この作品にはキャラクターが嘔吐する表現が含まれています。
病症として軽く描写されるだけではありますが、不快に思われましたら閲覧をお控え頂きますようお願い申し上げます。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
しばらく前から、人里で催される諸々の行事に合わせて、人形劇を開いていた。
劇を始めた頃は、十分程度で終わるちょっとしたもので、稽古というほどの事もしていなかった。
だが意外と評判が良く、それならばと回を重ねるごとに力が入っていった。来週の夏祭りでの公演は、十一体もの人形を出演させる、一時間弱の本格的な劇となった。
しかしあくまで人形劇、演者たちを操るのは私一人。また脚本も私が一人で書いているので、劇の規模が大きくなるにつれて準備にかかる時間が増えた。
夏祭りの日の興行を決めたのが先月の中ごろ。それから急いで脚本の執筆、出演する人形と装飾や小道具の製作、それから演技の稽古を始めた。
全て私一人でできる作業なのをいいことに、一か月以上家に引きこもり、食事も睡眠もとらずにこなした。どんな見返りがある訳でもないが、観客の顔を思い浮かべると自然と熱が入った。
寝食を必要としない、魔法使いの身であるとはいえ、これほど長い間の絶食、断眠は初めてだった。
連日リハーサルを重ね、今日になってようやく、納得できるレベルの演劇になった。
そこで久しぶりの食事をとろうと、人里へ繰り出し、八百屋で桃を買ってきた。
長い断食の後は、胃腸への負担を考え、果物などで軽く済ませるようにしている。ひと月越しの晩餐が桃一つとは少し寂しいが、仕方がない。
ナイフで皮をむき、小さく切り分け、花柄に縁取られたお気に入りの皿に盛った。
乳白色の果実をしばらく眺めてから、フォークで突き刺し、口へ含んだ。咀嚼すると甘露が溢れ、芳しさが広がる。
桃はフルーツの中でも特別に好きだ。甘い香りがするしあまり酸っぱくないから。
長らく絶たれていた味覚への刺激、おいしさに自然と頬が緩む。
十分堪能してから飲み込み、フォークを次へと伸ばす。と、胸に強い不快感を覚えた。
桃が悪くなっていたか? いやそうは見えない、色ツヤよく新鮮そうだ。それに腐敗が原因なら気分が悪くなるのが早すぎる。
フォークを置き、椅子に深く腰掛けて身体の内側へ意識を向ける。
胃からこみあげるむかつきに、咄嗟に玄関から飛びだし、地に膝を着き――嘔吐した。
まだひとかけらしか食べておらず、からっぽの胃には他に吐けるものがなく、涙目でむせ続ける。
土の上に広がる透明の胃液に、噛み砕かれた桃が混じっている。
にじむ視界に、垂れ下がる金色の髪と、月明かりで銀色に光る唾液の糸とが映った。
吐き気が治まり、地に手を着いた姿勢のまま、肩で息をする。
髪の先が嘔吐物に触れてしまった。家に戻るとタオルを濡らし、それを拭き取った。えも言われぬ惨めさを感じた。
キッチンの水がめを持って出て、地に広がるそれを洗い流した。傾斜に従い、森へと流れていく。
酸っぱい口をすすぎ、ろうそくを吹き消して、だるい身体をベッドに横たえる。なぜこんなことに。
おそらく、長期間にわたり何も食べなかったため、胃腸の機能が低下してしまったのだろう。
これまでにも、人形作りに熱中して何日か食事を抜いた後などに、それを実感した事はあった。
しかし戻してしまったのは初めてだった。胃が何も受け付けなくなるほど食事をとらなくても平気でいられる自分は、人の範疇から外れた存在なのだということが今更ながら強く意識された。
その、自分が人外であるということが、突然とても恐ろしく思えてきた。
この恐怖は理性的に考えればおかしい。食事をせずとも生きられる魔法『捨食』を、私は望んで習得し、自ら進んで人を捨てたのだから。
だが事実、私は自分が人間でないことを、悪寒がするほど恐れていた。魔界に住まう一人の人間だった頃が、二度と取り戻せない尊いものであるように感じられた。
もう一度、残りの桃を食べてみようかと思ったが、しかしそれでまた吐いてしまったら、いよいよ決定的に自分が否定されてしまう気がした。
とても試してみる気にはならなかった。
とにかく、再び食事ができる身体に戻りたい。そう強く願った。
大図書館の魔女を頼ろう。同じ魔法使いであるし、彼女の豊富な知識をもってすればきっと解決するはずだ。
今日はもう遅いから寝て、明日の朝一番に紅魔館を訪ねよう。
そう決めて、眠りに身を委ねようとしたが、うまくいかない。一か月の間に、眠り方を忘れてしまったとでもいうのか。
壁掛け時計の音だけが響く室内で、いつまでも寝付けずに何度も寝がえりを打った。
眠ることができないのも、自分が人間ではないからであるように思え、しまいには涙を流した。
それから、ひどい孤独を感じ始めた。普段は人形たちが温もりを与えてくれるのに、今夜に限ってそれはただの無機質な物体に思えた。
鳥や獣、野良妖怪も住まないこの魔法の森。ずっと離れた所に建つ、人間の魔法使いの家まで、息づくものは一切存在しない。
そうだ魔理沙の家へ行こう。いつも魔法の研究で遅くまで起きているし、夜分に突然押し掛けても驚きはするだろうが、嫌な顔はしないはずだ。
ものが食べられなくなったことを話してもいい。彼女では解決策は導けないだろうが、少なくとも親身になって考えてはくれるはずだ。今はそれだけでもありがたい。とにかく人が恋しい。
しかし結局、本当にそうする気は起きなかった。まず、研究の邪魔をすることが厭われた。
普段はその逆に、彼女の唐突な訪問で、人形作りの邪魔をされているのだから、そのくらい気にしなくともよいはずだが、そう図々しい気持ちになれそうもなかった。
精神が参ってしまい、ネガティブな考えばかり浮かんだ。
