縁側に座って、草鞋を履く。置き薬がたくさん入った籠を背負って、勢い良く立ち上がる。それから編み笠を手にして、空を仰いだ。
雲一つない青空。遠くの山の峰がよく見える。空を飛ぶには絶好の日だ。
まだ冬の寒さが残っているものの、日差しのお陰か、春はもうすぐだという気がする。
「よし」
編みがさを目深にかぶった。
永遠亭の薬売りと玉兎の鈴仙は別人ということになっている。薬売りの私は、里の人々を不安がらせないよう、人間ということになっているのだ。一応自分の波長を弄んでいる、言い換えると雰囲気を(より長身に、より大人しく)変えているので、同一人物とはそうそう見破られないはずだ。
といったように変装してはいるものの、ばれたとしても里の大多数は然程気にしないだろう。
里の人々を不安がらせないというのは建前で、どちらかといえば玉兎として里を私用で訪れた際、薬売りの人として喋りかけられるのが面倒だ、というのが本音かもしれない。
わざわざ迷いの竹林を歩いていくのも面倒なため、私は空を飛んで人里に向かう。人里に直接着地せず、竹林の中で着地するという配慮はしているし、飛んでいるときは波長を弄って位相をずらすので、見つかることはまずない。
今日もいつものように、空を見上げて、地面を蹴って空へ――――
「――――あれ?」
目の前に地面があった。湿った土の臭いがする。少し遅れてから、ちょっぴり体がじんじんする。
そして私はようやく自分が転んでいたことに気付いた。
薬籠は重かったが、私は何とか自力で立ち上がった。汚れてしまった着物を手で払って綺麗にする。
そういえばいつもより薬を多めに持っていた。玉兎といえども、重い荷物を持って飛ぶのは大変なのだ。そのせいでバランスが崩れてしまったのかもしれない、と私は気を取り直す。
「ほっ」
ちょっと背伸びをする格好になっただけで、地面から一ミリも浮かない。
「はっ」
今度は腕の振りもつけてみる。それでもちっとも浮かばない。焦りのせいか、暑くもないのに汗が首を伝う。
頭の中にちらついた考えを、必死に打ち消そうとする。しかしとうとう現実を認めざるをえなくなって、諦めて私はその感覚を口にした。
「いつも、どうやって飛んでたんだっけ……?」
言葉にしてしまうと、もう二度と飛べないような気分になった。だからあえて考えないようにしていたのだが、飛べないものは飛べなかった。
途方に暮れて、私は空を仰いだ。透き通った青空が、何だか恨めしかった。
◆ ◆ ◆
「思春期にはよくあるのよ」
私に背中を向けたまま、怪しい液体の入ったフラスコを片手にその女性はそう言った。
彼女の名は八意永琳。月の天才であり、私の師匠だ。
その周りは、発光するホルマリンのような液体で満たされた、円柱状の水槽がいくつも立ち並んでいる。中には生き物なのかもよく分からない物体が、時折気泡を吹いている。部屋は薄暗く、師匠の机周りの照明と、発光している水槽を満たす液体だけが光源だ。天井からは何に使用しているかもよく分からないチューブが垂れ下がっている。
まるで安いサイバーパンクのようだ。今この地上で、最もマッドサイエンティストに相応しい部屋を争うなら、師匠のこの研究室が文句なしの堂々トップだろう。
空を飛べなくなったと人に打ち上げるのは恥ずかしいが、どのみち師匠には後々知られることになるだろう。それならばと、思い切って相談しに来たのだ。
「思春期には色んな病気にかかりやすいものよ。起立性調節障害、鉄欠乏性貧血、マイグレイン、フリマノリカル・クリプトノーク。枚挙にいとまいないわね」
「私思春期じゃないんですけど」
反論してみると、師匠はフラスコを専用の台に置いて、回転いすに足組して座ったまま、ゆっくり振り向いた。そして白衣の襟を正す。
彼女は表情筋を一切動かさないままに、話を続ける。
「精神年齢が高くとも、それは精神の年齢で、大抵、体の年齢は見た目のままよ」
「そういう問題じゃなくて、私は玉兎なのでそもそも思春期とか……」
「わかってるわ、冗談よ」
「さいですか」
流しておいた。
まさか冗談だったとは予想外だが、師匠はいつもこんな感じだ。逐一付き合っていると、いたずらに疲れるだけだ。基本的に、思いつくことをそのまま話している気がする。
「そうねぇ……じゃあ優曇華、いつも自分がどうやって飛んでるか説明してちょうだい」
「どうやって飛んでいるって……何でしょう、こう、妖力を使ってこう……」
「それは原理よ。どういった感覚で飛んでるか言語化してみて」
私は言葉に詰まってしまった。
いつも当然にやっていたことのはずなのに、改めて問われると説明できない。あなたはどうやって歩いていますか、どうやって呼吸していますか、と聞かれるようなものだ。
「当たり前のことって、どうやってるかと聞かれると、かえってできなくなるのよ。寝るときに自分は歯を上下つけてたか、開いてたか、とか。舌をどこに置いていたのかとか。気にし出すと、余計わからなくなって、寝られなくなるじゃない。そういう感じの状態よ」
「でも、歩き方を忘れたり、呼吸の仕方を忘れることってないじゃないですか」
「自律神経がおかしくなるとそういうこともあるわよ?」
「つまり私は自律神経がおかしくなったと?」
そう聞いてみると、師匠は首を横に振った。
「話がちょっと脱線しちゃったわね。別の方向から説明しましょう。当たり前にあなたがやっていた空を飛ぶって行為は、いわば魔法なのよ。不思議パワーってことね」
「不思議パワー」
その部分だけおうむ返ししてみると、やたらと胡散臭い感じがする。
師匠は説明を続けた。
「魔法とかって、すごく不安定なの。一度どうやってたっけ、って思うともうできない。できるという確信が行為に先行するわけね」
なるほど。空を飛ぶのもそれと一緒だと。
最初は荷物が重くて、たまたま飛べなかったのかもしれない。しかし一度失敗してしまって、もしかしたら飛べなくなったのかもしれない、と不安になり二度目から本当に飛べなくなってしまったのだろう。
「子供のころは不思議な力が使えたのに、大人になって使えなくなった、とかいう話はこのあたりに起因するわ」
「魔法使いとか見てると、むしろ学問みたくやってますけど」
疑問をそのまま口にしてみる。
あの図書館に引きこもった魔女を見ていると、魔法がそんな曖昧なものであるとは思えない。彼らなりに魔法を体系立てて研究しているのだろうし。
「それは魔法とか、じゃなくて魔法個別の話になるんだけどね。そもそも魔法と科学の違いというのは……」
師匠はがたり、と立ち上がり、ホワイトボードらしきものの方に足を向けた。口元に笑みさえ浮かべていないものの、目が昏く輝いている。
不味い、講義が始まってしまう。私が知りたいのは、あくまでもう一度飛べるようになる方法だ。
「やっぱりいいです。ひとまず、飛べるようになる方法を教えてください」
「そう……」
残念そうに彼女はホワイトボードから離れた。
師匠の講義がどこまで続くかは計り知れない。私自身何度も餌食になったし、月にいたころ、講義が一週間丸ごと続いたという、眉唾物の伝説を聞いた時がある。
「もう一度飛べるようになるには、やっぱり飛ぶ感覚を思い出すしかないわ」
「ええと、私はわからなくなってしまったんですが、具体的にどういう感覚でしたっけ」
「わからないわ。その感覚は人それぞれだから。ひょっとしたら、全く違う感覚で動いてるかもしれない。いえ、もしかしたら感覚というものがあるのかもわからないわ」
「じゃあどうしたら……」
耳がしなっとなる。私は着物の裾をぎゅっと掴んだ。
一度失われた空飛ぶ感覚は、二度と戻らないのだろうか。
「飛ぶ感覚は思い出せなくても、飛んでいる感覚ならわかるんじゃない?」
「どういうことでしょうか」
「てゐとかに自分を抱えて飛んでみるよう頼むのよ。風の感覚とか、浮遊感とかは明確にできるわ」
「自分で飛ぶ感覚を思い出す手がかりとして、空を飛んでいる環境を再現してみるわけですね!」
「その通りよ。無理だと思うけど」
あまりにスムーズに言うものだから、否定の言葉だと一瞬分からなかった。ムリという音が、少し遅れて無理という言葉に変換される。
「な、何でですか……」と私がすがると、彼女はこう言った。
「勘よ」
「さいですか……」
この人は意外とこういう人だ。
完璧に理論武装しているように見えて、その実曖昧なものも曖昧なものとして許容できる。もっとも、そうなったのは蓬莱山輝夜という人物に出会ってからのことだそうだが。
「あとはもうショック療法とか。死を覚悟するほど高いところから飛び降りたら、案外死ぬ気になって飛べるかもしれないわ」
「できれば遠慮願いたいですね」
玉兎の体は人間より頑丈とはいえ、それなりの高度から落ちたら死ぬ。再生能力は折り紙付きなので、どの程度から落ちたら死ぬかはちょっとわからない。
最終手段として、とりあえず落ちてみて、死ぬ前に師匠に治療してもらうという術はあるようだ。絶対にやりたくないが、最終手段として頭蓋骨の中の片隅に置いておこう。
「ま、飛べなくてもいいんじゃないかしら」
彼女は机の電気を消して、出口に踵を向けた。
「酷くないですか……」
「飛べなくなったからといって、死ぬわけでもないわ。里に行くのが不便になるだけね。これを機に、耳もちぎって人間になっちゃったらどうかしら」
「酷くないですか!?」
「……冗談よ」
今度の師匠は微笑んでいたが、少し苦笑しているようでもあった。何故だろう。
私も彼女に続いて部屋を出た。あのマッドな部屋は、一歩出るともう普通の日本家屋なので、ワープしたような気分になる。
「飛べなくたって、優曇華は優曇華ってことよ。そんなことで永遠亭から追い出したりしないわ」
「……はい」
微笑む師匠に、私は少し改まる。師匠は意外と優しいのだ。
私が戸を閉めると、師匠は姫様の下へ向かっていった。私の部屋は反対側だ。
その白衣の背中を尊敬と嬉しさが入り混じった気持ちで眺めていると、数歩進んだところで、彼女は足を止めて振り返った。
「丁度、烏天狗の翼が手に入ったんだけど、移植してみる?」
「遠慮します」
間髪入れずに断る。
どこでそんなもの手に入れたんですか、とは聞かなかった。冗談なのだろう。多分。
◆ ◆ ◆
闇夜に提灯の赤が連なる。絶えることのない、楽しげな声。焼きそばやタイ焼きの臭いが鼻腔を刺激し、財布のひもを緩ませる。いまいち迫力に欠ける射的の銃声も聞こえる。
顔が隠れるほど大きな綿あめを抱えた少年が前からきて、ぶつかりそうになってよろめく。お姉ちゃんごめんね、と言って彼は友達の方へと人混みをかき分けて急いだ。
今日は博麗神社の縁日だ。今宵ばかりは人と妖の区別はない。無粋な奴はすっ飛んできた博麗の巫女に締め上げられるから、妖怪も人を襲うような真似はしない。
「姫様、申し訳ありません」
「いいのよ。地面の上を歩いてみると、いつも見過ごしてる景色にも気付けるし」
そう言って蓬莱山輝夜は屈託なく笑った。私を気遣っているというより、本当にそう思っているような表情だ。
この前師匠に相談した後、空が飛べなくなったことを馬鹿にして笑うてゐへの怒りを噛み殺しつつ、私を抱えて空を飛ぶよう頼んだ。しかし結局飛べるようにはならず、頭の下げ損だった。
少し焦るが、焦ってどうなるものでもないと自分に言い聞かす。師匠の話を聞く限り、焦るとかえって余計に飛ぶ感覚が遠くへ行ってしまいそうだし、気長に取り組もう。
私と姫様の後ろを、てゐと師匠が並んで歩いている。
姫様は青に白の竹の意匠、てゐは薄目のピンク、師匠は無地に赤い帯の浴衣を着ている。加えて髪の長い姫様はポニーテールだ。うなじが眩しい。私だけは山の方の人から貴重な薬草を受け取った帰りだったので、いつもの薬売りの格好だった。浴衣を着ていないこと自体に不満はないが、薬売りの服装のせいで、いちいち里の人間から声をかけられるのが面倒だ。
途中で三人と合流したのだが、みんな飛べない私に合わせて徒歩に付き合ってくれた。置いて行ってくれてもいいと言ったのだが、姫様から「歩きたい気分だったから丁度いいわ」というお言葉をいただいたのだ。
「あ、イナバ。あのヤツメウナギを買ってきなさい! イナバは豚汁ね」
「アイマム」
「ういうい」
編み笠の下で小さく敬礼して、私は姫様が指さした、夜雀の出している屋台に直行する。てゐは手をひらひらして、その向かいの豚汁を出している屋台に向かう。屋台の店主は妖怪人間のべつなく様々だ。
姫様は永遠亭の兎を玉兎の私も含めて、一括りにしてイナバと呼ぶ。兎たちにさほど興味がない冷たい人物のようにも思えるが、その実一匹一匹で「イナバ」と呼ぶ発音が微妙にことなる、らしい。師匠がそう言っていたが、私には自分の呼ぶ「イナバ」の声が何とか識別できるくらいだ。
その発音の違いは、人に化けられない兎に対しても同様だ。人化していない兎は、私にさえどれがどれだか区別できないのに、姫様にはわかるようだ。
食べもので両手がいっぱいになったころ、丁度博麗神社の本殿の目の前にでた。本殿の周りは敷物が敷かれて休憩所のようなスペースになっており、その傍らでは巫女直々に甘酒が振る舞われる。今日は三匹の妖精にその役割がぶん投げられていたが。
既に本殿周りは人であふれかえっていたが、周りの人間たちに空けてもらって四人分のスペースを確保した。
「ん~大して美味しいわけじゃないけど雰囲気で美味しいわね!」
焼きそばを頬張って姫様はそう言って笑う。それを師匠がたしなめて、ハンカチで姫様の汚れた口元をぬぐった。
「輝夜。そういうのはあまり大声で言っちゃだめよ」
「まああの焼きそば屋は里で粉物屋やってる人の方の屋台じゃないからね。あの顔は確か、渡し船の組合だったかな」
てゐがそのように説明すると、姫様が「なるほどね」と相槌を打つ。それにしても、てゐは里には出ないものを思っていた。
「へー、あんたも案外人里に顔出してんのね」
「変装してね。長寿の秘訣は引きこもらないことよ。あっ、そこにいるの、純狐とかいう人じゃない?」
「どこっ!?」
私は即座に立ち上がって周りを見渡す。悪い人じゃないのだが、急にとんでもないことをしでかしかねないプレッシャーがあり、あまり関わりたくないのだ。どうにも彼女に私は妙に気に入られているようで、やたら絡まれる。
しかし、どこにもあの黒い着物の女性は見当たらない。
「隙だらけってか隙しかないね」
「あっ、私の分のタイ焼き!」
どうやらてゐお得意の嘘だったようだ。てゐが私の分のタイ焼きをもさもさと食べている。それを見て姫様はクスクスと笑っている。後ろから首を締め上げるも、意に関せずてゐはタイ焼きをむさぼり続ける。
「餡子以外は邪道だと思ってたけど、さつま芋も中々」
「こんにゃろ……!」
「そうだイナバ。立ち上がったついでに甘酒もらってきてちょうだい」
「了解です。くっそう……覚えときなさいよ」
私の捨て台詞を口笛で返すてゐを背に、私は甘酒を配る列に並んだ。三匹の妖精が声を張り上げて、一生懸命甘酒を配っている。
霊夢はどこに行ったのだろうと周りを見渡すと、里のおっさんたちと一緒に飲んだくれていた。いわゆる挨拶まわりの一環だろうが、それにしては酔いすぎだ。年配の男性の髪のない頭をばしばし叩いている。処世とか世渡りとかいう言葉とは無縁な彼女らしい。ああいう風に誰に対しても自然体でいられるのは、少し―――
「薬売りの人ォ!」
「はいこちら薬売りっ……げ」
いきなり大声で話しかけられ、そちらを振り返る。そこには完全に出来上がった鈴奈庵の看板娘がいた。名前は本居小鈴だったか。顔は赤く上気し、目の焦点が定まっておらず、平衡感覚を失っている。その後ろで連れと思わしき少女が、呆れ果てて苦笑している。御阿礼の娘こと稗田阿求だ。
やっぱり普段着に着替えてくればよかった。そうしたらこんな風に絡まれることもなかっただろう。
「稗田さん……これ」
「ええ。見ての通りの飲兵衛酔いどれ酔っ払いです」
「これとはなんですかぁ!」
「なんれすか」と「なんですか」の中間くらいの発音だ。舌が回ってない。
彼女はそう言いながら私の着物に縋りつく。口元がひきつる。吐瀉物で汚れるようなことがあっては、たまったものではない。
「連れて帰った方がいいんじゃないですか?」
私が玉兎と気付いているかは微妙な線だったが、ひとまず敬語で話してみる。
御阿礼の子は特に気にするようなことはなく、首を横に振った。どうやら気付いていないらしい。彼女と玉兎の鈴仙の間に、面識がないこともなかったが、波長を弄ってあるのだ。気付かないのも無理はない。
「そうしたいのは山々なんですけど、これから稗田家の当主としての挨拶だとか式辞だとか、色々あって……」
「そうなんですよぉ!」
あんたが言うなよ。
そう突っ込みたかったが、代わりに御阿礼の子が彼女の頬をつねった。鈴奈庵の娘はうー、とうなるだけだ。まだ若いのに、友人の世話に式辞と大変なご身分だ。
里まで連れて帰ってあげようか、でも面倒くさいし、地上人のためにそこまでしてやる義理もない。少しの間逡巡していると、甘酒を待ちかねたのか、いつの間にか近くに来ていた姫様が声をかけてきた。
「連れて帰ってあげなさいよ」
流石に姫様は優しかった。
「そしたら私たちは足手まといがいなくなって、飛んで帰れるじゃない」
あまり優しくなかった。
さっき「歩くと景色が」云々気づかいを見せた人と同一人物とは思えない。でも悪意はなく、本当にそう思っているのだろう。そして姫様は、私がその無邪気さに気が付くこともわかっているのだろう。この人はこういう人なのだ。
「わかりました……てゐ!」
「本当ですか薬売りさん。助かります」
「助かりますぅ!」
今度は蹴りが入った。御阿礼の子も、いい加減飲んだくれに付き合わされるのは我慢の限界だったのだろう。
「これお願いね」
「ういうい」
日中に受け取った薬草をてゐに預けた。きんちゃく袋に入っている分だけだが、人を背負って帰るには邪魔だ。ついでにてゐに甘酒の順番待ちも代わってもらう。
もごもご口ごもる鈴奈庵の娘を背負って立ち上がる。
「鈴奈庵の場所は大丈夫ですか?」
「ええ。お客様の家ですから」
薬だけでなく、ウルトラソニック眠り猫とかも売りつけたこともある。
「よろしくお願いします」と頭を下げた御阿礼の子を背に、私は今まで来た道を逆走する。道行く人の心配するような面白がるような声に私は曖昧に答えながら、帰途を急ぐ。今は空を飛べないのだが、薬売りの格好ではどのみち空を飛べなかっただろう。
気付けば屋台もなくなっているが、道の両脇にはまだ赤い提灯が続いている。この提灯は博麗神社特製で、魔よけの効果も持っており、里まで続いている。いくら博麗の巫女がいつもより情け容赦なく制裁を加えると公言していても、知能の低い、ほとんど獣に近い妖怪や実際の獣には意味がない。それらへの対策が、この呪力の込められた提灯というわけだ。
去年ここを通ったとき師匠は「魔よけと言えば、どちらかといえば白い提灯なのだけれどね。でも赤は大陸では魔よけの色だから、どうやら道教の流れも汲んでいるらしい博麗としてはこっちの方が普通なのかもね」と言っていた。
さらにこの提灯に加え、神社でもらえるお札もあり、里の人間は安全に博麗神社の縁日まで来れるということらしい。縁日一つにご苦労なことだ。
「突っ切るかな」
私がそう独りごちると、背負った鈴奈庵の娘が返事のつもりなのか、何か言っている。もうほとんど彼女は寝ていた。寝ていてくれた方がおとなしくて助かる。
魔法の森とは別に、幻想郷は森がいくつもある。博麗神社と人里の間にも森があり、道は危険な最深部を迂回して伸びている。
とはいえ私は妖怪。わざわざ人間たちと同じ道を歩く必要はないので、最短距離を突き進もうというわけだ。雑魚妖怪や獣なんかに嗅ぎ付けられるのも面倒なので、自分たちの位相をずらし、発見されづらくする。我ながら便利な能力だ。
今の時期だと虫の鳴き声もしない。森の中が静かなせいか、遠くの祭りの喧騒がまだ残っている。それに背を向けて、私は歩みを進める。
「ん?」
視界の端に、月光に反射した何かが映る。急に足を止めたせいか、それとも私のつぶやきを聞いてか、背中の少女が目を覚ましかけた。
「……薬売りさん?」
「あ、あたぼうよ」
なるべく刺激しないように焦った結果、妙な返事になった。私は立ち止まって彼女の眠りが深くなるのを待った。
しかしその考えはうまくいかなかった。彼女は少しずつ覚醒に近づいていく。
「帽子……邪魔です」
そういえば背負っている最中、ちょっと編み笠が彼女の頭に当たっている感触がした。起きてしまったのもそのせいかもしれない。
ということが頭をよぎった瞬間、彼女は右手で私の編み笠を払いのけた。
「ちょっ……!」
私は宙を舞った編み笠を、何とか両手で捕まえた。
当然その結果、今まで私が背負ってた少女は重力に引かれる。
「あ」
「いてっ!」
誤って鈴奈庵の娘を落っこどしてしまい、彼女はしりもちをついた。やってしまった、と思うと同時に、もう一つやらかしたことを思い知ることになる。
彼女はあることに気付き、眉間にしわを寄せた。
「あれ……兎の耳?」
「いやっ、あの……」
「薬売りさん、里でたまに見る兎さんだったんですね!」
「その……これは夢の中でして」
「無理です。完全に目が覚めました」
観念した。
この場を切り抜ける言い訳は思いつかない。別にばれても問題なかった変装だ。仕方ないだろう。
「確か鈴仙さん、ですよね? 私も小鈴でいいので」
「はあ。もう酔いは醒めちゃったの?」
「ちょっとフラフラしますが、まあ意思疎通は可能です!」
意思疎通可能か判定するのはこちら側な気もするが、話が通じるのはわかる。そしてまだ完全に酒が抜けきっていないのも。
私はしりもちをついたままだった彼女に手を貸して、起こしてやった。少しよろめいたので支えてやる。ついでに御阿礼の子から渡されていた水筒を渡してやった。もうそこまで酔っていないようだが、水を入れないと明日に響くかもしれない。
「こういうときの水は体にしみますね。ところで、どうして変装してたんです?」
「里の人間をいたずら刺激したくはないもの。永遠亭には変な人間がいる、くらいに思わせておきたいし。それに、私たちを好ましく思わない人たちもいるから、妖怪だと気付かれたら余計に……ね」
建前はすらすら出てくる。
「なるほど……じゃあ口外しないように気をつけますね」
無言で首肯した。物分かりの人間は助かる。
私たちを好ましく思わない人たち、というのは主に町医者の人間たちである。誰だって自分の仕事やそれに付随する尊敬が奪われたら嫌だろう。永遠亭が常備薬の販売と、町医者ではどうしようもなくなった患者だけを相手にしているのは、彼らに対する配慮でもある。それでもそれなりの恨みは買っているだろうが。
小鈴は何とか歩けるくらいには回復しているが、この森に放置したとなれば永遠亭の面子にも関わる。流石に置き去りするという選択肢はない。
ひとまず彼女を連れて、とまで考えたところで、再び視界の端に何かが映る。自分がなぜ立ち止まったかを思い出した。それが気になったからだ。何となくそっちへ行かなくてはならないというか、呼ばれているような感じがする。
「鈴仙さん?」
ふらり、と私の足がそちらに向かう。特に危険な予感はしない。何だろうか。
進行方向に対して右、迂回した道とは反対側に向かっていく。小鈴も視界に同じものを認めたらしく、同様に気になるのか無言で後ろをついてきた。すると、少しだけ他に比べて樹木が少ない、開けた場所に出る。
「これ、は――――」
それは巨大な鳥だった。目測で全長は十メートルくらいだろうか。ちょっとした物置小屋よりも大きく、少しだけ見上げる形になる。
頭の部分は潰れた黒い円柱になっており、その先にはプロペラがついている。プロペラの反対側から濃い緑色の胴体が伸びており、大きな赤い丸がいくつかペイントされていた。極めつけは胴体下部から伸びた金属製の翼で、月明りを受けて輝いている。
月の都で資料を閲覧したことがある。かつて戦争に用いられた戦闘機というやつだ。確かあの盛り上がった胴体中央部に乗っかったガラス張りの部分に乗り込むはずだ。
所詮は地上人の拙い技術で作られた乗り物だが、月下というシチュエーションのせいだろうか。中々悪くないデザインに見える。
「――――レイセン」
「へ、私?」
「いえいえ、これの名前です。うちにある外来書に載ってました」
「ふーん。私と同じ名前なんだ」
ひょっとしたら私と同じように、逃げてきたものかもしれない。そんな想像がふと頭に浮かぶ。
近づいて表面に触れてみる。冷たい金属の感触で、想像よりも薄いように感じる。よく見ると結構錆びてしまっている。しかしこれは何十年も前の代物のはずだ。それにしては、かなり良い状態で保存されているというべきだろう。
月の都ではありえないが、地上ではあらゆる製品が劣化する。師匠は劣化ではなく変化と呼んでいたけれど。
地上人の飛行機は反重力を使わず、原始的な手段で飛行する。そしてふと思う。原始的であるといことは、空を飛ぶ感覚も、よりダイレクトなのではないかと。電気信号を通さない、機械駆動の飛行機。これで自由に空を駆けることができれば、空を飛ぶ感覚を取り戻せるのではないだろうか。
「これで空を飛べないかな」
「これで空を飛べないですかね」
奇しくも、同時だった。
二人で顔を見合わせる。私は人間と発言が被ってしまったと苦笑し、彼女は嬉しそうに笑った。
これで空を飛べたからといって、私が空を飛べるようになるとは限らない。でも幸い、師匠は最悪飛べるようにならなくてもいいさえ言ってくれているし、のんびりこれに賭けてみるのも悪くないだろう。アプローチの種類は多い方がいい。
「やっちゃいます?」
いたずらっぽい顔で、小鈴は私の顔をのぞく。私は機体に触れていた手を引っ込め、汚れを両手を叩いて払った。
「やってみようか」
今ここに、幻想郷飛行機研究会が結成された。
◆ ◆ ◆
必要なのは情報である。
私のあの飛行機に対しての知識は大いに不足している。そんな状態であれを飛ばそう、というのは土台無理な話だ。
やはり外の世界の書籍こそが幻想郷における最良の情報源だろうが、私が鈴奈庵の娘より外来書を集められるとは思えない。したがって私は玉兎なりのアプローチを試みることにした。
「待たせたわね」
人里の中心部から少し離れた場所にある団子屋に彼女はいた。店先に置かれた、赤い布がかけられた長椅子に座っている。
服装は暗めの黄色をベースに格子模様の入った着物で、頭にはあずき色の頭巾を被っている。まだ肌寒さが残る季節なので怪しまれないが、その頭巾の中に私同様長い二本の耳を隠している。
「おっす」
団子を持っている手が軽く挙げられる。
彼女の名は鈴瑚。月にいたころの顔なじみの兎だ。特別仲が良かったわけではないが、悪かったわけでもない。
私は彼女の左側に隣に腰かけて、店主にみたらし団子を頼んだ。右側に座らなかったのは、食べ終わった団子の皿が二、三枚積まれているからだ。
「しっかし、面白いことしようとしてるね。何でいきなり飛行機?」
「まあ……色々あるのよ」
もう一度空を飛ぶ感覚を取り戻すため、というのは黙っておく。
実は飛べなくなってしまったのだ、とは流石にみっともなくて言えない。自分が飛べなくなったことは、馬鹿にされそうで知られたくなかった。一緒に住んでいる永遠亭の面々には隠し通せないので、知られるのは仕方ないが。
「そんなことより、頼んだものは?」
月のデータベースにアクセスしてあの飛行機の修理に役立つような資料を手に入れてくれるよう、私は彼女に頼んだ。自分のアクセス権限は月から逃げたときに停止されている。だから彼女に頼んだのだ。
「ちょい待ち」
彼女が空中を人差し指で叩くような動作をすると、目の前に立体映像の画面が構築される。
ホログラムではない。玉兎の視界にのみ反映される拡張現実だ。脳に直接投影される。人間たちには見えないので、空中で指を動かしている彼女は、彼らの目には奇異に映るかもしれない。
その画面を数回タッチしたりフリックしたりすると、目的のフォルダにたどり着いたのか、彼女が手を止める。
「どうやって落とす?」
「アナログ方式で」
「けったいだねぇ」
私は拡張現実を開き、鈴瑚の手を握った。彼女が空いた方の手でフォルダを勢いよくスワイプすると、フォルダが私の方の画面まで飛んでくる。
「ってかアクセス権、復活してもらうよう頼めば? 今のあんたはあのイカれた女を退けた英雄なわけだし。誰も文句は言わないでしょ」
「そうはいっても上層部しか知らないだろうしね……そういうあんたは月に帰らないの?」
私たちは手を離して、拡張現実の画面を閉じた。
鈴瑚は団子を頬張りながら、遠くをにらむようにして言った。
「んー。ここには月の民がいないからね」
月の民はかつて地上で天津神と呼ばれたものたちがほとんどだ。彼らは地上人に嫌気がさしたのか、それとも何か別の理由があったのか、月へと上がった。
しかし月に移住すると、彼らは異常をきたした。彼らはあくまで人の上に立つ存在であり、人と離れて暮らすということは、その存在意義がなくなるということでもあった。人なくして神は生きられない。
そして人間の代わりに生み出されたのが玉兎だ。天津神を崇め、そして支配される存在。玉兎とはペットであり奴隷であり、そして月の民を生かすものでもあった。
ちなみに玉兎を生みの親は師匠、という話もあるが、本人に聞いてみてもはぐらかされるばかりである。
「月の民に支配されるのは嫌?」
「そうでもない。でも、そうでもないのが最初からそう刷り込まれてるからかも、って気付くとちょっとね」
