違った幸福ではなく、正しく幸福であるための選択をする。
これあくまで一時的な痛みであって、未来との差し引きでプラスになるはずだから。
きっと、恐れることなんて何も無い――
「霊夢さん、霊夢さん」
肩に手が置かれ、体がぐらぐらと揺れる。
どうやらテーブルに突っ伏しているうちに、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
「お布団敷いてありますから、そっちで寝ましょう」
ところで椛は、いつの間にお風呂からあがったんだっけ。
私の最後の記憶は椛がお風呂に入る時だったのに、気づけば布団の準備まで済んでいる。
つまり椛は、お風呂から上がって、居間に来て、寝室まで行って、一人で布団を敷いたということになってしまう。
それなりの音がしていたはずなのに、それでも起きないなんて、自分でも気付かないうちに疲れてしまってたのかな。
「ごめん、寝るつもりなんてなかったんだけど」
「今日はぼーっとしてましたもんね、疲れてたんですよ」
「そうかもしれないわね」
「早く布団に入って、ゆっくり疲れを取らないと」
中途半端に寝てしまったものだから、正直に言うと今はあまり眠くないんだけど、布団で横になればそのうち睡魔がやってくるはず。
椛の言う通り、今日は寝た方がいいのかな。
色々あって、頭が混乱している。
こんな時に考え込んだって、まともな答えなんて出てきそうにない。
私は立ち上がり、寝室へと向かおうと歩き出したんだけど――いつの間にか、椛の両手が後ろからお腹のあたりに回されている。
「うわっと!?」
思わず前につんのめりそうになったけど、テーブルに手をついてなんとか難を逃れることに成功した。
まさか、イタズラのつもりじゃないでしょうね。
「ちょっとぉ、急に抱きついたら危ないでしょ?」
「……ごめんなさい」
声のトーンからして、ふざけてやった雰囲気じゃない。
悪夢を見た時に甘えられることはあっても、こうして何も無い時に急に抱きつかれるなんてこと、今まで無かったんだけどな。
突き放そうと思ってた時にこうことされると、心が揺らぎそうになる。
それはもうぐらぐらと、あっさりと陥落してしまいそうなほどに。
我ながら意思が弱すぎる。
「仕方ない子ねえ。
大丈夫よ、ここに居るのは私だけだから、何も怖がることなんて無いの」
「はい……」
「ま、抱きつくぐらいだったらいつだって構わないけどね、気分が落ち着くまでこうしてなさい」
個人的な感想としては、抱きつかれること自体は嫌いじゃない。
他人と抱き合うことなんて滅多にないから、椛と一緒に生活を初めて気づいたことなんだけどさ。
他人の体温って、思ってた以上に心の支えになるものなのね。
この温もりがあるだけで、今日も明日も頑張ろうって気持ちが湧いてくる。
「……いい匂いがする」
さすがにそれは恥ずかしい。
かといって引き剥がすわけには行かない状況が、私をさらに困惑させた。
「あの、霊夢さん」
「ん―?」
「今日、一緒の布団で寝てもいいですか?」
そう来たか。
じりじりと距離を詰められてるなーとは思ってた。
でもこれじゃあ、ますます別の部屋で寝ようなんて言い出せなくなるじゃない。
断らなきゃ、いつまでも変わらない。
抱きつかせといて何言ってんだと思われるかもしれないけど、そこは譲っちゃいけない所だと思う。
刹那の幸せよりも、もっと長い目で見ていかないと。
今は幸せでも、椛が私に依存してしまえば、いつか不幸になる日がきっと来るはずだから。
私は椛の笑顔が好きで、笑ってもらうためだったら、結構何でも出来てしまう。
帰る場所がないって言うんなら、天狗の里に直談判でもしたらいい、博麗の巫女が来たって言えばあいつらだって無視はできないでしょう。
足が不自由なのが駄目っていうんなら、それでもできる役割を見つけたらいい。
こうして家事はできてるわけだし、絶対に何かしら仕事はあるはず。
それでも上司が文句を付けてきたら、妖怪退治の名目で潰してしまえばいい。
ほら、できることはこんなにある。
例え突き放して、離れ離れになったとしても、何も私たちの繋がりが消えるわけじゃない。
寂しいなら会いに行けばいい、何なら悩みがない分、今よりもいい関係になれたりしてね。
全部、やろうと思えばできるじゃない。
だったら、今から変えていかなきゃ。
「ねえ、椛――」
私が彼女の名前を呼ぶと、嫌な予感でもしたのだろうか、抱きしめる腕にぐっと力がこもった。
そして、額がぐりぐりと背中に押し付けられる。
「一緒に寝てください」
「あのね、椛」
「一緒がいいんです」
「椛……」
「一緒じゃなきゃ、やです」
「うぅ……」
揺らぐ、揺らぐ、ゆらゆらと、ぐらぐらと、天秤ごと倒れてしまいそうなほどに。
決意を嘲笑うかのように、もっともっと甘やかしてしまえと、悪魔が私に囁いてくる。
一方で、天使は遠くから”頑張れ頑張れ”とエールを送っていた。
悪魔の未来には、私たちの笑顔が見えている。
天使の未来には、私たちの涙が見えている。
どちらにしてもすぐ先の未来の出来事でしかない、一年後、二年後の姿なんてわかるわけがない。
私はその先にある未来を、少しでも幸せにできるように……ああ、でもそんな保証なんて無いじゃない。
受け入れたら、今、椛は笑ってくれる。
保証されていない未来の笑顔か、保証されている今の笑顔か。
皮肉にも、堅実なのは悪魔の方だった。
天使の方はギャンブルじみていて、しかも痛みまでついてきて。
何よそれ、悪魔を選べば幸福で、天使を選べば不幸って、それっておかしくない?
本当に、そいつは悪魔なわけ?
羽は白いしふわふわで、顔は椛によく似て可愛くて、おまけに犬耳がピコピコ動いてソーキュート。
浮かべる笑顔は文字通り天使みたいで。
見てくれが天使で、中身も天使だって言うんなら、そいつが天使でいいじゃない。
手を取ってしまえ。
受け入れてしまえ。
そして寝て冷めて冷静になった頃に、死ぬほど後悔してしまえ。
「……今夜、だけだからね」
「はいっ!」
そして私は、悪魔の誘いに乗ることにした。
こういう時、悪魔は選んだあとにすっごい悪い顔をするのが相場だと思ってたんだけど、まだ天使みたいに笑ってる。
今頃、私に抱きついてる椛も、同じように笑ってんのかな。
あーあ、私ってなんてダメなやつなんだろ。
「霊夢さん、大好きです」
そう呟いた椛の声が、私の耳を経由して脳まで届いた瞬間、もやもやとした気持ちは綺麗サッパリ除去された。
悪魔と呼んでいた天使が、これ以上にない笑顔を浮かべる。
ちょろいな私。
いや、でも大好きとか言われたのは初めてだし、仕方ないじゃない。
あの夜に聞いた悲痛な声と、今聞いた柔らかい声が同一人物の物だって言うのよ?
どう、誇らしいでしょう? 私がこうしたの、私のおかげなの、私以外に誰にもできなかった!
だったら、この程度の幸せぐらい掴んでいいじゃない。
明日の朝、自己嫌悪で死にたくなるんだろうな。
でも、今日はいいや。
溺れよう。沈んでしまおう。
先のことは、明日になって考えればいい。
次の日の朝に起きた出来事は、大方予想通りだった。
史上最高に機嫌のいい椛と、史上最低の寝覚めを迎えた私の対比が面白かった、というのが魔理沙の評だ。
ちなみに、私が起きた時点でまりさは居間でくつろいでいた。
「朝っぱらから暇そうで羨ましいわ」と言うと、「今までぐっすり寝てたお前に言われたくないぜ」と帰された。
ぐうの音も出ない。
そして魔理沙はちゃっかりと朝食をごちそうになってから、今はだらしなく、座布団を二枚敷いて寝転がっている。
いくら勝手知ったる他人の家とは言え、もうちょっとしゃきっとしなさいっての。
「こうやってだらーっとしてる時に、洗い物の音とか聞こえてくるのってなーんかいいんだよなぁ。
一人暮らしじゃこうは行かないからな、かといって実家に戻ろうとは思わんが」
帰ってきた時に迎えてくれる人が居ることも、おはようと言う誰かが、おやすみと言える誰かが隣に居ることも、それがどれだけ幸せなのか私は思い知った。
だから、魔理沙の言葉をただただ素直に認めることしか出来ない。
「そうね、椛のおかげで充実した毎日が送れてるわ」
私の言葉を聞いて、魔理沙はがばっと起き上がった。
その顔に悪どい笑みを浮かべて。
「まさに夫婦だな」
「違うっての!」
「そうは言うが、昨日は同じ布団で一緒に寝たって椛から聞いたぜ?」
「それはっ……お願いされたから仕方なくよ、てかなんであの子は魔理沙に話してんのよ」
「自慢したかったんだろうさ、直視できないくらい眩しい笑顔だったよ。
つーかさ、お願いされても断ったらいいだけじゃないのか。
承諾したのは間違いなく霊夢自身の意思なんだろ?
私が”一緒寝たいの、お願い!”って言っても絶対に断るくせに」
「断る前に脳の病気を疑うわ」
椛の場合は可愛いけど、魔理沙が同じことやったって間違いなく気持ち悪いだけだから。
「つまり、夫婦じゃないにしろ特別な存在ってことだろ」
「特別って、具体的にどんな……ってやっぱいいわ、今のナシで」
嫌な予感がするから途中でやめる。
しかしそれを見逃してくれる魔理沙ではなかった。
「そりゃ特別と言えば――」
「言うなっつってんのよ!」
言うなと言われると言いたくなる、魔理沙はそんなやつだった。
それぐらい私も理解してるけど、親友相手でも限界はある。
次に同じやりとりを繰り返そうものなら、問答無用で拳が飛んで来ることを覚悟してもらわないとね。
「だったらさ、好きか嫌いかで言えばどっちだ? それぐらいは答えられるだろ」
「くどいわね」
「別にいいじゃないか、答えはわかりきってるんだから」
「だったら言わせないでよ」
でも言わないと納得しない、という顔をしている。
面倒だけど、この場には椛も居ないし、一度盛大に言ってやれば満足するかな。
はぁ……仕方無い。
「ええそうよ、好きよ、私は椛のことが好きで好きでたまらないわ、大好き、愛してる!
ほら、これで満足なんでしょう?」
私がやけくそ気味にそう叫んだ直後、台所から食器が割れる音が響いた。
考えるよりも早く、自然と体が動いていた。
地面を蹴って台所へと飛び込む。
視界にちらりと写った魔理沙のニヤケ顔が気になったけど、今はどうでもいい。
それより椛は、椛は無事なのっ!?
「大丈夫、怪我はないッ!?」
「は、へ? あ、えっと、だ、大丈夫……です。
椛は、ぜんぜん大丈夫ですから……本当に、大丈夫、なんで」
全く大丈夫そうではないんだけど、どうやら怪我は無いみたい。
食器は床ではなく流し台に落ちたらしく、先程まで魚が盛り付けられていた焼き皿が真っ二つに割れてしまっている。
破片は飛び散っていないので、裸足で歩いても平気そうだ。
と言うか、食器が割れたってのに椛はなんでブンブン尻尾を振り回してんの?
頬は真っ赤に染まってて、両手は熱を冷ますようにその頬に添えられている。
さっきの話し方もかなり不自然だったし……もしかして、照れてる?
「なあ霊夢、こんな話を知ってるか?
いや、普通は知らないはずがないんだが――」
今の方から魔理沙の声が聞こえてくる。
なぜか半笑いで、実に楽しそうな声だった。
魔理沙が楽しそうな時、私はだいたいろくな目に合わない。
猛烈に嫌な予感がしたので急いで耳をふさごうとしたのだが、ふさぐよりも早く次の言葉が聞こえてしまった。
「狼って、耳がいいらしいぞ」
ああ、そりゃあ楽しいでしょうね。
一瞬だけ見えたニヤケ顔の意味、今わかったわ。
「……聞こえてたの?」
椛はコクコクと首を縦に振った。
私……好きとか、大好きとか、愛してるとか言わなかったっけ。
やけくそになって、普段は絶対に言わないような言葉を、三回か、四回ぐらい。
いや、最後の言葉だけじゃない。
魔理沙とのやりとり、あれも、これも全部――台所に居る椛に、聞こえてたってこと?
「だ、大丈夫です、ぜったいに誰にも言いませんからっ!
私の心の中で、留めておきます。
ずっと、ずっとずっと、一生、大事に」
一生大事にされたら余計に困るんだけど……。
やばい、顔熱くなってきた。
こんな顔、椛に見せるわけにはいかない。
とにかく、とにかく逃げなくちゃ。
どこまで行くかはあとで決めるとして、椛に見えない聞こえない嗅がれない知らない遠くの場所まで、大急ぎで!
台所から駆け出た私は、居間でにやつく魔理沙の首根っこを掴み、引きずりながら靴につま先を突っ込んで上空へと飛び立つ。
背後から椛が私を呼ぶ声が聞こえる。
後ろ髪をひかれるけど……振り返ってちゃ逃げた意味がない!
「おい待てっ、落ち着け霊夢、このまま飛ぶのはやばい、やばいからっ……ちょ、うわああぁぁぁぁぁぁっ!?」
魔理沙はジタバタと暴れながら何やら喚いてる様子だけど、そんなのはどうでもいい。
椛の五感が働かないぐらい遠くまで離れて、そこから、そこから……何をするつもりかは自分でもわからんっ!
わかんないけどっ、とにかく離れなきゃなんないの!
あぁもうっ、なんでこんなに顔が熱いのよっ、くそう!
「げほっ……ごふっ……おっ、おいおい、いくら何でもっ……照れ隠しにも限度ってもんがあるだろ!」
「照れてない!」
「まだ言うか……」
「地面に叩きつけられたくなかったら、余計なことは言わないことね」
「おいおい、マジの脅しかよ」
全く怖がってる様子はない。
まったく、誰のせいでこんなことになったと思ってるんだか。
自業自得よ、痛い目でも見て反省しろっての。
「ふぅ、ひとまずここまで来れば大丈夫でしょう」
振り返ると、博麗神社は豆粒のように小さくなっていた。
この距離なら、いくら椛の耳でも会話を聞き取ることはできないはず。
私は魔理沙の体を、投げ捨てるようにして解放した。
「おっとと、もっと丁寧に扱えって。
お気に入りの服だったのに、完全に伸びちまったじゃないか」
私の掴んでいた首の部分がよれよれになってしまっている。
因果応報だから同情はしないからね。
「アリスにでも直してもらえば?」
「そうするよ。
それで、ここまで連れてきて何を話したかったんだ」
「別に、とにかく椛から離れたかったのよ。
まったく余計なことばっかりしてくれてさ、あんたが変なこと言わせなければ服が伸びることだって無かったのよ」
「いちいち面白い霊夢が悪い」
「悪趣味な魔女め」
私の罵倒も魔理沙には届かない。
魔理沙は魔女呼ばわりが嬉しかったのか、”えへへ”と照れくさそうに、こめかみを人差し指で掻いた。
魔法使いの手にかかると、罵倒も褒め言葉に変換されてしまうらしい。なんて厄介な。
「ところでさ、実際の所はどうなんだよ」
「どう、って何が?」
「椛だよ、そのうち追い出すのか、それともこのまま一緒に暮らすつもりなのか」
「帰すべきだって考えは今も変わってないわ、来るべき時が来たらそうするつもり。
魔理沙だって同意してたじゃない」
「それなんだがな、別に一緒に暮らしてもいいんじゃないか?」
前に魔理沙と話したのは、確か二日前だったはず。
たったの二日で考えが百八十度変わるなんて、一体何があったのよ。
「私も最初は戻った方がいいと思ってたんだ。
ただ、文が……」
「薄情者の文がどうしたっていうのよ」
「椛が幸せそうならそのままでいいって言ってたんだ。
天狗である文がそう言うんなら、きっとそれが正しいんじゃないかと思ってな」
そっか、文がそう言ったって言うんなら、想像で語る私達よりも信憑性はあるわね。
そう、文が。
文が――
「……は?」
思わず間の抜けた声が出てしまった。
それほどまでに、脳の処理が追いつかない。
何だって文が、天狗である文がそんなことを言うのよ。
あいつは住み慣れない環境や、寿命の差を考慮しないほど単細胞じゃない。
それを踏まえた上で、それでもなお私と一緒に居た方が良いっていうわけ?
文が本当にそう言ったんなら――神社から椛を送り出す理由が、全く無くなってしまうじゃない。
「私にだって詳しい理由はわからないがな。
けど、少なくとも嘘や冗談って感じではなかったぜ」
あんな推測、できれば当たって欲しくはなかった。
でも、もう認めるしか無い。
にとりの言ってた通り、椛は何らかの理由で天狗の里に帰れない状況にある。
天狗たちが一度も見舞いに来なかったのも、にとりに文が頼んだことも、きっと全部、天狗たちなりの優しさだったに違いない。
下手に希望を与えるぐらいなら、潔く見捨ててしまった方がいい、と。
妖怪の世は弱肉強食、足の動かない白狼天狗が生きていけるほど甘くはない。
あるいは彼女たちにとって椛はすでに死んだ仲間で、次に会う時は墓参りだとでも決めていたのかもしれない。
だと、しても。
だから、なんだってのよ。
椛は生きてる、昨日も今日も、そして明日も笑ってる。
そこに居るだけで世界を明るく照らしてくれるのに、どうしてあんな良い子を切り捨てられるの?
足だってそのうち治るかもしれないじゃない、ちょっとぐらい我慢しなさいよ、支えてやりなさいよ!
我慢できない? 面倒くさい? そんなの理由のうちに入らないっつーの。
それでも、それでも見捨てるって言うんなら、私はもう理解しようとは思わない。
理由もなく天狗全員を、理不尽に暴力的に木っ端微塵に退治してやる。
「実は私も気になることがあってな、あいつの足についてなんだが」
「怪我のこと?」
「ああ。もう退院して一ヶ月以上経つんだよな。
それだけの時間があったのに、妖怪の傷が治らないなんてことあるのか?」
「何が、言いたいのよ」
不思議では、あった。
妖怪は人間よりもはるかに丈夫で、はるかに自然治癒力が高い。
もちろん例外はある。
けど、あったとしても、白狼天狗がその例外に当てはあるわけじゃない。
どうして今でも足を引きずったままなのか。
治る様子がないのか。
そこに関しては、不思議では、あった。
でも――私はずっと、目を背けてきた。
都合の悪い現実が、そこにある気がしたから。
「あの足が、二度と治らないとしたら」
「……」
「傷は骨が見えるほど酷いもんだったらしいな。
塞がったとは言え、今でも跡は残ってるんだろ?」
永琳の施術のおかげで、服の上からわかるほどの凹凸は無くなったものの、さすがに元通りには戻らなかった。
あくまで私が知っているのはそういう外見の経過だけど。
あの時点で部外者だった私が経過報告を聞いても仕方無いと思ったので、永琳から詳しく話を聞いたわけじゃない。
「それだけ酷い傷だったら、後遺症が残ってもおかしくはない」
「でも、だとしたらっ、椛が知ってないとおかしいじゃない!」
私には後遺症のことなんて、何も言ってくれなかった。
神社に誘った時も、怪我が治るまでって条件に快諾してくれたはず。
後遺症のことを知っているのだとしたら、その時点で話してくれなければおかしい。
「だから、おかしいんだよ色々と。
重大な選択を迫られてる割には、霊夢には情報がなさすぎるんだ。
いや、意図的に隠している天狗の連中のせいでもあるんだがな」
「……文がどこにいるかわかる?」
「今か? 今なら……まだ朝早いからな、取材に来てるかも微妙なところだ。
ただ、居るとしたら人里のどこかだと思うぞ、最近は二年前の失踪事件を調べてるって話だからな」
二年前の失踪事件って、確か小鈴ちゃんが話してた、友達が行方不明になったっていうあの事件のこと?
ひょっとすると米問屋絡みの可能性もあるみたいな話だったけど、文まで調べてるとなると、本当に何かしらの関係があるのかも。
「魔理沙、神社に戻って椛に出かけるって伝えておいてもらってもいい?」
「おいおい、そんなに慌てなくても文は逃げないと思うぜ」
「悠長にそんなこと言ってる場合じゃないのよ」
無いのは時間じゃない、心の余裕だ。
今すぐにでも文を探して、全てを問いたださなければ、私の気が済まない。
場所は人里に絞られたとはいえ、決して狭い範囲じゃない。
文を探すのは骨が折れそうだ――と思っていたのに、存外にあっさりと見つかってしまった。
失踪事件という言葉から鈴奈庵を連想したため、その近くから探したのが功を奏したらしい。
場所は鈴奈庵から100メートルほど離れた路地。
そこで彼女は、顎に手を当て考え事をしながら、取材メモをにらめっこをしていた。
二年前の失踪事件、米問屋も絡んでるっていう小鈴ちゃんの予感……無関係ってわけじゃないんでしょうね、やっぱり。
「文、ちょっと時間もらえるかしら」
「おや、霊夢さんではないですか」
背後から話しかけたにも拘らず、文はさほど驚く様子もなく反応した。
魔理沙と話した内容が私に伝わることはわかっていただろうし、近いうちに私が会いに来る事を予測していたのかもしれない。
「椛のことですよね」
内容も把握済み、と。
そこまでわかってんなら、なんで文の方から私に会いに来なかったんだか。
よっぽど都合が悪かったってこと?
その割には、今だってその気になれば逃げられるはずなのに、素振りすら見せないし。
まあいいや、聞けばわかることなんだから。
「最初の確認しておきたいんだけど」
「守秘義務に引っかからないことでしたら何でもどうぞ」
「魔理沙に、椛は私と一緒に居るべきだって話したのは本当?」
魔理沙の言葉を疑ったわけじゃない。
でも、責任放棄とも取れる言葉を人づてに聞かされて、納得できるわけがない。
あまりにも信じがたい言葉だったから、本人に確認を取らずにはいられなかった。
「イエス、事実です」
文はあっけらかんと、悪びれる様子もなくそう言い切る。
少しぐらいは焦ってくれないと、私の神経を逆撫でしているようにしか思えないんだけど。
こいつ、自分が何を言ったのかわかってんのかしら。
「眉間に皺を寄せられましても、私は事実を語ったまでですよ。
霊夢さんに恨まれる覚えは……無いとは言いませんがね。
博麗の巫女を利用したわけですから、それなりのお咎めを受ける覚悟は済ませてます」
「利用って、どういうことよ」
「椛を米屋敷から救い出してくれた霊夢さんなら、そのまま引き取ってくれるのではないかと。
永遠亭に入院してからもマメに様子を見に行ってくれていたようですし、これは期待できるぞってことになったんです」
「ことになった?」
「ええ、仲間内で相談しまして。
そして、私たちの思惑通りに事は進みました」
私は自分の意思で行動したんだし、誘導されたってわけでは無いみたいだけど、あまり気分のいい話じゃないわね。
「私”たち”ってのは、具体的に誰のことなのよ」
「私やはたて、その他数名で構成される、”自称椛の友人たち”というグループですよ」
どこが友人なんだか、だったらあんたたちが最初から助けにいけっての。
私だったら、恥ずかしくて見捨てた相手の友人なんて名乗れないけどね。
自称って付けてるあたり、ひょっとすると自覚はあるのかもね。
「私を頼りにしてたんなら、にとりに椛のことを頼んだ理由は?」
「おや、にとりにも話を聞いていたんですね。
あれは保険ですよ、博麗の巫女の肩書きが邪魔をして椛を救えなくなった場合の。
もっとも、わざわざ言わなくとも、椛が本当に困ったら手を差し伸べてくれるとは思っていましたが」
「友人を保険扱いって、あんた最悪ね」
結局、”自分たちは頑張りました”ってアピールするために動いておきたかっただけなんじゃないの。
本当は友情なんてもの無くて、自己正当化のための手段が欲しかっただけで。
自分のせいで椛が野垂れ死んだとは思いたくはないでしょうし。
「私たちなりに椛の身を案じた結果、と言っても納得はしてもらえないんでしょうね。
ですがそれが事実なんです。
犬猿の仲だったとは言え、私だって彼女の不幸になって欲しかったわけではありませんから」
「何度も言わせないで、だったら最初からあんたたちが助けてあげなさいよ!」
「無理ですね」
さらっと言ってのける。
だから、それがムカつくってのに。
これでもう二度目よ?
人間の私ができることを、天狗のあんたらが出来ないってなによそれ。
そんな馬鹿げた理屈、通るわけがないじゃない。
「もちろん理由はありますよ。
椛を助けるなと、そういう命令が上から出ていたんです」
にとりも、そんなことを言っていた。
天狗たちは上司の言葉に逆らえないのだと。
だからそれは知ってる、なんとなくわかってた、私が知りたいのはその理由であって――
「細かい意図なんて下っ端には伝わってきません、連中はいつだって自分の都合だけで動いていますからね」
「想像でもいいから聞かせなさい」
「想像といいますか、一応は取材した結果なのですが。
単純な理由です。
米問屋の権力にあやかりたかったんですよ、人里における権力闘争において、他の妖怪たちより優位に立つために」
「ご機嫌取りってこと?」
「ありていに言えばそうなります。
ここから先は不確定情報なのですが、どうも大天狗のうちの一人が米問屋と取引をしたがってるようでしてね。
食料絡みですかね、確かに我々は感情や思念を糧にするタイプの妖怪ではありませんから、うまく使えば優位に立てる武器になり得るのかもしれませんが。
しかし、私は感心しませんね。
妖怪の山に住んでおきながら人間を頼ろうとするなんて、痛い目見ないとわからないんでしょうか」
あの噂、本当だったんだ。
そんな下らない取引のために、椛が犠牲になったなんて。
「本当に、反吐が出るわね」
せり上がる激情を、力ずくで押さえ込む。
まだ爆ぜるには早過ぎる、聞かなきゃならないことが、沢山あるんだから。
「そんなものに、一人分の命を犠牲にする価値なんて無いはずよ」
「あまり言いたくはないですが、それだけ椛の命に価値が無かったということですよ」
「……っ、白狼天狗、だから?」
「いいえ、椛だから、です」
震える拳を握りしめ、下唇を全力で噛みしめる。
目を閉じて、肺がいっぱいになるまで空気を吸い込んだ。
「はぁぁ……」
そして、吐き出す。
同時に微かではあるけれど冷静さを取り戻す。
その冷静さで、怒りをどうにか押し込めた。
ただし、ぐつぐつと煮立つ激情を完全に抑えこむことはできない。
その場しのぎに、問題を先送りにしただけに過ぎなかった。
「私が救出した時点で、権力争いに利用するって悪巧みは瓦解しているはずよね。
助けたって誰も困らないはずよ?
なのに、どうして椛の命に価値が無いなんて言えるのよっ!」
「霊夢さんも察しがついているかもしれませんが……戻ってきた所で、椛には居場所が無いからですよ。
あの男に捕らわれた時点で、椛は詰んでいたはずなんです、本来は」
「詰んでるって、何よ。
今だって椛は生きてるわ、私の隣で笑ってんの!」
「だから本来は、と言ったんですよ。
霊夢さんが居なければ本当の意味で詰んでました、あとは死ぬのを待つだけだったでしょう」
まるで、私が居なければ椛は死んでしまうかのような言い方ね。
察しは付いてる、でも納得はしていない。
一つ欠けたからと言って、見捨てるような薄情さを私は許容できないから。
思いっきり感情移入している椛相手となると特にね。
椛は生きてんの、怪我だって治れば哨戒部隊に復帰もできるはず。
なのに居場所が無いなんて、天狗の理屈を私に押し付けようったって無駄なんだから。
「居場所が無いって言うのは……足が、動かないから? でもいずれ治るんだから、そんなの理由にならないわ!」
「……ん? あー……そっか、そうですよね。
もちろん足の件もありますよ。
ですが一番重要な理由は、椛が白狼天狗だからです」
「それって地位が低いって話? さっきは否定してたじゃない」
「地位の話ではありません、”穢れ”の話です」
「穢れ?」
「人間に穢された椛には、誰も近づきたがらないんですよ」
天狗が潔癖症だなんて話、初耳だわ。
そう、さんざん汚い真似しておいて、そういう汚れには敏感なんだ。
……ばっかじゃないの。
例え文が望んだ言葉でなかったとしても、私は――その発言を、許すことはできなかった。
「文、あんたってやつはっ――!」
左手で文の胸ぐらを掴み、右手で拳を握る。
叩きつける。
いや、叩き――つけたい。
違う、違う、私が怒るべきはこいつじゃなくて、でも、でも、でも!