時計が刻む機械的な音に満ち、青白い月光の射す部屋は、いかにも人外の化物の住処らしく見えた。
会いに行かないもう一つの理由として、人間から遠い状態にある今の私が姿を見せたら、彼女に距離を置かれてしまいそうだからというのがあった。
そう思うのには、魔理沙の友人関係が念頭にあった。基本的に誰にでも懐く彼女だが、同じ人間の霊夢とは特別に仲が良い。
魔理沙は肩書きとしての魔法使いであり、そのため種族としての魔法使いである私やパチュリーとも親しくしているが、霊夢ほど親密な関係にはない。
今の自分は見た目には普段と何一つ変わらない。だが、ものを食べることができず、眠りに就くこともできない今の自分から、彼女は異質なものを嗅ぎとってしまわないだろうか。
万が一にでも「やっぱりこいつは私とは違う生き物なんだ」と判断され、彼女に疎まれることが怖かった。
結局一睡もできずに朝を迎えた。寝る必要のない身体だが、眠れていれば考えが落ち付き、精神的に楽になっただろうに。
食事も睡眠も要さない、バケモノ。
これ以上気分が沈む前にと、時間と共に重く沈む身体を無理に起こし、紅魔館へ急いだ。
もはや飛ぶのもやっとの状態だった。頭がふらつき、胸に氷柱を埋め込まれたような寒さを覚え、震えが止まらなかった。
朝日が輝き、晴れ渡る青空も、心を晴らしてはくれなかった。この素晴らしい空に感動しないのは、私が人間でないから。そんな事ばかり考えた。
やっと到着し、門前に降り立つ。「体調が優れなくて、パチュリーに会いたいの」と美鈴に伝える。私の顔を見るや否や慌てて門を開けてくれた。よほど酷い表情をしていたらしい。
館へ入ると大図書館へ続く階段を降り、パチュリーがいる大机まで飛んだ。
机の前まで来て、床に脚を着けた瞬間、急に脱力してその場に崩れ落ちてしまった。
「ちょっと! アリス!?」
机を回り込んだパチュリーに助け起こされる。ごめんなさいと謝ったが、蚊の鳴くような声しか出なかった。
彼女が紫色にぼやけて見える。眼の焦点が合わない。
身体の感覚が薄れ、意識が遠のいた。
おそらく数分経って、意識が戻った時、私は椅子に座らされていた。パチュリーが目の前に立ち、心配そうにこちらの顔を覗き込んでいる。私が目を覚ました事に気づくと、彼女も椅子にかけた。
彼女にうながされ、私は事の経緯をぽつぽつと話し始めた。
「なるほど……その桃を食べたら戻してしまって、それから時が経つにつれ気分が悪くなっていったと」
「ええ……」
話を聞き終えると、彼女はしばしうつむき、考える様子を見せた後、顔を上げて答えた。
「うん。あなたの身体に起きた事は、大体見当がついたわ。
まず長期間の断食で胃腸の機能が低下していたため、桃を食べてすぐに戻してしまった。
そのことは大した問題ではなかったのだけれども、その戻してしまった事にあなたは強いショックを受け、その精神的なダメージのために衰弱していった。のだと思うわ」
「知っての通り私たちは、病気や怪我などには人間などと比較して強いけども、精神面で弱く、ストレスや心的な負担が身体的な不調を引き起こしやすい。
そのために、一度精神的に傷つき、力を落とした妖怪が、その力を落としたことを嘆き、気に病んでしまいさらに衰えていくという負の螺旋に陥ることがあるわ。
妖怪には陽気な楽観主義者が多いといわれたりするのもこれが原因で、悲観的な妖怪はこの負の螺旋に陥りやすいために、どんなに強大な力を誇る妖怪であっても、ひとたび落ちぶれるとそのまま――
いや、今聞かせるような話じゃないわね。とにかくあなたは気を強く持たなきゃ駄目よ。病は気から」
「気を強く……ね」
「そう、余計な事は考えなくていいの。ゆったりとした、凪いだ海のような心持ちでいなさい。」
彼女は静かに微笑んだ。
「ただわからないのは……どうして嘔吐してしまったことで、それほどショックを受けたの?
別に食事をとらなくても生きていられるのだから、気に病むことはなかったのに」
「わからない……でも怖いの。自分が自分でなくなってしまうようで。
私は私のままでありたいの。何も食べられない身体になんてなりたくない……」
頬を熱いものが伝った。彼女から顔を背ける。
椅子の上で体重を移動させると、椅子がキイときしんだ。
「大丈夫。大丈夫よ。ちゃんと治す方法が、元のように食事がとれるようになる方法があるわ」
彼女の柔らかい手が背中に回され、優しく抱きしめられた。
快復するまで紅魔館の客室に泊めてもらい、看病を受けることとなった。
パチュリーの言った身体を治す方法とは、少しずつ胃を慣らしていくリハビリで、ただの水を飲むところから始まった。
コップに半分だけの水を十五分もかけて飲み干す。それでも一度胃が痙攣し、吐き出してしまった。
水すら飲めなくなった悲しさにまた泣き出してしまったが、彼女に抱擁され、救われた。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
「いいのよ、病人なんだから。今のあなたは弱っているのだから。安心して……安心して、私に全て任せなさい」
この日の晩には、なんとかコップ一杯の水を飲み干しても、吐かないようになった。
とりあえず水を飲めるようになった安堵から、意外に早く入眠することができた。だが悪夢を見た。その夢の中で私は、蛇となめくじの合いの子の怪物で、白くぬるぬるした身体を滑らせて暗闇の中をひた進み、何かを必死に探しているのだが、その探し物は決して見つからないことを私は知っているのだ。
翌日は紅茶、それから重湯、次はお粥と、少しずつ身体を慣らしていった。
寝台の上でリハビリの日々を送る間、ふとした瞬間に暗いものが心を射し、絶望に飲み込まれそうになることが幾度かあった。
だが私が恐怖の闇に囚われ、悲鳴を上げそうになるたびにパチュリーは、私の冷たい手を握り、嗚咽が止まるまで抱きしめ、そこから救い上げてくれた。