玉兎は奴隷だが、鞭打たれたり馬車馬のように働かされたりしているわけでもない。地上の歴史でいえば、ローマにおける奴隷の概念が最も近いだろう。
しかしだからといって、月の民に従わなければならないのは理不尽だ。普通の玉兎はそれはそういうもの、と思っているが鈴瑚は違った。彼女は頭がキレるから、そんじょそこらの月の民が馬鹿に見えることもあるだろう。何故自分より劣ったものの支配が決定づけられているのか、不快に思うこともあるはずだ。
「そういえば、支配を完璧にするなら、そう意識することすらできないようにしとく気もするけど」
玉兎が権利を求めて、月の民相手に革命、という可能性もゼロではない。そういう危険性が生まれる余地をむざむざ与える必要もないだろう。
「思考をガチガチに縛れば綻びが出やすいからじゃないかな。絶対順守のルールが複数あると矛盾が起きるから」
私は「なるほどね」と相槌を打った。
自分から切り出しておいてなんだが、このまま月の社会について議論を繰り広げても不毛だし、楽しくもないので、元の月に帰らないのかという話題に戻すことにする。
「ちなみに清蘭はなんて? あの子は特に何も考えてないと思うけど」
清蘭とは、鈴瑚と同じイーグルラヴィという部隊に属する玉兎だ。
二人は学兎時代から仲が良かったように思う。座学はいつも鈴瑚が首席で、実技は清蘭が首席だった。両方合わせた総合成績は私がトップだったが。
「鈴瑚ちゃんが残るなら私も残る、ってさ」
彼女はそう言ってため息をついたが、その声はどこか温かみを感じる。
見知らぬ地に来ても鈴瑚が心細そうに見えないのは、彼女が一緒にいるからかもしれない。私もそういった誰かと地上に降りてきていたなら、何か違っただろうか。
「でも定期的に帰ろうかと思ってるよ。ウチの上司に悪いしね」
「そっか。サグメ様は誰かが支えてやらないとね」
稀神サグメは、彼女たちの上司の月の民の名前だ。天津神と国津神の混血であり、それがゆえに都での立場も弱い。
月の民をあまりよく思わない彼女も、サグメ様だけは別のようだ。
「あんたの方の上司は元気?」
「楽しそうにしてる」
師匠の微笑みが頭に浮かぶ。その形容が一番近い気がした。元気というか、常に人生を謳歌しているお方だ。
「前々から思ってたんだけどさ、月の支配から逃れられたのに、何でまた月の民と一緒にいるの?」
「それは……」
鈴瑚と違って、私は月の民に従属することを煩わしいと思ったときはあまりなかった。昔から自分の意志で何かを決めるのが苦手で、誰かの指示に従っている方が楽だったからだ。
そのせいか地上で一人で生きるのに苦労し、結局永遠亭に転がり込んだわけだ。ただそういった自分の心の機微を、他人に話すのは躊躇われた。
「ま、いいや。さて、お代は報酬ってことで頼むよ」
「わかってるわ」
長椅子の上に置かれたお皿は二、三枚程度だ。大した金額にはならないだろう。
その場を去ろうとした鈴瑚は「そうそう」と立ち止まって、肩越しに振り返った。
「正直月にいたころのあんたはあんまり好きじゃなかったけど、今のあんたは友達になれそうだよ」
「……あっそう」
内容の如何より、月にいたころは嫌いだったという言葉に傷ついた。確かに昔の私は近寄りがたく、根暗だったような気もする。
しかし鈴瑚が友達という単語を口にするのはかなり珍しい。そういうことを口に出す性格ではないのだ。案外彼女からすれば、最高級の賛辞かもしれなかった。
「じゃあ飛行機の成功を楽しみにしてるよ。グッドラック」
聞いたことがある。航空機が空へ飛び立つとき、フライトの安全を祈ってその言葉を贈るのだと。
彼女の背中が雑踏に消えていくまでを、私は何となくぼんやりと眺めてから立ち上がった。
「店主、勘定」
私が値段を概算して小銭を出すと、店主は首を横に振った。
「え、だってあそこにはそういう風に値段が……」
私は壁にかけられた値札を指さして言う。すると彼はにたりと笑って言った。
「あの黄色い着物の嬢ちゃん、結構前からいたんだよ」
彼の言葉の意味を捉えかね、私は首を傾げた。しかし数秒遅れてあることに気付き、その意図を理解する。
あの鈴瑚が、あの程度の量しか団子を食べないのはおかしい。
「まさか……!」
私は今まで座っていた長椅子にかかっていた赤い布をめくった。
「くそっ……やられた」
私は口元をひくつかせて、頭をかきむしる。頭を椅子の下には、山積みになった皿が隠されていた。しかもご丁寧に、皿を汚さないよう紙を敷かれていた。
あいつとは友達になれそうもない。彼女はてゐと同類だ。
◆ ◆ ◆
暖簾をくぐり、妙に薄暗い店内へと私は足を踏み入れた。どことなく怪しい雰囲気がするのは、店の中に眠っていると聞く妖魔本のせいだろうか。
「おじゃまします」
「いらっしゃいませ。あ、鈴仙さんでしたか」
小鈴は私の姿を認めると、髪をかき上げる仕草をして、目線を手元に落とした。
彼女はいつものように、古びたカウンターに座っていた。その姿を見て、そういえば彼女はいつも一人で店番をしているな、と気付いた。
「にしても、いつも親御さんいないわね」
「お得意様の家を回ってます。ここって物置のようなもので、貸本屋としては外回りが主体なんですよ。だからこの店に直接来るのは、お客様としては少数派なんです」
私の目線で聞かれる内容を何となく察したのか、説明がすらすらと出てくる。客があまり来ないのであれば、ここで相談事をしても問題ないだろう。
彼女は立ち上がると、隅に置いてあった書物の山を、カウンターの上にどっしりと乗せた。
「ウチにあったのはこれで全部です」
「よく一日でこれだけ集められたものね……」
彼女には飛行機に関する外来書をまとめるよう頼んだのだが、鈴奈庵の蔵書量は並ではない。データベース化もされていないのに、よく集められたものだ。
「実は私、前々から飛行機に興味があったんです。だから資料は一回読んだときありますし、大体覚えてたんです。あと、ほとんど関係ないのも交じってますよ」
どうやらほんの少しでも関連してるものは全てピックアップしてくれたらしい。
おもむろにその中の一冊を手に取ってみる。
「へえ、実際に使ってたマニュアルなんかもあるのね」
一次資料は重要だ。一度人の手を経た資料や文章は、悪意がなくても著者に都合の良くなるような資料が作為的に選ばれてしまうし、酷いときには根も葉もない伝聞がそのまま掲載されていることもある。そういった偏見から逃れるためには、一次資料に当たるのが最良だ。
もっとも一次資料だって完全に正確とは言い切れないし、自分が情報の取捨選択や読み方を間違えれば誤った結論に辿りついてしまう。
「あの飛行機の名前、私と同じ名前なんだっけ?」
「はい。正式名称は零式艦上戦闘機。レイ戦というよりゼロ戦と呼称されるときの方が多いそうです」
一応あの飛行機についての背景も調べてみた。
かつて外の世界では第二次世界大戦という大きな戦争があった。そこで日本が主に使用した戦闘機が零戦だそうだ。戦闘機とは兵器として使われた飛行機の中でも、同じ飛行機と戦うことに主眼を置かれて作られたものを指すらしい。
零戦の機体の特徴としてはとにかく軽いの一言につきる。軽いため高い上昇力、長い航続距離、旋回半径が小さいという長所を持つ。当時の日本は技術力、特にエンジンで他国のライバルに比べ劣っており、それをカバーするためだそうな。逆に短所は軽いがゆえのダイブでの加速の遅さ、高速時の操縦性低下、生産性や高高度性能の低さなどが挙げられる。
正直いまいちピンと来ないのだが、私たちとしては飛んでくれれば何でもよいため、戦闘機としての性能の話などは些末事だ。
「順を追って考えてこうか」
「えーと、そうですね……まず、あれって飛べるようになるんですかね」
小鈴が不安そうに言う。そもそも修理できる可能性がゼロならば、これからやることは全て徒労に終わってしまう。
「その心配はないんじゃないかな。パッと見、状態はかなり良かったし。むしろ良すぎるくらい」
そう、保存状態が良すぎるのである。零戦が生産されたのは半世紀よりもっと前。そんな昔に野ざらしにされたとすると、機体の新緑色が確認できる程度の錆で済んでいるのはおかしい。
「保存されていたものが、最近廃棄されて、それが幻想郷に流入したんですかね」
幻想入りする品は、個体としては打ち捨てられ忘れられて、誰にも認識されていないようなものがほとんどだ。物品であれば、一度廃棄するか紛失するかのプロセスを踏むケースが多い。
「ここにある資料を見る限り、現存する機体は貴重みたいだから、その可能性は低そうだけど……九十九神に近づいていて、その妖力で保存されたとか」
「その方がまだありえそうですね。あ、でも飛行機ってそもそも時を超える機能もついているらしいですよ」
「……ほほう?」
眉唾だ。聞いたことがない。
彼女は山積みになった資料から、一冊の雑誌を取り出して、あるページを開いた。そこにはサンチアゴ航空513便事件というタイトルが書かれている。
「要約すると行方不明になった飛行機が、五十年後に乗客が全て白骨化した状態で発見された、という事件らしいです」
ざっとその記事に目を通すと、他にも同様の事件が挙げられており、外の世界ではしばしば飛行機が時を超えるらしかった。本当だろうか。
「普通の人は知らないけれど、一部の人が隠してそういった機能を搭載してるみたいですね。飛行機には未知の領域であるブラックボックスとやらが乗せられてるみたいですし、それが作用して時を超えるのかもしれません」
小鈴が目をギラギラさせながら言う。ブラックボックスとは、そういう意味の単語だっただろうか。
「何にせよ、多少時を超えたっていうのはあるかもね。幻想入りの際に時を超えた事例は他にもあるし」
「そうなんですか?」
「あなた、友達の本……幻想郷縁起だっけ。読んだ時ある?」
「……あんまり」
怪訝な顔で彼女はそう言った。稗田乙女の使命を快く思っていないのかもしれない。
私も一度目を通しただけだが、縁起の巻末には未来から来たと思わしき人物のメモが掲載されている。竹林に落ちていたものらしく、近場だったせいか印象に残っていた。
「修理は資料を参考に頑張ってみるとして、必要になる材料や工具はどうしましょう」
「簡単なものなら永遠亭にもあるけど……その辺りは里の鋳物師、特殊なものは河童に頼ることになるでしょうね」
河童の機械には一部、里にはない金属が使用されていたりする。人間とは別個の鉱山を有していると私は考えている。
「でも、それってやっぱり元手は必要になってきますよね……」
「費用は私が用意するから、小鈴ちゃんは心配しないで」
「いいんですか……?」
気まずそうに両手の一指し指をもじもじさせる小鈴に、私は気にする必要はないと言う。彼女としては折半が筋だと思っているかもしれないが、こちらからすれば子供に金を出させるほど落ちぶれてはいない。
師匠から労働の対価はもらっているのだが、正直なところ使いどころがなく、困っているのだ。お金をつぎ込むような娯楽も持っていないし、箪笥の中で腐らせているよりかは、よっぽど有意義なお金の使い方だ。
「飛行本番の話なんだけど、小鈴ちゃんも飛びたい?」
「はい」
「……失敗したら死ぬこともあるんだよ」
ひ弱な地上人の体では、玉兎であり体が頑強な私より、墜落して死ぬ可能性はずっと高い。
「それでもです」
即答だった。私には少し意外だった。
飛行機に乗ることが命がけであることは、ここの資料からもわかっているはずだ。彼女の願望は飛行機に乗ってみたい、ではなく飛んでいるところを見てみたい、だと思っていたのだが、私の見当違いだった。自分で飛んでみたい理由があるのだろうか。
「鈴仙さんと一緒なら、怖くないですし」
「そ、そう?」
悪い気はしなかったが、「そうなれば」と私は話を続ける。
「説明は後でするけど、私の方が操縦は上手いと思うから、任せてもらうね。で、小鈴ちゃんが乗るのであれば、二人一緒に乗ることになると思う」
操縦の訓練は、鈴瑚からもらったデータ内にあるフライトシミュレーターによって行う。脳に直接インストールする形式のバーチャルシミュレーションなので、小鈴が訓練を行うことはできないし、何より操縦するには彼女の体格が小さすぎる。これが今省略した説明だ。
「でも零戦って一人乗りですよね。重さとか平気なんでしょうか?」
「二人合わせた体重を、成人男性の体重の約二分の三倍と見積もるとして……飛行には直接必要ない機銃なんかを降ろせば問題ないと思う」
もっとも機銃を降ろすことによって、全体の重量のバランスも変化するだろうから、その辺りの調節は別途に必要になるかもしれない。
「スペースはどうでしょう?」
「一応このマニュアルによれば座席の調整はある程度できるみたいだけど、ひとまず実測してみるしかないわね。いざとなったら座席をとっぱらって、私たちにより合う小さいものに挿げ替えるかな」
その他にも、必要になりそうなものや問題になりそうな部分をリストアップしていく。大体の問題は解決が見込めたが、一つだけ困ったことがあった。
「どうしたんですか?」
「滑走路どうしようかなって。どうやら最低でも一キロメートルちょっとくらいの長さは必要みたい」
「ええと、町に直すと具体的にどれくらいですか?」
「約十一町ってとこね」
風向きにも左右されることを見越した上で、安全を保証するために必要なのが千二百メートル程度らしい。外の世界で零戦が離着陸するための滑走路の基準が、この長さになる。緊急用の滑走路でも八百メートルはある。
「それは……難しいですね。地面も舗装の必要があるみたいですし」
コンクリートを敷く必要こそないものの、土を転圧するなどする必要はある。地面がそこそこ舗装されていて、かつ千二百メートルの直線というと、幻想郷内に存在するとは思えない。
紅魔館の庭にいい線いくスペースがあるかもしれないが、直線距離では長くても二百メートル程度だろうし、幅の方に不安が残る。
「そういえば離陸と着陸、どちらの方が短くて済むんでしょう。最悪、乗り捨てにすれば着陸は考えずにすみますが……」
「離陸の方が長くつくわね。加速より減速の方が簡単だから」
もっともカタパルトがある場合は必ずしもこの限りではなく、その場合、必要な距離は逆転する。
「うーん……」
「条件としては地面がそれなりに舗装されていて、機体の幅の約十二メートルより大きく、欲を言えば千二百メートルの長さの道ね。飛ぶ日の風向きと風速によってはもっと短くてもいいわ」
私にはこの条件を満たす場所は思いつかない。飛行機自体は直せるかもしれないのに、滑走路がなくて断念するのはもったいない。
やはり無ければ作るまでだろうか。師匠に頼めばどうにかしてくれそうな気もするがどうだろう。できる限りは独力で成し遂げてみたいが、仕方ない。一度相談してみようか。
するとパラパラと資料をめくっていた小鈴が、はっと顔を上げた。
「滑走路、私に任せてもらえないでしょうか。ちょっと考えがあるんです」
必ず成功するとは言えないので、念のため私の方でも次善策を考えてほしい、と彼女は付け足した。
本当に滑走路が用意できるだろうか。そう思いながら彼女の顔を見ると、面白い悪戯を思いついた、といった表情をしていた。
◆ ◆ ◆
森の中を黙々と進んでいく。飛んでいけば楽なのに、と自分が飛べないのも忘れて考えてしまった。
今日は修理が必要な部分を洗い出すのがメインの目的であり、余裕があれば簡単な作業はこなしてしまおうという予定だ。
「ちょっと……すいません」
後ろから聞こえたあえぐ声で、私は足を止めて振り返った。今日の小鈴はいつもの着物ではなく、薬売りのときの私と似たような作業服だ。一度、彼女が製本作業をしているときに、その服を着ているのを見た時がある。
普段誰も通らないような森の中を歩くのは体力を消耗する。色々な道具を背負っているとはいえ、玉兎である私でさえ歩くのが面倒だと思っているくらいなのだ。地上人で、かつ子供の小鈴には辛いはずだ。もう少し後続の彼女が歩きやすいよう、道を作るように歩くべきだったか。
「ごめんごめん」
少し離れてしまった彼女が追いつくのを待つ。しかしあの縁日の日、この辺りで零戦を見かけたと思ったのだが、何故か見当たらない。
小鈴が息を整えている間、周りをぼんやり見渡していると、視界に違和感を覚えた。
「あ」
どうして気付けなかったのだろうか。周囲に溶け込んだ色をした大きい布が目の前にあった。
私がそれを暖簾と同じ要領でくぐると、中に例の戦闘機があった。
「鈴仙さん、誰かに壊されたりしないよう、隠しておいたんですね!」
小鈴は「流石です」とうんうん頷いているが、私には心当たりがない。この飛行機は貴重なものだし、自分の所有物とも言い切りづらいので、このように発見されづらくする処置をしなかったのは、私の手落ちかもしれない。野良妖怪が遊んで壊してしまう可能性だってあったのだ。
しかもこれ、玉兎以外に向けた人払いの結界が敷いてある。物理的なものではなく、明確にこの場所を意識できない人間は、何となくここに近寄れないようにするタイプのものだ。
零戦に近づくと、玉兎にしか分からない暗号のメモが主脚の上に張ってある。
『団子の代金分』
なるほど、どうやら鈴瑚の仕業のようだ。
食い逃げした分を埋め合わせることを後で思いついたのか、それとも素直に手助けするのが性に合わず借りを先に作ったのか。
何にせよ、団子の料金分の働きはしたといっていいだろう。結界は高度なものだし、作業していないときに天幕を張っておけば、雨も怖くない。
「ひとまず解体しますかね」
袖まくりをした小鈴を私は静止した。
「それもあるけど……ちょっと待って」
改めて私と同じ発音の名を関した機体に向き合う。
主翼の翼端が丸くなく、切り落とされて角ばっているのを見ると、零戦の中でも三二型に分類されるものだ。他にも二一型や五二型が存在するのだが、十の位がエンジンの設計、一の位が機体の設計を表している。
コックピットが開けっ放しになっているのを見ると、不時着したパイロットが脱出してそのまま放棄された、というような想像を掻き立てる。そのコックピットを囲むはずのガラスにはほとんどヒビが入っており、また経年劣化したため曇っている。また機体表面は赤錆びが結構浮いており、主翼と胴体にひとつづつ穴が開いてしまっている。さらに胴体後部にあるアンテナの支柱はへし折れており、その支柱と垂直尾翼の間に張ってあるはずのアンテナ(ワイヤ状)は紛失している。通信は必要ないだろうから、アンテナ周りは取っ払ってしまってもいいかもしれない。
こうして見るとボロボロのようにも感じるが、主翼からへし折れているようなケースに比べれば、かなり保存状態は良好と言っていいだろう。
「で……」
私は撫でるように零戦のカウリング(プロペラが生えている黒い潰れた円柱の部分)の下のあたりに触れる。下のあたりといっても零戦はかなり大きいので、私の胸くらいの高さだ。
ここからが本題だ。精神を集中し、機体表面の位相をずらす。すると私には零戦の中身が透けて見える。
中を走るワイヤーはそこまで錆びていないが、慎重を期すためにも、なるべく少しでも危険そうなものは取り替えてしまおう。エンジン架の防振ゴムも朽ち果てているため、これも取り替えなければならない。一方でエンジン本体の状態は悪くなく、丸ごと作り直す羽目にはならなそうだ。いくつかパーツを取り替えれば恐らく起動することだろう。
「ふと思ったんですけど、どうやってこの機体、この木に囲まれた部分に着陸したんでしょう」
暇を持て余しているらしく、小鈴がつぶやく。私は「見えてない場所には何物でも現れうるものだから」と適当に答える。着陸したというより、恐らく突如としてここに現れたのだろう。正直なところ、私自身幻想郷への入り方はよく分からない。
ただ少なくとも、ここからこの機体を出すときは人手ならぬ妖怪の手が必要になりそうだ。まさか木々をなぎ倒して運ぶわけにもいかないだろう。植物を枯らしながら移動する、月の地上探査車でもあれば別だが。
「んじゃ手筈通りに足から試すよ」
「はいはい!」
私は左主翼の付け根の下に潜り込む。そして肩と腕を使って零戦を支えた。
「ふんっ……!」
私が力を込めて機体を持ち上げると、左側の足と地面の間に隙間ができる。その間に小鈴が左の主脚を、打ち合わせ通りに工具(永遠亭にあった)を使って取り外す。
本来であれば機体をつりさげるか、ジャッキを使って支えながら行う作業だが、ジャッキを用意するのが面倒だったので、妖怪の力業を行使することにした。機体表面が変形しないよう、力を加えているのは丈夫な骨格に当たる部分だ。
「でも今度はジャッキくらい用意してくるかな……」
実はある程度の装置やパーツは自作する術がある。ジャッキくらいなら作れるかもしれない。
「あ、急いだほうがいいですかね」
「ううん。安全第一で」
重いことは重いが、我慢できないほどではない。そもそも零戦は軽く、後部であれば普通の人間の力で持ち上げられるほどだ。それより本番で主脚が下りなくなって、胴体着陸を強行する羽目になる方が怖い。
鈴瑚にもらったデータによれば、主脚の、さらに緩衝装置が最も故障しやすいという。とはいえ地上をストーキングしているもの好きの玉兎の集めたデータが半分を占める、丸のみにするには危うい情報だ。
ちなみに兎はネットかドローンで地上の情報を集めている。そのドローンが地上人に目撃されると、UFO目撃譚の出来上がりというわけだ。
緩衝装置の整備は簡単だ。空気弁の蓋を外して、油が先に出るようであれば問題なし。空気が先に出るようであれば油不足であり、給油が必要となる。これが上手く調整されていないと、主翼が衝撃を吸収できず、着陸と同時に主翼がボッキリ逝く。
同様の工程を、私たちは他の足でも繰り返した。
「現状であとできそうなのは、私たちが二人で乗れるかの確認だね」
そういうや否や、小鈴は私が背負ってきた脚立を持ってきた。今日持ってきた中では一番これが大きい荷物だった。
主翼に足をかけて登るわけにはいかない。錆びていてよく見えないが、主翼には「フムナ」の文字があった。この部分に体重をかけると壊れかねないので、それを避けるための注意書きだ。
「ちょっと待ってねー」
私が先にコックピットに乗り込んだ。思ったより狭くて圧迫感がある。計器の多さは思わずギョッとしてしまうほどだ。座席には肉抜きの穴がたくさん開いている。
座席の右につけられた一番大きいレバーを引こうとするが、固くて動かない。根元をつかんで力をこめるとギギギと音を立てて動き出した。レバーを動かすと座席が少しずつ下がり、もう動かなくなたところで根元にある溝に入れてレバーを固定した。
これは元々パイロットの視界を確保するため、座席を上下に操作できるよう備え付けられたものである。空戦をやるわけではないので、スペースがとれるよう座席を下げたままでも問題あるまい。
「じゃあこっち来て」
「失礼しますっ」
両手を使って彼女を自分の前に降ろしてやる。私が蟹股になって、その間に彼女が座る形だ。
私のあごの下に彼女の頭がある。しかしいい匂いするなこの子。
「どうしました?」
「いやなんでも。座り心地はどう?」
「座れることは座れますけど、かなりギリギリですね……というか、操縦装置に足届きます?」
「うーん、要改良かな。あと座席も後ろに移動させちゃおっか。パラシュートの分もあるし」
蟹股になった分ペダルに足が届かないので、ペダルが外側に来るように改造しなければならない。
座席の後ろには先ほど動かした座席を上下させる装置があるから、それを取っ払って座席を付け直せば十分広くなるだろう。
「パラシュートってむささびみたく降りるための緊急用の道具でしたっけ。私たちにはいらないですよね」
「うん?」
「だってもしものときは鈴仙さんが空中で拾ってくれれば問題ないじゃないですか」
「あーそうだね」
小鈴が「頼りにしてますよ」というような笑顔で、髪をかき上げながら振り返る。
そして適当に相槌を打ったところで気付いた。そういえば自分が飛べなくなっているのだということを。
考えてみればこの子は私が飛べなくなっているという、みっともない現状を知らないのだ。先日の「鈴仙さんと一緒なら、怖くないですし」という発言の意図は、飛べる人と一緒だから問題ないはずだ、という意味だったのだ。頼りにされているのが嬉しくて、無駄に照れていた過去の自分が恥ずかしくなった。
「で、でも必要ないとは思うけど、一応載せても悪いものじゃないんじゃないかな?」
「外来の雑誌で読みましたけど、パラシュートって結構場所も重さも食うらしいですよ。だから当時のパイロットたちも乗せていない人も多かったらしいですし」
「確かに……信頼性あるパラシュートを作るのもかなりの手間だろうしな……」
いやそうじゃなくて。何迎合しようとしているのだ。しかしこれ以上パラシュートを推してしまうと、空が飛べないことがばれてしまう。
逆に言えば私が空を飛べないことを告げれば、彼女も納得するだろう。だが姫や師匠はいざ知らず、地上人に飛べないことを知られるのは私のプライドが許さない。てゐのように馬鹿にするリアクションを取られるのも嫌だが、憐れまれるのは絶対にごめんだ。
何とかそれっぽい理由を考えようと、私は脳をフル回転させた。
「大丈夫です。鈴仙さんのこと、信頼してるんです」
「あ、あたぼうよ……」
彼女の少し照れたような笑顔に、私は冷や汗交じりに歪な笑みで頷くしかなかった。賽は投げられたのだ。
まあ大した問題ではない。てゐとか頼んで、もしものときは空中キャッチしてくれるよう、待機してもらえばいいだけだ。
いざ本番で脱出しなければならなくなったとき、パラシュートが開かないということもあるだろうし、こっちの方がまだ信頼性は高い。むしろ無駄な作業を減らして合理的な選択をしたと言えるだろう。
「操縦桿の方はどうですか?」
思考に没頭しすぎて動きが止まっていたのか、小鈴に作業を促された。
「そうね……」
操縦桿には腕を伸ばせば届くが、本来の距離感ではないし遠い。両手が彼女の脇を通さなければならないのと、そもそも私の腕が成人男性に比べて短いからだ。
「なんとかこのままでも……あっ」
「あっ」
鈍い音がする。操縦桿が根元からへし折れた。
大分錆びが来ていたのだろう。
「……どうせ後で作り直すしね?」
小鈴は「綺麗に折れるものですね」と苦笑した。
◆ ◆ ◆
乾いた土を踏みながら前へ進んでいく。朝早いせいか、唇から漏れる吐息が白い。カエデの木が丸裸になっているせいで、余計に寒く感じる。少し暖かい日が続いていたのだが、急に冬へ逆戻りしてしまった。しかしこの寒い日々が終われば、春が訪れるはずだ。
「しっかし、出迎えの一人もないのかね」
隣を歩くてゐがぼやく。
私たちは妖怪の山に来ていた。河童に会って必要な材料や道具を調達するためだ。天狗たちは人間が自分たちのテリトリーに入ることを好まないため、小鈴は連れてこなかった。本人は行ってみたかったのにと文句を言っていたが。てゐはついてきたのは、何やら別途に河童に用があるかららしい。
「出迎えられてるんじゃない? 遠くから」
「のぞき見とは良い趣味してらっしゃるね」
人間でなくても外部の者が立ち入ることを、妖怪の山は嫌がる。アポを取ったとはいえ、彼らが監視の目を置いていないということは考えづらく、恐らく千里眼の持ち主によって私たちが妙なことをしないよう見張っているのだろう。
私の能力を使えば見つけられるだろうが、いちいち向こうの神経を逆なでるような真似をしなくてもいいだろう。
待ち合わせの場所は、河童が事前に指定してきた。遠くからでも見えるあの大きな一本杉だ。
「それにしても、あんた河童に何の用があるわけ?」
「誰かさんが役立たずになったせいで、色々仕事が増えてるのよ」
「うっ……」
それを言われると弱い。
迷いの竹林を徒歩で抜けようと思うと、それなりの時間がかかる。結果食糧の買い出しなどは、てゐがその役割を担うようになっていった。私の仕事の一部をてゐが肩代わりしているのだ。
彼女の小言に耐えながら進むと、ようやく目的地の一本杉にたどりついた。その下には、水色の合羽に身を包んだ河童がいた。彼女の名は河城にとり。たまに神社の宴会で話す程度の仲だ。
「あれ、歩いてきたの?」
「あー実はね……」
「妖怪の山に入る機会なんてそうそうないから、ちょっと景色を眺めようって話になったのよ」
てゐが無駄なことを喋るのを遮って、あらかじめ用意しておいた言い訳を述べる。にとりは私たちが歩いてきた理由に興味があったわけでなく、挨拶代わりに聞いただけなのだろう。特に追及することもなく、道案内を始めた。
「飛行機修理するんだっけ? 羨ましいねぇ。で、何が必要なんだい?」
「色々。素材は鉄やらジュラルミンやらガラスやら。ジャッキなんかもあるといいんだけど。あと何点か加工をお願いすると思うわ」
人里でもある程度の鉱物は手に入るのだが、アルミニウムなども調達しなければならないため、妖怪の山で一括購入することにした。
何点か加工を、と言ったのは、裏を返せばある程度のパーツは自分で加工できるということである。
月都万象展というある種の万博を開いた時にも展示したのだが、3Dプリンターが永遠亭にはあるのだ。様々な材料を加工できるのだが、月で人気な子供向けのおもちゃであり、ネジなどの小さいものしか作れない。ワイヤーなどは河童に受注しなければならないだろう。
「それじゃ直接恵んでもらった方がいいかな。ついてきてよ」
恵んでもらう、とはどういうことだろうか。意味はわからなかったが、ひとまず彼女についていくしかないだろう。