「殴って気が済むのなら構いませんよ、話しかけられた時点で一発殴られる覚悟はしていましたから」
再び大きく――大きく、深呼吸をした。
「すぅぅぅ……はあぁぁ……」
体の中で急激に膨らんだ怒りを、どうにか外へ逃がそうと。
震える手から力を抜き、文を解放する。
しかし、それで解消できる激情などたかが知れてる。
衝動的に殴ろうとするほどの暴力性はなくとも、今度の怒りは収まりそうになかった。
「ありがとうございます、意外と優しいんですね」
「意外とって何よ……やっぱ殴っときゃ良かったわ」
どうやったら、こんな状況で生意気な口が聞ける脳みそが出来上がるのかしら。
私は文のそういうとこが嫌いなのよ、きっと椛だってね。
「でも、現実は変わらないんですよ、霊夢さん。
こればっかりは白狼天狗に対する差別がどうこうって話じゃありません。
なにせ、”穢れ”を最も嫌うのが白狼天狗自身なんですから。
ああ、この場合は文字通りの穢れであって、見えない力とか、呪いとか、そういうのじゃありませんよ」
「つまり――椛が米問屋に性的な暴行を受けたっていう事実が、”穢れ”だってこと?」
網膜に焼き付いた光景が、再び再生される。
肌色、赤色、白色。
汗、血、男、吐瀉物、排泄物。
匂いまで再生されそうなほど鮮明な、地獄の風景。
思い出すだけで頭が痛くなる。
冷や汗がじわりと、こめかみに滲んだ。
「霊夢さんですら思い出すだけでその有様ですか、よっぽど酷い状況だったようですね」
「これでも慣れた方なのよ」
椛の抱えてるトラウマに比べれば、これぐらいどうってことない。
「それで、結局の所、穢れって何なのよ」
「白狼天狗という種族は鼻が利くんです、人間の何倍も、何十倍も。
動物の中には匂いで個体を判別するものも居ると聞きます、どうも彼女たちはそれに近いことをやっているようで。
つまり……穢れというのは、匂いのことです。
染み付いた不快な匂いは、なかなか消えてくれません。
特に人間の雄の匂いなんて、プライドの高い彼女たちからしてみれば、最も忌み嫌うべき匂いでしょうね」
「……それって、つまり」
「ええ、仮に足が完治して天狗の里に戻れたとしても、人間の雄の匂いを纏った彼女を仲間だとは認めてくれません。
むしろ軽蔑の対象として蔑まされるでしょう。
かつての仲間にそういう目で見られるわけですから、死にたくなるほどに辛いでしょうね」
だから、理由をつけて追い出すことが優しさだと。
だから、利用してやるのがせめてもの情けだと。
理解はできる。
でも、やっぱり、納得はできない。
「不満そうですね、これでも納得できませんか?」
「あんなにいい子なのに……匂いなんてどうでもいいじゃない、傍に居るだけで笑顔にしてくれるのに、それだけで十分じゃない!」
他に居ない、誰にも出来ない、椛にしか出来ない。
なのに、この価値を、一番傍に居たはずの天狗が分かってないなんて、絶対におかしい。
「……ふふっ」
「何、笑ってんのよ」
「いや、痛感してたんです。
ほんと、拾ったのが霊夢さんで良かったなって」
急にそんなこと痛感されても、困る。
こっちは怒りのやり場に困ってるってのに。
「ここまで椛のために悩んでくれる人なんて他に居ません。
誰かが自分のために悩んでくれている、こんなに幸福なことってありませんよ」
「悩んだって、最善案が見つからないんじゃ意味がないわ。
私は人間だから、妖怪である椛を幸せにする方法が見つけられないのよ」
加えて、私は博麗の巫女でもあるから。
普通の人間以上に、椛を幸福にするのに相応しく無い人材だった。
「霊夢さんに限らず、誰にだって自分以外の他人を幸せにできる自信なんてありませんって。
でも、どうやったら幸せにできるのか考えもしない者には、最初から可能性すら与えられない。
椛のために、身を削ってまでそのスタートラインに立ってくれる妖怪が、人間が、この幻想郷に何人居ると思います?」
「そんなのっ!」
特別なことじゃない、沢山いるはずよ、とそう言おうと思った。
けれど、それが当たり前なんかじゃないことにすぐに気づいてしまった。
対価もなく、他人のために尽くすということ。
ただひたむきに、他人の幸福を祈るということ。
進んで自らの時間を捧げたいと思える相手と出会ったことが、今までの私の人生に何回あっただろう。
――いや、数えるまでもない。
「逆もまた然り。
身を削ってまで幸せにしたいと思える相手を、一体どれだけの人が、妖怪が持っているっていうんでしょう」
そう想うことができる相手が居ること自体が幸福であるというのなら、自ら捨てようとする私の行いはどれほどまでに愚かなのか。
私は自分で不幸になる道を選ぼうとしていた。
「椛には霊夢さんしか居ませんし、霊夢さんには椛しか居ないんです。
離れ離れになったって、どうせ我慢できずにまたくっつくだけだと思いますよ。
もう手遅れなんです、早いとこ認めてしまいましょうよ」
でも、それも当然のことよね。
だって幻想郷なんて馬鹿げた理想じゃない。
それを維持するための博麗の巫女が愚かでなくてなんだって言うのよ。
私は愚かで無ければならなかった。
犠牲で、生贄で、平等を騙る不平等で――誰かの理想のために、自分の意思と関係無い行いを繰り返してきたっていうのに。
一回ぐらい間違えたから何よ、少しぐらい道を逸れたからってなんだって言うのよ。
「認めたら……何が変わるのかしら」
「思う存分、気兼ねなくいちゃいちゃできます」
「いちゃいちゃって、あんたねぇ……」
文は茶化すようにそう言った。
なによそれ、ばっかじゃないの。
いちゃいちゃって何よ。
気兼ねなくも何も、私と椛は元からいちゃいちゃなんてしてないっての。
ただ、おはようと、ただいまと、おかえりと、おやすみを、特に意味もなく繰り返しているだけで。
その途中で、笑いあったり、寄り添い合ったり、慰め合ったり、抱き合ったり、そういうこともあるでしょうけど、いちゃいちゃしているとは言わない。
「はぁーあ……困ったもんだわ」
「椛の魅力にやられた自分に呆れてるんですか?」
「そうよ、まさにその通りよ。
いちゃいちゃって言葉が他のどの説得よりも一番効くなんてさ、呆れるしかないじゃない」
私を足止めする、この厄介な博麗の巫女とか言う重荷とか。
誰かもわからない幻想郷を管理する偉い妖怪の存在や、重圧とか。
要約すると”不安”の二文字で収まってしまう有象無象さえ消えてしまえば、これから先、思う存分、椛といちゃいちゃできるってこと?
それさ、私、もうどうなっちゃうか想像もつかないんだけど。
現状が幸せすぎて困ってるのに、それ以上なんて知ったら私、椛から一瞬だって離れられなくなるんじゃないの?
「認めたら私、きっと百は大事なものを失うわ」
それは変わらない。
私の不安の有無は関係なく、椛を受け入れた瞬間に私は、博麗の巫女として重要な要素を失ってしまう。
「でもね、千どころか万ぐらいは大事なものを手に入れる事ができると思うの」
一度だって望んでこなかった、手に入るわけが無いと諦めていた、遠き遠き憧憬。
いわゆる、人並みと呼ばれる日々に散りばめられた些細な幸の断片たち。
あるいは、弱さと呼ばれる、体温を持った柔らかな心の一部。
私は諦めていた。
人里で暮らす人間たちと同じように、誰かと恋をして、誰かと結婚をして、子供を産んで、育てて、老いていって。
そんな、人間の輪に戻り、当たり前の日々を過ごす私を、想像すらできなかったから。
そりゃそうよね。
私に必要なのは、普通の人間なんかじゃなかった。
妖怪か、妖怪じみた人間じゃないと私は幸せになれないって言うんなら――博麗の巫女は妖怪と交わってはならないんて理屈、捨てなきゃやってらんないっての。
「手に入るってわかってんのに、捨てるなんて馬鹿げたことやる奴なんて居ないわ」
「それは椛のこと、お願いしてもいいってことですよね」
「……そうね。
ええ、椛は私が引き取るわ、一番近い場所に置いて、死ぬまで一時も話さず一緒に生きてやろうじゃないの。
あとで返してくれって言ったって、絶対に返してやんないから」
言ってしまった、と言う微かな後悔が胸を掠め、僅かな痛みを残した。
けれど、すぐにそんな痛みは忘れてしまえる。
決めてしまえばどうってことは無くて、むしろ胸のつかえが下りて清々しい気分だった。
「良かった、ようやく覚悟を決めてくれたみたいですね」
そう言って、文は大きく息を吐いた。
ひょっとすると仲間たちから説得役を頼まれてたのかもね。
そのくせ自分からは話を切り出さないあたり、実はかなりビビってたりして。
「まんまとあんたの口車に乗ってやったわ」
「私は背中を押しただけですよ」
「崖から突き落としたってことよね」
「必ずしも高みを目指すことが良い結果に繋がるとは限りません、その人に適した居場所という物があるんですよ」
「突き落としたのは否定しない、と」
半分は自分から飛び降りたようなもんだけどね。
重荷を背負ってしまったから落ちるのは当然のことで、背中を押されずとも時間の問題だったのかもしれない。
元の居場所に戻るには、倍以上の労力が必要で。
でも、今の私には以前ほど、高みで見る光景を目に焼き付けたいという欲求は無かった。
一番見ていたい風景は、今まさに私の隣に存在していたから。
「安心してください、椛を救ってくれた恩人を私たち天狗も見捨てたりはしませんから。
困ったことがあれば何なりと言ってください、全力でお手伝いさせて頂きます」
頼りになるような、余計に不安になるような。
まあ、文が言うには椛を助けようと動いた天狗は一人や二人じゃないみたいだし、私が思っているよりはは頼りになったりしてね。
自分で決めたことだし、できれば最後まで一人で頑張ってみたい所だけど。
だって、好きな人にはかっこいい所みせたいじゃない?
「さて、霊夢さんの言質も取った所で――」
「言質?」
不穏な言葉が聞こえた気がするんだけど、気の所為かしら。
「ここからが本題なんですが」
「ちょっと待って、本題って何よ」
「そう不安な顔をしないでください」
「しないわけないじゃない、言質とか本題って何よ!?」
椛のことを決意して、それで丸く収まってめでたしめでたしじゃなかったの?
ここから先が本題なんて全然聞いてないわよ、というかこれ以上何を話すつもりなのよ。
「言質というのはあくま一つの表現でして。
それに、霊夢さんが決意する前ならともかく、後になってしまえば大した問題ではないんです」
「さっぱりわからないわ、何が言いたいわけ?」
「正直に白状します。
実は私、椛に関する、霊夢さんの決意の障害になりうる情報を持っているのです」
決意の障害って……いやいや、だったら――
「そういうことは決意する前に話しなさいよ!」
「前もって話してたら説得に時間がかかってしまうではないですか」
「またあんたたちはそうやって情報を隠そうとするっ!」
「隠すなんて人聞きの悪い、だからこうして今話そうとしているんですよ?」
それが遅すぎるって言ってるの!
どうせこいつのことだし、わかっててしらばっくれてるんでしょうけど。
「どの道いずれわかることだったわけですし、むしろ今まで霊夢さんが気づかなかった事が不思議なぐらいです」
「椛に関すること、なのよね?」
「ええ、その通りです。
霊夢さんが決意を固める前でしたら大事でしたけど、決意を固めた今なら些細な問題ですよ、きっとね」
私の不安を取り除くこうとして言ってるつもりでしょうけど、明らかに逆効果だった。
今更些細とか言われたって、余計に不安になるだけだってのに。
確かに、椛に関して不可解な事はいくつかあった。
目を背けてきたのは私自身で、それらを無視して全部決めちゃった私の自業自得だって言われればそれまでなんだけど。
でもね、やっぱり同じ天狗である文には、前もって話しておく責任があると思うのよ。
今となっては、もう手遅れなんだけどさ。
「それでは改めまして――椛が霊夢さんに隠し続けた”二つの嘘”についてお話しましょう」
それは考えてみれば当然のことで。
大したことなんかじゃなくて。
聞かされて私が抱いたのは、”どうして今まで気づかなかったんだろう”って言う、まさに文の言っていた言葉と同じ感想。
文の言う通り、決意を鈍らす障害になり得た可能性はあっても、今の私にとっては思わず笑ってしまうほど些細な嘘。
障害どころかむしろ、椛への思いを加速させるだけの推進剤にしかならなかった。
紆余曲折あって、その日私が神社に戻ったのは、日付が変わる直前の深夜のことだった。
今日はやけに長い一日だった。
神社でこっ恥ずかしい告白を聞かれてしまったことから始まって、文と話して、椛を受け入れる決意をして、にとりと合流して、作戦を練って――
むしろ一日で終わったのが奇跡的だって言えるぐらい内容てんこ盛りの一日だったんだけど、そんなの椛には関係ないもんね。
神社で私を待つ椛が同じ長さだけ孤独を味わっていると思うと、早く帰りたいという焦りが私の思考を支配する。
そうだ、今度外に行くときはは椛も連れて行こう。
小鈴ちゃんに頼んでおいた噂もじきに広まるころだろうし、その頃には”椛はもう危険じゃない”という認識が人里に広まっているはず。
それに――彼女を咎める誰かさんも、もう里には存在していないのだから。
神社には明かりは灯っていない。
そっか、さすがにこの時間だと椛ももう寝てるか。
おかえりって笑ってくれる姿を期待してたんだけど、さすがにそれは都合良すぎるわよね。
昼食どころか夕食も一人で、寝る時も手を握ってくれる人は居ない。
不安で不安で仕方無かったろうな、今度からはちゃんと私の口から伝えていかないと。
もう一緒に眠るのを拒む理由も無いんだし、明日からは思い切り甘やかしてやろう。
椛が困るぐらいにね。
”玄関があるんだからそっちから入りなさい”と言うのは私が来訪者――ほとんど魔理沙相手なんだけど――に決まって言う台詞だ。
けど、家主である私ですら縁側から上がり込むんだから、そりゃあいつらが玄関から入るわけ無いわよね。
これは完全に家の構造の失敗だわ、建て直した時にそこも変えてもらえばよかった。
縁側で靴を脱ぎ捨て、居間に上がる。
月の光も、部屋の中までは照らせない。
ほぼ真っ暗闇の中を、私は記憶を頼りに手探りで進んでいく。
手を前に突き出して左右に動かしながら、天井からぶら下がる、電灯のスイッチ紐を探した。
机に脛が当たると同時に、指先に紐の感触を捉える。
逃さぬよう捕まえて、カチッという感触があるまで引っ張った。
電球の光がじわりと部屋を照らす、ようやく視覚が仕事を始める。
何気なしに、部屋を一通り見回すと――
「きゃっ!?」
そこに、人影があった。
他者の存在を一切意識していなかった私は、思わず女の子じみた叫び声を上げてしまった。
これで聞かれたのが魔理沙だったりしたら、私は恥ずかしくて死ぬと思う。
「……って何だ、椛じゃない」
視線の先には、部屋の隅で膝を抱えてうつむく椛の姿があった。
まさか、こうやってずっと私の帰りを待ってたってわけ?
ありがたいような、申し訳ないような。
せめて明かりぐらい付けてたっていいでしょうに。
「ただいま、ごめんね遅くなっちゃって」
「……」
「あー……椛、もしかして怒ってる?」
魔理沙のやつ、ちゃんと伝えてくれたんでしょうね。
そりゃ、何も言わずに飛び出して、深夜まで帰ってこなかったのは悪いと思ってるけど。
でも、何ていうか、私の感覚じゃ椛はこれぐらいで怒らないと思うんだけどね。
そもそも、椛が怒った所なんて見たことないんだけども。
「怒ってないなら、”おかえり”って言ってもらえると嬉しいかな。
それが楽しみで帰ってきてるんだから」
「……」
「おーい、椛ー?」
何度呼びかけても、顔すらあげようとしない。
笑ってくれなくてもいいから、せめて顔ぐらい見せてくれると嬉しいんだけど。
「起きてるなら返事ぐらいしなさいよ」
近くまで歩み寄り、頭に手を載せた。
すっかりしおれてしまった耳の裏あたりを、指先でくすぐる。
いつもだったらこそばゆいと笑いながら体をよじる所なのに、椛は小さく「ん……」と声をだすだけでほとんど反応しなかった。
名前を呼んでもだめ、頭を撫でてもだめとなると、これはもう抱きしめるしかないのでは。
最終手段を使うか否か頭を悩ませていると、
「……どう、して」
椛はようやく口を開いた。
辛うじて私の耳に届く程度の、か細い声で。
「私だってすぐに帰ってくるつもりだったのよ?
なのに急に妖怪退治の依頼が入っちゃって、それが思った以上に厄介な――」
「そういうことでは、なくて」
椛はゆっくりと顔を上げる。
そこに私の待ち望んだ笑顔は無かった。
目を見開いて、か弱く揺れる双眸で私を睨みつけるように見ている。
ほとんど笑顔しか見たこと無かったから、そのギャップに多少戸惑ったけど、その意味を知ってすぐに私は平常心を取り戻した。
戸惑ってる場合じゃない。
瞳に宿る感情は”恐怖”だったから、支えるべき私が取り乱してどうするんだか。
「どうして、帰ってきたんですか。
どうして、笑ってるんですか」
「帰ってきたのは、ここが私の家だから。
笑ってるのは、ここに椛が居るからよ。
他に理由なんてあるかしら?」
いまいち椛が何を聞きたいのかがわからない。
その二つの問いは聞かれるまでもなく当然のことで、私は考えることも無く即答してみせた。
けれど椛はどうやらその答えが不服な様子で、再び同じ言葉を繰り返す。
「どうしてですか」と。
「射命丸文に会ってきたんですよね?」
「ええ、そうよ」
良かった、どうやら魔理沙はしっかり私の伝言を伝えてくれていたらしい。
椛の様子がおかしいのは、ひょっとすると魔理沙が余計なことを言ったせいじゃないかと思ったんだけど、今回だけは疑ったことを素直に謝ってやろう。
……いや、やっぱり謝るのはやめておこう。
魔理沙の信用が無いのは普段の行いが悪いせいなんだし、自業自得ってことで。
「あいつさ、椛の見舞いにも来なかったくせに、実はこっそり神社を覗き見してたらしいのよ。
記者って言っとけば何したって許されると思ってるのかしら」
「聞いたはず、ですよね」
「聞いた?」
「私のことです!
私が、霊夢さんに何をしてきたのかをっ!」
ああ、そっか。
あまりに激動な一日だったせいですっかり忘れてたけど、聞かされたんだっけ、椛がついていた二つの嘘を。
結局、文の言う通りだった。
確かに以前の私が聞けば椛を疑っていたかもしれない。
けど、理由さえ知っていれば、そしてその理由を笑って流せる私が居れば、大したことなんかじゃない。
だから”気にするな”って言って、頭でも撫でて、それでも足りなかったら思い切り抱きしめて、それで終わりにしようって思ってたんだけど。
そうするより前に、椛の瞳から涙が一粒零れ落ちた。
「怪我のこと、本当は最初から知ってたんですよ」
そして椛は語り始める。
まるで殺人犯が自らの罪を吐露するかのように。
まいったなぁ、こうなっちゃうと軽く流すってわけにも行かないわよね。
「入院して一週間ほど経った頃でしょうか、八意先生が部屋にやって来て話してくれたんです」
早い内に聞いてるだろうとは思ってたけど、まさかそんな早かったとは。
永琳ってそういうとこ厳しいというか、やけに容赦ない所があるのよね。
自分が平気だからって患者も平気だとは限らないのに。
私がお見舞いに通ってなかったら、精神的に弱った椛はどうなってたことやら。
「内容は、私の足の状態についてで――切断せずに済んだのは奇跡だったということ、そして……足は動いても、元通りになることは二度と無いということを、はっきりと告げられました。
それを聞いて、私は目の前が真っ暗になったんです。
先生の言葉は、私にとっての死刑宣告と同じで……いや、もうとっくに宣告は受けていたんですが、絶対に無理だってダメ押しをされたような気がして」
とっくにって言うのは、例の匂いの事だと思う。
”男に捕まった時点で諦めてたはず”みたいなことを文が言ってたけど、やっぱり心の奥底じゃ諦めきれてなかったんじゃない。
「縋る希望も無いんだって、打ちのめされたんです。
全部嫌になって、試しに現実逃避でもしてみようかとも思ったんですが、駄目でした。
自分に染み付いた匂いに、嫌でも教えられるんです。
お前は汚れている、汚れたお前はもうどこにも行けない、帰る場所なんて無いって」
他の白狼天狗が染み付いた匂いで椛を忌避するって言うんなら、本人がその匂いに気付かないわけが無い、か。
むしろ自分の匂いを一番に嫌っていたのは、他でもない椛自身だったのかもしれない。
「死んで然るべきだと思いました。
私はもう死体も同然で、誰も助けてくれないのが当然のことだと」
「それでも、生きていたかったんでしょう? だから私に付いてきたんじゃない」
「ちゃんと死ぬ覚悟はしてたんですよ。
縋る希望も無くなって、世界が全部真っ暗になって、それでおしまい。
私はそれで良かったんです、未練も特に無かったですから」
「だったら今のあんたは何なのよ、未練がないって言うならどうして私に嘘なんてついたの?」
「それは……霊夢さんのせいです。
死んででも良いと思っていたはずなのに、確かに覚悟を決めたはずなのに、いつの間にか雑音がその覚悟を歪めていました」
大事な話の途中だから茶々は入れたくないんだけど、人を雑音呼ばわりは酷くないかしら。
まあ、ただ比喩だから別にいいんだけどさ、そんなに気にしてないから。
「過去の私が今の私をみたらこう言うでしょうね。
”お前みたいにプライドを捨てるぐらいなら、死んだほうがマシだ”と。
今の私も全くの同意見です、白狼天狗の誇りすら捨て浅ましく生にしがみ付く私に、生きている資格なんてないんです。
無い……はず、なんです」
死ぬ覚悟を決めることと、死にたいかどうかは別の問題。
椛はきっと、生きていたかった。例えそれが無理な望みだったとしても。
誰だってそうだ、少しでも生きる可能性があるんなら、浅ましくても、愚かでも、その可能性を掴もうともがくはず。
生への執着は理性ではなく、本能から生まれるものだから。そう簡単に制御できるものじゃない。
その結果、椛は私に嘘をついた。
足の怪我のことも言わず、帰る場所が無いことも伝えず――怪我の治癒と天狗の里に戻ることを前提とした居候契約を、私と結んだのだ。
「最初は霊夢さんのこと、疑いの目で見ていました。
私のことを助けたのも、こうして一時的とは言え引き取ると言ってくれたことも、何か裏があるからじゃないかって。
じゃなきゃ、あまりに都合が良すぎるじゃないですか。
でも、裏があろうと何だろうと構いやしません。
利用しているのは私も同じ、嘘で結ばれた関係なら、それぐらいの壁があった方がちょうどいい距離を保てると思ったから」
確かにまあ、頼んでも居ないのに屋敷から助け出して、その上に無償で寝床を提供するだなんて見え透いた罠、普通だったら踏まないわよね。
私が椛と同じ立場だったとしたら、絶対に回避するわ。
あの時は、まさか椛が私の提案を受け入れると思ってもいなかったから、逆にこっちが驚いちゃったんだけどさ。
「でも、一緒に暮らしていくうちに裏なんて無いってことが分かってきたんです。
この人は本当に、ただ助けたかったから助けただけだったんだって。
それがわかった瞬間、私の心にある二つの感情が大きく膨れ上がりました。
騙すことに対する罪悪感と、私に優しくしてくれる霊夢さんに対する”好き”って気持ちです。
早く全部打ち明けなければならない、でも打ち明けたら私は居場所を失ってしまう。
離れたい、でも離れたくない。
一緒に過ごす度にその気持ちは大きくなって、私の言うことなんて全然聞いてくれなくなって……っ。
二つの思いがせめぎあって、結局……私は、嘘を突き通すことを選びました。
私の中の一番身勝手な”好き”って気持ちが、ずっと一緒がいいって気持ちが勝っちゃったんです。
それからは……怪我が治るまで霊夢さんの隣に居て良いのなら、一生治らないことを利用してやれ、ずっとこのまま神社に住み着いてしまえばいいと、そう考えるようになりました」
声までも震わせながら椛の懺悔は続く。
罪を明かすと同時に、それは自分を責め立てているようでもあった。
「ですが、いつか無理が生じることぐらいわかっていました。
怪我のことを誤魔化しきれない日が絶対にやってくる、その時までに私は”既成事実”を作っておかなければならない」
「それでペットだったってわけ? もっと上手い方法があったでしょうに」
「卑怯者の私には相応しい立場だと思ったんです。
私は、こんな醜い自分が大嫌いです。
できることならいっそ、私自身の手で殺してしまいたいほどに」
でも、懺悔する椛が求めているのは許しなんかじゃない。
彼女はきっと、私に罰を与えてほしかった。
どんなに自分が醜くても、自分で自分を憎んでも、浅ましく生きる事を覚えてしまった以上、自分で自分を殺すことは出来ないから。
だったらいっそ、私にとどめを刺して欲しい、と。
「魔理沙さんから、霊夢さんが射命丸文に会いに行ったと聞いた時、やっと終わるんだなと思いました。
きっと霊夢さんは私の嘘を知ってしまう、私のことを、私と同じように嫌いになってしまう。
そう思うと……随分と、気分が楽になったんです。
私の命はとうの昔に失われたもの、そんな身でありながら霊夢さんを騙し続けて、一緒に居るなんて――ましてや想いを寄せるなんて、許されるわけがないんですから」
そういや私も、似たような悩み方してたんだっけ。
立場とか、役割とか、面子とか、威厳だとか。
面倒よね、本当に。
そんなもの無くても生きていけるはずなのに、私たちは自分から足かせを纏って生きている。
必要な物なんだと、自分に言い聞かせて。
「今日で終わりだと思って、ずっとこうして思い出していました。
神社で過ごしてきた日々のことを、死んでも忘れずに済むようにと」
「残念だったわね、思い通りにならなくて」
「はい、とても残念です。
まさか笑いかけられるなんて。
あんな顔されたら、私を追い出す気なんて無いんだってすぐにわかってしまいます」
そして涙が、また一粒。
「せっかく、元通りの、正しい霊夢さんに戻れるはずだったのに。
せっかく、私みたいな卑怯者から離れられる所だったのに……っ」
その涙は、悔し涙だった。
椛は下唇を震えるほど強く噛みしめながら、私の服の胸元を掴んでいる。
想像とはあまりにかけ離れた反応に、私は空気も読まずに吹き出してしまった。
「ふふっ、なんであんたがそんな悔しそうな顔してんのよ」
「私が、霊夢さんを過ちへと導いてしまった。
嘘さえつかなければ、私さえ居なければ、霊夢さんが間違うことなんて無かったんです!」
「間違ったつもりなんて無いわ」
「いいえ間違ってます。
霊夢さんはとても綺麗で、強くて、優しくて、温かくて、遠くて、遠くてっ、遠くてっ! だから――尊くて。
そういうものなんです、博麗の巫女で、私を助けてくれた英雄なんだから、そういう霊夢さんじゃなきゃ駄目なんです!」
鼻息荒くして、崇拝じみたこと言われてもね。
確かに私は博麗の巫女だけど、それ以前に博麗霊夢って一人の人間なの。
「夢見すぎよ」
椛の額を人差し指で小突く。
「確かに、ちょっとばかし情に脆い部分はあるとは思うわよ。
でもね、弱ってる椛の姿を見たら誰だって助けるはずよ。
神聖視されるほど、人格まで博麗の巫女に染まったつもりは無いっての」
「仲間だった天狗たちも、妖怪も、誰も助けてくれませんでした。
霊夢さん以外の人間だって、誰も助けてくれなかったんです」
「たまたまよ、今までその連中が運悪く冷たかっただけ。
私は特別なんかじゃないわ」
「そんなのありえません。
特別じゃないって言うんなら、どうしてここまで嘘つきの私に笑いかけたりできるんですか!」
理由なんて一つしか無い。
損得勘定抜きで、他人の幸せのために尽くすその動機。
我が子や、友達、恋人――その形は様々で、私が抱く物が一体どこに属しているのか、はっきりとした形はわからないまま。
けれどその存在を認識した今、私にはもう言葉にすることを恥じらう理由なんて無かった。
だから今日二度目の告白を、今度は至近距離で、私も椛も逃げられない距離で告げる。
「そんなの決まってるわ。
あんたのことが好きだからよ」
椛はまばたきもせずに、口を半開きにして私の方を見ていた。
間抜けな顔まで可愛く見えるのは、愛がなせる業ってやつなのかしら。
……って、椛の顔なんて観察してる場合じゃない。
告白の方法ってこれで合ってるんだっけ?
