目をあけて一番最初に見たのは天井。普段通り。
夏の日差しは神社の屋根で吸収されるか反射するかの選択を繰り返している。
屋根の下には光は届かず、影を作る。
それでも熱は空気を温め、外と屋内の気温を等しくしている。
故に暑かった。
障子を開け放しても風は入ってこない。ただ、暑さが侵入してくるだけだと思った。
だが、閉めるのも面倒だ。
そんなふうに考えていたから、侵入を許してしまったのだ。
「夏バテかしら?」
私は天井を見つめていた顔を横にそらして音源を探した。
それは、白い傘と紫を基調にした服を身に着けていた。
何かを言おうとしたが、特に言葉が出てこない。このまま無視するのもいいかもしれない。
「この暑さは人間には辛いでしょうね」紫は傘をたたんで縁側へと入ってきた。後ろの地面から陽炎が立ち上っているのが見える。
服が、というか紫の存在自体がこの苦しい夏の風景に合っていない。
陽炎のゆらぎが、現実を錯乱している。
思考も錯乱している。
両方暑さのせいだと思う。
「何しに来たのよ」私は動かずに言った。
「どうしてるかなと思って」紫は私を見つめたまま微笑んだ。裏側に何か意図がある。そんな笑い方。
体を起こす。ジメジメとまとわりつく空気。夏はこうして空気があることを思い出す。同時に何かに制限されている自分に気がつく。
私が座っても、紫は立ったままだった。
「……座ったらどう?」
「あら、お気遣いどうも」紫はそう言ってまた笑った。
「見おろされるのが嫌なだけよ」
それでも、紫は動かない。
時間が過ぎていく。
遅いのか、早いのか。
耳につく蝉の声。
いや、そんなものは聞こえない。
音がない。
時間は流れているが、切り取られた世界にいる。
もしくは、一瞬の繰り返しの中にいる。
そんな錯覚。
いや、現実?
「どうかした?」
時間が、一瞬が動き出す。
私は体を震わせた。
驚きなどではない。
恐怖に近い何か。
「要件は何よ?」私は思い出したかのように言った。
「かわいい霊夢を見るのに理由が必要かしら?」微笑みは途切れていない。
紫の手が私の顔に伸びてくる。
頬に触れる。
白い手袋の生地が私に触れている。
素手のように生きているという実感が全くない。
無機質な手。
「ねえ、霊夢。あなたは何に怯えているの?」
ああ。
「何を迷っているの?」
わからない。
「泣いているわ」紫の顔から微笑みが消える。
確かに、私は涙を流していた。
どうして?
紫の手が私の顔を一度なぞって手袋が涙を吸い取った。
世界が歪む。
陽炎がこんなに近くまで。
私を見つめる二つの目。
目。
目。
髪。
髪。
顔。
顔。
唇。
唇。
存在。
ここにいる。
苦しい。
「今は眠りなさい」
これは、誰の声だっけ?
わからない。
私は床に倒れ込んだ。
「でも、出口を見つけなければ。あなた自身で」
視界が色を失っていく。
まぶたを閉じた時の黒。
目を開けた瞬間の光の白。
交差する。
黒。
白。
黒。
白。
黒。
白。
黒。
白。
黒。
白。
紫。
かすむ紫。
否、紫。
そう、紫。
ここには八雲紫がいる。
目がとらえたのは紫の手。
紫の手が私の目を覆う。
暗い。
何も見えない。
「ちょっと待って!」
私はほとんど叫んでいた。
「前にもこんなことが……そう、何度も。何度もあった!」
急速に世界が色を取り戻す。落ちかけた意識は振り子のように覚醒へと振れ戻った。
紫は微笑んでいた。
「ここはどこ?」
「答えられない」
音も暑さもない。
焼き付いた写真。枠にとらわれた私。
「……夢」そう、これが答え。
「ここは夢ね」
紫は傘を開いた。
「どうかしら」微笑みは絶えず。「夢と現実の境界はどこにあるのかしら?」
「夢は夢。現は現。それだけよ」私は言った。
「そう、どちらも日常的に触れているもの。境目なんて、そんなはっきりとしたものはない。あるのはまどろんだ思考のみ」紫の顔が傘で隠れた。「でも、どうしてかしら。どうしてあなたは迷っているのかしら?」
クスクスという笑い声。
「迷い迷い迷い、進み進み進み、戻れず、還れず、くるくるとめぐる」
「何の話?」
「さあ?」傘が紫の手を離れ、地面へと落ちてゆく。
一瞬、紫の姿は傘に隠れて見えなくなった。そして、それからも紫の姿が見えることはなかった。
「紫!」私は叫んだ。
日が暮れ、日が昇り、青い葉は枯れ、落ち、雪が降り、桜が咲く。一年? それとも一生?
色を失った暗闇の世界の中で、桜の花が渦を巻いた。
その中に、紫の姿を見た。
白い手が伸びてきて、私の唇に触れた。
「あなたの綺麗な目。艶のある髪。端正な顔。かわいい唇。そして、あなたの存在そのもの。私は、あなたのことが好きなのよ、霊夢」
手が消えた。
「今は何も言わないで。目覚めないと。私ができるのはここまで」
桜の渦が散っていく。
「忘れちゃ駄目よ」
唇に、柔らかな感覚があった。
紫の顔がすぐ近くにあった。
花びらは消えた。
ここには私しかいない。
帰らないと。