「あのさー、私は別の用事できてるんだけども」
両手を後頭部に回したてゐが気だるそうに言うと、にとりは「そうそう」と手を叩いた。彼女は近くにあった川に近づき、誰かいるかと呼びかけた。すると一匹の別の河童が浮かんできた。
「あそこの小さい方の兎さんを案内してやってくれる?」
にとりに頼まれた河童はこくりと頷いた。
てゐはその河童と、私はにとりと一本杉をあとにした。私はにとりの後ろについて、また山の中を歩いていく。どこに向かっているのだろうか。
黙っているのも気まずかったので、ちょっと頼み事をしてみることにした。
「私たちの飛行機、今のところ順調なんだけどさ、もし行き詰ったら手伝ってもらってもいいかしら」
「外の世界の機械をいじくらせてくれるなら大歓迎さ。でもお役には立てないかもね」
珍しいな、と思う。河童は自分の技術力に自信を持っているのだから、こういう発言はしないと思っていた。
「何で?」
「うーん……鈴仙たちの手が入ってるからね」
よく意味が分からない。
沈黙で私が意味を理解できていないと察したのだろう。彼女は説明を続けた。
「話すとちっと長くなるんだけどさ。そうだね、魔法と科学の違いって何だと思う?」
最近どこかで聞いたことのあるフレーズだ。師匠が私に飛べなくなった理由の説明をしたとき、脱線しようとした話題だ。
恐らく魔法で火を起こすのと、マッチで擦って火を起こすことの、何が違うのかという話だろう。
「そうね……再現性の有無とか?」
どちらかと言えば、科学の定義に再現性が挙げられるだけなので、魔法との違いの説明としてはちょっと違う気もするが。科学であれば完全に同一の条件であれば、同じ実験結果が出ないとお話にならない。
「割と近い気もするけどね。私は仕組みを完全に共有できるかにあると思ってる。再現性の共有、って言ってもいいけど」
彼女はこう続けた。
科学にしろ魔法にしろ、理論立てて説明を行っているのは同じだ。しかし魔法は個人の価値観に影響される部分が大きく、魔法使いによっては全く違うプロセスで火を起こしていることもある。
私の再現性という言葉を活かすならば、個人において再現性が確立するのが魔法、集団において再現性が確立するのが科学といったところか。
「でもそうすると魔導書ってなんなの?」
仕組みを共有できないのであれば、一人の魔女が、別の魔女の書いた本を読むことに意義があるとは思えない。
「参考にはなるからね。価値観が全く違うってことはあんまりないでしょ? 世界観が重なりあう部分どうしであれば、同じように魔法が使えるってわけ。本を読んで価値観が変わることもあるかもね。逆にどうあがいても参考にならない部分も出てくるんだろうけど」
「うーん……」
「あと魔導書に関しては、自分の考えを整理している部分も大きいんじゃないかな。ま、何にせよこれは私の考えだから」
しかし納得できる部分もある。
共に過ごす家族であれば、価値観も比較的似通ってくる。そうなれば、親が子に魔法を伝授することは、他人に教えるよりは簡単だろう。
「ん? これ何の話だっけ」
「そう、それでね、河童の科学って魔法に近いんだ」
「えーっと、私の科学で修理した飛行機は、にとりの科学とは別の仕組みになってるかもしれないってこと?」
「察しがいいね。そういうことが言いたかったんだ」
河童の科学が魔法に近い、というのはわかる気がする。
彼女たちは外の世界の科学を参考にしているが、そのまま使っているわけではなく、ときにはそれ以上のこともやってのける。
また河童が集団行動を苦手としているのは、このあたりの事情によるのではないだろうか。共同で作業を行う際、異なるプロセスで動く部分があったらたまったものではない。とはいえ河童は共同の社会で暮らしているから、共有できる部分の方が多いだろうが。
「さて、足元に気を付けてね」
魔法談義をしているうちに、いつの間にか洞窟の入り口についていた。にとりが中に入ったのに私も続く。中に入ると何故か風が吹いていた。にとりがランタンをリュックから取り出して照らしたが、それでも洞窟の中は薄暗かった。
そういえば小耳に挟んだことがある。河童は妖怪の山の中に鉱山とその神様を抱えており、そこから機械に使用する素材を手に入れているのだと。
「そうだよ。この洞窟は私たちの神様の祠」
確認してみると、意外と素直ににとりはそう認めた。どうやら隠しているわけではないらしい。そもそも隠しているのなら、わざわざここに案内したりしないか。
しかし祀られている神様の正体は何だろうか。カナヤマビメノカミか、アマツマラか、それともイシコリドメノミコトだろうか。
にとりが立ち止まる。到着したらしい。ランタンの明かりがあるにも関わらず、先はほとんど真っ暗だ。
「どうもお久しぶりです。こちらの兎が、いくつか欲しい鉱物があるようです」
思ったより軽い話しかけ方だな、とも思ったが、幻想郷の他の神様のことを考えるとまだ敬われている方だろう。
洞窟の中に風が吹く。強くなったり弱くなったり、音が高くなったり低くなったりする。
「分かりました。何が欲しいか、だって」
今の風の音は、その神様が喋った声だったのかもしれない。少なくともにとりには言葉に聞こえていたようだ。
私はあらかじめ用意していたリストを、にとりからランタンを借りて読み上げた。すると、また複雑な音で風が吹く。カラリ、と小石が落ちる音がした。
にとりにランタンを渡すと、彼女は数歩歩いて先を照らした。そこには必要な鉱物が揃っていた。最初からあったのか、それとも忽然と現れたのかは分からないが、私は礼を述べた。
「ありがとうございます」
「供物は後程」
河童に代金を後程渡すので、そこから供物が捻出されるのだろう。ある程度ピンはねがあるかもしれないが。
私は持参した大きめのリュックに鉱物を詰めていった。しかし恐ろしく純度が高いように見える。河童か里の鋳物師に製錬や加工をしてもらうつもりだが、下手をすればこのまま使えるのではないだろうか。
鉱物をすべて詰め終わった私たちは、洞窟の奥の暗闇へと頭を垂れた。まだ河童に道具を借りたり、自作できないパーツを発注したりしなければならない。
振り向いて引き返そうとすると、また風が吹いた。
「え? はい。こちらは永遠亭の兎です」
すると風がにとりに応える。注意深く聞いてみたが、私にはやはり言葉には聞こえなかった。
「何て言ってるの?」
「八意とは知らない仲じゃないから、料金割り引いてやるよ、だってさ」
フランクな神様だ。にとりを通しているからそう聞こえるだけかもしれないが。
それにしても師匠は顔が広いようだ。やはり二人が前に会ったのは、何千年前という単位になるのだろうか。
◆ ◆ ◆
腹が減っては戦はできぬという言葉がある(食糧問題に悩まされない月の都ではいまいち馴染みのない言葉なのだが)。飛行機も同様に、燃料が無ければ飛ぶことができない。
零戦に使用される燃料は87オクタンのガソリンである。87という数字は異常燃焼であるノッキングがどのくらい起きにくいかを示しており、この数字が大きいほどノッキングが起きる可能性が低いらしい。
その辺りの細かい話はどうでもいいのだが、ガソリンが必要というのが問題となる。幻想郷に油田は無いからだ。油は基本的に菜種油などが使われている。
必然的にスキマ妖怪などの外の世界とのツテを持っている妖怪に当たらなければならない。しかしこういう連中はコンタクトが取りづらく、かつ借りを作りたくないような奴らが揃っている。スキマ妖怪にいたってはそもそもまだ冬眠中なのだが。
やむなく師匠にガソリンを作れないか相談してみたところ、こういう答えが返ってきた。
『今すぐにでもできるのだけど、その過程で出てくる放射性廃棄物をどうしようかしらね』
あまり頼りたくなくなる返答だった。狭い幻想郷ではよりシャレにならないデメリットがくっついている。
他の手段でどうにかできないかと相談すると、「軽油とかあれば簡単にできる」と師匠はおっしゃった。
何でもクラッキングという手段を用いれば、軽油などからガソリンを作ることができるらしい。具体的な手順としては、軽油を500度近くまで熱して触媒を接触させるらしい。500度近くまで熱したらそもそも燃えつきるか爆発してしまいそうだが、酸素が無い状態であれば燃やさずに延々と加熱できる。かなり難しい技術らしいが、月の天才の手にかかればお茶の子さいさいということだろう。
しかし油田がないのだから、結局軽油だって幻想郷には存在しない。確かにそうだが、実は軽油を有している施設が一つだけ存在する。
「香霖堂に来るのは久しぶりです」
隣を歩く小鈴が言う。
「前に来た時があるの?」
香霖堂には軽油がある。
この古道具屋にはストーブが置いてあり、その燃料を毎年スキマ妖怪から一括で購入していると聞く。今年は暖冬だったので、燃料は恐らく余っていると思われる。
ちなみにストーブに使用されるのは軽油でなく灯油だが、その二つの違いは硫黄の含有量だけである。師匠に灯油でも問題ないか聞いてみたところ、そのくらいは処理できる、と頼もしい返事がもらえた。余談だが外の世界でそれをやると法律違反になるらしい。
「怪しげな木簡を家で見つけたときに、鑑定をお願いしたんです。ウィジャボードってやつだったんですけど」
「あのこっくりさんみたいなやつね」
そうこうしている間に香霖堂の目の前まで来ていた。標識やら変てこな銅像やらに埋もれているが、不思議とゴミ屋敷という印象は受けない。一定の趣向を元に集められているせいだろうか。
ドアをノックする。しかし何も返答がない。
「勝手に入っちゃいましょうか」
小鈴がドアを開ける。ドアに鈴がついているのか、カランカランと小気味いい音が鳴る。室内は薄暗く、外と同じように家電やシーサー像などが雑多に並べられていた。
それにしても何というかこの子、礼儀知らずというか、怖いもの知らずというか。お札びっしりの悪霊の封印とか解いてしまうのは、恐らく彼女のようなタイプの人間だろう。
「お邪魔しまーす……」
遠慮がちにそう言うと、安楽椅子に揺られていた男が顔を上げた。この銀髪に眼鏡をかけた青年こそが香霖堂の店主であり、名を森近霖之助という。
「いやすまないね、読書に耽っていて気付かなかったよ。何かお探しのものが?」
彼は低い声で定型文を口にしたが、安楽椅子に座ったままだ。客の来訪に気付かないところといい、いまいち商売する気概が感じられない。
私たちはカウンターまで進むと、ストーブに使っている燃料が欲しいことを告げた。
「ああ、構わないよ。今年の冬は暖かかったから余ってしまっているんだ。来年まで置いておくのも、場所を取るからね」
私と小鈴は顔を見合わせた。どうやら商談はスムーズにいきそうだ。
店主が算盤をはじく。
「そうだね……あそこにあるの全部でこれくらいかな」
「……高くないですか?」
小鈴がそう言うのも無理はない。処分に困っていたから助かるといった割に、恐らく外の世界よりもよっぽど高い値段だった。
「いやぁ、実は君たちが飛行機を飛ばすと小耳に挟んでいてね。燃料が必要になるんだろう?」
「……足元を見ていると?」
「需要と供給に見合う金額を設定したと言って欲しいね。高くて嫌なら八雲の大妖にでも頼むといい」
「こ、この……!」
店主がカウンターの椅子に腰かけ、にやりと笑った。完全にこちらの弱みに付け込んでいる。スキマ妖怪がこの時期冬眠しているのは彼も知っているはずなのだ。しかし現状灯油を有しているのは彼しかいない。
小鈴は頭を抱えていた。
「すいません、魔理沙さんに話しちゃいました……」
多分、魔理沙から香霖堂に話がいったと推察したのだろう。飛行機に関して、私も隠しているわけではないが、あまり周りには話してないので、十中八九そのルートだろう。そもそもこの店主が世間話をする相手はそう多くない。私も人のことは言えないが。
どうしたものだろう。永遠亭に追加のお金を取りに帰れば、何とか払えないことはないのだが、足元を見られて物を買わされるのは癪だった。
「ゆっくり考えるといい。ここの他に売ってくれるところはないと思うがね」
したり顔で店主は眼鏡をくいっとかけなおした。全身からにじみ出る「久々に商売人らしいことをしてやったぞ」という満足感が単純にムカつく。
「ちょっとタイムください」
少し店主から離れてこそこそと背を向ける。小鈴が耳打ちでいくつか提案をし、私もそれを受け入れた。
「で、どうするかい?」
相変わらず店主は不遜な感じだ。小鈴はカウンターに乗り出して話し始めた。
「対価は本当にお金でいいんですか?」
「……そりゃこれでも商売人だからね」
彼は小鈴の意図を捉えかねたようだが、余裕を保持する姿勢を見せた。
「店主さんが一番欲しいものは、お金なのかなって思いまして」
あくまで相手に考えさせるような言葉を小鈴は選んだ。
「何が言いたいのかな」
「いえ、飛行機の方には興味がおありになるんじゃないかと」
ピクリ、と彼の指が動く。彼が幻想郷でも屈指の外の世界マニアであることは、周知の事実だ。
「代金の代わりに、飛行機を解剖している状態の見学なんかはいかがでしょう?」
「……おいおい。流石にそれは僕に不利すぎないかい? 見せるだけなんて、ぼったくりじゃないか」
彼はフェアな条件でないと反論したが、興味を抱いているのは明らかだった。急に足を組み替えるなど動きがそわそわしているし、何より眼鏡の奥の目が輝いている。
「うーん。ではどういう条件ならいいでしょうか」
「そうだね……その飛行機が完成して飛行した後、僕に所有権を譲ってくれる、とか」
「いやー、流石にそれはちょっと……」
実はこの条件でも私はまったく構わない。小鈴の方はどうか知らないが、私は一度飛ぶ感覚が掴めれば十分だからだ。むしろ図体の大きい飛行機を保管しておくのは面倒だ。
ついでに今の会話は、最初に小さすぎる対価を示して相場感覚を乱した後、本命を通す使い古された手法だ。しかも今回は、のこのこと相手から本命を言い出したパターンの上、それを一度断っている。
まあ実際彼にとっては灯油程度、飛行機と引き換えになるなら安いものだろうが、私たちからもっと良い対価を引きずり出せたかもしれない。
小鈴は余裕を見せるためなのか、カウンターに腰かけて髪をかきあげながら話を続けた。
「それに何かの手違いであの飛行機が墜落してしまえば、私たちもただでは済まない上、飛行機が壊れてお渡しできませんし……それでは店主さんに申し訳が立ちません。鈴仙さん、灯油はスキマ妖怪が冬眠から目覚めるのを待つでもいいですか?」
「そうね……それも仕方ないかな」
「ぼ、僕は壊れたものでも十分だよ。それだけでも興味深いしね」
「本当ですか? じゃあ何らかの事情でお渡しすることが物理的に不可能になったら申し訳ありませんってことで。あ、解体された状態の見学もしますか?」
「ああ、よろしく頼むよ。契約成立ってことでいいかい?」
「はい!」
そもそも店主の方が先払いな時点でフェアではないのだが、さらり酷い条件を付加している。
例えば家を大工に頼んだ際、その大工の過失で家が建てられなくなったとしても、依頼は達成できなかったけど代金はいただきますね、と言っているようなものだ。外の世界の法律では確か、飛行機のようなものであれば、私たちに過失があるときはもちろん、どちらの過失でなかったとしても店主は代金を渡さなくていいはずだ。
しかし私たちもわざとフライト後に飛行機を壊すような真似をするつもりはない。小鈴としては万が一の保険をかけたのだろう。飛行機と灯油を交換するのだ。これくらい許されるだろう。
彼は落ち着かない様子で安楽椅子から立ち上がる。飛行機が手に入ることになったのが、よっぽど嬉しいようだ。
「じゃあ倉庫から灯油を持ってこよう」
「よろしくお願いします」
小鈴は振り向いて、腰のあたりで小さく親指を立てた。
傍から見れば可愛らしい子供の笑みだが、私には悪女の卵のようにも見えた。呆れるほど強かな子だ。
◆ ◆ ◆
地面に敷かれたシートの上に、零戦がバラバラになっている。中身を修理するため、一度分解したのだ。
零戦は元々整備のためにエンジン部、主翼、尾部の三分割ができるようになっており、私たちもこれに倣った。また主翼にできた穴はジュラルミンの板を張って塞いだ。飛行機の骨格になっている部分には超々ジュラルミンというまた別の材料が使われているのだが、幸いにその辺りは修理を必要としていなかった。
一度バラしてしまったため完成からは程遠く見えるが、実際の作業工程は順調に進んでいた。
「遅れてすいません」
人の足音がしたあと、天幕をめくって小鈴が入ってきた。結界があるので場所を明確に認識している小鈴か鈴瑚しか入ってこれないので、誰だろうと身構える必要はない。
作業時間のうち、半分程度は私一人でやっている。そもそも彼女には店番があるのだが、どうにも滑走路の確保のために奔走しているようだ。
「それは構わないけど、一人で来るなんて危ないじゃない」
ここは魔法の森ほど危険ではないにしろ、妖怪がいないわけではない。昼とはいえ、小さい子が里の外を歩くのは感心しない。
「魔理沙さんに途中まで送ってもらいましたし、霊夢さんにも魔よけのお札をもらってますから」
「ならいいけど」
魔理沙にしろ霊夢にしろ、この子に目をかけてやっているようだ。危なっかしいので、見張っていなければと不安になる気持ちはよく分かる。
「それじゃ外装のサビ落としやってもらおうかな」
「はい!」
零戦の外板はジュラルミンで出来ており、ジュラルミンはアルミニウムを中心に作られた合金だ。アルミニウムは表面が酸化することで、芯まで錆びることを防げる特性を持っている。
つまり表面の錆びを落とせば、綺麗な外板になるというわけだ。アルミのサビは本来であれば特殊な薬品で落とすのだが、古い金属ゆえ何が起こるか分からないため、サンドペーパーを使って錆を落としている。
一方の私はエンジンを修理していた。ダメになったパーツは3Dプリンターで作ったパーツと取り替え、使えそうなパーツは掃除して綺麗にしている。
仕組みを把握していない小鈴に、こっちの作業は手伝わせられないだろう。
「っと、その前に水筒をどうぞ」
「あら。ありがとう」
小鈴は竹で出来た水筒を差し出した。私はそれを受け取り、喉を潤した。そんな体を動かす作業をしていたわけではないが、ちょっと喉が渇いていたらしく美味しかった。小鈴も一緒に水筒に口をつける。
「紙やすりはえっと……」
小鈴がサンドペーパーを探して、道具がごちゃごちゃしている中を四つん這いになって探す。四角い小物入れの中にあることを私は告げ、作業に戻った。彼女は鼻歌交じりに、零戦の表面を磨き始めた。
しかしこうして見ていると、何処にでもいる子供にしか見えない。以前の小鈴に対する認識は、人里の騒がしい子供の内の一人という、風景の一部でしかなかった。しかし一緒に飛行機を修理していく中で、時には大人も舌を巻くような行動に出る娘のだと思い知った。
そんな彼女が、何故飛行機に対してこれほどまでの執着を見せたのだろうか。
「そういえばさ、何で小鈴ちゃんはこれを飛ばしてみようと思ったの?」
作業を続けながら私は聞いてみることにした。
「誰だってこれを見つけたら、そう考えると思うんじゃないですか?」
「そうだけど……何となく、それ以上の情熱があるんじゃないかなって、気になったの。あんまりこういうのに打ち込むタイプでもないと思ったし……勝手な推測かな」
小鈴はちょっと目を丸くして、固まった。
「あれ。そんな変なこと言った私?」
「いえ……正直、鈴仙さんは、そういう風に人に興味を持ったり、洞察したりしない方だと思っていたので」
「うぐっ」
今かなり失礼なことを言っていないだろうか。それが顔に出たのか、小鈴は「不快に感じたらごめんなさい」と両手を顔の前で合わせて謝った。
しかし私自身、あまり他人に興味がないことは自覚があった。かつて閻魔に自分勝手すぎると説教を受けた時がある。自分勝手ということは、自分以外の人の顔が見えていない、無関心だからそのように行動できるということなのだろう。
「鈴仙さんの言う通りです。理由はあります」
小鈴はやすりをかけ始めた。私もパーツの清掃を続けながら、彼女の話に耳を傾けることにした。
「寺小屋に通うまでの道に、三階建ての大きな偉い人の屋敷があったんです」
「うん」
「その屋上から見た景色はどんなんだろうって、いつも思ってました。いつもその目の前を通って寺小屋に通ってたのに、そこから見える景色を知らないの、ちょっと悔しいじゃないですか」
「うん?」
「それで、私からすると、鈴仙さんたちはその屋上の上にいるんです」
「へっ?」
話がどこに着地するのか見えない。屋上の上とはどういう意味だろう。
「何て言ったらいいかわからないんですけど、弾幕ごっこをしている人たち、とでも言えばいいんでしょうか」
「……段々言いたいことわかってきたかも」
誰しもが弾幕ごっこをできるわけではない。確かにそこには一般人と異能者という境目がある。
「ああいう人たちみたいになっちゃ駄目よ、とか、一緒に遊んじゃ駄目よ、とか言う大人もいるんですけど、憧れる子供は多いんです。それで、私は霊夢さんや魔理沙さんと同じ視線に立ってみたくって」
「だから飛行機を自分で作って、自分で飛んでみようと思ったと」
「はい。といっても、ほとんど鈴仙さんに頼ってますけど」
彼女は頬をかきながら、はにかんだ。
私は、彼女の気持ちがあまり分からなかった。いや、その言い方は正確ではない。飛べない人はそういう風に思うだなんて、考えもしなかったから、虚を突かれたような心地になっているのだ。
「そうか……そういうものなのかな」
人によってはそこからどんな景色が見えるかなんて、気に留める人の方が少ない。彼女たちのような幻想少女と私は違うから、で割り切れてしまうだろう。
でも、小鈴は違った。霊夢や魔理沙といった異能者と距離が近かったせいだろうか。彼女たちの同じ高さに立ってみたいと思ってしまったのだ。
「元々、日常の枠に納まらないものが好きなんですよ、私」
「そーね。好奇心が服を着て歩いている感じだもの」
私が呆れ交じりに言うと、彼女は振り返らないままに、喉を鳴らして笑った。
「よく阿求にも言われます。好奇心は猫を殺すものだとも」
それから「阿求を屋敷から連れ出して、友達になろうとしたのも、最初はそういう邪な気持ちがあったかもしれません」と続けた。
ただ、今の二人はそれだけの関係ではないのだろうな、と友人のことを語る優しげな声から感じ取れた。
そしてふと連想した。二階の部屋に住んでいる病弱な箱入り娘を、木に登って連れ出す男の子のように、小鈴が阿求を外に連れ出して遊ぶイメージを。
「色々危なっかしいんだから、気をつけなさいよね」
「これでも気を付けてるつもりなんですけどねー」
駄目そうだ。心のこもっていない声だ。
その内妙な霊に取りつかれるだとか、妖怪の尾を踏み抜きそうだ。
ただ話に聞く限りでは霊夢や魔理沙も彼女のことを気にかけているようだし、小鈴の親御さんもやや放任気味とはいえ、ちゃんと娘を見守っているようだ。
誰かに気にされているうちは問題ない。魔に魅入られるのは、大抵の場合、誰からも見放されたものたちだからだ。
「鈴仙さんの方は何で飛行機に興味を持ったんですか?」
「えっ私? 私は、えと、その……」
急に話題を振られて、私は狼狽えてしまった。空が飛べなくなったから、とは口が裂けても言えない。
「この機上から見えるのが、どんな景色か気になったからかな」
焦って口を突いた言い訳は、明らかに小鈴の話を聞いて思いついたものだった。しかしその一方で、それが自分の本心のように思えた。
「どうしてですか?」
「これも戦争に使われたもので、兵士が乗っていたものでしょう? 私も……いや、とにかく、彼らの見ていたのと同じ景色が見てみたかったの」
危うく自分が脱走兵であることまでペラペラ喋りそうになったが、すんでのところでそれを飲み込んだ。それこそみっともなくて、気軽に話せる話じゃない。
私が月を出てきた理由は一つではない。エリートゆえに周りからちょっと孤立していて、上司のしごきが辛くて、ここじゃないどこかに行ってしまいたい気持ちを欝々と抱えていたのが、地上と戦争になるという話がきっかけとなって溢れてしまったというところだ。そんなときにたまたま地上に降りる方法を手に入れて、勢いに身を任せてしまった。
動機の全体の一部ではあるが、戦争に怯えて逃げ出したのも確かだ。鶏を絞め殺したことさえないような、死を穢れと忌み嫌う私にとって、人殺しに対する抵抗は大きかった。
無論、他の兎も似たようなものだろう。しかし私は周りより臆病で、想像力が豊かで、仲間意識が希薄だった。
そんな自分を擁護するように、戦争になると聞いて「地上人なんて皆ぶっ倒してやる」と意気込む周りを、盲目的で戦争がどんなものか理解していない、と心中で罵っていた。
でも私だって戦争がどんなものか、真には知らなかったはずだ。聞きかじる知識だけならどうとでも言えるのだ。
同じ機体で飛んでみて、実際の兵士たちが見たのと同じ景色に身を浸せば、少しはそれがどんなものなのか理解する助けになるのではないか。そういう考えが零戦を修理する動機になっているかもしれない。
「そんなところよ」
とっさに思いついた言い訳だったが、心のどこかでそう思っていたのも確かで、百パーセント嘘というわけでもない。人と会話するうちに自分の深層心理が引き出されることもあると聞くし、これも私の本音の一つなのだろう。
ため息をつきながら顔を上げると、小鈴がキラキラした瞳でこちらを見つめていた。
「鈴仙さん、今すごくカッコよかったです……何か陰のある美人みたいな顔してました……」
「……さいですか」
意図するところは伝わらなかったようだが、何となくごまかせたらしい。どうせ本命の理由は別のところにあるわけだし、理解されてもされなくてもどっちでもいい。
それから彼女は笑って言った。
「鈴仙さんも私も、ちょっと似た理由でしたね」
言われてみれば確かにそうだ。
魔理沙や霊夢と同じ視点に立ちたい小鈴と、昔の兵士と同じ視点に立ってみたい私。私の精神構造も、彼女たちとそんな変わらないものなのかもしれない。
そんなことを考えながら、私はエンジンの軸にプロペラを固定する最後のネジを締めた。
「そうかもね。さて、エンジンはひとまず完成よ」
「試運転ですか?」
小鈴が嬉しそうに聞き、私は頷いた。二人で手際よく台座にエンジンを固定する。
そして私は、直径三メートルほどもあるプロペラを、手でゆっくり押して回した。エンジンにガソリンを行きわたらせるためである。
プロペラが本格的に回り始めると危ないので、小鈴には少し離れた位置に行ってもらった。
「えーっと……」
エンジンの後ろ下についている慣性起動機と呼ばれるパーツの穴に、クランク棒というハンドル(古典的な鉛筆削りのハンドルに似た形状のもの)を差し込む。
かっちりとはまったのを確認して、私はそれを回し始めた。回し始めたといっても最初は重くてゆっくりとしか動かない。しかし自転車が漕いでいるうちに軽くなっていくのと同じように、少しずつスムーズに動くようになっていく。それに並行して慣性起動機が回転する、何かがこすれるような甲高い、それでいて小気味良い音が大きくなっていく。
ある程度まで加速したところで、私はクランク棒を外した。私が回すのをやめても、慣性起動機はその名の通り高速で回転し続ける。
私はクラッチを繋げた。
するとババババ、という轟音と共に、プロペラが回り始める。慣性起動機の回転が、プロペラの軸に伝わり、エンジンが起動したのだ。
振り向くと小鈴が興奮して何かを叫んでいる。エンジンの音が大きすぎて内容はよく聞こえなかったが、表情で喜びを伝えているのだとわかった。
◆ ◆ ◆
空は山の向こうまで青く、雲はとぎれとぎれに漂っている程度だ。こういう天気の日は、いつもより空が高いように感じる。飛行機を飛ばすには絶好の日和だろう。
最終調整と運搬にやや手間取ったが、何とか今日中にフライトにこぎつけることができた。私と小鈴の後ろに、修理を終えた零戦が佇んでいる。にとりがざっと異常がないかチェックしていてくれているところだ。
なお運搬には鈴瑚や清蘭に協力してもらって森から運び出し、道路まで出した後は牛を用いて運んだ。当時の零戦も一部の工場では運搬に牛を用いたと資料にあり、由緒正しい伝統的な手法のようである。
「どうしました?」
小鈴が私の顔をのぞきこむ。
目の前の滑走路を見て、呆けた顔をしていたからだろう。
「……まさか人里を丸々滑走路にするとはねぇ」
今、私たちの目の前には、人里の一番大きな通りが伸びている。いつもなら人でごった返しているが、今日は人ひとりおらず、はるか先まで見通すことができる。
いなくなった分の人たちは、二階の窓や屋根の上から、私たちのテストフライトを今か今かと待ち受けており、がやがやと騒ぐ声が聞こえる。中には酒を飲んで宴会を始めている飲んだくれもいる。
最初に大通りを滑走路に使うと聞いたときは、さしもの私も腰を抜かした。
しかし人里の大通りは、確かに滑走路たりえる条件を満たしていた。長年人の足で踏み鳴らされているから、地面がそれなりに舗装されている。機体の幅の約十二メートルより大きいという条件も満たしており、千二百メートルの長さという条件も実は足りないのだがとある手法で克服している。幅十二メートル以上もあったは驚きだが、普段はそこかしこで売り歩きの人たちが仕事に励んでいるのだから、そのくらいはあって当然だ。
「許可とるの、結構苦労したんじゃない?」