こんなことになるぐらいなら、流行りの恋愛小説の一冊でも読んでおくんだったわ。
やたら顔が熱いし、椛はよっぽど驚いてるのか返事してくれないし。
でも尻尾が揺れてるってことは、答えに期待してもいいってことよね。
「……」
「……黙ってないで、何か言いなさいよ」
「え、えっと……こういう時、どうやって返事したらいいんでしょう」
「それは自分で考えなさいよっ」
「そ、そうですよね」
返事の内容まで私に委ねられても、こっちはこっちでいっぱいいっぱいだっての。
大体、あんた今までだってさんざん私に大好きとか言ってきたじゃない。
なんで今さらになって恥じらってんのよ。
「ごめんなさい、まさかそんなこと言われるなんて想像もしていなかったので」
「それ以外に理由なんてないでしょ。
私が特別だったわけじゃないの、私にとってあんたが特別だったのよ」
それが相手から見ると、あたかも私が特別なことをしているように見えるだけで。
私から言わせてもらうと、椛だってどうしてここまで尽くしてくれるのか、理解できなかった。
騙した罪悪感から来る物だったとしても、私に甘える必要も、笑顔で迎える必要も無いんだから。
「私が、特別……」
オウム返しのようにそう言うと、椛は再び動きを止めた。
ぽーっと私の方を凝視したまま、うんともすんとも言わない。
「……」
ただし、私が最初に声をかけた時と違って、頬は上気しているし目も潤んでいる。
悪くない反応だってことは、疎い私にも理解できた。
それにしても――
「……」
可愛いのは結構なんだけど、そろそろ、返事をくれないかしら。
別にこのまま椛の顔を見てるだけでも、数時間は飽きないと思う。
でもそれじゃあ、話が全く進まないじゃない。
完全に遠い世界に行ってしまった椛の意識を引き戻すため、私はいつかのように額に軽く手刀打ちを放った。いわゆるチョップである。
「ひどいです」
口ではそう言いながらも、椛はにへらと笑っていた。
「黙られると私の方が困るのよ。
で、返事はまだなの?」
「どうやって答えたらいいのか考えていたんです。
結局、思いつきませんでしたが」
「それで逃げられると思わないことね。
答えてよ、こっちだって恥ずかしい思いして告白したんだから。
いつもみたいに、好きでも大好きでも構わないわ」
「いつもみたいに……ですか。
……なんで私、恥ずかしげもなくあんな言葉を言えてたんでしょう」
「私が知るわけないでしょうがっ」
そして再び額にチョップ。
食らった椛は、右手で額を擦りながら「んへへ」と言って破顔した。
さっきまで泣いてたくせに、すっかりいつも通りの椛に戻っている。
切り替えが早すぎて嘘泣きだったんじゃないかって疑ってしまうほどだ。
でも、嘘なら嘘でも構いやしない。
やっぱり椛には、笑顔の方が似合ってるから。
「でもですね、お互いの気持ちはもうわかっているんですから、ここで私が言う必要はないのではないでしょうか」
「あんたにも恥ずかしい思いをしてもらわないと不公平じゃない」
「理不尽……」
「良いから言いなさい」
「わかりました、それでは――」
椛はわざとらしく咳払いをすると、頬をぺちぺちと叩き、唇をきゅっと閉じる。
そして真剣な顔を作って私の方を見ると――まるで溶けるように、力の抜けただらしない笑顔に戻ってしまった。
「えへへぇ……」
うん、無理だこれ。
喜んでくれてるのだけは痛いほど伝わってくるもんだから、怒るに怒れないし。
私は返事を諦めて、強引に話をまとめることに決めた。
経過がどうであれ、ちゃんと私の決意を伝えることが出来たら、こうするって最初から決めていたから。
そして私は、気の抜けた笑い声を出していた椛を、強引に抱き寄せる。
肩口あたりに唇が当たって、「むぐっ」と気の抜けた声が漏れた。
椛の耳が私の耳にくすぐるように当たって、少しこそばゆい。
彼女は気だけではなく力も抜けていたようで、体重のほとんどが私の上半身にかかっている。
これから私が支えていく分の重みだと思うと、悪い気分はしなかった。
「もう返事は良いわ、その代わり今日から毎晩こうやって抱いてやるんだから」
「寝る時もですか?」
「もちろん、布団は一つしか敷かないわ」
「そんなのご褒美じゃないですか! 毎晩霊夢さんの匂いに包まれて眠れるなんて夢みたいです」
「だから匂いは恥ずかしいからやめてって……」
白狼天狗がそういう生き物だって言うんなら、恥ずかしがってばかりでもいられない。
今までの一方的に尽くされるだけだった居候状態と違って、これからはお互いに譲り合って行かなきゃならないんだから。
それに、何も椛は臭いって言ってるわけじゃない、私の匂いが好きって言ってくれてるんだし、邪険にする必要なんて無いはず。
要は慣れよ慣れ、むしろ私も椛の匂いが好きだーって言えるぐらいにならないとね。
試しに椛の頭に顔を近づけて、すんすんと吸い込んでみる。
「あっ、だめですよ、待ってください霊夢さん、今は――」
「甘い匂いと混じって、少し汗の匂いがするわね」
「うぅぅ……今日はまだお風呂に入ってないんですよぉ」
「割と好きだけどね、この匂い」
抱きしめる両腕に、急上昇する椛の体温を感じる。
さんざん嗅いできたくせに、自分が嗅がれたら恥じらうんかい。
椛にも私の気持ちがわかったかしら、これからは私も負けじとガンガン嗅がせてもらうから。
「と言うか、お風呂まだだったの?」
「霊夢さんが帰ってきたら追い出されるだろうと思っていたので、呑気にそんなことできる状態じゃなかったんです」
「ならちょうど良かった、一緒に入りましょうか」
「えっ……うひぇええええぇぇぇっ!?」
これまた変な叫び声を。
しかも近いし声が大きい、鼓膜が破れるかと思ったわ。
「そんなに驚くようなこと?」
「だって、一緒にお風呂ってことは、裸ですよ? 裸のお付き合いなんですよ!?」
言われてみれば、それもそうね。
ただの同居人ならともかく、今の私たちはもう同居人を越えた、多分恋人的な何かなわけで。
そんな二人が裸を見せ合う状況ということは、ただのお風呂で済むはずもなく。
「例え霊夢さんが平気でも、私が我慢できないと思いますっ!」
うん、たぶん私も我慢できないと思う。
思わず勢いで言っちゃったけど、今すぐ撤回しよう。
今日の所は、別々にお風呂に入って、汗を綺麗に流して、そんで同じ布団で寝るだけにしておこう。
――と、思ってたんだけど。
「それにですね、私の裸なんて霊夢さんにお見せできるほど綺麗な物ではないですから。
仕事柄、傷だらけで汚いですし、それに……ほら、まだ匂いも完全に消えてないので……」
気が変わった。
私は立ちあがると、椛の手を取り引き上げる。
状況を把握していない椛は「へ?」と間の抜けた声を上げたが、無視して手を握ったまま大股で歩きだす。
「うわっととっ!? れ、霊夢さんっ、急にどうしたんですか!?」
目的地は、もちろんお風呂場。
まずはお湯を貯める所から始めないと行けないのがネックだけど、二人で準備したらあっという間に終わるはず、こういう時は勢いが大事なのよ。
最初はバランスを崩しかけていた椛も、どうにか体勢を持ち直したようで、首を傾げながらも大人しく私に付いてきている。
「あの、どこに向かってるんでしょう」
「風呂場に決まってるじゃない」
「だからそれは、お見苦しい物を見せることになるので今はまだ――」
「見苦しいとか言わないでよ」
「霊夢さん?」
「私があんたの裸を見たいから風呂場に連れてってんの。
我慢なんてする必要ないわ、むしろ私の方から襲ってやるんだから!
身をもって自分の体がどんだけ魅力的か理解させてやろうじゃないの!」
「え、えっ? 霊夢さん、それ本気で……って、無言で進まないでください、一旦止まってくださいよぉ!
一度落ち着いて話し合いましょう、私がまずいこと言ったんなら謝りますから、ねっ?
ねえ霊夢さん……霊夢さんっ……霊夢さぁぁぁんっ!」
結局、そのままの勢いで風呂場には到達したものの、準備をしているうちに冷静さを取り戻した私は、お湯が湧く頃にはすっかり先程までの強引さを失っていた。
とは言え、無理やり連れてきたのは紛れもなく私。
ここに来て日和るわけにも行かず、タオルで体の前方を隠しながら、私たちは二人でお風呂に入った。
一応、風呂場では何もなかったということは、はっきりと言っておきたいと思う。
時刻は午後一時、一人で昼食を終えた私は、境内の掃除に取り掛かろうとしていた。
霊夢さんのお昼には、あらかじめ今日は忙しいと聞いていたのでお弁当を渡してある。
以前、ご飯にハート型の桜でんぶを盛り付けたらこっぴどく怒られたので、中身はごく普通だ。
でもあの時の霊夢さん、顔を真っ赤にしてにやけてるようにも見えたし、実は嫌じゃなかったのかもしれない。
しばらくしてほとぼりが冷めたら、また試してみようと思う。
……そんな下らないことを考えられる程度には、神社での生活にも慣れてきた。
私が博麗神社の正式な住人になってから一ヶ月――その間、私と霊夢さんの関係は順調に進展していた。
まず、当初の宣言通り、寝室に敷かれる布団は一つになった。
一つの布団に、二つの枕。いわゆる同衾というやつである。
そして初日の流れで、お風呂も一緒に入るようになった。
未だに傷だらけの体を見られるのには慣れないけども、霊夢さんがこんな体でも褒めてくれるので、最近では自分でも言うほど悪くないのではないかと思うようになってきた。
他には、朝食は二人で作るようになったことや、挨拶の代わりに口づけを交わすようになったこと、定位置が向かい合わせではなく隣になったこと――などなど、数え切れないほどの変化がある。
変わったのは二人の関係だけではない。
霊夢さんの尽力もあって、人里に出歩けるようになった私は、八百屋のおばさんや鈴奈庵の小鈴ちゃんを始め、何人かの人間と交流を持つようになっていた。
もちろん、今でも私を見て怯える人間は何人も居る。
それでも、天狗の里という居場所を失った私にとって”新たな関係性を構築できた”という実績は、未来への希望を抱かせるに十分すぎるほどの自信だった。
だけどその自信も、あの”事故”が無ければ生まれることはなかったのだと思うと、素直に喜んでいいのかと悩んでしまう。
不謹慎だから、というわけではなく――人間の死を喜ぶような私を、霊夢さんが好きで居てくれるのかと、不安になってしまうから。
それは、霊夢さんに告白された次の日の出来事だった。
昼前ごろだったろうか、”号外”と称された文々。新聞が博麗神社に届けられたのだ。
よほど忙しかったのか、射命丸文は新聞だけ置いてすぐに姿を消した。
その一面には、大きな見出しでこう書いてあった。
『米問屋の主人、銃の暴発によって死亡』
そう、あの男はまるで天罰でも食らったかのように、私を撃ったあの銃で死んだのだ。
記事によると、銃弾を装填したまま手入れを行い、誤って引き金を引いてしまったらしい。
あまりに情けない筋書きに、私は失笑を隠せなかった。
米問屋の主人が死んだのは前日の夜遅く、新聞が発行されたのが翌日の午前中。
不自然に早すぎる報道に、最初は射命丸文こそが真犯人ではないかという説が浮上したが、しかし彼女には完璧すぎるアリバイがあった。
加えて、翌日に文々。新聞に掲載された記事の衝撃が大きく、彼女を疑う声は一瞬で消え失せた。
『米問屋の屋敷の地下に隠し部屋、行方不明少女が監禁か』
匿名のタレコミが自警団に寄せられ、調査した結果、発覚したそうだ。
地下の隠し部屋には地上よりも豪華な装飾が施された三部屋あり、それぞれに一人ずつ少女が閉じ込められていたらしい。
三人の少女はいずれも健康で、暴力を振るわれた形跡もなかった。
あの男は、自分の父や兄を手に掛けたことがあるという噂を聞いたことがある。
愛情に飢えていたのだろうか、少女たちを数年に渡って”愛でて”いたのは、自分に足りない何かを補うためだったのかもしれない。
もっとも、妖怪ということでたがが外れたのかもしれないが、私の前では隠しもせずに暴力性を見せたということは、倫理なき悪魔こそが奴の本性だったのだろう。
何にせよ、その事件によって主人の死に関する疑惑はうやむやになって消えた。
それどころか、死の記憶すら通常よりも早く忘れられ、今では話題に登ることすら無い。
「やあ椛、そんなアンニュイな顔しちゃってどうしたんだい?」
掃除を続ける私の背後から、馴染み深い声が聞こえてくる。
「こんにちは、にとり。
珍しいね、自分から神社に来るなんて」
「まあね、霊夢さんはどうも河童が苦手みたいだから、私以外の連中は近づきたがりもしないから。
おかげで、今回の件は誰も手伝ってくれそうにないや」
「今回の件?」
「椛のことだよ、霊夢さんには恩があるから、作れるものならなんでも、何か一つだけ作ってあげるって言ったんだ」
河童嫌いの霊夢さんが自らにとりに近づくとは考えにくいし、彼女が神社を訪れたのだって私が同居を始めてから今日が初めてだ。
いつの間にそんな約束を――としらばっくれてみてもいいんだけど、隠し事と言うのはどうも性に合わないというか、もう懲りたというか。
霊夢さんには隠し通すつもりではあるけれど、にとりぐらいには話しておくべきなのかもしれない。
「そしたら霊夢さん、何を作って欲しいって言ったと思う?」
「お手伝いロボットとか」
「違う違う、椛が使いやすいように台所を改造してくれ、だってさ。
自分のために権利を使えばいいのに、そこで椛のためって言っちゃうあたりがお熱いよねえ」
第三者を通して想いを見せつけられるというのは、下手をすると本人から直接言われるよりも恥ずかしい。
かと言ってにとりの思惑通りに恥じらうのも癪なので、さほど興味の無い顔をしながら「ふぅん」と返した。
「慣れない椛の嘘に気づかなかったのは霊夢さんが鈍かっただけで、椛は基本的に不器用なんだからさ、下手に照れ隠しとかしない方がいいと思うよ?」
「う、上から目線で言わないでよ。
まるで自分が器用みたいな言い方して」
「少なくとも椛よりはね」
「だったら、私がここでにとりの嘘を暴いてあげようか?」
「私の嘘?」
にとりは”そんなものは無い”と言わんばかりの余裕の表情だ。
「まず最初に言っておくね、ありがとう」
「急にどうしたのさ」
「私のためにあの男を殺してくれたこと、心の底から感謝してるってことだよ」
にとりは明らかに狼狽した。
なぜ私がそれを知っているのか、隠蔽は完璧だったはずなのに、と言った所だろうか。
確かに隠蔽は完璧だった。
光学迷彩を使えば目撃される心配は無い、屋敷に侵入した痕跡を消す手段だって、にとりの持つ発明の中にはあるはずだ。
それに、万が一うっかり証拠を残してしまったとしても――それが毎日屋敷に通っていた霊夢さんの物であれば、なんら不自然なことはない。
「……それ、誰かから聞いたの?」
「霊夢さんは何も話さなかったよ、もちろん射命丸文もね。
でも、私は三人があの男を殺した日に、私はすぐに気づいてた。
どうしてか、にとりだったらわかるよね」
「椛にしか気付け無い手がかりがあるってこと?
そんなものあるはずが……」
あるんだよね、それが。
「……げっ。
そっか、それがあったか……」
「ようやくわかってくれたか?」
「鼻だ、霊夢さんに残った血の匂いに気付いたんだ」
「それだけじゃないよ、微かに残ったにとりの匂いも、射命丸文の匂いも、すぐに気づいてた」
だから私は、血の匂いを嗅いだ瞬間に誓ったんだ。
私のために自分の役割すら捨ててくれる霊夢さんのために、命と時間の全てを捧げようって。
霊夢さんは自分のことを特別なんかじゃない、と言い切った。
でも、この幻想郷に赤の他人のために人殺しになれる人間が何人いるのだろう。
人間に近い生物を殺した経験があったからかもしれない、情に流されやすかったからかもしれない。
けれど私にとって、理由なんてどうでもよかった。
重要なのは結果。
私の命を救い、私の居場所となり、私のために手を汚してくれた。
その結果こそが、私の見た霊夢さんの全てなのだから。
「私としたことが、詰めが甘かったなあ」
「私に気付かれて都合の悪いことでもあったの?」
「霊夢さんが言ったんだ。
椛が責任を感じるといけないから、絶対に隠し通そうって」
どこまでも優しい人だった。
知れば知るほどに、その慈悲の深さを思い知らされる。
その慈しみがどうして私に向けられているのか、不思議になるほどに。
「椛が惚れ込んだのにも納得できるよ、あそこまでやられちゃあね。
結局、あの男に手を下したのは霊夢さんだった。私たちは自分たちの手を汚したくなくて、逃げたのさ。
仲間であるはずの私たちが椛を見捨てたのに、霊夢さんは自分の矜持を捨ててまで椛を救おうとした、守ろうとしてくれた。
ふがいないや、自分で自分が嫌いになりそうだ」
「仕方ないよ、だって霊夢さんだから。
あの人と比べたら世界中の誰だって自分のことが嫌になるに決まってるんだから」
「そこは私をフォローする所じゃないの!?
まったく、まさにベタ惚れだね」
「当然。
捨てたはずの私の人生を、全部拾ってもらったんだよ?
命の一つや二つを捧げたって足りないぐらい、私は救われてる」
「そうだね。
それぐらいのことをやってのけたんだよね、あの人は」
「うん、だから――」
一生を捧げる誓いを、私は未来永劫、後悔することはない。
そう言い切れる人に出会えた奇跡に、私は心から感謝した。
白狼天狗は、自由を愛する種族だった。
自由でありたいと願うのは、自分が束縛されている自覚があるからだ。
実際、白狼天狗は他の天狗に比べて低い地位を与えられている。
住居を選ぶ自由をはじめ、職業を選ぶ自由も、結婚相手を選ぶ自由も、他の天狗に比べて制限されている部分が多い。
私もそんな制約を実感して生きてきた。
そして大多数の白狼天狗と同じく、自由を夢見てきた。
天狗という種族の縛りから解放され、自由を手に入れ――そこには必ず幸福があるはずなのだと、理由も考えずに盲目的に信じていた。
「おかえりなさい、霊夢さん」
にとりが神社を去ってしばらくすると、霊夢さんが帰ってきた。
よほど厄介な依頼だったのか、巫女服はところどころ土で汚れてしまっている。
霊夢さん自身も、随分と疲れた様子だった。
「ただいまぁ~」と気の抜けた返事をすると、おもむろに私に抱きつき、体から力を抜いてしなだれかかる。
「もう、霊夢さんったら仕方ないですね」
右足に上手く力が入らないとしても、人間一人を支えるぐらいはそう難しいことではない。
腐っても妖怪、訓練をサボっているので筋肉が落ちつつあるとはいえ、人間より遥かに強い力を持っていることに変わりはないのだから。
「ご飯の準備も、お風呂の準備も出来てますよ、どっちにしますか?」
「んー……」
いつかのように、”それとも私?”とは聞かなかった。
今でもたまにあのやり取りを行うことがあるのだけれど、最近では霊夢さんが私を選ぶことも増えてきて、軽い気持ちでは言えなくなりつつある。
そんなわけで、気分が乗っている時か、あるいは霊夢さんの状態が万全の時にしか言わないようにしている。
私としては、先にお風呂に入って疲れを取った方がいいと――
「……椛」
「どうしました?」
「椛が、いい」
まさか霊夢さん、ここで選択肢にない三番目を選ぶとは。
「疲れてるんじゃなかったんですか?」
「疲れてるから、椛からぱわーをもらわないと死んじゃうのー!
それにまだ、おかえりのちゅーももらってないじゃない。
だから、まずはちゅーから、ほら早くやるわよ」
霊夢さんは私の両頬に手を当て、躊躇いなく唇を重ねた。
挨拶と呼ぶには、深すぎるほど濃厚に。
「ぷはっ……ってことでただいま、椛。
やっぱりこれがないと帰ってきた感じがしないわ」
「んふ……改めておかえりなさい、霊夢さん。
すっかり癖になってますね、他人に見られたらどうするつもりですか?」
「自慢する。
こんなに可愛い娘と自由にキスできるんだぞーって世界に高らかに叫んでやるわ」
それはさすがに私が恥ずかしい。
私の方も、こんなに素敵な人と出会えたことを、一度ぐらいは世界中に誇ってみたいとは思っているけれど。
「じゃあこのまま、椛のことを頂いちゃおうかしら」
「せめて家に上がってからにしましょうよ……んぁっ」
霊夢さんの手が臀部に伸びていく。
服越しにさわさわと動く手がやけにこそばゆく、思わず声が漏れた。
「だーめ、我慢できない。
たまには外でってのも悪くないわ、元が狼だって言うんなら椛だって案外ハマるかもよ?」
「っ……巫女が妖怪に悪さを教えるなんて、聞いたこと……やっ……ありませんよぉ……」
「妖怪と付き合ってる巫女って時点で聞いたことないわよ」
「だからって、こんなの……っ」
「四の五の言ってないで従いなさい。
ほら、あっちの物陰に行きましょう、見られるかもしれない場所よりは良いでしょ?」
霊夢さんの勢いに押され、頷きそうになる。
その時だった。
……ぐぅ。
どこからともなく、気の抜ける重低音が響く。
どうやら空気の読めない腹の虫が、我慢の限界を迎えて鳴いているようだった。
「……ぷふっ」
「わ、笑うなぁっ!」
「だからご飯かお風呂にしましょうって言ったじゃないですか」
「確かにお腹は空いてる自覚はあったけど、まさか鳴るほどとは思ってなかったのよ」
「私は逃げませんから、まずは冷める前にご飯を食べて、お風呂に入って疲れをとってください」
「そうね、椛を食べるのはそのあとにしましょう」
そう言って霊夢さんは体を離すと、私の手を握って歩きはじめる。
私は従順に、その手に導かれるまま、霊夢さんの歩く道をぴたりと寄り添って歩いて行った。
そこに、かつての私が望んだ自由は無かった。
夢を見て手を伸ばす程度には近くにあったはずの広大な世界は、今はもう遠く。
遠く、遠く、手を伸ばす気すら起きないほど彼方で。
けれど私は、諦めたわけではない。
私たちは自由を得て何をしたかったのか、自由の先に何を見たのか。
それは幸福、だったはず。
自由の先にあるものが幸福だからこそ、私たちは自由を求めた。
今の私に自由は無い。
だけど、そこにはかつての私が望んだ幸福があった。
つまり――もはや、憧れる必要も無いということ。
遥か彼方、夢に見た理想郷を目指さなくとも、私の手を締め付けるこの圧力と体温が、私を箱庭の中で頂きへと導いてくれるから。
暖かな束縛。
穏やかな支配。
心地よい隷属。
自由を代償に手に入れた、私だけの小さな理想郷。
あなたの命が尽きるその日まで、私はここで生きていく。
この――優しい檻の中で。
こんな台詞を聞かされて、冗談だと思わない人間が果たしてこの世にどれだけ存在するのか。
仮にそんな人間が存在するのだとしたら、よほどの変態か、あるいは周囲が変態だらけで常識が捻じ曲げられた哀れな人間かのどちらかだと思う。
もちろん私は常識人なので、冗談として受け取った。
仮に彼女が土下座しながら頼み込んできたとしても、その手には力強く首輪が握られていたとしても、冗談は冗談でしかない。
冗談であって欲しいと願う。
……冗談、なのよね?
「あんたにしては珍しく――」
「私は本気です」
食い気味に言ってくるあたりに本気度を感じる。
うん、うん、薄々は感づいてたけどさ。
真面目な椛が、一歩間違えると下ネタになってしまうような冗談を言うはずがないってことぐらい、一緒に暮らしている私が知らない訳がない。
なんで私が彼女と一緒に暮らしているかって言うと……まあ、その辺は色々あって。
足に怪我を負った椛を助けたのが二ヶ月前。
その後、彼女は治療のために二週間ほど永遠亭でお世話になって、そしてなぜかうちで引き取ることになった。
なぜかっていうか、私が引き取るって言い出したんだけども。
でもさ、確かに提案したのは私だけど、まさか頷くとは思いもしないじゃない?
言ってしまった以上は無かったことにするわけにもいかず、完治するまでって条件付きでこうして居候させることになってしまった。
哨戒部隊の仕事に復帰できる程度に怪我が治るまでは、もうしばらく面倒を見るつもりではある。
そんな私の行為に対して恩義を感じてくれているのは素直に嬉しいし、恩返しのために家事全般をこなしてくれてるのもかなり助かってる……けども。
ただ、ペットにするってのは、さすがに、ねえ?
「私にそんな趣味は無いっての。
ほら、さっさと自分の席に戻って、落ち着いてお茶でも飲んだらどう?」
頼み事をするだけなら、机を挟んで対面した状態でも良いはず。
なのにわざわざ私の横まで移動してきた時点でいやーな予感はしてたんだけど、まさかこんなことを言い出すとは。
緑茶の苦味が彼女に正気を取り戻させてくれるといいんだけど。
「むぅ」
椛はしぶしぶ、と言った様子で私の向かいにある自分の定位置まで、座ったまま、足を引きずりながら戻っていった。
そして私の指示通りにお茶を啜る。
不満はあるけど、私の言葉を無視するわけにはいかない、そんな心理状況。
ほんと律儀な性格してるわよね、おかげで制御しやすいんだけどさ。
「私は落ち着いてるんですよ、考えに考え抜いた結果なんです」
「なら考えに考えに考え抜きなさい」
「一緒じゃないですか」
「一回分足りてないのよ、ペットになりたいだなんて血迷ったとしか思えないわ」
「ダメですか……」
「だーめ」
耳を垂らしながら落ち込む椛。
相手が椛じゃなかったら、二言目には怒鳴りつけてる所だった。
いや待った、なんでこの子相手だからって甘くしなきゃなんないのよ。
手負いとは言え、相手は妖怪だってのに。
”完治するまで”って曖昧な基準を決めた私が悪いんだけど、本当ならもう一人で生活するには十分なぐらい治ってるはずなのよね。
なのに、追い出そうともしないなんて。
一応、私の立てた予定では、椛が自分から神社を出てってくれるはず、ってことになってたんだけど。
だって、野良妖怪と違って椛には天狗の里って言う居場所があって、そこには自分の家だってあるだろうから、ちょっと旅行に行っただけでも、自分の家って恋しくなるものじゃない?
まさかここまで懐かれるとは思ってなかったし、追い出す手段を考えてなかった私が悪いと言えばそれまでなんだけど。
「霊夢さんは、私のことがお嫌いですか?」
椛は目を潤ませながら私を見つめている。
そ、そんな顔されたって、私は絆されないんだからね、博麗の巫女舐めんじゃないわよこのやろー!
……と、まあこんなことを考えてる時点で絆されてるって白状してるようなものよね。
「どうしてそういう話に持っていくかなあ。
嫌いなやつを助けたり預かったりするわけないでしょ」
「霊夢さん……!」
正直な話をすると、彼女を助けた時点では好きでも嫌いでも無かったんだけど。
お見舞いに行ったり、一緒に暮らすようになって、彼女のことを知ってしまって――あんなに良い子っぷりを見せつけられたら、嫌いになんてなれるわけがないじゃない。
「だったらぜひペットに!」
「しつこいっての!」
その後、強引に首輪をつけようとする椛をどうにかこうにか説得して、諦めさせることに成功した。
今回だけ終わってくれればいいんだけど。
今後また同じやり取りを繰り返すんだとしたら、私の心が少しでも揺れやしないかと心配だ。
私だって、自分の心配してる時点でかなりやばいってことはわかってるのよ?
そして翌朝。
ペット騒動の翌日なだけに、朝から妙なことを言い出すんじゃないかと警戒してたんだけど――
「霊夢さん、起きてください。
朝ごはんできましたよ」
私を起こしてくれたのは、いつもの朝と変わらない、実に良い子ちゃんな椛だった。
ここ最近の私の朝は、椛に起こされることで始まる。
柔らかで丸っこい、目覚ましとして最高級の優しい声に導かれ、夢の世界から現実へと引き上げられる私。
椛に起こされるようになってから、寝覚めが非常に良好なのは喜ぶべきなのか嘆くべきなのか。
世界に二つと無い、この高性能目覚ましを手放せなくなりそうでちょっと怖い。
その上、料理も上手だし、その他家事全般もそつなくこなすし、何より一生懸命で、妖怪のくせに私よりよっぽど生活能力が高いというハイスペックぷり。
このままずっとうちで暮らしてくれるならペットでも……と一瞬でも考えてしまうのは、私が変態だからじゃないと思いたい。
椛の性能が高すぎるのが悪いのよ。
「おはようございます」
目を開けると、エプロン姿の椛が笑顔でお迎えしてくれた。
その刹那、確信する。
ああ、この子絶対にいいお嫁さんになるわ――と。
朝食の準備から目覚まし係まで、面倒な家事を全部押し付けてるってのに、どうしてそんなに笑えるのか私にはわからない。
わからないんだけど、笑いかけられて嫌な気分ではなかった。
『霊夢さんの役に立てるのが嬉しいんですよ』
そう椛は言っていたけれど、尽くされるほどのことをやったつもりなんて無いのに。
誰だって、椛の置かれた状況と、助ける手段さえあればそうしたと思う。
特別なんかじゃない。
憧れられるようなものでもない。
尽くされるべき英雄なんてどこにもいない。
椛が幸せならそれでいいのかもしれないけど、さすがに任せすぎて申し訳ない気分になってしまう。
かと言って、仕事を奪うと逆に悲しい顔をされるのよねえ。
うーん……どうしたものか。
まあいいや、小難しいことは朝に考えるべきじゃない、また別の機会にしよう。
とりあえず、目を覚ましたんなら、まずはやるべきことをやっておかないとね。
「おはよ、椛」
負けじと私も笑顔でそう言うと、椛の表情はさらに輝いた。
起き上がった私は、横目で鏡を見てさっと寝癖を直し、先に部屋を出た椛を追って居間へと向かう。
机の上にはすでに朝食が準備されていて、炊きたてのご飯と焼き魚の香ばしさが、寝起きの胃袋を一気に覚醒させた。
最初に朝食作りを任せた時は、気合を入れすぎてとんでもない量を朝から食べさせられたもんだけど、今では量を抑えて質を取るスタイルに変わっている。
ゆっくり眠れる上に、こんなに美味しい朝食にもありつけるってんだから、椛さまさまよね。
毎朝二人分の朝食を作るのは大変なはずなのに、よく自分からやるって言い出せるわよね。
任せっきりで申し訳ない気持ちはどうやったって消えやしないんだけど、どうせ私がやるって言ったって譲ってくれないんだし、神社にいる間ぐらいは任せることにしよう。
それに、『霊夢さんが美味しそうに食べてくれるのを見るのが、私の幸せなんです』なーんて言われちゃったら、もう何も言えなくなるに決まってるじゃない。
今日だってほら、私が食卓のついただけであんなに嬉しそうに笑ってる。
椛が笑うと、私の気分も高揚する。
――いつかは強引にでも天狗の里に帰さなきゃならないことぐらい、私にだってわかってる。
でも、こんなに日常が楽しいと思えることなんて久しく無かったから。
ご飯の時ぐらいは、暗い未来のことなんて考えたくはない。
朝食と身支度を済ませた私は、椛に見送られて人里へと向かった。
私の外出中に来客の可能性もあるんだけど、椛が神社に居るという情報はすっかり幻想郷中に広まっているので、トラブルの心配は必要ない。
幸いなことに天狗の新聞を介した情報でもないから、変に話が曲解されてる心配も無いし。
気がかりなのは、私が出ていく時にいっつも寂しそうな顔をしてることだけど……さすがに、人里を連れ回すわけにはいかないしねえ。
椛が私の指示に背くことは無いから、勝手に出ていく心配をする必要はないんだろうけど、ずっと神社に閉じ込めておくのも良策とは思えない。
ただ困ったことに、やんごとなき理由で”椛は危険な妖怪だ”って話が人里に広まっちゃってるのよね。
どうしよう、適当な理由でも付けて”今は力を封印しているので安全”って設定にでもしておこうかしら。
「よっ、霊夢」
人里での用事を終え、とある建物から出てきた私の背後から、飽きるほど聞き慣れた声が聞こえてきた。
「あら魔理沙じゃない、たまたま……ってわけでもなさそうね」
「神社に寄ったら椛が里に行ったって教えてくれたんでな。
里での用事と言えば米問屋の屋敷だろうと思って、近くで待ってたんだよ」
私の行動は魔理沙に筒抜けだったらしい。
付き合い長いし、これだけ毎日通ってればそりゃ気付かれるわよね。
魔理沙の言う通り、私は最近になってとある依頼を受け、米問屋の屋敷に通うようになった。
人里でも指折りの巨大な屋敷で、博麗神社の敷地をそのまま二階建てにしたんじゃないかってぐらいの大きさを誇っている。
……いや、さすがにそれは言いすぎかな。
でも具体的な大きさなんて知らないし……まあ、とにかく大きいってことで。
しかも、地下室まで作ってるなんて噂もあるらしい。
屋敷の主人は独身だって話だし、この巨大な屋敷に一人暮らしなんて寂しくないのかしら。
一応はお手伝いさんを雇ってるって話だけど、所詮は仕事で来てるだけだろうしねえ。
さて、なぜ私がそんな金持ちの屋敷に通っているかと言うと――”解呪”のためだったりする。
商売が安泰でも、どんなに強い用心棒を雇っても、人間というのは常に不安に追われ続ける生き物。
現実が満たされている者ほど、その不安はオカルト方面に向きやすい。
米問屋の主も例外ではなく、あるかもわからない”呪い”恐れて、私にお祓いを頼んでるってわけ。
「詳しい事情までは知らないが、あんな奴からの依頼を受けるとはね、尊敬するよ」
「皮肉じゃないでしょうね?」
「違う違う、純粋にそう思ってるから言ったんだ。
米問屋の主人と言えば、金に物を言わせて好き放題やってるって噂のろくでなしだろう?