私より一回り小さな背丈をした彼女は、今の私の全てだった。
お粥を食べられるようになってからは、一度も吐かなかった。
ずっと胸にあった恐怖と焦燥が消えて、落ち着いた心持ちで食事をとることができるようになった。
ただなぜか、身体に力が入らないような気がした。朝起きた直後などに、握力がまるでなくなってしまうことがあるが、その時と同じような脱力感が全身にあった。
館で寝起きするようになって四日。この頃は、ベッドを離れ、館を歩き回れるほどに快復していた。
夕方ごろ、玉子の入ったお粥を食べた。無事完食すると、彼女は笑顔で祝福をしてくれた。思えばパチュリーの笑顔というのはこれまであまり見た覚えがない。
こんなことがきっかけとはいえ、普段私と話す間も、魔道書や魔道具に意識の半分ほどを向けている彼女が、私につきっきりになって看てくれることが嬉しかった。
「研究の邪魔をしてごめんなさい」
「いいのよ。大事な友人のためなのだから。
それにたまには図書館を出て、こういう時を過ごすのも悪くないわ」
彼女は西日の射す窓へ首を向けた。窓は閉じているが、ヒグラシの声が漏れ聞こえている。
「風流ね」
「ええ」
「図書館は静かよね」
「そうね。地下だからセミの声も聞こえないし」
「レコードをかけたりしないの?」
「たまにレミィと娯楽室で聴いたりはするけど、図書館へは持ち込まないわね。研究の邪魔だし」
「音楽をかけると、作業能率が上がると聞いたことがあるわ」
「ああ白黒もそんなこと言ってたかしらね。でも集中できなくなって逆効果だと思うけど」
「そうそう私も魔理沙から聞いたの。逆効果かしら?」
「と思うわ。人形作りのような芸術性の求められることなら、インスピレーションを受けるということもあるかも。
でも魔法の研究にとっては邪魔でしかなさそうね」
「人形作りのほとんどの時間は単純作業だけどね。魔理沙はレコードをかけて研究すると進みがいいって言ってたわ」
「それは彼女の未熟さ故よ。あるいは人間の、ね」
そこで会話は止み、ヒグラシの音が一段と大きくなった。
人間。そう、魔理沙は人間。
私は意を決して、彼女に訊ねた。
「パチュリー、こんな私のことどう思った?」
「こんな私というと?」
「私が人を辞めたのはもうずっと前のこと。それなのに、食事することなんかに執着して、怖がって泣いて、莫迦みたいだと思ったでしょう?
自分から人間を捨てたのに、おかしいわよね。
私は魔法使いになったことは後悔してないわ。でも魔法使いであると同時に、人間でもありたいと願っているの。
滅茶苦茶な話でしょう? 人の域を超えた永い生を享受しておきながら、人と何一つ変わらぬ生活がしたいなんて、我儘が過ぎるわよね、あはは」
一度話し出すと止まらなかった。ずっと胸にあった思いが言葉となって、せきを切ったように溢れた。
感情のままにしゃべって、看病してくれた彼女をわざわざ困らせ、一体私はどうしたいのだろうか。
滲む視界の向こうで、彼女はさぞ迷惑そうな顔をしているに違いない。
涙を拭い彼女の顔をうかがう。と、彼女は真剣な眼差しでこちらを見据えていた。
彼女は目線を合わせたまま、答えた。
「私はそうは思わないわ。私も毎日軽食だけでもとるようにして、胃腸を維持してるし、それに」
確かな口調で言葉を継いだ。
「我儘だっていいじゃない。ずっと永く生きたい、食事も睡眠も強制されたくない。
でも食べたい気分の時には食事を楽しみたいし、寝たい気分の時には寝たい。それでいいじゃない。一体誰に気兼ねする必要があるというの?
確かに、人の寿命を超えて生きることを、生命を冒涜する行為だと誹る者はいるわ。
でも私に言わせればそんなのは、死から逃れる力を持たない者が、逃げられないのではない逃げないのだと、合理化を図っているだけ。
薬で病を治すのも、魔法で老いを止めるのも同じ。ただ不都合を取り除いて、生きたいように生きるだけ。
それが私たち、魔法使いの生き方というものよ」
そのまましばらく動けなかった。お互い何もしゃべらず、ヒグラシが空間を支配していた。
翌日。昼食にパンを食べた。ふわふわの白パン。胃腸はなんともなかった。
身体の調子もいいし、この様子なら明日には退院できそう。と魔女に伝えた。
夕方頃、紅魔館病院に面会者があった。
「病人が二人に増えたと聞いてきたぜ」
「病人はアリスだけよ。私のどこが病人よ」
「自覚あるんじゃないか。そんなに家に閉じこもってるのは、病人かそうでなきゃ魔女ぐらいのものだぜ」
ベッドを離れ、パチュリーと連れ立って庭を散歩していたところ、魔理沙が飛んできたのだった。
「それはともかく、アリス、体調はもう大丈夫なのか?
レミリアと神社で会って聞いたが、結構やばかったらしいな」
言葉こそ普段通りの魔理沙だが、語気に病人への遠慮が感じられた。
一時はどうなるかと思ったが、ずいぶん良くなった。もうパンも食べれるようになった。と返すと、安堵の笑みを見せた。
実際、体調も精神も元の通りといってよかった。ただ気持ちがふわふわとして、どこか落ち着かない気分だった。
「しかし食事ができなくなったってのがそんなにショックだったのか? 体調を崩すほど」
「うーん。自分でも驚いたわ。自分が変貌していくのは確かに怖いけれども、もっと冷静に受け止められると思っていたわ。まさかこれほど動揺するなんて」
「もしかしたらアリスは、食事だとか睡眠だとかを心の支えに生きているのかもしれないな」
「え? どういうこと?」
魔理沙は続けた。
「前から不思議に思ってたんだけどさ、アリスって魔法使いの割にはちゃんと生活してるんだよな。
魔法使いって普通よ、魔法の開発なり魔道書の解読なりに忙しくて、食事や睡眠なんてとってる暇なんてない! ってもんだぜ?