滑走路上から石などのゴミを取り除く作業時間も含めて、その間大通りでは行商座商問わず、商売ができなくなってしまうのだ。たくさんの人を説得させなければならない。
「そう思ってたんですけどね……案外みなさんノリノリで、私の手を離れて企画が転がってしまった感じです。多分ある種のお祭りみたいなものだと思ってるみたいで」
「みんなこういうの好きだからなぁ……」
先の宗教戦争も、里の人たちからすれば賭けの対象扱いだった。あの一件からほとぼりが冷めて暇を持て余したころ、丁度いい娯楽が転がり込んできた、という感じだろう。
「飛行機に対する関心が高まるよう、それとなくお得意さんを通して根回し的なこともしてたんですが、何だかちょっと馬鹿らしく思えてきましたよ」
小娘が外の世界の機械を動かすなんて失敗するに決まってる、なんて反対意見を見越して少し嘘もついたらしい。本当はちょっと協力してもらっただけの里の鋳物師さんの監視の下、修理を行ったと。
最終的には里を仕切る寄合の手によって管轄されることになったらしい。日取りの告知や通行止めなんかもやってもらったそうだが、向こうも向こうで飛行機まんじゅうや零戦版画などの限定グッズの販売もしているそうで、無償で動いたわけでもなさそうだ。
「鈴仙」
屋根の上から呼びかけられた。てゐだ。
「準備は平気だよ」
「……助かるわ」
てゐにはもし、私たちが空中で機外に脱出することになった際、助けてもらうよう頼んである。他にも飛行が可能な妖怪兎にも待機してもらっている。
それじゃ頑張ってね、と言葉を残して彼女はその場を離れた。師匠は万が一に備えて、救急医療の用意をしている。結局、周りの力に頼ってしまったが、悪い気はしない。
「何の準備ですか?」
「えっ、いや、天狗の子も準備できたって」
私は言葉の意味をすり替えた。天狗の準備が済んでいるというのは本当だ。先ほど確認した。
揚力を得るためには速度が必要だが、その速度は対地速度だけではなく風も換算される。逆風の中を進む場合、その風の速度と機体の進む速度を足した速度から揚力が得られる。
例えば離陸するのに時速130キロが必要な場合、時速30キロの向かい風が吹いていれば、飛行機は時速100キロあれば離陸できる。つまり風下から走り出せば、離陸に必要な距離は短くなり有利なのである。
その風を天候に頼らず確保するため、にとりを通して天狗に協力を仰いだのだ。フライト後の独占取材という条件の下、姫海棠はたてという子が力を貸してくれた。私はそれなりに面識のある射命丸文という天狗に話がいくと思ったのだが、にとりいわく「目をかけてやりたくなる子で、色々経験させてやりたい」とのこと。
この大通りの先に天狗うちわで風を起こしている彼女がいるのだろう。人差し指を舐めてから立てて確認すると、風は確かに向こうから吹いてきている。
「一通り見たけど、これなら飛べると思う。勘だけど」
零戦の下からにとりが這い出てくる。どうやらチェックは済んだようだ。
前述のとおり、彼女の科学は魔法に近いので、このチェックにどれほど意味があるかは分からない。それでも、気休め程度にはなる。
「河童のお墨付きがもらえると嬉しいわ」
そして私たちは零戦のコックピットに座った。私の前に小鈴が座る。
窓は閉じない。離陸しきるまで基本的には窓は開けっぱなしにしておくものである。
両側の屋根からたくさんの人たちが期待してるのだと思うと、失敗したらどうしよう、と緊張してくる。まっすぐ進めなければ、大通り沿いの店に突っ込むこともありうるのだ。
「大丈夫ですよ。二人で作ったんですから」
「……あたぼうよ。それじゃあ、フライト開始」
緊張したのが見透かされてしまったようだ。シュミレーションも十二分に重ねた。問題は何もない。
深呼吸して、必要な手順を思い浮かべる。まずは電源を入れて、計器が正常かどうか確かめる。針が振れたのを見て、一旦電源を切った。
後ろを振り向いてから操縦桿を前に倒し、尾翼の昇降舵が動くを確認する。同様に左右に倒して主翼の補助翼を、ペダルを踏んで尾翼の方向舵が動くかを確認する。
「にとり!」
「はいよ」
打ち合わせ通りに、にとりがプロペラを手で回して、エンジンにガソリンを行きわたらせる。一度電源を切ったのは、この時に誤ってプロペラが動いて彼女を傷つけることがないようにするためだ。
にとりが離れたのを確認してから、再び電源を入れる。それから右のレバーを操作して、エンジンの熱を逃がすカウルフラップを開いた。
それからクランク棒をにとりが零戦に突っ込んで、エンジンの一部である慣性起動機を回す。一定の回転数に到達したところで、彼女はクランク棒を外して、こう言った。
「グッドラック」
私もグッドラックと言って親指を立てた。にとりが機体から離れるのを確認する。
「コンタクト」
慣性起動機とプロペラの軸を繋ぐ。プロペラが回りはじめると、エンジンの脈動が体を揺らす。轟音で屋根の上の野次馬の声が聞こえなくなったが、挙動で何となく歓声が上がっているのが分かる。
それから小鈴に操縦桿を手前に倒してもらって、いつでも上昇できるよう昇降舵を動かした。その間に私はエンジンがかからないと動かない、先ほど確認できなかった計器が作動しているか、調子のいい数字かを見る。スロットルを調整し、エンジンの回転数を一定に保つ。
段々と零戦が動き始めた。最初は歩いた方が早いと思うほどだったが、どんどん早くなっていく。慌てて私は操縦桿に手を伸ばした。見慣れた店を次々と通り過ぎる。窓が開けっ放しのせいで、吹き荒れる風が肌に突き刺さる。
「う」
声を出したのは小鈴か私だったのか。座席に自分の体が押さえつけられる。エンジンの振動とは別に、地面と接する車輪から伝わってきていた振動はなくなる。離陸だ。
屋根の上で歓声をあげる見物人たちを超えると、眼下に人里が広がっていく。飛行機が空を飛ぶ理由は判明していない、というのは外の世界で広まっているデマだが、今ならその気持ちもわかる。自分の整備した翼は何の変哲もないジュラルミンの板で、それから揚力が生まれているとは実感として理解しがたい。鳥の羽ばたきの方がまだしっくりくる。
私は操縦席右側の脚切替弁を切り替え、油圧によって脚を胴体内部に収納する。ついでに窓のロックを外し、開いていた窓を閉じた。
高度はさらに上がっていき、地上にいる人々がどんどん小さくなっていく。気が付けば山の高さも越え、私たちより高いものは雲だけになっていた。
「耳に気を付けて」
相手に聞こえやすいよう、私の声は自然と大きくなる。エンジンの爆音を前にして小鈴に聞こえるか不安だったが、どうやら伝わったらしく、私の下にある彼女の頭が頷いた。エンジンがいくらうるさくても、密着したこの距離なら、会話に差し支えはないようだ。
彼女は事前に教えておいたとおりに鼻をつまんだ。そうしないと気圧の変化のせいで高山病のように頭痛が起こるのだ。私は妖怪だからさほど心配はないが。
もう十分な高度だろう。操縦桿を前に倒して、機体を水平姿勢に持っていく。下が見えないな、と思って、それから操縦桿を右斜め後ろに倒し、右のフットレバーを踏んで旋回した。上昇時と同じように、座席に体が沈む。
「鈴仙さん――すごいです! 人里って、あんな小さくて……」
エンジンの音の中、小鈴が驚嘆の声を上げる。
私にとってはそう珍しい景色ではないが、空を飛ぶのが久々のせいなのか、機上にいるせいなのか、私もいつもより爽快な気分になる。地上での悩みなど、ここから見下ろせば些末事だ。
気が付けば雲の上に私たちはいた。
「体調は?」
「平気です。そんなことより、雲を上から見たのは初めてです。乗れそうですね!」
言われてみるとそんな気もした。雲が水蒸気と塵から構成されていると知っていても、これを見たら雲の上に宮殿とかがあってもおかしくないなと思えてしまう。
それから私たちはときたま旋回を挟みながら飛び続けた。
「実際空を飛んでみて、どう?」
小鈴が空を飛びたかったのは、霊夢たちに並んでみたいとの思いからだった。小鈴は顔を上に向けて、私の目を見ていった。
「楽しいです! 普段暮らしている里が、何だか別のものに見えたり、周りに遮るものが何もなかったり」
それから彼女は、顔を横に向けて、空を眺めた。
「でも、これが当たり前なのも、そんなおかしなことじゃないかもしれないなって」
「……そっか」
空を飛べて当たり前。魔理沙はともかく、少なくとも霊夢はそう思っているはずだ。
だからといってその事実が人間の精神構造を根幹から変えてしまうわけではない。彼女らは空を飛べるだけの人間で、ただの人間とそう違いはない。小鈴はその事実に気付いたのだろう。
完璧超人だと思っている師匠が、人並みにへそを曲げることもあると気付いたとき、私ははっとなる。いつも通っていたはずの道が、全く別物の風景に見えたときの気分。彼女もそれと同じような気持ちなのではないだろうか。
傾けていた機体を、水平に戻す。すると、小鈴がポツリと漏らした。
「私、鈴仙さんに言わなくちゃいけないことが……」
「何て言った?」
「……いえ、降りてから話します」
「そう」
どうやら話したいことがあるようだが、深く追及はしなかった。そういう気分じゃなかったからだ。それに、長くなるような話なら、地上に降りて落ち着いてからの方がいいだろう。
今は全てから解放された心地だ。このフライトの目的がもう一度飛べるようになるため、ということさえ忘れていた。
当たり前だと思っていた、空を飛ぶという行為がこれほど楽しいとは。目の前には何の障害物もなく、どこまでもいけるような、全能感のようなものを抱いている。
そこまで考えて気付いた。本当に囲いは何もなかっただろうか。
「ねえ小鈴ちゃん。もし私たちが幻想郷と外を隔てる結界にぶち当たったら……」
ガコン、という音がして操縦桿がひとりでに動く。そして機体が百八十度回転した。安全ベルトが肩に食い込み、頭に血が上る。
「うわ、背面飛行というやつですか。鈴仙さんも中々度胸ありますね」
「違……私は何も動かしてないって!」
操縦桿を倒そうとしても、重すぎてほとんど動かない。零戦は高速時に舵の効きが悪くなると聞いていたがそれか。いや、それでは背面飛行に勝手に移ったのは何故だ。
何かがはじけるような、不吉な金属音がする。それもいくつもだ。
「いやいやいや」
頼むからやめてくれ、と嫌な予感に抗おうとしたが、無駄なあがきだった。
窓が外れた。
「げえっ」
さっきの音は、窓を固定するネジが外れる音だったのだ。窓が後方に飛んでいく。
窓の稼働する部分、つまり私たちの頭上(さかさまになった今は下)の窓がきれいさっぱり吹き飛んで、オープンカーのようになる。風がコックピットの中を吹き荒れる。
「随分風通しが良くなりましたねぇ……」
「言ってる場合か!」
次の瞬間、安全ベルトが勝手に外れる。それが意味するところは一つ。落下だ。
それと同時に零戦は上昇飛行に移り、私たちは振り落とされる。小鈴と私は零戦の外へと放り出された。
「んのっ―――」
私は咄嗟に右手で零戦の窓枠をつかみ、小鈴を抱えた。
背面飛行する零戦に、吊られる形となる。私の右腕には、二人分の命の重さがのしかかっていた。
「鈴仙、さん」
「大丈夫、離さないから!」
怯える小鈴をなだめながら、私は首を振っててゐを探す。こういうときに備えて近くにいるはずだ。
そのはずなのだ。だが周囲には誰もおらず、空が広がっているだけだ。何故だ。何故誰もいない。肝心な時に何をやっているんだ、あいつは。動揺で一瞬脳がぐしゃぐしゃになった瞬間、零戦は機体を大きく振った。
「やだ」
その遠心力で私の零戦をつかんでいた指が滑り落ちた。
胃の浮く厭な浮遊感がしたかと思うと、私たちは重力に引かれていく。空気の中を突っ切って落ちている。墜落死。その一言が脳裏をよぎる。
振り飛ばされた勢いで私たちは半回転し、頭から落ちる格好になっていた。私は小鈴を両手で抱える。私が下敷きになれば最悪彼女だけでも、否、無理だ。この高度なら二人まとめて肉塊が出来上がるだけだ。小さかった人里や森が、どんどん大きくなっていく。
脳の一部が麻痺したような状態で、私は離陸時の、体がシートにおしつけられた感触を思い出そうとした。顔を風が横切る感触を思い出そうとした。
飛べる。飛べる飛べる飛べる飛べる―――――
「―――――鈴仙さん」
気が付くと、目の前は真っ暗だった。いつのまにか目をつぶっていたのだ。必死に意識を集中しようとしたからだろう。
まぶたの向こうにいるのは、獄卒長か閻魔か。そう思いながら目を開くと、上に地面、下に空があった。
「そろそろ頭に血が上ってきたなぁ、なんて」
「あ、ごめん」
私は小鈴を抱えたまま、くるりと体を反転させて、逆転していた視界を元に戻した。いつまでも落下時と同じ姿勢を保っておく義理はない。
「行っちゃいましたね」
零戦はもう、米粒ほど大きさになるほど遠くへ行っていた。恐らくもう結界の外にいるのだろう。
幻想郷の外にいるべきものと内にいるべきものが一緒に結界にぶち当たったとき、結界が整合性を取ろうとした結果、私たちは振り落とされたのだろう。
「うん」
冷たい風が髪を巻き上げる。両手に抱えた小鈴の体温を感じる。眼下には山々が広がっていた。
私は今、空を飛んでいた。
◆ ◆ ◆
私たちはひとまず手近だった博麗神社の屋根の上に着地した。人の家の上に勝手に登るのは失礼な気もしたが、生還と復活を遂げた私はいつもより気が大きくなっていた。いつも宴会のときは誰かしら登ってる気もするし、見つかったら謝ればいいだろう。
整備に手間どったせいもあるだろう。日は傾きかけていた。二人で並んで、西に向かって座る。
「いい眺めですね」
「そうね」
博麗神社からは幻想郷全体が眺望できると聞いていたが、確かにその通りだ。
「そういえばさっき、何を言いかけたの?」
零戦が落ちる前、小鈴は何か話したいことがあるようだった。あれは何を言おうとしたのか。
「二つあります。一つ目は感謝です。今回貴重な体験ができたのは鈴仙さんのお陰です。結局修理も操縦もほとんど鈴仙さん任せでしたし」
「そんなことないでしょ。滑走路は私じゃどうしようもなかったわ」
一日大通りを封鎖するよう里の人たちに働きかけるなんて、私にはとてもじゃないができない。
悔しいが、彼女は私にないものを持っていた。
「で、二つ目は?」
「それは、謝罪です」
小鈴が目線を逸らしながら髪をかき上げた。どう喋ったらいいのか悩んでいるようだ。
沈黙は僅かだったが、その間に後ろから聞きなれた声が横入りする。
「そのあたりは私から話そうかな」
「てゐ!」
肩越しに振り返って、その顔を見てから思い出した。この詐欺兎が、救出のために待機を頼んだのに、バックレたことを。
私は衝動的に立ち上がって、彼女を問い詰めた。
「あんたねぇ! 何であの場に……」
「いたけど」
「は?」
私たちが零戦から落ちかけたとき、周りを見回しても誰もいなかった。隠れる場所はない空の上だ。一応雲に隠れることは可能だが、私たちが宙づりになったとき近くに雲はなかった。
頭を冷やしてよく見ると、てゐはどこかで見たことのある水色の合羽を羽織っていた。
「こゆこと」
てゐが手に持っていたステレオタイプな形をしたスイッチを押す。
すると、彼女の姿が消えてしまった。
どういうことだ、と私は一瞬だけ混乱したが、すぐに回答にたどりつく。
「河童の光化学迷彩服……!」
「正解」
カチリ、ともう一度音が鳴ると、てゐの姿が再び現れる。そしてその水色のレインコートを脱いだ。
「私と一緒に妖怪の山に行ったのは、それを借りるため……」
「それも正解」
てゐは片方の目を閉じて、意地悪そうに笑う。
あの後私と別れた際、彼女は光化学迷彩機能付きレインコートを借りていたのだ。
何故わざわざ私と一緒に行ったときに借りたかは、察しが付く。てゐは過程を重視する嘘つきだ。私に見破るチャンスを与えることで、ネタばらしのときに屈辱感を突き付けたかったのだ。
もっと理由を追及しておけば、とも思ったが、そうしたら彼女はそれっぽい嘘の理由を並べて、恐らく私はそれに納得してしまうだろう。だから気付けなかったのは仕方のないことだ、と自分に言い聞かせて悔しさを表情に出さないようにする。
「中々手の込んだ真似をしたものね。でも私が波長の能力を使ってみれば、バレてしまうのに」
「飛行機から落ちかけた状態なら、鈴仙は能力を使うことを考え付かない程度にはパニくるでしょ。まさか光化学迷彩で隠れているとは思わないだろうし」
「ぐっ……」
そうだ。光化学迷彩などで隠れている可能性を考慮しなければ、私が能力を使う意味はない。そしてまさか隠れているとは誰だって考えないだろう。
というかなぜ隠れていたのだろう。そのことをてゐに問うと、こう答えが返ってきた。
「荒療治だよ」
「どういうことよ」
「空が飛べないのを治すためよ。死ぬ高度から落ちてみたら、必死になるでしょ? そうしたら飛ぶしかないんだから、ショック療法で飛べるようになるかもじゃない」
「け……計画的犯行なわけ!?」
こいつの掌の上で踊らされていたというのか。
思い返せば師匠がショック療法で飛べるようになるかもしれない、と示唆していた。そして確かに実際、飛行機で自力飛行の感覚を養ったおかげで飛べるようになったというより、火事場の馬鹿力で飛べるようになった気がする。
「私はただの実行犯だよ。お師匠様が多分結界にぶつかって落ちるだろうって指摘して、それを聞いた姫様が思いついたのよ。つまり主犯は姫様」
「おのれぇ……!」
正面切って怒る度胸もないので、今のうちに恨みを発散しておく。私が飛べるようにと思ってのことだろうが、まんまといっぱい食わされたのだから、悔しいものは悔しい。
というか姫様としては私のためというより、暇つぶしの一環だろう。
「鈴仙さ、あの子のこと忘れてない?」
私ははっとして、てゐが指さす方を振り返った。
せっかく今まで小鈴に空が飛べないということを隠していたのに、この会話を聞かれては台無しではないか。
「いや、あの、これは」と言い訳をひねり出そうとすると、彼女は申し訳なさげな顔でこう言った。
「すいません。私、鈴仙さんが飛べないって知ってたんです」
「な」
てゐがにしし、と笑う。
「グルなんだよ。この子も」
「なぁあああああ……」
私は力なく膝から崩れ落ちて、屋根に手をついた。
今までの苦労は何だったのか。必死に隠し通そうとしていたさっきまでの私は、完全に道化じゃないか。
手をついて顔を俯けたまま、私はヤケクソ気味に叫ぶ。
「いつから!」
「永遠亭の人たちに協力をお願いされたのは、二回目に零戦のところへ行く前ですけど……何となくそうじゃないかなぁ、と思ったのは、最初に鈴奈庵で打ち合わせたときですね」
大分前の方だった。
私は面を上げて、「何でわかったの」と問う。
「足元が汚れてたからです。いつも薬を売りに来るときは綺麗なのに、と思って。全く確証はなかったので、そうかもしれないなぁ、程度ですけど」
そういえば鈴奈庵の暖簾をくぐったとき、小鈴は私の姿を認めてすぐ目線を外した。何となく変な目線の動きだなと印象に残っていたのだが、そのことに気付いたからなのだろう。
陣取りゲームで遊ぶ際、相手の弱点となる箇所に気付いたとき、反射的にそこからすぐ目を逸らすことがある。今にして思えば、その視線の動き似ている。
「ていうかさ。この子とパラシュートの話になったんだっけ? その時に気付いても良さそうなものだけどね」
「それは……その……」
てゐの指摘に、私は言葉を詰まらせる。
確かに小鈴だって墜落の危険があることは分かっていたはずだ。私が飛べないと知らなかったとしても、わざわざ命を守るものを外そうとするのはかなり違和感がある。あの行動は、私を絶体絶命のシチュエーションに追い込むためだったのだ。
しかしそのときの私は、自分が飛べないという事実をなんとかして伏せなければ、という見栄で頭がいっぱいだった。そしてそのことをこの場で打ち明けるのも恥ずかしい。
「まーあとはその子に聞いてよ。私は二人の安否を里に伝えてくるからさ。鈴仙が助けたのは見えてたと思うけど、念のためね」
「すいません。よろしくお願いします」
「そう……よろしく」
確かに戻ってこなければ、墜落したのではと不安に思う人も出てくるだろう。
しかし今のテンションでは、たくさんの人に主賓として迎えられるような気分にはなれなかった。自分の間抜けさ加減が馬鹿らしい。
「へー、内心私のことを笑ってたのねー」
「いえいえ。鈴仙さんが再び飛べるようになるお手伝いができれば、と純粋な善意だけです」
「……ちょっと目が笑ってるんだけど」
「いやまあ素直な鈴仙さん可愛いなー、とか思うこともあったりなかったり」
「こんにゃろ」
柔らかいほっぺを軽くつねると、小鈴は「いたたた」と笑う。
私は手を離して、こほん、とその場になおった。
「とはいえ、私が飛べるようになるのに協力してくれたんだもんね。礼を言うわ、ありがとう」
「私の方こそ……騙してすいません」
しかし彼女が私の飛行スランプを知っていたとなると、私が飛べる場合より、フライトはさらに危険なものになるとわかっていたはずだ。
てゐが拾ってくれるというのは事前に知っていただろうが、それだって絶対ではない。知り合い程度の相手に命を預けたのだ。そこまでして彼女は私に協力してくれたのだろうか。
「でも危険と知ってなお今回の企画に加担したのよね。もっと感謝するべきかしら」
「あ、保険で魔理沙さんにも隠れて待機してもらってました。てゐさんとは別口で」
「……強かね」
命を懸けられるほど、永遠亭が全面的に信頼できるということはないだろう。そうであれば他のセーフティネットを作っておくのがむしろ自然だろう。
セーフティネットといえば、小鈴は香霖堂の店主と交渉する際、零戦が壊れたら引き渡しも代替もない、というセーフティをかけておいた。あれも零戦が外の世界に出るのを見越したからだろうか。
「そういえば香霖堂の店主にさ」
「もちろん飛行機が外の世界に行ってしまうと知っていたから付けた条件です。流石に申し訳ないので、何らかのお礼はするつもりですが」
「里の寄合から報酬がでるんだっけ。やっぱりそこから?」
「はい。報酬というか、お祭りのきっかけを作ってくれたご褒美って感じですけど」
今回の飛行機祭りで、利益を出すところもあるだろう。しかしそういったお金は、彼女へのご褒美やその後の宴会で消えてしまう。宵越しの金は持たねぇ、ということだ。
「にしても、私の身の回りは何でこう嘘をつくのが上手いやつばっかなのか……」
「そうなんですか?」
私はくたびれた顔で頷く。
小鈴、てゐ、鈴瑚とここ最近だけでも散々に出し抜かれた。認めたくないが、私が単純すぎるだけだろうか。
「鈴仙さんがおちょくりがいあるせいじゃないでしょうか。表情がころころ変わって、一緒にいて楽しいですし」
「……地味に失礼じゃないかなそれ」
自分が表情に出るタイプだと思ったときはあまりない。しかし彼女の言う通りなら、あの面霊気が羨ましくなってくる。
「本当に、楽しかったです。ボロボロだった飛行機が綺麗になって、空を飛んで、色んな人と話せて」
「そっか……うん、私も楽しかった。少し寂しくなるくらい」
思いの他、素直にその言葉は出てきた。
永遠亭以外の人間とあまり話さない私にとっても、貴重な日々だった。誰かと協力して何かを成し遂げる、という経験は新鮮だった。
そう思うと、今までの日々が名残惜しくもなる。飛行機が飛んでしまった今、小鈴と私もそう頻繁には会わないだろう。
「そうですね」
小鈴も似たようなことを考えたのか、どこか寂し気な声だった。
風が二人の間を吹き抜ける。並んで幻想郷を眺めていた。
「鈴仙さんの故郷って、どういう場所でした?」
急に小鈴が話題を変える。私はちょっと戸惑ってしまう。
「どうって……」
「私、月にも行ってみたいんです」
彼女は非日常を愛する性格だった。その性格から考えれば、その願望を持つのは自然なことだろう。
そして何となく、私はこの後の展開が読めた。
「まさか……」
「次は宇宙船を作りませんか?」
小鈴は不敵に微笑む。私は額を手で抑えて、ため息をついた。ここまでアグレッシブな子もそうはいないだろう。
しかしまた小鈴と協力して何かに取り組むのは面白そうだ。
昔は月に帰りたくて、少し前なら月に戻るのは複雑な気分で、最近はたまに里帰りするのはありかもな、と思うようになっていた。その変化は小鈴のおかげかもしれなかった。理由はよく分からないが、今は自分を地上の玉兎だと、肯定的に言える気がする。
そうはいっても、宇宙船を作るとなれば、飛行機よりも大事になるだろう。霊夢たちが一度成し遂げてはいるものの、簡単なことではない。答えは決まっていたのだが、私がちょっと色々考えていると、小鈴が髪をかき上げながらこう脅しをかけてきた。
「嫌なら今回の一連の道化っぷりが、花果子念報に掲載されるだけです」
「それはやめて!」
私が叫ぶと、小鈴はからからと笑う。
この後の、はたての報酬である独占取材のところで話すということだろう。噂話になる程度ならともかく、新聞に載せられるのは耐えられない。
そしてふと、小鈴が髪をかき上げる仕草をしたのが気になった。そういえば彼女が髪をかき上げるときは、嘘をついたり隠し事があるときではないだろうか。香霖堂での交渉のときもそうだったし、パラシュートの件を私に説得するときもだ。
ならば今の脅しはどういう意味だろうか。
小鈴も私がノーと拒否するとは思っていないはずだ。接点がなくなるのが寂しい、という話の文脈からの提案だったのだから。
ではイエスと賛同したらどうなるだろう。そうすると私はいやいや、仕方なく宇宙船づくりを手伝ってやる、という形になるのだ。「わかったわよ、仕方ないわね」と。つまり私が首を縦に振りやすいようにお膳立てしたのである。
細かいところまで気配りのできる子だ。いや、できすぎると言っていい。恐らくはほぼ無意識の内にやっている。年に似つかわしくない世渡り上手だ。
「そうね」
彼女がこの年にして処世術を身に着けているのは、阿礼乙女のせいか。箱入り娘の彼女を連れ出すために、周囲の大人たちを出し抜き、渡り合う必要があったのかもしれない。というのは考えすぎだろうか。
何にせよ、彼女がそういう配慮から冗談で脅しをかけたのなら、年上の尊厳にかけても、渋々という返事はしない。私は自分の感情を素直に吐露した。
「とっても面白そうだし、私も是非やってみたいわ。あなたと一緒にね」
そう言って微笑んで、私は右手を差し出す。
私が仕方ないから、と答える思ったのだろう。彼女は少しだけきょとんと目を丸めたが、すぐ顔いっぱいの笑顔で「はい!」と私の手を握って握手した。
そして彼女は髪をまたかき上げた。
「…………もしかして、まだ何か隠してることとかない?」
「あ、いえ。隠してるとかじゃないんですけど。私たちが零戦から落ちたのは、幻想郷の結界のせい、って話でしたよね」
私は無言で頷く。
幻想郷の結界、正確には博麗大結界と幻と実体の境界だ。今回私たちが振り落とされたのは後者のせいと思われる。現実と幻想を選別するのがその境界だからだ。鈴瑚が零戦の周りに張った人除けの結界を何千倍も強力にしたようなもので、周囲の事象にさえ干渉する。
その結界が外の世界のものである零戦は外に出したいが、私たちは内に残したいというジレンマに陥ったため、あのような強制力を持ったのだろう。
時間を遡って自分の親を殺すと、自分は生まれないから矛盾が生じる。タイムパラドックスだ。これに対する回答はいくつかあるが、何らかの力が働いて親は殺せず現実を書き換えられないとする説がある。この強制力と似ている。
「違うの?」
「そうかもしれませんが、薬師さんは別の可能性でそうなるかも、とも言ってました。ほら、鈴仙さんも前言ってたじゃないですか。あの飛行機は九十九神化してるかもって。で、九十九神になるような思いはというと……」
「零戦が故郷に帰りたがってたってこと?」
「ええ」
なるほど、零戦が九十九神化していたとしても筋が通る。零戦は故郷に帰りたいと思ったが、私たちを故郷から引き離すのは忍びなかった。私たちを置いて外に出ようとしたから、結果として私たちが振り落とされたのかもしれない。単純に元のパイロット以外をあまり乗せたくなかったとも考えられる。
いや一番自然なのは、九十九神化と幻と実体の境界、両方が作用したパターンだろう。
「あの零戦、故郷にちゃんと帰れたかしら」
太陽は山の稜線にかかっていて、私たちは燈色に染まっていた。私は振り返り、夕日を背にして、零戦が消えた方角を眺める。
「無事に……ひょっとしたら、パイロットさん本人か、そのご子孫の下に辿りついてたりするかもしれませんね」
「それはいいわね」
ただの期待にすぎないのだが、それを聞いて私は何だか明るい気持ちになった。あまり海に落っこちたとか、事故を引き起こしただとかは考えたくない。
故郷に辿りついて、博物館に飾られるのが一番だろうか。いや、せっかく修理したのだ。再び空を駆けてほしい気もする。
あの零戦の行く末を思い、私は心の中でこう呟くのだった。
『グッドラック・レイセン』終わり
雲一つない青空。遠くの山の峰がよく見える。空を飛ぶには絶好の日だ。
まだ冬の寒さが残っているものの、日差しのお陰か、春はもうすぐだという気がする。
「よし」
編みがさを目深にかぶった。
永遠亭の薬売りと玉兎の鈴仙は別人ということになっている。薬売りの私は、里の人々を不安がらせないよう、人間ということになっているのだ。一応自分の波長を弄んでいる、言い換えると雰囲気を(より長身に、より大人しく)変えているので、同一人物とはそうそう見破られないはずだ。