人身売買の噂が流れたのだって一度や二度じゃない、私なら依頼が来ても突っぱねるね」
「私も乗り気ってわけじゃないし、リスクは承知しているわ。
でもリスクに見合うだけの報酬があるんだから良いじゃない。
今の私は二人分の食費を稼がないといけないんだから、仕事を選んでる余裕なんて無いのよ」
椛を預かるにあたって、最大の問題は二人分の食費をどう贖うか、だった。
幸い、椛はかかるお金以上の働きをしてくれてるし、椛が家事をしている間に私が里で稼げばどうにかなってはいるんだけど、理由の大半は米問屋からの依頼のおかげだったりする。
”おかげ”って言い方をするのは癪だけどね。
「家を守る椛に、稼ぎに出る霊夢……なんか夫婦みたいだな」
「冗談にしても笑えないわね」
「冗談では無いからな、笑ってくれていいぞ。
あー、そうそう、そんな感じが良い」
「笑ってない、呆れて引きつってんのよ」
冗談だったとしても、揶揄されるほどに懐かれてしまったこと、そして心を許したことは事実なのだから、ますます笑えない。
しかしそんな私を見て、魔理沙は脳天気にけらけらと笑っている。
魔理沙に限った話じゃない、椛の件で私が困った顔をすると、なぜかどいつもこいつも楽しそうに私を見て笑いやがるんだから。
「性格悪いわね」
「笑うなって方が無茶な話だぜ。
”あの”霊夢が妖怪と仲が良くなりすぎて困ってるなんて、こんな美味しいネタは他に無いからな」
「仲良くなってないっての! あの子が一方的に懐いてきてるだけで……」
「でも、養ってるんだろ?」
「傷が癒えるまでよ」
「十分すぎるだろ、今までの霊夢だったら怪我した妖怪と出会っても見捨てたと思うけどな」
「それは――」
魔理沙の言う通り、今回ばかりは少し特殊な状況だった。
見捨てろ、深追いするな――
あの時の私もそう考えていたはずなのに、ただ逃げられない状況に追い詰められてしまっただけで。
正義感なんて大したものじゃない。
同じ状況なら誰だってそうした……はず、だから。
「いいじゃない、理由なんて別にどうでも。
助けたくなる時だってあるわよ、顔見知りならなおさらにね」
「気まぐれ、ってことか?」
「そういうことにしといて」
他人に理由を話すつもりはない。
例えそれが、信頼できる魔理沙だったとしても。
「ま、お前が椛に肩入れする理由もわからないでもないんだけどな。
人懐っこい上に正直者で素直と来たもんだ、加えて働き者だ。
霊夢に足りてない要素が一通り揃ってる、あいつを嫌いになれる人間なんて滅多に居ないんじゃないか」
「一言多いけどフォローありがと、そう言ってもらえると少しだけ気が楽になるわ」
博麗の巫女が簡単に妖怪に絆された、なんて話が広まったら商売上がったりだもんね。
絆された事実は変わらなくても、”簡単じゃなかった”という点は強調しておきたい。
「しかし、いくらなんでも良い子すぎる、なんか一つぐらい欠点はないのか?」
「欠点ねぇ」
突然ペットになりたいと言い出す……ってのは魔理沙に教えると色々と面倒になりそうだし却下。
家事を張り切りすぎるとか、甘えんぼな所とか、あえて言おうと思えばいくつか思い浮かびはするんだけど、どれを言ったって受け取り方によっては長所になるわけで、欠点って言うには弱すぎる。
他に、欠点らしい欠点と言えば――
「あ、そうだ」
「何か思い浮かんだのか?」
「お風呂が長いわ」
「唯一思い浮かぶ欠点がそれなのかよ!」
むしろ椛のすごさを際立たせる結果になってしまった気がしないでもない。
しかも、綺麗好きなのは一概に欠点ってわけでもないしね。
やっぱり、私が知る限り椛に欠点なんか無いんじゃないだろうか。
「つまんねーなあ、もっと人には言えないような欠点とか色々あったら楽しめるんだが」
あったとしても、絶対にあんたには教えないけどね。
節度は守ってくれるでしょうけど、椛の状態だって万全とは言えないわけだし、うちにいる間は出来る限り守ってあげたい。
特に魔理沙みたいに、人をからかって喜ぶような輩からはね。
「とにかく、椛のことに関しては、近いうちに天狗……そうね、文あたりに相談してみて、結論は出すつもりよ」
「そうだな、最終的にはあいつらが引き取ってくれるのが最善だろうし」
故郷を思う気持ちに人間も妖怪も無い。
帰るべき場所があるというのなら、そこに戻るべきだと、私はそう考えている。
それに、椛だって帰れるんなら帰りたいはずなのよ。
所詮私たちは他人、神社は彼女にとって一時の宿にすぎない。
それに、歪な環境に身を置いていれば、いつか必ず本人にも影響が及ぶ。
博麗の巫女と妖怪。
一時的に交わることはあっても、本当の意味で互いを理解することは出来ない。
いや……してはならない。
だから私たちは、歪んでしまう前に離れなければ。
できればもう少し一緒に暮らしてたいけど、別れを嘆いたって仕方無い。
私たちは、そういう星の下に生まれてきたんだから。
人里での仕事を終え、神社に戻る。
玄関の扉に手をかけようとすると、中から不規則な足音が聞こえてきた。
「恥ずかしいからやめてくれって言ってるのに……」
椛は私が神社に近づいたことを匂いで察知できるらしく、玄関を開けるよりも前に気付いて、私を迎えようとするのだ。
今までは帰っても誰もいないか、魔理沙がだらけてるのが当たり前だったから、迎えてくれること自体はとてもうれしい。
帰ってくるのが楽しみになるっていうか、依頼を受けた時も”早く帰りたいから頑張ろう”って気分になってくるのよね。
でも、私が恥ずかしいって言ってるのはそこではなくて、匂いで私の存在がわかるって部分。
匂いが恥ずかしいってのは人間的な感覚なんでしょうけど、そればっかりは変えようがない。
かと言って、人間に比べて匂いに対して敏感な白狼天狗の感覚を変えられるわけでもないし。
犬は匂いで相手を覚えるらしいけど、白狼天狗は人型なんだし、そんな習性まで受け継ぐ必要無いと思うんだけどね。
だから文に犬っころとか呼ばれるのよ。
「おかえりなさい、霊夢さんっ」
玄関を開けた私を迎えたのは、満面の笑みを浮かべるエプロン姿の椛だった。
そんな彼女の姿を見てるとなぜか顔が熱くなって、直視できなくなってしまい、ついには目をそらしてしまった。
まさか、エプロン姿で迎えられるのがここまで強烈なインパクトだとは。
ああいうの何て言えばいいのかしら、新妻っぽいって言うの?
って、新妻だったらまるっきり夫婦じゃない、こんなんじゃ魔理沙に反論なんて出来ないわ。
「た、ただいま」
椛に怪しまれないよう、出来る限り平静を装って返事をした。
もちろん、視線は外したままで。
明らかに誤魔化しきれてないような気がするけど……まあ、いいでしょう。
椛はそこらへんに野暮な突っ込みを入れる子じゃないし。
「霊夢さん、ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも……あいたっ」
椛の額に、渾身のチョップが炸裂する。
ベタなボケしてんじゃないわよ、まったく誰からそんな芸を仕込まれたんだか。
「わざとやってるでしょ」
「霊夢さんが喜んでくれるって魔理沙さんが教えてくれたので、えへ」
えへじゃないわよ、可愛いから余計にむかつくわ。
「あいつめぇ……」
そういや、私に会いに来る前に椛に会ったとか言ってたっけ。
私の居場所を聞いただけかと思えば、余計な入れ知恵までするとは。
この苛立ちは、そのうち魔理沙本人に思う存分ぶつけることにしよう。
「嫌、でしたか?」
「そういうのは将来の旦那様にでもやってなさい」
「でもでもっ、霊夢さんの顔、見たこと無いぐらい嬉しそうでしたよ?」
「それは錯覚よ、忘れなさい、今すぐに!」
「いたっ、いたいっ、さすがに同じ場所を連打されると弱くても痛いですっ!」
渾身のチョップが追加で十発ほど炸裂する。
良くない、これは良くない傾向だぞ。
誰かが迎えてくれる喜びも、一連のやりとりの楽しさも、それに慣れてきている自分自身も。
当たり前なんかじゃないんだって、自分に言い聞かせておかないと。
これ以上慣れて、馴染んでしまえば、失うのが今以上に怖くなってしまいそうだから。
「ふぅ……こんなことやってたら夕食が冷めちゃうわね。
ほら、準備は済んでるんでしょう? 早いとこ食べるわよ」
「はいっ、実はお腹ぺこぺこだったんで、お風呂って言われたらどうしようかと思ってました」
自分で言っておいて困るんかい。
そんなことを言う椛の頭を無性に撫でたくなったので、ぽふんと手をのせ、わしゃわしゃと動かす。
髪が乱れているにも拘らず、彼女は耳を揺らしながら気持ちよさそうに目を細めた。
釣られて、私の頬も自然と緩んでしまうのであった。
翌日、昨日に続いて人里にやってきた私は、米問屋の屋敷に向かう前に鈴奈庵へと向かった。
私が小鈴ちゃんと面識を持ってから結構経ったけど、最近は経過観察の意味も含めて、最低でも週に一度は鈴奈庵を訪れるようにしている。
ちょうど、今日がその日だった。
あくまで博麗の巫女として彼女を監視するためであって、客として来ているわけじゃないんだけど、もちろん小鈴ちゃんに私の真意を明かすことは出来ない。
「いらっしゃいませ霊夢さんっ、そろそろ来る頃かなーと思ってました」
だから今でも彼女は、私のことを決まった曜日にやってくる常連さんと思ってくれているみたいで、人懐っこい笑顔で私を迎えてくれる。
罪悪感が無いとは言わないけど、これも博麗の巫女としての役目なのだから仕方無い。
しっかし、相変わらず胡散臭い店内ね。
彼女が妖魔本コレクターと知っているからそういう風に見えてしまうのかもしれないけど、どうにもこの店の雰囲気には慣れない。
落ち着かないというか、油断できないというか、巫女としての本能なんだろうか。
私個人としては小鈴ちゃんのことを気に入っているし、早いとこ妖魔本なんて危険な代物への興味が失せてくれると助かるんだけど。
そしたら私も、今度こそ純粋な客として鈴奈庵を訪れることができる、罪悪感に苛まれる必要も無くなるんだから。
「じー……」
監視と言っても、小鈴ちゃんの様子が変じゃないか確認する程度のもので、特別不自然な行動を取るわけじゃない。
場合によっては普通に本を借りていくこともあった。
と言うか、小鈴ちゃんに異常が無いかなんて見た時点でわかるんだし、鈴奈庵に入った時点で用事の九割は済んでいるとも言える。
後は適当に、椛の暇つぶしに使えそうな本でも見繕って帰ろう。
やっぱ料理本とか、家事絡みの本が良いのかな。
それとも剣術の、いや意外と小説なんかも――
「じぃー……」
なんだろう、すごく、視線を感じる。
鈴奈庵にいる客は私だけなわけだから、視線の主は妖怪でも居ない限り小鈴ちゃんしか居ないわけだけど。
「じぃぃー……」
ちらりと小鈴ちゃんの様子を確認する。
うわあ、見てる。すっごい見てる。
口でわざわざ”じー”と言いながら、わざとらしくアピールしている。
いかにも話しかけてほしそうな顔をしながら。
無視する……わけにはいかないんだろうなぁ。
嫌な予感はするけど、私はしぶしぶ、自分から小鈴ちゃんに話しかける。
「小鈴ちゃん、気になることがあるなら言ってくれないと、見られてるだけじゃわからないわよ」
「私の興味なんて一つしかありません、例の妖怪の話です」
だと思った。
まあ、小鈴ちゃんが妖怪に興味を持たないわけが無いわよね。
「椛の?」
「はい、妖怪の名前が椛さんかどうかはわかりませんが、たぶん椛さんです」
「興味あるのね」
「ありますよお、興味しか無いってぐらいあります。
なんでも噂によると、強い呪いの力を持った恐ろしい妖怪らしいじゃないですか」
小鈴ちゃんは前のめりになりながら、興味津々といった様子でそう言った。
椛には申し訳ないんだけど、便宜上『犬走椛という妖怪は、噛み付いた相手に呪いをかける恐ろしい妖怪で、今は博麗の巫女が傍に居ることでどうにか力を抑え込んでいる』と、そういうことにさせてもらっている。
退治しなかったのは、追い詰められた椛が米問屋の主にかけた呪いを発動させて、命を奪うといけないから。
そんな理由で、私はあの男を含む周辺の人々を納得させたってわけ。
おかげで、私は椛が神社に居ることを隠す必要もない。
もちろん椛にはそんな能力なんて無いし、性格だって人畜無害そのもので、下手すれば人間よりも大人しいぐらいなんだけどね。
「呪いは敵対した相手にしか使わない、だから本来は特に危険な妖怪ってわけでもないのよ。
敵対した相手を傷つけるのは、何も妖怪に限った話じゃないでしょう?」
「そうなんですか?
もっと見境なく誰も彼も噛み付いて回る、凶暴な妖怪かと思ってました」
「むしろ人間より穏やかなぐらいよ。
それに、今は私の力で封印しているから、呪いの力は使えないのよ」
「うーん、ちょっとがっかりです」
なぜそこでがっかりする。
こういう発言を聞かされるたびに、監視の必要性を実感してしまう。
自分から危険に首を突っ込んでいくもんだから、危なっかしくて目が離せない。
私や阿求が守ってなかったら、今頃どうなってることやら。
阿求が必要以上に過保護になってしまう気持ちも理解できる。
「でも考えてみれば、霊夢さんが一緒に暮らせるぐらいなんですもんね。
悪い妖怪なはずがありません」
「そうそう、家事全般だって任せてるしね、料理なんて私よりも美味しいぐらいよ」
「意外と家庭的なんですね……」
「妖怪と言っても、人食いだって居れば、人間と同じような食生活を送る妖怪まで色々なのよ」
それに、人間に混じって生きている妖怪だっている。
彼らに関しては、ちょっと不思議な力が使えて、寿命が長いこと以外は人間とそう大差は無い。
むしろ、内面では妖怪よりも化物じみた人間がうようよと居るんだから、そんな人間が妖怪や呪いを恐れるってのも妙な話よね。
椛の怪我だってそう、そもそもの発端は米問屋の主が――
「椛さんもそんな妖怪の一人だったんだとしたら、ちょっと可哀想ですね」
「可哀想?」
そんな言葉が、小鈴ちゃん――いや、人里の人間から出てくるとは思わなかった。
被害者ということになっているあの男が、椛に関する悪い話をさんざん里に流しているはずなのに。
「いつも通りの生活をしていたのに、急に捕まえられて、閉じ込められて、家に帰れなくなって。
そんなの、誰だって怖いに決まってるじゃないですか。
私だって嫌だし、逃げられるなら犯人を殺してでも逃げると思います。
それに、体の傷は癒えても、心の傷は簡単に癒えないでしょうし……」
「……そうねぇ」
「やっぱり、椛さんもそうなんですか?」
「まあ、さすがに無傷とは言えないわね」
一人で生きていけるかと問われれば、答えはイエス。
体を動かす分には、右足の動きが悪い以外には特に問題はなかった。
ただそれだけの傷なら、私だって椛を追い出すことを躊躇ったりはしなかった。
あー……いや、どうなんだろう、足の傷だけでも躊躇ってたかもしれない。
それに加えてもう一つ重大な問題があるもんだから、そりゃ悩みに悩むってもんよ。
その重大な問題って言うのが、小鈴ちゃんの言う通り”心の傷”ってわけ。
椛を引き取ったその日の内に、私は彼女に客間を一室与えた。
ここを自室として使っていい、と。
そして訪れる初日の夜、丑三つ時。
とっくに眠りについていた私は、何者かの気配を感じて目を覚ました。
侵入者かと思ったけど、それにしては足音も殺さず、気配を消そうとする様子すらない。
――ああ、やっぱり。
私の頭に浮かんできた言葉はそれだった。
入院中の彼女の姿を見て、なんとなくこうなる予感はしていたから。
椛はゆっくりとふすまを開き、こちらの様子を伺うように恐る恐る部屋に入ってくる。
枕を抱きしめながら、荒い呼吸を繰り返し、額に汗を浮かべるその姿は、何かに怯えているようにも見えた。
『あの、霊夢さん……起こしてしまって、ごめんなさい。
その、迷惑とは思ったんですが……私、私っ……』
こんなに怯えて、体まで震わせてるくせに、第一にやることが私への謝罪とはね。
こんなにもいじらしい姿を見せられて、放っておける訳がない。
思えば彼女を助けた時もそうだった。
椛の姿や声には、私の心に響く何かが含まれているのかもしれない。
『怪我人が遠慮なんてしないの。
私が甘やかしたくて連れてきたんだから、ここにいる間ぐらいは遠慮はやめなさい』
そう言って椛を抱きしめると、彼女は胸に顔を埋めてわんわんと泣き出した。
自分で甘えろと言っておいて何だけど、こういう時どうしたらいいのか、私にはよくわからない。
とりあえず背中を擦ってやると、椛の体から少しだけ力が抜けた気がした。
そのまま抱きしめ続けると、次第に椛の体の震えや涙は収まっていた。
『夢を、見たんです』
ぼそりと一言、椛はそう呟いた。
トラウマが一ヶ月やそこらで消えるわけがない。
彼女の負った心の傷が、どこかで表面化するとは思っていたけれど、それが夢だったってわけ。
こうなってしまうと、もう椛を一人で寝かすわけにも行かない。
それから私と椛は、同じ部屋で布団を並べて眠るようになった。
最初は毎日のように悪夢にうなされていたけれど、今では三日か四日に一度程度の頻度に減りつつある。
それに、悪夢の程度も徐々にマシになってきているようで、私が手を握ればそれだけで打ち勝てる程度には克服出来ていた。
それでもまだ、少しだけ足りていない。
でもあと少しの辛抱で、近いうちに悪夢だって一人で乗り切れるようになる。
……そう信じたい。
もし椛がうちを出て行くとしたら、悪夢を見なくなって、心の傷が完全に癒えた時、ってことになるんだろうけど。
悪夢の元凶はまだ生きているし、期待通りに事が進むかどうかは微妙な所だけどね。
「霊夢さんにも悩みとかあるんですね」
「え? どうしたのよ急に」
「自覚ないんですか?
そんなに悩ましい顔をしている霊夢さんを見るのは初めてです、これはとんだレアモノですよ」
「レアって……そうかもしれないけど。
そうね、らしくないことしてると、らしくない表情しちゃうもんなのかもしれないわ」
「でも、そういう霊夢さんも悪くないと思いますよ。
なんというか、悩んでるけど、慈愛に満ちてると言いますか」
慈愛ねえ。私が……椛に?
あるわけないって言いたい所だけで、言い切るには証拠が揃いすぎてて。
意識してそういう顔をしてたわけじゃないし、もう無意識のレベルにまで染み込んでるってことなのかな。
それが本当に慈愛なのか、私にはわからないけれど。
んー……いや、やっぱ慈愛と呼べるほど綺麗なものじゃないと思う。
本当に椛のことを想っているなら、彼女が徐々に快方に向かう現状を、心の底から喜ぶべきだろうから。
ペット発言にしてもそうだけど、椛が私を求めてくれるのは、未だ心の傷が癒えていないからに過ぎない。
弱気になった心から漏れ出る逃避。
私はそれを、諌める立場で居るべきだ。
傷が癒えれば、私は必要でなくなる。
椛は、帰るべき場所に帰っていく。
博麗神社は、その時が来るまでの仮宿に過ぎない。
それが最上の結末、満場一致のハッピーエンド……の、はずなんだけど。
私を必要として欲しい、求めて欲しい、出て行かないで欲しい。
そのためなら、怪我も、心の傷も、治らなくたっていい。
そう考えてしまう悪い私が、心の片隅に棲み着いている。
椛のハッピーエンドを嘆く私は、きっと彼女を堕落へと引きずり込む悪魔なんだ。
彼女の気持ちが変わっても、私が博麗の巫女だって事実は変わらないのに。
私が私である限り、どこまで行っても、私たちは交わらない。
私の気の迷いは、椛を不幸にするだけ。
何度だって、私は自分にそう言い聞かせる。
「眉間の皺が深くなってます。
ひょっとして、私の振った話題って触れない方がいいやつでしたか?」
「小鈴ちゃんのせいじゃないわ」
「と言われましても、困らせるのは私としても本意ではありませんから。
そうですね、ここはばっさりと話題を変えちゃいましょう。
えっと……そうだ。あ、でもこの話題は暗いなぁ……」
「あんまり気を使わないでよ」
「わかりました、じゃあ明るい話題じゃないですけど、ちょっと聞きたいことがありまして」
まあ、椛の話題以外だったらなんだっていい。
「霊夢さんは、米屋敷に入ったことがあるんですよね?」
……米屋敷?
ああ、もしかして、里の若い子の間じゃ米問屋の屋敷のことをそういう風に呼んでるのかな。
もちろん私も若いんだけどさ、ほら人里の人間じゃないし。
「あるわよ、最近は依頼を受けてて毎日通ってるわ」
「だったら、地下室の噂とか聞いたことありませんか?」
確かに聞いたことはある。
でも私が知っているのは、たぶん情報元が小鈴ちゃんと同じの、人里に流れている怪しげな噂に過ぎない。
屋敷の使用人たちと会話を交わすことはほとんど無いし、自由に動くことすら許されていないから、調べることも出来ないし。
「生憎だけど、小鈴ちゃんが期待しているような情報は持ってないわ」
「霊夢さんですら知らないとなると、本当に存在してないのかな……」
「小鈴ちゃんってそういう噂が好きそうだもんね」
好奇心は猫をも殺すって言うぐらいだし、できれば自重して欲しいんだけど。
でも、小鈴ちゃんから好奇心を取ったら何が残るのかしら。
「噂が好きとか、そういう話じゃないんです、これに関しては。
ちょうど二年ほど前の話になるんですが、友達が行方不明になってしまって。
行方不明自体はそう珍しい話ではないんですが、私にはどうにも妖怪の仕業とは思えなかったんです」
顔を伏せ、珍しく真面目な顔で小鈴ちゃんはそう語った。
友達と一言で言ってるけど、結構親しい相手だったのかな。
確かに小鈴ちゃんの言う通り、神隠しや人食いのせいで、人間が行方不明になるという事案自体はそう珍しいことじゃない。
増えすぎた人間は減らされる、そういう仕組みになっているから。
「妖怪の仕業じゃないっていう根拠は?」
「確証はありません。
でも当時、里で米問屋のご主人とすれ違った時に、彼女を品定めするような目で見ていたというか。
ねっとりとした視線を向けられて、とにかくすごく嫌な感じだったんで、もしかしたらと思って」
誘拐か、あるいは人身売買か。
どちらにしても、そんな噂話だけで屋敷を勝手に調べるわけにはいかないし、ましてや本人に話を聞けるわけでもない。
でも……いくら妖怪とは言え、人型である椛にあれだけのことをやったあいつが、人間の一人や二人攫ってたって違和感はない。
「でも……もう二年、ですもんね。
仮に誘拐されていたとしても、とっくに……」
――生きては居ないだろう。
私も同感だった。
もし誘拐が事実だったとして、相手が年端もいかない少女であるということは、目的が何なのかは想像に難くない。
少なくとも、まともに人間らしい扱いは受けられないはず。
二年という月日は、平穏であれば矢のごとく過ぎていくけれど、地獄の二年は、あまりに長い。
運良く命を永らえていたとしても、心はもう、原型をトドメてはいないんじゃないかな。
「調べられる機会があれば、それとなく探ってみるわ。
わかったら小鈴ちゃんには真っ先に伝えるから」
「ありがとう、ございます。
私にできることなんてほとんど何も無いのに、一方的に面倒をかけてしまってすいません」
「構いやしないわ。
代わりってわけじゃないけど、一つお願いがあるんだけど」
「何でしょう?」
「ちょっとね、椛に関する話を広めてほしんだけど――」
小鈴ちゃんは接客業という仕事柄、色んな人間と接する機会が多い。
噂を広めてもらおうにはおあつらえ向きの人材だった。
いつまでも椛を神社に引き篭もらせておくわけにはいかないし、そろそろ、ある程度自由に出歩けるように布石を打っておかないとね。
鈴奈庵を後にした私は、米問屋の屋敷へと向かう。
屋敷の近くで怪しげな人影を見かけたけど、それはひとまず後回し。
約束の時間にくれるとまずいので、寄り道はせずに真っ直ぐに屋敷の門へと向かう。
警備の男は私の顔を見ただけで通してくれたけど、相変わらず屋敷の中では使用人による案内付きでの移動だった。
「部屋の場所は覚えたから案内は要らない」と言っても、「主様からの申し付けですので」の一点張り。
ここまで頑なだと、やっぱり何か後ろめたい物があるんじゃないかと勘ぐってしまう。
二階にある主の自室にたどり着くまでの間、私は周囲を細かく観察したがら移動したんだけど、怪しい物は一つも見つからなかった。
ま、そんなわかりやすい場所に配置するわけがないわよね。
でも逆手に取って考えれば、私の通ったルートには隠し部屋は存在してないってことなんじゃないかしら。
もし屋敷を自由に動ける機会があったとしても、おそらくその時間はそう長くはない。
探索する機会が来るかどうかも微妙な所だけど、場所の目星ぐらいは付けておきたい所ね。
案内され部屋に入ると、小太りの男が悪趣味な金装飾の椅子に座っていた。
明らかに和室に合った椅子じゃないんだけど、高価で珍しかったら何でもいいんでしょう。
あえて確認するまでもなく、この男こそが米問屋の主だった。
齢は二十後半といった所かしら。
先代が暴漢に襲われ亡くなってから早五年、放蕩息子と呼ばれていた彼が跡を継ぐことに不安を抱く人は多かったみたいだけど、他の才能はさておき経営の才能はきっちり受け継いでいたらしい。
そのおかげか、米問屋の経営状況は至って良好。
良好すぎて色んな方面に手を広げているらしく、最近では妖怪相手の事業も始めようとしてるって噂すらあるぐらいだ。
さすがにそれは、博麗の巫女として見過ごせないけどね。
でも、いくら経営手腕が優れていても、人格が伴っているとは限らない。
父親の死や、十四で死んだ長男――つまりは兄の死すらも、彼の仕業ではないかと疑われるほどに評判が悪く、人望は皆無と言っても良いほどだった。
それでも寄ってくる女は絶えないらしい。
金目当てなんだろうけど、私には理解できないわ。
部屋に壁には骨董品や絵画、外から流れ着いてきた道具など、統一感のない品々が所狭しと飾られている。
手入れはしっかりとされているのか、それらの表面にはほこり一つ付いていない。
中には妖怪の標本なんてちょっとグロテスクな代物もあって、悪趣味は椅子に限った話じゃないことが一目で分かった。
どうやらこれは、彼にとって自慢のコレクションらしい。
人間は裏切るけど、物は裏切らないってことなのかしら。
壁には、椛の足に傷跡を残した例の銃も大事に飾られていた。
「霊夢さん、ちょうど良かった。
今日はどうも調子が良くなくてね、呪いのせいじゃないかと思うんだが……ああ、とにかく早く解呪してくれないか」
そう言って、彼は袖をまくって右腕を差し出した。
そこには微かにだけど、椛の犬歯によって穿たれた、二つの傷跡が残っていた。
私から見ても何の変哲もない傷跡で、放っておけばそのうち消えてしまいそう。
もちろん呪いの気配などは感じられない。
おそらく私より優れた巫女を連れてきても、強大な力を持つ妖怪でも、そして八意永琳でも、その腕から呪いの気配を感じ取ることは出来ないはず。
それもそのはず、解呪なんてのは、私がでっちあげた嘘なんだから。
最初は椛を屋敷から連れ出すため。
そして今は、二人分の生活費を養うため。
詐欺だってのはわかってるけど、この男が人間の法で裁けないっていうんなら、私たちが代償を払わせるしか無い。
……私が博麗の巫女じゃなかったら、とっくに殺してるのに。
「まったくあの犬畜生め、噛みつくだけでなく呪いまでかけやがって……。
霊夢さんが居なかったら大変なことになっていた所でしたよ」
「良かったですね」
畜生はあんたの方でしょうが。
いっそ解呪を装って呪ってやろうかとも思ったけど、それで人里での信用を無くすのはまずい。
仕留めるなら、私に疑いが向かない状況じゃないと。
今はただただ、この男に不幸が降りかかることを祈りつつ、呪いを解く振りを続けた。
その後も、男は椛への不平不満を漏らし続けた。
一度噛みつかれたのがよほど気に食わなかったのか、あることないこと言いたい放題。
叫び声が気に食わないだとか、触ってやっても反応が無いだとか、体の”具合”が悪いだとか。
どうして私は、こんな男に……くそ、くそ、くそっ、いつまでこんな愛想笑いを続けないといけないのよ……ああ、どうして、どうして――
二人分の食費なんて、その気になれば男に頼らなくてもどうとでもなった。
問題はそこじゃない。
例え嫌われ者だとしても、男は人里において絶大な権力をもっている。
それこそ、妖怪たちから目をつけられるほどに。
何より彼は――”人間”だったから。
私は、博麗の巫女は、人殺しなんかじゃない。
妖怪になりかけた人間を殺すことはあっても、無為に人殺しをする権限までは与えられていない。
でも……殺したい。
博霊の巫女とかどうでもいいから、この場で、この男を殺してしまいたい。
なのに、殺せない。
茶番は続く。
世間話、愛想笑い、社交辞令。
椛への罵詈雑言を聞き流す、憎しみを表面化させることは許されない。
胸の底に溜まり溜まっていく、黒き泥の塊。
それだけじゃない。
同じ空気を吸っているという事実が、現実が、私の体を毒のように冒していくようで。
汚れている。
黒ずんでいく。
だけど、私を取り巻く環境が、彼を害すことを許してくれなかった。
私にできることは、せいぜいせこい手を使って、男から金をむしり取るだけで――
屋敷から出た私は、一直線で神社に戻ることにした。
不審者の件は明日でもいい、明後日でもいい、あれが男に害をなす存在なら放っておけばいい。
今はただ、彼女の声が聞きたくて、温もりが恋しくて、たまらなかった。
「霊夢さんおかえりなさいっ」
玄関を開けた私を、椛の笑顔が迎えてくれる。
「ご飯にしますか、お風呂にしますか、それとも……」
椛は昨日と同じやり取りをあえて繰り返そうとしている。
でもごめん、椛。
今日は期待通りの反応はできそうに無いわ。
「あんたにする」
「私に……って、え、えええええぇっ!?」
慌てふためく椛を、私は無言で抱きしめた。
いくら余裕がないとは言え、椛の体を求めるような発言はどうかと思ったけど……良かった、椛は気にしてないみたい。
いや、気にしてないっていうか、それどころじゃないって感じね。
そういう初心な反応も、私の淀んだ気持ちを浄化してくれる。
「霊夢さんっ、そのっ、さ、誘ったのは確かに私ですけども……急すぎて、心の準備がっ!」
「いいから大人しく抱かれときなさい」
「ひゃ、ひゃいぃっ!」
同意を得られたってことで、いいのかな。
いいや、よく聞こえなかったけどそういうことにしておこう。
椛の胸に顔を埋める。
体温が、柔らかさが、そしてやたら早い心音がなんだか面白くて、私の気持ちは次第に落ち着いていった。
そう、私はあいつを殺しちゃいけない。
人殺しは禁忌だとか、今更そんな綺麗事を振りかざすつもりはない。
でも、あいつを殺せば、真っ先に疑いを向けられるのは椛だ。
その時は私が自分で名乗り出るつもりではあるけど、迷惑をかけてしまうことに変わりはない。
あの男の命に大した価値は無い。
殺したせいで今の生活を失うぐらいなら、歯を食いしばって我慢するべきだ。
「人里で何かあったんですね?」
何も言わずに頷く。
椛は全てを察してくれたのか、それ以上は人里での件について何も聞いてこなかった。
「いつもは私が霊夢さんに甘えてばかりですから、霊夢さんから甘えてくれて実はかなり嬉しかったりするんですよ。
誰かに必要とされるのって、素敵なことなんです。
だから……今日は気が済むまで甘えてくださいね」
椛はいつか私が彼女にそうしたように、私の頭を撫でている。
慣れていないのか、手つきはぎこちなかったけれど――気持ちがこもっていたから、百点満点をあげようと思う。
甘えて、甘えられて。
底なしの沼に落ちていくように、私たちは抜け出せなくなっていく。
いや違うか。
この場合、自分から沼に突っ込んでるって言った方がいいのかな。
追い出すと言っておきながら、自分から抱きついてみたりしてさ。
なんか自分でも、何がやりたいのかわかんなくなってきた。
好きで、一緒にいたくて、それでいいんじゃないかな。
だめなのかな。
だめ……なんだろうな。
それを許してしまったら、今まで”博麗の巫女だから”って無理やり自分を納得させてやってきたこと、全部何だったんだってことになるし。
あーあ、めんどくさいな。
なんで私が巫女で、椛が妖怪だったんだろ。
まあ、じゃなきゃ最初から一緒に暮らすことにはなってなかったんだけどさ。
でも、恨みたくもなるって。
だって椛の腕の中、こんなにあったかいんだもん。
これを手放せとか、神様も酷いこと言ってくれるよね。
昨日は例の不審者を後回しにしてしまったけど、気持ちが落ち着いた今、放置する理由がない。
案の定、今日も屋敷の周囲をうろうろとしてた、尼頭巾を被った怪しげな女性を発見。
尼頭巾自体は、珍しくはあるけど不審ってほどでもないし、具体的にどう怪しいのかって言われるとうまく説明できない。
でも私の勘が告げてるのよ、あいつは普通の人間じゃないって。
早足で歩み寄ると、そいつは露骨に私から距離を取ろうと離れていく。
私が駆け寄ると、あちらも慌てるように速度を上げたけど、もう遅い。
腕を掴み、頭巾越しに耳元で告げる。
「危害を加えるつもりはないわ、ただ聞きたいことがあるだけよ」
私の言葉を聞くと、彼女はそれ以上抵抗しなかった。
「人目の付かない場所に行きましょう」
手を引いて、人気のない場所へと連れ込む。
女性は一切抵抗せず、従順に私についてきた。
初対面の相手にしては大人しすぎる。
なんとなくそんな気はしてたけど、どうも彼女は私の知り合いらしい。
変化……狸かしら。だとすると、マミゾウあたり?