パチュリーなんか食事中も本読んでるし、私も薬の精製とかでしょっちゅう徹夜してるしさ。
それに比べてアリスって、なんか余裕があるっていうか、魔法や人形とは関係ない事に、ずいぶんと時間を使ってる印象があるんだよ。お菓子作ってたりとかさ」
「言われてみればそうかしら? でも好きだからそうしてるだけで、心の支えってのは大袈裟じゃない?」
「そうかもな。ま、私も思いつきでしゃべってるだけだからな。でも可能性としてはあるんじゃないか?
あの料理したり掃除した時の充実感ってあるだろ、飯を食いたいだけなら誰かの家に行ってたかればいいけど、自炊するとなんか良い気分になるだろ?
あれだよあれ。ああいう達成感と言うかさあ、『私はちゃんと生活をしているんだ』って気持ちを支えにして、お前は生きてるんだ」
「はあ、よくわからないけどそうなのかしら」
「ああきっとそうだ。うん」
私が一応納得して見せたからか、魔理沙は一人満足気にうなずいた。
その姿があんまり嬉しそうだったので、私とパチュリーは顔を見合せて笑った。
「な、なんだよ! 気持ち悪いな!」
魔理沙の持ってきた世間話にしばらく興じた。その間も足を動かし、庭を出て湖畔を廻った。
落日が湖に半分姿を隠すころ、魔理沙と別れて館へ戻った。
夕食は、レミリアに招かれて食堂でとった。
「五日もここに泊まってるのに、主のあなたに挨拶もしないで申し訳ないわ」
「何、そんなこと。それより咲夜! ワインを。アリスの快気祝いにふさわしいものを用意なさい」
「はい、でしたらちょうど魔界産のものがありますわ」
白いクロスが敷かれた長テーブルに、様々な料理が並べられた。
念のため肉は避けたが、もう何を食べても平気そうだった。ワインも飲んでしまった。
「ごちそうさま。本当においしかったわ」
「そうだろう。美味いだろ?」
少し間をおいてから、吸血鬼は語った。
「食は娯楽。古代ローマの貴族どもはわざと吐いてまでその快楽を享受しようとしたというくらいだ。
そこまでするのはどうかと思うが、しかし食事を楽しむくらいの余裕はいつも持ち合わせていたいものだな」
「あら、客人に説教なんて失礼じゃないかしら?」
「パチェ、お前に言っているんだよ。食事中ぐらい本を閉じたらどうなんだ」
その後、紅魔館で醸造しているワインなどが話題に上がった。魔界のワインについてもいくつか尋ねられたが、あまり詳しくないため、気の利いた返事はできなかった。
翌日、朝食にハムサンドをいただくと、すぐに図書館へ降り、パチュリーに看病の礼と別れを告げた。
もうしばらく居て様子を見たらどうかと言われたが、昨日の時点で暇を持て余すほどに快復していたし、明後日にまで近づいた夏祭りで、予定通り人形劇を開くつもりだったのでその準備のため断った。
「人形を操るのも魔力と体力を使うでしょう。くれぐれも身体に気をつけてね」
「うん、気をつける。それじゃ、本当にありがとう。いつかお礼するわ」
館を出て、美鈴とも二三言葉を交わした後、地を蹴って空へ昇った。
空は青く澄み、風を切って飛ぶのは気持ちが良かったが、いまだ脱力感とぎこちなさが身体に残っていた。
家へ着くと、人形たちに魔力を送って、掃除をしてもらおうとしたが、ある考えから思いなおして止めた。
自らはたきを手にとって、棚のほこりを落とした。はたきの次はほうきがけ、それが終わったら雑巾を絞って、目についた調度品を拭いてまわった。
思った通り、掃除を進めるうちに身体に力が戻っていった。体内に火が熾ったようだった。魔理沙の言った通り、私は生活の力で生きているのだろう。
その熱に操られるように、少し早いが昼食の支度を始めた。館を出る時に土産に持たされたさやいんげんで炒め物を作った。
人形たちにも料理の手伝いや家の外の掃除をさせた。
そうしているとドアチャイムが鳴った。人形にドアを開けさせようとしたが、それを待たずして押し入ってくる。
「退院おめでとう! なんだ病み上がりのくせに忙しそうだな」
「だからこそ仕事が溜まってるのよ。早速昼食をたかりにきたのかしら?」
「いやいや違うぜ。快気祝いのおすそわけに来たんだ。たまたまこいつが群生する場所を見つけてな」
そう言って釜を突き出した。蓋をとると茸の炊き込みご飯だった。茸は夏に旬を迎える、魔法の森でしか見かけない珍しい種だった。
「あら珍しい。ありがとう」
「そうだろ? 滅多にお目にかかれない、珍品中の珍品だぜ」
「いや、あなたがおすそわけに来るのがね」
「むぅ。だがホントに貴重な茸なんだぜ。そもそもこの森は食える茸が珍しいのに、その中でもさらに希少な茸なんだからな。今朝は偶然見つかったが、また採ろうと思ったら何時間かかるかわからないぜ」
「それはそれは、貴重なものをありがとうございました」
「どういたしまして。ところで私は他に用があるからもう帰るぜ」
言うが早いか、たてかけていたほうきを引っ掴み、どたどたと出て行った。
再び静かになった部屋で、食卓の配膳をする間にふと、魔理沙も料理や掃除をするのだなと思った。
程度の差こそあれ、家事や食事や睡眠をした時の充実感で生きているというのは、私だけでなく魔理沙もそうなのだろう。
そこまで考えて、これは呪いのようだと唐突に感じた。
ただの人間であるがゆえに短命であり、食事と睡眠を強いられる身でもある魔理沙が、実際の必要性以上の理由から、料理や掃除などといった家事に時間を費やさねば生きていけぬとしたら、呪いの他の何でもないだろう。
だが、呪いであるとは思ったが、そう悪い印象も持たなかった。呪いであることと、良し悪しとはまた別の問題だと思った。
魔理沙の置いていった茸の炊き込みご飯は香り高く、とてもおいしかった。
こんなおいしい呪いなら悪くない。
病症として軽く描写されるだけではありますが、不快に思われましたら閲覧をお控え頂きますようお願い申し上げます。