といったように変装してはいるものの、ばれたとしても里の大多数は然程気にしないだろう。
里の人々を不安がらせないというのは建前で、どちらかといえば玉兎として里を私用で訪れた際、薬売りの人として喋りかけられるのが面倒だ、というのが本音かもしれない。
わざわざ迷いの竹林を歩いていくのも面倒なため、私は空を飛んで人里に向かう。人里に直接着地せず、竹林の中で着地するという配慮はしているし、飛んでいるときは波長を弄って位相をずらすので、見つかることはまずない。
今日もいつものように、空を見上げて、地面を蹴って空へ――――
「――――あれ?」
目の前に地面があった。湿った土の臭いがする。少し遅れてから、ちょっぴり体がじんじんする。
そして私はようやく自分が転んでいたことに気付いた。
薬籠は重かったが、私は何とか自力で立ち上がった。汚れてしまった着物を手で払って綺麗にする。
そういえばいつもより薬を多めに持っていた。玉兎といえども、重い荷物を持って飛ぶのは大変なのだ。そのせいでバランスが崩れてしまったのかもしれない、と私は気を取り直す。
「ほっ」
ちょっと背伸びをする格好になっただけで、地面から一ミリも浮かない。
「はっ」
今度は腕の振りもつけてみる。それでもちっとも浮かばない。焦りのせいか、暑くもないのに汗が首を伝う。
頭の中にちらついた考えを、必死に打ち消そうとする。しかしとうとう現実を認めざるをえなくなって、諦めて私はその感覚を口にした。
「いつも、どうやって飛んでたんだっけ……?」
言葉にしてしまうと、もう二度と飛べないような気分になった。だからあえて考えないようにしていたのだが、飛べないものは飛べなかった。
途方に暮れて、私は空を仰いだ。透き通った青空が、何だか恨めしかった。
◆ ◆ ◆
「思春期にはよくあるのよ」
私に背中を向けたまま、怪しい液体の入ったフラスコを片手にその女性はそう言った。
彼女の名は八意永琳。月の天才であり、私の師匠だ。
その周りは、発光するホルマリンのような液体で満たされた、円柱状の水槽がいくつも立ち並んでいる。中には生き物なのかもよく分からない物体が、時折気泡を吹いている。部屋は薄暗く、師匠の机周りの照明と、発光している水槽を満たす液体だけが光源だ。天井からは何に使用しているかもよく分からないチューブが垂れ下がっている。
まるで安いサイバーパンクのようだ。今この地上で、最もマッドサイエンティストに相応しい部屋を争うなら、師匠のこの研究室が文句なしの堂々トップだろう。
空を飛べなくなったと人に打ち上げるのは恥ずかしいが、どのみち師匠には後々知られることになるだろう。それならばと、思い切って相談しに来たのだ。
「思春期には色んな病気にかかりやすいものよ。起立性調節障害、鉄欠乏性貧血、マイグレイン、フリマノリカル・クリプトノーク。枚挙にいとまいないわね」
「私思春期じゃないんですけど」
反論してみると、師匠はフラスコを専用の台に置いて、回転いすに足組して座ったまま、ゆっくり振り向いた。そして白衣の襟を正す。
彼女は表情筋を一切動かさないままに、話を続ける。
「精神年齢が高くとも、それは精神の年齢で、大抵、体の年齢は見た目のままよ」
「そういう問題じゃなくて、私は玉兎なのでそもそも思春期とか……」
「わかってるわ、冗談よ」
「さいですか」
流しておいた。
まさか冗談だったとは予想外だが、師匠はいつもこんな感じだ。逐一付き合っていると、いたずらに疲れるだけだ。基本的に、思いつくことをそのまま話している気がする。
「そうねぇ……じゃあ優曇華、いつも自分がどうやって飛んでるか説明してちょうだい」
「どうやって飛んでいるって……何でしょう、こう、妖力を使ってこう……」
「それは原理よ。どういった感覚で飛んでるか言語化してみて」
私は言葉に詰まってしまった。
いつも当然にやっていたことのはずなのに、改めて問われると説明できない。あなたはどうやって歩いていますか、どうやって呼吸していますか、と聞かれるようなものだ。
「当たり前のことって、どうやってるかと聞かれると、かえってできなくなるのよ。寝るときに自分は歯を上下つけてたか、開いてたか、とか。舌をどこに置いていたのかとか。気にし出すと、余計わからなくなって、寝られなくなるじゃない。そういう感じの状態よ」
「でも、歩き方を忘れたり、呼吸の仕方を忘れることってないじゃないですか」
「自律神経がおかしくなるとそういうこともあるわよ?」
「つまり私は自律神経がおかしくなったと?」
そう聞いてみると、師匠は首を横に振った。
「話がちょっと脱線しちゃったわね。別の方向から説明しましょう。当たり前にあなたがやっていた空を飛ぶって行為は、いわば魔法なのよ。不思議パワーってことね」
「不思議パワー」
その部分だけおうむ返ししてみると、やたらと胡散臭い感じがする。
師匠は説明を続けた。
「魔法とかって、すごく不安定なの。一度どうやってたっけ、って思うともうできない。できるという確信が行為に先行するわけね」
なるほど。空を飛ぶのもそれと一緒だと。
最初は荷物が重くて、たまたま飛べなかったのかもしれない。しかし一度失敗してしまって、もしかしたら飛べなくなったのかもしれない、と不安になり二度目から本当に飛べなくなってしまったのだろう。
「子供のころは不思議な力が使えたのに、大人になって使えなくなった、とかいう話はこのあたりに起因するわ」
「魔法使いとか見てると、むしろ学問みたくやってますけど」
疑問をそのまま口にしてみる。
あの図書館に引きこもった魔女を見ていると、魔法がそんな曖昧なものであるとは思えない。彼らなりに魔法を体系立てて研究しているのだろうし。
「それは魔法とか、じゃなくて魔法個別の話になるんだけどね。そもそも魔法と科学の違いというのは……」
師匠はがたり、と立ち上がり、ホワイトボードらしきものの方に足を向けた。口元に笑みさえ浮かべていないものの、目が昏く輝いている。
不味い、講義が始まってしまう。私が知りたいのは、あくまでもう一度飛べるようになる方法だ。
「やっぱりいいです。ひとまず、飛べるようになる方法を教えてください」
「そう……」
残念そうに彼女はホワイトボードから離れた。
師匠の講義がどこまで続くかは計り知れない。私自身何度も餌食になったし、月にいたころ、講義が一週間丸ごと続いたという、眉唾物の伝説を聞いた時がある。
「もう一度飛べるようになるには、やっぱり飛ぶ感覚を思い出すしかないわ」
「ええと、私はわからなくなってしまったんですが、具体的にどういう感覚でしたっけ」
「わからないわ。その感覚は人それぞれだから。ひょっとしたら、全く違う感覚で動いてるかもしれない。いえ、もしかしたら感覚というものがあるのかもわからないわ」
「じゃあどうしたら……」
耳がしなっとなる。私は着物の裾をぎゅっと掴んだ。
一度失われた空飛ぶ感覚は、二度と戻らないのだろうか。
「飛ぶ感覚は思い出せなくても、飛んでいる感覚ならわかるんじゃない?」
「どういうことでしょうか」
「てゐとかに自分を抱えて飛んでみるよう頼むのよ。風の感覚とか、浮遊感とかは明確にできるわ」
「自分で飛ぶ感覚を思い出す手がかりとして、空を飛んでいる環境を再現してみるわけですね!」
「その通りよ。無理だと思うけど」
あまりにスムーズに言うものだから、否定の言葉だと一瞬分からなかった。ムリという音が、少し遅れて無理という言葉に変換される。
「な、何でですか……」と私がすがると、彼女はこう言った。
「勘よ」
「さいですか……」
この人は意外とこういう人だ。
完璧に理論武装しているように見えて、その実曖昧なものも曖昧なものとして許容できる。もっとも、そうなったのは蓬莱山輝夜という人物に出会ってからのことだそうだが。
「あとはもうショック療法とか。死を覚悟するほど高いところから飛び降りたら、案外死ぬ気になって飛べるかもしれないわ」
「できれば遠慮願いたいですね」
玉兎の体は人間より頑丈とはいえ、それなりの高度から落ちたら死ぬ。再生能力は折り紙付きなので、どの程度から落ちたら死ぬかはちょっとわからない。
最終手段として、とりあえず落ちてみて、死ぬ前に師匠に治療してもらうという術はあるようだ。絶対にやりたくないが、最終手段として頭蓋骨の中の片隅に置いておこう。
「ま、飛べなくてもいいんじゃないかしら」
彼女は机の電気を消して、出口に踵を向けた。
「酷くないですか……」
「飛べなくなったからといって、死ぬわけでもないわ。里に行くのが不便になるだけね。これを機に、耳もちぎって人間になっちゃったらどうかしら」
「酷くないですか!?」
「……冗談よ」
今度の師匠は微笑んでいたが、少し苦笑しているようでもあった。何故だろう。
私も彼女に続いて部屋を出た。あのマッドな部屋は、一歩出るともう普通の日本家屋なので、ワープしたような気分になる。
「飛べなくたって、優曇華は優曇華ってことよ。そんなことで永遠亭から追い出したりしないわ」
「……はい」
微笑む師匠に、私は少し改まる。師匠は意外と優しいのだ。
私が戸を閉めると、師匠は姫様の下へ向かっていった。私の部屋は反対側だ。
その白衣の背中を尊敬と嬉しさが入り混じった気持ちで眺めていると、数歩進んだところで、彼女は足を止めて振り返った。
「丁度、烏天狗の翼が手に入ったんだけど、移植してみる?」
「遠慮します」
間髪入れずに断る。
どこでそんなもの手に入れたんですか、とは聞かなかった。冗談なのだろう。多分。
◆ ◆ ◆
闇夜に提灯の赤が連なる。絶えることのない、楽しげな声。焼きそばやタイ焼きの臭いが鼻腔を刺激し、財布のひもを緩ませる。いまいち迫力に欠ける射的の銃声も聞こえる。
顔が隠れるほど大きな綿あめを抱えた少年が前からきて、ぶつかりそうになってよろめく。お姉ちゃんごめんね、と言って彼は友達の方へと人混みをかき分けて急いだ。
今日は博麗神社の縁日だ。今宵ばかりは人と妖の区別はない。無粋な奴はすっ飛んできた博麗の巫女に締め上げられるから、妖怪も人を襲うような真似はしない。
「姫様、申し訳ありません」
「いいのよ。地面の上を歩いてみると、いつも見過ごしてる景色にも気付けるし」
そう言って蓬莱山輝夜は屈託なく笑った。私を気遣っているというより、本当にそう思っているような表情だ。
この前師匠に相談した後、空が飛べなくなったことを馬鹿にして笑うてゐへの怒りを噛み殺しつつ、私を抱えて空を飛ぶよう頼んだ。しかし結局飛べるようにはならず、頭の下げ損だった。
少し焦るが、焦ってどうなるものでもないと自分に言い聞かす。師匠の話を聞く限り、焦るとかえって余計に飛ぶ感覚が遠くへ行ってしまいそうだし、気長に取り組もう。
私と姫様の後ろを、てゐと師匠が並んで歩いている。
姫様は青に白の竹の意匠、てゐは薄目のピンク、師匠は無地に赤い帯の浴衣を着ている。加えて髪の長い姫様はポニーテールだ。うなじが眩しい。私だけは山の方の人から貴重な薬草を受け取った帰りだったので、いつもの薬売りの格好だった。浴衣を着ていないこと自体に不満はないが、薬売りの服装のせいで、いちいち里の人間から声をかけられるのが面倒だ。
途中で三人と合流したのだが、みんな飛べない私に合わせて徒歩に付き合ってくれた。置いて行ってくれてもいいと言ったのだが、姫様から「歩きたい気分だったから丁度いいわ」というお言葉をいただいたのだ。
「あ、イナバ。あのヤツメウナギを買ってきなさい! イナバは豚汁ね」
「アイマム」
「ういうい」
編み笠の下で小さく敬礼して、私は姫様が指さした、夜雀の出している屋台に直行する。てゐは手をひらひらして、その向かいの豚汁を出している屋台に向かう。屋台の店主は妖怪人間のべつなく様々だ。
姫様は永遠亭の兎を玉兎の私も含めて、一括りにしてイナバと呼ぶ。兎たちにさほど興味がない冷たい人物のようにも思えるが、その実一匹一匹で「イナバ」と呼ぶ発音が微妙にことなる、らしい。師匠がそう言っていたが、私には自分の呼ぶ「イナバ」の声が何とか識別できるくらいだ。
その発音の違いは、人に化けられない兎に対しても同様だ。人化していない兎は、私にさえどれがどれだか区別できないのに、姫様にはわかるようだ。
食べもので両手がいっぱいになったころ、丁度博麗神社の本殿の目の前にでた。本殿の周りは敷物が敷かれて休憩所のようなスペースになっており、その傍らでは巫女直々に甘酒が振る舞われる。今日は三匹の妖精にその役割がぶん投げられていたが。
既に本殿周りは人であふれかえっていたが、周りの人間たちに空けてもらって四人分のスペースを確保した。
「ん~大して美味しいわけじゃないけど雰囲気で美味しいわね!」
焼きそばを頬張って姫様はそう言って笑う。それを師匠がたしなめて、ハンカチで姫様の汚れた口元をぬぐった。
「輝夜。そういうのはあまり大声で言っちゃだめよ」
「まああの焼きそば屋は里で粉物屋やってる人の方の屋台じゃないからね。あの顔は確か、渡し船の組合だったかな」
てゐがそのように説明すると、姫様が「なるほどね」と相槌を打つ。それにしても、てゐは里には出ないものを思っていた。
「へー、あんたも案外人里に顔出してんのね」
「変装してね。長寿の秘訣は引きこもらないことよ。あっ、そこにいるの、純狐とかいう人じゃない?」
「どこっ!?」
私は即座に立ち上がって周りを見渡す。悪い人じゃないのだが、急にとんでもないことをしでかしかねないプレッシャーがあり、あまり関わりたくないのだ。どうにも彼女に私は妙に気に入られているようで、やたら絡まれる。
しかし、どこにもあの黒い着物の女性は見当たらない。
「隙だらけってか隙しかないね」
「あっ、私の分のタイ焼き!」
どうやらてゐお得意の嘘だったようだ。てゐが私の分のタイ焼きをもさもさと食べている。それを見て姫様はクスクスと笑っている。後ろから首を締め上げるも、意に関せずてゐはタイ焼きをむさぼり続ける。
「餡子以外は邪道だと思ってたけど、さつま芋も中々」
「こんにゃろ……!」
「そうだイナバ。立ち上がったついでに甘酒もらってきてちょうだい」
「了解です。くっそう……覚えときなさいよ」
私の捨て台詞を口笛で返すてゐを背に、私は甘酒を配る列に並んだ。三匹の妖精が声を張り上げて、一生懸命甘酒を配っている。
霊夢はどこに行ったのだろうと周りを見渡すと、里のおっさんたちと一緒に飲んだくれていた。いわゆる挨拶まわりの一環だろうが、それにしては酔いすぎだ。年配の男性の髪のない頭をばしばし叩いている。処世とか世渡りとかいう言葉とは無縁な彼女らしい。ああいう風に誰に対しても自然体でいられるのは、少し―――
「薬売りの人ォ!」
「はいこちら薬売りっ……げ」
いきなり大声で話しかけられ、そちらを振り返る。そこには完全に出来上がった鈴奈庵の看板娘がいた。名前は本居小鈴だったか。顔は赤く上気し、目の焦点が定まっておらず、平衡感覚を失っている。その後ろで連れと思わしき少女が、呆れ果てて苦笑している。御阿礼の娘こと稗田阿求だ。
やっぱり普段着に着替えてくればよかった。そうしたらこんな風に絡まれることもなかっただろう。
「稗田さん……これ」
「ええ。見ての通りの飲兵衛酔いどれ酔っ払いです」
「これとはなんですかぁ!」
「なんれすか」と「なんですか」の中間くらいの発音だ。舌が回ってない。
彼女はそう言いながら私の着物に縋りつく。口元がひきつる。吐瀉物で汚れるようなことがあっては、たまったものではない。
「連れて帰った方がいいんじゃないですか?」
私が玉兎と気付いているかは微妙な線だったが、ひとまず敬語で話してみる。
御阿礼の子は特に気にするようなことはなく、首を横に振った。どうやら気付いていないらしい。彼女と玉兎の鈴仙の間に、面識がないこともなかったが、波長を弄ってあるのだ。気付かないのも無理はない。
「そうしたいのは山々なんですけど、これから稗田家の当主としての挨拶だとか式辞だとか、色々あって……」
「そうなんですよぉ!」
あんたが言うなよ。
そう突っ込みたかったが、代わりに御阿礼の子が彼女の頬をつねった。鈴奈庵の娘はうー、とうなるだけだ。まだ若いのに、友人の世話に式辞と大変なご身分だ。
里まで連れて帰ってあげようか、でも面倒くさいし、地上人のためにそこまでしてやる義理もない。少しの間逡巡していると、甘酒を待ちかねたのか、いつの間にか近くに来ていた姫様が声をかけてきた。
「連れて帰ってあげなさいよ」
流石に姫様は優しかった。
「そしたら私たちは足手まといがいなくなって、飛んで帰れるじゃない」
あまり優しくなかった。
さっき「歩くと景色が」云々気づかいを見せた人と同一人物とは思えない。でも悪意はなく、本当にそう思っているのだろう。そして姫様は、私がその無邪気さに気が付くこともわかっているのだろう。この人はこういう人なのだ。
「わかりました……てゐ!」
「本当ですか薬売りさん。助かります」
「助かりますぅ!」
今度は蹴りが入った。御阿礼の子も、いい加減飲んだくれに付き合わされるのは我慢の限界だったのだろう。
「これお願いね」
「ういうい」
日中に受け取った薬草をてゐに預けた。きんちゃく袋に入っている分だけだが、人を背負って帰るには邪魔だ。ついでにてゐに甘酒の順番待ちも代わってもらう。
もごもご口ごもる鈴奈庵の娘を背負って立ち上がる。
「鈴奈庵の場所は大丈夫ですか?」
「ええ。お客様の家ですから」
薬だけでなく、ウルトラソニック眠り猫とかも売りつけたこともある。
「よろしくお願いします」と頭を下げた御阿礼の子を背に、私は今まで来た道を逆走する。道行く人の心配するような面白がるような声に私は曖昧に答えながら、帰途を急ぐ。今は空を飛べないのだが、薬売りの格好ではどのみち空を飛べなかっただろう。
気付けば屋台もなくなっているが、道の両脇にはまだ赤い提灯が続いている。この提灯は博麗神社特製で、魔よけの効果も持っており、里まで続いている。いくら博麗の巫女がいつもより情け容赦なく制裁を加えると公言していても、知能の低い、ほとんど獣に近い妖怪や実際の獣には意味がない。それらへの対策が、この呪力の込められた提灯というわけだ。
去年ここを通ったとき師匠は「魔よけと言えば、どちらかといえば白い提灯なのだけれどね。でも赤は大陸では魔よけの色だから、どうやら道教の流れも汲んでいるらしい博麗としてはこっちの方が普通なのかもね」と言っていた。
さらにこの提灯に加え、神社でもらえるお札もあり、里の人間は安全に博麗神社の縁日まで来れるということらしい。縁日一つにご苦労なことだ。
「突っ切るかな」
私がそう独りごちると、背負った鈴奈庵の娘が返事のつもりなのか、何か言っている。もうほとんど彼女は寝ていた。寝ていてくれた方がおとなしくて助かる。
魔法の森とは別に、幻想郷は森がいくつもある。博麗神社と人里の間にも森があり、道は危険な最深部を迂回して伸びている。
とはいえ私は妖怪。わざわざ人間たちと同じ道を歩く必要はないので、最短距離を突き進もうというわけだ。雑魚妖怪や獣なんかに嗅ぎ付けられるのも面倒なので、自分たちの位相をずらし、発見されづらくする。我ながら便利な能力だ。
今の時期だと虫の鳴き声もしない。森の中が静かなせいか、遠くの祭りの喧騒がまだ残っている。それに背を向けて、私は歩みを進める。
「ん?」
視界の端に、月光に反射した何かが映る。急に足を止めたせいか、それとも私のつぶやきを聞いてか、背中の少女が目を覚ましかけた。
「……薬売りさん?」
「あ、あたぼうよ」
なるべく刺激しないように焦った結果、妙な返事になった。私は立ち止まって彼女の眠りが深くなるのを待った。
しかしその考えはうまくいかなかった。彼女は少しずつ覚醒に近づいていく。
「帽子……邪魔です」
そういえば背負っている最中、ちょっと編み笠が彼女の頭に当たっている感触がした。起きてしまったのもそのせいかもしれない。
ということが頭をよぎった瞬間、彼女は右手で私の編み笠を払いのけた。
「ちょっ……!」
私は宙を舞った編み笠を、何とか両手で捕まえた。
当然その結果、今まで私が背負ってた少女は重力に引かれる。
「あ」
「いてっ!」
誤って鈴奈庵の娘を落っこどしてしまい、彼女はしりもちをついた。やってしまった、と思うと同時に、もう一つやらかしたことを思い知ることになる。
彼女はあることに気付き、眉間にしわを寄せた。
「あれ……兎の耳?」
「いやっ、あの……」
「薬売りさん、里でたまに見る兎さんだったんですね!」
「その……これは夢の中でして」
「無理です。完全に目が覚めました」
観念した。
この場を切り抜ける言い訳は思いつかない。別にばれても問題なかった変装だ。仕方ないだろう。
「確か鈴仙さん、ですよね? 私も小鈴でいいので」
「はあ。もう酔いは醒めちゃったの?」
「ちょっとフラフラしますが、まあ意思疎通は可能です!」
意思疎通可能か判定するのはこちら側な気もするが、話が通じるのはわかる。そしてまだ完全に酒が抜けきっていないのも。
私はしりもちをついたままだった彼女に手を貸して、起こしてやった。少しよろめいたので支えてやる。ついでに御阿礼の子から渡されていた水筒を渡してやった。もうそこまで酔っていないようだが、水を入れないと明日に響くかもしれない。
「こういうときの水は体にしみますね。ところで、どうして変装してたんです?」
「里の人間をいたずら刺激したくはないもの。永遠亭には変な人間がいる、くらいに思わせておきたいし。それに、私たちを好ましく思わない人たちもいるから、妖怪だと気付かれたら余計に……ね」
建前はすらすら出てくる。
「なるほど……じゃあ口外しないように気をつけますね」
無言で首肯した。物分かりの人間は助かる。
私たちを好ましく思わない人たち、というのは主に町医者の人間たちである。誰だって自分の仕事やそれに付随する尊敬が奪われたら嫌だろう。永遠亭が常備薬の販売と、町医者ではどうしようもなくなった患者だけを相手にしているのは、彼らに対する配慮でもある。それでもそれなりの恨みは買っているだろうが。
小鈴は何とか歩けるくらいには回復しているが、この森に放置したとなれば永遠亭の面子にも関わる。流石に置き去りするという選択肢はない。
ひとまず彼女を連れて、とまで考えたところで、再び視界の端に何かが映る。自分がなぜ立ち止まったかを思い出した。それが気になったからだ。何となくそっちへ行かなくてはならないというか、呼ばれているような感じがする。
「鈴仙さん?」
ふらり、と私の足がそちらに向かう。特に危険な予感はしない。何だろうか。
進行方向に対して右、迂回した道とは反対側に向かっていく。小鈴も視界に同じものを認めたらしく、同様に気になるのか無言で後ろをついてきた。すると、少しだけ他に比べて樹木が少ない、開けた場所に出る。
「これ、は――――」
それは巨大な鳥だった。目測で全長は十メートルくらいだろうか。ちょっとした物置小屋よりも大きく、少しだけ見上げる形になる。
頭の部分は潰れた黒い円柱になっており、その先にはプロペラがついている。プロペラの反対側から濃い緑色の胴体が伸びており、大きな赤い丸がいくつかペイントされていた。極めつけは胴体下部から伸びた金属製の翼で、月明りを受けて輝いている。
月の都で資料を閲覧したことがある。かつて戦争に用いられた戦闘機というやつだ。確かあの盛り上がった胴体中央部に乗っかったガラス張りの部分に乗り込むはずだ。
所詮は地上人の拙い技術で作られた乗り物だが、月下というシチュエーションのせいだろうか。中々悪くないデザインに見える。
「――――レイセン」
「へ、私?」
「いえいえ、これの名前です。うちにある外来書に載ってました」
「ふーん。私と同じ名前なんだ」
ひょっとしたら私と同じように、逃げてきたものかもしれない。そんな想像がふと頭に浮かぶ。
近づいて表面に触れてみる。冷たい金属の感触で、想像よりも薄いように感じる。よく見ると結構錆びてしまっている。しかしこれは何十年も前の代物のはずだ。それにしては、かなり良い状態で保存されているというべきだろう。
月の都ではありえないが、地上ではあらゆる製品が劣化する。師匠は劣化ではなく変化と呼んでいたけれど。
地上人の飛行機は反重力を使わず、原始的な手段で飛行する。そしてふと思う。原始的であるといことは、空を飛ぶ感覚も、よりダイレクトなのではないかと。電気信号を通さない、機械駆動の飛行機。これで自由に空を駆けることができれば、空を飛ぶ感覚を取り戻せるのではないだろうか。
「これで空を飛べないかな」
「これで空を飛べないですかね」
奇しくも、同時だった。
二人で顔を見合わせる。私は人間と発言が被ってしまったと苦笑し、彼女は嬉しそうに笑った。
これで空を飛べたからといって、私が空を飛べるようになるとは限らない。でも幸い、師匠は最悪飛べるようにならなくてもいいさえ言ってくれているし、のんびりこれに賭けてみるのも悪くないだろう。アプローチの種類は多い方がいい。
「やっちゃいます?」
いたずらっぽい顔で、小鈴は私の顔をのぞく。私は機体に触れていた手を引っ込め、汚れを両手を叩いて払った。
「やってみようか」
今ここに、幻想郷飛行機研究会が結成された。
◆ ◆ ◆
必要なのは情報である。
私のあの飛行機に対しての知識は大いに不足している。そんな状態であれを飛ばそう、というのは土台無理な話だ。
やはり外の世界の書籍こそが幻想郷における最良の情報源だろうが、私が鈴奈庵の娘より外来書を集められるとは思えない。したがって私は玉兎なりのアプローチを試みることにした。
「待たせたわね」
人里の中心部から少し離れた場所にある団子屋に彼女はいた。店先に置かれた、赤い布がかけられた長椅子に座っている。
服装は暗めの黄色をベースに格子模様の入った着物で、頭にはあずき色の頭巾を被っている。まだ肌寒さが残る季節なので怪しまれないが、その頭巾の中に私同様長い二本の耳を隠している。
「おっす」
団子を持っている手が軽く挙げられる。
彼女の名は鈴瑚。月にいたころの顔なじみの兎だ。特別仲が良かったわけではないが、悪かったわけでもない。
私は彼女の左側に隣に腰かけて、店主にみたらし団子を頼んだ。右側に座らなかったのは、食べ終わった団子の皿が二、三枚積まれているからだ。
「しっかし、面白いことしようとしてるね。何でいきなり飛行機?」
「まあ……色々あるのよ」
もう一度空を飛ぶ感覚を取り戻すため、というのは黙っておく。
実は飛べなくなってしまったのだ、とは流石にみっともなくて言えない。自分が飛べなくなったことは、馬鹿にされそうで知られたくなかった。一緒に住んでいる永遠亭の面々には隠し通せないので、知られるのは仕方ないが。
「そんなことより、頼んだものは?」
月のデータベースにアクセスしてあの飛行機の修理に役立つような資料を手に入れてくれるよう、私は彼女に頼んだ。自分のアクセス権限は月から逃げたときに停止されている。だから彼女に頼んだのだ。
「ちょい待ち」
彼女が空中を人差し指で叩くような動作をすると、目の前に立体映像の画面が構築される。
ホログラムではない。玉兎の視界にのみ反映される拡張現実だ。脳に直接投影される。人間たちには見えないので、空中で指を動かしている彼女は、彼らの目には奇異に映るかもしれない。
その画面を数回タッチしたりフリックしたりすると、目的のフォルダにたどり着いたのか、彼女が手を止める。
「どうやって落とす?」
「アナログ方式で」
「けったいだねぇ」
私は拡張現実を開き、鈴瑚の手を握った。彼女が空いた方の手でフォルダを勢いよくスワイプすると、フォルダが私の方の画面まで飛んでくる。
「ってかアクセス権、復活してもらうよう頼めば? 今のあんたはあのイカれた女を退けた英雄なわけだし。誰も文句は言わないでしょ」
「そうはいっても上層部しか知らないだろうしね……そういうあんたは月に帰らないの?」
私たちは手を離して、拡張現実の画面を閉じた。
鈴瑚は団子を頬張りながら、遠くをにらむようにして言った。
「んー。ここには月の民がいないからね」
月の民はかつて地上で天津神と呼ばれたものたちがほとんどだ。彼らは地上人に嫌気がさしたのか、それとも何か別の理由があったのか、月へと上がった。
しかし月に移住すると、彼らは異常をきたした。彼らはあくまで人の上に立つ存在であり、人と離れて暮らすということは、その存在意義がなくなるということでもあった。人なくして神は生きられない。
そして人間の代わりに生み出されたのが玉兎だ。天津神を崇め、そして支配される存在。玉兎とはペットであり奴隷であり、そして月の民を生かすものでもあった。
ちなみに玉兎を生みの親は師匠、という話もあるが、本人に聞いてみてもはぐらかされるばかりである。
「月の民に支配されるのは嫌?」
「そうでもない。でも、そうでもないのが最初からそう刷り込まれてるからかも、って気付くとちょっとね」
玉兎は奴隷だが、鞭打たれたり馬車馬のように働かされたりしているわけでもない。地上の歴史でいえば、ローマにおける奴隷の概念が最も近いだろう。
しかしだからといって、月の民に従わなければならないのは理不尽だ。普通の玉兎はそれはそういうもの、と思っているが鈴瑚は違った。彼女は頭がキレるから、そんじょそこらの月の民が馬鹿に見えることもあるだろう。何故自分より劣ったものの支配が決定づけられているのか、不快に思うこともあるはずだ。
「そういえば、支配を完璧にするなら、そう意識することすらできないようにしとく気もするけど」