でもあいつが米問屋を調べる理由が見当たらないし、天狗あたりかな。
でも文は、人里に来る時に変装はしても変化なんて使ってなかったはず。
「ここいらでいいでしょ? あんまり屋敷から離れたくないんだ」
女性はそう言うと、頭巾と羽織っていた上着を脱ぎ去る。
ヴェールのように舞う衣服の向こうから姿を表したのは、河童――河城にとりだった。
明らかに縦の縮尺が合ってないんだけど、どういう仕組みなのよそれ。
変化を使ってるんだろうし、身長ぐらい変えられても不思議じゃないのはわかる。
それでも、こうやって目の前で見せられると、我ながらよく見抜けたなと感心してしまう。
変化って便利よねえ、妖怪の特権だとしても羨ましいわ。
私にも使えたら、証拠を残さずにムカつくやつをぶっ飛ばせるのに。
それにしても、米問屋に用事があるってことは椛の関係者の可能性が高いわけだし、なんで彼女の名前が出てこなかったんだか。
にとりはプライベートで遊ぶくらい仲の良い相手だって、椛本人から聞いてたのに。
「なんだ、あんただったのね」
「って、気付いてないのにこんなところに連れ込んだのかい!?」
「怪しい人影を見かけてね、十中八九妖怪だろうって目星はついてたのよ。
結果的に当たってたんだからいいじゃない」
「博麗の巫女の勘恐るべし……。
でもさ、そんなこと言いながら、実は椛絡みの案件だと思ったから強引な手を使ったんじゃないの?」
気付かれてたか、そりゃそうよね。
でもそれはお互い様よ。
「あんたも椛のために、米問屋のこと調べてたんでしょう?」
どうして今更、という疑問は残るけど。
「まあ、椛のためかどうかはさておき、関係ないとは言い切れないかな。
私が調べてるのは、椛の足を傷つけたっていう銃のことさ」
あの男のコレクションとして飾られてる銃のこと?
確かに凶器は重要かもしれないし、銃の見た目からして河童向きの案件かもしれないけど……その前に、もっと椛本人のことを心配しろっての。
椛が入院したてのころ、永遠亭にお藻舞に来て以来、一度だって顔すら見せてないじゃない。
「椛が至近距離で銃を向けられて無抵抗なわけがない、つまり椛が経過する必要が無いと判断する程度には距離があったはずなんだ。
そんな射程距離を持っていて、かつ的確に体に当てられる程の精度を誇る銃が、人里で作られていたのだとしたら――」
「人間と妖怪のパワーバランスが崩れる可能性があるとでも言いたいの?」
「一丁や二丁作れた所で脅威にはならないだろうけどね、念のためってことさ。
人里の技術レベルが急激に上昇して妖怪たちに対抗する力を手に入れてしまったら、博麗の巫女としても困るでしょ?」
別に私は困らないけどね。
幻想郷や、博麗の巫女のシステムを作った連中が困るってだけで。
「心配しなくても、あんなもの里で作れるわけがないわ」
「あ、やっぱり?」
にとりの反応は最初からわかっていたように、あっさりとしたものだった。
「命令されて調査してたんだけどさ、それぐらいわかりきってるよね」
妖怪の山の上層部が本当に現状を危惧しているのなら、もっと大々的な調査が行われるはず。
にとり一人って時点で、連中も大した問題だとは思ってなかったんでしょう。
「むしろ私としては、河童が作った武器が流れてる可能性を考えてたんだけど」
「それはないね。
上の連中の命令ならまだしも、個人でんなことやってたら、バレたら良くて追放、処刑でも妥当なぐらいだもん」
「上の連中ねぇ……」
以前はもっと回りくどい方法で、妖怪たちは人里における勢力争いみたいなことをしていた。
それが最近では、少し直接的な方法を使うようになっている気がする。
こうして、にとりが直接調査に訪れてきたこともそう。
今はまだ”ありえない”と笑えても、そのうち河童が人間に武器を与える、そんな時が来るのかもしれない。
それが幻想郷の掟に許されるかどうかは、別としてね。
「……ま、今回はあんたの言葉を信じておくとして」
疑う理由も無いしね。
この件に関しては、私と彼女は味方同士のはずだから。
「河童の線が消えたとなると、外の世界から流れてきたもので決まりね」
元からそういう漂流物を蒐集するのが趣味だったみたいだし、銃弾も一緒に流れてきたんだとしたら、試し撃ちをしてみたいと思うのが人の性。
まったく、愚かよね。
壁に飾って満足しておけば、妖怪たちから目をつけられることも無かったでしょうに。
「そういう結論になっちゃうよね。
だったら良いんだ、これで一件落着ってことで」
「何が一件落着よ、まだいちばん重要な問題が解決してないわ」
「これ以上に重要な問題って?」
「椛のことよ!」
「あー……そっか、そうだよね」
見舞いに来なかったとしても、事の顛末ぐらいは誰かから聞いているはず。
にとりも、私が椛の名前を出しただけで何の話なのか理解した様子。
つまり彼女にも、大なり小なり罪悪感があるってことでいいのかしら。
「でも私は河童だし、椛は天狗だし、直接関係があるわけじゃ……ってうわ、怖っ、そんな殺気ダダ漏れにして睨むことないじゃんかよぉ!」
にとりの言い分にも一理はある。
本来なら椛の身柄は天狗が引き取るべきであって、河童であるにとりに責任を負わせるのも筋違いと言われれば筋違い。
でも、椛の身柄を預かる優先順位としては、人間である私よりも、同じ妖怪の山の住人であるにとりの方が当然上なはず。
加えて、にとりは椛の友人らしい。
事件以前はただの他人だった私よりも、よっぽど頼りにされていたはず。
別に椛を預かりたくなかったってわけじゃない。
ただ、椛だって人間よりは妖怪の知り合いの方が安心できたんじゃないかと思うのは当然のことじゃないだろうか。
「椛を誰も迎えに来なかった件だよね、そっちの言いたいこともわかるよ?
私だって、最終的に誰も引き取らずに、どうしようもなくなったら匿うつもりでいたんだ。
いや、本当に、嘘なんかじゃないって!」
「ふぅん……」
「椛のことだし、例え帰る場所が無かったとしても、永遠亭の連中に面倒をかけないように素直に出ていくことは目に見えてたからさ。
もちろん、迷惑がかかるってわかってるのに、自分から他人に頼み込んだりもしない」
「その前に私が連れて行ってしまったと」
それは、わかる気がする。
椛がうちの家事を自分から引き受けてくれたのは、迷惑をかけてるって自覚があるからだろうし。
自覚があるからって、私が迷惑だと思ってるかどうかは別なんだけどね。
私としては、椛が居てくれて大助かりなんだけどね。一人で暮らすよりもずっと良い。
「予想外の展開だったよ、まさか博麗の巫女が椛のことを預かるとはね。
せっかく椛用の布団まで買って準備してたってのに。
何なら部屋を見せて証明したっていいよ、新品の布団がさびしそーに置いてあるからさ。
場所取って邪魔なんだよね、いっそ持っていく?」
「いらないわ、足りてるから」
河童の使ってる布団なんてどんな機能が隠されてるかわかったもんじゃないわ。
ま、そこまで言うのならこれも信じてやっていいかな。
でも、気になる点が一つだけ。
「ところで、あんたの言い方だと――天狗の連中が椛の面倒を見ないことを予め知っていたように聞こえるんだけど、気のせいかしら」
「知ってたっていうか、勘づいてただけだよ。
実は、椛が入院してすぐに、文から”椛の様子を気にしてあげて”って言われたんだ。
河童である私にわざわざそんな事を言うのはおかしいし、その後は文たちがお見舞いに来る様子も無かったからピンときたの。
要するにあれは、”椛の事を頼む”っていう遠回しなお願いだったんだろうって。
言っとくけど、詳しい理由は知らないからね?
どうせ偉い天狗が我が身可愛さに馬鹿みたいな命令だしたんだろうけど、
天狗社会って意外と窮屈なんだよ、上からの命令には逆らえないみたいだし」
堅苦しい上下関係、ね。
椛には友人が居なかったわけじゃないし、誰もお見舞いに来ないは不自然だとは思ってたけど、やっぱりそういう理由だったか。
でも、例えどんな理由があったとしても、仲間を見捨てて、こともあろうに人間に押し付けるなんて許されることじゃない。
「ちょっと待ってよ、そんなに睨まれたって私にはどうにもできないからね?」
自分自身が貶された時以上の怒りに、自分でも驚いていた。
誰にだって故郷を恋しく思う気持ちはある。
だから、どれだけ時間がかかっても最終的に椛は天狗の里に帰るべきだし、それ以上の最善は無いと今でも思っている。
けれど私には、天狗たちがそれを認めていないように感じられたから。
「天狗が悪いってことは理解しているわ。
それでも、友達だって言うんなら顔ぐらい見せてくれたっていいじゃない、あんたに当たりたくもなるわよ」
「どんな顔して会ったら良いかわかんなかったんだ。
もしかしたら椛は、天狗の里から見捨てられてるかもしれないんだよ?」
「そんなことっ!」
「だから私を睨んだって仕方ないってば、それにあくまでこれは仮説だから。
怪我している間は役に立たないから自分でどうにかしろって事かもしれないしね。
でも、誰もお見舞いに来なかった事とか、わざわざ文が私に頼んできたこととか、色々考えたら……」
「っ……」
思わず頭を抱える。
もし本当に、椛が見捨てられていたとしたら――あらゆる前提が崩れてしまう。
傷さえ癒えれば、また天狗の里に戻れるものとばかり思っていた。
そう思っていたからこそ、私は椛を預かった。
例えそれが甘い処置だったとしても、帰ることを前提にさえしたら許されると思っていたから。
でも……もし、まだ決まったわけじゃないけど、本当に椛が里に帰れないって言うんなら、行く宛が無いって言うんなら、神社から出てった後に一体どこに行くって言うのよ。
思い返せば、永遠亭から退院したときだってそうだった。
一人でふらっとどこかへ行こうとして。
今になって思えば、あの時も行く宛なんて無かったんじゃないかな。
手負いの白狼天狗が、幻想郷に一人放り出されて、長く生きていけるとは思えない。
つまり、あの時の椛の行動は、自殺に近い行為で。
だったら今の、椛を神社から追い出そうとする私の行為は――
「だ、大丈夫? 急に顔色が悪くなったけど、そんなにショックだったかなぁ」
「椛はそのこと、知ってるの?」
「さすがにそれはわかんないかな、知っての通り最近あんまり会ってないから。
むしろ私よりも霊夢さんの方が知ってるんじゃないの?」
心当たりなんて、そんな物は無い。
トラウマを掘り起こさないように、関連する話題は徹底して避けてきたから。
だから私は天狗の事情なんて知らないし、椛も自分から話すことはなかった。
……どうして、話さなかったんだろう。
これだけ一緒に暮らして、親しくなったのに、一度も聞いたことが無いのは逆に不自然じゃない?
それは本当に偶然だったの? それとも意図的に?
目を背けようとしなければ、疑惑はいくつも浮上してくる。
その中でも特に、強い疑念を抱く言葉が一つあった。
「ペット……」
「ペット? 何だいそれは」
「椛が言ったのよ、その……私のペットにしてくれって。
あまりにぶっ飛んだ提案だったから深く考えなかったけど」
それが帰る場所が無いことを知った上での発言だとしたら、意味合いは大きく変わってくる。
居場所がない椛の、居場所を欲する椛のその言葉は……本当に、馬鹿げてたのかな。
「……重すぎるっての」
意味を理解した所で、簡単に受け入れられる物でもない。
自分の人生でも博麗の巫女って重荷を背負って精一杯なのに、他人の人生なんて背負えるわけがないじゃない。
例えそれがペットだったとしても、命も重みが変わるわけじゃないんだから。
「ペット、か。
白狼天狗ってのは、プライドが高くて自由を愛する種族なんだ。
だからこそ、犬扱いされるのをかなり嫌がる。
弾圧されてきた歴史があるからね、その反動なんだろうさ。
そんな椛が、自分からペットになりたいって言い出すなんて相当のことだよ」
「そこまで追い詰められてたってことよね」
「見捨てられたって話はあくまで推測だから、決まったわけじゃないよ。
でも、意味もなく椛がそんなことを言い出すとは思えないし、気にかけておいた方がいいかもね。
表面上は元気に見えても、椛って一人で色々抱え込んじゃうタイプだからさ」
「そう、なんだ」
さすがに付き合いが長いだけあって、椛のことはよく知っているらしい。
胸がチクリと痛む。
これ、もしかして嫉妬ってやつかな。
まさか河童相手に嫉妬するとは、順調にのめり込んでるわね、私。
「特に霊夢さんの前じゃ本心を明かしたくないと思うかも。
恩人だもん、ただでさえ迷惑かけたくないって思ってるのに、弱音なんて吐けるわけがない」
「迷惑なんて、私はただ助けただけよ」
「それ本気で言ってる? 命と尊厳を救っておいてさ。
さっきは重すぎるって言ってたけどさ、むしろ霊夢さんが自分の行いを軽く見すぎなんじゃないの?」
「特別なことをした意識は無かったのよ」
「それはまずい、早急に認識を改めるべきだ。
霊夢さんは間違いなく椛にとって英雄だよ、プライドを捨てて尽くしていいと思えるほどに椛の心を塗り替えてるわけだからね」
英雄なんて、どこにもいない。
あの日、私は見捨てようと思っていた。
助ける義理なんて無いと、その場を立ち去ろうとしていた。
微かに聞こえた椛の叫び声が怖くて、逃げられなくなっただけで――英雄なんて、そんな綺麗なものじゃない。
「過大評価ね」
「わかんない人だなあ。
霊夢さんが椛を助けた経緯はどうであれ、椛の方はそれを知らないわけだ。
お互いに事情があるとしても、椛がどう考えてるのかを知りたいんだったら、余計な要素は削ぎ落として考えようよ。
大事なのは結果さ。
椛はその時どうなってた? そんな椛に霊夢さんは何を与えてあげたんだい?」
椛は、どうなっていたんだっけ。
思い返す、想像する。
あの日、あの状況になるまで、彼女は何をしていたのか。
椛は――森で米問屋の主に銃撃された。
山に住む妖怪が、麓や人里の近くまで降りてくるのはそう珍しいことじゃない。
正体を隠して取材や物資補給に来てる妖怪だって頻繁に見かけるぐらいだ。
その日、椛が森を訪れたのは、山菜か茸でも採るためだったんだろう。
鼻も利くし千里眼だってある、椛は近くに人間が居ることを察知していただろうし、ひょっとすると武器を持っていることも把握していたかもしれない。
でも、逃げる必要は無いと判断した。この距離で自分を正確に射抜く武器なんて人間が持っているはずないと思っていたから。
しかし、想定外は起きた。
放たれた銃弾は椛の右太ももに命中、肉を抉り、骨を削って停止した。
あまりの激痛に、椛はのたうち回ったはず。
太ももということも考えると、流れていた血は大量だったはずだし、出血によって命を落とさなかったのは不幸中の幸いと言う他ない。
さすが妖怪と言った所だろうか。
けれどその時、椛は意識を保てなかった。
ぐったりと倒れる椛に、男は満足げに近づくと……妖怪を一人でかついで人里に帰れるとは思えないし、お付きの人間にでも命令して、袋詰めにして持ち帰ったんじゃないかな。
銃を持って森に向かったってことは、狩猟でもするつもりだったんでしょうし、獲物を詰めるための袋があったっておかしくはないから。
「銃撃された時点で、死は覚悟してたと思うよ」
なのに、椛は再び意識を取り戻してしまった。
冷たく、硬い、鉄の檻の中で。
「次に意識を取り戻した時、辱めを受けることも想像してたんじゃないかな」
屋敷へと連れてこられた椛は、治療もほとんどされないまま、主の部屋にある檻に入れられた。
檻に関しては実際に見たことがあるから知っている。
中には”餌”を入れるための小さな皿と、厠代わりの容器が置いてあるだけだった。
……もちろん、衣服なんて与えられるわけがない。
与えられる餌を手で掴み食らう様子も、用を足す様子も、男は笑いながら見ていたんだろう。
あの、今でも記憶にこびりついている、この世の悪を一つに集約したかのような不快な笑みで。
にやにやと、歯を食いしばりながら涙を流す椛を、眺めていたんだろう。
「でもさ、どんなに覚悟を決めたと言っても、耐えられるかどうかなんて実際に受けてみないとわからない」
男が望んだのは、ペットでも無ければ、慰めるための道具でもない。
玩具だった。
椛は時折、身動きの取れない状態にして檻から出された。
ベッドに縛り付けられ、想像した通りの辱めも受けただろうし、常軌を逸した責めも受けたことだろう。
救出直後に椛の体に付いていた傷で、何をされたのかはだいたい想像がつく。
そうやって椛は、体も、心も、壊されていった。
「例え我慢できたとしても、痛くないわけじゃない。辛くないわけじゃない。
どうせ誰も助けに来ないんなら、いっそ殺して欲しい。
これ以上プライドを汚されるぐらいなら……って、私だったらそう考えるかな」
米問屋の屋敷に天狗が捕らえられているという噂を聞いた私は、夜になってこっそりと屋敷の様子を見に行った。
その時点では助ける気なんてさらさら無くて、何か厄介事を引き寄せやしないかと心配になって見に来ただけだったのだ。
なのに、私は聞いてしまった。
その声を。
周囲に響くほどの力はなく、微かで、今にも消えそうな力ない声だった。
言葉に意味なんて無い、女性の呻き声が一度聞こえただけで、救いを求める言葉も無かった。
それは例の天狗の声なのだと、すぐに察した。
来なければよかった。
一瞬でもそう嘆いた私は、やっぱり英雄なんかじゃないと思う。
その小さな声が私の耳にまで届いたのは、奇跡だったのか、悲劇だったのか。
どちらにしろ、声は私をその場に縛り付けた。
痛みや苦しみが鮮明に伝わってくるようで、怖くて。
足が金縛りにあったかのように動かなくなる。
正義を騙る偽善心が、逃げてしまいそうな欲求の首を締めて”逃げるな”と私を叱った。
「実際の所、そこまで酷い有様だったかは知らないけどね。
椛を助けに行った時はどんな状況だったの?」
「……地獄、だったわ」
汗、血、男、吐瀉物、排泄物。
部屋に突入した私を迎えたのは、そんな不快を具現化したかのような匂いの塊だった。
充満した熱気と共に逃げ場を求めて外へと溢れ出した嫌悪すべき臭気は、私の体を包み込むように通り過ぎていく。
せり上がる吐き気をどうにか抑えつつ、部屋を観察する。
部屋の傍らにある、椛を捕らえていたと思われる檻。
中は空っぽだ。
そこに居たはずの椛は、ベッドに縛り付けられていた。
もはや暴れる気力も残っていないのか、時折外部から与えられる刺激に反応するだけで、すでに声を上げることすらできなくなっていた。
体の至る所に擦り傷、切り傷、火傷の痕――様々な種類の傷が痛々しく刻まれ、人間であればすでに命を落としているであろう量の血液がベッドを濡らし、そして床へと滴り落ちている。
特に酷い傷は右足にあった。
それは椛が捕獲された際に負った銃創。
まともに治療すらされなかったのか、傷の周囲は赤く腫れ上がり、傷口にはどろりとした白い膿がへばりついているように見える。
……いや、あれは本当に膿なのか。何かが蠢いているように見えたのは気の所為だろうか。
とにかく、椛の状態だけを見ても悪夢のような光景だった。
だが、それだけでは終わらない。
この屋敷の、米問屋の主が部屋には居るのだから。
彼は全裸で、目を充血させながら、実に楽しそうに椛の傷痕を棒のような物で弄っていた。
じきに間接的に触れるだけでは我慢出来なくなったのか、棒を投げ捨て、息を荒げながら直接指で傷口に触れた。
最初は自分で付けた腹部の小さな傷跡に。
次は腕、先程の傷よりかは深い切り傷を、くすぐるように、人差し指の先で撫でる。
そして脚部の銃創へ。
まるで愛する女にそうするように、自分の手が汚れることすら厭わずに、男は”愛撫”を続けた。
湿った音が部屋に響く。
傷口からすくい上げた血液が男の指先に絡み、それを見て男は頬を上気させた。
嫌悪、嫌悪、嫌悪。
地獄を目にした私に、それ以外の感情は無かった。
「見てるだけで狂ってしまいそうな……頭のイカれた光景だった」
忘れられない。
忘れることはない。
価値観が崩壊する音がした。
人間が醜いことは知っていたし、私だって自分が綺麗だとは思わない。
けれど、それを守ることに違和感を覚えたことは無かったから。
その日初めて、私は、人間を守ることを異常だと思ってしまった。
排除すべきは人間で、守るべきは妖怪なのではないかと。
「博麗の巫女がそこまで言うってことは、よっぽどだったんだね。
だったらますます英雄じゃないか、どうやってその状況から椛を救い出したんだい?