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しばらく前から、人里で催される諸々の行事に合わせて、人形劇を開いていた。
劇を始めた頃は、十分程度で終わるちょっとしたもので、稽古というほどの事もしていなかった。
だが意外と評判が良く、それならばと回を重ねるごとに力が入っていった。来週の夏祭りでの公演は、十一体もの人形を出演させる、一時間弱の本格的な劇となった。
しかしあくまで人形劇、演者たちを操るのは私一人。また脚本も私が一人で書いているので、劇の規模が大きくなるにつれて準備にかかる時間が増えた。
夏祭りの日の興行を決めたのが先月の中ごろ。それから急いで脚本の執筆、出演する人形と装飾や小道具の製作、それから演技の稽古を始めた。
全て私一人でできる作業なのをいいことに、一か月以上家に引きこもり、食事も睡眠もとらずにこなした。どんな見返りがある訳でもないが、観客の顔を思い浮かべると自然と熱が入った。
寝食を必要としない、魔法使いの身であるとはいえ、これほど長い間の絶食、断眠は初めてだった。
連日リハーサルを重ね、今日になってようやく、納得できるレベルの演劇になった。
そこで久しぶりの食事をとろうと、人里へ繰り出し、八百屋で桃を買ってきた。
長い断食の後は、胃腸への負担を考え、果物などで軽く済ませるようにしている。ひと月越しの晩餐が桃一つとは少し寂しいが、仕方がない。
ナイフで皮をむき、小さく切り分け、花柄に縁取られたお気に入りの皿に盛った。
乳白色の果実をしばらく眺めてから、フォークで突き刺し、口へ含んだ。咀嚼すると甘露が溢れ、芳しさが広がる。
桃はフルーツの中でも特別に好きだ。甘い香りがするしあまり酸っぱくないから。
長らく絶たれていた味覚への刺激、おいしさに自然と頬が緩む。
十分堪能してから飲み込み、フォークを次へと伸ばす。と、胸に強い不快感を覚えた。
桃が悪くなっていたか? いやそうは見えない、色ツヤよく新鮮そうだ。それに腐敗が原因なら気分が悪くなるのが早すぎる。
フォークを置き、椅子に深く腰掛けて身体の内側へ意識を向ける。
胃からこみあげるむかつきに、咄嗟に玄関から飛びだし、地に膝を着き――嘔吐した。
まだひとかけらしか食べておらず、からっぽの胃には他に吐けるものがなく、涙目でむせ続ける。
土の上に広がる透明の胃液に、噛み砕かれた桃が混じっている。
にじむ視界に、垂れ下がる金色の髪と、月明かりで銀色に光る唾液の糸とが映った。
吐き気が治まり、地に手を着いた姿勢のまま、肩で息をする。
髪の先が嘔吐物に触れてしまった。家に戻るとタオルを濡らし、それを拭き取った。えも言われぬ惨めさを感じた。
キッチンの水がめを持って出て、地に広がるそれを洗い流した。傾斜に従い、森へと流れていく。
酸っぱい口をすすぎ、ろうそくを吹き消して、だるい身体をベッドに横たえる。なぜこんなことに。
おそらく、長期間にわたり何も食べなかったため、胃腸の機能が低下してしまったのだろう。
これまでにも、人形作りに熱中して何日か食事を抜いた後などに、それを実感した事はあった。
しかし戻してしまったのは初めてだった。胃が何も受け付けなくなるほど食事をとらなくても平気でいられる自分は、人の範疇から外れた存在なのだということが今更ながら強く意識された。
その、自分が人外であるということが、突然とても恐ろしく思えてきた。
この恐怖は理性的に考えればおかしい。食事をせずとも生きられる魔法『捨食』を、私は望んで習得し、自ら進んで人を捨てたのだから。
だが事実、私は自分が人間でないことを、悪寒がするほど恐れていた。魔界に住まう一人の人間だった頃が、二度と取り戻せない尊いものであるように感じられた。
もう一度、残りの桃を食べてみようかと思ったが、しかしそれでまた吐いてしまったら、いよいよ決定的に自分が否定されてしまう気がした。
とても試してみる気にはならなかった。
とにかく、再び食事ができる身体に戻りたい。そう強く願った。
大図書館の魔女を頼ろう。同じ魔法使いであるし、彼女の豊富な知識をもってすればきっと解決するはずだ。
今日はもう遅いから寝て、明日の朝一番に紅魔館を訪ねよう。
そう決めて、眠りに身を委ねようとしたが、うまくいかない。一か月の間に、眠り方を忘れてしまったとでもいうのか。
壁掛け時計の音だけが響く室内で、いつまでも寝付けずに何度も寝がえりを打った。
眠ることができないのも、自分が人間ではないからであるように思え、しまいには涙を流した。
それから、ひどい孤独を感じ始めた。普段は人形たちが温もりを与えてくれるのに、今夜に限ってそれはただの無機質な物体に思えた。
鳥や獣、野良妖怪も住まないこの魔法の森。ずっと離れた所に建つ、人間の魔法使いの家まで、息づくものは一切存在しない。
そうだ魔理沙の家へ行こう。いつも魔法の研究で遅くまで起きているし、夜分に突然押し掛けても驚きはするだろうが、嫌な顔はしないはずだ。
ものが食べられなくなったことを話してもいい。彼女では解決策は導けないだろうが、少なくとも親身になって考えてはくれるはずだ。今はそれだけでもありがたい。とにかく人が恋しい。
しかし結局、本当にそうする気は起きなかった。まず、研究の邪魔をすることが厭われた。
普段はその逆に、彼女の唐突な訪問で、人形作りの邪魔をされているのだから、そのくらい気にしなくともよいはずだが、そう図々しい気持ちになれそうもなかった。
精神が参ってしまい、ネガティブな考えばかり浮かんだ。
時計が刻む機械的な音に満ち、青白い月光の射す部屋は、いかにも人外の化物の住処らしく見えた。
会いに行かないもう一つの理由として、人間から遠い状態にある今の私が姿を見せたら、彼女に距離を置かれてしまいそうだからというのがあった。
そう思うのには、魔理沙の友人関係が念頭にあった。基本的に誰にでも懐く彼女だが、同じ人間の霊夢とは特別に仲が良い。