玉兎が権利を求めて、月の民相手に革命、という可能性もゼロではない。そういう危険性が生まれる余地をむざむざ与える必要もないだろう。
「思考をガチガチに縛れば綻びが出やすいからじゃないかな。絶対順守のルールが複数あると矛盾が起きるから」
私は「なるほどね」と相槌を打った。
自分から切り出しておいてなんだが、このまま月の社会について議論を繰り広げても不毛だし、楽しくもないので、元の月に帰らないのかという話題に戻すことにする。
「ちなみに清蘭はなんて? あの子は特に何も考えてないと思うけど」
清蘭とは、鈴瑚と同じイーグルラヴィという部隊に属する玉兎だ。
二人は学兎時代から仲が良かったように思う。座学はいつも鈴瑚が首席で、実技は清蘭が首席だった。両方合わせた総合成績は私がトップだったが。
「鈴瑚ちゃんが残るなら私も残る、ってさ」
彼女はそう言ってため息をついたが、その声はどこか温かみを感じる。
見知らぬ地に来ても鈴瑚が心細そうに見えないのは、彼女が一緒にいるからかもしれない。私もそういった誰かと地上に降りてきていたなら、何か違っただろうか。
「でも定期的に帰ろうかと思ってるよ。ウチの上司に悪いしね」
「そっか。サグメ様は誰かが支えてやらないとね」
稀神サグメは、彼女たちの上司の月の民の名前だ。天津神と国津神の混血であり、それがゆえに都での立場も弱い。
月の民をあまりよく思わない彼女も、サグメ様だけは別のようだ。
「あんたの方の上司は元気?」
「楽しそうにしてる」
師匠の微笑みが頭に浮かぶ。その形容が一番近い気がした。元気というか、常に人生を謳歌しているお方だ。
「前々から思ってたんだけどさ、月の支配から逃れられたのに、何でまた月の民と一緒にいるの?」
「それは……」
鈴瑚と違って、私は月の民に従属することを煩わしいと思ったときはあまりなかった。昔から自分の意志で何かを決めるのが苦手で、誰かの指示に従っている方が楽だったからだ。
そのせいか地上で一人で生きるのに苦労し、結局永遠亭に転がり込んだわけだ。ただそういった自分の心の機微を、他人に話すのは躊躇われた。
「ま、いいや。さて、お代は報酬ってことで頼むよ」
「わかってるわ」
長椅子の上に置かれたお皿は二、三枚程度だ。大した金額にはならないだろう。
その場を去ろうとした鈴瑚は「そうそう」と立ち止まって、肩越しに振り返った。
「正直月にいたころのあんたはあんまり好きじゃなかったけど、今のあんたは友達になれそうだよ」
「……あっそう」
内容の如何より、月にいたころは嫌いだったという言葉に傷ついた。確かに昔の私は近寄りがたく、根暗だったような気もする。
しかし鈴瑚が友達という単語を口にするのはかなり珍しい。そういうことを口に出す性格ではないのだ。案外彼女からすれば、最高級の賛辞かもしれなかった。
「じゃあ飛行機の成功を楽しみにしてるよ。グッドラック」
聞いたことがある。航空機が空へ飛び立つとき、フライトの安全を祈ってその言葉を贈るのだと。
彼女の背中が雑踏に消えていくまでを、私は何となくぼんやりと眺めてから立ち上がった。
「店主、勘定」
私が値段を概算して小銭を出すと、店主は首を横に振った。
「え、だってあそこにはそういう風に値段が……」
私は壁にかけられた値札を指さして言う。すると彼はにたりと笑って言った。
「あの黄色い着物の嬢ちゃん、結構前からいたんだよ」
彼の言葉の意味を捉えかね、私は首を傾げた。しかし数秒遅れてあることに気付き、その意図を理解する。
あの鈴瑚が、あの程度の量しか団子を食べないのはおかしい。
「まさか……!」
私は今まで座っていた長椅子にかかっていた赤い布をめくった。
「くそっ……やられた」
私は口元をひくつかせて、頭をかきむしる。頭を椅子の下には、山積みになった皿が隠されていた。しかもご丁寧に、皿を汚さないよう紙を敷かれていた。
あいつとは友達になれそうもない。彼女はてゐと同類だ。
◆ ◆ ◆
暖簾をくぐり、妙に薄暗い店内へと私は足を踏み入れた。どことなく怪しい雰囲気がするのは、店の中に眠っていると聞く妖魔本のせいだろうか。
「おじゃまします」
「いらっしゃいませ。あ、鈴仙さんでしたか」
小鈴は私の姿を認めると、髪をかき上げる仕草をして、目線を手元に落とした。
彼女はいつものように、古びたカウンターに座っていた。その姿を見て、そういえば彼女はいつも一人で店番をしているな、と気付いた。
「にしても、いつも親御さんいないわね」
「お得意様の家を回ってます。ここって物置のようなもので、貸本屋としては外回りが主体なんですよ。だからこの店に直接来るのは、お客様としては少数派なんです」
私の目線で聞かれる内容を何となく察したのか、説明がすらすらと出てくる。客があまり来ないのであれば、ここで相談事をしても問題ないだろう。
彼女は立ち上がると、隅に置いてあった書物の山を、カウンターの上にどっしりと乗せた。
「ウチにあったのはこれで全部です」
「よく一日でこれだけ集められたものね……」
彼女には飛行機に関する外来書をまとめるよう頼んだのだが、鈴奈庵の蔵書量は並ではない。データベース化もされていないのに、よく集められたものだ。
「実は私、前々から飛行機に興味があったんです。だから資料は一回読んだときありますし、大体覚えてたんです。あと、ほとんど関係ないのも交じってますよ」
どうやらほんの少しでも関連してるものは全てピックアップしてくれたらしい。
おもむろにその中の一冊を手に取ってみる。
「へえ、実際に使ってたマニュアルなんかもあるのね」
一次資料は重要だ。一度人の手を経た資料や文章は、悪意がなくても著者に都合の良くなるような資料が作為的に選ばれてしまうし、酷いときには根も葉もない伝聞がそのまま掲載されていることもある。そういった偏見から逃れるためには、一次資料に当たるのが最良だ。
もっとも一次資料だって完全に正確とは言い切れないし、自分が情報の取捨選択や読み方を間違えれば誤った結論に辿りついてしまう。
「あの飛行機の名前、私と同じ名前なんだっけ?」
「はい。正式名称は零式艦上戦闘機。レイ戦というよりゼロ戦と呼称されるときの方が多いそうです」
一応あの飛行機についての背景も調べてみた。
かつて外の世界では第二次世界大戦という大きな戦争があった。そこで日本が主に使用した戦闘機が零戦だそうだ。戦闘機とは兵器として使われた飛行機の中でも、同じ飛行機と戦うことに主眼を置かれて作られたものを指すらしい。
零戦の機体の特徴としてはとにかく軽いの一言につきる。軽いため高い上昇力、長い航続距離、旋回半径が小さいという長所を持つ。当時の日本は技術力、特にエンジンで他国のライバルに比べ劣っており、それをカバーするためだそうな。逆に短所は軽いがゆえのダイブでの加速の遅さ、高速時の操縦性低下、生産性や高高度性能の低さなどが挙げられる。
正直いまいちピンと来ないのだが、私たちとしては飛んでくれれば何でもよいため、戦闘機としての性能の話などは些末事だ。
「順を追って考えてこうか」
「えーと、そうですね……まず、あれって飛べるようになるんですかね」
小鈴が不安そうに言う。そもそも修理できる可能性がゼロならば、これからやることは全て徒労に終わってしまう。
「その心配はないんじゃないかな。パッと見、状態はかなり良かったし。むしろ良すぎるくらい」
そう、保存状態が良すぎるのである。零戦が生産されたのは半世紀よりもっと前。そんな昔に野ざらしにされたとすると、機体の新緑色が確認できる程度の錆で済んでいるのはおかしい。
「保存されていたものが、最近廃棄されて、それが幻想郷に流入したんですかね」
幻想入りする品は、個体としては打ち捨てられ忘れられて、誰にも認識されていないようなものがほとんどだ。物品であれば、一度廃棄するか紛失するかのプロセスを踏むケースが多い。
「ここにある資料を見る限り、現存する機体は貴重みたいだから、その可能性は低そうだけど……九十九神に近づいていて、その妖力で保存されたとか」
「その方がまだありえそうですね。あ、でも飛行機ってそもそも時を超える機能もついているらしいですよ」
「……ほほう?」
眉唾だ。聞いたことがない。
彼女は山積みになった資料から、一冊の雑誌を取り出して、あるページを開いた。そこにはサンチアゴ航空513便事件というタイトルが書かれている。
「要約すると行方不明になった飛行機が、五十年後に乗客が全て白骨化した状態で発見された、という事件らしいです」
ざっとその記事に目を通すと、他にも同様の事件が挙げられており、外の世界ではしばしば飛行機が時を超えるらしかった。本当だろうか。
「普通の人は知らないけれど、一部の人が隠してそういった機能を搭載してるみたいですね。飛行機には未知の領域であるブラックボックスとやらが乗せられてるみたいですし、それが作用して時を超えるのかもしれません」
小鈴が目をギラギラさせながら言う。ブラックボックスとは、そういう意味の単語だっただろうか。
「何にせよ、多少時を超えたっていうのはあるかもね。幻想入りの際に時を超えた事例は他にもあるし」
「そうなんですか?」
「あなた、友達の本……幻想郷縁起だっけ。読んだ時ある?」
「……あんまり」
怪訝な顔で彼女はそう言った。稗田乙女の使命を快く思っていないのかもしれない。
私も一度目を通しただけだが、縁起の巻末には未来から来たと思わしき人物のメモが掲載されている。竹林に落ちていたものらしく、近場だったせいか印象に残っていた。
「修理は資料を参考に頑張ってみるとして、必要になる材料や工具はどうしましょう」
「簡単なものなら永遠亭にもあるけど……その辺りは里の鋳物師、特殊なものは河童に頼ることになるでしょうね」
河童の機械には一部、里にはない金属が使用されていたりする。人間とは別個の鉱山を有していると私は考えている。
「でも、それってやっぱり元手は必要になってきますよね……」
「費用は私が用意するから、小鈴ちゃんは心配しないで」
「いいんですか……?」
気まずそうに両手の一指し指をもじもじさせる小鈴に、私は気にする必要はないと言う。彼女としては折半が筋だと思っているかもしれないが、こちらからすれば子供に金を出させるほど落ちぶれてはいない。
師匠から労働の対価はもらっているのだが、正直なところ使いどころがなく、困っているのだ。お金をつぎ込むような娯楽も持っていないし、箪笥の中で腐らせているよりかは、よっぽど有意義なお金の使い方だ。
「飛行本番の話なんだけど、小鈴ちゃんも飛びたい?」
「はい」
「……失敗したら死ぬこともあるんだよ」
ひ弱な地上人の体では、玉兎であり体が頑強な私より、墜落して死ぬ可能性はずっと高い。
「それでもです」
即答だった。私には少し意外だった。
飛行機に乗ることが命がけであることは、ここの資料からもわかっているはずだ。彼女の願望は飛行機に乗ってみたい、ではなく飛んでいるところを見てみたい、だと思っていたのだが、私の見当違いだった。自分で飛んでみたい理由があるのだろうか。
「鈴仙さんと一緒なら、怖くないですし」
「そ、そう?」
悪い気はしなかったが、「そうなれば」と私は話を続ける。
「説明は後でするけど、私の方が操縦は上手いと思うから、任せてもらうね。で、小鈴ちゃんが乗るのであれば、二人一緒に乗ることになると思う」
操縦の訓練は、鈴瑚からもらったデータ内にあるフライトシミュレーターによって行う。脳に直接インストールする形式のバーチャルシミュレーションなので、小鈴が訓練を行うことはできないし、何より操縦するには彼女の体格が小さすぎる。これが今省略した説明だ。
「でも零戦って一人乗りですよね。重さとか平気なんでしょうか?」
「二人合わせた体重を、成人男性の体重の約二分の三倍と見積もるとして……飛行には直接必要ない機銃なんかを降ろせば問題ないと思う」
もっとも機銃を降ろすことによって、全体の重量のバランスも変化するだろうから、その辺りの調節は別途に必要になるかもしれない。
「スペースはどうでしょう?」
「一応このマニュアルによれば座席の調整はある程度できるみたいだけど、ひとまず実測してみるしかないわね。いざとなったら座席をとっぱらって、私たちにより合う小さいものに挿げ替えるかな」
その他にも、必要になりそうなものや問題になりそうな部分をリストアップしていく。大体の問題は解決が見込めたが、一つだけ困ったことがあった。
「どうしたんですか?」
「滑走路どうしようかなって。どうやら最低でも一キロメートルちょっとくらいの長さは必要みたい」
「ええと、町に直すと具体的にどれくらいですか?」
「約十一町ってとこね」
風向きにも左右されることを見越した上で、安全を保証するために必要なのが千二百メートル程度らしい。外の世界で零戦が離着陸するための滑走路の基準が、この長さになる。緊急用の滑走路でも八百メートルはある。
「それは……難しいですね。地面も舗装の必要があるみたいですし」
コンクリートを敷く必要こそないものの、土を転圧するなどする必要はある。地面がそこそこ舗装されていて、かつ千二百メートルの直線というと、幻想郷内に存在するとは思えない。
紅魔館の庭にいい線いくスペースがあるかもしれないが、直線距離では長くても二百メートル程度だろうし、幅の方に不安が残る。
「そういえば離陸と着陸、どちらの方が短くて済むんでしょう。最悪、乗り捨てにすれば着陸は考えずにすみますが……」
「離陸の方が長くつくわね。加速より減速の方が簡単だから」
もっともカタパルトがある場合は必ずしもこの限りではなく、その場合、必要な距離は逆転する。
「うーん……」
「条件としては地面がそれなりに舗装されていて、機体の幅の約十二メートルより大きく、欲を言えば千二百メートルの長さの道ね。飛ぶ日の風向きと風速によってはもっと短くてもいいわ」
私にはこの条件を満たす場所は思いつかない。飛行機自体は直せるかもしれないのに、滑走路がなくて断念するのはもったいない。
やはり無ければ作るまでだろうか。師匠に頼めばどうにかしてくれそうな気もするがどうだろう。できる限りは独力で成し遂げてみたいが、仕方ない。一度相談してみようか。
するとパラパラと資料をめくっていた小鈴が、はっと顔を上げた。
「滑走路、私に任せてもらえないでしょうか。ちょっと考えがあるんです」
必ず成功するとは言えないので、念のため私の方でも次善策を考えてほしい、と彼女は付け足した。
本当に滑走路が用意できるだろうか。そう思いながら彼女の顔を見ると、面白い悪戯を思いついた、といった表情をしていた。
◆ ◆ ◆
森の中を黙々と進んでいく。飛んでいけば楽なのに、と自分が飛べないのも忘れて考えてしまった。
今日は修理が必要な部分を洗い出すのがメインの目的であり、余裕があれば簡単な作業はこなしてしまおうという予定だ。
「ちょっと……すいません」
後ろから聞こえたあえぐ声で、私は足を止めて振り返った。今日の小鈴はいつもの着物ではなく、薬売りのときの私と似たような作業服だ。一度、彼女が製本作業をしているときに、その服を着ているのを見た時がある。
普段誰も通らないような森の中を歩くのは体力を消耗する。色々な道具を背負っているとはいえ、玉兎である私でさえ歩くのが面倒だと思っているくらいなのだ。地上人で、かつ子供の小鈴には辛いはずだ。もう少し後続の彼女が歩きやすいよう、道を作るように歩くべきだったか。
「ごめんごめん」
少し離れてしまった彼女が追いつくのを待つ。しかしあの縁日の日、この辺りで零戦を見かけたと思ったのだが、何故か見当たらない。
小鈴が息を整えている間、周りをぼんやり見渡していると、視界に違和感を覚えた。
「あ」
どうして気付けなかったのだろうか。周囲に溶け込んだ色をした大きい布が目の前にあった。
私がそれを暖簾と同じ要領でくぐると、中に例の戦闘機があった。
「鈴仙さん、誰かに壊されたりしないよう、隠しておいたんですね!」
小鈴は「流石です」とうんうん頷いているが、私には心当たりがない。この飛行機は貴重なものだし、自分の所有物とも言い切りづらいので、このように発見されづらくする処置をしなかったのは、私の手落ちかもしれない。野良妖怪が遊んで壊してしまう可能性だってあったのだ。
しかもこれ、玉兎以外に向けた人払いの結界が敷いてある。物理的なものではなく、明確にこの場所を意識できない人間は、何となくここに近寄れないようにするタイプのものだ。
零戦に近づくと、玉兎にしか分からない暗号のメモが主脚の上に張ってある。
『団子の代金分』
なるほど、どうやら鈴瑚の仕業のようだ。
食い逃げした分を埋め合わせることを後で思いついたのか、それとも素直に手助けするのが性に合わず借りを先に作ったのか。
何にせよ、団子の料金分の働きはしたといっていいだろう。結界は高度なものだし、作業していないときに天幕を張っておけば、雨も怖くない。
「ひとまず解体しますかね」
袖まくりをした小鈴を私は静止した。
「それもあるけど……ちょっと待って」
改めて私と同じ発音の名を関した機体に向き合う。
主翼の翼端が丸くなく、切り落とされて角ばっているのを見ると、零戦の中でも三二型に分類されるものだ。他にも二一型や五二型が存在するのだが、十の位がエンジンの設計、一の位が機体の設計を表している。
コックピットが開けっ放しになっているのを見ると、不時着したパイロットが脱出してそのまま放棄された、というような想像を掻き立てる。そのコックピットを囲むはずのガラスにはほとんどヒビが入っており、また経年劣化したため曇っている。また機体表面は赤錆びが結構浮いており、主翼と胴体にひとつづつ穴が開いてしまっている。さらに胴体後部にあるアンテナの支柱はへし折れており、その支柱と垂直尾翼の間に張ってあるはずのアンテナ(ワイヤ状)は紛失している。通信は必要ないだろうから、アンテナ周りは取っ払ってしまってもいいかもしれない。
こうして見るとボロボロのようにも感じるが、主翼からへし折れているようなケースに比べれば、かなり保存状態は良好と言っていいだろう。
「で……」
私は撫でるように零戦のカウリング(プロペラが生えている黒い潰れた円柱の部分)の下のあたりに触れる。下のあたりといっても零戦はかなり大きいので、私の胸くらいの高さだ。
ここからが本題だ。精神を集中し、機体表面の位相をずらす。すると私には零戦の中身が透けて見える。
中を走るワイヤーはそこまで錆びていないが、慎重を期すためにも、なるべく少しでも危険そうなものは取り替えてしまおう。エンジン架の防振ゴムも朽ち果てているため、これも取り替えなければならない。一方でエンジン本体の状態は悪くなく、丸ごと作り直す羽目にはならなそうだ。いくつかパーツを取り替えれば恐らく起動することだろう。
「ふと思ったんですけど、どうやってこの機体、この木に囲まれた部分に着陸したんでしょう」
暇を持て余しているらしく、小鈴がつぶやく。私は「見えてない場所には何物でも現れうるものだから」と適当に答える。着陸したというより、恐らく突如としてここに現れたのだろう。正直なところ、私自身幻想郷への入り方はよく分からない。
ただ少なくとも、ここからこの機体を出すときは人手ならぬ妖怪の手が必要になりそうだ。まさか木々をなぎ倒して運ぶわけにもいかないだろう。植物を枯らしながら移動する、月の地上探査車でもあれば別だが。
「んじゃ手筈通りに足から試すよ」
「はいはい!」
私は左主翼の付け根の下に潜り込む。そして肩と腕を使って零戦を支えた。
「ふんっ……!」
私が力を込めて機体を持ち上げると、左側の足と地面の間に隙間ができる。その間に小鈴が左の主脚を、打ち合わせ通りに工具(永遠亭にあった)を使って取り外す。
本来であれば機体をつりさげるか、ジャッキを使って支えながら行う作業だが、ジャッキを用意するのが面倒だったので、妖怪の力業を行使することにした。機体表面が変形しないよう、力を加えているのは丈夫な骨格に当たる部分だ。
「でも今度はジャッキくらい用意してくるかな……」
実はある程度の装置やパーツは自作する術がある。ジャッキくらいなら作れるかもしれない。
「あ、急いだほうがいいですかね」
「ううん。安全第一で」
重いことは重いが、我慢できないほどではない。そもそも零戦は軽く、後部であれば普通の人間の力で持ち上げられるほどだ。それより本番で主脚が下りなくなって、胴体着陸を強行する羽目になる方が怖い。
鈴瑚にもらったデータによれば、主脚の、さらに緩衝装置が最も故障しやすいという。とはいえ地上をストーキングしているもの好きの玉兎の集めたデータが半分を占める、丸のみにするには危うい情報だ。
ちなみに兎はネットかドローンで地上の情報を集めている。そのドローンが地上人に目撃されると、UFO目撃譚の出来上がりというわけだ。
緩衝装置の整備は簡単だ。空気弁の蓋を外して、油が先に出るようであれば問題なし。空気が先に出るようであれば油不足であり、給油が必要となる。これが上手く調整されていないと、主翼が衝撃を吸収できず、着陸と同時に主翼がボッキリ逝く。
同様の工程を、私たちは他の足でも繰り返した。
「現状であとできそうなのは、私たちが二人で乗れるかの確認だね」
そういうや否や、小鈴は私が背負ってきた脚立を持ってきた。今日持ってきた中では一番これが大きい荷物だった。
主翼に足をかけて登るわけにはいかない。錆びていてよく見えないが、主翼には「フムナ」の文字があった。この部分に体重をかけると壊れかねないので、それを避けるための注意書きだ。
「ちょっと待ってねー」
私が先にコックピットに乗り込んだ。思ったより狭くて圧迫感がある。計器の多さは思わずギョッとしてしまうほどだ。座席には肉抜きの穴がたくさん開いている。
座席の右につけられた一番大きいレバーを引こうとするが、固くて動かない。根元をつかんで力をこめるとギギギと音を立てて動き出した。レバーを動かすと座席が少しずつ下がり、もう動かなくなたところで根元にある溝に入れてレバーを固定した。
これは元々パイロットの視界を確保するため、座席を上下に操作できるよう備え付けられたものである。空戦をやるわけではないので、スペースがとれるよう座席を下げたままでも問題あるまい。
「じゃあこっち来て」
「失礼しますっ」
両手を使って彼女を自分の前に降ろしてやる。私が蟹股になって、その間に彼女が座る形だ。
私のあごの下に彼女の頭がある。しかしいい匂いするなこの子。
「どうしました?」
「いやなんでも。座り心地はどう?」
「座れることは座れますけど、かなりギリギリですね……というか、操縦装置に足届きます?」
「うーん、要改良かな。あと座席も後ろに移動させちゃおっか。パラシュートの分もあるし」
蟹股になった分ペダルに足が届かないので、ペダルが外側に来るように改造しなければならない。
座席の後ろには先ほど動かした座席を上下させる装置があるから、それを取っ払って座席を付け直せば十分広くなるだろう。
「パラシュートってむささびみたく降りるための緊急用の道具でしたっけ。私たちにはいらないですよね」
「うん?」
「だってもしものときは鈴仙さんが空中で拾ってくれれば問題ないじゃないですか」
「あーそうだね」
小鈴が「頼りにしてますよ」というような笑顔で、髪をかき上げながら振り返る。
そして適当に相槌を打ったところで気付いた。そういえば自分が飛べなくなっているのだということを。
考えてみればこの子は私が飛べなくなっているという、みっともない現状を知らないのだ。先日の「鈴仙さんと一緒なら、怖くないですし」という発言の意図は、飛べる人と一緒だから問題ないはずだ、という意味だったのだ。頼りにされているのが嬉しくて、無駄に照れていた過去の自分が恥ずかしくなった。
「で、でも必要ないとは思うけど、一応載せても悪いものじゃないんじゃないかな?」
「外来の雑誌で読みましたけど、パラシュートって結構場所も重さも食うらしいですよ。だから当時のパイロットたちも乗せていない人も多かったらしいですし」
「確かに……信頼性あるパラシュートを作るのもかなりの手間だろうしな……」
いやそうじゃなくて。何迎合しようとしているのだ。しかしこれ以上パラシュートを推してしまうと、空が飛べないことがばれてしまう。
逆に言えば私が空を飛べないことを告げれば、彼女も納得するだろう。だが姫や師匠はいざ知らず、地上人に飛べないことを知られるのは私のプライドが許さない。てゐのように馬鹿にするリアクションを取られるのも嫌だが、憐れまれるのは絶対にごめんだ。
何とかそれっぽい理由を考えようと、私は脳をフル回転させた。
「大丈夫です。鈴仙さんのこと、信頼してるんです」
「あ、あたぼうよ……」
彼女の少し照れたような笑顔に、私は冷や汗交じりに歪な笑みで頷くしかなかった。賽は投げられたのだ。
まあ大した問題ではない。てゐとか頼んで、もしものときは空中キャッチしてくれるよう、待機してもらえばいいだけだ。
いざ本番で脱出しなければならなくなったとき、パラシュートが開かないということもあるだろうし、こっちの方がまだ信頼性は高い。むしろ無駄な作業を減らして合理的な選択をしたと言えるだろう。
「操縦桿の方はどうですか?」
思考に没頭しすぎて動きが止まっていたのか、小鈴に作業を促された。
「そうね……」
操縦桿には腕を伸ばせば届くが、本来の距離感ではないし遠い。両手が彼女の脇を通さなければならないのと、そもそも私の腕が成人男性に比べて短いからだ。
「なんとかこのままでも……あっ」
「あっ」
鈍い音がする。操縦桿が根元からへし折れた。
大分錆びが来ていたのだろう。
「……どうせ後で作り直すしね?」
小鈴は「綺麗に折れるものですね」と苦笑した。
◆ ◆ ◆
乾いた土を踏みながら前へ進んでいく。朝早いせいか、唇から漏れる吐息が白い。カエデの木が丸裸になっているせいで、余計に寒く感じる。少し暖かい日が続いていたのだが、急に冬へ逆戻りしてしまった。しかしこの寒い日々が終われば、春が訪れるはずだ。
「しっかし、出迎えの一人もないのかね」
隣を歩くてゐがぼやく。
私たちは妖怪の山に来ていた。河童に会って必要な材料や道具を調達するためだ。天狗たちは人間が自分たちのテリトリーに入ることを好まないため、小鈴は連れてこなかった。本人は行ってみたかったのにと文句を言っていたが。てゐはついてきたのは、何やら別途に河童に用があるかららしい。
「出迎えられてるんじゃない? 遠くから」
「のぞき見とは良い趣味してらっしゃるね」
人間でなくても外部の者が立ち入ることを、妖怪の山は嫌がる。アポを取ったとはいえ、彼らが監視の目を置いていないということは考えづらく、恐らく千里眼の持ち主によって私たちが妙なことをしないよう見張っているのだろう。
私の能力を使えば見つけられるだろうが、いちいち向こうの神経を逆なでるような真似をしなくてもいいだろう。
待ち合わせの場所は、河童が事前に指定してきた。遠くからでも見えるあの大きな一本杉だ。
「それにしても、あんた河童に何の用があるわけ?」
「誰かさんが役立たずになったせいで、色々仕事が増えてるのよ」
「うっ……」
それを言われると弱い。
迷いの竹林を徒歩で抜けようと思うと、それなりの時間がかかる。結果食糧の買い出しなどは、てゐがその役割を担うようになっていった。私の仕事の一部をてゐが肩代わりしているのだ。
彼女の小言に耐えながら進むと、ようやく目的地の一本杉にたどりついた。その下には、水色の合羽に身を包んだ河童がいた。彼女の名は河城にとり。たまに神社の宴会で話す程度の仲だ。
「あれ、歩いてきたの?」
「あー実はね……」
「妖怪の山に入る機会なんてそうそうないから、ちょっと景色を眺めようって話になったのよ」
てゐが無駄なことを喋るのを遮って、あらかじめ用意しておいた言い訳を述べる。にとりは私たちが歩いてきた理由に興味があったわけでなく、挨拶代わりに聞いただけなのだろう。特に追及することもなく、道案内を始めた。
「飛行機修理するんだっけ? 羨ましいねぇ。で、何が必要なんだい?」
「色々。素材は鉄やらジュラルミンやらガラスやら。ジャッキなんかもあるといいんだけど。あと何点か加工をお願いすると思うわ」
人里でもある程度の鉱物は手に入るのだが、アルミニウムなども調達しなければならないため、妖怪の山で一括購入することにした。
何点か加工を、と言ったのは、裏を返せばある程度のパーツは自分で加工できるということである。
月都万象展というある種の万博を開いた時にも展示したのだが、3Dプリンターが永遠亭にはあるのだ。様々な材料を加工できるのだが、月で人気な子供向けのおもちゃであり、ネジなどの小さいものしか作れない。ワイヤーなどは河童に受注しなければならないだろう。
「それじゃ直接恵んでもらった方がいいかな。ついてきてよ」
恵んでもらう、とはどういうことだろうか。意味はわからなかったが、ひとまず彼女についていくしかないだろう。
「あのさー、私は別の用事できてるんだけども」
両手を後頭部に回したてゐが気だるそうに言うと、にとりは「そうそう」と手を叩いた。彼女は近くにあった川に近づき、誰かいるかと呼びかけた。すると一匹の別の河童が浮かんできた。
「あそこの小さい方の兎さんを案内してやってくれる?」
にとりに頼まれた河童はこくりと頷いた。
てゐはその河童と、私はにとりと一本杉をあとにした。私はにとりの後ろについて、また山の中を歩いていく。どこに向かっているのだろうか。
黙っているのも気まずかったので、ちょっと頼み事をしてみることにした。