今も屋敷でぴんぴんしている所を見ると、犯人をぶん殴ったってわけでもなさそうだし」
男の腕には、何かに噛まれたような形跡があった。
瞬時に気づく、あれは反抗した椛に噛まれた傷跡だ、と。
その状況で”呪い”というキーワードがすぐに浮かんだのは、さすがに自分を褒めるしかない。
「咄嗟に思い浮かんだのよ、椛に呪いをかけられてるから今すぐ離れた方が良いって」
「呪いって……そんなので信じたの?」
「色々と説得力を出すために、口からでまかせを重ねてね」
「それで商売人を騙せるんだから大したもんだよ、実は詐欺師の才能があるんじゃない?」
「あんな心臓に悪い嘘、もう二度と御免よ」
呪いというワードが一度出てくると、それからは次から次へと辻褄合わせの言葉が溢れ出てきた。
男には呪術に関する知識が一切無いことを良いことに、一切根拠のない理論武装を繰り返して、勢いで押し切る。
最後は半ば強引に椛をベッドから解放させ、逃げるように屋敷を立ち去った。
「方法がどうであれ、結果的に霊夢さんは、椛を地獄から連れ出すことに成功したわけだ。
どんなに自分の事を卑下しようにも、ここは否定しようがないよね、だって自分で地獄だって言ったんだもん」
「そりゃそうでしょうけど」
「ってことで、椛にとって霊夢さんは英雄なの、オーケー?」
「お、おーけー」
「不満そうだけど善しとしよう」
「で、それを私に納得させてどうしたいのよ」
「んー、それなんだけどさ」
にとりはいいにくそうに視線を逸らし、顎に手を当てた。
そして「うーん」とうなりながら考え込む。
話すべきかどうか、決めあぐねているのかもしれない。
「言いにくいことなわけ?」
「怒るかもしれない、無責任だって」
「まさかあんた、椛をこのままうちに住ませろとでも言うつもりじゃないでしょうね」
「あれ、なんでわかったんだい?」
私もその可能性を考えたことがあったから、とはさすがに言えない。
言いたいことを当てられてしまった以上、隠す必要もないと判断したにとりは、その理由を語り始めた。
「ほら、白狼天狗の待遇ってあんまり良くないからさ。
誰も助けに来なかったのも、上の連中の思惑とは別に、そのあたりの事情が絡んでると思うんだよね。
だったらいっそ、博麗神社に住んでた方が幸せなんじゃないかと思って」
「椛もそれを望まないでしょうし、私も許可するつもりはないわ」
「二人暮し、上手く行ってるんでしょ? じゃなきゃ椛にそんな感情移入するはずないもん」
「上手く行ってるとか行ってないとか関係ないのよ。
あんまり妖怪に甘くなりたくないの」
「十分甘やかしてると思うけどねえ。
だいたいさ、今まで神社に居候した妖怪だって居たはずだよね、今更じゃないか」
「あれは一時的な物だから住まわせてただけよ、ずっと一緒となると話が変わってくるわ」
どんなに博麗神社が妖怪神社呼ばわりされようとも、私は最終的に人間の味方でないといけない。
そういう役目を与えられて、今までそれを全うしてきた。
演じてきたつもりはない。
私は私のままで、うまく博麗の巫女をこなしてきたつもり、だったんだけど。
「期間限定だから許してただけ。
それにこれ以上椛と一緒に暮らしていると……巫女として駄目になりそうな気がして」
「抽象的だねえ、具体的にはどう駄目になるってのさ」
「……人間が信じられなくなりそう」
人間の味方をしていると、不思議と人間の汚い部分ばかり見るようになる。
それに加えて、今回の件。
とどめを刺された気分だった。
「なるほど、それは確かに巫女としてまずいね、妖怪としては願ったり叶ったりだけど」
「妖怪を信じられると言ったわけじゃないわ。
私も最初はそういう気分になりかけたけど、あんたの話を聞いて確定したわ、信頼すべきは椛だけね。
特に、天狗の連中に対する信頼は急降下してる」
「あっはは、そりゃそうか。
まあ、私もこんなこと頼める立場じゃないし、無理にとは言わないよ。
本来なら私が椛の身柄を引き取るべきだったんだしね。
そうだ、どうしても神社から追い出すのが辛いって言うんだったら、一旦うちに引っ越すってことにしてくれてもいいよ」
「結局は出てってもらうんでしょう?」
「そういう状況になった時、人間である霊夢さんより、妖怪である私の方が事情が理解できる分だけ話しやすいと思う。
もちろん、私だってできればずっと預かっておきたいけどさ、それはさすがに無理だから」
河童と天狗という種族の違いもある。
妖怪たちの関係がどうなってるのか、詳しいことまでは私だって知らない。
同じ山に住む妖怪として、その二つの種族はそう悪くない関係を築いてるみたいだけど、一緒に暮らすとなるとさすがにそう簡単にはいかないわよね。
上手く行ってる方だと思ってる私たちですら、生活習慣の違いとか、たまに驚くことがあるぐらいだし。
それでも、人間と妖怪よりは近い存在であることは間違いない。
にとりに引き渡すのも、選択肢としてはアリなんだろうけど、でも……。
「どうしようも無くなった時の逃げ道はあるってことを覚えておいてくれればいいよ。
椛一人ぐらいだったら、いつでも受け入れる準備はしてるからさ。
悩みに悩んだ挙句、取り返しのつかない事態になったりしたら後味悪いし」
「頭の片隅にとどめておくわ」
私にとって、にとりに椛を預けるという選択肢は、一種の敗北のように思えた。
誰に負けるってわけじゃないし、そのこだわりが私を追い詰めてるのかもしれないけど。
……逃げ道が見つかった分、気持ちは楽になったのかもしれない。
「そもそも、あの男がバカげたことをしなければ、こんなことにはならなかったんだけどさ」
「まったくよ」
にとりの言う通り、天狗たちを恨んだって事件が消えてなくなるわけじゃない。
一番悪いのは、米問屋の主だ。
あいつには何らかの、金以外の部分で責任を負わせてやらなければ私の気が済まない。
椛の件は人の法では裁けないし、天狗が動かない限りは妖怪の道理で裁かれることもない。
つまり、私が動くしか無いってことになるんだけど。
「いっそ本当に呪ってしまおうかしら」
解呪中は男はかなり無防備な状態になるし、あっちは私が何をしているかなんて理解してない。
呪いを解くふりをして呪いをかけることぐらい、造作も無いはず。
「いいねえ。
でも堂々とやってたんじゃ霊夢さんに疑いが向いちゃうよ?
こっそり動く必要があるんなら、光学迷彩ぐらいは特別に貸してあげるよ」
にとりもやけに乗り気だった。
さすがに彼女も、友人を傷つけた犯人に対しては怒っているらしい。
少し、安心したかな。
ま、私もバレたら人里での信用無くしちゃうし、そんなリスクを負ってまで殺そうとは思わないけどね。
にとりだってそれは同じ、勝手に手を出せば妖怪の山における立場が悪くなってしまうかもしれない。
もし本気でやるって言うんなら、一人じゃなくて何人か集めて、計画練らないと。
「……いや、そういうのを人間に押し付けるのはよくないか。
やるなら自分でやらないとね。
さて、私の方もこれから報告やら何やらやることあるから、そろそろ行ってもいいかな?」
「ええ、急に引き止めて悪かったわね」
「良いってことよ、こっちとしても有益な情報を手に入れられたし」
情報、ね。
にとりに与えた情報らしい情報なんて、せいぜい銃が外の世界で作られたものだってことぐらいのはず。
人里で作られた物じゃないってことは、にとり自身も前もって予想してたみたいだし、礼を言われるほどじゃないと思うんだけどね。
「大した情報なんて無かったはずよ?」
「霊夢さんなら、安心して椛を預けていいってわかっただけでも十分な収穫さ。
それに、外の世界から流れてきたものだって確定できたのは、霊夢さんが思ってるより大きな情報なんだよ。
あれは人間にとってはオーバーテクノロジーだからね。
兵器ってものは、殺傷力が大きくなるほど比例して取り扱いに注意が必要になる。
場合によっちゃ、不用意に扱うと暴発して持ち主に危険が及ぶことだってある」
銃と弾がセットで流れてきただけでも珍しいのに、わざわざ説明書までセットで付いているとは思えない。
つまり、米問屋の主は銃の正しい使い方を習得しているわけじゃないってことになる。
「安全装置を外したまま手入れをしてみたり、実は最初から故障してたりとか、暴発の可能性はいくらでも考えられるよね」
「偶然が殺してくれる可能性があるって言いたいのね」
「ただの願望だけどね、可能性が無いよりは希望が持てると思わないかい?」
確かににとりの言う通り、あいつの死を連想すると、少しだけ気持ちが軽くなる気がする。
私でこれなら、椛はどれだけ楽になるだろう。
けど、にとりの言葉には額面通りの意味だけではなく、含みがあるように感じられた。
私はそれを肯定も否定もしない。
私の立場がそれを許さない。
だから、見て見ぬふりを通すことにした。
「あれ、もしかして味付けおかしかったですか?」
私の真正面に座る椛が、心配そうにこちらを見ている。
味付けには何もおかしな所はない、いつも通り、私好みの味付けだった。
この味を椛が好んでいるのかはわからない。
『霊夢さんが美味しく食べてくれることが、私にとっての最高の調味料です』なんて言われたら聞けるはずがなかった。
そんな殺し文句、一体どこで習ってきたんだか。
命と尊厳を救われ、こうして神社に引き取って……椛が私に恩を感じる理由はわかる。
にとりの言う通り、きっと私のやったことは”大したこと”だったんだろう。
それでも、”どうしてここまで”と疑問に思うことはいくつもあった。
「そんなことないわ、今日も美味しいわよ」
「良かった……失敗したかと思いました」
椛の尻尾がぱたぱたと揺れる。
ただでさえ喜ぶとすぐに顔にでるのに、尻尾や耳まで駆使して感情表現するものだから、見るたびに思わずほっこりしてしまう。
せっかく真面目に考え事してたのに、一瞬で悩みが吹き飛んでしまうほどに。
そうやって椛が喜んでくれるのが嬉しいものだから、私もついつい”美味しい”と言ってしまう。
実際、美味しいのは間違いないんだけどさ。
そういう甘さが問題だって自覚してるくせにやめられない私の意思の弱さが恨めしいわ。
「む、また微妙な顔をしてます。
やっぱり味付けがおかしかったんじゃ……」
「違うって言ってるじゃない、少し考え事をしていただけよ」
椛を傷つけない方法なんて一つもない。
だから私は救いたくなかった。
手を差し伸べた時点で、こうなるのは見えていたから。
人間と妖怪は違う、あまりに違いすぎる。
私が百年生きたとしても、それは下手したら椛の人生のうちの数十分の一でしかない。
にとりの危惧していた通り、彼女が天狗の里から追い出されかけているのだとしても、今だったらまだ間に合う可能性だってある。
この二ヶ月にもみたいなちっぽけな時間のために、人生全部を棒に振るような事があっていいわけがない。
何度でも言い聞かせる。
寂しくても、傷ついても、痛くても、私たちは与えられた居場所に戻るべきだって。
だったら、私のやるべきことは決まってるはずなのに。
突き放したら良い。
冷たく、無感情で、目を瞑ってたって構わない。
なのに躊躇うのはきっと、私自身が椛に甘えてるからだ。
心地よいぬくもりに溺れてしまいたいと、そう望んでいるからだ。
そのまま砂糖の海に沈んで、緩やかに、退廃的に破滅していくのも悪くないのかもしれない。
ただし、あくまでそれは私の願望であって、椛を巻き込めるほど利己的にはなれないのだけど。
夕食が終わっても、湯船に浸かっても、テーブルに突っ伏してみても、答えが出ることは無かった。
いや、答えはわかっているのに、私は選ぶことから逃げ続けている。
正しさが何かをしっているのに、どうして過ちに傾こうとするのだろう。
外から吹き込む夜風が私の頭を冷やしても、天秤の角度は変わらない。
たぶん、今の私たちは近すぎるんだと思う。
悪夢が未だ消えていなかったとしても、いつか一人で立ち向かわなければならない日が来る。
いつまでも私が手を握っておくわけにはいかない。
少しずつ、明日からではなく今日から、痛みを受け入れていかないと。
いつか壊れる間違った幸福ではなく、正しく幸福であるための選択をする。
これあくまで一時的な痛みであって、未来との差し引きでプラスになるはずだから。
きっと、恐れることなんて何も無い――
「霊夢さん、霊夢さん」
肩に手が置かれ、体がぐらぐらと揺れる。
どうやらテーブルに突っ伏しているうちに、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
「お布団敷いてありますから、そっちで寝ましょう」
ところで椛は、いつの間にお風呂からあがったんだっけ。
私の最後の記憶は椛がお風呂に入る時だったのに、気づけば布団の準備まで済んでいる。
つまり椛は、お風呂から上がって、居間に来て、寝室まで行って、一人で布団を敷いたということになってしまう。
それなりの音がしていたはずなのに、それでも起きないなんて、自分でも気付かないうちに疲れてしまってたのかな。
「ごめん、寝るつもりなんてなかったんだけど」
「今日はぼーっとしてましたもんね、疲れてたんですよ」
「そうかもしれないわね」
「早く布団に入って、ゆっくり疲れを取らないと」
中途半端に寝てしまったものだから、正直に言うと今はあまり眠くないんだけど、布団で横になればそのうち睡魔がやってくるはず。
椛の言う通り、今日は寝た方がいいのかな。
色々あって、頭が混乱している。
こんな時に考え込んだって、まともな答えなんて出てきそうにない。
私は立ち上がり、寝室へと向かおうと歩き出したんだけど――いつの間にか、椛の両手が後ろからお腹のあたりに回されている。
「うわっと!?」
思わず前につんのめりそうになったけど、テーブルに手をついてなんとか難を逃れることに成功した。
まさか、イタズラのつもりじゃないでしょうね。
「ちょっとぉ、急に抱きついたら危ないでしょ?」
「……ごめんなさい」
声のトーンからして、ふざけてやった雰囲気じゃない。
悪夢を見た時に甘えられることはあっても、こうして何も無い時に急に抱きつかれるなんてこと、今まで無かったんだけどな。
突き放そうと思ってた時にこうことされると、心が揺らぎそうになる。
それはもうぐらぐらと、あっさりと陥落してしまいそうなほどに。
我ながら意思が弱すぎる。
「仕方ない子ねえ。
大丈夫よ、ここに居るのは私だけだから、何も怖がることなんて無いの」
「はい……」
「ま、抱きつくぐらいだったらいつだって構わないけどね、気分が落ち着くまでこうしてなさい」
個人的な感想としては、抱きつかれること自体は嫌いじゃない。
他人と抱き合うことなんて滅多にないから、椛と一緒に生活を初めて気づいたことなんだけどさ。
他人の体温って、思ってた以上に心の支えになるものなのね。
この温もりがあるだけで、今日も明日も頑張ろうって気持ちが湧いてくる。
「……いい匂いがする」
さすがにそれは恥ずかしい。
かといって引き剥がすわけには行かない状況が、私をさらに困惑させた。
「あの、霊夢さん」
「ん―?」
「今日、一緒の布団で寝てもいいですか?」
そう来たか。
じりじりと距離を詰められてるなーとは思ってた。
でもこれじゃあ、ますます別の部屋で寝ようなんて言い出せなくなるじゃない。
断らなきゃ、いつまでも変わらない。
抱きつかせといて何言ってんだと思われるかもしれないけど、そこは譲っちゃいけない所だと思う。
刹那の幸せよりも、もっと長い目で見ていかないと。
今は幸せでも、椛が私に依存してしまえば、いつか不幸になる日がきっと来るはずだから。
私は椛の笑顔が好きで、笑ってもらうためだったら、結構何でも出来てしまう。
帰る場所がないって言うんなら、天狗の里に直談判でもしたらいい、博麗の巫女が来たって言えばあいつらだって無視はできないでしょう。
足が不自由なのが駄目っていうんなら、それでもできる役割を見つけたらいい。
こうして家事はできてるわけだし、絶対に何かしら仕事はあるはず。
それでも上司が文句を付けてきたら、妖怪退治の名目で潰してしまえばいい。
ほら、できることはこんなにある。
例え突き放して、離れ離れになったとしても、何も私たちの繋がりが消えるわけじゃない。
寂しいなら会いに行けばいい、何なら悩みがない分、今よりもいい関係になれたりしてね。
全部、やろうと思えばできるじゃない。
だったら、今から変えていかなきゃ。
「ねえ、椛――」
私が彼女の名前を呼ぶと、嫌な予感でもしたのだろうか、抱きしめる腕にぐっと力がこもった。
そして、額がぐりぐりと背中に押し付けられる。
「一緒に寝てください」
「あのね、椛」
「一緒がいいんです」
「椛……」
「一緒じゃなきゃ、やです」
「うぅ……」
揺らぐ、揺らぐ、ゆらゆらと、ぐらぐらと、天秤ごと倒れてしまいそうなほどに。
決意を嘲笑うかのように、もっともっと甘やかしてしまえと、悪魔が私に囁いてくる。
一方で、天使は遠くから”頑張れ頑張れ”とエールを送っていた。
悪魔の未来には、私たちの笑顔が見えている。
天使の未来には、私たちの涙が見えている。
どちらにしてもすぐ先の未来の出来事でしかない、一年後、二年後の姿なんてわかるわけがない。
私はその先にある未来を、少しでも幸せにできるように……ああ、でもそんな保証なんて無いじゃない。
受け入れたら、今、椛は笑ってくれる。
保証されていない未来の笑顔か、保証されている今の笑顔か。
皮肉にも、堅実なのは悪魔の方だった。
天使の方はギャンブルじみていて、しかも痛みまでついてきて。
何よそれ、悪魔を選べば幸福で、天使を選べば不幸って、それっておかしくない?
本当に、そいつは悪魔なわけ?
羽は白いしふわふわで、顔は椛によく似て可愛くて、おまけに犬耳がピコピコ動いてソーキュート。
浮かべる笑顔は文字通り天使みたいで。
見てくれが天使で、中身も天使だって言うんなら、そいつが天使でいいじゃない。
手を取ってしまえ。
受け入れてしまえ。
そして寝て冷めて冷静になった頃に、死ぬほど後悔してしまえ。
「……今夜、だけだからね」
「はいっ!」
そして私は、悪魔の誘いに乗ることにした。
こういう時、悪魔は選んだあとにすっごい悪い顔をするのが相場だと思ってたんだけど、まだ天使みたいに笑ってる。
今頃、私に抱きついてる椛も、同じように笑ってんのかな。
あーあ、私ってなんてダメなやつなんだろ。
「霊夢さん、大好きです」
そう呟いた椛の声が、私の耳を経由して脳まで届いた瞬間、もやもやとした気持ちは綺麗サッパリ除去された。
悪魔と呼んでいた天使が、これ以上にない笑顔を浮かべる。
ちょろいな私。
いや、でも大好きとか言われたのは初めてだし、仕方ないじゃない。
あの夜に聞いた悲痛な声と、今聞いた柔らかい声が同一人物の物だって言うのよ?
どう、誇らしいでしょう? 私がこうしたの、私のおかげなの、私以外に誰にもできなかった!
だったら、この程度の幸せぐらい掴んでいいじゃない。
明日の朝、自己嫌悪で死にたくなるんだろうな。
でも、今日はいいや。
溺れよう。沈んでしまおう。
先のことは、明日になって考えればいい。
次の日の朝に起きた出来事は、大方予想通りだった。
史上最高に機嫌のいい椛と、史上最低の寝覚めを迎えた私の対比が面白かった、というのが魔理沙の評だ。
ちなみに、私が起きた時点でまりさは居間でくつろいでいた。
「朝っぱらから暇そうで羨ましいわ」と言うと、「今までぐっすり寝てたお前に言われたくないぜ」と帰された。
ぐうの音も出ない。
そして魔理沙はちゃっかりと朝食をごちそうになってから、今はだらしなく、座布団を二枚敷いて寝転がっている。
いくら勝手知ったる他人の家とは言え、もうちょっとしゃきっとしなさいっての。
「こうやってだらーっとしてる時に、洗い物の音とか聞こえてくるのってなーんかいいんだよなぁ。
一人暮らしじゃこうは行かないからな、かといって実家に戻ろうとは思わんが」
帰ってきた時に迎えてくれる人が居ることも、おはようと言う誰かが、おやすみと言える誰かが隣に居ることも、それがどれだけ幸せなのか私は思い知った。
だから、魔理沙の言葉をただただ素直に認めることしか出来ない。
「そうね、椛のおかげで充実した毎日が送れてるわ」
私の言葉を聞いて、魔理沙はがばっと起き上がった。
その顔に悪どい笑みを浮かべて。
「まさに夫婦だな」
「違うっての!」
「そうは言うが、昨日は同じ布団で一緒に寝たって椛から聞いたぜ?」
「それはっ……お願いされたから仕方なくよ、てかなんであの子は魔理沙に話してんのよ」
「自慢したかったんだろうさ、直視できないくらい眩しい笑顔だったよ。
つーかさ、お願いされても断ったらいいだけじゃないのか。
承諾したのは間違いなく霊夢自身の意思なんだろ?
私が”一緒寝たいの、お願い!”って言っても絶対に断るくせに」
「断る前に脳の病気を疑うわ」
椛の場合は可愛いけど、魔理沙が同じことやったって間違いなく気持ち悪いだけだから。
「つまり、夫婦じゃないにしろ特別な存在ってことだろ」
「特別って、具体的にどんな……ってやっぱいいわ、今のナシで」
嫌な予感がするから途中でやめる。
しかしそれを見逃してくれる魔理沙ではなかった。
「そりゃ特別と言えば――」
「言うなっつってんのよ!」
言うなと言われると言いたくなる、魔理沙はそんなやつだった。
それぐらい私も理解してるけど、親友相手でも限界はある。
次に同じやりとりを繰り返そうものなら、問答無用で拳が飛んで来ることを覚悟してもらわないとね。
「だったらさ、好きか嫌いかで言えばどっちだ? それぐらいは答えられるだろ」
「くどいわね」
「別にいいじゃないか、答えはわかりきってるんだから」
「だったら言わせないでよ」
でも言わないと納得しない、という顔をしている。
面倒だけど、この場には椛も居ないし、一度盛大に言ってやれば満足するかな。
はぁ……仕方無い。
「ええそうよ、好きよ、私は椛のことが好きで好きでたまらないわ、大好き、愛してる!
ほら、これで満足なんでしょう?」
私がやけくそ気味にそう叫んだ直後、台所から食器が割れる音が響いた。
考えるよりも早く、自然と体が動いていた。
地面を蹴って台所へと飛び込む。
視界にちらりと写った魔理沙のニヤケ顔が気になったけど、今はどうでもいい。
それより椛は、椛は無事なのっ!?
「大丈夫、怪我はないッ!?」
「は、へ? あ、えっと、だ、大丈夫……です。
椛は、ぜんぜん大丈夫ですから……本当に、大丈夫、なんで」
全く大丈夫そうではないんだけど、どうやら怪我は無いみたい。
食器は床ではなく流し台に落ちたらしく、先程まで魚が盛り付けられていた焼き皿が真っ二つに割れてしまっている。
破片は飛び散っていないので、裸足で歩いても平気そうだ。
と言うか、食器が割れたってのに椛はなんでブンブン尻尾を振り回してんの?
頬は真っ赤に染まってて、両手は熱を冷ますようにその頬に添えられている。
さっきの話し方もかなり不自然だったし……もしかして、照れてる?
「なあ霊夢、こんな話を知ってるか?
いや、普通は知らないはずがないんだが――」
今の方から魔理沙の声が聞こえてくる。
なぜか半笑いで、実に楽しそうな声だった。
魔理沙が楽しそうな時、私はだいたいろくな目に合わない。
猛烈に嫌な予感がしたので急いで耳をふさごうとしたのだが、ふさぐよりも早く次の言葉が聞こえてしまった。
「狼って、耳がいいらしいぞ」
ああ、そりゃあ楽しいでしょうね。
一瞬だけ見えたニヤケ顔の意味、今わかったわ。
「……聞こえてたの?」
椛はコクコクと首を縦に振った。
私……好きとか、大好きとか、愛してるとか言わなかったっけ。
やけくそになって、普段は絶対に言わないような言葉を、三回か、四回ぐらい。
いや、最後の言葉だけじゃない。
魔理沙とのやりとり、あれも、これも全部――台所に居る椛に、聞こえてたってこと?
「だ、大丈夫です、ぜったいに誰にも言いませんからっ!
私の心の中で、留めておきます。
ずっと、ずっとずっと、一生、大事に」
一生大事にされたら余計に困るんだけど……。
やばい、顔熱くなってきた。
こんな顔、椛に見せるわけにはいかない。
とにかく、とにかく逃げなくちゃ。
どこまで行くかはあとで決めるとして、椛に見えない聞こえない嗅がれない知らない遠くの場所まで、大急ぎで!
台所から駆け出た私は、居間でにやつく魔理沙の首根っこを掴み、引きずりながら靴につま先を突っ込んで上空へと飛び立つ。
背後から椛が私を呼ぶ声が聞こえる。
後ろ髪をひかれるけど……振り返ってちゃ逃げた意味がない!
「おい待てっ、落ち着け霊夢、このまま飛ぶのはやばい、やばいからっ……ちょ、うわああぁぁぁぁぁぁっ!?」
魔理沙はジタバタと暴れながら何やら喚いてる様子だけど、そんなのはどうでもいい。
椛の五感が働かないぐらい遠くまで離れて、そこから、そこから……何をするつもりかは自分でもわからんっ!
わかんないけどっ、とにかく離れなきゃなんないの!
あぁもうっ、なんでこんなに顔が熱いのよっ、くそう!
「げほっ……ごふっ……おっ、おいおい、いくら何でもっ……照れ隠しにも限度ってもんがあるだろ!」
「照れてない!」
「まだ言うか……」
「地面に叩きつけられたくなかったら、余計なことは言わないことね」
「おいおい、マジの脅しかよ」
全く怖がってる様子はない。
まったく、誰のせいでこんなことになったと思ってるんだか。
自業自得よ、痛い目でも見て反省しろっての。
「ふぅ、ひとまずここまで来れば大丈夫でしょう」
振り返ると、博麗神社は豆粒のように小さくなっていた。
この距離なら、いくら椛の耳でも会話を聞き取ることはできないはず。
私は魔理沙の体を、投げ捨てるようにして解放した。
「おっとと、もっと丁寧に扱えって。
お気に入りの服だったのに、完全に伸びちまったじゃないか」
私の掴んでいた首の部分がよれよれになってしまっている。
因果応報だから同情はしないからね。
「アリスにでも直してもらえば?」
「そうするよ。
それで、ここまで連れてきて何を話したかったんだ」
「別に、とにかく椛から離れたかったのよ。
まったく余計なことばっかりしてくれてさ、あんたが変なこと言わせなければ服が伸びることだって無かったのよ」
「いちいち面白い霊夢が悪い」
「悪趣味な魔女め」
私の罵倒も魔理沙には届かない。
魔理沙は魔女呼ばわりが嬉しかったのか、”えへへ”と照れくさそうに、こめかみを人差し指で掻いた。
魔法使いの手にかかると、罵倒も褒め言葉に変換されてしまうらしい。なんて厄介な。
「ところでさ、実際の所はどうなんだよ」
「どう、って何が?」
「椛だよ、そのうち追い出すのか、それともこのまま一緒に暮らすつもりなのか」
「帰すべきだって考えは今も変わってないわ、来るべき時が来たらそうするつもり。
魔理沙だって同意してたじゃない」
「それなんだがな、別に一緒に暮らしてもいいんじゃないか?」
前に魔理沙と話したのは、確か二日前だったはず。
たったの二日で考えが百八十度変わるなんて、一体何があったのよ。
「私も最初は戻った方がいいと思ってたんだ。
ただ、文が……」
「薄情者の文がどうしたっていうのよ」
「椛が幸せそうならそのままでいいって言ってたんだ。
天狗である文がそう言うんなら、きっとそれが正しいんじゃないかと思ってな」
そっか、文がそう言ったって言うんなら、想像で語る私達よりも信憑性はあるわね。
そう、文が。
文が――
「……は?」
思わず間の抜けた声が出てしまった。
それほどまでに、脳の処理が追いつかない。
何だって文が、天狗である文がそんなことを言うのよ。
あいつは住み慣れない環境や、寿命の差を考慮しないほど単細胞じゃない。
それを踏まえた上で、それでもなお私と一緒に居た方が良いっていうわけ?
文が本当にそう言ったんなら――神社から椛を送り出す理由が、全く無くなってしまうじゃない。
「私にだって詳しい理由はわからないがな。
けど、少なくとも嘘や冗談って感じではなかったぜ」
あんな推測、できれば当たって欲しくはなかった。
でも、もう認めるしか無い。
にとりの言ってた通り、椛は何らかの理由で天狗の里に帰れない状況にある。
天狗たちが一度も見舞いに来なかったのも、にとりに文が頼んだことも、きっと全部、天狗たちなりの優しさだったに違いない。
下手に希望を与えるぐらいなら、潔く見捨ててしまった方がいい、と。
妖怪の世は弱肉強食、足の動かない白狼天狗が生きていけるほど甘くはない。
あるいは彼女たちにとって椛はすでに死んだ仲間で、次に会う時は墓参りだとでも決めていたのかもしれない。
だと、しても。
だから、なんだってのよ。
椛は生きてる、昨日も今日も、そして明日も笑ってる。
そこに居るだけで世界を明るく照らしてくれるのに、どうしてあんな良い子を切り捨てられるの?
足だってそのうち治るかもしれないじゃない、ちょっとぐらい我慢しなさいよ、支えてやりなさいよ!
我慢できない? 面倒くさい? そんなの理由のうちに入らないっつーの。
それでも、それでも見捨てるって言うんなら、私はもう理解しようとは思わない。
理由もなく天狗全員を、理不尽に暴力的に木っ端微塵に退治してやる。
「実は私も気になることがあってな、あいつの足についてなんだが」
「怪我のこと?」
「ああ。もう退院して一ヶ月以上経つんだよな。
それだけの時間があったのに、妖怪の傷が治らないなんてことあるのか?」
「何が、言いたいのよ」
不思議では、あった。
妖怪は人間よりもはるかに丈夫で、はるかに自然治癒力が高い。
もちろん例外はある。
けど、あったとしても、白狼天狗がその例外に当てはあるわけじゃない。
どうして今でも足を引きずったままなのか。
治る様子がないのか。
そこに関しては、不思議では、あった。
でも――私はずっと、目を背けてきた。
都合の悪い現実が、そこにある気がしたから。
「あの足が、二度と治らないとしたら」
「……」
「傷は骨が見えるほど酷いもんだったらしいな。
塞がったとは言え、今でも跡は残ってるんだろ?」
永琳の施術のおかげで、服の上からわかるほどの凹凸は無くなったものの、さすがに元通りには戻らなかった。
あくまで私が知っているのはそういう外見の経過だけど。
あの時点で部外者だった私が経過報告を聞いても仕方無いと思ったので、永琳から詳しく話を聞いたわけじゃない。
「それだけ酷い傷だったら、後遺症が残ってもおかしくはない」
「でも、だとしたらっ、椛が知ってないとおかしいじゃない!」
私には後遺症のことなんて、何も言ってくれなかった。
神社に誘った時も、怪我が治るまでって条件に快諾してくれたはず。
後遺症のことを知っているのだとしたら、その時点で話してくれなければおかしい。
「だから、おかしいんだよ色々と。
重大な選択を迫られてる割には、霊夢には情報がなさすぎるんだ。
いや、意図的に隠している天狗の連中のせいでもあるんだがな」
「……文がどこにいるかわかる?」
「今か? 今なら……まだ朝早いからな、取材に来てるかも微妙なところだ。
ただ、居るとしたら人里のどこかだと思うぞ、最近は二年前の失踪事件を調べてるって話だからな」
二年前の失踪事件って、確か小鈴ちゃんが話してた、友達が行方不明になったっていうあの事件のこと?
ひょっとすると米問屋絡みの可能性もあるみたいな話だったけど、文まで調べてるとなると、本当に何かしらの関係があるのかも。
「魔理沙、神社に戻って椛に出かけるって伝えておいてもらってもいい?」
「おいおい、そんなに慌てなくても文は逃げないと思うぜ」
「悠長にそんなこと言ってる場合じゃないのよ」
無いのは時間じゃない、心の余裕だ。
今すぐにでも文を探して、全てを問いたださなければ、私の気が済まない。
場所は人里に絞られたとはいえ、決して狭い範囲じゃない。
文を探すのは骨が折れそうだ――と思っていたのに、存外にあっさりと見つかってしまった。
失踪事件という言葉から鈴奈庵を連想したため、その近くから探したのが功を奏したらしい。
場所は鈴奈庵から100メートルほど離れた路地。
そこで彼女は、顎に手を当て考え事をしながら、取材メモをにらめっこをしていた。
二年前の失踪事件、米問屋も絡んでるっていう小鈴ちゃんの予感……無関係ってわけじゃないんでしょうね、やっぱり。
「文、ちょっと時間もらえるかしら」
「おや、霊夢さんではないですか」
背後から話しかけたにも拘らず、文はさほど驚く様子もなく反応した。
魔理沙と話した内容が私に伝わることはわかっていただろうし、近いうちに私が会いに来る事を予測していたのかもしれない。
「椛のことですよね」
内容も把握済み、と。
そこまでわかってんなら、なんで文の方から私に会いに来なかったんだか。
よっぽど都合が悪かったってこと?