魔理沙は肩書きとしての魔法使いであり、そのため種族としての魔法使いである私やパチュリーとも親しくしているが、霊夢ほど親密な関係にはない。
今の自分は見た目には普段と何一つ変わらない。だが、ものを食べることができず、眠りに就くこともできない今の自分から、彼女は異質なものを嗅ぎとってしまわないだろうか。
万が一にでも「やっぱりこいつは私とは違う生き物なんだ」と判断され、彼女に疎まれることが怖かった。
結局一睡もできずに朝を迎えた。寝る必要のない身体だが、眠れていれば考えが落ち付き、精神的に楽になっただろうに。
食事も睡眠も要さない、バケモノ。
これ以上気分が沈む前にと、時間と共に重く沈む身体を無理に起こし、紅魔館へ急いだ。
もはや飛ぶのもやっとの状態だった。頭がふらつき、胸に氷柱を埋め込まれたような寒さを覚え、震えが止まらなかった。
朝日が輝き、晴れ渡る青空も、心を晴らしてはくれなかった。この素晴らしい空に感動しないのは、私が人間でないから。そんな事ばかり考えた。
やっと到着し、門前に降り立つ。「体調が優れなくて、パチュリーに会いたいの」と美鈴に伝える。私の顔を見るや否や慌てて門を開けてくれた。よほど酷い表情をしていたらしい。
館へ入ると大図書館へ続く階段を降り、パチュリーがいる大机まで飛んだ。
机の前まで来て、床に脚を着けた瞬間、急に脱力してその場に崩れ落ちてしまった。
「ちょっと! アリス!?」
机を回り込んだパチュリーに助け起こされる。ごめんなさいと謝ったが、蚊の鳴くような声しか出なかった。
彼女が紫色にぼやけて見える。眼の焦点が合わない。
身体の感覚が薄れ、意識が遠のいた。
おそらく数分経って、意識が戻った時、私は椅子に座らされていた。パチュリーが目の前に立ち、心配そうにこちらの顔を覗き込んでいる。私が目を覚ました事に気づくと、彼女も椅子にかけた。
彼女にうながされ、私は事の経緯をぽつぽつと話し始めた。
「なるほど……その桃を食べたら戻してしまって、それから時が経つにつれ気分が悪くなっていったと」
「ええ……」
話を聞き終えると、彼女はしばしうつむき、考える様子を見せた後、顔を上げて答えた。
「うん。あなたの身体に起きた事は、大体見当がついたわ。
まず長期間の断食で胃腸の機能が低下していたため、桃を食べてすぐに戻してしまった。
そのことは大した問題ではなかったのだけれども、その戻してしまった事にあなたは強いショックを受け、その精神的なダメージのために衰弱していった。のだと思うわ」
「知っての通り私たちは、病気や怪我などには人間などと比較して強いけども、精神面で弱く、ストレスや心的な負担が身体的な不調を引き起こしやすい。
そのために、一度精神的に傷つき、力を落とした妖怪が、その力を落としたことを嘆き、気に病んでしまいさらに衰えていくという負の螺旋に陥ることがあるわ。
妖怪には陽気な楽観主義者が多いといわれたりするのもこれが原因で、悲観的な妖怪はこの負の螺旋に陥りやすいために、どんなに強大な力を誇る妖怪であっても、ひとたび落ちぶれるとそのまま――
いや、今聞かせるような話じゃないわね。とにかくあなたは気を強く持たなきゃ駄目よ。病は気から」
「気を強く……ね」
「そう、余計な事は考えなくていいの。ゆったりとした、凪いだ海のような心持ちでいなさい。」
彼女は静かに微笑んだ。
「ただわからないのは……どうして嘔吐してしまったことで、それほどショックを受けたの?
別に食事をとらなくても生きていられるのだから、気に病むことはなかったのに」
「わからない……でも怖いの。自分が自分でなくなってしまうようで。
私は私のままでありたいの。何も食べられない身体になんてなりたくない……」
頬を熱いものが伝った。彼女から顔を背ける。
椅子の上で体重を移動させると、椅子がキイときしんだ。
「大丈夫。大丈夫よ。ちゃんと治す方法が、元のように食事がとれるようになる方法があるわ」
彼女の柔らかい手が背中に回され、優しく抱きしめられた。
快復するまで紅魔館の客室に泊めてもらい、看病を受けることとなった。
パチュリーの言った身体を治す方法とは、少しずつ胃を慣らしていくリハビリで、ただの水を飲むところから始まった。
コップに半分だけの水を十五分もかけて飲み干す。それでも一度胃が痙攣し、吐き出してしまった。
水すら飲めなくなった悲しさにまた泣き出してしまったが、彼女に抱擁され、救われた。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
「いいのよ、病人なんだから。今のあなたは弱っているのだから。安心して……安心して、私に全て任せなさい」
この日の晩には、なんとかコップ一杯の水を飲み干しても、吐かないようになった。
とりあえず水を飲めるようになった安堵から、意外に早く入眠することができた。だが悪夢を見た。その夢の中で私は、蛇となめくじの合いの子の怪物で、白くぬるぬるした身体を滑らせて暗闇の中をひた進み、何かを必死に探しているのだが、その探し物は決して見つからないことを私は知っているのだ。
翌日は紅茶、それから重湯、次はお粥と、少しずつ身体を慣らしていった。
寝台の上でリハビリの日々を送る間、ふとした瞬間に暗いものが心を射し、絶望に飲み込まれそうになることが幾度かあった。
だが私が恐怖の闇に囚われ、悲鳴を上げそうになるたびにパチュリーは、私の冷たい手を握り、嗚咽が止まるまで抱きしめ、そこから救い上げてくれた。
私より一回り小さな背丈をした彼女は、今の私の全てだった。
お粥を食べられるようになってからは、一度も吐かなかった。
ずっと胸にあった恐怖と焦燥が消えて、落ち着いた心持ちで食事をとることができるようになった。
ただなぜか、身体に力が入らないような気がした。朝起きた直後などに、握力がまるでなくなってしまうことがあるが、その時と同じような脱力感が全身にあった。