「私たちの飛行機、今のところ順調なんだけどさ、もし行き詰ったら手伝ってもらってもいいかしら」
「外の世界の機械をいじくらせてくれるなら大歓迎さ。でもお役には立てないかもね」
珍しいな、と思う。河童は自分の技術力に自信を持っているのだから、こういう発言はしないと思っていた。
「何で?」
「うーん……鈴仙たちの手が入ってるからね」
よく意味が分からない。
沈黙で私が意味を理解できていないと察したのだろう。彼女は説明を続けた。
「話すとちっと長くなるんだけどさ。そうだね、魔法と科学の違いって何だと思う?」
最近どこかで聞いたことのあるフレーズだ。師匠が私に飛べなくなった理由の説明をしたとき、脱線しようとした話題だ。
恐らく魔法で火を起こすのと、マッチで擦って火を起こすことの、何が違うのかという話だろう。
「そうね……再現性の有無とか?」
どちらかと言えば、科学の定義に再現性が挙げられるだけなので、魔法との違いの説明としてはちょっと違う気もするが。科学であれば完全に同一の条件であれば、同じ実験結果が出ないとお話にならない。
「割と近い気もするけどね。私は仕組みを完全に共有できるかにあると思ってる。再現性の共有、って言ってもいいけど」
彼女はこう続けた。
科学にしろ魔法にしろ、理論立てて説明を行っているのは同じだ。しかし魔法は個人の価値観に影響される部分が大きく、魔法使いによっては全く違うプロセスで火を起こしていることもある。
私の再現性という言葉を活かすならば、個人において再現性が確立するのが魔法、集団において再現性が確立するのが科学といったところか。
「でもそうすると魔導書ってなんなの?」
仕組みを共有できないのであれば、一人の魔女が、別の魔女の書いた本を読むことに意義があるとは思えない。
「参考にはなるからね。価値観が全く違うってことはあんまりないでしょ? 世界観が重なりあう部分どうしであれば、同じように魔法が使えるってわけ。本を読んで価値観が変わることもあるかもね。逆にどうあがいても参考にならない部分も出てくるんだろうけど」
「うーん……」
「あと魔導書に関しては、自分の考えを整理している部分も大きいんじゃないかな。ま、何にせよこれは私の考えだから」
しかし納得できる部分もある。
共に過ごす家族であれば、価値観も比較的似通ってくる。そうなれば、親が子に魔法を伝授することは、他人に教えるよりは簡単だろう。
「ん? これ何の話だっけ」
「そう、それでね、河童の科学って魔法に近いんだ」
「えーっと、私の科学で修理した飛行機は、にとりの科学とは別の仕組みになってるかもしれないってこと?」
「察しがいいね。そういうことが言いたかったんだ」
河童の科学が魔法に近い、というのはわかる気がする。
彼女たちは外の世界の科学を参考にしているが、そのまま使っているわけではなく、ときにはそれ以上のこともやってのける。
また河童が集団行動を苦手としているのは、このあたりの事情によるのではないだろうか。共同で作業を行う際、異なるプロセスで動く部分があったらたまったものではない。とはいえ河童は共同の社会で暮らしているから、共有できる部分の方が多いだろうが。
「さて、足元に気を付けてね」
魔法談義をしているうちに、いつの間にか洞窟の入り口についていた。にとりが中に入ったのに私も続く。中に入ると何故か風が吹いていた。にとりがランタンをリュックから取り出して照らしたが、それでも洞窟の中は薄暗かった。
そういえば小耳に挟んだことがある。河童は妖怪の山の中に鉱山とその神様を抱えており、そこから機械に使用する素材を手に入れているのだと。
「そうだよ。この洞窟は私たちの神様の祠」
確認してみると、意外と素直ににとりはそう認めた。どうやら隠しているわけではないらしい。そもそも隠しているのなら、わざわざここに案内したりしないか。
しかし祀られている神様の正体は何だろうか。カナヤマビメノカミか、アマツマラか、それともイシコリドメノミコトだろうか。
にとりが立ち止まる。到着したらしい。ランタンの明かりがあるにも関わらず、先はほとんど真っ暗だ。
「どうもお久しぶりです。こちらの兎が、いくつか欲しい鉱物があるようです」
思ったより軽い話しかけ方だな、とも思ったが、幻想郷の他の神様のことを考えるとまだ敬われている方だろう。
洞窟の中に風が吹く。強くなったり弱くなったり、音が高くなったり低くなったりする。
「分かりました。何が欲しいか、だって」
今の風の音は、その神様が喋った声だったのかもしれない。少なくともにとりには言葉に聞こえていたようだ。
私はあらかじめ用意していたリストを、にとりからランタンを借りて読み上げた。すると、また複雑な音で風が吹く。カラリ、と小石が落ちる音がした。
にとりにランタンを渡すと、彼女は数歩歩いて先を照らした。そこには必要な鉱物が揃っていた。最初からあったのか、それとも忽然と現れたのかは分からないが、私は礼を述べた。
「ありがとうございます」
「供物は後程」
河童に代金を後程渡すので、そこから供物が捻出されるのだろう。ある程度ピンはねがあるかもしれないが。
私は持参した大きめのリュックに鉱物を詰めていった。しかし恐ろしく純度が高いように見える。河童か里の鋳物師に製錬や加工をしてもらうつもりだが、下手をすればこのまま使えるのではないだろうか。
鉱物をすべて詰め終わった私たちは、洞窟の奥の暗闇へと頭を垂れた。まだ河童に道具を借りたり、自作できないパーツを発注したりしなければならない。
振り向いて引き返そうとすると、また風が吹いた。
「え? はい。こちらは永遠亭の兎です」
すると風がにとりに応える。注意深く聞いてみたが、私にはやはり言葉には聞こえなかった。
「何て言ってるの?」
「八意とは知らない仲じゃないから、料金割り引いてやるよ、だってさ」
フランクな神様だ。にとりを通しているからそう聞こえるだけかもしれないが。
それにしても師匠は顔が広いようだ。やはり二人が前に会ったのは、何千年前という単位になるのだろうか。
◆ ◆ ◆
腹が減っては戦はできぬという言葉がある(食糧問題に悩まされない月の都ではいまいち馴染みのない言葉なのだが)。飛行機も同様に、燃料が無ければ飛ぶことができない。
零戦に使用される燃料は87オクタンのガソリンである。87という数字は異常燃焼であるノッキングがどのくらい起きにくいかを示しており、この数字が大きいほどノッキングが起きる可能性が低いらしい。
その辺りの細かい話はどうでもいいのだが、ガソリンが必要というのが問題となる。幻想郷に油田は無いからだ。油は基本的に菜種油などが使われている。
必然的にスキマ妖怪などの外の世界とのツテを持っている妖怪に当たらなければならない。しかしこういう連中はコンタクトが取りづらく、かつ借りを作りたくないような奴らが揃っている。スキマ妖怪にいたってはそもそもまだ冬眠中なのだが。
やむなく師匠にガソリンを作れないか相談してみたところ、こういう答えが返ってきた。
『今すぐにでもできるのだけど、その過程で出てくる放射性廃棄物をどうしようかしらね』
あまり頼りたくなくなる返答だった。狭い幻想郷ではよりシャレにならないデメリットがくっついている。
他の手段でどうにかできないかと相談すると、「軽油とかあれば簡単にできる」と師匠はおっしゃった。
何でもクラッキングという手段を用いれば、軽油などからガソリンを作ることができるらしい。具体的な手順としては、軽油を500度近くまで熱して触媒を接触させるらしい。500度近くまで熱したらそもそも燃えつきるか爆発してしまいそうだが、酸素が無い状態であれば燃やさずに延々と加熱できる。かなり難しい技術らしいが、月の天才の手にかかればお茶の子さいさいということだろう。
しかし油田がないのだから、結局軽油だって幻想郷には存在しない。確かにそうだが、実は軽油を有している施設が一つだけ存在する。
「香霖堂に来るのは久しぶりです」
隣を歩く小鈴が言う。
「前に来た時があるの?」
香霖堂には軽油がある。
この古道具屋にはストーブが置いてあり、その燃料を毎年スキマ妖怪から一括で購入していると聞く。今年は暖冬だったので、燃料は恐らく余っていると思われる。
ちなみにストーブに使用されるのは軽油でなく灯油だが、その二つの違いは硫黄の含有量だけである。師匠に灯油でも問題ないか聞いてみたところ、そのくらいは処理できる、と頼もしい返事がもらえた。余談だが外の世界でそれをやると法律違反になるらしい。
「怪しげな木簡を家で見つけたときに、鑑定をお願いしたんです。ウィジャボードってやつだったんですけど」
「あのこっくりさんみたいなやつね」
そうこうしている間に香霖堂の目の前まで来ていた。標識やら変てこな銅像やらに埋もれているが、不思議とゴミ屋敷という印象は受けない。一定の趣向を元に集められているせいだろうか。
ドアをノックする。しかし何も返答がない。
「勝手に入っちゃいましょうか」
小鈴がドアを開ける。ドアに鈴がついているのか、カランカランと小気味いい音が鳴る。室内は薄暗く、外と同じように家電やシーサー像などが雑多に並べられていた。
それにしても何というかこの子、礼儀知らずというか、怖いもの知らずというか。お札びっしりの悪霊の封印とか解いてしまうのは、恐らく彼女のようなタイプの人間だろう。
「お邪魔しまーす……」
遠慮がちにそう言うと、安楽椅子に揺られていた男が顔を上げた。この銀髪に眼鏡をかけた青年こそが香霖堂の店主であり、名を森近霖之助という。
「いやすまないね、読書に耽っていて気付かなかったよ。何かお探しのものが?」
彼は低い声で定型文を口にしたが、安楽椅子に座ったままだ。客の来訪に気付かないところといい、いまいち商売する気概が感じられない。
私たちはカウンターまで進むと、ストーブに使っている燃料が欲しいことを告げた。
「ああ、構わないよ。今年の冬は暖かかったから余ってしまっているんだ。来年まで置いておくのも、場所を取るからね」
私と小鈴は顔を見合わせた。どうやら商談はスムーズにいきそうだ。
店主が算盤をはじく。
「そうだね……あそこにあるの全部でこれくらいかな」
「……高くないですか?」
小鈴がそう言うのも無理はない。処分に困っていたから助かるといった割に、恐らく外の世界よりもよっぽど高い値段だった。
「いやぁ、実は君たちが飛行機を飛ばすと小耳に挟んでいてね。燃料が必要になるんだろう?」
「……足元を見ていると?」
「需要と供給に見合う金額を設定したと言って欲しいね。高くて嫌なら八雲の大妖にでも頼むといい」
「こ、この……!」
店主がカウンターの椅子に腰かけ、にやりと笑った。完全にこちらの弱みに付け込んでいる。スキマ妖怪がこの時期冬眠しているのは彼も知っているはずなのだ。しかし現状灯油を有しているのは彼しかいない。
小鈴は頭を抱えていた。
「すいません、魔理沙さんに話しちゃいました……」
多分、魔理沙から香霖堂に話がいったと推察したのだろう。飛行機に関して、私も隠しているわけではないが、あまり周りには話してないので、十中八九そのルートだろう。そもそもこの店主が世間話をする相手はそう多くない。私も人のことは言えないが。
どうしたものだろう。永遠亭に追加のお金を取りに帰れば、何とか払えないことはないのだが、足元を見られて物を買わされるのは癪だった。
「ゆっくり考えるといい。ここの他に売ってくれるところはないと思うがね」
したり顔で店主は眼鏡をくいっとかけなおした。全身からにじみ出る「久々に商売人らしいことをしてやったぞ」という満足感が単純にムカつく。
「ちょっとタイムください」
少し店主から離れてこそこそと背を向ける。小鈴が耳打ちでいくつか提案をし、私もそれを受け入れた。
「で、どうするかい?」
相変わらず店主は不遜な感じだ。小鈴はカウンターに乗り出して話し始めた。
「対価は本当にお金でいいんですか?」
「……そりゃこれでも商売人だからね」
彼は小鈴の意図を捉えかねたようだが、余裕を保持する姿勢を見せた。
「店主さんが一番欲しいものは、お金なのかなって思いまして」
あくまで相手に考えさせるような言葉を小鈴は選んだ。
「何が言いたいのかな」
「いえ、飛行機の方には興味がおありになるんじゃないかと」
ピクリ、と彼の指が動く。彼が幻想郷でも屈指の外の世界マニアであることは、周知の事実だ。
「代金の代わりに、飛行機を解剖している状態の見学なんかはいかがでしょう?」
「……おいおい。流石にそれは僕に不利すぎないかい? 見せるだけなんて、ぼったくりじゃないか」
彼はフェアな条件でないと反論したが、興味を抱いているのは明らかだった。急に足を組み替えるなど動きがそわそわしているし、何より眼鏡の奥の目が輝いている。
「うーん。ではどういう条件ならいいでしょうか」
「そうだね……その飛行機が完成して飛行した後、僕に所有権を譲ってくれる、とか」
「いやー、流石にそれはちょっと……」
実はこの条件でも私はまったく構わない。小鈴の方はどうか知らないが、私は一度飛ぶ感覚が掴めれば十分だからだ。むしろ図体の大きい飛行機を保管しておくのは面倒だ。
ついでに今の会話は、最初に小さすぎる対価を示して相場感覚を乱した後、本命を通す使い古された手法だ。しかも今回は、のこのこと相手から本命を言い出したパターンの上、それを一度断っている。
まあ実際彼にとっては灯油程度、飛行機と引き換えになるなら安いものだろうが、私たちからもっと良い対価を引きずり出せたかもしれない。
小鈴は余裕を見せるためなのか、カウンターに腰かけて髪をかきあげながら話を続けた。
「それに何かの手違いであの飛行機が墜落してしまえば、私たちもただでは済まない上、飛行機が壊れてお渡しできませんし……それでは店主さんに申し訳が立ちません。鈴仙さん、灯油はスキマ妖怪が冬眠から目覚めるのを待つでもいいですか?」
「そうね……それも仕方ないかな」
「ぼ、僕は壊れたものでも十分だよ。それだけでも興味深いしね」
「本当ですか? じゃあ何らかの事情でお渡しすることが物理的に不可能になったら申し訳ありませんってことで。あ、解体された状態の見学もしますか?」
「ああ、よろしく頼むよ。契約成立ってことでいいかい?」
「はい!」
そもそも店主の方が先払いな時点でフェアではないのだが、さらり酷い条件を付加している。
例えば家を大工に頼んだ際、その大工の過失で家が建てられなくなったとしても、依頼は達成できなかったけど代金はいただきますね、と言っているようなものだ。外の世界の法律では確か、飛行機のようなものであれば、私たちに過失があるときはもちろん、どちらの過失でなかったとしても店主は代金を渡さなくていいはずだ。
しかし私たちもわざとフライト後に飛行機を壊すような真似をするつもりはない。小鈴としては万が一の保険をかけたのだろう。飛行機と灯油を交換するのだ。これくらい許されるだろう。
彼は落ち着かない様子で安楽椅子から立ち上がる。飛行機が手に入ることになったのが、よっぽど嬉しいようだ。
「じゃあ倉庫から灯油を持ってこよう」
「よろしくお願いします」
小鈴は振り向いて、腰のあたりで小さく親指を立てた。
傍から見れば可愛らしい子供の笑みだが、私には悪女の卵のようにも見えた。呆れるほど強かな子だ。
◆ ◆ ◆
地面に敷かれたシートの上に、零戦がバラバラになっている。中身を修理するため、一度分解したのだ。
零戦は元々整備のためにエンジン部、主翼、尾部の三分割ができるようになっており、私たちもこれに倣った。また主翼にできた穴はジュラルミンの板を張って塞いだ。飛行機の骨格になっている部分には超々ジュラルミンというまた別の材料が使われているのだが、幸いにその辺りは修理を必要としていなかった。
一度バラしてしまったため完成からは程遠く見えるが、実際の作業工程は順調に進んでいた。
「遅れてすいません」
人の足音がしたあと、天幕をめくって小鈴が入ってきた。結界があるので場所を明確に認識している小鈴か鈴瑚しか入ってこれないので、誰だろうと身構える必要はない。
作業時間のうち、半分程度は私一人でやっている。そもそも彼女には店番があるのだが、どうにも滑走路の確保のために奔走しているようだ。
「それは構わないけど、一人で来るなんて危ないじゃない」
ここは魔法の森ほど危険ではないにしろ、妖怪がいないわけではない。昼とはいえ、小さい子が里の外を歩くのは感心しない。
「魔理沙さんに途中まで送ってもらいましたし、霊夢さんにも魔よけのお札をもらってますから」
「ならいいけど」
魔理沙にしろ霊夢にしろ、この子に目をかけてやっているようだ。危なっかしいので、見張っていなければと不安になる気持ちはよく分かる。
「それじゃ外装のサビ落としやってもらおうかな」
「はい!」
零戦の外板はジュラルミンで出来ており、ジュラルミンはアルミニウムを中心に作られた合金だ。アルミニウムは表面が酸化することで、芯まで錆びることを防げる特性を持っている。
つまり表面の錆びを落とせば、綺麗な外板になるというわけだ。アルミのサビは本来であれば特殊な薬品で落とすのだが、古い金属ゆえ何が起こるか分からないため、サンドペーパーを使って錆を落としている。
一方の私はエンジンを修理していた。ダメになったパーツは3Dプリンターで作ったパーツと取り替え、使えそうなパーツは掃除して綺麗にしている。
仕組みを把握していない小鈴に、こっちの作業は手伝わせられないだろう。
「っと、その前に水筒をどうぞ」
「あら。ありがとう」
小鈴は竹で出来た水筒を差し出した。私はそれを受け取り、喉を潤した。そんな体を動かす作業をしていたわけではないが、ちょっと喉が渇いていたらしく美味しかった。小鈴も一緒に水筒に口をつける。
「紙やすりはえっと……」
小鈴がサンドペーパーを探して、道具がごちゃごちゃしている中を四つん這いになって探す。四角い小物入れの中にあることを私は告げ、作業に戻った。彼女は鼻歌交じりに、零戦の表面を磨き始めた。
しかしこうして見ていると、何処にでもいる子供にしか見えない。以前の小鈴に対する認識は、人里の騒がしい子供の内の一人という、風景の一部でしかなかった。しかし一緒に飛行機を修理していく中で、時には大人も舌を巻くような行動に出る娘のだと思い知った。
そんな彼女が、何故飛行機に対してこれほどまでの執着を見せたのだろうか。
「そういえばさ、何で小鈴ちゃんはこれを飛ばしてみようと思ったの?」
作業を続けながら私は聞いてみることにした。
「誰だってこれを見つけたら、そう考えると思うんじゃないですか?」
「そうだけど……何となく、それ以上の情熱があるんじゃないかなって、気になったの。あんまりこういうのに打ち込むタイプでもないと思ったし……勝手な推測かな」
小鈴はちょっと目を丸くして、固まった。
「あれ。そんな変なこと言った私?」
「いえ……正直、鈴仙さんは、そういう風に人に興味を持ったり、洞察したりしない方だと思っていたので」
「うぐっ」
今かなり失礼なことを言っていないだろうか。それが顔に出たのか、小鈴は「不快に感じたらごめんなさい」と両手を顔の前で合わせて謝った。
しかし私自身、あまり他人に興味がないことは自覚があった。かつて閻魔に自分勝手すぎると説教を受けた時がある。自分勝手ということは、自分以外の人の顔が見えていない、無関心だからそのように行動できるということなのだろう。
「鈴仙さんの言う通りです。理由はあります」
小鈴はやすりをかけ始めた。私もパーツの清掃を続けながら、彼女の話に耳を傾けることにした。
「寺小屋に通うまでの道に、三階建ての大きな偉い人の屋敷があったんです」
「うん」
「その屋上から見た景色はどんなんだろうって、いつも思ってました。いつもその目の前を通って寺小屋に通ってたのに、そこから見える景色を知らないの、ちょっと悔しいじゃないですか」
「うん?」
「それで、私からすると、鈴仙さんたちはその屋上の上にいるんです」
「へっ?」
話がどこに着地するのか見えない。屋上の上とはどういう意味だろう。
「何て言ったらいいかわからないんですけど、弾幕ごっこをしている人たち、とでも言えばいいんでしょうか」
「……段々言いたいことわかってきたかも」
誰しもが弾幕ごっこをできるわけではない。確かにそこには一般人と異能者という境目がある。
「ああいう人たちみたいになっちゃ駄目よ、とか、一緒に遊んじゃ駄目よ、とか言う大人もいるんですけど、憧れる子供は多いんです。それで、私は霊夢さんや魔理沙さんと同じ視線に立ってみたくって」
「だから飛行機を自分で作って、自分で飛んでみようと思ったと」
「はい。といっても、ほとんど鈴仙さんに頼ってますけど」
彼女は頬をかきながら、はにかんだ。
私は、彼女の気持ちがあまり分からなかった。いや、その言い方は正確ではない。飛べない人はそういう風に思うだなんて、考えもしなかったから、虚を突かれたような心地になっているのだ。
「そうか……そういうものなのかな」
人によってはそこからどんな景色が見えるかなんて、気に留める人の方が少ない。彼女たちのような幻想少女と私は違うから、で割り切れてしまうだろう。
でも、小鈴は違った。霊夢や魔理沙といった異能者と距離が近かったせいだろうか。彼女たちの同じ高さに立ってみたいと思ってしまったのだ。
「元々、日常の枠に納まらないものが好きなんですよ、私」
「そーね。好奇心が服を着て歩いている感じだもの」
私が呆れ交じりに言うと、彼女は振り返らないままに、喉を鳴らして笑った。
「よく阿求にも言われます。好奇心は猫を殺すものだとも」
それから「阿求を屋敷から連れ出して、友達になろうとしたのも、最初はそういう邪な気持ちがあったかもしれません」と続けた。
ただ、今の二人はそれだけの関係ではないのだろうな、と友人のことを語る優しげな声から感じ取れた。
そしてふと連想した。二階の部屋に住んでいる病弱な箱入り娘を、木に登って連れ出す男の子のように、小鈴が阿求を外に連れ出して遊ぶイメージを。
「色々危なっかしいんだから、気をつけなさいよね」
「これでも気を付けてるつもりなんですけどねー」
駄目そうだ。心のこもっていない声だ。
その内妙な霊に取りつかれるだとか、妖怪の尾を踏み抜きそうだ。
ただ話に聞く限りでは霊夢や魔理沙も彼女のことを気にかけているようだし、小鈴の親御さんもやや放任気味とはいえ、ちゃんと娘を見守っているようだ。
誰かに気にされているうちは問題ない。魔に魅入られるのは、大抵の場合、誰からも見放されたものたちだからだ。
「鈴仙さんの方は何で飛行機に興味を持ったんですか?」
「えっ私? 私は、えと、その……」
急に話題を振られて、私は狼狽えてしまった。空が飛べなくなったから、とは口が裂けても言えない。
「この機上から見えるのが、どんな景色か気になったからかな」
焦って口を突いた言い訳は、明らかに小鈴の話を聞いて思いついたものだった。しかしその一方で、それが自分の本心のように思えた。
「どうしてですか?」
「これも戦争に使われたもので、兵士が乗っていたものでしょう? 私も……いや、とにかく、彼らの見ていたのと同じ景色が見てみたかったの」
危うく自分が脱走兵であることまでペラペラ喋りそうになったが、すんでのところでそれを飲み込んだ。それこそみっともなくて、気軽に話せる話じゃない。
私が月を出てきた理由は一つではない。エリートゆえに周りからちょっと孤立していて、上司のしごきが辛くて、ここじゃないどこかに行ってしまいたい気持ちを欝々と抱えていたのが、地上と戦争になるという話がきっかけとなって溢れてしまったというところだ。そんなときにたまたま地上に降りる方法を手に入れて、勢いに身を任せてしまった。
動機の全体の一部ではあるが、戦争に怯えて逃げ出したのも確かだ。鶏を絞め殺したことさえないような、死を穢れと忌み嫌う私にとって、人殺しに対する抵抗は大きかった。
無論、他の兎も似たようなものだろう。しかし私は周りより臆病で、想像力が豊かで、仲間意識が希薄だった。
そんな自分を擁護するように、戦争になると聞いて「地上人なんて皆ぶっ倒してやる」と意気込む周りを、盲目的で戦争がどんなものか理解していない、と心中で罵っていた。
でも私だって戦争がどんなものか、真には知らなかったはずだ。聞きかじる知識だけならどうとでも言えるのだ。
同じ機体で飛んでみて、実際の兵士たちが見たのと同じ景色に身を浸せば、少しはそれがどんなものなのか理解する助けになるのではないか。そういう考えが零戦を修理する動機になっているかもしれない。
「そんなところよ」
とっさに思いついた言い訳だったが、心のどこかでそう思っていたのも確かで、百パーセント嘘というわけでもない。人と会話するうちに自分の深層心理が引き出されることもあると聞くし、これも私の本音の一つなのだろう。
ため息をつきながら顔を上げると、小鈴がキラキラした瞳でこちらを見つめていた。
「鈴仙さん、今すごくカッコよかったです……何か陰のある美人みたいな顔してました……」
「……さいですか」
意図するところは伝わらなかったようだが、何となくごまかせたらしい。どうせ本命の理由は別のところにあるわけだし、理解されてもされなくてもどっちでもいい。
それから彼女は笑って言った。
「鈴仙さんも私も、ちょっと似た理由でしたね」
言われてみれば確かにそうだ。
魔理沙や霊夢と同じ視点に立ちたい小鈴と、昔の兵士と同じ視点に立ってみたい私。私の精神構造も、彼女たちとそんな変わらないものなのかもしれない。
そんなことを考えながら、私はエンジンの軸にプロペラを固定する最後のネジを締めた。
「そうかもね。さて、エンジンはひとまず完成よ」
「試運転ですか?」
小鈴が嬉しそうに聞き、私は頷いた。二人で手際よく台座にエンジンを固定する。
そして私は、直径三メートルほどもあるプロペラを、手でゆっくり押して回した。エンジンにガソリンを行きわたらせるためである。
プロペラが本格的に回り始めると危ないので、小鈴には少し離れた位置に行ってもらった。
「えーっと……」
エンジンの後ろ下についている慣性起動機と呼ばれるパーツの穴に、クランク棒というハンドル(古典的な鉛筆削りのハンドルに似た形状のもの)を差し込む。
かっちりとはまったのを確認して、私はそれを回し始めた。回し始めたといっても最初は重くてゆっくりとしか動かない。しかし自転車が漕いでいるうちに軽くなっていくのと同じように、少しずつスムーズに動くようになっていく。それに並行して慣性起動機が回転する、何かがこすれるような甲高い、それでいて小気味良い音が大きくなっていく。
ある程度まで加速したところで、私はクランク棒を外した。私が回すのをやめても、慣性起動機はその名の通り高速で回転し続ける。
私はクラッチを繋げた。
するとババババ、という轟音と共に、プロペラが回り始める。慣性起動機の回転が、プロペラの軸に伝わり、エンジンが起動したのだ。
振り向くと小鈴が興奮して何かを叫んでいる。エンジンの音が大きすぎて内容はよく聞こえなかったが、表情で喜びを伝えているのだとわかった。
◆ ◆ ◆
空は山の向こうまで青く、雲はとぎれとぎれに漂っている程度だ。こういう天気の日は、いつもより空が高いように感じる。飛行機を飛ばすには絶好の日和だろう。
最終調整と運搬にやや手間取ったが、何とか今日中にフライトにこぎつけることができた。私と小鈴の後ろに、修理を終えた零戦が佇んでいる。にとりがざっと異常がないかチェックしていてくれているところだ。
なお運搬には鈴瑚や清蘭に協力してもらって森から運び出し、道路まで出した後は牛を用いて運んだ。当時の零戦も一部の工場では運搬に牛を用いたと資料にあり、由緒正しい伝統的な手法のようである。
「どうしました?」
小鈴が私の顔をのぞきこむ。
目の前の滑走路を見て、呆けた顔をしていたからだろう。
「……まさか人里を丸々滑走路にするとはねぇ」
今、私たちの目の前には、人里の一番大きな通りが伸びている。いつもなら人でごった返しているが、今日は人ひとりおらず、はるか先まで見通すことができる。
いなくなった分の人たちは、二階の窓や屋根の上から、私たちのテストフライトを今か今かと待ち受けており、がやがやと騒ぐ声が聞こえる。中には酒を飲んで宴会を始めている飲んだくれもいる。
最初に大通りを滑走路に使うと聞いたときは、さしもの私も腰を抜かした。
しかし人里の大通りは、確かに滑走路たりえる条件を満たしていた。長年人の足で踏み鳴らされているから、地面がそれなりに舗装されている。機体の幅の約十二メートルより大きいという条件も満たしており、千二百メートルの長さという条件も実は足りないのだがとある手法で克服している。幅十二メートル以上もあったは驚きだが、普段はそこかしこで売り歩きの人たちが仕事に励んでいるのだから、そのくらいはあって当然だ。
「許可とるの、結構苦労したんじゃない?」
滑走路上から石などのゴミを取り除く作業時間も含めて、その間大通りでは行商座商問わず、商売ができなくなってしまうのだ。たくさんの人を説得させなければならない。
「そう思ってたんですけどね……案外みなさんノリノリで、私の手を離れて企画が転がってしまった感じです。多分ある種のお祭りみたいなものだと思ってるみたいで」
「みんなこういうの好きだからなぁ……」
先の宗教戦争も、里の人たちからすれば賭けの対象扱いだった。あの一件からほとぼりが冷めて暇を持て余したころ、丁度いい娯楽が転がり込んできた、という感じだろう。