その割には、今だってその気になれば逃げられるはずなのに、素振りすら見せないし。
まあいいや、聞けばわかることなんだから。
「最初の確認しておきたいんだけど」
「守秘義務に引っかからないことでしたら何でもどうぞ」
「魔理沙に、椛は私と一緒に居るべきだって話したのは本当?」
魔理沙の言葉を疑ったわけじゃない。
でも、責任放棄とも取れる言葉を人づてに聞かされて、納得できるわけがない。
あまりにも信じがたい言葉だったから、本人に確認を取らずにはいられなかった。
「イエス、事実です」
文はあっけらかんと、悪びれる様子もなくそう言い切る。
少しぐらいは焦ってくれないと、私の神経を逆撫でしているようにしか思えないんだけど。
こいつ、自分が何を言ったのかわかってんのかしら。
「眉間に皺を寄せられましても、私は事実を語ったまでですよ。
霊夢さんに恨まれる覚えは……無いとは言いませんがね。
博麗の巫女を利用したわけですから、それなりのお咎めを受ける覚悟は済ませてます」
「利用って、どういうことよ」
「椛を米屋敷から救い出してくれた霊夢さんなら、そのまま引き取ってくれるのではないかと。
永遠亭に入院してからもマメに様子を見に行ってくれていたようですし、これは期待できるぞってことになったんです」
「ことになった?」
「ええ、仲間内で相談しまして。
そして、私たちの思惑通りに事は進みました」
私は自分の意思で行動したんだし、誘導されたってわけでは無いみたいだけど、あまり気分のいい話じゃないわね。
「私”たち”ってのは、具体的に誰のことなのよ」
「私やはたて、その他数名で構成される、”自称椛の友人たち”というグループですよ」
どこが友人なんだか、だったらあんたたちが最初から助けにいけっての。
私だったら、恥ずかしくて見捨てた相手の友人なんて名乗れないけどね。
自称って付けてるあたり、ひょっとすると自覚はあるのかもね。
「私を頼りにしてたんなら、にとりに椛のことを頼んだ理由は?」
「おや、にとりにも話を聞いていたんですね。
あれは保険ですよ、博麗の巫女の肩書きが邪魔をして椛を救えなくなった場合の。
もっとも、わざわざ言わなくとも、椛が本当に困ったら手を差し伸べてくれるとは思っていましたが」
「友人を保険扱いって、あんた最悪ね」
結局、”自分たちは頑張りました”ってアピールするために動いておきたかっただけなんじゃないの。
本当は友情なんてもの無くて、自己正当化のための手段が欲しかっただけで。
自分のせいで椛が野垂れ死んだとは思いたくはないでしょうし。
「私たちなりに椛の身を案じた結果、と言っても納得はしてもらえないんでしょうね。
ですがそれが事実なんです。
犬猿の仲だったとは言え、私だって彼女の不幸になって欲しかったわけではありませんから」
「何度も言わせないで、だったら最初からあんたたちが助けてあげなさいよ!」
「無理ですね」
さらっと言ってのける。
だから、それがムカつくってのに。
これでもう二度目よ?
人間の私ができることを、天狗のあんたらが出来ないってなによそれ。
そんな馬鹿げた理屈、通るわけがないじゃない。
「もちろん理由はありますよ。
椛を助けるなと、そういう命令が上から出ていたんです」
にとりも、そんなことを言っていた。
天狗たちは上司の言葉に逆らえないのだと。
だからそれは知ってる、なんとなくわかってた、私が知りたいのはその理由であって――
「細かい意図なんて下っ端には伝わってきません、連中はいつだって自分の都合だけで動いていますからね」
「想像でもいいから聞かせなさい」
「想像といいますか、一応は取材した結果なのですが。
単純な理由です。
米問屋の権力にあやかりたかったんですよ、人里における権力闘争において、他の妖怪たちより優位に立つために」
「ご機嫌取りってこと?」
「ありていに言えばそうなります。
ここから先は不確定情報なのですが、どうも大天狗のうちの一人が米問屋と取引をしたがってるようでしてね。
食料絡みですかね、確かに我々は感情や思念を糧にするタイプの妖怪ではありませんから、うまく使えば優位に立てる武器になり得るのかもしれませんが。
しかし、私は感心しませんね。
妖怪の山に住んでおきながら人間を頼ろうとするなんて、痛い目見ないとわからないんでしょうか」
あの噂、本当だったんだ。
そんな下らない取引のために、椛が犠牲になったなんて。
「本当に、反吐が出るわね」
せり上がる激情を、力ずくで押さえ込む。
まだ爆ぜるには早過ぎる、聞かなきゃならないことが、沢山あるんだから。
「そんなものに、一人分の命を犠牲にする価値なんて無いはずよ」
「あまり言いたくはないですが、それだけ椛の命に価値が無かったということですよ」
「……っ、白狼天狗、だから?」
「いいえ、椛だから、です」
震える拳を握りしめ、下唇を全力で噛みしめる。
目を閉じて、肺がいっぱいになるまで空気を吸い込んだ。
「はぁぁ……」
そして、吐き出す。
同時に微かではあるけれど冷静さを取り戻す。
その冷静さで、怒りをどうにか押し込めた。
ただし、ぐつぐつと煮立つ激情を完全に抑えこむことはできない。
その場しのぎに、問題を先送りにしただけに過ぎなかった。
「私が救出した時点で、権力争いに利用するって悪巧みは瓦解しているはずよね。
助けたって誰も困らないはずよ?
なのに、どうして椛の命に価値が無いなんて言えるのよっ!」
「霊夢さんも察しがついているかもしれませんが……戻ってきた所で、椛には居場所が無いからですよ。
あの男に捕らわれた時点で、椛は詰んでいたはずなんです、本来は」
「詰んでるって、何よ。
今だって椛は生きてるわ、私の隣で笑ってんの!」
「だから本来は、と言ったんですよ。
霊夢さんが居なければ本当の意味で詰んでました、あとは死ぬのを待つだけだったでしょう」
まるで、私が居なければ椛は死んでしまうかのような言い方ね。
察しは付いてる、でも納得はしていない。
一つ欠けたからと言って、見捨てるような薄情さを私は許容できないから。
思いっきり感情移入している椛相手となると特にね。
椛は生きてんの、怪我だって治れば哨戒部隊に復帰もできるはず。
なのに居場所が無いなんて、天狗の理屈を私に押し付けようったって無駄なんだから。
「居場所が無いって言うのは……足が、動かないから? でもいずれ治るんだから、そんなの理由にならないわ!」
「……ん? あー……そっか、そうですよね。
もちろん足の件もありますよ。
ですが一番重要な理由は、椛が白狼天狗だからです」
「それって地位が低いって話? さっきは否定してたじゃない」
「地位の話ではありません、”穢れ”の話です」
「穢れ?」
「人間に穢された椛には、誰も近づきたがらないんですよ」
天狗が潔癖症だなんて話、初耳だわ。
そう、さんざん汚い真似しておいて、そういう汚れには敏感なんだ。
……ばっかじゃないの。
例え文が望んだ言葉でなかったとしても、私は――その発言を、許すことはできなかった。
「文、あんたってやつはっ――!」
左手で文の胸ぐらを掴み、右手で拳を握る。
叩きつける。
いや、叩き――つけたい。
違う、違う、私が怒るべきはこいつじゃなくて、でも、でも、でも!
「殴って気が済むのなら構いませんよ、話しかけられた時点で一発殴られる覚悟はしていましたから」
再び大きく――大きく、深呼吸をした。
「すぅぅぅ……はあぁぁ……」
体の中で急激に膨らんだ怒りを、どうにか外へ逃がそうと。
震える手から力を抜き、文を解放する。
しかし、それで解消できる激情などたかが知れてる。
衝動的に殴ろうとするほどの暴力性はなくとも、今度の怒りは収まりそうになかった。
「ありがとうございます、意外と優しいんですね」
「意外とって何よ……やっぱ殴っときゃ良かったわ」
どうやったら、こんな状況で生意気な口が聞ける脳みそが出来上がるのかしら。
私は文のそういうとこが嫌いなのよ、きっと椛だってね。
「でも、現実は変わらないんですよ、霊夢さん。
こればっかりは白狼天狗に対する差別がどうこうって話じゃありません。
なにせ、”穢れ”を最も嫌うのが白狼天狗自身なんですから。
ああ、この場合は文字通りの穢れであって、見えない力とか、呪いとか、そういうのじゃありませんよ」
「つまり――椛が米問屋に性的な暴行を受けたっていう事実が、”穢れ”だってこと?」
網膜に焼き付いた光景が、再び再生される。
肌色、赤色、白色。
汗、血、男、吐瀉物、排泄物。
匂いまで再生されそうなほど鮮明な、地獄の風景。
思い出すだけで頭が痛くなる。
冷や汗がじわりと、こめかみに滲んだ。
「霊夢さんですら思い出すだけでその有様ですか、よっぽど酷い状況だったようですね」
「これでも慣れた方なのよ」
椛の抱えてるトラウマに比べれば、これぐらいどうってことない。
「それで、結局の所、穢れって何なのよ」
「白狼天狗という種族は鼻が利くんです、人間の何倍も、何十倍も。
動物の中には匂いで個体を判別するものも居ると聞きます、どうも彼女たちはそれに近いことをやっているようで。
つまり……穢れというのは、匂いのことです。
染み付いた不快な匂いは、なかなか消えてくれません。
特に人間の雄の匂いなんて、プライドの高い彼女たちからしてみれば、最も忌み嫌うべき匂いでしょうね」
「……それって、つまり」
「ええ、仮に足が完治して天狗の里に戻れたとしても、人間の雄の匂いを纏った彼女を仲間だとは認めてくれません。
むしろ軽蔑の対象として蔑まされるでしょう。
かつての仲間にそういう目で見られるわけですから、死にたくなるほどに辛いでしょうね」
だから、理由をつけて追い出すことが優しさだと。
だから、利用してやるのがせめてもの情けだと。
理解はできる。
でも、やっぱり、納得はできない。
「不満そうですね、これでも納得できませんか?」
「あんなにいい子なのに……匂いなんてどうでもいいじゃない、傍に居るだけで笑顔にしてくれるのに、それだけで十分じゃない!」
他に居ない、誰にも出来ない、椛にしか出来ない。
なのに、この価値を、一番傍に居たはずの天狗が分かってないなんて、絶対におかしい。
「……ふふっ」
「何、笑ってんのよ」
「いや、痛感してたんです。
ほんと、拾ったのが霊夢さんで良かったなって」
急にそんなこと痛感されても、困る。
こっちは怒りのやり場に困ってるってのに。
「ここまで椛のために悩んでくれる人なんて他に居ません。
誰かが自分のために悩んでくれている、こんなに幸福なことってありませんよ」
「悩んだって、最善案が見つからないんじゃ意味がないわ。
私は人間だから、妖怪である椛を幸せにする方法が見つけられないのよ」
加えて、私は博麗の巫女でもあるから。
普通の人間以上に、椛を幸福にするのに相応しく無い人材だった。
「霊夢さんに限らず、誰にだって自分以外の他人を幸せにできる自信なんてありませんって。
でも、どうやったら幸せにできるのか考えもしない者には、最初から可能性すら与えられない。
椛のために、身を削ってまでそのスタートラインに立ってくれる妖怪が、人間が、この幻想郷に何人居ると思います?」
「そんなのっ!」
特別なことじゃない、沢山いるはずよ、とそう言おうと思った。
けれど、それが当たり前なんかじゃないことにすぐに気づいてしまった。
対価もなく、他人のために尽くすということ。
ただひたむきに、他人の幸福を祈るということ。
進んで自らの時間を捧げたいと思える相手と出会ったことが、今までの私の人生に何回あっただろう。
――いや、数えるまでもない。
「逆もまた然り。
身を削ってまで幸せにしたいと思える相手を、一体どれだけの人が、妖怪が持っているっていうんでしょう」
そう想うことができる相手が居ること自体が幸福であるというのなら、自ら捨てようとする私の行いはどれほどまでに愚かなのか。
私は自分で不幸になる道を選ぼうとしていた。
「椛には霊夢さんしか居ませんし、霊夢さんには椛しか居ないんです。
離れ離れになったって、どうせ我慢できずにまたくっつくだけだと思いますよ。
もう手遅れなんです、早いとこ認めてしまいましょうよ」
でも、それも当然のことよね。
だって幻想郷なんて馬鹿げた理想じゃない。
それを維持するための博麗の巫女が愚かでなくてなんだって言うのよ。
私は愚かで無ければならなかった。
犠牲で、生贄で、平等を騙る不平等で――誰かの理想のために、自分の意思と関係無い行いを繰り返してきたっていうのに。
一回ぐらい間違えたから何よ、少しぐらい道を逸れたからってなんだって言うのよ。
「認めたら……何が変わるのかしら」
「思う存分、気兼ねなくいちゃいちゃできます」
「いちゃいちゃって、あんたねぇ……」
文は茶化すようにそう言った。
なによそれ、ばっかじゃないの。
いちゃいちゃって何よ。
気兼ねなくも何も、私と椛は元からいちゃいちゃなんてしてないっての。
ただ、おはようと、ただいまと、おかえりと、おやすみを、特に意味もなく繰り返しているだけで。
その途中で、笑いあったり、寄り添い合ったり、慰め合ったり、抱き合ったり、そういうこともあるでしょうけど、いちゃいちゃしているとは言わない。
「はぁーあ……困ったもんだわ」
「椛の魅力にやられた自分に呆れてるんですか?」
「そうよ、まさにその通りよ。
いちゃいちゃって言葉が他のどの説得よりも一番効くなんてさ、呆れるしかないじゃない」
私を足止めする、この厄介な博麗の巫女とか言う重荷とか。
誰かもわからない幻想郷を管理する偉い妖怪の存在や、重圧とか。
要約すると”不安”の二文字で収まってしまう有象無象さえ消えてしまえば、これから先、思う存分、椛といちゃいちゃできるってこと?
それさ、私、もうどうなっちゃうか想像もつかないんだけど。
現状が幸せすぎて困ってるのに、それ以上なんて知ったら私、椛から一瞬だって離れられなくなるんじゃないの?
「認めたら私、きっと百は大事なものを失うわ」
それは変わらない。
私の不安の有無は関係なく、椛を受け入れた瞬間に私は、博麗の巫女として重要な要素を失ってしまう。
「でもね、千どころか万ぐらいは大事なものを手に入れる事ができると思うの」
一度だって望んでこなかった、手に入るわけが無いと諦めていた、遠き遠き憧憬。
いわゆる、人並みと呼ばれる日々に散りばめられた些細な幸の断片たち。
あるいは、弱さと呼ばれる、体温を持った柔らかな心の一部。
私は諦めていた。
人里で暮らす人間たちと同じように、誰かと恋をして、誰かと結婚をして、子供を産んで、育てて、老いていって。
そんな、人間の輪に戻り、当たり前の日々を過ごす私を、想像すらできなかったから。
そりゃそうよね。
私に必要なのは、普通の人間なんかじゃなかった。
妖怪か、妖怪じみた人間じゃないと私は幸せになれないって言うんなら――博麗の巫女は妖怪と交わってはならないんて理屈、捨てなきゃやってらんないっての。
「手に入るってわかってんのに、捨てるなんて馬鹿げたことやる奴なんて居ないわ」
「それは椛のこと、お願いしてもいいってことですよね」
「……そうね。
ええ、椛は私が引き取るわ、一番近い場所に置いて、死ぬまで一時も話さず一緒に生きてやろうじゃないの。
あとで返してくれって言ったって、絶対に返してやんないから」
言ってしまった、と言う微かな後悔が胸を掠め、僅かな痛みを残した。
けれど、すぐにそんな痛みは忘れてしまえる。
決めてしまえばどうってことは無くて、むしろ胸のつかえが下りて清々しい気分だった。
「良かった、ようやく覚悟を決めてくれたみたいですね」
そう言って、文は大きく息を吐いた。
ひょっとすると仲間たちから説得役を頼まれてたのかもね。
そのくせ自分からは話を切り出さないあたり、実はかなりビビってたりして。
「まんまとあんたの口車に乗ってやったわ」
「私は背中を押しただけですよ」
「崖から突き落としたってことよね」
「必ずしも高みを目指すことが良い結果に繋がるとは限りません、その人に適した居場所という物があるんですよ」
「突き落としたのは否定しない、と」
半分は自分から飛び降りたようなもんだけどね。
重荷を背負ってしまったから落ちるのは当然のことで、背中を押されずとも時間の問題だったのかもしれない。
元の居場所に戻るには、倍以上の労力が必要で。
でも、今の私には以前ほど、高みで見る光景を目に焼き付けたいという欲求は無かった。
一番見ていたい風景は、今まさに私の隣に存在していたから。
「安心してください、椛を救ってくれた恩人を私たち天狗も見捨てたりはしませんから。
困ったことがあれば何なりと言ってください、全力でお手伝いさせて頂きます」
頼りになるような、余計に不安になるような。
まあ、文が言うには椛を助けようと動いた天狗は一人や二人じゃないみたいだし、私が思っているよりはは頼りになったりしてね。
自分で決めたことだし、できれば最後まで一人で頑張ってみたい所だけど。
だって、好きな人にはかっこいい所みせたいじゃない?
「さて、霊夢さんの言質も取った所で――」
「言質?」
不穏な言葉が聞こえた気がするんだけど、気の所為かしら。
「ここからが本題なんですが」
「ちょっと待って、本題って何よ」
「そう不安な顔をしないでください」
「しないわけないじゃない、言質とか本題って何よ!?」
椛のことを決意して、それで丸く収まってめでたしめでたしじゃなかったの?
ここから先が本題なんて全然聞いてないわよ、というかこれ以上何を話すつもりなのよ。
「言質というのはあくま一つの表現でして。
それに、霊夢さんが決意する前ならともかく、後になってしまえば大した問題ではないんです」
「さっぱりわからないわ、何が言いたいわけ?」
「正直に白状します。
実は私、椛に関する、霊夢さんの決意の障害になりうる情報を持っているのです」
決意の障害って……いやいや、だったら――
「そういうことは決意する前に話しなさいよ!」
「前もって話してたら説得に時間がかかってしまうではないですか」
「またあんたたちはそうやって情報を隠そうとするっ!」
「隠すなんて人聞きの悪い、だからこうして今話そうとしているんですよ?」
それが遅すぎるって言ってるの!
どうせこいつのことだし、わかっててしらばっくれてるんでしょうけど。
「どの道いずれわかることだったわけですし、むしろ今まで霊夢さんが気づかなかった事が不思議なぐらいです」
「椛に関すること、なのよね?」
「ええ、その通りです。
霊夢さんが決意を固める前でしたら大事でしたけど、決意を固めた今なら些細な問題ですよ、きっとね」
私の不安を取り除くこうとして言ってるつもりでしょうけど、明らかに逆効果だった。
今更些細とか言われたって、余計に不安になるだけだってのに。
確かに、椛に関して不可解な事はいくつかあった。
目を背けてきたのは私自身で、それらを無視して全部決めちゃった私の自業自得だって言われればそれまでなんだけど。
でもね、やっぱり同じ天狗である文には、前もって話しておく責任があると思うのよ。
今となっては、もう手遅れなんだけどさ。
「それでは改めまして――椛が霊夢さんに隠し続けた”二つの嘘”についてお話しましょう」
それは考えてみれば当然のことで。
大したことなんかじゃなくて。
聞かされて私が抱いたのは、”どうして今まで気づかなかったんだろう”って言う、まさに文の言っていた言葉と同じ感想。
文の言う通り、決意を鈍らす障害になり得た可能性はあっても、今の私にとっては思わず笑ってしまうほど些細な嘘。
障害どころかむしろ、椛への思いを加速させるだけの推進剤にしかならなかった。
紆余曲折あって、その日私が神社に戻ったのは、日付が変わる直前の深夜のことだった。
今日はやけに長い一日だった。
神社でこっ恥ずかしい告白を聞かれてしまったことから始まって、文と話して、椛を受け入れる決意をして、にとりと合流して、作戦を練って――
むしろ一日で終わったのが奇跡的だって言えるぐらい内容てんこ盛りの一日だったんだけど、そんなの椛には関係ないもんね。
神社で私を待つ椛が同じ長さだけ孤独を味わっていると思うと、早く帰りたいという焦りが私の思考を支配する。
そうだ、今度外に行くときはは椛も連れて行こう。
小鈴ちゃんに頼んでおいた噂もじきに広まるころだろうし、その頃には”椛はもう危険じゃない”という認識が人里に広まっているはず。
それに――彼女を咎める誰かさんも、もう里には存在していないのだから。
神社には明かりは灯っていない。
そっか、さすがにこの時間だと椛ももう寝てるか。
おかえりって笑ってくれる姿を期待してたんだけど、さすがにそれは都合良すぎるわよね。
昼食どころか夕食も一人で、寝る時も手を握ってくれる人は居ない。
不安で不安で仕方無かったろうな、今度からはちゃんと私の口から伝えていかないと。
もう一緒に眠るのを拒む理由も無いんだし、明日からは思い切り甘やかしてやろう。
椛が困るぐらいにね。
”玄関があるんだからそっちから入りなさい”と言うのは私が来訪者――ほとんど魔理沙相手なんだけど――に決まって言う台詞だ。
けど、家主である私ですら縁側から上がり込むんだから、そりゃあいつらが玄関から入るわけ無いわよね。
これは完全に家の構造の失敗だわ、建て直した時にそこも変えてもらえばよかった。
縁側で靴を脱ぎ捨て、居間に上がる。
月の光も、部屋の中までは照らせない。
ほぼ真っ暗闇の中を、私は記憶を頼りに手探りで進んでいく。
手を前に突き出して左右に動かしながら、天井からぶら下がる、電灯のスイッチ紐を探した。
机に脛が当たると同時に、指先に紐の感触を捉える。
逃さぬよう捕まえて、カチッという感触があるまで引っ張った。
電球の光がじわりと部屋を照らす、ようやく視覚が仕事を始める。
何気なしに、部屋を一通り見回すと――
「きゃっ!?」
そこに、人影があった。
他者の存在を一切意識していなかった私は、思わず女の子じみた叫び声を上げてしまった。
これで聞かれたのが魔理沙だったりしたら、私は恥ずかしくて死ぬと思う。
「……って何だ、椛じゃない」
視線の先には、部屋の隅で膝を抱えてうつむく椛の姿があった。
まさか、こうやってずっと私の帰りを待ってたってわけ?
ありがたいような、申し訳ないような。
せめて明かりぐらい付けてたっていいでしょうに。
「ただいま、ごめんね遅くなっちゃって」
「……」
「あー……椛、もしかして怒ってる?」
魔理沙のやつ、ちゃんと伝えてくれたんでしょうね。
そりゃ、何も言わずに飛び出して、深夜まで帰ってこなかったのは悪いと思ってるけど。
でも、何ていうか、私の感覚じゃ椛はこれぐらいで怒らないと思うんだけどね。
そもそも、椛が怒った所なんて見たことないんだけども。
「怒ってないなら、”おかえり”って言ってもらえると嬉しいかな。
それが楽しみで帰ってきてるんだから」
「……」
「おーい、椛ー?」
何度呼びかけても、顔すらあげようとしない。
笑ってくれなくてもいいから、せめて顔ぐらい見せてくれると嬉しいんだけど。
「起きてるなら返事ぐらいしなさいよ」
近くまで歩み寄り、頭に手を載せた。
すっかりしおれてしまった耳の裏あたりを、指先でくすぐる。
いつもだったらこそばゆいと笑いながら体をよじる所なのに、椛は小さく「ん……」と声をだすだけでほとんど反応しなかった。
名前を呼んでもだめ、頭を撫でてもだめとなると、これはもう抱きしめるしかないのでは。
最終手段を使うか否か頭を悩ませていると、
「……どう、して」
椛はようやく口を開いた。
辛うじて私の耳に届く程度の、か細い声で。
「私だってすぐに帰ってくるつもりだったのよ?
なのに急に妖怪退治の依頼が入っちゃって、それが思った以上に厄介な――」
「そういうことでは、なくて」
椛はゆっくりと顔を上げる。
そこに私の待ち望んだ笑顔は無かった。
目を見開いて、か弱く揺れる双眸で私を睨みつけるように見ている。
ほとんど笑顔しか見たこと無かったから、そのギャップに多少戸惑ったけど、その意味を知ってすぐに私は平常心を取り戻した。
戸惑ってる場合じゃない。
瞳に宿る感情は”恐怖”だったから、支えるべき私が取り乱してどうするんだか。
「どうして、帰ってきたんですか。
どうして、笑ってるんですか」
「帰ってきたのは、ここが私の家だから。
笑ってるのは、ここに椛が居るからよ。
他に理由なんてあるかしら?」
いまいち椛が何を聞きたいのかがわからない。
その二つの問いは聞かれるまでもなく当然のことで、私は考えることも無く即答してみせた。
けれど椛はどうやらその答えが不服な様子で、再び同じ言葉を繰り返す。
「どうしてですか」と。
「射命丸文に会ってきたんですよね?」
「ええ、そうよ」
良かった、どうやら魔理沙はしっかり私の伝言を伝えてくれていたらしい。
椛の様子がおかしいのは、ひょっとすると魔理沙が余計なことを言ったせいじゃないかと思ったんだけど、今回だけは疑ったことを素直に謝ってやろう。
……いや、やっぱり謝るのはやめておこう。
魔理沙の信用が無いのは普段の行いが悪いせいなんだし、自業自得ってことで。
「あいつさ、椛の見舞いにも来なかったくせに、実はこっそり神社を覗き見してたらしいのよ。
記者って言っとけば何したって許されると思ってるのかしら」
「聞いたはず、ですよね」
「聞いた?」
「私のことです!