館で寝起きするようになって四日。この頃は、ベッドを離れ、館を歩き回れるほどに快復していた。
夕方ごろ、玉子の入ったお粥を食べた。無事完食すると、彼女は笑顔で祝福をしてくれた。思えばパチュリーの笑顔というのはこれまであまり見た覚えがない。
こんなことがきっかけとはいえ、普段私と話す間も、魔道書や魔道具に意識の半分ほどを向けている彼女が、私につきっきりになって看てくれることが嬉しかった。
「研究の邪魔をしてごめんなさい」
「いいのよ。大事な友人のためなのだから。
それにたまには図書館を出て、こういう時を過ごすのも悪くないわ」
彼女は西日の射す窓へ首を向けた。窓は閉じているが、ヒグラシの声が漏れ聞こえている。
「風流ね」
「ええ」
「図書館は静かよね」
「そうね。地下だからセミの声も聞こえないし」
「レコードをかけたりしないの?」
「たまにレミィと娯楽室で聴いたりはするけど、図書館へは持ち込まないわね。研究の邪魔だし」
「音楽をかけると、作業能率が上がると聞いたことがあるわ」
「ああ白黒もそんなこと言ってたかしらね。でも集中できなくなって逆効果だと思うけど」
「そうそう私も魔理沙から聞いたの。逆効果かしら?」
「と思うわ。人形作りのような芸術性の求められることなら、インスピレーションを受けるということもあるかも。
でも魔法の研究にとっては邪魔でしかなさそうね」
「人形作りのほとんどの時間は単純作業だけどね。魔理沙はレコードをかけて研究すると進みがいいって言ってたわ」
「それは彼女の未熟さ故よ。あるいは人間の、ね」
そこで会話は止み、ヒグラシの音が一段と大きくなった。
人間。そう、魔理沙は人間。
私は意を決して、彼女に訊ねた。
「パチュリー、こんな私のことどう思った?」
「こんな私というと?」
「私が人を辞めたのはもうずっと前のこと。それなのに、食事することなんかに執着して、怖がって泣いて、莫迦みたいだと思ったでしょう?
自分から人間を捨てたのに、おかしいわよね。
私は魔法使いになったことは後悔してないわ。でも魔法使いであると同時に、人間でもありたいと願っているの。
滅茶苦茶な話でしょう? 人の域を超えた永い生を享受しておきながら、人と何一つ変わらぬ生活がしたいなんて、我儘が過ぎるわよね、あはは」
一度話し出すと止まらなかった。ずっと胸にあった思いが言葉となって、せきを切ったように溢れた。
感情のままにしゃべって、看病してくれた彼女をわざわざ困らせ、一体私はどうしたいのだろうか。
滲む視界の向こうで、彼女はさぞ迷惑そうな顔をしているに違いない。
涙を拭い彼女の顔をうかがう。と、彼女は真剣な眼差しでこちらを見据えていた。
彼女は目線を合わせたまま、答えた。
「私はそうは思わないわ。私も毎日軽食だけでもとるようにして、胃腸を維持してるし、それに」
確かな口調で言葉を継いだ。
「我儘だっていいじゃない。ずっと永く生きたい、食事も睡眠も強制されたくない。
でも食べたい気分の時には食事を楽しみたいし、寝たい気分の時には寝たい。それでいいじゃない。一体誰に気兼ねする必要があるというの?
確かに、人の寿命を超えて生きることを、生命を冒涜する行為だと誹る者はいるわ。
でも私に言わせればそんなのは、死から逃れる力を持たない者が、逃げられないのではない逃げないのだと、合理化を図っているだけ。
薬で病を治すのも、魔法で老いを止めるのも同じ。ただ不都合を取り除いて、生きたいように生きるだけ。
それが私たち、魔法使いの生き方というものよ」
そのまましばらく動けなかった。お互い何もしゃべらず、ヒグラシが空間を支配していた。
翌日。昼食にパンを食べた。ふわふわの白パン。胃腸はなんともなかった。
身体の調子もいいし、この様子なら明日には退院できそう。と魔女に伝えた。
夕方頃、紅魔館病院に面会者があった。
「病人が二人に増えたと聞いてきたぜ」
「病人はアリスだけよ。私のどこが病人よ」
「自覚あるんじゃないか。そんなに家に閉じこもってるのは、病人かそうでなきゃ魔女ぐらいのものだぜ」
ベッドを離れ、パチュリーと連れ立って庭を散歩していたところ、魔理沙が飛んできたのだった。
「それはともかく、アリス、体調はもう大丈夫なのか?
レミリアと神社で会って聞いたが、結構やばかったらしいな」
言葉こそ普段通りの魔理沙だが、語気に病人への遠慮が感じられた。
一時はどうなるかと思ったが、ずいぶん良くなった。もうパンも食べれるようになった。と返すと、安堵の笑みを見せた。
実際、体調も精神も元の通りといってよかった。ただ気持ちがふわふわとして、どこか落ち着かない気分だった。
「しかし食事ができなくなったってのがそんなにショックだったのか? 体調を崩すほど」
「うーん。自分でも驚いたわ。自分が変貌していくのは確かに怖いけれども、もっと冷静に受け止められると思っていたわ。まさかこれほど動揺するなんて」
「もしかしたらアリスは、食事だとか睡眠だとかを心の支えに生きているのかもしれないな」
「え? どういうこと?」
魔理沙は続けた。
「前から不思議に思ってたんだけどさ、アリスって魔法使いの割にはちゃんと生活してるんだよな。
魔法使いって普通よ、魔法の開発なり魔道書の解読なりに忙しくて、食事や睡眠なんてとってる暇なんてない! ってもんだぜ?
パチュリーなんか食事中も本読んでるし、私も薬の精製とかでしょっちゅう徹夜してるしさ。
それに比べてアリスって、なんか余裕があるっていうか、魔法や人形とは関係ない事に、ずいぶんと時間を使ってる印象があるんだよ。お菓子作ってたりとかさ」
「言われてみればそうかしら? でも好きだからそうしてるだけで、心の支えってのは大袈裟じゃない?」
「そうかもな。ま、私も思いつきでしゃべってるだけだからな。でも可能性としてはあるんじゃないか?