「飛行機に対する関心が高まるよう、それとなくお得意さんを通して根回し的なこともしてたんですが、何だかちょっと馬鹿らしく思えてきましたよ」
小娘が外の世界の機械を動かすなんて失敗するに決まってる、なんて反対意見を見越して少し嘘もついたらしい。本当はちょっと協力してもらっただけの里の鋳物師さんの監視の下、修理を行ったと。
最終的には里を仕切る寄合の手によって管轄されることになったらしい。日取りの告知や通行止めなんかもやってもらったそうだが、向こうも向こうで飛行機まんじゅうや零戦版画などの限定グッズの販売もしているそうで、無償で動いたわけでもなさそうだ。
「鈴仙」
屋根の上から呼びかけられた。てゐだ。
「準備は平気だよ」
「……助かるわ」
てゐにはもし、私たちが空中で機外に脱出することになった際、助けてもらうよう頼んである。他にも飛行が可能な妖怪兎にも待機してもらっている。
それじゃ頑張ってね、と言葉を残して彼女はその場を離れた。師匠は万が一に備えて、救急医療の用意をしている。結局、周りの力に頼ってしまったが、悪い気はしない。
「何の準備ですか?」
「えっ、いや、天狗の子も準備できたって」
私は言葉の意味をすり替えた。天狗の準備が済んでいるというのは本当だ。先ほど確認した。
揚力を得るためには速度が必要だが、その速度は対地速度だけではなく風も換算される。逆風の中を進む場合、その風の速度と機体の進む速度を足した速度から揚力が得られる。
例えば離陸するのに時速130キロが必要な場合、時速30キロの向かい風が吹いていれば、飛行機は時速100キロあれば離陸できる。つまり風下から走り出せば、離陸に必要な距離は短くなり有利なのである。
その風を天候に頼らず確保するため、にとりを通して天狗に協力を仰いだのだ。フライト後の独占取材という条件の下、姫海棠はたてという子が力を貸してくれた。私はそれなりに面識のある射命丸文という天狗に話がいくと思ったのだが、にとりいわく「目をかけてやりたくなる子で、色々経験させてやりたい」とのこと。
この大通りの先に天狗うちわで風を起こしている彼女がいるのだろう。人差し指を舐めてから立てて確認すると、風は確かに向こうから吹いてきている。
「一通り見たけど、これなら飛べると思う。勘だけど」
零戦の下からにとりが這い出てくる。どうやらチェックは済んだようだ。
前述のとおり、彼女の科学は魔法に近いので、このチェックにどれほど意味があるかは分からない。それでも、気休め程度にはなる。
「河童のお墨付きがもらえると嬉しいわ」
そして私たちは零戦のコックピットに座った。私の前に小鈴が座る。
窓は閉じない。離陸しきるまで基本的には窓は開けっぱなしにしておくものである。
両側の屋根からたくさんの人たちが期待してるのだと思うと、失敗したらどうしよう、と緊張してくる。まっすぐ進めなければ、大通り沿いの店に突っ込むこともありうるのだ。
「大丈夫ですよ。二人で作ったんですから」
「……あたぼうよ。それじゃあ、フライト開始」
緊張したのが見透かされてしまったようだ。シュミレーションも十二分に重ねた。問題は何もない。
深呼吸して、必要な手順を思い浮かべる。まずは電源を入れて、計器が正常かどうか確かめる。針が振れたのを見て、一旦電源を切った。
後ろを振り向いてから操縦桿を前に倒し、尾翼の昇降舵が動くを確認する。同様に左右に倒して主翼の補助翼を、ペダルを踏んで尾翼の方向舵が動くかを確認する。
「にとり!」
「はいよ」
打ち合わせ通りに、にとりがプロペラを手で回して、エンジンにガソリンを行きわたらせる。一度電源を切ったのは、この時に誤ってプロペラが動いて彼女を傷つけることがないようにするためだ。
にとりが離れたのを確認してから、再び電源を入れる。それから右のレバーを操作して、エンジンの熱を逃がすカウルフラップを開いた。
それからクランク棒をにとりが零戦に突っ込んで、エンジンの一部である慣性起動機を回す。一定の回転数に到達したところで、彼女はクランク棒を外して、こう言った。
「グッドラック」
私もグッドラックと言って親指を立てた。にとりが機体から離れるのを確認する。
「コンタクト」
慣性起動機とプロペラの軸を繋ぐ。プロペラが回りはじめると、エンジンの脈動が体を揺らす。轟音で屋根の上の野次馬の声が聞こえなくなったが、挙動で何となく歓声が上がっているのが分かる。
それから小鈴に操縦桿を手前に倒してもらって、いつでも上昇できるよう昇降舵を動かした。その間に私はエンジンがかからないと動かない、先ほど確認できなかった計器が作動しているか、調子のいい数字かを見る。スロットルを調整し、エンジンの回転数を一定に保つ。
段々と零戦が動き始めた。最初は歩いた方が早いと思うほどだったが、どんどん早くなっていく。慌てて私は操縦桿に手を伸ばした。見慣れた店を次々と通り過ぎる。窓が開けっ放しのせいで、吹き荒れる風が肌に突き刺さる。
「う」
声を出したのは小鈴か私だったのか。座席に自分の体が押さえつけられる。エンジンの振動とは別に、地面と接する車輪から伝わってきていた振動はなくなる。離陸だ。
屋根の上で歓声をあげる見物人たちを超えると、眼下に人里が広がっていく。飛行機が空を飛ぶ理由は判明していない、というのは外の世界で広まっているデマだが、今ならその気持ちもわかる。自分の整備した翼は何の変哲もないジュラルミンの板で、それから揚力が生まれているとは実感として理解しがたい。鳥の羽ばたきの方がまだしっくりくる。
私は操縦席右側の脚切替弁を切り替え、油圧によって脚を胴体内部に収納する。ついでに窓のロックを外し、開いていた窓を閉じた。
高度はさらに上がっていき、地上にいる人々がどんどん小さくなっていく。気が付けば山の高さも越え、私たちより高いものは雲だけになっていた。
「耳に気を付けて」
相手に聞こえやすいよう、私の声は自然と大きくなる。エンジンの爆音を前にして小鈴に聞こえるか不安だったが、どうやら伝わったらしく、私の下にある彼女の頭が頷いた。エンジンがいくらうるさくても、密着したこの距離なら、会話に差し支えはないようだ。
彼女は事前に教えておいたとおりに鼻をつまんだ。そうしないと気圧の変化のせいで高山病のように頭痛が起こるのだ。私は妖怪だからさほど心配はないが。
もう十分な高度だろう。操縦桿を前に倒して、機体を水平姿勢に持っていく。下が見えないな、と思って、それから操縦桿を右斜め後ろに倒し、右のフットレバーを踏んで旋回した。上昇時と同じように、座席に体が沈む。
「鈴仙さん――すごいです! 人里って、あんな小さくて……」
エンジンの音の中、小鈴が驚嘆の声を上げる。
私にとってはそう珍しい景色ではないが、空を飛ぶのが久々のせいなのか、機上にいるせいなのか、私もいつもより爽快な気分になる。地上での悩みなど、ここから見下ろせば些末事だ。
気が付けば雲の上に私たちはいた。
「体調は?」
「平気です。そんなことより、雲を上から見たのは初めてです。乗れそうですね!」
言われてみるとそんな気もした。雲が水蒸気と塵から構成されていると知っていても、これを見たら雲の上に宮殿とかがあってもおかしくないなと思えてしまう。
それから私たちはときたま旋回を挟みながら飛び続けた。
「実際空を飛んでみて、どう?」
小鈴が空を飛びたかったのは、霊夢たちに並んでみたいとの思いからだった。小鈴は顔を上に向けて、私の目を見ていった。
「楽しいです! 普段暮らしている里が、何だか別のものに見えたり、周りに遮るものが何もなかったり」
それから彼女は、顔を横に向けて、空を眺めた。
「でも、これが当たり前なのも、そんなおかしなことじゃないかもしれないなって」
「……そっか」
空を飛べて当たり前。魔理沙はともかく、少なくとも霊夢はそう思っているはずだ。
だからといってその事実が人間の精神構造を根幹から変えてしまうわけではない。彼女らは空を飛べるだけの人間で、ただの人間とそう違いはない。小鈴はその事実に気付いたのだろう。
完璧超人だと思っている師匠が、人並みにへそを曲げることもあると気付いたとき、私ははっとなる。いつも通っていたはずの道が、全く別物の風景に見えたときの気分。彼女もそれと同じような気持ちなのではないだろうか。
傾けていた機体を、水平に戻す。すると、小鈴がポツリと漏らした。
「私、鈴仙さんに言わなくちゃいけないことが……」
「何て言った?」
「……いえ、降りてから話します」
「そう」
どうやら話したいことがあるようだが、深く追及はしなかった。そういう気分じゃなかったからだ。それに、長くなるような話なら、地上に降りて落ち着いてからの方がいいだろう。
今は全てから解放された心地だ。このフライトの目的がもう一度飛べるようになるため、ということさえ忘れていた。
当たり前だと思っていた、空を飛ぶという行為がこれほど楽しいとは。目の前には何の障害物もなく、どこまでもいけるような、全能感のようなものを抱いている。
そこまで考えて気付いた。本当に囲いは何もなかっただろうか。
「ねえ小鈴ちゃん。もし私たちが幻想郷と外を隔てる結界にぶち当たったら……」
ガコン、という音がして操縦桿がひとりでに動く。そして機体が百八十度回転した。安全ベルトが肩に食い込み、頭に血が上る。
「うわ、背面飛行というやつですか。鈴仙さんも中々度胸ありますね」
「違……私は何も動かしてないって!」
操縦桿を倒そうとしても、重すぎてほとんど動かない。零戦は高速時に舵の効きが悪くなると聞いていたがそれか。いや、それでは背面飛行に勝手に移ったのは何故だ。
何かがはじけるような、不吉な金属音がする。それもいくつもだ。
「いやいやいや」
頼むからやめてくれ、と嫌な予感に抗おうとしたが、無駄なあがきだった。
窓が外れた。
「げえっ」
さっきの音は、窓を固定するネジが外れる音だったのだ。窓が後方に飛んでいく。
窓の稼働する部分、つまり私たちの頭上(さかさまになった今は下)の窓がきれいさっぱり吹き飛んで、オープンカーのようになる。風がコックピットの中を吹き荒れる。
「随分風通しが良くなりましたねぇ……」
「言ってる場合か!」
次の瞬間、安全ベルトが勝手に外れる。それが意味するところは一つ。落下だ。
それと同時に零戦は上昇飛行に移り、私たちは振り落とされる。小鈴と私は零戦の外へと放り出された。
「んのっ―――」
私は咄嗟に右手で零戦の窓枠をつかみ、小鈴を抱えた。
背面飛行する零戦に、吊られる形となる。私の右腕には、二人分の命の重さがのしかかっていた。
「鈴仙、さん」
「大丈夫、離さないから!」
怯える小鈴をなだめながら、私は首を振っててゐを探す。こういうときに備えて近くにいるはずだ。
そのはずなのだ。だが周囲には誰もおらず、空が広がっているだけだ。何故だ。何故誰もいない。肝心な時に何をやっているんだ、あいつは。動揺で一瞬脳がぐしゃぐしゃになった瞬間、零戦は機体を大きく振った。
「やだ」
その遠心力で私の零戦をつかんでいた指が滑り落ちた。
胃の浮く厭な浮遊感がしたかと思うと、私たちは重力に引かれていく。空気の中を突っ切って落ちている。墜落死。その一言が脳裏をよぎる。
振り飛ばされた勢いで私たちは半回転し、頭から落ちる格好になっていた。私は小鈴を両手で抱える。私が下敷きになれば最悪彼女だけでも、否、無理だ。この高度なら二人まとめて肉塊が出来上がるだけだ。小さかった人里や森が、どんどん大きくなっていく。
脳の一部が麻痺したような状態で、私は離陸時の、体がシートにおしつけられた感触を思い出そうとした。顔を風が横切る感触を思い出そうとした。
飛べる。飛べる飛べる飛べる飛べる―――――
「―――――鈴仙さん」
気が付くと、目の前は真っ暗だった。いつのまにか目をつぶっていたのだ。必死に意識を集中しようとしたからだろう。
まぶたの向こうにいるのは、獄卒長か閻魔か。そう思いながら目を開くと、上に地面、下に空があった。
「そろそろ頭に血が上ってきたなぁ、なんて」
「あ、ごめん」
私は小鈴を抱えたまま、くるりと体を反転させて、逆転していた視界を元に戻した。いつまでも落下時と同じ姿勢を保っておく義理はない。
「行っちゃいましたね」
零戦はもう、米粒ほど大きさになるほど遠くへ行っていた。恐らくもう結界の外にいるのだろう。
幻想郷の外にいるべきものと内にいるべきものが一緒に結界にぶち当たったとき、結界が整合性を取ろうとした結果、私たちは振り落とされたのだろう。
「うん」
冷たい風が髪を巻き上げる。両手に抱えた小鈴の体温を感じる。眼下には山々が広がっていた。
私は今、空を飛んでいた。
◆ ◆ ◆
私たちはひとまず手近だった博麗神社の屋根の上に着地した。人の家の上に勝手に登るのは失礼な気もしたが、生還と復活を遂げた私はいつもより気が大きくなっていた。いつも宴会のときは誰かしら登ってる気もするし、見つかったら謝ればいいだろう。
整備に手間どったせいもあるだろう。日は傾きかけていた。二人で並んで、西に向かって座る。
「いい眺めですね」
「そうね」
博麗神社からは幻想郷全体が眺望できると聞いていたが、確かにその通りだ。
「そういえばさっき、何を言いかけたの?」
零戦が落ちる前、小鈴は何か話したいことがあるようだった。あれは何を言おうとしたのか。
「二つあります。一つ目は感謝です。今回貴重な体験ができたのは鈴仙さんのお陰です。結局修理も操縦もほとんど鈴仙さん任せでしたし」
「そんなことないでしょ。滑走路は私じゃどうしようもなかったわ」
一日大通りを封鎖するよう里の人たちに働きかけるなんて、私にはとてもじゃないができない。
悔しいが、彼女は私にないものを持っていた。
「で、二つ目は?」
「それは、謝罪です」
小鈴が目線を逸らしながら髪をかき上げた。どう喋ったらいいのか悩んでいるようだ。
沈黙は僅かだったが、その間に後ろから聞きなれた声が横入りする。
「そのあたりは私から話そうかな」
「てゐ!」
肩越しに振り返って、その顔を見てから思い出した。この詐欺兎が、救出のために待機を頼んだのに、バックレたことを。
私は衝動的に立ち上がって、彼女を問い詰めた。
「あんたねぇ! 何であの場に……」
「いたけど」
「は?」
私たちが零戦から落ちかけたとき、周りを見回しても誰もいなかった。隠れる場所はない空の上だ。一応雲に隠れることは可能だが、私たちが宙づりになったとき近くに雲はなかった。
頭を冷やしてよく見ると、てゐはどこかで見たことのある水色の合羽を羽織っていた。
「こゆこと」
てゐが手に持っていたステレオタイプな形をしたスイッチを押す。
すると、彼女の姿が消えてしまった。
どういうことだ、と私は一瞬だけ混乱したが、すぐに回答にたどりつく。
「河童の光化学迷彩服……!」
「正解」
カチリ、ともう一度音が鳴ると、てゐの姿が再び現れる。そしてその水色のレインコートを脱いだ。
「私と一緒に妖怪の山に行ったのは、それを借りるため……」
「それも正解」
てゐは片方の目を閉じて、意地悪そうに笑う。
あの後私と別れた際、彼女は光化学迷彩機能付きレインコートを借りていたのだ。
何故わざわざ私と一緒に行ったときに借りたかは、察しが付く。てゐは過程を重視する嘘つきだ。私に見破るチャンスを与えることで、ネタばらしのときに屈辱感を突き付けたかったのだ。
もっと理由を追及しておけば、とも思ったが、そうしたら彼女はそれっぽい嘘の理由を並べて、恐らく私はそれに納得してしまうだろう。だから気付けなかったのは仕方のないことだ、と自分に言い聞かせて悔しさを表情に出さないようにする。
「中々手の込んだ真似をしたものね。でも私が波長の能力を使ってみれば、バレてしまうのに」
「飛行機から落ちかけた状態なら、鈴仙は能力を使うことを考え付かない程度にはパニくるでしょ。まさか光化学迷彩で隠れているとは思わないだろうし」
「ぐっ……」
そうだ。光化学迷彩などで隠れている可能性を考慮しなければ、私が能力を使う意味はない。そしてまさか隠れているとは誰だって考えないだろう。
というかなぜ隠れていたのだろう。そのことをてゐに問うと、こう答えが返ってきた。
「荒療治だよ」
「どういうことよ」
「空が飛べないのを治すためよ。死ぬ高度から落ちてみたら、必死になるでしょ? そうしたら飛ぶしかないんだから、ショック療法で飛べるようになるかもじゃない」
「け……計画的犯行なわけ!?」
こいつの掌の上で踊らされていたというのか。
思い返せば師匠がショック療法で飛べるようになるかもしれない、と示唆していた。そして確かに実際、飛行機で自力飛行の感覚を養ったおかげで飛べるようになったというより、火事場の馬鹿力で飛べるようになった気がする。
「私はただの実行犯だよ。お師匠様が多分結界にぶつかって落ちるだろうって指摘して、それを聞いた姫様が思いついたのよ。つまり主犯は姫様」
「おのれぇ……!」
正面切って怒る度胸もないので、今のうちに恨みを発散しておく。私が飛べるようにと思ってのことだろうが、まんまといっぱい食わされたのだから、悔しいものは悔しい。
というか姫様としては私のためというより、暇つぶしの一環だろう。
「鈴仙さ、あの子のこと忘れてない?」
私ははっとして、てゐが指さす方を振り返った。
せっかく今まで小鈴に空が飛べないということを隠していたのに、この会話を聞かれては台無しではないか。
「いや、あの、これは」と言い訳をひねり出そうとすると、彼女は申し訳なさげな顔でこう言った。
「すいません。私、鈴仙さんが飛べないって知ってたんです」
「な」
てゐがにしし、と笑う。
「グルなんだよ。この子も」
「なぁあああああ……」
私は力なく膝から崩れ落ちて、屋根に手をついた。
今までの苦労は何だったのか。必死に隠し通そうとしていたさっきまでの私は、完全に道化じゃないか。
手をついて顔を俯けたまま、私はヤケクソ気味に叫ぶ。
「いつから!」
「永遠亭の人たちに協力をお願いされたのは、二回目に零戦のところへ行く前ですけど……何となくそうじゃないかなぁ、と思ったのは、最初に鈴奈庵で打ち合わせたときですね」
大分前の方だった。
私は面を上げて、「何でわかったの」と問う。
「足元が汚れてたからです。いつも薬を売りに来るときは綺麗なのに、と思って。全く確証はなかったので、そうかもしれないなぁ、程度ですけど」
そういえば鈴奈庵の暖簾をくぐったとき、小鈴は私の姿を認めてすぐ目線を外した。何となく変な目線の動きだなと印象に残っていたのだが、そのことに気付いたからなのだろう。
陣取りゲームで遊ぶ際、相手の弱点となる箇所に気付いたとき、反射的にそこからすぐ目を逸らすことがある。今にして思えば、その視線の動き似ている。
「ていうかさ。この子とパラシュートの話になったんだっけ? その時に気付いても良さそうなものだけどね」
「それは……その……」
てゐの指摘に、私は言葉を詰まらせる。
確かに小鈴だって墜落の危険があることは分かっていたはずだ。私が飛べないと知らなかったとしても、わざわざ命を守るものを外そうとするのはかなり違和感がある。あの行動は、私を絶体絶命のシチュエーションに追い込むためだったのだ。
しかしそのときの私は、自分が飛べないという事実をなんとかして伏せなければ、という見栄で頭がいっぱいだった。そしてそのことをこの場で打ち明けるのも恥ずかしい。
「まーあとはその子に聞いてよ。私は二人の安否を里に伝えてくるからさ。鈴仙が助けたのは見えてたと思うけど、念のためね」
「すいません。よろしくお願いします」
「そう……よろしく」
確かに戻ってこなければ、墜落したのではと不安に思う人も出てくるだろう。
しかし今のテンションでは、たくさんの人に主賓として迎えられるような気分にはなれなかった。自分の間抜けさ加減が馬鹿らしい。
「へー、内心私のことを笑ってたのねー」
「いえいえ。鈴仙さんが再び飛べるようになるお手伝いができれば、と純粋な善意だけです」
「……ちょっと目が笑ってるんだけど」
「いやまあ素直な鈴仙さん可愛いなー、とか思うこともあったりなかったり」
「こんにゃろ」
柔らかいほっぺを軽くつねると、小鈴は「いたたた」と笑う。
私は手を離して、こほん、とその場になおった。
「とはいえ、私が飛べるようになるのに協力してくれたんだもんね。礼を言うわ、ありがとう」
「私の方こそ……騙してすいません」
しかし彼女が私の飛行スランプを知っていたとなると、私が飛べる場合より、フライトはさらに危険なものになるとわかっていたはずだ。
てゐが拾ってくれるというのは事前に知っていただろうが、それだって絶対ではない。知り合い程度の相手に命を預けたのだ。そこまでして彼女は私に協力してくれたのだろうか。
「でも危険と知ってなお今回の企画に加担したのよね。もっと感謝するべきかしら」
「あ、保険で魔理沙さんにも隠れて待機してもらってました。てゐさんとは別口で」
「……強かね」
命を懸けられるほど、永遠亭が全面的に信頼できるということはないだろう。そうであれば他のセーフティネットを作っておくのがむしろ自然だろう。
セーフティネットといえば、小鈴は香霖堂の店主と交渉する際、零戦が壊れたら引き渡しも代替もない、というセーフティをかけておいた。あれも零戦が外の世界に出るのを見越したからだろうか。
「そういえば香霖堂の店主にさ」
「もちろん飛行機が外の世界に行ってしまうと知っていたから付けた条件です。流石に申し訳ないので、何らかのお礼はするつもりですが」
「里の寄合から報酬がでるんだっけ。やっぱりそこから?」
「はい。報酬というか、お祭りのきっかけを作ってくれたご褒美って感じですけど」
今回の飛行機祭りで、利益を出すところもあるだろう。しかしそういったお金は、彼女へのご褒美やその後の宴会で消えてしまう。宵越しの金は持たねぇ、ということだ。
「にしても、私の身の回りは何でこう嘘をつくのが上手いやつばっかなのか……」
「そうなんですか?」
私はくたびれた顔で頷く。
小鈴、てゐ、鈴瑚とここ最近だけでも散々に出し抜かれた。認めたくないが、私が単純すぎるだけだろうか。
「鈴仙さんがおちょくりがいあるせいじゃないでしょうか。表情がころころ変わって、一緒にいて楽しいですし」
「……地味に失礼じゃないかなそれ」
自分が表情に出るタイプだと思ったときはあまりない。しかし彼女の言う通りなら、あの面霊気が羨ましくなってくる。
「本当に、楽しかったです。ボロボロだった飛行機が綺麗になって、空を飛んで、色んな人と話せて」
「そっか……うん、私も楽しかった。少し寂しくなるくらい」
思いの他、素直にその言葉は出てきた。
永遠亭以外の人間とあまり話さない私にとっても、貴重な日々だった。誰かと協力して何かを成し遂げる、という経験は新鮮だった。
そう思うと、今までの日々が名残惜しくもなる。飛行機が飛んでしまった今、小鈴と私もそう頻繁には会わないだろう。
「そうですね」
小鈴も似たようなことを考えたのか、どこか寂し気な声だった。
風が二人の間を吹き抜ける。並んで幻想郷を眺めていた。
「鈴仙さんの故郷って、どういう場所でした?」
急に小鈴が話題を変える。私はちょっと戸惑ってしまう。
「どうって……」
「私、月にも行ってみたいんです」
彼女は非日常を愛する性格だった。その性格から考えれば、その願望を持つのは自然なことだろう。
そして何となく、私はこの後の展開が読めた。
「まさか……」
「次は宇宙船を作りませんか?」
小鈴は不敵に微笑む。私は額を手で抑えて、ため息をついた。ここまでアグレッシブな子もそうはいないだろう。
しかしまた小鈴と協力して何かに取り組むのは面白そうだ。
昔は月に帰りたくて、少し前なら月に戻るのは複雑な気分で、最近はたまに里帰りするのはありかもな、と思うようになっていた。その変化は小鈴のおかげかもしれなかった。理由はよく分からないが、今は自分を地上の玉兎だと、肯定的に言える気がする。
そうはいっても、宇宙船を作るとなれば、飛行機よりも大事になるだろう。霊夢たちが一度成し遂げてはいるものの、簡単なことではない。答えは決まっていたのだが、私がちょっと色々考えていると、小鈴が髪をかき上げながらこう脅しをかけてきた。
「嫌なら今回の一連の道化っぷりが、花果子念報に掲載されるだけです」
「それはやめて!」
私が叫ぶと、小鈴はからからと笑う。
この後の、はたての報酬である独占取材のところで話すということだろう。噂話になる程度ならともかく、新聞に載せられるのは耐えられない。
そしてふと、小鈴が髪をかき上げる仕草をしたのが気になった。そういえば彼女が髪をかき上げるときは、嘘をついたり隠し事があるときではないだろうか。香霖堂での交渉のときもそうだったし、パラシュートの件を私に説得するときもだ。
ならば今の脅しはどういう意味だろうか。
小鈴も私がノーと拒否するとは思っていないはずだ。接点がなくなるのが寂しい、という話の文脈からの提案だったのだから。
ではイエスと賛同したらどうなるだろう。そうすると私はいやいや、仕方なく宇宙船づくりを手伝ってやる、という形になるのだ。「わかったわよ、仕方ないわね」と。つまり私が首を縦に振りやすいようにお膳立てしたのである。
細かいところまで気配りのできる子だ。いや、できすぎると言っていい。恐らくはほぼ無意識の内にやっている。年に似つかわしくない世渡り上手だ。
「そうね」
彼女がこの年にして処世術を身に着けているのは、阿礼乙女のせいか。箱入り娘の彼女を連れ出すために、周囲の大人たちを出し抜き、渡り合う必要があったのかもしれない。というのは考えすぎだろうか。
何にせよ、彼女がそういう配慮から冗談で脅しをかけたのなら、年上の尊厳にかけても、渋々という返事はしない。私は自分の感情を素直に吐露した。
「とっても面白そうだし、私も是非やってみたいわ。あなたと一緒にね」
そう言って微笑んで、私は右手を差し出す。
私が仕方ないから、と答える思ったのだろう。彼女は少しだけきょとんと目を丸めたが、すぐ顔いっぱいの笑顔で「はい!」と私の手を握って握手した。
そして彼女は髪をまたかき上げた。
「…………もしかして、まだ何か隠してることとかない?」
「あ、いえ。隠してるとかじゃないんですけど。私たちが零戦から落ちたのは、幻想郷の結界のせい、って話でしたよね」
私は無言で頷く。
幻想郷の結界、正確には博麗大結界と幻と実体の境界だ。今回私たちが振り落とされたのは後者のせいと思われる。現実と幻想を選別するのがその境界だからだ。鈴瑚が零戦の周りに張った人除けの結界を何千倍も強力にしたようなもので、周囲の事象にさえ干渉する。
その結界が外の世界のものである零戦は外に出したいが、私たちは内に残したいというジレンマに陥ったため、あのような強制力を持ったのだろう。
時間を遡って自分の親を殺すと、自分は生まれないから矛盾が生じる。タイムパラドックスだ。これに対する回答はいくつかあるが、何らかの力が働いて親は殺せず現実を書き換えられないとする説がある。この強制力と似ている。
「違うの?」
「そうかもしれませんが、薬師さんは別の可能性でそうなるかも、とも言ってました。ほら、鈴仙さんも前言ってたじゃないですか。あの飛行機は九十九神化してるかもって。で、九十九神になるような思いはというと……」
「零戦が故郷に帰りたがってたってこと?」
「ええ」
なるほど、零戦が九十九神化していたとしても筋が通る。零戦は故郷に帰りたいと思ったが、私たちを故郷から引き離すのは忍びなかった。私たちを置いて外に出ようとしたから、結果として私たちが振り落とされたのかもしれない。単純に元のパイロット以外をあまり乗せたくなかったとも考えられる。
いや一番自然なのは、九十九神化と幻と実体の境界、両方が作用したパターンだろう。
「あの零戦、故郷にちゃんと帰れたかしら」
太陽は山の稜線にかかっていて、私たちは燈色に染まっていた。私は振り返り、夕日を背にして、零戦が消えた方角を眺める。
「無事に……ひょっとしたら、パイロットさん本人か、そのご子孫の下に辿りついてたりするかもしれませんね」
「それはいいわね」
ただの期待にすぎないのだが、それを聞いて私は何だか明るい気持ちになった。あまり海に落っこちたとか、事故を引き起こしただとかは考えたくない。
故郷に辿りついて、博物館に飾られるのが一番だろうか。いや、せっかく修理したのだ。再び空を駆けてほしい気もする。
あの零戦の行く末を思い、私は心の中でこう呟くのだった。
『グッドラック・レイセン』終わり
掛け方いいですね
許可書にしちゃあでかいなあ、酔ってんのかなあ…え〜と、鈴仙…と…
あばよ…鈴仙!
>シュミレーション
だからシミュレーションだって魔法陣グルグルの時代から散々ネタにされてたダルルォ!?
すずうどのが萌えると思う(迫真
面白かったです
いやあ、面白かったです!零戦を一緒に修理している気分になりました。
まさかのうどすずでしたが、全然アリですね!
しょうもない駄洒落ですいません……
>>3
コメントありがとうございます!
>>5
「もう…たくさんだ…かえりたい…日本にかえりたい…生きて日本の土を踏みたい…」
誤字指摘ありがとうございます!
>>7
小鈴ちゃんは攻め向きの良い性格してますよね
>>10
うどんちゃん大人ぶって周囲を見下していてるヘタレなので実際変に大人びてしまった小鈴ちゃんを相棒に選んでみました
>>11
コメントありがとうございます!
>>13
そう言っていただけると嬉しいです!
幻想郷で飛行機飛ばすのはえらい難しかっただけに……