私が、霊夢さんに何をしてきたのかをっ!」
ああ、そっか。
あまりに激動な一日だったせいですっかり忘れてたけど、聞かされたんだっけ、椛がついていた二つの嘘を。
結局、文の言う通りだった。
確かに以前の私が聞けば椛を疑っていたかもしれない。
けど、理由さえ知っていれば、そしてその理由を笑って流せる私が居れば、大したことなんかじゃない。
だから”気にするな”って言って、頭でも撫でて、それでも足りなかったら思い切り抱きしめて、それで終わりにしようって思ってたんだけど。
そうするより前に、椛の瞳から涙が一粒零れ落ちた。
「怪我のこと、本当は最初から知ってたんですよ」
そして椛は語り始める。
まるで殺人犯が自らの罪を吐露するかのように。
まいったなぁ、こうなっちゃうと軽く流すってわけにも行かないわよね。
「入院して一週間ほど経った頃でしょうか、八意先生が部屋にやって来て話してくれたんです」
早い内に聞いてるだろうとは思ってたけど、まさかそんな早かったとは。
永琳ってそういうとこ厳しいというか、やけに容赦ない所があるのよね。
自分が平気だからって患者も平気だとは限らないのに。
私がお見舞いに通ってなかったら、精神的に弱った椛はどうなってたことやら。
「内容は、私の足の状態についてで――切断せずに済んだのは奇跡だったということ、そして……足は動いても、元通りになることは二度と無いということを、はっきりと告げられました。
それを聞いて、私は目の前が真っ暗になったんです。
先生の言葉は、私にとっての死刑宣告と同じで……いや、もうとっくに宣告は受けていたんですが、絶対に無理だってダメ押しをされたような気がして」
とっくにって言うのは、例の匂いの事だと思う。
”男に捕まった時点で諦めてたはず”みたいなことを文が言ってたけど、やっぱり心の奥底じゃ諦めきれてなかったんじゃない。
「縋る希望も無いんだって、打ちのめされたんです。
全部嫌になって、試しに現実逃避でもしてみようかとも思ったんですが、駄目でした。
自分に染み付いた匂いに、嫌でも教えられるんです。
お前は汚れている、汚れたお前はもうどこにも行けない、帰る場所なんて無いって」
他の白狼天狗が染み付いた匂いで椛を忌避するって言うんなら、本人がその匂いに気付かないわけが無い、か。
むしろ自分の匂いを一番に嫌っていたのは、他でもない椛自身だったのかもしれない。
「死んで然るべきだと思いました。
私はもう死体も同然で、誰も助けてくれないのが当然のことだと」
「それでも、生きていたかったんでしょう? だから私に付いてきたんじゃない」
「ちゃんと死ぬ覚悟はしてたんですよ。
縋る希望も無くなって、世界が全部真っ暗になって、それでおしまい。
私はそれで良かったんです、未練も特に無かったですから」
「だったら今のあんたは何なのよ、未練がないって言うならどうして私に嘘なんてついたの?」
「それは……霊夢さんのせいです。
死んででも良いと思っていたはずなのに、確かに覚悟を決めたはずなのに、いつの間にか雑音がその覚悟を歪めていました」
大事な話の途中だから茶々は入れたくないんだけど、人を雑音呼ばわりは酷くないかしら。
まあ、ただ比喩だから別にいいんだけどさ、そんなに気にしてないから。
「過去の私が今の私をみたらこう言うでしょうね。
”お前みたいにプライドを捨てるぐらいなら、死んだほうがマシだ”と。
今の私も全くの同意見です、白狼天狗の誇りすら捨て浅ましく生にしがみ付く私に、生きている資格なんてないんです。
無い……はず、なんです」
死ぬ覚悟を決めることと、死にたいかどうかは別の問題。
椛はきっと、生きていたかった。例えそれが無理な望みだったとしても。
誰だってそうだ、少しでも生きる可能性があるんなら、浅ましくても、愚かでも、その可能性を掴もうともがくはず。
生への執着は理性ではなく、本能から生まれるものだから。そう簡単に制御できるものじゃない。
その結果、椛は私に嘘をついた。
足の怪我のことも言わず、帰る場所が無いことも伝えず――怪我の治癒と天狗の里に戻ることを前提とした居候契約を、私と結んだのだ。
「最初は霊夢さんのこと、疑いの目で見ていました。
私のことを助けたのも、こうして一時的とは言え引き取ると言ってくれたことも、何か裏があるからじゃないかって。
じゃなきゃ、あまりに都合が良すぎるじゃないですか。
でも、裏があろうと何だろうと構いやしません。
利用しているのは私も同じ、嘘で結ばれた関係なら、それぐらいの壁があった方がちょうどいい距離を保てると思ったから」
確かにまあ、頼んでも居ないのに屋敷から助け出して、その上に無償で寝床を提供するだなんて見え透いた罠、普通だったら踏まないわよね。
私が椛と同じ立場だったとしたら、絶対に回避するわ。
あの時は、まさか椛が私の提案を受け入れると思ってもいなかったから、逆にこっちが驚いちゃったんだけどさ。
「でも、一緒に暮らしていくうちに裏なんて無いってことが分かってきたんです。
この人は本当に、ただ助けたかったから助けただけだったんだって。
それがわかった瞬間、私の心にある二つの感情が大きく膨れ上がりました。
騙すことに対する罪悪感と、私に優しくしてくれる霊夢さんに対する”好き”って気持ちです。
早く全部打ち明けなければならない、でも打ち明けたら私は居場所を失ってしまう。
離れたい、でも離れたくない。
一緒に過ごす度にその気持ちは大きくなって、私の言うことなんて全然聞いてくれなくなって……っ。
二つの思いがせめぎあって、結局……私は、嘘を突き通すことを選びました。
私の中の一番身勝手な”好き”って気持ちが、ずっと一緒がいいって気持ちが勝っちゃったんです。
それからは……怪我が治るまで霊夢さんの隣に居て良いのなら、一生治らないことを利用してやれ、ずっとこのまま神社に住み着いてしまえばいいと、そう考えるようになりました」
声までも震わせながら椛の懺悔は続く。
罪を明かすと同時に、それは自分を責め立てているようでもあった。
「ですが、いつか無理が生じることぐらいわかっていました。
怪我のことを誤魔化しきれない日が絶対にやってくる、その時までに私は”既成事実”を作っておかなければならない」
「それでペットだったってわけ? もっと上手い方法があったでしょうに」
「卑怯者の私には相応しい立場だと思ったんです。
私は、こんな醜い自分が大嫌いです。
できることならいっそ、私自身の手で殺してしまいたいほどに」
でも、懺悔する椛が求めているのは許しなんかじゃない。
彼女はきっと、私に罰を与えてほしかった。
どんなに自分が醜くても、自分で自分を憎んでも、浅ましく生きる事を覚えてしまった以上、自分で自分を殺すことは出来ないから。
だったらいっそ、私にとどめを刺して欲しい、と。
「魔理沙さんから、霊夢さんが射命丸文に会いに行ったと聞いた時、やっと終わるんだなと思いました。
きっと霊夢さんは私の嘘を知ってしまう、私のことを、私と同じように嫌いになってしまう。
そう思うと……随分と、気分が楽になったんです。
私の命はとうの昔に失われたもの、そんな身でありながら霊夢さんを騙し続けて、一緒に居るなんて――ましてや想いを寄せるなんて、許されるわけがないんですから」
そういや私も、似たような悩み方してたんだっけ。
立場とか、役割とか、面子とか、威厳だとか。
面倒よね、本当に。
そんなもの無くても生きていけるはずなのに、私たちは自分から足かせを纏って生きている。
必要な物なんだと、自分に言い聞かせて。
「今日で終わりだと思って、ずっとこうして思い出していました。
神社で過ごしてきた日々のことを、死んでも忘れずに済むようにと」
「残念だったわね、思い通りにならなくて」
「はい、とても残念です。
まさか笑いかけられるなんて。
あんな顔されたら、私を追い出す気なんて無いんだってすぐにわかってしまいます」
そして涙が、また一粒。
「せっかく、元通りの、正しい霊夢さんに戻れるはずだったのに。
せっかく、私みたいな卑怯者から離れられる所だったのに……っ」
その涙は、悔し涙だった。
椛は下唇を震えるほど強く噛みしめながら、私の服の胸元を掴んでいる。
想像とはあまりにかけ離れた反応に、私は空気も読まずに吹き出してしまった。
「ふふっ、なんであんたがそんな悔しそうな顔してんのよ」
「私が、霊夢さんを過ちへと導いてしまった。
嘘さえつかなければ、私さえ居なければ、霊夢さんが間違うことなんて無かったんです!」
「間違ったつもりなんて無いわ」
「いいえ間違ってます。
霊夢さんはとても綺麗で、強くて、優しくて、温かくて、遠くて、遠くてっ、遠くてっ! だから――尊くて。
そういうものなんです、博麗の巫女で、私を助けてくれた英雄なんだから、そういう霊夢さんじゃなきゃ駄目なんです!」
鼻息荒くして、崇拝じみたこと言われてもね。
確かに私は博麗の巫女だけど、それ以前に博麗霊夢って一人の人間なの。
「夢見すぎよ」
椛の額を人差し指で小突く。
「確かに、ちょっとばかし情に脆い部分はあるとは思うわよ。
でもね、弱ってる椛の姿を見たら誰だって助けるはずよ。
神聖視されるほど、人格まで博麗の巫女に染まったつもりは無いっての」
「仲間だった天狗たちも、妖怪も、誰も助けてくれませんでした。
霊夢さん以外の人間だって、誰も助けてくれなかったんです」
「たまたまよ、今までその連中が運悪く冷たかっただけ。
私は特別なんかじゃないわ」
「そんなのありえません。
特別じゃないって言うんなら、どうしてここまで嘘つきの私に笑いかけたりできるんですか!」
理由なんて一つしか無い。
損得勘定抜きで、他人の幸せのために尽くすその動機。
我が子や、友達、恋人――その形は様々で、私が抱く物が一体どこに属しているのか、はっきりとした形はわからないまま。
けれどその存在を認識した今、私にはもう言葉にすることを恥じらう理由なんて無かった。
だから今日二度目の告白を、今度は至近距離で、私も椛も逃げられない距離で告げる。
「そんなの決まってるわ。
あんたのことが好きだからよ」
椛はまばたきもせずに、口を半開きにして私の方を見ていた。
間抜けな顔まで可愛く見えるのは、愛がなせる業ってやつなのかしら。
……って、椛の顔なんて観察してる場合じゃない。
告白の方法ってこれで合ってるんだっけ?
こんなことになるぐらいなら、流行りの恋愛小説の一冊でも読んでおくんだったわ。
やたら顔が熱いし、椛はよっぽど驚いてるのか返事してくれないし。
でも尻尾が揺れてるってことは、答えに期待してもいいってことよね。
「……」
「……黙ってないで、何か言いなさいよ」
「え、えっと……こういう時、どうやって返事したらいいんでしょう」
「それは自分で考えなさいよっ」
「そ、そうですよね」
返事の内容まで私に委ねられても、こっちはこっちでいっぱいいっぱいだっての。
大体、あんた今までだってさんざん私に大好きとか言ってきたじゃない。
なんで今さらになって恥じらってんのよ。
「ごめんなさい、まさかそんなこと言われるなんて想像もしていなかったので」
「それ以外に理由なんてないでしょ。
私が特別だったわけじゃないの、私にとってあんたが特別だったのよ」
それが相手から見ると、あたかも私が特別なことをしているように見えるだけで。
私から言わせてもらうと、椛だってどうしてここまで尽くしてくれるのか、理解できなかった。
騙した罪悪感から来る物だったとしても、私に甘える必要も、笑顔で迎える必要も無いんだから。
「私が、特別……」
オウム返しのようにそう言うと、椛は再び動きを止めた。
ぽーっと私の方を凝視したまま、うんともすんとも言わない。
「……」
ただし、私が最初に声をかけた時と違って、頬は上気しているし目も潤んでいる。
悪くない反応だってことは、疎い私にも理解できた。
それにしても――
「……」
可愛いのは結構なんだけど、そろそろ、返事をくれないかしら。
別にこのまま椛の顔を見てるだけでも、数時間は飽きないと思う。
でもそれじゃあ、話が全く進まないじゃない。
完全に遠い世界に行ってしまった椛の意識を引き戻すため、私はいつかのように額に軽く手刀打ちを放った。いわゆるチョップである。
「ひどいです」
口ではそう言いながらも、椛はにへらと笑っていた。
「黙られると私の方が困るのよ。
で、返事はまだなの?」
「どうやって答えたらいいのか考えていたんです。
結局、思いつきませんでしたが」
「それで逃げられると思わないことね。
答えてよ、こっちだって恥ずかしい思いして告白したんだから。
いつもみたいに、好きでも大好きでも構わないわ」
「いつもみたいに……ですか。
……なんで私、恥ずかしげもなくあんな言葉を言えてたんでしょう」
「私が知るわけないでしょうがっ」
そして再び額にチョップ。
食らった椛は、右手で額を擦りながら「んへへ」と言って破顔した。
さっきまで泣いてたくせに、すっかりいつも通りの椛に戻っている。
切り替えが早すぎて嘘泣きだったんじゃないかって疑ってしまうほどだ。
でも、嘘なら嘘でも構いやしない。
やっぱり椛には、笑顔の方が似合ってるから。
「でもですね、お互いの気持ちはもうわかっているんですから、ここで私が言う必要はないのではないでしょうか」
「あんたにも恥ずかしい思いをしてもらわないと不公平じゃない」
「理不尽……」
「良いから言いなさい」
「わかりました、それでは――」
椛はわざとらしく咳払いをすると、頬をぺちぺちと叩き、唇をきゅっと閉じる。
そして真剣な顔を作って私の方を見ると――まるで溶けるように、力の抜けただらしない笑顔に戻ってしまった。
「えへへぇ……」
うん、無理だこれ。
喜んでくれてるのだけは痛いほど伝わってくるもんだから、怒るに怒れないし。
私は返事を諦めて、強引に話をまとめることに決めた。
経過がどうであれ、ちゃんと私の決意を伝えることが出来たら、こうするって最初から決めていたから。
そして私は、気の抜けた笑い声を出していた椛を、強引に抱き寄せる。
肩口あたりに唇が当たって、「むぐっ」と気の抜けた声が漏れた。
椛の耳が私の耳にくすぐるように当たって、少しこそばゆい。
彼女は気だけではなく力も抜けていたようで、体重のほとんどが私の上半身にかかっている。
これから私が支えていく分の重みだと思うと、悪い気分はしなかった。
「もう返事は良いわ、その代わり今日から毎晩こうやって抱いてやるんだから」
「寝る時もですか?」
「もちろん、布団は一つしか敷かないわ」
「そんなのご褒美じゃないですか! 毎晩霊夢さんの匂いに包まれて眠れるなんて夢みたいです」
「だから匂いは恥ずかしいからやめてって……」
白狼天狗がそういう生き物だって言うんなら、恥ずかしがってばかりでもいられない。
今までの一方的に尽くされるだけだった居候状態と違って、これからはお互いに譲り合って行かなきゃならないんだから。
それに、何も椛は臭いって言ってるわけじゃない、私の匂いが好きって言ってくれてるんだし、邪険にする必要なんて無いはず。
要は慣れよ慣れ、むしろ私も椛の匂いが好きだーって言えるぐらいにならないとね。
試しに椛の頭に顔を近づけて、すんすんと吸い込んでみる。
「あっ、だめですよ、待ってください霊夢さん、今は――」
「甘い匂いと混じって、少し汗の匂いがするわね」
「うぅぅ……今日はまだお風呂に入ってないんですよぉ」
「割と好きだけどね、この匂い」
抱きしめる両腕に、急上昇する椛の体温を感じる。
さんざん嗅いできたくせに、自分が嗅がれたら恥じらうんかい。
椛にも私の気持ちがわかったかしら、これからは私も負けじとガンガン嗅がせてもらうから。
「と言うか、お風呂まだだったの?」
「霊夢さんが帰ってきたら追い出されるだろうと思っていたので、呑気にそんなことできる状態じゃなかったんです」
「ならちょうど良かった、一緒に入りましょうか」
「えっ……うひぇええええぇぇぇっ!?」
これまた変な叫び声を。
しかも近いし声が大きい、鼓膜が破れるかと思ったわ。
「そんなに驚くようなこと?」
「だって、一緒にお風呂ってことは、裸ですよ? 裸のお付き合いなんですよ!?」
言われてみれば、それもそうね。
ただの同居人ならともかく、今の私たちはもう同居人を越えた、多分恋人的な何かなわけで。
そんな二人が裸を見せ合う状況ということは、ただのお風呂で済むはずもなく。
「例え霊夢さんが平気でも、私が我慢できないと思いますっ!」
うん、たぶん私も我慢できないと思う。
思わず勢いで言っちゃったけど、今すぐ撤回しよう。
今日の所は、別々にお風呂に入って、汗を綺麗に流して、そんで同じ布団で寝るだけにしておこう。
――と、思ってたんだけど。
「それにですね、私の裸なんて霊夢さんにお見せできるほど綺麗な物ではないですから。
仕事柄、傷だらけで汚いですし、それに……ほら、まだ匂いも完全に消えてないので……」
気が変わった。
私は立ちあがると、椛の手を取り引き上げる。
状況を把握していない椛は「へ?」と間の抜けた声を上げたが、無視して手を握ったまま大股で歩きだす。
「うわっととっ!? れ、霊夢さんっ、急にどうしたんですか!?」
目的地は、もちろんお風呂場。
まずはお湯を貯める所から始めないと行けないのがネックだけど、二人で準備したらあっという間に終わるはず、こういう時は勢いが大事なのよ。
最初はバランスを崩しかけていた椛も、どうにか体勢を持ち直したようで、首を傾げながらも大人しく私に付いてきている。
「あの、どこに向かってるんでしょう」
「風呂場に決まってるじゃない」
「だからそれは、お見苦しい物を見せることになるので今はまだ――」
「見苦しいとか言わないでよ」
「霊夢さん?」
「私があんたの裸を見たいから風呂場に連れてってんの。
我慢なんてする必要ないわ、むしろ私の方から襲ってやるんだから!
身をもって自分の体がどんだけ魅力的か理解させてやろうじゃないの!」
「え、えっ? 霊夢さん、それ本気で……って、無言で進まないでください、一旦止まってくださいよぉ!
一度落ち着いて話し合いましょう、私がまずいこと言ったんなら謝りますから、ねっ?
ねえ霊夢さん……霊夢さんっ……霊夢さぁぁぁんっ!」
結局、そのままの勢いで風呂場には到達したものの、準備をしているうちに冷静さを取り戻した私は、お湯が湧く頃にはすっかり先程までの強引さを失っていた。
とは言え、無理やり連れてきたのは紛れもなく私。
ここに来て日和るわけにも行かず、タオルで体の前方を隠しながら、私たちは二人でお風呂に入った。
一応、風呂場では何もなかったということは、はっきりと言っておきたいと思う。
時刻は午後一時、一人で昼食を終えた私は、境内の掃除に取り掛かろうとしていた。
霊夢さんのお昼には、あらかじめ今日は忙しいと聞いていたのでお弁当を渡してある。
以前、ご飯にハート型の桜でんぶを盛り付けたらこっぴどく怒られたので、中身はごく普通だ。
でもあの時の霊夢さん、顔を真っ赤にしてにやけてるようにも見えたし、実は嫌じゃなかったのかもしれない。
しばらくしてほとぼりが冷めたら、また試してみようと思う。
……そんな下らないことを考えられる程度には、神社での生活にも慣れてきた。
私が博麗神社の正式な住人になってから一ヶ月――その間、私と霊夢さんの関係は順調に進展していた。
まず、当初の宣言通り、寝室に敷かれる布団は一つになった。
一つの布団に、二つの枕。いわゆる同衾というやつである。
そして初日の流れで、お風呂も一緒に入るようになった。
未だに傷だらけの体を見られるのには慣れないけども、霊夢さんがこんな体でも褒めてくれるので、最近では自分でも言うほど悪くないのではないかと思うようになってきた。
他には、朝食は二人で作るようになったことや、挨拶の代わりに口づけを交わすようになったこと、定位置が向かい合わせではなく隣になったこと――などなど、数え切れないほどの変化がある。
変わったのは二人の関係だけではない。
霊夢さんの尽力もあって、人里に出歩けるようになった私は、八百屋のおばさんや鈴奈庵の小鈴ちゃんを始め、何人かの人間と交流を持つようになっていた。
もちろん、今でも私を見て怯える人間は何人も居る。
それでも、天狗の里という居場所を失った私にとって”新たな関係性を構築できた”という実績は、未来への希望を抱かせるに十分すぎるほどの自信だった。
だけどその自信も、あの”事故”が無ければ生まれることはなかったのだと思うと、素直に喜んでいいのかと悩んでしまう。
不謹慎だから、というわけではなく――人間の死を喜ぶような私を、霊夢さんが好きで居てくれるのかと、不安になってしまうから。
それは、霊夢さんに告白された次の日の出来事だった。
昼前ごろだったろうか、”号外”と称された文々。新聞が博麗神社に届けられたのだ。
よほど忙しかったのか、射命丸文は新聞だけ置いてすぐに姿を消した。
その一面には、大きな見出しでこう書いてあった。
『米問屋の主人、銃の暴発によって死亡』
そう、あの男はまるで天罰でも食らったかのように、私を撃ったあの銃で死んだのだ。
記事によると、銃弾を装填したまま手入れを行い、誤って引き金を引いてしまったらしい。
あまりに情けない筋書きに、私は失笑を隠せなかった。
米問屋の主人が死んだのは前日の夜遅く、新聞が発行されたのが翌日の午前中。
不自然に早すぎる報道に、最初は射命丸文こそが真犯人ではないかという説が浮上したが、しかし彼女には完璧すぎるアリバイがあった。
加えて、翌日に文々。新聞に掲載された記事の衝撃が大きく、彼女を疑う声は一瞬で消え失せた。
『米問屋の屋敷の地下に隠し部屋、行方不明少女が監禁か』
匿名のタレコミが自警団に寄せられ、調査した結果、発覚したそうだ。
地下の隠し部屋には地上よりも豪華な装飾が施された三部屋あり、それぞれに一人ずつ少女が閉じ込められていたらしい。
三人の少女はいずれも健康で、暴力を振るわれた形跡もなかった。
あの男は、自分の父や兄を手に掛けたことがあるという噂を聞いたことがある。
愛情に飢えていたのだろうか、少女たちを数年に渡って”愛でて”いたのは、自分に足りない何かを補うためだったのかもしれない。
もっとも、妖怪ということでたがが外れたのかもしれないが、私の前では隠しもせずに暴力性を見せたということは、倫理なき悪魔こそが奴の本性だったのだろう。
何にせよ、その事件によって主人の死に関する疑惑はうやむやになって消えた。
それどころか、死の記憶すら通常よりも早く忘れられ、今では話題に登ることすら無い。
「やあ椛、そんなアンニュイな顔しちゃってどうしたんだい?」
掃除を続ける私の背後から、馴染み深い声が聞こえてくる。
「こんにちは、にとり。
珍しいね、自分から神社に来るなんて」
「まあね、霊夢さんはどうも河童が苦手みたいだから、私以外の連中は近づきたがりもしないから。
おかげで、今回の件は誰も手伝ってくれそうにないや」
「今回の件?」
「椛のことだよ、霊夢さんには恩があるから、作れるものならなんでも、何か一つだけ作ってあげるって言ったんだ」
河童嫌いの霊夢さんが自らにとりに近づくとは考えにくいし、彼女が神社を訪れたのだって私が同居を始めてから今日が初めてだ。
いつの間にそんな約束を――としらばっくれてみてもいいんだけど、隠し事と言うのはどうも性に合わないというか、もう懲りたというか。
霊夢さんには隠し通すつもりではあるけれど、にとりぐらいには話しておくべきなのかもしれない。
「そしたら霊夢さん、何を作って欲しいって言ったと思う?」
「お手伝いロボットとか」
「違う違う、椛が使いやすいように台所を改造してくれ、だってさ。
自分のために権利を使えばいいのに、そこで椛のためって言っちゃうあたりがお熱いよねえ」
第三者を通して想いを見せつけられるというのは、下手をすると本人から直接言われるよりも恥ずかしい。
かと言ってにとりの思惑通りに恥じらうのも癪なので、さほど興味の無い顔をしながら「ふぅん」と返した。
「慣れない椛の嘘に気づかなかったのは霊夢さんが鈍かっただけで、椛は基本的に不器用なんだからさ、下手に照れ隠しとかしない方がいいと思うよ?」
「う、上から目線で言わないでよ。
まるで自分が器用みたいな言い方して」
「少なくとも椛よりはね」
「だったら、私がここでにとりの嘘を暴いてあげようか?」
「私の嘘?」
にとりは”そんなものは無い”と言わんばかりの余裕の表情だ。
「まず最初に言っておくね、ありがとう」
「急にどうしたのさ」
「私のためにあの男を殺してくれたこと、心の底から感謝してるってことだよ」
にとりは明らかに狼狽した。
なぜ私がそれを知っているのか、隠蔽は完璧だったはずなのに、と言った所だろうか。
確かに隠蔽は完璧だった。
光学迷彩を使えば目撃される心配は無い、屋敷に侵入した痕跡を消す手段だって、にとりの持つ発明の中にはあるはずだ。
それに、万が一うっかり証拠を残してしまったとしても――それが毎日屋敷に通っていた霊夢さんの物であれば、なんら不自然なことはない。
「……それ、誰かから聞いたの?」
「霊夢さんは何も話さなかったよ、もちろん射命丸文もね。
でも、私は三人があの男を殺した日に、私はすぐに気づいてた。
どうしてか、にとりだったらわかるよね」
「椛にしか気付け無い手がかりがあるってこと?
そんなものあるはずが……」
あるんだよね、それが。
「……げっ。
そっか、それがあったか……」
「ようやくわかってくれたか?」
「鼻だ、霊夢さんに残った血の匂いに気付いたんだ」
「それだけじゃないよ、微かに残ったにとりの匂いも、射命丸文の匂いも、すぐに気づいてた」
だから私は、血の匂いを嗅いだ瞬間に誓ったんだ。
私のために自分の役割すら捨ててくれる霊夢さんのために、命と時間の全てを捧げようって。
霊夢さんは自分のことを特別なんかじゃない、と言い切った。
でも、この幻想郷に赤の他人のために人殺しになれる人間が何人いるのだろう。
人間に近い生物を殺した経験があったからかもしれない、情に流されやすかったからかもしれない。
けれど私にとって、理由なんてどうでもよかった。
重要なのは結果。
私の命を救い、私の居場所となり、私のために手を汚してくれた。
その結果こそが、私の見た霊夢さんの全てなのだから。
「私としたことが、詰めが甘かったなあ」
「私に気付かれて都合の悪いことでもあったの?」
「霊夢さんが言ったんだ。
椛が責任を感じるといけないから、絶対に隠し通そうって」
どこまでも優しい人だった。
知れば知るほどに、その慈悲の深さを思い知らされる。
その慈しみがどうして私に向けられているのか、不思議になるほどに。
「椛が惚れ込んだのにも納得できるよ、あそこまでやられちゃあね。
結局、あの男に手を下したのは霊夢さんだった。私たちは自分たちの手を汚したくなくて、逃げたのさ。
仲間であるはずの私たちが椛を見捨てたのに、霊夢さんは自分の矜持を捨ててまで椛を救おうとした、守ろうとしてくれた。
ふがいないや、自分で自分が嫌いになりそうだ」
「仕方ないよ、だって霊夢さんだから。
あの人と比べたら世界中の誰だって自分のことが嫌になるに決まってるんだから」
「そこは私をフォローする所じゃないの!?
まったく、まさにベタ惚れだね」
「当然。
捨てたはずの私の人生を、全部拾ってもらったんだよ?
命の一つや二つを捧げたって足りないぐらい、私は救われてる」
「そうだね。
それぐらいのことをやってのけたんだよね、あの人は」
「うん、だから――」
一生を捧げる誓いを、私は未来永劫、後悔することはない。
そう言い切れる人に出会えた奇跡に、私は心から感謝した。
白狼天狗は、自由を愛する種族だった。
自由でありたいと願うのは、自分が束縛されている自覚があるからだ。
実際、白狼天狗は他の天狗に比べて低い地位を与えられている。
住居を選ぶ自由をはじめ、職業を選ぶ自由も、結婚相手を選ぶ自由も、他の天狗に比べて制限されている部分が多い。
私もそんな制約を実感して生きてきた。
そして大多数の白狼天狗と同じく、自由を夢見てきた。
天狗という種族の縛りから解放され、自由を手に入れ――そこには必ず幸福があるはずなのだと、理由も考えずに盲目的に信じていた。
「おかえりなさい、霊夢さん」
にとりが神社を去ってしばらくすると、霊夢さんが帰ってきた。
よほど厄介な依頼だったのか、巫女服はところどころ土で汚れてしまっている。
霊夢さん自身も、随分と疲れた様子だった。
「ただいまぁ~」と気の抜けた返事をすると、おもむろに私に抱きつき、体から力を抜いてしなだれかかる。
「もう、霊夢さんったら仕方ないですね」
右足に上手く力が入らないとしても、人間一人を支えるぐらいはそう難しいことではない。
腐っても妖怪、訓練をサボっているので筋肉が落ちつつあるとはいえ、人間より遥かに強い力を持っていることに変わりはないのだから。
「ご飯の準備も、お風呂の準備も出来てますよ、どっちにしますか?」
「んー……」
いつかのように、”それとも私?”とは聞かなかった。
今でもたまにあのやり取りを行うことがあるのだけれど、最近では霊夢さんが私を選ぶことも増えてきて、軽い気持ちでは言えなくなりつつある。
そんなわけで、気分が乗っている時か、あるいは霊夢さんの状態が万全の時にしか言わないようにしている。
私としては、先にお風呂に入って疲れを取った方がいいと――
「……椛」
「どうしました?」
「椛が、いい」
まさか霊夢さん、ここで選択肢にない三番目を選ぶとは。
「疲れてるんじゃなかったんですか?」
「疲れてるから、椛からぱわーをもらわないと死んじゃうのー!
それにまだ、おかえりのちゅーももらってないじゃない。
だから、まずはちゅーから、ほら早くやるわよ」
霊夢さんは私の両頬に手を当て、躊躇いなく唇を重ねた。
挨拶と呼ぶには、深すぎるほど濃厚に。
「ぷはっ……ってことでただいま、椛。
やっぱりこれがないと帰ってきた感じがしないわ」
「んふ……改めておかえりなさい、霊夢さん。
すっかり癖になってますね、他人に見られたらどうするつもりですか?」
「自慢する。
こんなに可愛い娘と自由にキスできるんだぞーって世界に高らかに叫んでやるわ」
それはさすがに私が恥ずかしい。
私の方も、こんなに素敵な人と出会えたことを、一度ぐらいは世界中に誇ってみたいとは思っているけれど。
「じゃあこのまま、椛のことを頂いちゃおうかしら」
「せめて家に上がってからにしましょうよ……んぁっ」
霊夢さんの手が臀部に伸びていく。
服越しにさわさわと動く手がやけにこそばゆく、思わず声が漏れた。
「だーめ、我慢できない。
たまには外でってのも悪くないわ、元が狼だって言うんなら椛だって案外ハマるかもよ?」
「っ……巫女が妖怪に悪さを教えるなんて、聞いたこと……やっ……ありませんよぉ……」
「妖怪と付き合ってる巫女って時点で聞いたことないわよ」
「だからって、こんなの……っ」
「四の五の言ってないで従いなさい。
ほら、あっちの物陰に行きましょう、見られるかもしれない場所よりは良いでしょ?」
霊夢さんの勢いに押され、頷きそうになる。
その時だった。
……ぐぅ。
どこからともなく、気の抜ける重低音が響く。
どうやら空気の読めない腹の虫が、我慢の限界を迎えて鳴いているようだった。
「……ぷふっ」
「わ、笑うなぁっ!」
「だからご飯かお風呂にしましょうって言ったじゃないですか」
「確かにお腹は空いてる自覚はあったけど、まさか鳴るほどとは思ってなかったのよ」
「私は逃げませんから、まずは冷める前にご飯を食べて、お風呂に入って疲れをとってください」
「そうね、椛を食べるのはそのあとにしましょう」
そう言って霊夢さんは体を離すと、私の手を握って歩きはじめる。
私は従順に、その手に導かれるまま、霊夢さんの歩く道をぴたりと寄り添って歩いて行った。
そこに、かつての私が望んだ自由は無かった。
夢を見て手を伸ばす程度には近くにあったはずの広大な世界は、今はもう遠く。
遠く、遠く、手を伸ばす気すら起きないほど彼方で。
けれど私は、諦めたわけではない。
私たちは自由を得て何をしたかったのか、自由の先に何を見たのか。
それは幸福、だったはず。
自由の先にあるものが幸福だからこそ、私たちは自由を求めた。
今の私に自由は無い。
だけど、そこにはかつての私が望んだ幸福があった。
つまり――もはや、憧れる必要も無いということ。
遥か彼方、夢に見た理想郷を目指さなくとも、私の手を締め付けるこの圧力と体温が、私を箱庭の中で頂きへと導いてくれるから。
暖かな束縛。
穏やかな支配。
心地よい隷属。
自由を代償に手に入れた、私だけの小さな理想郷。
あなたの命が尽きるその日まで、私はここで生きていく。
この――優しい檻の中で。
続編希望するから百点にはしないことにする
というマジレスは置いといて
ほのぼのながら緊迫したシリアスもあり終始先が気になって読み進め、最後にベッタベタになった霊夢にやられました。元どおりではなくとも、これもまた一つの幸せのあり方。
あと監禁中の椛についてkws(夢想転生
数十年後に霊夢の活躍を語り伝えながら歴代博麗の世話をする乳母みたいな椛の姿をちょっと想像してしまった