あの料理したり掃除した時の充実感ってあるだろ、飯を食いたいだけなら誰かの家に行ってたかればいいけど、自炊するとなんか良い気分になるだろ?
あれだよあれ。ああいう達成感と言うかさあ、『私はちゃんと生活をしているんだ』って気持ちを支えにして、お前は生きてるんだ」
「はあ、よくわからないけどそうなのかしら」
「ああきっとそうだ。うん」
私が一応納得して見せたからか、魔理沙は一人満足気にうなずいた。
その姿があんまり嬉しそうだったので、私とパチュリーは顔を見合せて笑った。
「な、なんだよ! 気持ち悪いな!」
魔理沙の持ってきた世間話にしばらく興じた。その間も足を動かし、庭を出て湖畔を廻った。
落日が湖に半分姿を隠すころ、魔理沙と別れて館へ戻った。
夕食は、レミリアに招かれて食堂でとった。
「五日もここに泊まってるのに、主のあなたに挨拶もしないで申し訳ないわ」
「何、そんなこと。それより咲夜! ワインを。アリスの快気祝いにふさわしいものを用意なさい」
「はい、でしたらちょうど魔界産のものがありますわ」
白いクロスが敷かれた長テーブルに、様々な料理が並べられた。
念のため肉は避けたが、もう何を食べても平気そうだった。ワインも飲んでしまった。
「ごちそうさま。本当においしかったわ」
「そうだろう。美味いだろ?」
少し間をおいてから、吸血鬼は語った。
「食は娯楽。古代ローマの貴族どもはわざと吐いてまでその快楽を享受しようとしたというくらいだ。
そこまでするのはどうかと思うが、しかし食事を楽しむくらいの余裕はいつも持ち合わせていたいものだな」
「あら、客人に説教なんて失礼じゃないかしら?」
「パチェ、お前に言っているんだよ。食事中ぐらい本を閉じたらどうなんだ」
その後、紅魔館で醸造しているワインなどが話題に上がった。魔界のワインについてもいくつか尋ねられたが、あまり詳しくないため、気の利いた返事はできなかった。
翌日、朝食にハムサンドをいただくと、すぐに図書館へ降り、パチュリーに看病の礼と別れを告げた。
もうしばらく居て様子を見たらどうかと言われたが、昨日の時点で暇を持て余すほどに快復していたし、明後日にまで近づいた夏祭りで、予定通り人形劇を開くつもりだったのでその準備のため断った。
「人形を操るのも魔力と体力を使うでしょう。くれぐれも身体に気をつけてね」
「うん、気をつける。それじゃ、本当にありがとう。いつかお礼するわ」
館を出て、美鈴とも二三言葉を交わした後、地を蹴って空へ昇った。
空は青く澄み、風を切って飛ぶのは気持ちが良かったが、いまだ脱力感とぎこちなさが身体に残っていた。
家へ着くと、人形たちに魔力を送って、掃除をしてもらおうとしたが、ある考えから思いなおして止めた。
自らはたきを手にとって、棚のほこりを落とした。はたきの次はほうきがけ、それが終わったら雑巾を絞って、目についた調度品を拭いてまわった。
思った通り、掃除を進めるうちに身体に力が戻っていった。体内に火が熾ったようだった。魔理沙の言った通り、私は生活の力で生きているのだろう。
その熱に操られるように、少し早いが昼食の支度を始めた。館を出る時に土産に持たされたさやいんげんで炒め物を作った。
人形たちにも料理の手伝いや家の外の掃除をさせた。
そうしているとドアチャイムが鳴った。人形にドアを開けさせようとしたが、それを待たずして押し入ってくる。
「退院おめでとう! なんだ病み上がりのくせに忙しそうだな」
「だからこそ仕事が溜まってるのよ。早速昼食をたかりにきたのかしら?」
「いやいや違うぜ。快気祝いのおすそわけに来たんだ。たまたまこいつが群生する場所を見つけてな」
そう言って釜を突き出した。蓋をとると茸の炊き込みご飯だった。茸は夏に旬を迎える、魔法の森でしか見かけない珍しい種だった。
「あら珍しい。ありがとう」
「そうだろ? 滅多にお目にかかれない、珍品中の珍品だぜ」
「いや、あなたがおすそわけに来るのがね」
「むぅ。だがホントに貴重な茸なんだぜ。そもそもこの森は食える茸が珍しいのに、その中でもさらに希少な茸なんだからな。今朝は偶然見つかったが、また採ろうと思ったら何時間かかるかわからないぜ」
「それはそれは、貴重なものをありがとうございました」
「どういたしまして。ところで私は他に用があるからもう帰るぜ」
言うが早いか、たてかけていたほうきを引っ掴み、どたどたと出て行った。
再び静かになった部屋で、食卓の配膳をする間にふと、魔理沙も料理や掃除をするのだなと思った。
程度の差こそあれ、家事や食事や睡眠をした時の充実感で生きているというのは、私だけでなく魔理沙もそうなのだろう。
そこまで考えて、これは呪いのようだと唐突に感じた。
ただの人間であるがゆえに短命であり、食事と睡眠を強いられる身でもある魔理沙が、実際の必要性以上の理由から、料理や掃除などといった家事に時間を費やさねば生きていけぬとしたら、呪いの他の何でもないだろう。
だが、呪いであるとは思ったが、そう悪い印象も持たなかった。呪いであることと、良し悪しとはまた別の問題だと思った。
魔理沙の置いていった茸の炊き込みご飯は香り高く、とてもおいしかった。
こんなおいしい呪いなら悪くない。
しかし書き上げた、というのは素晴らしいと思います。
これからも創作楽しみましょう。
ところで、劇を楽しみにしていた子供たちはどうなりましたか(小声
と思うことでも、本人にとっては大事件だったりするんですよね。
面白かったです。
起承転結ができていてとてもよかったと思います。
アリスは魔理沙の言うとおり生活の力で生きているって感じがします
読み終えて好いタイトルだと思いました。楽しく読ませて頂きました。